
目 次

Ⅰ
「大橋福祉教育論」再考の視座と枠組み
―新たな思考軸の構築をめざして―
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福祉教育とは、「憲法13条、25条等に規定された人権を前提にして成り立つ平和と民主主義社会を作りあげるために、歴史的にも、社会的にも疎外されてきた社会福祉問題を素材として学習することであり、それらとの切り結びを通して社会福祉制度、活動への関心と理解をすすめ、自らの人間形成を図りつつ社会福祉サービスを受給している人々を、社会から、地域から疎外することなく、共に手をたずさえて豊かに生きていく力、社会福祉問題を解決する実践力を身につけることを目的に行われる意図的な活動」と規定することができる(「学校外における福祉教育のあり方と推進」全社協・全国ボランティア活動振興センター、1983年9月、15ページ)。
〇ここ10年ほどの福祉教育学界は、地域福祉の主流化が進むなかで、良しにつけ悪しきにつけ、その視座が「教育と福祉」から「地域福祉と福祉教育」に矮小化され、俯瞰的議論から遠ざかっているようである。また、実践を支える理論や思想・哲学、価値、歴史などへの関心は未だ低い。実践方法の原理・原則の探究が不十分であり、理論的枠組みも不明確な福祉教育実践論が展開されているようでもある。
1 福祉教育の概念規定
〇上記の福祉教育の概念規定は、30年以上も前に大橋謙策によってなされたものである。今日においてもしばしば引用される。この概念規定以外にも、「福祉教育とは何か」について論考したものは複数、捉え方によっては多数あるが、大橋のそれがよく援用される。それは、「人権」や「平和と民主主義」といった普遍的な理念や価値に基礎をおいた理念型の定義であり、また包括的で汎用性が高いことに起因するといってよい。具象的な定義はその解釈を狭くするが、抽象的定義はその抽象度によって解釈を広げ、読み手の洞察によって解釈を深めることができる。そうした点で、この定義は多くの人が「使える」、多くの人にとって「使いやすい」ものになっているのであろう。
〇周知のように、全社協・全国ボランティア活動振興センターが1980年9月、「福祉教育研究委員会」(委員長・大橋謙策)を設置し、翌1981年11月に「福祉教育の理念と実践の構造―福祉教育のあり方とその推進を考える―」について研究の中間成果を纏め、報告した。委員会の設置は、全国各地で福祉教育実践の進展が図られ、学校における福祉教育のあり方について一定の理論的整理が求められるようになってきたことへの対応であった。次いで、1982年9月に第2次の「福祉教育研究委員会」(委員長・大橋謙策)が設置され、翌1983年9月に「学校外における福祉教育のあり方と推進」と題する中間報告が行われた。大橋の福祉教育の定義は、第1次ではなく、「第2次福祉教育研究委員会」報告のなかで述べられている。そこではまた、次のように述べられている。「社会教育行政における福祉教育の促進には二つの視点が『車の両輪』としてなければならない。第一は、国民が社会福祉問題を学習し、それへの関心と理解を促進させる福祉教育活動の促進であり、第二には、今日の社会福祉問題の中心的課題を担っている障害者、高齢者の社会教育(学習、文化、スポーツ活動)の促進である」(15ページ)というのがそれである。後者(「第二」)に関してはさらに、「今日の社会福祉サービスの主たる対象である障害者、高齢者の学習、文化、スポーツ活動を豊かに促進させることが、国民の障害者観、老人観を変え、ひいては社会福祉観を変えて、ともに生きていく街づくりをすすめる上で重要」(16ページ)であるとされた。
〇ところで、大橋のこの定義は、全社協の「第2次福祉教育研究委員会」報告以前の1982年3月、神奈川県の「ともしび運動促進研究会」(委員長・大橋謙策)が編集し、「ともしび運動をすすめる県民会議」が発行した『ともしび運動促進研究会中間報告』で述べられている(4ページ)。「ともしび運動」は、長洲一二県知事の提唱によって、1976年10月から展開された行政・県民協働の福祉コミュニティづくり(自立と連帯のまちづくり)運動である。具体的には、「障害者の自立促進を」「おとしよりに生きがいを」「連帯感にあふれた地域社会づくり」などをその目標とし、「『ともしび運動』によってすすめられるべき課題の第一は “福祉教育の促進” である」(4ページ)とされた。
〇以上を要するに、大橋の福祉教育論については、一面では「子ども・青年の発達(の歪み)」を軸に体系化された教育論としても評価されるが、併せて高齢者や障がい者の「社会教育の促進」や「福祉コミュニティの形成」との関わりで福祉教育を捉える研究の視座に注目しないと、その定義や所説を読み解くことはできないということである。
2 福祉教育と「社会福祉問題」
〇先に記した大橋の福祉教育の定義についてその構成要素を弁別すると、次のようになる。(1)憲法第13条、第25条等に基づく人権思想をベースにする。(2)歴史的・社会的存在としての社会福祉問題を素材とする。(3)社会福祉問題との切り結びを通して、社会福祉制度や活動への関心と理解を進める。(4)社会福祉問題を解決する実践力を身につけるために、実践に基づく体験学習を重視する。(5)「自立と連帯の社会・地域づくり」の主体形成を図る、などがそれである。
