筆者(阪野)は、去る7月31日、富山県社協主催の「平成27年度富山県福祉教育セミナー」に参加する機会に恵まれた。セミナーの前半では、(1)砺波市福祉センター北部苑の「施設の現況と地域との交流」、(2)富山県立南砺福野高校(福祉科)の「地域と繋がるボランティア」、(3)小矢部市社協の「小矢部市社協における福祉教育推進に関する取り組み」について、実践報告がなされた。各報告における鍵となる項目や考え方は、(1)「信頼と熱意により地域が繋がる!/地域が有機的に結ばれる!」、(2)「地域での活動は必要/高校生も、地域の住民の一人として人と関わり、地域づくりに貢献できる」、(3)「福祉教育サポーター養成確保モデル事業(小矢部方式)の取り組み/福祉教育サポーターの選出と養成講座の実施」、などであった。後半では、その報告を受けて、「各取り組みからこれからのヒントを探る」というテーマのもとでシンポジウムが行われた。
筆者は、それぞれから多くの気づきと学びを得ることができた。とりわけ、次のような事柄について思いを致すことができたのは有意義であった。「地元学」(「水俣地元学」)の提唱者である吉本哲郎の言説、文部科学省において小・中・高校への導入が検討されている「アクティブ・ラーニング」と呼ばれる学習・指導方法、そして富山県社協や小矢部市社協などにおける「福祉教育サポーター」養成カリキュラムの研究開発、などがそれである。本稿では、それらの関連資料(論点や言説)の一部を紹介することにする。
(1)吉本哲郎『地元学をはじめよう』岩波書店(岩波ジュニア新書)2008年11月
地元学の目的は、自分たちで(地元に:阪野)あるものを調べ、考え、あるものを新しく組み合わせる力を身につけて(町や村の:阪野)元気をつくることです。(22ページ)
地元の人たちによる地元学を「土の地元学」とします。これが地元学の基本となります。
地域の風土と暮らしは、外的要因、内的要因による変化をつねに受けています。その変化を適正に受けとめ、地元になじませていくのは、当事者であるそこに住む人たちです。(中略)
地元学はあるものを探すことからはじまります。そのときに、地元の人(「土の人」:吉本)たちだけではひとりよがりになってしまうので、外の人(「風の人」:吉本)たちといっしょにやっていくことが必要です。
地域のもっている力、人のもっている力を引き出すことが、外の人たちの役割です。(中略)この外の人たちによる地元学を「風の地元学」といいます。(36~37ページ)
地元学は、ないものねだりはしません。あるものを探し、それを磨いたりして価値のあるものにしていきます。その第一歩は、地元を調べることです。地元の風土や暮らしに「あるもの」(地域情報:阪野)を探していくのです。あるものとは「あるもの、あること、人」のことをまとめて言っています。(38ページ)
地元学は、調べる・考える・まとめる・つくる・役立てる、と言う順にすすめられます。(35~80ページ)
つくる・役立てるのは、ものづくり、地域づくり、生活づくりの三つの分野です。
ものづくりは、地域資源を活用して、草木染め、木工品、野の幸の加工品などをつくります。
地域づくりは、つぎのようなステップを踏んでいきます。①これまでを読む、②変化の風を読む、③これからを読む、④手をうつ。
生活づくりは、地域の素材を使ったり、遊んだりして、地域の暮らしを楽しんでいくことです。でも、生活づくりでだいじなことは家族づくりです。(65~66ページから抜き書き)
「地元学」は、単にその地域(地元)の自然や歴史、文化、産業などについて学問的に調査・考察するものではない。それは、地域の暮らしのなかにあるモノを探し、それを如何に使いこなすかを考え、新たな地域ブランド(「あるもの、あること、人」)を創造・開発するものである。換言すれば、地域づくりのための「実践や運動としての地元学」である。
