まえがき
相撲では、その代表的な基本動作である四股(しこ)やてっぽう、すり足などで「体づくり」(土台づくり)が行われる。また、大相撲では、上位力士がいるほかの相撲部屋に出向いて充実した稽古を行う「出稽古」も必要不可欠である。
本冊子は、誤解を恐れずに言えば、「体づくり」のための「出稽古」の類である。それは、「まちづくりと市民福祉教育」の土俵のうえで、それなりの相撲をとりたいがためである。
ブログ(「市民福祉教育研究所」)に、大橋謙策先生の「老爺心お節介情報」を継続的にアップさせていただいている。以下は、その第36号〈2022年6月13日〉の記事である。
私は論文を書くときに、あるいは講演をする際にとても十分とはいえないにしても、常に以下のようなことを考えて研究生活を送ってきた。
➀ 何故、その社会問題、事象を取り上げるのか、それを取り上げる意義は何か?
② 取り上げた社会問題、事象をどう分析するのか、その分析の視角は何か?
③ 分析した個々の要因間の関係の構造を考え、何が幹で、何が枝で、何が葉なのか、枝葉末節を考えて、構造的に分析を行い、考えているか?
④ 分析をした社会問題、事象を通して、社会福祉学界に対してどのような理論課題を提起し、論述しようとしているのか、その理論課題に即した先行研究も十分ふまえて論述しているのか?
自分のことを棚に上げておこがましいことを言うようであるが、最近の実践や研究において、上記のことがほとんど触れられずに、“犬も歩けば棒に当たる”類の研究姿勢が多いことはなぜなのだろうか?
大橋先生はまた、次のようにもいう。「研究者自身の立ち位置を明確にしないままに、取り組まれている実践を評価、紹介しているものが多く、地域福祉研究者として“一種の研究倫理”に抵触しているのではないかと思う論文を散見する。全国のいい実践は、大いに紹介し、情報共有化がおこなわれてほしいが、その場合でも紹介なのか、評論なのか、自分の学説の論証に使うのか等その位置づけは明確にしてほしいものである」(「老爺心お節介情報」第23号〈2021年3月25日〉)。
さらに大橋先生は、恩師の小川利夫先生について次のように述懐する。「“他人の土俵に乗って相撲を取れるようにならなければ一人前とは言えない”といい、自分の土俵に相手を連れてくるのではなく、他人の土俵に乗って話ができるように、意識して広い他分野へ関心を持つ事を奨励した。私は、当時、自分の分野さえもカバーできないのに、他分野まではとてもと思いつつ、他人の話題に付いていこうと背伸びをしていた時期があった」(「老爺心お節介情報」第4号〈2020年7月14日〉)。
こうした指摘は、浅学菲才で厚顔無恥な筆者にとっては、汗顔の至りであるが、体力と気力、そして時間が許す限り、「体づくり」と「出稽古」は続けたいと願っている。単なるディレッタンティズム(もの好き)ではないためにも、である。ただ、「体力の限界。‥‥気力もなくなり‥‥」という言葉がいま、思い出される。
なお筆者は、実践事例の研究や共有化については、次のように考えている。
・これまでの「福祉教育」研究は、一面では、全国各地で取り組まれている実践事例を掘り起し、それを咀嚼し、紹介することに汲々としてきた。確かに、実践事例の分析・検討を通して経験の知識化や実践の理論化が進められてきた。しかし、紹介される事例のほとんどは、その基準を曖昧にしたままでの「先駆的」「モデル的」と評される実践(「成功事例」)である。事例の掘り起しや咀嚼の仕方が独善的な場合もある。しかも、その実践事例は、機が熟するのを待たずに流行おくれとなり、過去のものとなっていく。最近では、新しく紹介される実践事例の数も少なくなってきているように思える。自己点検・評価をベースにした、息の長い「事例研究」(「実践的研究」)を期待したい。
・「成功事例」の分析・検討は、成功の要因や条件、法則などの抽出を通して、成功の再現を促す。しかし、過去の成功事例を単になぞるだけでは、いわゆる先行事例の後追いに過ぎず、実践のマニュアル化や定型化を進めることになる。それはまた、実践者や研究者の思考停止を招きかねない。「失敗事例」の分析・検討については、失敗の防止や回避を図るためだけではなく、新たな成功を生み出すための積極性や探求性が求められる。「成功の鍵」は一面では、成功事例のなかにある。「失敗は成功のもと」という格言がある。成功事例とともに、失敗事例も重要視したい。
2022年6月25日/阪野 貢
ⅰ~ⅱ
ⅲ
01/「時間」と「空間」の座標
― 内藤廣(建築家)から学ぶ―
〇筆者の手もとに、「文章を書く建築家」のひとりである内藤廣(ないとう・ひろし)の本が3冊ある。(1)『建築のちから』(王国社、2009年7月。以下[1])、(2)『場のちから』(王国社、2016年7月。以下[2])、(3)『空間のちから』(王国社、2021年1月。以下[3])、がそれである。編集者の思いによる3部作であるが、そこにはその時々の信条や心象を言葉にした、哲学的で、専門的知識に裏打ちされた玉稿が収められている。それ故に、洞察の深い文章は筆者にとって難解である。
〇内藤は、[1]で「建築の本懐(本意)は、その誕生にあるのではなく、その後、時代と共に生きていく時間の中にこそある」(18~19ページ)。「大衆が心から望むものと建築家が実現しようとするもの、そのベクトルが一致する時、建築は街を変え、人びとを変えていく力となる」(20ページ)、と説く。[2]で「建築の依って立つところ、それは大地だ。大地とその場所に生きる人間だ」(12ページ)。いま、建築という価値が大きく毀損(きそん)され、本質的な意味で「建築の冬の時代」(12ページ)が到来しつつある。そんななかで必要とされるのは、「場所の持っている内在的な力、人を生かしめる内発的な力」(20ページ)である「場のちから」であり、それを全身で受け止めるような体験である(12ページ)、という。 [3]で「空間の本性は、『和解の場』のことなのかもしれない」。「建築や環境が内包する空間とは、(「人と自然」、「生と死」、「過去と未来」、「復興と街造り」など)全てのものが流れ込み、もつれあい、そしてその和解を用意する場のことなのではないか」(34ページ)、と問う。そして、建物の空間や街の空間を豊かなものにするのは、可能な限り「時間が生まれ育っていくような空間」をつくることだけである(236ページ)、と言い切る。
〇3冊の本に通底する基本的な言説のひとつは、次のようなものである。すなわち、「建築」(architecture)は「人間」の「身の置き所」([3]206ページ)を「構築する意志」であり、「建物」(building)はそのための道具、具体的なモノである([3]232~233ページ)。大切なのは(守るべきは)、「空間」と「時間」によって織りなされている「建築」という名の意志である。本来の建築の価値は、「人の生きる長さを越えて何事かを伝える」([3]5ページ)ところにあり、メッセージを伝えることによって建築は生命を与えられる。その際の(本当の)価値は、「生み出すものではなく、生まれてくるものであり、なおかつきわめて個人的なもの」([3]89ページ)である。
〇そして、内藤にあっては、建築について自分の思考を磨き、建物が生み出された内実について(技術や経済や制度の側から)説明すめためには、言葉の助けが必要となる。「文章を書く」ひとつの所以でもある。内藤はいう。「建物を建てる際の現実的な体験は、建築に対する思い込みに修正を迫る。現実と思考、そのやりとり
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の試行錯誤が言葉になり文章になる」。「建築と文章とは切っても切れない関係にある」([1]82ページ)。
〇本稿では、[1][2][3]における論点や言説から、「まちづくりと市民福祉教育」に関して「使える」であろう・留意したい一文をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。
『建築のちから』
「建築の力」は空間や時間と人びととの開放的な共感のなかに現れる
われわれは、建物の完成にこだわり、品質にこだわり、意図したものができ上がる作品性に神経質になり、その結果、いちばん大切なことを見失ってはいまいか。社会制度の命ずるところ、資本主義経済が望むところ、そうしたものに対する律儀さが建物の質に無意識のうちに現れているのなら、人びとは建物から距離を置くだろう。なぜなら、建物が社会や資本に顔を向けて、人びとに背を向けているからだ。
「建築の力」(建築のなかに生まれてくる価値:阪野)はそういうところには現れない。「建築の力」は人びととの共感の中に現れる。それは、発注者、建設関係者、設計者、住民、不特定多数の人びと、よりよい社会を目指すそうした人たちの運動体、そうしたものの中で初めて兆(きざ)すはずだ。そのためには建築という価値は「完結的」であってはならない。開かれていなければならない。空間的に開かれている、あるいは時間的に開かれている必要がある。いちばん望ましいのは「空間にも時間にも開かれている」ということだ。そう誰もが感じられるような状況となった時、「建築の力」は熱湯がいきなり泡立つように内側から湧き上がってくる。([1]19ページ)
建築には空間に身を置き時間のなかに生きる人間に対する洞察が不可欠である
おそらく建築の中には、「わかりやすい価値」と「わかりにくい価値」が存在する。「わかりやすい価値」はわかりやすいのだから容易に広まる。([1]233ページ)
一方、「わかりにくい価値」は伝わりにくいから、いくら声を大にしてもなかなか広まらない。建築に時代を超えていく本質的な生命力というようなものが存在するとしたら、それはこの中にしかない。多くの場合、「わかりにくい価値」は空間の中にある。空気の肌触り、陰影の深さ、音、匂い、そうした目に見えない空間の質に価値の重点が置かれた場合、そこに表現されたもの、建築家が精魂込めて託したもの、それはきわめて高度でわかりにくいものになる。その空間に身を置き、時を過ごし、体験しなければわからない。メディアも写真家もこうした価値には不親切であり続けた。
しかし、このあり方は、誰にでも開かれているわけではない。これを現実のものとするには、才能が要る。たくさんの要素を同時に想像し、それを空間の中に結び合わせなければならないからだ。経験と直観が必要なことはいうまでもないが、それが一級のものになるためには、何より、その空間に身を置く人間というものにたい
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する深い洞察が不可欠で、それだけのものを身につけた建築家はめったにいない。([1]233~234ページ)
『場のちから』
建築は空間の「湿り気」・人の感情の総体と向き合わなければならない
モダニティ(近代性、近代的なもの:阪野)は、わたしたちの身の回りを覆い尽くしつつある。それは、世界的な経済構造や社会構造と連動して、いまだに生活の隅々にまで浸潤し続けている。便利さ、明るさ、速さ、安さ、そしてなによりわかりやすさ、この力には抵抗し難いものがある。しかし、人という存在は、それだけでは遥(はる)かに足りない。人の感情を受け止め、人が尊厳を保持しうる空間とは、そんなものに支配された空間ではないはずだ。
モダニティがもたらす空間は何故か乾いている。現代建築も乾いている。雑誌で目にする様々な作品には、明らかに「湿り気」が欠落している。([2]123~124ページ)
空間に「湿り気」を求めたい。ここで言う「湿り気」とは、感情の襞(ひだ)や心の陰影を受け止める空間の質のことだ。([2]124ページ)
建築という価値も、本来はそうした人の感情に生起する様々な質に内包すべきである。そのためには設計は、喜び、夢、希望、愛着、悲しみ、打算、矛盾、裏切り、葛藤、追憶、といった人の感情の総体と向き合わねばならないだろう。この態度は設計者に多大の忍耐を強いるが、結果として、出来上がる空間に「湿り気」をもたらすはずだ。この困難さに耐えることは、それ自体が「建築に感情を取り戻すための戦い」なのだ。([2]124ページ)
都市計画は終わりも完成もない物語(物語ること)のプロセスである
誰であれ志のある都市計画家を思うとき、その職業の難しさと悲しさを思わずにはいられない。彼らは100年を夢想し、理想を思い描き、今日の日常的な無理難題を扱う。それでいて、都市の時間に終わりのないこともよく知っている。華々しくテープを切るようなゴールなどない。すなわち、すべてはプロセスであって、目の前の現実は過ぎ去る一側面でしかない。そのことを誰よりも熟知している。また同時に、自らが夢想する未来もまた過ぎ去る一側面でしかないことも知っている。人間のそして人間社会の性(さが)を嫌というほど見ながら、それでも社会の改良を諦めない。都市計画家とはそういう存在なのだ。難しさと悲しさが浮かぶのはそれ故だ。([2]183ページ)
終わりのない都市の物語は、たとえそれがプロセスであったにせよ、そして、それがたとえ見果てぬ夢であったとしても、空間デザインを旋律(メロディー)に、そして社会システムを通奏低音に、より美しい韻律(リズム)を奏でることが出来るはずだ。ソフトウェアとはその韻律のこと。その韻律にこそ人間社会の希望がある。([2]186ページ)
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『空間のちから』
建築は「つまらなくて価値のあるもの」「生き生きと生きる」を価値の中心に据える
建築が本来担わなければならない長い時間からすれば、「面白さ」は初期に求められる付加的な要素に過ぎない。([3]83~84ページ)
建築に「面白さ」を求めることは危険だ。一発芸と同じで、「面白さ」は一時もとはやされるが、すぐに「時代遅れ」になる。「面白さ」があったにしても、それはやはり建築の原理原則に適ったものでなくてはならないはずだ。しかし、それはそうたやすく手に入る類のものではない。昨日目新しく話題になった建物が、見る間に日常風景の中に飲み込まれ、忘れ去られていく様をいくつも見てきた。だから、「面白さ」を建築という価値の中心に据えていいはずがない。
世の中の公共建築を見渡してみると、「面白くて価値のないもの」ばかりが目立つようになってきている。そこで、逆説的なようだが、あえて「面白さ」を捨てて、「価値のあるもの」を目指してはどうか、また、多くの人が「生きること」、「生き生きと生きること」を価値の中心に据えてはどうか。
「面白さ」はわかりやすく、それ故伝わりやすいから流布しやすく、それ故に容易に消費されていく。とかく人の心は飽きやすい。それに対して、建築的体験の中に留まるような「わかりにくさ」は言葉になりにくい。それ故、伝わりにくい。この矛盾を乗り越える必要がある。([3]84~85ページ)
〇ここで、評論家・加藤周一(1919年~2008年)の『日本文化における時間と空間』(岩波書店、2007年3月。以下[4])を思い出す。加藤はいう。日本文化のなかには3つの異なる「時間」が共存している。①(『古事記』にみられる時間のような)始めなく終りない直線=歴史的時間、②(四季を中心とした)始めなく終りない円周上の循環=日常的時間、③(人生の)始めがあり終りがある普遍的時間、である。そして3つの時間のどれもが、「今」に生きることを強調する([4]28~36ページ)。日本における(閉鎖的な)「空間」の特徴は3つある。①(神社の建築的空間がそうであるように)空間の秘密性と聖性が増大する(人に見せず、大事にする)「オク」(奥)の概念、②(神社には塔がないように)建築は平屋または二階建てで、地表に沿って広がり、天に向かって伸びていくことはない「水平」面の強調、③(武家屋敷や都会の地下的のように)時とともに変わる必要に応じて家屋などを増やしていく「建増し」思想、である([4]164~174ページ)。これらによって「私の居る場所」、すなわち「ここ」を重視する。要するに、日本文化に内在する時間と空間の概念は、自分がいる「今=ここ」に集約され・強調される。それは「全体から部分へ」ではなく、「部分から全体へ」という思考過程をたどるものであり、日本文化の基本的な特徴(「今=ここ」の文化)である。その時間における典型的な表象・表現が現在主義であり、空間におけるそれが共同体集団主義である([4]233~238ページ)。
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〇このような加藤の言説に対して内藤は、[2]において次のように要約して持論を展開する(抜き書きと要約。見出しは筆者)。留意しておきたい。
建築の本質は「今・ここ」を確かなものにするために「待つ」ことにある
加藤周一の「今・ここ」論を要約すると、「今・ここ」という時空の中の一点から世界の認識を広げていくという癖のようなものが(日本)文化の基層に根強くあるのではないか、という提示だ。西欧の時間と空間とは、個人という存在の外部に普遍的な尺度を設定し、自分と世界を定位しようとするが、この国の文化はそれとは違って、「今・ここ」という内部化された座標のもとに育まれてきたのだが、これがかつて戦争へと向かう精神を生み出した、というのである。([2]112~113ページ)
建築や都市に課せられた大きなテーマは、「今・ここ」の確かさではなかったか。しかし、情報化社会の出現と共にこれが急速に希薄になりつつある。今問題にすべきは、失われつつある「今・ここ」が生命を持つためにはどのようにすれば良いのかということだ。つまり、現在を起点に、時間と空間の幅を広く捉えること、それが建築や都市に課せられた大きなテーマなのではないか。([2]113ページ)
近年、建築が育んできた文化は、あまりにも一足飛びに未来を志向しすぎてはいまいか。そこには、その未来に至る持続的な時間が消去されている。どこかの時点で、建築は「待つ」ことを辞めたのである。([2]114ページ)
「待つ」という行為を通して、人は広がりのある「今・ここ」を引き出すことが出来る。([2]113ページ)
「待つ」ためには、未来を想起し、そこから現在を逆照射する逆立ちしたような意識が必要だ。「待つ」ことは建築にふたたび持続的な時間概念を導き入れることである。おそらく、「待つ」ことを想起することは、建築に新たな質をもたらすはずだ。([2]115ページ)
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02/「塑する」ことと「繋ぐ」こと
―佐藤卓(グラフィックデザイナー)から学ぶ―
デザインの本質は、物や事をカッコよく飾る付加価値ではありません。あわゆる物や事の真の価値を、あらゆる人間の暮しへと繋ぐ「水のような」ものなのです。(「帯」)
〇筆者の手もとに、日本を代表するグラフィックデザイナーの一人である佐藤卓(さとう・たく)が書いた『塑する思考』(新潮社、2017年7月。以下[1])がある。[1]は、デザインのノウハウ本ではない。佐藤がデザインに関する「仕事」を高く積み上げ、それを深く掘り下げることによって体得した「思考」について論じたものである。その際の重要なキーワードは「塑(そ)する」である。また、注目したいキーワードに「繋(つな)ぐ」がある。[1]はつまりは、人間の「生き方」すなわち「哲学」の書である(筆者にとって「塑する」とは馴染みのない言葉である。連想するのは「粘土・彫塑」「木材・彫刻」といった程度である)。
〇佐藤はいう。「人の営みの中で、デザインが一切関わっていない物(モノ)や事(コト)など一つもない。政治、経済から医療、福祉、衣食住、教育、科学、技術、エネルギー、社会活動、等々まで、どんな分野のどんな物事にも、すでにデザインがある」(74ページ)。「人がなし得る全ての企てには、計画的であるか否かにかかわらず、必ずデザインが及んでいる」(75ページ)。「デザインは全ての人間の営為を成り立たせるために必要なもの」(77ページ)である。本稿では、佐藤のこのような視点を首肯したうえで、留意したい言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。
「人の営み」とデザイン
デザインは日常ありとあらゆるところに隠れている。意識化されるデザインなど、そのごく一部にすぎず、ほとんどのデザインに対して我々は無意識である。(8~9ページ)
どんな技術にせよ情報にせよ、人に届けるためには何かしらのデザインを必ず経なければならない。これは、それぞれの人の思想や好き嫌いの問題ではなく、人が人として生きていく上でどうしても避けられない事実である。(9ページ)
「弾性」と「塑性」
「柔(じゅう)よく剛(ごう)を制(せい)す」という言葉がある。しなやかな柔軟さが一見強そうな堅さを結果的には負(ま)かしてしまうものだ、を意味する。この「柔」という言葉は、さらに「弾性(だんせい)」と「塑性(そせい)」の二つの性質に分けられる。(47ページ)
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弾性とは、例えば釣り竿のように、外部から力が加わって形を変えても、その力がなくなれば元の形に戻ろうとする性質である。塑性とは、例えば粘土のように、外部からの力で凹(へこ)むと、そのままの形を保つ性質である。それは、加わった力次第でそのつど形状を変化させる。(47ページ)
「自分らしさ」と「ありのまま」
人生訓上の「柔」は、これまでは「弾性」をイメージして語られてきた。いかなることに当っても自分を見失うな、常に自分の形を忘れず、自分に戻れ、といった具合にである。(48ページ)
これに対して「塑性」は、自分の形などどうでもよく、そのつど変化してもかまわないのだ、となる。しかし、そもそも自分とは何か、自己意識はどこから来て、なぜ自分は今ここに存在するのか。人生のそんな基本についてまるで分かっていない自分に、どんな形があるものなのか。自分を分かっていない自分が、自分の形をどう決めるというのか。何を考えているにしても、すでに考えている自分が存在するのだから、「自分らしさ」を気にかける必要はなく、そのつど与えられた環境で適切に対応している自分のままがいいのではないか。(48~49ページ)
自分のままであるかどうか(自分を強く意識していないかどうか)を自覚するためには、折あるごとに自分を疑ってみなければならない。何かよい案を思いついても、その直後に、これは第三者にもちゃんと伝わるのだろうか、と自分を疑ってみる。(51ページ)
「やるべきこと」と「やりたいこと」
塑性的であるとは、社会の流れにただ身を委(ゆだ)ねることでも、無闇(むやみ)に付和雷同することでも、ましてや世の中に媚(こ)びて流行を追うことでもなく、置かれた状況を極力客観的に受け止め、適切に対応できる状態に自分をしておくことである。それは、世の中に流されない冷静な判断の下、自分が今なるべきものになる、「やるべきこと」をやる姿勢である。塑性的であれば、やるべきことが、まさに「やりたいこと」になる、と言い換えてもいい。(60ページ)
「表現」と「個性」
デザインの仕事では、とかく個性的な表現を求められる傾向がある。そこで、自分らしさとは何かと考えざるを得なくなる。(49ページ)
本来、個性は誰にでもあって、個性のない人など、この世に存在しない。表現以前の思考の段階がすでに充分個性的なので、個性は、それと意識していない状態のほうがむしろ出やすいのではないか。(54ページ)
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なすべきこと(「やるべきこと」)についてできるだけ客観的に思考し、見極めるところに、その人ならではの個性が出る。一般には、目に見える表現に個性があるとされがちであるが、それは違う。表現以前のその人その人の思考、ひいては生き方や思想に個性は確実に潜んでいる。(54ページ)
「発想」と「繋ぐ」
未知の事象が突如現れたかのように、「無」から何かを発想するなど、絶対にあり得ない。必ず「それ以前」が存在する。つまり発想とは、ある目的のために今まで繋がっていなかった事物同士を繋げる試みであり、自分が「無」から純粋に生み出すのではけっしてない。すでにあるのに気がつかずにいた関係を発見して繋ぐ営為が、発想である。(55ページ)
「仕事」と「塑性」
全ての仕事は「これから」のためにある。将来のために、今、何をしておくべきかを考え、事を為すことである。(168ページ)
あらゆる仕事という仕事の基本は、「間に入って繋ぐこと」である。(57ページ)
何かと何かの間に入って両者を繋ごうとすると、当然、繋ぎ方はそのつど異なる。臨機応変な繋ぎ方を可能にするため、一定の形を持たずにおく、それこそが塑性による「柔」の姿勢である。自分の形を持っていると、帰巣本能のようにそこに帰っておけば安心であり、その形が自分が社会的に認知される効力にもなる。(58ページ)
しかしながら、一つの自分の形を持ってしまえば、それ以外のあまたの可能性を狭めるのだと知っておくべきである。(58ページ)
「感性」と「仕事」
デザインは「感性の仕事だ」と言われる。それは、感性は特別な人にしか備わっていないといったニュアンスさえ感じられる。(62ページ)
そもそも感性とは何なのか。それが外部からの刺激、あるいは情報を感受する能力だとするなら、周囲の環境から何らかを感じ取る力に差はあれど、感性がまったくない人などいるわけがない。(62ページ)
誰にでもふつうに備わっている感性をさらに活かす能力、すなわち感じ取った内容を世の中に役立つなにものかに変換していく能力を技術として身につけているのがデザイナーの本分である。(64ページ)
感性が必要ない仕事などあり得ないのだし、感性を持たない人などいない。感性を活かすための技術が、それぞれの仕事でそれぞれに必要なのである。その技術とは、聞き・話し・見せるコミュニケーション能力であり、発想する能力であり、具体的な形にする能力である。(65ページ)。
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「ほどよい関係」とデザイン
昔から普段よく言われてきた「ほどほど」や「いい塩梅(あんばい)」などの言葉が、実は日本人が忘れてはならない大切な感性をしかと伝えている。(115ページ)
度が過ぎない、ほどのよいところを見極める(「ほどほどを極める」114ページ)、そこにこそ、デザインを考える、ひいては人の営為を考える上での大切なヒントがある。(258ページ)
秩序と無秩序、国と国民、伝統と現代、人と人、人と物事‥‥‥。それらのほどよい関係を見つけるためにこそ、人の営みにはデザインがあり続けるのである。(259ページ)
〇以上から、本稿の冒頭に記した本書の「帯」の一節に注釈を加えるとすれば、次のようになろうか。すなわち、デザインの本質は、物や事をカッコよく飾るために外から価値を付け足すこと(「付加価値」)ではない。あらゆる物や事がもともと持っている真の価値を見出し、その価値をあらゆる人間の暮しへと繋ぐ、われわれが生きる上でなくてはならない(「水のような」)ものである。デザインの本質は自己表現ではなく、何かと何かを「繋ぐ」ことである。デザイナーの仕事は、あらゆる物事を社会や不特定多数の人の間に入って、ほどよく繋ぐことであり、装飾を施す(デザインする)ことが目的ではない。
