「夢」に取扱説明書を付けることはできない(下記[1]169ページ)。/「夢」とは、個人の生き方、理想や価値観に深くかかわることがらである。だから、安易なマニュアルはない。同時に、「夢」は、それぞれの個人が、自分なりの方針や考え方、大切にしたいことを携えて、付き合っていくものである。(同、169~170ページ)
日本社会は、キャリア教育のような営みも含めて、子どもや若者が「夢を持つ」ことに過剰な価値を置き、それをあおり、称揚する社会である(下記[1]178ページ)。/「夢追い型」キャリア教育には、夢とは「見つけるもの」であり、努力すれば「見つかるもの」でもあるという(実際には根拠のない)前提がある。夢は時間の経過とともに変わるものであり、いろいろと挑戦しながら「育てるもの」でもある(同、86ページ抜き書き)
〇筆者(阪野)の手もとに、「キャリア教育」研究で著名な児美川孝一郎(こみかわ・こういちろう)が上梓した『夢があふれる社会に希望はあるか』(ベスト新書、KKベストセラーズ、2016年4月。以下[1])という本がある。
〇キャリア教育という言葉が明確に使われたのは、1999年12月の中央教育審議会答申「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」であるとされる。そこでは、「学校と社会及び学校間の円滑な接続を図るためのキャリア教育(望ましい職業観・勤労観及び職業に関する知識や技能を身に付けさせるとともに、自己の個性を理解し、主体的に進路を選択する能力・態度を育てる教育)を小学校段階から発達段階に応じて実施する必要がある」とされた。2004年1月には、文部科学省から「キャリア教育の推進に関する総合的調査研究協力者会議報告書~児童生徒一人一人の勤労観,職業観を育てるために~の骨子」が出され、それに基づいてキャリア教育が本格的に始動することになる。2004年が「キャリア教育元年」といわれる所以である。その報告書では、キャリアを「個々人が生涯にわたって遂行する様々な立場や役割の連鎖及びその過程における自己と働くこととの関係付けや価値付けの累積」として捉えている。そして、キャリア教育を「児童生徒一人一人のキャリア発達を支援し,それぞれにふさわしいキャリアを形成していくために必要な意欲・態度や能力を育てる教育」、端的にいえば「児童生徒一人一人の勤労観,職業観を育てる教育」と定義づけている。
〇この時期、キャリア教育で育成すべき能力に関して、例えば国立教育政策研究所生徒指導研究センターが「職業的(進路)発達にかかわる諸能力」(「4領域8能力」)について、2002年11月に公表した(「児童生徒の職業観・勤労観を育む教育の推進について(調査研究報告書)」)。その後、中央教育審議会が「基礎的・汎用的能力」について、2011年1月に提示した(「今後の学校におけるキャリア教育・職業教育の在り方について(答申)」)。「基礎的・汎用的能力」は、「4領域8能力」を補強・再構成し、より一層現実に即した、社会的・職業的自立に必要な能力の育成を図ろうとしたものである。前者(「4領域8能力」)は、①人間関係形成能力(自他の理解能力、コミュニケーション能力)、②情報活用能力(情報収集・探索能力、職業理解能力)、③将来設計能力(役割把握・認識能力、計画実行能力)、④意思決定能力(選択能力、課題解決能力)で構成されている。後者(「基礎的・汎用的能力」)は、①人間関係形成・社会形成能力、②自己理解・自己管理能力、③課題対応能力、④キャリアプランニング能力によって構成されている。
〇キャリア教育の経緯について児美川は、概略次のようにいう。高度経済成長期(1955年~1973年頃)における画一主義的な日本の教育は1980年代に、「個性」重視の教育に急転換した。それによって、子どもや若者が自分を軸にして自分の「夢(やりたいこと)」を探す、「自分さがし」という考え方や価値観が普及する。1990年代になると、バブル景気(1981年~1991年頃)の崩壊(1991年~1993年頃)と経済不況が長期化する(「失われた30年」の)なかで、若者の就職難や非正規雇用が拡大した。「就職氷河期」(1993年~2005年頃)の到来である。2000年代に入ると競争原理と自己責任を基本とする新自由主義の推進と徹底が(小泉・安倍・菅政権によって)図られ、格差と分断の社会が若者の就労問題を深刻化させる。しかも、その原因が若者の意識や意欲、能力の問題にすり替えられ、「若者バッシング」の風潮が強化される。そこに政策化されたのが財界の求めに応じたキャリア教育の推進である。こうして、「1980年代の『夢』を賞賛する社会的風潮は、90年代以降における『夢を持て』という政治家や企業経営者たちのメッセージを経て、子どもや若者に『夢』を持たせることを教育の目的とする段階にまで到達する」(74ページ)。