地元学の主役は、子どもをはじめ高齢者や障がい者、外国籍住民などを含めた、そこに暮らす全ての「土の人」である。その人たちが、「共生・協働(共働)」の理念のもとに、「風の人」の視点や支援を得ながら、歴史・文化・風土に裏打ちされた新たな地域づくりに主体的・能動的・自律的に関わることが肝要となる。それゆえにまた、民俗学や福祉(学)の視点から地域づくりやそのための人づくりについて追究することが求められることになる。
この点に関して、岡村重夫の「民俗としての福祉」概念をめぐる言説を思い起こす。「われわれは老人福祉の法制を語るまえに、老人福祉の習俗を知らねばならず、さらにこの習俗を発展させるための道徳教育について考慮をめぐらせねばならない」と述べ、「老人福祉の民俗学」の必要性を説くのがそれである(岡村重夫「新隠居論序説」『社会福祉論集』第17・18号「生活福祉の諸問題」、大阪市立大学生活科学部社会福祉研究会、1979年3月、157ページ。注①)。岡村が思い描いた「老人福祉の民俗学」の内容については不明であるが、そこには地域・住民の「習俗」(習慣化された生活様式)と社会福祉の関係や教育(「徳教」)の問題が提起されている(柴田周二「宮本常一の民俗学(一)―慣習と人格形成―」『京都光華女子大学研究紀要』第43号、京都光華女子大学、2005年12月、41~42ページ)。それに付言すれば、地域づくり(まちづくり)研究においては、例えば「福祉の民俗学」や「地域づくりの教育学」の構造化や体系化の推進を図ることが求められよう。その課題の追究に際しては、戦前・戦後の郷土教育や生活綴方教育、社会科教育などの歴史的評価や現代的解釈について十分に留意する必要があることは多言を要しない。
(2)中央教育審議会「アクティブ・ラーニングに関する答申」2012年8月
生涯にわたって学び続ける力、主体的に考える力を持った人材は、学生からみて受動的な教育の場では育成することができない。従来のような知識の伝達・注入を中心とした授業から、教員と学生が意思疎通を図りつつ、一緒になって切磋琢磨し、相互に刺激を与えながら知的に成長する場を創り、学生が主体的に問題を発見し解を見いだしていく能動的学修(アクティブ・ラーニング)への転換が必要である。すなわち個々の学生の認知的、倫理的、社会的能力を引き出し、それを鍛えるディスカッションやディベートといった双方向の講義、演習、実験、実習や実技等を中心とした授業への転換によって、学生の主体的な学修を促す質の高い学士課程教育を進めることが求められる。学生は主体的な学修の体験を重ねてこそ、生涯学び続ける力を修得できるのである。(中央教育審議会答申「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて―生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ―」2012年8月28日、9ページ)
「アクティブ・ラーニング」(active learning、能動的学習)は、上記の2012年8月の中央教育審議会答申(「質的転換答申」)にその用語が登場し、それ以降、大学の学士課程教育への導入・展開が図られている教授・学習方法である。その導入・展開の背景には、知識を使って主体的に考え、行動できるグローバル人材の育成・確保を必要とする経済界からの要請がある。また、大学を取り巻く経営環境の変化や学生の資質・能力の低下などの教育現場の実態がある。
アクティブ・ラーニングの概念は包括的であり、多様な名称(「学生参加型授業」「協調・協同学習」等)が用いられる。そういうなかで、「質的転換答申」では次のように解説されている。「教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である」(同答申「用語集」)。
