阪野 貢 のすべての投稿

暗い谷間と怖い時代に生きた・生きる「ものいえぬ」農民の思い:怒り、悔しさ、叫び、そして祈り―佐藤藤三郎の『山びこ学校』と『まぼろしの村』の底流をなす“教育”と“村づくり”の思想―

(無着先生は)教師をやめて新たな学問に専念する、といって村を出たはずだが、「有名」になったそれの看板をはずすことがなかった。もちろんそうした個人の「自由」に立ち入る権利は誰にもないが、言われたこととなすことに一貫性がなくなっていたことを知る時、信頼が厚く深かっただけにその戸惑いは大きかった。
私は『山びこ学校』の出版によって人生が狂わされたと思ったことが何度もある。マスコミによって幼い青春のかよわい心が粉々にかきまわされた傷跡がいまだふさがっていないところは確かにある。
『25歳になりました』(1960年2月)は、私の独立宣言の書であり、25歳にして山びこ学校の殻を抜け出し新しい出発をするための記念碑のようなものである。(『ずぶんのあだまで考えろ』46~47、54、70ページ)

〇「にわか百姓」を決め込んでいる筆者(阪野)は、10年近く「日本農業新聞」を購読している。その2018年4月23日号の「論点」に掲載された、「森友問題と農政改革」と題する武本俊彦(食と農の政策アナリスト)の一文が目にとまった。その一節は次の通りである(抜き書き)。本稿を草しようと思ったひとつのきっかけは、ここにある。もうひとつのきっかけは、日本が民主国家であり法治国家であることを疑いたくなるような、最近の政治や行政の実相にある。さらには、憲法が揺らぎ、平和な社会が時の政権によって壊されていく、不安を通り越した恐怖にある。

森友・加計問題などを巡る安倍晋三首相や政府の対応は、時代錯誤の縁故資本主義を体現している。官邸主導の名の下、適正な手続きを経ずに一部の権力者周辺に利益をばらまくトップダウンで、短期的成果を求める。その本質は農政改革とも共通しており、近視眼的な政策手法の弊害について検証することが必要だ。
安倍政権が官邸主導で進める農政改革は、現場で創意工夫をしている人々の存在を無視し、地域の多様性を捨象する政策体系となっている。全国の農業や農家を画一的に考え、同じように短期的成果や経済合理性を追求するという思考回路で政策を構築しているのだ。
例えば、アベノミクスの目玉とされた地方創生は、地方への権限・財源の移譲よりも、補助金の活用によって中央政府の考え方に沿って地方の底上げを図ろうとするものになっている。人口減少・高齢化社会の到来、地震・災害の多発化といった不確実性が増す中、中央政府は本来、地方の創意工夫が発揮できるように、補完的役割に徹するべきである。だが、そうなっていない。これも短期的成果を求める観点から地域の諸条件を捨象する市場原理主義の考えに立脚している結果である。

〇感覚的・情緒的な本稿のタイトルについて、一言付記しておきたい。時代(1935年と1948年)と場所(東北と中部)は異なるが、佐藤藤三郎の思いや感情と筆者のそれが重なるところがある。先ず、「ものいえぬ」は、大牟羅良の『ものいわぬ農民』(岩波新書、1958年2月)を念頭においたものである。私事にわたるが、明治生まれの筆者の父(享年87)はまさしく「ものいわぬ百姓」であった。若くして嫁にきた大正生まれの母(享年95)はいつしか、世間に抗する「強い百姓」になり、何よりも「子どもに賭ける」親になった。それは貧困と差別ゆえである。
〇佐藤藤三郎は、1948年4月に山形県南村山郡山元村立山元中学校に入学した43人(卒業したのは42人)のうちのひとりである。いまも山元村(現・上山市)に生きる百姓であり、「もの書き」である。『山びこ学校』(青銅社、1951年3月)は、周知の通り、無着成恭の指導のもとで、貧困と闘う彼・彼女らが2年生在学中に綴った生活記録(生活綴方集)である。そして、『まぼろしの村』(全5巻、晩聲社、1981年1月~7月)は、佐藤のエッセイ集である。「まぼろしの村」というタイトルについて佐藤は、次のように述べている。「この世の中の乱れを評して、村落共同体の滅亡だといい、新しい共同体の創造だとか『むら論』などということを、誰かれとなく口にしている。そして、村に残っている人にそれをやる義務があるみたいなことを、おこがましくいってくるやつがいるから、それらの人への反論として適当なことばと思ったからだ」(『まぼろしの村Ⅰ 村から日本の教師に訴える』245ページ)。
〇いま、筆者の机の上に、佐藤が書いた本が4冊ある。①『まぼろしの村 Ⅰ 村から日本の教師に訴える』(単著、晩聲社、1981年1月。以下[1])、②『まぼろしの村 Ⅱ 村から考える日本の教育』(単著、晩聲社、1981年2月。以下[2])、③『山びこ学校ものがたり―あの頃、こんな教育があった―』(単著、清流出版、2004年3月。以下[3])、④『ずぶん(自分)のあだま(頭)で考えろ―私が「山びこ学校」で学んだこと―』(単著、本の泉社、2012年12月。以下[4])、がそれである。例によって、それぞれから改めて認識あるいは確認したい言説をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。さらに、[1]と[2]からは、恣意的で我田引水な「つまみ食い」と評されであろうことを承知のうえで、留意したい一節(◍印)をピックアップしておく。

[1]『まぼろしの村 Ⅰ 村から日本の教師に訴える』
外圧によって破壊される子どもと親と教師
村人は、本質的には村を愛し、これからも村に生きていかなければならないと考えている。(25ページ)
が、しかし、(子どもたちや教育を破壊する力が)村のなかから起こる出来事ではなく、よそからの動きが「村」どころではないというせっぱつまったものを持ちこみ、そこに押し込んでしまう、という力があることを私は知らしめられる。そして、まぎれもなく学校教育それ自体も、村の自動的回転を促すために行なわれているのではなく、外的な動きを村に押し込んでくることの作用に力を貸しているのだ、ともいわざるを得ない。つまり今日の学校教育は、いまなお全国画一に、都市的あるいは工業的に、または無機的に行なわれている、ということである。したがって、こうした無機的な論理をすすめることは、コンクリートでかためた都市においてその効果があがることになる。別にいえば、新しい指導要領などでいう、ゆとりと充実の教育は、本来、自然に恵まれた農山村などでこそよくできる条件があるはずなのに、実はその成果がみられない、ということである。ほんとうの学力、それを評価する基準がこの世界ではまだまだ認められていないということが、親の頭を駄目にし、教師を駄目にし、教育をいけないものにしてしまっているのだ。(25~26ページ)

“解明力”を育成する学校と地域との有機的結合
初等、中等の教育は、基礎学力を身につけさせることに重点がおかれなければならないことはもちろんだが、一方的に知識をつめ込むことだけが学力を向上させることとは思わない。理解した知識をもとに、自然や社会を観察したり、批判したりする訓練の場もなければならないのではないか。そのためには、教師にはもっともっと校外に出て社会に接する機会が多くあって欲しい、と願わずにはいられない。(67~68ページ)
わたしが子どもの頃に、この村に一人のすぐれた教師がいた。その先生は、よく部落をまわって、父母たちを集めて座談会をやってあるいた。いまでいえば“社会教育”の分野にはいることかも知れない。子どもの教育のためには、親たちも一緒に教育しなければ効果があがらないと、そんなふうに考えていた先生であった。つまり、有機的な結合のなかで、その先生はものを考えていたことを、わたしはいまにして教えられる。(169ページ)。
学ぶということは、〈まねぶ〉ことともよくいわれるが、実はそこでおわるとするならば、何のために学ぶのかわからない。学ぶことの真のねらいは、解明する力をつけて新しいものを創造することである。解明するためにはまず疑いをもつことからはじまらなければならない。(185ページ)
教師自身が学校以外の社会に顔を出し、幾度となく子どもをとりまく社会に交わる機会をつくっていくなかから話題やテーマをひき出して学習にもち込むといった作業があればこそ、ことの事実にたちむかったとき、解明する力をそなえた子どもが育つのではないだろうか。(186ページ)

◍「村」はまぼろしの存在であって、現実にはそれが内部から喪失している。否、失わしめなければならないものが、村の若者の背に負いかぶさっている。それを払いのける活力は、村の若者のなかにはまだ沸騰などはしていない。(29ページ)

◍常に己が、己自身をみがこうと努力している人間の姿に触れるとき、その人間の美しさに人はみな忘れ得ぬ魅力を生涯感ずるのではないのかと、わたしは人と人との出会いやふれあいの大切さを感じさせられる。(85ページ)

◍教師自身が、自分の教育に情熱と誇りを傾けているであろうか。人間の美しさは情熱にある。その情熱こそが文句なく人から人へと伝わるものである。その大事な美しい「情熱」を燃やすことを、いま村の若者はどこでも修得できずにいる。(131ページ)

◍「地域に根ざした教育」とか「地域をおこす教育」といったようなことばを耳にする。ある校長先生のように自ら村人となる努力、あるいは、そのような実践があってこそ、教育は地域に根をおろすのではないのか。せめて、地域の人たちと酒をのみかわすことぐらい、時間のロスだなどといわないでくれ。(143ページ)

◍「地域」とか「むら」とか「共同体といったものは、そこに住む人間がつくるものである。「むら」はまず自らが作ることにこそ意義があり、必要によってつくられるものでなけれはならない。(187ページ)

◍「地域に僻地はあっても、教育の僻地は許されない」というのが、この村の学校の信条とされている。真の教育とはなにか。教師と生徒の精いっぱいの力のふれあいを、このような小さな学校にこそ見出せるように思える。(215~216ページ)

[2]『まぼろしの村 Ⅱ 村から考える日本の教育』
「村に残る教育」と「村から出る教育」、その矛盾
「村に残る教育をすればいいのか、村から出る教育をすればいいのか」。こんな問いかけをする教師がよくいる。ちょっと聞くと、「そうだなあ、村に残る教育が大事だ」と、いいたくさえなるような問いかけである。が、よく考えてみると、本来、教育にそんな差があるべきなのかという気になる。いうなれば、それは今日の教育のゆがみを認めてしまっていることになるからである。もちろん、現実的にゆがみをゆがみとして認めなければどうにもならないものがあるのかもしれないが、どうもシックリしない。(137ページ)
「村に残る」ということの意味は、まさに「百姓」として残るか、それ以外の職業に就くように指導するか、という意味である。百姓であるわたしには、「これほど多くの職業の種類があるのに、百姓だけをどうして教育の場においてまで差別しなければならないのか」と憤慨したくなる。(137ページ)
わたしは、「人間」を相手にする教育に、「村に残る」とか「村から出る」といった教育があっていいとは思わない。(そういわれるのは)日本の農業のありかたに問題があったからにほかならない。端的にいえば、農業では食えない状況下に農村はおちいったからである。(138、139ページ)
教育の中に「村を出る教育」だとか「村を守る教育」などというものがあってはならない。どこに住もうが、権利として学ぶ機会が与えられてしかるべきだし、差のある教育なんてあってはならない。(253ページ)

「住む都、ここにこそある」という地域への愛着と誇り
今夜も、シンシンと雪が降っている。わたしにとってはロマンティックな気持になる以前に、明日は、村の道路の除雪はどうなるか、ブドウ棚はつぶれないだろうか、杉の木は雪の重みで折れないか、と気にかかる。しかし一方では、こんな冬の夜に、朗々と本を読む声が聞こえてくることの楽しみを想像したり、ショパンやバッハの音楽が家々から響いてきたら、どんなにか楽しいだろうと想いうかべる。「住む都、ここにこそある」と、村びとのだれもが誇り、自らを信じて生きるよろこびが、この村にこだますることのくる日を、音ひとつない静かな部屋でひとり想いふけるのである。そして、踏まれても、蹴られても、差をつけられても、頑として、びくともしないでこの村に生きることのできる力を持っている少年少女が育つことを、「教育」にこそ期待してやまない。(253~254ページ)

◍その教育がなんであり、どうであったのか、百姓であるわたしたちには、知ることの必要などひとつも感じなかっのだ。ただ、ひとりの人間として、あるひとりのすごい情熱的な先生にめぐりあった、という事実は、どうにも動かせないこととして生きているだけなのた。(41ページ)

◍わたしがいま、お前にいいたいことはたったひとつ。「徹して学べ」。学んで「何かを期待する」などという望みは持っていない。がっちりと、自然に生える雑草のように、季節に応じておおらかにや育ってくれればそれでいい。他人にやさしく、己れに厳しい雑木のように育ってくれればそれでいい。(47、49ページ)

◍そもそも教育というものの基本理念は、国家から指図されて行なわれるものであってはならない。住民が要望するものをくみあげ、地域住民の意志を尊重し、それを教育に消化させていくという作業が“学校”というところにはなければならない。(78ページ)

◍教育は実利的なものでなければならない、などというチャチなことは考えていない。むしろ“あそび”こそが大事だと主張したい。“あそび”は、別のことばでいえば“ゆとり”である。人びとには、もっともっと無駄があってしかるべきだし、ましてや人を育てる教育には、さらにゆとりが必要だ。ゆとりというのは“余り”とはちがう。充実、ということばにほど近い。(118、120ページ)

◍もはや、教育に、個性豊かなローカル性などはない。中央がねらいとする機械的な(しかも精密な)人間がみごとにつくりあげられている。そういっても叩(たた)きつけられることはないであろう。(149ページ)

◍農民にいま必要な教育は、技術者としての力のほかに、人間としての力、つまり、「文化」というものを認識し、それを創造することのできる力をもつこと、そして政治や経済に対しては、従順であるのではなく、主体的にそれに取り組む姿勢をもつことが必要だ、ということだ。(158ページ)

◍「地方の時代」という。わたしにはそれを聞くにつけ、どうしても不満として残るものがある。というのは農業を駄目にし、都市を終末的状況に追いやったのは、どこのだれであったのか、ということを風呂敷に包んで、開こうとしないことである。(245ページ)

[3]『山びこ学校ものがたり』
教育は日常の生活や労働から遊離しては存在しない
「知識」とか「教養」といった言葉には多分に抽象的なものがある。だから「知識」や「教養」といった言葉が、実際の暮らしや生活からは遊離したものと考えがちな人が多い。しかし、そうではないのだ。事実や、生活と遊離したところに「知識」もないし「教養」もない。ましてや現実の暮らしから遊離した「教育」など意味がない、と無着先生は考えていた。21歳の若さにして、無着成恭という人間はそのようなアカデミズムを超えて、自分のイズム(「無着流教育」「無着イズム」:183ページ)を確立しようとしていたのだ、と私には考えられる。(11~12ページ)
ぼくはその授業(木の棒を使ってテコの原理を見せながら、反比例の理屈を説く「数学」の授業)を受けながら深い感動と同時に、憤怒(ふんど)の念を覚えたことが今にしてなお忘れられずにいる。「感動」を覚えたのは、「学問」とか「教養」「知識」というものは遠いところにあるのではなくて、日常の生活や、労働のなかにあるということを知ったからだ。(36~37ページ)
「憤怒」というのは、農民や土工などはいつも知識のない人間のように扱われていたが、生活や労働のなかではちゃんとそうした科学の法則を生かしている(テコは父や祖父が仕事のなかでいつも使っている)ではないか、といった悔(くや)しさからきているのだった。(37ページ)

生きるためには「知識」や「技」「術」が必要である
無着先生は、「たとえ試験の点数が悪かろうと、人間としての生き方をしっかりと教えた――」と主張した。(141ページ)
だが正直に言ってぼくはこの言葉にずいぶん悩み、疑問に思った。そしてその疑問は68歳になった今も解ききれないでいる。(141ページ)
試験の点数云々はともかく、人がより広い視野に立ち、高い人格を備え、いい仕事ができるようになるには「知識」や「技」(わざ)、「術」(すべ)をより多く身につけるための勉学や鍛錬をする必要がある。さらに思考力も判断力も、創造力もそれがあってこそ身につくのではないか、と思う。ぼくにそれらが足りないのは無着先生の教えが悪かったからだ、などと他人のせいにする気は毛頭ないが、そうしたことについて悩んだり苦しんだりしてここまで生きてきたということは確かである。(145ページ)
「知識」や「教養」を学ぶ機会に恵まれなかった悔しさがぼくの心の奥底にいまだ重く淀んでいる。(146ページ)

自分の座標をつくりそこに立つ教育が求められる
かつての学校教育の習わしにとらわれず、さらにまたアメリカ的民主主義に乗ることもなく、自らの思いのままに夢中で教育という仕事に青春を打ち込んだ無着先生の生きざまが、今の日本というこの国に改めて必要なのだ、と思えてならない。というのは今日の日本は、いわゆるグローバル化、特にアメリカという大国との共存のなかで繁栄したが、しかしそうしたなかですっかり自主と自立の道をなくしているからである。恐ろしいほどに、戦争が始まればその最前線に立たされるという危惧すら感じる。世界のなかの日本になったのではなく、グローバル化のなかで自分で立つ足場をなくしているのだ。(179~180ページ)
したがってぼくは今、自分の座標を自分でつくり、その座標のなかに自分が立って、世界の人々と交流できるようにならなければいけないのだとさかんに思っている。そうでなければ、身も心もなくしてしまうといった恐怖すら感じられてならない。そしてぼくは無着先生の20代のときの思いや活動を、余計なものは排除し、足りないものを補ないながら生かしていきたいものだと思っている。(180ページ)
中学のときに学んだ「自立した精神」「自由なる精神」をどこまで貫き通すことができたかはわからない。ただ、過疎化のまっただ中にいる村の現実のなかで、少しの田畑を耕し、少しの牛を飼い、山間地の「農」の可能性にこだわって、ぼくはぼくなりの青春の血潮をわかせる人生を送ってきたと思うのである。(199ページ)

[4]『ずぶんのあだまで考えろ』
「自分の言葉で話せ」「自分の脳味噌で考えろ」
「無着先生の言われた言葉で一番心に残っていること」は、「自分の言葉で話せ」ということと「自分の脳味噌で考えろ」ということである。(125ページ)
「自分の言葉で話す」ということは自分の考えを持つ、ということである。しかもそれが具体的でなければならない。(126ページ)
もちろん「自分の言葉で」といえば、自分のことしか考えない利己主義とか勝手すぎるということにもなりかねないが、そうではなく具体的な自分の身近なことにしっかり目を向けて考えていく、ということである。(127ページ)
とかく、「学校」というものには無着先生の言われるような「自分」(「自分の目で物事を見ろ」「自分の脳みそで考えろ」「自分の言葉で話せ」)というものの基本的なことが教えられていないような気がする。しかし一方、ともすると、無着先生にはそれがあまり強すぎているような気がしないでもなかった。いずれにしろ無着先生は教科書をそのまま教えるだけでなく、それにいつも「自分」という人間と知恵をプラスして授業をおこなったのだ。(195ページ)

「学校は楽しく生活する場である」
(昭和23年4月4日)入学式がひとまず終わり、新任の先生の紹介となった。(無着先生の)あいさつが並でなく、ふるっていたことが忘れられない。(173~174ページ)
まず「学校を勉強するところだ、などと考えたら大馬鹿者だ、楽しく生活する場なのだ」と言った。次に「先生なんて決して偉いものではない。君たちが社会に出て役に立つ人間になるための踏み台として利用するものだ」と言った。さらに「日本は戦争に負けたのだから新しく出発しなければならない国だ。だが敗戦国ゆえアメリカの教育や政策が押しつけられている。ともすると日本人はみんなアメリカの言いなりの骨抜き人間になる恐れがある。『学ぶ』ということは自分なりの生き方や、考え方を持つ骨のある人間になることだ」と、もはやテーブルの横に移って叫ぶように演説した。そして後に口調を弱め、「こんなことを言うとGHQ(連合国軍総司令部)に無着成恭ちょっと来い、銃殺だ、ドン、ということになるかも知れないけどね」といって生徒を笑わせた。だが、この演説ともいえるあいさつを聞いて、当時のすごくまじめな渡辺善正校長はきっと、生徒と一緒に笑いはしなかったという気がする。(174ページ)

「経済優先主義の教育に勝てなかった」
私はいま、私なりに「学校」ないしは「学校教育」といったものを「どこかおかしい」と思うことがしばしばある。「いじめ」の問題、そして自殺、さらには教師の酒気帯び運転だとかセクハラ事件といったものが、「またか、またか」と後をたたないからである。そしてそれらの根元はみんな同じところにある、と思えてくる。つまり、そこには「教育の自由」がなく、与えられ、押しつけられる「不自由さ」だと思えてくる。(210ページ)
明治5年にはじまる日本の「学校教育」というものは国民の要望や要求によってつくられ、できたものではない。(211ページ)
学校ないし教育は「民」が主であるのではなく「国家のため」、「権力」によって強制的に作らせられたものであった。(211ページ)
私たちはちょうど「敗戦」を挟んで学校生活をおくり、満たされない教育環境の中で育った。しかし幸か不幸か、敗戦によってアメリカ式の教育制度ががとり入れられ、押しつけられたものとはいえ、その制度は日本の学校教育を完全なものにはしていなかった。したがって無着先生のような一見勝手にも見えるほどの独創的な教育ができたのだ、といえば無着先生は「それは違う」と怒るかも知れないが私にはそう思える。(211ページ)
(2012年で85歳になられた)無着先生からのはがきの文面には「日本の学校教育は経済の競争優先のみに力が入れられていて、この国と人間の命をだめにしている」と書かれ、ちょっと寂しげに「おれはその経済優先主義の教育に勝てなかった」というようなことが記されていた。(212ページ)

〇筆者の書斎の本棚に、佐藤の本が4冊並んでいる。⑤『村に残ったぼくらの抱負』(共著、明治図書、1965年3月。以下[5])、⑥『村に居る―新しい文化を創る―』(単著、ダイヤモンド社、1996年6月。以下[6])、⑦『25歳になりました』(単著、百合出版、1960年2月。以下[7])、⑧『底流からの証言―日本を考える―』(単著、筑摩書房、1970年3月。以下[8])、がそれである。
〇[5]は、青年が村を見捨てざるを得ない農業政策が推進されるなかで、農村の革新や農業の体質改善を図ろうとする全国の農村青年たちの手記を編んだものである。[6]は、「父母」や「村」「花」「旅」などをめぐって、還暦を過ぎた佐藤自身の若かりし頃のことどもをときには烈しく、ときには静かに語る。そして、「農」と「村」のゆくえを案じる。[7]は、『山びこ学校』が世に出てから10年、その間の、佐藤の「若い農民としての生きざま」を綴ったものである。「今後、農山村に暮らす人びとにとっては、いっそうきびしい生活が余儀なくされる」という。そして[8]は、「貿易の自由化」などが進められるなかで、農民がいだく不安は一刻一刻と強まり、村を追われている。その「底流」をなす「時代」の「動き」のなかで、どうにかして人間らしく生きようともがいている佐藤の鼓動と叫び声が聞こえる。
〇[5]のなかに次のような一節がある。あえて引いておきたい。

農民も人間であるという主張を通し、生きていくための仕事であり、職業であるものをうんと大事にしていかねばならない。いままでのわたしたちは、生産、と価格、それを別々に考えていたように思われるが、自分の生産したものに対する正当な価格の要求は、生きる権利への要求であるのではないか、と、ほんきになって考える。(145ページ)

〇私事であり蛇足であるが、筆者(阪野)は父と向き合って会話をした記憶がほとんどない。しかし、「百姓ほどバカバカしい仕事はない。汗水たらして作った野菜の値段は、自分ではなく、他人によってつけられる。ときには肥料代にもならない。大雨や大風で、それまでの努力が一日でふいになる。百姓にだけはなるんじゃないぞ」。この口癖をいま、思い出している。父が野菜をリヤカーにのせて市場に運んでいった翌日、自転車のペダルを2時間近くもこいで「仕切り(金)」をもらいに行く。小学生の頃からの、筆者に課せられた仕事であった。ズボンのポケットに入れて持ち帰るのはいつも小銭であった。そして、その金額を知ったときの落胆した父の顔が、いまも脳裏に残っている。
〇[6]のカバーの「裏そで」で、佐藤は次のように述べている。「いま、村に居続けたことを、ぼくは、これでよかったと思っている。大きな味噌蔵こそ持てない暮らしだったが、山里ゆえのゆたかさを満喫しながら生きてきた」。そう思うのは、佐藤の「反権力の闘争心」や「深く広い思考」、「鋭い分析と表現力」、そして「豊かな感性」などに拠るのであろう。それに比して、筆者の両親は「ゆたかさ」を感じたときがあったのであろうか。何かを祈る「ゆとり」など、まったくなかったのではないか。それ以前に、「祈り」について知ることも、考えることもできなかったのではないか。
〇以下は、筆者が読んだ佐藤の8冊の本のなかで、一番好きな一節である。福寿草の生きざまとともに、土の温もりや豊かさを感じる。複数の地域(農村や都市)で「まちづくり」や「福祉教育」に関わってきた筆者にとって、その意味するところは深い。心に刻んでおきたい。

