社団法人・日本青年奉仕協会(1967年11月創設~2009年7月解散)が発行した雑誌のひとつに『グラスルーツ』があった。1982年11月に創刊され、1989年3月の第38号をもって「休刊」となっている。創刊号の特集テーマは、「ルポルタージュ/アリスの国の不思議な世界」、最終号のそれは「ボランティアに未来はあるか」である。
『グラスルーツ』は阪野文庫中の「日本青年奉仕協会に関する資料」(全4巻)に収録(一部欠号あり。)されているが、そのいくつかの資料を整理する際に、創刊号から通読してみた。懐かしさとともに、その編集者や執筆者の熱い想いを読み取ることができ、頭が下がる思いがした。最終号の「今号で休刊するにあたって」という挨拶文には、次のような一節がある。「草の根」を意味する誌名や、毎号のメッセージ性の高い編集と多面的・多角的そして多層的な言説から多くを学んだ筆者(阪野)には、何か、また何故か心にしみる。「何事にも初めがあれば、必ず終わりがあります。私たちがものを見るという、そのものは初めと終わりのあいだにあります。私たち編集部もようやくものが見れる時点に立ちました。これまでの歩んだ道のりを振り返りながら、自己革新と自己反省のいたらなさを感じつつ、最終号を編集しています」(『グラスルーツ』第38号、日本青年奉仕協会、1989年3月、2~3ページ)。
『グラスルーツ』では毎号、「特集」が組まれていた。第11号(1984年7月)は「福祉教育特集/福祉教育は『善行』」か」、第12号(1984年9月)は「続・福祉教育特集/私の福祉教育論」、そして第22号(1986年9月)は「ボランティア活動は『歴』になりうるか?」というタイトルの特集である。以下に紹介する玉稿や秀逸な意見は、福祉教育やボランティア学習(「ボランタリズムの教育」:岡本)の「仕掛け人」や実践者・研究者としてすでにその名を馳せていた木谷宜弘、興梠寛、臼井孝、大橋謙策、それに岡本栄一の各先生のものである。僭越かつ恐縮ながら、「すでにその名を」と記したのは、5人のうちで最年長の木谷先生は当時55歳、最年少の興梠先生は36歳、大橋先生は41歳である。以下のいずれの言説も、切れ味鋭く、明解なメッセージが伝わってくる、と思うのは筆者だけであろうか。小気味よい気持ちすらする。
こんにち、福祉と教育はその動向が混沌とし、さらに混迷を深めていくかのようである。福祉教育も然りである。福祉教育の実践や研究にかつての小気味よさを感じることが少なくなっているのは、筆者だけであろうか。そこで、「日本福祉教育・ボランティア学習学会」が2014年10月に創設20周年を迎えるのを機に、いま一度原点に立ち返る必要があるのではないか。そんな想いから、以下に「資料紹介」するが、余計なコメントを一切付さないのは、ブログ読者各位もそれぞれの立場や考えに基づいて原点に立ち返ってみては、という意味である。現状はそれほど深刻である、と思っている。大橋先生と岡本先生の次の指摘は、こんにち、特に重く受け止め、深く心に刻まなければならないのではないか。「(福祉教育に関する:阪野)心情や哲学が超歴史的に語られ、それにもとづいて推進されることは非常に問題である。とりわけ、福祉教育を推進する立場にいる人々の歴史認識、社会認識が問われなければならない」(大橋、『グラスルーツ』第12号、13ページ)。「ボランティアやその活動の根本精神は、国家や体制、イデオロギーを超えたエネルギーだと思います。(ボランティア活動は:阪野)「歴」にこだわることもないし、「歴」なんかありえない。そんなセコいものじゃないんですよ。本当のボランティアというのは現体制を否定して、そこからにらまれるのですわ」(岡本、『グラスルーツ』第22号、4ページ)。
今、なぜ福祉教育なのか/なぜ、福祉教育なのか
木谷宜弘・全国ボランティア活動振興センター所長
制度中心の学校教育の行詰り状態を打開する一策として福祉教育の有効性が認められつつある。(中略)
制度中心の学校教育の行詰りを予言したのは、下村湖人で今から四十五年前のことである。下村湖人は学校教育制度が充実すればするほど、児童、生徒の生命力を委縮させる結果を招くと警告している。今日の学校教育は残念ながら下村湖人の予言が的中したといえるほど荒廃している。
湖人は云う。今日の文化社会では、教育の制度化は必然のものであるからこれをさけることはできないが、その障碍を最少限にするため、人物中心の教育を行い、しかもその中に自然教育を導入すべきであると主張している。