大学の学士課程教育の「質的転換」は、古典的で受動的な「学修」から主体的・能動的な学修への転換である。そのための教授・学習方法のひとつがアクティブ・ラーニングである。しかし、それは、必ずしも言われるほどの新味性を有するものではない。また、総合的・包括的な概念であるがゆえにか、その整理や構成要素の検討が不十分なままである。その計画・実施・評価のプロセスの進め方、とりわけ評価の観点や方法も曖昧である。何よりも、学士課程教育の教育内容・方法の改善を抽象的に説くにとどまり、学修時間そのものの質量ともにわたる増加・確保策についての言及がない。いずれにしろ、学士課程教育の改善・充実(質的転換)を図るためには、教育方法のひとつであるアクティブ・ラーニングをいかに教育課程のなかに位置づけ、その機能を十全に働かせるか。大学内外の学修支援や協働(共働)の体制をいかに整備・強化するか、などが問われることになる。その点への追究を欠くと、アクティブ・ラーニングはいっときの流行や奇をてらった単なる「用語」に終わることになる。
(3)中央教育審議会「アクティブ・ラーニングに関する諮問」2014年11月
新しい時代に必要となる資質・能力の育成に関する(中略)取組に共通しているのは、ある事柄に関する知識の伝達だけに偏らず、学ぶことと社会とのつながりをより意識した教育を行い、子供たちがそうした教育のプロセスを通じて、基礎的な知識・技能を習得するとともに、実社会や実生活の中でそれらを活用しながら、自ら課題を発見し、その解決に向けて主体的・協働的に探究し、学びの成果等を表現し、更に実践に生かしていけるようにすることが重要であるという視点です。
そのために必要な力を子供たちに育むためには、「何を教えるか」という知識の質や量の改善はもちろんのこと、「どのように学ぶか」という、学びの質や深まりを重視することが必要であり、課題の発見と解決に向けて主体的・協働的に学ぶ学習(いわゆる「アクティブ・ラーニング」)や、そのための指導の方法等を充実させていく必要があります。こうした学習・指導方法は、知識・技能を定着させる上でも、また、子供たちの学習意欲を高める上でも効果的であることが、これまでの実践の成果から指摘されています。
また、こうした学習・指導方法の改革と併せて、学びの成果として「どのような力が身に付いたか」に関する学習評価の在り方についても、同様の視点から改善を図る必要があると考えられます。(中央教育審議会諮問「初等中等教育における教育課程の基準等の在り方について」2014年11月20日)
アクティブ・ラーニングの学習・指導方法についての検討が、2020年度(小学校)から順次実施される次期学習指導要領の改訂作業のなかでも進められている。その際の改訂の視点は、学校教育の重点を「何を教えるか」から「どのように学ぶか」へと転換することである。また、学習の成果として「どのような力が身に付いたか」を評価することである。しかし、それは、小・中・高校ではすでに「総合的な学習の時間」における学習方法や、各教科・領域における「言語活動の充実」を図る学習指導として取り組まれているものでもある。
いま、なぜ、新たに「アクティブ・ラーニング」(「課題の発見と解決に向けて主体的・協働的に学ぶ学習」)なのか。学校教育において「生きる力」(1996年7月の中央教育審議会答申)から「確かな学力」(2003年10月の同答申)、そして「道徳力」(道徳の「特別の教科」化、2014年10月の同答申)へと路線変更が進むなかで、その真のねらいや本質を見極める必要があろう。アクティブ・ラーニングでは、児童・生徒の主体性、能動性、活動性、協働性などの育成が重視される。アクティブ・ラーニングの導入は「生きる力」の育成強化策であるとも評される。この点については、教育改革の切り札として2002年度から完全実施された「総合的な学習の時間」における学習活動は低調であり、「這い回る経験主義」という批判にさらされた(さらされている)ことに留意したい。また、アクティブ・ラーニング(学習・指導方法)の画一的な推進は、教育現場の自立性や創造性が損なわれ、学校教育の「改革」や活性化には繋がらない危険性があることを付記しておきたい。
(4)阪野貢「富山県福祉教育サポーター養成カリキュラム(私案)」2015年4月
① オリエンテーション(サポーター養成研修の意義理解、仲間づくり)
