阪野 貢/「ケア」と「編集」:「弱さ」はそのままで、いまある<傾き>として「輝き」を放つ ―白石正明著『ケアと編集』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、白石正明著『ケアと編集』(岩波新書、2025年4月。以下[1])がある。白石は、自身が手掛けた医学書院(出版社)の<ケアをひらく>シリーズで数々の文学賞を受賞した「名物編集者」「スター編集者」、あるいは「名伯楽」(すぐれた資質を持った人を見抜く力のある人物)などと評される。
〇[1]で白石は、「ケア」と「編集」の関連性をめぐって鋭い視点で深く洞察する。その際、白石にあっては、「ケア」と「編集」は問題点や弱点として評価されてしまう個々の<傾き>をそのままにして、その環境や文脈を変える作業・行為をいう。本人(「図」)を変えるのではなく、その背景(「地」)を変えるという意味でソーシャルワーク的である(「ソーシャルワーク的編集」37~38ページ)。
〇また、[1]で白石は、具体的なエピソードをまじえて、「ケア」にまつわる名著を興味深くガイドする。そのなかで、「自立は依存先を増やすこと。希望は絶望を分かち合うこと」(243ページ)、「自立とは依存先が分散されていることである」(61ページ)という熊谷晋一郎の言葉や、ALS(筋萎縮性側索硬化症)患者の生きる姿から「ただ生きるために生きればいいんだ」(185ページ)、障害を肯定しても否定しても “いま、ここにわたしがいる” ことは確かであり、「評価より存在のほうが強いのだ」(31ページ)という白石自身の言葉などに、改めてハットさせられる。
〇[1]の根幹に位置づけられる思想のひとつは、北海道浦河町にある精神障がい者の生活拠点「浦河ベてるの家」で実践されてきた「当事者研究」に深く依拠している。次の一文をメモっておく(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

➀困りごとを外在化する:「他者経由のアイデンティティ」の尊重
べてるの家では、主語は「自分」ではなく、病を得た客観的な存在としての「当事者」である。そこに自分自身との距離ができる。そして「語り」ではなく「研究」である。自分の困りごとを自分の外に出して、他人事(ひとごと)のようにそのメカニズムを探るのだ。/そして最大の特徴は、当事者研究は「ひとり作業」ではないことである。必ず複数の仲間とやる。障害者運動の先人が、(親や支援者や周囲の人ではなく)「自分のことは自分がいちばん知っている」という地点から切り拓いたのが「当事者主権」という理念だ。その成果を尊重しつつ、当事者研究は「自分のことは自分がいちばん知らない」という前提からはじめる。だから自分ひとりでやるのではなく、仲間と研究する必要がある。/あえて強調すれば、「これがわたしです」と自分の思う自己像を仲間に提示するのではなく、さんざん語りあったのちに、仲間が自分について持った像を「じゃあそれを自分としよう」と後から自分に取り込む。そんな「他者経由のアイデンティティ」を尊重するところが最大の特徴だとわたしは思っている。(21~22ページ)

〇白石にあっては、当事者研究とは、困りごとを抱える当事者に対して専門家が権威主義的・一方的に治療や矯正を行うのではなく、当事者自身が自らの困難や経験を客観的に「研究」し、専門家や仲間たちとともにそのメカニズムを探求する協働的な営み(協同作業)をいう。この営みの意義は、当事者の障害や病気などについての個人的な経験や思いを、信頼すべきデータとして再定義することにある。そして、「自分のことは自分がいちばん知らない」という前提のもとに、他者との「対話」を通じて新たな自己像を構築することになる。

〇➀に加えて、白石の思想的な核心を成す3つの文章を、重複していることを承知の上でメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。そこに通底するのは、問題そのものを解決するのではなく、その問題に対するマジョリティの「モノサシ」や「背景」「分母」を変える、という考え方である。

➁「弱さ」を解放する:見方を変える行為
マイノリティ(少数派)はマジョリティ(多数派)に認められるべくがんばってきたが、もはやこれまでと諦めてうなだれたときに、足下にまったく違ったモノサシが落ちていた。それで測ったみたら、あーらふしぎ、自分は変わらなくてもモノサシを変えればいいのだった。/ここにはちょっとした発見と感動がある。そうした感動に向けて物事の組み換えを行い、モノサシ、つまり分母を変えることを目指すのが、編集という行為ではないのか?!/世間の常識(分母)から外れた人が、ふたたびその分母に合わせて自らを改変するという努力が強調されやすい。でも自分で変えられること、自分でコントロールできることなんてほんの一割くらいじゃないか? それだけをピックアップして「こうすればできます」と言うのは勝手だが、残り九割はコントロールの外にある。/コントロールできない。そんな自由きわまりない世界に生きていると思うと、深々と息ができるような気がする。(75ページ)