〇そしていま、人口減少や少子高齢化、経済のグローバル化やデジタル化などを背景に、「国際競争に打ち勝つ」ための社会経済システムの構築が求められている。そういうなかで、政府・財界にあっては、個性や創造性豊かな質の高い、前向きでチャレンジ精神旺盛な、グローバル人材の育成(エリート教育)が喫緊の課題とされる。そこで、財界の教育要求に基づいたキャリア教育が重視され、キャリア教育政策の推進(小・中・高等学校を見通した、かつ学校の教育活動全体を通じたキャリア教育の充実)が図られることになる。〔補遺(1)参照〕
〇児美川にあっては、キャリア教育は子どもや若者に夢を持たせること、夢を追わせることを教育の目的とする政策である。児美川がいうこの「夢追い型」(80ページ)のキャリア教育が、「夢を強迫する社会」(61ページ)の基盤を整備することになる。ここで、[1]のなかから、「夢の正体とキャリア教育の功罪」に関するフレーズのいくつかを、限定的・恣意的であることを承知のうえで、メモっておくことにする(抜き書きと要約)。
● 夢は、人を前向きにさせる破壊的な威力があると同時に、時には人の人生を狂わせてしまうかもしれないようなやっかいさを持がゆえに、「怪物くん」である。(13ページ)
● 夢は「出会い頭の恋」のようなものなのではないか。その恋心をじっくり温めて、ふくらませていくこともできるが、逆に、いつのまにか忘れてしまうこともできる。(18ページ)
● 夢は、人を熱中させ、前のめりにさせることができるが、反面、その人にとって、ありえたかもしれない他の可能性に対して盲目にさせ、選択肢を狭めてしまう力も持っている。(22~23ページ)
● 日本における雇用の仕組みは、「就職(=職に就く)」ではなくて「就社(=会社に入る)」という仕組みになっている。「就社」社会の現実と、現実のキャリア教育のあいだには、抜き差しならないズレ(齟齬)がある。(44、89ページ)
● 「就きたい職業」「やりたい仕事」という意味での夢を持っている子どもや若者は、実際には年齢が上がるにつれて少なくなり、同世代の半数程度にとどまる。(45ページ)
● 夢は固定的で動かないものではなく、育ったり、育てたりできるものであり、夢と現実が交差する地点でどう振る舞うかが大事になる。(55、56ページ)
● キャリア教育は、概ね①自己理解、②職業理解、③キャリアプランの作成の3つのジャンルから構成されていた。キャリア教育の主要なジャンルに、「夢(やりたいこと)」が登場していることが注目される(77、80ページ)
● 夢には、①「実現したいこと」、②「将来やりたい仕事」「自分が就きたい仕事」、③「仕事を通じて達成したいこと」、④「なりたい自分」など、多様な意味がある。(107~109ページ)
● 夢の正体をつかむためには、夢の側を掘り下げる(=夢の世界の現実や周辺を知る)ことと、自分の側を掘り下げる(=自分の夢の根っこ・根拠を探る)ことが必要になる。(128ページ)
● 夢を考えていく際の「軸」には、自分本位の基準で夢を抱く「自分軸」と、社会参加・社会貢献の側面から夢を発想する「社会軸」の2つがある。(128~129ページ)
● キャリア教育は、「やりたいこと(希望、願望)」「やれること(能力、適性)」「やるべきこと(社会参加、社会貢献)」の3つの視点から考えることが肝要である。(132~134ページ)
● キャリア研究では、明確な目標を立て、そこに到達するために「逆算」して、計画化に努力していくという考え方(「キャリア・プランニング」論)ではなく、偶然のチャンスを生かして、上手に転換を図りながら自分のキャリアを歩んでいくという考え方(「計画的な偶発性(プランド・ハプンスタンス)」の理論)が主流となっている。(136~137ページ)
●「夢と向き合う」ということは、自分自身の「願望」や「理想」と、「現実」をどう擦り合わせ、どのように折り合いを付けるかという問題である。(145~146ページ)
● 夢が見つからないときには、意識的に「自分の枠」(興味や関心、能力や資質)を広げることが肝要となる。(149~150ページ)
● キャリア研究の世界では、近年、職業や仕事というキャリア(人生、生き方)に限らず、それと並行して別のキャリアを持つという「パラレル・キャリア」の考え方が注目されている。(167ページ)
〇[1]のタイトルは、「夢をあおる」現在の日本社会に抗するものであり、刺激的で挑発的である。児美川の主張(メッセージ)は要するにこうである。夢(希望、願望、理想)は育てるものである。夢は、その持ち主である自分自身が上手く付き合い、マネジメントし、現実と折り合いをつけていくしかないものである(自己実現)。その一方で夢は、「その社会を映し出す鏡にほかならない」(178ページ)。そこで、求められる社会は、「夢を強迫する社会」ではなく、「等身大の、ありのままの自分が認められ、でも、少し背伸びすることを求め、励ます社会」(182ページ)である。すなわち夢は、独(ひと)りよがりのものではなく、市民社会や共生社会のなかで育まれるものであり、その社会への参加・貢献を軸にして考える必要がある。キャリア教育の本来の役割は、子どや若者が社会参加・社会貢献するための力量形成を図ることにある(93ページ)。キャリア形成やキャリア教育の意義はここにある。さらに、筆者なりにあえて言えば、キャリア教育はシティズンシップ教育としてのそのあり方が問われることになる。
