阪野 貢/日本の美意識が育む「まちそだち」:「奥」と「熟れ」の思想から考える ―福本繁樹著『「染め」の文化』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、福本繁樹(ふくもと・しげき)著『「染め」の文化―染み染み染みる日本の心―』淡交社、1996年5月。以下[1])がある。著名な染色家であり民族芸術学者である福本が、およそ30年も前に著した本である。言うまでもなく、「染め」は、色付けの単なる技術ではなく、作り手の手作業に宿る精神性や感性、そして社会の価値観や人々の生活様式などが深く反映される行為である。そこで、福本は[1]で、単に「染め」の技術的な側面だけでなく、日本の「染め」が持つ社会的・文化的かつ歴史的な背景や意味、すなわち「染めの文化」について探究する。その論述は、染色家としての制作経験と民族芸術学者としての視点・視野を融合させたものであり、それゆえに奥深く、興味深い。
〇本稿では、「染め」のひとつの背景として福本がこだわり、それを説く「奥」(おく)と「熟れ」(なれ)についてのみメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

「奥」の文化と「染(し)みる」という作用
無意識ではあっても、自己の心に染みついた直観的なこだわりはどこかに必然性を秘めている。あるとき自然にそのこだわりが整理されて、論理的な認識となることがある。染色家の私は、これまで「染め」と「奥」とにこだわりをもって制作にとりくんでいたが、最近、日本の「奥」の文化は「染め」の文化ときわめて密接な関係があるのではないかと考えるようになった。ともに日本人に特異な美的感性にかかわる重要な文化である。(22ページ)
つつむ、箱にいれる、かさねる、覆う、などは、「奥」をつくる一連の行為と考えられる。中身にたどりつくまでの距離や段階をつくるため、遮断、隠蔽、抵抗、隔離、絶縁することである。深い「奥」を形成して、神聖な結界を設ける。そこには神や心が宿る。このような「奥」を形成する文化は、あらゆる分野にじつにひろく深く根ざし、日本独自の発展をみせたと指摘される。(26ページ)
研究や技術が、奥深い境地に達することを「堂に入る」(どうにいる)という。それに対する褒め言葉は、「奥深い」「奥行きがある」「奥ゆかしい」などとするのがいい。おなじ褒め言葉でも、「好し」「きれい」「りっぱ」「みごと」などとしても、場合によっては「お人好し」「きれいごと」などと皮肉になることすらある。「りっぱ、りっぱ」「おみごと」などといわれても、はたして心底褒められているのか疑わしいものだ。「奥」に対する価値感は絶対的だ。「奥」にこだわって、「奥深い」「奥行きがある」「奥ゆかしい」と形容できる日本文化がどれだけあるかを考えてみると、じつに多いことに気づく。また日常的にも、感情的にも、われわれは「奥」の文化と深くかかわっている。(27ページ)
奥に作用をおよぼす有効的な方法がひとつある。それが「染みる」ということだ。表面全体からジワジワと攻めて、表面に何らの傷も残さず内部に入り込み、いつの間にか全体にいきわたって、中心部にまで到達する。そして全体の色を芯から大きく変化させる。「染みる」という方法によってのみ、奥は作用をうけて変容をとげる。「染みる」ことは「奥までとどく」ことだといいかえることができる。(30ページ)
「奥」に対峙するものが「染め」であり。「奥」と「染め」は切っても切れない関係の、一組、一対のものと考えることができる。「奥」の文化を抜きに「染め」の文化を語ろうとすれば、「染め」の意義の重要部分に触れ得ないでおわってしまう。(30ページ)

〇要するに、福本にあっては、日本の文化における「奥」とは、包む、重ねる、覆うなどの行為によって中身との間に距離や段階をつくり、神聖な空間を設ける文化のことをいう。この「奥」は、日本人の特有な美的感性に関わる重要な要素であり、「奥深い」といった言葉でその価値が表現される。この「奥」に作用を及ぼす有効的な方法が「染みる」(しみる)ことである。それは、表面から徐々に内部へ浸透し、中心部にまで到達して全体を変容させる行為を指す。そしてこの「染みる」という行為は、染色という文化の根幹をなしている。従って、「染めの文化」を深く理解するためには、まず「奥」の文化への理解が不可欠であり、「奥」と「染め」は切っても切り離せない関係にあるのである。

