Ⅰ ICFの視点に基づく福祉教育実践
出所:原田正樹/ICF視点での福祉教育実践を展開していくために―福祉教育実践講座―/京都府社会福祉協議会、2014年3月5日。
謝辞:転載許可を賜りました原田正樹先生と京都府社会福祉協議会に衷心より厚くお礼申し上げます。京都府社会福祉協議会の渡邊一真さまには格別のご支援をいただきました。記して感謝申し上げます。/市民福祉教育研究所
Ⅱ サービスラーニングと福祉教育実践
ご紹介をいただきました日本福祉大学の原田と申します。よろしくお願いいたします。今日は、「サービスラーニング」についてお話をさせていただくという機会を頂戴しました。サービスラーニングの考え方や歴史、また今どんな実践が行なわれているかなどを紹介したいと思います。
サービスラーニングとの出会い
私がサービスラーニングに初めて出合ったのは、今日のこの会の後援をさせていただいている日本福祉教育・ボランティア学習学会でサービスラーニングについて研究しようということで、1997年にアメリカへ視察に行った時のことです。
当時、アメリカのオハイオ州立大学のジャック先生という方が、特にアメリカの小学校・中学校のサービスラーニングにおいて非常にリーダー的な役割を果たしていました。そこで、90 年代の後半には毎年何回かオハイオ州立大学にお邪魔し、日本の福祉教育やアメリカで始まっているサービスラーニングはボランティア活動とどこが同じでどこが違うのかを勉強するために、実際の小学校や中学校の授業を拝見させていただきました。
アメリカのサービスラーニングの授業風景
ちょうどこれからサービスラーニングを始める小学校3年生の、最初の授業を拝見する機会がありました。州立の小学校で担任は女性の先生、クラスは当時20 名ぐらいで、子どもたちを前に先生がこのような問いかけをしました。「みんなが安心して毎日学校に通って来られるのは誰のおかげ?」。
子どもたちはみんないろいろ考えながら言い出します。最初に出てくるのは「お父さん、お母さん、家族のおかげだ」。その先生は、「そうねえ、お父さんがいてくれるからね」、「お母さんがいてくれるからね」と、子どもたちの意見を引き出していきます。「でも、それだけ?ご両親だけ?」との先生の投げかけに、また子どもたちは考えていろいろなことを言い始めます。
やりとりをしている中で、だんだんと子どもたちの中から「地域のおじさんやおばさんのおかげ」というような声が出てくるのです。「地域のおじさんやおばさんは何をしてくれるの」と先生がまた尋ねます。アメリカではスクールパトロールが非常にしっかりしています。日本でも最近、登下校のときに地域の方たちが見守りをしている所がありますが、アメリカでは当時からそれがしっかり仕組みとして地域の役割としてありましたから、「スクールのパトロールの人たち、おじさん、おばさんたちがいてくれるから私たちは安心して学校に通って来られる」と子どもたち。「そうね、あのおじさんやおばさんがいてくれるから、みんなが来られるのよね。他には?」と先生がどんどん広げて聞いていきます。そうすると、小学校3年生が「その地域のおじさん、おばさんたちがお金を出してくれているから、僕たちは学校に来られるのだ」と言うのです。そんな答えまでが出てくるのです。
もちろん州立の学校ですから税金で学校が運営されています。税金という概念がどこまでその小学校3年生でわかっているかどうかわかりませんが、いずれにしましても「地域のたくさんの人たちのおかげで学校が成り立っていて、私たちが安心して安全に学校に通って来られるのは地域のおじさんやおばさんのおかげなのだ」という話を先生が深めていくのです。
そういう話をある程度してから、今度は先生が質問を変えます。「では、みんなは地域のおじさんやおばさんのために何ができるの?」。その地域の人たちのおかげで自分たちは学校に来られているのだということを十分子どもたちが認識した上で、今度は「では、地域のその人たちのためにみんなは何ができるの」と切り返した質問をするのです。
そうすると、子どもたちが悩みながら「地域のお掃除ができる」「このようなことができる」ということをどんどん言い始めるのです。それを先生が一つひとつ受け止めていきながら、「みんなは地域のおじさんやおばさんたちのおかげで学校に来られているのだから、みんなが今度は地域に何をしようか」という話をしながら地域貢献のプログラムづくりに入っていくのです。最初の授業はそこまでです。その後、彼らが考えたプログラムを実際に実践してサービスラーニングが展開されていきます。
福祉観やボランティア観の違い
本学は福祉系の大学ですが、学生たちに「なぜ福祉の大学に来たのか」、あるいは「将来、福祉の仕事に就きたいと思ったのはどうして」と1・2年生に聞くと、その多くの学生たちは小・中学校のときに福祉教育でとてもいい経験をしているのです。
老人ホームに行って、すごく素敵な職員の方と出会っている。あるいはお年寄りや障害のある方と出会って、小・中学校のときにとてもいい福祉の原体験をしたことが、将来、福祉を学びたい、福祉の専門職になりたいというモチベーションにつながってきているということが学生たちにアンケートを取るとすごくはっきりしてくるのです。
20年前はこんな感じではありませんでした。福祉教育などは小・中学校や高校で行われなかったので、あまりそういうモチベーションの学生たちはいませんでした。むしろ家族や親戚に認知症や障害のある方がいる、そういう自分の家族のモチベーションによって福祉を志すというのが20 年ぐらい前の中心だったのです。
ところが、今は全くそういう家族がいるというわけではなくても、小・中学校のときの福祉体験が将来の職業選択につながってくるという子たちがすごく増えてきています。これはある面、小・ 中学校や高校で福祉教育の体験が非常に広がってきた一つの成果だと思うのです。
一方で、私は福祉系の大学で教えていますが、他の大学や学部でもボランティア論を担当することがあります。他の大学の経済学部や法学部の学生にボランティア論を教えると、人数は多いのですが、どう見てもボランティアに対して好意的ではない雰囲気があるのです。端的にいえば、「ボ ランティア論だったらそんなに難しくないだろう、単位が取りやすいから履修した」という雰囲気の学生たちが最初のときはたくさんいます。
彼らに最初の授業のときに「なぜボランティア論を履修したのか」、「大学に入るまでのボランティアの経験の有無」、「ボランティアの印象」などについてアンケートを取ります。7~8割方の学生たちは「ボランティアは強制労働だ。自分たちは小・中学校、高校のときに強制労働させられた。そのようなものをボランティアなどというのはおかしい」と、すごく批判的なイメージでボランティアを受け止めていることに愕然とします。福祉系の大学に来る、小・中学校・高校時代の福祉体験に対して肯定的な学生たちとでは180度ボランティア観が違うのです。