〇大橋の定義における鍵概念のひとつは「社会福祉問題」である。大橋は、1981年2月に刊行された吉田久一編『社会福祉の形成と課題』(川島書店)所収の論文「高度成長と地域福祉問題―地域福祉の主体形成と住民参加―」(231~249ページ)で、高度経済成長期以降、「社会福祉問題の国民化と地域化」(大橋謙策『地域福祉の展開と福祉教育』全社協、1986年9月、3~11ページ)が進んでいるが、地域で福祉問題を解決するためには、それができる「住民の形成とネットワークづくり、とりわけそこにおける住民参加の問題」(238ページ)が重要であり、焦眉の課題であるとする。そのうえで、地域福祉の主体形成のための福祉教育の必要性と、福祉行政の「地方分権主義」への転換を図り、地方自治体が自律性をもって「地域社会福祉計画」を住民参加のもとに策定することの必要性を指摘している。
〇福祉教育が学習素材とする「社会福祉問題」、とりわけ高度経済成長期以降のそれは、大橋にあっては、「戦前の大河内一男の社会政策と社会事業という整理や戦後の孝橋正一の社会問題と社会的問題という整理でも、包含できない課題として創出されてきた」(231ページ)。公害・環境問題と外的な生活破戒、過疎問題と家庭破戒、過密問題と生活の共同的集団的再生産機能の弱まりと不安定化、合理化・機械化による生活リズムの破戒や老人福祉問題の深刻化などが、「従来の問題にくわえてあらわれてきた」ものである(232~234ページ)。
〇地域住民のこれらの具体的な生活破戒の “状況” については、簡潔明瞭にカテゴライズしても、他の領域や次元の “状況” で説明するだけではその本質に迫ることはできない。社会福祉問題の分析は、それを現代社会の仕組みと運動法則によって必然的に生み出される構造的な「社会問題」として、社会科学的に捉えることによってはじめて可能となる。そうした分析のうえで、その問題解決に向けて、批判的・論理的かつ創造的に思考・判断・実践する “力” の育成・向上をいかにして図るか。そのための福祉教育実践の具体的展開について検討することが求められる。
〇以下に、上記の論文中から、「福祉教育と地域福祉の主体形成」に関する叙述部分を記しておく。大橋の「福祉教育の理念と実践の構造」についての所説の基本的部分(特色)を概観・俯瞰することができる。
福祉教育は、国民が社会福祉を自らの課題として認識し、福祉問題の解決こそが社会・地域づくりの重要なバロメーターとして考え、共に生きるための福祉計画づくり、福祉活動への参加を促すことを目的に行なわれる教育活動である。したがって、福祉教育は少なくとも次の諸点を構成要件として意識的に行なわれてこそ意味がある。
第一は、差別、偏見を排除し、人間性に対する豊かな愛情と信頼をもち、人間をつねに “発達の視点” でとらえられる人間観の養成、第二に社会福祉のもつ劣等処遇観、スティグマ(恥辱)をなくすことが必要で、そのためには国民の文化観、生活観を豊かにすることに他ならないこと、第三に、人間は人々との豊かな交流の中で生きる以上、生活圏の狭い障害者等の社会福祉サービス受給者の生活がいかに非人間的であるかをコミュニケーションの手段も含めてとらえられること、第四に複雑な社会における歴史的、社会的存在としての福祉問題を分析できる社会科学的認識が必要なこと、第五に今日の福祉は、福祉行政の中でも細分化されているが、その解決には関連行政たる労働行政、教育行政、保健衛生行政などを含めて地域的課題を総体的にとらえる力が必要であること、の五つを基本に、情報の周知徹底、体験・交流などによって感覚として体得することなどが方法論的にも加味されて、はじめて福祉教育の実践といえる。
福祉教育は、住民の福祉意識を変え、福祉問題をトータルにとらえ、問題解決のための福祉計画づくり、具体的解決のための実践などを行なえる住民の形成であり、それこそ地域福祉の主体形成といえよう。(243ページ)
3 福祉教育と「地域福祉の主体形成」
〇大橋は、岡本栄一によって「住民の主体形成と参加志向の地域福祉論」と評されるように、「地域福祉の主体形成」を重視する。その点について、大橋は、前記の著書『地域福祉の展開と福祉教育』において、「地域福祉の主体形成のしかたと主体として形成されるべき力量には、次のような7つのことが考えられる」とした。(1)社会福祉に関する情報提供による関心と理解の深化、(2)地域福祉計画策定への参加と政策立案能力、(3)社会福祉行政のレイマンコントロール(政治や行政の一部を一般市民に委ねること:筆者)、(4)社会福祉施設運営への参加、(5)意図的、計画的な福祉教育の推進、(6)地域の社会福祉サービスへの参加(ボランティア活動)による体験化と感覚化、(7)社会福祉問題をかかえた当事者の組織化と当事者のピア(仲間、peer)としての援助、がそれである(46ページ)。その後、大橋は、この「地域福祉の主体形成」(「住民の主体形成」)の7つの「枠組み」を整理し、「『地域福祉の主体』形成には、4つの課題がある」として、4つの主体形成の枠組みを提示する。すなわち、(1)地域福祉計画策定主体の形成、(2)地域福祉実践主体の形成、(3)社会福祉サービス利用主体の形成、(4)社会保険制度契約主体の形成、である(大橋謙策『地域福祉論』放送大学教育振興会、1995年3月、75~82ページ)。それは同時に、福祉教育の課題でもある。
〇この大橋の4つの主体形成については、7つから4つに “綺麗” に整理・集約された故にか、4つの側面が並列的に理解されがちで、その内的・構造的な相互関連性の把握を困難なものにしている。主体としての「住民」は、基本的には労働主体と(労働以外の)生活主体の統一的存在であろうが、政治主体・経済主体・文化主体であり、また地域の自治主体や変革・創造主体でもある。「住民」はこれらの側面を重層構造的にもつ存在である。地域の自治主体や変革・創造主体に関していえば、住民主体の社会福祉問題の解決や「自立と連帯の社会・地域づくり」を推進するためには、個人的主体形成のみならず集合行為主体や運動主体の形成が必要かつ重要となる。こうしたことを踏まえたうえで、地域福祉(住民)の主体形成を促進する福祉教育実践の内容や方法について具体的に検討することが肝要となる。