福寿草は残雪を割るようにして芽を吹き出し、花を開く。咲いた花はガリガリと凍る強い霜が降りても、その冷たさに萎(しお)れることもなく強く生きる。そして黄金色に輝きながら派手ぶることもなく黒い土に根を据(す)えて地味に生きている。そんな姿を見ていると、自らの過去にそれを重ね合わせ、悔(く)いというか罪というか、それ以上に自らの惨(みじ)めさのようなものが胸を締め付けてくる。
福寿草は土を選ぶのか、吸う水に好き嫌いがあるのか、とてもよく繁(しげ)るところと育ちにくいところがある。その植生は花のやさしさにも似合わぬ頑固さを想わせ、表には立たないが、それでいて頑(かたく)なな精神を宿している。
だがその頑固一徹そうな草花であっても、他の雑草が繁ってくると、その居場所を他の草に譲(ゆず)るようにして身を隠してしまい、どこに生えていたのかもわからなくなる。([4]75~76ページ)

「熊野古道(中辺路・伊勢路)紀行」(2018年4月3日~4月15日)

謝辞
本稿は、2018年4月19日に拝受した「熊野古道/中辺路・伊勢路/紀行/(草稿)/2018年4月3日~15日」の「紀行文」と、5月2日に拝受した写真を先生のご了解を得てアップしたものです。編集上、若干手を加えさせていただいております。(2018年5月2日)

文部科学省著『注文の多い料理店』:「レシピ」(学習指導要領)通りに作る「コース料理」(官製教育)は本当に美味しいか?―小針誠著『アクティブラーニング』読後メモ―

〇先ず最初に、本稿の天邪鬼(あまのじゃく)なテーマに関して一言しておきたい。「アクティブ・ラーニング」は、多様性と協働性、能動性と創造性が重視される教育方法である。そして、子どもと教師双方の主体性や自律性、当事者性を引き出し、動機づけを高め、学習過程への参加(関与)を広め、深めることが重要となる。これが真意である。
〇文部科学省は、ほぼ10年ごとに学習指導要領を改訂している。学習指導要領は、法的拘束力をもって教育現場に、教育の内容や方法について一方的な、多くの「注文」をする。いま、宮沢賢治の童話『注文の多い料理店』を思い出す。2人の若い紳士が鉄砲を担いで山奥に狩りに出かける。腹がすいたので西洋料理店の「山猫軒」に入る。そこでいろんなことを「注文」されるが、自分たちが食べられることに気づき、あわてて逃げ出す。レストランは煙のように消え、2人は草のなかに立っている、という話である。「(恐ろしさのあまり)さっき一ぺん紙くずのようになったふたりの顔だけは、東京に帰っても、お湯にはいっても、もうもとのとおりになおりませんでした」(宮沢賢治『注文の多い料理店』〈イーハトーヴ童話集〉岩波書店、2000年6月、70ページ)。最後の一節である。
〇2016年12月、中央教育審議会が学習指導要領の改訂に向けた最終答申を行った。それを受けて文部科学省は、2017年3月、小・中学校の学習指導要領を改訂・告示し、小学校学習指導要領は2020年4月から、中学校のそれは2021年4月から全面実施されることになる。小学校では2018年4月から、2011年4月に必修化された5・6年生の「外国語活動」が教科化され、3・4年生にも導入(先行実施)されている。
〇2018年2月、文部科学省は、2022年4月から年次進行で実施される高等学校学習指導要領の改訂案を公表した。55科目中、新設や見直しが27科目を数えるという大幅な改訂である。内容的には、従来の知識偏重から思考重視への移行、すなわち「思考力・判断力・表現力等」の「新しい学力観」に立つ教育の推進である。また、「愛国心」や「領土問題」について踏み込んだ記述がなされている。「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」(前文)、「自国を愛し、その平和と繁栄を図る(中略)大切さについての自覚などを深める」(新設科目「公共」の目標)などがそれである。
〇今回の改訂で注目されることのひとつは、小・中学校の学習指導要領と同様に、「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けた授業改善の「視点」が強調されていることである。そのひとつのきっかけは、2008年3月の中央教育審議会大学分科会制度・教育部会の「学士課程教育の構築に向けて(審議のまとめ)」や、2012年8月の中央教育審議会答申(「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて~生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ~」)における「提言」である。前者では「学生の主体的・能動的な学びを引き出す教授法(アクティブ・ラーニング)」、後者では「学生が主体的に問題を発見し解を見いだしていく能動的学修(アクティブ・ラーニング)」について言及された。
〇その後、「アクティブ・ラーニング」は、用語の多義性などに基づく多様な懸念や批判を受けて、「主体的・対話的で深い学び」と表記が変えられる。それは、「アクティブ」という用語の後退であるが、教育や学びの「方法」から授業改善の「視点」への転換であり、逆に小学校から大学までの、しかもすべての教育活動への「アクティブ・ラーニング」の導入を意味する。そこには、超少子高齢人口減少多死社会と政治・経済のグローバル化、高度情報化などがさらに進展するなかで、国際競争力を強化するための財界の思惑や要請が透けて見える。
〇もうひとつ注目されるのは、現行の教科「公民」中の選択科目「現代社会」を廃止し、必修科目として「公共」が新設されることである。しかも、学習指導要領の総則(第7款)に新たに「道徳教育に関する配慮事項」を示し、科目「倫理」並びに「特別活動」とともに、道徳教育の充実を図るための「中核的」な科目として「公共」を位置づけている。高等学校における道徳教育の強化、特定の価値観や生き方の強制である。小学校では2018年4月から、中学校では2019年4月から「特別の教科 道徳」(「道徳科」)の授業が始まっている(始まる)。
〇高等学校学習指導要領の改訂案でさらに注目されるものに、「カリキュラム・マネジメント」の重視がある。カリキュラム・マネジメントとは、各学校が設定する教育目標の実現に向けて、生徒や学校、地域の実態を踏まえて教育課程を編成・実施・評価し、改善していくことを通して、組織的・計画的に各学校の教育活動の質の向上を図っていくことをいう。それはあくまでも、教育課程(カリキュラム)の「最低基準」であり、法的拘束力を有する学習指導要領に基づいたマネジメント(運用)である。
〇いま、筆者の手もとに、小針誠(こばりまこと)の『アクティブラーニング―学校教育の理想と現実―』(講談社、2018年3月)がある。本書では、「現代日本の学校教育で、なぜアクティブラーニングまたは主体的・対話的で深い学びが提起、導入されようとしているのかを歴史的に解き明かし、批判的に考えて」(8ページ)いる。その際、小針にあっては、「アクティブラーニング」とは「さまざまな活動や体験を採り入れることも含めて、アクティブな視点で学習者の主体的で能動的な学びを促進し、深めていくこと」をいう(18ページ)。アクティブ・ラーニングについての表層的な入門書や概説書、ハウツー本などは多く見られるが、その教育効果を十分に実証するものには出会わない。そうしたなかで本書は、アクティブ・ラーニングに関する注目の一冊である。
〇以下では、例によって、小針の言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。「です・ます」調を「である」調に変換。見出しは筆者)。

アクティブ・ラーニングをめぐる5つの幻想
アクティブラーニングや主体的・対話的で深い学びには、次のような「幻想」がある。「幻想」とは根拠のない空想や、現実にならないことを思い描くことをいう。
第1の「幻想」は、先行き不透明な未来社会を生きる子どもには、アクティブラーニングが必要で、これまでの教育では目標を達成できないだろうというものである。
第2の「幻想」は、活動的な学び(アクティブラーニング)をおこなえば、子どもたちは主体的・能動的に学ぶこと(アクティブラーニング)ができるだろうというものである。
第3の「幻想」は、学校でアクティブラーニングを経験すれば、知識や技能を活用できる新しい学力(思考力・判断力・表現力)、学ぶ意欲や「生きる力」が高まるだろうというものである。
第4の「幻想」は、研修や指導を通じて教師自らが主体的に学ぶ機会を提供すれば、どの学校や学級でもアクティブラーニングが達成可能になろだろうというものである。
第5の「幻想」は、以上の4点より、アクティブラーニングは好ましく、国の教育政策として導入されるべきだというものである。(5~6ページ)

文部科学省が言う「主体的・対話的で深い学び」
文部科学省の説明や学習指導要領の記述をもとに、「主体的・対話的で深い学び」について説明しておく。
「主体的な学び」とは、学ぶことに関心をもち、自己のキャリア形成とも関連づけながら、見通しを持って粘り強く取り組み、自己の学習活動をふりかえりながら、つぎにつなげる学びを言う。「対話的な学び」とは子ども同士の協働、教職員や地域の人との対話、先哲(昔の優れた思想家や書物)の考え方を手がかりに考え、自己の考えを広げ深める学びを指す。そして「深い学び」とは、それぞれの教科や領域などの特質に応じた「見方・考え方」にもとづいて、知識を相互に関連づけてより深く理解したり、情報を精査して考えを形成したり、問題を見出して解決策を考えたり、思いや考えをもとに創造することに向かう学びを指している。(50~51ページ)

アクティブ・ラーニングとカリキュラム・マネジメント、そして「ふとり教育」
(今回の学習指導要領の改訂によって)いずれの学校段階や教科教育さらには教科外教育でも、教師は一方的な説明だけに終始せず、グループディスカッション、グループワーク、課題解決型学習などを採り入れつつ、主体的・対話的な学びを通じて、さらに学びを深めることが求められる。(59ページ)
アクティブラーニングの視点を導入すれば、学校教育は20年前の「ゆとり教育」から、教師も児童・生徒もじゅうぶんに消化しきれないほど盛りだくさんの「ふとり(太り)教育」になることは目に見えている。(59ページ)
「ふとり教育」の肥大した部分をどうするかは、「カリキュラム・マネジメント」をおこなう学校の裁量に大きく委ねられることになり、学校(校長)や教師それぞれが責任を負うことになる。(60、62ページ)

「参加しない自由」と“必然性のある学び”の重要性
能動的な参加ということは、学習者自らが積極的に参加し、他者と関わらないかぎりは、対話的な学習がはじまらない。しかし、そうであるならば、「参加しない自由」が担保されなければならないのではないか。仮に参加しない自由が認められないとすれば、それは他者からの「学びの強制」であり、字面通りに解釈すれば、主体的な学び(アクティブラーニング)にならないばかりか、個人の内面に対する過剰な介入になってしまう。(239ページ)
また、他者との協働を通じた対話的な学びばかりではなく、個々の子どもたちによる個別的な学びの機会も同じように大切にされ、認められなければならない。さもなければ、協同(協働)学習の試みは、個の自立よりもむしろ集団への強制的な同調や埋没を促すだけの実践に陥りかねないからである。(240ページ)

新学習指導要領とアクティブ・ラーニングの問題点
今回実施される学習指導要領では、細部にわたって教科指導・教科外指導のあり方を規定しているため、学校、教師、子どもの「自由」「個性」「ゆとり」「自主性」がじゅうぶんに確保されていない。それが今回のアクティブラーニングの決定的な弱点であり、問題点である。学校教育史上、教師と子ども双方にとって、もっとも主体性を喪失させ、じゅうぶんな対話のない学びになる可能性さえある。
これまでの日本の学校教育の歴史を顧みて言えば、〈アクティブラーニング〉の導入が試みられた時代こそ、ほぼ共通して、大人(国や社会)の一方的な希望や期待が子どもやその教育に非常に強く反映された社会であった。つまり、子どもを学びの主体や主人公とすることを教育の理念として掲げながら、そのじつは子どもを操作可能な存在とみなし、子どもに対して自発性や活動・体験への参加を過度に要求し、大人の意に従わせてきたと言えるのではないだろうか。(257ページ)
(今回の学習指導要領では)名ばかりの「主体的・対話的で深い学び」に対して、「受動的・他律的・雑談的で浅い学び」を教師や子どもたちに強いて、学校は、ただ現状を追認するだけの政治的・経済的人材の育成に向けて、子どもたちを飼い慣らしていくことになるのではないだろうか。(258ページ)

〇以上から、学校教育改革の動向について管見を加味し、単純化して示せば次のようになろうか。

また、教育の政策化に際しては、もはや時代錯誤ではあるが、<人口増加×経済成長>を前提とする資本主義の原理的な理解や認識がある。その一方で、<人口減少×定常経済>という現代資本主義社会の「定常状態」(活発な社会・経済活動が展開されているものの、その規模自体は拡大していない状態)についての現象的理解・認識がある。そして、その狭間で揺れ動く国や政府の教育政策(その本質は市場主義の論理に基づく政策)がある。とりわけ政治主導で進められる近年の、管理・統制社会へのベクトルを強化する学校教育改革は怖い。
〇最後に、唐突の感は免(まぬが)れないが、管理・統制教育の対極にある(あるべき)真の「アクティブ」で「深い」学びとは何かということに関して、議論すべき点のひとつとして、1985年3月に採択されたユネスコの「学習権宣言」を思い起こしておきたい。学習権とは、「想像し、創造する権利」「自分自身の世界を読みとり、歴史をつづる権利」「あらゆる教育の手だてを得る権利」であり、「人間の生存にとって不可欠な手段である」。真の「アクティブ」で「深い」学びは、形式的なものではなく、この学習権の行使と保障について個々の子どもと教師双方がいかに理解・認識し、態度・行動に表すかが問われる課題である。言い換えれば、学習権についての内的な思考と結果の表出(外化)、その過程(思考過程と表出過程)が問われるのである。しかも、子どもと教師に、学習や教育の名ばかりの「主体」ではなく、自己決定権を有す「主権者」であることを求める。留意したい。

付記
〇「学習指導要領改訂の方向性」を図示したものである(文部科学省「中央教育審議会答申(補足資料)」2016年12月、6ページ)。

〇「主体的・対話的で深い学びの実現について」図示したものである(文部科学省「中央教育審議会答申(補足資料)」2016年12月、13ページ)。

〇大学におけるアクティブラーニングの「失敗結果」と「失敗原因」を図示したものである(中部地域大学グループ・東海Aチーム編『アクティブラーニング失敗事例ハンドブック~産業界ニーズ事業・成果報告~』一粒書房、2014年11月、3~6ページ)。

〇高校福祉科のアクティブ・ラーニングに関しては、藤田久美編著『アクティブラーニングで学ぶ福祉科教育法―高校生に福祉を伝える―』一藝社、2017年3月、がある。

大橋謙策「地域福祉実践の神髄―福祉教育・ニーズ対応型福祉サービスの開発・コミュニティソーシャルワーク―」

はじめに ―「我が事・丸ごと地域共生社会」の実現に向けての課題
〇厚生労働省は2016年7月に『「我が事・丸ごと」地域共生社会実現本部』を発足させ、2015年9月に発表した「誰もが支え合う地域の構築に向けた福祉サービスの実現―新たな時代に対応した福祉の提供ビジョン」(「以下「新しい福祉提供ビジョン」と略」)の具現化を推進させることになった。
〇それは、地域自立生活支援を展開する上で、①子ども、障害者、高齢者の全世代を一元的、一体的に受け止め、相談に応ずるワンストップサービスをシステム化すること、②福祉サービスを必要としながらサービス利用に繋がっていない人々をアウトリーチして発見し、支援することと、時には伴走型の継続的支援を行うこと、③福祉サービスを必要としている人々を地域から排除しない、新たな地域コミュニティづくりを進めること、④そのためにも子ども、障害者、高齢者の全世代が交流・利用できる地域における小さな拠点づくりが必要になること、⑤そして全世代支援、全世代交流を進めていくためには属性分野・機能別の縦割りの資格ではなく、各資格間の相互乗り入れが必要になること等を具体化、具現化させること等が課題としてあることを指摘している。
〇しかしながら、これらのことは“言うは易く、行うは難し”である。それらの理念、考え方の具現化、具体化においては少なくとも福祉教育の推進、ニーズ対応型福祉サービスの開発とそれを企画できる力量のある職員の養成、住民と行政の協働を成り立たせる触媒、媒介の機能をもったコミュニティソーシャルワーク機能とそれを実施できるシステムを整備しない限り難しい。これ以外にも、専門多職種連携の在り方とシステム等の検討課題があるが、今回は触れない。
〇筆者はそれら「地域福祉実践の真髄」ともいえるそれら3つの機能の具現化とその理論化を求めて50年間研究をしてきたといっても過言ではない。
〇その研究スタイルは「バッテリー型研究方法」ともいえるもので、実践家の実践を理論化、体系化するとともに、研究者の理論仮説を実践家に提起し、実践してもらい検証するという研究者と実践家とがあたかも投手、捕手のようにバッテリーを組んで行う方法であり、筆者の50年間の実践、研究はまさにその方法によるところが大きい。
〇四国・こんぴら地域福祉実践セミナーの20年間の実践もまさにそうで、筆者が関わった他のセミナーも含めて、それらのセミナー等において「バッテリー型研究方法」で実践され、論議され、システム化され、地方自治体の政策を産み出してきた多くの実践が先に述べた厚生労働省の報告書にそれなりの影響を与えたと自負している。
〇地域福祉実践の方法として検討しなければならないことは多々あるが、今回は「我が事・丸ごと地域共生社会」実現上特に考えなければならないことと、四国・こんぴら地域福祉実践セミナーの20年間の実践を通して考えてきたことに焦点化させることとし、本稿では、「地域福祉実践の真髄」ともいえるものの内、上記に挙げた3点を取り上げた。それを筆者がどのように考え、展開してきたのかを随想風に振り返りながら、四国・こんぴら地域福祉実践セミナーの実践に対し、若干のコメントをすることとしたい。
〇本資料集に収録された四国・こんぴら地域福祉実践セミナーの実践そのもののコメントは四国4県ごとに他の人が行っているので本稿では行わないこととする。

1. 地域福祉実践(社会福祉協議会活動)は“福祉教育に始まり、福祉教育に終わる”
〇全国社会福祉協議会が1979年から始め、1991年(12期生)まで続けた「地域福祉活動指導員養成課程」(設置された各教科目のテキストに基づき、レポートが課され、添削指導を受けた上で4泊5日の宿泊スクーリングがあり、修了論文の提出が課せられた)は、筆者の研究者的成長に大きな影響を与えると同時に、そこでの相互の学びの過程を通じての実践者との交流が「バッテリー型研究方法」の推進とその後の実践者の組織化に非常に大きな役割を果たしてくれた。
〇筆者はその第1期から「社会福祉教育論」という科目を担当した。それは多分、筆者が「社会教育と地域福祉」の学際的研究を行い、既に「月刊福祉」等の雑誌や著作で「社会教育と地域福祉」に関わる論文を執筆していたからお呼びがかかったのであろうと推察している。
〇筆者の社会福祉学研究、地域福祉論研究において福祉教育は大きな柱である。後に筆者は福祉教育の定義を「憲法第13条、第25条などに規定された基本的人権を前提にして成り立つ平和と民主主義社会を作りあげるために、歴史的にも、社会的にも疎外されてきた社会福祉問題を素材として学習することであり、それらとの切り結びを通して社会福祉制度、社会福祉活動への関心と理解を進め、自らの人間形成を図りつつ、社会福祉サービスを利用している人々を社会から、地域から疎外することなく、ともに手をたずさえて豊かに生きていく力、社会福祉問題を解決する実践力を身につけることを目的に行われる意図的な活動」(1982年)と定義した。
〇この定義を考えるにあたっては、戦前の社会問題対応策としての社会事業と社会教育との関係性、とりわけ内務省が推進した風化行政、地方改良運動、精神作興運動等の研究を踏まえて定義したものである。
〇この福祉教育の考え方と実践は市町村社会福祉協議会が住民主体の活動を展開する上で必要不可欠な活動であると筆者は位置付け、先の「地域福祉活動指導員養成課程」において、“社会福祉協議会の活動は福祉教育に始まり、福祉教育に終わる”ほど重要な活動であることを強調してきた。
〇島根県瑞穂町(現邑南町)社会福祉協議会の事務局長になった日高政恵さん(「地域福祉活動指導員養成課程」の修了者であり、1997年の第1回こんぴらセミナーのシンポジュウムの登壇者でもある)は、住民の生活実態に関する様々な調査を行い、それを踏まえて68の集落福祉委員会を基盤に、13のブロックでの「地域福祉デザイン教室」を行い、徹底的に住民による問題発見・問題解決型の共同学習を通じて、住民の社会福祉意識の変容、向上を図る地域福祉実践を展開した(『未来家族ネットワークの創造――安らぎの田舎への道標』万葉舎、2000年参照)。
〇瑞穂町の実践は、子どもの福祉教育、住民の社会福祉学習、介護福祉人材の養成等町全体で文字通りトータル的に福祉教育を行っており、日高政恵さん自身社会福祉協議会活動は“福祉教育に始まり、福祉教育に終わる”と述べてくれている。
〇福祉教育のより体系的実践としては1988~89年に策定された東京都狛江市社会福祉協議会の「あいとぴあ推進計画」で位置付けられた「あいとぴあカレッジ」がある。
〇それは1991年から実施された(「あいとぴあ推進計画」は狛江市社会福祉協議会の須崎武夫さん(「地域福祉活動指導員養成課程」の修了者であり、のちに事務局長)が東京都社会福祉協議会のモデル指定地区を受託し、社協中心の地域福祉計画づくりを行う。筆者はこの策定委員会の委員長で、委員には狛江市福祉事務所の所長にも入ってもらい、行政との整合性を持たせることを意図した。その後、狛江市は「あいとぴあ推進計画」と連動させた「あいとぴあレインボープラン」を行政計画として策定。狛江市では「あいとぴあレインボープラン」に基づき狛江市条例による「市民福祉委員会」を設置し、重要な社会福祉政策課題については「市民福祉委員会」で協議することを明記。筆者はその「市民福祉委員会」の委員長を15年勤〈務〉める)。
〇「あいとぴあ推進計画」に基づく「あいとぴあカレッジ」は、年間15回程度の本格的な市民福祉教育のカレッジとして実施された(『地域福祉計画策定の視点と実践――狛江市のあいとぴあへの挑戦』第一法規、1996年参照。あいとぴあカレッジを担当した阪野貢(当時宝仙学園短期大学、のちに中部学院大学教授)さんが「市民福祉教育研究所」を設立・主宰し、ブログも開設しているので参照されたい)。
〇また、体系的な福祉教育実践としては狛江市の実践よりも早く、筆者は山口県宇部市において1977年より「宇部市婦人ボランティアセミナー」を企画・実施している。
〇このセミナーは文部省(当時)の助成事業を活用しての実践であるが、社会福祉と社会教育との有機的連携を意識したもので、1年間に17回の座学(講義)と14回の体験、実習(朗読、点字、手話、配食サービス、老人の介護等)のプログラムが組まれた本格的な福祉教育の実践であった(『宇部市の生涯学習推進構想――いきがい発見のまち』東洋堂企画出版社、1999年6月、参照。筆者は17年間、毎年数回宇部市に通い、最後はセミナー(後に2年制のカレッジに改組)30周年記念までお付き合いをしてきた)。
〇このような実践は、上記以外でも、岩手県沢内村(現西和賀町)社会福祉協議会で地域福祉計画の策定とそれに基づく「コーリム大学」を1990年代初頭に実施した。
〇筆者の問題発見・問題解決型共同学習的福祉教育は、1973年の東京都稲城市(筆者の居住地)における「住みよい稲城を創る会」(代表幹事大橋謙策)が主催した集いが最初である。
〇プログラムは、初めに生活問題を抱えている人に実態報告をして頂き、その後分科会に分かれて討議をするというスタイルで行われた。第1回目の集いでは、「嫁」(息子の配偶者)の立場から同居している姑の介護問題の報告、父子家庭の単独世帯の子育ての困難さの報告、学校拒否児(当時の呼称)を抱える家族の悩みの3事例の話を頂いた。
〇東京都の「市」ではあっても、農村的風土が残っていた地域だっただけに、「集い」というオープンな場での発題者を探すのに大変苦労はしたが、発題者の問題提起は実に重要で、その実態の深刻さが浮き彫りになった。その当時、筆者は知らなかったが、既に市内(当時人口3万人)に多くの学校拒否児がいたようで、その親たち(15名)が学校拒否児の親の体験報告があるということで個々に集いに参加してきていた。当初、分科会としては設定していなかった学校拒否児に関する分科会を親たちの要望で急遽作ったことが昨日のように思い出される。いかに、“事実は小説よりも奇なり”で、我々がその実態をただ把握していないだけだということを痛感させられ、アウトリーチによる問題発見の重要性に気づかされた。
〇1997年に香川県琴平町で開催された第1回こんぴら地域福祉実践セミナーは、「ふれあいのまちづくり事業」の補助金による事業ということも考えて、単なる一過性の福祉講演会ではなく、福祉教育、住民の社会福祉学習の機会として、かつ継続することを意識して行われた。当時、人口約1万2,000人の町で、参加者が600人にのぼり、会場が立錐の余地がないほどの状況は驚きであった。考えてみれば、1986年に琴平町社会福祉協議会が受託した「ボラントピア事業」において、夏の暑い日に、冷房のない学校の体育館に並べた椅子と椅子の間の通路に氷柱を何本も立てて行われた講演会になんと1,000人が参加された歴史を持っていた(講演者・大橋謙策)。それらの仕掛けをした琴平町社会福祉協議会の越智和子(現琴平町社会福祉協議会常務理事)さんも20代末の若い時に、山口県笠戸島で「地域福祉活動指導員養成課程」を受講した一人である。
〇筆者は、このような地域福祉と社会教育の学際的研究と実践に関わるなかで、1979年、全国社会福祉協議会が設置した「ボランティア基本問題検討委員会」(委員長阿部志郎、作業委員長大橋謙策)において起草委員長として「ボランティア活動の性格と構造」をまとめさせて頂いた。それは①ボランティア活動と市民活動との関係性をどう整理するかという問題、②ボランティア活動の目的を“自立と連帯の社会・地域づくり”と考えること、③市民活動とボランティア活動を考える場合、その活動には3つの性格の活動があること。それは第1に近隣での日常的なふれあいのある地域づくりを行うこと、第2に地域内にある福祉サービスを必要としている人を発見し、その個別課題に対応する対人サービス活動を行うこと、第3に市町村における(地域)福祉計画づくりを行うことの3つの課題があり、それらを構造的に捉えて考え、実践することの重要性を提起した。
〇また、そのような市民活動とボランティア活動との関係を意識したのは、1970年前後のコミュニティ構想が“住民参加、住民の権利ということが担保されない、権限なきコミュニティにおいて、麗〈うるわ〉しき隣人愛に基づく活動、助け合い活動”を求めていたことへの反論であり、かつ地域住民の生活を守るためには国レベルの社会保険制度の整備と共に、居住する市町村自治体における福祉サービスの整備が必要であり、重要であると考えたからに他ならない。(全社協・ボランティア基本問題検討委員会報告書「ボランティアの基本理念とボランティアセンターの役割」1980年を参照)。
〇また、その頃、福祉教育の実践が求める目標として「4つの地域福祉の主体形成」(市町村地域福祉計画策定主体、地域福祉実践主体、福祉サービス利用主体、社会保険契約主体)の必要性をまとめ、提起している。
〇「我が事・丸ごと地域共生社会」の実現に向けて、市町村における行政と住民の協働のあり方や全世代支援を行えるワンストップサービスができるシステムの構築等を考え、実施できるようにするためにも、まずもって住民参画による市町村地域福祉計画づくりが重要になる。また、その計画策定主体の形成も含めて地域福祉の4つの主体形成がなされなければ実現は難しいことになる。
〇福祉教育を皮相的にとらえるのでなく、地域住民が社会福祉の学習を通じ、地域にある問題に目を開き、気づき、それを解決するためにどう行動するべきかを考える機会を提供する福祉教育こそ地域福祉実践の根幹であることを改めて認識して欲しい。

