1 市民主権・市民自治の実現と「学ぶ権利」
関市では、2014年3月1日から31日の期間、「関市自治基本条例(素案)」についてのパブリック・コメント(Public Comment、以下「PC」と略す。)の募集が行われた。筆者(阪野)は、既述のように関市自治基本条例策定審議会委員の末席を汚したが、いい足りないこともあり、3月3日付で次のような管見を提出した。
関市自治基本条例(素案)の策定審議に関わられた策定審議会委員と市役所市民協働課等の皆様方に、先ずもって衷心より敬意と感謝の意を表させていただきます。
自治基本条例は「まちづくり条例」「市民参加・協働条例」等の基本的性格を有するものであるという認識のもとに、次の2点について管見を述べさせていただきます。ご検討願いたく存じます。
(1)独立条文として「学ぶ権利」保障の規定を設けるべきである。
市長がマニフェストに掲げる「市民主権・市民自治」を実現するためには、子どもから大人まで全ての市民を対象にした、関市の「まち」に関する理解・診断と「まちづくり」に関する「意識」「知識」「スキル」の醸成・育成が必要かつ重要となります。
素案には、「4 市民の権利及び役割 (1)市民の権利 ②」に「まちづくりに関して学習し、意見及び要望を提案できること。」という規定がありますが、この権利保障を担保する規定は必ずしも明文化されているわけではないと考えます。
ご案内のように、大垣市では2015年度から地元の歴史や文化、産業等を学ぶ「ふるさと大垣科」(仮称)が新設され、全小中学校で授業が開始されます。その内容等については不明であり、戦前の「郷土教育」が浅薄な愛国心の育成(「愛国心教育」)に繋がった“負の遺産”を持っていることには十二分に留意する必要があります。
その点を踏まえたうえで、次のような条文の加筆が求められると考えます。
4 市民の権利及び役割
(1)市民の権利
(2)学ぶ権利
1 市民は、まちづくりに関して、自ら考え行動するために学習することができます。
2 行政は、市民のまちづくりに関する学習の機会を確保するとともに、自主的な学習活動を支援します。
このように考えると、整合性を保持するためには、「4 市民の権利及び役割 (1)市民の権利 ②」の規定は、「まちづくりに関して意見及び要望を提案できること。」という規定になろうかと考えます。
なお、「学ぶ権利」の規定を独立条文として設けている市町村条例は少なくありませんが、「市民主権・市民自治」を掲げる関市においては必要不可欠な条文であることを重ねて申し述べます。
(2)「(5)市民活動及び市民活動センター」は「(5)市民活動センター」とすべきである。
「市民活動」は、自治基本条例の全条文に通底するものであり、この見出しには違和感を持たざるをえません。「市民活動及び」は削除すべきであると考えます。
「(4)地域委員会」「(5)市民活動センター」「(6)まちづくり市民会議」の設置・運営に関する規定は、極めて高く評価することができます。そして、この三つの機関・組織について三位一体の運営が推進されれば、「市民主権・市民自治」の実現が図られるものと考えます。
逆に言えば、そうでなければ「市民主権・市民自治」は画塀に帰すといえます。その点からも、自主的・自律的な「学ぶ権利」の独立条文規定は極めて重要なものとなります。
2014年4月21日、関市のホームページに「関市自治基本条例(素案)に対する意見の概要と市の考え方」(以下「PCの結果」と略す。)がアップされた。そこでは、筆者の愚見が次のように整理され、市の考え方が提示されている。
〈意見内容〉
独立条文として「学ぶ権利」を保障の規定を設けるべきである。市長がマニフェストに掲げる「市民主権・市民自治」を実現するためには、子どもから大人まで全ての市民がまちづくりについて学ぶ必要があります。素案には、「まちづくりに関して学習し、意見及び要望を提案できること」が規定されていますが、「学ぶ権利」を保障することが明文化されている訳ではないと考えます。「(1)市民の権利」の次に、「(2)学ぶ権利」として、「1 市民は、まちづくりに関して、自ら考え行動するために学習することができます。2 行政は、市民のまちづくりに関する学習の機会を確保するとともに、自主的な学習活動を支援します。」を追加することを提案します。
