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大橋謙策/大橋謙策研究 別巻:地域包括ケア・介護・CSW

 


 

目 次

地域福祉からみる社会福祉法人の可能性‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥02
―コミュニティソーシャルワークの可能性を考える―

ICFの視点に基づくケアマネジメントと福祉用具の活用‥‥‥‥‥18

ICFの視点を踏まえたケアマネジメントと福祉用具の普及‥‥‥‥24

戦後社会福祉学界を牽引した巨頭逝く‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥31
―仲村優一先生、三浦文夫先生の逝去を悼む―

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地域福祉からみる社会福祉法人の可能性

―コミュニティソーシャルワークの可能性を考える―


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出典:『平成25年度 かながわライフサポート事業報告書』神奈川県社会福祉協議会、2014年10月、31~46ページ。

 


ICFの視点に基づく
ケアマネジメントと福祉用具の活用



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出典:『日本生活支援工学会誌』第13巻第2号、日本生活支援工学会、2013年12月。

 


ICFの視点を踏まえた
ケアマネジメントと福祉用具の普及


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出典:『福祉介護』第5巻第6号、日本工業出版、2012年6月、1~6ページ。

 


戦後社会福祉学界を牽引した巨頭逝く

―仲村優一先生、三浦文夫先生の逝去を悼む―



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出典:『月刊福祉』第99巻第3号、全国社会福祉協議会、2016年2月、98~99ページ。

 


 

大橋謙策研究 別巻
地域包括ケア・介護・CSW―理論と実践―

発 行:2025年4月25日
著 者:大橋謙策
発行者:田村禎章、三ツ石行宏
発行所:市民福祉教育研究所

 


阪野 貢/個人が自由に個性と多様性を追求し発揮できる社会をめざして ―ジョン・スチュアート・ミル著『自由論』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、ジョン・スチュアート・ミル著、関口正司訳『自由論』(John Stuart Mill,On Liberty,1859. 岩波文庫、2020年3月。以下[1])がある。周知の通りミル(1806年~1873年)は、19世紀のイギリスを代表する哲学者・経済学者のひとりである。[1]は、自由主義(リベラリズム)の古典と評されるが、そこでミルが論究するのは「市民生活における自由、社会の中での自由」、逆に言えば、「個人に対して社会が正当に行使してよい権力の性質と限界」(11ページ)についてである。
〇ミルは説く。「多数者の専制」によって個人の自由が抑圧・侵害されるなかで、個人の意見や行為の自由を守る必要がある。とともに、人々の生き方の個性や多様性も尊重されなければならない。それは、個人の幸福のみならず、社会のそれにとっても有用であり、社会全体の成長・発展に繋がる。ただ、こうした際の自由には限界があり、他人に危害を及ぼすときに限り個人の自由を制限することが許される(「危害原理」)。そしてミルは、個性と多様性についていう。「個性を打ち砕いてしまうものこそが、何であれすべて専制なのである」(143ページ)。「個性の侵害に対する何らかの抵抗が成功可能なのは、(個性の侵害の)初期の段階に限られている」(166ページ)。「人間は、多様性をしばらく見慣れないままでいると、すぐに、多様性を思い浮かべられなくなってしまう」(166ページ)。
〇なお、[1]の訳者である関口は、その「解説」で次のようにいう。「古典と向かい合うとき、読み手はどうしても、自分の今の考えや想いにぴったり合っている場所を探そうとしがちである。(それは)読み手にとって未知のメッセージを古典が発信していても、それに対する読み手の感度を下げることにつながるので、警戒しておく方が得策である」(277ページ)。
〇ここでは、この指摘に留意しながら、例によって「我田引水」的になることを承知のうえで、ミルの言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書き。見出しと太字は筆者)。それはつまり、「ある問題について、自分の側の見方しか知らない人は、その問題をほとんど理解していない」(84ページ)のである、というミルの言葉を念頭に置きながら、ということでもある。

多数者の専制:政治的専制・抑圧だけでなく、世論や慣習による社会的専制・抑圧にも警戒すべきである
多数者の専制は、当初は他の専制と同様に、主に公的機関の行為を通じて作用するものとしてとらえられ恐れられた。今でも一般的にはそうである。しかし、社会それ自体が専制的支配者である場合には、つまり、構成員の個々人に対して社会全体がまとまって専制的支配者となる場合には、専制の手段は公務担当者たちによる行為に限られない。このことに、思慮深い人々は気づいた。社会は自分で自分の命令を通すことができるし、現にそうしている。もし、社会が正しい命令ではなく間違った命令を出したり、干渉すべきでない問題で命令を出したりするのであれば、種々多様な政治的抑圧よりもいっそう恐ろしい社会的専制が行なわれることになる。なぜなら、社会的専制はふつう、政治的抑圧のように極端な刑罰で支えられていないとはいえ、逃れる手段はより少なく、生活の隅々にはるかに深く入り込んで魂それ自体を奴隷化するからである。だから、統治者による専制への防護だけでは十分でない。支配的な意見や感情の専制に対する防護も必要である。社会には、社会自体の考え方や慣行に従わない人々に対して、そうした考え方や慣行を行為規範として、法的刑罰以外の手段によって押しつけようとする傾向がある。社会の流儀に合わないような個性の発展を食い止め、できればそうした個性が形成されることを防いで、あらゆる性格が社会自体のひな形に合うように強制する傾向である。このような傾向への防護も必要なのである。(17~18ページ)

危害原理:他の人々に危害を加えない限り、人は自由に行為できる(個人の自由が制限されるのは、他人に危害を及ぼすときだけである)
本書の目的は、社会が強制や統制というやり方で個人を扱うときに、用いる手段が法的刑罰という形での物理的な力であれ、世論という形での精神的な強制であれ、その扱いを無条件で決めることのできる原理として、一つの非常に単純な原理を主張することである。その原理とは、誰の行為の自由に対してであれ、個人あるいは集団として干渉する場合、その唯一正当な目的は自己防衛だということである。文明社会のどの成員に対してであれ、本人の意向に反して権力を行使しても正当でありうるのは、他の人々への危害を防止するという目的の場合だけである。(27ページ)

パターナリズム:本人の利益や幸福に役立つからといって、その人の行為に介入・干渉し、強制したり制止したりすることは許されない
身体面であれ精神面であれ、本人にとってよいことだから、というのは十分な正当化にはならない。そうした方が本人のためになるとか、本人をもっと幸福にするとか、他の人々の意見ではそうするのが賢明で正しいことですらあるといった理由で、本人を強制して一定の行為をさせたりさせなかったりすることは、正当ではありえない。これらの理由は、本人をいさめたり、道理を説いたり、説得したり、懇願したりする理由としては正当だが、本人を強制したり、言うとおりにしない場合に害悪を加える正当な理由にはならない。それを正当化するためには、制止したい行為が、他の誰かに危害を加えることを意図しているものでなければならない。この人が社会に従わなければならない唯一の行為領域は、他の人々にかかわる行為の領域である。本人だけにかかわる領域では、本人の独立は、当然のことながら絶対的である。個人は、自分自身に対しては、自分自身の身体と精神に対しては、主権者である。(27~28ページ)/この原理は、成人としての能力をそなえた人々にだけ適用されることを念頭に置いている。議論の対象としているのは、子どもや法定の成人年齢に達していない若者ではない。(28ページ)

意見表明の自由:多数者(派)の意見が、少数者(派)の意見表明を沈黙させる・抑圧することは許されない
私は、意見表明に対して強制力を行使する権利を、国民自身にもその政府にも認めない。そのような権力自体が不当なのである。最善の政府でも、最悪の政府と同様に、そういう権力を持つことは許されない。このような〔意見表明を抑圧する〕権力は、世論に逆らって行使する場合と同じように、世論に沿って行使する場合でも有害であり、あるいはいっそう有害である。一人以外の全員が同じ意見で、その一人だけが反対の意見だったとしても、その一人を他の全員で沈黙させるのは不当なことである。その一人が権力を持ち、それによって他の全員を沈黙させるのが不当なのと同じである。(41~42ページ)/意見表明を沈黙させることには独特の弊害がある。沈黙させることで人類全体が失ってしまうものがある。(42ページ)

一本の樹木:人間の本性は機械ではなく、樹木のようにあらゆる面にわたって自らを成長・発展させることを求めている
自分の人生のあり方を、世間任せにしたり自分の周囲の人任せにしたりしている人に必要なのは、猿真似の能力だけである。自分の人生のあり方を自分自身で選ぶ人は、自分の能力のすべてを駆使する。こういう人は、見るために観察し、予見するために推理して判断し、意思決定するために判断材料を収集し、結論を出すために識別力を発揮し、さらに結論に到達したら、自分の考え抜いた上での結論を貫き通す強固な意志と自制心を働かせる、というように、さまざまな能力を駆使しなければならない。(132ページ)/人が何をするかばかりでなく、それをするのはどんな人なのかということも、本当に重要なのである。人間が作り出す作品の中で、人生を費やして完成させ美しくするのにふさわしいものは色々あるが、その中でいちばん重要なのは、間違いなく、人間そのものである。(133ページ)/人間の本性(ほんせい)は、図面通りに作られ決まりきった仕事を正確にこなすように設定された機械ではない。一本の樹木である。人間の本性は、自らの内部にあって自らを生命あるものにしている諸力の趨勢に従いながら、あらゆる側面で自らを成長させ発展させることを求めているのである。(133ページ)

個性の社会的有用性:個性の発展はその本人のみならず、他の人々にとっても価値あるものとなり、社会を活気づける
人間が高貴で美しいものとして観照の対象になるのは、個性的なものがすべてすりつぶされ画一的にされているからではない。他の人々の権利と利益のために課された制約の範囲内で、個性的なものが陶冶され引き出されているからである。人間の生活も、作品が制作者の性格を帯びるのと同じような過程を経て、豊かで多様で生気に満ちたものになる。そして、高潔な思想や品位を高める感情にいっそう豊富な養分を与えるとともに、人類の一員であることの価値を最高度に高めることによってあらゆる個人を人類に結びつける絆を強化する。各人は、自分の個性の発展に比例して、自分にとっていっそう価値あるものとなり、また、その結果として、他の人々にとってもいっそう価値あるものになることができる。それぞれの人間の存在にいっそう充実し生命が宿り、〔個人という〕構成単位の生命力が高まると、そうした単位から構成される集合体の生命力も高まることになる。(141~142ページ)

生き方の多様性:個人の好みの多様性に基づいて生き方を決めることは、それ故に最善である
自分の流儀で生きていくことを正当に要求できるのは、精神面ですぐれていることが歴然としている人に限られるわけでもない。どんな人間に関してであれ、人間を一つのひな形とか少数のひな形とかに合わせて作り上げてよい、とする理由はない。適度の常識や経験を持っている人であれば、自分の流儀で生き方を組み上げるのが最善である。そうであるのは、その生き方自体が最善だからということではなく、それが本人自身の生き方だからである。人間は羊のようなものではない。それに、羊にしたところで、見分けられないほどたがいに似ているわけではない。(151~152ページ)/すべての人間を一つの鋳型にはめようとすべきでない理由として、人々の好みの多様性ということしかなかったとしても、これだけで十分な理由である。しかし、さらに言えば、それぞれに異なっている人々は、自分の精神的発展のためにそれぞれ異なった条件を必要としている。だから、全員が同一の精神的な空気や環境の中で元気に生きていく、というのは無理な話である。多様な植物のすべてが同じ自然の空気や環境の中では元気に生きていけないのと同じことである。(152ページ)

改善への自由:改善を着実にもたらす唯一のものは自由である
習慣の専制は、あらゆるところで、人間の発展をつねに妨害していて、習慣的なもの以上のすぐれた何かをめざす志向に絶えず敵対している。この志向は、状況次第で、自由の精神と呼ばれたり、進歩の精神とか改善の精神と呼ばれたりする。(158ページ)/改善の精神は、必ずしもつねに、自由の精神であるわけではない。なぜなら、改善の精神は、国民が乗り気でないのに、彼らに改善を強要しようとする場合もあるからである。自由の精神は、こうした企てに抵抗する限りでは、部分的かつ一時的に、改善の敵と同盟することもある。しかし、改善を着実にもたらす唯一のものは自由である。なぜなら、自由によって、改善の拠点は、個人と同じ数にまで増やすことができるからである。しかし、〔改善と自由が対立することもあるにせよ〕進歩の原理は、自由への愛という形であっても、改善への愛という形であっても、慣習の支配には対立し、少なくともその束縛のからの解放にかかわっている。そして、進歩と慣習のあいだの抗争は、人類の歴史の中で特に興味をそそる点である。世界史の大部分が、正確に言えば歴史ではないのは、習慣の専制が完璧なためである。(158~159ページ)

〇ミルにあっては、「意見の自由と意見を表明する自由」は、すべての自由の前提であり、「人類の精神的幸福」を左右する(119ページ)。意見と意見表明の自由について、ミルの説くところをメモっておく(抜き書き)。

もはや疑わしいと思われなくなっている物事については考えなくなってしまうという、人間の致命的な傾向は、人間が犯す誤謬のうちの半分を生じさせている原因である。(99ページ)

ありがちなケースは、対立する主張のうちの一方が正しく他方は間違っているというのではなく、いずれもが真理の一部を含んでいる、というケースである。こういう場合は、広く受け容れられている主張の方も真理の一部しか含んでいないので、真理の残りの部分を補なうために反対意見が必要となる。(104ページ)

人々が双方の意見に耳を傾けざるをえないときには、いつでも望みがある。一方の真理にしか耳を傾けないときこそ、誤謬が偏見にまで凝り固まり、真理は誇張され虚偽にまでなってしまい、それで真理の持っている意味を失うのである。(118ページ)

たとえ正しい意見であっても、意見の主張の仕方に非常に問題があり、厳しく非難されても当然なこともあるだろう。(中略)特に最悪なのは、詭弁を使うこと、事実や論点を隠蔽すること、議論の要点をはぐらかすこと、あるいは、自分に反対する意見を歪曲して述べることである。(121ページ)

論争当事者が行なえる攻撃のうちで最悪なのは、反対意見の持ち主に、邪悪で不道徳な人物という汚名を着せることである。(122~123ページ)

社会全般に受け容れられている意見に反対する意見が傾聴してもらえるのは、たいていは、穏やかな言葉を慎重に選んで、不要な攻撃を受けないよう用心している場合だけである。(123ページ)

〇いまひとつ、「教育の多様性」について、ミルの言説をメモっておくことにする。以下のそれは、人間は「知的な存在であり道徳的な存在である」がゆえに、「討論と経験によって、自分の誤りを正すことができる」(49ページ)という人間観(人間は自己教育力をもつ存在である)に基づくものである。また、ミルにあっては、教育は個人の自由と社会の進歩にとって不可欠な要素である。そして、国家が教育を独占することに強く反対するが、「子どもや法定の成人年齢に達していない若者」(28ページ)は、未成熟であるがゆえに自由の原理の適用から除外され、国家による教育制度を必要とするのである。

現代の政治面での変化はすべて、同一化を促進している。(中略)教育の拡大もすべて同一化を促進している。なぜなら、教育は、人々を共通の影響下に置き、諸々の事実や感情をまとめて集めた収蔵庫を人々が利用できるようにするからである。(164~165ページ)

国家が自国の市民として生まれたすべての人に対して、一定水準までの教育を要求し義務づけるべきなのは、ほとんど自明の理ではないだろうか。(231ページ)