2. ニーズ対応型福祉サービスの開発と「福祉でまちづくり」
〇筆者は1990年まで、日本には事実上ソーシャルワーク実践はなかったということを日本社会事業学校連盟(現日本ソーシャルワーク教育学校連盟)の社会福祉教育セミナーの席上や日本社会福祉学会等の場において発言してきた。しかしながら、残念ながら反論はされなかった。それどころか、戦後日本のケースワーク研究を牽引し、国際社会事業学校連盟からも高く評価されていた仲村優一先生は、“まさに君(筆者)が言う通りである”とさえ言われ、逆に日本におけるソーシャルワーク実践の定着を図る研究をしっかり頼むと励まされる状況であった。
〇戦後日本では、アメリカの文化、社会福祉に関するシステムの中で育ったケースワーク、グループワーク、コミュニティオーガニゼーションといった方法論が紹介・解説され、社会福祉教育の場において教えられてきた。
〇そこでは、インテークという用語やクライエントという用語が使われ、福祉サービスを利用しようとして、あるいは生活上の様々な問題を抱えて相談機関に来談した人とのラポートづくりから実践が説き起こされてきた。
〇筆者のように、戦前の社会事業における精神性と物質性の関係性の研究、地域改良・居住者の生活改善・人格向上を目指すセツルメント運動等を研究してきたものにとって、それには非常な違和感があった。多くの“社会福祉研究者”は筆者(大橋謙策)に対し、社会福祉六法体制とケースワーク等の社会福祉方法論とを前提としている“社会福祉プロパーの研究者”として認めず、“社会福祉体系外の研究者”として位置付ける言動を投げかけていた。
〇1977年に上梓され、1980年に日本語に翻訳された『社会福祉実践方法の統合化』 (『Integrating Social Work Methods』ハリー・スペクト/アン・ヴィッケリー編)において、アメリカのシステム理論やイギリスの地方自治体社会サービス法に基づく実践を通して、1930年代にアメリカで確立された社会福祉方法論の3分類法を「ソーシャルワーク」に止揚するべきであるという問題提起がなされ、それが日本語に翻訳されて紹介されているにも拘わらず、日本では実質的に2000年まで社会福祉士養成のカリキュラムの中で社会福祉方法論の3分類法を堅持しつづけた。しかも、いまでも多くの研究者がインテーク、クライエントという用語を無自覚的に論文上でも使用している。
〇筆者は、1973年に東京都稲城市立公民館の建設に際し、1947年に制定された児童福祉法の国会審議に向けて厚生省(当時)が作成した予想問答集の考え方(保育所設置の目的は①働かざるを得ない母親の就労支援、②子どもの成長には集団保育が必要、③文化国家、民主国家を建設するには女性の社会参加、社会活動を促進する必要があるので子どもを預ける保育所が必要)に基づき、公民館に市の専任職員である保母(当時)を常駐させた公民館保育室の設置を社会教育委員として提案し、建設した。その公民館の機能として住民のたまり場、交流の場としての機能・空間ももたせた。また、同じように1975年には、児童館、老人福祉センター、公民館を合築する地区公民館の建物の構想を示し、建設した。
〇更には、1973年、貧困児童の就学援助を増進させるために、当時、文部省の基準は生活保護基準の1.5倍が就学奨励費支給の基準であったものを市と交渉し、1.6倍にまで引き上げてもらった。
〇このような実践を若い時(20代)からしてきたものにとって、「申請主義」に囚〈とら〉われた社会福祉実践・研究やカウンセリング的ケースワーク論は何とも理解しがたいものであった。そのような発想は、社会福祉方法論の分野のみならず、施設経営をする社会福祉法人も陥っていた呪縛であり、市町村社会福祉行政自体も囚われていた呪縛であった。
〇日本の社会福祉実践、研究は、1990年まで中央集権的機関委任事務体制で展開されてきたこと、また福祉サービスも行政もしくは行政に委託された社会福祉法人が運営する施設において提供されてきたために、法人・施設運営の視点はあったものの、経営の視点は脆弱であったし、市町村における社会福祉行政のアドミニストレーションに関する研究は実質的になかったと言わざるを得なかった。
〇ある意味、国が設計する制度に基づく“制度ビジネス”に“安住”しており、そこでは、一般に経済界で必要とされている“市場調査”としての“サービスニーズの把握”の視点や方法、あるいは“商品開発”に該当する“ニーズ対応型サービス開発”の意識は希薄であったことは否めない。
〇筆者は、戦後の社会福祉実践・研究は中根千枝先生の研究の「鍵」概念を借りれば、「場」(枠組み)である制度としての枠(社会福祉六法体制、中央集権的機関委任事務体制)の中で社会福祉実践・研究を考え、行われてきたと指摘してきた。
〇しかしながら、21世紀においては「資格」(機能)として求められているソーシャルワーク機能に基づき、潜在化しがちな国民のニーズの発見・キャッチが重要であり、かつそれに対応したサービス開発とその起業化・経営が必要であることを頓〈とみ〉に1990年以降指摘してきた(筆者は1978年の論文「施設の社会化と福祉実践」(『社会福祉学』19号所収)以降、ニーズ対応型のサービス開発のヒントは、入所型施設で提供しているサービスを細かく分節化させることや家庭機能を分節化させて、それをどういうシステムで提供するかを考えることにあると述べてきた。また、1990年以降「福祉でまちづくり」の必要性を提起してきた)。
〇21世紀に入り、急速に進められている規制緩和の時代にあっては、社会福祉分野といえどもニーズの把握、ニーズ対応型サービスの開発とその起業化に関する研究が社会福祉研究上求められている。それは、ソーシャルワーク機能そのものが問われていることでもある。それはまた、ソーシャルワークの楽しさ、醍醐味を味わう機会でもある。
〇ソーシャルワークの使命(ミッション)は、ニーズキャッチ・発見を基盤に、それらの問題解決に向けてのサービスの提供、サービスの開発であり、それこそソーシャルワークの価値であることを忘れてはならない。
〇筆者は、今、①高齢者分野の介護保険制度外のサービス開発と供給の方法に関する研究(株式会社などが入所型施設で提供してきているサービスを細かく分節化させて、必要時に即応できるサービスシステムの開発をし、サービスを介護保険制度外のサービスとして提供している。従来の地域福祉実践はこれらの制度外のニーズに対応できているのであろうか)、②介護保険制度外の福祉機器、介護ロボットの購入・利活用に関する研究(障害者分野の補装具や介護保険の福祉用具の利活用と一般市販される福祉機器との利活用がボーダーレスになってきており、その相談、利活用システムのあり方が問われている。既に、福祉機器・介護ロボットの利活用・相談センターが制度外で動き始めている)、③障害者総合支援制度外のニーズキャッチとその商品開発、及びそれに関わっての新たな障害者の雇用形態、就労形態のあり方を考えた「起業化」が行われており、それにふさわしい経営形態はどういう組織がいいのかに関する研究、④「限界集落」、「消滅市町村」における「高齢者の、障害者のための福祉のまちづくり」ではなく、高齢者も障害者も参画した「福祉でまちづくり」という新たな第8次産業(第6次産業+障害者・高齢者・子育て中の親の参画+商店街を構成する生活衛生同業者組合も参画した地産地消・循環型地域経済)を創出することに関する研究に関心を寄せて実践に関わっている(「福祉でまちづくり」という用語は、1990年の岩手県遠野市の地域福祉計画策定において使用したのが最初である。それは特に市議会議員の研修会でその必要性と重要性を指摘した)。
〇この④の研究、実践は、文字通り地域福祉実践そのものに関わる実践であり、これは地方創生や立地適正化計画(コンパクトシティ計画)、あるいは休耕田、空き家対策等とも関わるまちづくり、地域づくりそのものの課題であり、地域経済に関わる研究、実践でもある。
〇山形県鶴岡市の地域福祉計画策定において、新しく特別養護老人ホームを100床、ユニット型で建設する構想(社会福祉法人鶴岡市社会福祉協議会立特別養護老人ホームおおやま、2005年)に際し、地産地消型の視点を取り入れるべく、商工会に特別養護老人ホームへの食材等を納入する協同組合を新たしく設立頂き、地元の商工業者に参入頂いた。全国の約7,000ある介護老人福祉施設(特別養護老人福祉施設)及び全国に約4,000ある介護老人保健施設がこのような発想で「地産地消」の取り組みをすれば、地域経済に与えるえる影響は大きく、現在言われている社会福祉法人の地域貢献の実態よりもその影響は大きく、これこそ社会福祉法人の役割、責務ではないのだろうか。
〇先に述べた島根県瑞穂町の実践のスローガンは「未来家族ネットワークの創造」であったが、それはもう民法上の血縁家族に頼っていたのでは「中山間地域」という地域での地域自立生活が維持できなくなってきており、地域に居住している人々が血縁を超えて“地域の未来家族”として生活をしていこうとする願いでもあった。
〇一人暮らし高齢者のみならず、地域生活している単身の精神障害者や知的障害者、非婚の男性、女性が増えることを考えると、これからは「少子高齢社会」もさることながら、「単身生活者の時代」になり、単身生活者の生活支援が深刻な課題になる。そこでは、血縁家族機能へ期待することは幻想である。家族が居なくても、家族に頼ることもなく、人生を全うできるように、日常生活自立支援のシステム、成年後見制度のシステム、入退院支援のシステム、死後の対応としての葬儀・遺骨の取り扱いも含めての支援等、本人の意思の確認と尊重を踏まえた“自立生活支援”のシステムを地域ごとに構築していかなければならない。まさに、「未来家族ネットワークの創造」である。ここでも従来の地域福祉実践の枠組みを再検討しなければならない。
〇今や、社会福祉の制度の枠に縛られた実践、制度を改善することのみに行きがちな“制度ビジネス”的な実践、研究を脱皮し、新たな視点での実践と研究が求められている。
〇とすれば、地域福祉実践も従来の枠を超えて、「福祉でまちづくり」の視点を大胆に取り入れ、かつその実践組織も社会福祉協議会や施設経営の社会福祉法人だけでなく、NPO法人、株式会社も含めた多様な組織体による起業化が行われ、そのプラットホームの上に地域自立生活支援が成り立つという新たな地域福祉の展開の時代として、研究枠組みも実践の方法も考え直さなければならない。
〇四国・こんぴら地域福祉実践セミナーで取り上げられた徳島県のNPO法人どりーまぁサービスの山口浩志さんは在宅のALS患者や重症心身障害児者への24時間ケアサービスを提供しているが、その根源には住民からの相談を断らないという哲学がある。その相談こそが“ビジネスチャンス”であるという発想で、それに柔軟に対応するために、かつその実践の社会的評価を得るために、社会福祉法人という経営形態ではなく、かつ株式会社という経営形態でなく、NPO法人という経営形態を選択したと言っている。
〇同じく徳島県美馬市木屋平地区のNPO法人こやだいらの実践、高知県津野町の学校跡地を利用した「集落福祉としての『森の巣箱』」の実践、人口減に伴う利用者減による経営困難でJAさえも撤退した山間地域でのガソリンの供給から日常生活の買い物支援、全世代交流支援型のサービス提供等の多機能型の地域づくりを展開している地域の生活支援の中核的組織である「あったかふれあいセンター『いちいの郷』」の実践などは、従来の狭い地域福祉実践の枠を超えた地域づくりそのものであり、血縁家族を超えた、地域での住民の自立生活を支援する実践である。
〇徳島県美馬市木屋平地区(合併前の旧木屋平村)のNPO法人こやだいらの実践は、筆者が“ベッドサイドから診察室まで、スーパーから冷蔵庫までの実践”と勝手に命名したが、人口710人の集落(高齢化率58%)での、世帯単位ではなく、個人単位の加入による「集落福祉のNPO法人版」である。標高1,955メートルの剣山の中腹(標高800メートル、地区の集落は標高200~800メートルに散在)で、一面の雲海を下に見ながら、蝉しぐれの中で、住民座談会を開催し、木屋平地区の集落福祉をどう進めるかを論議し、NPO法人格を取得して行うしかないといった論議をしたことが昨日のように思い起こされる。
〇これからの地域福祉実践には「福祉でまちづくり」をスローガンに、基礎自治体を基盤にしつつも、共同性と土着性が強い稲作農耕によって作られた、自然発生的に形成された地域、自治会を超えて、一定の生活圏域ごとにより分権化(市町村からの地域組織への第3の分権化、東京都地方分権推進委員会及び東京都社会福祉審議会で、委員として筆者が提唱)させた新たな地域組織に再編成し、そこで地域の多様な生活課題を解決する多機能型地域組織を構築し、活動を推進していくことが求められる。
〇それはある意味、住民一人ひとりが「選択的土着民」(静岡県掛川市元市長榛村純一氏提唱)となって、地域づくりに関わることであり、それはある意味、住民総参加の直接的民主主義という、地域を“コミューン”にすることである。そこに「限界集落」、「消滅市町村」問題を乗り越える一つの鍵がある。NPO法人こやだいらや「ふれあいあったかセンター『いちいの郷』」の実践はその萌芽とも言える。

3. 行政と住民の協働を触媒・媒介するコミュニティソーシャルワーク
〇イギリスのミヒャエル・ベイリイが提唱(1973年)した考えを基に地域福祉の考え方に関わる発展段階を整理すると① Care Out The Communityの時代、② Care In The Communityの時代、③ Care By The Communityの3つの発展の時期・時代がある。
〇筆者は、日本では1971年~1990年が①の時代で、1990年~2000年までが②の時代であり、2000年以降は③の時代に入り、社会福祉法制も社会福祉法への改称・改正で理念的にそれを求め、明確化したと述べてきた(地域におけるヴァルネラビリティの人々とその人々を排除しない地域のあり方を指摘した2000年12月の「社会的な援護を要する人々に対する社会福祉のあり方に関する検討会」の報告書が出された意味は大きい)。
〇ところで、コミュニティソーシャルワークという用語とその考え方は、1982年のイギリスでの「バークレイ報告」で提唱されたものであるが、イギリスではその考え方が実践的に必ずしも成功したとは言えない。
〇筆者は、日本的にコミュニティソーシャルワークがそれなりに定着できる状況になってきている要件として、(イ)まがりなりにも日常生活圏域における自治会等の地域組織機能があること、(ロ)全国の市町村に、地域を基盤として活動している社会福祉協議会が組織されていること、(ハ)全国の市町村に23万5千人の民生・児童委員と約5万人の保護司が設置されていることが大きいと考えている。
〇コミュニティソーシャルワークという考え方は、上記の③の時代には不可欠な考え方である。施設サービスから脱却し、地域での自立生活を支援していくためには、行政の力だけでは遂行できず、地域住民の参加、協働が欠かせない。そのためには先に述べた地域住民の4つの地域福祉の主体形成が求められる。
〇行政と住民との協働を促進し、住民の主体性を高め、住民自身が地域の問題を発見し、その問題に対し差別・偏見を持たず、地域から排除することなく、地域で問題解決を図る活動を推進するためには、住民の活動を活性化、促進させる触媒機能が重要であり、かつ行政と住民との協働を安定的に媒介させる機能が重要であり、それこそコミュニティソーシャルワーク機能である。
〇ところで、地域自立生活を支援するコミュニティソーシャルワーク機能の日本的発展段階には5つの段階があったと筆者は考えている。
〇第1の段階は、1979年にいち早く高齢化が進展していた秋田県が県単独事業として政策化させた在宅相談員制度である。一人暮らし高齢者を孤立させず、地域で見守ろうという実践で、社会福祉協議会と民生委員との協働の下に展開された。
〇筆者は、その初年度の在宅相談員の研修に招聘、参加させて頂いた。秋田県男鹿観光ホテルで行われた研修会では、従来の血縁的、地縁的見守りを昇華・発展させ、社会化させたシステムとして展開しようとする試みに社会福祉の新たな息吹と地域福祉実践の必要性を改めて認識させられた機会であった。そのもっとも優れた実践の一つは秋田県西仙北町社会福祉協議会の佐藤春子さん(「地域福祉活動指導員養成課程」修了者)の取り組みで、「一人ぼっちの不幸も見逃さない」という映画になり、その後“黄色いハンカチ運動”等に繋がっていく。社会福祉協議会と小地域とが協働して住民の孤立やゴミ出し等のちょっとしたお手伝いを行う事業は現在でも全国で行われており、富山県のケアネット事業等も県単で行われている。
〇第2の段階は、1990年に「生活支援地域福祉事業(仮称)の基本的考え方について」(平成2年8月、生活支援事業研究会中間報告、厚生省社会局保護課所管)と題する報告書がだされてからである。
〇筆者自身が、コミュニティソーシャルワークにより関心を寄せ、その政策化に関わるのは、この研究会の座長を仰せつかってからであり、日本におけるコミュニティソーシャルワーク機能が政策的に、実践的に意識された年である。
〇この報告書に基づき、1990年度にモデル事業として展開され、その成果を踏まえて政策化されたのが1991年度より始まる「ふれあいのまちづくり事業」という大型補助金事業である。モデル事業は福祉事務所、保健所、市町村社会福祉協議会で展開されたが、最も報告書の考え方を踏まえ実践してくれたのは富山県氷見市社会福祉協議会の中尾晶美さん(中尾さんも「地域福祉活動指導員養成課程」の修了者で、のちに事務局長を勤〈務〉める。筆者は氷見市社会福祉協議会へ約35年間通い、「バッテリー型研究方法」を展開。最後の頃は氷見市行政アドバイザーも勤〈務〉める)の実践だったこともあり、「ふれあいのまちづくり事業」は市町村社会福祉協議会で実施されることになった(このモデル事業の評価委員長は宮城孝現法政大学教授が担ってくれた)。
〇これが、実質的な意味での日本におけるコミュニティソーシャルワーク実践の始まりと言える。
〇この事業では、今日大きな問題となっている潜在的福祉サービスを必要としている人の発見、しっかりしたアセスメントによるケアマネジメントに基づく援助方針の立案、専門多職種によるチームアプローチ等が提唱された。また、制度の谷間の問題、多問題家族、多重債務者、在住外国人、核家族・単身者の入院時支援、家庭内暴力の問題等への対応の必要性と重要性を指摘している。
〇しかしながら、この「ふれあいのまちづくり事業」でコミュニティソーシャルワーク機能の具現化が図れたとはいいがたいと筆者は考えている。この補助事業が多くの市町村社会福祉協議会を活性化させる契機にはなったと思うが、コミュニティソーシャルワーク実践の具現化と先に述べた「生活支援地域福祉事業(仮称)」の具体化という点では筆者は必ずしも成功したとは考えていない。
〇第3の段階は、1993年から日本社会事業大学の社会福祉学部福祉計画学科の地域福祉コースの所属教員が研究会(研究代表大橋謙策)を立ち上げ、厚生省(当時)の老人保健健康増進等事業の助成を受けて全国のいくつかの市町村をフィールドにして「在宅福祉サービスにおける自己実現サービスの位置とコミュニティソーシャルワークに関する実践的研究」を始めてからである(その研究成果は毎年報告書として出されているが、それを基に2000年8月に『コミュニティソーシャルワークと自己実現サービス』(大橋謙策他編、万葉舎)が上梓されているので参照されたい)。
〇そのフィールド市町村の一つである岩手県湯田町(当時、現西和賀町)社会福祉協議会において、主任ホームヘルパーの菊池多美子さん(この人も「地域福祉活動指導員養成課程」の修了者で、全社協の「社会福祉主事養成課程」の修了者でもある。また、第1回こんぴら地域福祉実践セミナーのシンポジストとしても登壇。菊池多美子著『福祉の鐘を鳴らすまち―「うんだなーヘルパー」奮戦記』1998年、万葉舎参照)が実践していた事例に触れ、その実践こそがコミュニティソーシャルワーク機能を具現化させている実践であり、コミュニティソーシャルワーク機能の具現化を全国的に展開できると勇気づけられた実践であった。
〇その実践には、①アウトリーチも含めた問題発見、②フォーマルケアとインフォーマルケアとを有機化させて提供、③個別対応型支援ネットワーク会議の開催、④伴走型のソーシャルワーク、⑤ニーズ対応型サービス開発、⑥社会福祉協議会独自の新しい財源創出等の機能を濃淡含めて実践していた。その考え方に学び、実践を体系化すると同時に、新たな理論仮説を提起し実践もして頂いた。この実践に関わることにより、筆者はコミュニティソーシャルワーク機能の実践ができると確信がもてた。
〇ただ、その実践は必ずしも意図的な、自らの仮説をもって、検証し、見直すというPDCAサイクルの実践でなかったこと、組織的には容認され、実践されていたが必ずしも社会福祉協議会の計画的、組織的位置づけの下に行われていなかったこと、かつその実践はすぐれて個人的であり、システムとして構築されていたわけでなかったこと等の課題があった。
〇その後、これら湯田町の実践における課題を解決するためにはコミュニティソーシャルワークを展開できるシステムづくりが必要であると考え、それには市町村地域福祉計画の策定との関わりが不可欠との認識をより強めさせることになった。
〇筆者は1970年代から市町村の地域福祉計画の必要性を論文で書いてきたし、先に述べた「ボランィア活動の性格と構造」のなかでも(地域)福祉計画の必要性を述べている。また、全社協が設置した「地域福祉計画研究委員会」にも委員として参加し、その委員会の報告書として1984年に上梓されている『地域福祉計画――理論と方法』にも執筆している(筆者は、この研究会の論議を踏まえ、1985年に「地域福祉計画のパラダイム」という論文(『地域福祉研究』№.13所収、日本生命済生会福祉事業部刊)を書いているので参照)。