4 「大橋福祉教育論」に対する批判
〇以上が、「社会福祉問題」と「主体形成」の鍵概念を中心にみた「大橋福祉教育論」の概括である。こうした大橋の所説に対してこれまで、「地域福祉と福祉教育」を説く地域福祉研究者からの系統的な批判はあまりみられない。それは、大橋の所説が一定の理論体系を作り上げていることによるが、大橋のそれが「福祉教育原理論」として前提され、そのうえで立論されていることにもよるといってよい。そういうなかで、生涯学習やESD(持続可能な開発のための教育)の研究者である松岡廣路が、論文「福祉教育・ボランティア学習とESDの関係性」(『持続可能な社会をつくる福祉教育・ボランティア学習(日本福祉教育・ボランティア学習学会研究紀要)』第14号、2009年11月、8~23ページ)において、大橋の所説に批判的考察を加えている。
〇松岡の大橋批判は、大橋の福祉教育の定義は「汎用的であるがゆえに、同時に、脆弱性を併せもっている」。「脆弱性を項目化すると、<未分化な学習者像>、<社会福祉活動の内実の曖昧さ>、<楽観的な社会形成ビジョン>、<教育概念の曖昧さ>と約言できる」(13ページ)、というものである。そして、松岡は、「脆弱性の高い『福祉教育』の定義に基づいてしまうと、時代の大きな物語に押し流され、重要と思われる要素が外延化され、体制的要素を内包とする対象化(理論化)と実践化が、当然のごとく進んでいく。福祉教育が、現実と理想の拮抗関係の中に位置することを意識し、従来の枠組みを等閑視しないという批判的な姿勢を保つことが、今まさに重要である」(16ページ)として、「批判的創造性」の観点の必要性と重要性を説いている。松岡の批判は必ずしも、「大橋福祉教育論」をその理論的体系化の過程も視野に入れて、総合的・体系的に行うものにはなっていない。とはいえ、「社会的・福祉的課題の解決に不可欠な『批判的創造性』が、実践における学びの目標・内容(いわゆる『学びのベクトル』)から排除されている」(16ページ)という指摘は、首肯されるところである。
5 「大橋福祉教育論」再考のための枠組み
〇ある理論や所説を、内在的にしろ外在的にしろ批判的に考察するためには、その枠組みを構造的に捉え、それを主体的に再構成することが求められる。その点において、「大橋福祉教育論」を超える新たな福祉教育論の理論的枠組みを構築し、新たな実践方法を創造するためには、まずはいま一度「大橋福祉教育論」の理論的枠組みの構築化の過程を時系列的に把握するとともに、その枠組みの構造を総合的に理解する必要がある。そこで、以下では、そのためのひとつの方法として、大橋が行った福祉教育についての2つの「講演」からそのレジュメの枠組みと項目をみることにする。日本福祉教育・ボランティア学習学会の第2回大会と第10回大会での講演である。
(1)福祉教育・ボランティア学習の理論化と体系化の課題(第2回大会・基調講演/1996年11月23日/日本社会事業大学)



出所:『日本福祉教育・ボランティア学習学会第2回大会』1996年11月、5~9ページ。
〇地域づくりや地域福祉の主体「形成」は、福祉「教育」やボランティア活動(ボランティア「学習」)が推進されればそれで可能になるものではない。それは、子ども・青年や成人などの地域住民が、地域の社会福祉問題の本質を科学的に理解・分析し、変革的・創造的に問題解決を図ることのできる“力”を獲得し、しかもそれを具体的・現実的に行使することによって初めて可能となる。その主体形成ができなければ、福祉を学ぶことやボランティ活動は単なる「善行」にとどまり、無批判的で体制適応(順応)的な住民主体を形成することになる。福祉教育は「両刃の剣」になりかねない、といわれるところである。
〇そういう意味からも、上記の枠組みと項目のなかから、ここではとりわけ「形成と教育と学習」について留意しておきたい。それは、上述の松岡が、大橋の定義は「意図的な活動」と明記されていることからも「福祉教育が、ややもするとフォーマルな教育が中心であるとの理解(誤解)を許す脆弱性を有している」(15ページ)と指摘する点に関わることである。
〇大橋の指摘を俟つまでもなく、福祉教育を進めるにあたっては、その対象である子ども・青年あるいは成人などの「学習者」の発達特性や発達課題、学習者が置かれている状況などを理解すること(「学習者理解」)が重要となる。それは、「人格発達論」(「人間発達論」)にまで深められなければならない。そのうえで、子ども・青年や成人の、地域づくりや地域福祉の「形成」と「教育」と「学習」との関係を改めて考えてみる必要がある。
〇宮原誠一によると、「形成」は、人間の社会的生活における自然成長的な過程として捉えられる。それが豊かであることによってはじめて、組織的体系的な制度であり、目的意識的な過程としての「教育」が成り立つ。換言すれば、人間の「形成」の過程を、それぞれの時代の社会、政治、経済、文化の必要に基づいて「望ましい方向」に制御しようとする人間の努力が「教育」という営為である。宮原にあっては、広義の「教育」は「形成」と呼ばれるべきであり、学校教育や社会教育などの狭義の「教育」は「形成」を前提とする。すなわち、狭義の「教育」は、人間の「形成」のうちにあるひとつの営為であり、「形成」の過程に内包されるひとつの要因に過ぎない。
