筆者(阪野)は先に、求めに応じて、東井義雄の「村を育てる学力」についての言説を不十分ながら紹介しました。2014年3月22日にアップした「今、改めて問われる『村を捨てる学力』と『村を育てる学力』―資料紹介―」がそれです。この拙稿に対して、あるブログ読者から、当時の時代背景と状況を考えるなかで今日的な状況と動向、そして課題を読み解く必要がある、という指摘をいただきました。同感するところです。
また、別の読者からは、無着成恭の『山びこ学校』(青銅社、1951年)などが懐かしく思い出されるとのことですが、当時の生活綴方教育と連携して展開された、初期社会科の「問題解決学習」に関する文部省の基本的な考え方等について、「資料紹介」をしてもらいたい旨の連絡を受けました。それに若干なりとも応えようと、本稿を草することにしました。
なお、「初期社会科」とは、『学習指導要領社会科編Ⅰ(試案)』(1947年5月)をはじめ、『学習指導要領社会科編Ⅱ(試案)』(1947年6月)、『小学校学習指導要領社会科編(試案)』(1951年7月)、『中学校・高等学校学習指導要領社会科編Ⅰ(試案)』(1951年12月)、『中学校・高等学校学習指導要領社会科編Ⅱ(試案)』(1952年10月)に示された「社会科」を中心とした、昭和20年代の社会科成立期のそれを意味します。
周知のとおり、戦後の新しい教科としての「社会科」は、青少年を「民主主義社会の建設にふさわしい社会人」に育てるための、学校教育における中核的な教科として設置されました。具体的には、1947年3月に発行された『学習指導要領一般編(試案)』によって教科の名称と授業時数が示され、同年5月の学校教育法施行規則の公布によって教科として成立します。その基本的な性格を示したものが、同年5月に発行された『学習指導要領社会科編Ⅰ(試案)』(1947年度版)です。授業が実際に開始されたのは1947年9月からですが、社会科の新設は、戦後教育改革のなかでも画期的な意義を有するものでした。
『学習指導要領社会科編Ⅰ(試案)』(1947年5月)は先ず、第1章「序論」の第1節「社会科とは」で、社会科の任務や基本的性格について次のように示しています。
「今度新しく設けられた社会科の任務は、青少年に社会生活を理解させ、その進展に力を致す態度や能力を養成することである。そして、そのために青少年の社会的経験を、今までよりも、もっと豊かにもっと深いものに発展させて行こうとすることがたいせつなのである。
社会生活を理解するには、その社会生活の中にあるいろいろな種類の、相互依存の関係を理解することが、最もたいせつである。そして、この相互依存の関係は、‥‥‥一、人と他の人との関係、二、人間と自然環境との関係、三、個人と社会制度や施設との関係、の三つ分けることができよう。‥‥‥
社会科においては、青少年が社会生活を営んで行くのに必要な、各種の能力や態度を養成する必要がある。‥‥‥それは‥‥‥現在の青少年の社会生活を進展させるためのものであって、教師にとっても生徒にとっても、具体的なよくわかるものであり、青少年の社会的経験を発展させることによって、おのずから獲得され養成されるものなのである。‥‥‥
社会科はいわゆる学問の系統によらず、青少年の現実生活の問題を中心として、青少年の社会的経験を広め、また深めようとするものである。‥‥‥
今後の教育、特に社会科は、民主主義社会の建設にふさわしい社会人を育て上げようとするのであるから、教師はわが国の伝統や国民生活の特質をよくわきまえていると同時に、民主主義社会とはいかなるものであるかということ、すなわち民主主義社会の基底に存する原理について十分な理解を持たなければならない。」(上田薫編集代表『社会科教育史資料1』東京法令出版、1974年、218~219ページ)。
続いて、第2節「社会科の目標」と第3節「社会科に関する青少年の発達」について説明し、それを踏まえて第4節では、「社会科の学習指導法」について次のように述べています。
「社会科は青少年が社会生活を理解し、その進展に協力するようになることを目指すものであり、そのために青少年の社会的経験を豊かにし、深くしようとするのであるから、その学習は青少年の生活における具体的な問題を中心とし、その解決に向かっての諸種の自発的活動を通じて行わなければならない。
青少年は社会生活に関する真実な知識理解を与えられなければならないが、これは自分たちでなんらかの行動をなし、社会との交渉を経験することによってのみ得られるのである。なすことによって学ぶという原則は、社会科においては特に、たいせつである。
一方社会科の目指している社会的態度とか、社会多的能力とかいうもの、すなわち生活のしかたとしての民主主義は、日々の生活の実践によってのみ理解され、体得されるものであるから、青少年の生活の問題を適確にとらえて、その解決のための活動を指導して行くことが、社会科の学習指導法の眼目でなければならない。」(上田薫編集代表『同上書』221ページ)。
