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阪野 貢/「ケア」と「編集」:「弱さ」はそのままで、いまある<傾き>として「輝き」を放つ ―白石正明著『ケアと編集』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、白石正明著『ケアと編集』(岩波新書、2025年4月。以下[1])がある。白石は、自身が手掛けた医学書院(出版社)の<ケアをひらく>シリーズで数々の文学賞を受賞した「名物編集者」「スター編集者」、あるいは「名伯楽」(すぐれた資質を持った人を見抜く力のある人物)などと評される。
〇[1]で白石は、「ケア」と「編集」の関連性をめぐって鋭い視点で深く洞察する。その際、白石にあっては、「ケア」と「編集」は問題点や弱点として評価されてしまう個々の<傾き>をそのままにして、その環境や文脈を変える作業・行為をいう。本人(「図」)を変えるのではなく、その背景(「地」)を変えるという意味でソーシャルワーク的である(「ソーシャルワーク的編集」37~38ページ)。
〇また、[1]で白石は、具体的なエピソードをまじえて、「ケア」にまつわる名著を興味深くガイドする。そのなかで、「自立は依存先を増やすこと。希望は絶望を分かち合うこと」(243ページ)、「自立とは依存先が分散されていることである」(61ページ)という熊谷晋一郎の言葉や、ALS(筋萎縮性側索硬化症)患者の生きる姿から「ただ生きるために生きればいいんだ」(185ページ)、障害を肯定しても否定しても “いま、ここにわたしがいる” ことは確かであり、「評価より存在のほうが強いのだ」(31ページ)という白石自身の言葉などに、改めてハットさせられる。
〇[1]の根幹に位置づけられる思想のひとつは、北海道浦河町にある精神障がい者の生活拠点「浦河ベてるの家」で実践されてきた「当事者研究」に深く依拠している。次の一文をメモっておく(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

➀困りごとを外在化する:「他者経由のアイデンティティ」の尊重
べてるの家では、主語は「自分」ではなく、病を得た客観的な存在としての「当事者」である。そこに自分自身との距離ができる。そして「語り」ではなく「研究」である。自分の困りごとを自分の外に出して、他人事(ひとごと)のようにそのメカニズムを探るのだ。/そして最大の特徴は、当事者研究は「ひとり作業」ではないことである。必ず複数の仲間とやる。障害者運動の先人が、(親や支援者や周囲の人ではなく)「自分のことは自分がいちばん知っている」という地点から切り拓いたのが「当事者主権」という理念だ。その成果を尊重しつつ、当事者研究は「自分のことは自分がいちばん知らない」という前提からはじめる。だから自分ひとりでやるのではなく、仲間と研究する必要がある。/あえて強調すれば、「これがわたしです」と自分の思う自己像を仲間に提示するのではなく、さんざん語りあったのちに、仲間が自分について持った像を「じゃあそれを自分としよう」と後から自分に取り込む。そんな「他者経由のアイデンティティ」を尊重するところが最大の特徴だとわたしは思っている。(21~22ページ)

〇白石にあっては、当事者研究とは、困りごとを抱える当事者に対して専門家が権威主義的・一方的に治療や矯正を行うのではなく、当事者自身が自らの困難や経験を客観的に「研究」し、専門家や仲間たちとともにそのメカニズムを探求する協働的な営み(協同作業)をいう。この営みの意義は、当事者の障害や病気などについての個人的な経験や思いを、信頼すべきデータとして再定義することにある。そして、「自分のことは自分がいちばん知らない」という前提のもとに、他者との「対話」を通じて新たな自己像を構築することになる。

〇➀に加えて、白石の思想的な核心を成す3つの文章を、重複していることを承知の上でメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。そこに通底するのは、問題そのものを解決するのではなく、その問題に対するマジョリティの「モノサシ」や「背景」「分母」を変える、という考え方である。

➁「弱さ」を解放する:見方を変える行為
マイノリティ(少数派)はマジョリティ(多数派)に認められるべくがんばってきたが、もはやこれまでと諦めてうなだれたときに、足下にまったく違ったモノサシが落ちていた。それで測ったみたら、あーらふしぎ、自分は変わらなくてもモノサシを変えればいいのだった。/ここにはちょっとした発見と感動がある。そうした感動に向けて物事の組み換えを行い、モノサシ、つまり分母を変えることを目指すのが、編集という行為ではないのか?!/世間の常識(分母)から外れた人が、ふたたびその分母に合わせて自らを改変するという努力が強調されやすい。でも自分で変えられること、自分でコントロールできることなんてほんの一割くらいじゃないか? それだけをピックアップして「こうすればできます」と言うのは勝手だが、残り九割はコントロールの外にある。/コントロールできない。そんな自由きわまりない世界に生きていると思うと、深々と息ができるような気がする。(75ページ)

〇白石にあっては、個人の「弱さ」は、生産性や効率性、自己決定や自己責任などを問う既存の「モノサシ」(見方)によって測られ、克服すべき問題や排除の対象として位置づけられてきた。そうした既存の価値観や評価軸(マジョリティの「モノサシ」や「分母」)を問い直し、その転換を図ることによって、弱さは克服すべき問題から解放され、その人の存在を特徴づける個性(<傾き>)として再定義されることになる。すなわち、自分を変える努力ではなく、自分を取り巻く社会の既存のルールや評価基準を変えるという発想の転換こそが、より自由な生き方を可能にする。それは、世間の常識(分母)を問い直し、新しい価値観を創造する「編集」という行為に通じるのである。

➂ケアを編集する:「依存」を転換する視座
健康といわれる多くの人は、(中略)多くの依存先(「依存できる物」「依存できる人」など)を持っている。つまり依存症とは、依存先が一つとか二つとか極めて乏しい人のことであり、言ってみれば「依存症の人は依存が足りない」のである。/弱さや依存は「克服すべきもの」という問題設定のままであれば、弱さは強さに、依存は自立に変更されなければならない。(62ページ)/なんだかんだ言っても、「現在がよくないから、こうしなければならない」あるいは「現在はよくないが、こうすればもっとよくなる」は、どちらも「現在のままではダメ」なのだ。(63ページ)/(依存症の人が)「これしかない」と考えられているところに「こうも考えられる」という別の補助線を出して、その補助線にしたがってこれまで出ている要素を並べ直すと、景色がガラッと変わってくる。/出された問題に答えるのではなく、その問題自体を組み替えてしまうこと。あるいは、与えられた問題の外に出てしまうこと。ここで述べた例についていえば「弱さ」とか「依存」といった克服されるべき問題――なにより当人がもっとも「克服すべき」と思っている問題――に別の光を与えること。/それは編集という仕事そのものだと思う。(63~64ページ)

〇白石にあっては、依存症は依存のしすぎではなく、人や物、仕事や趣味などの依存先(依存できる対象)が少ない状態をいう。その状態を「克服すべきもの」として理解するのではなく、新しい視点・視座(「補助線」)で捉え直すことによって異なった意味や価値を引き出すことができる。例えば、「依存先を増やす」という視点に転換することによって、その人が抱える問題の本質は「依存のしすぎ」ではなく、「依存の不足」であると再定義される。このような「編集」こそが、問題解決の本質であり、「ケア」そのものである。その意味において、「ケア」と「編集」は本質的に類似した行為であると言えるのである。

➃「輝き」を引き出す:背景を変える編集術
(この本の執筆)当初は「ケアと編集は近い」という感覚だけはあったが、どこがどう近いのかはよくわからなかった。そこでいつも著者に言うように「それを探すために書くんですよ!」と自分に言ってみたら、どこかでシフトチェンジが起きたらしく、どうにか書き終えることができた。/今、ケアとは何か、と聞かれたらこう答えるだろう。/「それ自身には改変を加えず、その人の持って生まれた<傾き>のままで生きられるように、背景(言葉、人間関係、環境)を変えること」と。/編集もおそらく似たような行為なのだろう。文章に改変を加えるより先に、その人や文章の<傾き>が輝きに変わるような背景(文脈、構成)をつくっていく作業が編集の本態ではないか。そうしたやり方を、わたしはケアする人たちから学んできた。そして、それ以外の編集のやり方をわたしは知らない。(240ページ)

〇白石にあっては、ケアの利用者や個々の文章が持つ固有の<傾き>(利用者の個性、文章の癖など)を問題点や改変すべきものとしてではなく、その人や文章の重要な特性として尊重し、受け容れる。しかも、そのものに直接的な改変を加えるのではなく、その<傾き>に新たな価値や独自の魅力(「輝き」)が引き出されるよう、その背景や文脈を変える・整えることが重要となる。すなわち、その人や文章の「輝き」を引き出すために、周りの環境や構成を変えるというその作業・行為こそが、「ケア」と「編集」に共通する重要なそれであり、その本質である。

〇白石の思想を端的にいえば、「弱さ」の肯定である。そしてそれは、その「弱さ」を哲学的・実践的に、個人や社会の関係性の源泉として見直し、捉え直すことを促すものである。
〇ここで、以上の視点・視座や言説を「まちづくり」に引き寄せて一言する。白石の思想は、「まちづくり」にも大きな示唆を与える。➀まちづくりは、地域・住民が抱える困りごとを、あたかも他人事のように客観的な「研究」対象として取り扱うことによって、感情に流されることなく、問題の本質やメカニズムを冷静に分析できるようになる。➁まちづくりは、地域・住民の「弱さ」や「課題」を「克服すべき問題」としてではなく、それを「特性」として捉え直し、新しい価値観でそのまちを再定義することによって、より豊かで持続可能なものになる。➂まちづくりは、地域・住民の「克服すべき問題」を新しい視点・視座(「補助線」)で捉え直し、それぞれの「依存先」を分散させる仕組みを創ることによって、地域・住民の課題解決能力を高めることになる。➃まちづくりは、地域・住民の固有の<傾き>(人間関係、環境など)を弱点として消し去るのではなく、それを活かせる背景を「編集」することによって、その魅力を引き出し、創り出すことになる、などがそれである。付記しておきたい。

老爺心お節介情報/第75号(2025年9月8日)

「老爺心お節介情報」第75号

地域福祉研究者の皆様
社会福祉協議会関係者の皆様

お変わりありませんか。
「老爺心お節介情報」第75号を送ります。
ご笑覧下さい。

2025年9月8日   大橋 謙策

〇白露を過ぎたというのに、酷暑が続きます。それでも、虫の音が聞こえ、何となく秋の気配を感じるようになりました。
〇我が家の家庭菜園では、夏の作物に感謝し、畑を整地して、三浦大根の種まきをしました。また、今年はじめて、ヒガンバナ(りり)の球根を植えてみましたが、果たし咲くのかお彼岸頃が待ち遠しいです。
〇皆様には、酷暑を乗り越えて、元気にお過ごしでしょうか。
〇今号は、畏友阪野貢先生に請われて書いた『「そのときの出逢いが」――私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い』①を載せました。
〇編集してくれたあとの正式なものは、阪野貢先生のブログ「市民福祉教育研究所」の「大橋謙策の福祉教育論」の中に「第10巻 「そのときの出逢いが」――私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い」が掲載されていますので、それを参照してください。〔⇨市民福祉教育研究所。 ⇨「大橋謙策研究 第10巻」
〇今回は、日本社会事業大学に在学中の方々との出逢いを書いていますが、今後1970年代、1980年代、1990年代という具合に、年代ごとに私を育ててくれた方々との出逢いを徒然なるままに書いていきたいと思っています。
(2025年9月8日記)

『「そのときの出逢いが」――私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い』①

(はじめに)

〇本稿は、私の畏友阪野貢先生が主宰する「市民福祉教育研究所」が開設しているブログの中の「大橋謙策の福祉教育」というコーナーに、大橋謙策の地域福祉実践・研究を形成する上で影響を与えた「その人との出会い」を書いて欲しいとの要請を受けて書いている。
〇当初、その話を受けた時、そんな大それたものは書けないと受ける気はなかった。しかしながら、その話は何となく私の脳裏を去らず、ならば恩師と言える方々の多くを見送る「偲ぶ会」を幾度となく行ってきたので、その際に書いた弔辞や「送る言葉」を転載して貰えばいいかと考え直し、阪野貢先生の申し出を受けることにした。
〇しかし、いざ資料をまとめているうちに、弔辞や「送る言葉」だけでは、私の人生史の一部であり、大橋謙策の地域福祉実践・研究を形成する上で影響を与えてくれた方々、その方々の言葉、提供頂いた実践現場を反映したものにはならないと考え直し、書下ろしで阪野貢先生の期待に沿いたいと思い書き始めた。
〇本稿のタイトル「そのときの出逢いが」は栃木県足利市在住の書家、詩人である相田みつおの日めくりカレンダーから拝借したものである。
〇相田みつおは「そのときの出逢いがー出逢い、そして感動 人間を動かし 人間を変えてゆくものは むずかしい理論や理屈じゃないんだなあ 感動が人間を動かし 出逢いが人間をかえてゆくんだな・・・」と書いている。
〇まさに、本稿はその人との出逢いによって私が教えられ、私を育ててくれた方々とのエピソードを断片的ながらつれづれなるままに書いて阪野貢先生との約束の責を果たしたいと思っている。

(註1) 筆者と相田みつおとの出逢いは、1978~79年度に掛けて行われたと栃木県足利市の「地域福祉計画」づくりにおいて、当時足利市母子福祉会の高久富美会長から相田みつおの誌の日めくりカレンダーを頂いてからである。
足利市の地域福祉計画づくりは、栃木県が単独事業として打ち出した「コミュニティ政策」によるモデル事業を栃木県職員であった大友崇義氏(日本社会事業大学の先輩)がやってみないかと持ち込んでくれた調査研究で、当時の日本社会事業大学の若手教員である杉森創吉、京極高宣、佐藤久夫の若手研究者で「日本社会事業大学地域福祉計画研究会」を立ち上げて行ったものである。
(註2) 筆者の蔵書は、東北福祉大学大学院の「大橋文庫」に寄贈したこと、並びに書庫・書斎の資料も断捨離して、現在書斎には筆者が執筆した著書と論文しかない。したがって、本稿で取り上げる方々の氏名や所属等の確認ができない。誤った表記があるかもしれないが、あらかじめご承諾頂きたい。

Ⅰ 日本社会事業大学在学中の出逢い

〇筆者は、高校3年生の時に、青年期特有の「人生如何に生きるべきか」という“病”にとりつかれた。ただ、受験勉強する意味を見出せず、進学か就職かも含めて悩むことになる。
〇そんな折、読んだ島木健作著『生活の探求』、『続生活の探求』(角川文庫)に啓発され、日本社会事業大学への進学を考えた。高校の教師も日本社会事業大学という大学を知らず、我が家の家族、親類も苦労した我が家の生活を切り抜け、やっと末っ子の謙策を高校普通科、そして大学に行かせられると思っていたのが、よりよって世間的に通用する大学でなく、存在も名前も知らない大学への進学に落胆しながらも、「人生如何に生きるべきか」に悩んでいた謙策の進路を許容してくれた。まさに、日本社会事業大学への進学は、特別奨学金を頂いての奇人・変人扱いでの進学だった。
〇日本社会事業大学での社会福祉教育は、筆者が期待するような講義ではなく、落胆した。しかしながら、非常勤講師の方々の講義は私にとって有意義な講義であった。講義が詰まらない分、私は学内外の様々な活動に参加し、それがある意味、今日の私を形成させたといっても過言ではない。その一端を「その人との出逢い」ということで述べておきたい。

➀ 1963年4月8日だと記憶しているが、私は日本社会事業大学に入学した。その入学の当日が、朝日茂さんが起こした「人間裁判」の東京高等裁判所の公判の日であった。先輩の矢部広明さん、神原ヒロ子さんに誘われて、公判を傍聴した。
〇その折に、朝日訴訟中央対策員会事務局長長宏先生(当時、日本患者同盟会長、後に日本福祉大学教授)や児島美都子先生(当時、清瀬の病院ソーシャルワーカー、後に日本福祉大学教授)に出会う。両先生は、その後も日本社会事業大学の学生朝日訴訟を守る会の宿泊勉強会などにも参加してくれ、大変お世話になった。その朝日訴訟にかかわることで、神田の古本屋で「ジュリスト」、「判例時報」、「法律時報」等の参考になる判例が掲載されている雑誌を購入して読み、少しは法律への抵抗感が薄れた。
〇筆者が、朝日訴訟の最高裁判決(1967年5月24日、筆者は当時、東京大学大学院社会教育研究室の研究生)が出た後の集会で、生意気にも、これからの社会福祉は、憲法第25条に基づく“最低限度の生活保障”という社会的生存権を言い募るだけでいいのだろうか、それを基本にしつつも憲法第13条の幸福追求権も法源として考えるべきではないかと発言した。
〇予想したことではあったが、日本社会事業大学の小川政亮先生や弁護士からは憲法第13条は実定法を規定するものでなく、理念を謳っているので法源にはできないとお叱りを受けた。その際、長宏先生が、その考え方はとても大事なのではないか。もっと深めて欲しい旨の発言をして励ましてくれた。
〇筆者は、それに力を得て、1960年代から憲法第13条と憲法第25条を法源とした社会福祉のあり方を考究することになり、1970年前後にいくつかの論文でそれを提起した。社会福祉を「ソーシャルウエルフェア」と捉えるのではなく、「ウェルビーイング」と考える必要性を考えた。

➁ 日本社会事業大学1年の夏、先輩の板垣恵順さんに誘われて、神奈川県立中里学園(児童養護施設)のボランティア活動をすることになった。
〇その際、中里学園の時任園長が、私に女子部の顔写真付きのカードを寄越し、明日までに50人近くの女子部の子どもたちの名前を覚えなさい。それができないなら、明日からボランティア活動をしなくていいですと言われた。
〇時任園長は、社会福祉を学び、それを職業にしようとするならば、自分が関わる人の名前を覚えることが必要不可欠で、必須なことなのだと教えてくれた。
〇覚えるのに丸暗記したのでは覚えきれない。その児童のカードを見て、特徴的なことと名前とをリンクさせることで名前を思い起こすことができる。出身地とか、得意の分野とか、入所に至る経緯とかをリンクさせて覚えると、すぐ名前が出てこなくても話をしているうちにリンクした項目から名前を思い起こすことができた。
〇“よく大橋さんは人の名前を覚えるね”と言われることが多いが、それは時任園長のお陰である。社会福祉において、人間尊重というならば、その人の名前を覚えることが基本であるということを教えられた。

➂ 日本社会事業大学は大阪社会事業短期大学、日本福祉大学、東北福祉大学の社会福祉系大学4校で「社会福祉系大学学生ゼミナール」(?)というものを組織していて、毎年秋に交流セミナーを開催していた。
〇当時は、孝橋正一著『社会事業の基本問題』が一世を風靡していて、それを読まないものは社会福祉系大学の学生たる資格なしという勢いであった。私は、それを読んだが、どうもおかしいと感じた。貧困問題は単なる経済的貧困問題だけでなく、様々な生活のしづらさがあるのに、それをすべて資本主義のなせる業であるかのような論述は受け入れがたいものであった。
〇そんな状況の中、「社会福祉系大学学生ゼミナール」が大阪社会事業短期大学を当番校にして大阪の夕陽丘でおこなわれることになった。近くのお寺に寝泊まりしてのゼミナールであった。
〇その折、大阪社会事業短期大学の卒業生で、大阪市の職員であり、西成地区を担当している細川順正さんに、日本三大ドヤ街(山谷、横浜寿町、釜ヶ崎)の一つである釜ヶ崎を案内して頂けることになった。
〇細川さんは、これから私がご馳走する「火薬飯」を食べたら西成を案内してくれるという。「火薬飯」って何ですかと聞くと関東の五目飯のことだという。出された「火薬飯」は脂ぎった炒飯のようなもので、とても美味しいとは言えない代物であったが、西成を案内して欲しさに食べた。食べ終わると、細川さんは今あなたが食べた「火薬飯」は他の人たちが残した残飯を炒め直したもので、多くの西成の日雇労働者の常食だと説明してくれた。胃から戻しはしなかったが、決して気持ちいいものではなかった。細川さんは、その後大分大学の経済学部の教員に転出された。

➃ 奇人・変人扱いを受けて入学した日本社会事業大学ではあったが、社会福祉教育の講義は正直言って面白くなかった。救われたのは、非常勤の先生方の講義科目で、高校までとは違う“ものの見方、考え方”を教えられた。
〇大学2年の基礎ゼミで、小川利夫先生のゼミを選択した。テキストはカール・マルクスの『経済学・哲学草稿』であった。この本の輪読は、社会科学的思考というものがどういうものであるかということと、人間とは何か、人間性とは何か等いろいろ考える機会が与えられた。
〇3年時の専門ゼミでも小川利夫ゼミを専攻し、コンドルセ著、松島鈞訳『公教育の原理』(明治図書出版)を読んだ。コンドルセの思想を学ぶ中で、フランスの自由、平等、博愛の位置づけを考える機会となり、福祉教育の重要性に気が付く。
〇これ以降、小川利夫先生に師事し、研究者の道に進むが、小川利夫先生は面と向かってよくやったとは褒めてくれなかった。ただ、一度だけ褒めてくれたのは私が日本社会福祉学会の公選理事に選出された時、“おまえの社会教育と社会福祉の学際研究が認められた”と言ってくれた時だけである。
〇小川利夫先生の偲ぶ会の時(2007年10月28日)、北田耕也先生(小川利夫先生の東大教育学部時代の学友、明治大学教授、筆者が日本社会事業大学の学長に就任した時、宮原誠一研究室からはじめて学長が出たのは嬉しいとお祝いにお酒の角樽を届けてくれた)等から”小川さんはあなたを褒めていたし、自慢もしていたよ“と打ち明けられたが、小川利夫先生は私が日本社会事業大学の学長に選ばれた時、報告に行ったら、寝たきりの状態で、”お前のようなバカが学長になるとは世も末だ“と言われ、奥様がいろいろとりなしても、”バカはバカだ“と言い張られた。
〇そんなことがあっても、私の人生、研究者生活は小川利夫先生との出逢いがなければ今日の私は存在しない。
〇エピソードは沢山あるが、一つだけ紹介したい。1970年度に東京都教育庁の委託を受けて、三鷹市勤労青年学級を核とした青年調査が行われた。それを手伝ったこともあり、1971年版の『子ども白書』に400字原稿用紙15枚の原稿を書く機会が与えられた。テーマは「労働と教育」であったが、なんと6回も書き直しを命じられた。それまで三鷹市勤労青年学級の実践報告書である『青年学級の視点』には実践報告書を書いてきたけれども、公刊・販売される本への執筆は初めての機会で、論文を書く厳しさをいやというほど訓練された。
〇小川利夫先生からは、例え小論文でも必ず理論的課題を一つは提起しろ、単なる調査報告では駄目だと口を酸っぱくして鍛えられた。その予兆は、先の基礎ゼミで取り上げた『経済学・哲学草稿』に関して小論文を書けと言われた宿題を出した時、私が書いたものへの評価は“これは論文ではありません。作文です”という評価であった。
〇小川利夫先生の研究指導については、拙稿「『硯滴』に学ぶー不肖の弟子の戯言と思い」(『小川利夫社会教育論集第8巻 社会教育研究四十年―現代社会教育研究入門』(亜紀書房、1992年)を参照してください。