〇ここで、山崎亮の「コミュニティデザイン」(community design)の言説を思い出す。山崎によると、コミュニティデザインとは、地域コミュニティの課題をその地域の人たちが自ら解決できるよう、「場」や「しくみ」をデザインすることである。コミュニティデザイナーの仕事は、住民主体の内発的な「まちづくり」すなわちコミュニティデザインを進めるために、人と人を結びつけ、なさすぎでも、ありすぎでもない「いいあんばいのつながり」(山崎亮『コミュニティデザインの時代』中央公論新社、2012年9月、10~11ページ))をデザインすることである。佐藤の言説と通底するところである。
〇佐藤は、「(政治・経済や医療・福祉、科学・芸術など全ての)人の営みの中でデザインと関わりのない物事は何ひとつないのだとすれば、必然的にデザイン教育へと意識が向かう」(216ページ)。「デザインは、我々を取り巻く地球環境を人の営みと共に気づかい(気づいて思いやる)考えることでもある」(220ページ)、という。そこで、デザインマインドを育む「デザイン」の授業を、「英語の早期導入や道徳の成績評価化の前に、むしろ国語・算数・理科・社会・体育・デザイン」として一日も早く、小学校低学年から始めてはどうか、と提案する(220ページ)。
〇また、山崎もいう。「これからの地域福祉に必要な知恵を、『わたしたち』は、どこで学ぶのか。現場で学べばいい。地域の活動に参加して、人と人とのつながりのなかで体験し、発見し、感動し、共感しながら知恵を会得(えとく)することに勝る教育はない。その生き方(Life)こそが、21世紀を生きていく『わたしたち』にとって最高の財産(Wealth)になるであろう」(山崎亮『縮充する日本』PHP研究所、2016年11月、355ページ)。
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佐藤と山崎のこの言説については、「まちづくりと市民福祉教育」について探究する筆者にとって、同感(首肯)するところである。
〇佐藤にあっては、「ある課題を深く掘り下げて行くために、場合によっては一定の枠(=形)をあらかじめ決めて(=持って)おく必要があることまで否定するつもりはない」(61ページ)。そう言いながらも、弾性的に自分の形あるいはスタイルを持つことには否定的である。「一つの自分の形を持ってしまえば、それ以外のあまたの可能性を狭める」、と佐藤はいう。
〇この点を「まちづくりと市民福祉教育」の実践・研究に引きつけて言えば、その実践・研究をめぐる状況や課題は、歴史的・社会的に形成され変質する。その点を認識したうえで、「まちづくりと市民福祉教育」の科学的・体系的で学際的な深化・発展を期するためには、独自(固有)の視点や枠組み、アプローチの仕方や分析方法、言語体系や記述方法などを設定・構築することが必要かつ重要となる。とは言え、すべての実践家(学術的実践家)や研究者(実践的研究者)が同一の実践・研究方法による必要はない。それぞれの形あるいはスタイルを持つ実践・研究の成果を、「共働」の視点に立って、如何に融合化・統合化するかが重要となる。それによってはじめて、「まちづくりと市民福祉教育」の総体としての推進が図られることになる。
注
①「福祉教育」に固有の実践・研究方法はすでに成立・存在しているか、ということをめぐっては、例えば、日本福祉教育・ボランティア学習学会編『福祉教育・ボランティア学習の新機軸-学際性と変革性―』大学図書出版、2014年10月、から読み解くこともできよう。筆者は、福祉教育実践の理論化・体系化は言われるほどには進んでいないと思っている。ここ10年近くは、「先進的」「独創的」と評される実践事例の単なるモデル化や定型化による「福祉教育プログラム」の研究開発が進められてきた。そのうえに、いま、政府主導による形式的で画一的な、財源の裏付けを欠いた、理念や理想としての「地域共生社会」づくりが強調(強制)されている。気にかかるところである。言うまでもなく、地域づくり(まちづくり)を推進するためには、そのノウハウやヒト、モノ、カネが必要である。
また、「地域共生社会」については、原田正樹の次の指摘に留意したい。「これまで『総論賛成・各論反対』と言われてきたが、7・26(相模原殺傷)事件はこの『総論』でさえも全否定し、共生社会を実現していくことの難しさを思い知らされた」(原田正樹「7・26(相模原殺傷)事件を考える-事件が問いかける意味とは-」『ふくしと教育』第22号、大学図書出版、2017年2月、13ページ)。改めて、いま、福祉教育の理論的・実証的研究のあり方が厳しく問われている。
②「ふくし」の意味することについて、原田正樹は次のように述べている。「共生文化を創出していくことができる力のことを『共に生きる力』という。これが福祉
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教育の目標である。/そしてそのことを子ども達にもわかるように、福祉教育実践の先人たちは、福祉を『ふだんのくらしのしあわせ』として、メッセージを込めた。/『ふくし』の主体は、私自身である」(逗子市社協 福祉教育チーム企画・編集『みんなが「ともに生きる」福祉教育の12年~逗子での12年の実績を踏まえて~』逗子市社協、2015年8月、101ページ)。
なお、筆者が平仮名の「ふくし」(ふだんの・くらしの・しあわせ)という言葉を使い始めたのは、1990年代中頃から2000年前後にかけての時期であろうか。その直接的なきっかけは、茨城県社協主催の福祉教育セミナー(1994年2月、1998年1月、2000年1月、2001年1月)に参加したことにあるが、そこで修得したのは「ふくし」=「普通の・暮らしの・幸せ」であった。
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03/福祉文化活動を通した「ゆるやかな絆」
―今中博之(ソーシャルデザイナー)から学ぶ―
〇筆者の手もとに、今中博之(いまなか・ひろし、社会福祉法人素王会理事長/アトリエ インカーブ クリエイティブディレクター)の新刊本が2冊ある。(1)『かっこいい福祉』(村木厚子との共著、左右社、2019年8月。以下[1])、(2)『共感を超える市場―つながりすぎない社会福祉とアート―』(アトリエ インカーブ編著、ビブリオ インカーブ、2019年9月。以下[2])がそれである。[1]は、今中と村木厚子(元厚生労働事務次官)の対談本である。「自力と他力」「内閉と開放」「市場と制度」などの二項対立的なキーワードを通して、「福祉は何故、低くみられるのか」「福祉をかっこいい業界にするにはどうすべきか」を語り合う(「帯」)。[2]は、今中と松井彰彦(東京大学大学院教授)の講演と対談を中心に編んだものである。そこでは、「共感を求めすぎないこと」「閉じながら“ときどき”開くこと」の重要性を説きながら、「市場×福祉」について論じ合う。
〇[1]における言説のひとつの要点をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。
文化の市場性と福祉文化
私は、社会福祉学者の一番ヶ瀬康子氏がいう「福祉の文化化と文化の福祉化」を実践する母体としてアトリエ インカーブ(デザイン事務所)を位置づけています。彼女はそれを「福祉文化」という概念で表現しました。生活の質が問われて久しい昨今、「社会福祉の究極の目的が、自己実現への援助であり、その在り方を追求していくことであるという視点にたつならば、文化をふくみ得ない社会福祉はあり得ないといっても過言ではない」と主張します。私も同感です。ただ、文化の「市場性」については、これまであまり議論が進んでこなかった。今後の課題は、市場性を意識した福祉文化をつくっていくことです。(20ページ)
越せない溝と「かっこいい福祉」
私にとって「かっこいい」とは、クールやスマートではなく、わかりあえないと認めることだったように思います。認めるためには、たくさんの時間が必要です。私の優しさとあなたの優しさは違うってことや、私の怒りとあなたの怒りも違うってこと。共感ができなくても理解できるまで話す、聞く。ながい時間のなかでわかりあえないことがわかるようになってきます。そうして紡がれた幸せを「かっこいい福祉」、その企てを「かっこいい社会福祉」というのだと思います。(197~198ページ)
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〇[2]における言説のひとつの要点をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。
障がい者の芸術文化活動と「市場の力」
好きな人がいれば手を組めばいいし、嫌いな人なら手を切ればいい。選択肢の多い市場では「差別をしない取引」が可能です。つまり、市場の中には社会的に弱い人だから差別をするという行動規範は薄いのです。ゆえに、しがらみも少ない。だからこそ市場は、国を超えて人と人をつなげていくのです。/問題は、どの程度の市場化(開き方)をするかです。共感的消費者だけにアプローチしていては、広がりません。狭くて逃げ場所のないコミュニティは差別がはびこります。かといって、つながりすぎ、共感を求めすぎては、綻(ほころ)びが出てきます。身の丈にあったいい塩梅(あんばい)。そこがポイントです。/近江商人の理念である「三方よし」(売り手良し、買い手良し、世間良し)の場合のみ取引をすることです。(203~204ページ)
アートを通じた自己実現と相互実現
インカーブでは、社会福祉事業として障がい者の芸術文化活動を進めていくために「閉じながら“ときどき”開く」ことを心がけてきました。(中略)インカーブの事業の目的は、知的に障がいのあるアーティストの日常が作品制作を通して平安であることです。/アートの商業的価値を慮(おもんぱか)ることは、共感を超える市場につながります。その実現のためには、つながりすぎないこと、共感を求め過ぎないことではないでしょうか。(205ページ)
〇以上のメモに関して、若干付言しておきたい。先ず、「市場」についてである。市場は、需要者と供給者が出会い、契約と取引が行われ場である。松井の言によれば、「いろんな人が集まって、一定のルールのもとにお互いにプラスになるように取引する場である」([2]88ページ)。当然、そこでの人間関係は対等である。市場では、この対等な「契約関係」とともに、人と人との「信頼関係」も必要かつ重要となる。信頼関係は、相手との対等な関係を築くための人間関係であるが、それゆえに「倫理性」(「一定のルール」)が要求される。今日の市場経済社会では、契約関係だけでなく、それ以上に信頼関係が重要となる。この点を含意するのが、今中がいう「好きな人がいれば手を組めばいいし、嫌いな人なら手を切ればいい」という言説であろう。しかし、簡単に「嫌いな人なら手を切ればいい」とはいえないのも人間社会である。そこで求められるのは、「仲間をつくる営為であり、(たとえ嫌いであっても・嫌いになっても)仲間外れにしないという行動」である。それを「福祉」と呼んでいい。
〇次に、「共感的消費者」についてである。共感的消費者とは、商品の品質ではなく、「障がい者がつくった」という商品の背景に思い入れをもって購入する人たち
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をいう(神谷梢[2]6ページ)。「社会福祉の事業者は、『共感的消費者』にアプローチしてきた。ただ、その範囲はとても狭く、見慣れた仲間うちに限られている。共感的消費者だけに依存し続ければ、マーケットは永遠に広がることはない。これが社会福祉の市場化の限界点である」([2]200ページ)と今中はいう。周知の通り、消費には「機能的消費」「記号的消費」「共感的消費」の三つの形態がある。ブランドネームなどの付加価値を消費する記号的消費ではなく、その商品の機能や効用を消費する機能的消費と、その商品への“こだわり”や“想い”に共感して消費する共感的消費が肝要である(ちなみに筆者が運転する車は、単なる移動の手段として考える大衆車であり、絶滅危惧種のマニュアル車、しかも走行距離は15万キロを優に超えている)。
〇いまひとつは、「福祉文化」についてである。前述の一番ヶ瀬がいう「福祉の文化化」に関していえば、それは、社会福祉それ自体をいかに質・量ともに豊かな、文化的なものにしていくか、文化の香りのするグレードの高いものにしていくかということを意味する。そこから、福祉文化とは、日常生活の量的拡大と質的充実を図り、人びとの健康で快適な生活と情感の安定を保証する生活の質としての文化であるといえる。別言すれば、人びとの日常生活に心の潤いや安らぎ(内面的豊かさ)、社会的・経済的・文化的豊かさなどの「平安」をもたらす文化である。そういう福祉文化を創造するためには、人と人との“であい”“ふれあい”“ささえあい”が必要かつ重要となる。
〇こうした「福祉の文化化」をより確かなものにするためには、福祉政策や行政の文化化を図ることが肝要となる。「福祉政策・行政の文化化」のねらいは、住民の参加と合意形成のもとに、障がい者などを含めたすべての住民の主体的・自律的な文化活動の推進を図り、すべての住民が文化を享受し創造するための条件整備や環境醸成をおこなうことにある。
〇「文化の福祉化」に関していえば、文化は人びとの日常的な生活行為のなかに現れ、創られるものである。そこから、障がい者などを含めた、生活主体としてのすべての人が、文化の創造主体であり、活動主体であるといえる。しかし、例えば、芸術文化についていえば、今日においてもまだ、一定の条件に恵まれた一部の人だけのものであるとか、特定の場所や機会にふれるものであるという認識が強い。こうした芸術文化状況の偏りを是正し、とりわけ芸術文化の貧困のもとに置かれてきた障がい者などに対しては、芸術文化を享受する機会の確保・拡充や芸術文化活動(創作活動)への主体的参加を促す環境醸成を図ることが肝要となる。
〇アトリエ インカーブでは、創作活動と日常生活が共存している。作品制作を通して平安(福祉)を追求している。それはまさに「福祉文化」である。その実践は、荒廃したいまの日本社会を変革し、新たな地平を開く視点や力を生み出している。
〇本稿のタイトルに使った「ゆるやかな絆」は、大江健三郎(文)・大江ゆかり(画)の『ゆるやかな絆』(講談社、1996年4月)による。それは、[1]と[2]を
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読むなかで思い至ったものである。ただし、記号的消費(使用)ではない。
〇なお、「ゆるやかな絆」をめぐって大江は、次のように述べている。僕らは「ゆるやかで、人を束縛するところは少しもなく、その両端にいる同士はお互いにひそかな敬愛の心を抱いているが、それを口にしないまま時が流れて行き、……というような、真の家族についての感情教育」を受けていたのである(講談社文庫、1999年9月、111ページ)。
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04/「自分と世界について考える」ということ
―池田晶子(哲学者)から学ぶ―
・編みものは、スーッとほどいてまた一本の糸に戻すことができます。そして同じ材料でまったく違う形、異なる用途のものを編み上げることができます。社会はなかなかそうはいきませんが、思いきって一本の糸にし、もう一度ていねいに編み直しましょうと提案したいと思います。(中村桂子編『編む』5ページ)
・池田晶子さんが、大人は子供に社会を教えようとするけれど、子供が本当に知りたいのは社会ではなく世界だと書いていらして、なるほどと思いました。/基礎に世界観がないと、社会はめちゃくちゃになるでしょう。(『同上書』52、53ページ)
・ていねいに編んで/できあがった世界を/ゆっくりとほぐすと/幸せがのぞく。(『同上書』270ページ)
〇筆者は中村桂子編『編む』(JT生命誌研究館、2012年3月)を読んだ。中村桂子(なかむら・けいこ)は、「生命誌」の提唱者であり、大阪府高槻市にあるJT生命誌研究館の館長を務めている。「生命誌」(Biohistory)は、人間も含めたさまざまな「生きもの」(生命)の38億年の歴史を知り、「生きもの」の世界がもつ「つながり」や「広がり」、すなわち「生きもの」の発生・進化・生態系を探究する。そして、一人ひとりが幸せに生きる、心豊かな人間社会をいかに作っていくかを考える(JT生命誌研究館ホームページ参照)。その学問の基本には、自然(宇宙・地球・生命)はすべて生成する(生れ出る)ものであると捉える「生命論的世界観」がある。
〇『編む』では、生命誌の中心的なテーマである「生命・人間・自然・科学技術の間の関係」をめぐる研究報告がなされている。「生きもの」の細胞や遺伝子などのミクロの世界の話は、筆者にとってはちんぷんかんぷんであり、字面を追うのがやっとであった。ただ、興味をそそられるものもあった。たとえば、江戸時代の花鳥画や動物画について解読研究する今橋理子(いまはし・りこ、美術史学)の話や、ウナギの産卵地を突き止めた塚本勝巳(つかもと・かつみ、海洋生物学)の話、そして研究者の生い立ちや研究の足跡、解明するための思考や実験の話などがそれである。
〇そんななかで、冒頭の文章やフレーズ、とりわけ「池田晶子」の名前に目が留まった。そこで、久しぶりに池田の著書『14歳からの哲学―考えるための教科書―』(トランスビュー、2003年3月。以下[1])を読み返すことにした。池田晶子(いけだ・あきこ)は、日本語による「哲学エッセイ」を確立したと評される、稀有(けう)な自称文筆家である。『14歳からの哲学』は、長年にわたり、年代を超えて読み継がれている池田の代表作である。なお、池田は、2007年2月に46歳の若さで亡くなっている。
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〇[1]は、哲学の歴史や哲学者の考えを紹介・解説するものではない。「14歳以後、一度は考えておかなければならないこと」(「帯」)として、「考える」「言葉」「自分とは誰か」などの30のテーマについて、哲学の専門用語を使わず、平易な文章で読者に語りかけ・問いかける。本稿では、次の3つのテーマについてメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。
目に見えない「社会」は観念であり、観念が変わらなければ現実社会は変わらない
目に見えないのに存在するもの、それは思いや考えである。思いや考えのことを、ここではまとめて「観念」と呼ぶことにしよう。(82ページ)
「社会」というのは、明らかにひとつの「観念」であって、決して物のように自分の外に存在している何かじゃない。「社会」は、観念として、自分や皆の「内に」存在しているものなんだ。(82ページ)
社会を変えようとする場合、先ず自分が変わるべきなんだ。社会は、それぞれの人の内の観念なのだから、現実を作っている観念が変わらなければ現実は変わらないんだ。(83ページ)
世のすべては人々の観念が作り出しているもの、その意味では、すべては幻想と言っていい。社会がそうなら、国家というものもそうなんだ。人は、「日本」という国家が、外の物のように存在していると思って、それが観念であるということを忘れて、その観念のために命を賭(か)けて戦争したりする。観念のために命を捨てるなんて芸当ができるのは、生物のうちでも人間だけだ。これはとても不思議なことだ。(83、84ページ)
「社会」というのは、複数の人の集まりという単純な定義以上のものではない。それ以上の意味は、人の作り出した観念だということだ。複数の人が集まれば、複数の観念が集まり、混合し、競い合って、その中で最も支配的な観念、つまり最も多くの人がそう思い込む観念が、その集団を支配することになる。これが言わば「時代」というものだけれど、これも人々が自分で作り出している観念であることに変わりはない。「社会の動き」とは、つまり「観念の動き」であると見る習慣を身につけよう。(84ページ)
「自分」を愛するということがそのまま、「世界」を愛するということである
自分であるところのもともとの自分は、ただ自分であるということ。ただ自分であるということは、他人がいるから自分であるのではなく、他人がいてもいなくても、他人がいるかいないかに関係なく、その自分としてあるということだ。他人の存在は、自分が自分であると気づくためのきっかけにすぎない。自分の存在は他人の存在に依(よ)ってはいないのだから、その意味で、自分というのは絶対的な存在なんだ。(66ページ)
「世界」つまりすべてのことは、自分の存在に依っている。自分が存在しなければ、世界は存在しないんだ。自分が存在するということが、世界が存在するということなんだ。世界が存在するから自分が存在するんじゃない。世界は、それを見
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て、それを考えている自分において存在しているんだ。つまり、自分が、世界なんだ。(67ページ)
嫌いな人、イヤな人は、ああ、そういう人なんだな、丸ごと認めて受け容れてあげるんだね。むろん大変なことだよ。でも、それが自分のためなんだ。それができなければ、君が自分を本当に愛することはできない。自分を愛していない人生を生きるというのは、とても苦しいものだ。だって、嫌いな人からは離れればいいけど、誰が自分から離れることができるだろう。嫌いな自分と四六時中一緒にいるなんてことが、苦しくないわけがないじゃないか。(104ページ)
自分とは世界なのだ。だから、自分を愛するということが、そのまま、世界を愛するということなんだ。だから、もしも君が世のため人のために何かをしたいと願うのなら、一番最初にしなければならないことは何か、もうわかるはずだ。(104ページ)
「思う」ことではなく、「考える」ことこそが全世界を計る正しい定規になる
わからなくて不思議なことを、それが本当のことなのかどうかを知ろうとして、人は「考える」といことを始めるんだ。「考える」は、それまでの、ただなんとなく「思う」ということとは全然違うことなんだ。(8~9ページ)
考えるというのは、それがどういうことなのかを考えるということであって、それをどうすればいいのかを悩むってことじゃない。(9ページ)
自分が思っていることが、ただ自分がそう思っているだけではなく、本当に正しいことなのかどうかを知るためには、考えるということをしなければならないんだ。「本当にそう思う」ということと、「本当にそうである」ということとは、違うことだ。(14、15ページ)
人は、「考える」、「自分が思う」とはどういうことかと「考える」ことによって、正しい定規(尺度、基準)を手に入れることができるんだ。自分ひとりだけの正しい定規ではなくて、誰にとっても正しい定規、たったひとつの正しい定規だ。(16ページ)
その定規は、君が、考えれば、必ず見つかるんだ。正しい定規はどこだろうってあれこれ探して回っているうちは、それは見つからない。考えることこそが、全世界を計る正しい定規になるのだとわかった時に、君は自由に考え始めることになるんだ。(17ページ)
考えるということは、答えを求めるということじゃないんだ。考えるということは、答えがないということを知って、人が問いそのものと化すということなんだ。謎が謎として存在するから、人は考える、考え続けることになるんだ。(196、197ページ)
〇以上のポイントは、「社会は観念として、自分の内に存在している」(82ページ)。「自分が世界であり、世界(すべてのこと)は自分において存在している」(67ページ)。「自分は自分でしかないことによってすべてである(絶対的存在)」(68ページ)。「自分を愛するということがそのまま、世界を愛するという
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ことである」(104ページ)。「本当に生きるということは、わからないことをわからないと思わないで、誰にとっても正しいことを、考える・考え続けるということである」(23ページ)、となろうか。これらは、「市民福祉教育」にも通底する基本的視点でもある。留意したい。
〇ところで、福祉教育の世界で多用される言葉のひとつに、「共生」「共に生きる」がある。ここで、「生」とともに、「死」に関しても一言しておくことにする。
〇山折哲雄(やまおり・てつお。宗教学)は、柳美里(ゆう・みり。小説家)との対談本である『沈黙の作法』(河出書房新社、2019年6月)のなかで、「死生観」について次のように述べている。「死生観」という言葉は、「死」が「生」の前にある。「死生観」という言葉の背後には、死を覚悟して生きる、死ぬことが即ち生きることであるという思想が控えている(32ページ)。柳が著書『自殺』で言うように、死を忌避(きひ)するのではなく、人生のなかに明確に位置づけることが大きな意味を持つ⦅「死を忌(い)み嫌うのではなく、生の中に死が潜(ひそ)んでいるということを意識することが大事なのである」(65ページ)⦆(33ページ)、と。
〇さらに付言すれば、山折は、著書『わたしが死について語るなら』(ポプラ社、2010年3月)のなかでこう述べている。「『共に生きる』という口当たりのよい言葉だけ掲げて、『共に死ぬ』ということはほとんど言わない」。「すべての人間がひとりで死ぬ運命の中に投げ出されている。だから『共に死ぬ』ということになる。『共に死ぬ』すなわち『共死』とはそういう意味なのである」(54ページ)。山折にあっては、「共生」は「共死」である。
〇また、柳は、著書『自殺』(文藝春秋、1999年12月)のなかでこう述べている。「自分とは何かと考察するとき、死はその入口であり、また出口である」(121ページ)。「生が死を内包しているという事実を、意識のレベルにまで高めることによって、死を自分のものにできるのではないか」(173ページ)。柳にあっては、「死はひとの内部で生と共存」(188ページ)している。いま求められているのは、殺人や交通事故、天災などによる「外部」の力によってもたらされる死ではなく、「死を人間の内側から捉え直す思想」(186ページ)である。
〇山折と柳の考えとともに、池田が著書『人間自身―考えることに終わりなく―』(新潮社、2007年4月)と『人生は愉快だ』(毎日新聞社、2008年11月)のなかで説く「死」についてメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。
生死は平等であり、人は生まれたから死ぬのである
多くの人は、生死を現象でしか捉えていない。死に方のあれこれをもって死だと思い、本意だ不本意だ、気の毒だ立派だと騒いでいる。しかしいかなる死に方であれ、「死に方」は死ではない。現象は本質ではない。本質とは、「死」そのもの、これの何であるか。これを考えて知るのでなければ、まともに生きることすらでき
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ないではないか。(『人間自身』26ページ)
生死の本質は、年齢も経験も現在の状況も関係ない。生死することにおいて、人は完全に平等である。すなわち、生きている者は必ず死ぬ。(『同上書』26ページ)
癌(がん)だから死ぬのではない。生まれたから死ぬのである。すべての人間の死因は、生まれたことである。(『同上書』26ページ)
自分の死はないのであり、死は向こうから来るものである