以上を要すると、①社会科の任務・基本的性格は、「青少年に社会生活を理解させ、その進展に力を致す態度や能力を養成すること」にある。すなわち、社会科は、「社会生活の理解という知的側面とその進展に努める態度や能力という実践的側面を統一的に育成しようとするところにそのねらいがある」(小原友行『初期社会科授業論の展開』風間書房、1998年、35ページ)。②青少年の「社会生活に関する真実な知識理解」は、自分たちの「行動」や「経験」によってのみ得られる。そこから、社会科の学習(学習指導)は、「青少年の生活における具体的な問題を中心とし、その解決に向かっての諸種の自発的活動を通じて行わなければならない」。③「なすことによって学ぶ」(learnig by doing)という、青少年の社会的「経験」に基づいた「問題解決学習」が社会科の学習指導法においては最も重要な点(「眼目」)である、ということです。
なお、青少年の「自発的活動」に関しては、1947年3月の『学習指導要領一般編(試案)』のなかで次のように述べています。ここでは、青少年の自発的な学習が重視され、教師は青少年の背後に退くことになります。その結果、教師の指導性を後退させ、ひいては放任主義的な指導を生み出す、といった批判を受けることにもなります。
「児童がほんとうに学ぶには、自分でやり方の計画をたて、それをみずから試みて、それで理解するようにならなければならない。つまり、児童や青年が自分で考え、自分で試みて、一つの知識に達し、考え方に達し、技術に達しなくてはならない。このことは、学習の進められる中心の動きとして見のがしてはならないたいせつな点である。これまでの指導は、ともすると、この点を無視して、教師だけが活動して、児童や青年が自分で考え、試みるかどうかをかえりみないで、うわすべりでもなんでも、無理にもひっぱって行こうとし、そのために、かれらがほんとうには学ばないことが少なくなかった。われわれは、これからの学習指導において、この児童や青年が、みずからの活動によって学んで行くように注意することが特にたいせつである。」(文部省『学習指導要領一般編』日本書籍、1947年、25ページ)。
また、前述のうち、社会生活の理解とその進展のための態度・能力を統一的に育成するための社会科の目標に関して、1948年9月に発行された『小学校社会科学習指導要領補説』は次のように述べています。
「社会科の主要目標を一言でいえば、できるだけりっぱな公民的資質を発展させることであります。これをもう少し具体的にいうと、児童たちが、(一)自分たちの住んでいる世界に正しく適応できるように、(二)その世界の中で望ましい人間関係を実現していけるように、(三)自分たちの属する共同社会を進歩向上させ、文化の発展に寄与することができるように、児童たちにその住んでいる世界を理解させることであります。そして、そのような理解に達することは、結局社会的に目が開かれるということであるともいえましょう。‥‥‥
しかし、りっぱな公民的資質ということは、その目が社会的に開かれているということ以上のものを含んでいます。すなわちそのほかに、人々の幸福に対して積極的な熱意をもち、本質的な関心をもっていることが肝要です。それは政治的・社会的・経済的その他あらゆる不正に対して積極的に反ぱつする心です。人間性及び民主主義を信頼する心です。人類にはいろいろな問題を賢明な協力によって解決していく能力があるのだということを確信する心です。このような信念のみが公民的資質に推進力を与えるものです。
社会的に目が開かれていることは、民主社会を建設し維持するのに欠くことのできない条件です。しかし社会的に目のあいていること、社会的な関心をもっていることは、さらに、よい共同生活をするのに不可欠なさまざまの技能や習慣や態度と結合していなければなりません。すなわちその時々の事態に応じて適切に処理すること、建設的に協力すること、他人の権利を尊重すること、疑わしい意見や正しくない意見とたたかうことなど、総じて民主的社会の有為な公民として必要な数多くの特性を身につけていなくてはなりません。」(上田薫編集代表『同上書』461ページ)。
このように、社会科の主要目標は、「公民的資質」を発展させることにある。そのためには、「児童たちにその住んでいる世界を理解させること」、すなわち「児童たちが社会的に目を開くこと」「社会的な関心」をもつことが求められる。併せて、「人々の幸福に対して積極的な熱意をもち、本質的な関心」をもつこと、「よい共同生活をするのに不可欠なさまざまな技能や習慣や態度」を身につけることが肝要となる、ということです。いい換えれば、それらを統一的に育成しようとするところに、「民主的社会の有為な公民」の育成(市民的資質の育成)をめざす社会科の基本的なねらい(「社会科の目標」)がある、ということです。