その否定的な学生たちの話を聞くと、「掃除など様々なことを学校の先生から強制的にやらされた。自主性だ、主体性だ、責任性だ、いろいろなボランティアについての言説は所詮建前であって、大人の偽善だ。我々はそのようなボランティアなどというものにはだまされない」と言うように、 ボランティアに対して厳しい意識を持ってボランティア論を履修してくるのですね。
「そんなことならボランティア論など履修しなくていい」とこちらは思うのですが、そうは言えないので、15回の授業の中でどうやって彼らのボランティア観を変えられるかというのが私にとっては一つのミッションになっています。
ボランティアとコミュニティサービスの明確化
その違いの根源を探していくと、どうも日本の福祉教育の関係者や学校関係者がボランティアを非常に歪曲して伝えてしまっているのではないかという疑問もあります。
アメリカでは、日本よりももっとボランティアは厳格に使われます。自主性、主体性ということをすごく重んじたボランティア文化をアメリカはつくってきました。コミュニティサービスというのは、今言いましたある一定のノルマや枠組み、もっと言えば教育活動そのもので、評価が伴う枠組みの中で行なうわけですから、=(イコール)ボランティアではなく、これはコミュニティサービスであるということをはっきり生徒たちに伝えるわけです。
コミュニティサービスというのは、先ほどの小学校3年生の先生の授業の導入でもありました 「あなたたちはたとえ小学生であっても地域社会の一人として責任があるのだ。地域の一員として果たすべき役割と義務があるのだ」と「市民性」をしっかり伝える。それは“自発的な”とか“主体的な”ではなくて、子どもたちの間に教育として伝えるというノルマの一つとしてコミュニティサービスをしっかり伝えるのです。
コミュニティサービスをやりながら、例えばオハイオ州では高校生には「年間320時間のコミュ ニティサービスをしなければならない」という時間の制約があります。年間320時間、何をやってもいいが、地域貢献の活動をしなければならない。それを証明してもらって320時間を果たしたというのはノルマなのです。
ところが320 時間終わった後にもその活動を継続する子たちが出てくるわけです。ノルマ終わっていても「継続して卒業までずっとこの活動を続けたい」というのはボランティアです。そこをはっきりと使い分けているのです。アメリカはこの地域貢献、コミュニティサービスを通して学ぶということを非常に大事にしています。
このボランティアとコミュニティサービスの違い、これをもっと意識的に日本では使い分けないといけないということを感じました。社会奉仕というのもそうですが、それをボランティアと置き換えて生徒たちに伝えると、生徒たちのボランティアの受け止め方は、すごくいい体験になる生徒群もいる一方で、強制労働と捉える生徒たちも出てくるわけです。それがボランティアの曖昧性、ボランティアのゆらぎをつくってしまった。
そういう意味でボランティアとコミュニティサービスはしっかりと使い分けることが大事です。今日お話するサービスラーニングはコミュニティサービスをしっかりと使った授業なのです。ボランティアを使ったものではないのです。コミュニティサービスという意図的・計画的につくられた 地域貢献の体験を使いながら授業をしていく。ここの違いがまず前提としてしっかりないといけない。サービスラーニングは決してボランティアを使った学習ではない、コミュニティサービスを使った学習なのです。“サービス”という概念がサービスラーニングの大事なところだと思っています。
大学教育におけるサービスラーニング
少し前提のお話をしましたが、実はこの間の中央教育審議会(中教審)でもサービスラーニングが必要だということがしきりに言われ、昨年、大学教育の中でもサービスラーニングを積極的に取り入れるよう、答申が出ました。
今日も大学関係者の方も参加していただいていますが、中央教育審議会から 2012 年の8月に「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて」という答申が出ています。答申の中の質的転換の中で、「学生は主体的な学修の体験を重ねてこそ、生涯学び続け、主体的に考える力を修得する。そのためには質を伴った学修時間が必要である」と書いてあります。(資料➀)
大学教育の改革について矢継ぎ早にいろいろな答申が出て、各大学は「従来のような大学ではいけない、大学の教育内容をどう改革していくか」という教育改革に必死に取り組んでいるところです。
最近、文科省から出てくる“ガクシュウ”というのは、学び修める「学修」という字がよく使われるようになってきています。高校の先生方もご存じのとおりですが、“学び習う”ではなくて、“学び修める”「学修」という言葉を文科省は最近よく使います。
では、そのためにどうしたらいいか。答申には、「そのような『学士力』を育むためには、ディスカッションやディベートといった双方向の授業(アクティブ・ラーニング)への転換と、教室の中で講義を聞いているだけではなく、地域に足を運ぶ、サービスラーニングやインターンシップ等の教室外学修プログラムをしっかり教育課程の中に入れていかなければならないと書いてあります。
アクティブ・ラーニングとサービスラーニングの違い
アクティブ・ラーニングとサービスラーニングの違いは何か。概念だけ整理をしておきたいのですが、講義・講演のような方法は一方通行の授業なので、アクティブ・ラーニングとは言いません。 小・中学校の授業などでよくある、生徒・児童とのやりとりの中で問いかけをしたり、生徒が一緒に考えたりという双方向の授業をアクティブ・ラーニングと言います。
NHKがハーバード大学の「白熱教室」などを放映しています。かつて大学は、私たちもそうなのですが、「40 人のクラスだったら生徒とやりとりはできるが、200 人、300 人の大講義などはとてもアクティブ・ラーニング、双方向の授業などできない」と、できないことを前提に一方的な講義をし続けてきたわけです。
学生たちがわかる・わからないに係わらずに大学の講義は一方的に行われていたのですが、「たとえ 200 人、300 人の授業でも双方向の授業をしていかなければいけない」ということが、今、しきりに言われています。それはそれで我々大学教員としては本当に難しいです。15 人、10 人ぐらいのゼ ミであれば当たり前のことですが、300 人の講義の中でアクティブ・ラーニングをするというのは結構大変です。
もちろんオーソドックスに生徒たちに発言させてやりとりをするという方法もあります。若い先生方などは、最近はスマートフォンで生徒たちに発題をして回答をさせ、すぐに集計して、その割合がグラフになって出てくるといった、ITを活用した双方向の授業などもしています。