(註3) 小川利夫先生は、2007年7月21日に逝去された。享年81歳であった。後日開かれた小川利夫先生の偲ぶ会で述べた「お別れの辞」である。「小川利夫先生を偲ぶー強靭な理論とおおらかな人柄に思いを馳せて」所収「お別れの辞」
(註4) 『小川利夫語録』
(註5) 社会科学の学びということで、筆者が東大大学院の時代、小川利夫先生や後述の小川正美先生、大学院の黒沢先輩(後の長野大学教授)らと毎月「マルクス・エンゲルス全集」(大月書店)、「レーニン全集」(大月書店)の輪読会を筆者の下宿先である世田谷区烏山の8畳間でおこなった。近くの魚屋に大皿の刺身盛りを頼んでおいて、輪読会が終わると毎回酒盛りで談論風発の気炎をあげた。

➄ 日本社会事業大学在学中での出逢いで忘れられない先生がいる。都立大学の先生で、日本社会事業大学に非常勤で来られていた教育学の山住正巳先生(後の都立大学総長)である。
〇山住正巳先生は、小川利夫先生や堀尾輝久先生(後に東京大学教授)等の先生と交遊があり、飲み仲間であり、教育科学研究会の中核的メンバーであった。私は、小川ゼミで教育学にも関心を寄せていたので、当時、月刊雑誌『教育』(国土社)に連載されていた勝田守一先生(戦後教育学の3Mと呼ばれた一人。東大教育学部社会教育学の恩師の宮原誠一、東大教育学部教育行政学の宗像誠也、東大教育学部教育哲学の勝田守一の3人)の論文を輪読・研究する「日本社会事業大学教育科学研究会」を立ち上げ、学友と毎月勉強会をしていたが、なんと山住正巳先生は手当も交通費も出ないのに、その研究会に参加してくれ、指導してくれた。それどころか、時には自宅にまで呼んで頂いて、小児科医の奥様の手料理でもてなしてもしてくれた。
〇山住正巳先生には、東大大学院教育学研究科の勝田守一先生の教室に進学しろと勧められたが、地域づくりの実践に関する関心もあって、宮原誠一先生の門を叩くことになった。
〇人の出逢いとは面白いもので、恩師の宮原誠一先生の次男宮原伸二先生(東北大学医学部出身の医師で、秋田県象潟町、高知県西土佐村で地域包括ケアのさきがけの実践をされた医師)と1990年代後半に出会った。宮原伸二先生は、当時、岡山県の旭川荘の医師で、その後川崎医療福祉大学教授になるが、筆者も川崎医療大学大学院の非常勤講師をしたこともあって、意気投合し、岡山県医師会の包括ケア研究会とかで全国地域包括支援センター協議会の会長をされた青木医師も交えて、岡山でよく飲んだ。
〇山住正巳先生からは、都立大学に社会福祉学科が開設されるときにも来ないかと声を掛けて頂いたが、それも叶わなかった。
〇山住正巳先生は、筆者の最初の単著『地域福祉の展開と福祉教育』(1986年、全社協出版部)を上梓した際、恵贈させて頂いたが、その時に筆者が「まえがき」で、“本書は 学術論文というよりも実践的研究書という方が当たっているかもしれない”とやや卑下したものの言い方をした記述した部分に触れ、“空理空論的学術書”より、“実践的研究書”の方が大事で、教育学や社会福祉学の研究方法について心得違いをしているのではないかと厳しく諭された。この指摘は、私の研究方法、研究姿勢に大きな影響を与えた。

➅ 日本社会事業大学在学中の出逢いで忘れられない人物の一人が長野県下伊那郡阿智村の岡庭一雄さん(当時公民館主事、その後、村長になり、住民参加の手作りの村づくりを16年間務めた)である。
〇1966年2月に、小川利夫先生が講演する機会に同道させて頂き、阿智村教育委員会で日本社会事業大学の実習をさせて頂いた。その後、約2か月かけて、長野県下(喬木村、松川町、茅野市、中野市、須坂市、山之内町)の社会教育主事を訪ね、実習をさせて頂いた(この件は、「老爺心お節介情報」第68号に書いてあるので、参照)。
〇この実習で学んだことは①保健、医療、社会福祉、社会教育の連携が地域づくりには必要なシステムであること、②住民の意識変容は、“上から目線”での高邁な理論の学習ではなく、実際生活に即した文化的教養を高める(社会教育法第3条)ことが必要であり、重要であるということに気付きさせてもらったことである。
〇筆者は、阿智村で実習の後、喬木村教育委員会の社会教育主事の島田修一さん(後の東大教育学部助手、中央大学教授)の下で実習をさせて頂いた。島田修一さんがその後不当配転になり、社会教育主事を追われるが、その撤回を求めて闘争に入り、その支援のために喬木村にはよく通ったものである。
〇喬木村での実習の際には、同じ喬木村教育委員会の小原玄祐さんの曹洞宗・淵静寺に泊めて頂いた。奥様の小原道子さんには本当にお世話になった。
〇実習の時ではないが、東大大学院時代(月に1回程度の割合で、夜行列車に乗って、喬木村を訪ね、青年団や婦人会(当時)の学習会に参加していた)に淵静寺に泊まった際、戦前の華族であり,礼法小笠原流家元の小笠原忠統先生(当時、長野県立松本図書館長、後に相模原女子大学教授)と一緒になることがあった。何かの折に、私に座右の銘をあげようと小笠原先生と小原玄祐さんとが話をされ、「自未得度 先度他」という道元禅師の教えの「修証義」第4章に出てくる一節を「座右の銘」にして生きろと諭された。それ以来、私はこの語句を「座右の銘」としてきた。
〇小笠原忠統先生は手紙を巻紙でくれる先生、その後相模女子大学に来ないかと招聘を受けたが、その時には女子栄養大学に助手の採用が決まっていたので、お断りをした。

➆ 日本社会事業大学4年の時に、小川利夫先生の紹介で、三鷹市教育委員会の小川正美先生と出会うことになる。
〇小川利夫先生と小川正美先生との出会いは、東京学芸大学で行われていた「社会教育主事養成課程」での講師と受講生の関係が始まりであるが、お二人とも「三多摩社会教育研究会」に所属し、肝胆相照らす仲になる。
〇小川利夫先生は、日本社会事業大学の学生で生活困窮の学生にアルバイト的味合いも含めて、小川正美先生が担当している三鷹市勤労青年学級(前身は三鷹市青年実務学校)の講師補佐の名目で送り込んでいた。
〇筆者もその一環で、1966年度(学部4年生)から講師補佐になり、1967年度からは勤労青年学級の社会コース担当の講師に任命される。
〇1967年度の勤労青年学級の実践報告を『青年学級の視点』として出すので論文を書けと言われ書いた。自分が担当する「社会コース」の実践記録だけでなく、勤労青年学級のあり方、考え方についても書けといわれ、苦労しながら書いた。この作業を通じて、実践において講師なりの「実践仮説」が重要であるし、学習者理解が欠かせないことを訓練させてもらった(「老爺心お節介情報」第62号の「我が青春譜―東京都三鷹市勤労青年学級での10年間の学びと交流」を参照)。

➇ その他在学中で出逢った方々で忘れられない方は、三浦三郎先生と渡部剛士先生である。
〇学部4年の夏(1966年8月)、小川利夫先生に、“大橋君をよろしく”と一筆書いて押印した名刺を頂いて、山形県社会福祉協議会の渡部剛士先生(日本社会事業大学の卒業生、第2次世界大戦での特攻隊(?)の生き残りの方。山形県民謡「最上川舟歌」を朗朗と謡う人。後に事務局長、更には東北福祉大学教授)と三浦三郎先生(戦前の社会事業主事、東京の下町にあるセツルメントハウス興望館の主事、戦後秋田県社会福祉協議会の事務局長)を訪問した。
〇三浦三郎先生には、自宅に泊めて頂き、竿灯まつりまで見学させて頂いた。その後も、いろいろな機会に指導を賜った。
〇三浦三郎先生は、その後私が日本社会事業大学の教員となり、秋田県に招聘されるたびに、毎回最前列に陣取り、講演を聞いてくれ、終わると講評をして育ててくれた。
〇渡部剛士先生には、山形県田麦畑地区の実践や上山市中川地区の中川福祉村の実践を教えて頂いたり、全社協の「地域福祉計画」委員会の同じ委員として、市町村社協のあり方について教えて頂いた。
(2025年9月7日、白露の日に記す)

大橋謙策/大橋謙策研究 第10巻:「そのときの出逢いが」―私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い―

 


 

はじめに

〇本稿は、私の畏友阪野貢先生が主宰(顧問)する「市民福祉教育研究所」が開設しているブログの中の「大橋謙策の福祉教育論」というコーナーに、大橋謙策の地域福祉実践・研究を形成する上で影響を与えた「その人との出逢い」を書いて欲しいとの要請を受けて書いている。
〇当初、その話を受けた時、そんな大それたものは書けないと受ける気はなかった。しかしながら、その話は何となく私の脳裏を去らず、ならば恩師と言える方々の多くを見送る「偲ぶ会」を幾度となく行ってきたので、その際に書いた弔辞や「送る言葉」を転載して貰えばいいかと考え直し、阪野貢先生の申し出を受けることにした。
〇しかし、いざ資料をまとめているうちに、弔辞や「送る言葉」だけでは、私の人生史の一部であり、大橋謙策の地域福祉実践・研究を形成する上で影響を与えてくれた方々、その方々の言葉、提供頂いた実践現場を反映したものにはならないと考え直し、書下ろしで阪野貢先生の期待に沿いたいと思い書き始めた。
〇本稿のタイトル「そのときの出逢いが」は栃木県足利市在住の書家、詩人である相田みつおの日めくりカレンダーから拝借したものである。
〇相田みつおは「そのときの出逢いが――出逢い、そして感動 人間を動かし 人間を変えてゆくものは むずかしい理論や理屈じゃないんだなあ 感動が人間を動かし 出逢いが人間をかえてゆくんだな‥‥‥」と書いている。
〇まさに、本稿はその人との出逢いによって私が教えられ、私を育ててくれた方々とのエピソードを断片的ながらつれづれなるままに書いて阪野貢先生との約束の責を果たしたいと思っている。

(註1)
〇筆者と相田みつおとの出逢いは、1978~79年度に掛けて行われたと栃木県足利市の「地域福祉計画」づくりにおいて、当時足利市母子福祉会の高久富美会長から相田みつおの誌の日めくりカレンダーを頂いてからである。
〇足利市の地域福祉計画づくりは、栃木県が単独事業として打ち出した「コミュニティ政策」によるモデル事業を栃木県職員であった大友崇義氏(日本社会事業大学の先輩)がやってみないかと持ち込んでくれた調査研究で、当時の日本社会事業大学の若手教員である杉森創吉、京極高宣、佐藤久夫の若手研究者で「日本社会事業大学地域福祉計画研究会」を立ち上げて行ったものである。

(註2)
〇筆者の蔵書は、東北福祉大学大学院の「大橋文庫」に寄贈したこと、並びに書庫・書斎の資料も断捨離して、現在書斎には筆者が執筆した著書と論文しかない。したがって、本稿で取り上げる方々の氏名や所属等の確認ができない。誤った表記があるかもしれないが、あらかじめご承諾頂きたい。

Ⅰ 日本社会事業大学在学中の出逢い

〇筆者は、高校3年生の時に、青年期特有の「人生如何に生きるべきか」という“病”にとりつかれた。ただ、受験勉強する意味を見出せず、進学か就職かも含めて悩むことになる。
〇そんな折、読んだ島木健作著『生活の探求』、『続生活の探求』(角川文庫)に啓発され、日本社会事業大学への進学を考えた。高校の教師も日本社会事業大学という大学を知らず、我が家の家族、親類も苦労した我が家の生活を切り抜け、やっと末っ子の謙策を高校普通科、そして大学に行かせられると思っていたのが、よりによって世間的に通用する大学でなく、存在も名前も知らない大学への進学に落胆しながらも、「人生如何に生きるべきか」に悩んでいた謙策の進路を許容してくれた。まさに、日本社会事業大学への進学は、特別奨学金を頂いての奇人・変人扱いでの進学だった。
〇日本社会事業大学での社会福祉教育は、筆者が期待するような講義ではなく、落胆した。しかしながら、非常勤講師の方々の講義は私にとって有意義な講義であった。講義が詰まらない分、私は学内外の様々な活動に参加し、それがある意味、今日の私を形成させたといっても過言ではない。その一端を「その人との出逢い」ということで述べておきたい。

【1】
〇1963年4月8日だと記憶しているが、私は日本社会事業大学に入学した。その入学の当日が、朝日茂さんが起こした「人間裁判」の東京高等裁判所の公判の日であった。先輩の矢部広明さん、神原ヒロ子さんに誘われて、公判を傍聴した。
〇その折に、朝日訴訟中央対策員会事務局長長宏先生(当時、日本患者同盟会長、後に日本福祉大学教授)や児島美都子先生(当時、清瀬の病院ソーシャルワーカー、後に日本福祉大学教授)に出会う。両先生は、その後も日本社会事業大学の学生朝日訴訟を守る会の宿泊勉強会などにも参加してくれ、大変お世話になった。その朝日訴訟にかかわることで、神田の古本屋で「ジュリスト」、「判例時報」、「法律時報」等の参考になる判例が掲載されている雑誌を購入して読み、少しは法律への抵抗感が薄れた。
〇筆者が、朝日訴訟の最高裁判決(1967年5月24日、筆者は当時、東京大学大学院社会教育研究室の研究生)が出た後の集会で、生意気にも、これからの社会福祉は、憲法第25条に基づく“最低限度の生活保障”という社会的生存権を言い募るだけでいいのだろうか、それを基本にしつつも憲法第13条の幸福追求権も法源として考えるべきではないかと発言した。
〇予想したことではあったが、日本社会事業大学の小川政亮先生や弁護士からは憲法第13条は実定法を規定するものでなく、理念を謳っているので法源にはできないとお叱りを受けた。その際、長宏先生が、その考え方はとても大事なのではないか。もっと深めて欲しい旨の発言をして励ましてくれた。
〇筆者は、それに力を得て、1960年代から憲法第13条と憲法第25条を法源とした社会福祉のあり方を考究することになり、1970年前後にいくつかの論文でそれを提起した。社会福祉を「ソーシャルウエルフェア」と捉えるのではなく、「ウェルビーイング」と考える必要性を考えた。

【2】
〇日本社会事業大学1年の夏、先輩の板垣恵順さんに誘われて、神奈川県立中里学園(児童養護施設)のボランティア活動をすることになった。
〇その際、中里学園の時任園長が、私に女子部の顔写真付きのカードを寄越し、明日までに50人近くの女子部の子どもたちの名前を覚えなさい。それができないなら、明日からボランティア活動をしなくていいですと言われた。
〇時任園長は、社会福祉を学び、それを職業にしようとするならば、自分が関わる人の名前を覚えることが必要不可欠で、必須なことなのだと教えてくれた。
〇覚えるのに丸暗記したのでは覚えきれない。その児童のカードを見て、特徴的なことと名前とをリンクさせることで名前を思い起こすことができる。出身地とか、得意の分野とか、入所に至る経緯とかをリンクさせて覚えると、すぐ名前が出てこなくても話をしているうちにリンクした項目から名前を思い起こすことができた。
〇“よく大橋さんは人の名前を覚えるね”と言われることが多いが、それは時任園長のお陰である。社会福祉において、人間尊重というならば、その人の名前を覚えることが基本であるということを教えられた。

【3】
〇日本社会事業大学は大阪社会事業短期大学、日本福祉大学、東北福祉大学の社会福祉系大学4校で「社会福祉系大学学生ゼミナール」(?)というものを組織していて、毎年秋に交流セミナーを開催していた。
〇当時は、孝橋正一著『社会事業の基本問題』が一世を風靡していて、それを読まないものは社会福祉系大学の学生たる資格なしという勢いであった。私は、それを読んだが、どうもおかしいと感じた。貧困問題は単なる経済的貧困問題だけでなく、様々な生活のしづらさがあるのに、それをすべて資本主義のなせる業であるかのような論述は受け入れがたいものであった。
〇そんな状況の中、「社会福祉系大学学生ゼミナール」が大阪社会事業短期大学を当番校にして大阪の夕陽丘でおこなわれることになった。近くのお寺に寝泊まりしてのゼミナールであった。
〇その折、大阪社会事業短期大学の卒業生で、大阪市の職員であり、西成地区を担当している細川順正さんに、日本三大ドヤ街(山谷、横浜寿町、釜ヶ崎)の一つである釜ヶ崎を案内して頂けることになった。
〇細川さんは、これから私がご馳走する「火薬飯」を食べたら西成を案内してくれるという。「火薬飯」って何ですかと聞くと、関東の五目飯のことだという。出された「火薬飯」は脂ぎった炒飯のようなもので、とても美味しいとは言えない代物であったが、西成を案内して欲しさに食べた。食べ終わると、細川さんは今あなたが食べた「火薬飯」は他の人たちが残した残飯を炒め直したもので、多くの西成の日雇労働者の常食だと説明してくれた。胃から戻しはしなかったが、決して気持ちいいものではなかった。細川さんは、その後大分大学の経済学部の教員に転出された。

【4】
〇奇人・変人扱いを受けて入学した日本社会事業大学ではあったが、社会福祉教育の講義は正直言って面白くなかった。救われたのは、非常勤の先生方の講義科目で、高校までとは違う“ものの見方、考え方”を教えられた。
〇大学2年の基礎ゼミで、小川利夫先生のゼミを選択した。テキストはカール・マルクスの『経済学・哲学草稿』であった。この本の輪読は、社会科学的思考というものがどういうものであるかということと、人間とは何か、人間性とは何か等いろいろ考える機会が与えられた。
〇3年時の専門ゼミでも小川利夫ゼミを専攻し、コンドルセ著、松島鈞訳『公教育の原理』(明治図書出版)を読んだ。コンドルセの思想を学ぶ中で、フランスの自由、平等、博愛の位置づけを考える機会となり、福祉教育の重要性に気が付く。
〇これ以降、小川利夫先生に師事し、研究者の道に進むが、小川利夫先生は面と向かってよくやったとは褒めてくれなかった。ただ、一度だけ褒めてくれたのは私が日本社会福祉学会の公選理事に選出された時、“おまえの社会教育と社会福祉の学際研究が認められた”と言ってくれた時だけである。
〇小川利夫先生の偲ぶ会の時(2007年10月28日)、北田耕也先生(小川利夫先生の東大教育学部時代の学友、明治大学教授。筆者が日本社会事業大学の学長に就任した時、宮原誠一研究室からはじめて学長が出たのは嬉しいと、お祝いにお酒の角樽を届けてくれた)等から”小川さんはあなたを褒めていたし、自慢もしていたよ“と打ち明けられたが、小川利夫先生は私が日本社会事業大学の学長に選ばれた時、報告に行ったら、寝たきりの状態で、”お前のようなバカが学長になるとは世も末だ“と言われ、奥様がいろいろとりなしても、”バカはバカだ“と言い張られた。
〇そんなことがあっても、私の人生、研究者生活は小川利夫先生との出逢いがなければ今日の私は存在しない。
〇エピソードは沢山あるが、一つだけ紹介したい。1970年度に東京都教育庁の委託を受けて、三鷹市勤労青年学級を核とした青年調査が行われた。それを手伝ったこともあり、1971年版の『子ども白書』に400字原稿用紙15枚の原稿を書く機会が与えられた。テーマは「労働と教育」であったが、なんと6回も書き直しを命じられた。それまで三鷹市勤労青年学級の実践報告書である『青年学級の視点』には実践報告書を書いてきたけれども、公刊・販売される本への執筆は初めての機会で、論文を書く厳しさをいやというほど訓練された。
〇小川利夫先生からは、例え小論文でも必ず理論的課題を一つは提起しろ、単なる調査報告では駄目だと口を酸っぱくして鍛えられた。その予兆は、先の基礎ゼミで取り上げた『経済学・哲学草稿』に関して小論文を書けと言われた宿題を出した時、私が書いたものへの評価は“これは論文ではありません。作文です”という評価であった。
〇小川利夫先生の研究指導については、拙稿「『硯滴』に学ぶー不肖の弟子の戯言と思い」(『小川利夫社会教育論集第8巻 社会教育研究四十年―現代社会教育研究入門』(亜紀書房、1992年)を参照してください。

(註3)
〇小川利夫先生は、2007年7月21日に逝去された。享年81歳であった。後日開かれた小川利夫先生の偲ぶ会で述べた「お別れの辞」である。「小川利夫先生を偲ぶ――強靭な理論とおおらかな人柄に思いを馳せて」所収「お別れの辞」

