阪野 貢/個人が自由に個性と多様性を追求し発揮できる社会をめざして ―ジョン・スチュアート・ミル著『自由論』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、ジョン・スチュアート・ミル著、関口正司訳『自由論』(John Stuart Mill,On Liberty,1859. 岩波文庫、2020年3月。以下[1])がある。周知の通りミル(1806年~1873年)は、19世紀のイギリスを代表する哲学者・経済学者のひとりである。[1]は、自由主義(リベラリズム)の古典と評されるが、そこでミルが論究するのは「市民生活における自由、社会の中での自由」、逆に言えば、「個人に対して社会が正当に行使してよい権力の性質と限界」(11ページ)についてである。
〇ミルは説く。「多数者の専制」によって個人の自由が抑圧・侵害されるなかで、個人の意見や行為の自由を守る必要がある。とともに、人々の生き方の個性や多様性も尊重されなければならない。それは、個人の幸福のみならず、社会のそれにとっても有用であり、社会全体の成長・発展に繋がる。ただ、こうした際の自由には限界があり、他人に危害を及ぼすときに限り個人の自由を制限することが許される(「危害原理」)。そしてミルは、個性と多様性についていう。「個性を打ち砕いてしまうものこそが、何であれすべて専制なのである」(143ページ)。「個性の侵害に対する何らかの抵抗が成功可能なのは、(個性の侵害の)初期の段階に限られている」(166ページ)。「人間は、多様性をしばらく見慣れないままでいると、すぐに、多様性を思い浮かべられなくなってしまう」(166ページ)。
〇なお、[1]の訳者である関口は、その「解説」で次のようにいう。「古典と向かい合うとき、読み手はどうしても、自分の今の考えや想いにぴったり合っている場所を探そうとしがちである。(それは)読み手にとって未知のメッセージを古典が発信していても、それに対する読み手の感度を下げることにつながるので、警戒しておく方が得策である」(277ページ)。
〇ここでは、この指摘に留意しながら、例によって「我田引水」的になることを承知のうえで、ミルの言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書き。見出しと太字は筆者)。それはつまり、「ある問題について、自分の側の見方しか知らない人は、その問題をほとんど理解していない」(84ページ)のである、というミルの言葉を念頭に置きながら、ということでもある。

政治的専制・抑圧だけでなく、世論や慣習による社会的専制・抑圧にも警戒すべきである:「多数者の専制」
多数者の専制は、当初は他の専制と同様に、主に公的機関の行為を通じて作用するものとしてとらえられ恐れられた。今でも一般的にはそうである。しかし、社会それ自体が専制的支配者である場合には、つまり、構成員の個々人に対して社会全体がまとまって専制的支配者となる場合には、専制の手段は公務担当者たちによる行為に限られない。このことに、思慮深い人々は気づいた。社会は自分で自分の命令を通すことができるし、現にそうしている。もし、社会が正しい命令ではなく間違った命令を出したり、干渉すべきでない問題で命令を出したりするのであれば、種々多様な政治的抑圧よりもいっそう恐ろしい社会的専制が行なわれることになる。なぜなら、社会的専制はふつう、政治的抑圧のように極端な刑罰で支えられていないとはいえ、逃れる手段はより少なく、生活の隅々にはるかに深く入り込んで魂それ自体を奴隷化するからである。だから、統治者による専制への防護だけでは十分でない。支配的な意見や感情の専制に対する防護も必要である。社会には、社会自体の考え方や慣行に従わない人々に対して、そうした考え方や慣行を行為規範として、法的刑罰以外の手段によって押しつけようとする傾向がある。社会の流儀に合わないような個性の発展を食い止め、できればそうした個性が形成されることを防いで、あらゆる性格が社会自体のひな形に合うように強制する傾向である。このような傾向への防護も必要なのである。(17~18ページ)

他の人々に危害を加えない限り、人は自由に行為できる(個人の自由が制限されるのは、他人に危害を及ぼすときだけである):「危害原理」
本書の目的は、社会が強制や統制というやり方で個人を扱うときに、用いる手段が法的刑罰という形での物理的な力であれ、世論という形での精神的な強制であれ、その扱いを無条件で決めることのできる原理として、一つの非常に単純な原理を主張することである。その原理とは、誰の行為の自由に対してであれ、個人あるいは集団として干渉する場合、その唯一正当な目的は自己防衛だということである。文明社会のどの成員に対してであれ、本人の意向に反して権力を行使しても正当でありうるのは、他の人々への危害を防止するという目的の場合だけである。(27ページ)