人が死を認識できるのは、他人の死を見る時だけです。自分が死んだ時は、自分はもういないのだから、自分が自分の死を知ることはできない。自分の死は、「ない」のです。多くの人が死をどうイメージしているかというと、「どうやら自分が無くなる」というものです。でも、自分がないことをどうやってイメージするのか。「無」というものを考えられたら、無ではなくなってしまうわけです。ないものは考えられない。死は、ないのです。(『人生は愉快だ』278ページ)
人はよく「死に方」と「死」を一緒にしてしまっている。死に方とは、ギリギリのところまで生の側にあります。どんな死に方をしても、死ぬまでは生きているわけですから。「死に方」は選べても、「死」は選べない。死は向こうから来るものです。(『同上書』278ページ)
〇なお、池田の著書のなかから「人生」「幸福」「愛と孤独」などの11のテーマを設定し、それに関する言葉のエッセンスを集めた本(名言集)がある。池田晶子著・NPO法人わたくし、つまりNobody編『幸福に死ぬための哲学―池田晶子の言葉―』(講談社、2015年2月)がそれである。「池田晶子の世界」のとば口(入口)であろうか。
補遺
池田晶子が著書『新・考えるヒント』(講談社、2004年2月)のなかで述べている「生きることと道徳」に関する一文を紹介しておくことにする(抜き書きと要約)。
先般、子供向けの哲学の教科書(『14歳からの哲学』)を書いた際、超越的根拠なしに道徳を教えることは不可能であることを、つくづくと思い知った。人に道徳を教えるとは、そもそもどういうことなのか。(210ページ)
自分とは何か、死とは、生とは、生命とは何かという問いの提起から説く起こし、最終的に、善悪、すなわち人生の意味を考えることへと導いたつもりである。もしそれが成功しているなら、人は、自分が自分であると思っているその自分が、いかに自明なものではないか、自分が自分であると思っているものの根拠は、実は自分にはないと、気がついてくれたはずである。道徳についての思索(しさく)は、こ
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の気づき、この不可解への気づきからしか始まらないのである。(211ページ)
いま現に生きているこの自分とは、いったい誰なのか、何なのか、この謎をまっすぐに考え詰めてゆく、あるいは強く感じようと努めてみるだけでも、問いの解がないと知ることによって、問いの向こうへと開かれるとでもいうべきか、ある種の永遠的感覚を自身として知る経験である。このとき超越的なものは内在的なものである。外在的教条など必要ないのである。(211~212ページ)
語られている言葉の背後にあるものは、誰が誰であり、何が何であると言うことができない、万物が照応(しょうおう)する混沌である。その混沌を混沌として認識し、これを畏怖(いふ)するところにこそ、道徳的感覚は発生するといってもいいだろう。(212~213ページ)
付記
本稿でとり上げた本の一覧である。
(1)中村桂子編『編む』JT生命誌研究館、2012年3月
(2)池田晶子著『14歳からの哲学―考えるための教科書―』トランスビュー、2003年3月
(3)山折哲雄・柳美里著『沈黙の作法』河出書房新社、2019年6月
(4)山折哲雄著『わたしが死について語るなら』ポプラ社、2010年3月
(5)柳美里著『自殺』(文春文庫)文藝春秋、1999年12月
(6)池田晶子著『人間自身―考えることに終わりなく―』新潮社、2007年4月
(7)池田晶子著『人生は愉快だ』毎日新聞社、2008年11月
(8)池田晶子著・NPO法人わたくし、つまりNobody編『幸福に死ぬための哲学―池田晶子の言葉―』講談社、2015年2月
(9)池田晶子著『新・考えるヒント』講談社、2004年2月
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05/「自然と人間の結び合い」としての日本的共同体
―内山節(哲学者)から学ぶ―
〇内山節(うちやま・たかし、哲学者)の『主権はどこにあるのか―変革の時代と「我らが世界」の共創』(農山漁村文化協会、2014年7月。以下[1])を読んだ。内山は[1]で、混沌と分裂の時代にあるこんにち、国家の運営に依存しない世界、多様性や多層性をもった結び合いの世界(「我らが世界」)をいかに創るかが問われている。その「主権」は、私や国家や地域にあるのではなく、「関係性のなかにある」、という。次の言説に留意しておきたい。
「国家か、地域か」を超えて「結び合い」のなかに生きる世界を創る
地方分権とか地域主権、地域づくりという言葉を使うときに、権限を国が持つのか地方が持つのかという議論がよく起きる。地方がもっと自主性を持ってやっていけるようにするのは大事だと思うが、国か地方かという発想自体がもう古いのではないか。
私は、国は信頼するに足らないものだということがこれからより明確になっていく時代だろうと思う。その国に依存していては駄目だが、国の対極にあるのは地域とか地方ではなくて、あくまで結び合いとしてのローカリズム、どういう結び合いのなかに我々の生きる世界を創るのかということである。それは地域としての結び合いもあるが、外部の人たちとの結び合いもある。結び合いがあるから地域も成り立っている。そういう形をこれからはつくっていかなければならない。国か地域かという二分法ではない。(41ページ)
主権は「私」にあるのではなく「関係性」のなかにある
「地域主権」という言葉は、この間「地方分権」とともにずいぶん使われてきたが、その主権はどこに存在するのか。(中略)
人間が主権者であるという欧米近代のとらえ方それ自体に欠陥があったのではないかという気がしている。(中略)
農業の場合も私に主権があるのではなく、自然との関係のなかに主権がある。あるいはいままでの歴史を積み上げてくれた先祖である死者たちとの関係のなかに主権があるし、消費者と結ばれていれば、そういう人たちとの関係のなかに主権がある。このように主権は実は関係のなかにあるのに、「主権は私にある」という何か大きな錯覚をしてしまったのではないか。
主権は結び合いのなかにある、あるいは関係性のなかにある。そういうとらえ方をしていく必要があるのではないかと思い始めている。本当の主権は私のところにはない、関係性のなかにある。関係の積み上がったものを風土と呼ぶならば、主権は風土のなかにあると言ってもよい。
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このように関係のなかにある主権を風土主権と呼んでもいいかもしれないし、ローカリズム主権という言い方をしてもいい。
かかわり合いが「我らが世界」を創っていく、そこに主権があるという展望を持ちながら、変革の時代を生きていきたい。(43~44ページ)
〇併せて、内山の『共同体の基礎理論―自然と人間の基層から』(農山漁村文化協会、2010年3月。以下[2])を読み返した。[2]では、マッキーヴァー(Robert Morrison MacIver、1982年~1970年)のコミュニティ論や大塚久雄(1907年~1996年)の『共同体の基礎理論―経済史総論講義案』(岩波書店、1955年7月)などとは異なり、伝統と風土に支えられた「共同体」論が展開されている。その特色のひとつは、内山自身の群馬県上野村での生活経験から、「自然と人間が結び、人間が共有世界をもって生きていた精神」(32ページ)に共同体の本質を見出していることにある。すなわち、日本の共同体の基盤や特徴は、「コミュニティとアソシエーション」(注①)や「エリア型コミュニティとテーマ型コミュニティ」などといった、共同体の「かたち」や「機能」にあるのではない。「自然と人間」「生と死」が一体化した関係性(「つながり」)のなかで、その時代を、その地域の人々といかにして「ともに生きる」かという「精神」こそにある、と内山は説いている。以下に、内山の重要な言説のいくつかを記しておくことにする。
共同体は小さな共同体が積み重なる「多層的共同体」である
地域共同体とは何なのであろうか。地域というひとつのものにすべてのメンバーが統合されていると考える地域共同体論は正しいのだろうか。(中略)
私は共同体は二重概念だと考えている。小さな共同体がたくさんある状態が、また共同体だということである。ひとつひとつの小さな共同体も共同体だし、それらが積み重なった状態がまた共同体だとでもいえばよいのだろうか。このような共同体を私は多層的共同体と名づける。共同体のなかに、小さな共同体が多層的に積み重なっている、多層的共同体とは、そんな共同体のことである。(76~77ページ)
共同体は人々がともに生きる「小宇宙」である
日本の共同体は自然と人間の共同体として、生の世界と死の世界を統合した共同体として、さらに自然信仰、神仏信仰と一体化された共同体として形成されていた。ここには進歩よりも永遠の循環を大事にする精神があり、合理的な理解よりも非合理的な諒解に納得する精神があった。人々は共同体とともに生きる個人であり、共同体にこそ自分たちの生きる「小宇宙」があると感じていた。(16ページ)
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共同体の基層には自然と人間が結ぶ「精神」がある
自然と人間が結び、人間が共有世界をもって生きていた精神が、共同体の古層には存在している。それが共同体の基層であり、この基層を土台にして時代に応じた、地域に応じた共同体のかたちがつくられる。ゆえに共同体が壊されていくというとき、その意味は、自然と人間が結び人間たちが共有世界を守りながら生きる精神が壊されていくことを意味するのである。(中略)共同体はその「かたち」に本質を求めるものではなく、その「精神」に本質をみいだす対象である。(32ページ)
共同体の「精神」の本質は「ともに生きる世界があると感じられること」である
私たちがつくれるものは小さな共同体である。その共同体のなかには強い結びつきをもっているものも、ゆるやかなものもあるだろう。明確な課題をもっているものも、結びつきを大事にしているだけのものもあっていい。その中身を問う必要はないし、生まれたり、壊れたりするものがあってもかまわない。ただしそれを共同体と呼ぶにはひとつの条件があることは確かである。それはそこに、ともに生きる世界があると感じられることだ。だから単なる利害の結びつきは共同体にはならない。群れてはいても、ともに生きようとは感じられない世界は共同体ではないだろう。
課題は、ここにともに生きる世界があると感じられる小さな共同体をいかに積み重ねていくか、なのである。それが積み上がっていけば、小さな共同体同士の連携もまた形成されていくだろう。ここに共同体があると感じられる時空も生まれていくだろう。
ひとつのものにすべてが結合されている状態という古い共同体のイメージは一掃されなければならない。それは歴史的にみても、適切な認識ではない。(168~169ページ)
〇筆者はこれまで、関東や東海、北陸のいくつかの自治体や社会福祉協議会において、福祉のまちづくりやそのための計画策定、その主体形成を図る福祉教育実践などに関わってきた。その際、必ずしも十分とはいえないものの、市町村レベルの共同体のみならず、そのなかの集落や地区といった地域共同体の自然をはじめ歴史や文化、伝統、慣習などにも関心を払ってきた。また、「地域福祉」の推進や「まち」の再生を図るためには、科学的根拠に基づく「制度」や「システム」の変革や創造のみならず、住民意識の醸成や改革などが必要かつ重要である、と考えてきた。この点に関して内山は、「システムを変えれば世のなかはよくなる」という発想ではなく、「生きる世界の再創造を通してシステムの変革を求める」という考え方が肝要である(166ページ)、という。すなわち、内山にあっては、共同体の基層には自然と人間が結ぶ「精神」がある。その「精神」は「ともに生きる」という意識であり、それがその共同体(地域や住民)のなかでどれだけ醸成され共有されているかが重要になる。その土壌(基盤)があってこそ、その共同体に合った、その共同体ならではのシステムの導入や変更が可能となる。そして、「生きる世界の再創造」が図られる。内山の言説から改めて再認識したことのひとつである(注②)。
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注
➀ 内山の共同体論と欧米の古典的なそれとの違いを知るために、テンニース(ドイツ)とマッキーヴァー(アメリカ)のコミュニティ論に関する内山の説述を紹介しておくことにする。
共同体についての古典的な本としては、テンニェス(F.Tönnies)の『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』(1887年)がある。ゲマインシャフトは一般に共同体と訳されることが多いが、地縁、血縁などで結ばれた有機体を指している。対してゲゼルシャフトは利害関係や目的意識などでつくられた人間の社会を意味しており、ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの移行が歴史の発展としてとらえられていた。それは近代形成過程の理論だったといってもよい。
このゲマインシャフトとゲゼルシャフトの関係をコミュニティとアソシエーションの関係として考察した、これも古典的な本に、マッキーヴァー(R.M.MacIver)の『コミュニティ』(1917年)がある。ただしテンニェスとマッキーヴァーとでは内容は大きく異なっている。マッキーヴァーにとってコミュニティとは共同的な生活が営まれている場であり、社会のあり方や文化などが共有されている結合体である。そしてその内部にはさまざまなアソシエーションが内包されている。アソシエーションはある目的を実現するための組織とでも述べておけばよいのだろうか。(78ページ)
マッキーヴァーのコミュニティのとらえ方は、コミュニティの内部に共同の関心を追求する組織体=アソシエーションが多様に存在しているというものである。テンニェスのようなゲマインシャフト(コミュニティ)からゲゼルシャフト(アソシエーション)へ、というような位置づけではない。とすると今日の日本でしばしば語られている「コミュニティが必要だ」という議論のなかで用いられている「コミュニティ」とは、むしろマッキーヴァーのいう「アソシエーション」の方であろう。なぜなら現在の日本で語られている「コミュニティ」は、人間たちの協力関係をつりくだすという関心にもとづいて進めようとしている活動であり、社会組織の模索だからである。(80ページ)
前述したように、内山にあっては、「共同体」とは「共有された世界をもっている結合であり、存在のあり方」をいう。共同体は、そのなかに小さな共同体を内包する「多層的共同体」である。「アソシエーション」を積み上げても、共同体は生まれない。理由のある組織を積み上げても、理由のある社会がつくられるだけである。内山はそれを共同体とは呼ばないのである(82~83ページ)。重ねて指摘しておきたい。
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② 本稿に関連する文献として、内山節『内山節のローカリズム原論―新しい共同体をデザインする』(農山漁村文化協会、2012年2月)も興味深い。
そこにおいて内山は、「ローカリズム」とは、「自分たちの生きている地域の関係を大事にし、つまり、そこに生きる人間たちとの関係を大事にし、そこの自然との関係を大事にしながら、グローバル化する市場経済に振り回されない生き方をするということ」(106ページ)である、と規定する。そして、内山は、「関係の網によって結ばれた世界」が「ローカルな世界」であり、そこにこそ人間たちの生きる基盤をつくらなければならない。このローカルな世界を「共同体」といってもよいし、「コミュニティ」として捉えてもかまわない、という(109ページ)。
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06/「対話」とその技術
―山口裕之(哲学研究者)から学ぶ―
〇筆者が最近読んだ本のなかで“面白い”と思ったものに、山口裕之(やまぐち・ひろゆき、徳島大学、哲学研究者)のそれがある。『コピペと言われないレポートの書き方教室―3つのステップ―』(新曜社、2013年7月。以下[1])、『「大学改革」という病―学問の自由・財産基盤・競争主義から検証する―』(明石書店、2017年7月。以下[2])、『人をつなぐ 対話の技術』(日本実業出版社、2016年4月。以下[3])、である。
〇[1]は、「レポート」を書くにあたって、「コピペ」と言われないためには具体的にどうすればよいのかを、「最重要ポイント」のみに絞って解説したものである。その根底には、学部学生らに「自分の意見を根拠づけて主張する力」を身につけてもらいたい、という願い(「思い」)がある。「おわりに―民主主義とレポート」(93~98ページ)は深く、読む意義は大きい。
〇[2]は、政財界主導で進められている「大学改革」(国家権力の過度の介入、学長トップダウン体制の構築、競争主義や成果主義の強化、研究予算の削減や組織の統廃合、等々)の単なる反対論ではない。いわんや「潰(つぶ)れる大学」「大学の生き残り策」といった類の「読み物」ではない。[2]は、大学改革における論点を整理し、あるべき姿を追求するための見取り図を提示する、総合的で本格的な「大学論」である。「教育は、消費者が欲するものを提供するサービスではなく、何を欲するべきかを考える力を与えるための営みである」(248ページ)。大学に求められる機能(大学の存在意義)は、民主主義的な市民社会を支えるために、「さまざまな問題について、その背景を知り、前提を疑い、合理的な解決を考察し、反対する立場の他人と意見のすり合わせや共有を行う能力」(148ページ)、「正しく考え、議論し、他人と意見を共有する技能」(221ページ)を育成する(習得させる)ことである。留意すべき言説である。
〇[3]は、そのタイトルから「マニュアル本」と思われるが、民主主義の思想や歴史、民主主義国家の形成やあり方などにも言及する学術書(「人文書」)である。そこでは、人々の対話を阻(はば)み、人々を分断させている日本社会の現状分析を通して、「対話による合意形成」の重要性が一貫して主張される。その論述に関して山口は自らを、「意地の悪い揚げ足取り」(159ページ)「へそ曲がり」(161ページ)などと言うが、そこに批判性やオリジナリティがあり、また[3]の魅力(“面白い”)のひとつがある。
〇本稿では、「まちづくりと市民福祉教育」にも通底する(使える)、[3]における山口の論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。
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対話のねらいは合意形成と妥当な結論の発見にある
対話は、立場や意見を異にする人と話しあい、互いに納得できる合意点を見つけることである。対話は、相手の立場を理解し、多面的な見方を知ることで、妥当な結論を出すための方法である。対話は、憶測や思いつきではなく、客観的な根拠にもとづいて進めなくてはならない。対話は、自分と相手を成長させ、人と人とをつなぎ、ひいては民主的な社会全体を支えるのである。(はじめに、263ページ)
民主主義の本質は対話であり多数決ではない
民主主義とは対話である。民主主義の本質は多数決でなく、すべての人が対等な立場で自分の意見を根拠づけて主張し、討議し、お互いに納得できる合意点を探るところにある。多数決は、合意を形成するための手段の一つに過ぎない。無造作な多数決は、「多数派の専制」とほとんど同義である。それは、少数者の権利を侵害することになる。民主主義は、共同体のメンバーの人権を保障するための制度である。(40、51、116ページ)
民主主義はすべての市民が賢くなることを要求する
民主主義を支える一般市民は、対話に先立ってあるいは対話の過程で、普段から自分の思考力を鍛えるべく、努力する必要がある。それは、一面的な感情にとらわれない、多面的なものの見方や論理的な思考(「人間の日常生活における論理的思考」「日常的思考」)である。民主主義とは、すべての市民が賢くならなければならないという、無茶苦茶を要求する制度である。大学やその他の教育機関は、その無茶苦茶を実現するために存在しているのである(47、117、146ページ)
一般意思は多数派の意思ではなく理性によるものである
「一般意思」とは、「多数派の意思」ではなく、「実際にメンバー全員が持っている意思」でさえない。それは、「論理的に考えて共同体を設立し維持するために必要な条件」であり、各人に理性(論理的思考力)があれば、メンバー全員がこれを意思するはずのもの(「論理的思考力がある人間なら誰しも納得するはずのもの」)である。その点で、「一般意思」は基本的人権と表裏一体であり、それをお互いに守ることが「一般意思」である。(65、67、107ページ)
権利は義務の対価ではなく義務を伴わない
基本的人権(自由権、平等権、社会権、参政権など)とは、人間が人間らしく生きていくために不可欠のものであり、義務を伴うものではない。「権利」(ライツ:rights)の対義語としての「義務」(デューティ:duty)は、「誰かから要求されたわけではなく、人として当然果たすべきこと」である。「ライツ・アンド・デューティズ」と言えば、「人間として当然要求できることと、人間として当然果たすべ
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きこと」という意味であり、「権利は義務の対価」という意味ではない。ライツとデューティは、表裏一体の「人間として当然のもの」である。人権とは、国家権力が課した「義務」(オブリゲーション:obligation)を果たしたことの対価として、国家権力から恵与されるものではない。(76、77、78ページ)
「人それぞれ」は対話を拒み連帯を妨げる
最近の風潮として、「人それぞれ」が蔓延(まんえん)している。「人それぞれ」という言葉は、相手(個性)を尊重するかのようであるが、他人の意見をよく聞かずに切り捨てる言葉である。それは、人々に対話を拒否させて合意形成をしない、人々の連帯を妨げるものであり、民主主義社会の根幹を掘り崩してしまいかねない。民主主義の理念とは、他人と協力することで、一人で生きていくよりも安全で快適に生きていくことである。そのために、自分たち自身で妥当なルールを決め、それを共有することである。(137、155、156ページ)
個性の尊重は微妙な差異の競い合いにすぎない
「個性重視」をめぐって、「みんなちがって、みんないい」(金子みすず:私と小鳥と鈴と)というフレーズや、「NO.1にならなくてもいい もともと特別なOnly one」(槇原敬之:世界に一つだけの花)という歌詞を見聞きする。多様性を尊重することは重要である。「個性」や「その人らしさ」は、個人の属性ではなく、個人間の関係性である。また、それは、成長する過程で、社会に流通している既存の価値観を選択することで形成されるものである。「もともと特別」などということはない。「個性」や「その人らしさ」は千差万別というよりは、社会的に許容可能な範囲内での変異に収まる。それゆえ、「個性」や「その人らしさ」の尊重とは、ある許された範囲内での微妙な差異の競い合いということになる。(162、163
ページ)
真の道徳教育は対話の教育である
現在、社会全体が「感情」や「思い」を尊重し、「心」を重視する方向に進んでいる。感情は個人的で、その人の立場に依存するものであり、誰しもが認める「正しさ」の根拠とはならない。共有できる「正しさ」は、感情ではなく、客観的な事実と合理的な予測にもとづいた対話によって作っていかなければならない。また、「思い」は、強いことが評価される傾向にあるが、強ければよいというわけではない。「何を思うか」のほうが大切である。そして、「心」が重視されるなかで、(内発的な動機が無視され)特定の徳目(道徳内容)を押しつけ、刷りこむ道徳教育が推進されている。徳目を覚えたからといって、その徳目を実践できるとは限ら
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ない。徳目の一方的な刷りこみそのものが、非道徳的である。道徳教育にとって重要なことは、「正しさ」(何が正しいことか)を判断する能力や技術を身につけることである。それは対話の能力であり、「対話の技術」である。(173、264、267、274ページ)
〇ところで、[3]で山口は、「ネットで一番ヒットするのは『普通の人』の意見」という見出しの一節で、次のように述べている。「ネットで情報発信するためには何の資格も学識もいらないので、ネット上のサイトや掲示板には、憶測や妄想にもとづくいい加減な記述があふれかえっている。パソコンの画面に表示されたからといって、それは権威あるものではなく、その辺の居酒屋での世間話や、個人の思いをつらねた日記などと同等の信用性しかないものが大部分なのである」(237~238ページ)。
〇また、社会学者の宮台真司(みやだい・しんじ)も、『まちづくりの哲学―都市計画が語らなかった「場所」と「世界」―』(ミネルヴァ書房、2016年6月)という本のなかで次のように述べている。 「ネットが同じ穴のムジナだけが集う<劣化空間>を提供する。<劣化空間>でつけあがる輩(やから)が、電子掲示板や、ブログのコメント欄や、ツイッターなどのSNSを、炎上させる。<劣化空間>は『馬鹿にとっては逃避先』であるが、『馬鹿でない人々にとっては真っ先にそこから逃げ出したい場所』である。ネット上では、見識の深い作家や批評家の発言と、劣化した人々の発言とが、等価になる。そうしたコミュニケーション空間では、見識の深い作家や批評家から順番に退却していく道理である」(51ページ、要約)。
〇筆者はこれまで、ブログ(「市民福祉教育研究所」)を通して、「まちづくりと市民福祉教育」に関する議論のための素材や情報の提供によるひとつの「問いかけ」を行なってきた。その際、「知識は体系になって、はじめて力を発揮するのであって、断片の寄せ集めは単なる雑学である」([3]228ページ)こと、すなわち知識や情報の構造化・体系化が厳しく問われることについては、多少なりとも留意してきた。しかし、“多少”では困るのである。ここで改めて、肝に銘じておきたい。
補遺
山口は[3]で、「対話の技術」(どのように対話すればよいのか)について、その要点を次のように「まとめ」ている(259~260ページ)。
①自分から見て、どんなに不正だと思える相手についても、その人なりの立場や感情があるはずなので、まずはそれを理解しようとすることが大切である。
②それから、問題となる事態を具体的に特定し、それが事実に反する思いこみや、中身のない言葉だけのものではないかを検討する。
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③人間の思考にはバイアス(偏り)がかかっていることを自覚する。
④自他の要求を明確化することで、争点を明確化する。
⑤要求が、事態の改善につながる因果関係を持っているかどうかを検討する。
⑥相手の思考の体系を理解したうえで、その問題点を指摘し改善策を提示するような建設的な質問をする。
