「自然と人間の結び合い」としての日本的共同体:多層性と精神性―内山節著『共同体の基礎理論』を読み返す―

2月6日、筆者(阪野)は、盟友のひとりであり本ブログの熱心な読者でもあるY氏の誘いを受けて、蕎麦を食べに長野県の木曽福島に出かけた。評判通りの絶品であり、蕎麦好きの筆者にとっては大満足であった。あいにく雲がかかって御嶽山を眺望することはかなわなかったが、木曽馬の里まで車を走らせ、高山市を経由して帰宅するという、贅沢な一日を過ごすことができた。
「木曾路はすべて山の中である」(島崎藤村)ことに納得しながら、Y氏が運転する車はいくつかの峠を越え、奥深い山間(やまあい)の集落を通り抜けた。その集落(共同体)は、自然の懐に抱かれた時空の静寂と安寧のなかにあった。そう感じたのは、いまだに肩の力が抜けず、ギスギスしたいくつものコミュニティで暮らしてきた(いる)自分。命を輝かせて「自然とともに」生きることなど到底できないと思い込んでいる自分がいた(いる)からであろう。しかも、Y氏が運転する座り心地のいい車のシートに身を沈め、流れ去る景色を漫然と眺めていたからでもあろうか。(「捨てきれない荷物のおもさまへうしろ」種田山頭火)。
帰宅すると、注文していた本(ブックレット)が届いていた。哲学者内山節(うちやま・たかし)の『主権はどこにあるのか―変革の時代と「我らが世界」の共創』(農山漁村文化協会、2014年7月)がそれである。その晩のうちに、一気に読んでしまった。内山は、混沌と分裂の時代にあるこんにち、国家の運営に依存しない世界、多様性や多層性をもった結び合いの世界(「我らが世界」)をいかに創るかが問われている。その「主権」は、私や国家や地域にあるのではなく、「関係性のなかにある」、という。次の言説に留意しておきたい。

▽「国家か、地域か」を超えて「結び合い」のなかに生きる世界を創る
地方分権とか地域主権、地域づくりという言葉を使うときに、権限を国が持つのか地方が持つのかという議論がよく起きる。地方がもっと自主性を持ってやっていけるようにするのは大事だと思うが、国か地方かという発想自体がもう古いのではないか。
私は、国は信頼するに足らないものだということがこれからより明確になっていく時代だろうと思う。その国に依存していては駄目だが、国の対極にあるのは地域とか地方ではなくて、あくまで結び合いとしてのローカリズム、どういう結び合いのなかに我々の生きる世界を創るのかということである。それは地域としての結び合いもあるが、外部の人たちとの結び合いもある。結び合いがあるから地域も成り立っている。そういう形をこれからはつくっていかなければならない。国か地域かという二分法ではない。(41ページ)

▽主権は「私」にあるのではなく「関係性」のなかにある
「地域主権」という言葉は、この間「地方分権」とともにずいぶん使われてきたが、その主権はどこに存在するのか。(中略)
人間が主権者であるという欧米近代のとらえ方それ自体に欠陥があったのではないかという気がしている。(中略)
農業の場合も私に主権があるのではなく、自然との関係のなかに主権がある。あるいはいままでの歴史を積み上げてくれた先祖である死者たちとの関係のなかに主権があるし、消費者と結ばれていれば、そういう人たちとの関係のなかに主権がある。このように主権は実は関係のなかにあるのに、「主権は私にある」という何か大きな錯覚をしてしまったのではないか。
主権は結び合いのなかにある、あるいは関係性のなかにある。そういうとらえ方をしていく必要があるのではないかと思い始めている。本当の主権は私のところにはない、関係性のなかにある。関係の積み上がったものを風土と呼ぶならば、主権は風土のなかにあると言ってもよい。
このように関係のなかにある主権を風土主権と呼んでもいいかもしれないし、ローカリズム主権という言い方をしてもいい。
かかわり合いが「我らが世界」を創っていく、そこに主権があるという展望を持ちながら、変革の時代を生きていきたい。(43~44ページ)