(註4)
「小川利夫語録」

(註5)
〇社会科学の学びということで、筆者が東大大学院の時代、小川利夫先生や後述の小川正美先生、大学院の黒沢先輩(後の長野大学教授)らと毎月「マルクス・エンゲルス全集」(大月書店)、「レーニン全集」(大月書店)の輪読会を筆者の下宿先である世田谷区烏山の8畳間でおこなった。近くの魚屋に大皿の刺身盛りを頼んでおいて、輪読会が終わると毎回酒盛りで談論風発の気炎をあげた

【5】
〇日本社会事業大学在学中での出逢いで忘れられない先生がいる。都立大学の先生で、日本社会事業大学に非常勤で来られていた教育学の山住正巳先生(後の都立大学総長)である。
〇山住正巳先生は、小川利夫先生や堀尾輝久先生(後に東京大学教授)等の先生と交遊があり、飲み仲間であり、教育科学研究会の中核的メンバーであった。私は、小川ゼミで教育学にも関心を寄せていたので、当時、月刊雑誌『教育』(国土社)に連載されていた勝田守一先生(戦後教育学の3Mと呼ばれた一人。東大教育学部社会教育学の恩師の宮原誠一、東大教育学部教育行政学の宗像誠也、東大教育学部教育哲学の勝田守一の3人)の論文を輪読・研究する「日本社会事業大学教育科学研究会」を立ち上げ、学友と毎月勉強会をしていたが、なんと山住正巳先生は手当も交通費も出ないのに、その研究会に参加してくれ、指導してくれた。それどころか、時には自宅にまで呼んで頂いて、小児科医の奥様の手料理でもてなしてもくれた。
〇山住正巳先生には、東大大学院教育学研究科の勝田守一先生の教室に進学しろと勧められたが、地域づくりの実践に関する関心もあって、宮原誠一先生の門を叩くことになった。
〇人の出逢いとは面白いもので、恩師の宮原誠一先生の次男宮原伸二先生(東北大学医学部出身の医師で、秋田県象潟町、高知県西土佐村で地域包括ケアのさきがけの実践をされた医師)と1990年代後半に出会った。宮原伸二先生は、当時、岡山県の旭川荘の医師で、その後川崎医療福祉大学教授になるが、筆者も川崎医療大学大学院の非常勤講師をしたこともあって、意気投合し、岡山県医師会の包括ケア研究会とかで全国地域包括支援センター協議会の会長をされた青木医師も交えて、岡山でよく飲んだ。
〇山住正巳先生からは、都立大学に社会福祉学科が開設されるときにも来ないかと声を掛けて頂いたが、それも叶わなかった。
〇山住正巳先生は、筆者の最初の単著『地域福祉の展開と福祉教育』(1986年、全社協出版部)を上梓した際、恵贈させて頂いたが、その時に筆者が「まえがき」で、“本書は 学術論文というよりも実践的研究書という方が当たっているかもしれない”とやや卑下したものの言い方をした記述部分に触れ、“空理空論的学術書”より、“実践的研究書”の方が大事で、教育学や社会福祉学の研究方法について心得違いをしているのではないかと厳しく諭された。この指摘は、私の研究方法、研究姿勢に大きな影響を与えた。

【6】
〇日本社会事業大学在学中の出逢いで忘れられない人物の一人が長野県下伊那郡阿智村の岡庭一雄さん(当時公民館主事、その後、村長になり、住民参加の手作りの村づくりを16年間務めた)である。
〇1966年2月に、小川利夫先生が講演する機会に同道させて頂き、阿智村教育委員会で日本社会事業大学の実習をさせて頂いた。その後、約2か月かけて、長野県下(喬木村、松川町、茅野市、中野市、須坂市、山之内町)の社会教育主事を訪ね、実習をさせて頂いた(この件は、「老爺心お節介情報」第68号に書いてあるので参照)。
〇この実習で学んだことは①保健、医療、社会福祉、社会教育の連携が地域づくりには必要なシステムであること、②住民の意識変容は、“上から目線”での高邁な理論の学習ではなく、実際生活に即した文化的教養を高める(社会教育法第3条)ことが必要であり、重要であるということに気付かせてもらったことである。
〇筆者は、阿智村で実習の後、喬木村教育委員会の社会教育主事の島田修一さん(後の東大教育学部助手、中央大学教授)の下で実習をさせて頂いた。島田修一さんがその後不当配転になり、社会教育主事を追われるが、その撤回を求めて闘争に入り、その支援のために喬木村にはよく通ったものである。
〇喬木村での実習の際には、同じ喬木村教育委員会の小原玄祐さんの曹洞宗・淵静寺に泊めて頂いた。奥様の小原道子さんには本当にお世話になった。
〇実習の時ではないが、東大大学院時代(月に1回程度の割合で、夜行列車に乗って、喬木村を訪ね、青年団や婦人会(当時)の学習会に参加していた)に淵静寺に泊まった際、戦前の華族であり,礼法小笠原流家元の小笠原忠統先生(当時、長野県立松本図書館長、後に相模原女子大学教授)と一緒になることがあった。何かの折に、私に座右の銘をあげようと小笠原先生と小原玄祐さんとが話をされ、「自未得度先度他」(じみとくどせんどた)という道元禅師の教えの「修証義」第4章に出てくる一節を「座右の銘」にして生きろと諭された。それ以来、私はこの語句を「座右の銘」としてきた。
〇小笠原忠統先生は手紙を巻紙でくれる先生で、その後相模女子大学に来ないかと招聘を受けたが、その時には女子栄養大学に助手の採用が決まっていたので、お断りをした。

【7】
〇日本社会事業大学4年の時に、小川利夫先生の紹介で、三鷹市教育委員会の小川正美先生と出会うことになる。
〇小川利夫先生と小川正美先生との出会いは、東京学芸大学で行われていた「社会教育主事養成課程」での講師と受講生の関係が始まりであるが、お二人とも「三多摩社会教育研究会」に所属し、肝胆相照らす仲になる。
〇小川利夫先生は、日本社会事業大学の学生で生活困窮の学生にアルバイト的味合いも含めて、小川正美先生が担当している三鷹市勤労青年学級(前身は三鷹市青年実務学校)の講師補佐の名目で送り込んでいた。
〇筆者もその一環で、1966年度(学部4年生)から講師補佐になり、1967年度からは勤労青年学級の社会コース担当の講師に任命される。
〇1967年度の勤労青年学級の実践報告を『青年学級の視点』として出すので論文を書けと言われ書いた。自分が担当する「社会コース」の実践記録だけでなく、勤労青年学級のあり方、考え方についても書けといわれ、苦労しながら書いた。この作業を通じて、実践において講師なりの「実践仮説」が重要であるし、学習者理解が欠かせないことを訓練させてもらった(「老爺心お節介情報」第62号の「我が青春譜―東京都三鷹市勤労青年学級での10年間の学びと交流」を参照)。

【8】
〇その他在学中で出逢った方々で忘れられない方は、三浦三郎先生と渡部剛士先生である。
〇学部4年の夏(1966年8月)、小川利夫先生に、“大橋君をよろしく”と一筆書いて押印した名刺を頂いて、山形県社会福祉協議会の渡部剛士先生(日本社会事業大学の卒業生、第2次世界大戦での特攻隊(?)の生き残りの方。山形県民謡「最上川舟歌」を朗朗と謡う人。後に事務局長、更には東北福祉大学教授)と三浦三郎先生(戦前の社会事業主事、東京の下町にあるセツルメントハウス興望館の主事、戦後秋田県社会福祉協議会の事務局長)を訪問した。
〇三浦三郎先生には、自宅に泊めて頂き、竿灯まつりまで見学させて頂いた。その後も、いろいろな機会に指導を賜った。また、その後私が日本社会事業大学の教員となり、秋田県に招聘されるたびに、毎回最前列に陣取り、講演を聞いてくれ、終わると講評をして育ててくれた。
〇渡部剛士先生には、山形県田麦畑地区の実践や上山市中川地区の中川福祉村の実践を教えて頂いたり、全社協の「地域福祉計画」委員会の同じ委員として、市町村社協のあり方について教えて頂いた。

(2025年9月7日、白露の日に記す)

 


 

大橋謙策研究 第10
「そのときの出逢いが」―私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い―

発 行:2025年9月7日
著 者:大橋謙策
発行者:田村禎章、三ツ石行宏
発行所:市民福祉教育研究所

 


大橋謙策/大橋ブックレット 第2号:日韓地域福祉学術交流30年―日韓国交60周年から平和共生の未来に向けて―

 

한일 지역복지 학술교류 30년

―- 한일 국교정상화 60주년과 평화공생의 미래를 향하여―

大橋謙策

시민복지교육연구소

 


 

【その1】

〇立秋が過ぎたというのに、いまだ酷暑が続きます。皆様にはお変わりなくお過ご
しでしょうか。
〇私の方は、7月は各地のCSW研修で東奔西走しましたが、8月に入り、お盆までのんびりと過ごせ、英気を養うことができました。毎日の家庭菜園、庭木への水やりをする他には、週2回ほど地域の囲碁クラブに出かけ、対局を楽しみました。
〇また、このところ筋力の衰えを実感していましたので、8月より近くの民間のスポーツジムNASの会員になり、機器を使って筋力トレーニングを始めました。80歳の筋力は、20歳代の半分だといわれていますので、“年寄りの冷や水”かもしれませんが、チャレンジしたいと思っています。通うのが楽しい日々になりました。
〇8月20日から22日まで、ソウル特別市社会福祉協議会の金玄勲会長(日本社会事業大学の学部、大学院での教え子)の招聘により、韓国・ソウル市を訪問することになりました。
〇当初は、拙著『地域福祉とは何か』を金玄勲さんがハングル語に翻訳してくれ、その出版記念会への招聘でしたが、20年振りくらいに日韓地域福祉学術交流をしようということになり、日本地域福祉研究所からも田中英樹副理事長や原田正樹日本福祉大学学長なども参加されることになりました。
〇学術交流としての訪韓は久しぶりなので、今回の訪問では、金成垣・金圓景・呉世雄編著『現代韓国の福祉事情』(法律文化社、5700円)を読んで、学習していきました。その本を読んでの私の韓国理解の概要を下記にまとめてみましたのでご参照ください。
〇今日は、終戦後80年の節目の日です。今、日本では「排外主義」の主張が高まっていますが、今年は「日韓国交正常化60周年」ですし、「村山談話」発出30周年です。
〇改めて、日本が戦前の軍国主義の時代に行った様々な蛮行に思いを致し、蹂躙された国の方々の辛い、悲しい思いに心を寄せ、二度とあのような蛮行の過ちを繰り返さないためにも国民レベルの平和友好交流を強めたいとしみじみと思いますし、誓いました。
(2025年8月15日、終戦の日に平和共生を祈念して)

Ⅰ 韓国の社会福祉の現状

〇筆者が韓国と学術交流していたのは、1990年代後半のアジア通貨危機の時代から2008年の韓国の介護保険である長期療養保険制導入時代である。
〇1990年代後半に、日本地域福祉研究所を中心に「韓日地域福祉実践研究セミナー」をソウル市、大邱市、釜山市、光州市などで開催してきた。
〇また、日本社会福祉学会会長、日本地域福祉学会会長時代の2000年初頭には学会の学術交流協定や日本介護保険制度に関わる学術交流をしてきた。
〇今回の訪韓は、学術交流としては久しぶりで、この20年間近い期間に韓国の福祉事情が大きく変化してきていることを『現代韓国の福祉事情』を読んで実感した。
〇『現代韓国の福祉事情』の編著者である、東大教授の金成垣先生の論文は大変参考になった。
〇金成垣先生の学説は、韓国の社会福祉・社会保障は、資本主義先進国で確立した従来の「福祉国家」体制ではなく、新しい「社会サービス国家」ともいえるもので、「社会保険でない制度」、「準普遍主義」に基づく政策が展開されているのだと指摘している。それを可能にさせているのが、「総合社会福祉館」、「老人福祉館」、「障害者福祉館」で、そこを拠点に地域福祉活動が展開されているのが特色だとも指摘している。
〇筆者は、日本地域福祉学会会長の時代(2000年代初頭)に「地域福祉実践・研究に関する日本と韓国の学術交流協定」を締結したが、相手の韓国の学会名は「韓国地域社会福祉学会」である。
〇韓国は、その当時、市町村の権限、役割も弱く、市町村社会福祉協議会の位置づけも法的にはない状態だった(韓国の市町村社会福祉協議会が法制化されたのは、確か2021年?)。
〇筆者は、地域福祉における日本との比較研究をする枠組の要は、「総合社会福祉館」等のセツルメント実践の流れである地域福祉施設が重要なのではないかと指摘してきた(ただし、「総合社会福祉館」の設置は人口10万人に1か所が目安)。
〇日本でも、近年の「地域共生社会政策」の中で、子ども、障害者、高齢者を問わず誰もが通い、集い、時には泊まれる全世代対応型の「小さな拠点」の設置の必要性がうたわれ、既に高知県などにおいて「ふれあいあったかセンター」の実践が、限界集落、人口減少地域で大きな成果を上げていることを考えると、韓国の「総合社会福祉館」や農村部の「マウル館」等と日本の「小さな拠点」施設との比較をしつつ、地域住民のインフォーマルケアをどう位置付けるかの比較研究をする必要性がある。
〇いずれにせよ、金成垣論文を読んで、日韓地域福祉比較研究の枠組みが大変明確になった。
〇ただ、金成垣先生は、従来の社会保障関係の学説である“現金給付とサービス給付は代替関係にある”という学説に囚われず、韓国では現金給付とサービス給付との関係は代替関係ではなく、補完関係にあると考え、新しい「社会サービス国家」という考え方を打ち出した。その在宅福祉サービス(韓国では在家老人福祉事業)を「総合社会福祉館」等で現物給付する形で提供しているのが特色だと指摘している。
〇金成垣先生の学説は、日本の在宅福祉サービスの開発、研究を牽引してきた三浦文夫先生がイギリスのティトマス等に学び、貨幣的ニーズでは対応できない非貨幣的ニーズの必要性が都市化、工業化、核家族化の中で生活ニーズとして登場してきており、その対応が必要であると論述してきたことや江口英一先生が1960年代の不安定就業層に対する地方自治体での福祉サービスの整備が必要であると論述した考え方との関りや整合性を改めて検討する必要があるのではないかとの感想を持った。
〇日本では、現在、1960年代末から指摘されてきている「新しい貧困」の問題がより深刻化し、生活のしづらさを抱えている家庭の生活技術能力や家政管理能力などへの支援の必要性が増大してきているし、かつ、「ひきこもり」と称される人が246万人にいると推計され、孤立・孤独問題が深刻化している。更には、一人暮らし高齢者、一人暮らし障害者の増大に伴うそれらの人々の身元保証問題、入退院支援、終末期支援、死後対応サービスの必要性が喫緊の大きな課題になってきている。
〇これらの問題も含めて、韓国の「社会サービス国家」論と日本の「地域共生社会政策」との比較研究が必要だと思った。
〇『現代韓国の福祉事情』に基づき、日本との比較の視点も入れて韓国の福祉事情の特色、特徴を述べるとすれば、以下の点を挙げることができる(概要で述べる内容は、『現代韓国の福祉事情』の中に書かれていることで、一つ一つ引用個所を明示するのは煩瑣になるので省略させて頂いた。ご了承頂きたい。なお、日本の記述は筆者の考えである)。

➀韓国は、人口が2022年時点で5169万2000人、2000年に高齢者人口比率が7%になり、高齢化社会になった。2017年には高齢者人口が14%を超え、高齢社会になっている。日本以上に速いスピード(日本は24年で到達)で高齢化が進んでいる。
子どもの合計特殊出生率は、OECD諸国の中で最低の0・78(2022年)で、日本の1・26よりはるかに低い。
韓国では、高学歴化における受験戦争の激化、ソウル一極集中における住宅難、不安定就業による生活の見通し不安等の要因が影響して少子化が改善されていない。

➁韓国では、就業形態別の雇用保険の加入率が、正規労働者で78・1%、非正規労働者で44・4(2019年)と低い。かつ、不安定就業層が多く、臨時雇用者の割合が2019年で24・4%、かつ自営業者の割合が24・9%と多く、「福祉国家体制」の下になる正規の常用雇用者による社会保険制度の成熟度が進んでいない。
韓国では、1999年に「国民皆保険・皆年金」体制が実現したが、2015年時点で、非正規労働者の年金加入率は37・0%、医療保険は43・9%、雇用保険は42・1%である。
日本では、高齢化社会に入った1970年前後に、急激な都市化、工業化、核家族化の中で、家族が高齢者を経済的に扶養できず、かつ年金も未だ成熟していていない時代であったこともあり、国が低所得層の高齢者に「老人福祉手当」を支給したことと同じように、韓国でも社会保険だけでカバーできない部分を国が税金によってサービスを現物給付する形態で賄っている。

➂日本の公的扶助制度である生活保護制度に該当するのが、現行の韓国では2000年10月に施行された「国民基礎生活保障制度」である。
韓国では2022年までは、「扶養義務者基準」が厳しく(扶養義務者の所得(年収1億ウオン以上)、および資産(保有不動産価格9億ウオン以上)があれば扶養義務基準を適用)、適用されていた。
他方、勤労能力のある貧困者には、多様な働く場としての自活事業が用意されているし、創業教育、機能訓練及び技術・経営指導等の創業支援、自活に必要な資産形成支援等が展開されている。
この自活事業の多様なプログラムは、韓国で2007年に制定された「社会的企業育成法」に基づき育成支援されている「社会的企業」、「協働組合」、「マウル企業」、「ソーシャルベンチャー企業」の取組とも関わっていて、「自活企業」だけでも2021年時点で997企業が経営されている。
日本では、生活困窮者などに対する支援で、“一般就労”支援が中心になっているが、韓国のように、新しいプログラムを開発しながらの支援は日本でも大いに参考にすべきである。
韓国では、このような状況もあり、社会福祉士養成カリキュラムに「プログラムの開発及び評価」、「社会福祉資料分析論」が取り入れられている。かつ、「総合社会福祉館」には、社会福祉士が義務設置化されていて、外部資金の獲得や地域資源の開発・連携に取り組んでいる。
筆者、コミュニティソーシャルワーク研修において、「問題解決プログラムの企画立案」や「地域福祉・地域包括ケア基本情報シート」の作成を取り入れているが、考え方は全く同じである。日本の社会福祉士の養成カリキュラムが“時代錯誤”なのである。

➃韓国では、「長期療養保険制度」がドイツ、日本に学び2008年7月から導入された。
しかしながら、日本で2006年に始められた介護予防事業は制度化されていない。
韓国の介護予防事業は、全国に357か所あり、300万人の会員を擁している「老人福祉会館」で展開されている。その活動を支える従事者が14000人配置されている。
日本では、1990年代に全国社会福祉協議会が主導して全国各地の市町村社会福祉協議会が「住民参加型福祉サロン」を創設し、活発な活動を展開していた。
しかしながら、2000年の介護保険制度の実施の際に、国民の理解を得るためか、福祉サロンに通う高齢者も介護保険制度のデイサービスを利用できるようにしたことにより、「住民参加型福祉サロン」は衰退していく。
ところが、介護保険財政が厳しくなると、2006年に介護予防事業制度を導入し、再度「住民参加型福祉サロン」を推奨させるようなシステムを作り出す。
韓国では、一貫して介護予防は老人福祉館で行われている。老人福祉館は、1989年にモデル事業として取り組み始められた。
老人福祉館の基本事業は、「生涯教育支援事業」、「趣味余暇支援事業」、「相談事業」、「情緒生活支援事業」、「健康生活支援事業」、「社会参加支援事業」、「危機および独居高齢者支援事業」、「脆弱老人保護連携網構築事業」の7つである。
選択事業としては、「敬老堂革新プログラム」、「高齢者住居改善事業」、「雇用および所得支援事業」、「家族機能支援および統合支援事業」、「地域資源の開発と連携、高齢者権益増進事業」の5つがある。
この老人福祉館は「地域食堂」の機能も持っており、安価な3000ウオン程度で利用でき、かつ生活困窮者には無料で昼食が支給されている。
老人福祉館の個人の利用料は3か月で2万ウオンから4万ウオン程度である。老人福祉館の運営費は、市区町村からの補助金の他、共同募金、協賛会費などで賄われている。

➄日本でも「離別によるひとり親世帯における非養育者の養育費不払い問題」は深刻で、母子家庭における養育費を支払っている非養育者の比率は28%と言われている。
韓国でも同じような問題を抱えており、2014年に「養育費履行確保法」が制定され、かつ2020年からはそれがより強化され、「行政制裁として、運転免許停止処分及び出国禁止、身元公開(氏名、年齢、職業、住所、養育費債務不履行期間、養育費債務額)」が規定され、かつ刑事罰まで法制化された。
日本でも、行政が代執行して養育費を支払わせる制度の確立が望まれている。

➅日本では、2023年5月に「孤独・孤立対策推進法」が制定され、孤独問題担当大臣を設置するほど孤立・孤独問題は深刻化している。
筆者が、孤立・孤独問題に関心を寄せたのは、旧自治省系の自治行政センターの依頼を受けて、「行政とボランティア活動との関係に関する調査研究」で、三浦文夫先生とヨーロッパ諸国を訪問した1982年である。
その際、スウエーデンを訪問したが、スウエーデンのソーシャルワーカーが日本の老人クラブの実践を学びたいと話をした。その理由が、スウエーデンではその当時、高齢者の孤立・孤独問題が深刻で、日本の老人クラブ活動に学びたいということであった。
当時の日本の老人クラブへの加入率は75%程度(現在は17%程度)あり、地域の老人たちがクラブ活動をすると同時に、地域の一人暮らし老人たちへの友愛訪問活動をしていることを参考にしたいという話であった。
その後、イギリスでは2018年に孤独担当大臣を設ける等、ヨーロッパ諸国での孤立・孤独問題は深刻化していった。
韓国では、2020年3月に「孤独死予防法」が制定された。これに先立つ対策として、2007年に「老人福祉法」が改正され、独居高齢者支援が法定化された。
2020年には、「老人個別型統合サービス」に統合整理され、安全支援、社会参加、生活教育、日常生活支援という「直接サービス」、生活用品支援、住居改善、健康支援等の「連携サービス」、孤立型グループ、抑うつ型グループへの「特化サービス」の業務が展開されるようになった。
「老人個別型統合サービス」の実施機関は2023年時点で全国681か所あり、その中で「特化サービス」を実施している機関は191か所である。
「老人個別型統合サービス」の実施機関には、専担社会福祉士と生活支援士が配置され、対象者選定とケアマネジメント及びソーシャルワーク機能を担当している。