(註) 地域福祉計画策定委員長として1988年から取り組み、1990年に制定した東京都狛江市「あいとぴあ推進計画」(『地域福祉計画策定の視点と実践』大橋謙策著、第一法規、1996年参照)や東京都目黒区が1990年から取り組んだ「目黒区地域福祉計画(福祉事務所と保健所を合体させ、人口26万人の区内を5地区に分け、その各々に保健福祉サービス事務所を設置)、あるいは同じく1990年から取り組んだ「遠野市ハートフルプラン」(『21世紀型トータルケアシステムの創造』大橋謙策他編、2002年、万葉舎参照)等の計画策定の実践を行ってきた。
あるいは東京都児童福祉審議会(専門部会長大橋謙策)において、筆者が委員長としてまとめた1990年の東京都東大和市の地域福祉計画で構想したものを、東京都児童福祉審議会専門部会に部会長である筆者が提案し、具現化して1994年から創設された「子ども家庭支援センター」(センターに保健師、社会福祉士、保育士を配置し、各区市町村に設置、現在58か所)等の政策提言及びその具現化の政策化及び実践がある。

〇これら一連の地域福祉計画において政策提言したことと、先のコミュニティソーシャルワークの実践課題の解決とを結び付けて提案し、システム化させたのが2000年4月から始まった長野県茅野市の保健福祉サービスセンターの実践である。
〇コミュニティソーシャルワークの発展の第4段階は、地域包括ケアシステムとコミュニティソーシャルワークとの連携がシステムとして確立できた長野県茅野市の保健福祉サービスセンターのシステムであり、実践である(筆者は1998年から15年間茅野市福祉行政アドバイザーを担当)。
〇この時期は、厚生労働省も未だ地域包括ケアとか、地域包括ケアシステムという用語は使っていないし、政策化させていない時期であった(筆者は、1990年の岩手県遠野市の地域福祉計画づくりから「地域トータルケアシステム」という用語を使用してきた)。
〇長野県茅野市は、地域トータルケアシステムの拠点としての保健福祉サービスセンターを市内4か所に設置(当時人口5万7千人、中学校区9)し、市役所内にいた福祉事務所の職員、保健課の保健師を再編成して配属した。それに加えて市社会福祉協議会の職員も配属して、子ども、障害者、高齢者の全世代に対応するワンストップサービスを展開することにした。
〇基本的には、行政職員(ソーシャルワーカー)、保健師、社会福祉協議会職員(ソーシャルワーカー)が3人1組でチームアプローチをすることにした。それは、フォーマルサービスとインフォーマルサービスとを有機化させることとアウトリーチ型のニーズキャッチをやりやすくさせるためであった。ある年の社会福祉協議会の職員は年間280日も地域へ出張り、住民の相談とニーズキャッチに努めた。社会福祉協議会のソーシャルワーカーを配属したのは地域住民の福祉教育の促進や住民のインフォーマルケア力の向上と活用の促進を図るためでもあった。
〇その保健福祉サービスセンターでは、フォーマルな制度、サービスのコーディネート、家族、地域の支え合い及び新たな意図的なソーシャルサポートネットワークの構築とコーディネート、更には福祉サービスを必要としている人を発見、あるいは新たに必要な福祉サービスの開発等の機能を総合的、統合的に展開できるシステムとして構想された。
〇しかも、そのシステムは地域の各機関の機関長レベルの連絡調整ではなく、個別具体的な問題を個々に解決するためのチームアプローチを行う個別対応型支援ネットワーク会議を開催し、具体的支援をリードする拠点システムとしても構想された。
〇また、茅野市保健福祉サービスセンターには、内科クリニック、訪問看護、高齢者デイサービス、訪問介護、地域交流センターを併設し、更には、システムとして内科クリニックと諏訪中央病院との病診連携、「かかりつけ医」制度の促進を図ることなども組み込んだ(『福祉21ビーナスプランの挑戦』大橋謙策他編、中央法規、2003年参照)。
〇長野県茅野市の計画、実践において、筆者は保健、医療、福祉の連携のみならず、社会教育との連携を意識して取り組んだ(地域福祉計画づくりに社会教育との連携を意識的に組み込むのは1990年の遠野市の計画づくりからである)。
〇なぜ、社会教育との連携を意識化したかというと、福祉サービスを必要としている人を発見し、支えていく上で、地域住民の力はプラスに働く場合もあれば、ややもするとそれらの人々への偏見、蔑視が働き、排除の動きにもなる恐れがあるので、地域住民のこれらの問題への関心の醸成と理解の深化を図ること及び住民自身が福祉サービスを必要としている人の支援者になることへの変容が求められるので、そのためにも筆者は一貫して地域福祉実践には福祉教育が不可欠であると述べてきたし、その一翼を社会教育が担うべきであると考えてきたからである。
〇更には、「福祉でまちづくり」の考え方を実現していくためには、住民の問題発見・問題解決型の共同学習が必要不可欠であると考えたからでもある。
〇まさに、地域包括ケアの構築には住民の学習を推進する社会教育行政との連携が必要と考えたからに他ならない。
〇この茅野市の実践事例は、その後静岡県富士宮市、掛川市、千葉県鴨川市等へ波及していく。
〇茅野市のシステムと実践は、2006年に制度化された介護保険制度の地域包括支援センターのシステムとしてのモデルであり、かつコミュニティソーシャルワーク実践を展開できるシステムのモデルでもあった。
〇2016年7月からは、東京都世田谷区(人口91万人)の27地区に設置されている地域包括支援センター(あんしんすこやかセンター)で、子ども、障害者、高齢者の全世代支援型のワンストップサービスが始まっており、その地区ごとにコミュニティソーシャルワーク機能を担う社会福祉協議会の職員が1.5人ずつ配属されて活動している。
〇筆者が、この間、手がけてきた地域福祉実践の考え方が国の政策のあり方に最も反映されたものとして、2008年に発表された『地域における「新たな支え合い」を求めて―住民と行政の協働による新しい福祉』がある。この厚生労働省の研究会の座長を勤めさせて頂いたが、筆者が研究し、地方自治体で実践的に制度化、政策化させた考え方がほぼ反映されたと思っている。
〇しかも、その考え方は、2009年から始まる「安心生活創造事業」というモデル事業の創設により実証的に検証されることになる。そのモデル事業の市町村に指定された中に香川県琴平町があるし、筆者がアドバイザーとしてシステムづくりに関与している千葉県鴨川市も含まれている。
〇これらの地域福祉実践の積み重ねが、理論的にも、実践的にも可能性があるという判断がなされたのであろう、2015年9月に発表された厚生労働省の「新しい福祉提供ビジョン」にこれらの考え方が政策的に引き継がれていく。
〇コミュニティソーシャルワークの第5段階は、この「新しい福祉提供ビジョン」をどう具現化させるかという時代である。
〇その理念をより強固に具現化させるべく、2016年7月に「我が事・丸ごと地域共生社会」実現本部が設置された。
〇そこで求められる実践課題を筆者なりに改めて整理すると、①筆者のいう4つの地域福祉の主体形成と福祉教育の課題、②「福祉でまちづくり」を推進する上で必要なニーズ対応型サービスの開発というソーシャルワーク機能を発揮できる職員の養成とそれを展開できるシステムづくりの課題、③行政と住民の協働を触媒・媒介させるコミュニティソーシャルワーク機能とそれを展開できるシステムの課題がある。
〇ところで、これらのことを具体的に実施できるシステムの運営のあり方とその市町村毎のアドミニストレーションはどうあったらいいのか等は研究的にも、実践的にも未だ緒に就いたばかりであり、地域福祉研究的にはほとんど皆無の状況である。
〇ましてや、これらの活動の担い手をどう養成し、配属できるのか十分な展望を持てていない。筆者が理事長〈を〉しているNPO法人日本地域福祉研究所は、全国の県、市、県社会福祉協議会、市町村社会福祉協議会等と協働して、多数のコミュニティソーシャルワークの研修の機会を担ってきているが、果たしてその研修内容や方法も今のままでいいのか、かつての「地域福祉活動指導員養成課程」のようなe-ラーニングも含めたより体系的養成課程を行う方がいいのか、かつ全国の市町村においてコミュニティソーシャルワークの養成・研修を実施することへの対応の展望は見えていない。
〇イギリスでは、大きな制度改革が行われるときには、必ずといっていいほどその制度改革を担う人材の養成のあり方を連動させて取り組んできた。日本では、制度は制度、人材養成は別か、あるいは制度に必要な人材を制度ごとの研修で養成するという立ち位置で行われてきた。そろそろ、ソーシャルワーク機能、とりわけコミュニティソーシャルワーク機能を発揮できる人材の養成を抜本的に考える必要があるのではないか。今の社会福祉士の養成課程がこれから求められるソーシャルワーク機能を発揮できる人材の養成として相応しいとは必ずしも筆者には思えない。
〇それらのことも含めて、「我が事・丸ごと地域共生社会」の実現にはいろいろ難しさがある、そうであればあるほど、改めて、今求められているコミュニティソーシャルワーク機能とはを整理、確認しておきたい。それが常に意識されていないと、福祉サービスを必要としている人を発見し、その人々が抱える問題を“我が事”のように理解、共感し、その問題を行政と住民が協働して地域を挙げて解決することはできない。
〇そして、それを推進しようとすればするほど、行政と住民の協働を触媒・媒介するコミュニティソーシャルワーク機能が求められることを意識化しなければならないからである。
〇改めて、今求められているコミュニティソーシャルワーク機能とはを整理、確認すると、①地域に顕在的、潜在的に存在する生活上のニーズ(生活のしづらさ、困難)を把握(キャッチ)すること、②それら生活上の課題を抱えている人や家族との間にラポール(信頼関係)を築くこと、③時には、信頼、契約に基づき対面式(ファイス・ツー・フェイス)によるカウンセリング的対応も行う必要があること、④その人や家族の悩み、苦しみ、人生の見通し、希望等の個人的要因を大切にしつつ、それらの人々が抱えている問題がそれらの人々の生活環境、社会環境との関わりの中で、どこに問題があるのかという地域自立生活上必要な環境的要因に関しても分析、評価(アセスメント)すること、⑤その上で、それらの問題解決に関する方針と解決に必要な方策(ケアプラン)を本人の求め、希望と専門職が支援上必要と考える判断とを踏まえ、両者の合意の下で策定すること、⑥その際には、制度化されたフォーマルケアを有効に活用すること、⑦そのうえで、足りないサービスについてはインフォーマルケアを活用したり、新しくサービスを開発するなど創意工夫して問題解決を図ること、⑧問題解決には多様な関係者の個別対応型支援ネットワーク会議を開催したり、必要なサービスを統合的に提供するケアマネジメントの方法を手段とする個別援助過程を基本的に重視しなければならないこと、⑨と同時に、その個別援助を支える地域を構築するために、個別対応型の必要なインフォーマルケア、ソーシャルサポートネットワークの開発とコーディネートを行うこと、⑩地域での個別支援を可能ならしめる地域づくりに関する“ともに生きる”精神的環境醸成、ケアリングコミュニティづくりを行うこと、⑪個別生活支援の外在的要因である生活環境・住宅環境の整備等も行うことを同時並行的に、総合的に展開、推進していく活動、機能である。
〇これらのコミュニティソーシャルワーク機能が十分意識化されない皮相的な取り組みで「我が事・丸ごと地域共生社会」という政策が展開されることに、行政も社会福祉関係者も、住民も十分留意しなければならない。したがって、市町村においてコミュニティソーシャルワークを展開できるシステムがない中で、安易に、コミュニティソーシャルワーカーという名称だけが一人歩きすることには気を付けなければならない。

4. おわりに
〇四国・こんぴら地域福祉実践セミナーは20回続いているが、それは他の実践セミナー(日本地域福祉研究所主催の全国地域福祉実践研究セミナーが22回、房総地域福祉実践セミナーが14回、沖縄かりゆし地域福祉実践セミナーが8回等)と同様に、“継続こそが力なり”と思い、続けることを意識して、かつ参加してきた。この20回に亘る四国・こんぴら地域福祉実践セミナーのすべてに参加しているのは、筆者と越智和子さんだけであろうか。
〇ところで、このセミナーは原則的に県行政や県社協の力に頼らずに、開催地を中心に自分たちで実行委員会を作り運営してきた。また、このセミナーは県庁所在地ではなく、「限界集落」と呼ばれる中山間地で行うことを原則としてきた。それは、「草の根の地域福祉実践」を豊かにしたいという思いからであった。県庁所在地での開催は第17回セミナーの愛媛県松山市が初めてである。このような考え方も四国・こんぴら地域福祉実践セミナーの特色の一つである。
〇高知県の足摺岬のある土佐清水市でのセミナーに539名が四国4県から集まり、討議をした光景には、正直鳥肌が立つ程の感動と感銘を覚えた。この土佐清水市のセミナーに参加して、中央集権的機関委任事務体質、行政依存的体質が大きく変わりつつあることを確信できた。
〇しかも、この四国・こんぴら地域福祉実践セミナーは、「地域福祉俳句会」は固より、ジャズを聴きながらの交流、あるいは徳島の阿波踊り、高知の「よさこい」踊りの体験等地域文化の野趣〈やしゅ、素朴な味わい〉に富んでおり、参加していてとても楽しい集いである。
〇本稿は『地域福祉の真髄』と題して3つの点に絞って述べてきたが、これ以外でもニーズキャッチの方法、福祉教育を実践する上での資料の作り方、市町村の地域福祉計画づくりの方法、コミュニティソーシャルワークを展開できるアドミニストレーションのあり方等も検討しなければ地域福祉実践は推進できないであろう。しかしながら、それらについては紙幅の関係もあり、後日に委ねたい。
〇また、四国・こんぴら地域福祉実践セミナーの実践の中でも高知市の「こうちこどもファンド」の取り組みや香川県の「香川おもいやりネットワーク事業」(施設経営の社会福祉法人と市町村社会福祉協議会と民生・児童委員との3者がコラボレーションしての生活のしづらさ、生活の困窮者を地域で支える活動)、あるいは本資料には都合により収録できなかったが、愛媛県愛南町のNPO法人なんぐん市場が取り組んでいる、精神障害者の退院支援と地域定着、地域自立生活支援の取り組みの実践、更には想定される南海トラフ地震への対策も考えた災害時支援のソーシャルワーク実践のあり方等これからの地域福祉実践を考える上で大きな示唆を与えてくれる実践についても考察を深めなければならないし、かつそれに関わってこれからの地域福祉研究上の意義、あり方についても論述しなければならないが、これも後日に委ねたい。
〇最後になりましたが、20年間、四国・こんぴら地域福祉実践セミナーの開催にご尽力してくれた日開野博さん(「地域福祉活動指導員養成課程」修了者)、越智和子さん、白方雅博さん(「地域福祉活動指導員養成課程」修了者)、島崎義弘さん、佐和良佳さん、市川千香さん(「地域福祉活動指導員養成課程」修了者)、日下直和(「地域福祉活動指導員養成課程」修了者)さんをはじめ、お一人、お一人のお名前を挙げられないが、四国4県の市町村社会福祉協議会及び県社会福祉協議会の職員の方々、そして日夜、地域福祉実践に傾注されている方々、更には聖カタリナ大学、高知県立大学、松山大学、高知大学、四国学院大学の先生方等本当に多くの人々に支えられ、このセミナーが継続実施されてきたことにこの誌上を借りて改めて厚く御礼を申し上げるとともに、心より感謝を申し上げる次第である。

付記 本稿は2017年6月3~4日に、愛媛県松山市の松山大学で行われた日本地域福祉学会において、地元四国4県の地域福祉実践の発表の一環として編集刊行された『「地域福祉の遍路道」四国・こんぴら地域福祉セミナー資料集』に寄稿したものに一部加筆したものである。

謝辞
本稿は、一般財団法人社会福祉研究所『所報』第93号、2018年3月、1~17ページ所収の大橋謙策先生の玉稿です(行頭の丸印と山括弧内は阪野)。転載をご快諾いただいた大橋先生と社会福祉研究所に衷心より厚くお礼申し上げます。

「民主主義がガラガラ崩れる。私たちは、その下で暮らしているのです」:いま改めて『山びこ学校』を読む―「山びこ」実践の「共同性」「解放制教育実践システム」と「市民福祉教育」を考えるための資料紹介―

〇いま、筆者(阪野)の机の上に4冊の本がある。岩田正美『貧困の戦後史―貧困の「かたち」はどう変わったのか―』(筑摩書房、2017年12月。以下[1])と無着成恭編『山びこ学校―山形県山元村中学校生徒の生活記録―』(青銅社、1951年3月。以下[2])、そして佐野眞一『遠い「山びこ」―無着成恭と教え子たちの四十年―』(文藝春秋、1992年9月。以下[3])、奥平康照『「山びこ学校」のゆくえ―戦後日本の教育思想を見直す―』(学術出版会、2016年2月。以下[4])、がそれである。
〇1945年8月の敗戦(1931年9月の柳条湖事件から始まる15年戦争の終結)によって、すべての国民の生活は「飢餓状態」「絶対的貧困状態」「総スラム化現象」に陥った。[1]は、戦後日本の貧困の「増減」ではなく、その「かたち」の変容を描き出したものである。敗戦直後の貧困の「かたち」は「孤児」「浮浪者」「戦傷病者」「失業者」などであり、現代のそれは「子どもの貧困(ひとり親家庭)」「単身高齢者」「ホームレス」「ネットカフェ難民」などであろう。
〇[1]で岩田はいう。「『自立』支援という政策目標は、個人の怠惰が貧困を生むという、きわめて古典的な理解に基づいている。だが問題は、怠惰ではないのだ。貧困を個人が引き受けることをよしとする社会、そうした人びとをブラック企業も含めた市場が取り込もうとする構図の中では、意欲や希望も次第に空回りし始め、その結果意欲も希望も奪いさられていく。だから問題は、『自立』的であろうとしすぎることであり、それを促す社会の側にある」(324~325ページ)。「貧困の責任を個人が引き受け、貧困を不可視化する市場や企業の日本的な仕組みを変えていくのは困難な道程であろうが、そのような転換なしには、重なり合った貧困はますます社会から遠ざかろうとして、その『かたち』すら明確には見出せなくなるかもしれない。『かたち』が曖昧な貧困の放置は、この社会の不安と分断を不気味に拡大させていくことになるだろう」(326~325ページ)。強く首肯するところである。
〇いま、日本では「民主主義の根幹の破壊」や「教育現場への国家権力の介入」が進んでいる。それは、「公の崩壊」や「政治と行政の歪み」などと指摘される以前の、「主権者は誰か」ということが厳しく問われていることを意味する。日本人はこれまで、厳然と残るタテ社会の人間関係のなかで、真の「主権者」になった経験がないのではないか。そんなことをも思いながら筆者は、何十年ぶりかに、「戦後民主主義教育の金字塔」と評された無着成恭(むちゃくせいきょう、1927年3月~)の[2]を読む気になった。その冒頭をかざるのが、石井敏雄の詩「雪」(1ページ)である。「雪がコンコン降る/人間は/その下で暮しているのです」。山形県の僻地の寒村(貧しい村)で貧困と闘い、たくましく生きた子どもたちの生活綴方、なかでも江口江一の「母の死とその後」(2~18ページ)には胸が締めつけられ、重い痛みを覚える。佐藤藤三郎の「答辞」(岩波文庫版、1995年7月、297~301ページ)には、無着の生活綴方教育実践の神髄に触れる思いがする。
〇ここで、江口の「母の死とその後」と佐藤の「答辞」の全文を紹介しておくことにする。
佐藤藤三郎は江口について述べている。「子供の時に両親を失い、生活の苦労を誰よりも深く知っていた君は、なんとかして、村から貧しさを追放しなければならない、という遠大な夢を持っていた。農業立地に恵まれないわが村をおこすのは、林業以外みちはない、君はひたすらにその信念に生き、すべての行動が、そこにあった」([3]301ページ)。


佐藤藤三郎は無着について述べている。「先生はあの三年間さわがれた自分に耐えきれなくて、本質的に生きるため東京へ飛びだしたんじゃないかという気がするんです。ぼくは、先生がそう正直にいった方がいいと思うな。おれは自分を『耐えられなかった』とはっきりいえる」([3]315ページ)。

〇[2]に併せて、[3]と[4]を読むことにした。[3]は、「教育(教師)と宗教(僧侶)」「栄光と挫折と変節」の間で苦悩した無着と、その後の高度経済成長を底辺から支えた43人の子どもたちの人生の軌跡を描いたルポルタージュである。例えば、無着は、山元中学校に赴任して6年目の1954年4月に退職(「谷間の英雄」の「村からの追放」)し、上京する。1956年4月に明星(みょうじょう)学園に再就職し、27年間にわたって教鞭を執る傍ら、「教育タレント」活動(TBSラジオ「全国こども電話相談室」のレギュラー回答者など)を行った。石井敏雄は、農業や出稼ぎ(土建業)で生計を立て、その後、家族とともに神奈川県に移住している。江口江一は、就職した山元村森林組合で植林活動に腐心するが、32歳になる直前に生涯を終えた。残された長男は6歳、江口が父親を亡くした歳であった。佐藤藤三郎は、農業高校を卒業後、農民と著述家(評論家)として生き、「もの言う農民」(大牟羅良『ものいわぬ農民』岩波新書、1958年2月)として多くの著作を持っている。
〇[4]は、「『山びこ』実践とその思想が、日本の教育実践と理論の質的飛躍の基盤となる可能性をもっていたとするならば、それはなんだったのか。それは戦後教育実践・思想・理論史において、どこにいってしまったのか」(17ページ)を問うものである。それを明らかにするために、「山びこ」実践に対する教育界内外にわたるさまざまな領域の言説を検討し、その議論の跡を丹念に辿る学術書(戦後日本の教育思想史研究)である。
〇[4]で奥平はいう。「子どもたちが生活と労働に組み込まれているという点をテコにして、子どもたちを生活と学習の従属者から、学習と生活の主体者に転換していく教育、それが『山びこ』実践だった」(11ページ)。「『山びこ学校』と生活綴方への情熱は50年代後半になると急速に衰退する。衰退はまず教育研究の領域で、次に教育実践の領域に広がっていった。(中略)どうしてこれほどまでに急速に、『山びこ』実践礼賛から教科・教材研究へと、関心が絞り込まれていったのか(「生活綴方教育の縁辺(えんぺん)化」187ページ)。『山びこ』実践とその生活綴方実践は、今から見れば、一時的に流行した歴史的出来事としておけばいいのか。それとも、やはり戦後教育実践の画期をなすものであり、戦後教育の実践と研究の基本的方向を示す典型だと位置づけ、継承すべき実践だったのか。教育学が理論的賞賛の後に、理論化の努力を中断してしまったように見えるのはどうしてか。賞賛を持続するにせよ、そこから離れるにせよ、戦後実践史における位置づけができずに経過していったのはどうしてか」(8ページ)。これらの指摘は、生活綴方教育実践に今日の福祉教育実践の視点や枠組み、側面や要素が含まれていたのではないかと考える筆者にとって、興味深い。福祉教育の実践と理論のより一層の進展を図る過程で、常に留意すべきところである。民主主義が危機にさらされ、アクティブラーニングをめぐる空疎な議論やコミュニティ・スクールの無批判的な導入が進められている今日において、なおのことである。
〇以下では例によって、[4]から、「市民福祉教育」の実践や研究に「使える」論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。本稿のサブタイトルの意味はここにある。

教育は、歴史的・社会的で具体的な生活課題に立ち向かう子どもに、文化の継承と批判・抵抗・革新(「文化伝達と文化革新」)を促す営みである
教育という営みは疑いもなく子どもを既成文化の枠組みの中に取り込むことである。しかし教育の成功によって既成文化に取り込まれた子どもたちは、他方ではその既成文化の改革者になるように期待されてきた。文化の継承者であることと文化の革新者であることを共に実現する教育という難問、あるいは文化革新の方法を内にもつ文化継承の方法の発見という難題が、教育・学習の思想にはつきまとっている。
子ども時代は既成文化の徹底した受容・継承者に、一人前になったら文化革新者にという常識的な実践的考え方は、それなりに有効に働いているのだが、そこでは継承者から革新者への転換過程が教育学的考察の外に放り出されて、偶然に委ねられている。支配的文化に悪の浸透する危険がある社会においては、文化伝承と文化批判・抵抗・革新との転換あるいは関係の実践は、教育的計画として構想されなければならない。「山びこ」実践の継承に固執したいくつかの教育思想は、文化継承・革新問題にどのように悪銭苦闘したか。(18ページ)
子どもたちは歴史的具体的生活課題に立ち向かいつつある生活主体だという「山びこ」実践の基盤となっていた視点を、どこかに置き忘れてしまった。(335ページ)
教育が社会的統制であることは避けられない。しかし教育のその場において、その「社会」統制を「子ども」・学習者の歴史的生活的主体形成過程に絶えず転換する、そのような実践と制度のあり方を求め続ける教育思想の系譜が生まれていた。その教育思想の系譜を見直す必要がある。(335~336ページ)