様々な方法をとりながら、とにかく生徒と教師が双方向でやりとりしながらアクティブに能動的に授業をしていくということがすごく言われるようになっています。
しかしアクティブ・ラーニングの中にサービスラーニングがあるわけではないのです。アクティ ブ・ラーニングというのはあくまでも学内での講義をどう能動的にしていくかということです。それに対してサービスラーニングやインターンシップというのは大学の中だけではない教室外学修で、フィールドに出て学ぶということがまず前提として出てきました。「学士課程教育はキャンパ スの中だけで完結するものではなく、サービスラーニング、社会体験活動や留学経験等は、学生の学修への動機付けを強め、成熟社会における社会的自立や職業生活に必要な能力の育成に大きな効果を持つ」とサービスラーニングの必要性について整理がされています。
ポイントは、「社会的自立を促す」ということです。サービスラーニングの側からすれば、まさに市民社会を担う市民の育成が「社会的自立」につながるということ。と同時に「職業生活」に必要な「キャリア教育」として外に出て学ぶということはとても意味があるのだということの二つが大きく強調されるようになりました。
したがって、「地域社会や企業等と大学は、プログラムとしての学士課程教育の質的向上のための、地域・企業参画型の新たな連携・協力に取り組むことが重要である。あわせて、学生に対する経済的支援の充実のための連携協力を進めることを望みたい」と書かれています。
COC(センター・オブ・コミュニティ)
今年度から文部科学省は全国から50の地域に貢献する大学をCOC(センター・オブ・コミュニ ティ)として選出して、そこに大型の補助金を付けて、まさにこの教育を中心的に担っていくというモデル事業を始めているところです。
その50大学は8月の上旬に発表されるので、まだどこかはわかりません。その発表がされますと、全国の50 大学(平成25 年度地(知)の拠点整備事業単独 48、共同4の合計 52が採択された)がこういう取り組みのモデルということでこれから5年間進めていくことになるのですが、文科省としてもそこに集中的にお金を付けて、これが実現するような仕組を全国で広げていこうと、いま政策としても具体的に動き始めているというところです。
サービスラーニングの定義
ただ大事なのは、サービスラーニングというのは先ほど言いました社会的自立やキャリア教育にもつながるということですが、実学、プラグマティズムの考え方が非常に強いのです。そのプラグマティズムの考え方がどういうようになってきたかというのをもう少し整理をしたのがサービスラーニングの定義でもあります。文科省の答申の中では「教育活動の一環として、一定の期間、地域のニーズ等を踏まえた社会奉仕活動を体験することによって、それまで知識として学んできたことを実際のサービス体験に活かし、また実際のサービス体験から自分の学問的取組や進路について 新たな視野を得る教育プログラム」と整理されています。
日本福祉教育・ボランティア学会としても、この定義は必要な要件がすべて入っていて、非常によく整理されているという解釈をしております。ポイントは三つあります。
〇「一定の期間、地域ニーズをふまえる」
イベントで1回だけやるようなものはサービスラーニングとは言わないということです。ただ、 一定の期間というのが2カ月なのか3カ月なのか1年なのか、これは解釈や状況がいろいろ違うかと思いますが、少なくとも1回のイベントだけではない一定の期間において、かつ地域のニーズに基づいているということ。つまり学校側がやりたい、生徒たちがやりたいということだけではなくて、地域が求めていることに対してしっかりとそれに応えていくということです。
〇「それまで知識として学んできたことをサービス体験に活かす」
ここがサービスラーニングの一つの特徴なのですが、教科教育があって、それ以外に何か体験をさせるということではないのです。教科教育とサービスラーニングや地域貢献したことをどうつなげて考えられるようにするかということですが、これは言うは易く、すごく難しいことです。ボラ ンティア体験、あるいはボランティア活動は課外活動で、好きな生徒だけが一生懸命やればいいのだという従来の日本でのサークル的なとらえ方とサービスラーニングとは違います。サービスラー ニングという地域貢献をすることによって、いままで学んできたこととそれが関連してくるという、ここが大きな特徴なのです。
このあたりは今日も来ていただいている、小平市の総合的な学習の時間で、クロスカリキュラム として山下先生たちがこのことをずっとやってこられました。小学校で学ぶ国語・算数・理科・社会と、いろいろな地域活動を総合的な学習の時間の中でどう結び付けるか、つまり何を総合化させるかというのは、まさにサービスラーニングの考え方と当てはまることになるわけです。
〇「実際のサービス体験から自分の学問的取組や進路について新たな視野を得る」
新たな視野というのは気づきを大事にするということです。体験と知識をつなぎ合わせることで、 新しい気づきを子どもたちの中にどうつくり出していくか。そういう意味では明らかにこれは学習活動です。ボランティアと大きく違うのは、学習活動としてこのサービスラーニングがしっかりと位置づいているということです。
サービスラーニングの導入
〇「専門教育を通して獲得した専門的な知識・技能を現実社会で実際に活用できる知識・技能へ の変化」
まさに実学です。大学の授業や講義でやったことは役に立たないということではなく、それを通じてどう社会貢献できるかということをしっかりとサービスラーニングを通して意識的に学び直すということです。
〇「将来の職業について考える機会の付与」
〇「自らの社会的役割を意識することによる、市民として必要な資質・能力の向上」
このようなことを通して、市民としての必要な資質・能力の向上が期待できる学修活動がサービスラーニングであるという整理を文科省が出しているわけです。
50 大学がCOCのモデルになると言いましたが、サービスラーニングをしている大学同士のネット1 1 ワークに加盟しているところはまだ30大学ぐらいしかありません。そういう意味ではまだまだこれからの状況です。サービスラーニングを意識せずに、地域に出て似たようなフィールドワークやっている大学はもっとたくさんありますので 30 大学しかしていないということではないのですが、意識的にこのサービスラーニングという授業モデルをカリキュラムの中に入れて、いろいろな大学とつながろうとしているところはまだ 30 大学ぐらいということです。これがこれから広がっていくだろうし、広げていかなければならないと思っているところです。