➆韓国では、日本以上に少子化が進んでおり、労働力をカバーするために、日本以上に外国人労働者を受け入れている。2022年末現在で、韓国の在留外国人は224万59912人で、全人口の4・37%を占めている。
これらの在留外国人の生活支援のために、韓国では2007年に「在韓外国人処遇基本法」を制定している。また、2008年には「多文化家族支援法」を制定し、韓国の社会福祉事業による福祉的支援に法的根拠を持たせることになった。
「多文化家族支援法」では、多文化家族に対する理解促進、生活情報の提供および教育支援、家庭内暴力被害者に対する保護・支援、医療および健康管理のための支援、多言語によるサービス提供および「多文化家族向け総合情報コールセンター」の設置・運営、外国人支援を行っている民間団体への支援等が定められている。
これらの法律でいう「在韓外国人」とは、韓国の国籍を持たないもので、韓国に居住する目的で合法的に滞在している者、「結婚移民者」とは、韓国の国民と婚姻したことがある者または婚姻関係にある在韓外国人である。
一方、「多文化家族」とは、「結婚移民者または韓国の国籍を取得した者からなる家族」のことで、外国人夫婦のみの世帯、外国人労働者、留学生は含まれていない。しかし、近年では、多分化家族の定義を広く適用しているという。
韓国での在留外国人への政策は、日本でも学ばなければならない課題である。

➇韓国は、国連の世界デジタル政府ランキングで、1位、2位を競うレベルのデジタル化が進んでいて、日本の比ではない。
韓国のデジタル政府を推進する根拠法は、1995年制定の「情報化促進基本法」、2000年の「デジタル政府法」、2009年の「国家情報化基本法」によるところが大きい。
福祉業務に特化した情報システムとしては、2010年に「社会福祉統合電算網」によるところが大きい。
それは、社会保障基本法の中で、「社会保障の受給者の決定や給付管理などに関する情報を統合・連携して処理する情報システム」であり、それは保健福祉部(日本の厚生労働省に該当)の福祉事業の業務を電子処理する「幸福eウム」と各省庁の福祉事業業務の電子処理を支援する「凡政府」との2種類がある。
「幸福eウム」は、地方自治体福祉業務と連繋して、各種社会福祉サービスの給付や受給資格、受給履歴の情報を統合管理している。
この2つの情報管理により、国税庁や国民健康保険公団、国土交通部(日本の国土交通省に該当)等の公共機関の所得及び財産情報を活用して不正受給や死亡届の提出遅延、未提出による“受給の不正”を防止している。
また、この情報システムを活用して、申請主義のために、本来受給できるにもかかわらず申請できない人を発見・把握し、支援につなげられるようになった。
更には、2014年12月に「社会保障給付の利用、・提供及び受給権者の発掘に関する法律」が制定され、電気料金や水道料金の滞納等公共料金の滞納にも関わらず、社会福祉関係者がアウトリーチできていない世帯を発見・把握し、職員を家庭訪問させ、申請につなげられるようになった。
一般的に、ICT化は低所得者や低学歴の人の生活に及ぼす影響・効果は限定的で、ややもするとのその利活用から疎外されがちであるが、韓国では逆にそれらの人々へのアプローチの手段として活用できていることは注目に値する。
いまや、福祉サービスへの福祉アクセシビリティがぜい弱な人々を発見・把握するために活用する情報は、通信費滞納、金融債務滞納、健康保険料滞納等にまで広がり、44種類にも上っている。

➈「マウル館」は、“地域社会の中心地として機能し、街の集まり、地域の市場、祭りなどの各種活動ができるように一定の設備を備えた建物で、一般的に多目的ホール、小さな会議室、演劇場、キッチン、トイレ、駐車場などの設備が含まれる”施設である。
「マウル館」(韓国語辞書では、マウルとは主に田舎でいくつもの家が集まって住むところと定義されている)は、1970年代のセマウル運動のセマウル会館として全国的に設置されていったが、現在は行政上の明確な管理主体がない状態である。
現在、「マウル館」は、全国に36792か所設置されており、自宅から「マウル館」まで10分以内の距離に設置されている村が95・5%である。距離的アクセシビリティはすこぶるいい。
「マウル館」は、1階建ての単独建物が多く、「敬労堂」と複合的に運営されているところが多い。
「マウル館」でも「地域食堂」としての機能を有しており、一日1回の食事提供が最も多く、69・3%、一日に2回の食事提供するところが22・3%である。
「マウル館」の運営は、里長(自治会長)が最も多く68%、老人会長が運営するところが24・1%である。
食事の提供に関わる経費は、住民たちが分担するが30・6%、「マウル運営資金の支援」が28・3%、「政府と自治体の支援金」が19・8%である。
農村地域の高齢化率は2020年時点で46・8%となっており、冬の期間、各自の自宅で暖房をつけるのには経費が掛かるが、「マウル館」に居ればそれも節約できることから、暖房施設のある「マウル館」の冬の期間における存在意義は大きい。
韓国の228自治体のうち、113の自治体が消滅危機にあるなかで、「マウル館」を拠点にしての地域づくりは、日本の限界集落との比較研究をする上で重要である。高知県の「ふれあいあったかセンター」がその比較研究する上で最適である。

➉「総合社会福祉館」は、韓国・社会福祉事業法第2条で「地域社会を基盤に一定の施設と専門人材を備え、地域住民の参加と協力を通じて地域社会の福祉問題を予防または解決するために総合的な福祉サービスを提供する施設」と規定されている。
「総合社会福祉館」は、2023年現在、全国に479か所設置されており、人口10万人当り1か所の目安で設置されている。
当初、「総合社会福祉館」は、低所得者が密集している永久賃貸住宅団地を中心に設置が進められたが、その後戸別の住宅面積が狭い住宅団地住民の生活福利のための共同の福利施設として住宅法が改正されて、設置、利用が少し変容していく。
「総合社会福祉館」は、「地域社会の特性や地域住民のニーズを踏まえた事業」、「官民の福祉サービスを連携した事例管理事業」、「地域の福祉共同体の活性化を目指した福祉関連の資源管理や住民教育」、「住民組織化等に関する事業」等が社会福祉事業法第34条の5に規定されている。
利用対象者は、社会福祉館の位置する地域のすべての地域住民となっているが、特に国民基礎生活保障の受給者や生活困窮者、障害者、高齢者、一人親家庭、多文化家庭、保護と教育が必要な幼児・児童・青少年、その他緊急支援が必要と認められるものが優先されると社会福祉事業法34条の5で規定されている。
全国の社会福祉館479巻のうち、社会福祉法人運営が約7割(338か所)、次いで財団法人、社団法人は都築、地方自治体の運営もある。
社会福祉館は、その建物の大きさにより「ガ型」、「ナ型」、「ダ型」に分けられている。
その運営費はおおむね年間予算が10~30億ウオンである。
社会福祉館の専門人財の配置は、「事例管理」、「サービス提供」、「地域組織化」、「行政及び管理」を実施しているかどうかと、その設置されている地域が「特別市」、「広域市」、「特例自治市・道・特例自治道」の違いによっても配置される人材数が異なる。
韓国の「総合社会福祉館」の源流は、1906年アメリカの宣教師・メソジスト教会の女子宣教師であったメリー・ノールズが始めた元山での隣保館運動で、その拠点が「班列房(バンヨルバン)」であった。その後、キリスト教関係者や大学関係者によって「社会福祉館」は作られていく。
「総合社会福祉館」としての制度化は、1983年に社会福祉事業法が改正され、社会福祉館への財政支援と地域住民の利用施設としての位置づけが規定されてからである。
韓国では、1998年に社会福祉士1級国家試験制度が実施され、今では社会福祉館の採用条件に社会福祉1級を条件としているところがほとんどである。

Ⅱ 韓国で2026年3月から実施される『医療·介護など地域ケアの統合支援に関する法律(ケア統合支援法)』の概要――韓国・崔太子さん提供資料

初出:老爺心お節介情報/第73号/2025年8月15日


 

【その2】

〇酷暑は相変わらずですが、蜩やつくつく法師など、秋の気配をもたらすセミの鳴き声が聞こえるようになったと思ったら、それもすぐに聞こえなくなり、本当に異常な気候です。二十四節季の「処暑」を過ぎました。秋が待ち遠しいですね。皆様にはお変わりなくお過ごしでしょうか。
〇「老爺心お節介情報」第73号でお伝えしましたように、8月20日から22日まで、韓国の関係者に招聘され、ソウル特別市社会福祉協議会、韓国社会福祉協議会を訪問したり、「日本の地域福祉の碩学たちに“地域統合ケア”の路を問う」という韓日地域福祉学術講演会に参加してきました。
〇1990年代後半から2010年頃までは、毎年の如く韓国を訪問していたのですが、今回は久しぶりの学術交流の訪問でした。
〇今回の訪韓では、韓国社会福祉協議会会長金聖二先生(元韓国社会福祉学会会長、筆者が日本社会福祉学会会長の時、日韓学術交流協定した際の韓国学会の会長)、ソウル特別市社会福祉協議会会長金玄勲さん(日本社会事業大学の学部、大学院の教え子)、韓国在家老人福祉協会会長の趙南範さん(1997年の第1回の韓国地域福祉実践研究セミナーの際からの協力・支援者)、そして日本社会事業大学の大学院で博士の学位を取得した崔太子さん(韓国で在宅福祉サービス事業所を経営している会社の社長)をはじめ、多くの方々にお世話になりました。この紙上を借りて、改めて心よりお礼を申し上げます。
〇元国立光州大学の教授で、韓国社会福祉学会の会長をされた李英哲名誉教授も光州から駆けつけてくれましたし、私が日本社会事業大学の大学院研究科長をしている際に学位授与した厳基郁さんも国立群山大学総長になっていて、忙しいのに駆けつけてくれました。
〇日本からは、日本地域福祉研究所副理事長の田中英樹先生、日本福祉大学の原田正樹学長、全社協地域福祉推進委員会委員長の越智和子さん、文京学院大学の中島修先生、大正大学神山裕美先生、立命館大学呉世雄先生等総勢10名が参加しました。
〇2000年頃に日本で流行っていた「団子3兄弟」という歌がありましたが、それに倣って、かつて三浦文夫、愼ソプチョン(元韓国・国立釜山大学教授、元韓国社会福祉学会会長)、大橋謙策を旧「団子3兄弟」、大橋謙策、金聖二、李英哲を新「団子3兄弟」と呼んで、交流を深めていたものでしたが、その時の交流が思いだされ、旧交を温めることができ、とても感激しました。
〇韓国に到着した8月20日には、ロッテ・シティホテル・マッポで歓迎晩さん会を盛大に挙行してくれました。日本、韓国合わせて25名ほどの参加で、料理も美味しく、日本から持参した純米酒4合瓶、4本を楽しく空けながら、旧交を温めることが出来ました。
〇8月21日の午前中は、金玄勲さんが会長しているソウル特別市社会福祉協議会を表敬訪問しました。
〇今年で、6年目の会長職ということでしたが、着実にソウル市社会福祉協議会の活動を変容・発展させていることが実感できました。
〇第一番目に特記することは、民間企業等からの寄付者を増やしていることです。企業と一緒にイベントしたりして、日本では考えられないほど企業の社会貢献活動を引き出し、生活困窮者などの支援していることです。旧態依然の業務をしていた人たちは耐え切れず退職し、現在は殆どが1級社会福祉士の資格を有している新進気鋭の職員たちで構成されているとのことです。
〇第2番目は、職員たちと毎月1冊の本を読んで、論議をしていることです。職員の企画力、発言力が格段に成長したと言っていました。
〇第3番目には、企業などが寄付をしやすいように、今求められているニーズに合わせて問題解決プログラムを1冊にまとめ、それを持参してプログラム実現の寄付のお願いをしに、企業への売り込みを行っていることです。
〇日本の社会福祉協議会のように、行政からの補助金を期待するのではなく、自分たちが開発したプログラムをもって、企業に売り込みに行くという姿勢は素晴らしいことで、日本でも社会福祉協議会が学ばなければならない活動、姿勢だと思いました。
〇8月21日の午後は、ロッテ・シティホテル・マッポの近くのガーデンホテルで講演会が行われました。
〇当初、150名程度と考えていた参加者が200名を超える盛況で、部屋が埋め尽くされていました。
〇講演会には、韓国式の花輪が15基ほど寄せられ、会場を彩ってくれました。国立群山大学総長の厳基郁さんも花輪を出してくれていました。
〇講演会終了後には、拙著を翻訳した韓国版の『地域福祉とは何か』のサイン会をしてくれということで、汚い私の字ではと思いましたが、私が座右の銘にしている言葉を添えて40名ほどの方にサインをしました。
〇その後の懇親会は、まるで金玄勲さんの韓国社会福祉協議会会長選挙の“総決起集会”のような様相の懇親会になりました。
〇韓国社会福祉協議会の会長選挙は、各種社会福祉団体の全国組織、市町村社会福祉協議会の代表、会長から推薦・承認された個人会員、企業の代表からなる150名ほどが投票権を有しているとのことでした。11月末に、ある会場に集まり、直接投票するとのことで、日本の社会福祉協議会の会長選出とは全く異なる様相で、ある意味羨ましい光景です。韓国政治体制が大統領制なので、このような選出の仕方も韓国では当たり前なのでしょうが、日本人にとってはとても馴染みがありません。しかし、この方法も社会福祉協議会の活性化という点では日本も学ばなければならないかもしれません。日本でも、戦後初期に、公民館館長を直接選挙で選んだという歴史的実践がありました。
(2025年8月29日記)

<韓国・ソウルでの韓日交流学術講演会>

8月21日に行われた韓国・ソウルでの韓日交流学術講演会「日本の地域福祉の碩学たちに“地域統合ケア”の路を問う」では、日本側から筆者と原田正樹日本福祉大学学長が講演し、コメンテーターを韓国の車興奉先生(元韓国保健福祉部長官、韓国で長期療養保険制度を導入する際の委員長で、日本にも当時3か月滞在し、日韓比較研究をされた)と韓国の地域社会福祉学会の会長であった大邱大学名誉教授の朴泰英先生、日本側からは日本医療大学の田中英樹先生がされた。
筆者は、拙著『地域福祉とは何か』に基づき、日本での地域福祉実践・研究の系譜とその考え方、システムなどを中心に話をした。原田正樹先生は、現在推進されている「地域共生社会政策」の重層的支援体制整備事業について話をされた。
筆者の講演の内容は、以下に掲載したとおりである。7月の初めに講演のレジュメを作成して韓国へ送ったあと、日本の地域包括ケアの歴史、現状について知りたいという韓国側の要請を受けて、別途「参考資料」を作成した。したがって、当日の講演は、講演のレジュメと後日送った参考資料とをミックスしたかたちで講演することになった。そのレジュメの分量は多いので、ここでは割愛し、韓国で話をした当日の内容の柱建てを以下に掲載しておきたい。
講演では「老爺心お節介情報」第73号で紹介した韓国の現状との比較も交えて話をした。

Ⅰ 「地域福祉」の概念――理念、目的

地域福祉とは、住民の身近な基礎自治体である区市町村を基盤に、在宅福祉サービスを整備し、障害者、子ども、高齢者を属性分野に分けず、全世代対応型で、地域での自立生活(労働的・経済的自立、精神的・文化的自立、身体的・健康的自立、家政管理的・生活技術的自立、社会関係的・人間関係的自立、政治的・契約的自立)を支援するという目的を具現化することである。
地域での自立生活支援においては、地域住民のエネルギーがプラスにもマイナスにも働くので、地域のヴァルネラビリティのある人に対する差別、偏見、蔑視を取り除き、排除しがちになる地域住民の社会福祉意識改革への取り組み(福祉教育)とそれらヴァルネラビリティのある人々を包含し、支援するという個別支援を通して地域を変えていくという住民参画型の福祉コミュニティづくり、ケアリングコミュニティづくりである(「ボランティア活動の構造図」参照)。

Ⅱ 日本の社会福祉界における「異端」から「正統」へ――「地域福祉」の歴史的位置

筆者の「地域福祉とは」何かは、日本でも「地域福祉」は永らく社会福祉学界、実践現場で“異端”、”亜流“扱いだったのが、今やそれが正統になり、国の政策の主流になっていること、また、日本では1990年まで実質的にソーシャルワーク機能を展開できておらず、漸く2000年代に入り、在宅福祉サービスが”主流化“する中で、ケアマネジメントを活用したソーシャルワーク機能が”認知“されるようになり、今ではコミュニティソーシャルワーク機能が政策的にも、実践的にも必須の要件になってきている。

①属性分野ごとの「社会福祉六法体制」(生活保護法、児童福祉法、身体障害者福祉法、精神薄弱者福祉法、老人福祉法、母子福祉法)下において、「地域福祉」は任意団体である市町村社会福祉協議会が行う「地域の福祉の向上」という意味で、戦争遺家族の支援、共同募金活動、身体障害者等の当事者団体のお世話、老人クラブのお世話等を行っていた時代で、「地域福祉」研究、実践は社会福祉学界では「異端」だった。

②演者は、そのような状況の中、1960年代以降「地域福祉と社会教育の学際研究・実践」を「異端」扱いされながら、市町村社会福祉協議会、市町村の公民館、社会教育を基盤に展開してきた。
その際、演者は市町村社会福祉協議会の職員や公民館・社会教育の職員と「バッテリー型研究」のスタイルを取って行ってきた。
「バッテリー型研究」とは、その市町村ごとに違う地域社会生活課題を分析し、その解決のあり方、システムを市町村社会福祉協議会の職員や公民館・社会教育の職員に提示して、協働してその問題解決や解決に必要なシステムを開発してきた。その上で、必要なら住民参加で市町村の「地域福祉計画」を策定するということを行ってきた。

③「地域福祉」実践・研究を取り巻く政策的環境が徐々に変わり、1984年には社会福祉事業法が改正され、市町村社会福祉協議会が法律上認知され、位置付けられた。また、1990年には、それまで社会福祉法制上位置づけがなかった在宅福祉サービスが法定化され、施設福祉サービスとは違う在宅福祉サービスの実 践・研究がしやすくなった。
在宅福祉サービスは、2000年の介護保険法、2005年の障害者総合支援法により、政策的にも、実践・研究的にも社会福祉政策のメインストリーム(主流化、正当化)になっていく。と同時に、「ソーシャルワーク」機能の重要性が重要視されるようになってくる。

④日本では、イギリスのベヴァリッジ報告(「社会保険及び関連サービスについて」)と日本国憲法第89条に基づき、戦後「福祉国家論」説がもてはやされ、社会保険も公衆衛生も対人援助の社会福祉もすべて国家が責任を取り、行うものとの考え方が強かったが、対人援助サービスとしての在宅福祉サービスが法定化されるに及んで、社会福祉は基本的に住民の身近な市町村が計画的に責任をもって行うべきという考え方が1990年の法律改正で明確になり、かつ介護保険制度の実施により、一層求められるようになった。

Ⅲ 「地域福祉」を具現化させる方法論としてのコミュニティソーシャルワーク

コミュニティソーシャルワークという用語と考え方は、イギリスで1982年に発表された「バークレイ報告」の中に登場する。その要旨は、住民とソーシャルワーカーとが協働して地方自治体の社会サービスを展開する方法である。
日本では、先に述べた1990年の「生活支援地域福祉事業(仮称)の基本的考え方について(中間報告)」(座長大橋謙策)においてはじめて厚生省の文書に登場する。
演者なりにコミュニティソーシャルワーク機能をまとめると以下の通りである。

ⅰ)地域にある潜在化しているニーズ(生活のしづらさ、生活問題を抱えている福祉サービスを必要としている人々)を発見し、その人や家族とつながる。

ⅱ)それらサービスを必要としている人々の問題を解決するために、生活問題の調査・分析・診断(アセスメント)を行い、その人々の思い、願い、意見を尊重して、「求めと必要と合意」(サービスを必要とする本人の求め、願いと専門職が必要と考えることを出し合ってのインフォームドコンセント)に基づき、問題解決方策を立案する。

ⅲ)その解決方策に基づき、活用できる福祉サービスを結び付け、利用・実施するケアプラン(サービス利用計画)をつくるケアマネジメントを行う。

ⅳ)もし、問題解決に必要なサービスが不足している場合、あるいはサービスがない場合には、新しいサービスを開発するプログラムを作る。

ⅴ)その上で、制度的サービス(フォーマルサービス)と近隣住民が有している非制度的助け合い・支え合い活動(インフォーマルケアが十分ない時にはその活動の育成・活性化を図ることも含める)の両者を有機的に結び付け、両者の協働によって、福祉サービスを必要としている人々の地域での自立生活支援を支えるための継続的対人援助活動を展開する。

Ⅳ 「地域福祉」を展開するシステムと圏域の重層化、機能の重層化の必要性

「地域福祉」を展開するシステムは、厚生労働省により定式化された行政組織が示されているわけではない。今や、中央集権的行政ではなく、地方分権、地方主権行政の時代である。演者が、日本の各市町村で社会実証的に取り組んできたシステム、考え方は以下の通りであり、厚生労働省もほぼ同じ考え方で、現在重層的支援体制整備事業を進めている。

