「民主主義がガラガラ崩れる。私たちは、その下で暮らしているのです」:いま改めて『山びこ学校』を読む―「山びこ」実践の「共同性」「解放制教育実践システム」と「市民福祉教育」を考えるための資料紹介―

〇いま、筆者(阪野)の机の上に4冊の本がある。岩田正美『貧困の戦後史―貧困の「かたち」はどう変わったのか―』(筑摩書房、2017年12月。以下[1])と無着成恭編『山びこ学校―山形県山元村中学校生徒の生活記録―』(青銅社、1951年3月。以下[2])、そして佐野眞一『遠い「山びこ」―無着成恭と教え子たちの四十年―』(文藝春秋、1992年9月。以下[3])、奥平康照『「山びこ学校」のゆくえ―戦後日本の教育思想を見直す―』(学術出版会、2016年2月。以下[4])、がそれである。
〇1945年8月の敗戦(1931年9月の柳条湖事件から始まる15年戦争の終結)によって、すべての国民の生活は「飢餓状態」「絶対的貧困状態」「総スラム化現象」に陥った。[1]は、戦後日本の貧困の「増減」ではなく、その「かたち」の変容を描き出したものである。敗戦直後の貧困の「かたち」は「孤児」「浮浪者」「戦傷病者」「失業者」などであり、現代のそれは「子どもの貧困(ひとり親家庭)」「単身高齢者」「ホームレス」「ネットカフェ難民」などであろう。
〇[1]で岩田はいう。「『自立』支援という政策目標は、個人の怠惰が貧困を生むという、きわめて古典的な理解に基づいている。だが問題は、怠惰ではないのだ。貧困を個人が引き受けることをよしとする社会、そうした人びとをブラック企業も含めた市場が取り込もうとする構図の中では、意欲や希望も次第に空回りし始め、その結果意欲も希望も奪いさられていく。だから問題は、『自立』的であろうとしすぎることであり、それを促す社会の側にある」(324~325ページ)。「貧困の責任を個人が引き受け、貧困を不可視化する市場や企業の日本的な仕組みを変えていくのは困難な道程であろうが、そのような転換なしには、重なり合った貧困はますます社会から遠ざかろうとして、その『かたち』すら明確には見出せなくなるかもしれない。『かたち』が曖昧な貧困の放置は、この社会の不安と分断を不気味に拡大させていくことになるだろう」(326~325ページ)。強く首肯するところである。
〇いま、日本では「民主主義の根幹の破壊」や「教育現場への国家権力の介入」が進んでいる。それは、「公の崩壊」や「政治と行政の歪み」などと指摘される以前の、「主権者は誰か」ということが厳しく問われていることを意味する。日本人はこれまで、厳然と残るタテ社会の人間関係のなかで、真の「主権者」になった経験がないのではないか。そんなことをも思いながら筆者は、何十年ぶりかに、「戦後民主主義教育の金字塔」と評された無着成恭(むちゃくせいきょう、1927年3月~)の[2]を読む気になった。その冒頭をかざるのが、石井敏雄の詩「雪」(1ページ)である。「雪がコンコン降る/人間は/その下で暮しているのです」。山形県の僻地の寒村(貧しい村)で貧困と闘い、たくましく生きた子どもたちの生活綴方、なかでも江口江一の「母の死とその後」(2~18ページ)には胸が締めつけられ、重い痛みを覚える。佐藤藤三郎の「答辞」(岩波文庫版、1995年7月、297~301ページ)には、無着の生活綴方教育実践の神髄に触れる思いがする。
〇ここで、江口の「母の死とその後」と佐藤の「答辞」の全文を紹介しておくことにする。
佐藤藤三郎は江口について述べている。「子供の時に両親を失い、生活の苦労を誰よりも深く知っていた君は、なんとかして、村から貧しさを追放しなければならない、という遠大な夢を持っていた。農業立地に恵まれないわが村をおこすのは、林業以外みちはない、君はひたすらにその信念に生き、すべての行動が、そこにあった」([3]301ページ)。


佐藤藤三郎は無着について述べている。「先生はあの三年間さわがれた自分に耐えきれなくて、本質的に生きるため東京へ飛びだしたんじゃないかという気がするんです。ぼくは、先生がそう正直にいった方がいいと思うな。おれは自分を『耐えられなかった』とはっきりいえる」([3]315ページ)。