新学習指導要領
ここまでは大学教育の話をしましたが、これから始まります「新学習指導要領」の中でも幾つも大事なところが出てきています。今回の新しい学習指導要領は従来のものと少し変わってきまして、知識基盤社会を前提に「確かな学力」をどう育んでいくか。マスコミなどでは「ゆとり教育からの転換」などと言っていますが、そんな簡単な話ではないことはもうみなさんご案内のとおりです。
「『競争』と『共生』知・徳・体の調和」という中で、とりわけ奉仕の分野で言えば、「道徳教育、特別活動における奉仕体験の重視」が打ち出されていますし、「他者、社会、自然・環境と共生できる自分。→『開かれた個』の育成 生きる力」、このようなものをどう育んでいくのか。個人的には、コミュニティサービスを活かしたサービスラーニングが非常に重要であると考えていま す。(資料②)
いま東京都の先生方が取り組んでいらっしゃる奉仕の時間はすごく大事な役割を果たしていると思っていますが、それを学校だけで行なわずに、地域の教育力とどう連携するか、あるいは地域の教育力とどう協力して進めていくかということも同時に大切になってきます。これを学校だけでやるのはすごく負担感が強くなりますから、地域の仕組みにしていくということがこれからの大事な課題になるのではないかと思っております。
サービスラーニングの原型はジョン・デューイにある
サービスラーニングがどのように展開されてきたのか、少し歴史を見ておきたいと思います。アメリカにおける様々な研究の中では、サービスラーニングの原型はジョン・デューイが始め、そこに一つ大きな流れがあると言われています。
ジョン・デューイは言うまでもなく日本の社会科教育の最初のところを作った先生ですが、彼がこのサービスラーニングでも非常に重要な役割を果たしてきました。サービスラーニングや体験学習を重視し、従来の系統的教科学習を改革しようとしたジョン・デューイの一つの大きな功績があるわけですが、サービスラーニングの原型はそこから始まったと言われております。
ただ、ジョン・デューイが活躍したのは 1920 年代から30 年代の頃ですから、必ずしもそれが即サービスラーニングになったわけではなく、原型としてジョン・デューイの活動が一つのモデルになり、アメリカでサービスラーニングが広がったのは1980年代なのです。なぜこの年代に市民教育やサービスラーニングが始まり、広がったのか。
アメリカでも諸説がありますが、社会的な不安というのが一番大きかったと言います。80 年代は まさにレーガン政権の頃と重なってくるわけですが、新自由主義が始まって格差社会が広がりました。強い者・弱い者がいて弱肉強食のような中で「本当にそれでいいのだろうか」という人間のあり方、市民社会のあり方という問い直しが起こり、サービスラーニングを取り入れていこうという機運が 80 年代に現場の先生たちの中で非常に急速に広がっていったというのです。
これを聞くと少し日本にも似ている気がします。社会的な流れとしてなぜ、あえて奉仕体験が子どもたちに必要かというのを強く思う社会的な文脈と、80 年代のアメリカの文脈というのが、まだ検証しきれているわけではありませんが似ている背景があるように思うのです。
そういう中から90 年に、「国家及びコミュニティ・サービス法」という法律ができて、サービスラーニングが教育の中に義務化され、90 年以降は一気にサービスラーニングが小・中・高・大学の教育の中に入ってきます。
ただしアメリカの場合は、国がこの法律を決めたといっても州によって積極的に取り入れている州と、ほとんど取り入れていない州もありますから、必ずしも全国一律ということではありません。 これがアメリカの面白いところですが、こういう法律の中で 90 年代に広がっていきました。
アメリカのサービスラーニングの特徴も文科省の答申と構成は一緒
アメリカのサービスラーニングの特徴も文科省の答申と構成は一緒です。二つ大事な点として、コミュニティサービスをしっかりと位置づけ社会的課題の解決につなげるということと、学習者の変革や成長を意図することです。ボランティア活動ではなく学習と位置づけ、学習者が成長しなければいけない教育プログラムなのです。
「地域のニーズに応えること」「学習者の成長に寄与すること」を統合した形で、課外活動ではなく正課カリキュラムに計画的に問題解決型コミュニティサービスを組み込むというのが特徴です。
生徒たちが社会的ニーズに応えていきながら自己意識や価値観の問い直し、問題解決のための実践的知識やスキルの習得ができるよう、授業の中にしっかりと組み込んでいく。そのために「リフ レクション」という方法を非常に重視しながら、このことがつながるような教育プログラムをつくっています。
ジョン・デューイのセツルメント
ジョン・デューイ先生については、教育界では非常に有名な方です。なかでも体験学習の理論を生み出したというところに着目される方が多いのですが、彼自身は教育哲学者、とりわけプラグマティズムという実用主義に基づく教育哲学を生み出します。シカゴ大学で教鞭を取られたのですが、実はジョン・デューイは福祉の分野からも非常に注目されています。教育学者だけではなくて、とりわけ地域福祉の分野で非常にこのジョン・デューイは注目されています。
セツルメントは今の日本の地域福祉の源流ともされていますが、ジョン・デューイはハルハウスというアメリカでできたセツルメントの大きな拠点の理事を務めていたのです。セツルメントをする人を「セツラー」と言いますが、ジョン・デューイはセツラーとしても活動していたのです。
スラム街などの貧困層の地域に知識者が一緒に生活を共にしながら、彼らの生活改善をする活動をセツルメントと言います。1980年代の後半にイギリスで生まれ、1900 年前後にアメリカで広がっていくのですが、スラム街に知識者が一緒に寝泊まりしたり、居をそこに構えて貧困層の人たちと生活をしながら生活改善に取り組む活動があったのです。
「貧困の連鎖を断ち切るのは教育である」という立場をセツルメントはとりました。セツルメントが始まる以前はチャリティーが中心だったのです。「世の中で困った人たちがこんなにも増えてきた。その人たちに対して教会を中心にいろいろなものやお金、食糧を集めて分け与えていくチャリティーを中心に支援をしましょう」という活動が広がっていったわけですが、実はその資本主義社会がイギリスで広がっていく中で格差社会が出てくる。そうすると、「チャリティーだけではどうも解決しないのではないか。とりわけスラムという最貧困の人たちが暮らしている地域の貧困の連鎖を断ち切るためには、ものを分け与えているだけでは抜本的な解決にならない」ということになったのです。