ⅰ)「地域福祉」は、原則市町村を基盤に展開する。市町村は、住民参加の機関である「地域保健福祉審議会」を設置し、市町村の「地域福祉計画」を策定する。

ⅱ)市町村といっても、住民の生活は交通の便、地形、商店等の生活圏域が異なる。まして、合併した市町村では地域社会生活課題は大きく異なる。
したがって、「地域福祉」を展開するに当たっては、市町村を第1層、第2層、第3層という具合に圏域を重層化させることが重要である。と同時に、各層で求められる機能も層毎に異なる。
「地域福祉」の展開には、「圏域の重層化」と「機能の重層化」がポイントである。
第1層は市町村圏域で、「地域保健福祉審議会」の運営や「地域福祉計画」づくり、全体の調整機能が求められる。
第2層は、一般的に在宅福祉サービス地区と呼ばれるもので、中学校区(人口 2万弱)レベルが考えられる。日本の介護保険制度では、この中学校区レベルに地域包括支援センターを配置している。
演者は、在宅福祉サービス地区という考え方をデンマークの生活支援法、スウエーデンの社会サービスに学び、市町村を在宅福祉サービス地区に分けて、在宅福祉サービスの整備並びに提供するシステムを1980年代末に提唱する。
第2層には在宅福祉サービスに関わる専門職や施設福祉サービスを担っている専門職も多く存在しているので、個別支援における専門多機関、専門多職種連携などは第2層で展開される。
第2層では、属性分野ごとの相談窓口ではなく、全世代対応型の総合相談窓口を設置し、包括的相談体制を整備する必要がある。全国の中学校区ごとに設置されている地域包括支援センターが約5500か所あるので、ここが総合相談窓口になれば、住民の福祉アクセシビリティはとても良く機能する。
第3層は、一般的に小学校区レベル(人口約1万人)とし、福祉サービスを必要としている人を発見し、支える地域(層)である。
日本では、このレベルの地区(地域)に校区社会福祉協議会が設立されているし、この地区レベルに民生児童委員協議会が設定されている。
一般的に住民の“地域”認識は、この小学校区レベルの地域をイメージしている。
この3層において、民生・児童委員や町内会、自治会の役員、校区社会福祉協議会の役員たちがインフォーマルケアを担ってくれている。したがって、コミュニティソーシャルワーク機能でいうフォーマルケアとインフォーマルケアとの両者の有機的協働は、この第3層で展開される。
第3層では、社会福祉協議会の職員などによるヴァルネラビリティのある人々に積極的にアウトリーチして発見、つながる活動が期待されている。

Ⅴ 「地域福祉」推進における住民参加及び住民の主体形成とインフォーマルケア

「地域福祉」とは、福祉サービスを必要としている人も含めて地域での自立生活支援を目的にするので、病院の入院患者や入所型施設の利用者とは異なり、日常面での多様な近隣関係が良好でないとうまくいかない。ゴミ出しの問題、安否確認、避難行動支援等行政の力だけでは対応できない。どうしても近隣住民の協力がなければできない。まして、工業化、都市化した状況の中では、農業生産を中心とした産業構造時代のように家族に頼ることはできない時代である。
そのような中、福祉サービスを必要としている人を支える住民なのか、排除、蔑視する住民なのかが問われる。
今、限界集落、人口減少、超高齢化社会の中で求められる住民像は、「地域に生れただけでなく、生まれた地域を愛し、共に地域を豊かにしようとボランティア精神旺盛な『選択的土着民』」の養成、形成である。
従来は、この機能に深く関わってきた行政は社会教育行政、公民館であった。現在では内閣府、総務省も「まちづくり協議会」の設置を提唱せざるを得ない状況である。
市町村社会福祉協議会は、福祉サービスを必要としている人への個別支援と同時に、それらの支援が地域で支えられるような地域づくりをすることも同時に求められている(「ボランティア活動の構造図」参照)
これら、地域における住民による支援を求めれば求めるほど、住民には権利としての行政への住民参加の権限を担保する必要がある。「地域保健福祉審議会」はその一例である。

Ⅵ 地域包括(トータル)ケアシステムに関わる歴史的ベクトル

①1994年設置の岩手県遠野市「健康福祉の里」(国保診療所併設)と県立遠野病院との連携システムによる地域福祉実践のベクトルー1993年遠野市ハートフルプラン策定(『21世紀型トータルケアシステムの創造』2002年、万葉舎参照)

②2000年実施の長野県茅野市における保健・医療・福祉の複合型拠点及び日常生活圏域毎のシステムによる地域福祉実践からのベクトルー診療所を核とした通所型・訪問型サービスとインフォーマルケアとの有機化、病診連携を踏まえた診療所の併設をシステム化した保健福祉サービスセンターの創設(『福祉21ビーナスプランの挑戦』中央法規、2003年参照)

③『地域包括ケア研究会ー2025年問題』(座長田中滋、2013年)の問題提起による政策ベクトルー在宅医療連携診療所、医療と介護の連続的改革

# 生活圏域でのケアの一体的提供とその社会資源(インフォーマルを含めて)整備を地域包括支援センターを中心に構築するーー①持続的な介護サービスの充実と基盤整備、②介護と医療の連携強化、③サービス付き高齢者住宅の整備、④認知症ケアの体系的な推進、⑤介護人材の確保とキャリアアップシステムの構築、⑥地域における高齢者の孤立等への対応、⑦低所得高齢者への配慮ある展開等

Ⅶ 地域包括支援センターのモデル――長野県茅野市における地域トータルケアシステムの拠点としての保健福祉サービスセンターの設置(『福祉21ビーナスプランの挑戦』中央法規、2003年参照)

①茅野市福祉担当行政アドバイザーとして、地域福祉計画において提案・2000年より実施――人口5万7千人で、八ヶ岳山麓の広範囲の市域を4つの在宅福祉サービス地区(小学校区9地区、中学校区4地区、行政区10区)に分け、その各々に保健福祉サービスセンターを設置し、市役所内にいた福祉事務所の職員、保健課の保健師を再編成して配属。それに加えて市社会福祉協議会の職員も配属――1982年スウェーデン「社会サービス法」を参考。

②保健福祉サービスセンターには、内科クリニック、高齢者デイサービス、訪問看護、訪問介護、地域交流センターを併設。内科クリニックと諏訪中央病院との病診連携、「かかりつけ医」制度の促進。サービス供給組織は、JAや社会福祉協議会等多様。

③保健福祉サービスセンターは、子ども、障害者、高齢者の全世代に対応するワ     ンストップサービスを展開。基本的には、行政職員(ソーシャルワーカー)、保  健師、社会福祉協議会職員(ソーシャルワーカー)が3人1組でチームアプローチをする。設置1年後からは、保健福祉センターには社会福祉協議会職員を各1名増員。

④各センターへ社会福祉協議会職員(ソーシャルワーカー)を配属したのは、地域住民の福祉教育の促進、アウトリーチ型問題発見、ニーズキャッチの向上、住民のインフォーマルケア力の向上と活用の促進を図るため(年間280日地域を訪問)。

Ⅷ 社会生活モデルに基づく地域生活支援――医学モデル、入所モデルと違う

①地域生活支援では家族が果たしてきた機能、入所型施設が提供してきた機能を地域において本人の求めと専門職が必要とした判断とを踏まえた両者の合意による支援方針の決定とケアマネジメント及びサービス提供が必要

②その際に必要なアセスメントは、入所型施設でのADLを重視したアセスメント、疾病・治療における医学モデルのアセスメントではなく、社会生活モデルに基づくアセスメントが求められる
(アセスメントの大項目===生い立ち、願い等のナラティブ、労働的・経済的自立、精神的・文化的自立、身体的・健康的自立、生活技術的・家政管理的自立、社会関係的・人間関係的自立、政治的・契約的自立、住居、ソーシャルサポートネットワーク)

# イギリスでは、2016年に社会的処方(SOCIAL PRESCRIBING)という考え方が、NHSのプライマリケア領域で提唱され、全国ネットワークが結成された

Ⅸ 障害者・高齢者のための“福祉のまちづくり”から「福祉でまちづくり」及び「福祉はまちづくり」への転換

①農業の第6次産業化のみならず、障農連携・農福連携、あるいは契約栽培に基づく施設経営社会福祉法人の地産・地消経済による農業の第8次化の振興

②施設経営社会福祉法人の地域貢献と施設機能の社会化、地域化

Ⅹ 地域住民の孤立化,ソーシャルサポートネットワークの脆弱化と触媒としてのコミュニティソーシャルワーク機能

①1960年代末からの「新しい貧困」の登場と地域住民の孤立化,ソーシャルサポートネットワークの脆弱化

②1970年頃の子ども・青年の発達の歪み(人間関係・社会関係の希薄化、成就感・達成感の喪失、生活技術能力の脆弱化、帰属意識・準拠意識の希薄化、自己表現能力の脆弱化)の指摘と「生きる力」

③都市化、工業化における「家庭の孤立化」とショックアブソーバー機能の脆弱化

④都市化による「遊び場」の喪失と家屋構造の変容に伴う「中間空間」(縁側・土間・上がり框)の喪失による社会関係の希薄化

⑤「街づくり」、コミュニティデザインにおける交流機能、居場所づくりの“復活”

⑥住民活動の触媒、社会開発の触媒(物質の安定、物質の活性化、新しい物質の創造機能)としてのコミュニティソーシャルワーク機能

Ⅺ 地域包括ケアの考え方と地域共生社会への発展

①地域包括ケアの要件

ⅰ)個別ケアにおける医療・保健・介護・福祉の専門多職種連携による包括ケア

ⅱ)多問題家族・複合家族への世帯単位支援の包括ケア

ⅲ)制度化されたフォーマルケアと住民によるインフォーマルなソーシャルサポートネットワークとを有機化して、提供する包括ケア

ⅳ)単身高齢者・単身障害者等への「最期まで看取る」地域社会生活支援の包括ケア

ⅴ)福祉機器等の合理的・効率的ケアの提供による住民のQOL(生活の質)を高める包括ケア

Ⅻ 地域自立生活支援におけるICFの視点でケアマネジメントを手段として活用したソーシャルワークの展開

①価値・目的、ナラティブ(本人の生育史、願い、思い)に照らしたアセスメントの視点と枠組みとICF――福祉用具の活用とフィティング及び自立支援計画の立案

②アマネジメントにおけるサービスを必要としている人(ヴァルネラビリティ、利用しようと考えている人)へのエンパワーメントアプローチ

③ソーシャルワークにおけるニーズ対応型新しいサービス開発機能とケアマネジメント

④ソーシャルワークにおえる社会改善、ソーシャルアクション機能とケアマネジメント

⑤ケアマネジメントにおけるサービスプランニングと直接的対人援助としての伴走型ソーシャルワーク実践

*   *   *

〔レジュメ〕

〔参考資料〕

初出:老爺心お節介情報/第74号/2025年8月29日


 

大橋ブックレット 第2号
日韓地域福祉学術交流30年―日韓国交60周年から平和共生の未来に向けて―

発 行:2025年9月1日
著 者:大橋謙策
発行者:田村禎章、三ツ石行宏
発行所:市民福祉教育研究所

 


 

老爺心お節介情報/第74号(2025年8月29日)

「老爺心お節介情報」第74号

地域福祉研究者の皆様
社会福祉協議会関係者の皆様

未だ暑いですね。
今号は、8月20日~22日の韓国訪問の報告です。
皆様、ご自愛の上、ご活躍下さい。

2025年8月29日  大橋 謙策

〇酷暑は相変わらずですが、蜩やつくつく法師など、秋の気配をもたらすセミの鳴き声が聞こえるようになったと思ったら、それもすぐに聞こえなくなり、本当に異常な気候です。二十四節季の「処暑」を過ぎました。秋が待ち遠しいですね。皆様にはお変わりなくお過ごしでしょうか。
〇「老爺心お節介情報」第73号でお伝えしましたように、8月20日から22日まで、韓国の関係者に招聘され、ソウル特別市社会福祉協議会、韓国社会福祉協議会を訪問したり、「日本の地域福祉の碩学たちに“地域統合ケア”の路を問う」という韓日地域福祉学術講演会に参加してきました。
〇1990年代後半から2010年頃までは、毎年の如く韓国を訪問していたのですが、今回は久しぶりの学術交流の訪問でした。
〇今回の訪韓では、韓国社会福祉協議会会長金聖二先生(元韓国社会福祉学会会長、筆者が日本社会福祉学会会長の時、日韓学術交流協定した際の韓国学会の会長)、ソウル特別市社会福祉協議会会長金玄勲さん(日本社会事業大学の学部、大学院の教え子)、韓国在家老人福祉協会会長の趙南範さん(1997年の第1回の韓国地域福祉実践研究セミナーの際からの協力・支援者)、そして日本社会事業大学の大学院で博士の学位を取得した崔太子さん(韓国で在宅福祉サービス事業所を経営している会社の社長)をはじめ、多くの方々にお世話になりました。この紙上を借りて、改めて心よりお礼を申し上げます。
〇元国立光州大学の教授で、韓国社会福祉学会の会長をされた李英哲名誉教授も光州から駆けつけてくれましたし、私が日本社会事業大学の大学院研究科長をしている際に学位授与した厳基郁さんも国立群山大学総長になっていて、忙しいのに駆けつけてくれました。
〇日本からは、日本地域福祉研究所副理事長の田中英樹先生、日本福祉大学の原田正樹学長、全社協地域福祉推進委員会委員長の越智和子さん、文京学院大学の中島修先生、大正大学神山裕美先生、立命館大学呉世雄先生等総勢10名が参加しました。
〇2000年頃に日本で流行っていた「団子3兄弟」という歌がありましたが、それに倣って、かつて三浦文夫、愼ソプチョン(元韓国・国立釜山大学教授、元韓国社会福祉学会会長)、大橋謙策を旧「団子3兄弟」、大橋謙策、金聖二、李英哲を新「団子3兄弟」と呼んで、交流を深めていたものでしたが、その時の交流が思いだされ、旧交を温めることができ、とても感激しました。
〇韓国に到着した8月20日には、ロッテ・シティホテル・マッポで歓迎晩さん会を盛大に挙行してくれました。日本、韓国合わせて25名ほどの参加で、料理も美味しく、日本から持参した純米酒4合瓶、4本を楽しく空けながら、旧交を温めることが出来ました。
〇8月21日の午前中は、金玄勲さんが会長しているソウル特別市社会福祉協議会を表敬訪問しました。
〇今年で、6年目の会長職ということでしたが、着実にソウル市社会福祉協議会の活動を変容・発展させていることが実感できました。
〇第一番目に特記することは、民間企業等からの寄付者を増やしていることです。企業と一緒にイベントしたりして、日本では考えられないほど企業の社会貢献活動を引き出し、生活困窮者などの支援していることです。旧態依然の業務をしていた人たちは耐え切れず退職し、現在は殆どが1級社会福祉士の資格を有している新進気鋭の職員たちで構成されているとのことです。
〇第2番目は、職員たちと毎月1冊の本を読んで、論議をしていることです。職員の企画力、発言力が格段に成長したと言っていました。
〇第3番目には、企業などが寄付をしやすいように、今求められているニーズに合わせて問題解決プログラムを1冊にまとめ、それを持参してプログラム実現の寄付のお願いをしに、企業への売り込みを行っていることです。
〇日本の社会福祉協議会のように、行政からの補助金を期待するのではなく、自分たちが開発したプログラムをもって、企業に売り込みに行くという姿勢は素晴らしいことで、日本でも社会福祉協議会が学ばなければならない活動、姿勢だと思いました。
〇8月21日の午後は、ロッテ・シティホテル・マッポの近くのガーデンホテルで講演会が行われました。
〇当初、150名程度と考えていた参加者が200名を超える盛況で、部屋が埋め尽くされていました。
〇講演会には、韓国式の花輪が15基ほど寄せられ、会場を彩ってくれました。国立群山大学総長の厳基郁さんも花輪を出してくれていました。
〇講演会終了後には、拙著を翻訳した韓国版の『地域福祉とは何か』のサイン会をしてくれということで、汚い私の字ではと思いましたが、私が座右の銘にしている言葉を添えて40名ほどの方にサインをしました。
〇その後の懇親会は、まるで金玄勲さんの韓国社会福祉協議会会長選挙の“総決起集会”のような様相の懇親会になりました。
〇韓国社会福祉協議会の会長選挙は、各種社会福祉団体の全国組織、市町村社会福祉協議会の代表、会長から推薦・承認された個人会員、企業の代表からなる150名ほどが投票権を有しているとのことでした。11月末に、ある会場に集まり、直接投票するとのことで、日本の社会福祉協議会の会長選出とは全く異なる様相で、ある意味羨ましい光景です。韓国政治体制が大統領制なので、このような選出の仕方も韓国では当たり前なのでしょうが、日本人にとってはとても馴染みがありません。しかし、この方法も社会福祉協議会の活性化という点では日本も学ばなければならないかもしれません。日本でも、戦後初期に、公民館館長を直接選挙で選んだという歴史的実践がありました。
(2025年8月29日記)

<韓国・ソウルでの韓日交流学術講演会>

8月21日に行われた韓国・ソウルでの韓日交流学術講演会「日本の地域福祉の碩学たちに“地域統合ケア”の路を問う」では、日本側から筆者と原田正樹日本福祉大学学長が講演し、コメンテーターを韓国の車興奉先生(元韓国保健福祉部長官、韓国で長期療養保険制度を導入する際の委員長で、日本にも当時3か月滞在し、日韓比較研究をされた)と韓国の地域社会福祉学会の会長であった大邱大学名誉教授の朴泰英先生、日本側からは日本医療大学の田中英樹先生がされた。
筆者は、拙著『地域福祉とは何か』に基づき、日本での地域福祉実践・研究の系譜とその考え方、システムなどを中心に話をした。原田正樹先生は、現在推進されている「地域共生社会政策」の重層的支援体制整備事業について話をされた。
筆者の講演の内容は、以下に掲載したとおりである。7月の初めに講演のレジュメを作成して韓国へ送ったあと、日本の地域包括ケアの歴史、現状について知りたいという韓国側の要請を受けて、別途「参考資料」を作成した。したがって、当日の講演は、講演のレジュメと後日送った参考資料とをミックスしたかたちで講演することになった。そのレジュメの分量は多いので、ここでは割愛し、韓国で話をした当日の内容の柱建てを以下に掲載しておきたい。
講演では「老爺心お節介情報」第73号で紹介した韓国の現状との比較も交えて話をした。

Ⅰ 「地域福祉」の概念――理念、目的

地域福祉とは、住民の身近な基礎自治体である区市町村を基盤に、在宅福祉サービスを整備し、障害者、子ども、高齢者を属性分野に分けず、全世代対応型で、地域での自立生活(労働的・経済的自立、精神的・文化的自立、身体的・健康的自立、家政管理的・生活技術的自立、社会関係的・人間関係的自立、政治的・契約的自立)を支援するという目的を具現化することである。
地域での自立生活支援においては、地域住民のエネルギーがプラスにもマイナスにも働くので、地域のヴァルネラビリティのある人に対する差別、偏見、蔑視を取り除き、排除しがちになる地域住民の社会福祉意識改革への取り組み(福祉教育)とそれらヴァルネラビリティのある人々を包含し、支援するという個別支援を通して地域を変えていくという住民参画型の福祉コミュニティづくり、ケアリングコミュニティづくりである(「ボランティア活動の構造図」参照)。

Ⅱ 日本の社会福祉界における「異端」から「正統」へ――「地域福祉」の歴史的位置

筆者の「地域福祉とは」何かは、日本でも「地域福祉」は永らく社会福祉学界、実践現場で“異端”、”亜流“扱いだったのが、今やそれが正統になり、国の政策の主流になっていること、また、日本では1990年まで実質的にソーシャルワーク機能を展開できておらず、漸く2000年代に入り、在宅福祉サービスが”主流化“する中で、ケアマネジメントを活用したソーシャルワーク機能が”認知“されるようになり、今ではコミュニティソーシャルワーク機能が政策的にも、実践的にも必須の要件になってきている。

①属性分野ごとの「社会福祉六法体制」(生活保護法、児童福祉法、身体障害者福祉法、精神薄弱者福祉法、老人福祉法、母子福祉法)下において、「地域福祉」は任意団体である市町村社会福祉協議会が行う「地域の福祉の向上」という意味で、戦争遺家族の支援、共同募金活動、身体障害者等の当事者団体のお世話、老人クラブのお世話等を行っていた時代で、「地域福祉」研究、実践は社会福祉学界では「異端」だった。

②演者は、そのような状況の中、1960年代以降「地域福祉と社会教育の学際研究・実践」を「異端」扱いされながら、市町村社会福祉協議会、市町村の公民館、社会教育を基盤に展開してきた。
その際、演者は市町村社会福祉協議会の職員や公民館・社会教育の職員と「バッテリー型研究」のスタイルを取って行ってきた。
「バッテリー型研究」とは、その市町村ごとに違う地域社会生活課題を分析し、その解決のあり方、システムを市町村社会福祉協議会の職員や公民館・社会教育の職員に提示して、協働してその問題解決や解決に必要なシステムを開発してきた。その上で、必要なら住民参加で市町村の「地域福祉計画」を策定するということを行ってきた。

③「地域福祉」実践・研究を取り巻く政策的環境が徐々に変わり、1984年には社会福祉事業法が改正され、市町村社会福祉協議会が法律上認知され、位置付けられた。また、1990年には、それまで社会福祉法制上位置づけがなかった在宅福祉サービスが法定化され、施設福祉サービスとは違う在宅福祉サービスの実 践・研究がしやすくなった。
在宅福祉サービスは、2000年の介護保険法、2005年の障害者総合支援法により、政策的にも、実践・研究的にも社会福祉政策のメインストリーム(主流化、正当化)になっていく。と同時に、「ソーシャルワーク」機能の重要性が重要視されるようになってくる。

④日本では、イギリスのベヴァリッジ報告(「社会保険及び関連サービスについて」)と日本国憲法第89条に基づき、戦後「福祉国家論」説がもてはやされ、社会保険も公衆衛生も対人援助の社会福祉もすべて国家が責任を取り、行うものとの考え方が強かったが、対人援助サービスとしての在宅福祉サービスが法定化されるに及んで、社会福祉は基本的に住民の身近な市町村が計画的に責任をもって行うべきという考え方が1990年の法律改正で明確になり、かつ介護保険制度の実施により、一層求められるようになった。