国民の教育の全部ないし大部分が国家の手に委ねられるのであれば、これを非難する点で私は誰にも負けない。性格が持つ個性の重要性や、意見や行為の仕方における多様性が持つ重要性について論じてきたことはすべて、教育の多様性という、同じく語りつくせないほど重要なものとかかわっている。国家が国民全般を対象にした教育を行なうことは、人々をたがいにそっくり似ているものへと仕立て上げる手段にしかならない。また、国民を形作るそうした鋳型は、君主、聖職者集団、貴族階級、あるいは現世代の多数者のいずれの政府であれ、支配権力に都合のよいものであるから、そうした教育が有効で成功すればするほど、精神に対する専制を打ち立てることになり、自然の成り行きとして身体に対する専制的支配につながっていく。(233ページ)

阪野 貢/「フーテンの寅さん」と「シンちゃん」、共同体における生贄(いけにえ)の選出と排除の構造 ―赤坂憲雄著『排除の現象学』のワンポイントメモ― 

〇筆者(阪野)の手もとに、赤坂憲雄(あかさか・のりお)著『排除の現象学』(岩波現代文庫、2023年3月。以下[1])がある。赤坂は、「東北学」を提唱した著名な民俗学者である。[1]の初版は1986年12月である。[1]では、40年後の今日においてもその度合いを深めている差別や排除の社会現象の構造を解明し、その核心を突く。その要点のひとつは、共同体――ゲマインシャフト(地縁共同体)やゲゼルシャフト(利益共同体)は、差異の体系のうえに組み立てられている。その秩序や利得から外れ、そのシステムを乱す者(マイノリティ)は差別され、排除される。それによって新たな差異の体系が再編される。すなわち、差別や排除の思想は、共同体の秩序の体系と結びついている、というのである。
〇赤坂はいう。「あらゆる秩序の起源には、秘められたひとつの死の風景が横たわっている。原初における供儀(くぎ:神霊に生贄を捧げる儀式や慣行:阪野)、または秩序創出のメカニズム。共同体は異人(=異質なる人)という内なる他者を殺害することにおいて、共同体であることへと自身をさしむける。言葉をかえれば、わたしたちは異人の殺害という現実の、または象徴劇のなかに内面化された共同行為を媒介として、みずからをかれらとは異なるわれらへと自己同一化するのである」(228ページ)。すなわち、共同体(差異の体系)⇒秩序のメカニズム⇒秩序の混乱・破壊⇒差異・異人の排除⇒共同体の再編・保持。これが、共同体が持つ、その秩序(均質化)からはみ出した差異・異人を差別・排除し、集団的アイデンティティを形成する暴力装置である。
〇こうした点を赤坂は、1980年代に世間を賑(にぎ)わせた学校におけるいじめや横浜の浮浪者襲撃事件、埼玉のニュータウンにおける自閉症者施設設置反対運動などを題材に、「排除の現象」をエッセイ風に語り、その本質を鋭くえぐり出す。
〇例によって恣意的であるが、赤坂の言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

フーテンの寅さん/下町という人間共同体/排除の物語
フーテンの寅次郎は、映画のなかではたしかに、ユーモアあふれる愛すべき道化的主人公である。しかし、現実には、寅次郎は家郷(かきょう:ふるさと)を逐(お)われたはみだし者、つまり、下町という人間=共同体にうまく馴染めず、そこに定住の場を確保することに失敗して出奔(しゅっぽん:逃げて跡をくらますこと)した逸脱的な異人にほかならない。跡取り息子である(らしい)にもかかわらず、家を捨て共同体を去り、テキ屋のタンカ売(ばい)をしながらさだめなき放浪生活をつづける寅さんは、それでもけなげに、誇らしげに「葛飾柴又(かつしかしばまた)、帝釈天(たいしゃくてん)で産湯(うぶゆ)をつかい‥‥‥」と、みずからを追放した共同体への忠誠と愛を語りつづけるのだ。(20ページ)
疑いもなく、映画『男はつらいよ』は、フーテンの寅という名の異人をめぐる怖(おそ)るべき排除の物語である。(21ページ)
下町という人間共同体、その仮構(かこう:無いことを仮にあるとすること)された親密なる世界から逐われ、放浪の境涯をえらばざるをえなかった異人の怨念(おんねん)や毒は、かぎりなく希薄にされ、ひとりのアブない異人を優しげに抱擁してみせる下町=共同体こそが、ひそかなる絶対者の座を占めるのだ。(21ページ)

秩序=差異の体系/いじめ=全員一致の暴力/差異の消滅と体系の再編
いじめが「冗談関係」としてではなく、全員一致の暴力のつらぬかれる供犠の庭と化しているところに、いまの子どもたちをとりまく状況の変化を読みとるべきなのである。もはや、それは遊び=ゲームというにはあまりに苛酷な、抜きさしならぬ限界状況のなかに演じ、くりひろげられる負の祝祭といってよい。(41ページ)
1979年に養護学校が義務化され、あきらかな差異をかかえた子どもとそうでない子どもとの分離が、公然とおこなわれるようになった。(63ページ)
学校はいま、あきらかな差異を背負った子どもを排除することによって、かぎりなく閉ざされた均質的時空を形成しているのだ。(67ページ)
秩序は差異の体系のうえに組みたてられている。差異が消滅するとき、成員たちは模倣欲望の囚人(とりこ)となり、たがいに模倣しあい均質化してゆく。いわば、分身の状態。この分身化こそが、差異の消滅のさけがたい帰結のかたちである。そのとき、秩序は安定をうしない。カオスと暴力の危機にさらされる。自己とその影、あるいはオリジナルとコピーが殺戮(さつりく)劇を演じはじめる。このような分身の普及、憎悪を完全に相互交換しうるものにするいっさいの差異の完璧な消失は、全員一致の暴力の必要かつ十分な条件となる。(71ページ)
差異の消滅。この秩序の危機にさいして、ひとつの秘め隠されていたメカニズムが作動しはじめる。全員一致の暴力としての供犠。分身と化した似たりよったりの成員のなかから、ほとんどとるに足らぬ徴候(しるし)にもとづき、ひとりの生け贄(スケープ・ゴート)がえらびだされる。分身相互のあいだに飛びかっていた悪意と暴力は、一瞬にして、その不幸なる生け贄に向けて収斂されてゆく。こうして全員一致の意志にささえられて、供犠が成立する。供犠を契機として、集団はあらたな差異の体系の再編へと向かい、危機はたくみに回避されるのである。(72ページ)
学校ないし教室という場は、それが秩序をなす空間であるかぎり、たえまない差異化のメカニズムにささえられている。差異の体系のうえになりたつ、といい換えてもよい。そして、いま学校からは可視的な差異を刻まれたものたちがことごとく追放されている。子どもたちはきわめて微細な差異をおびつつ、学校とその周辺を浮游(ふゆう)しているのである。(72~73ページ)

「健康な差別」/スティグマ=聖痕/“善意”の錦の御旗
神話や伝説の世界のヒーローたちのなかに、しばしば心身に障害・欠損・疾病を負った者らの姿がみいだされる。そこでは、障害や欠損はスティグマ=聖痕(せいこん:神性な・宗教的な傷)であり、かれらはそれを聖なるものに刻まれた徴(しるし)として、神話的なヒーローへと劇的に成りあがるのである。(312ページ)
かつて、乞食(家々の門に立って食を乞う者)は神であった。すくなくとも訪れる乞食を、聖なる者として敬意をもって受容する宗教的な態度なり心情なりが、疑いもなく存在した。わたしたちの眼にはいささか奇異なものに映るとしても、ある位相にあっては、卑しい乞食は聖なる神であったのだ。(314~315ページ)
(劇作家の別役実は、「健康な差別」「不健康な差別」についてこんなふうに語った。)すなわち、われわれがこうした不幸な、不潔な人々に出会ったとき、たとえそこに差別があったとしても、それはいわば「健康な差別」であったのだ。共同体が不幸な人々を乞食として許容し、人々がかれらに同情でき、かれらに金銭を与えることになんの疑いも持ちえないとすれば、それは共同体が健康なせいである、と。(318ページ)。
(別役がいう)“不健康な差別”とは、わたしたちが差別という現実から巧妙に逃れ、それとじかに対峙しないですむ心理的な安全弁のようなものである。この安全弁を作りだしているのが、差別する側/差別される側をともに巻き込んだ、善意を錦の御旗にかかげる不可視の共同体であるらしいことが、問題を幾重にもがんじがらめに呪縛しているのではないか。(324ページ)

「シンちゃん」/「不健康な差別」/表層の言葉狩り
「シンちゃん」とは、身体障害者のことである。(324ページ)
子どもたちは差別はいけないことだと知っている、「いざり」や「びっこ」を嘲笑したりすれば、親や先生かだれか大人に叱られることをよく知っている。だからこそ、「シンちゃん」なのだ。「シンちゃん」は悪意を散らしてくれる、嘲笑を親愛の身振りに変じてくれる、差別/被差別という酷(むご)たらしい関係を曖昧に溶かしてくれる。(325ページ)
「シンちゃん」をめぐるよじれた風景の裏側に、別役のいう“不健康な差別”が貌(かお)を覗(のぞ)かせている。それは剝(む)きだしの“健康な差別”よりも、直接的な暴力性を希薄にしかもたないだけに、すこしは良質(まし)ではあるにちがいない。しかし、そこに埋めこまれた差別の構造ははるかに隠微に屈折して、視(み)えにくくなっている分だけ、よほど性質(たち)が悪いともいえるかもしれない。なにより、そこでは誰も差別という現実とじかに対峙しあう必要がない、そうして問題が無限に先送りされてゆく仕組みになっている。「シンちゃん」という名の透明な悪意の偏在を前にしては、(「差別用語」「放送禁止用語」などと称される:阪野)表層の言葉狩りがどれほど無力かということに、そろそろ気付くべきときが来ているのではないか。(326ページ)

〇別役がいう「健康な差別」と「不健康な差別」、そのうちの「不健康な差別」について一言する。それは、自覚なき差別であり、赤坂の言によると、上述のように「差別という現実から巧妙に逃れ、それとじかに対峙しないですむ心理的な安全弁」(324ページ)である。しかし、われわれが所属する・所属せざるを得ない共同体は、差別と排除を構造的に内包するものである以上、われわれは共同体の再編・保持のために生贄を探し、それを差別し排除する存在でもある。それは同時に、差別され排除される存在でもあることを意味する。われわれは、そのことを自覚し、「優しさ」や「思いやり」「善意」といった心情的な言葉を操(あやつ)る策に弄(ろう)するのではなく、差別とりわけ「不健康な差別」や排除にいかに、「じかに対峙する」かを問うべきである。
〇なお、差別や排除にもつながる「偏見」について、赤坂はこういう。付記しておく。

偏見とはむしろ、異質なるものに遭遇したとき、対象との差異を自己との関わりにおいて鮮明に把握しようとつとめることなく、旧来の諸カテゴリーの鋳型に封じこめようとするか、あるいは、関係の構築自体を断念して忌避(きひ)しようとする心理的な硬さの謂(いい:意味)にほかならない。(中略)心理的な硬さとは、あらゆる事象がはらんでいる曖昧性や多義性をそのままに引きうけ、そこに生じる苦痛や不安に耐えてゆく意志の欠如した生のありようである。(217~218ページ)

老爺心お節介情/第68号(2025年4月6日)

「老爺心お節介情報」第68号

地域福祉研究者の皆様
社会福祉協議会関係者の皆様

菜種梅雨とかの寒さで、体調管理が難しいですね。
「老爺心お節介情報」第68号を送ります。
ご自愛の上、ご活躍下さい。

2025年4月6日   大橋 謙策

〇皆さんお変わりありませんか。
〇我が家の庭は、朱海棠、ミツバツツジが満開です。春はいいですね。
〇皆さんは、新年度を迎えられ、新たな気持ちで仕事に向かわれていることと思います。人事異動があった方は、差し支えなければお教えください。
〇「老爺心お節介情報」第68号は、36年振りに訪ねた下伊那、飯田で学んだことです。
(2025年4月4日記)

Ⅰ 地域づくりの基本は「選択的土着民」の形成と「第3の分権化」

(1)人口減少、超高齢化社会、財政力が弱い町村の地域福祉を考える『南信州地域福祉・連携推進の集い』に参加して
〇3月25日に行われた長野県社会福祉協議会主催の『南信州地域福祉・連携推進の集い』に参加してきました。
〇南信州とは、静岡県とに隣接する売木村(人口497人、高齢化率46・6%、財政力指数0・11)、天龍村(1000人、高齢化率61・7%、財政力指数0・16)、阿南町(3825人、高齢化率39・0%、財政力指数0・18)、泰阜村(1385人、高齢化率43・3%、財政力指数0・15)、下条村(3288人、高齢化率37・0%、財政力指数0・23)の5ケ町村を指しています。
〇この5ケ町村は、人口の少ない小規模町村のみならず、超高齢化社会になっているうえに、町村の財政力指数がいずれも低く、自治体経営自体が厳しい状況に陥っています。
〇今回の取り組みは、昨年度から始まった木曽郡6町村の社会福祉協議会連携事業の第2弾として、南信州5町村でも連携を深めようと実施されました。
〇仕掛け人、コーディネーターはNPO法人はなぶさ学園理事長の木下英幸さんです。 はなぶさ学園は、NPO法人のフットワークの良さを発揮し、下伊那郡松川町の重層的支援体制整備事業の「参加支援」等を受託し、取り組んでくれています。
〇今回は、長野県社会福祉協議会が山梨県社会福祉協議会とジョイントして、「休眠預金事業」の助成事業にトライし、「人口減少・過疎化・超高齢化の小規模町村における地域福祉・連携推進のあり方」のテーマが採択され、その一環で今回の事業は取り組まれました。
〇参加者は50名弱でしたが、オンラインでの参加もあり、かつ遠くは塩尻市からも参加してくれ、嬉しい集いになりました。詳しい報告書は、後日長野県社会福祉協議会から出されると思います。
〇『南信州地域福祉・連携推進の集い』では、小規模町村であればあるほど、社会福祉の分野での「縦割り福祉」を無くし、地域共生社会政策が求めているような全世代対応型の福祉サービスの提供、農福連携、工福連携も含めた「福祉は地域づくり」という考え方が必要で、そのためには施設経営の社会福祉法人、社会福祉協議会が一体的に、オール福祉という視点で取り組む必要があること、個々の町村だけでなく、圏域を拡大して連携社会福祉法人の考え方を導入することの必要性を述べました。それらの拠点に施設経営の社会福祉法人が地域貢献事業を発展させて取り組みを進めること、行政と社会福祉協議会が協働して重層的支援体制整備事業を推進する必要性があることを述べました。
〇その上で、島根県海士町(人口2200人、高齢化率39・9%)の社会福祉協議会が中心になって、施設経営の二つの社会福祉法人と町社会福祉協議会が合併した実践(「月刊福祉」2025年4月号の片桐一彦論文参照)や『過疎地域の福祉革命』(安田由加里著、幻冬舎)を紹介しました。
〇私にとって、今回の飯田市訪問は、36年ぐらい前に、飯田市の社会福祉大会に招聘された際に訪れて以来ということで、本当に久しぶりの訪問でした。

