「人間、役に立たなきゃ、生きてちゃ、いかんか」(259ページ)。「生きるのに、遠慮はいらないわよ!」(266ページ)。「人は人の手を借りて生まれ、人の手を借りて死んでゆく。そういうものだ。そのどこが悪いのか」(301ページ)。「安心して要介護になれる社会を!」(275ページ)。
〇筆者(阪野)の手もとに、上野千鶴子著『アンチ・アンチエイジングの思想――ボーヴォワール『老い』を読む』(みすず書房、2025年4月。以下[1])がある。「老いは文明のスキャンダルである」。これは[1]の冒頭の一文であり、上野がシモーヌ・ド・ボーヴォワール(Simone de Beauvoir, 1908-1986)の『老い(La Vieillesse)』(1970年)から受け取った核心的なメッセージである。人は皆、老い、衰え、やがて依存的な存在になる。これは、誰も抗(あらが)うことのできない普遍的な自然のプロセスである。しかし、現代の文明(社会システムや価値観の総体)は、この老いの現実を無価値なもの、恥ずべきものとして捉える。そして、そこから逃避し、それを拒否し、隠蔽しようとする。PPK(ピンピンコロリ)という理想の強要や、認知症予防という自己責任論の拡散などがそれである。老いを避け、若さ(自立)を維持・追求することを至上命題とする思想・価値観(「アンチエイジング」)こそが、人間存在の根源的な事実を無視した恥ずべき現代文明の言語道断な事実・欠陥(「スキャンダル」)である。これが上野の主張である。
〇上野は、「老人」についてこう言う。老人は老人として生まれるわけではない。加齢にしたがってやがて老人になる。ここまでは自明である。だが人は単に老人になるのではない。人は、長い間「他者」として蔑視してきた当の老人に自分自身が変貌したことを認めざるを得なくなる(「老いとは他者になる経験である」(7ページ))。そして、社会が押しつける老人のカテゴリーにしぶしぶ同意し、いわば二級市民であることに同意したときに初めて、ホンモノの「老人になる」のである(21、86、93ページ)。
〇そして、言う。「高齢者が好奇心を失わず、前向きに生き、死ぬまで成長を続ける(ことに価値がある)という高齢者観こそ、エイジズム(年齢差別)と呼ぶべきではないのか」(226ページ)。「人は老いる。老いれば衰える。加齢は成長と衰退の過程、『生涯発達』とか『生涯現役』といったかけ声をわたしは信じない」(261ページ)。「エイジズムの背後にあるのは、『生涯現役思想』こと効率と生産性優位の価値観である」(252ページ)。「ひとは依存的な存在として生まれ、依存的な存在として死んでいく。それなら『老い』に抗うアンチエイジングの自己否定的な試みよりも、老いを受容するアンチ・アンチエイジングの思想が、今ほど必要とされている時代はないのではないだろうか」(226ページ)。
〇ここで、次の一文をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。
エイジズムとアンチ・アンチエイジング:人は老い、衰え、依存のなかで尊厳を持って生きる存在である
私たちはセクシズム(性差別)の被害者でもあるけれど、エイジズム(年齢差別)の被害者でもある。/わたしたちは「若い(あるいは年齢より若く見える)ことが価値であるような社会に住んでいる。若い者ももはや若くない者も、その価値を内面化している。だからこそ、「お若いですね」が高齢者に対する「ほめ言葉」になり、高齢者もそれをうれしがる。/若さを維持するためのアンチエイジングは、健康食品やサプリメント、スポーツジム、ファッション、コスメなどさまざまな業界で一大市場を形成しており、高齢者たちはそれに虚しい投資を続けている。いわば自己否定のための投資というようなものだ。(13ページ)/アンチエイジング(老いや衰えを否定的に捉える思想・高齢者観:阪野)がこれほどに世の中に浸透した思想ならば、わたしたちはそれに対抗しなければならない。だからこそ、アンチ・アンチエイジング(老いによる弱さや依存を肯定的に捉える思想・高齢者観:阪野)なのである。(14ページ)
児童福祉と高齢者福祉:高齢者福祉は社会的「姥捨て」の制度的保障でもある
「子供は未来の現役であるから、社会は彼に投資することによって自分自身の未来を保証するのに反し、老人は社会からみれば執行猶予期間中の死者にすぎない」(ボーヴォワール)/児童福祉には根拠がある。次世代の生産性の担い手を育てることだからだ、他方、ただ死んでいくのを待つだけの高齢者には、何の生産性もない。/「なぜ老人を介護するのか」と問いを立て、答えを「人格崇拝」と「社会連帯」に求める立論は、わたしを納得させるものではないし、この問いに明快なこと答えを出した者はいない。だが、ともあれ、高齢者への社会福祉が世界的に進んできたことは確かである。(172ページ)/高齢者福祉には、なにがしか家族から高齢者を切り離したいという「姥捨て」(うばすて)の要素が見られる。すなわち高齢者福祉とは社会的「姥捨て」の制度的保障――それもみじめでない程度の――と考えてもよい。そして「みじめさ」の程度は、当該の社会が判定する。(174ページ)
自立と依存:社会は依存のネットワークであり、自立とは依存先の分散である
介護保険法にいう「自立」とは「依存のない状態」手っ取り早くいえば介護保険を使わないか、そこから「卒業」することを言う。他方、障害者総合支援法にいう「自立」とは、支援を受けながら何をしたいかを自己決定することを言う。(299~300ページ)/(高齢者と障害者の)「自立」と「自律」、「介護」と「介助」の違いは、障害者の権利が障害者による当事者運動の成果だったのに対し、高齢当事者による権利運動が存在しなかったことによる。(301ページ)/自覚するにせよしないにせよ、人は依存の網の目のなかで生きている。自分が依存される立場にも依存する立場にもあることを、認めたらよい。依存が悪なのではない。依存を可能にしない/できない社会が悪なのだ。(298ページ)/自分がしたいことをできない時。人に頼って何が悪いか。人に助けてもらったからといって、その人の言いなりになる必要は少しも無い。(300ページ)/人は老いる。老いて衰える。やがて依存的な存在になる。人は人の手を借りて生まれ、人の手を借りて死んでゆく。そういうものだ。そのどこが悪いのか。(301ページ)/
〇最後に、例によって、以上の言説を「まちづくりと市民福祉教育」に引き寄せて一言しておきたい。それはこうである。市民福祉教育はこれまで、高齢者に関して、「お年寄り」に対する「思いやりの心」の育成や「互いに支え合う地域共生社会」の創造を強調してきた。上野の言説に依拠すれば、思いやりの心の育成という情操教育や道徳教育の視点は、老いることを非効率的で非生産的な現象として否定的に捉える社会構造を温存させ、自立を絶対視し、依存を悪とする思想を追認することにならないか。地域共生社会の創造というまちづくり学習や市民性教育の視点は、高齢者に対し、依存しない自立を要求し、地域貢献に取り組む生涯現役の高齢市民を要請することにならないか。
〇そこで、市民福祉教育は、高齢者を保護の対象と見なす一面的で情操的な単なる思いやり教育から脱却する。そして、老い、衰え、依存する存在としての高齢者の尊厳を「他者に依存する権利」として構造的・制度的に保障する社会システムへの変革を志向する。そのためのエイジズムへの権利意識と社会システムの理解を深め、それに基づいて「安心して老い、互いに頼り合えるまちづくり」に取り組むための教育へと転換する必要があろう。