Ⅲ 「地域福祉」を具現化させる方法論としてのコミュニティソーシャルワーク

コミュニティソーシャルワークという用語と考え方は、イギリスで1982年に発表された「バークレイ報告」の中に登場する。その要旨は、住民とソーシャルワーカーとが協働して地方自治体の社会サービスを展開する方法である。
日本では、先に述べた1990年の「生活支援地域福祉事業(仮称)の基本的考え方について(中間報告)」(座長大橋謙策)においてはじめて厚生省の文書に登場する。
演者なりにコミュニティソーシャルワーク機能をまとめると以下の通りである。

ⅰ)地域にある潜在化しているニーズ(生活のしづらさ、生活問題を抱えている福祉サービスを必要としている人々)を発見し、その人や家族とつながる。

ⅱ)それらサービスを必要としている人々の問題を解決するために、生活問題の調査・分析・診断(アセスメント)を行い、その人々の思い、願い、意見を尊重して、「求めと必要と合意」(サービスを必要とする本人の求め、願いと専門職が必要と考えることを出し合ってのインフォームドコンセント)に基づき、問題解決方策を立案する。

ⅲ)その解決方策に基づき、活用できる福祉サービスを結び付け、利用・実施するケアプラン(サービス利用計画)をつくるケアマネジメントを行う。

ⅳ)もし、問題解決に必要なサービスが不足している場合、あるいはサービスがない場合には、新しいサービスを開発するプログラムを作る。

ⅴ)その上で、制度的サービス(フォーマルサービス)と近隣住民が有している非制度的助け合い・支え合い活動(インフォーマルケアが十分ない時にはその活動の育成・活性化を図ることも含める)の両者を有機的に結び付け、両者の協働によって、福祉サービスを必要としている人々の地域での自立生活支援を支えるための継続的対人援助活動を展開する。

Ⅳ 「地域福祉」を展開するシステムと圏域の重層化、機能の重層化の必要性

「地域福祉」を展開するシステムは、厚生労働省により定式化された行政組織が示されているわけではない。今や、中央集権的行政ではなく、地方分権、地方主権行政の時代である。演者が、日本の各市町村で社会実証的に取り組んできたシステム、考え方は以下の通りであり、厚生労働省もほぼ同じ考え方で、現在重層的支援体制整備事業を進めている。

ⅰ)「地域福祉」は、原則市町村を基盤に展開する。市町村は、住民参加の機関である「地域保健福祉審議会」を設置し、市町村の「地域福祉計画」を策定する。

ⅱ)市町村といっても、住民の生活は交通の便、地形、商店等の生活圏域が異なる。まして、合併した市町村では地域社会生活課題は大きく異なる。
したがって、「地域福祉」を展開するに当たっては、市町村を第1層、第2層、第3層という具合に圏域を重層化させることが重要である。と同時に、各層で求められる機能も層毎に異なる。
「地域福祉」の展開には、「圏域の重層化」と「機能の重層化」がポイントである。
第1層は市町村圏域で、「地域保健福祉審議会」の運営や「地域福祉計画」づくり、全体の調整機能が求められる。
第2層は、一般的に在宅福祉サービス地区と呼ばれるもので、中学校区(人口 2万弱)レベルが考えられる。日本の介護保険制度では、この中学校区レベルに地域包括支援センターを配置している。
演者は、在宅福祉サービス地区という考え方をデンマークの生活支援法、スウエーデンの社会サービスに学び、市町村を在宅福祉サービス地区に分けて、在宅福祉サービスの整備並びに提供するシステムを1980年代末に提唱する。
第2層には在宅福祉サービスに関わる専門職や施設福祉サービスを担っている専門職も多く存在しているので、個別支援における専門多機関、専門多職種連携などは第2層で展開される。
第2層では、属性分野ごとの相談窓口ではなく、全世代対応型の総合相談窓口を設置し、包括的相談体制を整備する必要がある。全国の中学校区ごとに設置されている地域包括支援センターが約5500か所あるので、ここが総合相談窓口になれば、住民の福祉アクセシビリティはとても良く機能する。
第3層は、一般的に小学校区レベル(人口約1万人)とし、福祉サービスを必要としている人を発見し、支える地域(層)である。
日本では、このレベルの地区(地域)に校区社会福祉協議会が設立されているし、この地区レベルに民生児童委員協議会が設定されている。
一般的に住民の“地域”認識は、この小学校区レベルの地域をイメージしている。
この3層において、民生・児童委員や町内会、自治会の役員、校区社会福祉協議会の役員たちがインフォーマルケアを担ってくれている。したがって、コミュニティソーシャルワーク機能でいうフォーマルケアとインフォーマルケアとの両者の有機的協働は、この第3層で展開される。
第3層では、社会福祉協議会の職員などによるヴァルネラビリティのある人々に積極的にアウトリーチして発見、つながる活動が期待されている。

Ⅴ 「地域福祉」推進における住民参加及び住民の主体形成とインフォーマルケア

「地域福祉」とは、福祉サービスを必要としている人も含めて地域での自立生活支援を目的にするので、病院の入院患者や入所型施設の利用者とは異なり、日常面での多様な近隣関係が良好でないとうまくいかない。ゴミ出しの問題、安否確認、避難行動支援等行政の力だけでは対応できない。どうしても近隣住民の協力がなければできない。まして、工業化、都市化した状況の中では、農業生産を中心とした産業構造時代のように家族に頼ることはできない時代である。
そのような中、福祉サービスを必要としている人を支える住民なのか、排除、蔑視する住民なのかが問われる。
今、限界集落、人口減少、超高齢化社会の中で求められる住民像は、「地域に生れただけでなく、生まれた地域を愛し、共に地域を豊かにしようとボランティア精神旺盛な『選択的土着民』」の養成、形成である。
従来は、この機能に深く関わってきた行政は社会教育行政、公民館であった。現在では内閣府、総務省も「まちづくり協議会」の設置を提唱せざるを得ない状況である。
市町村社会福祉協議会は、福祉サービスを必要としている人への個別支援と同時に、それらの支援が地域で支えられるような地域づくりをすることも同時に求められている(「ボランティア活動の構造図」参照)
これら、地域における住民による支援を求めれば求めるほど、住民には権利としての行政への住民参加の権限を担保する必要がある。「地域保健福祉審議会」はその一例である。

Ⅵ 地域包括(トータル)ケアシステムに関わる歴史的ベクトル

①1994年設置の岩手県遠野市「健康福祉の里」(国保診療所併設)と県立遠野病院との連携システムによる地域福祉実践のベクトルー1993年遠野市ハートフルプラン策定(『21世紀型トータルケアシステムの創造』2002年、万葉舎参照)

②2000年実施の長野県茅野市における保健・医療・福祉の複合型拠点及び日常生活圏域毎のシステムによる地域福祉実践からのベクトルー診療所を核とした通所型・訪問型サービスとインフォーマルケアとの有機化、病診連携を踏まえた診療所の併設をシステム化した保健福祉サービスセンターの創設(『福祉21ビーナスプランの挑戦』中央法規、2003年参照)

③『地域包括ケア研究会ー2025年問題』(座長田中滋、2013年)の問題提起による政策ベクトルー在宅医療連携診療所、医療と介護の連続的改革

# 生活圏域でのケアの一体的提供とその社会資源(インフォーマルを含めて)整備を地域包括支援センターを中心に構築するーー①持続的な介護サービスの充実と基盤整備、②介護と医療の連携強化、③サービス付き高齢者住宅の整備、④認知症ケアの体系的な推進、⑤介護人材の確保とキャリアアップシステムの構築、⑥地域における高齢者の孤立等への対応、⑦低所得高齢者への配慮ある展開等

Ⅶ 地域包括支援センターのモデル――長野県茅野市における地域トータルケアシステムの拠点としての保健福祉サービスセンターの設置(『福祉21ビーナスプランの挑戦』中央法規、2003年参照)

①茅野市福祉担当行政アドバイザーとして、地域福祉計画において提案・2000年より実施――人口5万7千人で、八ヶ岳山麓の広範囲の市域を4つの在宅福祉サービス地区(小学校区9地区、中学校区4地区、行政区10区)に分け、その各々に保健福祉サービスセンターを設置し、市役所内にいた福祉事務所の職員、保健課の保健師を再編成して配属。それに加えて市社会福祉協議会の職員も配属――1982年スウェーデン「社会サービス法」を参考。

②保健福祉サービスセンターには、内科クリニック、高齢者デイサービス、訪問看護、訪問介護、地域交流センターを併設。内科クリニックと諏訪中央病院との病診連携、「かかりつけ医」制度の促進。サービス供給組織は、JAや社会福祉協議会等多様。

③保健福祉サービスセンターは、子ども、障害者、高齢者の全世代に対応するワ     ンストップサービスを展開。基本的には、行政職員(ソーシャルワーカー)、保  健師、社会福祉協議会職員(ソーシャルワーカー)が3人1組でチームアプローチをする。設置1年後からは、保健福祉センターには社会福祉協議会職員を各1名増員。

④各センターへ社会福祉協議会職員(ソーシャルワーカー)を配属したのは、地域住民の福祉教育の促進、アウトリーチ型問題発見、ニーズキャッチの向上、住民のインフォーマルケア力の向上と活用の促進を図るため(年間280日地域を訪問)。

Ⅷ 社会生活モデルに基づく地域生活支援――医学モデル、入所モデルと違う

①地域生活支援では家族が果たしてきた機能、入所型施設が提供してきた機能を地域において本人の求めと専門職が必要とした判断とを踏まえた両者の合意による支援方針の決定とケアマネジメント及びサービス提供が必要

②その際に必要なアセスメントは、入所型施設でのADLを重視したアセスメント、疾病・治療における医学モデルのアセスメントではなく、社会生活モデルに基づくアセスメントが求められる
(アセスメントの大項目===生い立ち、願い等のナラティブ、労働的・経済的自立、精神的・文化的自立、身体的・健康的自立、生活技術的・家政管理的自立、社会関係的・人間関係的自立、政治的・契約的自立、住居、ソーシャルサポートネットワーク)

# イギリスでは、2016年に社会的処方(SOCIAL PRESCRIBING)という考え方が、NHSのプライマリケア領域で提唱され、全国ネットワークが結成された

Ⅸ 障害者・高齢者のための“福祉のまちづくり”から「福祉でまちづくり」及び「福祉はまちづくり」への転換

①農業の第6次産業化のみならず、障農連携・農福連携、あるいは契約栽培に基づく施設経営社会福祉法人の地産・地消経済による農業の第8次化の振興

②施設経営社会福祉法人の地域貢献と施設機能の社会化、地域化

Ⅹ 地域住民の孤立化,ソーシャルサポートネットワークの脆弱化と触媒としてのコミュニティソーシャルワーク機能

①1960年代末からの「新しい貧困」の登場と地域住民の孤立化,ソーシャルサポートネットワークの脆弱化

②1970年頃の子ども・青年の発達の歪み(人間関係・社会関係の希薄化、成就感・達成感の喪失、生活技術能力の脆弱化、帰属意識・準拠意識の希薄化、自己表現能力の脆弱化)の指摘と「生きる力」

③都市化、工業化における「家庭の孤立化」とショックアブソーバー機能の脆弱化

④都市化による「遊び場」の喪失と家屋構造の変容に伴う「中間空間」(縁側・土間・上がり框)の喪失による社会関係の希薄化

⑤「街づくり」、コミュニティデザインにおける交流機能、居場所づくりの“復活”

⑥住民活動の触媒、社会開発の触媒(物質の安定、物質の活性化、新しい物質の創造機能)としてのコミュニティソーシャルワーク機能

Ⅺ 地域包括ケアの考え方と地域共生社会への発展

①地域包括ケアの要件

ⅰ)個別ケアにおける医療・保健・介護・福祉の専門多職種連携による包括ケア

ⅱ)多問題家族・複合家族への世帯単位支援の包括ケア

ⅲ)制度化されたフォーマルケアと住民によるインフォーマルなソーシャルサポートネットワークとを有機化して、提供する包括ケア

ⅳ)単身高齢者・単身障害者等への「最期まで看取る」地域社会生活支援の包括ケア

ⅴ)福祉機器等の合理的・効率的ケアの提供による住民のQOL(生活の質)を高める包括ケア

Ⅻ 地域自立生活支援におけるICFの視点でケアマネジメントを手段として活用したソーシャルワークの展開

①価値・目的、ナラティブ(本人の生育史、願い、思い)に照らしたアセスメントの視点と枠組みとICF――福祉用具の活用とフィティング及び自立支援計画の立案

②アマネジメントにおけるサービスを必要としている人(ヴァルネラビリティ、利用しようと考えている人)へのエンパワーメントアプローチ

③ソーシャルワークにおけるニーズ対応型新しいサービス開発機能とケアマネジメント

④ソーシャルワークにおえる社会改善、ソーシャルアクション機能とケアマネジメント

⑤ケアマネジメントにおけるサービスプランニングと直接的対人援助としての伴走型ソーシャルワーク実践

阪野 貢/「まちづくり」は「動詞の物語」:「夏の甲子園」が終わった日に―長田弘著『長田弘全詩集』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、詩人であり随筆家である長田弘(おさだ・ひろし)の『長田弘全詩集』(みすず書房、2015年4月。以下[1])がある。[1]には、長田の詩集18冊、詩篇471篇が収められている。
〇今年の「夏の甲子園」が終わった日、[1]のページを何気なくめくっていた。「夏の物語―野球―」が目に留まった。(255~256ページ)

〇「愛する」も目に留まった。(412ページ)

〇そこで、ふと思った。「まちづくり」は、「町」「住民」「行政」「モノ」「事業」「計画」「開発」「整備」「運営」といった “ 乾いた ” 名詞では語れない。「まちづくり」は「動詞の物語」であると‥‥‥。

 まちづくり―動詞の物語―

 まちづくりは
 まちの課題や可能性を見出す
 まちの明日への希望を語り合う
 互いの経験を共有し、分かち合う

 まちづくりは
 まちの魅力や伝統、文化を育む
 まちの新たな暮らしを築き合う
 互いの心に寄り添い、励まし合う

 まちづくりは
 まちの誰かがその行動や営みを創り出す
 まちの人と人がつながり、学び合う
 互いの違いを尊重し、支え合う

 だから、まちづくりは
 愛するという動詞である

〇「まちづくり」は、そこに暮らす人々が、こうした動詞を重ねながら、自らの手で明日という日の物語を紡ぐことである。「まちづくり」という白いボールを追って、誰もが一人の担い手になって‥‥‥。

阪野 貢/「障害」を「個性」として捉えることの意義と課題 ―ジョーダン・スコットの絵本『ぼくは川のように話す』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、ジョーダン・スコット文、シドニー・スミス絵、原田勝訳の『ぼくは川のように話す』(偕成社、2021年7月。以下[1])がある。あることをきっかけに、この絵本を知ることになった。感謝である。
〇[1]は、カナダの詩人ジョーダン・スコットの、自身の経験にもとづくものである。吃音(きつおん)を持つ「ぼく」は、言葉が滑らかに出ないことを悩んでいる。ぼくが話すときの、クラスのみんなの笑い声がたえられない。そんなぼくを、父が静かな川べりに連れ出す。川の流れを眺めながら、父が僕に「ほら、川の流れを見てみろ。あれが、おまえの話し方だ」と語りかける。ぼくは、「あわだって、うずをまいて、なみをうち、くだけている」川の流れに、自分の話し方を重ね合わせる。「川だってどもっている。ぼくとおなじように」。このことがきっかけに、ぼくは自分の吃音を否定的に捉えるのではなく、ありのままに受け入れ、自己肯定感を取り戻していく。ジョーダン・スコットはいう。「ぼくはときおり、なんの心配もなくしゃべりたい、『上品な』、『流暢な』と言えるような、なめらかな話し方であればいいのに、と思います。でも、そうなったら、それはぼくではありません。ぼくは、川のように話すのです」と‥‥‥。
〇この物語のポイントは、吃音を克服して流暢に話せるようになることではなく、①ぼくが吃音の困難(障害)を「個性」として肯定的に捉え直し、それを受容することの大切さにある。このメッセージは、②「流暢に話すことが善である」という社会の固定観念に疑問を投げかけ、多様なコミュニケーションのあり方を認め、その違いを許容する社会の寛容さを問いかけている。また、この物語は、③ぼくの苦しみをありのままに受け止め、ぼくの言葉をじっと待ってくれる父の姿を通して、他者に深く共感し、無条件に寄り添い、伴走することの重要性を示唆している。

〇ここで、障害の「受容」とは、単に個人の心理的な側面だけでなく、障害を社会との相互関連のなかで捉え直し、障害に対する個人の内面的な価値観(感)の転換を図るとともに、社会的な環境の改善・変革を促すプロセスであることを思い起こしたい。(⇒本ブログ:<雑感>(239)本文を参照されたい。)

〇ところで、「個性」とその関連語である「属性」と「特性」について、『広辞苑』(第7版、岩波書店、2018年1月)はこう説明する。【個性】①(individuality)個人に具わり、他の人とはちがう、その個人にしかない性格・性質。②個物または個体に特有な特徴あるいは性格。【属性】(attribute)①事物の有する特徴・性質。②〔哲〕基体としての実体に依存する性質・分量・関係などの特徴。狭義には偶然的な性質と区別される物の本質的な性質。例えばデカルトでは、精神の属性は思惟、物体の属性は延長とされた。【特性】そのものだけが有する、他と異なった特別の性質。特質。性格特性。
〇「個性」とは、その人や物にしかない独自の性質や特徴をいう。その人や物に具わる主観的な「らしさ」や他の人や物とはちがう「ユニークさ」、すなわち独自性が重視され、ポジティブなニュアンスで使われることが多い。例えば、“個性的なファッション” “独創的なアイディア”などがそれである。「属性」とは、その人や物が属する特定の集団に共通してみられる性質や特徴をいう。その人や物が持つ個別性よりも共通性が注目され、客観的な「カテゴリ」や社会的分類の「ラベル」として、価値判断を含まないニュートラルな意味合いで使われる。例えば、“性別” や “年齢”、“職業”などがそれである。「特性」とは、その人や物が持つ本質的で、他と比べて目立った性質や特徴をいう。個性や属性を構成する要素のひとつである。例えば、“生物の特性” や “製品の特性”、“性格特性”などがそれである。
〇要するに、「個性」は「その人や物ならではの独自の持ち味」、「属性」は「共通の集団に分類するための客観的な特徴」、「特性」は「他のモノと区別される顕著な性質」、と言えようか。(図1 参照)

図1 人間と個性・属性・特性

〇「障害個性論」について一言する。それは、障害を単なる身体的・機能的な欠損や問題として捉えるのではなく、唯一無二の存在である人間が持つ多様な個性のひとつとして肯定的に評価する。そして、障がい者の尊厳を尊重し、社会全体に多様な人間のあり方を認め、社会の共生を推進することをめざす考え方である。しかしそこには、障害者が現実的に直面する物理的・社会的な困難や問題が表層的な、場合によっては美的な「個性」という言葉によって矮小化される。そして、その責任が個人化され、本質的な社会構造的視点(「障害の社会モデル」:障害を社会の構造や環境によって生じるものとして捉え、社会の側に改善や配慮を求める考え方)が見落とされる恐れがある。すなわち、肯定的な意味合いを持つはずの「個性」という言葉が、社会構造的な課題に対する公的責任や共生に向けた取り組みを放棄あるいは希薄化させる危険性を孕(はら)んでいるのである。「障害個性論」は、その肯定的な側面を活かしつつ、社会の責任を厳しく追求し、いかに社会変革を促すかが問われるのである。
〇「障害は個性である」や「みんなちがって、みんないい」(金子みすゞ)といった言葉が、障がい者との共生をめざす文脈でしばしば使われる。しかし、これらの言葉は、どちらかと言えば障がい者との単なる友好関係を築くための言葉であり、障がい者に対する偏見・差別や不平等などの人権侵害を抑止・糾弾し、社会の構造を変革していく言葉ではない。ここで、こうした言説について改めて銘記したい。(⇒本ブログ:<雑感>(144)本文を参照されたい。)


付記

筆者は、「わたしは20代になって、吃音から解放されました」というN氏の言葉を思い出す。その言葉には、「大人になっても吃音で苦しみ、惨めな思いをする人はお気の毒です‥‥‥」という心の内が透けて見えるようでもあった。同じ障害を持つ人々や、異なる種類や程度、あるいは原因による障害を持つ人々の間で生じる偏見や差別(「内部差別」「当事者間差別」)、その社会構造的な背景や問題点、その解消法などについて論究することが求められる。

阪野 貢/日本の美意識が育む「まちそだち」:「奥」と「熟れ」の思想から考える ―福本繁樹著『「染め」の文化』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、福本繁樹(ふくもと・しげき)著『「染め」の文化―染み染み染みる日本の心―』淡交社、1996年5月。以下[1])がある。著名な染色家であり民族芸術学者である福本が、およそ30年も前に著した本である。言うまでもなく、「染め」は、色付けの単なる技術ではなく、作り手の手作業に宿る精神性や感性、そして社会の価値観や人々の生活様式などが深く反映される行為である。そこで、福本は[1]で、単に「染め」の技術的な側面だけでなく、日本の「染め」が持つ社会的・文化的かつ歴史的な背景や意味、すなわち「染めの文化」について探究する。その論述は、染色家としての制作経験と民族芸術学者としての視点・視野を融合させたものであり、それゆえに奥深く、興味深い。
〇本稿では、「染め」のひとつの背景として福本がこだわり、それを説く「奥」(おく)と「熟れ」(なれ)についてのみメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

