阪野 貢 のすべての投稿

バラード「夕餉(ゆうげ)」

下の子見ながら
夕餉の支度
今宵も遅いと
電話きた

疲れた身体を
引きずりながら
灯りし窓辺に
子を想う

待ちくたびれてた
二人の声に
応える「ただいま」
弾む声

この子の手料理
つたない味も
こころこめられて
舌鼓

下の子しつけも
この子のおかげ
泣かずに待ちます
お利口さん

小さな仕合わせ
味わうここは
ぬくもりあふれて
夢語る

食卓囲んで
おしゃべり弾む
寄り添い生きます
母と子と

〔2020年6月28日書き下ろし。母子家庭の日常の風景。コロナ禍でもリスクを冒して働き続ける母と支える子の姿を思い浮かべる〕

「生きる」(永六輔)を「定点観測」(井上一夫)する―ワンポイントメモ―

〇「6月27日、午後1時の時報を13秒ほど前にお伝えしました」。2020年6月27日に放送された「久米宏 ラジオなんですけど」の最終回、その第一声である。「ゲストコーナー 今週のスポットライト」に登場したのは伊集院光。久米と伊集院の話のなかで、「永六輔」が何度も登場した。
〇筆者(阪野)はこの番組を、半年ほど前から、毎週土曜日の夕方か夜中にユーチューブで聴いてきた。6月27日は午後5時頃からである。その途中でふと、積読本の一冊に、井上一夫著『伝える人、永六輔―『大往生』の日々―』(集英社,2019年3月)があることを思い出した。そこで夕食後、この本を読み始め、併せて永六輔の『大往生』(岩波新書、1994年3月)を実に久しぶりに再読した。井上は1948年生まれ、元「岩波新書」編集者である。永は1933年~2016年、放送作家・作詞家である。
〇井上の本のカバー「そで」の「内容紹介」は次の通りでる。「1994年に発売されるやいなや、大反響を呼び200万部を超える大ベストセラーとなった『大往生』。担当編集者であった著者(井上一夫)はその後10年、永六輔と本作りの日々を共にし、「ラジオ」と「旅」を源泉とする「知恵の言葉」のありようを探っていく。現場にいたからこそ見えた、永六輔の実像とは――。豊富なエピソードを交え、語り継いでいく。」
〇永は『大往生』の「まえがき」で、寺山修司(1935年~1983年、歌人・劇作家)の次の一節を引いている。「生が終わって死が始まるのではない/生が終われば死もまた終わってしまうのだ」(ⅱページ)。
〇本稿では、多言を弄(ろう)さず、井上の一文と永の詞の一節に限ってメモっておくことにする(見出しは筆者)。筆者の「いま」と「これから」に、留意したい。

定点観測/井上一夫
(担当編集者が、本書は「一編集者の定点観測の記録」である、と表現してくれた。)わたしは、編集者という立場を「定点」としています。そした可能な限り永さんに寄り添いつつ、彼の魅力を「観測」してきたといってよさそうだ。
観測というアナロジー(類推、比喩表現)がぴったりと思った理由は二つあります。ひとつは、観測には観測者の能力と個性が関係していること。いうまでもないことですが、観測とは客観的なデータの羅列ではありません。読みとる行為があって、はじめて意味を持つ。そこには当然、読みとる側の課題意識が関わりますから、それなりの角度が生じます。つまり、本書に即してひらたくいえば、わたしが記憶したいと思ったことが中核になるということで、わたしの実感と照応している。
いまひとつは、観測である以上、ある客観性が求められること。記憶なるもの、ときに思い込みや思い違いの危険があります。実際の本づくりにあたっては、何度も当時のドキュメントを点検し、関係者の証言の聞きとりを行ないました。むろん完璧であるはずもなく、限界はありますが、訂正すべきは訂正する作業をへています。単なる記憶のみに収斂(しゅうれん)させては事実としても違う。つまり、わたしのなかに厳としてある「記憶の体系」をベースにしつつ、ある客観性を持った「観測記録」として本書ができたといっていい。「一編集者の定点観測の記録」、そのとおりかと思う。(237~238ページ)

生きる/永六輔
生きているということは
誰かに借りをつくること
生きてゆくということは
その借りを返してゆくこと
誰かに借りたら
誰かに返そう
誰かにそうして貰ったように
誰かにそうしてあげよう
(194ページ)

