市民主権・市民自治と市民福祉教育

1995〈平成7〉年7月施行の地方分権推進法や2000〈平成12〉年4月施行の地方分権一括法などによって、地方分権改革が推進されている。それは、明治維新、戦後改革に次ぐ「第3の改革」ともいわれる。2011〈平成23〉年5月と8月、2013〈平成25〉年6月には、「地域の自主性及び自立性を高めるための改革の推進を図るための関係法律の整備に関する法律」(第1次一括法、第2次一括法、第3次一括法)が公布・施行された。こうした地方分権改革は、国から独立した地方公共団体が自らの権限と責任において、自主的・自発的な地方行政を行う「団体自治」の強化を求める。とともに、地域主権や住民(市民)主権の確立のもとで、住民(市民)主導・優位のまちづくりをめざす「住民自治」(「市民自治」)の推進を必要不可欠とする。
本論に先立ちここで、上述のうちから、ひとまず次の文言をめぐって若干のコメントを付しておきたい。「主権」とは、他に譲ることのできない、また他から侵されることのない最高の自己決定権。「住民」(residents)とは、県民や市・町・村民など、一定の行政区域に住んでいる人。「市民」(citizen)とは、市民社会や公共性などについての理解と関心のもとに、まちづくりへの主体的参加と協働を進めることができる人。「住民」は、生涯にわたる教育・学習によって、また相互交流や実践活動などを通して「市民」へと自己変革、自己変容する。「市民主権」「市民自治」は、単なる理想概念ではなく、未だ不完全であるが、未来に向かって実現せんとする規範概念。すなわちこれである。
さて、こんにち、国家統治から住民自治へ、ローカル・ガバメント(local government)からコミュニティ・ガバナンス(community governance)、ネイバーフッド・ガバナンス(neighborhood governance)への転換の必要性が指摘され、そのあり方が問われている。国家と国民、自治体(地方政府)と住民の関係は、これまでもっぱら、「支配者」対「被支配者」、「統治者」対「被統治者」という支配的・権力的関係、すなわち「上下の関係」にあった。1990年代以降、地方分権や地域主権が叫ばれ、その改革が推進されるなかで、時代状況は支配からの解放、権力かの自由、すなわち「対等・協力の関係」を求めている。まちづくりの主役である住民が地方政府や行政の運営に参加(参集、参与、参画)する、住民主導・住民優位の自治関係を形成する必要がある。自治体のあり方を決めるのは主権者としての住民一人ひとりであるという住民主権に基づいて、住民自治を充実、発展させていかなければならない。そして、地域社会の持続可能性を確保し、すべての住民にとって安全・安心で、豊かな地域社会の維持・再生を図らなければならない。いま、そうした状況と時期にある。
主権者としての「住民」を名実ともに住民自治の主体として位置づけ、「市民」へと形成、変容させるためには、自治体と住民との支配的・権力的関係を解放する。とともに、住民自らが、単なる行政サービスの顧客や、政治や行政の観客(「観客民主主義」)としてしか関与してこなかったという、これまでの意識の変革や状況からの脱却を図る必要がある。換言すれば、主権者としての住民が、その権利を能動的・積極的に行使することができる仕掛けと仕組みを創造、構築するとともに、一人ひとりの住民が、まちづくりへの参加について自発的・内発的に、主体的・能動的・自律的に意思決定し、行動することが肝要となる。
住民自治とは、平易にいいかえれば、「住民自らが考え、意思決定し、行動すること」である。その際、ある一定の地域を自分(自分たち)の「こと」や「もの」としてのみ考えることは、異質者や外部者を排除する排他主義を生み出す。共生や協働のない自治は、個人主義や利己主義を加速させ、社会的孤立を生む。留意すべき点である。
自治体(地方政府)の意思決定の主体は住民である。住民は、地域のありようを決定する主権者であり、主役である。また、自治体の政策立案・決定・実施は、自治体の首長や議員、行政職員などにその全てが委ねられがちであるが、それらには信託されている限りにおいてその役割や機能を果たすことが求められる。とりわけ、その地域なかでも近隣地域における個別具体的な諸問題や矛盾については、その解決や克服に向けて住民自らが主体的・積極的に、単独であるいは協働して政策を立案・決定し、実施することが必要かつ重要となる。そして、住民には、その自らの決定や行動を自由に実行することができるとともに、その結果については自己責任を負うことが求められる。自己責任の伴わない自治は、身勝手な利己主義や自己中心主義に陥る。これが「住民主権」や「住民自治」(「近隣自治」)の本義である。