「大人たちの貧困の社会の中で育った子どもたちはチャリティーで食べ物を与えてもすぐに食べてしまい、大人もお金を与えたらすぐにギャンブルで使ってしまう、そういう生活習慣を見て育った子どもたちは同じような生活をする。どこかでそれを断ち切っていくためには教育の力が必要だ、教育の力によって貧困を断ち切らないといけない」。そういうことに志をもった方たちがそこにセツルメントという拠点をつくりながら、生活改善を教育の力でしようという動きを1900 年代の初頭には、既に行なっていたのです。
21 世紀の今、日本でも貧困の連鎖が問題となり、生活保護世帯の子どもたちに学習支援が必要だということがしきりに言われるようになりましたが、100年前のセツルメントはもっと大々的にそういうことをやっていたのです。
ジョン・デューイの教育哲学
ハルハウスでも、ジョン・デューイは言葉が伝わらない特にスパニッシュの子どもたちの教育をどうしたらいいかということに悩みました。系統的な科学学習というのは言語を前提に教科教育がつくられてきている。でも、言語が伝わらない子どもたちにその科学的な系統学習はできません。 そこでジョン・デューイは体験を通して生き方を学ぶという、体験学習というものをセツルメントの活動の中から導き出していきました。
そのことが彼の教育学、教育哲学として体験学習の基礎的なものになり、彼は「教育は子どもの生活経験に基づかなければならない」と主張しました。この理論が非常に認められる時期もあれば、それが経験主義だということで軽視された時期もありましたが、2002 年に始まった総合的な学習の時間は、ある面、このジョン・デューイの再評価ということが言われました。東京大学の佐藤学先生たちなどがこのジョン・デューイと総合的な学習の時間の理論枠組みの整理をして、「学びの共同体」や「協同学習のすすめ」などの提起をされています。それが、サービスラーニングの理屈につながってくるのです。私も総合的な学習の時間というのは、ジョン・デューイが本当にシンプルに昔、言っていたことと同じだという捉え方をしています。
また、ジョン・デューイは「知識を知恵に変えるためには体験が必要だ」とも言いました。30 年前の子どもと今の子どもと知識の量だけ見たら、決して今の子どもたちが劣っているわけではありません。30年前の子どもより今の子どもたちのほうがはるかに知識や情報量はたくさん持っている。 それにもかかわらずいろいろな問題が起きてくる。
つまり、ジョン・デューイの言葉に置き換えれば、生きていく「知恵」となっていないのです。 知識や情報をたくさん持っていても、それが縦割りのまま子どもの中で総合化されていないわけです。国語・算数・理科・社会、いろんな形で学ぶわけですから、知識や情報はたくさん頭の中に入っていても、そのことが自分自身の中で総合化されていないから、いざというとき生きる知恵そのものになかなかなり得ない。
では、どうしたら知恵に還元できるか。ジョン・デューイは「体験を通して、経験に基づいて初めて知恵になるのだ」と言います。ジョン・デューイも「仕事」という言葉を使うわけですが、子どもにとっての仕事は何かといったら、「遊ぶこと」だというのです。子どもたちが、学校が終わった後、徹底的に遊ぶ。遊ぶ中で無意識ではあるけれど、国語や算数や理科や社会で教わったことを社会体験の中で、「あっ、これはこのようなことなのかも知れない」と当てはめていく。
学校で教わった知識の点と点が、子どもたちは遊びという一つの経験を通して、少しずつ繋がり合っていく。いろいろな人たちと出会ったり、社会体験をすることで子どもたちの中に総合化が進み、結果としてそれが知恵になっていく。知識を知恵にしていく。これはもう繰り返しですが、 ジョン・デューイがもう100 年も前に言っていた話なのです。
日本は総合的な学習の時間に何を総合化するのか
日本は総合的な学習の時間に何を総合化するのか。「総合学習」と言わずに、あえて「総合的な学習」と言ったのは、私は非常に含蓄のある言葉だと思っています。略して「総合学習」としてしまったがゆえに、何か新しい縦割りの一つの授業ができたような感じを与えてしまったのではないかと、個人的には思っております。その理屈というのは繰り返しですが、まさにこのジョン・ デューイの考え方、これは佐藤学先生の受け売りですが、こういうロジックになってくる。
つまり、サービスラーニングも、あえて総合的な学習の時間とは言わないまでも、まさにコミュニティサービスを通してこういうことをしていくというのは、そこに合致する理論枠組みがあるということと同時に、教育の面だけではなくて、まさに地域福祉や社会福祉の文脈からも、ジョン・ デューイの功績というのは、100 年後の今に投げかけてくるものがたくさんあり、彼の福祉の側面、 教育の側面をつなぎ合わせたものが、私は福祉教育そのものだと思っているのです。
福祉教育というのは、何も福祉の知識や技術を教えるのが福祉教育なのではなくて、人の生き方を伝えるのが福祉教育だと思っています。
サービスラーニングとボランティアの概念
コミュニティ・サービスというのは辞書で引いていただきますと、「地域社会の一員としての義務」と出てきます。「義務」という言葉が少し強ければ「役割」と言ってもいいのかも知れません。
もう一方、ボランティアというのは本人の主体性、自発性を重んじるもので、評価されたり、義務でやらされたりするものではありません。ボランティアを評価するのかしないのかという議論や、 ボランティアの有償性の議論があったり、ボランティアを取り巻くいろいろな議論がされていますが、私はこの主体性・自発性があるからこそ、ボランティアが浮かび上がってくると思うのです。
逆説的に言えば、ボランティアの自発性、主体性を大事にする以上、「ボランティアをしない自由」も認めていかないといけないと思うのです。「ボランティア(をする人)はいい人で、みんながボランティアをやるべきだ」とか、「県民総ボランティア」みたいなことを行政のトップが言いだすこともあります。
「国民総ボランティア」などという怖いことまではまだ言いませんが、でも、「ボランティアはいいことだから、ボランティアは全員がやるべきだ」というロジックに立ってしまったら、もうボランティアはボランティアでなくなってしまうわけです。そういう意味では、ボランティアを大事にするということをすればするほど、実はボランティアをしない自由ももう一方でしっかり認めていかなければ、ボランティアの本質が搖らいでしまいます。
それに対して、コミュニティ・サービスは違うのです。「地域社会の一員として役割を果たしていこう、地域社会の一員としてこんなことをしていくのが責任じゃないか」という問いかけをしますから、似たような活動ですが全く趣旨が違うものなのです。少し広がり過ぎる考え方かも知れませ んが、日本の今の社会がどうも戦後、地域貢献とかコミュニティ・サービスということをしっかりと教え切れてこなかったのではないかと思うのです。