⑦自分自身の立場を反省する。
⑧事実認識を共有する。そのためには、ネット情報に頼らず、学術的な研究や一次資料を確認する。
⑨共有されている価値観を確認し、価値観同士が両立しえない場合には、どの程度のところまでが許容範囲なのかについて合意形成する。現実をその許容範囲に収束させるための適切な手段を検討する。
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07/「共感には善玉と悪玉がある」ということ
―ポール・ブルーム(心理学者)から学ぶ―
「共感には善玉と悪玉がある」
「共感は道徳的指針としては不適切である」
「私たちは(共感の時代ではなく)理性の時代に生きている」(ブルーム)
〇筆者は、ポール・ブルーム(Paul Bloom、アメリカ・イェール大学心理学教授)著/高橋洋訳『反共感論―社会はいかに判断を誤るか―』(白揚社、2018年2月。以下[1])を読んだ。それは、いま社会的風潮として(福祉教育の世界においても)「共感」や「共生」、とくにその「心」が強調されるなかで、いかにして「感情」(「共感」)と「理性」のバランスをとるかが問われている、という認識に基づいている。筆者は、「共感」と「理性」にはそれぞれ限界があり、その両者の漸進的な共働によってよりよい“まちづくり”を進めることができる(進めなければならない)、と考えている。
〇ブルームによると、「共感」(empathy)は「情動的共感」と「認知的共感」に分けられる。「情動的共感」は、「他者が感じていると思しきことを自分でも感じること」すなわち「他者の経験を経験する」(10ページ)という意味での共感(感情的な働き)である。「認知的共感」は、「他者の心のなかで起こっている事象を、感情を挟まずに評価する能力に結びつけてとらえる」(25ページ)という意味での共感(理性的な働き)である。ブルームは、前者の情動的共感に反対し、後者の認知的共感を評価する。「共感には善玉と悪玉がある」(20ページ)。「共感(情動的共感)は愚かな判断を導き、無関心や残虐な行為を動機づけることも多い」(9ページ)。「共感は道徳的指針としては不適切である」(9ページ)。「私たちは(共感の時代ではなく)理性の時代に生きている」(19ページ)、別言すれば“他者を思いやる善き人になりたいのなら、あるいは世界をもっとよい場所にしたいのなら、理性を行使すること(理性に基づく判断や行動)が重要である”(9ページ、第6章)、などがブルームの主張である。
〇ブルームは、[1]の要点について次のように簡潔に述べている。
共感とは、スポットライトのごとく今ここにいる特定の人々に焦点を絞る。だから私たちは身内を優先して気づかうのだ。その一方、共感は私たちを、自己の行動の長期的な影響に無関心になるよう誘導し、共感の対象にならない人々、なり得ない人々の苦難に対して盲目にする。つまり共感は偏向しており、郷党性(きょうとうせい。同郷のよしみ)や人種差別をもたらす。また近視眼的で、短期的には状況を改善したとしても、将来悲劇的な結果を招く場合がある。さらに言えば数的感覚を欠き、多数より一人を優先する。かくして暴力の引き金になる。身内に対する共感は、戦争の肯定、他者に向けられた残虐性の触発などの強力な要因になる。人間関
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係を損(そこ)ない、心を消耗させ、親切心や愛情を減退させる。(17ページ)
〇この「要点」の理解を深めるために、ブルームの「反共感論」の論点や言説について、その一部をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。
共感のスポットライト的な特質――共感はその射程が限定的であり、数的感覚を欠いている
●私たち人間にとって、共感はスポットライトのようなものである。つまり、焦点が絞られ、自分が大切に思っている人々は明るく照らし出し、見知らぬ人々や、自分とは違う人々や、脅威を感じる人々はほとんど照らし出さないスポットライトなのだ。
共感は、大勢の人々が関わる問題に直面すると黙して語らず、共感は大勢よりたった一人を重視するよう私たちを仕向ける。
共感は、特定の個人ではなく統計的に見出される結果に対しては反応を示さない。(45ページ)
スターリンは、「一人の死は悲劇的だが、100万人の死は統計的だ」と述べたと言われている。またマザー・テレサは、「大衆を見ても、私は決して行動しないでしょう。でも、一人を見れば行動します」と言った。道徳的判断において数の重要性が認められるのなら、それは理性のゆえであって感情のゆえではない。(112ページ)
●共感を含めた他者に対する反応は、既存の偏見、嗜好(しこう)、判断を反映するものである。この事実は、共感が無条件に私たちを道徳的にするわけではないことを示す。(88ページ)
●スポットライトの問題の一つは、焦点の狭さだ。またもう一つの問題は、向けた場所しか照らし出さないことである。だからバイアス(偏った見方)の影響を受けやすい。(112~113ページ)
●スポットライト的な性質のゆえに、共感はバイアスの影響を受けやすい。また、焦点の狭さ、特定性、数的感覚の欠如という特質を持つがゆえに、自分の注意を惹くもの、人種の好みなどの影響をつねに受けている。私たちが少なくともある程度の公平さや公正さを保てるのは、共感の作用から免(まぬか)れ、規則や原理、あるいは費用対効果の計算に依拠した場合に限られる。(119ページ)
共感と思いやり――共感と思いやりは独立しており、ときには対立することさえある
●心理学者のヴィッキー・ヘルゲソンとハイディ・フリッツは、「他者に過剰に配慮し、自分のニーズより他者のニーズを優先する」ことを「過度の共同性」(unmitigated communion)と呼んだ。(165ページ)
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「共同性」(過度なタイプではなく適切な共同性)が高い人と、「過度の共同性」が高い人の違いはどこにあるのか? どちらのタイプの人々も、他者を気づかう。しかし「共同性」が、配慮や思いやりとも呼べるものに対応するのに対し、「過度の共同性」は共感、もっと正確に言えば共感的苦痛(empathic distress)、つまり他者の苦しみに苦しむことにより強く結びついている。
私は、「過度の共同性」の高さが、共感力の高さとまったく同じであるとは思っていない。とはいえそれらのいずれも、他者との関わりという点では、同じ根本的な脆弱性をもたらす。自身の生活を阻害する過剰な苦痛を本人に引き起こす。(167~168ページ)
●共感と思いやり(compassion)の区別は、非常に重要である。(中略)あるレビュー論文のなかで、神経科学者のタニア・シンガーと認知科学者のオルガ・クリメッキは、この区別について次のように述べている。「共感とは対照的に、思いやりは他者の苦しみの共有を意味しない。そうではなく、それは他者に対する温かさ、配慮、気づかい、そして他者の福祉を向上させようとする強い動機によって特徴づけられる。思いやりは他者に向けられた感情であり、他者とともに感じることではない」。(170ページ)
「感情的な共感は、思いやりの前駆である」「最初に情動的共感を覚えない限り、思いやりを感じることはできない」と主張される。
私たちは一般に、日常生活で情動的共感を特に覚えなくても他者を気づかったり手助けしたりしていることを考えてれば、これらの主張は理解しがたい。(中略)思いやりや親切心は共感から独立しているばかりでなく、それと対立することさえあり、共感感情を抑えたほうが人はより適切に振舞える場合がある。(174ページ)
暴力・残虐性と共感――暴力と残虐性の要因は必ずしも「共感の欠如」ではない
●暴力行為にはさまざまな原因があり、私は犠牲者の苦難に対する共感が、それ以外の原因より重要であると言い張るつもりはない。しかし共感は暴力と無関係ではない。ヒトラーがポーランドに侵攻したとき、彼を支持したドイツ人は、ポーランド人による同胞のドイツ人の殺害や虐待のストーリーに激怒していた。(234ページ)
私は平和主義者ではない。無実の人々の苦難は、アメリカが第二次世界大戦に参戦したときのように、場合によっては軍事介入を正当化すると、私は考えている。それでもやはり、共感は暴力行為を選好する方向へと、あまりにも強く人々を傾(かたむ)かせると言わざるを得ない。共感は私たちが戦争の恩恵を考慮するよう仕向ける。それを通じて被害者のために復讐し、危機に直面している人々を救い出させようとする。(235ページ)
感じることと考えること――「共感」に代わる道徳的指針・行動基準は「理性」である
●情動の本性が過大評価されている。私たちは直観力を備える一方、それを克服する能力(理性的熟慮の能力)を持つ。道徳問題を含めものごとを考え抜き、意外な結論を引き出すことができるのだ。ここにこそ人間の真の価値が存在する。この能力
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は、人間を人間たらしめ、互いに適正に振舞い合えるよう私たちを導いてくれる。そして苦難が少なく幸福に満ちた社会の実現を可能にする。(14~15ページ)
善き行ないには、あらゆる種類の動機が存在する。それには、より包括的な関心、思いやりなどがある。(中略)また、名声に対する関心、怒りの感情、プライド、罪悪感、信仰、世俗的な信念体系などがある。私たちには、正しい行ないを動機づける要因として、あまりにも性急に共感をあげる傾向があるようだ。(126~127ページ)
善き人であるためには、他者への気づかい、すなわち他者の苦しみを緩和し、世界をよりよい場所にしようとする心構えと、何が最善かを見極められる理性的な能力の組み合わせが必要である。(127ページ)
●「私たちは共感をはじめとする直感の影響を受けても、その奴隷ではない」。開戦するか否かを決定する際に費用対効果分析に依存する、あるいは自分の子どもに愛情を注ぎ、赤の他人には特に何も感じなくても、彼らの命も自分の子どもの命と同じく重要であることを認識するなど、私たちはもっとよいことができる。(258ページ)
〇本書の原題は、“Against Empathy”(2016)である。「反共感」には一瞬ギョッとするが、ブルームは、“Empathy Is Not Everything”(「共感がすべてではない」)、“Empathy Plus Reason Make a Great Combination”(「共感と理性は偉大な組み合わせをなす」)などといったタイトルでも構わなかった、という。「自立」やそのための「自己決定」「自己責任」が強調される現代社会において、“共感の欠如”、したがって“共感性の強化”“共感力の育成”こそが最大の課題である、と言われる。それは、「共感」が無条件に肯定されていることにもよる。しかし、ことはそれほど単純ではない。「私は共感に反対する」というブルームの「具体的な見解に賛成するにせよ反対するにせよ、情動的に反応するのではなく、それについて理性的に考察し皆で議論することが肝要である」(「訳者あとがき」302ページ)。まさにそれが[1]でブルームが説くところである。ブルームの「反共感論は理性の存在を前提とする」(258ページ)。留意したい。
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08/「分解」と「再生」
―藤原辰史(農業史)と猪瀬浩平(文化人類学)から学ぶ>―
〇母は、小さくなったセーターの毛糸を解きほぐし、それを洗い、ほかの毛糸を足して新しいものに編みなおしてくれた。その際、母は、きれいになった毛糸を大きい輪に巻いた「かせ」を私の両手にかけさせ、毛糸玉を作った。それから、棒針(ぼうばり)を巧みに動かして編み始めるのである。毛糸玉を作るときは、母と私は向き合って座っていた。その間は1メートルほどであったろうか。その時間は、外では雨が降り、百姓仕事ができない日であった。明日も雨が降ってほしいと願ったことを覚えている。
〇そんなことを思い出させてくれたのは、藤原辰史(ふじはら・たつし、京都大学、専門は農業史、食の思想史)の『分解の哲学―腐敗と発酵をめぐる思考―』(青土社、2019年7月、以下[1])である。
〇藤原はいう。サケは、北太平洋を2、3年回遊し、産卵のために再び故郷の川に戻る。衰え、傷ついたサケは、クマやカワウソ、カモメ、そして無数の森の生きものたちに自身の肉体を提供する。とくに微生物たちの餌(えさ)となって、土壌を肥やし、植物を繁茂(はんも)させ、新しい生命がよりよく育つ環境づくりに貢献する。こうした生態系の物質循環において、サケは「自己分解者」であり、生態学でいう「分解者」の一員でもある。さらに、「サケの老化現象もまた分解現象の一部ということ」ができる(258ページ)。
〇自然界における物質の循環(分解作用)は、人間界でも一般にみられる現象である。「空き瓶回収、古紙回収、鉄屑回収を担う会社はもちろん、賞味期限間際の食料を安価に、あるいは無料で貧困者に配る団体も、家畜の糞尿を土壌に戻す農業従事者も、古くなった家具、電化製品、本を売るリサイクルショップも、茶器、掛軸、絵画などを売る古物商も、分解を担う人間であり、人間である以上例外なく生物であるゆえに分解者と呼んでも間違いではない」(172ページ)。ただ、人間社会における「分解者」(たとえば落穂拾い、屑拾い、修理屋、廃品回収、牛馬の死体の処理、ごみ収集にいたるまで、素材を再利用できるまでに加工し尽くす存在など)は、「社会的にタブーとされてきた歴史的経緯もあってあまりにも軽視されている」(24ページ)。
〇いずれにせよ、藤原にあっては、「分解」とは「壊しすぎないようにした各要素を別の個体の食事行為やつぎの何かの生成のために保留し、それに委(ゆだ)ねることであり、それゆえ分解は、各要素の合成である創造にとって必須の前提基盤である」(317~318ページ)と定義づけられる。この定義には、次のような考えが包含されている。「(子どもの積み木遊びのように)積み上げることは崩(くず)すという前提のうえに成り立つ」、「分解するまでならば再利用できるが、粉々に粉砕すると再利用できない」、「(サケがクマ、カモメ、そして微生物の餌になるように)分解は個体を移動する作用である」、「死は生に属するのではなく、生は死
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に属する」、「解く(とく、ほどく)ことは結(むす)ぶこと、始まることの前提であり、分解は時間の始まりである」(317ページ)などがそれである。冒頭に記したセーターの編みなおしは、「分解と再生」の作業である。
〇藤原は、この生態学的な「分解」(decomposition)と「分解者」(decomposer)を中心概念として位置づけ、大量生産・大量消費・大量廃棄などの現代社会について人文科学的に、そして歴史(学)的視点から思考する。ここで、次の一節をメモっておく。刺激的である。
作る、生産する、積む、上げる、重ねる、生み出す、というふうに、私たちは、基本的に足し算や掛け算の世界を生きている、と思わされている。キャリアアップすることも、教養を身につけていくことも、自分を「形成」することだと思い込んでいる。子どもを産むことも、作物を育てることも、ほかならぬこの本を書くことも、「生産」と言われ、映像を制作したりゲームをプログラムしたりする人のことをクリエーターと呼ぶこともある。ナチズムもスターリニズムも資本主義は批判したが、生産そのものを批判はしなかった。どの国も生産量を分析し、国内総生産(GDP)の順位に一喜一憂しているうちに、その国の活性度の尺度と思い込まされている。年は重ねるもので、経験は積まれるものだと思われている。
けれども、宇宙がそうであるように、タネの殻が突き破られて芽が出るように、卵が破られて幼虫が顔を出すように、破水してから子宮に格納されていた子どもが外の世界へ向けてじりじりと産道を押し進むように、私たちの暮らす世界は、破裂のプロセス、すなわち分解のプロセスのなかを生きているにすぎず、そのなかにあって何かを作るのは、分解のプロセスの迂回もしくは道草にすぎず、作られたものもその副産物にすぎない。受精卵は、一個の細胞をつぎつぎに分裂させながら成長し、赤子は、垢(あか)も体液も糞尿も地に落としながら肉体崩壊へ向かう旅への門出をみなから祝福されている。生まれたときにはすでに分割と崩壊に向かっている、というよりは、分割し崩壊し始めることを生まれるというのではないか。つまり、私たちは足し算や掛け算というよりは、引き算であり割り算の世界を生きているのではないか。(28~29ページ)
〇要するに、人間社会はこれまで、「生産」「構築」「拡大」という価値観のもとに形成され、発展してきた。しかし、そもそも人間社会は、「生産」「流通」「消費」そして「廃棄」だけではなく、「分解」と「再生」を含んだシステムとして成り立っている。たはえば、資本主義の構造的矛盾が資本主義を終わらせるのではなく、資本主義を再生し強化してきたようにである。とりわけ「消費」と「分解」は分かち難い連続性のなかにある。現代社会において活性化すべきは、「生産」のプロセスではなく、「分解」のプロセスである。藤原の言説のうちで特筆すべき点である。
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〇ところで、藤原の[1]と併読することが求められるものに、猪瀬浩平(いのせ・こうへい、明治学院大学、専門は文化人類学、ボランティア学)の『分解者たち―見沼田んぼのほとりを生きる―』(生活書院、2019年3月、以下[2])がある。[2]は、埼玉県南部に広がる農的緑地空間である「『見沼田んぼ』と周辺地域の歴史を深掘りしながら、様々な存在の蠢(うごめ)きと、そこで起きる軋轢(あつれき)や拮抗(きっこう)、浸透、相互作用、すれ違いを描い」た論文とエッセイから成るものである。「そこには障害のある人の歴史もあり、そして野宿している人や、在日朝鮮人もいる」(381ページ)。
〇また、[2]は、「見沼田んぼ福祉農園」(1999年5月開園)の営農活動や「わらじの会」(1978年3月結成)による障がい児の「普通学級就学運動」(「共育共生運動」)などに取り組んだ猪瀬とその家族(両親、兄妹)の「地域と闘争(ふれあい)」(197ページ)の本でもある。「地域と闘争(ふれあい)」は、横田弘の「障害者と健全者との関り合い、それは、絶えることのない日常的な闘争(ふれあい)によって、初めて前進することができるのではないだろうか」(横田弘『障害者殺しの思想』JCA出版、1979年1月、104ページ)から引いたものである。
〇周知の通り、横田(1933年~2013年)は、「日本脳性マヒ者協会『青い芝』の会」の神奈川県連合会会長を務め、1970年代~80年代の障がい者運動を牽引した人(「分解者」)である。横田は、「何故、障害者児は殺されなければならないのだろう。/なぜ、障害者児は人里離れた施設で生涯を送らなければならないのだろう。/何故、障害者児は街で生きてはいけないのだろう。/ナゼ、私は生きてはいけないのだろう。/社会の人々は障害者児の存在がそれ程邪魔なのだろうか」(『同上書』6ページ)と問い続け、「健全者社会」に鮮烈な批判を繰り広げた。
〇ここで、「相模原障害者施設殺傷事件」(2016年7月)のことが思い起こされる。事件はすでに風化し、障がい者に対する人間社会の偏見や差別は何も変わっていない。横田は、(福祉教育を説く)われわれになんと言うだろうか。とりわけ、情緒的な「ふれあい」と市民・社会運動としての「闘争」について、である。
〇なお、[2]では、言葉だけでなく、写真(森田友希)を組み合わせた表現がなされている。それによって、「ここではないどこか、いまではないいつかとつながる世界観(イメージ)」(「帯」)を紡ぎ出している。その地域で、その時、「私とあなたの生きる場所は地続きになる」(381ページ)と猪瀬はいう。留意したい。
〇上述の藤原は[1]で、猪瀬の言説について「障害者たちが、普段ならまったく気づかない完璧でスマートな社会を、脈絡なく大声をあげたり、渋滞のなか車椅子でゆっくり道の真ん中を進んだりして、その凝(こ)りをほぐしていくことを『分解』と呼んだ」(36ページ)と解く。それに関する猪瀬の言説の一節をメモっておく。まちづくりや市民福祉教育に求められる視点でもある。
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人間は本来「生産」、「消費」、「分解」といった多面的かつ重層的な役割をもつ存在であるが、生産→消費という流れが極大化するなかで、分解の過程は見えにくくなる。そして、たとえば障害者のように、生産→消費の過程から排除された存在が出てくる。現在は、農福連携のように、排除された存在を再び「生産→消費」に包摂する議論があるが、分解という側面から個人の尊厳や、生活基盤を回復する議論は乏しい。分解という側面で、排除された存在を考えることが、今後の社会をめぐる議論に不可欠である。(388ページ)
〇猪瀬は、「分解者」と呼ばれるミミズやダンゴムシになぞらえながら、「とるに足らない」とされてきた・されている者たちが地域社会を細かく解きほぐし、豊かに編みなおす思想や運動の重要性を実証的かつ歴史的に説く。そこには、「多様性」というひとつの流行(はや)り言葉や「地域共生社会」という口当たりの良い言葉、「思いやり」といった観念的な言葉はない。あるのは、厳しい歴史のなかを生き抜いた・生きている「分解者たち」についての確かな思考と、「私たちが、如何に雑多な存在と共に生きていけるのか、そのための思想」(15ページ)である。
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09/社会的処方とリンクワーカー
―西智弘(緩和ケア内科医)から学ぶ―
〇筆者の手もとにいま、「オモロイ」(面白い)本がある。西智弘編著『社会的処方―孤立という病を地域のつながりで治す方法―』(学芸出版社、2020年2月。以下[1])がそれである。西知宏(にし・ともひろ)は緩和ケア内科医である、そのことが先ず驚きである。
〇[1]でいう「社会的処方」(social prescribing)とは、社会的孤立という現代病を、薬と同じように、「地域とのつながり」を処方することによって治すひとつの方法である。具体的には、「地域における多様な活動や文化サークルなどとマッチングさせることにより、患者が自律的に生きていけるように支援するとともに、ケアの持続性を高める仕組み」(25ページ)をいう。それは、「医療者だけの仕組みではない。市民一人一人が、お互いに支え合い、地域で元気に暮らしていくための仕組み」(11ページ)である。すなわち、「市民活動が誰かの薬になるらしい。それなら100歳まで生きてみたい」(山崎亮:[1]「帯」)と思わせる活動であり、仕組みである。[1]では、社会的処方の基本的な考え方について説述し、社会的処方が制度化されているイギリスや各地に広がりつつある日本の実践事例を紹介している。本書は一言でいえば、社会的処方に向けた啓発書である。
〇社会的処方に欠かせない存在に、「リンクワーカー」(Link Worker)と呼ばれるヒトがいる。そのヒト(職種)が社会的処方の要(かなめ)となる。リンクワーカーは、「社会的処方をしたい医療者からの依頼を受けて、患者や家族に面会し、社会的処方を受ける(処方先の)地域活動とマッチングさせる(つなげる)」(51ページ)のが仕事である。イギリスでは、1980年頃から各地で取り組みが始まり、主に非医療者がその仕事を担ってきている。そして、リンクワーカーは、研修を受けてある程度の支援スキルを認定され、フォローアップを受けながらそのスキルを維持している。
〇日本ではまだ、「リンクワーカー」は馴染みのない言葉である。リンクワーカー的な存在として、地域包括支援センターや社会福祉協議会、ボランティアセンター、保健所などのソーシャルワーカーやケアマネジャー、コーディネーター、民生委員・児童委員などを想定しておきたい。なお、京都府では2015年度に「認知症リンクワーカー」制度を設け、その養成・研修に取り組んでいる。
〇[1]から、社会的処方の基本理念について、筆者が留意したい一文をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは一部筆者)。
「マイナスをプラスにするのではなく、プラスをダブルプラスへ」というアプローチ
社会的処方は人を「健康な状態にすること」を目的にするのではない。/「健康」というものはそもそも、人が幸せに生きていくための手段であって、それが目的と
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なるべきものではない。WHO(世界保健機関)が定義する「健康」すなわち「身体的(肉体的)、精神的及び社会的に完全に良好な状態」ではなくても、その人が幸せに生きる方法はある。社会的処方は、それぞれの身体的・精神的・社会的に不完全な部分を埋めて、完全な状態にするためのアプローチではない。むしろ、人がもつデコボコをありのままに生かし、生きがいに注目し、幸せを追求していくためのアプローチだ。マイナスをプラスにするのではなく、プラスをダブルプラスにしていく(アプローチである)。(40、41ページ)
「どんな人でも地域をよくする能力・知識・技術を持っている」という信念
(イギリスにおける社会的処方のパイオニアのひとつは、1984年に設立されたコミュニティセンターの「ブロムリ―・バイ・ボウセンター(Bromley by Bow Centre:BBBC)」である。)BBBCの基本思想としてまず押さえておきたいのは、「Asset Based Community Development:ABCD」という考え方だ。地域を「解決すべき課題の塊(かたまり)」ではなく「解決手段のための資源に溢(あふ)れたエリア」と捉え、住民が主体となって課題に取り組む参加型プログラムのこと。基盤にあるのは「どんな人でも地域をよくする能力・知識・技術を持っている」という信念。たとえば「貧しい人がいる」場合、問題なのは人ではなく「貧困があること(状況)」。それに対応し解決に向く力をつけるものはなにか? という考え方になる。/そして、地元住民とのパートナーシップを築きつつ、“right for me or other people”(私にとって正しいことなのか、他の誰かにとって正しいことなのか)を考えることが大切。どうやって住民とつながりを持つか? を考えたときに、こういった考えに基づいて多様な人が「いつでも来られる場」があることは大きい。(57、58ページ)
「自分にはできないけど、できる人は知っている」という価値
これまでも、日本では「近所のおせっかいおばさん」や「町内会長的な地域の顔役おじさん」などが、その地区の地域資源を把握し、困っている人を見つければ世話をやいたりということが普通に行われてきた。「自分にはできないけれど、できる人は知っている」というのは大きな価値だ。/日本においてリンクワーカーを養成するときに、「制度にするのか、文化にするのか」というのは悩ましい問題だ。「制度にする」というのは、イギリスのように研修システムと資格の認定を行って、その資格をもった人を中心に社会的処方を進めていくという考え。一方で、「文化にする」というのは、リンクワーカーのコンセプト(基本的な考え方)、心構えやスキルを広く共有し、できる人ができる範囲でやっていこうという考え。/「リンクワーカーらしさ」は、「人と地域に好奇心を持ち続ける」ことにある。/日本に広めていきたいのは、「文化」としてのリンクワーカーである。まちにいる誰しもが、つなげるときにつなげる範囲でつないでみる。まちのみんなが「リンクワーカー的」にはたらく社会だ。(63~64、66、70ページ)
