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阪野 貢/「共感」再考:共感のメリットとデメリット ―山竹伸二著『共感の正体』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、山竹伸二著『共感の正体―つながりを生むのか、苦しみをもたらすのか―』(河出書房新社、2022年3月。以下[1])という本がある。「共感論」について活発な議論が展開されるなかでこんにち、「反共感論」の主張が少なからずみられる。山竹はいう。「共感は本当に相互理解と協調、平和をもたらす自然の恩恵なのだろうか? それとも、不安や自由の喪失、憎しみ、差別をもたらす、悪魔のささやきなのか‥‥‥?」(21~22ページ)。「共感が生み出す助け合いが集団を強化し、文化を築く礎になったこと、その一方で、共感による集団の排他性が紛争や差別、迫害を生んできた歴史がある」(24ページ)。
〇[1]において山竹は、多角的な視点に立って、また科学的・哲学的な考察を通して「共感」の本質を解明しようとする。とともに、心のケアの領域や日常の対人関係における共感の有効性や応用可能性を明らかにし、共生社会における共感の重要性を指摘する。山竹は説く。「共感のメリットはリスクを大きく超える可能性がある」(204ページ)。「大事なのは共感に頼らないことではなく、共感のデメリットを減らし、よりよい形で共感を活かせるようにすること」(205ページ)である。
〇[1]で注目すべきポイントは、現象学(自分の意識・主観に現われていることを出発点にして、誰もが共通して了解できる意味(「本質」)を解明するための哲学的思考法)の観点から共感の本質にアプローチし、その問い直しを試みるところにある。山竹はそれを次のように整理する(7. 8.  以外の丸括弧内の解説は別頁より引用。126~129ページ)。

  1. 共感が生じる経験は、①「情動的共感」(相手と同じ感情であると感じる共感)と②「認知的共感」(相手と同じ考え方、感受性、価値観であると感じる共感)の2つに分けられる。
  2. 共感の質は心の発達、特に自己の確立と認知の発達にともなって変化する。
  3. 他者の共感によって得られる自己了解(自分の感情に対する気づき・自覚)と「存在の承認」(「ありのままの自分」が受け容れられていること)。
  4. 心理的距離、空間的距離の近い人間ほど共感が生じやすい。
  5. 共感力(相手の考えや気持ちを察することができ、その気持ちに寄り添うことができる力)には個人差がある。
  6. 共感は感情の共有であり、自己了解と同時に他者了解(他者の感情に対する気づき・自覚)が生じている。
  7. 共感は他者理解をとおして他者のためになる行動(利他的行為)を生む。
  8. 共感は喜びだけでなく、苦しみを生む場合もある(共感的苦悩)。
  9. 共感はお互いを理解し、協力し合う基盤となり、文化・社会を形成する。

〇以上の「共感の本質」(「共感の原理」)に続いて山竹は、「共感の功罪」について次のように整理する(130ページ)。


〇ここで、[1]のうちから、「共感」をめぐる論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

共感と利他的行為
共感という経験は対人関係における感情共有の確信であり、共感が生じると多くの場合、相手に対して親和的な感情(親しみ)が生じ、他人事ではないと感じられる。/この時、自己了解(自己の感情への気づき)と同時に、他者の感情了解が生じている。自己了解が「自分がどうしたいのか」という欲望を告げ知らせる以上、共感は「他者がどうしてほしいのか」を理解し、相手が望む行為の選択を、つまり利他的行為を可能にするのである。/もちろん、自分の感情と相手の感情が同じである、という保証はない。だが、私たちは共感を手がかりにして、相手に気持ちや望みを言葉で確認することができるし、それによって適切な対応を取ろうとする。そうやって経験を何度も積み重ねるほど、次第に的を外すことなく相手の感情を理解できるようになり、適切な対応が可能になる。/こうした理解力を培うには、言葉と想像力、推論する理性の力を身につけることが必要である。(110ページ)

排他的共感と差別
共感はすべてにおいてよいことが起きるわけではない。/誰かの悲しみや苦しみに共感し、助けたいと思う場合でも、必ずしもよい結果、正しい行動につながるとは限らない。共感から、目の前にいる人を手助けしてしまい、結果的に大勢の人を苦しめたり、困らせてしまうこともある。助けたつもりでいても、相手にとっては迷惑だったり、かえって悪い結果を招く場合も少なくない。/また、共感は憎悪や怒りのような感情にも共振するため、憎しみや怒りを増幅させる危険性がある。/仲間への共感から、仲間以外の人々を敵視したり、憎悪や軽蔑の眼差しを向けたりすることを、「排他的共感」と呼ぶことにしよう。/共感は文化を形成し、集団の結束を強めるのだが、それは半面、共感できない文化や自分の所属する集団以外の人々に対して、排除する傾向を生みやすい。共感による民族や国との一体感は、外国への差別意識、敵対意識につながりやすいのだ。繰り返される戦争、少数民族への迫害、異質な文化への差別などは、排他的共感が拍車をかけている。(116~117ページ)

