「講」:福祉思想の基本原理としての「自然」と「生」(存在・生きる)を考える―テツオ・ナジタ著『相互扶助の経済』のワンポイントメモ―

夕食後、「念仏講に行ってくる」と言って父がでかけることがあった。その時に限って父の帰りが待ち遠しかった。心待ちにしていたのは、蓮の葉の印が型焼された白い饅頭である。しっかり覚えている。また、「講」に行った父がお金を持ち帰ることもあった。その時、父と母の間には「よかった」という言葉があり、安堵感が漂った。かすかに覚えている。

〇筆者(阪野)は、本ブログの<雑感>(106)/2020年4月26日投稿で、「定常型社会」を提唱する広井良典の7点の著作について述べた。その1点に、『人口減少社会のデザイン』(東洋経済新報社、2019年10月。[1])がある。そこで広井は、「福祉思想」を構築するにあたって「示唆深い導きの糸を与えてくれる著作」として、テツオ・ナジタ著・五十嵐暁郎監訳・福井昌子訳『相互扶助の経済―無尽講・報徳の民衆思想史―』(みすず書房、2015年3月、以下[2])を挙げている。
〇「2」は、日本の近世ないし江戸時代に焦点をあてて、民衆の経済活動や相互扶助の社会的実践、その背景にある思想史(民衆思想史)の文脈を明らかにしたものである。その骨子を、広井が「1」で次のように整理している。(291~292ページ)。

① 近世までの日本には、「講」(頼母子講、無尽講、「もやい」などと呼ばれる、不測の事態などに備えて仲間内で助け合うためお金を積み立てる仕組み)に代表されるような「相互扶助の経済」の伝統が脈々と存在していた。
② しかもそれは二宮尊徳の報徳運動に象徴されるように、村あるいは個別の共同体の境界を越えて講を結びつけるような広がりをもっていた。
③ 明治以降の国家主導の近代化の中でそうした伝統は失われあるいは変質していったが、しかしその“DNA”は日本社会の中に脈々と存在しており、震災などでの自発的な市民活動等にそれは示されている。
④ そして上記のような相互扶助の経済を支えた江戸期の思想においては、「自然はあらゆる知の第一原理であらねばならない」という認識が確固として存在していた。

〇以上のなかで広井は、ナジタの「自然」の言説に注目する。ナジタは、徳川時代の思想家は「自然」を知識と行動の第一原理(最も根底的なもの)として捉え、すべてがその「自然」から分け隔てなく、平等に“恵み”(生命と生命を維持するエネルギー)を受けると認識していた、という。ナジタのこの議論は、広井においては、福祉思想を考えるにあたって重要なヒントとなる。広井はいう。「『自然』というものが、何らかの意味で普遍的な理念として把握されるに至って初めて、それは個々の共同体ないしコミュニティを超えた『つながりの原理』として成り立つことになる」(295ページ)。筆者なりに別言すれば、「すべてが自然(その営みや秩序)のなかに、自然とともに生きる」という普遍的な価値原理であろうか。
〇[2]のカバーには「内容紹介」が記されている。筆者なりに一部加筆すると、次のようになろうか。

慢性的な飢饉に苦しんでいた徳川時代の民衆は、緊急時の出費に備え、村内で助け合うために「無尽講」(むじんこう)、「頼母子講」(たのもしこう)、「もやい講」(もやいこう)、「備荒」(びこう)、「結講」(ゆいこう)などの「講」を発展させた(100ページ)。「無尽」は「尽きることがない」「制限のない」資源を意味し、仏教に由来する(95ページ)。「講」は、寺や神社に集まって仏教経典について教えていた「講義」を意味する(100ページ)。当時の民衆の識字率は高く、商いや貯蓄に関して議論し、冊子を作り、倫理は社会的実践に不可欠であるという明確なメッセージも発信したのである。その思想の根底には、伊藤仁斎(1627年~1705年)、安藤昌益(1703年~1762年)、貝原益軒(1630年~1714年)、三浦梅園(1723年~1789年)などの思想を汲む確固たる自然観があった。
徳川末期になると、二宮尊徳(1787年~1856年)のはじめた報徳運動が、村の境界を越えて講を結びつけ、相互扶助的な契約をダイナミックに広げた。その運動は、「報徳」思想――至誠(しせい。誠を尽くす)・勤労(きんろう。よく働く)・分度(ぶんど。身をわきまえる)・推譲(すいじょう。世の中のために尽くす)」に基づいた、主として地主層に対する教化善導が行われた。しかもそれは、明治40年代以降に内務省(井上友一の風化行政)主導で展開された地方改良運動に取り込まれ、その中心的なイデオロギーとして全国の市町村にまで波及した。すなわち、報徳運動は、国力の充実・発展と国家的統合を図る官製運動になっていった。しかも、その精神性が強調され、救済事業の社会制度化を遅らせることになる(筆者)。
その後、講の手法は信用貸付会社である「無尽会社」を経て「相互銀行」に引き継がれていく。「無尽会社」は、伝統的な相互扶助組織である講の倫理的な理想や慣習を受け継いだことに加え、近代経済の複雑さに適応できなかった中小規模の事業者にとってなじみやすく、すぐに受け入れられた(245ページ)。無尽会社の発展は、民衆が新政府によって無理に押しつけられたと思われるものに対して抵抗し、抗議したという明治時代初期の歴史の大きな流れのなかで理解されるべきである(248ページ)。
1931年6月に「無尽業法」が制定され、無尽会社は銀行としての範疇に含められたものの、「銀行」を名乗ることはできなかった。太平洋戦争中、無尽会社の数は激減した。それは、戦費をまかなうために地方銀行の資産を統合しようとする政府方針を反映したものであった。戦後になると、1942年の136社から1950年には66社へと、認可を受けた無尽会社の数はさらに減少し、このころに「相互銀行」と名称を変更した(280、285,287ページ)。
いずれにしろ、明治初期の混乱や太平洋戦争後の激動を庶民が生きのびたのは、講のDNA(精神)が脈々と受け継がれたからでもあろう。そして、講の相互扶助と救済の思想(実践倫理)や実践(小地域活動)には、まちづくりや地域福祉のひとつの源流を見出すことができる(筆者)。