周知のとおり、「問題解決学習」(learning of problem solving)は、アメリカの教育学者であるジョン・デューイ(John Dewey、 1859年~1952年)の児童中心主義や経験主義の教育思想に支えられた学習法です。この学習法については、社会科の設立当初から様々な批判がなされました。その点について、例えば、前述の小原は次のように整理しています。「①社会機能主義と相互依存主義に基づく日本の社会科は、すでに民主主義社会ができあがっていると仮定して、社会適応的な人間の育成を目指していること。②日本の現実や社会の歴史的課題を問題として取り上げていないこと。③子どもたちの興味・関心を中心にした、はいまわる経験主義に陥っており、科学的な社会認識や系統的な知識の育成が欠落していること」、がそれです「(小原『同上書』43ページ)。
教育現場や保護者からのこうした批判を受けて、文部省は、1955年12月『小学校学習指導要領社会科編(昭和30年度改訂版)』の発行、1958年10月『小学校・中学校学習指導要領』の全面改訂(高等学校は1960年10月)を経て、問題解決学習から系統学習へと政策転換を行います。とりわけ1958年改訂によって、経験主義に偏りすぎであったそれまでの戦後の新教育の潮流を改め、各教科のもつ系統性を重視し、基礎学力の充実が図られます。しかも、その改訂は、1947年からの「試案」ではなく、法的拘束力をもつ文部省「告示」として公示されました。
さて、その後、この「問題解決学習」に関するターム(用語)は、文部省の『学習指導要領』等からほとんど姿を消すことになります。ところが、およそ40年後の1996年7月、中央教育審議会から出された「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」の第1次答申のなかで、一人ひとりの個性を生かすための小・中学校における教育の改善策として、「問題解決的な学習や体験的な学習の一層の充実を図る」ことが示されます。それによって、「問題解決的な学習」という文言ですが、問題解決学習が息を吹き返すことになります。その背景は、初期社会科の時代とは大きく異なっています。すなわち、当時の学校現場では、とりわけ1980年代後半に受験戦争の過熱化や知識偏重・偏差値偏重教育の推進などに起因する「いじめ」(1980年代後半から)、「不登校」(1990年代から)、「学級崩壊」(1990年代後半から)等々の問題を抱え、学教教育は危機的状況を呈していました。
上述の中央教育審議会の第2次答申(1997年6月)などを受けて、1998年12月に、2002年度から完全実施された小・中学校の学習指導要領が改訂・告示されます(高等学校の学習指導要領は1999年3月に告示され、2003年度から学年進行で実施)。内容的には、①教育内容を7割程度に「厳選」し、「ゆとり」のある教育活動を展開するなかで基礎・基本の確実な定着を図る。②子どもに自ら学び、自ら考える「生きる力」を育成するために、「総合的な学習の時間」を創設し、各学校が創意工夫を生かした教育活動を展開する、というものでした。2002年度からの、いわゆる「ゆとり教育」の始まりであり、「ゆとり世代」の誕生です。
1998年の学習指導要領改訂の中核は「総合的な学習の時間」の新設です。そのねらいは、「(1)自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てること。(2)学び方やものの考え方を身に付け、問題の解決や探究活動に主体的、創造的に取り組む態度を育て、自己の生き方を考えることができるようにすること」に置かれました。さらに、そのねらいを踏まえ、「国際理解、情報、環境、福祉・健康などの横断的・総合的な課題、児童の興味・関心に基づく課題、地域や学校の特色に応じた課題」などについて、学校の実態に応じた学習活動を行うものとする、とされました。また、「自然体験やボランティア活動などの社会体験、観察・実験、見学や調査、発表や討論、ものづくりや生産活動など体験的な学習、問題解決的な学習を積極的に取り入れること」が求められ、「ボランティア活動」の文言が初めて学習指導要領に登場することになります。
その後、子どもたちの学力や学習意欲の低下などが叫ばれるなかで、文部科学省は、それがひとつの原因であるとされた「ゆとり」教育からの政策転換を図ります。小・中学校が2008年3月、高等学校が2009年3月にそれぞれ、「脱ゆとり」教育の学習指導要領に改訂され、小学校が2011年4月、中学校が2012年4月から完全実施、高等学校が2013年4月から学年進行で実施されています。この改訂によって、「生きる力」を育むための体験的な学習や問題解決的な学習が期待されながら、実際には「総合的な学習の時間」の授業時数が縮減され、その一方で教科学習の授業時数の増加が図られています。それは、子どもの生活経験を重視する「経験主義」の対極に位置し、系統的な知識や理解を重視する「系統主義」(教科主義)の立場に立った改訂であるといえます。