協調的共感と共同性意識
多様な価値観を学び、様々な立場の人の身になって考えることで、偏った行動ではなく、より公正で適切な共感と利他的行為ができるようになる。/多様な価値観に寛容になるには、人間は集団の属性や価値観によらず、存在そのものが尊重されるべきだ、という感覚が必要になる。/この感覚を養うものこそ、親密な人々による共感なのだ。それは「ありのままの自分」が受容される経験、無条件の承認を感じる経験であり、だからこそ、「ありのままの他者」を受け容れ、共感できるようになるのである。/こうした対応を各々の人間ができるようになれば、他者との間に良好な関係性が形成され、よりよい協調が生まれ、お互いに助け合えるような社会を築くことができる。異なる考え方や価値観の人々の間にも、差異を認め合いながらも共感できるものを見出せるようになる。私はこれを「協調的共感」と呼び、共感の成熟したものとして捉えておきたい。(123~124ページ)/共感は人間同士の心のつながりを感じさせ、同じ人間であるという意識、共に生きているという意識をもたらすのだ。/しかし、この共同性の意識においても、適度な距離感、公正な判断力がなければ、容易に集団心理に呑み込まれてしまうだろう。/したがって、共感が人間の道徳性や共同性の意識において重要だとしても、そこに潜んでいるリスクを十分に自覚し、その対処法を考えなければならない。排他的共感に陥らず、協調的共感に至る道を考える必要があるのだ。(124~125ページ)

共感のリスクとその回避
共感には様々なリスクが付きまとっている。/まず第1に、共感しやすい人は、相手の感情に巻き込まれ、自分自身の感情を制御することが難しくなりやすい。/第2に、思い込みの強い人、自己中心的な人の場合、共感は相手と自分を同一視し、相手の他者性、固有性を無視してしまう傾向がある。/そして第3に、自分の所属集団、立場、価値観を過剰評価している人が共感すると、自分が共感できない人々に対して無関心になったり、敵視する傾向がある。/こうした共感のリスクを回避するためには、自己了解ができていること、感情の制御ができることが必要になる。自己了解の力があり、感情のコントロールができる人は、過度に相手の感情に巻き込まれたりしないし、相手と自分を同一視したりもしない。また、多様性に寛容で、他者との差異や他者性を認められる人は、排他的にもなりにくい。だから自分とは経験も立場も異なる相手であっても、先入観なしに対話し、相手との差異を認めつつも、自分と共通するものを見出すことができる。そうやって相手の感情に近づき、共感する可能性が高いのである。(166~167ページ)

良心と共感
「良心」は善悪を判断し、「人として正しくありたい」という思いが含まれているが、この判断の基準は内面にある価値観や行動規範、人としての理想などである。それは多くの人が認める価値観や社会規範とほぼ重なるため、共感や同情に公平性、公正さをもたらしている。しかし、そうした個人の内面にある価値観や行動規範は、何らかの状況で取り込まれ、身につけたはずなので、成長にともなって変化し、良心も変わってくることになる。(184~185ページ)/完全に「他者のため」という動機だけで良心が生じるわけではない。他者に承認されたい、他者と共に生きたい、という「自己のため」の動機も当然あるだろう。そうでなければ、自己犠牲を美徳と考えるような偏った義務論になりかねない。(188ページ)/共感によって他者の苦しみを知れば、自己の欲望を超えて、心から他者を助けたいという思いも強くなる。承認欲望と救済欲望が重なりあい、「自己のため」の行為が「他者のため」の行為になるのだ。そして共感の経験を繰り返し、理性的な思考が深まるにつれ、多様な他者の身になって考える力もついてくる。/こうして、成熟した良心は自己の欲望を自覚した上で、他者を心から助けたいと感じ、より普遍性のある判断を求めるようになるのである。(189~190ページ)

〇山竹にあっては、現代社会は、異なった文化や立場、多世代の「多様な人々が交流するようになり、共感が拡大する可能性のある時代である」(201ページ)。その一方で、現代社会では「絶対的な価値基準が見失われ、どうすれば周囲に認められるのか、自分の価値を確信できるのか、という承認不安が蔓延している」(202ページ)。そこで、上述の「共感の本質」を認識し、「心のケアの原理」に基づいて子育て、教育を実践すれば、「共感は私たちの未来を切り開く上で、とても重要な役割をはたすはず」(202ページ)である。「共感」への期待と展望である。山竹はいう。「楽観的と思う人もいるかもしれないが、私はそうした未来の可能性を信じたい」(205ページ)。
〇「まちづくりと市民福祉教育」(とりわけ学校福祉教育)においてはこれまで、抽象的な理念やひとつのスローガンとして「共感」が声高に叫ばれてきた感なきにしも非ずである。「共感の本質」についての理解・認識と、それに裏付けられた共感力を高めるための取り組みや教育プログラムの開発を如何に進めるかが問われよう。例によって唐突であるが、指摘しておきたい。
〇なお、上記の「心のケアの原理」とは、「共感は『ありのままの自分』が受け容れられている(認められている)という実感を与えることで、相手の不安を緩和する。また、共感によって相手の苦しみの根底にある感情を理解し、それを相手に伝えることで、相手に自己了解を促すことができる。すると、相手は自分を見つめなおすことができるようになり、考え方を修正したり、自分がどうしたいのか、どうすべきなのか、納得のいく判断ができるようになる」(194ページ)ということを指す。