〇筆者は、「定点観測」に関する言葉として、「追っかけ」を想起する。40年以上も前からはじまった追っかけの最初の対象は、伊藤隆二と大橋謙策である。伊藤については、神戸・福祉教育・研究会/伊藤隆二編『「福祉教育」の研究』(柏樹社、1975年12月)からである。大橋については、全社協の「(第2次)福祉教育研究委員会」(1982年9月~1984年3月)からである。そしていま、鳥居一頼を追っかけている。鳥居一頼著「詩『ボランティア拒否宣言』に学ぶ“自立”と歪んだボランティア観~覚醒と受容そして意識変革を促す教材としての価値を探る~」(『人間生活学研究』第22号、藤女子大学人間生活学部人間生活学科、2015年3月)がその端緒である。ここでいう「追っかけ」は、自分の実践や研究に「使える」理論や方法を取捨選択し、それらを統合するための「仕事」(ハンナ・アーレント:工作物を製作する職人的な行為)であり、プロセスである。付記しておきたい。

地方自治の呪縛と冒涜

呪縛が解けた
押しつけられた 服従心
断り切れぬ 威圧感
逆らうことも出来ぬ 従属感
罪だと知りつつ白を切る 罪悪感

呪縛が解けた
党の意向を受けた選挙に勝ったその裏で
自治体の長や議員が 囚われていた
現ナマ仕掛けたボスが捕まり
騙しきれぬと ひとりが観念
次から次へと 白状した

呪縛が解けた
どんな仕返しを受けるのか
断るのが怖かった
権力を笠に着た者の卑劣さに 屈した
堪え切れなくなった 自治体の長や議員が 
ようやく良心の呵責を覚え
競って買収行為を 白日の下にさらす

さて 県民の呪縛は 解けるのか
地方自治を担う者たちが こぞって加担
地方自治を冒涜し歪めたモデルとして
歴史に禍根を残す
チャレンジ精神やフロンティア精神を誇る県民性に 
平然と泥を塗る

県民の呪縛を解くには
謝罪を そのまま受け入れることだけか
地方自治を守ることにこそ 道は開けよう
地方自治の首長や議員の責務を チェックすることだけか
この問題の根の深さと闇を解き明かしてこそ 道は開けよう

広島のどさくさにまぎれて 批判をかわし
議員に居座る 菅原一秀前経産相
常態化した有権者への買収行為 
東京地検は 起訴を見送る
違法行為を認めて 謝罪すれば一件落着
地検は 民意と乖離する悪しき事例づくりに加担する 

広島は 同じ東京地検
権力にすがり〈おのれのため〉の金権政治
果たして 司直の手で呪縛は解かれていくのか 
不信感を抱きながらも いまは委ねるしかない

一石を投じた国政選挙の買収問題
関わった議員らの
地方自治への冒涜を 深く心に刻みたい

〔2020年6月28日書き下ろし。河井元法相夫妻の冒した罪は、地方自治そのものの冒涜。ところで道会議員は、果たしてその責務を全うしているのか、恥ずかしながらよくわからない。顔の見えない議員たちが、闊歩している怖さを思い知らされる〕

にわか雨と母

老人ホームを出た
久しぶりに 街に出た
寿司屋で 好物の生寿司を食べた
嬉しそうに笑った

戻り道 突然のにわか雨
傘はない
羽織ったジャンパーをかけようと
一瞬ためらった

母の顔をのぞき込むと
雨に濡れた顔が
笑っていた

認知症の母が 
雨に濡れるのは 何年ぶりだろう
何を思い出して 笑ったのだろうか
楽しい子ども時代の思い出か

もしかして 
不遇ないまをおもい
この雨に 涙を隠していたのかもしれない
忘れたい哀しきことの数々も
雨の中に 流してきたのかも知れない

笑顔に隠された 哀愁
笑顔に封印された 苦悩
笑顔に粉飾された 追憶

車いすを押す足に 力が入る
もう少し 二人で濡れよう
雨に涙を隠しながら 二人で坂をゆく

〔2020年6月25日書き下ろし。雨の一日だった。にわか雨にあたった亡母との懐かしいシーン。施設では甲斐甲斐しい介護で、雨に濡れることはない。認知症の母の意識下にあった悲哀の雨を想う〕