以上から解るように、学習指導要領の改訂の歴史を振り返ると、経験主義教育と系統主義教育という2つの潮流があり、これまで振り子のようにその間を揺れ動いてきたといえます。しかし、問題解決学習と系統学習は、個々の人間の成長・発達にとって、また社会の改革・発展にとって不可欠なものです。とすれば、両者の学習方法を対立的あるいは二者択一的に捉えるのではなく、その融合や止揚を図ることが具体的な教育実践において求められます。
筆者はかねてより、福祉教育(市民福祉教育)は、市民性(市民としての資質と能力)の育成と、まちづくりの主体形成を図るための教育活動である。福祉教育は、「総合的な学習の時間」に焦点化するのではなく、「全教科全領域」において展開すべきである。福祉教育の体験活動が「はいまわる経験主義」に陥らないためにも、社会福祉やまちづくりについての体系的・系統的な学習や、福祉教育が学習素材とする社会福祉問題についての歴史的・社会的な理解が必要かつ重要になる、などといってきました。以上に叙述した諸点との関わりで、再確認しておくことにします。
補遺
初期社会科における「問題解決学習」に大きな影響を与えたジョン・デューイの教育思想や理論のうちから、その中心的な概念である「経験」(experience)について若干ふれておきます。
先ず、『学習指導要領社会科編Ⅰ(試案)』(1947年5月)の説明文にある「なすことによって学ぶ」は、デューイの有名な言葉です。それは、何かをただ体験するだけではなく、その行為を「反省的に思考すること」(反省的思考:reflective thinking)があって初めて「なすことによって学ぶ」ことになる、ということです。
次に、デューイは、「教育とは、経験の意味を増加させ、その後の経験の進路を方向づける能力を高めるように経験を改造ないし再組織することである」(松野安男訳『民主主義と教育』(上)岩波書店、1975年、127ページ)と定義しますが、「経験」を2つの側面から捉えています。そのひとつが「連続性の原理」、いまひとつが「相互作用の原理」です。それぞれについてデューイは次のように述べています。
「経験の連続性の原理というものは、以前の過ぎ去った経験からなんらかのものを受け取り、その後にやってくる経験の質をなんらかの仕方で修正するという両方の経験すべてを意味するものである。」(市村尚久訳『経験と教育』講談社、2004年、47ページ)。
「個人が世界のなかで生きるという言明は、具体的には、個人が状況の連続のなかに生きていることを意味する。‥‥‥(それは、:筆者)相互作用が個人と対象物あるいは他の人との間で進行していることを意味する。‥‥‥経験は、常に、個人とそのときの個人の環境を構成するものとの間に生じる取引的な業務であるがゆえに存在するのである。‥‥‥環境とは、どのような状況のもとであっても、個人がもたされる経験を創造するうえでの個人的な要求、願望、目的、そして能力との相互作用がなされるための条件なのである。」(市村尚久訳『同上書』63~64ページ)。
すなわち、前者は、経験は過去・現在・未来と繋がるものであり、後者は、経験は環境との相互作用によって成立するものである、ということを意味しています。そして、デューイは、「連続性と相互作用という二つの原理は、相互に分離しているものではない。それらは離れていても、結びつくものである。それらはいわば、経験の縦の側面と横の側面である」(市村尚久訳『同上書』64~65ページ)と述べています。そこから、デューイにあっては、学校における教師の任務は、「連続性」と「相互作用」の二つの原理をもつ「経験から学ぶ」(learning from experience)課程を編成し、子どもの自発的な学習活動を促すことにある。そして、子どもが経験から学ぶ際に必要とされるのが「反省的思考」である、ということになります。
福祉教育実践とりわけ学校における福祉教育実践においては、これまで、体験のやりっぱなしで、体験活動さえすればいいとする体験活動至上主義に陥ることがありました。しかも、その活動は観念的・精神的なものにとどまりがちでした。上述の「経験」についての言説を福祉教育に即していえば、福祉教育実践では「リフレクション」(ふりかえり)の態度を育成することが大事である。また、福祉教育の実践活動(「経験」)は、タテ(時間軸、歴史的事象)とヨコ(空間軸、社会的事象)の複合的で重層的な関係性のなかで捉え、展開することが重要である、ということになるでしょうか。
なお、「ふりかえり」に関して、次のことを付記しておきます。福祉教育の「体験活動」は、事前・事中・事後の指導と評価を通して「学び」「気づき」「ふりかえり」、そして「変わり」、新しく「動く」ことが求められ、その循環過程を経て「体験学習」へと深化・変容する、というのがそれです。