4日後の2月10日には、自分が運転する車で富山市に行った。日本で一番標高が高い松ノ木峠パーキングエリアでひと休みし、10キロを超える飛騨トンネルをくぐり抜け、世界遺産の白川郷を眼下に望みながらの、およそ3時間のドライブであった。高速道路から見えるいくつかの集落は、深く静かな雪のなかにあった。それは、久しぶりに見る美しい風景であったが、険しい地形や豪雪という厳しい自然と対峙しながら生き抜く集落とそこに暮らす人々について思いを巡らした。そして、「自然と共生する、穏やかで豊かな暮らし」などとは軽々にはいえないと思った。脳裏に浮かんだのは「限界」や「消滅」という言葉であり、また『農山村は消滅しない』(岩波新書、2014年12月)という小田切徳美(明治大学)の言説であった。翌11日には同じ道を帰ったが、遠目ながらあちこちのスキー場は若者であふれ、元気で賑(にぎ)やかなようであった。
帰宅後、内山の『共同体の基礎理論―自然と人間の基層から』(農山漁村文化協会、2010年3月)を読み返すことにした。周知のように、本書では、マッキーヴァー(Robert Morrison MacIver、1982年~1970年)のコミュニティ論や大塚久雄(1907年~1996年)の『共同体の基礎理論―経済史総論講義案』(岩波書店、1955年7月)などとは異なり、伝統と風土に支えられた「共同体」論が展開されている。その特色のひとつは、内山自身の群馬県上野村での生活経験から、「自然と人間が結び、人間が共有世界をもって生きていた精神」(32ページ)に共同体の本質を見出していることにある。すなわち、日本の共同体の基盤や特徴は、「コミュニティとアソシエーション」(注1)や「エリア型コミュニティとテーマ型コミュニティ」などといった、共同体の「かたち」や「機能」にあるのではない。「自然と人間」「生と死」が一体化した関係性(「つながり」)のなかで、その時代を、その地域の人々といかにして「ともに生きる」かという「精神」こそにある、と内山は説いている。以下に、内山の重要な言説のいくつかを記しておくことにする。

▽共同体は小さな共同体が積み重なる「多層的共同体」である
地域共同体とは何なのであろうか。地域というひとつのものにすべてのメンバーが統合されていると考える地域共同体論は正しいのだろうか。(中略)
私は共同体は二重概念だと考えている。小さな共同体がたくさんある状態が、また共同体だということである。ひとつひとつの小さな共同体も共同体だし、それらが積み重なった状態がまた共同体だとでもいえばよいのだろうか。このような共同体を私は多層的共同体と名づける。共同体のなかに、小さな共同体が多層的に積み重なっている、多層的共同体とは、そんな共同体のことである。(76~77ページ)

▽共同体は人々がともに生きる「小宇宙」である
日本の共同体は自然と人間の共同体として、生の世界と死の世界を統合した共同体として、さらに自然信仰、神仏信仰と一体化された共同体として形成されていた。ここには進歩よりも永遠の循環を大事にする精神があり、合理的な理解よりも非合理的な諒解に納得する精神があった。人々は共同体とともに生きる個人であり、共同体にこそ自分たちの生きる「小宇宙」があると感じていた。(16ページ)

▽共同体の基層には自然と人間が結ぶ「精神」がある
自然と人間が結び、人間が共有世界をもって生きていた精神が、共同体の古層には存在している。それが共同体の基層であり、この基層を土台にして時代に応じた、地域に応じた共同体のかたちがつくられる。ゆえに共同体が壊されていくというとき、その意味は、自然と人間が結び人間たちが共有世界を守りながら生きる精神が壊されていくことを意味するのである。(中略)共同体はその「かたち」に本質を求めるものではなく、その「精神」に本質をみいだす対象である。(32ページ)

▽共同体の「精神」の本質は「ともに生きる世界があると感じられること」である
私たちがつくれるものは小さな共同体である。その共同体のなかには強い結びつきをもっているものも、ゆるやかなものもあるだろう。明確な課題をもっているものも、結びつきを大事にしているだけのものもあっていい。その中身を問う必要はないし、生まれたり、壊れたりするものがあってもかまわない。ただしそれを共同体と呼ぶにはひとつの条件があることは確かである。それはそこに、ともに生きる世界があると感じられることだ。だから単なる利害の結びつきは共同体にはならない。群れてはいても、ともに生きようとは感じられない世界は共同体ではないだろう。
課題は、ここにともに生きる世界があると感じられる小さな共同体をいかに積み重ねていくか、なのである。それが積み上がっていけば、小さな共同体同士の連携もまた形成されていくだろう。ここに共同体があると感じられる時空も生まれていくだろう。
ひとつのものにすべてが結合されている状態という古い共同体のイメージは一掃されなければならない。それは歴史的にみても、適切な認識ではない。(168~169ページ)