「山びこ」実践は、個々の生活問題の主体化と客観化・社会化を通して地域・社会改革を進める、綴方による共同主体形成の取り組みであった
「山びこ」実践では、教師も子どもたちも、自分の生き方・道徳を前面に出して行動し、討論し、教育し、学習し、生活することを課題としていた。
それは、社会改革の既成理論や未来社会構想を鵜呑みにして、自分自身と子どもたちにそのまま受け取らせようとすることではなかった。社会改革=村・地域社会の改革もその未来構想も、無着自身にとって、いまだ未知の探究課題だった。無着のしたことは、生活の現実に子どもたちの目を向けさせ、子どもたちに生活現実が抱えている問題を具体的に発見させ、そして子どもたちと一緒に、村と生活をつくり直していく方法を見つけ出し、その問題解決の実践に参加していくことだった。
したがって「山びこ」実践によって形成されつつあったのは、山村社会の改革を担おうとする教師と子どもたちの共同主体だった。そして生活綴方と文集は、生活現実の認識・分析と村や学級の交流と共同を支え、促進する強力な手段だった。(70ページ)
「山びこ」学級は、教師と生徒が一緒になって、生活と学習の共同体をつくっている。そこには、多様なレベルの主体性をもつ子どもたちと教師がいて、その多様なレベルの主体が集まっていた。それら多様な主体は、無着を頂点とする共同主体となっていた。その共同主体の中で、対話、討論、協同活動・行動・遊びなどを通して、個別の主体が承認され、矛盾を醸成し、一層高いレベルの主体へと発展していく。「山びこ」実践はそういう構造をもっていたと見ることができる。個別の未熟な主体性を認め、受け入れるという指導者無着の姿勢は、子どもたちそれぞれみんなの姿勢と見方になっていった。(74ページ)

「山びこ」実践には、「解放制教育実践システム」として、限定化した「子ども」と「社会」を現実のそれに帰還(螺旋的展開)させる機能が働いていた
どのような教育システムであれ、教育を意図し計画するためには、無限に複雑多様な現実をそのまま取り込むことはできない。一定の視点をもって「子ども」と「社会」とを限定して構成して、教育の要素とせざるを得ない。学校教育がその教育計画において想定する「子ども」と「社会」は、現実の子どもと社会そのままではあり得ない(159ページ)
「山びこ」実践が従来の教育実践と異なるところは、実践それ自体のなかに、絶えず現実に生活する子どもに帰り、その子どもの現実生活に帰って、「子ども」と「社会」を更新し続ける実践システムになっていたことである。現実の子どもと社会への帰還を実現する主要な方法的回路になったのが、「山びこ」実践の生活綴方だった。
現実の子どもと社会に立ち帰って、狭い枠組みの内に切りつめられた「子ども」と「社会」を拡張し、子どもたちが納得する新しい「子ども」と「社会」へと更新しつづける教育システム成立の可能性を「山びこ」実践に見ることができる。そのように、現実の子どもと社会への帰還のルートをもつものを「解放制教育実践システム」と呼び、現実への帰還の制度・方法をもたず内部完結するものを「閉鎖制教育実践システム」と呼んで区別することができる。(159ページ)
(無着は、)「子ども」が現実生活の課題を背負って生活主体として学校で学習し生きることができたこと、それがいかに貴重で特色のある実践システムだったかということ、それを理解していなかった。そのために無着は数年の悪戦苦闘の後に、自身の直観と情熱によって切り拓いた教育実践の解放制システムという特色を放棄し、在来型の閉鎖制システムの範囲の実践に落ち着いてしまった。それは無着だけに生じた選択ではなくて、1950年代後半以降から60年代に続く日本の教育界の多勢に生じた選択でもあった。(160ページ)

教育は、人間形成の生活的総合性と全体目的について自覚的であり、個別領域における妥当性だけを追求する「局部的合理主義」に陥ってはならない
戦後教育学の代表的担い手の一人である宮坂哲文も、生活綴方教育実践への世間の興奮が冷めた後でも、生活綴方教育の意味を高く評価し続けた一人だった。(240ページ)
宮坂は徹底した生活教育論者だった。その「生活」は子どもの具体的で身近な生活から、子どもの所属する集団と全体社会の生活まで、全生活を意味した。その全生活過程が必要とする人間形成の有機的部分として学校の教育・学習・訓練は存在する、と見たのである。現実の子どもと子どもが生きる社会との諸関係の総和が、子どもの人間形成過程である。学校の教育過程はその一部であり、教科指導や生活指導はさらにその一部である。そうした総合的生活連関、言いかえれば人間形成の生活的総合性から切り離されて教育の目的・過程・方法・技術が設定されるとき、局部的合理主義に転落する危険が生れる。生活綴方的教育方法は子どもの具体的生活に即して教育を更新していく道筋をもっている、と宮坂は判断していた。(245~246ページ)
学校教育は歴史的社会的生活実践の一環として位置づけられなければならない。宮坂はこの点を重要なことだと考えていた。生活綴方によって、子どもの学校生活は、具体的現実的生活実践全体の一環としての位置を得ることができる。宮坂が教育実践と理論について強く警戒していたことは、教育が向かうべき全体目的についての自覚的反省を忘却し、実践の個別領域に視野を限定し、そこだけで自足する実践と理論になることだった。(251ページ)

〇日本の戦後教育には、「学習者の主体性を主導的性格とする教育実践と教育理論」([4]335ページ)を求める教育思想の系譜があった。それを駆動したのが無着の「山びこ」実践であり、その理論化に取り組んだのが小川太郎や大田堯(おおたたかし)、勝田守一(かつたしゅいち)、宮坂哲文(みやさかてつふみ)らの教育学者であった。また、「山びこ」実践は、鶴見俊輔(つるみしゅんすけ、哲学者)や上原専禄(うえはらせんろく、歴史学者)、鶴見和子(つるみかずこ、社会学者)らの思想に大きな影響を与えた。
〇奥平は[4]で、小川太郎や鶴見俊輔らの多くの、多面的な言説を丁寧に辿り検討することを通して、「山びこ」実践や生活綴方教育実践の未発の「ゆくえ」を描き出そうとする。国や行政、社会組織やシステムなどを民間企業化し全体主義化することをねらって、政治が教育に介入し、教育内容や方法に対する統制が「ドンドン」進められている(「民主主義がガラガラ崩れる」)今日において、である。
〇ここで思い出すのは、江口俊一の生活綴方「父の思い出」([2]26~31ページ。岩波文庫版、47~52ページ)の次の一節である。「みんな父のかえりを待っているところへ舞いこんだものは、昭和二十二年の秋、『戦死をした』という一片の電報だけだった。私はもちろんお母さんも、弟も、としとったばんちゃんも、若いずんつぁ(若いほうのおじいさん)も、家内中みんなが『ちきしょう』と思った。しかし、誰に『ちきしょう』といえばよいのかわからなかった」([2]28ページ)。涙がこぼれる。とともに、真の「主権者」とその教育についての思いを強くする。
〇最後に、「生活綴り方運動」の問題点や弱点を指摘しながらも、『山びこ学校』の理解者であった鶴見俊輔の次の一節を付記しておくことにする(久野収・鶴見俊輔『現代日本の思想―その五つの渦―』岩波書店、1956年11月)。

戦後の生活綴り方運動の新しい頂点をつくった無着成恭の方法は、マルクス主義的であると多くの都会的評論家から批判されたが、その創案者の無着は、マルクス主義の文献とは別個に、プラグマティズムの文献とも別個に、また生活綴り方運動それ自身の文献からさえも別個に、つまりほとんど何の文献の系統にもよらず、山形県山元村の現地の中学生に社会科を教えるというその実際上の問題を解決する努力の中から、直線的に『山びこ学校』という文集をつくったのである。(94~95ページ)
プラグマティズムというのは、行為(プラグマ)が思想に先んじることを主張する立場であるとするならば、生活綴り方運動は、哲学史上のプラグマティズムよりも、もっと徹底的にプラグマティックな運動の形をもっている。(75ページ)
アメリカのプラグマティズムが、哲学書から無意味な議論をおいだすための、「読み方」の方法としてはじめて工夫されたのにたいして、この日本のプラグマティズムは、自分の生活の真実を描くための「書き方」の理論として出発したため、環境に対する働きかけの面が強い。アメリカのプラグマティズムが〔形而上学的迷路に思想が入るのをふせぐためにつくられた〕防禦的プラグマティズムであるのにたいして、生活綴り方運動は、〔生活改善に目をむけさせる〕攻撃的プラグマティズムとなった。(75~76ページ)

付記(その1)
〇無着の[2](1951年6月25日、5版)から、江口江一の「母の死とその後」の全文を重ねて紹介しておくことにする。

〇佐藤藤三郎の「答辞」の全文を、『山びこ学校(新版・定本)』(百合出版、1956年3月初版。1973年6月、増補改訂版第20刷、257~261ページ)から重ねて紹介しておくことにする。

付記(その2)
〇無着成恭および『山びこ学校』関連年譜―奥平康照[4]317~321ページ―

竹端寛:「枠組み外し」(概念くだき)×「学びの渦」(螺旋的発展)=「無理しない」地域づくり(ガチンコのまちづくり)―そして、そのためのいくつかの「ワークシート」―

〇筆者(阪野)にとって3月は、ここ数年来、地域活動に関する無力感や挫折感、息切れや息苦しさを感じる時期である。「地元」では余計な口を挟(はさ)まず、ルーティンを淡々とこなすことに終始する。さもないと、「出る杭(くい)は打たれる」のではなく「抜かれる」、という自虐的な思いでもある。そんななかで、遅ればせながら、「どうせ」「しかたない」という「諦めの壁」を超える方法論を提示し、「地域づくり」の“風”や“土”を感じさせる、ホッとする本に出合った。竹端寛(たけばた・ひろし)の『枠組み外しの旅―「個性化」が変える福祉社会―』(単著、青灯社、2012年10月。以下[1])と『「無理しない」地域づくりの学校―「私」からはじまるコミュニティワーク―』(編著、ミネルヴァ書房、2017年12月。以下[2])がそれである。勇気が湧いてくる。
〇僭越の極みであるが、腹蔵なく言えば、[1]と[2]の言説には、刺激的かつ魅力的な言葉(「魂の脱植民地化」「箱の外に出る」「エクリチュール〈仕事や肩書きとの同一化〉など)で新味を演出するものの、内容的にはさほど目新しさはない。必ずしもそれを否定するものではないが、「まちづくり」に関する既存の言説の仕立て直し(焼き直し)が散見される。とはいえ、なぜかホッとする。それは、確かで豊かな現場実践に基づいて紡ぎ出された言葉(言葉づかい)であり、言説であるからである。また、「市民福祉教育とまちづくり」の実践や研究に関わってきた筆者にとって、私事的なことどもが回顧されるのは、[1]と[2]には、その細部にわたる支持・不支持についてはひとまず措(お)くとして、再認識や再確認したい(すべき)いくつかの論点や言説が見出されることによるのであろう。
〇「我が事・丸ごと」の地域づくりが“上から”丸投げされ、「まちづくりと福祉教育」の定型化・標準化が推進されている。そういうなかで、本音の「私」発の、「手づくり」の「地域づくりの学校(学び)」という思想(考え方)にはとりわけ留意したい。ただ、[2]の「『無理しない』地域づくりの学校」(岡山県社協)の実践の体系化や理論化を図るためには、いま少し実践の蓄積と実践知の集約が必要とされよう。
〇本稿のタイトルに関して、誤解を恐れずに一言(いちごん)すれば、思考の「枠組み外し(「ときほぐす」)とは「概念くだき」(国分一太郎)のことでもある。「学びの渦」の創発とは、好循環を生み出す思考であり、弁証法的・螺旋的な発展(思考)を意味する。「無理しない」地域づくりは、地域に生きる「私」の内発的動機からはじまる。そのためにはまず、自分と向き合い、自己覚知することが肝要となる。そして、「自分事」として地域にかかわり、地域の課題に取り組むことが求められる。
〇[1]からは、次の一節をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

「枠組み外し」と「個性化」と「社会変革」
「枠組み外し」とは、私達が「当たり前の前提」としている、「変えられない」と思い込んでいる「常識」「暗黙の前提」そのものを疑うことである。「どうせ」「しかたない」とわかった振りをせず、なぜ「しかたない」とされるのか、本当に変容可能性はないのか、どうすれば変える事が可能なのか、を徹底的に考え続けることである。これは、極めて個人的な、時として「反社会的」な営みである。だが、その枠組み外しをし続ける中で、絶対に変わらないと思っていた強固な常識の固い岩盤が崩落し、その下に、別の新たな可能性を見つけ出す瞬間が訪れる。この別の可能性との出会いのことを、ユングは「個性化」と名づけた。この「個性化」を果たす中で、実はあなたや僕自身が、より大きな社会の中で開かれていき、そこから社会が少しずつ変わり始める。つまり、あなたや僕自身の「個性化」を通じて、あなたや僕という一主体が、社会を変える渦の発生源となることも可能なのだ。(17ページ)

「諦め」と「学びの渦」の創発
「学びの渦」とは、そこに関わる人びとが、世界への認識の枠組みを遷移させる学習過程に身を置き続けることを通じて、新たな何かが「創発」されること、である。(60ページ)
ある人が何かに出会い、その出会いを通じて、自らが「知らない」世界があることに気づく。そして、「どうせ」「しかたない」「無理だ」という「諦め」の壁を越え、その「知らない」世界に賭け、身を投じる。その世界固有の文脈や声に耳を傾け続ける中で、自らのこれまでの知のあり様や生き方そのものを、根本的に問い直す。その問い直しの中で、自らが囚われている枠組みの限界に気づき、それをも乗り越えて、かかわりの視点を持ちながら、関係的主体として、出会いを活かして、自らの与えられた使命に気づき、それを実現する努力としての個性化のプロセスを突き進む。その個性化が果たされた結果として、「どうせ」「しかたない」「無理だ」という「諦め」の呪縛の向こう側にある、新たな何かが、気づいたら創発されている。自らが「諦め」から解き放たれる中で渦が創発し、その渦に自分も世界も巻き込み、巻き込まれて、渦が大きく自生していくうちに、結果的に何かが変わっている。
「学びの渦」とは、このような「諦め」や宿命論から解放され、渦が創発し拡大していく「渦的プロセス」である。(213ページ)

「成解」と「正解」の好循環
「成解」とは、ローカルな文脈という「空間限定的」で、かつあるタイミングでのみ適合するという「時間限定的」な制約を持つ概念である。そして、「当面成立可能で受容可能」で、その現場を変えうる力を持つ「解」としての「成解」こそが、福祉現場にも求められる知そのものである。教科書的知識や専門職の偏見・先入観を外在的に押し付けた「正解」(=専門家主導)では、現場が大混乱する可能性は高いが、そのメガネですっきり課題が解決する可能性は、まずない。特定の現場で、当事者の声に基づき、ローカルな文脈に寄り添うという意味で、福祉政策の課題は時間的・空間的文脈に依存的である。(154ページ)
ローカルな「成解」の積み重ねは、他地域での共感を呼び、一定の普遍性を担保するようになると、ボトムアップ的な「正解」になりうる。(156ページ)
局所的な「成解」のユニバーサルな「正解」への昇華プロセスの特徴的な点は、モデルや理念先行型のトップダウン型ではなく、あくまでも当事者の声に基づく(=当事者主体の)仕組みづくりというボトムアップ性である。対人直接支援という福祉政策の領域では、何らかのブレークスルー(現状の打開、突破)は、常に局所的現場の実践解という「成解」の中に、そのヒントが隠されている。そして、それを帰納的に普遍化し、新たな制度やシステムとして「正解」として形作り、現場に演繹的に投げ返す。この「成解」と「正解」の互いのフィードバックと好循環の形成や、「成解」から「正解」を問い直すシステムの構築が問われている。(156~157、158ページ)

〇[2]からは、次の一節(「精神障害者のノーマライゼーションを模索するPSWの5つのステップ」)をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。それを「まちづくり」に引き付けて言えば、「本人」「当事者」を「地域住民」、「支援者」を「コミュニティワーカー」「まちづくりファシリテーター」あるいは「コミュニティデザイナー」(山崎亮)などと置き換える(読み替える)こともできる。

支援者と当事者の相互変容過程の「5つのステップ」
ステップ1:本人の思いに、支援者が真摯に耳を傾ける <当事者とじっくり向き合い、本音を聞く>
ステップ2:その想いや願いを「〇〇だから」と否定せず、それを実現するために、支援者自身が奔走し始める(支援者自身が変わる) <当事者の想いや願いを実現するために、模索を始める → PSW自身が変わってゆく>
ステップ3:自分だけではうまくいかないから、地域の他の人々とつながりをもとめ、個人的ネットワークを作り始める <一人では無理と気づき、問題を共有する仲間を作る → まわりの人々も変わりはじめる>
ステップ4:個々人の連携では解決しない、予算や制度化が必要な問題をクリアするために、個人間連携を組織間連携へと高めていく <仲間の連携がやがて組織や地域を動かし、居住環境や就労、所得などの側面が変わる → 地域の資源が変わっていく>
ステップ5:その組織間連携の中から、当事者の想いや願いを一つ一つ実現し、当事者自身が役割も誇りも持った人間として生き生きとしてくる。(最終的に当事者が変わる) <自信・誇り・役割意識などが当事者の中に芽生えはじめる → 当事者が変わる>(19~20ページ。<>内は[1]63~64ページ)

〇[2]のねらいのひとつは、自分と向き合い(「自己分析」)、まちづくりの「マイプラン」を作成するプロセスや手法について説述することにある(その点において[2]は[1]の実践編であると言える)。[1]と[2]における言説を、若干の管見を加えて、概念図化しておくことにする(図1)。併せて、[2]に紹介されている「シート」(注①)を転載する(資料1~6)。
〇なお、一般論として、「自己分析」の強調や偏向は、「心」や「思い」が重視されることにもなり、自己の思考が内面化し、その相対化や歴史的認識を難しく(危うく)する。まちづくりには、地域・住民の多様で多層な「要求と必要と合意」に関する認識と実践が肝要となる。また、柔軟性を欠いた「(ワーク)シート」は、形骸化や空洞化をもたらし、主体性や自律性を尊重すると言いながら、ひとつの思考や実践のみを推進することにもなる。あえて付記しておきたい。


〇最後に、例によって唐突ながら、[2]から次の2つのフレーズをメモっておくことにする。ひとつは、「福祉の人が『福祉だけ』している時代でも、『福祉の人だけ』が福祉のことをしている時代でもない。福祉を考えるにはまちづくりが、まちづくりを考えるには福祉が欠かせない」(51ページ)、である。「福祉のまちづくり」(1970年代以降)から「福祉でまちづくり」(1990年代以降)、そして2010年代は「福祉はまちづくり」といわれる時代へと移行した、という大橋謙策の考え方にも通底する(山崎亮『縮充する日本』PHP研究所、2016年11月、331、335ページ)。
〇いまひとつは、「福祉現場で働いている人が、新しい空気を取り込むために、職場以外の人たちとつながりを作るならば近くの異業種、遠くの同業種」(121ページ)、である。それは、(近くの)「異質性の協働」×(遠くの)「同質性の協同」=(緊張や葛藤の緩和・軽減による)「共働のまちづくり」の促進、ともいえる。求められるのは、外発的動機による「なれ合い」のまちづくりではなく、内発的動機を重視する「ガチンコ」(真剣勝負)のまちづくりである。それが「私」(「自己変容」)による「無理しない」地域づくりの本質であり、そのための「学び」(人づくり)の厳しさが問われるところでもある。


①「シートは50種類を超える。その中で常用しているのが15種類くらいであろうか。ただ、1か所の講座でその15種類のシートを全て配付するのではなく、講座の難易度や進行度合い、受講生の理解度に合わせて選別することになる」(尾野寛明[2]91ページ)。

補遺
福祉教育プログラムの企画ワークシートを3種類紹介しておくことにする(資料7、8、9)。本稿のねらいのひとつはここにもある。

福祉教育に関する概念図(10+2)―思考をおしゃれに視覚化することのすすめ―

〇筆者(阪野)はかつて、学生に対して、論文を書くにあたっては思考の枠組みと構造に対応させて、「書くべきこと」と「書きたいこと」を峻別し、その関係性を重視しながら「簡潔明瞭」に書くことを求めてきた。しかも、論述の内容や関係性を視覚化した「概念図」の作成を勧めた。“言うは易し行うは難し”であることを承知のうえで、「この章や節で書いていることをひとつの図で示すとどうなりますか」「文章を因数分解し、それを再構成して簡便な図を描いてみて下さい」というふうにである。それは、訴求効果を高めるだけでなく、その作業を通して思考と論理の体系化・構造化や拡大・深化を期待するがゆえである。
〇本稿では、福祉教育に関するいくつかの概念図のうちから、筆者が再認識したい基本的なものを10点選択し、それに筆者が作成した2点を加えて一覧にまとめ、各図の説述文の一節を紹介することにする(抜き書きと要約)。

図1 ボランティア活動の構造/1980年7月
ボランティア活動には、①地域の連帯力・教育力を取り戻し、再創造していくための地域づくりのボランティア活動、②地域に住んでいる自立困難な人を疎外することなく、必要な個別援助を提供し、地域の福祉を支える力となるボランティア活動、③どのような街をつくるのか、障害者や高齢者と共に生きる街をどうつくるのか、という地域福祉の街づくり計画をすすめるボランティア活動、という3つの機能がある。その3つの機能は個人のなかに有機化して内包されている場合もあれば、そうでない場合もあろう。しかし、少なくとも3つの機能は図1のように構造化され、個人もしくはグループあるいは地域のなかに有機的連携をもって存在し、統合した力を発揮できるようになっていることが必要であろう。(55ページ)

出典:大橋謙策『地域福祉の展開と福祉教育』全社協、1986年9月、56ページ。初出は、全社協・ボランティア基本問題研究委員会「ボランティアの基本理念とボランティアセンターの役割―ボランティア活動のあり方とその推進の方向―」1980年7月、である。

図2 “福祉のいとなみ”の各局面に対応した福祉教育の課題/1981年11月

いま一度、“国民の社会福祉への関心と参加の促進”という福祉教育の出発点に立ちかえり、その根底にある教育課題を整理し直してみる必要がある。あちこちから発せられた“課題”群を有機的に関連づけ、福祉教育の理念を構造化する必要がある。そこで、“福祉のいとなみ”、そのあるべき姿、あり方をまずその構成分子にまで分解し、その上で全体構造を描いてみるとともに、その構成分子の一つ一つが要求する教育課題を見い出すという方法を試みた。要するに、“福祉のいとなみ”と、教育課題の両者を分解し、相互に関連する同士を結合した上で、再び全体を俯瞰するという工程を経て、より明確な福祉教育像を見い出そうとしたのである。図2はその作業をまとめたものである。“福祉のいとなみ”と教育課題のかかわり合いの中に“福祉人”(期待される福祉活動を正しく担いうる人間像)の要件が浮かび上がってくる。(9ページ)

出典:全社協・福祉教育研究委員会「福祉教育の理念と実践の構造―福祉教育のあり方とその推進を考える―」(福祉教育研究委員会中間報告)全社協・全国ボランティア活動振興センター、1981年11月、10ページ。

図3 現代社会の社会福祉の諸問題/2000年12月

現代社会においては、人間の関係性(「つながり」)を重視し、「ソーシャル・インクルージョン」の理念を進める必要がある。従来の社会福祉は主たる対象を「貧困」としてきたが、現代においては、①「心身の障害・不安」(社会的ストレス問題、アルコール依存、等)、②「社会的排除や摩擦」(路上死、中国残留孤児、外国人の排除や摩擦、等)、③「社会的孤立や孤独」(孤独死、自殺、家庭内の虐待・暴力、等)といった問題が重複・複合化しており、こうした新しい座標軸をあわせて検討する必要がある。図3の横軸は、貧困と心身の障害・不安に基づく問題を示すが、縦軸はこれを現代社会との関連で見た問題性を示したものである。なお、各問題は、相互に関連しあっているとともに、社会的排除や孤立の強いものほど制度からも漏れやすく、福祉的支援が緊急に必要である。(2、3ページ、「別紙」)。