〈市の考え方〉
市民の権利に、まちづくりに関して学習することを規定しており、別に「学ぶ権利」を追加して規定することは考えておりません。まちづくりに関して学習することは大切であると考えますので、ご意見は今後のまちづくりの参考にさせていただきます。
〈案の修正〉
なし
〈意見内容〉
「(5)市民活動及び市民活動センター」を「(5)市民活動センター」とすべきである。「市民活動」は、自治基本条例の全条文に通底するものであり、この見出しに違和感を持たざるをみません。見出しから「市民活動及び」を削除するべきである。
〈市の考え方〉
この項目は、市民活動センターだけでなく、市民活動についても定めているため、項目名を「市民活動及び市民活動センター」にしていますが、ご意見は今後の参考にさせていただきます。
〈案の修正〉
なし
周知のとおり、PCは、住民の行政参加の促進と住民自治の拡充、行政運営の公正さの確保と透明性の向上などを図るための手続きである。「PCの結果」をみると、「意見等提出者数」8人、「意見等の総数」18件を数えるが、自治基本条例の基本的性格や制定の背景、意義などを考えたとき、意見提出が低調である。提出意見の「原文を一部要約し、また分割して掲載」されており、全文が公表されていない。そして、何よりも提出意見に対する回答がすべて「案の修正『なし』」である、ことなどが気にかかる。そこから、PC制度そのものが十分に周知・活用されず、形式的で正確・公正さに欠け、結果的には行政が住民を「説得」するための単なる手続きで終わっている、といえそうである。それ以前に、「PCの結果」に、自治基本条例の制定そのものに疑義をはさむ提出意見が散見されることから、自治基本条例に関する住民への情報提起や意識啓発が必ずしも十分なものではなかったのではないか、と思われる。唐突であるが、ここで、「無関心は地域社会を荒廃させるもっとも危険な心情のひとつである」(岩崎正弥・高野孝子『場の教育―「土地に根ざす学び」の水脈』農山漁村文化協会、2010年、18~19ページ)という一文を引いておくこしにする。住民と行政ともども留意すべき点である。
2 地域アイデンティティの再構築と地域の再生・復興
上記の岩崎正弥(愛知大学)は、その著作『場の教育』において、明治以降の近現代日本の学校教育の基調は成績重視の、「地元を捨てさせる教育」であった。一方、「明治後期の学校教育批判に端を発する新教育運動から、大正自由教育運動、農村教育運動、郷土教育運動、デンマーク型教育運動など」に共通する土台は「土地に根ざした教育」(Place‐Based Education)であった、と説いている(70ページ)。そして、こうした歴史と現在の「地元を知り、地元を愛し、地元を育てる学び」の実践を架橋し、地域と教育が手を携えて地域を再生する「地域再生学としての<場の教育>」(29ページ)の理念や可能性について論述している。その際、岩崎が「場所」ではなくあえて「場」という言葉を用いるのは、それを「<開かれ、生み出し、包み込む>という特質をもつ空間」として捉えることによるものである。
岩崎の「場の教育」の所説についてはひとまず置くとして、ここでは、前述のPCにいう「まちづくりに関して学ぶ権利」と「郷土教育」をめぐって一言述べておくことにする。
周知のように、郷土教育運動は、1930年代・昭和初期に隆盛するが、戦時体制化が進み、国民精神総動員運動がはじまる1937年を境に、当初の、郷土を正しく認識・理解し郷土の再生をめざす実践的な教育運動から、郷土愛を愛国心、「尽忠報国ノ精神」にまで涵養・高揚させることを目的とする観念的な精神運動に変質する。そして、それは、日本のファシズム体制の確立を促すことになる。
こうした歴史的認識を踏まえたうえで、岩崎の以下の言説に留意しておくことにする。地域(地元=郷土)を知り、地域を愛し、地域を育てる「教育」について考える際のひとつの視点を見出すことができよう。
郷土愛が国家愛に直結しないことは、郷土教育運動のなかでも指摘されていた。郷土を掘り下げることで、国体論が示す時空間とは別の時空間に立つことも十分ありえた。(93ページ)