〇[2]に併せて、[3]と[4]を読むことにした。[3]は、「教育(教師)と宗教(僧侶)」「栄光と挫折と変節」の間で苦悩した無着と、その後の高度経済成長を底辺から支えた43人の子どもたちの人生の軌跡を描いたルポルタージュである。例えば、無着は、山元中学校に赴任して6年目の1954年4月に退職(「谷間の英雄」の「村からの追放」)し、上京する。1956年4月に明星(みょうじょう)学園に再就職し、27年間にわたって教鞭を執る傍ら、「教育タレント」活動(TBSラジオ「全国こども電話相談室」のレギュラー回答者など)を行った。石井敏雄は、農業や出稼ぎ(土建業)で生計を立て、その後、家族とともに神奈川県に移住している。江口江一は、就職した山元村森林組合で植林活動に腐心するが、32歳になる直前に生涯を終えた。残された長男は6歳、江口が父親を亡くした歳であった。佐藤藤三郎は、農業高校を卒業後、農民と著述家(評論家)として生き、「もの言う農民」(大牟羅良『ものいわぬ農民』岩波新書、1958年2月)として多くの著作を持っている。
〇[4]は、「『山びこ』実践とその思想が、日本の教育実践と理論の質的飛躍の基盤となる可能性をもっていたとするならば、それはなんだったのか。それは戦後教育実践・思想・理論史において、どこにいってしまったのか」(17ページ)を問うものである。それを明らかにするために、「山びこ」実践に対する教育界内外にわたるさまざまな領域の言説を検討し、その議論の跡を丹念に辿る学術書(戦後日本の教育思想史研究)である。
〇[4]で奥平はいう。「子どもたちが生活と労働に組み込まれているという点をテコにして、子どもたちを生活と学習の従属者から、学習と生活の主体者に転換していく教育、それが『山びこ』実践だった」(11ページ)。「『山びこ学校』と生活綴方への情熱は50年代後半になると急速に衰退する。衰退はまず教育研究の領域で、次に教育実践の領域に広がっていった。(中略)どうしてこれほどまでに急速に、『山びこ』実践礼賛から教科・教材研究へと、関心が絞り込まれていったのか(「生活綴方教育の縁辺(えんぺん)化」187ページ)。『山びこ』実践とその生活綴方実践は、今から見れば、一時的に流行した歴史的出来事としておけばいいのか。それとも、やはり戦後教育実践の画期をなすものであり、戦後教育の実践と研究の基本的方向を示す典型だと位置づけ、継承すべき実践だったのか。教育学が理論的賞賛の後に、理論化の努力を中断してしまったように見えるのはどうしてか。賞賛を持続するにせよ、そこから離れるにせよ、戦後実践史における位置づけができずに経過していったのはどうしてか」(8ページ)。これらの指摘は、生活綴方教育実践に今日の福祉教育実践の視点や枠組み、側面や要素が含まれていたのではないかと考える筆者にとって、興味深い。福祉教育の実践と理論のより一層の進展を図る過程で、常に留意すべきところである。民主主義が危機にさらされ、アクティブラーニングをめぐる空疎な議論やコミュニティ・スクールの無批判的な導入が進められている今日において、なおのことである。
〇以下では例によって、[4]から、「市民福祉教育」の実践や研究に「使える」論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。本稿のサブタイトルの意味はここにある。

教育は、歴史的・社会的で具体的な生活課題に立ち向かう子どもに、文化の継承と批判・抵抗・革新(「文化伝達と文化革新」)を促す営みである
教育という営みは疑いもなく子どもを既成文化の枠組みの中に取り込むことである。しかし教育の成功によって既成文化に取り込まれた子どもたちは、他方ではその既成文化の改革者になるように期待されてきた。文化の継承者であることと文化の革新者であることを共に実現する教育という難問、あるいは文化革新の方法を内にもつ文化継承の方法の発見という難題が、教育・学習の思想にはつきまとっている。
子ども時代は既成文化の徹底した受容・継承者に、一人前になったら文化革新者にという常識的な実践的考え方は、それなりに有効に働いているのだが、そこでは継承者から革新者への転換過程が教育学的考察の外に放り出されて、偶然に委ねられている。支配的文化に悪の浸透する危険がある社会においては、文化伝承と文化批判・抵抗・革新との転換あるいは関係の実践は、教育的計画として構想されなければならない。「山びこ」実践の継承に固執したいくつかの教育思想は、文化継承・革新問題にどのように悪銭苦闘したか。(18ページ)
子どもたちは歴史的具体的生活課題に立ち向かいつつある生活主体だという「山びこ」実践の基盤となっていた視点を、どこかに置き忘れてしまった。(335ページ)
教育が社会的統制であることは避けられない。しかし教育のその場において、その「社会」統制を「子ども」・学習者の歴史的生活的主体形成過程に絶えず転換する、そのような実践と制度のあり方を求め続ける教育思想の系譜が生まれていた。その教育思想の系譜を見直す必要がある。(335~336ページ)