民生委員にみる地縁組織の崩壊
今、地域の中でも3年に一度、民生委員が改選されるのですが、そのなり手がなかなかないのでどうするかということが大きな課題になっているのです。民生委員のなり手がないというのは、地域の役員のなり手がないとも言えるわけです。もう地縁組織が壊れ始めてきているわけです。「地縁組織が崩れていくのは時代のせいだ、そんなものは関係ない」と言い切ってしまっていいのか、地域というコミュニティの持つ役割というものを日本社会は戦後、重視してこなかったわけですが、 そこをどう考えていったらいいのか。
ただし、戦前や戦中の隣組という仕組みがあまりにも戦争の中に巻き込まれてファシズム化していった、という反省ももう一方ではあるわけです。そこの部分の総括と転換が戦後うまくできないまま、なし崩し的に「それはけしからん。いいものではない。地縁組織は封建的でよろしくない」 となった。高度経済成長のときにはむしろコミュニティを否定するような流れで、「自分が幸せならそれでいいのだ」という価値の中でこの地縁組織が崩れてきたのです。
誰が地域を支えるのか
今、地域を支えているのは 60 代、70 代の方たちです。この60 代、70 代の方たちがあと10 年後どうなっていくか。そのときに今の 40 代、50 代は本当に地域のことをやれるのか。よく60 代、70代の方に「どうしてこんなに地域のボランティアを一生懸命なさっているのですか。こんな忙しいのに。」と聞くと、皆さん異口同音に「昔、地域に世話になったから。小さい頃、地域のおじさんやおばさんに世話になったから。今それ相応の年になったときに、自分は地域に恩返しをしなければいけない。 地域の役に立つことをしたい」と言います。そういう層の人たちが地域活動を支えているわけです。
ところが、子どもの頃から地域の原体験がない子たち、あるいは、もうその世代が親世代になってきたときに、「なんで地域のことをやらなければいけないのだ」と、理屈がわからないのです。 地域のことが大事だと言っても、そういう原体験がなければ、「どうしてこんな地域のことを、ボ ランティアでしなければいけないのだ。だったらお金でなんとか解決しよう。」という話になっていくわけです。
まだ日本は、70 代、60 代の彼らが、日本の地域社会を今ぎりぎりのところで支えている。20年後、30年後、日本の地域が明らかに崩壊していくときに、それに代わる仕組みをどうつくっていくのかということも課題です。
ボランタリーな気持ちを育むサービスを教育の中につくり出す
このサービスラーニングのサービスというのは、まさに地域貢献なのですが、地域の方たちが本当になにかと手のかかる子どもたちを受け止めてくれるわけです。大学生でも全く一緒なのです。挨拶ができない、支度がだらしない、遅刻してくる、そのようなことばかりで地域の方たちに怒られるのです。
でも、それは彼らが社会に出ていくときにすごく大事な経験なのです。大学の講義の中で「社会福祉概論は」「社会福祉の法律は」などと教えるだけでなく、「そんな支度じゃだめだ」とか、 「なぜシャツを外へ出しているのだ」から始まるようなやりとりを地域の方たちからしていただくわけです。言葉づかいひとつ、挨拶ひとつ。そういう経験をしながら社会でどう生きていくかを学んでいくのです。
そういう原体験をしていく子どもたちや学生たちが増えていかなければいけないという意味では、 このサービスという捉え方を意識しなければなりません。だからといってサービスだけではだめなのです。一方ではボランタリーな気持ちを育くめるようなサービスをどう教育の中でつくり出していくかが大事になっていくのではないかと思います。
サービスラーニングプログラム作成のポイント
実際にサービスラーニングのプログラムをつくっていくときのポイントを、事例を通してお伝えしたいと思います。
<老人ホームの事例>
あるとき老人ホームを訪問しましたら、寝たきりの78 歳の男性が「来週、後輩が訪ねてきてくれる」と言うのです。どんな後輩なのか聞きましたら、「卒業した母校の小学校5年生が来週来てくれるのだ」と言うのです。その小学校は創立百何年という学校ですからまさにそうなのですが、その「後輩が来てくれる」という言い方が何かとてもいいなと感じました。
また2カ月ぐらいして訪問したときに、その男性に当日の話を聞いてみました。彼の母校の小学校5年生の子たちが来て、老人ホームの広いホールに利用者の方たちも集まった。ホールの前のステージに並んで、最初は「僕たちは○○小学校の5年1組です。今学校はこんなことをやっています」と少し学校の紹介をして、その後、歌を三曲歌ってくれたそうです。子どもたちが一生懸命歌ってくれれば、もうそれだけでお年寄りは感動したり、涙を流される方がたくさんいるわけです。
その後、代表の子どもが「今日は皆さんのためにプレゼントをつくってきました。もし良かったら、どうぞ使ってください」と言います。栞を作ってきていたのです。その栞を配る段階になると、 ステージにいた子どもたちが2~3人の少人数になってお一人お一人のお年寄りのところに栞を届け、自己紹介をしました。話を聞いた男性も枕元の壁にその日もらった栞を大事に張り付けていました。
お年寄りの側からすれば、もう何日も前から楽しみにしていて、歌を聴かせてもらって、栞ももらって、子どもたちの自己紹介も聞いて、だんだん気持ちが高まってきたのでしょう。彼もそうですが、「子どもたちがそばに来たら、あのようなことをしてやりたい、このような話をしてやりたい」という、いろいろな思いがお年寄りの中にはあったと思うのです。
ところが、その気持ちが高まった頃、引率されてこられた先生が「そろそろ時間ですよ」と声をかけたのです。すると子どもたちはまたステージにきれいに並んで、代表の子が「今日はとってもいい勉強ができました。ありがとうございました」と言うとまた学校へ戻っていってしまいました。 しばし、そのホールのところではお年寄りたちが呆然としていたそうです。
これは子どもたちにとってはよくできているプログラムなのです。学校の先生からすれば、事前準備は大変だったと思うのです。歌の練習もして、栞もつくって、お年寄りとどうやってコミュニケーションするかということも含めて、学校の中の事前学習でご苦労されて当日を迎えているわけですから、子どもたちから見るとすごくいいプログラムであるという思いがあったのだろうと思うのです。
ところが施設のお年寄りが何を望んでいたのか、そちら側のニーズは全く配慮されていないわけです。少し厳しい言い方をすれば、一方通行の関わりで、双方向の関わりになっていないのです。 得てしてこういうことがプログラムの中では起こりがちです。一方的に子どもたちがしたいこと、 学校の教師がさせたいことをさせてしまって、相手側、地域の側が本当にそれを望んでいるのかというところをうまく汲み取れないままの一方的なプログラムになってしまうのです。