本人の利益や幸福に役立つからといって、その人の行為に介入・干渉し、強制したり制止したりすることは許されない:パターナリズム
身体面であれ精神面であれ、本人にとってよいことだから、というのは十分な正当化にはならない。そうした方が本人のためになるとか、本人をもっと幸福にするとか、他の人々の意見ではそうするのが賢明で正しいことですらあるといった理由で、本人を強制して一定の行為をさせたりさせなかったりすることは、正当ではありえない。これらの理由は、本人をいさめたり、道理を説いたり、説得したり、懇願したりする理由としては正当だが、本人を強制したり、言うとおりにしない場合に害悪を加える正当な理由にはならない。それを正当化するためには、制止したい行為が、他の誰かに危害を加えることを意図しているものでなければならない。この人が社会に従わなければならない唯一の行為領域は、他の人々にかかわる行為の領域である。本人だけにかかわる領域では、本人の独立は、当然のことながら絶対的である。個人は、自分自身に対しては、自分自身の身体と精神に対しては、主権者である。(27~28ページ)/この原理は、成人としての能力をそなえた人々にだけ適用されることを念頭に置いている。議論の対象としているのは、子どもや法定の成人年齢に達していない若者ではない。(28ページ)

多数者(派)の意見が、少数者(派)の意見表明を沈黙させる・抑圧することは許されない:意見表明の自由
私は、意見表明に対して強制力を行使する権利を、国民自身にもその政府にも認めない。そのような権力自体が不当なのである。最善の政府でも、最悪の政府と同様に、そういう権力を持つことは許されない。このような〔意見表明を抑圧する〕権力は、世論に逆らって行使する場合と同じように、世論に沿って行使する場合でも有害であり、あるいはいっそう有害である。一人以外の全員が同じ意見で、その一人だけが反対の意見だったとしても、その一人を他の全員で沈黙させるのは不当なことである。その一人が権力を持ち、それによって他の全員を沈黙させるのが不当なのと同じである。(41~42ページ)/意見表明を沈黙させることには独特の弊害がある。沈黙させることで人類全体が失ってしまうものがある。(42ページ)

人間の本性は機械ではなく、樹木のようにあらゆる面にわたって自らを成長・発展させることを求めている:「一本の樹木」
自分の人生のあり方を、世間任せにしたり自分の周囲の人任せにしたりしている人に必要なのは、猿真似の能力だけである。自分の人生のあり方を自分自身で選ぶ人は、自分の能力のすべてを駆使する。こういう人は、見るために観察し、予見するために推理して判断し、意思決定するために判断材料を収集し、結論を出すために識別力を発揮し、さらに結論に到達したら、自分の考え抜いた上での結論を貫き通す強固な意志と自制心を働かせる、というように、さまざまな能力を駆使しなければならない。(132ページ)/人が何をするかばかりでなく、それをするのはどんな人なのかということも、本当に重要なのである。人間が作り出す作品の中で、人生を費やして完成させ美しくするのにふさわしいものは色々あるが、その中でいちばん重要なのは、間違いなく、人間そのものである。(133ページ)/人間の本性(ほんせい)は、図面通りに作られ決まりきった仕事を正確にこなすように設定された機械ではない。一本の樹木である。人間の本性は、自らの内部にあって自らを生命あるものにしている諸力の趨勢に従いながら、あらゆる側面で自らを成長させ発展させることを求めているのである。(133ページ)

個性の発展はその本人のみならず、他の人々にとっても価値あるものとなり、社会を活気づける:個性の社会的有用性
人間が高貴で美しいものとして観照の対象になるのは、個性的なものがすべてすりつぶされ画一的にされているからではない。他の人々の権利と利益のために課された制約の範囲内で、個性的なものが陶冶され引き出されているからである。人間の生活も、作品が制作者の性格を帯びるのと同じような過程を経て、豊かで多様で生気に満ちたものになる。そして、高潔な思想や品位を高める感情にいっそう豊富な養分を与えるとともに、人類の一員であることの価値を最高度に高めることによってあらゆる個人を人類に結びつける絆を強化する。各人は、自分の個性の発展に比例して、自分にとっていっそう価値あるものとなり、また、その結果として、他の人々にとってもいっそう価値あるものになることができる。それぞれの人間の存在にいっそう充実し生命が宿り、〔個人という〕構成単位の生命力が高まると、そうした単位から構成される集合体の生命力も高まることになる。(141~142ページ)

個人の好みの多様性に基づいて生き方を決めることは、それ故に最善である:生き方の多様性
自分の流儀で生きていくことを正当に要求できるのは、精神面ですぐれていることが歴然としている人に限られるわけでもない。どんな人間に関してであれ、人間を一つのひな形とか少数のひな形とかに合わせて作り上げてよい、とする理由はない。適度の常識や経験を持っている人であれば、自分の流儀で生き方を組み上げるのが最善である。そうであるのは、その生き方自体が最善だからということではなく、それが本人自身の生き方だからである。人間は羊のようなものではない。それに、羊にしたところで、見分けられないほどたがいに似ているわけではない。(151~152ページ)/すべての人間を一つの鋳型にはめようとすべきでない理由として、人々の好みの多様性ということしかなかったとしても、これだけで十分な理由である。しかし、さらに言えば、それぞれに異なっている人々は、自分の精神的発展のためにそれぞれ異なった条件を必要としている。だから、全員が同一の精神的な空気や環境の中で元気に生きていく、というのは無理な話である。多様な植物のすべてが同じ自然の空気や環境の中では元気に生きていけないのと同じことである。(152ページ)