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〇岡らにあっては、社会的処方を有効なものにするためには、リンクワーカーに4つの「スキル」が求められる。①聴く(「おばちゃん力」で入り込む)、②経験を宝にする(どんな経験もだれかの「オモロ」になる)、③笑わせる(嬉しい・楽しい・ふるえる)、④つなげる(おせっかいは大切に)、である(71ページ)。それを別言すれば、温かい雰囲気のなかで相手の話に耳を傾け、いろいろな経験に何らかの面白さを見出し、それをお互いが柔軟に受け止めて楽しみ、豊かなおせっかいをしてつなげる(仲介・調整)、というスキルである。
〇そして、その社会的処方の基盤を成す「哲学」として、岡らは次の3点を指摘する。
●まちのなかで暮らしている一人一人の存在そのものが価値であり、宝であり、それは「オモロ」につながっているということ。
● 障害や病気があってもなくても、一人一人がやりたい小さなことを気軽に口に出すことができ、それを「いいね!」と応援してくれる人たちがいる環境が大切だということ。
● まちのなかで皆が、自分なりの表現に没頭、熱中して取り組んでいく中で、結果的に多世代が交流し、つながっていくのだということ。(211ページ)
〇ここで、社会的処方についての理解を進めるために、7つの事例についてその概要を紹介しておくことにする。
●横浜市の「Co-Minkan」(こうみんかん)/Co-Minkanは私設公民館であり、地域の人たちが「つどう」「まなぶ」「むすぶ」「まちの茶の間」である。そこでは、専門家主導型ではなく、生活者主導型の「教育ならぬ共育」が行われている。
● 兵庫県・豊岡市の「モバイル屋台de健康カフェ」/医者が屋台を引いて街に繰り出し、コーヒーを配る。そこでは、世間話の延長戦上で健康相談にのることができ、屋台という装置が地域のつながりの場(「小規模多機能な場」)にもなっている。
● 福井県・高浜町の「愛煙家座談会」/座談会のスタンスは、「禁煙を促す」というものではなく、「禁煙を否定せず、喫煙を通じて健康を考え直すきっかけを提供する」というものである。「愛煙家登山」で、山頂で吸う一服は「この上なくおいしい」という。
● 京都市の「京都ソリデール」/高齢者と学生がひとつ屋根の下で暮らす次世代下宿・異世代ホームシェアである。そこでは、「若者が高齢者を支え」「高齢者も若者を支えている」という関係性がつくられている。「ソリデール」とはフランス語で「連帯の」を意味する。
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● 川崎市・武蔵小杉の「こすぎナイトキャンパス」/「本を読んでこなくてもいい」という読書会である。「本をネタにして、自分が話したいことを話す」、「本」を媒介にして本と人、人と人、新しい出会いをつくっていくことをめざしている。
● 横浜市の地域活動支援センター「ひふみ」の「アーティストとともに過ごす時間」/センターの利用者が主体になって、地域に暮らす精神障害のある人たちとともに、ミュージカルなディスコを企画・実施する。福祉イベントだから、「このくらいでいいか」という妥協はそこにはない。
● 岐阜県・可児市の「文化創造センターala」/市民が抱える生活課題や社会的課題を解決するために、「アートを通じた体験の機会」を多様に提供している。「問題校」と呼ばれた高校で演劇表現ワークショップに取り組み、それによって生徒の自己肯定感が育ち、高校での問題行動も減少している。
〇周知のように、貧困や生活環境が健康や疾病に作用する。社会・経済格差が健康格差をもたらす。これを別の観点から言えば、以上の言説は、WHOが主導する「健康の社会的決定要因」(Social Determinants of Health:SDH)に関するそれに通じる。すなわち、SDHに対していかなる社会的処方で対応するか、が問われることになる。
〇ここで、WHOが2003年に出版した『健康の社会的決定要因 確かな事実(第2版)』(Social Determinants of Health:THE SOLID FACTS,2nd edition)が想起される。そこでは、健康の社会的決定要因として次の10項目について説明している。社会的処方についての重要な視点や枠組みを見出すとともに、その内容や方法について探究することができよう(リチャード・ウィルキンソン、マイケル・マーモット編/WHO健康都市研究協力センター・日本健康都市学会訳『健康の社会的決定要因(第2版)』特定非営利活動法人健康都市推進会議、2004年)。
1.社会格差(the social gradient)
どの社会でもその最下層部に近いほど平均余命は短く、多くの疾病が見受けられる。健康政策は健康の社会的・経済的決定要因について取り組まなければならない。
2. ストレス(stress)
ストレスの多い環境は人々を不安に陥らせ、立向かう気力をそぎ、健康を損ない、ひいては死を早めることもある。
3. 幼少期(early life)
人生の良いスタートを切ることは、母子を支援することである。幼少期の発達や教育の健康に及ぼす影響は生涯続く。
4. 社会的排除(social exclusion)
貧困の中での人生は短いものとなる。貧困、社会的排除や差別は困窮、憤(いきどお)りなどを引き起こし、命を縮めてしまう。
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5. 労働(work)
職場でのストレスは疾病のリスクを高める。仕事に対してコントロールができる人ほど、健康状態が良好である。
6. 失業(unemployment)
雇用の安定は健康、福祉、仕事の満足度を高める。失業率が高まるほど病気にかかりやすくなり、早死をもたらす。
7. 社会的支援(social support)
友情、良好な人間の社会的関係、確立された支援ネットワークにより、家庭・職場・地域社会における健康が推進される。
8. 薬物依存(addiction)
アルコール・薬物・たばこを習慣とし、健康を害してしまうのは個人の責任ではあるものの、常用に至るにはさまざまな社会的環境も影響している。
9. 食品(food)
世界の市場は食糧の供給に大きく関わっているため、健康的な食品の確保は政治的問題である。
10. 交通(transport)
健康を重視した交通システムとは、公共輸送機関の整備により自動車の利用を減らし、徒歩や自転車の利用を奨励することを指している。
〇日本政府においてはいま、「自助・共助・公助」のうち、まず自助が最優先され(「自助ファースト」)、深刻な生活課題や劣悪な生活環境などを個人が引く受けることをよしとする。すなわち、格差社会や分断社会が進み、コロナ禍の真っただなかにあって、人びとにさらなる自助や共助を促している。それは、公的責任を放棄し、人びとの善意や絆にすりかえようとするものである。
〇しかも、その善意はときに、思考停止を生み、屈辱を与える。絆は包摂と排除の二面性を持ち、解放を妨げ自由を奪う。
〇社会的処方は、人びとが抱える日常生活上の現状から問題点を抉(えぐ)り出し、その原因を明らかにし、それを解決するための対策を講じる。とともに、文化や芸術などのアートと同様に、多様で柔軟な価値観や考え方を育み、人びとの生きる力を高め、地域共生や社会的包摂を創出する。それゆえに、社会的処方は、現代の政治・経済・社会が歴史的・構造的に抱える矛盾や問題点に無関心ではいられない。
〇自助や共助についての抽象的・観念的な考えをベースに、単に生活に楽しみや生きがい、潤(うるお)いをもたらすツールとして社会的処方を捉えるとすれば、そこには必然的に“限界”や“危うさ”が生じる。限界を恐れる必要はないが、事態はそれほど甘くはない。この点に留意しながら、「お医者さんが取り組む“オモロイ”はじめの一歩」の成り行きを注視したい。
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10/福祉はアートであり、デザインである
―東京藝大と東大における体験型授業から学ぶ―
〇筆者の手もとに、東京藝術大学や東京大学で中高生や社会人を対象に行なわれた体験型授業の様子をまとめた本がある。東京藝術大学 Diversity on the Arts プロジェクト編『ケアとアートの教室』(左右社、2022年1月。以下[1])と山中俊治(やまなか・しゅんじ)著『だれでもデザイン―未来をつくる教室-』(朝日出版社、2021年11月。以下[2] )、がそれである。
〇[1]は、2016年より開設された、約100人の社会人と約30人の藝大生が共に学ぶ履修証明プログラム(Diversity on the Arts Project、通称:DOOR)の講義と実践の様子(体験)を記録したものである。そこでは、「アート Χ 福祉」をテーマに、共生社会を支える人材の育成とコミュニティの醸成をめざす(2ページ)。講義で取り上げる具体的なテーマは、貧困、障害、性的マイノリティ、引きこもりなど多岐にわたる。講師もアーティストや障がい者、福祉の専門家、現代社会に生きづらさを感じている当事者など多様である。
〇DOORでの「学び」は、次のようなことを基本的な考え方(コンセプト)にする。共生社会の実現には、創造性(アート)とそれが活きる環境を耕す(cultivate)ことが重要である(4ページ)。何かを学ぶうえで、「誰と学ぶのか」、学びの対象と「どう出会うのか」が重要な要素となる(5ページ)。アート(=創造性)の領域では「個人の主観」が大切にされるが、自分の主観の深いところには他者との共通点がある。アートも福祉も、多くのひとたちとの「対話」(「創造のコミュニケーション」)や「協同」のなかで、異なった何かと自分とが融合し、変化し、豊かになっていく(7、8ページ)。すなわちこれである。
〇身近にある、状態としての多様性(diversity)に対して「想像」を巡らし、対話し、歩み寄り、見えないものを知覚することによって、共生社会の「創造」に向けて動き出す(236、238ページ)。多様性が創造性(creativity)を生み、育てるのである。
〇[1]から、「まちづくりと市民福祉教育」に関して、「気になる」あるいは「使える」論点や言説のいくつかをメモっておく(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者。見出しの後の氏名は講義者)。
アートと福祉は多様性を特性とする/日比野克彦
アートと福祉は、アプローチこそ違え、視座が「多様性」を重視しているのは同じである。多様性のある社会を築いていくためには、違いを認め合う「アートの特性」を基盤にして、そのうえに福祉や経済などさまざまなものを組み立てていくことが肝要になる。(17ページ)
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被支援者との共感不可能性を共感する/奥田知志
ホームレスなどの生活困窮者を支援する際、「大変でしたね」「わかります」というと、10人にふたりくらいは「野宿をしたこともないのに何がわかるんだ」と怒る。支援活動を行なううえでは、この「共感不可能性」を常に意識していなければならない。相手との対等性をいかに保ち、共感不可能性にどれほど共感できるかが重要となる。(40ページ)
アートは既成の価値観に異議を唱えること/久保田翠
知的障害があるひとの、「よくわからない」行為も、本人が生きるために不可欠なことであり、生きている証である。知的障害のあるひとたちの存在自体がアートであり、彼らの生き様そのものがひとつの表現である(「表現未満、」)。表現やアートはできあがった作品だけをさすのではない。知的障害のあるひとたちの存在をまるごと認め、彼らに対する見方を変えこと、すなわち既成の価値観に異議を唱えることがアートである。(59、61ページ)
ALLY(アライ)の存在は重要であるが‥‥‥/松岡宗嗣
性的マイノリティの存在は「いない」のではなく、「見えていない」のである。性的マイノリティのひとびとは、「ふつう」や「あたりまえ」とされる規範的な性のあり方の枠組みから排除されることで、さまざまなライフステージごとの困難に直面する。「ALLY(アライ)」は、「支援者」「同盟」「味方」を意味する。アライになるためには、「知る」こと、「変わる」こと、そして「行動する」ことといったステップが必要となるが、誰もが誰かのアライになれる。しかしその際の、「当事者ではないが味方」という考え方は、二項対立的な考えにつながる。「かわいそうなマイノリティを助ける」という考え方は、自分自身の差別意識を不可視化する。(85、91、98、99、100ページ)
対話がつながりの回復を図る/六車由実
介護現場では、利用者の人生や経験について話を聞くことで、彼らそのものを理解し、思い出を共有すること。それと共に、個人史からそのひとたちが生きてきた時代や地域の歴史、生活のあり方を知り、伝えていくこと、が大切となる(「介護民俗学」)。利用者同士や利用者とスタッフによる平等で開かれた「対話」によって、スタッフから利用者へという一方的な固定化された関係性が修復される。介護現場で一番大切なのは、要介護度が上がらないようにする支援(自立支援介護)ではなく、「つながりの回復」を図る支援である。つながりがあれば、老いや病、認知症で体が動かなくなったとしても、ひとは最後まで希望をもって生きていける。(123、129、131ページ)
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〇[2]は、2017年に22名の中高生に対して、山中俊治(デザインエンジニア)の研究室(東京大学生産技術研究所)で行なわれた「デザイン」に関する4日間の特別授業を再現したものである。そこでは、身の回りのものをよく観察してアイデアを生み出し、「そこに新しい価値を見出し、形に落とし込み、人に伝え、一緒に完成させていくデザイナーの営み(デザインの方法)の根幹」(5ページ)が具体的に綴(つづ)られている。山中にあってはそれは、「人間がなにかを生み出す時の普遍的な方法」(6ページ)である。また、デザインは「人工物、あるいは人工環境と人の間で起こるほぼ全てのことを計画し、幸福な体験を実現すること」(43ページ)と定義づけられる。
〇デザインは、ひとびとが日常生活上のベネフィット(benefit:利益、恩恵、便益)を得て効率よく、豊かに暮らすために、安全性や操作性、格好よさや愛着、値段などをトータルにプランニングする営為である(44ページ)。それは、感覚的なものと科学的な知識を融合する営みである。その仕事を行なうデザイナーは、それが「総合的な営み」であるという点において、映画監督やオーケストラの指揮者に近いともいえる(51ページ)。
〇[2]から、「まちづくりと市民福祉教育」に関して、「気になる」あるいは「使える」論点や言説のいくつかをメモっておく(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。
サイエンスとアートとデザイン/デザインする
サイエンスとアートの目的は真理の探求にある。デザインはいつも誰かをハッピーにすることをめざす。サイエンスは、客観性を追求して記述し、検証しあって知識を共有する。アートは、主観を追求して表現し、「共感」を共有する。その共感を確実なものにするために、評論が大切な役割を果たす。デザインは、サイエンスとアートの両方の知見から得たことを統合して、安全性や操作性、格好よさなどの高いモノをつくる。(47、49、51ページ)
デザインはアイデアが命である/アイデアを出す
デザインのコアになるのはアイデアである。アイデアの本質はそもそも偶然である。アイデアのヒントはいつも観察のなかに、他人の頭のなかにある。また、知識や経験、情報のなかにある。そしてアイデアは、それらを「つなぎ替える」「つなぎ直す」ことである。要するに、「アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもない」(ジェームス・W・ヤング)。(174、186、188、190、344ページ)
スケッチを描くということ/スケッチする
スケッチを描くということは、自分が何を見て、何を見ていないかを意識することである。描くということは、そこを見ることと連動していて、見ていないところは描けないし、描く時には必ず見ようとする。私たちは注目しているところ以外を見ておらず、無意識に、全部は見ないようにしている。絵を描くことで意識的に見る
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範囲を限定したり、見る範囲を決めることができる。スケッチに全ては描かない。最も重要なエッセンスを抽出して(抽象化して)リアリティを与えるということが、スケッチの表現の根幹である。(70、71、110ページ)
デザインが社会変革を促す/未来を拓く
義足をデザインしているとき、失われた体の一部を補完するというより、新しい体を作っている感覚がある。義足は障がい者のために作ったものであるが、実は、障がい者を見る社会のほうが変わるきっかけになる。義足は大量生産ではなく、一人ひとりの切断者に合わせて、「かっこよく」「美しく」作る。一人ひとりのためのデザインが、そのものに目を向けさせ、社会の意識を変え、未来を拓く。いま、みんなのためのデザインから一人ひとりのためのデザインへと、時代は流れている。(318、320、323ページ)
〇以上を要するに(一面的であるが)、アートは、多様性にアプローチしてその異なる存在を認識し、より理解を深め、問いを投げかける(自己表現、問題提起の)営みである。デザインは、過去や「いまここ」から学び、一人ひとりに合わせたものの存在を生み出し、社会変革をもたらす(他者実現、問題解決の)営みである。その点においてアートとデザインは、「まちづくりと市民福祉教育」が内包する営みでもある。留意しておきたい。
〇前述のように、DOORでの「学び」のキーワードのひとつは、「創造性」と「多様性」である。その点に関して、重ねて次の一節を引いておく(抜き書き)。
アート=創造性は、誰のなかにでもある。ひとはどんな苦境においても、創造性を完全に忘れることはない。むしろ、そうした創造性に小さな喜びや希望を見出し、自己と向き合い、ときに他者とそれを共有することで、ひとはひとらしくあり続けることができ、「生きよう」とする思いをも強くできる。([1]3ページ)。
ダイバーシティ(多様性)をめざす、という言葉をよく聞く。しかし、多様性とは状態であり、すでに私たちの周りに存在しているものである。こうした多様性があるという状況を、どれだけセンシティブ(敏感)に感じとれるかということが重要になる。「さまざまなひとがこの世界で生きている」と言葉ではわかっていても、どれだけその状況を意識できるかどうかは、個々によって開きがある。多様なひとびとがいて、さまざまな世界の感じ方がある、ということをより意識できるようになってほしい。([1]232~233ページ)
〇創造性は時に、「ひらめき」すなわち偶然から生まれる。その「ひらめき」は、個々人の「記憶された知識や経験」に基づいてもいる。したがって、創造性は不確かであり、独創的である。しかしその本質は、新しい快適で豊かな未来社会を拓く
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ところにある。多様性は一面では、マジョリティ(多数派)の文化や視点から唱えられる。一方からの多様性の強調は、“出る杭は打たれる”日本社会にあって、同調圧力を強めることにもなる。しかしその本質は、マイノリティ(少数派)の文化や視点を中心に据えた共生社会を形成するところにある。そこでまずは、創造性も多様性も、そのひとがそのひとらしく、共に生きられる地域・社会を共に創ることをめざして、さまざまなヒト・コト・モノをそれぞれに「気にする」ことから始まる。付記しておきたい。
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11/利他主義のあり方を問う
―マッカスキル(哲学)とイースタリー(経済学)から学ぶ―
〇(学校)福祉教育においては相変わらず、「収集・募金活動」「訪問・交流活動」「清掃・美化活動」の“3大活動”や「疑似体験」「技術・技能の習得」「施設訪問(慰問)」の“3大プログラム”を中心にした体験活動が実施・展開されている。そのうちの例えば募金・寄付活動については、その心情や思想が超歴史的に語られ(「善意」や「助け合い」が強調され)、募金・寄付者や募金・寄付額の多寡が問われがちである。効果的な募金の方法や寄付金の使い道について、無関心であることが多い。また寄付先については、ユニセフや共同募金会、日本赤十字社などの「大きな」組織・団体や、「安心な」地元の社会福祉協議会や社会福祉施設になりがちでもある。
〇日本には寄付の文化がないと言われてきた。しかし、阪神・淡路大震災(1995年1月)や東日本大震災(2011年3月)などを契機に、寄付やボランティア・市民活動などについての意識や環境(政策・制度等)は変わったと評される。そんななかで、寄付が求められる厳しい現実の分析や、寄付についての歴史的・社会的認識が問われなければならない。本稿を草することにした筆者のひとつの思いである。
〇筆者の手もとに、ウィリアム・マッカスキル(William MacAskill、イギリス)著/千葉敏生訳『〈効果的な利他主義〉宣言!―慈善活動への科学的アプローチ―』(みすず書房、2018年11月。以下[1])という本がある。その原著のタイトルは、“Doing Good Better”(『よいことを、よりよく行う』2015年)である。ひとことで言えば[1]は、「効果的な利他主義」の手引書(ガイドブック)である。
〇「効果的な利他主義」(effective altruism)は、単なる感情によって、また自己満足や売名のために寄付や慈善活動を行うのではなく、本当の意味で人々の役に立つ・利益になるための「最高の活動」をいう。しかも、その活動に対して科学的・合理的なアプローチを取り入れ、客観的な証拠や入念な推論、そして便益の数値化を重視する。[1]ではしばしば、「質調整生存率」(QALY/Quality-adjusted Life Year/「命を救う」(寿命を延ばす)ことと「生活の質」〈QOL/Quality of life〉を向上させることのふたつをまとめた指標)や「幸福調整生存率(WALY/Well-being-adjusted Life Year/離婚や失業などによって変化する幸福度の指標)が使われる(その内容については原典にあたっていただきたい)。
〇以下に、マッカスキルが説く論点や言説のうちから、筆者が留意したいいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。
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「効果的な利他主義」とは何か
「利他主義」という言葉は、単純にほかの人々の生活を向上させるという意味だ。利他主義には自己犠牲がつきものだと考える人々も多いけれど、自分自身の快適な生活を維持しつつ相手にとってよいことができるなら、それに越したことはない。(中略)「効果的」という言葉は、手持ちの資源でできるかぎりのよいことを行なうという意味だ。効果的な利他主義では、単に世界をよりよくするとか、ある程度よいことを行なうのではなく、できるかぎりの影響を及ぼそうとする。(中略)ある行動が「効果的」かどうかを判断するには、どの行動がどの行動よりも優れているかを理解しなければならない。その目的は、(中略)よいことをする最善の方法を明らかにし、その行動を最優先することにある。(13ページ)
最高の慈善プログラム
私たちは平均的に有効なだけのプログラムに寄付する必要はない。最高のプログラムだけを選りすぐって支援すれば、桁違いによいことができる。(中略)人々の役に立つという点でいえば、お金を効率的に使うのと、ものすごく効率的に使うのとの差は大きい。だから、「このプログラムはお金の効率的な使い方か?」ではなく、「このプログラムはお金の最高の使い方か?」と問うことが大事なのだ。(52~53ページ)
自然災害と慈善活動
慈善活動という点でいえば、ほとんどの人は直感に従い、昔から続いている問題よりも新しい出来事に反応してしまう。自然災害への反応はそのもっとも際立った事例のひとつだ。災害が発生すると、私たちの脳の感情中枢が燃え上がり、「緊急事態だ!」と判断する。私たちは病気、貧困、迫害のような日常的な緊急事態に慣れきっているので、常に緊急事態が起きていることを忘れてしまう。自然災害は劇的で新しい出来事なので、私たちの心をより大きく揺さぶる。その結果、私たちはそれをほかより重大で注目すべき災害だと誤解してしまうのだ。
あるニュースに心を打たれ、助けを差し伸べたいと思ったとしても、その衝動をぐっと抑えるほうがおそらく賢明だろう。あなたと同じように寄付しようとしている人はたくさいいるからだ。(中略)もちろん、自然災害が発生したときに湧き上がる感情を行動に結びつけるのはいいことだ。ただし、そんなときはふと立ち止まって、同じような災害が常に起こっていることを思い出し、もっとも注目を集めている災害ではなく、あなたのお金をもっとも役立てられる場所へと寄付することを考えてほしい。(62~63ページ)
「寄付するために稼ぐ」
寄付するために稼ぐというのは、まさしくその言葉どおりの行動だ。あなたが仕事を通じて及ぼす直接的な影響を最大化しようとするのではなくて、もっと多く寄付できるよう稼ぎを増やし、日々の仕事ではなく寄付を通じて人々の生活を向上させ
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ようとするのだ。ほとんどの人は「影響力のある」キャリアを選ぼうとするとき、この選択肢を検討しない。しかし、時間とお金はふつう交換可能だ。お金で人々の時間を買えるし、あなたの時間を使えばお金を稼げる。なので、仕事自体を通じて直接人々の役に立つキャリアだけが最高のキャリアだと決めつける道理はない。本気で世の中のためによいことをしようと思うなら、「寄付するために稼ぐ」という道も検討するべきた。(80ページ)
「効果的な利他主義」の考え方のチェックリスト
寄付や慈善活動は「どうすれば最大限の影響を及ぼせるか?」を考えるためのフレームワークやチェックポイントを提供する。
――「効果的な利他主義」にとって重要な疑問(質問)
①何人がどれくらいの利益を得るか?/②これはあなたにできるもっとも効果的な活動か?/③この分野は見過ごされているか?/④この行動を取らなければどうなるか?/⑤成功の確率は? 成功した場合の見返りは?