ところで、地域の諸問題や矛盾について主体的・能動的・自律的に議論し、決定することができる住民(「市民」)は、果たしてどれほどいるのか。いわれるように、政治や行政、地域が抱える諸問題や矛盾、まちづくりなどに無知、無関心の住民は決して少なくない。その無知、無関心が、権利意識や役割(責務)意識の自覚を妨げている。とはいえ、そうした無知、無関心は必ずしも固定的・不変的なものではない。一人ひとりの住民は、生涯にわたる教育・学習によって意識変革や態度・行動の変容、自治意識や公共心の覚醒や醸成を期待することができる存在である。それも地域(近隣地域)における集団的実践としての参加と討議を通じて可能となる。参加デモクラシーと討議デモクラシーが要請され、その実質化が求められるところである。具体的には、民主的な参加と討議の“場づくり”からはじまり、住民自治のための住民の“意識づくり”、住民自治の推進に取り組むリーダー等の育成に向けた“人づくり”、そしてそれらを実現するための “仕掛けづくり”と“仕組みづくり”などが必要となる。
いうまでもなく、住民自治や近隣自治は、それ自体が目的ではない。それは、すべての住民にとって安全・安心で、豊かな地域社会の維持・再生を図るための手段である。住民自治や近隣自治の推進を図るに際して、手段の自己目的化に陥ることのないよう留意する必要がある。また、住民自治や近隣自治を実現するためには、希薄化した住民間の関係性を再生し、低下した住民間の連帯感や協働意識の醸成・向上を図る。とともに、近隣住民が抱える日常的な地域生活上の諸問題や矛盾に対する理解と関心、それらを解決するための具体的な実践活動や社会運動(市民運動)への主体的・能動的・自律的な参加を通して、地域社会の一員としての当事者(場合によっては、私事として受けとめる当事者性)意識や自治意識の醸成・向上を促す。これらが必要かつ重要となる。
なお、自治意識とは、地方自治や住民自治・近隣自治に関する知識や、自治運営についての関心や意見などをいう。それは、住民の地域・近隣に対する自覚と意識、日常的な地域生活上の必要と要求に支えられるものである。したがって、単なる知的理解だけでなく、具体的な実践や運動(「体験学習」)によって、その醸成・向上が図られることになる。その際、行政の透明性の確保と説明責任の遂行、行政からの住民に対する積極的な情報提供と住民との共有などが必要不可欠となる。
以上の諸点を福祉教育に関していうとすれば、「市民福祉教育」のあり方が問われるとともに、市民福祉教育を具体的に実践・展開する「場」や「機関」「組織」が求められることになる。そのひとつは、従来からの学校や社協、福祉施設、それに公民館などであるが、ここでは「市民活動センター」に注目しておきたい。その際の市民活動センターは、行政主導の市民活動「支援」センターではなく、行政や社協、NPO等の民間組織・団体などによって共同設置され、行政、社協、NPО、住民(市民)などによって共同運営されることが望ましい。そして、そこに、ひとつのプラットホームとして、「市民自治」「まちづくり」「福祉教育」などをキーワードにした「市民福祉教育推進プラットホーム」を形成し、福祉の(による)まちづくりのための市民活動・運動や協働活動の推進を図ることが期待される。そのプラットホーム(「横割りのゆるやかなネットワーク」)を開設・管理・運営するのは、行政、社協、学校、PTA、福祉施設、公民館、自治会・町内会、民生委員・児童委員、NPО・ボランティア団体、保健所、医師会、商工会議所・商工会などになろう。
最後に、イギリスの政治学者であるジェームズ・ブライス(James Bryce)が、その著『近代民主政治』(Modern Democracies,1921年)のなかでいった「地方自治は民主主義の学校である」ということばを思い起こしておきたい。地域の諸問題や矛盾に向き合い、地方自治の実践を展開するなかで民主主義を学ぶことができ、民主主義が育まれる、といった意味である。同様に、「福祉の(による)まちづくりは民主主義の学校である」ともいえようか。その点において、市民福祉教育は、真の自治と民主主義を確立するための教育活動である。
(小滝敏之『住民自治の視点と道程』公人社、2006年。小滝敏之『市民社会と近隣自治』公人社、2007年、等参照)