決められる政治のなれの果て

即断即決
軽薄な独断専行 

即断即決
官僚の腐った忖度

即断即決
閣僚も口を開けば たわけごと

即断即決
懲りない いかがわしい閣僚任命

即断即決
国会無視の 閣議決定

即断即決
なめられた 烏合の野党

即断即決
羽振りもろだし 金権選挙 

即断即決
リスクに晒(さら)した 優柔不断

即断即決
民意は求めぬ 惨めな失政

即断即決
大盤振る舞い 膨らむ財政赤字 

即断即決
次代へ負の先送り 政治不信と人間不信

即断即決
民意は離叛(りはん) 
倫理なき権欲者らは 辞職せよ

〔2020年6月25日書き下ろし。河井元法相の任命説明、黒歴史に残る買収選挙。総理として総裁として、その責任をまた誰かに押しつけるのか。そこだけは抜け目ない〕

付記
安倍首相は河井前法相を適任と判断した説明必要=自民・石破氏
自民党の石破茂元幹事長は25日、CS―TBSの番組の収録で、河井克行前法相の逮捕に関し、法相に任命した安倍晋三首相が説明責任を果たすよう求めた。次期総裁選に向けたキャッチフレーズとして野党も納得できる寛容さなどを挙げ、改めてポスト安倍への意欲を示した。
河井前法相と妻の案里参院議員の公職選挙法違反容疑での逮捕に関し、「これほど(買収額で)すごい規模の選挙はみたことがない」と指摘。克行氏が「本当に適材適所だったのか」と問い、「このままで済むと思うなよと思う」と述べた。
安倍首相に関し、「首相が選挙のやり方まで指導したとは思えないが、法相は指揮権を発動できる唯一のポジション、河井氏が適任と首相が判断した説明が必要。誤っていたなら誤っていたとおっしゃるべき」と強調した。
陸上配備型迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」の配備方針撤回や、敵基地攻撃能力の検討に関し、「従来、日本が盾で米国が矛で、敵基地攻撃は米国の分担だったのでは。米国の意思確認が必要」と指摘した。
報道各社の世論調査で自身がポスト安倍として人気首位にあることに関し、「党員の支持はいただくが国会議員の支持が少ないのは私の努力が足りないため」と分析。次期総裁選のキャッチフレーズとして「分断や怨念でなく、野党も納得できる寛容と納得、共感を訴えたい」と強調した。(2020年6月25日 © Reuters)

ひとつはひとつにあらず

ふと ひとつのことが 気になった
そのことは こころに止まった
だから 捨て置けなくなった

ふいに ひとつのことが まとわりついた
そのことから 逃れられなくなった
だから 関わるしかなくなった

ひとつのことは ひとつではなかった
ひとつと見えていただけのことだった
ひとつはひとつと思ってはいけない

ひとつのことを 知りたくなって
ひとつがふたつ ふたつがよっつ
知らなきゃいけないことが増えてきた

ひとつがこんなことになろうとは
よろけながらも 追いかける
どんどん深みにはまった 迷い道

どっちを向いても 出口が見えない
一人置かれて 途方に暮れる
何も出来ずに 立ち尽くす

ひとつはひとつにあらずして
そこに始まる 思索の迷い道
ひとつはっきりしていることは
その道を面白がるのは 自分だと
だから
出口は探さず つくるしかない

〔2020年6月24日書き下ろし。ひとつのことの先にある思索の迷い道を楽しむ〕

「お政(まつ)りマンボ」

私の知ってるおっさんは
北の生まれで チャキチャキ道産子(どさんこ)
お政りさわぎが大好きで
呑んでくだ巻いて 政りを語る
習はたくらみ トランプ脅す
朝から晩まで ぼっちゃんかついで
ワッショイワッショイ
ワッショイワッショイ
支持率上げろ 金もっとおくれ
ワッショイワッショイ
ワッショイワッショイ
ソーレ ソレソレ お政りだ

おっさんおっさん 大変だ
やばいよぼっちゃん ボチャンと落ちる
すげ替え近いよ 選挙はすぐだ
何をかいわん ワッショイショイ
盛り上げようぜ ワッショイショイ
ワッショイワッショイ
ワッショイワッショイ
ソーレ ソレソレ お政りだ

