エピクロスやスピノザ、ニーチェは、「自分の死を経験することはできない、死んだ時には自分はいないのだから、死を恐れる必要はない」と言いました。(中略)人間は生きている以上死ななくてはならないという、このことについて目を背ける態度こそ、哲学失格と言わざるを得ない。(下記[1]21ページ)。
哲学は、全く新しい情報をあなたに与えるものではない。むしろ、言われてみれば知っていたことを、新たに喚起することが哲学の役目です。(下記[1]83ページ)
〇筆者(阪野)の手もとに、佐々木中(ささき・あたる)著『万人のための哲学入門―この死を謳歌する―』(草思社、2024年11月。以下[1])がある。[1]は、薄くて(四六判変型、96頁)、中身の濃い本の典型である。
〇「哲学入門」と題する本は、哲学史の解説や哲学的問題の回答をおこなうものが多いが、佐々木は「哲学とは死を学ぶこと」(19ページ)であるとして「死」を直視し、死について論究する。その語り口はシンプルで無駄がなく、平易である。佐々木はいう。「自分自身にのみ固有であって、なお万人に共通する体験が一つだけある。それは死です」(30ページ)。「死とはつねに『他人の死』であり、そこで死ぬのは不特定の『ひと』である。実際、われわれが体験するのはつねに『他人の死』なのです。自らにだけにしかない自らの死を体験することはできない。さらに、あなたがあなたの死を死に終えることができるのは、つねに他人のまなざしを通して、他者の確認を通じてに他なりません」(46ページ)。自分やあなたの死を確認するのは、まぎれもなく他者なのである。「私の死は私が死ぬしかない。あなたの死はあなたが死ぬしかないように。こうして死は『共有』されている。断絶をそのままに、死においてわれわれは初めて共通のあり方をする」(31ページ)のである。
〇[1]で佐々木が言わんとするのは要するに、こうである。核心は、こうである。「人間は生まれてくることを選べません。それなのに、生まれてきた以上は死ななければならないのです。こんな理不尽なことがあるでしょうか。/自分が生まれてくる前に、「生まれますか?」「生まれていいですか?」と聞かれて、イエスと答えて生まれて来た人は誰もいない。さらに、どこに、どの時代に、誰を親として生まれるかすら全く選べない。そしてまた、人間というものは不思議なもので、死んだこともないくせに死ぬのは怖いわけです。何も許可した覚えはない、同意した覚えはないのに産み落とされ、生まれてきて、そして生きている以上はいつか死なねばならない。そして、――百年か千年かすれば、われわれのことを覚えている人は誰一人いないのです」(86~87ページ)。そして、佐々木はいう。「ただ、われわれには藝術があり、そこでこの定めを笑うことを学ぶことができる。この定めを悲劇ではなく喜劇とすることができる。そこから、陽気に、快活に、哄笑(こうしょう。大笑い)しつつこの定めを生き抜くことができるようになるかもしれないのです」(86~87ページ)。[1]のサブタイトル「この死を謳歌する」の意図や意味はここにある。
〇[1]のなかから、留意したい次の二つの言説をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。
「とりあえず」と「たまたま」の「生」に「意味を与える」
そもそも何かのために生まれた人などいません。人生に目的はない。ないからこそ、目的を設定する余地が生まれてくるわけで、初めから自分に断りもなく目的が設定されている人生があるとしたら、それは奴隷の人生です。(20ページ)
人生は「とりあえず」と「たまたま」で出来ている、つまり偶然である。(13ページ)/自分が定めた目的を達成したり計画が成功したりするのは、「たまたま」の出会いからだったり、「とりあえず」身につけていた知見がものを言ったからだったりもする。(16ページ)/人生は、「とりあえず」と「たまたま」しかない、目的も計画も立たないような「寄るべない」生である。(17ページ)
自分の生に意味があるかどうかは問題ではない。意味は与えられるものではありません。むしろあなたが意味を与える側なのです。(中略)そして、この「意味を与える」ことが、愛するということでなくて何でしょうか。(88、89ページ)
いくらわれわれの生と死が果敢無(はかな)くなっていくばかりだとしても、われわれには意味を与える力は残されている。(89ページ)
社会的変革の問題は究極のところ教育=儀礼の問題に行き着く
人類の文化の端緒には「葬礼」がある。(中略)人間は太古の昔から死者を弔(とむら)うことに力を注いできました。(中略)弔いの儀式を行うのは人間だけだと言えるでしょう。(49、50ページ)/儀礼(阪野:礼儀、礼式)の重要性はどうしても否定できないと思う。(中略)儀礼は教育であり、教育は儀礼なのです。もう少し強い言葉を使えば「調教」とも言える。儀礼とは、「感性的な反復によって『主体』を形成する」手続きと言っていい。(53ページ)
個々の主体を「ボトムアップ」式の、言うなれば民主的なものにするためには、個々の主体が「再設定」されていなければならない。シラーは、この「再設定」の手続きを人間を作り出す「藝術」、「教育的なそして政治的な藝術家」による「藝術」であると言う。(中略)この「人間を製造」する「藝術」、すなわち「教育」は「儀礼」なのです。新しい社会のためには、新しい儀礼による、新しい主体の形成が必要だ、と。それなしには、いかなる革命も独裁に終わるであろう、と。(59~60ページ)
〇いずれにしろ、生まれることも、生きることも、そして死ぬことも、「とりあえず」と「たまたま」で出来ており、「理不尽」(18、86ページ)なことである。いま、社会では、個性や多様性、自立や共生が強調されている。その社会や国家によって、自分の生死に否応なしに「意味」が付与される。しかし、自分や人の生死に意味を与えるのは、自分であり、あなたである。そこには、「愛」がある。そして、その際に求められるのは人間を作り出す藝術、すなわち教育であり、儀礼である。それはわれわれに残された「強大な力」(89ページ)である。これが、佐々木からのメッセージである。そして、佐々木にあっては、ここまでが「哲学入門」であり、ここからは藝術の問題となる(87ページ)。