筆者はこれまで、関東や東海、北陸のいくつかの自治体や社会福祉協議会において、福祉のまちづくりやそのための計画策定、その主体形成を図る福祉教育実践などに関わってきた。その際、必ずしも十分とはいえないものの、市町村レベルの共同体のみならず、そのなかの集落や地区といった地域共同体の自然をはじめ歴史や文化、伝統、慣習などにも関心を払ってきた。また、「地域福祉」の推進や「まち」の再生を図るためには、科学的根拠に基づく「制度」や「システム」の変革や創造のみならず、住民意識の醸成や改革などが必要かつ重要である、と考えてきた。この点に関して内山は、「システムを変えれば世のなかはよくなる」という発想ではなく、「生きる世界の再創造を通してシステムの変革を求める」という考え方が肝要である(166ページ)、という。すなわち、内山にあっては、共同体の基層には自然と人間が結ぶ「精神」がある。その「精神」は「ともに生きる」という意識であり、それがその共同体(地域や住民)のなかでどれだけ醸成され共有されているかが重要になる。その土壌(基盤)があってこそ、その共同体に合った、その共同体ならではのシステムの導入や変更が可能となる。そして、「生きる世界の再創造」が図られる。内山の言説から改めて再認識したことのひとつである(注2)。


(1) 内山の共同体論と欧米の古典的なそれとの違いを知るために、テンニース(ドイツ)とマッキーヴァー(アメリカ)のコミュニティ論に関する内山の説述を紹介しておくことにする。

共同体についての古典的な本としては、テンニェス(F.Tönnies)の『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』(1887年)がある。ゲマインシャフトは一般に共同体と訳されることが多いが、地縁、血縁などで結ばれた有機体を指している。対してゲゼルシャフトは利害関係や目的意識などでつくられた人間の社会を意味しており、ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの移行が歴史の発展としてとらえられていた。それは近代形成過程の理論だったといってもよい。
このゲマインシャフトとゲゼルシャフトの関係をコミュニティとアソシエーションの関係として考察した、これも古典的な本に、マッキーヴァー(R.M.MacIver)の『コミュニティ』(1917年)がある。ただしテンニェスとマッキーヴァーとでは内容は大きく異なっている。マッキーヴァーにとってコミュニティとは共同的な生活が営まれている場であり、社会のあり方や文化などが共有されている結合体である。そしてその内部にはさまざまなアソシエーションが内包されている。アソシエーションはある目的を実現するための組織とでも述べておけばよいのだろうか。(78ページ)
 
マッキーヴァーのコミュニティのとらえ方は、コミュニティの内部に共同の関心を追求する組織体=アソシエーションが多様に存在しているというものである。テンニェスのようなゲマインシャフト(コミュニティ)からゲゼルシャフト(アソシエーション)へ、というような位置づけではない。とすると今日の日本でしばしば語られている「コミュニティが必要だ」という議論のなかで用いられている「コミュニティ」とは、むしろマッキーヴァーのいう「アソシエーション」の方であろう。なぜなら現在の日本で語られている「コミュニティ」は、人間たちの協力関係をつりくだすという関心にもとづいて進めようとしている活動であり、社会組織の模索だからである。(80ページ)

前述したように、内山にあっては、「共同体」とは「共有された世界をもっている結合であり、存在のあり方」をいう。共同体は、そのなかに小さな共同体を内包する「多層的共同体」である。「アソシエーション」を積み上げても、共同体は生まれない。理由のある組織を積み上げても、理由のある社会がつくられるだけである。内山はそれを共同体とは呼ばないのである(82~83ページ)。重ねて指摘しておきたい。
(2) 本稿に関連する文献として、内山節『内山節のローカリズム原論―新しい共同体をデザインする』(農山漁村文化協会、2012年2月)も興味深い。
そこにおいて内山は、「ローカリズム」とは、「自分たちの生きている地域の関係を大事にし、つまり、そこに生きる人間たちとの関係を大事にし、そこの自然との関係を大事にしながら、グローバル化する市場経済に振り回されない生き方をするということ」(106ページ)である、と規定する。そして、内山は、「関係の網によって結ばれた世界」が「ローカルな世界」であり、そこにこそ人間たちの生きる基盤をつくらなければならない。このローカルな世界を「共同体」といってもよいし、「コミュニティ」として捉えてもかまわない、という(109ページ)。