(2)“私の地域福祉実践・研究の心のふるさと”阿智村の住民主体の地域づくり
〇私にとって飯田・下伊那地域は“私の地域福祉実践・研究の心のふるさと”なのです。
〇私は、社会教育法第3条の“実際生活に即する文化的教養”を高める社会教育の実践こそが大切で、それには地域住民の問題発見・問題解決型共同学習の実践による地域づくり、社会教育の振興が大切だと教わり、そこに地域福祉と社会教育との学際研究の糸口を見出しました。
〇私が、市町村の地域福祉計画策定における住民座談会の開催を大事にし、そこで明らかになった住民のニーズを基に、新しい福祉サービスの開発、福祉サービス供給システムの構築の必要性を指摘してきたことは下伊那から学んだものです。更に、私が地域福祉の4つの主体形成の必要性を指摘していることも下伊那から学んだことです。
〇1966年2月に、私(当時日本社会事業大学の学部3年生)は、恩師の小川利夫先生が阿智村で講演される機会に帯同し、阿智村の公民館主事であった岡庭一雄さんの家に寄宿させて頂いて、社会教育実習、社会福祉実習をさせて頂きました。寒い地域なので、私はアノラック姿で役場に出勤したら、教育長に怒られ、急遽、岡庭一雄さんの背広を借りて、実習をすることになりました。
〇実習中に参加した下伊那郡阿智村での住民集会は、岡庭公民館主事、園原保健師、生活改良普及員(名前を忘れました)と私のように福祉を学び、社会教育との学際研究・実践を志す学生の4人で地域に入りました。その時の経験が“私の地域福祉実践・研究の心のふるさと”なのです。その時の住民の生活の厳しさ、日常生活とその意識を変えることの難しさ、住民の生活の厳しい状況の社会構造、在宅の障害者の生活実態などについて私はいろいろ考える機会を与えて頂きました。
〇ちなみに、その時の実習は、阿智村に続いて喬木村、松川町の実習と続きます。喬木村では、当時進められていた長野県の小渋川開発に関する住民の学習に供するため、「公民館報喬木」に土地収用法の解説を分かりやすく書けといわれ、法学を専門に学んだものでないにも関わらず執筆したことを覚えています。
〇また、松川町では、全国的に有名になり、その後、全国の保健師が松川町詣でをする“聖地”になった「松川町健康学習の集い」の第1回に参加した思い出があります。それは“風が吹けば桶屋が儲かる”との例えとよく似ていて、松川町で①子ども虫歯が多い、②親が袋菓子をまるごと与えている、③なぜ親が袋菓子をまるごと与えているかというと、親は果樹栽培に忙しく、子どもの世話が十分できないといった生活実態を明らかにし、住民がどうしたらいいのかを考える集いでした。その頃、“農家の嫁を9時に寝かせる”運動にも取り組んでいました。
〇この後、私は長野県茅野市、中野市、須坂市、山ノ内町等、当時東京大学教育学部を卒業し、長野県の市町に就職し、社会教育活動に邁進している先輩たちを訪ね歩きました。山ノ内町では、柄沢社会教育主事が運転するバイクの後ろに乗り、寒風吹きすさぶ夜、リンゴ畑の中を走り、青年たちの学習会に参加したりしました。その時は、小学校の部屋で寄宿させて頂き、とても寒い夜を過ごしたことも楽しい思い出に残っています。
〇このような実習を可能にさせてくれたのは、長野県社会教育主事たちのネットワークがあったからであり、中でも東京大学教育学部の宮原誠一研究室の先輩達のお陰です。この場を借りて、改めて60年前の恩義に厚く感謝とお礼を申し上げます。
〇と同時に、恩師の小川利夫先生のお陰でもあります。小川利夫先生は,箴言として「人の幸せ、それは人と人とのふれあいの豊かさと深さにある」(1993年2月20日)と述べているように、人と人とのつながりを大切にし、手帳にはがきを挟んでおいて、旅先からでもせっせと手紙を書いて出している先生でした。実践者を組織化し、研究者を組織化することを常に心がけている先生で、私が提唱してきた「実践家と研究者のバッテリー型研究方法」は小川利夫先生に大きな影響を受けています。
〇小川利夫先生は、阿智村でも名古屋大学社会教育研究室を中軸にした「生涯学習セミナー」を開催しています。
〇小川利夫先生は、自分の名刺に“大橋謙策君をよろしく頼む”と一筆書きし、印鑑を押してくれて、これをもってどこそこの誰々を訪ねろと何枚も名刺を持たせてくれました。いわば、“通行手形”のようなもので、それがあったために、見ず知らずの私を多くの先輩たちが受け入れてくれた訳です。そんな小川利夫先生を研究者として見習おうと努めてきましたが、いまだ足元にも及ばない状況です。
〇今回の訪問では、喬木村の実習で寄宿させて頂いた喬木村阿島の曹洞宗の淵静寺に寄り、お世話になった小原玄祐さん(喬木村の社会教育主事でもあった)、小原道子さん夫妻の墓参をさせて頂きました。
〇阿智村では、岡庭一雄さんの家にお邪魔し、お世話になったお母さまの仏壇にお線香をあげさせて頂き、昔のご恩に感謝とお礼を捧げさせて頂きました。
〇その後、岡村一雄さんの車で村内を案内して頂きながら、阿智村の地域づくりについていろいろお話を伺いました。
〇岡庭一雄さんは、私の一年先輩で、1942年生まれです。私と境遇がよく似ており、1944年に御父上が出征し、戦死されています。私は1943年10月生まれで、父は1944年の5月に出征し、シベリア抑留中に病死しました。そんなこともあり、私は岡庭一雄さんにとても親しみを感じていました。
〇私が阿智村で実習させて頂いた時、岡庭さんは公民館主事で、その後阿智村の社会教育係長、商工観光課長、建設課長、環境水道課長を経て1997年12月に退職し、翌年の1998年2月に行われた村長選挙に青年層から担ぎ出されて当選。村長を4期務められました。
〇岡庭村政の理念を私なりに一言でいうならば「住民主体の地域づくりを行政が支える」というもので、行政と住民の協働という考え方よりも、一歩先を行った住民自治の村政といってよいと思います。
〇それは、1967年から続けられている「阿智村社会教育研究集会」の伝統が基盤となっています。「阿智村社会教育研究集会」は、「地域の子育て」、「健康づくり」、「福祉」、「地域と産業」、「自然・歴史・文化」等の分科会が開設され、住民自身の手で内容の企画、当日の進行・記録まで行われる住民主体の集会です。これらの阿智村の社会教育振興には、私の恩師である小川利夫先生が深く関わっています。
〇この方式は、「社会教育研究全国集会」の阿智村版で、私などもそれに学び1970年代に東京都稲城市で同じようなセミナーを開催してきました。28回続けてきた日本地域福祉研究所の全国地域福祉実践研究セミナーや26回になった四国地域福祉実践研究セミナーもこの手作りの、住民主体で運営される「社会教育研究全国集会」に学んだものです。
〇「阿智村社会教育研究集会」で、住民たちが地域の問題を出し合い、論議し、その改善、改革を図る力を身に着ける活動を継続していけているということが、阿智村村政の底流にあるということをしっかりと見据えなければならないとつくづく思いました。
〇私が4つの地域福祉の主体形成(①地域福祉実践の主体形成、②地域福祉サービス利用の主体形成、③地域福祉計画策定の主体形成、④社会保険契約の主体形成)の重要性を1970年代末に指摘し、そのための福祉教育の必要性をのべたのも、同じ考え方です。
〇これらの社会教育の振興に尽力した公民館主事、社会教育主事の集団が当時下伊那地域にあり、喬木村の島田修一社会教育主事(後に東京大学教育学部助手、中央大学教授)や松川町の松下拡社会教育主事等下伊那・飯田地区の社会教育関係職員が、自分たちのあるべき姿を求めて、「下伊那テーゼ」と呼ばれる社会教育主事、公民館主事の行動規範を作成します。岡庭一雄さんはそれらの集団の仲間と切磋琢磨し、住民自治と社会教育の重要性に目覚めていったのだと思います。
〇阿智村では、従来の自然発生的町内会(集落)ではなく、住民主体で地域づくりを担ってもらうことを目的に、平成10年から新たな自治会を組織することを住民に要請してきました。自治会には、自治会ごとに5か年間の地区計画(地域づくり計画)を作ってもらい、各地区の特色を活かした住民主体の地域づくりを推進しています。行政は、「自治会活動支援金」制度を作り、自治会活動の活性化を支援しています。
〇私は1990年代初頭に、東京都社会福祉審議会で「第3の分権化」の必要性を提起し、答申に盛り込まれています。「第3の分権化」とは、国から都道府県(第1の分権化)、都道府県から市町村(第2の分権化)、市町村から地域住民組織への分権化(第3の分権化)であり、社会福祉分野における住民主体の地域づくりの必要性と重要性を指摘しました。
〇この「第3の分権化」構想は、市町村に公民館を設置する際に、中央公民館構想で行くのか、自律した、各々の地区が独立した地区公民館構想で行くのかという論議を1970年代初頭に、私自身が住んでいる東京都稲城市の社会教育委員として論議した時からの課題、構想でした。
〇また、1970年代から、私は幾度となくデンマーク、スウェーデンに調査研究に行き、対人福祉サービスを住民のニーズに対応して、きめ細かく提供するために、市町村の中を分権化して、地区毎に権限を与えてサービスを提供しているシステムを見聞し、日本の在宅福祉サービスを展開する上ではこの「第3の分権化」が必要であると温めていた構想でした。そこでは、デンマークの生活支援法やスウェーデンの社会サービス法が大変参考になりました。
〇ところで、 阿智村の住民主体の地域づくりを最も具現化している方式が、平成13年度(2001年度)から進められている「阿智村むらづくり委員会事業」だと思います。
〇「村づくり委員会事業」は、阿智村の協働活動推進課の予算事業で、5人以上の村民が集まって行う自主的な村づくりの活動です。補助金は原則10万円以内ですが、研修に必要な講師の旅費、講師の謝金、参考図書代、印刷製本費などに支出可能で、補助決定の決裁権は村長ではなく、協働活動推進課の課長決済で行われています。岡庭さん曰く、村長決済だと、どうしても政治がらみになりかねないので、課長決済にしたということです。
〇この「村づくり委員会事業」は、今まで18団体が助成を受け、活動を展開してきているという。代表的な事例としては、平成13年(2001年)に養護学校(当時)の在学生の親たちが中心となって「通所施設を考える会」を発足させ、それがのちに「村づくり委員会事業」に採択され、検討を重ね、2005年社会福祉法人「夢のつばさ」が開設されます。現在では、グループホーム、地域活動支援センター、多機能型事業所、移動支援事業等の7つの拠点事業所でサービスを提供しています。阿智村の障害者の概況は身体障害者手帳所持者約500人、療育手帳所持者約50名、精神保健福祉手帳所持者約20名となっており、社会福祉法人「夢のつばさ」が多機能型事業所を経営していることもあり、阿智村での大きな拠り所になっています。
〇また、「村づくり委員会事業」の一つとして、「図書館づくり委員会」があります。この委員会は、以前から住民が読み聞かせ活動をしていたこともあり、「村づくり委員会事業」として最初に認定された委員会です。結果的に、中央公民館を改修し、その中に図書館を建設することになりました。「村づくり委員会事業」のメンバーであった住民が図書館司書の資格を取得し、現在図書館に勤めているといいます。
〇このように、阿智村の「村づくり委員会事業」は、静岡県掛川市の榛村純一市長が1970年代に提唱した「選択的土着民」の形成を行っており、住民主体の村づくりに大きく貢献をしてきたと言える。
〇阿智村の村づくりに大きく関わった小川利夫先生は、常に「福祉は教育の母体であり、教育は福祉の結晶である。社会教育は教育と福祉、福祉と教育を結ぶものである」、(1993年2月19日)と言い続けてきましたが、その考え方が実証された阿智村の実践と言えます(岡庭一雄、細山俊男、辻浩編『自治が育つ学びと協働 南信州・阿智村』自治体研究社、2018年2月参照)。

Ⅱ 閑話

〇去る3月29日~30日に、子どもたちが企画して、私たち夫妻の「金婚式」と「傘寿の祝い」を湯河原温泉の創業80年の宿でしてくれました。紫色の被りものとちゃんちゃんこを着せられ、写真を撮りました。
〇新型コロナで延び延びになっていた「金婚式」と孫たちの受験等もあって「傘寿の祝い」も延期されていました。「還暦の祝い」も湯河原温泉、「古希の祝い」も湯河原温泉で、宿は各々違いましたが、何か奇しくも同じ湯河原温泉で行われました。
〇部屋から眺める、苔むした庭には樹齢100年の梅の古木があり、梅の花は終わっていましたが、温泉の湯舟からの桜と利休梅の花が丁度見頃でした。温泉と美味しい料理に舌鼓を打ち、満たされた旅行を楽しみました。
〇帰路、熱海のMOA美術館に寄り、歌川広重の浮世絵を心置きなく見ることができました。まさに至福の時でした。

(備考)
「老爺心お節介情報」は、阪野貢先生のブログ(「阪野貢 市民福祉教育研究所」で検索)に第1号から収録されていますので、関心のある方は検索してください。この「老爺心お節介情報」はご自由にご活用頂いて結構です。

阪野貢先生のブログには、「大橋謙策の福祉教育論」というコーナーがあり、その「アーカイブ(1)・著書」の中に、阪野貢先生が編集された「大橋謙策の電子書籍」があります。ご参照ください。
第1巻「四国お遍路紀行・熊野古道紀行―歩き来て自然と生きる意味を知るー」
第2巻「老爺心お節介情報―お変わりなくお過ごしでしょうかー」
第3巻「地域福祉と福祉教育―鼎談と講演―」
第4巻「異端から正統へ・50年の闘いー「バッテリー型研究」方法の体系化―」
第5巻「研修・講演録―地域福祉の過去から未来へ―」
第6巻「経歴と研究業績―地域福祉実践・研究の系譜―」

阪野 貢/「悪人を生きる」という一章 ―今中博之著『悪人力(あくにんりき)』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、今中博之(いまなか・ひろし)著『悪人力(あくにんりき)―逆説的教育論―』(河出書房新社、2025年3月。以下[1])がある。今中はいう。人は皆、「悪人」である。「悪人」とは、「自分の好むものをむさぼり、自分の嫌(きら)いなものを憎み嫌悪する。ものごとに的確な判断が下せずに、迷(まよ)い惑(まど)う自己中心的な人間」(1ページ)をいう。そうした人間は、「アイデンティティが強まると、外の集団を敵視し、自分の集団の仲間同士の結束を強めようとする。仲間への愛が敵を意識し、そこに線引きをして、仲間同士で安全な場所を作り防御する」。このように、私たち人間は、自分が何者であるかを認識し、同じ仲間を「愛すれば愛するほど、愛されれば愛されるほど、悪人になる」。すなわち、「私たちの悪の根源には『愛』がある」(2ページ)。悪は愛に裏付けられている。こうした「悪人の自覚」を促すことによって人は、自分の弱さを自覚し、他者を信用し、他者に助けを求め(「自立」)、周りの人と協力し合って生き延びること(「共同」)ができる。悪を自覚することは弱さを自覚することであり、「悪を受容することは弱さを受容し、他者を受容すること」(197ページ)である。
〇[1]は、悪人を自覚して善人になることを勧め、その方法を説くものではない。今中は、人は悪人と善人の間を揺れ動いて生きる存在であり、それゆえに「悪を抱きしめて生きる」ことを勧める。ちなみに、今中にあっては、善人とは、「思考や行為、感情が偏(かたよ)らずバランスがとれていて、固執しない水のような人」を指す。現実的には、そのような常人離れした人間は存在しない(35ページ)。
〇こうした立論を今中は、「哲学」と「思想」、そして「宗教」(特に仏教)の知見を基に強固なものにする。それによって[1]は、ありふれた定型的な(つまりは空虚な)「悪人」言説ではなく、「人間とは何か」を問う「人間論」となる。しかもそれは、弱い人の苦しみや悲しみ、怒りや悪を、幸せや愛に変える「人間福祉論」である。

〇なお、今中は吐露する。子供の頃、家族は貧困に喘(あえ)ぎ、障がいがあるゆえに言われない差別を受け、不条理が私と家族を襲ってきた。「子供を授かれば2分の1で私と同じ痛みを負わせることになる。(中略)私は早くに家族を失い、家族水入らずの生活に強い憧れがありました。珍しい病気だから珍しい家族で終わりたくなかったのです」(193~194ページ)。筆者が、『観点変更―なぜ、アトリエインカーブは生まれたか―』(創元社、2009年9月)を知ってから、人間・今中博之に惹かれる所以でもある。