――どの慈善団体に寄付するべきか?
①この慈善団体の活動内容は?/②各プログラムの費用対効果は?/③各プログラムが有効であることを裏づける証拠の信憑性(しんぴょうせい)は?/④各プログラムはどれくらい適切に実施されているか?/その慈善団体は追加の資金を必要としているか?
――どのキャリアをめざすべきか?
①私とこの仕事との個人的な相性は?/②この仕事を通じて私が及ぼせる影響は?/③この仕事は私の将来的な影響力にとってどれだけプラスになるか?
――どの活動分野に取り組むべきか?
①規模。/②解決可能性。/③見過ごされている度合い。/④個人的な相性。(215~219ページ)
「効果的な利他主義者」になるためのアイデア
効果的な利他主義の考え方を取れ入れれば、一人ひとりがとてつもなくよいことをする力を手に入れられる。(中略)「効果的な利他主義者」になるためのアイデアをいくつか紹介する。
①定期的に寄付する習慣をつける。/②効果的な利他主義の考え方を人生に取り入れるためのプランを立てる。/③効果的な利他主義のコミュニティに加わる。/④効果的な利他主義を広める。(207~209ページ)
〇マッカスキルは、次のように述べている。「援助はせいぜい効果がなく、下手をすれば害を及ぼすという考え方を広めたウィリアム・イースタリー(William Easterly、アメリカ)の著書は、国際的な援助活動は時間と労力のムダだと考える懐
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疑派たちにとってのバイブルとなった」(45ページ)。イースタリーの原著のタイトルは、“The White Man’s Burden”(『白人の責務』2006年)であり、翻訳本のタイトルは『傲慢な援助』(小浜裕久・織井啓介・冨田陽子訳、東洋経済新報社、2009年9月。以下[2])である。ひとことで言えば[2]は、本当に有効な援助とは何か、を問う論争の書である。以下に、イースタリーの言説の一部を紹介する(抜き書きと要約)。
〇イースタリーにあっては、世界には2種類の「貧困の悲劇」がある。ひとつは貧困が人々を苦しめているという悲劇(「第1の悲劇」)であり、いまひとつは莫大な援助をつぎ込みながらも貧困はなくなっていないという悲劇(「第2の悲劇」)である。「第1の悲劇」については、多くの人が声を大にして語り、それなりの援助活動を行っている。しかし、「第2の悲劇」について語る人は多くない。「第1の悲劇」を少しでも改善するためには、先進国の人々は「第2の悲劇」について認識すべきである。世界の貧困問題を解決するためには、先進国が巨額の援助をする「壮大な計画」(ビッグ・プラン)を実施することではなく、その計画を改革あるいは廃止し、援助資金がそれを本当に必要とする貧しい人々に届くようにすることが必要である(6~8ページ)。
〇イースタリーは、貧困問題の援助者像について、「プランナー」(Planners)と「サーチャー」(Searchers)を対照的に提示する。プランナーは、貧しい人々の個人的なインセンティブ(誘因)や行動様式を考慮せず、援助現場から離れたところで世界レベルの政策や枠組みを策定し、トップダウン型で問題解決を図ろうとする援助者である。サーチャーは、援助現場の人々の近くに身を置いて、個々の実情やニーズを把握し、ボトムアップ型で課題の解決策を探ろうとする援助者である。プランナーは、「飢餓との戦い」「貧困の終焉」などの美しい目標を立てるが、その実現に責任を負わない。サーチャーは、フィードバック(結果・成果による改良・調整)とアカウンタビリティ(説明責任)を重視し、個別の援助行動に責任を負う(8~11、22~24ページ)。
〇ここで、イースタリーの次の主張をメモっておくことにする。
●世界が直面する複雑な諸問題を、ユートピア的な援助計画で解決できるなどと多くの人々が考え違いをしているという現実こそ、援助が抱える最大の問題である。(424ページ)
●援助で貧困を終わらせることはできない。自由市場における個人や企業のダイナミズム(活力)に基づいた途上国自身の手による開発努力こそが、貧困に終止符を打てるのだ。経済発展そのものを援助で実現しようなどという幻想を捨てるなら、貧しい人々が困っている個別の問題解決において、今以上に援助できることがあるだろう。(425ページ)
●プランはダメだ。プランではなく、途上国の実情に詳しいサーチャーに援助を任せ、施策の効果を実験的に把握し、援助がどうしたら貧しい人々の役に立つかは、貧しい人々が一番よく知っているから、彼らからのフィードバックを参考にして援助を進めるべきだ。(426ページ)
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●貧しい人々を助けたいと思うなら以下のことを実践しよう。
① 援助に従事する者は、貧しい人々の生活をよくするために自分は個別の分野で何ができるかを明らかにしておくべきである。
② 自分のできる分野の過去の経験に基づいて、どうすればうまくいくかを探求しなくてはならない。
③ いろいろ調べた結果に基づいて実験をしてみよう。
④ 目標とされる人々からのフィードバックと科学的方法に基づいてきちんと評価すべきである。
⑤ 成果が出た時は評価し、失敗した時はペナルティがなくてはならない。うまくいくプロジェクトには予算をたくさんつけ、ダメなプロジェクトの予算は減らすべきだ。援助をする組織は、自分たちのやり方がいいのだと言うことが分かるようにすべきである。
⑥ ⑤のインセンティブをきちんと確立すればステップ④が繰り返される。もしうまくいかないと、⑤のインセンティブ構造にしたがって援助の担当者はステップ①に戻る。もし失敗が続けば、新しい専門家を探さなくてはならない。(441~442ページ)
●先進国の人であれ、途上国の人であれ、貧しい人のことを考えている人には、誰でも役割がある。(中略)あなたがもし援助に関わっているなら、ユートピア的目標を捨て、貧しい人々を助けるには何ができるかを考えてほしい。貧しい人々を支援する仕事に従事していないとしても、一市民として、援助は貧しい人々に届かないことには意味がないと声を上げることはできるだろう。(443、444ページ)
〇マッカスキルとイースタリーの言説は刺激的である。視野を広げ、視点を変えることができる。また、新たな寄付や援助活動の潮流(トレンド)を生み出すものとして興味深い。ただ、マッカスキルの功利主義の立場やイースタリーの二項対立的な思考については、全面的に首肯できるものでもない。過剰な現場主義は、無軌道な暴走や非合理的な思考をもたらす危険性がある。そこで、現場のニーズに真に応えるためには、利他的行動をめぐる感情(「心」)と理性(「頭」)を如何に組み合わせるか、プランナー的なやり方とサーチャー的なやり方を如何に有機化し共働性を高めるか、などが問われることになる。また、プランナー的なやり方を如何にしてサーチャー的なやり方にシフトするかも重要な課題となる。曽野綾子は「ODA(Official Development Assistance、政府開発援助)として供与される資金のかなりの部分が相手国の指導者の懐(ふところ)に入ると考えるのが普通」(「訳者あとがき」『傲慢な援助』448ページ)だと言う。付記しておきたい。
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12/「ボランティア動員論」の落とし穴
―中野敏男(社会思想)から学ぶ―
〇筆者は、手もとにある中野敏男(なかの・としお、東京外国語大学)の著書『大塚久雄と丸山眞男―動員、主体、戦争責任―』(青土社、2001年12月。以下[1])に所収の論文「ボランティアとアイデンティティ―普遍主義と自発性という誘惑―」(初出は「ボランティア動員型市民社会論の陥穽」『現代思想』vol.27-5、青土社、1999年5月、72~93ページ)を久しぶりに読み返すことにした。今またなぜ「中野敏男なのか」、「ボランティア動員論なのか」、と言われそうであるが、以下は、[1]の言説で留意したい点として筆者が再認識した、中野のボランティアをめぐる論点や言説(「動員論」)の一部である(見出しは筆者)。
「システム危機管理型国家」の方向
今日の日本で「ポスト福祉国家」の道として提示されているのは、国家の機能上の重心を「社会福祉」から政治-軍事的、経済的な「システム危機」への対応に大きく移行させた「システム危機管理型国家」とでも言うべき方向であって、それは、一方で有事を想定した安全保障のための「新ガイドライン」の導入や金融システムの危機に対する大規模な「公的資金」の投入など顕著に権力国家的・介入国家的な性格と、他方では教育や福祉などの部門に「法人化」の促進や「介護保険制度」の設立に示されるような市場原理の導入をもってする「リベラル」国家的な性格とを兼ね備えていこうとするものなのである。そしてこの道は、この国家システムに「主体」的に参与する「国民」の自発的意志をより多く必要とし、他方では、そこから外れたアウトサイダーやマイノリティに対するレイシスト(racist、差別的思想を持つ者:阪野)的な異者排除と、「福祉」や「保護」を要求する「弱者」の存在の軽視、あるいは「二流国民」化に進まざるをえないはずだし、現にそうなってきている。「国旗・国歌」法の制定(1999年8月公布・施行:阪野)から教育基本法の改定(2006年12月公布・施行:阪野)へ、そして憲法の改定へ、この一連の制度整備の動きは、現に自覚的なものになっているその方向への政策意思の表れとして読むことができる。ここで国家は、相対化されるどころか、新たにより危険な支配的機能を強化しようとしているのである。(253ページ)
ボランティアの動員
ボランティアは、言葉の意味からすれば人々の「自発性」を示すものだけれど、現在の状況下でそれを、「人間の主体の自立」の表れなどと賛美できるのだろうか。(中略)今日、ボランティア活動の意義をひときわ声高に宣揚している者とは、誰なのか。もちろんそれは、決して市民社会の可能性をポジティヴに見ようとする論者だけではあるまい。例えば、むしろ日本の文部科学省が、市民社会が対峙するはずの当の国家システムを代表する位置
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から、とりわけ精力的かつ組織的にボランティア活動の推進に努めているということがある。(257ページ)
ここに浮かびあがっているのは、国家システムが主体(subject)を育成し、そのようにして育成された主体が対案まで用意して問題解決をめざしシステムに貢献するという(「アドボカシー(advocacy 政策提案)型の市民参加」)、まことに都合よく仕組まれたボランティアと国家システムの動態的な連関である。すなわちボランタリーな活動というのは、国家システムを越えるというよりは、むしろ国家システムにとって、コストも安上がりで実効性も高いまことに巧妙なひとつの動員のかたちでありうるのである。
ボランティアは、国家システムの側の要求でもある。そう考えてみると、この要求が今日ことさら大きな声でなされているわけもよく理解できる。「福祉」などの機能をボランティアがより広範に果たすようになれば、(中略)国家の機能転換すなわち「福祉国家」から「システム危機管理型国家」への転換は、より容易になるはずだ。現在流行のボランティアの称揚は、もちろん進行中の「行政改革」や「教育改革」にも、そして「安全保障」にも、きちんとリンクしていると考えなければならないのである。そうだとすれば、それだけでも、この現在の動きにそんなに簡単に乗っかっていいのかという問いは避けられない。(258~259ページ)
ボランティアの自発性
「自発的」だからといってシステムから「自立」しているなどとは言えない(中略)。自発的なボランティアは、それの社会的機能から考えればむしろ無自覚なシステム動員への参加になりかねないのだし、ボランティアの自発性をただ称揚する市民社会論は、その点を塗りつぶすことによって、進行するシステム動員の重大な隠蔽に寄与しかねないということである。(260ページ)
現状とは別様なあり方を求めて行動しようとする諸個人を、抑制するのではなく、むしろそれを「自発性」として承認した上で、その行動の方向を現状の社会システムに適合的なように水路づける(中略)。今日、「ボランティアという生き方」がさかんに強調されるようになっているのは、実は、まさにそのような方策としてそれが採用されているということなのではないだろうか。(278~279ページ)
〇中野の言説のひとつは、「ボランティアという生き方」は、諸個人が「何かをしたい」という意志(自発性)だけがあるにすぎない。その主体=自発性は、それ自体としては「目的」や「中身」を持たない抽象的なものである。それゆえに、国家の呼びかけに応え、国家を補完する無自覚的なシステム動員への参加になりかねない。「自発的」だからといってシステムから「自立」しているとは言えない。ボランティアも、人間の主体=自発性も、「下からの公共性」(258ページ)のようにみえて、国家や行政によるいわば“下からの
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動員”のシステムに組み込まれている、というものである。そこで、中野は「今日のボランティア活動の高まりに市民社会の復権を見る論者たちは、そのようなボランティアのあり方にしっかり注意を払っているだろうか」(281~282ページ)と問いかける(批判する)。
〇ボランティアは、現状の国家や社会のシステムから自立・自律した「市民自治」をめざすものであると言われる。そうだとすれば、市民主権やまちづくり、主体形成などを説く「福祉教育論」はこれまで、「市民自治」や「まちづくり」を厳しく問い、深く考究してきたであろうか。その点に関して、中野の論考は、阪神・淡路大震災が発生した4年後に発表されたものであるが、震災後20年が経っても古さを失っていない。2011年3月の東日本大震災や2016年4月の熊本地震などが発生するなかで、むしろその重みは増していると言ってよい。
〇「ボランティア動員論」に関して、仁平典宏(にへい・のりひろ)の次の一節を付記しておきたい。「『全ての動員は悪い』と総称的に論じるより、その動員が何と接続しているのかを個別に精査/評価する方が、有意義である。文脈抜きの動員批判は、文脈抜きの協働擁護と同じぐらい認識利得が小さい。(中略)ボランティア活動が政策に『従属』していたとしても、その政策が規範理論的に擁護可能なら、その『動員』への批判は限定的に解除されてよい」(仁平典宏『「ボランティア」の誕生と終焉―〈贈与のパラドックス〉の知識社会学―』名古屋大学出版会、2011年2月、424ページ)。
〇「災害などの『有事』の際のボランティア」「日米のゆるぎない『同盟』関係」などと言われる。「有事」や「同盟」は、実質的には戦争や軍事に関する言葉である。また、国民に周知・認知されていないものに、「国民保護法」(「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律」。2004年6月公布、同年9月施行)にいう有事の際の「自主防災組織及びボランティア」についての規定がある。強く認識しておきたい。「気がつけば有事になっていた」「その際には否応なしにボランティアに駆り出された」、それだけはごめんこうむりたい。
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13/「ボランティア拒否宣言」に思う
―花田えくぼ(??)から学ぶ―
〇日本社会では、民主主義が後退し、右傾化・全体主義化が進んでいる。また、「災害多発時代」や「無縁社会」「共生社会」「管理社会」などについて云々される。ボランティアに関しては、「動員」「派遣」「活用」「タダ働き」「有償」「感動体験」「やりがい詐欺」等々の言葉が躍っている。『戦争ボランティア』(高部正樹著、並木書店、1995年2月)や『ブラックボランティア』(本間龍著、株式会社KADOKAWA、2018年7月)というタイトルの本も出ている。そういうなかでいま、ボランティアや市民活動の新たな展開を図るために、「ボランティア」や「市民活動」についての本質的な議論が求められている。
〇その時宜にかなった本が刊行された。早瀬昇著『「参加の力」が創る共生社会―市民の共感・主体性をどう醸成するか―』(ミネルヴァ書房、2018年6月)がそれである。筆者は早瀬の「ボランティア」言説にすべて首肯するものではないが、この本では、市民による「自治と共生の社会」を構築するための基礎的知識や、市民参加(市民活動)の視点や考え方についてわかりやすく解説されている。そのなかで早瀬は、花田えくぼの詩「ボランティア拒否宣言」(おおさか・行動する障害者応援センターの機関誌『すたこらさん』1986年10月号)を紹介している。筆者がこの詩に最初に出会ったのは、岡本栄一「ボランティア活動の分水嶺」大阪ボランティア協会監修/小田兼三・松原一郎編『変革期の福祉とボランティア』(ミネルヴァ書房、1987年7月、251~252ページ)においてである。鋭く厳しい表現(「犬」)や言葉によるボランティア批判は、衝撃的であった。およそ30年前のことである。以下にその詩を記しておく(ルビは筆者)。
ボランティア拒否宣言/花田えくぼ
それを言ったらオシマイと言う前に
一体私に何が始まっていたと言うの
何時だってオシマイの向うにしかハジマリは無い
その向う側に私は車椅子を漕(こ)ぎ出すのだ
ボランティアこそ私の敵
私はボランティアの犬達を拒否する
ボランティアの犬達は 私を優しく自滅させる
ボランティアの犬達は 私を巧(たく)みに甘えさせる
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ボランティアの犬達は アテにならぬものを頼らせる
ボランティアの犬達は 残された僅(わず)かな筋力を弱らせる
ボランティアの犬達は 私をアクセサリーにして街を歩く
ボランティアの犬達は 車椅子の蔭で出来上っている
ボランティアの犬達は 私をお優しい青年達の結婚式を飾る哀(あわ)れな道具にする
ボランティアの犬達は 私を夏休みの宿題にする
ボランティアの犬達は 彼等の子供達に観察日記を書かせる
ボランティアの犬達は 私の我がままと頑(かたく)なさを確かな権利であると主張させる
ボランティアの犬達は ごう慢と無知をかけがえのない個性であると信じ込ませる
ボランティアの犬達は 非常識と非協調をたくましい行動だと煽(あお)りたてる
ボランティアの犬達は 文化住宅に解放区を作り自立の旗を掲げてたむろする
ボランティアの犬達は 私と社会の間に溝を掘り幻想の中に孤立させる
私はその犬達に尻尾を振った
私は彼らの巧みな優しさに飼い慣らされ
汚い手で顎(あご)をさすられた
私は もう彼等をいい気持ちにさせて上げない
今度その手が伸びてきたら
私は きっとその手に噛(か)みついてやる
ごめんね
私の心のかわいそうな狼
少しの間 私はお前を忘れていた
誇り高い狼の顔で
オシマイの向こう側に
車椅子を漕ぎ出すのだ
〇この詩については、複数のヒトがその内容を読み解いている。ここでは、筆者の手もとにある論考のうちから、岡本栄一らの解釈(総括)を紹介しておくことにする。
岡本栄一
この詩はいろいろな解釈を私たちに迫る。「障害者の自立」の問題、「一人よがりの独善的なボランティア活動」、あるいは「活動の手段化」等々。
いずれにしても、ボランティア活動を先験的、アプリオリ(自明的:筆者)に「社会的善」であるとみなしている人達には大変ショッキングな詩であろう。車イスを
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押したなら、どんな押し方でも障害者は「ありがとう」というべきものだ、と考えている人達は、きっと「傲慢」な障害者の詩だと思うだろう。私はこんな詩を書かせたこれまでのボランティア活動の「あり方」を悲しいと思う。ここには健常者と障害者とを二つに分けたままで成立するボランティア活動の姿がある。そこではお互いが成長せず、また変わりもしない、といったことがある。ともあれ、私はボランティアの側だけで「自己回転」する活動が、どんなに罪が大きいか、この詩を読んでハッとさせられたことは事実である。(岡本栄一『前掲書』252~253ページ)
筒井のり子
「かわいそう」という言葉自体は、もちろん差別語ではないが、その使われ方、使う人の気持ちいかんで、きわめて差別的な響きをもってくる。優越感の裏返しの同情は、その受け手にとって屈辱である。
次の詩はある障害者団体の機関誌に投稿されたものだが、“優しさ”から出発した援助が、結果的に相手の自立を損なってしまうことを、鋭く告発している。
「何もできない人」「かわいそうな人」「常に誰かの助けが必要な人」という決めつけは、ボランティア活動の本質をゆがめる。
たしかに現在、彼らは援助を必要としている。しかし、「援助を受ける側」という固定的なとらえ方をすべきではない。(筒井のり子『ボランティア・コーディネーター―その理論と実際―』大阪ボランティア協会、1990年3月、52、54ページ)
仁平典宏
1970年代以降、「ボランティア」は障害者から、抑圧者として尖鋭な批判を突きつけられることになった。この中で〈犬〉の記号も反復される。次の詩は、障害者運動――親や周囲の「善意」によって障害者の可能性が縮減されていく事態に対する根底的な異議申し立て――の系譜に位置づくものである。「ボランティアの犬達は」と何度もくり返されるこの詩は、それが〈贈与〉の対価として何を奪うかを、雄弁に告発している。
無償の、愛情に満ちた〈贈与〉行為こそが、「障害者」を障害者役割にとどめ、その可能性を根こそぎ奪っていく――言うまでもなくこれは、障害者運動が提起した最も重要な論点の一つであった。同時にボランティア言説の歴史も、決してナイーブなものではなく、絶えずこのような否定的なまなざしとの緊張のもとにあった。その中で、ボランティア言説は展開し鍛えられ、それなりに首肯性をもつ答えも生み出されてきた。(仁平典宏『「ボランティア」の誕生と終焉―〈贈与のパラドックス〉の知識社会学―』名古屋大学出版会、2011年2月、32、34ページ)
鳥居一頼
この詩は、たしかに衝撃が強いメッセージである。デフォルメ(歪曲:筆者)された表現であるが、そこに潜むボランティアの問題の核心を鋭く突いていることは、
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間違いない。このくらい痛烈に批判しない限り、お互いに覚醒はできないかもしれない。彼女のボランティア批判は、そこに安住した自身への憤りと悔悟(かいご:筆者)でもあり、その批判の矢は“自らに”放ったものでもあるといえよう。
その批判を裏読みすると、そこにボランティアの本質が見えてくる。逆説的に見るとボランティアとの信頼関係をどのように構築するのか、その関わり方を見事に表現しているのである。
もう一つ、ケアのあり方について問題を提起している。(中略)
この「ボランティア拒否宣言」は、まさに地域包括ケアが本格化する「ケア時代」に生きる多くの高齢者や闘病者の意思表明や自己選択・決定にかかる問題をも包含していることに気づかされる。花田の「頑固に意志を通す」生き方を考え真摯に受け止めなければ、障がい者や高齢者、そして闘病者にも、自己喪失の道を彷徨する悲劇となるであろう。(鳥居一頼「詩『ボランティア拒否宣言』に学ぶ“自立”と歪んだボランティア観~覚醒と受容そして意識変革を促す教材としての価値を探る~」『人間生活学研究』第22号、藤女子大学人間生活学部人間生活学科、2015年3月、103ページ)
早瀬昇
詩で使われている表現は激しいものではあるものの、ここで書かれているのは不信感から来るボランティアの拒否ではなく、逆にボランティアへの期待を込めた一種のラブレターだとも考えられます。というのも、この詩が掲載されたのは、障害者とボランティアが「障害の有無に関わらず、共に」より良い社会づくりを目指している団体の機関紙だからです。
とはいえ、この詩で私たちに届けようとしたボランティアへの問題提起には、真摯に応えなければなりません。ボランティアとボランティアが応援する相手との協働関係については、(中略)両者が共に生きる「共生」の関係づくりが重要になります。(早瀬昇『前掲書』93ページ)