郷土愛(Patriotism)というと評判が悪いけれど、本質的には郷土愛と国家愛(Nationalism)とは異なるものである。同じ土地に暮らす人びとを大切にし、その土地の歴史と文化を尊重し、その土地の自然環境を守り育てることが郷土愛であるはずだ。郷土愛は身近な具体的事象(人を含む)を対象とし、国家愛は抽象的な理念が必ず介在する。だから郷土愛は、自地域への誇りにかかわる地域アイデンティティ(Local Identity、以下「LI」とする)といいかえてもよいだろう。‥‥‥
郷土を知ることは、LIへの転化を促すのであろうか。郷土研究を通して詳細に自地域を知るとき、私たちの郷土に対する思いは変わるだろうか。私の考えでは、自分とは無関係な知識をいくら蓄積してもLIには転化しない。しかし地域事象が私たちの生活にどう影響しているのか、その中身を具体的に知ることができれば、その事象の身近さ度に応じてLIが育まれるだろう。いいかえれば、各地域事象の意味づけを行ない、私たちがその意味を理解するとき、腑に落ちるという体験とともに、事象が映し出す光景は一変するだろう。ここに至らないと知識偏重という謗りを越えることができない。(98~99ページ)
土地に根ざした教育とは、地域に学び、学びの主体が変えられ、今度は地域づくりの広い意味での担い手として、地域に働きかけ地域を変える。そして変わった地域から再び学び、自分の認識の更新を通して、その思いが再び地域にはねかえる。こうしたフィードバック・システムが繰り返されるところに、土地に根ざした教育の特色がある。この土地に根ざした教育のプロセスが<場の教育>である。(134~135ページ)
周知のように、2006年12月に公布・施行された新教育基本法には、「我が国の伝統と文化」「愛国心・郷土愛」「公共の精神」が強調されている。この規定は、国家による一面的な道徳観や価値観が押し付けられることによって、偏狭で閉鎖的な人間が育成される心配がある。とともに、復古的な国家主義や全体主義を基盤にした国家への奉仕が強要される恐れなしとしない。この点に十分に留意しながら、市民主権・市民自治の実現とそれによる地域の「変革」や「再生」を図るための主体(市民)を形成する教育のあり方が、 “いま” 問われている。筆者が本稿でいいたいのはこの点である。
中央・地方の財政難を背景に行政能力の強化を目的とした「平成の大合併」によって、地域アイデンティティの喪失が進んだ。東日本大震災と原子力発電所事故によって、地域生活が根こそぎ壊滅され奪われた。こうした事態に多くの人々が直面している “いま” こそ、地域の「再生」や「復興」のための、地域(地元=郷土)に根ざした新たな教育の創造と展開が求められるのである。
付記
「地域アイデンティティ」という言葉は、都市社会学や都市計画の分野などで1990年代後半以降に登場するようになったといわれている。例えば、都市社会学の観点から、松本康(1986年)は、「地域帰属意識」という用語を用いて、「ある人間が一定の地域に居住しているという客観的状態すなわち住民性に加えて、その地域社会に帰属する成員であるという主観的状態を示すもの」として捉えている。都市計画の分野では、金俊豪・藤本信義・三橋伸夫(1996年)らが、「地域アイデンティティ」(Local Identity)という用語を用いて、「心理学用語であるアイデンティティという概念を人間集団としての地域やコミュニティにまで拡大し、『個性』、『らしさ』あるいは『あるべき姿』などを指示するもの」として定義している。また、遠藤亮・中井検裕・中西正彦(2004年)らが、「地域帰属意識」(Community Consciousness)という用語を用いて、「地域帰属意識とは、ある地域に居住していると自覚するとともに、地域の目標や規範・価値観を受け入れ、その地域のために活動したいという意欲のこと」と定義している(城月雅大・園田美保・大槻知史・呉宣児「『まちづくり心理学』の創出に向けた基礎理論の構築―計画論と環境心理学の橋渡しによる地域再生のために―」『名古屋外国語大学現代国際学部紀要』第9号、2013年、31~47ページ)。