付記
筆者が、『観点変更』で今中博之という「人間」に感応したのは、次の一節である。「新聞記者の取材を受け、いくら時間をかけて説明しても、新聞に躍る文言は『頑張っている障害者』や『アートで生きがい作り』、『障害者アート』だった」(144ページ)。「私は彼らのクリエイティブな能力に心酔してインカーブを立ち上げた(2003年4月)。お涙頂戴や見世物小屋として立ち上げたわけではない」(298ページ)。今中の「怒り」にである。その怒りは、個人的なものではなく、社会の正義に基づいて湧きあがる公共のための怒り(「公憤」)である。

阪野 貢/「民主主義を動詞にする」という一章 ―宇野重規著『自分で始めた人たち』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、宇野重規(うの・しげき)著『自分で始めた人たち―社会を変える新しい民主主義―』(大和書房、2022年3月。以下[1])がある。[1]は、東京大学公共政策大学院と諸団体が開催する「チャレンジ!!オープンガバナンス(Challenge Open Governance:COG)」という企画や東京大学教養学部前期課程の「全学体験ゼミナール」を通して、宇野が知り合った人たちとの対話を集めたものである。COGは、自治体と市民がともに抱える地域課題を協働して解決していくこと(オープンガバナンス)をめざして、自治体とタッグを組んだ市民や学生チームが課題解決のアイディアを応募し、審査委員が評価するというコンテスト形式のプレゼン大会である(2ページ)。
〇[1]における宇野のねらいは、「新たな民主的な政治参加の文化の確立」(8ページ)をめざして、多様な社会的経験に基づく実践的な民主主義を考えることにある。宇野にあっては、[1]のポイントは次の3点になる(5~8ページ、抜き書き)。

(1)デジタル化時代の民主主義
特別な場所や立場になくても、多くの人が容易に知や情報にアクセスできることこそが、民主主義の基礎条件である。その意味では、現代のデジタル化の進展は、民主主義の新たな可能性を開くのかもしれない。いわゆる「デジタルトランスフォーメーション(Digital Transformation:DX、AI・ビッグデータ・画像解析など、コンピュータやインターネットを中心としたデジタル技術を活用した変革)」も、単なる技術的変化ではなく、政治や経済、社会のあり方を変えてこそ、意味がある。

(2)日常に根差した民主主義
選挙だけが民主主義ではない。地域の無名の市民による自治の活動に、民主主義の原動力を見出すことができる。地域の社会的課題を市民自らが解決していくことこそが、現代にふさわしい民主主義といえる。「政府」や「役所」はそのための手段に過ぎない。私たちは今こそ、民主主義を自分たちのものにする必要がある。

(3)社会を変える人の力
社会を変えるような人たちは、社会的地位に付随するものではない、平場で発揮される強いリーダーシップを持っている。そのような人たちは、自らが率先して動き、自らの情熱と行動、そして魅力的な「言葉」で人を動かしている。そこにはその人の人格に根差す「人間力」のようなものが重要な働きをしているように感じられる。

〇[1]に登場する人たちは、何故か女性ばかりである。宇野は、「偶然」である。「地域や活動の現場を支え、主導されている方に女性が目立つということは、日本社会の可能性ともいえる」(5ページ)という。彼女らの熱量には圧倒される。その対話に基づいておこなわれた「座談会 これからの民主主義を考える」(231~270ページ)で、宇野らは深く語る。宇野らの思いやメッセージをメモっておくことにする(切り抜きと要約)。

澁谷遊野/COGは、民主主義を名詞ではなく動詞としてやっている感じがする。民主主義やオープンガバナンスが名詞として、概念的なものとして語られるのと比べて、日常生活と地続きのところにある、日常とつながっているというところにすごく共感した。(243ページ)

奥村裕一/役所は市民と一緒に仕事をしようとする姿勢が足りないし、市民には、社会のことを自分のこととして捉え、一端を自分たちが担っていこうとする姿勢が足りていない。私の最終目標は、オープンガバナンスが当たり前の社会を実現することです。現段階の目標達成率は0.1%ぐらいでしょうか。(247ページ)

宇野重規/「デモクラシー」とは本来、人々が実際に力を持って世の中を動かしているという実感のようなものです。日本語の「民主主義」をもっともっと手触りや手応えのある言葉にするためにも、自らの実感に裏打ちされた「自分たちのことは自分たちで決めたい、変えていきたい」という思いや経験を蓄積していきたい。(268ページ)

〇これまでときに、あるいは一面では、「まちづくりと市民福祉教育」が字面(じづら)で語られてこなかったか。理念としてのそれではなく、「動詞としての民主主義」を考え、新たな民主的な市民参加の文化やそれに基づく福祉文化の創造や確立を如何に図るかが、問われよう。

阪野 貢/「挨拶できるように生きる」「挨拶に生きがいを感得すべきである」という一章―鳥越覚生著『挨拶の哲学』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、鳥越覚生(とりごえ・かくせい)著『挨拶の哲学』(春風社、2024年6月。以下[1])がある。鳥越にあっては、「挨拶は他者に対して無関心(indifferent/gleichgültig)になっていないこと、それどころか他者の苦しみの傍に立つことを告げる祈りである」(17ページ)。そしていう。私たちは現代社会において「挨拶を交わす共生共苦の知をいつしか忘れ、事物を分別する世知(せち)に聡(さと)くなる。ものごとに囚われ、執着する。社交辞令の挨拶で満足するようになる」(7ページ)。それでも、だからこそ、「無明(むみょう)に覆われた人生に美しい瞬間があるとすれば、それは身内や他者と心から挨拶を交わせた瞬間なのではないか」。「人は森羅万象と挨拶をするために生まれて来たのではないか」(8ページ)。人は「誰でも生きている限り、地上で立ち止り、利害関心を離れさえすればできるという意味で挨拶は『易しい』。それと同時に、利己心を否定し、身を低めるという意味で挨拶は『優しい』。この人間の<やさしさ>にこそ、未来を賭(か)けたい」(226~227ページ)。すなわち、鳥越は[1]で、挨拶という現象の意義を解明するなかで、挨拶に生きがいを感得し、「挨拶できるように生きる」ことの重要性を説くのである。
〇なお、鳥越は、「哲学」についてこういう。「西洋哲学の源流に遡れば、哲学は『よく生きる』ための知恵を愛する学問である」(153ページ)。「残念ながら、現代において利益に直結しない『よく生きること』を学問的に考えられるのは哲学しかない」(154ページ)。
〇[1]において鳥越は、「挨拶という事象の基本」について次のように指摘する(154~155ページ)。

・挨拶は一人ではできない。必ず相手が要る。この相手が私に先立つ。
・挨拶は強制ではない。声をかけるのも、それに応えるのも私たち次第である。
・挨拶は価値をもたない。無償の奉仕であり、祈りである。

〇挨拶は、一人ではできない、強制ではない、価値をもたない。鳥越はこの3点を明らかにする「挨拶論」を進める。その際、人はか弱く生身の存在であるがゆえに利害関心に囚われ、「どうでもよいもの」「余計なもの」に無関心になるというその姿(「人間の無関心」)や、人は大自然に養われ、生かされ、感応するという人間のあり方(人間存在)などを問う。そして、鳥越にあっては、利己の否定、利害関心からの離脱や、大自然への感応が、挨拶するために不可欠な契機となる(195ページ)。
〇鳥越の言説の要点(総括)のひとつをメモっておくことにする(抜き書き。見出しは筆者)。

挨拶は「共に生きる言葉」である
道をてくてく歩いていて、知り合いと出会(でくわ)したとする。/もしも立ち止まり、おじぎをして「こんにちは」と挨拶できたなら、私は私であって、私ではない。利害関心に囚われて働いていた足が止まると、心身ともに一息つく。浮き足だっていた足が地につき、落ち着くのだ。そして、相手と対面して、頭を下げる。身体中に指令を出していた頭が下がる。それは身を低めることであり、利己心から離れることでもある。同じ大地の上で、二人の人間が地に足をつけて頭を下げ合うことは、他者を排除したり、他者を利用する自我を否定し、他者を迎え入れる「自己」になることである。そのとき、自己は利他を志向している。こうして、ま心の通いが準備される。一度、身を低めて、わたしとあなたが同じ大地の上で向かい合うことにより、挨拶の場が開ける。/その時その場で生まれる言葉は、「共に生きる言葉」である。それは、二人で一人、一人で二人の関係をつなぐ言葉である。(195~196ページ)

挨拶は人間の生きがいとなりうる
人生の不朽(ふきゅう)の喜びは何か。人生の悲惨、その軽さや不条理は人口に膾炙(かいしゃ)している。生きていることが重荷となり得ることも否定できない。それは、後期高齢化社会に生きる私たちが肌で感じていることでもあろう。人生に疲れ、夜と霧に惑(まど)い、迷う人にとって、他者は確かに余計な重荷となる。余計なものにみえることもある。けれども、その暗がりの中だからこそ、「本当に大切なもの」が輝きだす。どうしようもない人間同士が、互いに思いやり、挨拶することができる奇跡。ま心を通わせる喜びは、お金では買えないものである。何よりも、それは自分一人ではどうにもならない。他者がいるからこそ、それも自分の意のままにはならない自由な他者がいるからこそ、挨拶は喜ばしい。/労多く幸薄い人生に不朽の喜びと呼べるものがあるとしたら、それは、相手さえいれば、誰でもいつでもできる挨拶の他にあるまい。挨拶は、互いに無関心になってしまうどうしようもない私たちを、互いの名前を呼び、存在を肯定し、ま心を通わせるかけがえのない存在に高めるのである。/少なくとも、挨拶が生きがいである限り、他者は腹の底から湧き出てくる不朽の喜びを私に与えてくれる「かけがえのない存在」である。(219~220ページ)

〇文脈上に齟齬(そご)があることを承知のうえで、聖書(フィリピ2:3、4)がいう「謙遜」について引いておきたい。「対抗心を抱いたり、自己中心的になったりしてはなりません。謙遜になり、自分より他の人の方が上だと考えてください。自分のことばかり考えずに、他の人のことにも気を配りましょう」(新世界訳)。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」(新共同訳)。人より自分を低くみる「謙遜」の類義語に、「慎(つつし)み」がある。「慎み」とは、自分自身を正しく評価すること、自分の限界をわきまえることを言う。「知恵は、慎みのある人たちと共にある」(箴言11:2/新世界訳)。謙遜と慎みは、挨拶するに際し、お互いに求められる態度・姿勢でもあろうか。

阪野 貢/「死ぬまで生きる」ための一章 ―佐々木中著『万人のための哲学入門』のワンポイントメモ―

エピクロスやスピノザ、ニーチェは、「自分の死を経験することはできない、死んだ時には自分はいないのだから、死を恐れる必要はない」と言いました。(中略)人間は生きている以上死ななくてはならないという、このことについて目を背ける態度こそ、哲学失格と言わざるを得ない。(下記[1]21ページ)。

哲学は、全く新しい情報をあなたに与えるものではない。むしろ、言われてみれば知っていたことを、新たに喚起することが哲学の役目です。(下記[1]83ページ)

〇筆者(阪野)の手もとに、佐々木中(ささき・あたる)著『万人のための哲学入門―この死を謳歌する―』(草思社、2024年11月。以下[1])がある。[1]は、薄くて(四六判変型、96頁)、中身の濃い本の典型である。
〇「哲学入門」と題する本は、哲学史の解説や哲学的問題の回答をおこなうものが多いが、佐々木は「哲学とは死を学ぶこと」(19ページ)であるとして「死」を直視し、死について論究する。その語り口はシンプルで無駄がなく、平易である。佐々木はいう。「自分自身にのみ固有であって、なお万人に共通する体験が一つだけある。それは死です」(30ページ)。「死とはつねに『他人の死』であり、そこで死ぬのは不特定の『ひと』である。実際、われわれが体験するのはつねに『他人の死』なのです。自らにだけにしかない自らの死を体験することはできない。さらに、あなたがあなたの死を死に終えることができるのは、つねに他人のまなざしを通して、他者の確認を通じてに他なりません」(46ページ)。自分やあなたの死を確認するのは、まぎれもなく他者なのである。「私の死は私が死ぬしかない。あなたの死はあなたが死ぬしかないように。こうして死は『共有』されている。断絶をそのままに、死においてわれわれは初めて共通のあり方をする」(31ページ)のである。
〇[1]で佐々木が言わんとするのは要するに、こうである。核心は、こうである。「人間は生まれてくることを選べません。それなのに、生まれてきた以上は死ななければならないのです。こんな理不尽なことがあるでしょうか。/自分が生まれてくる前に、「生まれますか?」「生まれていいですか?」と聞かれて、イエスと答えて生まれて来た人は誰もいない。さらに、どこに、どの時代に、誰を親として生まれるかすら全く選べない。そしてまた、人間というものは不思議なもので、死んだこともないくせに死ぬのは怖いわけです。何も許可した覚えはない、同意した覚えはないのに産み落とされ、生まれてきて、そして生きている以上はいつか死なねばならない。そして、――百年か千年かすれば、われわれのことを覚えている人は誰一人いないのです」(86~87ページ)。そして、佐々木はいう。「ただ、われわれには藝術があり、そこでこの定めを笑うことを学ぶことができる。この定めを悲劇ではなく喜劇とすることができる。そこから、陽気に、快活に、哄笑(こうしょう。大笑い)しつつこの定めを生き抜くことができるようになるかもしれないのです」(86~87ページ)。[1]のサブタイトル「この死を謳歌する」の意図や意味はここにある。
〇[1]のなかから、留意したい次の二つの言説をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

「とりあえず」と「たまたま」の「生」に「意味を与える」
そもそも何かのために生まれた人などいません。人生に目的はない。ないからこそ、目的を設定する余地が生まれてくるわけで、初めから自分に断りもなく目的が設定されている人生があるとしたら、それは奴隷の人生です。(20ページ)
人生は「とりあえず」と「たまたま」で出来ている、つまり偶然である。(13ページ)/自分が定めた目的を達成したり計画が成功したりするのは、「たまたま」の出会いからだったり、「とりあえず」身につけていた知見がものを言ったからだったりもする。(16ページ)/人生は、「とりあえず」と「たまたま」しかない、目的も計画も立たないような「寄るべない」生である。(17ページ)
自分の生に意味があるかどうかは問題ではない。意味は与えられるものではありません。むしろあなたが意味を与える側なのです。(中略)そして、この「意味を与える」ことが、愛するということでなくて何でしょうか。(88、89ページ)
いくらわれわれの生と死が果敢無(はかな)くなっていくばかりだとしても、われわれには意味を与える力は残されている。(89ページ)

社会的変革の問題は究極のところ教育=儀礼の問題に行き着く
人類の文化の端緒には「葬礼」がある。(中略)人間は太古の昔から死者を弔(とむら)うことに力を注いできました。(中略)弔いの儀式を行うのは人間だけだと言えるでしょう。(49、50ページ)/儀礼(阪野:礼儀、礼式)の重要性はどうしても否定できないと思う。(中略)儀礼は教育であり、教育は儀礼なのです。もう少し強い言葉を使えば「調教」とも言える。儀礼とは、「感性的な反復によって『主体』を形成する」手続きと言っていい。(53ページ)
個々の主体を「ボトムアップ」式の、言うなれば民主的なものにするためには、個々の主体が「再設定」されていなければならない。シラーは、この「再設定」の手続きを人間を作り出す「藝術」、「教育的なそして政治的な藝術家」による「藝術」であると言う。(中略)この「人間を製造」する「藝術」、すなわち「教育」は「儀礼」なのです。新しい社会のためには、新しい儀礼による、新しい主体の形成が必要だ、と。それなしには、いかなる革命も独裁に終わるであろう、と。(59~60ページ)

