日常生活上の “葛藤” や “ゆらぎ” に福祉教育の本質を見出したい

昨年12月28日にアップした「よんださんの子」をめぐって、複数のブログ読者から貴重なご感想やご意見等をいただきました。そのうちのSさんとは、「ディスカッションルーム」上で、N氏の散文とそれに対する筆者(阪野)のコメントをめぐって、若干の意見交換を行いました。その際、筆者は、「厳しい差別の現実に向き合わない福祉教育」「ICFの理念に酔っている福祉教育」等の、やや自虐的なフレーズをSさんに投げかけています。それらを踏まえて、筆者は、「よんださんの子」の原稿に、新たに 「 『偏見』や『差別』の現実を軽視した『共生』と『福祉教育』への想い 」 というサブタイトルを付けることにしました。
以下に、Sさんのご感想をアップさせていただきます。議論が深まることを期待します。

私が福祉教育の実践をしていて感じるのは、子どもたちに伝えられるのはどうしても「かたち」だけにとどまりがちである、ということでしょうか。
「差別」に関しても、おっしゃるように「共に生きる」が優先され、「上辺」だけというか、「かたち」だけになりがちです。
私のつたない経験談で申し訳ないのですが、私が中学・高校生の折、筋ジストロフィーの双子が同じ学校に通っておりました。二人とも車いす生活でしたが、そのころの学校にはエレベーターなどあるはずもなく、3階まである校舎を、移動教室があるたびに、「人力」で上へ下へと移動していました。その人力として活躍したのは、双子の同級生たちであり、他学年の生徒たちでした。
いまでは安全面からそのようなことは考えられないと思いますが、彼ら双子の周りにはいつも人がいて、みんなで助け合うことが当たり前になっていたのです。助け合うことは、生徒たちのごくごく自然な心情であり、態度であり、行動でした。
高校生のときに、双子のひとりは本当に残念ながら他界されました。もうひとりの子は、国立大学を卒業したと聞いております。私自身、彼らの生き方から実に多くを学ぶことができました。そこには、「福祉」や「価値観」について、学校や教師からの一方的な押しつけなどありませんでした。
日常の暮らしのなかで、相手の気持ちを考えたり、自分の行動を見つめ直したりする。一般的には間違いであったり、悪い感情として捉えられたりするような気持ちのやり取りや「葛藤」を経験する。こうした「ゆらぎ」があってこそ、いろいろなコトや面についての新たな“気づき”や考え方の“軸”が得られ、自分らしく、豊かに「生きる」ことができるようになるのではないか。このあたりに、福祉教育のめざすべきものがありそうだと思っています。
日常のなかでそういった経験ができた私は、ある意味「しあわせもの」だったかもしれません。
子どもたちを対象とした「福祉」の体系的な学習は、福祉教育を推進する側からするとやりやすいのですが、限られた時間のなかでは福祉教育の本質には近づけないということも理解できます。福祉教育にのめり込むほどに、福祉教育についての認識と実践に関して、矛盾やジレンマ、もどかしさを感じています。

蛇足ながら、筆者から一言。
人や社会の思考と行動には、冷たさと温かさ、弱さと強さ、狭さと広さ、などが同居しています。それらとどのように向き合い、それらをどのような角度で掘り下げ、そしてそれらをいかに鋭くあぶり出すか。それによってはじめて、Sさんのいう福祉教育の「本質」に迫る“糸口”を見出すことができるのではないでしょうか。