ぼっちゃんぼっちゃん 飽きられた
恥をさらすの みっともない
政りさわぎも 絶好調
寒い懐(ふところ) 里帰り
今度の選挙も 勝たせて下さい
朝から晩まで 支持者を回る
ワッショイワッショイ
ワッショイワッショイ
景気を上げろ 金もっとおくれ
ワッショイワッショイ
ワッショイワッショイ
ソーレ ソレソレ お政りだ

戦い終わって 日が暮れた
つめたい世間に しばかれて
バッジなくした おっさんは
へたりくさった おっさんは
そっぽ向かれて ただ恨み節
いくら泣いても かえれない
いくら泣いても 後の祭りよ

ワッショイワッショイ
ワッショイワッショイ

〔2020年6月23日書き下ろし。原六朗作詞作曲・美空ひばりの「お祭りマンボ」を替え歌に。ひばりさんフアンには平にご容赦ください〕

噴水に戯れる幼子

札幌大通公園の噴水が 
夏の暑い日を浴びて
キラキラと 硝子のように屈折する
それを一瞬遮(さえぎ)るように
幼子(おあさなご)二人が 陰となる

嬉しそうに 池の中で はしゃぐ
風向きが変わり
煌めく飛沫を 顔に浴びて
屈託のない大きな笑い声をあげる
噴水の音は 一瞬に消され
光と水の世界に戯れる㓜子らを
冷たい飛沫が やさしく包み込む

さりげなく幼子のいる夏の風物詩
見守る者たちの 安らぎの時を刻む
風に踊る飛沫は
幼子らに キラキラ世界を夢見させる

〔2020年6月22日書き下ろし。札幌市は6月19日、大通公園などの噴水を通水させた。いつもの夏と変わらぬ夏であってほしい〕

共感の世界:「教育は集団的営為であり、市民的成熟に資することである」ということ―内田樹著『サル化する世界』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)は「鳥居一頼の世界」(本ブログの「鳥居一頼の世語り」)が好きである。その理由は、切れ味の良い厳しい言葉とともに、多くの発言内容に「共感」することにある。とりわけ、これまで積み重ねられた地域・生活経験や知識・知性に基づく尖鋭(せんえい)で確かな批判的言説、にである。鳥居は、多岐にわたる地域・生活の実相を多角的に鋭く分析し、的確に評価する。問題点を深掘りし、課題を容赦なく抉(えぐ)り出す。そして、それらを「散文詩」に乗せる。そのジャンルは、福祉や教育、政治、経済、社会、文化などと広い。また、たまに登場するウイットに富んだ一節も面白い。
〇鳥居は、詩作の際には、時に仏の顔になり、時に鬼の形相(ぎょうそう)になっているのであろう。しかも、その過程で鳥居がとる立ち位置や姿勢は、多様な地域・生活課題を「我が事」として引き受け、自分の言葉に体を張る、というところにある。また、その基底には、人間の実存すなわち、いまをよりよく生きようとする人たちへのこだわりと覚悟があり、その人たちとの相互実現がある。
〇鳥居にあっては、その人たちとは、人間の尊厳が踏みにじられ、地域・社会から邪険(じゃけん)に扱われ、切り捨てられる人たちである。「鳥居一頼の世界」を別言すれば、「人間愛」の世界であり、「福祉と教育の思想」である。
〇筆者は「内田樹の世界」への旅を重ねてきた。今回は内田の新刊書『サル化する世界』(文藝春秋、2020年2月。以下[1])を旅することにした。[1]は、雑誌のコラムや講演録、対談やインタビューなどを加筆修正し、再構成したものである。内田にあっては、挑発的なタイトルの「サル化」とは、「今さえよければ、自分さえよければ、それでいい」という時間意識の縮減や自己同一性の委縮した人たちが主人公になっている歴史的趨勢(過程)のことを言う。「サル」は、中国の「朝三暮四」(ちょうさんぼし)という説話に由来する(補遺① 参照)。
〇日本社会ではいま、「身の丈(たけ)にあった」「期待される」「自分らしい」生き方が推奨あるいは強制されている。それは、生き方の定型化・固定化を促すものである。「成熟」とは多様に「変化」し「複雑化」することであるが、それを認めないのが現代社会である。人びとが感じている「生きづらさ」や「息苦しさ」の原因のひとつは、ここにある。そのような視点から、内田は[1]で、自分の身の丈を超えて自由に多様に生きることを提案する。人間は、成長するにつれて、「考え方が深まり、感情の分節がきめ細かくなり、語彙(ごい)が豊かになり、判断が変わり、ふるまいが変わる」(8ページ)。それが「成熟」である(「なんだかよくわからないまえがき」)。
〇以下に、[1]で筆者が「共感」する2つの視点・言説に限ってメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

