市民福祉教育に関するキーワードのひとつに、「福祉の心」「思いやりの心」がある。
谷川和昭(関西福祉大学)は、「福祉の心という言葉が使われるようになったのは1970年代に入ってからである」が、未だ「福祉の心とは何であるかが不明瞭であり、学問的には未確立」である。「福祉の心の構造」を明らかにする必要がある、という(谷川和昭「福祉人材養成と福祉の心」『社会事業研究』第48号、日本社会事業大学社会福祉学会、2009年、153~157ページ)。
谷川は、「福祉の心」について論述するなかで、辞典に書かれた「福祉の心」の定義として次の3点を挙げている。
阿部志郎:「社会的条件に恵まれないマイノリティの人々と、人格的にふれあい、自己も他者も、すなわち、相互に変革される温かい人間的態度と、福祉問題を生み出す社会に福祉の本質を問い、福祉社会を創造していく共同の社会的努力を育てる豊かな人間の意志と情念を指している。」(京極高宣監修『現代福祉学レキシコン』雄山閣出版、1993年、128ページ)。
京極高宣:「社会的条件に恵まれない人々(クライエント)やその周辺の人々と人格的にふれあい、思いやりの態度をもってそれらの人々と共に生きようという社会連帯の意志と情念をいう。」(京極高宣『社会福祉学小辞典』ミネルヴァ書房、2000年、144ページ)。
阪野貢:「個人の尊厳と人権の尊重を前提にした思いやり、優しさ、いたわり等の豊かな人間性のもとに培われた福祉意識。」(硯川眞旬監修『国民福祉辞典』金芳堂、2003年、355ページ)。
そして、谷川自身は、福祉臨床(対人援助の実践)との関わりで、「福祉の心」とは「他者の問題を冷たく他人事として見過ごさないで、自分の問題として捉える態度であり、しかも個人的な心情を抑えて、社会のあらゆる資源を活用しながら、危機状態にある人の人生の再建のために力を貸していこうとする姿勢である。」(秋山博介・ほか編『臨床に必要な社会福祉援助技術演習』弘文堂、2007年、188ページ)と定義づけている。
なお、「思いやり」という言葉について付言すれば、『広辞苑』(第6版、岩波書店、2008年)では、「自分の身に比べて人の身について思うこと。相手の立場や気持を理解しようとする心。同情。」と記されている。また、『大辞林』(第3版、三省堂、2006年)では「その人の身になって考えること。察して気遣うこと。同情。」、『大辞泉』(第1版、小学館、1995年)では「他人の身の上や心情に心を配ること。また、その気持ち。同情。」となっている。
さて、以下に、「『福祉の心』の育成と福祉教育」と題する筆者(阪野)のかつての拙稿に若干の加筆・訂正を施したものを記述する。基本的な考え方は、今日においても何ら変わってはいない(阪野貢『福祉教育の創造―視点と論点―』相川書房、1989年、32~34ページ)。
「福祉の心」という言葉が登場し、頻繁に使われるようになるのは、高度経済成長のひずみが露呈し、日本経済がいわゆる低成長時代に突入してからのことに属する。年代的には昭和50年前後以降のことである。しかも、その言葉は、実にいろいろな意味で使われる。例えば、社会福祉の改革を押し進めるための手段として、住民の福祉意識やボランタリズムをあらわすものとして、あるいは金(かね)や物(もの)の福祉に代わって心の福祉を説く際に、「福祉の心」という言葉が使われる。
福祉教育の領域においては、人間の倫理的・道徳的な生き方との関わりで「福祉の心」という言葉が使われることが多い。しかし、その際、「福祉の心」を精神主義的・道徳主義的に過度に強調することは、福祉教育についての考え方やその実践・運動を歪めることにもなる。福祉教育は、観念的な「福祉の心」教育でもなければ、第2の「道徳」教育でもない。必要かつ重要なのは、「福祉の心」そのものの構造的究明と、「福祉の心」が不足あるいは欠如し、いまその育成が強調される社会的・経済的・政治的・文化的背景についての理解、それに「福祉の心」の育成・高揚方策についての具体的検討である。
福祉教育は、「福祉の心」すなわち「自立」と「連帯」の精神を支える心を育成し、自立と連帯の地域づくりすなわち福祉の(による)まちづくりをめざす教育実践である。