〇いずれにしろ、生まれることも、生きることも、そして死ぬことも、「とりあえず」と「たまたま」で出来ており、「理不尽」(18、86ページ)なことである。いま、社会では、個性や多様性、自立や共生が強調されている。その社会や国家によって、自分の生死に否応なしに「意味」が付与される。しかし、自分や人の生死に意味を与えるのは、自分であり、あなたである。そこには、「愛」がある。そして、その際に求められるのは人間を作り出す藝術、すなわち教育であり、儀礼である。それはわれわれに残された「強大な力」(89ページ)である。これが、佐々木からのメッセージである。そして、佐々木にあっては、ここまでが「哲学入門」であり、ここからは藝術の問題となる(87ページ)。

老爺心お節介情報/第67号(2025年3月17日)

「老爺心お節介情報」第67号

域福祉研究者の皆様
社会福祉協議会関係者の皆様

お変わりありませんか。
「老爺心お節介情報」第67号を送ります。
能登半島地震支援特集です。
皆さまご自愛ください。

2025年3月17日  大橋 謙策

〇皆さんお変わりありませんか。我が家の庭では、梅が咲き終わり、今は山茱萸、沈丁花、ミツバツツジ,水仙、春蘭が咲き、花盛りの春になりました。散歩に良く行く、近くの公園では、ハクモクレン、桜も満開です。
〇3月11日から14日まで、能登半島地震の被災者支援の状況を調べるため、前回行けなかった輪島市、能登町、志賀町を主に廻ってきました。それは後述しますが、まずは 旧聞になりますが、話題提供二題。
(2025年3月16日記)

Ⅰ 金沢市社会福祉協議会創設70周年記念行事に参加――善隣館を訪問

〇私は2月2日に行われた「金沢市社会福祉協議会創設70周年記念祝賀会」に招聘され、記念講演をしてきました。
〇その折に、昭和9年に当時の方面委員により第1号が設立された「善隣館」を見学したいと思い、訪問させて頂きました。
〇「善隣館」は金沢市の方面委員が大阪での実践を視察調査し、昭和9年に方面委員であった安藤謙治、荒崎良道、浦上太吉郎らが中心になって作られた地域福祉活動の拠点であり、保育所、授産事業等を展開した。「善隣館」は、多い時で19か所が設立され、現在は11館が活動を展開している。
〇金沢市の「善隣館」は戦後公民館がつくられてくる中で、社会教育活動は衰退し、社会福祉事業に特化されていく。宮崎県都城市の自治公民館は、住民が財源も含めて負担し、文字通りコミュニティセンター機能を有している住民が運営する公民館であるが、「善隣館」は、篤志家である方面委員が設立し、地域のコミュニティセンターとして活動を展開してきた。戦後は維持が困難となり、社会福祉法人されて、社会福祉事業を展開していくことになる(この「善隣館」については、全国社会福祉協議会出版部から『小地域福祉活動の歴史・金沢善隣館の過去・現在・未来』(阿部志郎他著、1993年)が出版されている)。
〇私は以前にも別の善隣館を訪問させて頂いたが、今回は社会福祉法人小立野善隣館子ども園を訪問させて頂いた。
〇小立野善隣館は、加賀藩の菩提寺並びに将軍徳川家の位牌寺として栄えた由緒ある浄土宗・如来寺の住職・吉田善堂氏が、方面委員に就任している際の昭和15年10月に設立したものである。小立野善隣館は隣保館、診療所、保育園を経営してきました。
〇第3代目理事長の吉田昭生長老と話をしていて、“世間はとても狭い”ものであり、“縁によって結ばれているものである”とつくづく思わさせられた。
〇というのも、吉田昭生長老の弟さんが、氷見市の小境にある浄土宗のお寺・大栄寺の住職・故吉田昭寿さんだということが分ったからである。
〇吉田昭寿さんは、氷見市民生・児童委員協議会の会長の他、富山県民生・児童委員協議会の会長、全国民生・児童委員協議会副会長、氷見市社会福祉協議会の副会長を歴任され、浄土宗の教務部長もされた富山県における重鎮でした。私は、氷見市の社会福祉行政、氷見市社会福祉協議会のアドバイザーを長く勤めていた縁もあり、大変お世話になった方でした。
〇その方が、如来寺の吉田長老の弟さんと分かり、本当に驚きました。世間とは本当に狭いものだと襟を正しました。
〇小立野隣保館は、現在社会福祉法人の資格を得て、高齢者のデイサービスと放課後デイサービスを実施して経営を成り立たせている。戦後、各地の隣保館が経営的に維持するのが厳しくなり、保育所等を経営して対応してきているが、地域のコミュニティセンター機能はそれなりに意識されて取り組まれている。
〇吉田昭生長老の妹の啓子さんが園長している小立野善隣館子ども園の保育方針と保育環境には大変感動した。
〇吉田啓子園長が北欧を視察して、その考え方を導入したものだということであるが、1つには遊具が大変工夫されていた。その代表がハンモックである。また、2つには高価だっただろうと推察されるが、家具が木目の美しい木材で作られており、部屋全体が木材の優しさに包まれている。3つ目には、調理場がガラス張りで、園児たちが調理している様子を見ることができる。自分たちの食べ物がどのようにして作られているかということを知ることはとても大切である、4つ目には、野外の遊具が冒険的で、子どもたちをわくわくさせるような遊具が備えられている。5つ目には一斉保育でなく、異年齢集団での保育も考えられており、とても感心した、
〇私自身、幼稚園の副園長を、非常勤ではあったが、5年間勤めて、それなりの保育観を持っているが、まったく同感できる保育所であった。
〇後日談になるが、後述する3月11日から前回訪問できなかった能登半島地震の被災地輪島市、能登町、七尾市、志賀町を訪問したが、その折の3月13日に、吉田昭寿さんの娘さんが嫁いでいる、能登町にある数馬酒造(日本酒「竹葉」を出している。とても美味しいお酒です)を訪ね、娘さんの数馬浩子さんにお会いしてきた。とても素敵な令夫人です。)

Ⅱ 「いしかわソーシャルワーカー連絡会」で災害ソーシャルワークを考える

〇2025年2月1日に石川県社会福祉協議会と「いしかわソーシャルワーカー連絡会」の共催で、令和6年度地域共生セミナー『災害ソーシャルワークから地域共生社会を描く』が開催され、私も講演しました。
〇「いしかわソーシャルワーカー連絡会」は、石川県介護福祉士会、石川県介護支援専門員協会、石川県相談支援専門員協会、石川県精神保健福祉士会、石川県医療ソーシャルワーカー協会、石川県社会福祉士会の6団体で構成されている組織です。都道府県単位で、社会福祉関係専門職が横につながり、活動することは素晴らしいことです。
〇筆者は、日本学術会議の幹事をしている時に、日本のソーシャルワーク系の専門職団体とケアワーク系の専門職団体とが連携して全国協議会を持つべきだと考え提唱しました。その会議には、社会福祉学の研究をしている学会とソーシャルワーク教育、ケアワーク教育をしている日本社会事業学校連盟(当時)や日本介護福祉士養成校協議会も加わって、社会福祉専門職の養成、任用、研修をトータルで論議をしていくことが社会福祉専門職の地位を高めると同時に国民のQOLを高めることになると考えました。
〇結果的に関連する17団体が加盟してくれ、「ソーシャルケアサービス従事者研究協議会」が設立されました。
〇この組織は2000年5月に発足し、初代代表には仲村優一先生に就いて頂きました(第2代代表は大橋謙策、第3代代表は白澤政和)。
〇なぜ、このような組織を立ち上げたかというと、1990年に在宅福祉サービスが法定化され、1990年代に在宅福祉サービスの整備が進むと同時に、その利用者も増大していました。2000年に実施される介護保険制度では、施設福祉サービスと在宅福祉サービスとは2本立ての制度設計になりました。
〇施設福祉サービス利用者は、サービスが“まるめ”で提供されるので、利用者の個別のサービスについて「求めと必要と合意」に基づいてケアマネジメントが行われることはさほど重視されません。
〇ところが、在宅福祉サービスでは、どのサービスが必要なのか、利用者はどういうサービスを希望しているのかという「求めと必要と合意」に基づくケアマネジメントがとても重要になります。
〇また、施設福祉サービスでは、利用者は買い物をほとんどしないで済みますし、ゴミ出しを考えずに生活しています。夜間等の緊急時でも宿直職員が対応してくれます。
〇ところが、在宅福祉サービスではそれらの生活機能を誰が担ってくれるのか、それらのサービスはケアワーカーによる三大介護だけでは問題解決できません。そこでは、在宅福祉サービスを必要としている人の生き方、生きる希望、近隣関係、家族関係等を含めた生活支援のソーシャルワーク機能が必要になります。
〇1987年に「社会福祉士及び介護福祉士法」が成立した際には、福祉サービスはほぼ施設福祉サービスだけであり、そこではケアワーカーの養成・供給の問題は喫緊の課題でした。しかしながら、ソーシャルワーク機能の必要性についての認識は厚生省(当時)をはじめ、左程高くありませんでした。一部、社会福祉系大学の教員、研究者が声高にその必要性を述べていたに過ぎませんでした。
〇先に述べたように、1990年代の在宅福祉サービスの整備が増大してくるなかで、認知症高齢者、精神障害者、発達障害者などの生活のしづらさを抱えている人々がそれらの在宅福祉サービスを利用して在宅生活を送ることを希望し、利用が増大してくると核家族化の進展もともなって、ますますケアワークとソーシャルワークとの有機的提供が求められるようになってきました。
〇先の「ソーシャルケアサービス従事者研究協議会」を設立するに際して、その組織の名称をどうするかを主に仲村優一先生、田端光美先生と論議をし、一つは“ヒューマンケア”、もう一つは“ソーシャルケア”が候補に挙がりました。“ヒューマンケア”という名称は主にアメリカで使われており、“ソーシャルケア”は主にイギリスで使われていました。
〇結果的には、イギリスで1998年に設立されたソーシャルケア総合協議会(GSCC)が決め手になり、先の「ソーシャルケアサービス従事者研究協議会」の設立になりました。

(註)「ソーシャルケア」:イギリスでは、1970年に制定された「地方自治体社会サービス法」を担うべきソーシャルワーカーを養成するに当たって、従来の属性分野ごとのソーシャルワーク教育ではなく、ジェネリックアプローチができるソーシャルワーク養成・研修機関が必要だとして中央ソーシャルワーク教育研修協議会(CCETSW)を設立する。その後、「ケア基準法」(2000年)の制定との関わりで、中央ソーシャルワーク教育研修協議会(CCETSW)は1998年に廃止され、ケアワークの質の向上を目指すとともに、それを包含する形で、ソーシャルケア総合協議会(GSCC)を設置する。「ケア基準法は」は、ソーシャルケアの質を改善する根拠法である。ソーシャルケア総合協議会(GSCC)は、①専門ソーシャルワーカーの養成基準の責任、②ソーシャルケアサービス利用者の保護レベルの向上などを担う(『イギリス地域福祉の形成と展開』田端光美著、有斐閣、2003年参照)。日本では、アメリカ型の個人に焦点化させたヒューマンケアではなく、社会生活を支援することに焦点化させたイギリス型の動向を踏まえ、イギリスのGSCCと同じような理念を掲げて、2000年にソーシャルワークの専門職団体、ソーシャルワーク教育の団体、ケアワークの専門職団体、ケアワーク教育の養成団体が一堂に会して「ソーシャルケアサービス従事者研究協議会」が設立された(初代代表仲村優一、2代目代表大橋謙策、3代目代表白澤正和)。
(参考文献)
1,『イギリス地域福祉の形成と展開』田端光美著、有斐閣、2003年
2,「英国ソーシャルケアの市場化とその課題」正野良幸著、「京都女子大学生活福祉学科紀要 第11号」、2015年2月
3,「イギリスにおけるソーシャルワーカーの継続的能力・職能開発に関する一考察」白旗希実子著、東北公益文科大学、「産業教育学研究」第46巻第2号、2016年7月
4,「イギリスの社会的ケアに係る自治体評価と事業者評価の動向――ケアの質の合意及びアウンタビリティのメカニズムの視点からーー」長澤紀美子緒、「高知県立大学紀要 社会福祉学部編 第69号」、2019年12月
5、「英国の民間健康保険と高齢者ケアサービスーNHSとSocial Careが包含されている英国のヘルスケアシステムの特徴――」小林篤著、「損保ジャパン日本興亜総研レポートVol、74」、2021年3月

〇「いしかわソーシャルワーカー連絡会」のように、都道府県単位で“ソーシャルケア”の団体を組織してくれているのは、2003年に設立された「栃木県ソーシャルケア協議会」があり、先ごろ20周年行事が行われ、その際に作成された報告書が市販されている。
〇筆者は、その「いしかわソーシャルワーカー連絡会」で各団体の能登半島地震災害支援の報告を聞いた後、講演させて頂いたが、その冒頭で以下の3点を前提にして話をさせて頂いた。
① ・社会福祉制度の枠の中で、制度化されたサービスを利用して支援するのは、ソーシャルワークなのであろうか
・社会福祉士の資格を有している人が、生活のしづらさを抱えている人を支援するのはソーシャルワークなのだろうか、また、その人をソーシャルワーカーというのだろうか
② ・在宅福祉サービスを基盤とした地域福祉実践にはソーシャルワークとケアワークを有機的に提供するソーシャルケアという考え方が重要―2000年ソーシャルケアサービス従事者研究協議会、2003年栃木県ソーシャルケア協議会発足
③ ・社会福祉関係者、とりわけ社会福祉協議会関係者はボランティア活動というと、社会福祉協議会の“専売特許”と考えてこなかったであろうか。あの東京都のボランティア活動センターも、「ボランティア・市民活動センター」と衣替えし、保健福祉局からの補助金ではなく、生活文化局からの補助金で運営されているー能登半島地震・能登集中豪雨の支援における技能ボランティアの位置と活躍をどう見るか

〇ここで、考えて欲しいと思ったのは、社会福祉関係者が災害支援の活動について、それが“素朴に”ソーシャルワークだと考えていることである。社会福祉士等の資格を有している人が活動を行えば、それはソーシャルワークなのだと思っていることへの警鐘である。
〇筆者は、1970年代から、ケースワーク等を研究している社会福祉方法論研究の大学教員が、社会福祉職員として活動している人を気軽に“ソーシャルワーカー”と呼んでいることに相当の抵抗感を覚えた。その人が行っている活動、行動を見ているととても私の考え方ではソーシャルワーカーとは呼べないし、呼びたくないと思ってきた。
〇そんな経緯もあり、筆者は1980年代末から“ソーシャルワーク機能を最も具現化している人がソーシャルワーカーである“という言い方を使ってきた。保健師もソーシャルワーク機能を業務でしているし、弁護士もそうだし、教師もソーシャルワーク機能を展開している。
〇そのような中で、最もソーシャルワーク機能を具現化し、その活動においてソーシャルワーク機能を意識している人をソーシャルワーカーと呼びたいし、其の機能、活動している人が社会福祉士であって欲しいと願い、その実現に努力してきたつもりである。
〇だとすれば、能登半島地震の被災者支援において、「いしかわソーシャルワーカー連絡会」の構成団体の人々はソーシャルケア、ソーシャルワークをどれだけ意識して活動を展開してきたのかを考えて欲しいという思いで冒頭に述べさせて頂いた。
〇被災者支援という“極限状況”の中で頑張っていることには敬意を表し、感謝はするけれども、そこまでいわないと、災害被災者支援のあり方を考える社会福祉専門職団体としては物足りない。
〇社会福祉専門職団体が、ソーシャルケア、ソーシャルワーク機能を意識化して、その機能を具現化させる、その積み重ねが、国民からの信頼とソーシャルケア、ソーシャルワークの専門職としての位置を構築できるのではないか。
〇そのような視点から、社会福祉専門職の方々がどれだけ災害被災者支援においてソーシャルワーク機能を意識したかを私なりに提示させて頂いて講演をした。まさに、NHKの番組「チコちゃんに叱られる」ではないが、社会福祉専門職の人々に〝喝“を入れて、”ボート生きてんじゃねーよ“と訴えたかったからである。
〇講演内容は、以下の柱で行った。
ⅰ)災害対策基本法、災害救助法における救命・救急とソーシャルワーク支援との区別化
ⅱ)被災後のステージ毎に変容する生活課題、生活のしづらさへのソーシャルワーク支援
ⅲ)被災による生活変容の課題とソーシャルワーク機能
ⅳ)災害対策基本法に基づく「避難行動要支援者」名簿作成と災害支援ソーシャルワーク
ⅴ)災害被災者支援のソーシャルワークと地域包括ケアシステムの構築