「熟(な)れ」の美学と風化の価値
日本人の感性や芸術を語るとき、かならず問題とされるのは、日本人の自然景物への情熱的な関心であろう。(95ページ)
イギリス人ばかりでなく欧米人は、苔(こけ)をカビか金属のサビのように、汚らしいいやなものととらえるようだ。終戦後、日本家屋がアメリカ軍に強制借りあげになったが、駐留軍がひきあげたあと、古色蒼然たる館の、黒光りした素木(しらき)の柱はすっかりペンキが塗られ、苔むした庭の石灯籠はワイヤー・ブラシで真っ白に磨かれていて、日本人が「アッ!」と驚いたという。(95~96ページ)
苔への関心度、価値観、美的評価は、日本人独特の感性を顕示するものだろ。「苔むす」とは苔が生えることだが、転じて、長い年月がたつ・古めかしくなることをいう。日本人は古めかしくなることに価値をおく。日本の伝統的美意識に「色熟れ」(いろなれ)というものがあり、「馴染む」(なじむ)ことをよしとして、「風化」をよろこび、「古びる」ことに価値をおく。(96ページ
熟成・円熟・熟考・熟睡・熟達・熟知・熟慮・熟練などの熟語にみられる「熟」の意のように、完全・十分な状態に達することを「熟れる」(なれる・こなれる・うれる)という。「熟」は古びてさらに良しという意味である。(96ページ)
古色の好きな日本人は一方で清潔好きである。古色と汚れの違いは、ときとして微妙である。しかし日本人は風化と穢(けが)れを区別する。風化は自然の仕業だが、穢れは世間の仕業である。いかにも人工的な汚れが、穢れとして嫌われる。(99ページ)
「熟れる」をよしとする日本人の感性は、あらゆるものを生態のうちにとらえる資質を示すものだろう。「生態」とは生存の様式のことで、うつろう、ほろびるということはいのちがある証であり。そのいのちこそ大切だということだ。あらゆるものを「生態」のうちにとらえ、そこに「美」を見出す生態学的な感受、それが日本人の感性の基幹をなすものではないかと考える。(100ページ)

〇要するに、福本にあっては、日本人の美意識は、自然に対する深い関心と結びついており、苔を趣のあるモノとして評価するように、特に長い年月を経て味わい深くなること、すなわち「熟れる」こと、「古びる」ことに価値を置く。この「熟れ」という感覚は、清潔好きな日本人にとって、自然の仕業である「風化」を好み、世間の仕業である汚れ(穢れ)を明確に区別する。そして、あらゆるものを「いのちあるもの」として捉え、移ろいゆくその姿に美を見出すという繊細な感覚が、日本の美意識の根底をなしているのである。
〇言うまでもなく、「まちづくり」には、その “ まち ” ならではの歴史や伝統文化、自然環境、地域産業などの地域特性を活かし、そこに暮らす住民の “ まち ” に対する愛着や誇りを育むことが必要かつ重要となる。また、「まちづくり」は、住民一人ひとりが主役となって、その “ まち ” が持つ「物語」を紡ぎ、「らしさ」を育み、「夢」を織りなす、そのプロセスが重視されなければならない。それによって、その “ まち ” の個性や魅力が向上し、コミュニティの活性化が図られ、持続可能性が確保されることになる。
〇本稿で取り上げた福本の「奥」と「熟れ」についての言説(思想)は、ギスギスとした効率性や合理性を追求するだけの「まちづくり」を超え、日本の美的感性を活かした「まちづくり」の指針となり得る重要な視点であり要素である。すなわち、“ まち ” に静かに「染み込み」、時間をかけて「熟成」していくプロセスこそが、その “ まち ” の真の個性を育むことになる。また、住民一人ひとりの思いや願いが “ まち ” に染み渡り、風化を恐れず、古くなることを美と捉えるような、その “ まち ” ならではの文化を育むことになるのである。別言すれば、「まちづくり」は、単に計画されたものを「つくる」のではなく、一人ひとりの住民がその “ まち ” の生命力を引き出し、それを「そだてる」プロセスこそが大切にされるべきなのである。それは、「まちづくり」を超えた、「まちそだち」と言えようか。