「山びこ」実践は、個々の生活問題の主体化と客観化・社会化を通して地域・社会改革を進める、綴方による共同主体形成の取り組みであった
「山びこ」実践では、教師も子どもたちも、自分の生き方・道徳を前面に出して行動し、討論し、教育し、学習し、生活することを課題としていた。
それは、社会改革の既成理論や未来社会構想を鵜呑みにして、自分自身と子どもたちにそのまま受け取らせようとすることではなかった。社会改革=村・地域社会の改革もその未来構想も、無着自身にとって、いまだ未知の探究課題だった。無着のしたことは、生活の現実に子どもたちの目を向けさせ、子どもたちに生活現実が抱えている問題を具体的に発見させ、そして子どもたちと一緒に、村と生活をつくり直していく方法を見つけ出し、その問題解決の実践に参加していくことだった。
したがって「山びこ」実践によって形成されつつあったのは、山村社会の改革を担おうとする教師と子どもたちの共同主体だった。そして生活綴方と文集は、生活現実の認識・分析と村や学級の交流と共同を支え、促進する強力な手段だった。(70ページ)
「山びこ」学級は、教師と生徒が一緒になって、生活と学習の共同体をつくっている。そこには、多様なレベルの主体性をもつ子どもたちと教師がいて、その多様なレベルの主体が集まっていた。それら多様な主体は、無着を頂点とする共同主体となっていた。その共同主体の中で、対話、討論、協同活動・行動・遊びなどを通して、個別の主体が承認され、矛盾を醸成し、一層高いレベルの主体へと発展していく。「山びこ」実践はそういう構造をもっていたと見ることができる。個別の未熟な主体性を認め、受け入れるという指導者無着の姿勢は、子どもたちそれぞれみんなの姿勢と見方になっていった。(74ページ)

「山びこ」実践には、「解放制教育実践システム」として、限定化した「子ども」と「社会」を現実のそれに帰還(螺旋的展開)させる機能が働いていた
どのような教育システムであれ、教育を意図し計画するためには、無限に複雑多様な現実をそのまま取り込むことはできない。一定の視点をもって「子ども」と「社会」とを限定して構成して、教育の要素とせざるを得ない。学校教育がその教育計画において想定する「子ども」と「社会」は、現実の子どもと社会そのままではあり得ない(159ページ)
「山びこ」実践が従来の教育実践と異なるところは、実践それ自体のなかに、絶えず現実に生活する子どもに帰り、その子どもの現実生活に帰って、「子ども」と「社会」を更新し続ける実践システムになっていたことである。現実の子どもと社会への帰還を実現する主要な方法的回路になったのが、「山びこ」実践の生活綴方だった。
現実の子どもと社会に立ち帰って、狭い枠組みの内に切りつめられた「子ども」と「社会」を拡張し、子どもたちが納得する新しい「子ども」と「社会」へと更新しつづける教育システム成立の可能性を「山びこ」実践に見ることができる。そのように、現実の子どもと社会への帰還のルートをもつものを「解放制教育実践システム」と呼び、現実への帰還の制度・方法をもたず内部完結するものを「閉鎖制教育実践システム」と呼んで区別することができる。(159ページ)
(無着は、)「子ども」が現実生活の課題を背負って生活主体として学校で学習し生きることができたこと、それがいかに貴重で特色のある実践システムだったかということ、それを理解していなかった。そのために無着は数年の悪戦苦闘の後に、自身の直観と情熱によって切り拓いた教育実践の解放制システムという特色を放棄し、在来型の閉鎖制システムの範囲の実践に落ち着いてしまった。それは無着だけに生じた選択ではなくて、1950年代後半以降から60年代に続く日本の教育界の多勢に生じた選択でもあった。(160ページ)

教育は、人間形成の生活的総合性と全体目的について自覚的であり、個別領域における妥当性だけを追求する「局部的合理主義」に陥ってはならない
戦後教育学の代表的担い手の一人である宮坂哲文も、生活綴方教育実践への世間の興奮が冷めた後でも、生活綴方教育の意味を高く評価し続けた一人だった。(240ページ)
宮坂は徹底した生活教育論者だった。その「生活」は子どもの具体的で身近な生活から、子どもの所属する集団と全体社会の生活まで、全生活を意味した。その全生活過程が必要とする人間形成の有機的部分として学校の教育・学習・訓練は存在する、と見たのである。現実の子どもと子どもが生きる社会との諸関係の総和が、子どもの人間形成過程である。学校の教育過程はその一部であり、教科指導や生活指導はさらにその一部である。そうした総合的生活連関、言いかえれば人間形成の生活的総合性から切り離されて教育の目的・過程・方法・技術が設定されるとき、局部的合理主義に転落する危険が生れる。生活綴方的教育方法は子どもの具体的生活に即して教育を更新していく道筋をもっている、と宮坂は判断していた。(245~246ページ)
学校教育は歴史的社会的生活実践の一環として位置づけられなければならない。宮坂はこの点を重要なことだと考えていた。生活綴方によって、子どもの学校生活は、具体的現実的生活実践全体の一環としての位置を得ることができる。宮坂が教育実践と理論について強く警戒していたことは、教育が向かうべき全体目的についての自覚的反省を忘却し、実践の個別領域に視野を限定し、そこだけで自足する実践と理論になることだった。(251ページ)