Ⅲ 能登半島地震・能登集中豪雨被災者支援から何を学ぶか

〇3月11日から14日まで、前回の訪問で行けなかった輪島市、能登町、志賀町を中心に再度、社会福祉関係者が今回の災害支援から何を学ぶべきかということを目的に訪問させて頂いた。
〇今回の訪問も石川県社会福祉協議会の茂尾亜紀さんと村田明日香さん(七尾市中島町出身の被災者、中島町は仲代達也氏が主宰する無名塾が上演する観劇堂があるところ)にコーディネート及び運転をして頂き、多くの関係者に会えた。この紙上を借りて厚く感謝とお礼を申し上げたい。

(1)七尾市の和倉温泉の被害――産業連関経済の危機
〇3月11日、七尾市の和倉温泉の被害状況を確認してから奥能登へ入ろうということで、和倉温泉街を牽引してきた加賀屋旅館へ行った。
〇和倉温泉街は、星野リゾートとか協立リゾートとか、全国的に展開している外部資本を入れずに頑張ってきた街で、そのリーダーが加賀屋旅館であった。
〇加賀屋旅館は、七尾湾にせり出した形で立地しているのが、ある意味売りであったが、今回の能登半島地震では、その護岸部分が約1メートル近く沈下していて、建物の被害には厳しいものがあるのではないかと外から見て推察した。被災後1年以上経つが、営業を再開できているところは僅かで、地域経済の今後が懸念される。
〇和倉温泉街は旅館業を中心に回っている地域であり、旅館で使用するリネン関係の企業、旅館で働く仲居さんたちでにぎわう美容院、旅行に来られたお客さん目当てのかまぼこ、水産物などのお土産さん等産業連関表で能登半島地震の被災状況を明らかにしていくことも、社会福祉関係者は知っておくべき内容であろう。

(註)「産業連関表」とは、総務省が統計として出しているもので、我が国の経済構造を総体的に明らかにするとともに、経済波及効果分析や各種経済指標の基準改定を行う際の基礎資料となる。ある1つの産業部門は、他の産業部門から原材料や燃料などを購入し、これを加工して別の財・サービスを生産し、さらにそれを別の産業部門に対して販売する。購入した産業部門は、それらを原材料として、また別の財・サービスを生産する。このような財・サービスの「購入―生産―販売」という連鎖的つながりを表したのが産業連関表である(総務省)。

(2) 穴水町の「平和子ども園」の自主避難所開設・実践の素晴らしさ
〇穴水町にある「平和子ども園」は、被災の翌日の1月2日から自主避難所を開設した(園長は輪島市門前町に自宅があり、そこで被災。「平和子ども園」までは通常車で15分)。
〇ども連れの家族を主な対象に声を掛け、33人(1歳3か月の乳児入れて未就学児4名、小学生7名、中学生1名、高校生1名、大人が20名)が6室の保育室を利用して避難生活をした。延べ74人の避難者が利用した。中には、88歳の認知症の車いす生活の高齢者も家族ともども受け入れて生活をして頂いたという。また、大学受験の高校生には、特別室を作り、受験勉強してもらったという。その受験生は無事入試センター試験に受かり、志望校へ進学できたという。
〇当時「平和子ども園」には、災害備蓄用品が毛布20枚、サーモマット3枚、水2リットル、ペットボトル60本、簡易トイレ(使い捨て500回分)、運動用マット10枚、アルコール消毒液、お米、菓子類、折りたたみ椅子などもあった。水道は断水していたが、電気が通電していたし、Wi-Fiも使えたので自由に使って頂いたという。
〇1月3日には行政からカップ麺15,パン25個の支援があった他、他の家族や出入りの業者からの支援もあった。1月4日には、有難いことに、北海道の胆振地震で被災された
経験を持つ「リズム学園」が大量の物資をもって、救援に駆けつけてくれたという。
〇自衛隊による救援は1月5日には始まったが、自衛隊の入浴が1月7日に始まる前の1月6日には、子ども園にあるシャワー室を活用し、お湯をガスコンロ2台使って沸かし、体を拭いてもらって、大喜びされたという。
〇食事は、子ども園の厨房を使って、調理師の免許を持つ副園長(園長夫人)が避難者の食事をすべて作ったという。ある時、避難者が食事を一緒に作ると申し出てくれたが、副園長は“保育園の厨房は子どもの健康と衛生を守る砦、聖域なので、他の人は入らないでください”と言って、一人で食事の準備をしてくれたという。その食事内容は、避難所生活では考えられない、コロッケ、親子丼、牛丼、ちらし寿司、シュウマイ、出し巻き卵などが供されていた。
〇行政や他の機関から寄せられる情報はすべて掲示板に貼るなどして公開にしたし、自主避難所でありながら、行政と交渉して指定避難所と同じ扱いをしてもらった。なんと、避難生活中に、避難者と2回も飲み会をしたという。他の避難所では考えられない運営がされていた。
〇「平和子ども園」の園長であり、自主避難所を開設した日吉輝幸さんは、自主避難所を開設するかどうか随分葛藤したという。
〇結果的に、自主避難所を開設したのは、2017年度から石川県社会福祉協議会のモデル事業として、穴水町内の7社会福祉法人が協議会を作り、地域貢献活動していたことと祖母の代から保育所を開設し、地域づくりを志してきたDNAのなせる業かもしれないという。
〇「平和子ども園」は、そもそも昭和14年に瑞源寺保育所として創設されている(戦後、昭和28年に穴水第1平和保育園として認可)。
〇吉輝幸園長の祖母は曹洞宗瑞源寺の住職夫人で、方面委員に就任していた。当時、女性の方面委員は珍しいが、夫である瑞源寺住職が町長をされていたこともあったのか、方面委員になっている。当時の石川県の方面委員は金沢市の善隣館を設立し、保育所や診療所を開設しているなどの活動が活発に展開されていた時代であり、それに影響を受けたのか、「平和子ども園」の前身は昭和14年に設立されている。日吉輝幸園長は瑞源寺の三男に生れ、兄は住職をされている。そのような家系のDNAが自主避難所開設に向かわせたともいえる。
〇他方、2017年度から進められている社会福祉法人の地域貢献活動のなかで、地域共生社会の実現を訴えてきたこともあって、自主避難所開設に踏み切らせたのかもしれないという。
〇日吉輝幸園長が講演用にまとめたレジュメ、スライドには『令和6年能登半島地震 被災で見えた園の存在意義と役割――地域共生社会の担い手としてー』と書いてあるのを見ても、社会福祉法人としての責務、理念を大事にして開設されたことが伺える。

(3)穴水町におけるNPO法人のボランティア活動の広がりと活躍
〇穴水町には多数のボランティア団体が被災者支援の活動に関わってくれている。後述するレスキューストックヤードやADRAをはじめ、名古屋ボランティアネット、藤田医科大学、東京アクションプラン、JVOAD、真如園サーブ等が支援に関わってくれている。
「老爺心お節介情報」第63号で紹介した国際NGO・ADRAの小出一博さんもその一人である。
〇国際NGO・ADRAはキリスト教のセブンスデー・アドベンチスト教会を設立母体としており、世界120支部を有している大きな国際NGOである。日本では、認定NPO法人ADRA・Japanとして認定されており、宗教法人セブンスデー・アドベンチスト教団の総務部長である柴田俊生氏が理事長を務めている。ADRAの名称は、Adventist Development and Relief Agencyの頭文字からとられている。
〇穴水町での支援では、主に技術系ニーズに対応するボランティア活動を展開してくれている。
〇他方、穴水町に2007年の能登半島地震の際に、穴水町社会福祉協議会「災害ボランティアセンター」支援、「避難所対応・家の相談会」開催などの支援を行ってきた「認定NPO法人レスキューストックヤード」の活動も大きな支援となっている。
〇「認定NPO法人レスキューストックヤード」は、代表をしている栗田暢之氏が、名古屋大学職員として、阪神淡路大震災に際し、1500人の学生ボランティアのコーディネートをした経験から、1995年7月に立ち上がった「震災から学ぶボランティアネットの会」が前身で、2002年に「NPO法人レスキューストックヤード」として設立された。「認定NPO法人レスキューストックヤード」は、「老爺心お節介情報」第63号で紹介した穴水町災害ボランティアセンターの組織図の中の生活支援ニーズに対応したボランティア活動を展開してくれている。
〇能登半島地震支援のNPO法人等のボランティア団体の受け入れ、調整は石川県災害対策ボランティア本部(石川県女性活躍・県民協働課)に対し、NPO法人レスキューストックヤードは県と連繋して活動をしている団体、個人であることを示す「災害ボランティア支援車両」というステッカーや名札・腕章の貸与をお願いしている。これはとても重要なことで、ボランティア活動だから自由にと言っても住民は今日の特殊詐欺が起こる状況の中ではなかなか訪問してくるボランティアを信用することができない。
〇ボランティア活動だから自由にということではなく、行政や社会福祉協議会との連携の中で活動して欲しいが、行政も社会福祉協議会もボランティア活動やNPO法人の活動実態を必ずしも全体的に把握できていない。これからは、ボランティア活動を規制、制約するわけではないが、一定のルール化が求められているのではないか。
〇「認定NPO法人レスキューストックヤード」は、生活支援の活動として、避難所のトイレ・寝床の生活環境整備、栄養のバランスや温食を考えた炊き出し、在宅避難者の困りごとニーズ調査やサロン開催などの活動を行っている。
〇「認定NPO法人レスキューストックヤード」の代表者である栗田暢之さんは、内閣府が2022年度から設置した「避難生活支援・防災人材育成エコシステムの構築に向けた具体化検討会」の座長もしており、「中長期支援に向けた避難所生活環境アセスメントシート」も開発、運用している。
〇このようなNPO法人の災害支援の状況をみていると、社会福祉協議会がいまだ「災害ボランティアセンター」の設置、運用していることが、如何に時代遅れであるか分かるし、いつまでも“ボランティアセンター”の活動でいいのかと言いたくなる。最近では、「災害福祉支援ボランティアセンター」と名称を変えてきているが、その内容が今一つはっきりしない。
〇社会福祉協議会は、災害被災者支援のソーシャルワーク機能を具現化できるシステムと能力を身に着けるべきである。 そのことを意識しないで、「DWAT」の活動に流れることは慎まなければならない。
〇国は、被災者支援の制度として、「被災高齢者等把握事業」を特定非常災害の場合には国の補助金10分の10の補助率で行っており、介護支援専門員などの職能団体から派遣された専門職により、災害救助法の適用から概ね3か月以内の間で、集中的に被災高齢者等の実態把握を求めている。その事業の中には①戸別訪問に基づく専門的な生活支援等の助言の実施、②その他被災者の状態悪化の防止を図るため、被災高齢者等の把握と一体的に行うことが効果的な取組として実施主体が認めた事業が挙げられており、これらの事業にどう社会福祉協議会が関わり、ソーシャルワーク機能を発揮できるかが問われていると言わざるを得ない。
〇また、国は「被災者見守り・相談支援等事業」を特定非常災害の場合には10分の10の補助率で実施している。これは、いわゆる「地域支え合いセンター」と呼ばれるもので、多くの場合、社会福祉協議会が受託している。この事業の支援対象者は災害救助法に基づく応急仮設住宅への入居者とされているが、在宅であっても災害を要因として孤立する恐れがある者を支援対象者に含めて差支えないとされている。
〇この「被災者見守り・相談支援等事業」は、事業実施期間中に、可能な限り一般施策による支援での対応を検討するとともに、本事業終了後の支援体制構築のため、民生委員・児童委員による見守りや生活困窮者自立支援制度などによる支援など、一般施策による支援へ移行していくことを十分に検討することとされている。
〇まさに、これこそ、社会福祉協議会が平時から行っておかなければならに活動であり、よりその機能を発揮するためにも、重層的支援体制整備事業を被災市町村は積極的に受託していくべきである。

(註)「認定NPO法人レスキューストックヤード」に関する情報は、代表の栗田暢之さんから国際NGO・ADRAの小出一博さんを通じて頂いたもので、この紙上を借りてお礼を申し上げる次第である。

〇ちなみに、珠洲市でボランティア活動を展開してくれたNPOは、技術系で災害救援レスキューアシスト、チームふじさん、愛・知・人(ブルーシート張り)、ピースボート災害支援センター、日本財団、DRT JAPAN(電気関係)、DEF TOKYO(電気関係)、ボウサリング(子ども支援)等があり、生活支援や保健・医療関係では日本レスキュー協会、ピースウィンズ・ジャパン、弘生福祉会、鳥越福祉会、すず椿、ひのきしんセンター等が支援に参加している。
〇この他、石川県精神保健福祉士協会、日本医療ソーシャルワーカー協会、石川県社会福祉士会、介護支援専門員協会、相談支援専門員協会、日本災害看護学会等の専門職団体、学会の関係者も支援に入っている。 更には、DWATの支援も含めて、介護福祉士会も支援してくれている。
〇このように、今や災害支援のボランティア活動は社会福祉協議会だけを見ていればいいというものではなく、多様な組織が支援に入ってくれている。しかしながら、それらの全体を俯瞰し、調整するプラットホーム機能が必ずしもできていない。福祉避難所や在宅の被災者支援においては、行政と社会福祉協議会がそれなりにプラットホーム機能を持てているが、施設関係まで含めると全体像が必ずしも見えていないのが現状ではないだろうか。能登町でも、重機を活用しての技術ボランティア団体「OPEN JAPAN」が頑張っているというので訪ねたが、代表の肥田さんは大船渡山林火災に駆けつけたということで会えず、話を聞けなかった。

(註)一般社団法人OPEN JAPANは、旧ボランティア支援ベース絆で、阪神淡路大震災や東日本大震災のボランティア支援で集まった仲間が立ち上げ、2012年3月11日に名称をOPEN JAPANに変更し、活動を続けている。代表は吉沢武彦さんで、吉沢さんは日本カーシェアリング協会にも所属している。