補遺
〇筆者(阪野)の手もとに、ポール・ブルーム(Paul Bloom、アメリカ・イェール大学心理学教授)著/高橋洋訳『反共感論―社会はいかに判断を誤るか―』(白揚社、2018年2月。以下[2])と、永井陽右(ながい・ようすけ、テロ・紛争解決スペシャリスト)著『共感という病―いきすぎた同調圧力とどう向き合うべきか?―』(かんき出版、2021年7月。以下[3])という本がある。ともに、共感の負の側面に焦点を当てた本である。
〇[2]のブルームによると、「共感」(empathy)は「情動的共感」と「認知的共感」に分けられる。「情動的共感」は、「他者が感じていると思しきことを自分でも感じること」すなわち「他者の経験を経験する」(10ページ)という意味での共感(感情的な働き)である。「認知的共感」は、「他者の心のなかで起こっている事象を、感情を挟まずに評価する能力に結びつけてとらえる」(25ページ)という意味での共感(理性的な働き)である。ブルームは、前者の情動的共感に反対し、後者の認知的共感を評価する。「共感には善玉と悪玉がある」(20ページ)。「共感(情動的共感)は愚かな判断を導き、無関心や残虐な行為を動機づけることも多い」(9ページ)。「共感は道徳的指針としては不適切である」(9ページ)。「私たちは(共感の時代ではなく)理性の時代に生きている」(19ページ)、別言すれば“他者を思いやる善き人になりたいのなら、あるいは世界をもっとよい場所にしたいのなら、理性を行使すること(理性に基づく判断や行動)が重要である”(9ページ、第6章)、などがブルームの主張である。詳細は、本ブログ<雑感>(81)共感≠善:共感は道徳的指針としては不適切である―ポール・ブルーム著『反共感論』読後メモ―/2019年5月15日投稿/本文(⇦クリック)、を参照されたい。
〇[3]の永井にあっては、「共感」とは「他者の感情経験に直面した人が、認知的および感情的に反応すること」。その「反応に至るまでのプロセス」(33ページ)、である。永井はいう。「共感は、全員ではなく特定の誰かしか照らさない『スポットライト的性質』と、自分にとって照らすべきだと思えた相手しか照らさない『指向性』を持つ」(17ページ)。「共感とは誰かの困難に対してではなく、困難に陥っている自分側(同じグループの仲間)の誰かに作用している。まさに共感は差別主義者なのである」(18ページ)。「共感は一般的に、理性的な『認知的共感』と感情的な『情動的共感』の2つに、機能的に分けられている」(28ページ)。
〇永井は続ける。「多様性とは、自分にとって都合の悪い人の存在を認めることである。『多様性を受け入れることは難しい』という心構えを持つべきである」(161、162ページ)。「共感できない・共感されにくい人をなおざりにしないために、共感に代わるものが必要となる。共感ではなく、地に足のついたリアルな、実体の伴った、権利に対する理性的な眼差し(理性的に、自分の権利と同時に他者の権利を見つめること)こそが、憎悪が渦巻く現代の世界を良くする鍵である」(167~169ページ)。
〇要するに永井にあっては、「共感」とそれに代わるものとして、「理性」と「人権」、人権に対する理性的な理解と反応が重要である。「感情に任せるのではなく、共感の良いところをうまく使いながらも、同時に理性も働かせてその手綱(たづな)をしっかりと持ち、取り残されている人がいないか、対立や分断をどう乗り越えることができるか、などを常々考えることが社会と世界を良くしていくことに繋がる」(180ページ)のである。
〇なお、[3]には、永井と内田樹(うちだ・たつる、思想家)との対談が収録されている。そこで内田はいう。いまの日本社会は、「共感過剰」な社会になっている。共感できる人間だけで固まって、同質的な、集合的共感のようなものを作って、外部の人とのコミュニケーションができなくなってきている。共感や理解をベースにして人間関係を構築するのは危険である。それよりは、「共感も理解もできないけど、目の前に困ってる人がいたらとにかく助ける」(「惻隠の情」)というルールの方が汎用性が高いし、間違いが少ない。惻隠の情が発動するためには、「自分から見て弱者である」こと、「自分の力の範囲内で救うことができると思える」ことの2つの条件がある(191、218、222ページ要約)。参考までに付記しておくことにする。

阪野 貢/追補/「聞くこと」「話すこと」を考える:「ただ聞く」ことをめぐって ―尹雄大著『聞くこと、話すこと。』のワンポイントメモ―

言葉が信じられない時代であるのは間違いない。それでも私とあなたのあいだにある言葉を愛(いとお)しく思う。わかり合うためではなく、わかりあえなさが明らかになるとき、かけがえのない存在としてここにいることがわかるからだ。(下記[1]258ページ)