教育の主体は集団であり、「共同体の存続」をめざす営為である
教育する主体は集団である。そして、教育の受益者も集団である。教育は集団の義務である。教育の受益者は子どもたち個人ではなく、共同体そのものである。共同体がこれからも継続して、人々が健康で文化的な生活ができるように、われわれは子どもを教育する。(216ページ)。
「教師団」には、今この学校で一緒に働いている人々だけではなく、過去の教師たちも未来の教師たちも含まれている。そういう広々とした時間と空間の中で、教育活動は行われている。そして、そういうような時代を超えた集団的活動が可能なのは、教育事業の究極の目的が「われわれの共同体の存続」をめざすものだからである。(219ページ)
教育政策の適否を計る基準は一つしかない。それはその政策を実行することが子どもたちの市民的成熟に資するかどうか、それだけである。市民的成熟に関係のないこと、それを阻(はば)むものは教育の場に入り込ませてはいけない。そういう基準で教育政策の適否を判定する習慣をわれわれは失って久しい。それが現在の日本の教育の混乱と退廃をもたらしている。(219ページ)

相互扶助的な共同体は「持ち出し」覚悟の私人から立ち上がる
地域社会の相互扶助的なマインドは簡単に無くなってしまった。共同体は簡単に崩れてしまう。これから先、日本社会はゆるやかに定常経済に移行してゆく。そんななかで、相互扶助的な共同体を再生する必要がある。(260、261ページ)
相互支援の共同体を立ち上げるというのは、基本的には行政の支援を当てにするのではなく、私人が身銭を切って、自分で手作りする事業である。「持ち出し」である。私人たちが持ち寄った「持ち出し」の総和から「公共」が立ち上がる。はじめから「公的なもの」が自存するわけではない。公的なものは私人が作り出すのである。(269、270ページ)
今、市民たちはどうやって「公的なもの」から私権・私物を取り出すことができるかを競っている。政府は、国民に対して「私権を抑制しろ、私有財産を差し出せ」とうるさく命令している。逆である。国民が自発的に私権を抑制し、私有財産を贈与するときに、そこに公共が立ち上がる。(270ページ。補遺② 参照)

〇内田の新刊書に、平川克己との対談本『沈黙する知性』(夜間飛行、2019年11月。以下[2])がある。対談のテーマや内容は、言葉や世論にはじまり、日本社会の衰退やグローバリズムの終焉、そして村上春樹や吉本隆明等々、多面的かつ多層的である。ここでは、[2]における次の3つの言説だけを再認識しておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

言葉に対する怯えや覚悟
何かを語ろうとしてる人間はみな「自分が発信している言葉は、誰かの言葉をパラフレーズ(言い換え、置き換え)しているだけかもしれない」ということを自覚しておく必要がある。その自覚がないから、自分たちの思考がパターン化した思考の枠組みをなぞっているだけだという自覚もないし、逆に、お気楽に傲慢で攻撃的な言葉を発することができるとも言える。言葉に対して、怯(おび)えや覚悟というものがあってもよい。(平川:35ページ)

身体感覚と生活実感のある言葉
「ほんとうのこと」「本音」を言うためには、命を賭けなければならない。生身の身体(身体性)や現実生活の常識から乖離した言葉には、説得力がない。一方で、身体感覚に裏付けられた言葉だけではなく、抽象度の高い言葉を使っていかないと思想は形成できない。そこで、抽象度の高い言葉を、生活実感のある言葉で裏打ちしていく作業(「伝わる言葉」への変換)が必要になる。(平川:57、58、305ページ)

孤独な沈黙のなかでの知性
見聞の狭い人間は、目の前の現実を見てすぐに「前代未聞」だと浮き足立ったり、有頂天になったりする。知識人は逆に、何を見ても「これはどこかで見たことがあるんじゃないかな」というところから吟味(ぎんみ)をする。そして、どういう文脈で「こういうこと」が起きたのか、過去の事例を参照しながら理解しようとする。知識人の、この孤独な沈黙のなかでの営為が、未来を切り拓く。これが本物の知性である。(内田:106、109ページ)