(4)輪島市における助け合いセンター(「被災者見守り・相談支援等事業」の活動)
〇輪島市社会福祉協議会では、「輪島市災害たすけあいセンター見守り・相談支援班」の活動を主にお聞きした。
〇「輪島市災害たすけあいセンター見守り・相談支援」事業は、上述したように国の制度である「被災者見守り・相談支援等事業」に基づくもので、輪島市社会福祉協議会は在宅の被災者支援、仮設住宅入居者への支援は社会福祉法人佛子園とJOKAとのジョイントとして、社会福祉法人佛子園の「輪島カブーレ」が請け負っている(この件については後述)。
〇「輪島市災害たすけあいセンター見守り・相談支援事業」は、令和6年度の6月から開始されるが、予算は1億70万円である(ちなみに、令和7年度は1億1700万円を要求)。この予算は、厚生労働省の生活困窮社会福祉支援事業の予算の中から出されており、補助率は10分の10の事業である。
〇「たすけあいセンター」で働く人は上は77歳、下は50歳で平均年齢65・4歳の30名が働いている。センターの副センター長であり、入職24年のベテラン保健師でもある大下百合香さんがリーダーとして牽引してくれている。
〇「輪島市災害たすけあいセンター見守り・相談支援班」では、令和6年10月から「あいちゃん通信」(現在第8号まで発行)を出して、戸別配布している。仮設住宅は自分たちの所管ではないが、同じ輪島市民なので、「輪島カブーレ」を通して配布している。
〇この「あいちゃん通信」を発行するに当たって中心になってくれている職員が、山路健造さんで、海外協力隊の経験を持ち、佐賀県でNPO地球市民の会に参加してきた、元西日本新聞の記者である。佐賀県では、在留外国人支援の活動をしていたという。その山路さんが、輪島市でのボランティア活動が一段落した機会に輪島市社会福祉協議会の「たすけあいセンター」職員として、応募してくれたとのこと。
〇「あいちゃん通信」を読んでいると、災害で汚れた写真の洗浄、ペットとの生活のサポートなどの紹介の他、令和6年度の4月6月までに1万2千世帯を超える家庭を訪問調査したとか、石川県内の福祉専門職団体による3096件の被災状況等の確認、“定期的通う場”がなく、孤立しがちでサロン開催の必要性、あるいは市内の介護サービス提供の状況の情報提供等、被災者の生活のしづらさ、困りごと、生活支援等がこの紙面を通じてわかり、とてもいい情報誌である。このような情報誌は、平時においても日常的に欲しいなと思いました。

(5)「輪島カブーレ」の「ごちゃまぜ福祉実践」と被災者支援
〇社会福祉法人佛子園の理事長である雄谷良成さんの「ごちゃまぜ福祉実践」は、『ソーシャルイノベーション』(雄谷良成監修、竹本鉄雄著、ダイヤモンド社、2018年9月)がわかりやすいので参照して欲しい。
〇「輪島カブーレ」は輪島市内で、歩ける範囲の地域において、空き家等を譲りうけ、それらの家屋をリノベーションして、ごちゃまぜの実践ができるエリアを創出している。現在、障害者向けの短期入居住宅、障害者向けのグループホーム、サービス付き高齢者向け住宅を始め、地域の人も利用できるウェルネス、障害者の就労継続支援A型事業所としてのそばや「やぶかぶれ」、ゲストハウス等12事業所を展開している。その中でも重要な役割を果たしているのが、地下1165メートルから湧き出る温泉「三の湯」と「七ノ湯」である。ここはまさに地域住民の“浮世風呂”で、コミュニティ形成の中核的雄施設である。「輪島カブーレ」のある地域の住民は入浴料がただで入れる温泉で、地域住民である証の木札が壁にかかっていて、住民は入浴する時にはそれを裏返して入るのだという。住民は、温泉に浸かった後、そばやである「やぶかぶれ」で昼食を摂ったり、ビールを飲んだりしている。私もそこで地ビール・ヴァイツェンを飲み、おそばを頂いたがとても美味しかったし、同じカウンターの隣に座っている人と気軽に話が出来る、まさに地域の居場所、拠り所になっている。
〇この「輪島カブーレ」が被災したこともあって、雄谷良成さんが会長をしている青年海外協力隊のOB・OGで組織されているJOCAが支援に入ってくれた。そこは、単なるボランティア活動としてではなく、JOCAの会員を社会福祉法人佛子園の職員として“出向”させるという形態で支援に入った。したがって、輪島市の復興事業に関わる事業を社会福祉法人佛子園が受託し、その事業は本来の職員だけではできないので、JOCAの会員が“出向”職員として担うという形式をとった。
我々に会ってくれた堀田直揮さんは、広島県のJOCAX3で勤務していたが、JOCAの災害復興担当の理事でもあるので、「輪島カブーレ」の災害に関わる責任者として活動をしている。

(註) JOCAとは、公益社団法人青年海外協力協会(Japan Overseas Cooperative
Association)の頭文字を取った略称である。本部は長野県駒ケ根市にあり、そこでは就労継続支援A型等の事業を展開している。JOCAは、JOCA東北、JOCAX3(広島県安芸太田町),JOCA南部(鳥取県
南部町)などに支部があり、社会福祉事業を展開している。多くの場合、多機能型の事業所を展開している。今回の能登支援では、これらで働いている職員がローテーションを組んで、「輪島カブーレ」及び輪島市支援に入ってくれた。JOCAは1983年12月に設立され、2012年2月に公益社団法人に移行。代表理事は雄谷良成氏である。

〇「輪島カブーレ」は、地域住民の拠り所である温泉をいち早く復活させた。温泉はくみ上げられたが、水道が出ず、熱い風呂にペットボトルを浮かべるなどして冷まし、住民の利用に供することができた。普段から「輪島カブーレ」のある地域住民と密接な、良好な関係を築いていたことが大きな力を発揮し、後片付けなども住民の方々が協力してくれた。
〇「輪島カブーレ」は、現在輪島市から委託を受けて、仮設住宅に住んでいる方々の見守り、生活支援、相談活動を展開している。
〇社会福祉法人佛子園は、2026年に輪島市内に6か所のコミュニティセンターを開設する。従来の集会機能だけでなく、相談機能、運動施設、食事処、銭湯なども併設されている施設である。社会福祉法人佛子園は、従来新しい事業を展開するときには、「福祉医療機構」の貸付を利用していたが、今では民間の金融機関の貸付も利用しながら事業展開しているという。この面でも、大いに学ぶべき点がある。

(6) ”孤立“した輪島市門前町の「生きる力」
〇「輪島カブーレ」の堀田直揮さんと話をしている際に、東日本大震災の際に、当時宮城県社会福祉協議会の職員で、石巻市支援で大きな働きをしてくれた北川進さん(現・日本社会事業大学専門職大学院教員)が輪島市門前町に3月17日の週に入るのだということが分り、電話して状況を聞くと、門前町に日本社会事業大学の卒業生の松下明さんがいて、輪島市門前町支所の地域支援係の担当しているという。松下さんは、能登半島地震発災後から日本社会事業大学の伝手で北川進さんと電話での相談をしていたことが判明した。
〇松下明さんに電話をすると支所にいるというので、急遽訪ねることにした。
〇前回の門前町訪問では、総持寺の被害状況をお聞きする程度だったので、予定を変更して行くことにした。
〇輪島市から門前町へ行く国道はトンネルが土砂で埋まり通行できないという。遠回りをする時間的余裕もないので、山越えの旧道を行くことにしたが、それも陥没したりしていて、一車線しかなく、工事関係者には驚かされたが、運転手の村田明日香さんが頑張って連れて行ってくれた。
〇門前町は、地震災害で輪島市本庁との行き来が十分できないため、門前町独自に災害被災者支援をせざるを得なくなり、支所の職員のご苦労は大変なものであったという。しかも、高齢化率が64・5%と非常に高い状況ではあったが、門前町はコミュニティの力がいまだ豊かにあり、その力で頑張ってこられたという。したがって、避難所も仮設住宅もできるだけコミュニティの力が発揮できるよう意識して取り組んできたという。現在、仮設住宅に入居している人は1292人で、門前町の人口が4276人であるから、約30%の人が仮設住宅生活ということになる。
〇災害復興支援で、とりわけ意識したのは、コミュニティの力を削がないように、仮設住宅を設置し、入居してもらっているが、その上で仮設住宅団地毎に、入居している人々で仮設住宅団地自治会を作ってもらうよう働き掛け、現在10仮設住宅団地のうち9地区で仮設住宅自治会が結成されたという。
〇生活支援面では、高齢化率が高いこと、外からの支援が難しい状況の中で、イオンリテールやまんぷく丸、Aコープでの移動販売を利用しやすいように、販売ルート、販売時間を表にして配布したり、おでかけバス、愛のリバスの運行時間を曜日ごとに分かる票にして配布している。
〇また、地域にある社会資源が門前町のどこの地区に何があるかを一覧表にしている。理美容院はどこの地区で開業しているとか、日用品はどこの地区で買えるとか、医療、歯科はどこで受診できるかなど、住民が生活する上で必要な情報を門前町支所では的確に、多面的に情報提供している。
〇門前町でも海岸隆起が激しいというので、江戸時代の北前船の寄港地で栄えた「天領黒島」を見学したが、4メートルの隆起で港は使えない状況であった。本当に自然の力のすさまじさを目の当たりした。

(7)志賀町地域支え合いセンターと生活支援相談員の研修
〇志賀町は旧志賀町(どちらかと言えば農村地域)と旧富来町(どちらかと言えば漁業経済地域)が合併した町である。志賀原発は旧志賀町にあるが、能登半島地震では被害がなかった(現在運転中止中)。
〇志賀町の仮設住宅は10箇所で、トレーラーハウスや木造りの仮設住宅、ムービングハウスという仮説住宅も設置されており、349人が入居している。
〇志賀町には社会福祉協議会に「志賀町地域支え合いセンター」が設置されており、主任生活支援相談員2名と生活支援相談員14名が配属されている。
〇志賀町社会福祉協議会を訪ねたら、生活支援相談員の方々が待機していて、研修をしてくれという話になった。皆さん、社会福祉を学んだ人々でないので、家庭訪問は住民の生活の仕方、生活の匂い等住民のニーズキャッチの最前線なのだから頑張って欲しい旨のはなしをした。住民の生活相談窓口を設置して、住民が来所するのを待つのではなく、家庭訪問して、住民のニーズを把握することが重要であること、仮設住宅でのサロンの運営などにあっては、住民の興味、関心が違うので場所は狭いかもしれないが、プログラムは画一的なものにしないことと、一斉に同じものをしてもらうことをできるだけ避けて欲しい旨の話をした。
〇志賀町の西方沖では、今でも余震が続いており、原発に影響するような第地震にならなければいいがという心配をされていた。
(2025年3月16日記)

(備考)
「老爺心お節介情報」は、阪野貢先生のブログ(「阪野貢 市民福祉教育研究所」で検索)に第1号から収録されていますので、関心のある方は検索してください。
この「老爺心お節介情報」はご自由にご活用頂いて結構です。

 

大橋謙策/大橋謙策研究 第6巻:経歴と研究業績

 


 

目  次

Ⅰ 経歴と研究業績‥‥‥2

  大橋謙策蔵書リスト‥‥‥24

Ⅱ 日本社会事業大学・最終講義‥‥‥25

Ⅲ 日本地域福祉研究所・理事長退任挨拶‥‥‥49

Ⅳ 大橋ゼミ・50周年ホームカミングデー挨拶‥‥‥53

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Ⅰ  経歴と研究業績

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1 経歴


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2 研究業績
1)著書(単著、編著、監修)


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2)論文


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出典:『大橋謙策主要論文等(2019年~2023年)』大橋ゼミ50周年ホームカミングデー実行委員会、2023年10月、1~16ページ。

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3)追補(未定稿)


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備考:本資料は、岡村英雄氏(日本社会事業大学大学院修士課程修了、大橋ゼミ)の作成になるものである。一部確認を要する点があることから、「未定稿」とした。岡村氏には感謝とお礼を申し上げたい。

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4)大橋謙策蔵書リスト

市民福祉教育研究所では、一部の「大橋謙策蔵書」の<リスト>を所蔵しております。フロントページ、画像下のナビゲーションメニュー中の「プラットホーム」からお問い合わせ下さい。/市民福祉教育研究所

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Ⅱ 日本社会事業大学・最終講義

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『社会事業』の復権とコミュニティソーシャルワーク


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出典:大橋謙策「最終講義 『社会事業』の復権とコミュニティーソーシャルワーク」『日本社会事業大学研究紀要』第57集、日本社会事業大学、2011年2月、19~42ページ。
大橋謙策『大橋謙策研究 第4巻 異端から正統へ・50年の闘い』市民福祉教育研究所、2025年2月、所収。

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 Ⅲ 日本地域福祉研究所・理事長退任挨拶

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<日本地域福祉研究所の理事長退任>

〇2023年5月20日に大正大学で行われた日本地域福祉研究所の理事会、総会で、日本地域福祉研究所の理事長を退任することが認められました。
〇1994年12月23日に、日本地域福祉研究所を設立し、2000年1月にNPO法人格を取得し、理事長を担ってきましたが、30年目の節目の年に後進に道を委ねます。
〇今回の改選で、理事等が大幅に若返りました。70歳以上の理事は基本的に退任(『コミュニティソーシャルワーク』の編集担当の田中英樹理事は重任)し、若いフレッシュな人が理事に選任されました。同時に、特任理事、客員研究員、主任研究員等の選任も行われました。この特任理事、客員研究員、主任研究員についても、若返りを図る必要がありますが、それは次期理事会で検討することになりました。
〇新体制の理事会は、6月1日に行われ、互選で理事長などを選びますが、現時点では法政大学現代福祉学部教授、当研究所の副理事長の宮城孝先生が選任される見込みです。
〇地域福祉研究者の皆様、社会福祉協議会関係者の皆様には、長年に亘り、日本地域福祉研究所及び理事長である私を支えてくださり、衷心より厚く感謝とお礼を申し上げます。理事長は替わりますが、今後とも日本地域福祉研究所へのご支援、ご鞭撻を心よりお願い申し上げます。(2023年5月21日記)

Ⅰ 地域福祉研究者の「研究者文化」と日本地域福祉研究所の設立目的

〇日本地域福祉研究所は1994年12月23日に設立されました。日本社会事業大学大学院修士課程を修了した人を中心に設立しました。元東京都社会福祉協議会職員で、静岡英和大学、静岡福祉大学で教員をされた青山登志夫さん等が尽力してくれて、日本地域福祉研究所の設立ができました。
〇日本地域福祉研究所設立に際し、私は4つの設立目的を考えました。
〇第1は、新しい社会福祉の考え方である「地域福祉」の哲学、理念、実践の在り方などに関する「地域福祉」の普及・啓発でした。
〇筆者は、地域福祉実践・研究を市町村社会福祉協議会を基盤に確立しようと考えて、取り組んで来ましたが、日本の社会福祉学界では、“私のような研究領域、研究方法は社会福祉プロパーでない”と厳しい批判を受けてきました。それらの意見との戦いも含めて、「地域福祉」の考え方の普及と啓発が必要だと考えました。そのこ