〇本稿は、<雑感>(183)「考えること」を考える:「哲学対話」をめぐって―梶谷真司著『考えるとはどういうことか』のワンポイントメモ―/2023年8月8日投稿、の追補である。
〇筆者(阪野)の手もとに、インタビュアー・作家の尹雄大(ユン・ウンデ)の『聞くこと、話すこと。―人が本当のことを口にするとき―』(大和書房、2023年5月。以下[1])という本がある。[1]は、濱口竜介(映画監督)や上間陽子(琉球大学教授)、坂口恭平(建築家)、そして「ユマニチュード」という認知症高齢者のためのケアの技法を開発したイヴ・ジネストらとの対話を通して、「聞くこと」、「話すこと」とはどういう体験なのか、人間にとって「言葉」とは何か、といったことをめぐる評論である。
〇ユマニチュード(Humanitude)とは、相手のことを大切に思っていることを伝えるための「見る・話す・触れる・立つ」(「ケアの4つの柱」)の技術を通して、人間らしさ(ユマニチュード)を尊重するケアの技法をいう。
〇[1]のキーワードのひとつに、「ただ聞く」がある。それは、上記の本ブログ<雑感>(183)で述べた、相手の話を聞きそれを「受け止める」ことが大切である、という指摘にも通じる。その点をめぐって、[1]における尹の論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

余計な聞き方をせず「ただ聞く」という態度によってこそ信頼関係が生まれる
互いが「あなたを知りたい」というあまりの率直さに触れたとき、私が私であることを許される、認められる。そこに「私自身であっていいのだ」という安心を覚える。確実な約束を与えられるからそれが信じられるのではなく、ただ許され、認められることに自らを懸けようとする。それが信頼ではないか。/そうなると「あなたを知りたい」という問いかけで重要なのは「何を聞くか」でも、それによって話された言葉の理解でもない。この場にいる互いのあり方にただ注視する態度だけが必要だ。/そのとき聞くことは意味の理解につながらないだろう。というより、つなげる必要がない。日常においては、聞くことを理解にすぐさま結びつけてしまう。ともかくわかろうとするのもまた意識的な行為のなせる業(わざ)だ。そこからは信頼して言葉を紡げる関係性は生まれにくい。(27~28ページ)

「ただ聞く」とはその人の「今ここ」の感情を分かろうとする試みである
たいていの場合、人は相手の話を「その人の話」としてではなく、「自分の話」として聞きがちだ。自分の理解できる範囲の出来事を相手に見出しては「わかる」と言い、共感できないことはただちに「わからない」と判断する。わからなさを前にした途端、実際には口にしなくても、心の中で相手の話に対して「つまり・結局・要するに」を持ち出して解釈することに忙しい。その後に続くのは「だから良い・悪い」のジャッジだ。(43ページ)/「完全に聞く」(「ただ聞く」)とは相手を完璧に理解することではない。わかろうと試みる状態のことだ。/そういう時間と空間であるためには、互いの協力が必要になる。どのような関係性がそれを可能にするかといえば、少なくとも話し手がその人のすべてで「今ここ」において話すという態度が必要になる。(45ページ)

相手の話を「ただ聞く」ためには自分の判断基準や価値観を手放す必要がある
相手の話を「私の話」として聞いてしまうとき、「私」は必ずジャッジ(判断)している。/私たちは物事をジャッジするとき、善悪は対象に属していると思っている。相手が良いことをしたから、それを「良い」とし、悪いから「悪い」と判断したと。そうではない。自分の解釈が善悪正誤を決めているのだ。あなたが誰かの行いや発言に「善悪」をつけたとき、そこで明らかになるのは、あなたが長年培ってきた価値観であり信条だ。(233ページ)/私たちのジャッジの基準は、生まれ育った環境、時代、社会の中で選ばざるを得なかったというような、極めて個人的な事情に基づいている。生き延びるためにそれを身につけてきた経緯がある。(235ページ)/他人の話を聞く前に、自身のジャッジを形成するに至ったストーリーを知り、その顛末を最後まで聞きとり、それを手放さない限り、私たちは相手の話を聞くことができない。本当に尊重することができない。(237ページ)

生きている事実について「ただ聞く」ことによって「聞き取られない声」を聞かないといけない
(ドメスティック・バイオレンス(DV)や性暴力などの過酷な境遇を生きている少女など)「本当に話せない」という我が身を引き裂くような、晴れることのない思いが胸奥(きょうおう)に腹に全身にわだかまったまま生きている人が現にいる。そんな切迫した思いが、コミュニケーションにおいて推奨されている通りの共感や肯定を示すことで太刀打(たちう)ちできるはずもない。(93ページ)/「本当にのたうち回るような経験というのをした人は自分の体験を表す言葉を持たない」(上間陽子)。(94ページ)/身に刻まれた痛みや悲しみを抑えることも晴らすこともかなわない。引き裂かれた感情を抱え、それでも正気を保たないことには生きていけない。摩滅しそうになりながら生きてきた人の言葉が、穏当に理解できるようなものになるわけがない。身が軋(きし)むような生き方を強いられてきたのであれば、ほつれた語り口(まとまりを欠いた話し方:筆者)で言わざるを得ない必然性がある。(106ページ)/聞き取られない声がある。だから聞かないといけない。何を聞くのかではなく、ただ聞く。子供らにより良い生き方を諭す前にすべきなのは、すでに生きている事実について耳を傾けることではないか。(111ページ)