サービスラーニングの要素
はじめは、「地域のニーズを探す」、そして「地域のニーズの解決に向けて企画をする」ということです。
しかし、これが悩みどころでもあります。生徒がやりたいことをやるのがサービスラーニングではないのです。地域の求めというものがあって、地域の求めに対してどう応えていくか。サービスラーニングの企画者としてはとても大事なことになってきます。この地域ニーズを実際はどうやって掴めばいいのか。学校の先生だけでやるのは負担が大きいと思うのです。地域ニーズを掴むのであれば、その地域の関係者とつながって、関係者を通して地域ニーズを探るというのが一番具体的です。つながるまでは大変かも知れませんが、つながってしまえば、あとはいろんな情報が入ってくるのです。ここの最初の段階が独善的になってしまうと、先ほどの事例のように最後まで噛み合わないものになってしまいます。
次に、「企画をしたことを形にするための準備」です。
しかし、これは全く新しいことをして地域に出ていく準備をするのではなく、今まで学習してきたことや力を活かすことなのです。先ほどの事例では先生は音楽の授業を通して合唱の練習をし、図工や国語の時間なども使いながら栞作りや学習をされていたのだろうと思うのです。「クロスカリキュラム」みたいな言い方もしますが、今まで学習してきたこと、あるいはその子の得意なことや強みをこのプログラムの中にどう活かしていくかというのが企画を形にするということです。
さらに、一定期間の「地域貢献活動」と「リフレクション」・「評価」です。
地域貢献活動を1回だけのイベントではなくて、一定期間行なう。その活動の後に、あとで触れますが、「リフレクション」を丁寧に行なう。このリフレクションはサービスラーニングの仕掛けとしては非常に重要になってきます。
最後に、サービスラーニングはボランティアではありませんから、必ず評価があります。評価をしっかりするということが必要です。
本学はサービスラーニングに取り組んで6年目になりますが、こういう一連の要素をとり入れて、実施している1年間のプログラムの流れを紹介します。本学の場合は、2年次でサービスラーニングを導入しています。大学では「初年次教育」という言い方をします。1年次の段階で大学の教育活動にどうソフトランディングさせていくか、どこの大学も1年次の教育をうまくやらないと、あとの4年間だめになってしまうということがあって、1年次の教育をすごく重視します。
3・4年次になりますと、どこの大学もゼミや専門教育に入っていきますから、2年次が中だるみになりがちなのです。1年次は初年次教育でリテラシーに満ちていますし、3・4年次になると、専門教育ということで、うちであれば社会福祉士や精神保健福祉士という資格教育に入っていきますから、この2年次のときに社会とつないでおきたいということで、本学の場合は2年次で1年間かけてサービスラーニングをしています。一番オーソドックスなものですが、4月の段階で「導入と意識づくり」、モチベーションを高めるという仕掛けから入っていきます。
「企画・計画」というのは、学生たち自身が地域に出ていって、地域で何が求められているか。 それをもとにしながら自分たちは何ができるかということで、前期、そのような企画をつくることをしていきます。この企画をつくる段階で、学生たちだけが独善的にしてもいけませんから、何度も地域に足を運んで関係者と話し合いをしながら、「自分たちができることは何だろうか」という企画をつくっていき、8・9月の間の2カ月間、「貢献活動」をいろいろさせていただきます。
後期からはリフレクションをしていくわけですが、このふりかえりを丁寧にしていって、最終的にはレポートやプレゼンテーション、報告会をしていくという、流れとしては非常にオーソドックスな流れで1年間つくっていくわけです。
トライアングルリフレクションの導入
そのリフレクションのときに学生自身のリフレクション、ふりかえりと、活動先からの評価と、それから教育活動ですから教員が一人ひとりの学生の評価をしていく。ただし、それだけだと学生の評価だけで終わってしまうので、学生自身も活動先の評価や担当教員や今回の教育プログラムの評価をします。ですから学生と活動先と教員が三者で、学生の評価をするだけではなくて、学生も活動や教育プログラム、あるいは自分の担当の教員に対しての評価をしますし、教員もNPOや活動先の評価をしますし、その逆に活動先も学生の評価だけではなくて、教員や大学のほうの評価もする。
これを図に描くと三角形の関係になりますが、実際にやると結構つらいのです。我々の教育プログラムそのものも学生からの評価と活動先からの評価というのをいただきます。特に活動先からは、 何年間かは本当に厳しい評価をいただきました。「挨拶からマナーまで、そこまで活動先の私たちがやらなければいけないのか」というようなことから、「我々が提供したことが将来どうなってくるのかが見えにくい。自分たちは忙しい中、学生たちをこれだけしっかり受け入れているのだから、その学生たちの成長やその効果をしっかりと報告してほしい」というご意見をいただく。
そうなると、2年次にやっただけではなくて、その体験した学生たちが3年次、4年次、あるいは卒業後どこに就職したかも活動先の方たちがすごく気にしてくださいます。そういう意味では、継続してつながりをしっかりつくっていかなければいけないというのがこのトライアングルのリフレクションということになります。
リフレクションの発展
リフレクションというのはサービスラーニングの中で言われてきましたが、リフレクションを最初に言ったのもジョン・デューイで、「リフレクティブ(反省的思考)が大事だ」と言いました。 その後、サービスラーニングの研究者の中で発展してきていて、「行為の中の省察」、クリティカル・リフレクションという「批判的自己省察」、あるいは最近では自分だけを評価するのではなくて、社会や活動そのものもしっかりと評価していかなければいけない、それもクリティカルに、批判的に捉えていかなければいけないという「批判的省察」というようなリフレクションの発展が出てきています。
日本のサービスラーニングや福祉教育では感想文を書かせることが非常に多いです。何か活動すると、生徒たちに感想文を書かせる。ところが、感想文を書いて終わってしまっているのです。このリフレクション、あるいはクリティカル・リフレクションという手法は、子どもたちが書いた感想文を素材にしながら、もっとそれを深めていくことなのです。