「奥」の文化と「染(し)みる」という作用
無意識ではあっても、自己の心に染みついた直観的なこだわりはどこかに必然性を秘めている。あるとき自然にそのこだわりが整理されて、論理的な認識となることがある。染色家の私は、これまで「染め」と「奥」とにこだわりをもって制作にとりくんでいたが、最近、日本の「奥」の文化は「染め」の文化ときわめて密接な関係があるのではないかと考えるようになった。ともに日本人に特異な美的感性にかかわる重要な文化である。(22ページ)
つつむ、箱にいれる、かさねる、覆う、などは、「奥」をつくる一連の行為と考えられる。中身にたどりつくまでの距離や段階をつくるため、遮断、隠蔽、抵抗、隔離、絶縁することである。深い「奥」を形成して、神聖な結界を設ける。そこには神や心が宿る。このような「奥」を形成する文化は、あらゆる分野にじつにひろく深く根ざし、日本独自の発展をみせたと指摘される。(26ページ)
研究や技術が、奥深い境地に達することを「堂に入る」(どうにいる)という。それに対する褒め言葉は、「奥深い」「奥行きがある」「奥ゆかしい」などとするのがいい。おなじ褒め言葉でも、「好し」「きれい」「りっぱ」「みごと」などとしても、場合によっては「お人好し」「きれいごと」などと皮肉になることすらある。「りっぱ、りっぱ」「おみごと」などといわれても、はたして心底褒められているのか疑わしいものだ。「奥」に対する価値感は絶対的だ。「奥」にこだわって、「奥深い」「奥行きがある」「奥ゆかしい」と形容できる日本文化がどれだけあるかを考えてみると、じつに多いことに気づく。また日常的にも、感情的にも、われわれは「奥」の文化と深くかかわっている。(27ページ)
奥に作用をおよぼす有効的な方法がひとつある。それが「染みる」ということだ。表面全体からジワジワと攻めて、表面に何らの傷も残さず内部に入り込み、いつの間にか全体にいきわたって、中心部にまで到達する。そして全体の色を芯から大きく変化させる。「染みる」という方法によってのみ、奥は作用をうけて変容をとげる。「染みる」ことは「奥までとどく」ことだといいかえることができる。(30ページ)
「奥」に対峙するものが「染め」であり。「奥」と「染め」は切っても切れない関係の、一組、一対のものと考えることができる。「奥」の文化を抜きに「染め」の文化を語ろうとすれば、「染め」の意義の重要部分に触れ得ないでおわってしまう。(30ページ)

〇要するに、福本にあっては、日本の文化における「奥」とは、包む、重ねる、覆うなどの行為によって中身との間に距離や段階をつくり、神聖な空間を設ける文化のことをいう。この「奥」は、日本人の特有な美的感性に関わる重要な要素であり、「奥深い」といった言葉でその価値が表現される。この「奥」に作用を及ぼす有効的な方法が「染みる」(しみる)ことである。それは、表面から徐々に内部へ浸透し、中心部にまで到達して全体を変容させる行為を指す。そしてこの「染みる」という行為は、染色という文化の根幹をなしている。従って、「染めの文化」を深く理解するためには、まず「奥」の文化への理解が不可欠であり、「奥」と「染め」は切っても切り離せない関係にあるのである。

「熟(な)れ」の美学と風化の価値
日本人の感性や芸術を語るとき、かならず問題とされるのは、日本人の自然景物への情熱的な関心であろう。(95ページ)
イギリス人ばかりでなく欧米人は、苔(こけ)をカビか金属のサビのように、汚らしいいやなものととらえるようだ。終戦後、日本家屋がアメリカ軍に強制借りあげになったが、駐留軍がひきあげたあと、古色蒼然たる館の、黒光りした素木(しらき)の柱はすっかりペンキが塗られ、苔むした庭の石灯籠はワイヤー・ブラシで真っ白に磨かれていて、日本人が「アッ!」と驚いたという。(95~96ページ)
苔への関心度、価値観、美的評価は、日本人独特の感性を顕示するものだろ。「苔むす」とは苔が生えることだが、転じて、長い年月がたつ・古めかしくなることをいう。日本人は古めかしくなることに価値をおく。日本の伝統的美意識に「色熟れ」(いろなれ)というものがあり、「馴染む」(なじむ)ことをよしとして、「風化」をよろこび、「古びる」ことに価値をおく。(96ページ
熟成・円熟・熟考・熟睡・熟達・熟知・熟慮・熟練などの熟語にみられる「熟」の意のように、完全・十分な状態に達することを「熟れる」(なれる・こなれる・うれる)という。「熟」は古びてさらに良しという意味である。(96ページ)
古色の好きな日本人は一方で清潔好きである。古色と汚れの違いは、ときとして微妙である。しかし日本人は風化と穢(けが)れを区別する。風化は自然の仕業だが、穢れは世間の仕業である。いかにも人工的な汚れが、穢れとして嫌われる。(99ページ)
「熟れる」をよしとする日本人の感性は、あらゆるものを生態のうちにとらえる資質を示すものだろう。「生態」とは生存の様式のことで、うつろう、ほろびるということはいのちがある証であり。そのいのちこそ大切だということだ。あらゆるものを「生態」のうちにとらえ、そこに「美」を見出す生態学的な感受、それが日本人の感性の基幹をなすものではないかと考える。(100ページ)

〇要するに、福本にあっては、日本人の美意識は、自然に対する深い関心と結びついており、苔を趣のあるモノとして評価するように、特に長い年月を経て味わい深くなること、すなわち「熟れる」こと、「古びる」ことに価値を置く。この「熟れ」という感覚は、清潔好きな日本人にとって、自然の仕業である「風化」を好み、世間の仕業である汚れ(穢れ)を明確に区別する。そして、あらゆるものを「いのちあるもの」として捉え、移ろいゆくその姿に美を見出すという繊細な感覚が、日本の美意識の根底をなしているのである。
〇言うまでもなく、「まちづくり」には、その “ まち ” ならではの歴史や伝統文化、自然環境、地域産業などの地域特性を活かし、そこに暮らす住民の “ まち ” に対する愛着や誇りを育むことが必要かつ重要となる。また、「まちづくり」は、住民一人ひとりが主役となって、その “ まち ” が持つ「物語」を紡ぎ、「らしさ」を育み、「夢」を織りなす、そのプロセスが重視されなければならない。それによって、その “ まち ” の個性や魅力が向上し、コミュニティの活性化が図られ、持続可能性が確保されることになる。
〇本稿で取り上げた福本の「奥」と「熟れ」についての言説(思想)は、ギスギスとした効率性や合理性を追求するだけの「まちづくり」を超え、日本の美的感性を活かした「まちづくり」の指針となり得る重要な視点であり要素である。すなわち、“ まち ” に静かに「染み込み」、時間をかけて「熟成」していくプロセスこそが、その “ まち ” の真の個性を育むことになる。また、住民一人ひとりの思いや願いが “ まち ” に染み渡り、風化を恐れず、古くなることを美と捉えるような、その “ まち ” ならではの文化を育むことになるのである。別言すれば、「まちづくり」は、単に計画されたものを「つくる」のではなく、一人ひとりの住民がその “ まち ” の生命力を引き出し、それを「そだてる」プロセスこそが大切にされるべきなのである。それは、「まちづくり」を超えた、「まちそだち」と言えようか。

老爺心お節介情報/第73号(2025年8月15日)

「老爺心お節介情報」第73号

地域福祉研究者の皆様
社会福祉協議会関係者の皆様

暑い日がまた戻ってきましたが、皆様お変わりありませんか。
「老爺心お節介情報」第73号をお届けします。ご活用ください。

2025年8月15日  大橋 謙策

〇立秋が過ぎたというのに、いまだ酷暑が続きます。皆様にはお変わりなくお過ごしでしょうか。
〇私の方は、7月は各地のCSW研修で東奔西走しましたが、8月に入り、お盆までのんびりと過ごせ、英気を養うことができました。毎日の家庭菜園、庭木への水やりをする他には、週2回ほど地域の囲碁クラブに出かけ、対局を楽しみました。
〇また、このところ筋力の衰えを実感していましたので、8月より近くの民間のスポーツジムNASの会員になり、機器を使って筋力トレーニングを始めました。80歳の筋力は、20歳代の半分だといわれていますので、“年寄りの冷や水”かもしれませんが、チャレンジしたいと思っています。通うのが楽しい日々になりました。
〇8月20日から22日まで、ソウル特別市社会福祉協議会の金玄勲会長(日本社会事業大学の学部、大学院での教え子)の招聘により、韓国・ソウル市を訪問することになりました。
〇当初は、拙著『地域福祉とは何か』を金玄勲さんがハングル語に翻訳してくれ、その出版記念会への招聘でしたが、20年振りくらいに日韓地域福祉学術交流をしようということになり、日本地域福祉研究所からも田中英樹副理事長や原田正樹日本福祉大学学長なども参加されることになりました。
〇学術交流としての訪韓は久しぶりなので、今回の訪問では、金成垣・金圓景・呉世雄編著『現代韓国の福祉事情』(法律文化社、5700円)を読んで、学習していきました。その本を読んでの私の韓国理解の概要を下記にまとめてみましたのでご参照ください。
〇今日は、終戦後80年の節目の日です。今、日本では「排外主義」の主張が高まっていますが、今年は「日韓国交正常化50周年」ですし、「村山談話」発出30周年です。
〇改めて、日本が戦前の軍国主義の時代に行った様々な蛮行に思いを致し、蹂躙された国の方々の辛い、悲しい思いに心を寄せ、二度とあのような蛮行の過ちを繰り返さないためにも国民レベルの平和友好交流を強めたいとしみじみと思いますし、誓いました。
(2025年8月15日、終戦の日に平和共生を祈念して)

Ⅰ 韓国の社会福祉の現状

〇筆者が韓国と学術交流していたのは、1990年代後半のアジア通貨危機の時代から2008年の韓国の介護保険である長期療養保険制導入時代である。
〇1990年代後半に、日本地域福祉研究所を中心に「韓日地域福祉実践研究セミナー」をソウル市、大邱市、釜山市、光州市などで開催してきた。
〇また、日本社会福祉学会会長、日本地域福祉学会会長時代の2000年初頭には学会の学術交流協定や日本介護保険制度に関わる学術交流をしてきた。
〇今回の訪韓は、学術交流としては久しぶりで、この20年間近い期間に韓国の福祉事情が大きく変化してきていることを『現代韓国の福祉事情』を読んで実感した。
〇『現代韓国の福祉事情』の編著者である、東大教授の金成垣先生の論文は大変参考になった。
〇金成垣先生の学説は、韓国の社会福祉・社会保障は、資本主義先進国で確立した従来の「福祉国家」体制ではなく、新しい「社会サービス国家」ともいえるもので、「社会保険でない制度」、「準普遍主義」に基づく政策が展開されているのだと指摘している。それを可能にさせているのが、「総合社会福祉館」、「老人福祉館」、「障害者福祉館」で、そこを拠点に地域福祉活動が展開されているのが特色だとも指摘している。
〇筆者は、日本地域福祉学会会長の時代(2000年代初頭)に「地域福祉実践・研究に関する日本と韓国の学術交流協定」を締結したが、相手の韓国の学会名は「韓国地域社会福祉学会」である。
〇韓国は、その当時、市町村の権限、役割も弱く、市町村社会福祉協議会の位置づけも法的にはない状態だった(韓国の市町村社会福祉協議会が法制化されたのは、確か2021年?)。
〇筆者は、地域福祉における日本との比較研究をする枠組の要は、「総合社会福祉館」等のセツルメント実践の流れである地域福祉施設が重要なのではないかと指摘してきた(ただし、「総合社会福祉館」の設置は人口10万人に1か所が目安)。
〇日本でも、近年の「地域共生社会政策」の中で、子ども、障害者、高齢者を問わず誰もが通い、集い、時には泊まれる全世代対応型の「小さな拠点」の設置の必要性がうたわれ、既に高知県などにおいて「ふれあいあったかセンター」の実践が、限界集落、人口減少地域で大きな成果を上げていることを考えると、韓国の「総合社会福祉館」や農村部の「マウル館」等と日本の「小さな拠点」施設との比較をしつつ、地域住民のインフォーマルケアをどう位置付けるかの比較研究をする必要性がある。
〇いずれにせよ、金成垣論文を読んで、日韓地域福祉比較研究の枠組みが大変明確になった。
〇ただ、金成垣先生は、従来の社会保障関係の学説である“現金給付とサービス給付は代替関係にある”という学説に囚われず、韓国では現金給付とサービス給付との関係は代替関係ではなく、補完関係にあると考え、新しい「社会サービス国家」という考え方を打ち出した。その在宅福祉サービス(韓国では在家老人福祉事業)を「総合社会福祉館」等で現物給付する形で提供しているのが特色だと指摘している。
〇金成垣先生の学説は、日本の在宅福祉サービスの開発、研究を牽引してきた三浦文夫先生がイギリスのティトマス等に学び、貨幣的ニーズでは対応できない非貨幣的ニーズの必要性が都市化、工業化、核家族化の中で生活ニーズとして登場してきており、その対応が必要であると論述してきたことや江口英一先生が1960年代の不安定就業層に対する地方自治体での福祉サービスの整備が必要であると論述した考え方との関りや整合性を改めて検討する必要があるのではないかとの感想を持った。
〇日本では、現在、1960年代末から指摘されてきている「新しい貧困」の問題がより深刻化し、生活のしづらさを抱えている家庭の生活技術能力や家政管理能力などへの支援の必要性が増大してきているし、かつ、「ひきこもり」と称される人が246万人にいると推計され、孤立・孤独問題が深刻化している。更には、一人暮らし高齢者、一人暮らし障害者の増大に伴うそれらの人々の身元保証問題、入退院支援、終末期支援、死後対応サービスの必要性が喫緊の大きな課題になってきている。
〇これらの問題も含めて、韓国の「社会サービス国家」論と日本の「地域共生社会政策」との比較研究が必要だと思った。
〇『現代韓国の福祉事情』に基づき、日本との比較の視点も入れて韓国の福祉事情の特色、特徴を述べるとすれば、以下の点を挙げることができる(概要で述べる内容は、『現代韓国の福祉事情』の中に書かれていることで、一つ一つ引用個所を明示するのは煩瑣になるので省略させて頂いた。ご了承頂きたい。なお、日本の記述は筆者の考えである)。

➀韓国は、人口が2022年時点で5169万2000人、2000年に高齢者人口比率が7%になり、高齢化社会になった。2017年には高齢者人口が14%を超え、高齢社会になっている。日本以上に速いスピード(日本は24年で到達)で高齢化が進んでいる。
子どもの合計特殊出生率は、OECD諸国の中で最低の0・78(2022年)で、日本の1・26よりはるかに低い。
韓国では、高学歴化における受験戦争の激化、ソウル一極集中における住宅難、不安定就業による生活の見通し不安等の要因が影響して少子化が改善されていない。

➁韓国では、就業形態別の雇用保険の加入率が、正規労働者で78・1%、非正規労働者で44・4(2019年)と低い。かつ、不安定就業層が多く、臨時雇用者の割合が2019年で24・4%、かつ自営業者の割合が24・9%と多く、「福祉国家体制」の下になる正規の常用雇用者による社会保険制度の成熟度が進んでいない。
韓国では、1999年に「国民皆保険・皆年金」体制が実現したが、2015年時点で、非正規労働者の年金加入率は37・0%、医療保険は43・9%、雇用保険は42・1%である。
日本では、高齢化社会に入った1970年前後に、急激な都市化、工業化、核家族化の中で、家族が高齢者を経済的に扶養できず、かつ年金も未だ成熟していていない時代であったこともあり、国が低所得層の高齢者に「老人福祉手当」を支給したことと同じように、韓国でも社会保険だけでカバーできない部分を国が税金によってサービスを現物給付する形態で賄っている。

➂日本の公的扶助制度である生活保護制度に該当するのが、現行の韓国では2000年10月に施行された「国民基礎生活保障制度」である。
韓国では2022年までは、「扶養義務者基準」が厳しく(扶養義務者の所得(年収1億ウオン以上)、および資産(保有不動産価格9億ウオン以上)があれば扶養義務基準を適用)、適用されていた。
他方、勤労能力のある貧困者には、多様な働く場としての自活事業が用意されているし、創業教育、機能訓練及び技術・経営指導等の創業支援、自活に必要な資産形成支援等が展開されている。
この自活事業の多様なプログラムは、韓国で2007年に制定された「社会的企業育成法」に基づき育成支援されている「社会的企業」、「協働組合」、「マウル企業」、「ソーシャルベンチャー企業」の取組とも関わっていて、「自活企業」だけでも2021年時点で997企業が経営されている。
日本では、生活困窮者などに対する支援で、“一般就労”支援が中心になっているが、韓国のように、新しいプログラムを開発しながらの支援は日本でも大いに参考にすべきである。
韓国では、このような状況もあり、社会福祉士養成カリキュラムに「プログラムの開発及び評価」、「社会福祉資料分析論」が取り入れられている。かつ、「総合社会福祉館」には、社会福祉士が義務設置化されていて、外部資金の獲得や地域資源の開発・連携に取り組んでいる。
筆者、コミュニティソーシャルワーク研修において、「問題解決プログラムの企画立案」や「地域福祉・地域包括ケア基本情報シート」の作成を取り入れているが、考え方は全く同じである。日本の社会福祉士の養成カリキュラムが“時代錯誤”なのである。

➃韓国では、「長期療養保険制度」がドイツ、日本に学び2008年7月から導入された。
しかしながら、日本で2006年に始められた介護予防事業は制度化されていない。
韓国の介護予防事業は、全国に357か所あり、300万人の会員を擁している「老人福祉会館」で展開されている。その活動を支える従事者が14000人配置されている。
日本では、1990年代に全国社会福祉協議会が主導して全国各地の市町村社会福祉協議会が「住民参加型福祉サロン」を創設し、活発な活動を展開していた。
しかしながら、2000年の介護保険制度の実施の際に、国民の理解を得るためか、福祉サロンに通う高齢者も介護保険制度のデイサービスを利用できるようにしたことにより、「住民参加型福祉サロン」は衰退していく。
ところが、介護保険財政が厳しくなると、2006年に介護予防事業制度を導入し、再度「住民参加型福祉サロン」を推奨させるようなシステムを作り出す。
韓国では、一貫して介護予防は老人福祉館で行われている。老人福祉館は、1989年にモデル事業として取り組み始められた。
老人福祉館の基本事業は、「生涯教育支援事業」、「趣味余暇支援事業」、「相談事業」、「情緒生活支援事業」、「健康生活支援事業」、「社会参加支援事業」、「危機および独居高齢者支援事業」、「脆弱老人保護連携網構築事業」の7つである。
選択事業としては、「敬老堂革新プログラム」、「高齢者住居改善事業」、「雇用および所得支援事業」、「家族機能支援および統合支援事業」、「地域資源の開発と連携、高齢者権益増進事業」の5つがある。
この老人福祉館は「地域食堂」の機能も持っており、安価な3000ウオン程度で利用でき、かつ生活困窮者には無料で昼食が支給されている。
老人福祉館の個人の利用料は3か月で2万ウオンから4万ウオン程度である。老人福祉館の運営費は、市区町村からの補助金の他、共同募金、協賛会費などで賄われている。

➄日本でも「離別によるひとり親世帯における非養育者の養育費不払い問題」は深刻で、母子家庭における養育費を支払っている非養育者の比率は28%と言われている。
韓国でも同じような問題を抱えており、2014年に「養育費履行確保法」が制定され、かつ2020年からはそれがより強化され、「行政制裁として、運転免許停止処分及び出国禁止、身元公開(氏名、年齢、職業、住所、養育費債務不履行期間、養育費債務額)」が規定され、かつ刑事罰まで法制化された。
日本でも、行政が代執行して養育費を支払わせる制度の確立が望まれている。

➅日本では、2023年5月に「孤独・孤立対策推進法」が制定され、孤独問題担当大臣を設置するほど孤立・孤独問題は深刻化している。
筆者が、孤立・孤独問題に関心を寄せたのは、旧自治省系の自治行政センターの依頼を受けて、「行政とボランティア活動との関係に関する調査研究」で、三浦文夫先生とヨーロッパ諸国を訪問した1982年である。
その際、スウエーデンを訪問したが、スウエーデンのソーシャルワーカーが日本の老人クラブの実践を学びたいと話をした。その理由が、スウエーデンではその当時、高齢者の孤立・孤独問題が深刻で、日本の老人クラブ活動に学びたいということであった。
当時の日本の老人クラブへの加入率は75%程度(現在は17%程度)あり、地域の老人たちがクラブ活動をすると同時に、地域の一人暮らし老人たちへの友愛訪問活動をしていることを参考にしたいという話であった。
その後、イギリスでは2018年に孤独担当大臣を設ける等、ヨーロッパ諸国での孤立・孤独問題は深刻化していった。
韓国では、2020年3月に「孤独死予防法」が制定された。これに先立つ対策として、2007年に「老人福祉法」が改正され、独居高齢者支援が法定化された。
2020年には、「老人個別型統合サービス」に統合整理され、安全支援、社会参加、生活教育、日常生活支援という「直接サービス」、生活用品支援、住居改善、健康支援等の「連携サービス」、孤立型グループ、抑うつ型グループへの「特化サービス」の業務が展開されるようになった。
「老人個別型統合サービス」の実施機関は2023年時点で全国681か所あり、その中で「特化サービス」を実施している機関は191か所である。
「老人個別型統合サービス」の実施機関には、専担社会福祉士と生活支援士が配置され、対象者選定とケアマネジメント及びソーシャルワーク機能を担当している。

➆韓国では、日本以上に少子化が進んでおり、労働力をカバーするために、日本以上に外国人労働者を受け入れている。2022年末現在で、韓国の在留外国人は224万59912人で、全人口の4・37%を占めている。
これらの在留外国人の生活支援のために、韓国では2007年に「在韓外国人処遇基本法」を制定している。また、2008年には「多文化家族支援法」を制定し、韓国の社会福祉事業による福祉的支援に法的根拠を持たせることになった。
「多文化家族支援法」では、多文化家族に対する理解促進、生活情報の提供および教育支援、家庭内暴力被害者に対する保護・支援、医療および健康管理のための支援、多言語によるサービス提供および「多文化家族向け総合情報コールセンター」の設置・運営、外国人支援を行っている民間団体への支援等が定められている。
これらの法律でいう「在韓外国人」とは、韓国の国籍を持たないもので、韓国に居住する目的で合法的に滞在している者、「結婚移民者」とは、韓国の国民と婚姻したことがある者または婚姻関係にある在韓外国人である。
一方、「多文化家族」とは、「結婚移民者または韓国の国籍を取得した者からなる家族」のことで、外国人夫婦のみの世帯、外国人労働者、留学生は含まれていない。しかし、近年では、多分化家族の定義を広く適用しているという。
韓国での在留外国人への政策は、日本でも学ばなければならない課題である。