出典:厚生省社会・援護局「『社会的な援護を要する人々に対する社会福祉のあり方に関する検討会』報告書」2000年12月、「別紙」。

図4 ICFの構成要素間の相互作用/2001年5月

障害に関する国際的な分類としては、これまで、世界保健機関(以下「WHO」)が1980年に「国際疾病分類(ICD)」の補助として発表した「WHO国際障害分類(ICIDH)」が用いられてきた。WHOでは、2001年5月の第54回総会において、その改訂版として「ICF(International Classification of Functioning, Disability and Health)」を採択した。ICIDHは、「障害分類」(「病気/変調」→「機能障害」→「能力障害(能力低下)」→「社会的不利」)として、「障害」のマイナス面を分類するという考え方が中心であった。それに対して、ICFは、「生活機能」というプラス面からみるように視点を転換し、さらに「背景要因」の観点を加えた。「生活機能」は「心身機能・身体構造」「活動」「参加」、「背景要因」は「環境因子」「個人因子」から構成されている。この考え方は、障がい者はもとより、すべての人々の生活活動(仕事、家事、学習・文化・スポーツ活動など)に関する保健・医療・福祉サービスや社会システムなどのあり方の方向性を示唆している。

出典:厚生労働省ホームページ参照。

図5 福祉教育とボランティア学習の構造イメージ/2003年1月

福祉教育とボランティア学習は、双方とも、人権尊重・異文化理解をべースに、共生社会・福祉社会の創造を大目標にかかげる実践である。しかし、総体としてとらえると、学習素材・期待される成果・手法において若干の違いがある。福祉教育は、「社会福祉問題や福祉現場とのつながり」を起点とする。それに対してボランティア学習は、かならずしも社会福祉領域に限らず、より広く、「社会的問題や市民活動とのつながり」を大事にする実践である。また、福祉教育は、より制度的かつ切迫的な現実課題に応えることが期待される実践である。このことから、福祉教育は、ボランティア学習に比べて、よりカリキュラムとして制度化しやすい体質をもっているともいえる。現在、福祉教育とボランティア学習は、ともすると、異なる文脈で実際の教育現場に導入されているが、両者の特徴を総合することが求められている。理念的にも、福祉教育とボランティア学習は相補う関係にある。(36~38ページ)

出典:地域を基盤とした福祉教育・学習活動の推進方策に関する研究開発委員会編『福祉教育ハンドブック』全社協、2003年1月、39ページ。

図6 共生に関する分析枠組 ―理論上のアイデンティティ類型―/2003年3月

社会福祉領域における共生が、差別の克服を課題としているならば、その前提は、マイノリティ(少数者・派)とマジョリティ(多数者・派)の両方を含む、全ての人々の異質性の尊重に他ならない。共生は、マジョリティがマイノリティを同化や統合することではなく、また、マジョリティがマイノリティに譲歩や優遇措置をとることでもない。マイノリティ、マジョリティのいずれもが特権を持たず、対等な立場に立つことが基礎条件である。その上で、異質性との対峙によって生じる衝突や葛藤を強調するだけでなく、相互の認識・理解を通じて、尊重し合い、変容し合うことが求められる。図6は、人々の多様なアイデンティティの状況を把握するための全体的な見取り図(基礎モデル)である。縦軸の変数として「マジョリティ文化への志向」の度合いを取り、横軸の変数として「マイノリティ文化への志向」の度合いを取っている。各象限のタイプは、あくまでもアイデンティティを分析し、共生へのプロセスを検討するために構成したものであり、抽象的な類型である。そのため、実在する人々が、各タイプの特徴と厳密に一致するわけではない。(51、52~53ページ)

出典:寺田貴美代「社会福祉と共生」園田恭一編『社会福祉とコミュニティ―共生・共同・ネットワーク―』東信堂、2003年3月、52ページ。

図7 社協事業における福祉教育の位置づけ/2008年3月

社協の使命は、「地域福祉の推進」である。そして、その主人公は「地域住民」である。社協は「住民主体の原則」を掲げ、住民自身の学びと地域福祉活動の実践を継続的に支援してきた。地域住民が地域福祉を担っていくためには、住民自身が地域の様々な課題に気付き、その解決に向けて自ら取り組んでいく手法を学んでいく、という気づきと学びのプロセスが重要である。そのことを通して、地域課題に取り組む力量を培った住民の層を厚くしていくことが、社協の使命の遂行に直結していくことになる。したがって、社協職員はあらゆる事業をすすめる際に、福祉教育の重要性を意識し、地域住民が主体的に問題解決にむけて働きかけていけるような事業の企画とプログラム展開を考えていく必要がある。 図7は、社協事業における福祉教育の位置づけを示したものである。社協の使命達成のために、福祉教育はなくてはならない実践なのである。(2ページ)。

出典:福祉教育実践研究会『福祉教育の展開と地域福祉活動の推進』(福祉教育推進のためのパンフレット)全社協・全国ボランティア活動振興センター、2008年3月、3ページ。

図8 地域を基盤とした福祉教育の展開と地域福祉活動の推進/2008年3月

図8は、「地域の中での福祉の学び」と「地域福祉活動」の関係を示したものである。(上・下図ともに)上下2つの帯があるが、上の帯は、「個々の住民に着目した、学びと活動実践のプロセス」を示している。地域課題に気づき学ぶことを重視した部分は、より「福祉の学び」( 福祉教育)の性格が濃く、課題解決を重視した実践の部分は「地域福祉活動」としての性格が濃い、ということができる。そして、福祉教育としての機能も地域福祉活動としての性格も、多少の違いはあっても、本来、決して一方が全く失われるという関係ではないとも考えられる。しかし、「学び」と「活動」との関係を重視して、常によりよい相互作用を意識して取り組まなければ、それぞれが形骸化してしまうおそれもある。そう考えると、「福祉の学び」と「地域福祉活動」の「両者の関係の継続や深まりを意図的に支援する社協(職員)の営みが福祉教育である」(下の帯)と、捉えることが大切になってくる。福祉教育にあっては、具体的な地域課題から遊離することなく、地域福祉活動の実践にあたっても学びの機能が発揮されるように、社協としての意識的な働きかけが求められるのである。福祉教育は、福祉教育の担当者のみが実践するものではなく、全ての社協職員もしくは社協組織全体で取り組んでいく基本的かつ根源的なテーマであると言える。(4ページ)「地域福祉は、福祉教育ではじまり、福祉教育でおわる」「社協活動は、福祉教育ではじまり、福祉教育でおわる」のである。

出典:福祉教育実践研究会『福祉教育の展開と地域福祉活動の推進』(福祉教育推進のためのパンフレット)全社協・全国ボランティア活動振興センター、2008年3月、5~6ページ。

図9 福祉教育・ボランティア学習におけるリフレクション―内省から省察、そして創造へ―/2012年11月

リフレクション(reflection)研究の萌芽は、社会学者であるG.H.ミードが提唱したことによる。彼はリフレクションを「自分自身を、距離をおいて他者の立場から見ること」であるとした。内省的な反省とは違い、自分自身をあたかも他人を見るかのように捉え返すことに特徴があると言われる。サービスラーニング研究における「リフレクション」には、多くの先行研究があるが、それらを踏まえて、やや大胆にリフレクションの展開を整理するならば、「反省的思考」→「行為のなかの省察」→「批判的自己省察」→「批判的省察」→「創造的省察」という道筋である。ここでいう創造的省察とは、現時点から過去の行為をふりかえるだけではなく、近未来の自分や社会を創り出すという視点から、リフレクションをしていくことである。同時にリフレクションを通して、近未来を創り出していくという指向性を有している。(42~44ページ)

出典:原田正樹「福祉教育・ボランティア学習における創造的リフレクションの開発」『研究紀要』Vol.20、日本福祉教育・ボランティア学習学会、2012年11月、44、45ページ。なお、筆者(阪野)はとりあえず、「内省(ないせい)」は「かえりみて見直すこと」、「省察(しょうさつ)」は「ふりかえり考えめぐらすこと」と理解しておくことにする。

図10 社会的包摂にむけた福祉教育の展開/2013年3月
(1)好意的な関心をもたせる福祉教育 「無関心」→「関心」へ

「無関心」から「好意的関心」を促していくためには、漠然とした抽象的な対象理解(「障害者問題」など)ではなく、具体的な個人や地域(「その地域に居住する車椅子利用者のAさんの暮らし」など)への関心を促すことが必要である。(13ページ)

(2)「共感・当事者」を育む福祉教育 「同情」→「共感」へ

単なる「同情」から「共感」を促していくためには、「対話」を通して関係性を育みながらお互いに理解をしていくとともに、地域のなかでの意図的な「学びの場づくり」が必要である。(14ページ)

(3)包摂をめざす福祉教育 反感・コンフリクト→共存へ

「反感」「コンフリクト」(葛藤や対立)の状態から「共存」(仲良くはなれなくても排除はしない。適度な距離感を保つ)を促していくためには、反感・コンフリクトへのアセスメント(判断・評価)をして分かりあえる場をつくるとともに、アドボカシー(代弁)や通訳的な役割を担う人材の育成が必要である。(15ページ)

(4)福祉教育の展開によって当事者や地域のエンパワメントを促す

福祉教育の展開によって当事者(問題の直接の関係者)や住民、地域のそれぞれのエンパワント(主体的に問題解決を図ろうとする力の発揮と開発)、すなわち主体形成を促していくことが地域を基盤とした福祉教育の特徴であり、まさに当事者性(問題の直接的な関係者に<なる>こと)を軸とした地域福祉援助の展開である。ワーカー(コミュニティソーシャルワーカー)は地域住民の一人ひとりの意識変容を促しながら、それを地域全体に広げ、最終的には「地域の福祉力」を蓄積していく(コミュニティエンパワメント)ための働きかけが必要である。(16~17ページ)

出典:社会的課題の解決にむけた福祉教育のあり方研究会『社会的包摂にむけた福祉教育―共感を軸にした地域福祉の創造―』全社協・全国ボランティア活動振興センター、2013年3月、13~17ページ。

〇「市民福祉教育」とは、学校教育における福祉教育(学校福祉教育)と地域を基盤とした福祉教育(地域福祉教育)、そして社会福祉従事者や福祉サービス利用者に対する福祉教育について、「市民」の育成という視点・視座から、それぞれの融合を図ることを志向する教育活動である。より具体的には、「市民福祉教育とは、福祉文化の創造や福祉によるまちづくりをめざして日常的な実践や運動に取り組む主体的・自律的な市民の育成を図るための教育活動であり、その内容は、人間の尊厳と自由・平等・友愛の原理に立って、平和・民主主義・人権と、自立・共生・自治の思想のもとに構成され、その実践では、歴史的・社会的存在としての地域の社会福祉問題を素材にし、課題解決のための体験学習と共働活動を方法上の特質とする」と概念規定できる。
〇以下に、「市民福祉教育」と「市民活動」に関する概念図(拙図)を記すことにする。前者(図11)については、例えば、「福祉文化」と「共働」に関して、前述の「『社会的な援護を要する人々に対する社会福祉のあり方に関する検討会』報告書」(図3)から次の一節を想起しておきたい。「福祉文化の創造/社会福祉が人々の生活にかかわるものであることから、人々の生活の拠点である地域社会において、いわゆる『官』と『民』が<共働>してその推進を図る必要があり、新しい『公』の創造を提言した所以でもある。また、社会福祉が人々の生活にかかわるうえで、その人の尊厳を守り、生き方を尊重することが必要であることはいうまでもない。これらのことは、狭い意味での社会福祉の課題にとどまるものではないことから、このようなことに立脚した<福祉文化>が創造され、わが国の中に定着していくことが必要であろう」(10ページ。山括弧は筆者)。
〇後者(図12)に関して言えば、「市民福祉教育」は、その地域に居住する「一般住民」(一般住民という住民はいない)や「地域住民」と呼ばれる「住民」を福祉によるまちづくりの活動や運動に「参加」(林義樹:「参集」→「参与」→「参画」)する「市民」に育てる意図的な教育活動である。そして、まちづくりは「私」からはじまる。

図11 教育・福祉教育・市民福祉教育の関連図/2013年9月
市民福祉教育の概念図 教育は、一般的・基本的には、次の3つの視点から捉えることができる(概念図中の下段の表示)。(1)教育は、人間の「生命」すなわち「生きる力」の育成と向上を図るための活動である。その際の生きる力とは、社会的存在としての自分を、豊かな人間性と他者との相互行為のもとに主体的・自律的に築きあげていくための資質や能力のことをいう。(2)人間が生まれ、生命を終えるまで生き続けること、それは生活することである。教育は、この日常の「生活」における実際的で具体的な「活動」すなわち生活経験を通して、またそれとの関連において現実社会について学ぶための活動である。その生活経験の過程で、知識や技能が獲得され、また活用されることになる。(3)教育は、人間の「生涯」にわたる社会「参加」に基づく成長・発達のための活動である。教育の使命は、生活への準備としてのものから生涯にわたって継続するものへと変化している。要するに、「生命」「生活」「生涯」すなわちライフ(Life)は、人間の成長・発達の過程であり、それはまた教育の過程であるといえる。

出典:「市民福祉教育の定義と概念図」『本ブログ/ディスカッションルーム』2013年9月2日投稿。

図12 市民活動の4要素/2018年2月

「活動」は、お金を得るためにやる「労働」ではなく、モノとして残る価値をつくるための「仕事」でもなく、自ら主体的にやりたいと感じ、そこに他者が何らかの価値を見出せる行為をいう。「労働」や「仕事」ではなく、「活動」に重きが置かれてこそ、豊かな社会はつくられる(ハンナ・アレント)。「市民」は、「活動」する人たち、もしくは「活動」する意識を持った人たちをいう。広い意味で「一般の人」という場合は「住民」という言葉を使うことにしたい。その上で、地域をよくするための心理的介入を定義すると、それは「住民」を「市民」に変えていく活動ということになろう。(61~62ページ)

出典:山崎亮『縮充する日本―「参加」が創り出す人口減少社会の希望―』PHP研究所、2016年11月、145ページの図「活動の原動力となる3つの輪」を参考に筆者が作成した。山崎の言説を援用すれば、「4つの輪が重なるところに、縮充の時代に求められる『参加』のヒントがある」(146ページ)ということになろうか。なお、山崎の図に似たものに、永井美佳「市民活動の事業化」大阪ボランティア協会編『テキスト 市民活動論―ボランティア・NPOの実践から学ぶ―』大阪ボランティア協会、2011年9月、77ページの図「企画立案の3要素」がある。

(注)以上、2021年2月17日一部修正(以下の図3・6・7・9・12の横に表示されていた文章を削除)。

 

(注)以下、2021年2月18日修正(図の解像度を考慮して、2018年2月7日投稿の文章をそのまま表示)。

〇筆者(阪野)はかつて、学生に対して、論文を書くにあたっては思考の枠組みと構造に対応させて、「書くべきこと」と「書きたいこと」を峻別し、その関係性を重視しながら「簡潔明瞭」に書くことを求めてきた。しかも、論述の内容や関係性を視覚化した「概念図」の作成を勧めた。“言うは易し行うは難し”であることを承知のうえで、「この章や節で書いていることをひとつの図で示すとどうなりますか」「文章を因数分解し、それを再構成して簡便な図を描いてみて下さい」というふうにである。それは、訴求効果を高めるだけでなく、その作業を通して思考と論理の体系化・構造化や拡大・深化を期待するがゆえである。
〇本稿では、福祉教育に関するいくつかの概念図のうちから、筆者が再認識したい基本的なものを10点選択し、それに筆者が作成した2点を加えて一覧にまとめ、各図の説述文の一節を紹介することにする(抜き書きと要約)。

図1 ボランティア活動の構造/1980年7月
ボランティア活動には、①地域の連帯力・教育力を取り戻し、再創造していくための地域づくりのボランティア活動、②地域に住んでいる自立困難な人を疎外することなく、必要な個別援助を提供し、地域の福祉を支える力となるボランティア活動、③どのような街をつくるのか、障害者や高齢者と共に生きる街をどうつくるのか、という地域福祉の街づくり計画をすすめるボランティア活動、という3つの機能がある。その3つの機能は個人のなかに有機化して内包されている場合もあれば、そうでない場合もあろう。しかし、少なくとも3つの機能は図1のように構造化され、個人もしくはグループあるいは地域のなかに有機的連携をもって存在し、統合した力を発揮できるようになっていることが必要であろう。(55ページ)

出典:大橋謙策『地域福祉の展開と福祉教育』全社協、1986年9月、56ページ。初出は、全社協・ボランティア基本問題研究委員会「ボランティアの基本理念とボランティアセンターの役割―ボランティア活動のあり方とその推進の方向―」1980年7月、である。

図2 “福祉のいとなみ”の各局面に対応した福祉教育の課題/1981年11月

いま一度、“国民の社会福祉への関心と参加の促進”という福祉教育の出発点に立ちかえり、その根底にある教育課題を整理し直してみる必要がある。あちこちから発せられた“課題”群を有機的に関連づけ、福祉教育の理念を構造化する必要がある。そこで、“福祉のいとなみ”、そのあるべき姿、あり方をまずその構成分子にまで分解し、その上で全体構造を描いてみるとともに、その構成分子の一つ一つが要求する教育課題を見い出すという方法を試みた。要するに、“福祉のいとなみ”と、教育課題の両者を分解し、相互に関連する同士を結合した上で、再び全体を俯瞰するという工程を経て、より明確な福祉教育像を見い出そうとしたのである。図2はその作業をまとめたものである。“福祉のいとなみ”と教育課題のかかわり合いの中に“福祉人”(期待される福祉活動を正しく担いうる人間像)の要件が浮かび上がってくる。(9ページ)

出典:全社協・福祉教育研究委員会「福祉教育の理念と実践の構造―福祉教育のあり方とその推進を考える―」(福祉教育研究委員会中間報告)全社協・全国ボランティア活動振興センター、1981年11月、10ページ。

図3 現代社会の社会福祉の諸問題/2000年12月

現代社会においては、人間の関係性(「つながり」)を重視し、「ソーシャル・インクルージョン」の理念を進める必要がある。従来の社会福祉は主たる対象を「貧困」としてきたが、現代においては、①「心身の障害・不安」(社会的ストレス問題、アルコール依存、等)、②「社会的排除や摩擦」(路上死、中国残留孤児、外国人の排除や摩擦、等)、③「社会的孤立や孤独」(孤独死、自殺、家庭内の虐待・暴力、等)といった問題が重複・複合化しており、こうした新しい座標軸をあわせて検討する必要がある。図3の横軸は、貧困と心身の障害・不安に基づく問題を示すが、縦軸はこれを現代社会との関連で見た問題性を示したものである。なお、各問題は、相互に関連しあっているとともに、社会的排除や孤立の強いものほど制度からも漏れやすく、福祉的支援が緊急に必要である。(2、3ページ、「別紙」)。

出典:厚生省社会・援護局「『社会的な援護を要する人々に対する社会福祉のあり方に関する検討会』報告書」2000年12月、「別紙」。

図4 ICFの構成要素間の相互作用/2001年5月

障害に関する国際的な分類としては、これまで、世界保健機関(以下「WHO」)が1980年に「国際疾病分類(ICD)」の補助として発表した「WHO国際障害分類(ICIDH)」が用いられてきた。WHOでは、2001年5月の第54回総会において、その改訂版として「ICF(International Classification of Functioning, Disability and Health)」を採択した。ICIDHは、「障害分類」(「病気/変調」→「機能障害」→「能力障害(能力低下)」→「社会的不利」)として、「障害」のマイナス面を分類するという考え方が中心であった。それに対して、ICFは、「生活機能」というプラス面からみるように視点を転換し、さらに「背景要因」の観点を加えた。「生活機能」は「心身機能・身体構造」「活動」「参加」、「背景要因」は「環境因子」「個人因子」から構成されている。この考え方は、障がい者はもとより、すべての人々の生活活動(仕事、家事、学習・文化・スポーツ活動など)に関する保健・医療・福祉サービスや社会システムなどのあり方の方向性を示唆している。

出典:厚生労働省ホームページ参照。

図5 福祉教育とボランティア学習の構造イメージ/2003年1月

福祉教育とボランティア学習は、双方とも、人権尊重・異文化理解をべースに、共生社会・福祉社会の創造を大目標にかかげる実践である。しかし、総体としてとらえると、学習素材・期待される成果・手法において若干の違いがある。福祉教育は、「社会福祉問題や福祉現場とのつながり」を起点とする。それに対してボランティア学習は、かならずしも社会福祉領域に限らず、より広く、「社会的問題や市民活動とのつながり」を大事にする実践である。また、福祉教育は、より制度的かつ切迫的な現実課題に応えることが期待される実践である。このことから、福祉教育は、ボランティア学習に比べて、よりカリキュラムとして制度化しやすい体質をもっているともいえる。現在、福祉教育とボランティア学習は、ともすると、異なる文脈で実際の教育現場に導入されているが、両者の特徴を総合することが求められている。理念的にも、福祉教育とボランティア学習は相補う関係にある。(36~38ページ)

出典:地域を基盤とした福祉教育・学習活動の推進方策に関する研究開発委員会編『福祉教育ハンドブック』全社協、2003年1月、39ページ。

図6 共生に関する分析枠組 ―理論上のアイデンティティ類型―/2003年3月

社会福祉領域における共生が、差別の克服を課題としているならば、その前提は、マイノリティ(少数者・派)とマジョリティ(多数者・派)の両方を含む、全ての人々の異質性の尊重に他ならない。共生は、マジョリティがマイノリティを同化や統合することではなく、また、マジョリティがマイノリティに譲歩や優遇措置をとることでもない。マイノリティ、マジョリティのいずれもが特権を持たず、対等な立場に立つことが基礎条件である。その上で、異質性との対峙によって生じる衝突や葛藤を強調するだけでなく、相互の認識・理解を通じて、尊重し合い、変容し合うことが求められる。図6は、人々の多様なアイデンティティの状況を把握するための全体的な見取り図(基礎モデル)である。縦軸の変数として「マジョリティ文化への志向」の度合いを取り、横軸の変数として「マイノリティ文化への志向」の度合いを取っている。各象限のタイプは、あくまでもアイデンティティを分析し、共生へのプロセスを検討するために構成したものであり、抽象的な類型である。そのため、実在する人々が、各タイプの特徴と厳密に一致するわけではない。(51、52~53ページ)

出典:寺田貴美代「社会福祉と共生」園田恭一編『社会福祉とコミュニティ―共生・共同・ネットワーク―』東信堂、2003年3月、52ページ。

図7 社協事業における福祉教育の位置づけ/2008年3月

社協の使命は、「地域福祉の推進」である。そして、その主人公は「地域住民」である。社協は「住民主体の原則」を掲げ、住民自身の学びと地域福祉活動の実践を継続的に支援してきた。地域住民が地域福祉を担っていくためには、住民自身が地域の様々な課題に気付き、その解決に向けて自ら取り組んでいく手法を学んでいく、という気づきと学びのプロセスが重要である。そのことを通して、地域課題に取り組む力量を培った住民の層を厚くしていくことが、社協の使命の遂行に直結していくことになる。したがって、社協職員はあらゆる事業をすすめる際に、福祉教育の重要性を意識し、地域住民が主体的に問題解決にむけて働きかけていけるような事業の企画とプログラム展開を考えていく必要がある。 図7は、社協事業における福祉教育の位置づけを示したものである。社協の使命達成のために、福祉教育はなくてはならない実践なのである。(2ページ)。

出典:福祉教育実践研究会『福祉教育の展開と地域福祉活動の推進』(福祉教育推進のためのパンフレット)全社協・全国ボランティア活動振興センター、2008年3月、3ページ。