〇「形成」は、人間が社会的生活そのものによって “形づくられる” 過程である。それは、第一次的には社会的・自然的環境によって行われる。とすれば、「形成」は「学習」なしには成り立たず、「学習」は「形成」に不可欠なものとして位置づけられる。そこから、「形成」と「教育」の関係は、「学習」と「教育」の関係になる。その関係について、勝田守一は、「学習のないところに教育はない」「教育は学習の指導である」という。勝田にあっては、「形成」にはその前提として「学習」があり、「形成」は自己の希望や意欲による目的意識的な営為である。従ってそれは、「自然成長的」(宮原)ではない(佐藤一子ほか「宮原誠一教育論の現代的継承をめぐる諸問題」『東京大学大学院教育学研究科紀要』第37巻、東京大学、1997年12月、311~331ページ。宮崎隆志「教育本質論における宮原誠一と勝田守一の差異について」『北海道大学大学院教育学研究科紀要』第83号、北海道大学、2001年6月、1~24ページ、等参照)。
〇いずれにしても、宮原と勝田の「形成」「教育」「学習」などをめぐる「教育」の概念や本質についての再検討は、福祉教育やボランティア学習の概念把握や本質理解に対してひとつの視座やアプローチの仕方を与えてくれるであろう。地域づくりを担う子ども・青年や成人などの多様な実践・運動主体の育成・確保が求められ、市民活動や教育活動のあり方が厳しく問われている今日、その再検討の意義は大きいと考えられる。それは、宮原と勝田は、「連帯」の概念を基底に地域を捉え、勝田は「自立と連帯」の場として地域を理解する。そのうえで、“地域づくりと教育実践(地域教育計画)” について言及するからでもある。
(2)学会の新たなる10年に向けて~福祉教育・ボランティア学習学会の今後の課題―学会創設10年の総括~(第10回大会・総括講演/2004年11月28日/神奈川県立保健福祉大学)


出所:「実践と研究の未来」『日本福祉教育・ボランティア学習学会年報(10周年記念)』第10号、2005年12月、91ページ。
〇学校は、「学習者」(生徒)と「指導者」(教師)、その両者を媒介する「教材」(教育内容)によって構成される。そこでの教育活動は、教科活動と教科外活動(特別活動、総合的な学習の時間)、学習指導と生活指導という2つの領域や機能に分けられる。また、教科活動と教科外活動、学習指導と生活指導はともに、学校や教育活動の理念や目的・目標を達成するうえで重要な機能を果たすものであり、学校教育において重要な意義をもつ。教育の理念や目的・目標の明確化なくして、学習者の主体的・創造的な学習活動や指導者の意欲的・積極的な学習・生活指導は促進されず、教育の成果を期待することはできない。そこから、教育の「理念・目的・目標」は、学校や学校教育の構造を成す重要な内部要素であるといえる。そして、「理念・目的・目標」「学習者」「指導者」「教材」は、相互に作用・影響し合い、相乗効果を生み出すものとして存在する。
〇こうした認識に立って、以上の枠組みと項目から、ここでは「福祉教育の構造」に関する研究・実践課題について一言する。管見によれば、福祉教育は、(1)理念・目的・目標、(2)学習者、(3)指導者・支援者、(4)素材・教材、(5)教育内容・方法(評価を含む)などによって構造化される(「福祉教育の構造」)。それらの構成要素のうち、例えば(1)については、福祉教育(「市民福祉教育」)は、「自立(independence)と自律(autonomy)、共働(coaction)と共生(symbiosis)」という理念のもとで、「福祉文化の創造や福祉によるまちづくりをめざして日常的な実践や運動に取り組む主体的・自律的な市民の育成を図る」ことを目的とする。福祉教育は、そのために、地域の「社会福祉問題」を発見・理解・解決するための横断的・重層的な実践プログラムを開発・編成し、地域を基盤とした総合的・複合的な「地域をつくる学び合い」(東京都生涯学習審議会答申「地域における『新しい公共』を生み出す生涯学習の推進~担い手としての中高年世代への期待~」2002年12月)の支援を行う教育営為である、といえる。
〇そう考えたとき、(2)に関しては、「子ども・青年」のみならず、「成人」(中高年世代)の状況について分析・理解すること(「学習者理解」)。(3)に関しては、求められる資質・能力や知識・技能とは何かを探究し、その育成・向上を図ること(「指導者・支援者育成」)。(4)に関しては、学習者の問題意識や学習意欲を喚起し、教育(学習)目標を達成するために、身近な地域・生活「素材」(具体的事象)を掘り起し、「教材」化すること(「教材開発」)。(5)に関しては、地域(「地元」)や「まちづくり」に焦点をあてたカリキュラムやプログラムを開発・編成し、実施・展開、評価すること(「プログラム編成」)、などが求められる。これらは、福祉教育における普遍的な課題でもあるが、人権侵害や立憲主義・民主主義・平和主義の後退、福祉や教育の改悪・切り捨てなどが激しく進行するいまこそ、福祉教育を体制内的な教育営為にしないためにも、自律的・批判的・創造的に取り組むことが求められる重要な研究・実践課題であるといえよう。
〇周知の通り、教育の形態は一般的には、大きく次の3つに分類される。(1)定型教育(formal education:制度化された学校において、構造化されたカリキュラムに基づいて教師と生徒の関係によって展開される教育。学校教育など)、(2)不定型教育(non-formal education:学校の教育課程として行われる教育の外部において、一定の学習者に対して、ある学習目的を達成するために意図的・組織的に行われる教育。社会教育など)、(3)非定型教育(informal education:日常的な生活経験(体験)や環境によって、知識や技能などを習得する無意図的・非組織的な教育。家庭教育など)、がそれである。加えて、日常生活上の市民・文化活動(運動)などを展開するなかで生じる教育課程としての(4)市民・文化活動(運動)を考えることができる。それは、非意図的・間接的あるいは偶発的でもある。