➇韓国は、国連の世界デジタル政府ランキングで、1位、2位を競うレベルのデジタル化が進んでいて、日本の比ではない。
韓国のデジタル政府を推進する根拠法は、1995年制定の「情報化促進基本法」、2000年の「デジタル政府法」、2009年の「国家情報化基本法」によるところが大きい。
福祉業務に特化した情報システムとしては、2010年に「社会福祉統合電算網」によるところが大きい。
それは、社会保障基本法の中で、「社会保障の受給者の決定や給付管理などに関する情報を統合・連携して処理する情報システム」であり、それは保健福祉部(日本の厚生労働省に該当)の福祉事業の業務を電子処理する「幸福eウム」と各省庁の福祉事業業務の電子処理を支援する「凡政府」との2種類がある。
「幸福eウム」は、地方自治体福祉業務と連繋して、各種社会福祉サービスの給付や受給資格、受給履歴の情報を統合管理している。
この2つの情報管理により、国税庁や国民健康保険公団、国土交通部(日本の国土交通省に該当)等の公共機関の所得及び財産情報を活用して不正受給や死亡届の提出遅延、未提出による“受給の不正”を防止している。
また、この情報システムを活用して、申請主義のために、本来受給できるにもかかわらず申請できない人を発見・把握し、支援につなげられるようになった。
更には、2014年12月に「社会保障給付の利用、・提供及び受給権者の発掘に関する法律」が制定され、電気料金や水道料金の滞納等公共料金の滞納にも関わらず、社会福祉関係者がアウトリーチできていない世帯を発見・把握し、職員を家庭訪問させ、申請につなげられるようになった。
一般的に、ICT化は低所得者や低学歴の人の生活に及ぼす影響・効果は限定的で、ややもするとのその利活用から疎外されがちであるが、韓国では逆にそれらの人々へのアプローチの手段として活用できていることは注目に値する。
いまや、福祉サービスへの福祉アクセシビリティがぜい弱な人々を発見・把握するために活用する情報は、通信費滞納、金融債務滞納、健康保険料滞納等にまで広がり、44種類にも上っている。

➈「マウル館」は、“地域社会の中心地として機能し、街の集まり、地域の市場、祭りなどの各種活動ができるように一定の設備を備えた建物で、一般的に多目的ホール、小さな会議室、演劇場、キッチン、トイレ、駐車場などの設備が含まれる”施設である。
「マウル館」(韓国語辞書では、マウルとは主に田舎でいくつもの家が集まって住むところと定義されている)は、1970年代のセマウル運動のセマウル会館として全国的に設置されていったが、現在は行政上の明確な管理主体がない状態である。
現在、「マウル館」は、全国に36792か所設置されており、自宅から「マウル館」まで10分以内の距離に設置されている村が95・5%である。距離的アクセシビリティはすこぶるいい。
「マウル館」は、1階建ての単独建物が多く、「敬労堂」と複合的に運営されているところが多い。
「マウル館」でも「地域食堂」としての機能を有しており、一日1回の食事提供が最も多く、69・3%、一日に2回の食事提供するところが22・3%である。
「マウル館」の運営は、里長(自治会長)が最も多く68%、老人会長が運営するところが24・1%である。
食事の提供に関わる経費は、住民たちが分担するが30・6%、「マウル運営資金の支援」が28・3%、「政府と自治体の支援金」が19・8%である。
農村地域の高齢化率は2020年時点で46・8%となっており、冬の期間、各自の自宅で暖房をつけるのには経費が掛かるが、「マウル館」に居ればそれも節約できることから、暖房施設のある「マウル館」の冬の期間における存在意義は大きい。
韓国の228自治体のうち、113の自治体が消滅危機にあるなかで、「マウル館」を拠点にしての地域づくりは、日本の限界集落との比較研究をする上で重要である。高知県の「ふれあいあったかセンター」がその比較研究する上で最適である。

➉「総合社会福祉館」は、韓国・社会福祉事業法第2条で「地域社会を基盤に一定の施設と専門人材を備え、地域住民の参加と協力を通じて地域社会の福祉問題を予防または解決するために総合的な福祉サービスを提供する施設」と規定されている。
「総合社会福祉館」は、2023年現在、全国に479か所設置されており、人口10万人当り1か所の目安で設置されている。
当初、「総合社会福祉館」は、低所得者が密集している永久賃貸住宅団地を中心に設置が進められたが、その後戸別の住宅面積が狭い住宅団地住民の生活福利のための共同の福利施設として住宅法が改正されて、設置、利用が少し変容していく。
「総合社会福祉館」は、「地域社会の特性や地域住民のニーズを踏まえた事業」、「官民の福祉サービスを連携した事例管理事業」、「地域の福祉共同体の活性化を目指した福祉関連の資源管理や住民教育」、「住民組織化等に関する事業」等が社会福祉事業法第34条の5に規定されている。
利用対象者は、社会福祉館の位置する地域のすべての地域住民となっているが、特に国民基礎生活保障の受給者や生活困窮者、障害者、高齢者、一人親家庭、多文化家庭、保護と教育が必要な幼児・児童・青少年、その他緊急支援が必要と認められるものが優先されると社会福祉事業法34条の5で規定されている。
全国の社会福祉館479巻のうち、社会福祉法人運営が約7割(338か所)、次いで財団法人、社団法人は都築、地方自治体の運営もある。
社会福祉館は、その建物の大きさにより「ガ型」、「ナ型」、「ダ型」に分けられている。
その運営費はおおむね年間予算が10~30億ウオンである。
社会福祉館の専門人財の配置は、「事例管理」、「サービス提供」、「地域組織化」、「行政及び管理」を実施しているかどうかと、その設置されている地域が「特別市」、「広域市」、「特例自治市・道・特例自治道」の違いによっても配置される人材数が異なる。
韓国の「総合社会福祉館」の源流は、1906年アメリカの宣教師・メソジスト教会の女子宣教師であったメリー・ノールズが始めた元山での隣保館運動で、その拠点が「班列房(バンヨルバン)」であった。その後、キリスト教関係者や大学関係者によって「社会福祉館」は作られていく。
「総合社会福祉館」としての制度化は、1983年に社会福祉事業法が改正され、社会福祉館への財政支援と地域住民の利用施設としての位置づけが規定されてからである。
韓国では、1998年に社会福祉士1級国家試験制度が実施され、今では社会福祉館の採用条件に社会福祉1級を条件としているところがほとんどである。

Ⅱ 韓国で2026年3月から実施される『医療·介護など地域ケアの統合支援に関する法律(ケア統合支援法)』の概要――韓国・崔太子さん提供資料

原 良子/「つながり」に生きる―地域と福祉と教育と―

私は、「地域・福祉・教育」と「つながり」という言葉を大切にしてきました。

大学卒業時、学校ではなく、地域での仕事を選びました。当時は、就学猶予・免除という名のもとに、教育を受けられない障害児たちが地域にたくさんいたからです。けれど、東京都の職員としてはすぐに障害のある子どもたちに関わることができず、とりあえず児童館職員となりました。初めは異動希望を出していましたが、そのうち児童館での課題、やりがいも見えてきて続けるうちに、いつの間にか児童館から離れられなくなっていました。

結果的には、定年まで、児童館職員として勤務しました。子どもたち、保護者、地域の皆さんとの毎日はとても充実していました。退職後は、北区の区民相談室での勤務後、放課後子ども教室の放課後コーデイネーターの仕事をしながら、地域で絵本の読み聞かせや工作指導などのボランティアをしてきました。

コロナ禍では、高齢者はステイホームといわれ、ボランティアもできなくなりました。やがて、ステイホームも長くなり改めて何かしたいと思うようになりました。 75歳のとき、「日本語教師養成講座420時間」を受講し、無事修了しました。

現在、公立小学校で日本語を母語としない児童への日本語指導をしています。日本語教師になりたかったのは、児童館勤務だったとき、外国籍の子どもが来館してもなかなか力になってあげられなくて、彼らに日本語を教えてあげられたら、と思っていたからです。やり残したこと?をやりたいと思ったのです。

児童館時代に出会った子どもたちとの思い出はたくさんあります。でもそれらは、もう、20年以上も前のことになります。

児童館には様々な子どもたちが自分の意志でやってきます。障害のある子ども、虐待を受けている子ども、発達障害に苦しむ子ども、貧困家庭で育つ子ども、親の期待から塾や習い事に追われ「時間が怖いよ」という子ども、などなど。

保護者が子育ての様々な悩みを抱えていることも見えてきました。児童館で何ができるか。しなければならないのか。地域での子育てをどうすればいいのか。学校、保健センター、児童相談所、地域の方々などとの連携をどのように取ればよいのか。先輩たちからは、理論と実践は車の両輪だといわれましたが、両輪を支える車軸は何か、など、理論不足の私にはわからないことだらけでした。

特別支援学級が特殊学級といわれていた頃から、なぜかどの児童館へ異動しても、私の周りにはその学級に在籍する子どもたちがいました。なんとなくお互いに引き合っていたのかもしれません。児童館がそんな彼らの居場所になって欲しいと思っていました。絵本を持って彼らの学級におじゃまして、読み聞かせをしたり、一緒に給食を食べたこともありました。下校後、彼らの地域での居場所として児童館を知って欲しかったのです。

ネグレクト、虐待されている子どものことも忘れられません。夏休みなどは、子どもたちは昼食のために、12時から1時までは自宅へ帰ります。その間は私たち職員の昼食、休憩時間でした。ところが、家に帰ったはずの子どもが、30分もしないうちに児童館の玄関前にやって来るのです。暑いなか、外で待たせるのはしのびないので、冷房の効いた玄関に座って待たせることになるのですが、お昼ごはんを食べてきたわけではないのです。

それが、続くと、見かねてコンビニでおにぎりを買ってきて食べさせたこともありました。彼は1年生でした。そんな彼をいつも気にかけてはいたのですが、ある日、ランドセルを背負って来館し、「きょうはよろしくおねがいします」とお母さんが書いたメモを私に渡すのです。児童館へは学校から家に帰ってから遊びに来ることになっていたので、学童クラブの子ども以外はランドセルを背負ったまま児童館に来ることはないのです。

たまたま、子どもを送って児童館に来た保護者の方が、彼のお母さんの事情を知っていて、とりあえず彼をそのまま受け入れました。お母さんは、いろいろな事情があり、精神的に治療が必要であることを知りました。当時私は館長職であり、地域の学校、保健センター、保育園などとの「つながり」を大切にしていましたので、学校と保健センター、彼の在籍していた保育園に連絡して相談しました。彼のこれからのことを考えると、一度関係者が集まって話し合うことが必要だと思いました。

小学校の校長に相談すると快く、学校でその会議を開くことを了承してくださいました。保健センターとは、乳幼児活動を児童館でもしていたので、日常的に保健師さんと顔の見える関係を築いていました。

学校(校長、担任)、保健センター(保健師)、保育園(園長)、北区立ほっと館(母親への支援、児童相談所との連携をしている児童館。館長)、地域の児童委員(子育て相談員として児童館に来ていただいていた)、そして私(児童館長)が集まり、それぞれが情報提供し今後のことを話し合いました。

その結果、彼が学校にいるときは、学校が見守り、スクールカウンセラーも彼への面接などで状況を把握する。放課後は児童館が彼を見守り、何かあれば他機関と連携を取る。保健センターは、母親のケアをする。ほっと館、児童相談所はネグレクトなどが心配されるときは対策を進める。地域の児童委員は、家庭訪問のときに見ていた彼女の生活態度などを非難するのではなく、保健師さんと一緒になって見守っていこうということを言ってくれました。

私は、彼が3年生になるとき、この児童館で定年退職となりました。その後気にかけてはいましたが、連絡を取り合うことはありませんでした。けれど、その後、生活保護を受けていた家庭の彼が国立大学に進学した、ということを聞きました。おそらく、世帯分離をして、経済的にも学業的にも大変ななかでがんばったのだと思います。

すごくうれしかったです。皆さんに見守られ、彼もがんばって大学に進学できたのですから。現在はきっと、社会人として自立して頑張っていると思います。

いま、私は、日本語適応指導員として、中国、ネパール、バングラデシュの子どもを担当しています。子どもたちの抱える課題は様々ですが、自ら望んできたわけではない異文化の日本で、日本語学習を頑張っています。日本語教室が、彼らにとって楽しい場であるように、彼らに明るい未来が開けるように、子どもたちに寄り添って少しでも力になれればうれしいです。これからも、子どもたちと、彼らの未来と「つながり」続けられることを願っています。

 

【講評】/市民福祉教育研究所

原 良子/「つながり」に生きる―地域と福祉と教育と―
筆者の原良子氏は、大学卒業後、「地域・福祉・教育」というテーマと「つながり」という言葉を大切にしながら、児童館職員として定年まで勤務した経験を語っています。
児童館では、障害のある子ども、虐待を受けている子ども、発達障害の子ども、貧困家庭の子どもなど、さまざまな背景を持つ子どもたちと接し、その居場所となるよう尽力しました。特に、ネグレクトを受けていたある小学1年生の男の子を救うため、校長、保健師、保育園長、児童委員などの関係機関と連携し、チームで彼を見守る体制を築きました。その結果、その男の子が後に国立大学に進学したという知らせを聞き、大きな喜びを感じたと述べています。
定年退職後も、ボランティアや日本語教師養成講座の受講を経て、現在は日本語指導員として公立小学校で外国籍の子どもたちを支援しています。自身の経験から、日本語学習を通して子どもたちの未来を拓く手助けをしたいという強い思いを語り、今後も子どもたちとその未来との「つながり」を大切にしていきたいと締めくくっています。

〔A〕
筆者の文章は、長年にわたる「子どもの福祉」への情熱と、「つながり」を重視する一貫した姿勢が感じられる、心温まる内容です。

 経験に基づいた説得力
抽象的な理想論ではなく、具体的なエピソード(ネグレクトの子どもを救った事例など)を通して、福祉と教育の現場のリアルな課題と、それを乗り越えるための「つながり」の重要性を説得力を持って伝えています。
 一貫したテーマ
大学卒業時から現在に至るまで、「地域・福祉・教育」と「つながり」というテーマがブレることなく、それぞれのキャリア選択に結びついています。特に、日本語教師としての現在の活動が、児童館時代に助けられなかった外国籍の子どもへの思いから来ているという点は、筆者の誠実さと人間性を感じさせます。
 希望に満ちた結び
困難な状況を乗り越えて国立大学に進学した男の子の事例は、筆者の活動の成果を具体的に示し、読者に希望を与えます。最後の日本語指導員の活動への言及も、過去の経験を活かし、未来へとつながる活動を続けている筆者の前向きな姿勢を印象づけています。

総じて、この文章は、個人の半生を振り返りながら、地域における福祉と教育の「つながり」の重要性を訴えるエッセイとして高く評価できます。

〔B〕
筆者の文章は、児童福祉、地域連携、そして生涯学習という複数の専門分野にまたがる示唆に富んだ内容です。以下に、各分野の視点から専門的な評価について述べます。

児童福祉・ソーシャルワークの視点
 多機関連携の成功事例
ネグレクトを受けていた子どもへの対応は、まさにソーシャルワークにおける多機関・多職種連携(multidisciplinary collaboration)の模範的な実践例です。学校、保健センター、保育園、児童相談所、児童委員、児童館が、それぞれの専門性を持ち寄り、情報共有と役割分担を明確にすることで、子どもとその家族に対する包括的な支援体制を構築しました。これは、個別ケースへの対応として、専門機関や専門職の連携・協力が子どもの長期的なウェルビーイングに不可欠であることを示しています。
 アウトリーチと居場所の提供
児童館職員として、特別支援学級に訪問して読み聞かせを行うなど、自ら積極的に子どもたちと関わろうとする姿勢は、施設の枠を超えたアウトリーチ(outreach)活動として評価できます。これにより、学校という場とは異なる「居場所」を子どもたちに提供し、彼らの自己肯定感や社会性の発達を支援したと考えられます。
 ライフヒストリー・アプローチ
筆者の人生を通して「つながり」というテーマが一貫していることは、専門的な視点から見ても重要です。児童館での経験が、退職後の日本語教師としての活動につながっていることは、個人のライフヒストリー・アプローチ(life history approach)として、過去の経験が現在の活動を形作るうえでいかに重要であるかを示しています。

教育学・特別支援教育の視点
 インクルーシブ教育の実践
特別支援学級の子どもたちを児童館という地域の居場所につなげようとした取り組みは、まさにインクルーシブ教育(inclusive education)の理念を体現しています。障害の有無にかかわらず、すべての子どもが地域社会の一員として「共生」できる環境づくり(まちづくり)をめざした実践として評価できます。
 教員の多職種連携への貢献
筆者は教員ではありませんが、学校と連携し、教員が気づきにくい子どもの家庭環境や行動背景を共有することで、教育現場における課題解決に貢献しています。これは、学校と地域が協働(共働)するコミュニティ・スクールの考え方にも通じるものであり、また教育と福祉の専門家が連携・協力することの重要性を示唆しています。

生涯学習・地域活動の視点
 生涯にわたる専門性の深化
75歳で日本語教師養成講座を受講し、新たな専門性を獲得したことは、生涯学習(lifelong learning)の実践例です。これは、自身の過去の経験(児童館での外国籍の子どもとの出会い)と現在の社会のニーズ(日本語指導)を結びつけることで、高齢期においても社会貢献が可能であることを示しています。
 地域におけるソーシャルキャピタルの構築
児童館職員として、保護者や地域住民、他機関との顔の見える関係を築いたことは、ソーシャル・キャピタル(social capital)の構築に貢献したと言えます。これにより、地域全体で子育てを支えるというセーフティネットが機能し、緊急時に迅速な連携が可能になったと考えられます。

総じて、この文章は単なる個人の回想ではなく、児童福祉、教育、地域活動といった専門分野における重要な実践知と理念を凝縮した貴重な記録と言えます。筆者の人生そのものが、「つながり」を基盤とした専門職のキャリアパスを力強く示唆していると評価できます。そしてまた、その「つながり」こそが、筆者が求め続けた理論と実践の両輪を支える「車軸」であると言えます。さらにこの文章は、「まちづくりと市民福祉教育」の実践・研究にも、多くの気づきをもたらしてくれます。

〔C〕
筆者の児童館職員としての活動は、単なる子どもの遊び相手や施設の管理者にとどまらず、児童福祉と地域連携の専門家としても評価されます。

 子ども理解と個別支援
筆者は、児童館に来る子どもの多様な背景(障害、虐待、貧困、発達障害など)を理解し、一人ひとりに寄り添う姿勢を貫いています。特に、ネグレクトを受けていた子どもに対し、単なる食事提供ではなく、学校や保健センターなどと連携して組織的な支援体制を構築したことは、個別ケースの課題解決能力が高いことを示しています。これは、児童館が単なる遊び場ではなく、子どもの権利を守るためのセーフティネットとして機能できることを実証した事例であると言えます。
 多機関連携の推進
児童館の機能は、その地域内の他機関(学校、保健センター、保育園、児童相談所など)との「つながり」によって最大化されます。筆者は、館長という立場で、これらの機関との顔の見える関係を積極的に築き、情報共有と協働(共働)を可能にしました。これは、地域全体で子どもを育む「コミュニティ・ケア」の理念を体現するものであり、児童館の可能性を広げる実践です。
 専門職としての成長と自己学習
筆者は「理論と実践は車の両輪」という言葉を自戒とし、常に自己の専門性について問い直し続けていました。定年退職後も、過去の経験から得た課題意識(外国籍の子どもの支援)を原動力として、日本語教師という新たな専門性を習得したことは、生涯にわたる専門職としての倫理観と学習意欲の高さを示しています。

総じて、筆者は、児童館職員の枠を超えたソーシャルワーカー、コーディネーター、そして生涯学習者としての役割を担い、子どものウェルビーイングの向上に貢献したと言えます。その実践は、児童福祉に関わるすべての専門家にとって、模範となるべきものです。

 

「講評への応答」/原 良子

この度はいろいろとありがとうございました。

「児童館職員としての活動は、単なる子どもの遊び相手や施設の管理者にとどまらず、児童福祉と地域連携の専門家」として評価してもらえたこと、すごくうれしいです。児童館は子どものあそび場、と言われることが多く、(もちろん子どもにとって遊びは主食のようなものでなくてはならないものだけど)児童福祉の現場であることはあまり意識していない人が多かったからです。

社大(日本社会事業大学)を卒業して、皆さん厳しい福祉の現場で頑張っておられるのに、子どもと遊んで楽しんでいる私は何なの? 社大で学んだことを活かしているの? といつも後ろめたさを感じていました。特別支援教育、児童福祉、ソーシャルワークの視点でも評価して頂き、私も社大の卒業生です! と初めて自信を持って言えるような気がしました。

そうなんです。いろいろ頑張ってはいたけど、私のやっていることを子どもたち、保護者、地域の人々にとってはたいしたことではないかもしれない、と思うこともよくあったのです。

でも、ちょっと自慢させてもらえるなら、
退職の時、たくさんの地域の方々がお花を持って児童館に来て下さったのです。ほんとにびっくりしました。保護者の方、地域の児童委員さん、保護司さん、高校生になった子どもたち、たくさんの花束を頂きました。あそびに来ていた子どもたちは、お祝い会を開いてくれました。もちろん、職員が企画してくれたのですが。私が気がかりだった、彼も、花束を渡す係をしてくれました。もう、涙、涙、の私でした。

学校の先生方のメッセージを、学童クラブの職員(学童クラブも児童館管轄でした)が集めて持ってきてくれました。もう、これで私は児童館でできるだけのことをやれたんだと思えました。これで、充分に評価して頂けた、と思いました。

でも、これはあくまでも当事者間のもので、客観的な評価ではありません。今回は客観的に評価して頂いて? 嬉しかったのです。

このような機会を作って頂き、本当にありがとうございました。心より、感謝申し上げます。今日はとてもうれしい温かな気持ちを抱えて過ごしています。

2025年8月8日