図8 地域を基盤とした福祉教育の展開と地域福祉活動の推進/2008年3月

図8は、「地域の中での福祉の学び」と「地域福祉活動」の関係を示したものである。(上・下図ともに)上下2つの帯があるが、上の帯は、「個々の住民に着目した、学びと活動実践のプロセス」を示している。地域課題に気づき学ぶことを重視した部分は、より「福祉の学び」( 福祉教育)の性格が濃く、課題解決を重視した実践の部分は「地域福祉活動」としての性格が濃い、ということができる。そして、福祉教育としての機能も地域福祉活動としての性格も、多少の違いはあっても、本来、決して一方が全く失われるという関係ではないとも考えられる。しかし、「学び」と「活動」との関係を重視して、常によりよい相互作用を意識して取り組まなければ、それぞれが形骸化してしまうおそれもある。そう考えると、「福祉の学び」と「地域福祉活動」の「両者の関係の継続や深まりを意図的に支援する社協(職員)の営みが福祉教育である」(下の帯)と、捉えることが大切になってくる。福祉教育にあっては、具体的な地域課題から遊離することなく、地域福祉活動の実践にあたっても学びの機能が発揮されるように、社協としての意識的な働きかけが求められるのである。福祉教育は、福祉教育の担当者のみが実践するものではなく、全ての社協職員もしくは社協組織全体で取り組んでいく基本的かつ根源的なテーマであると言える。(4ページ)「地域福祉は、福祉教育ではじまり、福祉教育でおわる」「社協活動は、福祉教育ではじまり、福祉教育でおわる」のである。

出典:福祉教育実践研究会『福祉教育の展開と地域福祉活動の推進』(福祉教育推進のためのパンフレット)全社協・全国ボランティア活動振興センター、2008年3月、5~6ページ。

図9 福祉教育・ボランティア学習におけるリフレクション―内省から省察、そして創造へ―/2012年11月

リフレクション(reflection)研究の萌芽は、社会学者であるG.H.ミードが提唱したことによる。彼はリフレクションを「自分自身を、距離をおいて他者の立場から見ること」であるとした。内省的な反省とは違い、自分自身をあたかも他人を見るかのように捉え返すことに特徴があると言われる。サービスラーニング研究における「リフレクション」には、多くの先行研究があるが、それらを踏まえて、やや大胆にリフレクションの展開を整理するならば、「反省的思考」→「行為のなかの省察」→「批判的自己省察」→「批判的省察」→「創造的省察」という道筋である。ここでいう創造的省察とは、現時点から過去の行為をふりかえるだけではなく、近未来の自分や社会を創り出すという視点から、リフレクションをしていくことである。同時にリフレクションを通して、近未来を創り出していくという指向性を有している。(42~44ページ)

出典:原田正樹「福祉教育・ボランティア学習における創造的リフレクションの開発」『研究紀要』Vol.20、日本福祉教育・ボランティア学習学会、2012年11月、44、45ページ。なお、筆者(阪野)はとりあえず、「内省(ないせい)」は「かえりみて見直すこと」、「省察(しょうさつ)」は「ふりかえり考えめぐらすこと」と理解しておくことにする。

図10 社会的包摂にむけた福祉教育の展開/2013年3月
(1)好意的な関心をもたせる福祉教育 「無関心」→「関心」へ

「無関心」から「好意的関心」を促していくためには、漠然とした抽象的な対象理解(「障害者問題」など)ではなく、具体的な個人や地域(「その地域に居住する車椅子利用者のAさんの暮らし」など)への関心を促すことが必要である。(13ページ)

(2)「共感・当事者」を育む福祉教育 「同情」→「共感」へ

単なる「同情」から「共感」を促していくためには、「対話」を通して関係性を育みながらお互いに理解をしていくとともに、地域のなかでの意図的な「学びの場づくり」が必要である。(14ページ)

(3)包摂をめざす福祉教育 反感・コンフリクト→共存へ

「反感」「コンフリクト」(葛藤や対立)の状態から「共存」(仲良くはなれなくても排除はしない。適度な距離感を保つ)を促していくためには、反感・コンフリクトへのアセスメント(判断・評価)をして分かりあえる場をつくるとともに、アドボカシー(代弁)や通訳的な役割を担う人材の育成が必要である。(15ページ)

(4)福祉教育の展開によって当事者や地域のエンパワメントを促す

福祉教育の展開によって当事者(問題の直接の関係者)や住民、地域のそれぞれのエンパワント(主体的に問題解決を図ろうとする力の発揮と開発)、すなわち主体形成を促していくことが地域を基盤とした福祉教育の特徴であり、まさに当事者性(問題の直接的な関係者に<なる>こと)を軸とした地域福祉援助の展開である。ワーカー(コミュニティソーシャルワーカー)は地域住民の一人ひとりの意識変容を促しながら、それを地域全体に広げ、最終的には「地域の福祉力」を蓄積していく(コミュニティエンパワメント)ための働きかけが必要である。(16~17ページ)

出典:社会的課題の解決にむけた福祉教育のあり方研究会『社会的包摂にむけた福祉教育―共感を軸にした地域福祉の創造―』全社協・全国ボランティア活動振興センター、2013年3月、13~17ページ。

〇「市民福祉教育」とは、学校教育における福祉教育(学校福祉教育)と地域を基盤とした福祉教育(地域福祉教育)、そして社会福祉従事者や福祉サービス利用者に対する福祉教育について、「市民」の育成という視点・視座から、それぞれの融合を図ることを志向する教育活動である。より具体的には、「市民福祉教育とは、福祉文化の創造や福祉によるまちづくりをめざして日常的な実践や運動に取り組む主体的・自律的な市民の育成を図るための教育活動であり、その内容は、人間の尊厳と自由・平等・友愛の原理に立って、平和・民主主義・人権と、自立・共生・自治の思想のもとに構成され、その実践では、歴史的・社会的存在としての地域の社会福祉問題を素材にし、課題解決のための体験学習と共働活動を方法上の特質とする」と概念規定できる。
〇以下に、「市民福祉教育」と「市民活動」に関する概念図(拙図)を記すことにする。前者(図11)については、例えば、「福祉文化」と「共働」に関して、前述の「『社会的な援護を要する人々に対する社会福祉のあり方に関する検討会』報告書」(図3)から次の一節を想起しておきたい。「福祉文化の創造/社会福祉が人々の生活にかかわるものであることから、人々の生活の拠点である地域社会において、いわゆる『官』と『民』が<共働>してその推進を図る必要があり、新しい『公』の創造を提言した所以でもある。また、社会福祉が人々の生活にかかわるうえで、その人の尊厳を守り、生き方を尊重することが必要であることはいうまでもない。これらのことは、狭い意味での社会福祉の課題にとどまるものではないことから、このようなことに立脚した<福祉文化>が創造され、わが国の中に定着していくことが必要であろう」(10ページ。山括弧は筆者)。
〇後者(図12)に関して言えば、「市民福祉教育」は、その地域に居住する「一般住民」(一般住民という住民はいない)や「地域住民」と呼ばれる「住民」を福祉によるまちづくりの活動や運動に「参加」(林義樹:「参集」→「参与」→「参画」)する「市民」に育てる意図的な教育活動である。そして、まちづくりは「私」からはじまる。

図11 教育・福祉教育・市民福祉教育の関連図/2013年9月
市民福祉教育の概念図 教育は、一般的・基本的には、次の3つの視点から捉えることができる(概念図中の下段の表示)。(1)教育は、人間の「生命」すなわち「生きる力」の育成と向上を図るための活動である。その際の生きる力とは、社会的存在としての自分を、豊かな人間性と他者との相互行為のもとに主体的・自律的に築きあげていくための資質や能力のことをいう。(2)人間が生まれ、生命を終えるまで生き続けること、それは生活することである。教育は、この日常の「生活」における実際的で具体的な「活動」すなわち生活経験を通して、またそれとの関連において現実社会について学ぶための活動である。その生活経験の過程で、知識や技能が獲得され、また活用されることになる。(3)教育は、人間の「生涯」にわたる社会「参加」に基づく成長・発達のための活動である。教育の使命は、生活への準備としてのものから生涯にわたって継続するものへと変化している。要するに、「生命」「生活」「生涯」すなわちライフ(Life)は、人間の成長・発達の過程であり、それはまた教育の過程であるといえる。

出典:「市民福祉教育の定義と概念図」『本ブログ/ディスカッションルーム』2013年9月2日投稿。

図12 市民活動の4要素/2018年2月

「活動」は、お金を得るためにやる「労働」ではなく、モノとして残る価値をつくるための「仕事」でもなく、自ら主体的にやりたいと感じ、そこに他者が何らかの価値を見出せる行為をいう。「労働」や「仕事」ではなく、「活動」に重きが置かれてこそ、豊かな社会はつくられる(ハンナ・アレント)。「市民」は、「活動」する人たち、もしくは「活動」する意識を持った人たちをいう。広い意味で「一般の人」という場合は「住民」という言葉を使うことにしたい。その上で、地域をよくするための心理的介入を定義すると、それは「住民」を「市民」に変えていく活動ということになろう。(61~62ページ)

出典:山崎亮『縮充する日本―「参加」が創り出す人口減少社会の希望―』PHP研究所、2016年11月、145ページの図「活動の原動力となる3つの輪」を参考に筆者が作成した。山崎の言説を援用すれば、「4つの輪が重なるところに、縮充の時代に求められる『参加』のヒントがある」(146ページ)ということになろうか。なお、山崎の図に似たものに、永井美佳「市民活動の事業化」大阪ボランティア協会編『テキスト 市民活動論―ボランティア・NPOの実践から学ぶ―』大阪ボランティア協会、2011年9月、77ページの図「企画立案の3要素」がある。

引き続き「福祉教育」してもいいですか?―“福祉を哲学する”はじめの一歩:「世の光」(糸賀一雄)と「互酬性」(阿部志郎)、そして「博愛」(大橋謙策)/補遺:大橋謙策「最終講義」レジュメ(2010年3月13日)―

現在社会福祉の社会科学は混迷のうちにその理論的責任を放棄しがちである。それに代わって社会福祉の「価値」は一人歩きをし、ある種の無政府状態にある。「福祉の心」等が氾濫し、ソフトな精神が説かれている。戦争前夜や世紀末に、そのような精神は「慰籍」(いしゃ:なぐさめいたわること)にこそなれ、反福祉の対抗力になり得なかったことを、15年戦争で経験したことである。(吉田久一『日本の社会福祉思想』勁草書房、1994年10月、まえがき、ⅲページ)

行政は「思想」や「理論」ではなく、「思想」や「理論」に対して、行政は「禁欲」的でなければならない。社会福祉にあっては、むしろ行政と「思想」は「教育」も含めて、緊張関係が望ましい。(吉田久一『同上書』214ページ)

〇暮れから正月にかけて筆者(阪野)が読んだ本に、三谷尚澄著『哲学しててもいいですか? ―文系学部不要論へのささやかな反論―』(ナカニシヤ出版、2017年3月。以下[1])と広井良典編著『福祉の哲学とは何か―ポスト成長時代の幸福・価値・社会構想―』(ミネルヴァ書房、2017年3月。以下[2])がある。
〇文部科学省によって、「大学改革」という名のもとで、教員養成系・人文社会科学系「学問」の「不要論」がうたわれている。また、「学問」ではなく、「実践力」の養成に特化した職業訓練機関(「専門職大学」)や資格取得機関への転換が図られている。それは、「社会」的要請によるものであるというが、その際の「社会」は(政治に大きな影響力を持つ)「財界」のことを意味する。
〇[1]で三谷はいう。「頼るもののない時代のただなかに、拠って立つべき足場をもたないままに放り出された人間は、どうやって日々をしのいでいけばよいのだろう。(中略)そんなときだからこそ、それほど立派でも力強くもない人間にも届くことのできる倫理の言葉を探しておく必要があるのではないか。そして、その点において、(中略)哲学と呼ばれてきた知的営みがきわめて大きな知的貢献を行なうことができるのではないか」(81~82ページ)。「論理的・批判的に思考する」能力と「箱の外に出て思考する」能力(「異質なもの」や「自分とは違った考え方や意見」に対する「感受性」や「耐性」。さまざまな状況に柔軟に対応するために必要とされる「器量」)の育成(120、151ページ)、「市民的器量(civic virtue)」「哲学の器量を備えた市民」の育成(105、195ページ)などを目的とする教育がこの国の大学から姿を消すことがあってはならない、と。
〇政治と社会の右傾化、福祉の私事化と教育の国家統制が進んでいる。こうした現在の社会情勢のなかで、「いつか来た道」論が唱導される。しかし、その「危機」は、「時代の繰り返し」であり、歴史の繰り返しではない(吉田久一『日本社会事業思想小史―社会事業の成立と挫折―』勁草書房、2015年10月、はしがき、ⅴページ)。新しい歴史をつくるのは、草の根の民主主義であり、歴史的で社会的な内容を失うことのない「市民」による組織的・体系的な活動や運動である。
〇[2]の広井にあっては、「ポスト成長時代」の日本社会は、(a)政府の借金の際限なき累積と将来世代へのツケ回し、(b)人々の「社会的孤立」の高さ(「無言社会」)、の“危機”状況にある。と同時に、「新たなつながり」やネットワーク化を志向する動き(「関係性の進化」「関係性の組み換え」)がみられる。このような状況においてこそ、「人々の行動や判断の導きの糸となるような、新たな価値原理や社会構想が求められている」。いま、「福祉の哲学とは何か」が問われるところである(まえがき、ⅱ~ⅲページ)。なお、[2]では、「福祉」を積極的ないしポジティブな営みとして捉え、「幸福」や「公共性」「宗教」「コミュニティ」「生命」などとの関わりについて多面的・多角的な思考を展開している。それは、これまでの「福祉思想」や「福祉思想研究」とは異なる「新たな視点」からのアプローチであり、「独自の考察と構想」を提起するものでもある。付記しておく。
〇もはや旧聞に属するが、「福祉の思想や哲学」といえば筆者は先ず、「この子らを世の光に」「発達保障」の糸賀一雄と、「ボランティアの互酬性」「コミュニティ重視志向の地域福祉」の阿部志郎を思う。糸賀は、「福祉の実現は、その根底に、福祉の思想をもっている。実現の過程でその思想は常に吟味(ぎんみ)される。(中略)福祉の思想は行動的な実践のなかで、常に吟味され、育つのである」(糸賀一雄『福祉の思想』日本放送出版協会、1968年2月、64ページ)という。阿部は、「福祉の哲学は、机上の理屈や観念ではなく、ニードに直面する人の苦しみを共有し、悩みを分ちあいながら、その人びとのもつ「呻き」(うめき)への応答として深い思索を生みだす努力であるところに特徴がある」(阿部志郎『福祉の哲学』誠信書房、1997年4月、9ページ)と主張する。二人はともに「実践的思想家」であり、それは、先駆的な現場実践(キリスト教福祉実践)を通して形成された幅の広い、奥行きの深い「福祉の思想」であり「福祉の哲学」である。なお、周知のように、「世の光」とは新約聖書(「マタイによる福音書」)の「山上の垂訓(説教)」のひとつである(「あなたがたは世の光である」)。「互酬」とは「贈与と返礼」の社会的相互行為を意味する。
〇本稿では、[1]と[2]を読んだことをきっかけに、糸賀の「この子らを世の光に」という言葉と阿部の「互酬と地域福祉」についての言説を改めて、『福祉の思想』と『福祉の哲学』から確認することにする(抜き書きと要約)。三谷の[1]のタイトルをもじって言えば、「引き続き『福祉教育』してもいいですか?」、そのための「再確認」である。その意図は、旧聞を尋繹(じんえき)して新しきを知る(創る)、にある。

糸賀一雄:「この子らを世の光に」
(精神薄弱児の教育は)彼らについて何を知っているか、彼らにたいして、また、彼らのために何をしてやったかということが問われるのでなく、彼らとともにどういう生きかたをしたかが問われてくるような世界である。(51ページ)

この子らはどんなに重い障害をもっていても、だれととりかえることもできない個性的な自己実現をしているものなのである。人間とうまれて、その人なりの人間となっていくのである。その自己実現こそが創造であり、生産である。私たちのねがいは、重症な障害をもったこの子たちも、立派な生産者であるということを、認めあえる社会をつくろうということである。「この子らに世の光を」あててやろうというあわれみの政策を求めているのではなく、この子らが自ら輝く素材そのものであるから、いよいよみがきをかけて輝かそうというのである。「この子らを世の光に」である。この子らが、うまれながらにしてもっている人格発達の権利を徹底的に保障せねばならぬということなのである。障害をもった子どもたちは、その障害と戦い、障害を克服していく努力のなかに、その人格がゆたかに伸びていく。3才の精神発達でとまっているように見えるひとも、その3才という発達段階の中味が無限に豊かに充実していく生きかたがあると思う。生涯かかっても、その3才を充実させていく値打ちがじゅうぶんにあると思う。(177ページ)

この子たちは、自己実現という生産活動ばかりではなく、もうひとつ別な新しい生産活動をしている。心身障害をもつすべてのひとたちの生産的生活がそこにあるというそのことによって、社会が開眼され、思想の変革までが生産されようとしているということである。ひとがひとを理解するということの深い意味を探究し、その価値にめざめ、理解を中核とした社会形成の理念をめざすならば、それはどんなにありがたいことであろうか。(178ページ)

阿部志郎:「互酬」と地域福祉
哲学という言葉は、「知恵の探求」という意味である。哲学は、答えそのものによってよりも、むしろ問いによって性格づけられる。哲学は学問の一分野であるが、「学問」が「問いを学ぶ」「問われて学ぶ」という字で構成されているのは興味深い。(9ページ)

福祉の哲学とは、福祉とはなにか、福祉はなにを目的とするか、さらに人間の生きる意味はなにか、その生の営みにとって福祉の果たすべき役割はなにかを、根源的かつ総体的に理解することであるが、それには、福祉が投げかける問いを学び、考えることである。それはニードの発する問いかけに耳を傾けることからはじまる。(9ページ)

互酬は、親族・地域共同体を維持するための不可欠な行為で、今でもアジアの共同体は互酬で成り立っている。戦後の日本社会では、共同体は封建遺制として否定され崩壊の途をたどったのに、目標とするコミュニティは未だつくられていない。でも、互酬は生き続ける。香典、香典返し、結婚祝い金、引き出物、中元、歳暮の風習は、ヨーロッパ社会ではまったくみられない。しかし、共同体を維持する機能としての互酬は失われ、かつアジアの互酬を支える宗教性も日本社会にはないのが実態だ。(92ページ)

互酬制と近代型福祉、さらに伝統的ボランティアと有償型サービスとのあいだに深いギャップがあり、ときおり、雑音が聞こえぬわけでもない。アジアの共同体のなかにたくましく息づいている互酬制―分かち合いの相互扶助―に今ひとたび目を向け、そして日本の地域社会の現実を見直したうえで、自立と連帯の福祉社会を創出する発想に切り換えるのが望ましいのではないか。時代とともにニードが変わるから対応が多様化するのは当然である。その態様はどうであれ、住民が福祉を学習し、理解し、実践に参加するまちづくりを推進する必要を痛感せずにはいられない。(126~127ページ)

〇「福祉の思想や哲学」の探究は、実証的・実践的なものでなければならない。それによってその思想や哲学は広め、深められ、また新たな思想や哲学の形成が図られることになる。ここでは、筆者の姿勢が評論家的なそれであることを承知のうえで、糸賀の「この子らを世の光に」に対して伊藤隆二の「この子らは世の光なり」(『この子らは世の光なり』樹心社、1988年9月)、阿部の「ボランティアの互酬性」に対して仁平典宏の「贈与のパラドックス」(『「ボランティア」の誕生と終焉―<贈与のパラドックス>の知識社会学―』名古屋大学出版会、2011年2月)についての言説をメモっておくことにする(抜き書きと要約)。

伊藤隆二:「この子らは世の光なり」
糸賀一雄氏は戦後、最初の公立福祉施設「近江学園」をつくり、この子らの教育福祉に邁進(まいしん)し、ついに「この子らに世の光を」を「この子らを世の光に」に転回させたのである。「この子らを」というとき、われ(または、われわれ)は主体で、「この子ら」は客体になる。主体が客体に働きかけ(あるいは操作し)、「世の光に」まで高めてやるのだという発想には、ある種の傲慢(ごうまん)さがあるし、「この子ら」の本質への誤解がある。また、「この子らを世の光に」というとき、まだこの子らが「世の光」であることを認めていない。そこで教育し、きたえ、みがきをかけて、やっと世の光になりうるのだという見方である。わたくしは、この子らと長く深くかかわっているが、この子らは生まれながらにして「世の光」だと知った。正確にいうと、生まれたときから死ぬときまで、いや死んでもなお世の光でありつづける。「この子らは(そのままで)世の光である」。「この子ら」は主体であって、世を照らしつづけているのである。(223~224ページ)

仁平典宏:「贈与のパラドックス」
阿部志郎も「互酬性」を基盤に据えたボランティア論の担い手の一人である。阿部は1973年の時点では、ボランティアの報酬性を明確に否定していたが、1994年には態度を180度と言ってもいいほど「軟化」させている。彼はまず、共同体や地域社会において不可欠な行為として「互酬性」を取り上げ、「香典―香典返し、結婚祝い金―引き出物、中元、歳暮の風習」を例示する反面、その基盤は失われてきているという。その一方で、新たに登場してきた「相互に有料で利用し、有償でサービスを提供する」「市民参加型福祉サービス」に、「互酬の近代化・組織化」を見る。彼によると、これらは「(1)会員の自主性にもとづく、(2)友愛・協同の思想にたつ、(3)有償とはいえ実費弁償的性質のもので収益を目的としない、(4)グループとして、ボランタリー・アソシエーションの性格を保つ」ことから「広義のボランティアの原則からはずれていない」と述べる。このように、ここで「互酬性」という思想財を獲得することによって、「ボランティア」という言葉は高い汎用可能性を配備することが可能になった。担い手にとって効用があると言えるなら、経験・楽しさ・友達づくり・評価・金銭的対価などを、区別なく堂々と「ボランティア」として肯定できる。<贈与のパラドックス>は、このような形で「解決」されるべきこととなった。(381~382ページ)

〇仁平の「贈与のパラドックス」(paradox:「逆説」「矛盾」)とは、贈与は行為者の真の意図とは別に、交換や見返り、偽善や自己満足などとして外部観察されがちである、という意味であろう。平易に言えば、「贈与の偽善性」「贈与の疑わしさ・怪しさ」である。ボランティアについての言説の歴史は、こうした「贈与のパラドックス」を如何に解決するかの歴史であった、と言ってよい。
〇いま改めて「福祉の哲学」の必要性を強調する一人に、大橋謙策がいる(注①)。大橋は、「住民と行政との関係を上下の関係で捉えるのではなく、住民の自立と連帯を前提にし、対等の立場で問題解決を図る新たな社会哲学、社会システムが求められ、社会福祉のような歴史的に国の『社会の制度』として発展してきたものも従来にない発想が求められている」(大橋謙策『社会福祉入門』放送大学教育振興会、2008年3月、30ページ)として、次の3つの「思想」を取りあげる。併せて、大橋の言説の一部を「再認識」しておくことにする(抜き書きと要約)。

大橋謙策:「博愛」の精神
第1は、フランスの近代市民革命の際にうたわれた「博愛」の思想である(自由と平等を担保する「博愛」)。
第2は、ノーマライゼーションやソーシャルインクルージョンといった思想である(「社会的包摂」)。
第3は、自分たちで相互扶助組織をつくり、対応しようとする考え方である(「協同組合方式」)。(『社会福祉入門』28~30ページ)

内務省官僚・井上友一は、救済事業の精神的関係を強調して風化行政を提唱する。すなわち、救済行政は「風気善導の事、之が神髄」となり、物質的救済=経恤的行政は二の次となる。明治38(1905)年、井上らの提唱により組織された報徳会(二宮尊徳)の「教」の1つに「推譲」(すいじょう)論がある(注②)。その「貯蓄といふことと、公益、慈善といふことをば二宮翁の教では合せて推譲といふ一つの言葉で現はして居ります」とする考えと同じである。風化的救済制度は、社会事業分野だけではなく、報徳会などと結びつきながら、社会教化の役割を担っており、戦前社会教育の理論的支柱でもあった。その後の社会事業の精神性、物質性あるいは社会事業と社会教育における相違分類などに多大な影響を与えた。(大橋謙策『地域福祉の展開と福祉教育』全社協、1986年9月、216~217ページ)

ソーシャルワークを展開する際の価値の1つは、人間性を尊重し、社会正義と公正を守ることであり、人々の自由と平等を保障することであるが、それらを標榜すればするほど、人々が社会的にも、個人的にも“博愛”という社会の神聖な責務を遂行することが求められる。(そのためには)伝統的な意識と行動を尊重しつつも、新たな社会システムに必要な価値、意識として“博愛”の精神の涵養とそれを推進する福祉教育が求められる。(『社会福祉入門』227ページ)

