「生活綴方」と福祉教育実践―徳目主義や反知性主義を憂う―

教育の世界における徳目主義の傾向や反知性主義の台頭が気にかかります。

筆者(阪野)は、久しぶりに中内敏夫著『生活綴方成立史研究』(明治図書、1970年)を読み返しました。“読み返した”というのは、「精読」したということではなく、A5判、994頁という大著を「通読」したという意味においてです。この本は、質の面でも類書を凌駕する名高いものです。例えば、今野三郎は「この分野の史料収集上、個人が為し得る一つの限界を示している」(『教育学雑誌』第7号、日本大学教育学会、1973年、84ページ)、川合章は「『この本のおかげで生活綴方の研究にとりくむ者が減るのではないか。この本は、生活綴方史研究にマイナスの役割を果すのではないか』という冗談も、ただの冗談とは受けとれないほどの迫力をもつ、内容豊かな研究である」(『教育学研究』第39巻第1号、日本教育学会、1972年、74ページ)と評しています。
生活綴方は、周知のように、日本特有の教育方法として取り組まれてきたものですが、特定の徳目や価値観を押し付け、刷り込む徳目主義や権威主義的な教育実践ではありません。それは、子どもたちが日常の生活を書き「つづる」ことを通して、ものの見方や感じ方、考え方を育み、生活に根ざした生き方を作り出していくための指導・教育方法です。それは、広い意味では大正初めに提唱されたといわれていますが、この教育方法に「生活綴方」という呼称が使われるようになるのは1930年代に入ってからです。
この本は、生活綴方に関する一次史料をひとつひとつ丹念に掘り起こし、整理・分析した成果を纏めたものであり、第2部「綴方教師の誕生」第1章「雑誌『綴方生活』創刊の史的構造」(271~891ページ)を中心に編まれています。ただ、この本全体を通して生活綴方の教育実践の実態や子どもたちの姿が具体的に詳述され、十分な分析が加えられているかというと、必ずしもそうはいえません。とはいうものの、筆者はかねてよりこの本にある種のこだわりをもっています。それは、生活綴方の教育実践のなかに福祉教育実践の側面や要素を見出すことができ、そのヒントや仮説をこの本から得ることができるのではないかと考えているからです。
ところで、上記の今野は、その「書評」で、「従来、日本近代教育史研究者の中で『生活綴方』史研究にまともにとりくむ人はきわめて稀であったといってよい」理由のひとつについて、次のように述べています。

日本近代教育史における教育思想、教育方法研究の主流が、大部分は西欧にはっきりしたモデルをもっているものを中心として手がけられてきたということである。このことは、別の面からいえば、明確なモデルをもたない教育思想、教育方法を構造的に解明し、体系化することは、きわめて困難な作業であるという研究方法上の問題から敬遠されるという結果を招来するのである。本書は、その結果の評価はともあれ、これらの研究上の困難な問題に正面からとりくんだという点に画期的な意義をもっているといえよう。(今野、88ページ)

この言説は、福祉教育やその歴史に関する研究にも通じるのではないか。そうであれば、これまで以上に、その研究に果敢に取り組むことが求められるのではないか。「日本福祉教育・ボランティア学習学会」が設立20周年を迎えたいま、筆者はそんな思いや考えを新たにしています。

例によって唐突ですが、ここで、この本を読み終えようとしていた時にたまたま目にとまった新聞記事を紹介しておきます。田中優子先生(法政大学総長)のそれです(「大学の役割は何か」岐阜新聞「現論」2014年5月17日)。以上との関連で、また筆者にかかわるいろんな意味で深く受け止めたい一節です。

「反知性主義」という言葉がある。自ら知性へ敵意をもつことと、国家が国民から知性を奪うことを意味する。いま何も考えたくない人々は、自力で調べて知識を獲得することなく、感情を刺激する根拠のない情報に興奮し、それを自分の考えとしてツイッターで広め、時にはそれに従ってデモをし、暴言を吐き、それを映像的な「ネタ」にしてブログで公開し、自己顕示欲を満足させる。反知性的なその閉じたサイクルは、主張の内容(右翼か左翼か)にかかわらずさまざまなところで起こっている。
大学はこのことに向き合わねばならないだろう。大学とは、自ら事実の確認をする手順を学び、できるだけ正確な情報を得るリテラシーを培うところだ。また、一過性の感情を超えて論理的に語る経験を得て、議論して異なる考えと出合い、言語化して自らの無知を知ってさらに知性に磨きをかける場だ。

「反知性主義」という言葉は、最近になって目につくようになった言葉ですが、要するに「客観性や実証性を十分に問いただすことなく、自分に都合の良い思考様式や価値観の世界に閉じこもる姿勢や態度」といった意味でしょうか。また、文中の「大学」を「地域」という言葉に置き換えることによって、生涯学習やその一環としての福祉教育に関するいろいろな問題に思いを致すことができます。
福祉教育実践は、子どもや大人たちの地域における実生活から遊離した思いやりや親切、助け合い、そして郷土愛などの特定の徳目を重視したり、従って主観的・観念論的な「物語」の世界に留まったり閉じこもったりする危険性なしとしない。最近になって特にそう思うのは、筆者だけでしょうか。