〇ここで、2つの文章を引いておきたい。ひとつは、「話をしている最中に概念的な理解をしようとして頭で考えてしまうということは、相手の話から常に遅れている。(中略)そのときその場にいながらそこにおらず、想定の中にまどろむことを自分に許している。端的に言えば、話を聞いていない」(21ページ)というそれである。意識的に集中して相手の話を聞き、いろいろ考えようとするとき、相手の「話を聞いていない」のである。対話における「聞くこと」「話すこと」と「考えること」(自分が設定した「問い」に自分なりに「答え」る営み)の難しさがここにある。体験的に納得できるところでもあり、留意しておきたい。
〇いまひとつは、「共感は理解への唯一の道ではない」(226ページ)。「共感は、相手の話を自分の話として聞いている。けれども本当に話を聞こうと思うのならば、他者の声を尊重するならば、相手の話を相手の話として聞かなくてはならない。あなたという存在は私の共感の及ばないところで生きている」(228ページ)というそれである。「ただ聞く」のは難しい。それは、対話の知恵や技法を問うものではなく、「今ここ」にいる相手を、かけがえのない存在・尊厳ある存在として真に「受け止める」ことによって可能になるのである。

(人の話を聞くにあたり)聞き慣れない表現に戸惑ったときに求めるべきは、戸惑いをちゃんと味わうことではないか。それもせずに正当性という正解に向かう道筋を選ぶ発想こそが、相手の話の聞けなさにつながっている気がする。(上記[1]194ページ)

 

老爺心お節介情報/第47号(2023年8月12日)

「老爺心お節介情報」第47号

皆さまお変わりなくお過ごしでしょうか。
立秋とはいえ、猛暑厳しく、体がおかしくなりそうです。
「老爺心お節介情報」を送ります。ご笑覧下さい。
どうぞご自由にお使いください。

2023年8月12日   大橋 謙策

〇毎日、暑い日が続いていますが、皆様お変わりなくお過ごしでしょうか。
〇6月2日に「老爺心お節介情報」46号を出して以降、秋田県、岩手県、香川県、石巻市、富里市等のCSW研修の前期日程が入り、あまりにも忙しくて「老爺心お節介情報」を書けませんでした。
〇と同時に、この間、これはといった本も読めずにいましたので、「老爺心お節介情報」を書くことができませんでした。申し訳ありませんでした。

Ⅰ 『民は立つ』(信濃毎日新聞社、2007年10月)

〇本書は、日本地域福祉学会終了後訪問し、その後その地域の地域福祉の在り方を考えることが必要だとして“結成”された中条プロジェクト(旧中条村の地域福祉の在り方を考える会)のメンバーである旧中条村社会福祉協議会職員の黒岩秀美さんから寄贈されたものです。
〇本書を知った経緯は、私が1965年に実習させて頂いた長野県下伊那郡阿智村の岡庭一雄元村長が新聞の使命などに関わるあり方を信濃毎日新聞に最近寄稿された記事を小池正志さん(元長野県社会福祉協議会事務局長、中条プロジェクトのメンバー)が送ってくれたので、読みたいとメールを送ったところ、黒岩秀美さんが寄贈してくれました。
〇本書は、長野県内の自治体で起きている事案を取り上げ、その事案の解決に向けて住民の合意がどのように形成されるのかを中心命題にして、住民同士の論戦、住民と行政との関係、住民と市町村議会議員との関係などについて取材したものをまとめたものです。
〇主に、田中康夫県知事時代の状況をめぐっての論題ですが、住民自治、地方自治、住民の意識と学習等“地域づくり”に関わる根幹を問いかけています。
〇また、長野県は小さい村が沢山あり、村自体の存立が可能なのか、財政難であえぐ村の“自立”の問題、それを“ある意味、国が強権的に合併させようとした平成の合併”問題で揺れる村の状況を丁寧に記事にしたものです。
〇取り上げられた事案は、市町村合併、高校再編、保育所の廃止・民営化問題、ダムの建設の是非、スキー場の経営と委託化、山村留学、公民館の在り方と地域づくり協議会(地域自治協議会)等の問題が取り上げられ、地域づくりに住民がどう関わるのか、民主主義とは何かを問いかける力作です。長野県茅野市の「CHUKOUらんどチノチノ」の実践も紹介されていました。
〇他方、住民同士の横のつながりの希薄化、人任せ、行政任せの依存体質、地域自治会の役員のなり手がない状況に輪をかけて、地域の高齢化、人口減少などの“地域存続の危機”についても論究しており、地域づくりに関心のある人には是非読んでほしいものです。
〇筆者は、1980年に「自立と連帯の社会・地域づくりに向けたボランティア活動の構造」を示し、かつ4つの「地域福祉の主体形成」(地域福祉実践の主体形成、地域福祉サービス利用の主体形成、地域福祉計画策定の主体形成、社会保険契約の主体形成)を提唱してきました。そこには、榛村純一(元静岡県掛川市市長)が提唱した「選択的土着民」と相通ずる考え方があります。住民一人一人が地域を愛し、人任せでなく、行政任せでなく、自らが主体的に地域を豊かにすることに関わる活動、文化が醸成されない限り、地域は良くならないという哲学が底流にあります。
〇そのような考え方は、筆者が東京大学大学院で社会教育を専攻し、長野県各地で実習をさせて頂いてきたからつくられたものであろうし、筆者が日本社会事業大学へ進学しようとする契機になった島木健作著『生活の探求』と相通ずるものです。
〇しかしながら、本書を読むと住民の合意形成の難しさ、民主主義的議論・手続きの進め方の難しさ、資料の作り方の難しさがよくわかります。
〇私も、大学3年生の実習で、長野県下伊那郡喬木村で実習させて頂いた折、「喬木村公民館報」に、当時、小渋川開発に関わる土地収用法の解説を書けと言われて、住民向けに、どのような資料を提供したらいいのか悩んだ記憶があります。それは、たぶん、「喬木村公民館報」に掲載されていると思います。
〇本書を読んで、改めて1960年代に志した自分の“思い”を見直すことになりました。地域福祉研究者、実践者は、どれだけ“地域づくりの難しさ”を実感して、取り組んでいるのでしょうか。
〇本書には、島根県邑南町口羽村の実践(『過疎を逆手に取る』)も紹介されていましたが、改めて1978年に書いた社会福祉施設の地域化と社会化の論文(「施設の社会化と福祉実践」『社会福祉学』第19号、1978年)を思い出し、社会福祉施設を経営している社会福祉法人の“地域貢献”ではなく、地域住民の拠り所、共同利用施設としての社会福祉法人という視点からの社会福祉法人の”地域貢献“を考える必要があるし、社会福祉法人が”限界集落“、”消滅市町村“の危機にある地域において、どのように地域づくりに貢献できるのか、その位置と役割は大きいと思いました。
〇「持続可能な地域づくり」と「地域福祉」と「社会福祉協議会」と「施設社会福祉法人」との関係を考える上で、是非、『里山人間主義の出番ですーー福祉施設がポンプ役のまちづくり』(指田志恵子著、あけび書房、2015年3月)と『ソーシャルイノベーションーー社会福祉法人佛子園が「ごちゃまぜ」で挑む地方創生』(監修雄谷良成、編著竹本鉄雄、ダイヤモンド社、2018年9月)を読んでほしいと思いました。
〇これからの地域福祉は、持続可能なまちづくり、地域づくりとの関係を抜きにしては考えられません。その際の社会福祉施設の役割は、高知県の「ふれあいあったかセンター」の実践ではありませんが、社会福祉施設の役割は大きいと思います。