〇福祉教育(福祉教育事業、福祉教育機能)はこれまで、学校における福祉教育を中心にしながらも、学校外における福祉教育、成人を対象とした社会教育における福祉教育等の多様な分野で実践展開が図られてきた。具体的には、家庭や学校をはじめ、社協や公民館、福祉施設、民生委員・児童委員、NPO・ボランティア団体、自治会・町内会、企業、その他の関連施設・組織・団体などが、多様な “機会” や “場” を設けて福祉教育に取り組んできている。これまでの経過や現状・実態を踏まえると、福祉教育は、子ども・青年や成人などの地域住民を対象に、フォーマル、ノンフォーマル、インフォーマルの3つの形態の教育活動や市民・文化活動(運動)等を相互に媒介し、関連づけ、学校や地域などで展開される多様な教育活動として構造化されることになる。「福祉教育の構造」について検討し、その再構築を図るに際して、上述の5つの構成要素とともに留意すべき点である(表1「市民福祉教育の構造」参照)。

むすびにかえて
〇大橋は、「教育と福祉」に関する初期の著作『地域福祉の展開と福祉教育』のなかで、「本書は、学術論文というよりも実践的研究書という方があたっているかもしれない。筆者の問題関心は、教育と福祉における“問題としての事実”に学びつつ、問題、課題をどう実践的に解決するのかという点にある」(「まえがき」)と述べている。この「実践的研究」の姿勢は、その一貫性を保ちながら「大橋福祉教育論」を深化・体系化させていく。
〇いわれるように、「実践的研究」は、「実践を通しての研究」と「実践に関する研究」に大別される。前者は仮説探索型の研究であり、後者は仮説検証型のそれである。この両者を循環的に組み合わせ、相互作用を引き起こすことによって、実践性と科学性を備えた、さらにはそれらを統合した研究と理論構築が可能となる。「大橋福祉教育論」を再考し、新たな福祉教育論を展開するに際して留意すべきひとつの視点・視座である。
〇改めていうまでもなく、上記の大橋「講演」の枠組みは壮大である。同時にそれは、幅広く奥深い「大橋福祉教育論」再考に向けた多様な視点・視座とアプローチの方向性を示すものでもある。「理論」(所説)は新たな時代や現実によって不断に凌駕され、更新されていく。「大橋福祉教育論」が「福祉教育原理論」としてその普遍性と不変性を今後も保持し続けるか否かの評価についてはひとまず置くとして、「大橋福祉教育論」をいかに継承し、新しく展開するかは福祉教育の実践者や研究者に課せられた大きな課題である。
補遺
(1)大橋謙策は、福祉教育とボランティア活動の関係性について、例えば次のように述べている。
ボランティア活動の契機・動機が(中略)自己満足的なもの、慈善的なものであったとしても、多くのボランティアはその活動を通して厳しいものの見方・考え方を修得していく。社会福祉一つとってみても単なる人のやさしさ、情熱だけでは解決できず、制度の確立と住民の協働がなければならない。ボランティアたちはそれらに関する意識を豊かにしはじめる。/社会福祉に関する意識は、知的理解のみではなかなか変容しない。社会福祉問題を抱えた人々との交流の中で、あるいはその問題解決の実践・体験の中で変容する。それだけにボランティア活動の推進は重要である。と同時に、福祉教育が求められる背景を解決するためにもボランティア活動を豊かなものにしなければならない。
(大橋謙策「福祉教育の構造と歴史的展開」一番ヶ瀬康子・小川利夫・木谷宜弘・大橋謙策編著『福祉教育の理論と展開』(シリーズ福祉教育1)光生館、1987年9月、74ページ。)
(2)福祉教育とその近似概念である「ボランティア学習」の関係性については、例えば長沼豊は次のように述べている。参考に供しておきたい。なお、長沼は、ボランティア学習は3つの構成要素から成るという。①ボランティア活動のための学習(目的としてのボランティア活動)、②ボランティア活動についての学習(対象としてのボランティア活動)、③ボランティア活動による学習(手段としてのボランティア活動)、がそれである。
福祉教育とボランティア学習は、ある実践では領域接近的に、ある実践では融合形として、ある実践は福祉教育の発展として(結果として)ボランティア学習がある、というように、重層的、輻輳(ふくそう)的に領域や方法が重なり合っているといえるだろう。
(長沼豊『新しいボランティア学習の創造』ミネルヴァ書房、2008年12月、135ページ。)
(3)また、福祉教育とボランティア学習の「違い」と「関係」について、全社協の『新 福祉教育実践ハンドブック』では次のように述べられている。
福祉教育とボランティア学習は、(中略)双方とも人権尊重・異文化理解をベースに、共生文化・市民社会の創造を大目標に掲げる実践です。(中略)しかし概念的には、学習素材・期待される成果・手法において若干の違いがあるともいえます。/ボランティア学習の概念の中心に位置づけられる、「ボランティア活動に組み込まれている学び」という発想は、(中略)リアル空間での学びを強調するものです。(中略)安易な疑似体験や講話的な福祉教育への警鐘としてボランティア学習をとらえることこそが重要なのです。/現在、福祉教育とボランティア学習は、ともすると、異なる文脈で実際の教育現場に導入されていますが、両者の特徴を総合することが求められています。理念的にも、福祉教育とボランティア学習は相補う関係にあります。
(上野谷加代子・原田正樹監修『新 福祉教育実践ハンドブック』全社協、2014年3月、32~33ページ。)
付記
阪野貢「『大橋福祉教育論』再考の視座と枠組み―新たな思考軸の構築をめざして―」市民福祉教育研究所ブログ〈まちづくりと市民福祉教育〉(26)2014年11月4日アップ。一部加筆修正。
阪野貢「『大橋福祉教育原論』再考の視座と枠組み―新たな思考軸の構築をめざして―」『ワンポイントメモ35+3 まちづくりと市民福祉教育―視点と論点―』(追補版)市民福祉教育研究所、2022年7月、14~27ページ所収。一部加筆修正。