〇なお、筆者はかつて、「まちづくり」のための市民性形成(市民的資質・能力の育成)と市民運動に関して、次のように述べたことがある。「市民運動は通常、自らの、あるいは他者の尊厳や生命・生活が脅かされるときに、多くの市民が集合し、集合行為として展開される。その際、その運動は、必ずしも環境や立場を同じにする人びとが集まって展開されるものではない。運動に参加する人びと(運動主体)は多様であり、運動の目的も直接的に自らの利益や地位向上などのための利己的なものではない。運動主体の多くは、利己主義を超える人間観や社会観をもっており、社会的な事象や出来事に積極的に関与し、自己決定し、共通認識のもとに連帯して行動する自発的で能動的かつ自律的な個人である。また、その個々人は、運動展開の過程で他者理解を深め、自己を再発見し、自己変容・変革を促す。それを通して、他者との相互連携がより深化・発展するのである。」(<まちづくりと市民福祉教育>(3)福祉のまちづくり運動と市民福祉教育/2012年7月4日投稿)。これは、まちづくりのための市民運動や市民福祉教育についての理念的な管見である。本稿のサブタイトルに関して付記しておくことにする。

補遺 ①
中国の春秋時代の宗(の国)にサルを飼う人がいた。朝夕四粒ずつのトチの実をサルたちに給餌(きゅうじ)していたが、手元不如意(てもとふにょい。家計が苦しく金がないこと)になって、コストカットを迫られた。そこでサルたちに「朝は三粒、夕に四粒ではどうか」と提案した。するとサルたちは激怒した。「では、朝は四粒、夕に三粒ではどうか」と提案するとサルたちは大喜びした。
このサルたちは、未来の自分が抱え込むことになる損失やリスクは「他人ごと」だと思っている。その点ではわが「当期利益至上主義」者に酷似している。「こんなことを続けていると、いつか大変なことになる」とわかっていながら、「大変なこと」が起きた後の未来の自分に自己同一性を感じることができない人間だけが「こんなこと」をだらだら続けることができる。その意味では、データをごまかしたり、仕様を変えたり、決算を粉飾したり、統計をごまかしたり、年金を溶かしたりしている人たちは「朝三暮四」のサルとよく似ている。([1]22ページ)

補遺 ②
スモールサイズの「顔の見える共同体」で、地域・住民自らが医療や福祉・介護などに関するサービスや事業活動を相互支援的に手作り・手売り・手渡しし、自律的なコミュニティをつくることが肝要である。「こんなところで小さくやったって社会は変わらないよ」ではなく、逆に「小さくやるから変われる」のである([1]324~325、326ページ)。
次の新聞記事を紹介しておきたい(『岐阜新聞』2020年1月18日付朝刊)。キーワードのひとつは「覚悟を決める」「便利や割安を我慢する」(持ち出す、身銭を切る)である。

まていに生きる

人との隔たりが 生まれた
行き交う道で 互いに気遣い距離を取る
人の輪は避けて 通り過ぎる

知人との挨拶も 
顔見知りの子らとの会話も
薄っぺらになりつつある

蕎麦屋に入って席に着く
ゆとりをもって 席を空ける
混み合う時間も 半数しか座れない

スーパーのレジに並ぶ足下に
1メートル間隔で ラインが引かれ
客は 静かに番を待つ

病院も店もどこでも 
無機質な透明のアクリル板が垂れ下がり
対面での会話は 事務的に取り交わされる

学校の教室は 席を離して授業を受ける
マスク越しだと しゃべりにくく 表情もよくわからない
給食の配膳も フェースガードで ものものしい

このままでは 人の暮らしの根が腐る
こんなときだからこそ
ぬくもりあって 気遣いあって
まていに人とつながりたい

このまま警戒する目がはびこると 社会が凍る
こんなときだからこそ
困ったことや心配事に 聴く耳持って 
まていに人とつながりたい

一つひとつのおこないを
ためらうことなく 
まていにする
そう生きる人が 世の救いです

※まていに:より丁寧に、心尽くす心構えやその態度。

〔2020年6月21日書き下ろし。すれ違う人たちの悪気のない距離間。店での警戒体制。コロナ禍での警戒意識がまだまだ続く。〈まていに〉生きるひとたちの存在が有難い〕