〇いずれにしろ、この詩が発表された1980年代半ば以降は、1981年の「国際障害者年」、1983年から1992年までの「国連・障害者の10年」の取り組みや「障害者生活圏拡大運動」とともに、「障害者自立生活運動」が展開された時期である。「優生思想」「自立と自己決定」「障害文化」などについて激しく議論された。「青い芝の会」(横塚晃一、横田弘)や「札幌いちご会」(小山内美智子、沢口京子)などによる社会的差別・偏見に対する糾弾闘争が思い出される。それにしても、横塚晃一の『母よ! 殺すな』(すずさわ書店、1975年2月)はあまりにもインパクトの強い本であった。
〇そしていま、この詩の主語(「主役」)を「政府や行政」、「ボランティアの犬達」を「ボランティアの私達」に置き換えると、例えば、「国や行政は、ボランテ
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ィアの私達をアテにならないものに頼らせ、巧みに甘えさせ、優しく自滅させる」などとなろうか。そこにあるのは政府・行政主導の「地域共生社会」「地方創生」「一億総活躍社会」の実現や、ボランティアによる国民保護活動の展開(「国民保護法」)にむけた「篭絡」(ろうらく。巧みにいいくるめて人を自由に操ること)である。気がつくと、恣意的に解釈されている「積極的平和」のために「戦争ボランティア」が動員・派遣される、ということが一番怖い。
〇なお、筆者は、ボランティア活動については大まかには、「人権意識や正義感覚に基づく主体的・自律的な住民による・住民のための市民活動」である。「主体的」とは「他のものによって導かれるのでなく、自己の純粋な立場において行うさま」であり、「自律的」とは「外部からの支配や制御から脱して、自身の立てた規範に従って行動すること」をいう(『広辞苑』第7版)。すなわち、市民活動は、「言われなくてもするけれど、言われてもしない」(早瀬『前掲書』231ページ)活動である。ボランティア活動は、原則的に「無償」であり、「有償ボランティア」という言葉は矛盾した使用法である。「市民活動」は、(無償の)ボランティア活動と非営利・有償活動の両者を包含するものである。そして、ボランティア活動は、「ボランティアのいない地域・社会」づくりをめさず活動であり、そこにあるのは主体的権利と社会的責務としての市民活動である、‥‥‥と考えている。
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14/「生きづらさ」考
―中西新太郎(社会哲学)・他から学ぶ―
〇「生きづらさ」という言葉や概念が使われるようになって久しい。藤野友紀(ふじの・ゆき、教育学)によると、「生きづらさ」という言葉が用いられたのは、雑誌記事検索で調べてみると、1981年の日本精神神経学会総会において「主体的社会関係形成の障害と抑制」として語られたのが最初である。2000年以降、「生きづらさ」などをタイトルに掲げる論考は一挙に増え、その学問的・実践的分野や領域も確実に拡がっている(藤野友紀「『支援』研究のはじまりにあたって―生きづらさと障害の起源―」『子ども発達臨床研究』創刊号、北海道大学、2007年3月、46ページ)。
〇「生きづらさ」の近接・関連用語に「障害」や「バリア(障壁)」がある。「障害」についてWHO(世界保健機関)は、2001年5月、ICIDH(国際障害分類)に変えて人間の生活機能と障害の分類法としてICF(国際生活機能分類)の考え方を提唱した。それは、「心身機能・身体構造」「活動」「参加」の3つの次元と「環境因子」「個人因子」の2つの因子によって構成されている。「バリア(障壁)」は、一般的には「物理的バリア」「社会的バリア」「制度的バリア」「心理的バリア」の4つに分類される。周知の通りである。
〇「生きづらさ」という用語や概念は曖昧である。しかもそれは、子ども・青年や貧困者、高齢者、障がい者などに固有のものとして、個人的・主観的な心情や問題・課題として捉えられることが多い。しかしそれは、モラルハザード(道徳性や倫理観の混乱・欠如)によるものではなく、現代日本の社会構造(現代資本主義)の政治的・経済的・社会的そして歴史的な欠陥や矛盾によるものである。その欠陥や矛盾は、1990年代、2000年代以降、なんら解決・解消されることなく、むしろ多様化・多層化・多元化が進んでいる。2016年3月に施行された安全保障関連法や2018年12月に発効した環太平洋パートナーシップ(TPP)協定(経済連携協定)などによる現代版「富国強兵」政策が推進される“いま”においても、である。
〇「生きづらさ」とは、社会や組織のなかに自分の「居場所」(「要場所」)が見つからず、将来(あす)への希望や展望をもつことができない生活上の困難や不利益を被(こうむ)っている社会的排除の状態をいう。
〇「生きづらさ」は、一人ひとりが抱える困難・不利益や不安・不満を自己責任に「内閉化した問題」や「他者との関係性」の歪(ゆが)みなどとして、複雑で多面的な様相を呈している。貧困のなかで思考や意欲までも奪われる人(湯浅誠「意欲の貧困」)や、社会や組織・集団における人間関係をうまくつくれない人などが思い起こされる。そうした人たちは、社会(財界)が求める制度やシステムによって選別・分断され、排除されている。
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〇“いま”求められるのは、「生きづらさ」の正体を暴(あば)き、その今日的現状をあぶり出し、その解決策(社会参加支援や居場所支援などの社会的包摂支援)を探求することである。それは、対症療法的な単なる処方箋ではなく、「下から」のまちづくりや地域・社会改革を志向するものでなければならない。その担い手は言うまでもなく、「生きづらさ」のなかにいる一人ひとりの住民・市民であり、社会的・政治的アプローチを行う支援者や組織・団体である。そこでは、表面的な同情や共感ではなく、真の連携や共働のあり方が厳しく問われる。
〇「生きづらさ」や「生きにくさ」をタイトルにした本は、筆者の手もとに5冊ある。以下がそれである。
(1) 中西新太郎著『〈生きにくさ〉の根はどこにあるのか―格差社会と若者のいま―』(前夜セミナーBOOK)特定非営利活動法人 前夜、2007年3月(以下[1])
「苦しいけれど声が出せない日常を生きるのが若い世代の状態である」(5ページ)。本書は、その「生きづらさ」や「現代日本の抑圧構造」を確かめ、検証するために行われたセミナーの記録を中心に編まれたものである。国家主義と新自由主義とを合体させた政治体制のなかで、「まさか生存権が保障されないはずはない、という思いこみは通用しない。生きづらいと思うことさえ許されない抑圧状況はいっそう深く、広く、この社会に進行している」(6ページ)と中西新太郎(社会哲学)は説く。
(2) 湯浅誠・川添誠編『「生きづらさ」の臨界―“溜め”のある社会へ―』旬報社、2008年11月(以下[2])
本書は、社会活動家である湯浅誠と川添誠が「現代日本の生きづらさ」をテーマに、本田由紀(教育社会学)、中西新太郎(社会哲学)、後藤道夫(社会哲学)の研究者と行った鼎談を纏(まと)めたものである。湯浅は言う。「結局、私たちは『NOと言える市民・労働者・消費者になろう』と呼びかけたいんだ、と最近よく思います。こんな政治家はいらない、そんな非人間的な労働はしない、そんな商品は買わない、と個々の場面で人間(生)・労働・商品のダンピングに否をつきつけられる社会にしたい。それが言えるなら、そしてそれを言っても孤立しない、大丈夫だと感じられるようになれば、この社会の『生きづらさ』は相当程度軽減するだろう、というのがわたしの見通しです」(9ページ)。
(3) 香山リカ・上野千鶴子・嶋根克己著『「生きづらさ」の時代―香山リカ×上野千鶴子+専大生―』専修大学出版局、2010年11月(以下[3])
「現在確かに『生きづらい』状況が、人間の内側(こころ)にも外側(社会)にも蔓延している」(荒木敏夫、8ページ)。本書は、「生きづらさのゆくえ」をテーマにした講演とシンポジュウ、それを聞いた学生たちの座談会の記録である。講演では、香山リカ(精神科医)が「生きるのがしんどい、と言う若者たち」、上野千鶴
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子(社会学)が「ネオリベ改革がもたらしたもの」について「こころ」や「社会」の問題を解きほぐす。
(4) 岡田尊司著『「生きづらさ」を超える哲学』(PHP新書)PHP研究所、2008年12月
親と折り合いが悪い人、いわれのない不安に悩む人、心に空虚感を抱えている人、「絆」に縛られている人、自分が何者かわからない人、生きる意味が見つからない人。「生きづらさ」を抱える人が増えている。アルツール・ショーペンハウァー(ドイツの哲学者)、ヘルマン・ヘッセ(ドイツの詩人・小説家)、サマセット・モーム(イギリスの小説家・劇作家)らの生き方や岡田尊司(精神科医)自身の豊富な臨床経験を通して、「生きづらさ」を乗り越え、自分らしく生き抜くための哲学を描き出す。それが本書である。岡田は最後に言う。「生きるための哲学は、生きようとする営みのなかにこそある」(253ページ)。
(5) 小山真紀・相原征代・舩越高樹編『生きづらさへの処方箋』ナカニシヤ出版、2019年2月
本書は、京都大学のメンバーを中心に2014年に立ち上げた共同研究による、「生きづらさ学」からの実践的アドバイスの本である。そこでは、「過保護,性差、外国人差別、発達障害など、学生生活をメインに想定した種々の『生きづらさ』を分野横断的に分析し、克服の具体的方法を提示する」(「帯」より)。その際の「処方箋」(ヒント)は、臨床現象学をはじめ、社会学、法哲学、文化人類学、防災学、障害学生支援、精神医学、環境分析など、まさに分野横断的・俯瞰的視点に基づいている。「生きづらさ学」は「生きづらさの横軸」を探す学問であり、「生きづらさの共通性」や「他者との関係性」に留意する必要がある、と言う。
〇さて、本稿ではまず、[1]において留意したい論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。
困難の内閉化と「自己責任論」
被害を被(こうむ)っている側に「自分に責任がある」と感じさせてしまう、つまり困難を内閉化させる抑圧様式は日本社会にいたるところで蔓延(まんえん)している。(中略)一人ひとりが抱える困難をその人の内側へと閉じこめる強烈な力がはたらいている。私には異議を申し立てる権利があると言わせない、封殺する力である。責任を偽装すると言ったほうが正確であるが、これは、きわめて深い抑圧の姿である。(58ページ)
このようなレトリック(表現の仕方)や自分に責任があるという感じ方を導く有力な言説として「自己責任論」がある。(中略)抑圧された者たちを徹底的に無力にしていく思想的回路として、自己責任論をとらえる必要がある。(59ページ)
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自立支援と「生存権」の損壊
(近年の「自立支援型政策」にいう)政策言語としての「自立」は、公的・社会的な支援に頼らずに自己責任で生きていくという意味である。(128ページ)
「権力」と「社会的無力」という不平等な関係を含んだ(自立―依存関係)が「自立」のあるべき姿として押しつけられている。(128ページ)
生存権を保障する政策は、事情があって自立できない人たちが対象であるが、自立支援型の政策では、「自立」の見込みや「意欲」の有無という新たな尺度で対象者を再分類する。(129ページ)
生存権を平等に保障するという考え方が崩れると、どのような結果が表れるか。意欲や見込みのあるなしは、権力者によって認定・選別されるから、保障を得るには、自分は意欲も自立の見込みもない「真の弱者」だと認めなければならない。(129ページ)
つまり、自立できない存在は完全に無力であるとされ、自立できぬ以上他の人よりも低い処遇に甘んじるよう社会的に強制される。「国家の慈悲によってはじめて人権を保護される」存在になる。19世紀に福祉国家の観念が出てくるまで通用してきた「残余的福祉」という考え方である。(129ページ)
「自立支援」は、「真の弱者」をあぶり出し、同時に、自立してがんばろうと思う者を「貧困な自立」の状態に固定していく、という結果を招くのである。(中略)「自立支援」という政策を使って絶対的な貧困を受け入れさせる、生存権損壊(そんかい)のスパイラル(螺旋〈らせん〉)が出現するのである。(130ページ)
〇次に、[2]において留意したい論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。
「自己責任論」と「生きづらさ」
「生きづらさ」の問題をつねに社会的次元で捉えようとするわたしたちの立場からすると、どうしても必要になるのは、現状を丁寧にあぶり出していくことで、自己責任論からの転換を図ることである。(湯浅、6ページ)
大きなレベルで自己責任論を批判することは、ある意味では易(やさ)しい。構造改革や新自由主義といった用語をもち出せば、何かが言われ、何かがわかったような気がしてくる。しかしそのことと、目の前にいる一人ひとりと向き合い、対応することが切り離されていたら、総論としては自己責任論を大いに批判する人が、各論ではその子・親族・友人にたいして自己責任論を振り回す、という悲喜劇が起こらないとはかぎらない。残念ながらそれは随所で起こっている。そうなると、現実には貧困状態に追い込まれていく人たちの数は減らない。自己責任論批判が増えて
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いったとしても、現実の場面では、個々に切り捨てられていくからである。(湯浅、6~7ページ)
「自立」が強いる「生きづらさ」
貧困者(貧困のなかにいる若者)にとって、「自立」は存在しえない。ところが、(中略)(彼らは)つねに“社会”から“家族”から「自立」を迫られている。「いつまでもフラフラしていないで、まともな仕事について早く一人暮らしをしなさい」と。彼ら自身の仕事は、本人の選択によるものとされ、彼らが抱える困難は「自己責任」によるものとされる。彼らにとっては、「自立」は目標でありながら、自分自身を締め付ける抑圧の言葉である。(河添、19ページ)
「自立」をめざせばめざすほど、彼らは非人間的な労働環境への順応を要請される。しかしながら破壊された労働環境は、彼ら自身を安定的に「自立」させるようなものではないから、破壊された労働環境によって今度は労働者の精神状態が不安定になっていく。貧困と「自立」は両立しえない。(河添、19ページ)
このように、貧困のなかにいる若者は、「自立」しようにも「自立」しようがない。貧困を根絶していくことなく、「自立」を促すことはありえない。(河添、19ページ)
「強い市民社会」と“居場所”づくり
「強い市民社会」というのは、弱肉強食の市場原理にたいしてきちんと歯止めをかけられる社会、人間の弱さを認めて受け止められる社会、弱さの認識から相互扶助・社会連帯の必要性の認識を通じて、「市場」とは異なる「社会」を構想できる社会、を言う。そういう「強い市民社会」が確立していれば、社会制度はおのずと変わっていくはずである。(湯浅、174~175ページ)
「意義申し立てする社会連帯」というのは、「これはおかしい」ということを話し、数人なり、数十人のグループができれば、それでもって社会的に訴えていく、それが当たり前に行なわれるような、そういう社会的な雰囲気をつくっていきたい。(湯浅、175ページ)
「強い市民社会」をつくるうえでの(労働)運動論的なポイントは、(中略)究極的には“居場所”である。つまり、不満を言い合って、「おかしい」と思ったことをかたちにできる場所である。(河添・湯浅、177ページ)
社会に向けて発言ができたり、ただその場にいるだけでもお互いが尊重される安心感・信頼感を感じられる空間としての“居場所”が大事だと思う。(湯浅、178ページ)
「たたかうためには、たたかわなくていい“居場所”が必要である」。(中略)たたかわなくていい“居場所”は、たたかうための必要条件みたいなものである。(中略)そういう“居場所”が社会のなかから減ってきている。(湯浅、179ページ)
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〇いまひとつ、[3]において留意したい論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。
「非行から自傷へ」と「ネオリベ改革」
社会学では社会というのは、個人の集まりではなく、ふるまいの集合である。(中略)人々のふるまいの集合に一定の規則があるから、その行動がなにを意味しているかがお互いにわかるおかげで成りたっているのが社会というものである。(上野、57~58ページ)
(1980年代から90年代頃から)いわゆる青年期の逸脱といわれるものが(中略)変化してきた。それを簡単に言うと、非行から自傷へ、である。他人を傷つけることから、自分を傷つけることへの変化である。(中略)攻撃衝動というものが、他者から自己へ向かっているのではないか。何か困ったことが起きたときになんでこんなことが起きたのか、誰が悪いのかと思ったときに「私が悪い」というしかないから、生きづらい思いをするのである。これを、「私が悪い」という代わりに「貧乏が悪い」、「社会が悪い」、「学校が悪い」、「先生が悪い」、それから「資本家が悪い」とか言えたらラクである。(上野、64~65ページ)
それなのに、誰も自分以外の人を悪いと言えず、責めることができないために、自分自身を責めるほかない。それで攻撃衝動が我と我が身(われとわがみ)に向かう。なぜそういうことが起きたのか? (それは社会学者によると)「社会が変わったから」(中略)社会環境やルールが変わったからである。(上野、65ページ)
(その一つが)いわゆる「ネオリベ改革」(「ネオリベラリズム」つまり「新自由主義」改革)と言われるものである。(上野、66ページ)
ネオリベこと新自由主義とは、ごく簡単に言うと市場万能主義のことである。公平な競争のもとで勝ち負けを争って、勝ったら勝者の能力と努力のおかげ、負けたら敗者の無能と怠惰のせい。そういう「自己決定・自己責任」の原理をさす。規制緩和をして勝者が残り敗者は退出する市場の原理に委(ゆだ)ねたほうが、財の最適配分ができるようになるという考え方のことである。(上野、67ページ)
「生きづらさ」と不安
「生きづらさ」の精神構造は、不安と似ているのである。あるいは「生きづらさ」の原因は漠然とした不安感なのではないかとさえ思う。自分自身が何者であるかの不安、自分の将来や可能性にたいする不安、人が自分をどう見ているのかについての不安、この社会の先行きに関する不安、そうしたもろもろの不安が、私たちの精神や生活を脅かし、「生きづらい」感覚をもたらしているように思えてならない。(嶋根、209ページ)
不安そのものを完全になくすことはできない。しかし不安に直面したとき、その原因が何に由来しているかを知れば、不安はやわらぐものである。同じように、私たちが何となく感じている「生きづらさ」も、他の人や他の社会と引き比べてみた
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り、その原因が私たちの外部にあることを知ったりすることで、「生きづらさ」の感覚を多少なりとも乗り越えていくことができるかもしれない。(嶋根、209~210ページ)
〇以上の諸言説のなかで、河添の「貧困者にとって、『自立』は存在しえない」「貧困と『自立』は両立しえない」([2]19ページ)という言葉から思い出すことがある。1956年11月から1963年7月にかけて、岸勇(当時・日本福祉大学)と仲村優一(当時・日本社会事業大学)との間で、公的扶助とケースワークの位置づけをめぐって展開されたいわゆる「岸・仲村論争」である。ここでは、その論争に関する加藤園子(当時・立命館大学)の一文を紹介しておくことにする。「今は昔」ではなく、「今も昔(も変わらない)」である。
岸説では「最低生活保障」と「自立助長」をあいいれるものとしてではなく、本来分離、対立したものとして位置づけている。そこでは、公的扶助にケースワークが導入される根拠となった「自立の助長」の意味について、自立の基本的要素は経済的自立であり、自立の喪失が社会的原因にもとづくものである以上、自立は国家の雇用政策によってはじめて助長されるものであること、そして、これに反して公的扶助の目的である最低生活保障それ自体は決して自立を助長するものではありえず、そこではむしろ「自立」という概念が似而非(えせ)なる意味にすりかえられ、その強調は、実は保護の制限と引きしめの意図がその背後に政策的に存在することを厳しくとらえねばならないとしている。そして「自立の助長」と関連して公的扶助にケースワークが導入された目的もまさにその民主主義的体裁によるにすぎず、保護引き締め強化による対象者の人権侵害の事実や公的扶助のもつ救貧法的本性をそれによって隠蔽・合理化することに役立てられてきているとして、仲村説と真っ向から対立することとなった。
(加藤園子「仲村・岸論争」真田是編『戦後日本社会福祉論争』法律文化社、1979年9月、91~92ページ)
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15/激変時代を生き抜くための原理(9+1)
―伊藤穣一(起業家)とジェフ・ハウ(ジャーナリスト)から学ぶ―
〇伊藤穣一(いとう・じょういち)、ジェフ・ハウ著/山形浩生訳『9プリンシプルズ―加速する未来で勝ち残るために―』(早川書房、2017年7月。以下[1])を読んだ。その原著は、Whiplash: How to Survive Our Faster Future(Grand Central Publishing,2016)である。原題の“Whiplash”は「むち打ち症」である。[1]では、常識自体が激しく変化している現代という時代を生き抜くための処方箋――「9つの原理」(9プリンシブルズ)が示されている。「しなやかさと引く知恵とコンパスを持って」(168ページ)生きる、というのがそのひとつである。
〇「むち打ち症」になりかねないほどの高速で激変する未来(あす)を生き抜くには、どうすべきか。[1]では、その原理(指針)について、イノベーション(変革)をめぐる多くのトピックやエピソードを解説しながら提示する。その論考は、圧倒的な知性を自在に操(あやつ)るものであり、深く広い。難解なところもあるが、刺激的で興味深く、おもしろい。
〇[1]においては、現代社会の特徴は「非対称性」(asymmetry)、「複合性」(complexity)、「不確実性」(uncertainty)にある。「非対称性」(不均等・偏り)は、かつては大きな力に対抗するためには、同等の組織や強さを要した。今日では、小さなものが大きなものに脅威を与えている。「複合性」は、異質性、ネットワーク、相互依存性、適応性の4つの要素から成り立っている。「不確実性」は、これまで人類の成功は正確に予測する能力と直結していた。しかしいまの時代は、未来(あす)を見通すことができなくなっており、無知を認めることのほうが戦略的に優位性を持っている(30~35ページ)、等々を含意する。
〇こうした大きな社会変革が進むなかで、今後の時代や社会において重要になるのが次の「9つの原理」である。(1)権威より創発、(2)プッシュよりプル、(3)地図よりコンパス、(4)安全よりリスク、(5)従うより不服従、(6)理論より実践、(7)能力より多様性、(8)強さより回復力、(9)モノよりシステム、がそれである。以下に、その要点を抜き書きすることにする。なお、各項目の次に記したキャッチーなフレーズは、訳者・山形によるものである。
(1)権威より創発(emergence over authority)/自然発生的な動きを大事にしよう
伝統的なシステムだと、製造業から政府まで、ほとんどの意志決定はトップが行っていた。従業員は製品やプログラムを提案するよう奨励はされても、専門家と相談してどの提案を実施するか決めるのは、管理職や権威を持つ他の人々だった。このプロセスは通常はゆっくりしており、何層もの官僚主義に包まれ、保守的な手順主
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義に妨害を受ける。
