阪野 貢/「フーテンの寅さん」と「シンちゃん」、共同体における生贄(いけにえ)の選出と排除の構造 ―赤坂憲雄著『排除の現象学』のワンポイントメモ― 

〇筆者(阪野)の手もとに、赤坂憲雄(あかさか・のりお)著『排除の現象学』(岩波現代文庫、2023年3月。以下[1])がある。赤坂は、「東北学」を提唱した著名な民俗学者である。[1]の初版は1986年12月である。[1]では、40年後の今日においてもその度合いを深めている差別や排除の社会現象の構造を解明し、その核心を突く。その要点のひとつは、共同体――ゲマインシャフト(地縁共同体)やゲゼルシャフト(利益共同体)は、差異の体系のうえに組み立てられている。その秩序や利得から外れ、そのシステムを乱す者(マイノリティ)は差別され、排除される。それによって新たな差異の体系が再編される。すなわち、差別や排除の思想は、共同体の秩序の体系と結びついている、というのである。
〇赤坂はいう。「あらゆる秩序の起源には、秘められたひとつの死の風景が横たわっている。原初における供儀(くぎ:神霊に生贄を捧げる儀式や慣行:阪野)、または秩序創出のメカニズム。共同体は異人(=異質なる人)という内なる他者を殺害することにおいて、共同体であることへと自身をさしむける。言葉をかえれば、わたしたちは異人の殺害という現実の、または象徴劇のなかに内面化された共同行為を媒介として、みずからをかれらとは異なるわれらへと自己同一化するのである」(228ページ)。すなわち、共同体(差異の体系)⇒秩序のメカニズム⇒秩序の混乱・破壊⇒差異・異人の排除⇒共同体の再編・保持。これが、共同体が持つ、その秩序(均質化)からはみ出した差異・異人を差別・排除し、集団的アイデンティティを形成する暴力装置である。
〇こうした点を赤坂は、1980年代に世間を賑(にぎ)わせた学校におけるいじめや横浜の浮浪者襲撃事件、埼玉のニュータウンにおける自閉症者施設設置反対運動などを題材に、「排除の現象」をエッセイ風に語り、その本質を鋭くえぐり出す。
〇例によって恣意的であるが、赤坂の言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

フーテンの寅さん/下町という人間共同体/排除の物語
フーテンの寅次郎は、映画のなかではたしかに、ユーモアあふれる愛すべき道化的主人公である。しかし、現実には、寅次郎は家郷(かきょう:ふるさと)を逐(お)われたはみだし者、つまり、下町という人間=共同体にうまく馴染めず、そこに定住の場を確保することに失敗して出奔(しゅっぽん:逃げて跡をくらますこと)した逸脱的な異人にほかならない。跡取り息子である(らしい)にもかかわらず、家を捨て共同体を去り、テキ屋のタンカ売(ばい)をしながらさだめなき放浪生活をつづける寅さんは、それでもけなげに、誇らしげに「葛飾柴又(かつしかしばまた)、帝釈天(たいしゃくてん)で産湯(うぶゆ)をつかい‥‥‥」と、みずからを追放した共同体への忠誠と愛を語りつづけるのだ。(20ページ)
疑いもなく、映画『男はつらいよ』は、フーテンの寅という名の異人をめぐる怖(おそ)るべき排除の物語である。(21ページ)
下町という人間共同体、その仮構(かこう:無いことを仮にあるとすること)された親密なる世界から逐われ、放浪の境涯をえらばざるをえなかった異人の怨念(おんねん)や毒は、かぎりなく希薄にされ、ひとりのアブない異人を優しげに抱擁してみせる下町=共同体こそが、ひそかなる絶対者の座を占めるのだ。(21ページ)

秩序=差異の体系/いじめ=全員一致の暴力/差異の消滅と体系の再編
いじめが「冗談関係」としてではなく、全員一致の暴力のつらぬかれる供犠の庭と化しているところに、いまの子どもたちをとりまく状況の変化を読みとるべきなのである。もはや、それは遊び=ゲームというにはあまりに苛酷な、抜きさしならぬ限界状況のなかに演じ、くりひろげられる負の祝祭といってよい。(41ページ)
1979年に養護学校が義務化され、あきらかな差異をかかえた子どもとそうでない子どもとの分離が、公然とおこなわれるようになった。(63ページ)
学校はいま、あきらかな差異を背負った子どもを排除することによって、かぎりなく閉ざされた均質的時空を形成しているのだ。(67ページ)
秩序は差異の体系のうえに組みたてられている。差異が消滅するとき、成員たちは模倣欲望の囚人(とりこ)となり、たがいに模倣しあい均質化してゆく。いわば、分身の状態。この分身化こそが、差異の消滅のさけがたい帰結のかたちである。そのとき、秩序は安定をうしない。カオスと暴力の危機にさらされる。自己とその影、あるいはオリジナルとコピーが殺戮(さつりく)劇を演じはじめる。このような分身の普及、憎悪を完全に相互交換しうるものにするいっさいの差異の完璧な消失は、全員一致の暴力の必要かつ十分な条件となる。(71ページ)
差異の消滅。この秩序の危機にさいして、ひとつの秘め隠されていたメカニズムが作動しはじめる。全員一致の暴力としての供犠。分身と化した似たりよったりの成員のなかから、ほとんどとるに足らぬ徴候(しるし)にもとづき、ひとりの生け贄(スケープ・ゴート)がえらびだされる。分身相互のあいだに飛びかっていた悪意と暴力は、一瞬にして、その不幸なる生け贄に向けて収斂されてゆく。こうして全員一致の意志にささえられて、供犠が成立する。供犠を契機として、集団はあらたな差異の体系の再編へと向かい、危機はたくみに回避されるのである。(72ページ)
学校ないし教室という場は、それが秩序をなす空間であるかぎり、たえまない差異化のメカニズムにささえられている。差異の体系のうえになりたつ、といい換えてもよい。そして、いま学校からは可視的な差異を刻まれたものたちがことごとく追放されている。子どもたちはきわめて微細な差異をおびつつ、学校とその周辺を浮游(ふゆう)しているのである。(72~73ページ)