湖人のいう自然教育とは、日々の生活の中で自然に行なわれる教育を指し、日常接するさまざまの人や自然環境とのふれあいを通じて自ら生きんとする意志を育てていくことだと述べている。
福祉教育の手法は湖人の云う自然教育に相当するもので、学校において福祉問題を学習素材として実践するということは、机上の知識吸収では得られない生身の人たちとの出合いとの共感の中で、人間が生きていくということはどういうことか、人間が人間らしく共に生きていく社会とはどんなものか、自己教育することであり、まさに下村湖人の主張と一致するものであるといえる。(『グラスルーツ』第11号、日本青年奉仕協会、1984年7月、4~5ページ)
「福祉教育」と「ボランティア学習」のちがい
興梠寛・日本青年奉仕協会事務局次長
『福祉教育』は“弱者救済”といった根強く残る古い福祉観にたいして、正面からこれを正し、人権と共存の営みの主体としての人間性を育む教育として意味づけられているだけでなく、さらにその教育実践をとおして、偏差値教育や管理化のなかにある学校教育に新しい風を吹き込もうとしている。
私たちはこれまで、さまざまな社会課題に対応すべき教育のあり方を論じてきた。人権教育、平和教育、環境教育、国際理解教育、そして福祉教育などがそれである。『ボランティア学習』は、そうした社会課題や教育テーマをより効果的にすすめていくための学習の方法であるといえる。さらには、ボランティア活動のもつ特性、すなわち自発性や自由意志、そして自治性や公共性といった、民主主義社会をささえる基本的な思想を育むことにつながっていく。(中略)
ボランティアとして社会体験をとおして学ぶ対象は、社会福祉、教育、自然環境、文化、生活改善、国際理解と協力、保健医療、人権、平和、都市計画や村づくり、メディアなどの生存をおびやかす諸問題である。そしてそのひとつひとつは、おのずと『ボランティア学習』の学習テーマをかたちづくっているといえる。『福祉教育』は、社会福祉を狭義にとらえた場合、社会課題のひとつの分野をテーマにしたものであるという解釈もできる。しかし、福祉を共存の論理として広く解釈すべきであり、福祉思想は、すべての社会課題の根本的なものであるべきだと思う。
『福祉教育』も『ボランティア学習』も、それらをおたがいに対立する概念として考えることはナンセンスである。ひとことで表現すれば、教育の目標と学習の方法といった違いであり、それらをとおして求めようとする世界は同じである。対立概念として論じあうことは、これに類する学者の学派争いに似ている。派閥争いは、政治家と学者で充分である。そんなものは、グラスルーツな活動家にとってどうでもいい問題ではないか。要は、教育にどんな未来を描くかである。そしてまた、それをどのような組織と方法ですすめていくのかである。ひとつだけいえることは、『福祉教育』も『ボランティア学習』も、“新しい制度化”をめざして、さらにそれを第二の学校教育にしてしまうことであってはならないことだ。教育専門家が混迷のなかにいるいま、外野席からの教育にたいするこのアプローチを、私たちは冷静にみまもっていこうではないか。(『グラスルーツ』第11号、日本青年奉仕協会、1984年7月、8ページ)
私の福祉教育論/福祉という視点で学校を見直す
臼井孝・神奈川県立上郷高校教諭
教育に新しい何かを吹きこまねばならない。ところが、教師には自信を持って導入できるものがないというところに、ボランティア活動というものがひとつの説得力を持って入ってきたのが福祉教育だと言えると思います。しかしそれが本当にプラスになるのか、その本質が何なのか明らかにならないうちは、すぐ導入しましょうということに警戒と抵抗があります。ひとつの教育観が絶対という旗印で学校教育を風靡するのは非常に危険ですからね。それぞれの現場で教師が子供たちに何を与えたらいいか話し合いの中から出てくるものが本物なのであって、それは福祉教育に限定されるものではないはずです。
現在の教育の行き詰まりの原因は、学歴社会の中での知識偏重という社会情勢に、学校がそのいきつく先を考えずに目先の要望に応えたためだと思います。そして非行問題など社会の変化が学校に迫っていて、それに応えなければいけない時です。私自身は十年余りの経験から、ボランティア活動が生徒たちの意識改革にかなり有効な学習方法だと自信を持っていますし、学校教育の中に融合させていく方向は間違っていないと思っています。(中略)私自身、福祉教育がすべてとは考えていません。教科学習80%、ホームルームやクラブ活動が10%、福祉教育も10%にすぎないと考えます。
