今、改めて問われる「村を捨てる学力」と「村を育てる学力」―資料紹介―

筆者(阪野)は先日、G市社協主催の「福祉教育講演会」に招かれ、「福祉によるまちづくりと市民福祉教育―地域福祉は福祉教育ではじまり、福祉教育でおわる―」という「演題」のもとに、「市民福祉教育」の基礎的・基本的事項をめぐってレクチャーする機会に恵まれました。例によって、演題とともにレクチャーの中身も特段目新しいものではありませんでしたが、筆者にとって講演会は、学校の先生方や社協の役職員、民生委員、ボランティアなどの皆さんから新たな学びや気づきを得ることができ、有意義なものとなりました。
レクチャーの導入部分では、「雑感」(2014年3月1日)にアップした拙文――「『地元』への思い、それぞれ」の一部を紹介しました。その際、「地域福祉活動計画」「住民懇談会」「中学生」「教師」「地元」「総合的な学習」、そして「村を育てる学力」という事項(用語)に留意しながら、「まちづくり」「まちづくり学習」「市民性形成」などに関する卑見の若干を開陳しました。
レクチャー後に、参加者の一人から、「村を育てる学力」についてもう少し紹介してもらいたい旨の申し出を受けました。G市は、県内でも代表的な中山間地域で、多くの限界集落を抱えています。本格的な超少子高齢人口減少社会を迎え、G市では、それに対応する安全・安心で持続可能(サスティナブル)な地域生活の実現やそのための「まちづくり」が強く求められています。そういうなかで、その質問者は、「村を育てる学力」の対極にある「村を捨てる学力」にも関心をお持ちのようでした。
いうまでもなく、「村を捨てる学力」と「村を育てる学力」の出典は、東井義雄(1912年~1991年)の『村を育てる学力』(明治図書、1957年)です。東井は、1950年代に「村」と「学力」の問題に焦点をあて、「生活綴方教育」の実践者(「綴方教師」)として高い評価を受けた一人です。
当時の綴方教師たちの関心は、おしなべて(1)「子どもたちの貧困からの脱出」と(2)「戦後日本の新しい政治的および道徳的価値の形成、浸透、定着」にあったといわれます(奥平康照「戦後生活綴方教育全盛の時代―1950年代前半の子どもの生活と戦後教育実践―」『和光大学現代人間学部紀要』第1号、2008年、8ページ)。(1)に関しては、1954年12月に高度経済成長が始まったばかりで、子どもを取り巻く経済的状況は劣悪であり、「貧困からの脱出」は学校教育における最も重要な基本的課題でした。(2)に関しては、伝統的な村落共同体的社会組織や社会関係が残る「家」や「村」(地域)では、家父長的ないしは封建的な伝統や因習からの解放が大きな課題になっていました。
東井は、以上の点をめぐって、また「『生き方』の教育だといわれて来た」り、「生活教育と結びつけられて考えられて来た」(180ページ)「綴り方」の教育について、その著書のなかで次のように述べています。

「『村を育てる学力』を志向するにしても、単に、村の子どもの学力のおくれを打開するにしても、問題は、村の子どもの生活の狭さと、主体性の貧困をどうするかに、まとまってくるようである。
さて、村の子どもたちの生活の狭さと、主体性の貧困は、何によって救えばいいのであろうか。この問題を考える時、私は『作文的方法』に対して注目せずにはおれない。
生活を耕やすということは、……子どもの一人一人が、まず、自分の内面的な意識活動や、それに関連して行われる生活行動に対して、自分の方から注目し、その生命活動の一ひら一ひらを大じにしようという心構えになってくれることが先決問題である。ところが、このためには、作文、ないし綴り方をとり入れることが、まことに都合よく、また、効果的なのでる。」(179~180ページ)