Ⅱ 健診とがん告知・その ⑤

①前立腺がんの定期検診が、日本医科大学多摩永山病院で、6月15日に行われた。その際、前回の3月28日の健診の検査結果が示されたが、PSA数値が0・010となっており、医師からは順調な診療経過であると告げられる。
医師に、このPSAはゼロにならなくていいのかと問うと、前立腺を摘出していないので、それがある限りはゼロにならないという。もう一つ質問をした。この数値で見て、前立腺がんは消滅したと考えていいのかと問うと、そうですとの答え。
ホルモン注射も、今までは3か月に1回であったが、今回は6か月分をうつので、次回のホルモン注射は12月になるという。
ホルモン錠剤の投与は、90日分しかだせないので、次回の診察は9月に行うとのことであった。後は、経過観察を定期的に行っていくことになる。

②6月2日~6月15日まで、2種類の補聴器のお試し装用をしてきたが、「聞こえ」の面で特段の効用があったとは思えない。
6月16日の診察日に、お試し装用期間の記録(別紙)を提出し、とりあえずは補聴器の装用を辞退したい旨医師に告げると、補聴器機能を調整して、もう少しお試しをしようとの返事。そのあと、補聴器の調整をしてもらって装用したが、どうも効果が出ない。STと認定補聴器技能者は調整しても効果がでないので、今しばらく様子を見ましょうと言ってくれた。医師はおかしいなと首をかしげながら、STなどの意見を受け入れ、補聴器装用は現時点ではしないことに決定した。
使用させてくれた2種類の補聴器は、両耳で120万円クラスの機器と聞いて驚いた。

(備考)

③8月3日、右目の白内障手術を受けた。7月31日から、2種類の点眼薬を点眼し、手術日の8月4日は朝から瞳孔を開く点眼薬を指して、手術に臨む。右目の部分麻酔なので、声は聞こえるし、手術中の動きもわかる。眼球をいじられるので、少々痛くはあったが、手術は10分、前後の準備も入れて20分もかからずに終了。
手術の翌日の8月4日に、眼帯を外す。明るく、ものがはっきりと見える。帰宅時にはサングラスをかけ、ゴーグルをして帰る。自宅に帰って、鏡を見ると、自分の顔にこんなにもシミがあったのかと、その老醜に驚く。眼がぼんやりしていた方がいい場合もあるのだなと妙に感心。
右目の視力は1・0で、老眼を懸けずに字が読める。これは嬉しいことである。パソコンも眼鏡なしで打てている。新聞も鮮明になり、老眼を抱えずに読めている。こんなにも違うのかと感心しきりである。妻が、“私の顔もきれいに見えますか”というので、もちろんきれいですと答えた。
ただ、手術後、4種類の点眼薬を朝、昼、晩、種類によっては寝る前と注すので、結構煩わしい。しかも、点眼は5分の間隔を空けて注せというので、時間もかかるのが大変。でも、こんなによく見えるようになったのだから文句は言えない。
8月12日、定期検査で異常がないので、洗顔、洗髪もOKとのこと。ただし点眼は約1か月続ける必要があるという。視力も1・2になっていた。
左目の手術は、9月7日の予定。