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とが、従来のコミュニティオーガニゼーション、コミュニティワークに代えてコミュニティソーシャルワークという提唱になります。また、同じように福祉教育を軸とした地域福祉の主体形成理論の提唱も行ってきました。
〇第2には、地域福祉実践の向上に向けた各種研修と実践者の組織化です。
〇筆者は、全社協主催の「地域福祉活動指導員養成課程」の講師を長らく務め、社会福祉協議会職員の研修の重要性を痛感していました。
〇その全社協主催の「地域福祉活動指導員養成課程」が修了したこともあり、その代替機能を担えればと思いました。一時は、通信制の研修システムの構築も考えました(当時は、今ほどICTの発展・普及がない中での紙媒体による通信制を考えていました。いまなら、ICTを使ってできるかもしれません)。
〇その代わりというわけではありませんが、年1回「地域福祉実践研究セミナー」を日本地域福祉研究所が「関係人口」として深く関わり、その地域の実践にある意味影響力を持っている地域で、その地域の実践をフィールドに学習するセミナーを開催しようと考えました。名称も、“地域福祉実践セミナー”でもないし、”地域福祉研究セミナー“でもなく、「地域福祉実践研究セミナー」としたのも、実践と研究の循環を考えたからです。
〇1995年5月に島根県邑南郡瑞穂町で行われた「山野草を食べる会」に呼ばれた際に、当時の瑞穂町社会福祉協議会の日高政恵事務局長にお願いし、1995年8月に第1回を開催したのが始まりです。
〇筆者自身の瑞穂町との関りは、1981年に当時の島根県社会福祉協議会の山本直治常務理事、松徳女学院高校の山本壽子教諭の紹介で訪問したのが最初で、その後瑞穂町の福祉教育、地域づくりの支援に関わってきました(『安らぎの田舎の道標』大橋謙策監修、澤田隆之・日高政恵共著、万葉舎、2000年8月参照)。
〇第3は、地域福祉実践の記録化と出版化です。
〇筆者は、日本社会事業大学大学院で博士課程を修了し、博士の学位を取得した人にはその博士論文を単著として、刊行し、世の評価を受けるべきだと考えてきました。
〇当時、中央法規出版にお願いしました。できれば中央法規出版が全国の大学の社会福祉系の博士論文を刊行するシリーズを作ってくれればありがたいという思いも含めてお願いしました。日本社会事業大学で博士の学位を授与された野川とも江さん、田中英樹さん、宮城孝さんの博士論文は刊行されました。その後は、出版事情の悪化などもあり頓挫してしまいました。
〇これは、当時の日本社会事業大学の伝統に倣ったものです。当時の日本社会事業大学では、40歳で単著を刊行するのが、教授に昇格する基準でした。私も必死だったことが思いだされます。
〇また、当時は、出版される本の背表紙に著者であれ、監修であれ、名前が明記されるのは、ある意味研究者のステイタスシンボルでもありました。私の恩師は、そのような機会を若手に作り、論文をかくことを奨励してくれました。

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〇そのような“伝統”を引き継ぎたいと考えて、博士論文の出版化を推奨してきました。
〇と同時に、日本地域福祉研究所が関わることで、全国各地の実践が向上するならば、その実践を記録化し、できれば刊行したいと考えました。研究所の設立に何かとご支援、ご協力してくれた東洋堂企画出版社(のちに、万葉舎と改名)の尾関とよ子社長(尾関社長との間を取り持ってくれたのは、1970年からのお付き合いがある手嶋喜美子元板橋区区議会議長さんである)が、この考え方に賛同してくれて、出版事情が悪くなってきている中でも、日本地域福祉研究所が関わった実践を出版化してくれました(この件は、「老爺心お節介情報」の第44号の「関係人口」の中で紹介しているので参照してください)。
〇第4は、地域福祉実践・研究者の育成の機会の提供です。
〇筆者は、地域福祉研究者は、自分のフィールドを持ち、その地域と深く関わりながら、その実践を体系化、理論化することが肝要で、“空理空論”を振りましても地域福祉実践・研究にならないと考えてきました。だからこそ、市町村自治体の地域福祉計画を作る場合でも、タスクゴールだけ華やかに、かっこよく作っても、それが具現化されなければ駄目だと考え、住民の意識変容と参加を促すプロセスゴールと地域関係者の社会福祉に関わる力学を変えるリレーションシップゴールの重要性と必要性を考え、実践してきました。
〇そのようなフィールドを持てる研究者に育てるためには、私自身が関わるフィールドに同道して学んでもらうとか、フィールドを提供して実習なり、その地域へのコンサルテーションを行う能力を身に着けてもらうことが必要だと考えてきました。
〇私自身、恩師の“カバン持ち”で、随分と全国の実践現場に連れて行ってもらいましたし、恩師の名刺に“大橋を頼む”という一筆を書いてもらって、恩師が紹介するフィールドに出かけたものです。
〇そんなこともあり、大学院生や若手の研究者にフィールドをもってもらいたくて、いろいろチャンスを提供してきました。成功した場合の方が多いのですが、失敗したことも多々あります。若い頃は、ついつい“自分ひとりで偉くなったつもり、自分は豊かな能力があると過信しがち“で、私の教えが頭に入らず、生意気な言動をとって、実質的に”退室“せざるを得ない人もありました。
〇第5は、日本地域福祉研究所で長らく地域福祉実践に貢献された方々の“たまり場”、拠り所としての「福祉サロン」の機能を持つことでした。
〇全社協の事務局長された永田幹夫先生や三浦文夫先生をはじめとして、社会福祉協議会の第一線で頑張ってこられた方々や地域福祉研究者の「福祉サロン」ができれば、ノンフォーマルな学習の場が機能できると考えました。日本地域福祉研究所の事務室とは別の階のフロアーを借り、冷蔵庫等を整備して、「土曜福祉サロン」などの開催も試みました。現役の方は忙しいけれど、たまには集い、定年退職された方はサロンに来るのを楽しみ、若手に自分の実践を話してくれれば、それが地域福祉実践研究の向上につながると“夢”見ました。

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〇このような目的を考えて設立した日本地域福祉研究所ですが、どれだけその目的が達成されたかは、関係者の皆様の評価に委ねることにします。
〇ところで、このような日本地域福祉研究所設立の目的を考えたのは、筆者を育んでくれた「研究者文化」があったからです。
〇日本の大学の教育研究システムは、大きく分けて講座制と学科目制があります。講座制は主任教授、助教授、講師、助教等複数の教育研究スタッフがいて、いわばチームで教育研究を行うシステムです。それに比し、学科目制は、開講されている授業科目を担当する教員が個別学科目毎に配属されているシステムで、研究というより、授業を行う教育に比重があるシステムです。
〇現在の社会福祉系大学は学科目制で教育研究が行われています。したがって、教員がチームで仕事をするとか、大学ごと、講座制の教室毎の「研究者文化」というものを構築することが難しいシステムで、教員個々人が独立した状況で教育研究を行います。大学院を出て、助教、講師という若手も一人前の教員、研究者であり、長年教育・研究に携わってきたベテランの教員とも対等であり、結果として若手の時から“自立している”とみなされるので、ベテランの先生方から「研究者文化」を伝授されるという機会がほとんどない状況です。
〇私の場合には、幸か不幸か、旧制大学で学んだ先生方から教えをうけたので、この「研究者文化」というものを色濃く受けています。妻に言わせれば、それほどまでにしなくてもいいのではないかと揶揄されるほど、“先生の言動、論理展開、先生の社会活動”に“憧れ”、学び、時には“盗み”、身に着けてきました。日本地域福祉研究所の設立の目的は、そのような経緯の中で育てられた私が“行うべき責務、任務”だと学び、受け継ぎ、実践してきたものです。
〇日本地域福祉研究所を維持することは、所員になってくれた方々の会費だけでは賄いきれません。日本地域福祉研究所の理事になってくれた方々には寄付をお願いしました。また、日本地域福祉研究所自身、全国の自治体、社会福祉協議会の研修や計画策定業務の委託を受けて経営努力もしてきました。しかしながら、それでもとても経営は厳しく、私自身も毎年100万円以上の寄付を続けてきました。したがって、私の寄付金の累計は30年間で3000万円を超しています。そのような行動をとれたのは、恩師が“講演や研修で頂いた謝金は自分の懐に入れるな、自分の生活費に使うな”と強調していたからです。それらのお金は、実践で働いている方々や社会に還元しろと口を酸っぱくするほど言い募っていました。そんな「研究者文化」を長年叩き込まれてきましたのでできたことです。
〇このような「研究者文化」がいいかどうかは分かりません。しかしながら、現在の社会福祉系大学の教員、地域福祉研究者の言動をみていると、このような「研究者文化」ともいえる文化を身に着け、行動している人がほとんど見られないことはなんとも淋しい限りです。このような状況の下では、実践と研究のよき循環が衰退し、実践力もぜい弱化し、研究者の質も下がるという“悪循環”に陥らないか危惧しています。

出典:大橋謙策「老爺心お節介情報」第45号、2023年5月21日。
大橋謙策『大橋謙策研究 第2巻 老爺心お節介情報』市民福祉教育研究所、2025年1月、所収。

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 Ⅳ 大橋ゼミ・ホームカミングデー挨拶

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<最後の「大橋ゼミホームカミングデー」が盛会裡に行われる>

〇去る10月28日、最後の「大橋ゼミホームカミングデー」が東京・市ヶ谷のアルカディアで行われました。130名の卒業生が、北は北海道、南は沖縄、海外からも韓国から3名の卒業生が集まり、盛会裡に行われました。
〇大学教員として、日本社会事業大学の学部のゼミ生、卒論指導学生約600名、大学院修士課程の修了者は日本社会事業大学大学院、東北福祉大学大学院合わせて約110名、博士課程は同約25名の修了者を指導してきました。大学教員50年間の集大成の、最後の「大橋ゼミホームカミングデー」でした。
〇私は1943年10月26日生まれで、ちょうど80歳ということもあり、教え子たちから傘寿のお祝いをして頂きました。結婚して53年、金婚式は新型コロナウイルスの騒ぎでできませんでしたが、傘寿を夫婦でお祝いして頂き、夫婦ともどもしみじみと“いい人生!”を送らせていただいたと教え子、関係者の皆さんへの感謝の気持ちが日々口をついて出ます。
〇本当に関係者の皆様に感謝とお礼を心より申し上げます。
〇下記の文は、「大橋ゼミホームカミングデー」の資料集に載せた挨拶分です。

『大橋ゼミ・50周年ホームカミングデー挨拶』

日本社会事業大学名誉教授
大橋 謙策

・1989年、日本社会事業大学に赴任してから、15年を記念して第1回のホーミカミングデーを開催しました。
このホームカミングデーは、故平田冨太郎学長の提言です。平田富太郎学長は、単科大学としての日本社会事業大学は卒業生を大切にして、リカレント教育の一環として、ホームカミングデーをゼミ毎に開催すべきと強く要望されました。
・それは、私が1974年、日本社会事業大学に赴任する際、五味百合子先生、仲村優一先生から言われたことと同じです。
日本社会事業大学の教員は、個人の研究もさることながら、学生指導、学生への教育を大切にしてほしい旨の訓示が度々されました。

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私は教員の大学教員の教務分担として、新任教員は学生委員会に所属させられ、学生教育の重要性を学べと言われました。
・恩師である小川利夫先生からは、厚生省(当時)から委託を受けている日本社会事業大学の立ち位置を考えたら、“単なる大学教員”に甘んじてはいけない。日本社会事業大学を代表して、日本社会福祉学会などで評価される研究者になれと諭されました。
・これらの教えを胸に、ある意味、家族を“犠牲”にして、日本社会事業大学で教育・研究に励んできました。
子どもたちは、父親と楽しい時間をどれだけ持つことができたのでしょうか、時には、学生の調査実習の際に、家族を連れて行き、家族には別行動してもらいながら、学生の調査実習の合宿指導を行いました。
家庭では妻に全てを任せ、妻に“明日は日曜日でしょ”と言われても、原稿書きがあるとか、文献を読まなくてはいけないからと言っては、家事もせず、子どもとの団らんの機会も多くは持ちませんでした。
今となっては悔いは残りますが、私の研究、教育、実践に全面的に家族が協力してくれたお陰だと、妻と子どもに感謝の念で一杯です。心からお礼を伝えたいと思います。
・このような経緯があったからでしょうか、教員、研究者として日本社会事業大学の学長はもとより、日本社会福祉学会会長、日本学術会議会員、日本社会事業学校連盟会長をさせて頂きました。
結果として、日本社会事業大学の先生方からの教えに背くことなく、50年間の大学教員の責務を全うできました。
・研究者としての評価は後世に委ねなければなりませんが、研究業績を「著作集」として刊行するのではなく、ある意味、岡村重夫先生を見習った訳ではありませんが、大橋謙策理論の集大成ともいえる著作『地域福祉とは何かー哲学・理念・システムとコミュニティソーシャルワーク』を2022年4月に上梓できました。
・唯一ともいえる残された課題は、5年ごとに行ってきたホームカミングデーをいつ終結するかという課題です。
ホームカミングデーは単に、卒業生が集まり、懇親し、近況報告をするというものでは駄目で、ホームカミングデーはある意味リカレント教育の場でもあるので、教員が教え子に最先端の研究、理論、実践を自ら指し示す機会でなければならないと教えられました。
そのために、ホームカミングデーごとに、5年間に教員がどのような論文を書いたのか、どのような実践・研究をしたのかを卒業生に示し、卒業生の学びを促す機会でもなければならない儀式でもあります。

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このことは、結構教員にとっては辛いタスクであり、儀式です。教員として、研究者として、“生きて”いなければ、“論文を書いて”いなければ、ホームカミングデーは単なる懇親の場になってしまいます。
大橋ゼミホームカミングデーの機会に、私が5年間書いた物の中から、数編を選んで資料集として冊子にし、参加者に配布すると同時に、この間お世話になった方々に配布してきたのも、研究者、教員として責務を果たしていますという“アリバイ証明”でもありました。
この作業は、結構辛いもので、論文を書ける時もあれば、書けない時もあります。コンスタントに実践し、研究し、論文にまとめるという作業はよほど意識して取り組んでいないと書けないものです。
政策や制度の解説的なものは、すぐ“時とともに色褪せて”しまうもので、5年経ても色褪せず、卒業生に読んでほしいというものを書き続けるということは、一つ一つの論文で、常に社会福祉実践、社会福祉理論における研究課題は何か、事象を分析する視点に従来にない鋭さがあるか、事象に流されずに、社会問題として構造的にとらえられているかなど、研究者、教員としての知見が常に問われることになります。まさに、教員、研究者として“生きているか”が問われることになります。
これらの作業をするためには、常に“アンテナを高く、広く張り”、情報収集に努め、何が社会福祉分野における理論課題なのかを考えていなければできない作業であります。
大学教員としての現役の時は、仕事がら必要な情報が“相手からもたらされる”という状況もありますが、国や自治体の委員、あるいは各種団体の役職・委員を退任しているものにとって、これらの役職・委員就任で得られている情報を自らの手で、体系的に収集把握することは容易ではありません。
また、大学の教員、研究者として、各種学会での発表のオブリゲーションもなくなり、75歳以上で名誉会員に推挙されると、学会の理論研究をリードしようというモチベーションも下がり、研究範囲が狭隘になり、唯我独尊的になり、研究意欲も減退することになります。
・私は今年80歳になり、上記の役割を担うことができなくなってきています。5年毎のホームカミングデーをここで終結し、教員、研究者としてなすべきことの責務から開放され、一人の“老爺”として、気軽に、自分の思うところを発信したいと思うようになってきました。2022年から始めた「老爺心お節介情報」の発信はその一端です。

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・ホームカミングデーは今回で8回目を迎えますが、この間のホームアカミングデーの開催にあたっては、多くの卒業生のご協力、ご支援があったから開催できました。
今回も、岡村英雄さん、田中裕美子さん、菱沼幹雄さん、平野裕司さんはじめ多くのゼミの卒業生のご協力、ご支援を頂きました。すべての人の名前を記載できませんが、この紙上を借りて、ここに厚く感謝とお礼を申し上げます。
・私は、後2年、(公財)テクノエイド協会理事長、富山県福祉カエレッジ学長を担う予定ですが、研究者、大学教員としての責務は今回のホームカミングデーをもって終了とさせていただきます。
卒業生の皆様には、自立した、かつ自律した職業人として、日本社会事業大学の建学の精神を忘れることなく、仕事に励んで頂きたいと思います。
皆様のご健勝とご多幸を心より祈念しています。今日からは、教師、研究者ではなく、“年老いた恩師”として、末永く懇親、懇談できればと願っています。

出典:大橋謙策「老爺心お節介情報」第50号、2023年11月4日。
大橋謙策『大橋謙策研究 第2巻 老爺心お節介情報』市民福祉教育研究所、2025年1月、所収。

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大橋謙策研究 第6巻
経歴と研究業績―地域福祉実践・研究の系譜―

発 行:2025年3月20日
著 者:大橋謙策
発行者:田村禎章、三ツ石行宏
発行所:市民福祉教育研究所