改善を着実にもたらす唯一のものは自由である:改善の自由
習慣の専制は、あらゆるところで、人間の発展をつねに妨害していて、習慣的なもの以上のすぐれた何かをめざす志向に絶えず敵対している。この志向は、状況次第で、自由の精神と呼ばれたり、進歩の精神とか改善の精神と呼ばれたりする。(158ページ)/改善の精神は、必ずしもつねに、自由の精神であるわけではない。なぜなら、改善の精神は、国民が乗り気でないのに、彼らに改善を強要しようとする場合もあるからである。自由の精神は、こうした企てに抵抗する限りでは、部分的かつ一時的に、改善の敵と同盟することもある。しかし、改善を着実にもたらす唯一のものは自由である。なぜなら、自由によって、改善の拠点は、個人と同じ数にまで増やすことができるからである。しかし、〔改善と自由が対立することもあるにせよ〕進歩の原理は、自由への愛という形であっても、改善への愛という形であっても、慣習の支配には対立し、少なくともその束縛のからの解放にかかわっている。そして、進歩と慣習のあいだの抗争は、人類の歴史の中で特に興味をそそる点である。世界史の大部分が、正確に言えば歴史ではないのは、習慣の専制が完璧なためである。(158~159ページ)

〇ミルにあっては、「意見の自由と意見を表明する自由」は、すべての自由の前提であり、「人類の精神的幸福」を左右する(119ページ)。意見と意見表明の自由について、ミルの説くところをメモっておく(抜き書き)。

もはや疑わしいと思われなくなっている物事については考えなくなってしまうという、人間の致命的な傾向は、人間が犯す誤謬のうちの半分を生じさせている原因である。(99ページ)

ありがちなケースは、対立する主張のうちの一方が正しく他方は間違っているというのではなく、いずれもが真理の一部を含んでいる、というケースである。こういう場合は、広く受け容れられている主張の方も真理の一部しか含んでいないので、真理の残りの部分を補なうために反対意見が必要となる。(104ページ)

人々が双方の意見に耳を傾けざるをえないときには、いつでも望みがある。一方の真理にしか耳を傾けないときこそ、誤謬が偏見にまで凝り固まり、真理は誇張され虚偽にまでなってしまい、それで真理の持っている意味を失うのである。(118ページ)

たとえ正しい意見であっても、意見の主張の仕方に非常に問題があり、厳しく非難されても当然なこともあるだろう。(中略)特に最悪なのは、詭弁を使うこと、事実や論点を隠蔽すること、議論の要点をはぐらかすこと、あるいは、自分に反対する意見を歪曲して述べることである。(121ページ)

論争当事者が行なえる攻撃のうちで最悪なのは、反対意見の持ち主に、邪悪で不道徳な人物という汚名を着せることである。(122~123ページ)

社会全般に受け容れられている意見に反対する意見が傾聴してもらえるのは、たいていは、穏やかな言葉を慎重に選んで、不要な攻撃を受けないよう用心している場合だけである。(123ページ)

〇いまひとつ、「教育の多様性」について、ミルの言説をメモっておくことにする。以下のそれは、人間は「知的な存在であり道徳的な存在である」がゆえに、「討論と経験によって、自分の誤りを正すことができる」(49ページ)という人間観(人間は自己教育力をもつ存在である)に基づくものである。また、ミルにあっては、教育は個人の自由と社会の進歩にとって不可欠な要素である。そして、国家が教育を独占することに強く反対するが、「子どもや法定の成人年齢に達していない若者」(28ページ)は、未成熟であるがゆえに自由の原理の適用から除外され、国家による教育制度を必要とするのである。

現代の政治面での変化はすべて、同一化を促進している。(中略)教育の拡大もすべて同一化を促進している。なぜなら、教育は、人々を共通の影響下に置き、諸々の事実や感情をまとめて集めた収蔵庫を人々が利用できるようにするからである。(164~165ページ)

国家が自国の市民として生まれたすべての人に対して、一定水準までの教育を要求し義務づけるべきなのは、ほとんど自明の理ではないだろうか。(231ページ)

国民の教育の全部ないし大部分が国家の手に委ねられるのであれば、これを非難する点で私は誰にも負けない。性格が持つ個性の重要性や、意見や行為の仕方における多様性が持つ重要性について論じてきたことはすべて、教育の多様性という、同じく語りつくせないほど重要なものとかかわっている。国家が国民全般を対象にした教育を行なうことは、人々をたがいにそっくり似ているものへと仕立て上げる手段にしかならない。また、国民を形作るそうした鋳型は、君主、聖職者集団、貴族階級、あるいは現世代の多数者のいずれの政府であれ、支配権力に都合のよいものであるから、そうした教育が有効で成功すればするほど、精神に対する専制を打ち立てることになり、自然の成り行きとして身体に対する専制的支配につながっていく。(233ページ)