〇ここで、前述の広井の整理([1])に留意しながら、ナジタの言説([2])について改めて確認しておきたい点をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

民衆経済と精神史
日本の長い歴史が示しているのは、「民衆経済」が、不可避な事態に備えるセーフティ・ネットになっているということである。自助と相互扶助の取り組み(「講」)は、こうした関連を裏づける十分な証拠である。(中略)〈二宮尊徳の、講とその発展形態ともいえる〉報徳運動は、極貧に陥らないようにし、飢餓という現実に備える人びとの心がけそのものである。こうしたことのすべては、公的秩序の範囲外で、つまり行政機関の政策決定がおよばず、政治的なできごとがおこなわれる中央舞台から遠く離れたところで起きた。(中略)これは、長い期間にわたって社会を動かす潜在的な精神の一端だということもできるだろう。あるいは、「精神史」と呼ぶこともできよう(326ページ)。

相互扶助の思想と組織
相互扶助と救済に関する思想は、どうしたら民衆が自分たちの経済活動をやり遂げることができるかという課題について長期にわたって影響をおよぼした。他者救済には、救済するために「整える」という意味もあった。徳川時代の民衆にとって、整えるとは正確な詳細について合意し、これを合意書あるいは契約書に書きこむことを意味した。徳川時代後期から明治期にかけてさかんになった契約にもとづく相互扶助組織によって、銀行制度がなくても庶民がおたがいに貸し借りをする制度ができあがった。そうした契約にもとづく相互扶助組織は村落や町で実践され、20世紀になると事業志向の会社(小規模事業者向けの信用貸付〈銀行〉としての「無尽会社」)となった(325ページ)。/太平洋戦争後は「相互銀行」へと移行し、各県のどの市にも存在した。(中略)そうした銀行は、地域の人びとから集められた資本は地域に残るべきだと考え(地域志向)、大規模な都市銀行の陰で運営されてきた(243ページ)。

協同組合的自治と相互関係性
1995年1月の阪神淡路大震災のあと、非公式に組織された130万人以上のボランティアが復興を支援したといわれている(327ページ)。/広い社会において、かならずしも隣近所の住民ではない市民を支援することは協同組合的な自治のあらわれである。ほかの市民運動とおなじく、上下関係も永続的な権威をふりかざす指導者もなく、職員や永久会員も、決まった政治的イデオロギーもないことがその特徴である。そこに満ちているのは、緊急時に他者に手を差し伸べるという根本的な原則と、共生あるいは共存という、よく知られた思想、生命と存在、つまりすべての人間の相互関係性である(328ページ)。

第一原理としての「自然」の概念
飢餓に対する「対抗戦略」としての講は、村が存続するために不可欠だった。講という相互扶助組織の実践に埋めこまれた個人と個人の信用は、念仏を唱えるという初期の集まり(「念仏講」)での個人どうしの信仰の上に成り立っていた。神や菩薩は手を差し伸べてくれる寛大な存在かもしれないが、命を救うために行動しなくてはならないのは人間だった。人が神に感謝し、信奉するのは、神が他者を助けるために行動するよう導いてくれるからだ。大いなる恐怖にさらされながらも、講をとおして村人が主導権を握り、共同体の人びとを助け、村のだれをも死なせないという絶対的な道徳上の約束は、信用と契約の重要な土台となっていた。その根底には、「生―生のみ」(仏教の「生―死」ではなく、宇宙には「生だけ」が存在し、死は生命の過程の一部である)という自然概念にもとづく強力な実践倫理があった(123ページ)。

〇「ヒト」は、他者や共同体(コミュニティ)との「共働」による相互支援や相互実現を通して、また程よい距離感と確かな信頼関係のなかでこそ自分らしく生きられる(「生」の異質性・多様性)。しかし、日本社会ではいま、地域・社会やコミュニティへの意識が希薄化し、地域・社会が包摂していた連帯性や互助性が失われてしまっている。
〇また、個人の「主体性」が標準化され、「市民主体」の集列化や同質化が進んでいる。そこでは必然的に排除の論理が働き、格差と分断が生まれる。そんななかで、情緒的・感情的な「絆」や「つながり」が多義的に強調されている。しかもそれは、「上から」「下から」、そして「横から」も押し付けられている。その結果、同調圧力による管理の社会化と内面化が進み、全体主義的統制が深刻の度を増している。
〇そのような時代や社会にあっていま、地域・社会の「あるべき」変革や発展を促す新たな「福祉思想」の探究や構築が求められる。そこでは、地域・社会の共働性をいかに“創り、編みなおす”か、すなわち「創造と再生」がひとつの重要な課題となる。
〇「福祉思想」というと、ノーマライゼーションやソーシャルインクルージョンの思想を思い起す。また、ナジタがいう「協同組合的な自治」、すなわち地域・住民によるローカル・ガバナンス(共治)といった観点が想起される。加えて、本稿の叙述から、人間の「生」(存在・生きる)は「自然」を基盤にする、「自然」と一体化しているという根源的な人間観・生命観に留意したい。