〇日本の戦後教育には、「学習者の主体性を主導的性格とする教育実践と教育理論」([4]335ページ)を求める教育思想の系譜があった。それを駆動したのが無着の「山びこ」実践であり、その理論化に取り組んだのが小川太郎や大田堯(おおたたかし)、勝田守一(かつたしゅいち)、宮坂哲文(みやさかてつふみ)らの教育学者であった。また、「山びこ」実践は、鶴見俊輔(つるみしゅんすけ、哲学者)や上原専禄(うえはらせんろく、歴史学者)、鶴見和子(つるみかずこ、社会学者)らの思想に大きな影響を与えた。
〇奥平は[4]で、小川太郎や鶴見俊輔らの多くの、多面的な言説を丁寧に辿り検討することを通して、「山びこ」実践や生活綴方教育実践の未発の「ゆくえ」を描き出そうとする。国や行政、社会組織やシステムなどを民間企業化し全体主義化することをねらって、政治が教育に介入し、教育内容や方法に対する統制が「ドンドン」進められている(「民主主義がガラガラ崩れる」)今日において、である。
〇ここで思い出すのは、江口俊一の生活綴方「父の思い出」([2]26~31ページ。岩波文庫版、47~52ページ)の次の一節である。「みんな父のかえりを待っているところへ舞いこんだものは、昭和二十二年の秋、『戦死をした』という一片の電報だけだった。私はもちろんお母さんも、弟も、としとったばんちゃんも、若いずんつぁ(若いほうのおじいさん)も、家内中みんなが『ちきしょう』と思った。しかし、誰に『ちきしょう』といえばよいのかわからなかった」([2]28ページ)。涙がこぼれる。とともに、真の「主権者」とその教育についての思いを強くする。
〇最後に、「生活綴り方運動」の問題点や弱点を指摘しながらも、『山びこ学校』の理解者であった鶴見俊輔の次の一節を付記しておくことにする(久野収・鶴見俊輔『現代日本の思想―その五つの渦―』岩波書店、1956年11月)。

戦後の生活綴り方運動の新しい頂点をつくった無着成恭の方法は、マルクス主義的であると多くの都会的評論家から批判されたが、その創案者の無着は、マルクス主義の文献とは別個に、プラグマティズムの文献とも別個に、また生活綴り方運動それ自身の文献からさえも別個に、つまりほとんど何の文献の系統にもよらず、山形県山元村の現地の中学生に社会科を教えるというその実際上の問題を解決する努力の中から、直線的に『山びこ学校』という文集をつくったのである。(94~95ページ)
プラグマティズムというのは、行為(プラグマ)が思想に先んじることを主張する立場であるとするならば、生活綴り方運動は、哲学史上のプラグマティズムよりも、もっと徹底的にプラグマティックな運動の形をもっている。(75ページ)
アメリカのプラグマティズムが、哲学書から無意味な議論をおいだすための、「読み方」の方法としてはじめて工夫されたのにたいして、この日本のプラグマティズムは、自分の生活の真実を描くための「書き方」の理論として出発したため、環境に対する働きかけの面が強い。アメリカのプラグマティズムが〔形而上学的迷路に思想が入るのをふせぐためにつくられた〕防禦的プラグマティズムであるのにたいして、生活綴り方運動は、〔生活改善に目をむけさせる〕攻撃的プラグマティズムとなった。(75~76ページ)

付記(その1)
〇無着の[2](1951年6月25日、5版)から、江口江一の「母の死とその後」の全文を重ねて紹介しておくことにする。

〇佐藤藤三郎の「答辞」の全文を、『山びこ学校(新版・定本)』(百合出版、1956年3月初版。1973年6月、増補改訂版第20刷、257~261ページ)から重ねて紹介しておくことにする。

付記(その2)
〇無着成恭および『山びこ学校』関連年譜―奥平康照[4]317~321ページ―