〇大橋はライフワークとして、全国各地で草の根の地域福祉実践の向上に取り組んでいる(「実践的研究」)が、最近の政策動向に関して、「地域福祉が“我が事”になり、その危険性を警鐘すべきである。戦前の歴史を忘れた政策は恐ろしい」という(筆者への書簡)。ここで、社会福祉の「精神性」や福祉思想による「社会教化」について思い起こしておきたい。
〇「博愛」に関しては、とりあえず次の諸点に留意したい。(1)フランス革命は、新興の「ブルジョワジー」(有産階級、中産階級)による革命である。(2)その理念は、「自由、平等、友愛」であり、「自由、平等、博愛」ではない。(3)「自由」は、多様性を保障するが、不平等を生むことにもなる。(4)「平等」は、突き詰めれば全体主義や不自由を生む。(5)「友愛」とは、他者を自分の本当の兄弟のように愛すること(社会秩序)を意味する。(6)「博愛」には、「慈善」と同様に、階級差別的な意味合いがある、などである(注③)。
〇最後に、冒頭に記した福祉思想史研究の第一人者であった吉田久一の次の一節を引いておく。
 
(私の)半世紀にわたる現場および研究を通じての社会福祉生活の反省と展望は、社会福祉はいつの日も社会科学に信頼を持つこと、社会福祉問題を背負いながら懸命に生きようとしている人間を見失わないこと、の二点に尽きるように思う。(吉田久一『日本社会福祉思想史』(吉田久一著作集1)川島書店、1989年9月、17ページ)


①「福祉を哲学する」一人に秋山智久がいる。秋山は、「福祉哲学の必要性」を次の8点に要約している。(1)平和・人権・安全の希求、(2)人間尊重の確認、(3)社会福祉の進む方向の示唆、(4)社会福祉的人間観の確立、(5)「倫理綱領」の検討、(6)実践の価値観の探求、(7)社会福祉利用者の人間としての不幸、人生の不条理の解明、(8)実践の拠り所としての価値観・人生観の提供。これらの必要性は、秋山にあっては、将来より広義の「福祉哲学」が体系化されるときに、その主要な「構成要素」ともなるものである(秋山智久・平塚良子・横山穫『人間福祉の哲学』ミネルヴァ書房、2004年6月、45~47ページ)。
②1906(明治39)年に、半官半民の「報徳会」が結成され、報徳運動が展開された。この運動では、二宮尊徳の報徳思想――「至誠(誠を尽くす)・勤労(よく働く)・分度(身をわきまえる)・推譲(世の中のために尽くす)」に基づいた、主として地主層に対する善導が行われた(阪野貢『市民福祉教育をめぐる断章―過去との対話―』大学図書出版、2011年1月、15ページ)。
③フランス革命の理念は「自由、平等、友愛」である。「自由」は放置すればアナーキズム(無政府主義)に行き着く。「平等」は突き詰めたら全体主義や共産主義になる。「友愛」は友を愛するであり、他の宗教や民族は除外される。「博愛」とは違う(中川淳一郎・適菜収『博愛のすすめ』講談社、2017年6月、35、98ページ)。

付記
2000年9月、首相(森喜朗)の私的諮問機関である「教育改革国民会議」が、その『中間報告―教育を変える17の提案―』で「奉仕活動の義務化」を提案した。その後、例えば、武力攻撃事態等の有事の際の「ボランティア活動」(国民保護法、2004年9月施行)、介護保険制度下における「介護支援ボランティア(有償ボランティア)」(介護保険法、2007年9月運用開始)、軽犯罪者に対する「社会奉仕命令」(法務省法制審議会、2010年2月答申)、更生保護対象者に対する「社会貢献活動(立ち直りを助ける社会のチカラ)」(更生保護法、2015年6月本格実施)などが提言・施策化されている。国によるボランティア政策の動向として、強い「危機」意識をもって、改めて注目しておきたい。

補遺(2018年2月16日)
「大橋謙策:『博愛』の精神」に関して、大橋の「最終講義」からその一節を紹介しておくことにする(大橋謙策「最終講義『社会事業』の復権とコミュニティソーシャルワーク」『日本社会事業大学研究紀要』第57集、2011年2月、26~28ページ。『大橋謙策学長最終講義』日本社会事業大学、2010年3月)。
以下の文中の「ミレーの『落穂拾い』」については、『旧約聖書』の次の聖句を思い出しておきたい。「あなたがたの地の穀物を刈り入れるときは、その刈入れにあたって、畑のすみずみまで刈りつくしてはならない。またあなたの穀物の落ち穂を拾ってはならない。貧しい者と寄留者のために、それを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である」(「レビ記」23章22節)。「あなたが畑で穀物を刈る時、もしその一束を畑におき忘れたならば、それを取りに引き返してはならない。それは寄留の他国人と孤児と寡婦に取らせなければならない。そうすればあなたの神、主はすべてあなたがする事において、あなたを祝福されるであろう」(「申命記」24章19節)。

大きな「2番目」の柱(Ⅱ 戦後社会福祉の展開における制度設計思想上の誤謬・思考の箍)で言いたい戦後の社会福祉を問い直す次のポイントは、自由と平等は教えたけれども、博愛を教えてこなかったということです。われわれは、社会福祉教育において労働経済学的な視点から救貧を捉えて、1601 年以降の救貧制度をずっと教えてきます。しかし、それだけで社会福祉を本当に捉えきれるかという問題があると私は思っています。
フランスは、実は、封建的な身分差別に抵抗して、自由と平等をすべての人に保障しようという思想で市民革命を成し遂げるわけです。そのときに出てくるのは、実は、博愛です。この世に生きとし生けるものの中には、すべて幸福を追求する権利がある。日本国憲法の「憲法13条」で幸福追求権をうたい、「何人もそれを侵してはならない」とうたいました。フランスと同じように、「この世に生きとし生けるものすべての自由と平等を保障する」とうたったわけです。
しかしながら、その崇高な理念はそうだとしても、この世に生きとし生けるものの中には、生まれながらにして労働をする力を持てない者、あるいは生まれながらにしてコミュニケーション手段を十分に持てない者、あるいは生まれながらにして判断する力を十分に持てない者が当然いるわけで、その方々の幸福追求権は誰が代弁するのか、代替するのか。そのアドボカシー機能は何なのかという問題です。
労働経済学の立場から考えると二元論に考えるしかないですし、全ての人の生きる権利、幸福追求権は労働経済学では説明がつかないと考えていました。
アドボカシー機能が社会システムとしてきちんと担保されなければ、自由と平等の思想は生きてこないわけです。ある一定の線以上の人を線引きして、〝ある一定の線以上の人には幸福追求権はあるけど、それ以下の人はだめよ〟と言ったのでは、迫力を欠いてしまうわけです。その自由・平等を求める論理の帰結として、博愛が求められたと私は思っています。
フランス人権宣言あるいは憲法の中で、この博愛という語句・思想は出たり入ったりするほど社会的な位置づけは難しいものです。この博愛という哲学、思想を社会システムにどう落とし込んでいくのか、具現化させるのか。これは大変難しかったと思います。しかし、思想としては自由と平等を標榜する以上、博愛はなければいけなかったと思っています。
フランスの救済事業の歴史研究をずっとやっている方の中に、花園大学の林信明先生あるいは東大の経済学部の中西洋先生がいらっしゃいます。中西洋先生は、『<自由・平等>と≪友愛≫~“市民社会”;その超克の試みと挫折~』(ミネルヴァ書房)という本を書いています。林信明先生は、『フランス社会事業史研究』(ミネルヴァ書房)を書いていますが、いずれの本にしても、「この博愛をどう位置付けるか、大変難しい」と思っているようです。
しかし、私は、この博愛という思想・理念をきちんと受け止めていかないと、こんにち、何となく「ノーマライゼーション」とか、「ソーシャルインクルージョン」という言葉を使っていますが、その原理は何なのか、哲学は何なのかが見えてこないと思っています。
私は、クリスチャンではありませんから、原罪から説き起こすわけにはいきません。仏教徒でもありませんから、慈悲から説き起こすわけにもいきません。もう少し違う視点で考えたときに、フランスの社会を成り立たせる社会哲学として、博愛を位置付けたことの持つ意味を考えてみる必要があると私は思っています。
私は、学部時代、朝日訴訟にかかわってきて、「憲法25 条」の持つ意味はいろいろな意味で重要だということは、嫌というほど学ばせてもらいました。当時、「ジュリスト」、「判例時報」、「法律時報」を使いながら、「憲法25 条」をはじめとした生存権なり社会権の持つ意味は随分学んだつもりでいます。
しかし、ずっと腑に落ちなくて、朝日茂さんの最高裁の判決が出たあとの会合で、私は、〝どうも『25 条』だけでいいんだろうか〟という問題提起をしました。大変若いときにその話をして、当時の社大の先生から随分こっぴどく怒られたのを記憶しています。
しかし、私は、「『25 条』と同時に『13 条』も大事だ」と言ったときに、当時の朝日訴訟の中央対策委員会の事務局長をしていた長宏先生が、〝大橋くん、それは大事なことかもしれない。『13 条』というものにもっと着目しろ〟と応援をもらって、それ以来、私は、めげずに、〝『25 条』からだけ説き起こす社会福祉論はいかがなものであろうか。『25 条』の重要性もさることながら、『13 条』論はいったい何なのか〟と。それが行き着くところは、いわば、フランスの博愛であり、あるいは私がその頃使った「自己実現サービス」という言葉です。
なぜ社会福祉の自立論は狭いのだろう。もっと人間が生きとし生けるものとして、障害を持った人もこの世に生れた以上、自己実現したいという願いを持っているはずではないか。われわれは、1834 年のイギリスのニュー・プアロー(新救貧法)における劣等処遇原則を教えるけれども、日本の中でこの「自己実現」という問題についてどれだけ社会福祉の関係者が論議をしたのかが、どうもそのときからの一貫して悩みでした。
今も悩んでいるわけです。それは、中西洋先生とか、林信明先生のようなフランスの研究の泰斗でさえも十分わからないものを私がわかるとは思えませんけれども、その博愛の持つ意味を考えたいということです。
先ほど、学部時代に習ったコンドルセの名前を出しました。よくわかりませんでしたけれども、コンドルセの(『公教育の原理』(明治図書 松島釣訳))という本を、当時、小川利夫ゼミで読みました。なぜ、「子どもの教育以上に大人の教育を公の金でやるべきだ」と、大人の教育の重要性をコンドルセは指摘したのか。
行き着くところは、結局、博愛という崇高な理念を具現化できるには、〝人間はどうしてもエゴイスティックです。どうしてもわが田に水を引きがちですから〟、そこで〝理性を、社会契約の重要性を大人こそが学ぶべきだ〟とコンドルセはしきりに言うわけです。
私は、やはり生涯学習の原点は、大人たちが社会契約をできる力をもつということだと思います。幸福追求権を認める。その際に、障害を持っている人たちを排除しない。その人たちの権利を代弁し、包み込んでいく。あのジャン=フランソワ・ミレーの「落ち穂拾い」のすばらしい絵がありますが、あれは、まさに博愛の一つの具現的なシステムの現れだと思います。落ち穂を母子家庭の親が拾うという、一つのいわば営みなわけです。われわれは、ミレーの絵を見てそのすばらしさだけに目を奪われますけれども、その背後に持つ、その当時のフランスの思想について、もっと学ばないといけないと考えた次第です。


市民福祉教育研究所/2017年のブログ/年間レポート

市民福祉教育研究所/2017年のブログ/年間レポート 

統計情報
2017年にこのブログは21,183回表示され、訪問者は13,333人を数えました。
2017年には20件の新しい投稿が追加され、「まちづくりと市民福祉教育」26件、「ディスカッションルーム」68件、「雑感」58件、「研究者報告」1件、合計で153件になりました。
検索キーワードと表示回数は、「不明な検索キーワード」6,635回、「はいまわる経験主義」23回、「アウトリーチ 福祉」12回、「這い回る経験主義」9回、「福祉の心」7回、「アウトリーチ 福祉 事例」7回、「パターナリズム 福祉」6回、「協働 共働」6回、「協働 共働 違い」6回、「互酬性の規範」5回、「協働と共働」5回等を数えました。
2012年6月25日にこのブログを開設して以来、2017年12月31日現在で113,488回表示されました。

注目記事
以下は、2017年に最もよく読まれた投稿です。末尾の数字は表示数です。
(1)福祉教育におけるアウトリーチ活動―福祉の(による)まちづくりの住民主体形成を推進するために―/2012年11月19日/1,744回
(2)問題解決学習と“はいまわる経験主義”―資料紹介―/2014年4月11日/1,577回
(3)ソーシャル・キャピタルと市民福祉教育/2012年8月21日/1,272回
(4)「滅私奉公」と「活私開公」―資料紹介―/2014年12月12日/568回
(5)地域福祉推進の基本的視点―福祉教育実践の内容と方法を考えるために―/2013年6月22日/532回
(6)協働と共働/2013年9月16日/526回
(7))「現実」と「生活綴方教育」の“いま”を問う―ある若い知人へのメモランダム―/2015年4月20日/444回
(8)「大橋福祉教育論」再考の視座と枠組み―新たな思考軸の構築をめざして―/2014年11月4日/410回
(9)パターナリズムと市民福祉教育/2012年9月10日/373回
(10)今、改めて問われる「村を捨てる学力」と「村を育てる学力」―資料紹介―/2014年3月22日/359回

読者の所在地
読者の所在地は、合計28ヶ国、( )内は表示数です。
人気の国は、日本(18,919回)、アメリカ合衆国(1,957回)、大韓民国(172回)、ドイツ(51回)、カナダ(18回)、イギリス(8回)、台湾(7回)、オーストラリア(6回)、タイ(5回)、オーストリア(5回)等です。

二項対立の思考:「分かりやすさ」の罠―仲正昌樹を再読する―

我々は、自分の周囲にある様々な事物を個別に認識するに際して、ほぼ不可避的に「二項対立」的あるいは「二分法」的な思考をしている。自分の周囲にある物の位置関係を確認する時は、自分の現在の位置から見ての「右/左」「上/下」「前/後」の三つの二項対立軸が不可欠になる。位置が特定された対象の属性を認識する際には、「大/小」「重/軽」「白/黒」の二本の軸、人間同士の関係でも、「男/女」「年長/年少」「親しい/疎遠」‥‥‥といった各種の二項対立図式が働いている。我々はそうした無数の対立軸を組み合わせながら、この「世界」を自分にとって認識しやすいように(再)構成しているわけである。(仲正:24ページ要約)

「分かりやすさ」という名の思考停止が蔓延している。知識人ですら、敵か味方かで「世界」を線引きする二項対立図式にハマり込んでいる。悪くすると、お互い対立する中で「敵」の思考法が分かるようになり、「敵」に似てきてしまう。こうした硬直した状況を捉え直す上で、アイロニカルな思考は役に立つ。アイロニーは、敵/味方で対峙する“前線”から距離を置き、そこに潜む非合理な思い込みを明らかにする。(仲正:カバー裏書き)

〇福祉教育はこれまで、一面では、子どもと高齢者、健常児(者)と障がい児(者)、ICIDH(国際障害分類)とICF(国際生活機能分類)、排除と包摂、対立と共生などの「二項対立」的な「分かりやすさ」のなかで論じられ、取り組まれてきた。その際、「協同実践」(参加者が相互に学び合う関係性)の重要性が指摘されながらも、主体と客体の関係性を前提にしがち(なりがち)であった。しかも、「包摂」や「共生」の概念的・抽象的な思考や理解にとどまり、日常の地域生活場面においてその感覚化や行動化を促すことに、必ずしも主体的・積極的であったとは言えない。
〇そしていま、「我が事・丸ごと」の「地域共生社会」の実現が声高に叫ばれるなかで、「包摂」や「共生」が未だ「お守り言葉」(鶴見俊輔)として使用されている感がある。それは、人々を「思考停止」に陥らせたり、ある種の「刷り込み」を可能にする恐れなしとしない。その要因や背景については、①福祉教育が自らの思想や哲学について十分に言及せず、実践(実践科学としての性格)を重視(尊重)してきたこと、②福祉教育がその固有性や自律性を十分に追究せず、学習内容や方法が確固たるものになっていないこと、③福祉教育が「政治」(福祉政治と教育政治)と対峙する議論を十分に展開せず、未整理の部分が多いこと、などを挙げることができる。
〇それらの結果として、福祉教育は、政府・行政主導による福祉・教育改革の推進が図られるなかで、以前にも増して、統制的で定型化された実践活動が展開されている(されようとしている)。それはちょうど、国や県が建設・管理する道路のルートに沿って、カーナビの指示通りに車を走らせる「ヒト」(福祉教育)のようでもある。先日、筆者(阪野)が長野県上田市からの帰途、心地よいスピードで、自動運転車にでも乗っているような気分のなかで思ったことである(蛇足ながら、筆者の車は絶滅危惧種のマニュアル車である)。
〇帰宅後、ふと仲正昌樹(なかまさ・まさき、政治思想史)を読みたくなった。そこで、仲正の『「分かりやすさ」の罠―アイロニカルな批評宣言―』(筑摩書房、2006年5月)を再読することにした。以下は、その言説の一部である(抜き書きと要約)。

なぜ二項対立にハマるのか?
二項対立というのは、いろいろな意味で使われる言葉だが、政治的にネガティヴな意味で使われている時は、おおよそ①実際にはいろいろ複雑な争点があって単純にイエス/ノーを言えないはずのところを強引に単純に割り切って敵と味方で全面的に対立している(かのような)構えを見せること、②対立している双方の論理が、相手方の言い分のイエス/ノーをそのままひっくり返しただけで、第三者的には、合わせ鏡のように左右対称になっているように見えてしまうこと――を指している。(13~14ページ)

二項対立をやっている人たちは、なぜ、ステレオタイプ(型どおり)な台詞(せりふ)を語り続けるのだろうか? 答えは“簡単”である。斎藤貴男(ジャーナリスト)が指摘しているように、相手方が単純なレトリック(修辞、言い回し)で庶民の目をくらまし、複雑な現実に目を向けさせないようにしているので、自分たちも庶民にまず“目をさまして”もらうため仕方なく、庶民が振り向いてくれるような庶民にとって分かりやすい単純な言葉で語っている、というのである。しかし、それではまるで、庶民には全然主体性がなくて、右から何か吹き込まれたら右になびき、左から吹き込まれたら左になびくので、たくさん言ったもの勝ちだと言っているようなものである。(15ページ)

カンタンに二項対立している人たちに対して、第三者的な立場から批評を加えると、「自分の問題としてではなく、他人事のように語っている」などという拒絶反応をする人々がいる。二項対立の一方の側に身を置いていないのは、高見に立ったつもりになって無責任なことを言っている不真面目な輩(やから)である、という妙な価値観が働いているのである。「今はもう冷戦的な二項対立的発想の時代ではない」と言いながら、自分自身はますます二項対立的な図式にハマり込んでいる大小の評論家が増殖している。(17ページ)

人はどうして分かっていながら「二項対立」図式に自らハマっていき、そこから抜け出せなくなってしまうのか。「世界は複雑であり、二項対立では片づけられない」ことを多くの人は抽象的には理解しているが、いざ自分の考えを表明すべき立場に立たされると、何らかの形で「世界」を、自分にとっての「敵/味方」に単純に切り分けて、“分かりやすい答え”を出して、安心しようとする。その安心感を振り切って、複雑さを再認識するのは非常に困難になる。「哲学」は、思考を単純化してしまう「分かりやすくて心地よい言葉」に抵抗してきたと言えるが、現代日本において顕著に見られるように、時として哲学者自身が自覚的無自覚的に、二項対立的な「分かりやすさの罠」にハマってしまうことがある。(17~18ページ)

すべての二項対立が悪ではない
最近では、「敵/味方が最初から決まっていて妥協や歩み寄りの余地がない二項対立的な論争は不毛だ」という感じで、“二項対立”が悪者扱いされることが多いが、「二項対立的になる」ことは常に悪いことであるとは限らない。単なるフリートークではなく、一つの「答え」を出すことを目的として論議する場合、イエス/ノーに意見がはっきりと分かれるような二項対立的な問題設定をどこかでする必要がある。(31~32ページ)

特定の価値観・世界観を持っている人々が、自らの価値観・世界観を直接的に反映する形で論争の土俵を設定すると、最初から妥協や、自らの立場を変化させる余地がなくなってしまうことになりがちである。そうした世界観レベルの二項対立とは一応切り離した形で、最初の時点で便宜的にイエス/ノーの立場を二項対立的に設定しておいて、議論を進めていくうちに互いに(立場を)移動し合ったり、第三、第四の立場を設定できる可能性を認めることができるのであれば、(暫定的で変動可能な)二項対立的論争形態はむしろ有用であると言うべきだろう。(34ページ)

修辞的アイロニーと哲学的アイロニー
フリードリヒ・シュレーゲル(1772年~1829年、ドイツ初期ロマン派の思想家)は、単なる修辞的アイロニーと哲学的アイロニーを分けている。修辞的アイロニーというのは、自分の言葉を洒落(しゃれ)たものに見せるためにちょっとだけ逆説的に聞こえる表現(皮肉)を使ってみるというようなことであり、思考の枠組みにおける大きな変容を伴っていないようなものである。それに対して哲学的アイロニーは、「対話」などの形を取りながら、「哲学する主体」が無自覚に依拠している「秘密の意図」を“反省”的に明らかにして、“主体”の視野を拡げていく営みである。(188ページ)

「アイロニー」の語源になったギリシャ語の<eironeia>は、(相手の思考が生まれるのを助ける)「産婆術」(ソクラテスの対話形式の哲学)を意味していた。(190ページ)

〇二項対的な思考は、議論における相違点や対立点を鮮明にする。しかし、その反面、議論に参加する人々の立場や立ち位置を硬直化させ、議論それ自体を不毛なものにしてしまう危険性がある。そこで、自分自身の古い思考の枠組みを解体して再構築(「脱構築」)しながら、自分の立場や立ち位置から一歩踏み出し、思考する。それによって、硬直化した二項対立を俯瞰(ふかん)することができ、「敵/味方」の両極がそれぞれ持つ非合理な思い込みを明らかにすることができる可能性が開かれる。これが仲正がいう「アイロニカルな思考」であろうか。仲正の「アイロニー」は単なる「皮肉」(修辞的アイロニー)ではない(ちなみに、筆者に対する「皮肉」のひとつに、「字が達筆すぎて読めない‥‥‥」がある)。
〇二項対立には、多かれ少なかれ「グレーゾーン」(中間領域、境界領域)が存在する。そのことを前提に、あるいはそれに着目して議論することも必要かつ重要となる。グレーゾーンの発生は、議論の条件や状況が不明確であったり(認識の限界)、それに対する判断や基準に差異があり(認識のずれ)、それらを特定化できないことなどによる。とはいえ、その判然としないグレーゾーンを新たな視点で整理することによって、汎用性の高い思考やその枠組みを生み出すこともできよう。留意しておきたい点である。
〇また、不毛な二項対立を克服するためには、議論の前提や条件などについて事前に予備的に調査・吟味し、“かみ合った”議論が実現可能かどうかを検討する必要がある(フィージビリティ・スタディ/実現可能性調査:feasibility study/略 FS)。例えば、正/誤や真/偽などの「結論」だけを議論する二項対立は、双方の立場や立ち位置による「正当性」を主張するにとどまり、新たな結論や合意を得ることは難しい。双方が、前提条件や状況について、幅広い情報のもとに多面的・多角的に思考し、理解や認識を深めることができれば、正当性のある判断をいくつか見出す可能性(選択肢)が広がる。それが、冷静かつ複眼的な思考による議論を促すことになる。付記しておきたい。
〇以前にも増して、多様性を包摂する「地域共生社会」の実現に向けた福祉教育プログラムの研究・開発が求められている。またそれを社会的に普及・発展させるための枠組みを如何に構築するかが問われている。そういうなかで、今はもう、二項対立的に、概念的・抽象的に「排除と包摂」や「対立と共生」などを唱え(説い)て「コト」が済む時代ではない。
〇例えば、「社会的排除」には、経済的・社会的・政治的・文化的な次元や領域があり、それらが複合的に組み合わさっている。また、国や地域社会、家族、個人などの各レベルでその様相は異なる。さらには排除が排除を生む「累積的排除」や複数の「ヒト・モノ・コト」による同時「並行的排除」などがある。「包摂」には、「排除」と“闘う”知識や能力、時間や資源を必要とする。また、事後的かつ予防的な対策や主体的かつ積極的な事業・活動などが重要となる。
〇「排除と包摂」を「カンタンに、キレイに、分かりやすく」説くのではなく、その複雑な具体的事象を複雑なままに思考・理解し、その状態やプロセスから本質を見出すことが必要かつ重要となる。二項対立的な単純な発想を越え、関係性を重視し、当事者意識(当事者性)を尊重する「第三者」的な立場や立ち位置を、新しく自覚することが肝要となる。仲正の言説を通して再認識した、「二項対立の思考」に関する基本的な事項である。