Ⅱ
「民俗としての福祉」×「福祉教育の目的」
―岡村重夫の「1976年論文」―
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〇春が戻ってきた(内山節の「横軸の時間」)。筆者は、定年を契機に、年金で生計を維持しながら、80坪ほどの農地で自家用野菜を育てる(「定年百姓」「年金百姓」になれるわけがない)家庭菜園者でもある。それが、「老人」(※)である自分の新たな生きがいやレクリエーションになっている。いまは、毎晩のように食卓に上がる“つみ菜”の春の香りを楽しんでいる。昨日(3月5日)は、春ジャガイモの植え付けをおこなった。
※民俗学者の宮田登(みやた・のぼる、1936年~2000年)は、『老人と子供の民俗学』(白水社、1996年3月)で、〈おい〉には「盛りを過ぎた」という語感がある〈老い〉と、「追加する」というイメージがある〈追い〉の二つがある。落ち目になっていくというマイナスの〈おい・老い〉を意味する前に、プラスイメージの〈おい・追い〉があった、という(5~6ページ)。
※農(百姓仕事)は季節による単純な繰り返しの作業ではなく、自然を相手にした繊細で創造的な仕事である。アメリカの精神科医で老年学者のジーン・コーエンは、『いくつになっても脳は若返る』(野田一夫監訳、ダイヤモンド社、2006年10月)で、「創造性」は年をとるとより一層深まり、豊かになり得る。ガーデニングは「小さな創造性」が発揮しやすい分野である、という(225、227ページ)。
〇筆者の手もとに、安室知(やすむろ・さとる)の『都市と農の民俗―農の文化資源化をめぐって―』(慶友社、2020年2月)という本がある。この本では、「現代日本における農の存在意義について、生活者の目線に立ち、国の政治や経済とは別の角度から捉え直し」ている。その際の切り口は、都市や農村における「農の文化資源化」である。「文化資源化」とは、「人が遺伝的に獲得したもの以外のすべてを文化とし、それを何らかの目的をもって資源として利用すること、および利用可能な状態にすること」をいう。安室にあっては「現代民俗学においては、文化資源化は避けて通ることができない問題である。現代において民俗伝承とされるものは、程度の差こそあれ、商品化や観光化など何らかの形で資源化されているといってよい」(9ページ)ここで筆者は、都市における「市民農園」とともに、無農薬・有機栽培野菜の商品化やグリーン・ツーリズム(農山漁村地域における滞在型の交流・余暇活動)、棚田のオーナー制度や観光などを思い出す。
〇筆者が暮らす岐阜県S市は、700年以上の伝統をもつ“刃物のまち”として知られている。まちには何故か、喫茶店と寿司屋が多い(筆者にはそう思える)。住民には、労働に追われることから、また家事時間の削減を図るために喫茶店で「モーニング」の朝食をとり、夕食を外食ですませる習慣があるのであろうか。それは、S市の刃物産業は部品製造業者と工程加工業者による社会的分業体制が採られていることから、零細企業や家内工業が多いことによると思われる。また、喫茶店や寿司屋は、コミュケーションや接待・商談の場となっているのであろう。
〇喫茶店の「モーニング」といった “日常の実際の暮らし” “人間の生” を民俗学の視点で探り、それを「ヴァナキュラー(vernacular)」と称して、「現代民俗学」(「現代学」としての民俗学)の研究対象とする本がある。島村恭則(しまむら・たかのり)の『みんなの民俗学―ヴァナキュラーってなんだ?―』(平凡社、2020年11年)がそれである。この本で、島村は、「ヴァナキュラー(俗)」について次のように定義づけている。「民俗学とは、人間(人びと=〈民〉)について、〈俗〉の観点から研究する学問である」。その際の「〈俗〉とは、①支配的権力になじまないもの、②啓蒙主義的な合理性では必ずしも割り切れないもの、③「普遍」「主流」「中心」とされる立場にはなじまないもの、④(支配的権力、啓蒙主義的合理性、普遍主義、主流・中心意識を成立基盤として構築される)公式的な制度からは距離があるもの、のいずれか、もしくはその組み合わせのことをさす」(16、31ページ)。
〇別言すれば、〈俗〉とは、「対覇権主義的、対啓蒙主義的、対普遍主義的、対主流的、対中心的、対公式的な観点を集約的に表現したもの」(30、107ページ)である。それらの観点を持ち、それらの世界を研究対象とするのが「民俗学」である。島村によると、こうした観点や志向は、「日本の民俗学の基底部に確実に存在している」(29ページ)。なお、「覇権」とは「強大な支配的権力」(20ページ)を意味し、「啓蒙」とは「非合理的な世界にいる無知蒙昧な人を、明るい世界に導いて賢くすること」(17ページ)、「普遍」とは遍(あまね)く通用すること、を意味する。
〇周知の通り、「日本民俗学の創始者」と言われる人に柳田國男(やなぎた・くにお、1875年~1962年)がいる。その柳田民俗学に対して批判的な論陣を張る民俗学者に赤松啓介(あかまつ・けいすけ、1909年~2000年)がいる。筆者の手もとに、赤松の『差別の民俗学』(筑摩書房、2005年7月)という本がある。赤松は例えば、次のように批判する。「柳田系民俗学の最大の欠陥は、差別や階層の存在を認めようとしないことだ。いつの時代であろうと差別や階層があるかぎり、差別される側と差別する側、貧しい者と富める者とが、同じ風俗習慣をもっているはずがない。差別する側、富める者は、どうすれば自分の優位を示せるかを、いつの場合でも最大の関心にしている」(165ページ)。