ここでいう「自立」(自立心、自立行動)とは、一面では、(1)人間の成長発達・社会化の過程を意味する。他面では、(2)一人ひとりが、生活のあらゆる側面において生き生きと・快適に・充実感をもってその人らしく主体的・能動的・自律的に生きぬく努力をすること、すなわち“自分を生きぬく”努力をすることを意味する。前者の自立(1)の過程は、一般的には、身体的自立→生活身辺的自立→精神的自立→職業的自立→経済的自立→政治的自立→社会的自立という段階を経る。子どもの自立の発達にとっては、青年期の前期(中学生)から中期(高校生)にかけての時期が重要である。この時期、子どもは、自我を発見し、自己をみつめも、内省し、人生観や社会観を形成し、精神的自立を促すのである。後者の自立(2)は、自己を知り、自己を磨き、自己を育て、そして自己を創りあげていく努力をすることを意味する。すなわち“自己実現”“自己創造”“自己超越”に向けての自立である。それによって、他人に共感し、他人を思いやり、他人と助け合い、人と人との連帯を強めることになる。
福祉教育でいう自立は、前者(1)の個人の生涯にわたる自立、時系列的な垂直的次元(タテ)における自立と、後者(2)の個人の生活全体にわたる自立、日常生活領域での横の広がり・水平的次元(ヨコ)におけるそれとの統合としてとらえることが大切である。
「福祉の心」を支えるもうひとつの要素は「連帯」である。連帯の中核的・本質的部分をなすものは、「思いやり」(思いやりの心、思いやり行動)である。思いやりは、上述の『広辞苑』等が記すように、同情共感の行為であり、それは“愛”に通じるものである。また、人間の基本的で普遍的な感情であり、人間だけがもつ独特の感情的体験(「人間的体験」E.フロム、作田啓一・ほか訳『希望の革命』紀伊国屋書店、1969年)であるともいわれる。
思いやりの心とは、外的な物質的・社会的報酬を期待することなく、また自己の犠牲や損失をも顧みず、他人の利益や福祉のために自発的に行動する心をいう。思いやりの心を刺激・覚醒し、思いやり行動を喚起し、その方向や内容を規定する要因として、「認知」、「共感」、それに「受容」を考えることができる。認知とは、他人の思考や感情の状態を正しくとらえ、知ることである。共感とは、他人の気持ちをくみとること、つまり他人の喜びや悲しみといった感情の状態を自己のものとして経験することである。受容とは、他人の思考や態度・行動など、いいかえれば他人のあるがままの姿をそのままに認め、受け入れることである。
思いやり行動には、養護、協力、協同、奉仕、分与、寄付、援助、救助、犠牲など、さまざまなタイプの行動がある。また、車内で席を譲るといったものから血液や臓器の一部を寄付するといったものまで、いくつかのレベルがある。こうした思いやり行動は、学習されるものである。また、その行動を行う本人に満足感や充実感、快感を与え、それがさらに次の思いやり行動を動機づけ、方向づけることになる。
「自立」と「連帯」はともに、基本的人権や自他の人格を尊重することを基盤とする心情であり、態度・行動である。また、両者は、環境との相互作用のなかで学習されるものであり、「自立なくして連帯はなく、連帯なくして自立はない」という関係にある。しかし、最近、連帯に比して自立が社会的に強要され、自立についての個人的責任が過度に強調される傾向にある。それは、個人主義的な考えを重視することになり、一面では他者への無関心を醸成するとともに、社会的責任をどこかに押しやることにもなる。自立は、権利意識や社会的連帯、公的責任に支えられたものでないと偏狭な個人主義へと陥ることになる。 要するに、自立のない連帯は、仲間同士の単なる「慰安」にとどまる。連帯のない自立は、仲間や地域からの「孤立」を産む。それはまた利己主義に繋がる。留意すべき点である。
福祉教育は、歴史的・社会的存在である地域の社会福祉問題を素材として体験的に学習する。福祉教育は、とりわけ社会福祉問題をその日常生活において個別具体的に抱える高齢者や障がい者などとの交流・援助活動などを通して、「福祉の心」の育成を図るところにひとつの特色をもつ教育実践である。最近、時として、福祉教育が内包する権利性や社会性、それに歴史性などが軽視あるいは無視されることがあり、精神主義への偏向が促進されてきている。すなわち、人間の生き方という道徳面に力点がおかれ、福祉文化の創造や福祉の(による)まちづくりを推進する主体的・能動的・自律的な住民・市民の育成を図るのではなく、社会や国家に尽くす従順で御しやすい人間づくり(主体形成)が福祉教育の名のもとで進められてもいる。福祉教育の生活道徳化、社会道徳化、公民道徳化である。いま、福祉教育の空洞化を阻止するためにも、また筆者がいう市民福祉教育を構築し、その推進を図るためにも、福祉教育の原点を再確認するなかで「福祉の心の構造」(谷川)について科学的・理論的・実証的に考究することが強く求められよう。
なお、福祉教育実践における障害の疑似体験や高齢者などとの交流・援助活動は、その展開の仕方によっては「思いやりの心」の育成ではなく、上から下への一方向的な「思い上がりの心」を抱かせることにもなる。最後にあえて付記しておきたい。