次に、「村を育てる学力」に関する東井の言説について、注目すべきところを多少長きにわたりますが、そのまま紹介することにします。

「進学指導・就職指導によって、たしかに村の子どもの学力は伸びるだろう。農村人口の都市へ移行も必然的な動向であろう。
しかし、村の子どもが、村には見切りをつけて、都市の空に希望を描いて学ぶ、というのでは、あまりにみじめすぎる、と思うのだ。そういう学習も成り立つではあろうが、それによって育てられる学力は、出発点からして『村を捨てる学力』になってしまうではないか。」(38ページ)

「ただ私は、何とかして、学習の基盤に、この国土や社会に対する『愛』を据えつけておきたいと思うのだ。『村を捨てる学力』ではなく『村を育てる学力』が育てたいのだ。みじめな村をさえも見捨てず、愛し、育て得るような、主体性をもった学力なら、進学や就職だってのり越えるだろうし、たとえ失敗したところで、一生をだいなしにするような生き方はしないだろうし、村におれば村で、町におれば町で、その生れがいを発揮してくれるにちがいない、と思うのだ。」(38~39ページ)

「『愛』とは何か。『わたしのもの』……、『自分のこと』という意識のことだ。私はそう思う。
主体的な『愛』は、ものを、自分のものとしてかわいがり、育て、しらべていく、行動的な学習を通してのみ、育て得るものだと私は信じている。」(50~51ページ)

「……『村を捨てる』立場から育てられた『主体性』が、『村を捨てる学力』を形成していくことは必然だが、……
この行き方に欠除しているものは『土』への『愛』である。『村』は、愛することもできないほど、暗く、貧しい。しかし、それがそうであればあるほど、それは、何とかせねばならぬ。『愛』が注がれねばならぬ。このような村をも愛することができるなら、この貧しい『国土』をも愛してくれるだろう。そして、そのことの中に、『生きがい』を見つけてくれるようにもなるだろう。たとい、村を出ていくことになっても、行ったところで、生きがいを切りひらいていってくれるだろう。
そして、そのような立場からの学習が、私は可能だと思う。客観的、普遍的な学問の価値が、そのような立場から消化されたら、どんなにすばらしいことだろう。」(173~174ページ)

要するに、「作文的方法」すなわち「綴り方」の方法に基づいて「生活を耕やす」ことによって、子どもたちは、自分たちの生活に目を向け、いわゆる「我が事化」し、生活についての自分の「感じ方、思い方、考え方、行い方」(180ページ)に注目するようになる。そして、それを通して生活を改善していく力、「村の停滞性を突き破っていき、新しい生産様式をきり拓いて行くような、そういう学力」(32ページ)、すなわち「村を育てる学力」を形成していく。東井はこうように考えていたといえます。
その際、東井の教育実践は、学校内部に留まらず、「村」(地域)の歴史的社会的状況との繋がりを重視するとともに、「村」全体が育っていく必要性を説いています。改めて指摘しておきたいところです。この点に関して、東井は次のように述べています。

「『生活』には、明らかに地域性がある。村の子には村の子の『生活』があり、『生活の論理』(「感じ方・思い方・考え方・行ない方のすじ道」:東井)がある。価値がどのように普遍妥当なものであっても、それが子どもの生活に消化された時、地域のにおいを持ってくるのは当然である。」(171ページ)

(村の現実が、教育によって育てられた、農業や農村の生活に対する「批判の目」に堪えられないなら)、「批判に堪えるような村を築きあげようとする、積極的、建設的、生産的、意欲的な人間を育て、そのように身構えさせる役割を、教育は背負うべきだ。」(34ページ)

「市民福祉教育」は、福祉による“まちづくり”のための主体形成を図る教育活動です。東井の「村を育てる学力」に関する所説や言説は、市民福祉教育に通じるところがあります。いささか唐突ではありますが、付記しておきます。それにしても、戦前に教師として「あやまった時期をもつ」(3ページ:国分一太郎)とはいえ、東井の「子ども」「村」、そして「教育」に対する「熱い胸と冷たい頭」にはただ敬服するのみです。筆者もそうありたいと願いつつ……。