「健康な差別」/スティグマ=聖痕/“善意”の錦の御旗
神話や伝説の世界のヒーローたちのなかに、しばしば心身に障害・欠損・疾病を負った者らの姿がみいだされる。そこでは、障害や欠損はスティグマ=聖痕(せいこん:神性な・宗教的な傷)であり、かれらはそれを聖なるものに刻まれた徴(しるし)として、神話的なヒーローへと劇的に成りあがるのである。(312ページ)
かつて、乞食(家々の門に立って食を乞う者)は神であった。すくなくとも訪れる乞食を、聖なる者として敬意をもって受容する宗教的な態度なり心情なりが、疑いもなく存在した。わたしたちの眼にはいささか奇異なものに映るとしても、ある位相にあっては、卑しい乞食は聖なる神であったのだ。(314~315ページ)
(劇作家の別役実は、「健康な差別」「不健康な差別」についてこんなふうに語った。)すなわち、われわれがこうした不幸な、不潔な人々に出会ったとき、たとえそこに差別があったとしても、それはいわば「健康な差別」であったのだ。共同体が不幸な人々を乞食として許容し、人々がかれらに同情でき、かれらに金銭を与えることになんの疑いも持ちえないとすれば、それは共同体が健康なせいである、と。(318ページ)。
(別役がいう)“不健康な差別”とは、わたしたちが差別という現実から巧妙に逃れ、それとじかに対峙しないですむ心理的な安全弁のようなものである。この安全弁を作りだしているのが、差別する側/差別される側をともに巻き込んだ、善意を錦の御旗にかかげる不可視の共同体であるらしいことが、問題を幾重にもがんじがらめに呪縛しているのではないか。(324ページ)

「シンちゃん」/「不健康な差別」/表層の言葉狩り
「シンちゃん」とは、身体障害者のことである。(324ページ)
子どもたちは差別はいけないことだと知っている、「いざり」や「びっこ」を嘲笑したりすれば、親や先生かだれか大人に叱られることをよく知っている。だからこそ、「シンちゃん」なのだ。「シンちゃん」は悪意を散らしてくれる、嘲笑を親愛の身振りに変じてくれる、差別/被差別という酷(むご)たらしい関係を曖昧に溶かしてくれる。(325ページ)
「シンちゃん」をめぐるよじれた風景の裏側に、別役のいう“不健康な差別”が貌(かお)を覗(のぞ)かせている。それは剝(む)きだしの“健康な差別”よりも、直接的な暴力性を希薄にしかもたないだけに、すこしは良質(まし)ではあるにちがいない。しかし、そこに埋めこまれた差別の構造ははるかに隠微に屈折して、視(み)えにくくなっている分だけ、よほど性質(たち)が悪いともいえるかもしれない。なにより、そこでは誰も差別という現実とじかに対峙しあう必要がない、そうして問題が無限に先送りされてゆく仕組みになっている。「シンちゃん」という名の透明な悪意の偏在を前にしては、(「差別用語」「放送禁止用語」などと称される:阪野)表層の言葉狩りがどれほど無力かということに、そろそろ気付くべきときが来ているのではないか。(326ページ)

〇別役がいう「健康な差別」と「不健康な差別」、そのうちの「不健康な差別」について一言する。それは、自覚なき差別であり、赤坂の言によると、上述のように「差別という現実から巧妙に逃れ、それとじかに対峙しないですむ心理的な安全弁」(324ページ)である。しかし、われわれが所属する・所属せざるを得ない共同体は、差別と排除を構造的に内包するものである以上、われわれは共同体の再編・保持のために生贄を探し、それを差別し排除する存在でもある。それは同時に、差別され排除される存在でもあることを意味する。われわれは、そのことを自覚し、「優しさ」や「思いやり」「善意」といった心情的な言葉を操(あやつ)る策に弄(ろう)するのではなく、差別とりわけ「不健康な差別」や排除にいかに、「じかに対峙する」かを問うべきである。
〇なお、差別や排除にもつながる「偏見」について、赤坂はこういう。付記しておく。

偏見とはむしろ、異質なるものに遭遇したとき、対象との差異を自己との関わりにおいて鮮明に把握しようとつとめることなく、旧来の諸カテゴリーの鋳型に封じこめようとするか、あるいは、関係の構築自体を断念して忌避(きひ)しようとする心理的な硬さの謂(いい:意味)にほかならない。(中略)心理的な硬さとは、あらゆる事象がはらんでいる曖昧性や多義性をそのままに引きうけ、そこに生じる苦痛や不安に耐えてゆく意志の欠如した生のありようである。(217~218ページ)