〇赤松にあっては、民俗学は、伝承(「口頭伝承」「民間伝承」)や民俗に内在する階級性や差別論理と切り結び、それを読み解くことに意味があり、避けがたい必然がある。そして、日本社会の重層的な差別構造を見据えて、「解放の民俗学」を標榜し、「実践の民俗学」に執着する。赤松はいう。「一般の民俗学と、私たちの民俗学はどこが違うのか。権力や行政の民衆支配に協力するための調査、学術的研究のためという学閥的、また立身出世型のタネ探し、そうしたものがこれまでの民俗学であったといえる。(中略)解放の民俗学は、立身出世や金儲け、憐憫(れんびん。情けをかけること)などとは無縁のものである。あらゆる底辺、底層からの民俗の堀り上げ、掘り起こし、その人間性的価値の発見と、新しい論理、思考認識の道を開くということであろう。しかし、それは今後においても、とうてい平坦な道ではありえないのである」(116~117ページ)。
〇唐突であるが、ここで想起されるものに、岡村重夫(おかむら・しげお、1906年~2001年)の論稿「福祉と風土―民俗としての福祉こそ基底―」がある。日本生命済生会社会事業局発行の雑誌『地域福祉』1976年3号(通巻121号)、1976年7月、4~9ページに掲載されている。岡村がそこで指摘することは、「われわれの社会生活や個人意識は、強く日本の風土によって規定される事実、従ってまたその共同生活を基盤とする社会福祉も、日本特有の風土性をもつという事実」(6ページ上段)である。
〇岡村はその論稿で、「民俗としての福祉」について概念規定はしない。ただ、福祉を「生活の次元」で捉えれば、福祉は風土によって規定され伝承された共同生活上の「生活の知恵」「生活の工夫」であり、「風土の産物」である、とする。次の一節を引いておく。
福祉とは、すぐれた人々の日常生活上の困窮に対する地域住民の共同的な援助に由来するものであると考えるならば、それは、人々の日常生活のいとなまれる環境、すなわち歴史的であると同時に空間的、自然的な風土との関連を無視することはできないであろう。社会福祉は政府の政策である以前に、すでに生活者が共同生活を守るために工夫した、いわば「生活の知恵」であった。(4ページ下段~5ページ上段)
主として輸入文化に支えられた官製社会福祉や専門家の社会福祉論と、民俗としての社会福祉も、また二重構造的に考えられるけれども、重要なことは、民俗としての福祉こそが基底となって、その上に社会福祉政策や社会福祉文化が消長するということである。福祉の風土とは、まさしくこの基底部分であると考えられる。そしてこの基底部分が掘りくずされ、分解しないためには、外来の上部構造に対して、生活者の見解を対置させ、近視眼的な専門家や法律を鋭く批判しなければならない。(9ページ下段)
〇古くは一番ケ瀬康子(いちばんがせ・やすこ、1927年~2012年)の指摘(「社会事業諸技術の文化的基盤」『社会事業』1958年2月号、全国社会福協議会)を引用するまでもなく、欧米の社会福祉やソーシャルワークの理論や思想、価値や倫理については、直輸入的に摂取し定着を図るのではなく、日本の文化や風土、日本人の国民性、社会構造や生活環境の特質などを十分に踏まえた日本的展開が求められる。ここで思い起こしておきたい。安易な輸入理論や思想(なかでも周回遅れのそれ)への依存には、十分注意すべきである。
〇ところで、「1976年」と言えば、岡村重夫の「福祉教育の目的」と題する論稿を思い出す。それは、伊藤隆二・上田薫・和田重正編著『福祉の思想・入門講座 ③福祉の教育』(柏樹社、1976年4月)の13~36ページに収められている。そこで岡村は、「福祉教育」は社会福祉の専門的知識や技術をもった福祉事業従事者を養成する「福祉専門教育」ではなく、一般市民の地域社会における福祉問題や社会福祉に対する関心を高めるものである(「福祉一般教育」)として、次のように述べている。
福祉教育の目的は、単に現行の社会福祉制度の普及・周知や「不幸な人びと」に対する同情をもとめることではなくして、社会福祉の原理ともいうべき人間像ないしは人間生活の原点についての省察を深めることであり、この省察にもとづく新しい社会観と人類文明の批判をも含まなくてはならないであろう。さらに言うならば、このような新しい社会観や生活観にもとづく具体的な対策行動の動機づけによって、福祉教育の目的は完結するものである。(19~20ページ)
〇そして、岡村にあっては、「真の福祉教育の目的」は具体的に以下の3点に集約される。そのなかで岡村は、次のように厳しく指摘する。福祉教育において「外在的な社会制度の欠陥を指摘する場合に、自分の内面的な偏見や人間観を自己批判することなしに、(あるいは)ひとの内面的文化を問うことなしに、単なる同情心や恩恵をよりどころとした『外面的福祉』の世論を造成することは、(それが)実現すればするほど福祉サービスの対象者は『気の毒なひと』として一般社会から疎外される結果になり終わり、福祉教育の目的は自己矛盾に陥らざるをえない」(34ページ抜き書き)。いまだに観念的な「福祉の心」や「思いやりの心」を育成する福祉教育が叫ばれ、その表層的な実践が展開されているなかで、改めて強く認識すべき指摘である。
(1)福祉的人間観の理解と体得
社会福祉は、その根底において独自の人間観に支えられねばならない。社会福祉の人間観は、社会的=全体的=主体的=現実的存在としての人間像である。この人間像の基礎にある仮説は、すべての個人が生活者であり、生活はいかなる場合にも、自己自身を貫徹してやまないということである。社会福祉の人間観は、抽象的に、あるいは観念的に「人格の尊厳」を主張するのではなく、具体的な生活者としての個人の重み、生活の重みを主張するものである。(31~32ページ抜き書き)
(2)現行社会制度の批判的評価