〇最後に参考までに、ハンナ・アーレント(Hannah Arendt、1906年~1975年、ドイツ出身の政治哲学者)の、人間の生活(「活動的生活(vita activa)」を規定する3つの条件(「活動力」)――「労働(labor)」「仕事(work)」「活動(action)」に関する言説を引いておく(ハンナ・アレント、 志水速雄訳『人間の条件』ちくま学芸文庫、1994年10月)。アーレントがいう「労働」は「人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力」(19ページ)、すなわち生命を維持するための生物学的な行為、「仕事」は「人間存在の非自然性に対応する活動力」(19ページ)、すなわち工作物を製作する職人的な行為、「活動」は「物あるいは事柄の介入なしに直接人と人との間で行なわれる唯一の活動力」(20ページ)、すなわち多くの他者に働きかける公共的(政治的)な行為、である。さらに筆者なりに別言すれば、労働=カネを得るための生産的な活動力、仕事=モノ(作品)を生み出す創造的な活動力、活動=ヒトと関わる公共的(政治的)な活動力、である。
〇アーレントにあっては、近代社会はキリスト教に依って「労働」が優位な社会となり、「仕事」と「活動」の領域が狭められ、それが最終的には全体主義を生み出した。その全体主義に対抗するためには、公共的な問題について議論する公共空間を創り出すこと(多様な個性を持つ多数の他者と積極的に関わる「活動」の領域)が重要となる。それはすなわち、マルクス主義が「仕事」を含んだ「労働」のなかに人間性の本質を見出そうとしたのに対して、アーレントは「活動」に最も重要な「人間の条件」を見出したのである。今日、社会や世論などに影響を及ぼすソーシャルメディアや検索エンジンなどによってもたらされる、20世紀の全体主義とは異なるいわゆる「デジタル全体主義」の台頭が指摘されている。そんななかで、アーレントの「公共性」をめぐる言説が、市民社会や参加民主主義、地域活動などについて議論する際にもしばしば引用される所以でもある。
補遺
現行の「小・中・高等学校学習指導要領」では、「キャリア教育」に関して次のように記載されている。
小学校学習指導要領(2017年3月告示、2020年4月から全面実施)
第1章 総則/第4 児童の発達の支援/1 児童の発達を支える指導の充実
(3) 児童が、学ぶことと自己の将来とのつながりを見通しながら、社会的・職業的自立に向けて必要な基盤となる資質・能力を身に付けていくことができるよう、特別活動を要としつつ各教科等の特質に応じて、キャリア教育の充実を図ること。
中学校学習指導要領(2017年3月告、2021年4月から全面実施)
第1章 総則/第4 生徒の発達の支援/1 生徒の発達を支える指導の充実
(3) 生徒が、学ぶことと自己の将来とのつながりを見通しながら、社会的・職業的自立に向けて必要な基盤となる資質・能力を身に付けていくことができるよう、特別活動を要としつつ各教科等の特質に応じて、キャリア教育の充実を図ること。その中で、生徒が自らの生き方を考え主体的に進路を選択することができるよう、学校の教育活動全体を通じ、組織的かつ計画的な進路指導を行うこと。
高等学校学習指導要領(2018年3月告示、2022年4月から年次進行で実施)
第1章 総則/第1款 高等学校教育の基本と教育課程の役割
4 学校においては、地域や学校の実態等に応じて、就業やボランティアに関わる体験的な学習の指導を適切に行うようにし、勤労の尊さや創造することの喜びを体得させ、望ましい勤労観、職業観の育成や社会奉仕の精神の涵養に資するものとする。
第2款 教育課程の編成/3 教育課程の編成における共通的事項/(7)キャリア教育及び職業教育に関して配慮すべき事項
ア 学校においては、第5款の1に示すキャリア教育及び職業教育を推進するために、生徒の特性や進路、学校や地域の実態等を考慮し、地域や産業界等との連携を図り、産業現場等における長期間の実習を取り入れるなどの就業体験活動の機会を積極的に設けるとともに、地域や産業界等の人々の協力を積極的に得るよう配慮するものとする。
第5款 生徒の発達の支援/1 生徒の発達を支える指導の充実
(3) 生徒が、学ぶことと自己の将来とのつながりを見通しながら、社会的・職業的自立に向けて必要な基盤となる資質・能力を身に付けていくことができるよう、特別活動を要としつつ各教科・科目等の特質 に応じて、キャリア教育の充実を図ること。その中で、生徒が自己の在り方生き方を考え主体的に進路を選択することができるよう、学校の教育活動全体を通じ、組織的かつ計画的な進路指導を行うこと。