創発的なシステムは、そのシステム内のあらゆる個人がグループに役立つ独自の知性を持っていると想定する。その情報は、人々がどんなアイデアやプロジェクトを指示するか選択するとき、あるいはそうした情報を得てイノベーションに使うときに共有される。(55~56ページ)
(2)プッシュよりプル(pull over push)/自主性と柔軟性に任(まか)せてみよう
人的資源の最高の使い道は、必要なものだけを、必要とされるときだけに使って、人々をプロジェクトに引き込む(プルする)ことだ。タイミングが鍵となる。創発は問題解決に多くの人々を使うという話ではあるけれど、プルは、この発想をもう一歩先に進め、必要なものを、それがまさに最も必要とされているときにだけ使う。(75ページ)
「プル」は資源を参加者のネットワークから必要に応じて引き出し、材質や情報を抱え込んだりはしない。既存企業の管理職にとって、これは費用削減をもたらし、急変する状況に対応する柔軟性を高め、最も重要な点として自分の仕事のやり方を考え直すのに必要な創造性を刺激することになる。(80ページ)
(3)地図よりコンパス(compasses over maps)/先のことはわからないから、おおざっぱな方向性で動こう
地図は、その土地についての詳細な知識と、最適経路の存在を含意している。コンパスは、はるかに柔軟性の高いツールだし、利用者が創造性と自主性を発見して自分の道を見つけなければならない。地図を捨ててコンパスを取るという決断は、ますます急速に動くますます予測不能な世界では、詳細な地図は無用に高いコストをかけて、人を森に深く引き込んでしまいかねない、という点を認識している。でもよいコンパスは、常に行くべきところに導いてくれる。(106ページ)
地図よりコンパスを重視すれば、別の道を探究したり、回り道を有効に使ったり、予想外の宝物を見つけたりできるようになる。(106ページ)
(4)安全よりリスク(risk over safety)/ルールは変わるものだから、過度にしばられないようにしよう
現代の低コストイノベーションの可能性をすべて活用するにはこれ(安全よりリスク重視)が不可欠だ。(中略)これはますます、製造業、投資、アート、研究のイノベーションでも重要なツールになりつつある。(140ページ)
安全よりリスクに注目する潜在的な便益は、金銭的な利得をはるかに超える。(中略)これ(安全よりリスク重視)は投資と製品開発の古い階層モデルでは閉め出されていた人々にとって、各種の新しい機会を提供する。(142ページ)
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これ(安全よりリスク重視)はあらゆるリスクの高い提案を盲目的に支持しまくる必要はないけれど、イノベーターたちや投資家たちに、いま何かをやる費用と、何かを先送りにしようか考える費用とをてんびんにかけるよう促すものだ。(143ページ)
(5)従うより不服従(disobedience over compliance)/むしろ敢(あ)えてルールから外れてみることも重要
不服従、特に問題解決のような極度に重要な領域での不服従は、しばしばルール準拠より大きな見返りをもたらす。イノベーションには創造性が必要で、創造性は――善意の(そしてあまり善意でない)管理職たちの大いなるフラストレーションの源(みなもと)ではあるけど――しばしば制約からの自由を必要とする。(中略)偉大な科学的進歩に関するルールは、進歩のためにはルールを破らねばならないということだ。言われた通りにしているだけでノーベル賞を受賞できた人はいないし、だれかの設計図にしたがっていただけでノーベル賞をもらえた人もいない。(167ページ)
(6)理論より実践(practice over theory)/あれこれ考えるより、まずやってみよう
理論より実践ということは、加速する未来では変化が新しい常態となるので、実際にやって即興するのに比べ、待って計画するほうが高い費用がかかるということを認識するということだ。古き遅き日々なら、計画は――ほとんどどんな活動でもそうだけれど、特に資本投資を必要とするもの――金銭的なトラブルと社会的な後ろ指を指されかねない失敗を避けるのに、不可欠なステップだった。でもネットワーク時代では、主導的な企業は失敗を受け入れ、奨励さえしている。いまや(中略)各種のものの立ち上げは、価格面でも大きく下がり、ビジネスは「失敗」を安上がりな学習機会として受け入れるのがごく普通になっている。(194ページ)
(7)能力より多様性(diversity over ability)/ピンポイントで総力戦やっても外れるから、取り組みもメンバーも多様性を持たせよう
人はつい、ある分野で最も賢く最もよい訓練を受けた人々――専門家――がその得意分野の問題解決に一番向いていると思いがちだ。(224ページ)
さまざまな局面で、多様性のある集団のほうが生産的だと実証する研究は増える一方で、このため多様性は学校や企業やその他の組織にとって戦略的に重要となりつつある。多様性は政治的にもいいし、宣伝にもいいし、その人の人種やジェンダーの平等への取り組み次第では善行にもなる。でも各種の課題のほうでも最大限の複雑性を持ちかねない時代にあっては、多様性は単によいマネジメントだ。これは多様性が能力を犠牲にすると思われていた時代からは驚くほどの変化だ。(225ページ)
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(8)強さより回復力(resilience over strength)/ガチガチに防御をかためるより回復力を重視しよう
強さより回復力を示す古典的な例は、葦(あし)と樫(かし)の木の物語だ。台風が吹き荒れたとき、鋼鉄のように強い樫の木は砕けるが、柔軟で回復力のある葦は低くたわみ、嵐が通り過ぎるとまた跳ね起きる。失敗に抵抗しようとして、樫の木はかえってそれを確実にしてしまったわけだ。(243ページ)
長期では、強さより回復力を重視することで、組織がもっと活気ある、堅牢(けんろう。頑丈)で、ダイナミックなシステムを発達させる一助となるだろう。これはとんでもない破綻に対してずっと耐性が高い。はるか遠い偶発事に備えて資源を取っておいたりしないし、不要な手続きだの手順だのに過剰な手間暇を支出したりもしないので、予想外の嵐をも乗り切れるようにする、組織的な健康のベースラインを構築できる。(246ページ)
(9)モノよりシステム(systems over objects)/単純な製品よりはもっと広い社会的な影響を考えよう
ごく最近まで、科学は脳研究に対し、腎臓研究と同じやり方で取り組んできた。言い換えると、研究者たちは脳という器官を研究対象のモノとして扱い、その解剖学、細胞構成、体内の機能などに専門特化して生涯のキャリアとした。でもエド・ボイデン(神経科学者)
はこの学術的な伝統には属していない。(中略)かれのグループは、脳を名詞よりは動詞として扱うほうが多く、独立した器官よりはむしろ重なりあうシステムの焦点として扱い、そうしたシステムを理解するには、その機能を定義づける変化し続ける刺激群の文脈を考えねばならないとしている。(268~269ページ)
各分野のあいだやその向こうの空間は、学術的にはリスクが高くても、競争は少ないことが多いし、有望で風変わりなアプローチを試すにも必要な資源は少なくてすむ。そしていまはあまりうまくつながっていない既存分野間のつながりを開封することで、すさまじいインパクトをもたらせるかもしれない。(282ページ)
〇以上の原理(処方箋)はそれぞれ、「お互いと重なりあり、補いあうようにできている(順番は重要度とは関係ない)」。そして、「9つの原理」や[1]全体に通底する「原理」に、「教育より学習」(learning over education)がある([1]38ページ)。本稿のサブタイトルの「9+1」が意味するところである。なお、その「学習」は自分でやること、「教育」はだれかにしてもらうことをいう([1]38ページ)。
〇ここで、かつて日本建築学会が提示した「まちづくりの10原則」について思い起こしたい。(1)公共の福祉の原則、(2)地域性の原則、(3)ボトムアップの原則、(4)場所の文脈の原則、(5)多主体による協働の原則、(6)持続可能性、地域内循環の原則、(7)相互編集の原則、(8)個の啓発と創発性の原則、(9)環境共生の原則、(10)グローカルの原則、がそれである(日本建築学会編『まちづく
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りの方法』丸善、2004年3月、3~4ページ)。この「まちづくりの10原則」に「9つの原理」(「9+1」の原理)を掛け合わせて考えてみると、「まちづくりと市民福祉教育」の実践や研究の新たな視点・視座や問題あるいは課題を見出すことができようか(図1)。留意したい。それは、激しい世界の動きや時代の流れとそれが個別具体的に反映される地域・社会において、その動きや流れをおもしろいと感じ、その現状を変革する方向性を見出し、変革する力を育てることが強く求められる、と思うからである。誤解を恐れずにそれを別言すれば、“おもしろさの探究と創造”であろうか。
補遺
日本建築学会 「まちづくりの10原則」
(1)公共の福祉の原則
居住環境や町並み景観、地域経済、教育・文化など、地域社会の 公共の福祉に関わる事項を維持向上させ、安全性、快適性、保健・衛生などの基礎的な生活の場の条件、文化的な生活のための条件を整え、公共の福祉を実現する。
(2)地域性の原則
それぞれの場に存在する多様な(社会的、物的、文化的、自然的、歴史的な)地域資源とその潜在力を生かし、固有の地域性に立脚して進められる。
(3)ボトムアップの原則
公権力の行使としての都市計画や巨大資本による都市開発とは異なり、地域社会の住民と市民の発想を元に、地域社会における下からの活動の積み上げにより、その資源を保全し、地域社会を持続的に改善し、発展向上させる。
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(4)場所の文脈の原則
歴史・文化の集積としての「場所の文脈」に対する共通理解の元で、社会・空間をその延長としてデザインし維持運営する。ここで言う場所の文脈とは、歴史的に積み重ねられた行為がそれぞれの場所に集積され生活を支える基盤となっているもので、それぞれのまちの社会と空間を支える基本であるとの認識である。
(5)多主体による協働の原則
個人やそれぞれの組織が自立しつつ、補完し合い、連携・協働して、活動する。このことは、一つのまちづくり活動の内部においても、さまざまなまちづくりが連携する場面においても、共通である。
(6)持続可能性、地域内循環の原則
持続可能な社会と環境を目指して、一挙に特定の目的を達成するのではなく、時間をかけた漸進的な過程を経ながら地域社会を構成する多様な主体の参加を得て持続的に進められる。そして、資源や財産、そして人材が地域内に循環し、持続可能な地域社会を維持しながら運営される。
(7)相互編集の原則
目標とする将来像が事前確定的ではなく、個々のまちづくり活動の成果が相互作用の過程を経ながら整合的に組み立てられ、徐々に「まち」の全体を形づくる。このプロセスを相互編集、相互デザインと呼ぶ。地域の内から、そしてボトムアップで全体を編集するのであり、それを導くのが目標空間イメージの共有とその持続を支える仕組みと技術である。
(8)個の啓発と創発性の原則
住民一人一人、個々のまちづくり組織の個性と発想が生かされ、個の自立と創発性により、それぞれが高め合いながら地域が運営されまちづくりが進められる。
(9)環境共生の原則
自然、生態学的環境の仕組みに適合し、物的環境を維持発展させる。そして、個々のまちづくりの活動の集積が広域的な生活圏、例えば河川の流域圏などの都市と農山漁村の複合環境体を維持向上させ、さらにそれらの集積である地球環境システムの維持に貢献する。
(10)グローカルの原則
地域性に立脚しながらも、常に地球的な視野で構想し、さまざまなネットワークに自らを位置づけ、活動する。まちづくりも、地域という境界を越えボーダレスな情報や知恵の交換が進められ、まちづくりの境界を越えて相互編集される。21世紀のグローバル社会の中では、地域性の原則を維持し、しかし地域に閉じこもるのではなく、拓かれた活動としてのまちづくりが展開されている。グローバルで、かつローカルな視点と行動が求められているのである。
(日本建築学会編『まちづくりの方法(まちづくり教科書第①巻)』丸善、2004年3月、3~4ページ)
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16/「知的生産」:「知る」ことと「考える」こと
―外山滋比古(英文学)と千葉雅也(哲学)から学ぶ―
〇「知的生産」という言葉は、梅棹忠夫(うめさお・ただお、専攻は民族学)の造語である。梅棹は、「京大型カード」の発案者であり、情報管理の「古典」と評される『知的生産の技術』(岩波書店、1969年7月。以下[1])を著わしている。[1]で梅棹は、エッセイふうに次のように述べている。
知的生産とは、知的情報の生産である。既存の、あるいは新規の、さまざまな情報をもとにして、それに、それぞれの人間の知的情報処理能力を作用させて、そこにあたらしい情報をつくりだす作業なのである。それは、単に一定の知識をもとでにしたルーティン・ワーク以上のものである。そこには、多少ともつねにあらたなる創造の要素がある。知的生産とは、かんがえることによる生産である。(11ページ)
人間の知的活動を、教養としてではなく、積極的な社会参加のしかたとしてとらえようというところに、この「知的生産の技術」というかんがえかたの意味もあるのではないだろうか。このような意味での知的生産であるならば、それは、現代にいきる人間すべての問題ではないか。(中略)すべての人間が、その日常生活において、知的生産活動を、たえずおこなわないではいられないような社会に、われわれの社会はなりつつあるのである。(12ページ)
〇異例のロングセラーやヒットとなっている「思考」や「勉強」に関する2冊の本がある。外山滋比古(とやま・しげひこ、専攻は英文学)の『思考の整理学』(筑摩書房、1983年3月。以下[2])と千葉雅也(ちば・まさや、専攻は哲学)の『勉強の哲学―来たるべきバカのために―』(文藝春秋、2017年4月。以下[3])である。筆者の手もとにある[2]は、1986年4月発行の文庫本であるが、その帯(おび)には「東大・京大で1番読まれた本」「“もっと若い時に読んでいれば…”」というキャッチコピーがある。[3]のそれには、「東大・京大でいま1番読まれている本!」「勉強とは、これまでの自分を失って、変身することである」とある。ともに読者の、「学歴」(「東大・京大」)や「人生」(「過去・現在・未来」)への思いを刺激し、その感情(「後悔や希望」)を巧みに煽(あお)る。不安や不満が渦巻く現代社会(格差社会、管理社会、閉塞社会)の時流やニーズを反映した本でもある。
〇[2]で外山は、「思考」の本質と方法(具体的な“秘伝”であり、単なるハウツーではない)についてエッセイ的に解説する。その基本には、「知識よりも思考の方が重要である」という主張がある。筆者が再認識しておきたい言説には、次のようなものがある(抜き書きと要約。見出しは筆者)。
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グライダー能力と飛行機能力
人間には、グライダー能力と飛行機能力とがある。受動的に知識を得るのが前者、自分でものごとを発明、発見するのが後者である。両者はひとりの人間の中に同居している。グライダー能力をまったく欠いていては、基本的知識すら習得できない。何も知らないで、独力で飛ぼうとすれば、どんな事故になるかわからない。
指導者がいて、目標がはっきりしているところではグライダー能力が高く評価されるけれども、新しい文化の創造には飛行機能力が不可欠である。(「グライダー」13、15ページ)
思考を寝させる
アイデアと素材さえあれば、思考は進むか、というと、そうではない。これをしばらくそっとしておく必要がある。“寝させる”のである。思考の整理法としては、寝させるほど大切なことはない。思考を生み出すのにも、寝させるのが必須である。
努力をすれば、どんなことでも成就するように考えるのは思い上がりである。努力しても、できないことがある。それには、時間をかけるしか手がない。(「醗酵」32ページ。「寝させる」40、41ページ)
テーマの設定
「テーマはひとつでは多すぎる。すくなくとも、二つ、できれば、三つもって、スタートしてほしい」。ひとつだけだと、これがうまく行かないと、あとがない。こだわりができる。妙に力(りき)む。頭の働きものびのびしない。ところが、もし、これがいけなくとも、代りがあるさ、と思っていると、気が楽だ。テーマ同士を競争させる。いちばん伸びそうなものにする。さて、どれがいいか、そんな風に考えると、テーマの方から近づいてくる。
“熟したテーマは、向うからやってくる”(「カクテル」43ページ。「醗酵」35ページ)
知識の組み合わせと順序
思考における思いつき、着想は、第一次的なものである。単独ではさほど力をもっていないようないくつかの着想があるとする。そのままにしておけば、たんなる思いつきがいくつか散乱しているに過ぎない。それに対して、自分の着想でなくてもよい。おもしろいと思って注意して集めた知識、考えがいくつかあるとする。これをそのままノートに眠らせておくならば、いくら多くのことを知っていても、その人はただのもの知りでしかない。“知のエディターシップ”(既存の知識を編集によって、新しい、それまでとはまったく違った価値のあるものにすること)、言いかえると、頭の中のカクテルを作るには、自分自身がどれくらい独創的であるかはさ
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して問題ではない。もっている知識をいかなる組み合わせで、どういう順序に並べるかが緊要事となるのである。
本当のカクテル論文(すぐれた学術論文)は、諸説を照合・参照して調和折衷(「新しい結合」「自由な化合」)させ、人を酔わせながら、独断におちいらない手堅さをもっている。(「エディターシップ」51ページ。「カクテル」47ページ)
知識の蓄積と忘却
頭の優秀さは、記憶力の優秀さとしばしば同じ意味をもっている。これまでの教育では、知識をどんどん蓄積することが重視されてきた。しかし、これからは、新しいことを考え出し、作り出す「創造的人間」が問題になる。頭に、勉強し習得した知識を保存保管するだけでなく、不要になったものを、処分し、整理し、広々としたスペースをとる必要がある。頭をよく働かせるには、この“忘れる”ことが、きわめて大切である。
思考の整理には、忘却がもっとも有効である。不易(不変)の知識のみが残るようになれば、そのときの知識は、それ自体が力になりうるはずである。(「整理」110~112、115ページ。「時の試練」127ページ。「すてる」133ページ)
〇[3]で千葉は、「勉強」の原理論と実践論(「勉強を進めるための基礎的なテクニック」)について哲学的に論述する。その最初に提示する基本的なテーゼは、「勉強とは、これまでの自分の自己破壊である」。筆者がメモっておきたい言説には、次のようなものがある(要約と抜き書き。見出しは筆者)。
勉強とは「自己破壊」であり、「変身」することである
人は基本的には、家族や学校、会社、地域・社会など周りの環境の「ノリ」に合わせて生きている(環境への「同調」「適応」「順応」)。
勉強するのは、環境や同調圧力(「みんな同じようにしなさい」「出る杭は打たれる」)によって狭められた人生の「可能性」を切り開き、これまでのノリから「自由」になるためである。その意味で、勉強とは、かつての「ノっていた自分」を破壊し、わざと「ノリが悪い」人になることである。具体的には、勉強によって身につけるのは「批判的になる」ことであり、ノリの悪い「言語」を使用すること(「言語偏重」の人になること)である。それは、環境から「浮く」ことであり、周りから見て「キモい人」になることでもある。
要するに、勉強とは「自己破壊」であり、「新しいノリ」に引っ越すこと、新しい生き方に「変身」することである。(第1章「勉強と言語―言語偏重の人になる」)
勉強は情報の比較を「中断」し、「有限化」することが必要である
勉強は、いま気になっていること、「問題意識をもつ」ことから始まる。ただ、勉強にはきりがなく、「深追い」しすぎると「目移り」してしまうことがある。「深
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追い」(「アイロニー」「ツッコミ」)とは根拠を疑うこと、「追究」であり、「目移り」(「ユーモア」「ボケ」)とは見方を変えること、「連想」である。この二つは、「深い勉強」(「ラディカル・ラーニング」)のための思考スキルである。
勉強とは、何らかの専門分野に参加することである。専門分野の勉強は、「深追い」方向と「目移り」方向にきりがなくなる。そこで、勉強する際には、「まずこれだけ」「ここまで」「ひとまずこれを勉強した」というように勉強を「有限化」する(きりをつける)。そして、継続すること、が肝要となる。そのためには、「信頼」できる著者による「まとも」な本を読むことが基本となる。その読書から得た信頼できる情報を自分なりに考えて比較し、ある結論、しかし絶対的なものではなく仮の結論を出す。それは、自分の「こだわり」(「享楽」)によるが、この「比較の中断」「結論の仮固定」を比較の継続のなかで進めることが勉強を継続し、深めることである。
なお、「このくらいでいい」という勉強の「有限化」をしてくれる存在(「有限化の装置」)が教師である。また、勉強するにあたって「信頼」すべき他者は、「粘り強く比較を続けている人」「たえず勉強を続けている他者」である。(第2章「アイロニー、ユーモア、ナンセンス」、第3章「決断ではなく中断」、第4章「勉強を有限化する技術」)
〇「知る」ことと「考える」こと(「知識」と「思考」)は、例えば、「一次資料と二次資料」「量的データと質的データ」「既知のことと未知のこと」「伝達の言語と思考の言語」などの取り扱いや、「インプットとアウトプット」「概念くずしと概念づくり」「具体的思考と抽象的思考」「拡散的思考と収束的思考」などの取り組みが問われることになる。また、管見ながら、勉強とは、関心と疑問から始まり、ゆとりと自由のなかで知識の習得と思考の推進を図り、それを一所懸命に行い、未来(あす)の地域・社会を創るために繰り返すこと(活動と過程)である。改めて梅棹と外山、そして新たに千葉の「勉強論」を通じて再認識し、学んだことのひとつである。なお、[1][2]が長い時間を超えた「古典」と言われ、[3]が「いま」注目されるのは、その是非は別にして、単なるハウツー本ではなく、現代社会が求める「知的生産」の思想書(哲学書)であるからでもある。
〇筆者はかつて、「住民の生活の匂(にお)いがする場に自分の身を置く」「フィールドの地べたを這(は)う」「一人ひとりの高齢者や障がい者などの人生に思いを致す」勉強や研究の重要性を説いてきた。そして、歴史的・社会的事象に相対する際に求められる姿勢は、「関心と感動」「緊張と集中」である。また、次のようにも言ってきた。(1)すべてを疑い、問題意識の明確化を図ること。(2)微視的かつ俯瞰的、複眼的視点をもつこと。(3)第一次的現実とともに、歴史から学ぶこと。(4)先行研究や、使える理論や方法について熟考すること。(5)量的研究と質的研究を組み合わせ、多面的・多層的に考察すること。(6)関連および周辺領域の知見を広範に参照すること。(7)協働的活動によって思考を拡散・焦点化、深化させること。(8)既存
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のものに偏重せず、新たな仮説の探索や設定・検証に基づくこと。(9)グラフや概念図を作成することによって、思考を視覚化すること。(10)信頼性や独創性・先駆性、そして倫理性を重視すること、などがそれである。付記しておきたい。
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