子供たちが育つうえで何が必要かというと、自分に自信が持てるようになることです。それには自分が必要とされているという体験を積み重ねることです。それが感動を伴なう体験として、自他の関係が響き合った時、教育の決め手になるんですね。何をやっても無気力な子供たちに刺激を与える方法のひとつがボランティア活動だと思います。(『グラスルーツ』第12号、日本青年奉仕協会、1984年9月、10ページ)
私の福祉教育論/善意があっても誠意がない―歴史にみる福祉と教育の関係
大橋謙策・日本社会事業大学教授
福祉教育をすすめるにあたって、常におさえておかなければならない課題がいくつかある。その一つは、福祉教育がいまなぜ必要なのかという歴史性と社会性の認識である。そのことは、福祉教育を必要としている現在の生活や教育への鋭い分析がともなっていなければならない。それらの点がぬけおちて、心情や哲学が超歴史的に語られ、それにもとづいて推進されることは非常に問題である。とりわけ、福祉教育を推進する立場にいる人々の歴史認識、社会認識が問われなければならない。(中略)
今日の福祉教育は、戦後初期の福祉教育実践とは違っており、決して連続していない。今回のそれは、一九七〇年頃を境に大きく変容してきている社会福祉の新たな課題の中で、その必要性が関係者に認識されて推進されてきた。と同時に、それが、すぐれて教育の荒廃、子どもの発達の歪みを是正していく上で重要な方法であり、戦後教育の理念であった教育基本法の理念を達成する上で有効な方法たりうることが教育関係者に理解されはじめたからである。
このような背景をもつ福祉教育が、その必要性とされる背景を科学的に分析できる力を身につけることなく、ただともに生きることのみを強調するとすれば、それは結果的には歴史的、社会的存在である社会福祉や教育のあり方を誤らせることになる。なかでも、社会福祉にあっては、一九七五年以降福祉見直し論が展開され、その後の臨調行革路線の中で「自助努力」のみが強調されるきらいがある。それだけに戦前、井上友一が展開した施策(国の物質的負担を軽減し、国民の自助努力を強調する教化、風化政策)と福祉教育とが同じになることを危惧している。そうならないためには、国民一人一人が、子どもも含めてきちんとした歴史認識、社会認識をもった主体者として形成されねばならない。(『グラスルーツ』第12号、日本青年奉仕協会、1984年9月、13~14ページ)
ボランティア活動は「歴」になりうるか?/「歴」にこだわるようなセコいものじゃない
岡本栄一・大阪ボランティア協会事務局長
ボランティアやその活動の根本精神は、国家や体制、イデオロギーを超えたエネルギーだと思います。人権や命を守る、平和を守る、差別と闘う、というギリギリのところで連帯する一つの思想なんですね。だからもともと制度的な認知をきらう本質があって、そこから言うと「歴」にこだわることもないし、「歴」なんかありえない。そんなセコいものじゃないんですよ。本当のボランティアというのは現体制を否定して、そこからにらまれるのですわ。
ただボランティア活動は両義性をもっているとぼくは思ってます。愛とか正義の形をとって文化の中で生きていく光りの側面と、偽善暇つぶしというちょう笑を浴びる影の側面と。
ボランティア活動の精神がきちんと根づいていない、そして地域社会の解体やヨコ関係の希薄化していく状況の中では為政者側が作為的に光りの側面を取り上げて社会的に認知、言いかえれば「歴」を作ろうとする動きが特に出てくるんでしょう。また「歴」を欲しがるし「歴」にあやかりたい願いも一方にはあるわけで、それをいちがいに否定しないで冷やかに見ていくことも必要です。学校教育や人づくりにボランティア活動を利用しようというのも全体的なすう勢ですが、それならボランタリズムの教育を、といいたいですね。問題の当事者を教壇に立たせる。子供だけをボランティア活動に参加させるのではなく親も教師もナマの現場に立ちあうというように。いまはコピーのコピーを教えている現状で、これくらい空虚なものはないですからね。(『グラスルーツ』第22号、日本青年奉仕協会、1986年9月、4ページ)