例えば老人ホームや障害者の施設に行った子どもたちの感想文は「またおじいちゃん、おばあちゃんのところに行ってみたい」というものもあれば、「もうあの施設には行きたくない」という感想を書く子もいるわけです。では、「行きたい」と言った生徒と「もう施設には行きたくない」と言った生徒、「どうして行きたくないのだろうね」「なんで、また行ってみたいの」と掘り下げていけば、もっともっとそこから深めていくことはたくさんあります。
小学校6年生が障害者の施設に行って「臭い」と言ったことに対して先生は「そんな失礼なことを言っちゃいけない」と怒るのですが、やはり施設は臭いのです。施設は生活の臭いがするところなのです。その生活の臭いに気づいた子どもの「臭い」という表現を、「何が臭いのだろう。家と施設は何が違うのだろう」と中身を掘り下げていけば、施設というものが持つ役割や機能を理解するというように、本当は広がるはずなのです。
「臭い」と書いて「それを書いてはだめだ」と言って叱って終わってしまったらリフレクションにならないのです。リフレクションをもっと仕組みとしてもうまくやっていかないと、日本のサービスラーニングは、感想文至上主義といいますか、感想文で終わっているのはもったいないと思うのです。
「ふりかえる」という語感が、自分のやってきたことをふりかえるという内省的なイメージを与えてしまうのです。リフレクションというのは、必ずしも自分がやったことだけをふりかえるわけではなくて、今までいろんな経験をしてきて、これからどうするかという、近未来に向けてつくり出していく力をどう養成していくかということがむしろこれからは大事になってきます。
最近は、クリティカル・リフレクションからさらに発展して「クリエイティブ・リフレクション」というところを考えていこうという動きが出てきています。一言で言えば、子どもたちが地域貢献をしてサービスラーニングをした結果、更に社会に提案をする力を身につけていくということです。
モデル―愛知県東浦町立片葩小学校の事例
具体的には愛知県の東浦町立片葩(かたは)小学校のサービスラーニングの事例がそのモデルになるのではないかと思っています。
全校 600人の小学校ですが、1年生から6年生までで「福祉」をひらがなで「ふくし」としてサービスラーニングに取り組み、「ふだんのくらしのしあわせ」を考えていこうと授業を展開してきました。子ども自身の有用感や学ぶ意欲を育みながら、もう一方で共に生きるという力を育んでいかなければいけない。共に生きるための関わりやコミュニケーションという力をこのサービスラーニングを通してしっかりと子どもたちに育みたい。そのために課題の設定をして情報を集めて 整理・分析してまとめ、それをプレゼンテーションする。この学びのプロセス、リフレクションを介した螺旋を重ねていくことで子どもたちの力を育んでいこうという課題設定で先生方が取り組まれたのです。
一つだけ事例を紹介しておきますと、交通事故で足を切断したAさんと出会い、子どもたちは1年間かけてAさんと交流してAさん自身の生き方や考え方を学んでいきます。Aさんが交通事故で片足を切断して今どのような暮らしにくさがあるか、今、社会の中でどんな困り事があるか、また同時に彼には子どもがいるのですがこれからどのような生活をしていきたいと思っているかを知る。
そのようなことを丁寧に小学生たちはいろいろと地域をまわりながら、インタビューや調べ学習をしていくのですね。その中から自分たちにできることは何かという提案型のプレゼンテーションを行う。クリエイティブ・リフレクションというのは、ただ自分がAさんと出会ってAさんから学んだだけではなくて、Aさんとともにこの東浦町で生きていくために自分たちは何をすることが必要なのかという、提案型の学習なのです。
みんなにとって暮らしやすい町ということで、Aさんにとってどんな町になったら幸せかを考えていく。これはAさんという当事者との信頼関係がないとできないわけです。Aさんにとって暮らしやすい町にしていくためには具体的な働きかけが必要である。それには自分たちは何ができるかということを表現していくという授業をされています。
最後の授業である報告会のときには地域の関係者の方たちに集まっていただいて、子どもたちが学んできた1年間の学びをプレゼンテーションしました。義足というのは、行政から支給される義足は重たくて非常に使いにくいそうなのです。接地面のところがざらざらしていて、すごく痛い。 実際に義足を使っている方たちは、行政から支給される義足ではとても生活ができないので自費で義足を購入している。その義足が200万円するそうなのです。その200万円するということを知った子どもたちは行政に対してもっと何か支援ができないかと提案した。
あるいは、このAさんが市営プールに行って義足を外したときに市民がすごくいやな顔をする。そういうことに対して子どもたちは、やはりおかしい、何か自分たちができることはないだろうかと考えます。単に町に要望するとか地域がおかしいというのではなくて、自分のこととして小学校6年生の子たちが「では、僕たちはAさんとこれからどういうおつきあいができるか」、そこまで深めながら子どもたちが学びをしていくのです。こういう提案型のリフレクションをサービスラーニングの中では考えていく必要があるだろうと思っております。
サービスラーニングにおける評価のあり方
このサービスラーニングをすることによって、どのような効果があるか、この評価の指針や評価測定の部分はこれからの研究課題だと思っております。多面的評価、あるいは総合的評価。これはもう高校の先生方もいろいろ悩まれてやっていらっしゃるところかと思います。もっと端的に言えば、道徳がもし教科になったときに、道徳をどう評価するかという大きな問題が突きつけられておりますが、それと同じようにサービスラーニングの評価というのもすごく課題があります。
一面だけで捉えてはならないので、多面的に総合的にサービスラーニングの評価をしなければいけないということはアメリカでも言われているのですが、では、何をどういうスケールでサービスラーニングの評価尺度をつくっていけばいいかというのは、これはまだ確定されたものがアメリカでもあるわけではないのです。生徒や子どもたちが地域貢献活動をして、枠組みの中でプログラムをつくってリフレクションをしていく。プログラムまではどうにかそういう形ができて広がってきていますが、残された課題はこの評価をどのようにしていくかということを考えていく必要があるだろうと思っています。
出所:原田正樹/地域の課題に取り組む―サービスラーニングを理解する―/スクールボランティアサミット 2013/認定NPO法人さわやか青少年センター、2013年8月2日。
謝辞:転載許可を賜りました原田正樹先生と認定NPO法人さわやか青少年センターに衷心より厚くお礼申し上げます。さわやか青少年センターの有馬正史さまには格別のご支援をいただきました。記して感謝申し上げます。/市民福祉教育研究所