② わが“まち”の歴史と文化を学び、個性と魅力を再発見する
③ 子どもと保護者の生活実態を把握し、学校教育をめぐる問題を考える
④ 自律と協働の共生社会を構想し、生涯学習とそのあり方を考える
⑤ 福祉教育のあゆみと現状を理解し、問題点と今後の方向性を探る
⑥ 住民主権・住民自治の認識を深め、福祉によるまちづくりを考える
⑦ コーディネーションとファシリテーションの考え方と展開方法を学ぶ
⑧ フィールドワーク(1)―福祉関係の施設・機関の見学と交流活動―
⑨ フィールドワーク(2)―教育関係の施設・機関の見学と交流活動―
⑩ 選択科目(1)―福祉文化とまちづくに―
⑪ 選択科目(2)―教育文化とまちづくり―
⑫ 福祉ネットワークの現状を理解し、福祉によるまちづくりを展望する
⑬ 学習の総括と今後の取り組み(学習発表)
富山県社協では、2014年度から小矢部市、上市町、入善町の各市町社協をモデル地区指定し、「福祉教育サポーター」の確保とそのための養成カリキュラムの研究開発を進めている。その経緯については、本ブログ(市民福祉教育研究所)に所収の「富山県における福祉教育の取り組みの経緯と今後の方向性」(2013年8月20日投稿)を参照されたい。
上記の項目は、養成カリキュラムのねらいや内容を「私案(素々案)」として示したものである。各市町社協では、地元住民が主体となって、その地域ならではのカリキュラムの編成・実施について協議している。今後は、学習目標の設定をはじめ、学習のテーマや内容・方法、学習の時間や場所、協働・支援体制などについての具体的な検討が必要となる。その際、学習者(福祉教育サポーター)の学習への興味・関心・意欲を引き出すとともに、学習内容の生活性や地域性を考慮し、学習成果の実践化や日常化を図ることなどが肝要となる。
なお、福祉教育サポーターとは、「① 福祉や教育、そしてまちづくりに関心のある多くの人が、② 地元や職場での日々の生活や活動などで得た知識や経験を、③ さらに確かで豊かなものにするために学習(研修)を行い、④ それによって自分や自分たちの能力と地元の魅力を再発見し、⑤ 求められる見識(判断力、考え方)と企画・実践力(福祉力、教育力)、そして意欲(情熱、向上心)を活かし、⑥ 何よりも自信と誠意と信念をもって、⑦ 行政をはじめ学校や社会福祉協議会(以下、社協)、社会福祉施設、公民館、NPО、自治会・町内会、企業などが行う、地元ならではの、新しいまちづくりとそのための「福祉教育」の事業・活動を支援する人をいう」。また、福祉教育サポーターは、「高校生以上の地元住民をはじめ、ボランティアやボランティアサポーター、NPО職員、民生委員・児童委員、福祉推進委員、地域(福祉)活動者、とりわけ団塊世代や高齢者・障がい者」などから選任され、「地区社協に若干名配置し、活動の場は主として地元の小学校区」である(富山県社協「『福祉教育サポーター』養成確保事業要綱」2013年8月1日)。福祉教育サポーター制度の要点のひとつは、サポーターを属人的に捉えるのではなく、個々の地元住民の属性や地元との関係性などに留意しながら、サポーターとしての機能や役割、活動のプロセスを重視するところにある。しかも、福祉によるまちづくりの観点に立ったそれである。
筆者は、8月3日から5日の3日間、福井県立大学大学院の集中講義に出講し、院生と「市民福祉教育」について対話・議論した。ひとりの院生は、軽度の認知症を抱える一人暮らしの母親を毎日のように訪ね、近所の住民の理解や支援を得ながら介護を続ける60歳代の男性であった。氏のテーマは、厚生労働省が2015年1月に策定した「認知症施策推進総合戦略(新オレンジプラン)」を素材に、「認知症への理解を深めるための普及・啓発」や「認知症の人を含む高齢者にやさしい地域づくり」などの推進方策について福祉教育の視点・視座から実証的・実践的に研究しようとするものである。大学院修了後は、その研究成果を踏まえて、地域づくりの市民活動に取り組みたい、という。前述の、ボランティア活動を通じて地域と繋がる南砺福野高校(福祉科)の生徒たちの自信に満ちた実践報告とともに、院生の研究意欲と姿勢には頭が下がる思いであった。