現在の社会制度によって福祉的人間性を無視せられ、そのような人間像による自己実現を妨げられている個人の生活実態を明らかにしなくてはならない。福祉教育の目的は、現行の社会制度から疎外され、「社会的・全体的・主体的・現実的な人間像」実現の機会を奪われている人が、どこに、またどれだけいるかを認識させることでなくてはならない。このことによって、福祉教育は、単なる人間観の教育よりすすんで具体的な教育目標をもつことができる。(33ページ)
(3)新しい社会福祉的援助方式の発見
福祉は本質的に社会福祉である。その「社会」とは、対等平等の個人によって形成される共同社会(コミュニティ)であり、社会福祉は、「慈善」や「施し」ではなくて、対等平等の個人が相互に援助し合う相互援助を本質とする。対等平等の個人が、全体的な自己実現の機会を提供されるように組織化された地域共同社会において、人びとはサービスの客体であると同時に主体にもなりうるような相互援助体系こそ、福祉的人間観から発展する新しい社会福祉体系である。その体系のなかで社会の果たすべき責任と個人の果たすべき責任とを明確にすることが福祉教育の第三の目的である。(35ページ抜き書き)
〇「民俗としての福祉」は、岡村の着想を手がかりに、今後洗練されるべき「形成途中の概念」(岡田哲郎)であると評される(福山清蔵・尾崎新編著『生のリアリティと福祉教育』誠信書房、2009年3月、180ページ)。また、「生活主体者の論理」を強調する岡村理論には、地域福祉の主体形成や福祉教育についての論究がほとんどみられないと言われる。そんななかで、「生活の知恵」「生活の工夫」としての「民俗としての福祉」という概念の明確化を図る。個人の社会生活の実態を生活者の目線に立ち、国の政治や経済とは別の角度や位相から捉え直す。そして、それを基底として地域住民の「相互援助の地域共同社会」に対する理解やそれに基づく行動のあり方を問う。それがいま、「福祉教育」実践や研究に改めて求められるひとつの歴史的・社会的視点や認識であろう。岡村の「民俗としての福祉」と「福祉教育の目的」の「1976年論文」は、その点においても注目すべき論稿(論考)である。「民俗としての福祉」と「(市民)福祉教育」の親和性・関連性に留意したい。
〇「人間(「民」)が遺伝的に獲得したもの以外はすべて文化」であり、「俗」である。それゆえに、民俗学はすべての学問の基底に位置づく。民俗学は非普遍や非主流、非中心などの民俗事象を研究対象とする。それゆえに、民俗学は「グラスルーツ(草の根)の学問」とも呼ばれる。また民俗学は、普遍や主流、中心などとされる側の基準によって形成された知識体系を相対化し、それを乗り越える知見を生み出そうとする学問である(島村恭規、30、256ページ)。「民俗としての福祉」の延長線上に「福祉民俗学」が構想されるとすれば、それは一面においてこうした民俗学に通底するものであろう。そしてそこに、生活主体者としての一般市民に対する福祉教育の新たな論理が見出される、あるいは見出すべきであろう。
〇なお、「福祉民俗学」を提唱するひとりに柴田周二(しばた・しゅうじ)がいる。柴田にあっては、「『福祉民俗学』を提唱する主たる理由は、福祉文化の基礎としての自立と協同の人間関係の根底に存在する、福祉をうけることを権利とする個人の協同を支える小集団をいかに形成するか、あるいはそれが形成されるための課題は何かを探究することである」(『福祉文化研究』Vol.24、日本福祉文化学会、2015年3月、63ページ)。別言すれば柴田は、「福祉社会を支える福祉文化の基礎を個人の自立と協同の人間関係とそれを支える小集団の形成に求め、福祉文化のあり方を、制度面だけでなく、人々の生活態度の面から考察する学問を『福祉民俗学』として位置付け、その方法と課題について」考察する(『人間福祉学研究』第10巻第1号、京都光華女子大学、2017年12月、8ページ)。
〇また、六車由実(むぐるま・ゆみ)は、「介護現場は民俗学にとってどのような意味をもつのか?」、「民俗学は介護の現場で何ができるのか?」という二つの方向性から問題提起をしようとして「介護民俗学」を掲げる。その際の問題意識のひとつは、「民俗研究者が地域で行っている聞き書きや調査が、地域の高齢者の介護予防につながる地域資源になりうるのではないか」ということにある(『驚きの介護民俗学』医学書院、2012年3月、6、227ページ)。本稿の最後に、六車の次の一節を引いておくことにしたい。
これまで民俗学は、地域の民俗の保存とそれを使った地域活性化という点で、地域づくり、まちづくりには積極的に関わってきた。高齢化がますます進み、在宅介護が地域における切実な問題となる今後は、このように高齢者が地域で暮らしていくことを支える介護予防事業に関わっていくことが、実践的な学問である民俗学に対して求められていくのではないだろうか。/だが、一方で私は、「介護予防」という言葉に少なからぬ違和感を覚えている。/介護予防という言葉には、介護は予防されるべきもの、という考え方が露骨に反映されている。/要介護状態になることは人間にとっては誰しもが迎える普遍的なことであり、(中略)介護を問題化するのではなく、介護を引き受けていく社会へと日本社会を成熟させていく(ことが必要である。)/そこで私は、「介護準備」という言葉を使ってみたい。(227~228ページ)
付記
阪野貢「『民俗としての福祉』×『福祉教育の目的』―岡村重夫の『1976年論文』―」市民福祉教育研究所ブログ〈ディスカッションルーム〉(90)2021年3月23日アップ。
阪野貢「『民俗としての福祉』と『福祉教育の目的』―岡村重夫の『1976年論文』を起点に―」『ワンポイントメモ35+3 まちづくりと市民福祉教育―視点と論点―』(追補版)市民福祉教育研究所、2022年7月、8~13ページ所収。
草稿「まちづくりと市民福祉教育」
―大橋謙策と岡本重夫の福祉教育論に学ぶ―
発 行:2025年12月30日
著 者:阪野 貢
発行者:田村禎章、三ツ石行宏
発行所:市民福祉教育研究所