〇白石にあっては、個人の「弱さ」は、生産性や効率性、自己決定や自己責任などを問う既存の「モノサシ」(見方)によって測られ、克服すべき問題や排除の対象として位置づけられてきた。そうした既存の価値観や評価軸(マジョリティの「モノサシ」や「分母」)を問い直し、その転換を図ることによって、弱さは克服すべき問題から解放され、その人の存在を特徴づける個性(<傾き>)として再定義されることになる。すなわち、自分を変える努力ではなく、自分を取り巻く社会の既存のルールや評価基準を変えるという発想の転換こそが、より自由な生き方を可能にする。それは、世間の常識(分母)を問い直し、新しい価値観を創造する「編集」という行為に通じるのである。

➂ケアを編集する:「依存」を転換する視座
健康といわれる多くの人は、(中略)多くの依存先(「依存できる物」「依存できる人」など)を持っている。つまり依存症とは、依存先が一つとか二つとか極めて乏しい人のことであり、言ってみれば「依存症の人は依存が足りない」のである。/弱さや依存は「克服すべきもの」という問題設定のままであれば、弱さは強さに、依存は自立に変更されなければならない。(62ページ)/なんだかんだ言っても、「現在がよくないから、こうしなければならない」あるいは「現在はよくないが、こうすればもっとよくなる」は、どちらも「現在のままではダメ」なのだ。(63ページ)/(依存症の人が)「これしかない」と考えられているところに「こうも考えられる」という別の補助線を出して、その補助線にしたがってこれまで出ている要素を並べ直すと、景色がガラッと変わってくる。/出された問題に答えるのではなく、その問題自体を組み替えてしまうこと。あるいは、与えられた問題の外に出てしまうこと。ここで述べた例についていえば「弱さ」とか「依存」といった克服されるべき問題――なにより当人がもっとも「克服すべき」と思っている問題――に別の光を与えること。/それは編集という仕事そのものだと思う。(63~64ページ)

〇白石にあっては、依存症は依存のしすぎではなく、人や物、仕事や趣味などの依存先(依存できる対象)が少ない状態をいう。その状態を「克服すべきもの」として理解するのではなく、新しい視点・視座(「補助線」)で捉え直すことによって異なった意味や価値を引き出すことができる。例えば、「依存先を増やす」という視点に転換することによって、その人が抱える問題の本質は「依存のしすぎ」ではなく、「依存の不足」であると再定義される。このような「編集」こそが、問題解決の本質であり、「ケア」そのものである。その意味において、「ケア」と「編集」は本質的に類似した行為であると言えるのである。

➃「輝き」を引き出す:背景を変える編集術
(この本の執筆)当初は「ケアと編集は近い」という感覚だけはあったが、どこがどう近いのかはよくわからなかった。そこでいつも著者に言うように「それを探すために書くんですよ!」と自分に言ってみたら、どこかでシフトチェンジが起きたらしく、どうにか書き終えることができた。/今、ケアとは何か、と聞かれたらこう答えるだろう。/「それ自身には改変を加えず、その人の持って生まれた<傾き>のままで生きられるように、背景(言葉、人間関係、環境)を変えること」と。/編集もおそらく似たような行為なのだろう。文章に改変を加えるより先に、その人や文章の<傾き>が輝きに変わるような背景(文脈、構成)をつくっていく作業が編集の本態ではないか。そうしたやり方を、わたしはケアする人たちから学んできた。そして、それ以外の編集のやり方をわたしは知らない。(240ページ)

〇白石にあっては、ケアの利用者や個々の文章が持つ固有の<傾き>(利用者の個性、文章の癖など)を問題点や改変すべきものとしてではなく、その人や文章の重要な特性として尊重し、受け容れる。しかも、そのものに直接的な改変を加えるのではなく、その<傾き>に新たな価値や独自の魅力(「輝き」)が引き出されるよう、その背景や文脈を変える・整えることが重要となる。すなわち、その人や文章の「輝き」を引き出すために、周りの環境や構成を変えるというその作業・行為こそが、「ケア」と「編集」に共通する重要なそれであり、その本質である。

〇白石の思想を端的にいえば、「弱さ」の肯定である。そしてそれは、その「弱さ」を哲学的・実践的に、個人や社会の関係性の源泉として見直し、捉え直すことを促すものである。
〇ここで、以上の視点・視座や言説を「まちづくり」に引き寄せて一言する。白石の思想は、「まちづくり」にも大きな示唆を与える。➀まちづくりは、地域・住民が抱える困りごとを、あたかも他人事のように客観的な「研究」対象として取り扱うことによって、感情に流されることなく、問題の本質やメカニズムを冷静に分析できるようになる。➁まちづくりは、地域・住民の「弱さ」や「課題」を「克服すべき問題」としてではなく、それを「特性」として捉え直し、新しい価値観でそのまちを再定義することによって、より豊かで持続可能なものになる。➂まちづくりは、地域・住民の「克服すべき問題」を新しい視点・視座(「補助線」)で捉え直し、それぞれの「依存先」を分散させる仕組みを創ることによって、地域・住民の課題解決能力を高めることになる。➃まちづくりは、地域・住民の固有の<傾き>(人間関係、環境など)を弱点として消し去るのではなく、それを活かせる背景を「編集」することによって、その魅力を引き出し、創り出すことになる、などがそれである。付記しておきたい。