(2023年8月12日記)

(備考)
「老爺心お節介情報」は、阪野貢先生のブログ(「阪野貢 市民福祉教育研究所」で検索)に第1号から収録されていますので、関心のある方は検索してください。
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阪野 貢/「考えること」を考える:「哲学対話」をめぐって ―梶谷真司著『考えるとはどういうことか』のワンポイントメモ―

意見とは、自分が考えてきた「問い」に対して、自分が出した「答え」である(山田ズーニー『伝わる・揺さぶる! 文章を書く 』(PHP新書、2001年11月、41ページ)。

〇筆者(阪野)の手もとに、哲学者の梶谷真司(かじたに・しんじ)の『考えるとはどういうことか―0歳から100歳までの哲学入門―』(幻冬舎新書、2018年9月。以下[1])という本がある。梶谷にあっては、哲学とは、「考える」営みそのものであり、「問い、考え、語ること」である(32ページ)。
〇梶谷はいう。「考える」という営為は本来、自分自身に問いかけ、自分なりの答えを出すことであり、自分自身との「対話」を意味する。しかし、ひとりで悶々(もんもん)と考えることには限界がある。また、現実の家庭や学校、社会(会社、地域等)における「考える」という営為は、既に決められている「正しいこと」「よいこと」「他者の意に沿うこと」の「正解」を探し求めるそれであり、そう考えさせられている。とりわけ学校では、生徒は教師や教科書によって提示された問いについて、強制的に考えさせられ、ひとつの正解を見出し、統制・画一化されている。また、特定の基準に即して選別され、序列化され、場合によっては周縁化され、排除される(12~13、52~53ページ)。
〇そこで、より広く、深く考えるためには、多様な立場の人が集まり、自由に「共に問い、考え、語り、聞くこと」が肝要になる。別言すれば、複数の人がいっしょに問い、その答えを探して考え、言葉にして語り、それを聞き、それを受け止める(「受け入れる」ではない)ことが、「共に考える」ということである。その際、とりわけ大事なのは、分からないことを「問う」ことである。それによって、はじめて「考える」ことができる。分からないことが増えれば、それだけ問うこと、考えることが増えるのである。そして、その過程を通して、自分を縛りつけるさまざまな制約(息苦しい世間の常識や慣習、人間関係、自分自身の思い込みや不安・恐怖、こだわり等)から解き放たれ、他の人といっしょに「自由になること」ができる。それは、人と人が「共に生きること」を意味する。こうした「共に問い、考え、語り、聞くこと」の具体的な方法(method)と方法論(methodology、方法の体系・システム)が、知識として学ぶ哲学(philosophy)ではなく、梶谷のいう「共に考える営み」としての哲学(philosophize)、すなわち「哲学対話」である(12~17ページ)。
〇「哲学対話」では、多様な立場の人が参加することが重要となる。適正な参加人数は10~15人前後とされる。また参加者は、対等であることを明確にするために、輪になって座る。そして、進行役(ファシリテーター)の支援のもとに、「共に考える体験」(共に問い、考え、語り、聞くこと)を通して個人的・主観的な感覚を覚え、それが「共感」を呼び起こし、思考を深化・拡大させる。こうした「哲学対話」について、[1]における梶谷の論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

哲学対話のルールと特徴―「他者へ」と「世界へ」と自らを開く
①何を言ってもいい
哲学対話においてもっとも大切なのは、「自由に考えること」であり、「問う」と「語る」からいかにして制約を取り払うかである。自由に問い、自由に語ることによって、はじめて自由に考えられるようになる。(47、48ページ)
②人の言うことに対して否定的な態度をとらない
自分の言うことが同意されなくても、決して否定されないと分かっていることが重要である。自分の言うことをそのまま受け止めてもらえると思えてはじめて、何でも言えるようになる。(55~56ページ)
③発言せず、ただ聞いているだけでもいい
話したくなければ黙っていていい。その自由がなければ、話したいことを話す自由もないことになる。「聞く」というのは、対話への立派な参加である。聞いていることじたいが、対話にとって決定的に重要である。(58ページ)
④お互いに問いかけるようにする
「問い」かけができなければ、対話で思考を深めたり広げたりすることはできない。問うことを学ばないところでは、考えることも学べるはずがない。考えるとは、「分からないことを増やすこと」であり、何を質問してもいい、ということである。(60、64、66ページ)
⑤知識でなく、自分の経験にそくして話す
知識に基づいて話したり、人の言葉や何かの用語を引き合いに出すのは、権威づけをし、それによって自分の優位を示そうとしていることが多い。「共に考える」ためには、
自分の言葉で、自分の経験や思いと結びつけたり、身近な例を出したりして話せばいいのである。(71ページ)
⑥話がまとまらなくてもいい
話し合いの答えを安易に先送りすることがあってはならないが、お互いに問い、考えた結果、結論が出るのであれば、それでいい。大切なのは、言いたいことを言い、問いたいことを問い、考えるべきことを考えたかどうかなのである。(75ページ)
⑦意見が変わってもいい
哲学対話では、みんなで考えているのだから、考えを深めたり広げたりするのであれば、個々人の意見は変わってもいい。意見が変わるということは、思考が深まった、広まった、違う角度から考えた、前提が問い直されたということであり、望ましいことである。(76ページ)
⑧分からなくなってもいい
分からなくなるというのは、問いが増える、考えることが増えることである。対話で分からなくなるのは、望ましいことであり、他者へと、世界へと自らを開いていくことである。(76、77ページ)