ところで、周知の通り、2015年4月1日から、新教育委員会制度がスタートした。内容的には、教育委員長と教育長を一本化した新「教育長」が首長によって直接任命され、新教育長の権限強化と国の意向の教育行政への反映が図られることになった。それは、教育(教育行政)の政治的中立性と継続性・安定性を損なうものである。また、4月6日に、文部科学省が中学校の社会科教科書の検定結果を公表した。それによって、教科書検定は政府の歴史認識や見解を尊重・宣伝するものであることがより明らかにされた。そしてまた、安全保障関連法案をめぐって、政府・自民党議員による不適切な発言が続いた。「考えないといけないのは、我が国を守るために必要な措置かどうかで、法的安定性は関係ない。我が国を守るために必要なことを、日本国憲法がダメだと言うことはありえない」(磯崎陽輔、7月26日)、「SEALDs(注②)という学生集団が自由と民主主義のために行動すると言って、国会前でマイクを持ち演説をしてるが、彼ら彼女らの主張は『だって戦争に行きたくないじゃん』という自分中心、極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせいだろうと思うが、非常に残念だ」(武藤貴也、7月30日。注③)がそれである。政治家の劣化であり、民主主義の空洞化である。
こうした国による教育への不当な介入と管理統制の強化、国会議員による傲岸不遜(ごうがんふそん)な発言や反知性主義の態度こそが、「戦後教育のせいだろう」。前述の高校生や地域住民たちは、“土の人” として、地べたを這いずり回って、コツコツと真摯に地域づくりや教育づくに取り組んでいる。それは、集権的で上からの「地方創生」や「教育再生」とは違う、地域に根ざした“地元学” の確かで豊かな実践である。
注
① この論考で岡村重夫は、穂積陳重がその著『隠居論』(有斐閣、1915年3月)で説く「老人処遇論としての隠居論」について紹介・検討している。「老人福祉の民俗学の必要性」を指摘する直前の、岡村の次の一文を紹介しておくことにする。
今日の多くの老人処遇論は、「優老の法制」ないしは「優老の社会政策」を論ずるのに急にして、それに先だって優老の習俗や徳教や体制のあることを無視ないし軽視しているのではないか。わが老人福祉法は、いとも簡単に「敬老の日」を法律で制定したけれども、それに先だつ敬老の習俗、徳教、体制についてどれだけの対策を講じてきたか。(157ページ)
② SEALDs(シールズ)は、Students Emergency Action for Liberal Democracy – s の略称である。
③ 武藤貴也の言説に次のようなものがある。それに関する中学校教科書の記述は以下の通りである。
日本の全ての教科書に、日本国憲法の「三大原理」というものが取り上げられ、全ての子どもに教育されている。その「三大原理」とは言わずと知れた「国民主権・基本的人権の尊重・平和主義」である。
戦後の日本はこの三大原理を疑うことなく「至高のもの」として崇めてきた。しかしそうした思想を掲げ社会がどんどん荒廃していくのであるから、そろそろ疑ってみなければならない。むしろ私はこの三つとも日本精神を破壊するものであり、大きな問題を孕んだ思想だと考えている。
(武藤貴也「日本国憲法によって破壊された日本人的価値観」2012年7月23日)
国の政治のしくみの根本を定める法が憲法です。憲法は、政府の権力を制限して国民の人権を保障するという立憲主義の思想にもとづいて、政治権力の乱用を防いで、国民の自由や権利を守ります。立憲主義の考えは、政治が人の支配によってではなく、法によって行われることを要求する法の支配の思想とほぼ同じものです。(中略)
国民主権、平和主義、基本的人権の尊重は、日本国憲法の三つの基本原理です。
(『新しい社会 公民』<中学校社会科用教科書>東京書籍、2012年2月、36~37ページ)