哲学対話の意義―「自由」と「責任」と「自分」のための哲学
哲学対話は「自由」を実感し理解する格好の機会である
哲学対話で自分とは違う考え方、ものの見方を他の人から聞いた時、自分自身から、そして自分の置かれた状況、自分のもっている知識やものの見方から距離をとる。その時私たちは、それまでの自分自身から解き放たれる。自分を縛っているもの――役割、立場、境遇、常識、固定観念など――がゆるみ、身動きがとりやすくなる。/また、哲学対話で今まで分かっていたことが分からなくなると、いわゆるモヤモヤした感覚、それこそ靄(もや)の中に迷い込んだ感じがする。/この自分を縛りつけていたものからの解放感と、自分を支えていたものを失う不安定感――この両義的感覚は、まさしく自由の感覚であろう。(93、94ページ)
哲学対話において感じるこの自由は、感覚じたいが個人的であり、主体的であるとしても、だからといって、他者と共有できないわけではない。そこで自分が感じる自由は、まさにその場で他の人と共に問い、考え、語り、聞くことではじめて得られるものである。だからそれは、他者と共に感じる自由なのだ。/こうして私たちは考えることで自由になり、また他の人といっしょに考えることで、お互いが自由になる――哲学対話は、このような固有の、そしておそらくは、より深いところにある自由を実感し理解する格好の機会なのである。(96~97ページ)

哲学対話を通して生まれる「責任」は他者と共に享受する権利である
哲学対話を通して自ら考え、決めた時に生じる責任の問題は、ポジティブな意味での責任である。それは、自由と引き換えにしぶしぶ負う義務ではなく、むしろ自由と共に手に入れるべき権利のようなものではないか。(98ページ)
私たちは、自ら考えて決めた時にだけ、自分のしたことに責任をとることができる。だから自ら考えていないということは、自分で決めていないということであり、そうであれば、やったことの責任は、本来とれないはずである。(100ページ)
哲学対話で選んだこと、決めたことは、結果がどうであれ、責任をとることができる。そうして私たちは、ただ自由だけを求めるのでも、責任だけを甘受するのでもなく、その間で妥協するのでもなく、自由と責任をいっしょに取り戻す。それは他でもない、自分自身の人生を生きることなのだ。/しかもそれは、対話を通して生まれた他者との共同的な関係に根差している。だからそこで引き受ける責任は、一人で負わなければならない責めでも、できれば避けたい負担でもない。他者と共に享受する権利となるのだ。(104ページ)

哲学対話は人生を「自分」のものにする営みである
哲学対話は、“恋愛”と同じである。/恋愛も人生も、自分で身をもってやってみるしかない。一から始めなければならない。うまくいかなくても、時に嫌気がさしても、臆病になっても、手放してしまうわけにはいかない。(110ページ)
哲学対話=「考えること」もそれと同じだ。レベルの高さ、厳密さ、深さ、一貫性を求める必要はかならずしもない。誰のためでもない。自分のために考えるのだ。どんなにつたなくても、自分でつまずいて自分で考えたことしか、その人のものにはならない。/だから、とにかくやってみればいい。そうして自由と思考を自分のものにし、人生を自分のものにするのだ。その時、いっしょに考えてくれる人がいたら続けられる。だから哲学は対話でするのがいいのだ。(110~111ページ)

哲学対話の核心―自分自身の「問い」をもつことと「考えること」の関連性
「問い、考え、語り、聞くこと」としての哲学(哲学対話)において、もっとも重要なのは「問うこと」である。「問い」こそが、思考を哲学的にする。/「考える」というのは、自発的で主体的な活動を指す。それは「問い」があってはじめて動き出す。問い、答え、さらに問い、答える――この繰り返し、積み重ねが思考である。それを複数の人で行えば、対話となる。(115ページ)
考えるには、考える動機と力がいる。自分自身が日ごろ、疑問に思っていることはつい考えたくなる。考えずにはいられない。こういう考える力をくれる問い、つい考えたくなる問い、考えずにはいられない問い、それが自分の問いであり、そうした問いを問うのが、自分を問うことである。/自ら問いたいことを問い、そこから考えることは、「問題を解くために考える」=「考えさせられる」のとは、まったく違うのである。(118~119、120ページ)
知識だけ学んで問うことがなければ、思考はどこにも行かず、育つこともない。知識もなしに問うばかりでは、思考は方向を見失う。知識はそこからさらに問うてこそ意味があり、問いは知識によってさらに発展する。だから哲学的に考えるためには、答えのある問いとない問い、閉じた問い(簡潔に答えられてそれ以上の説明を要しない問い)と開いた問い(答えに説明を要する問い)の両方が必要なのである。(141、144ページ)

〇およそ以上が、筆者の関心に基づいて捉えた、[1]が説く「哲学対話」や「考えること」の理念や意義、方法についての要点である(哲学対話の具体的な実践法については省略する)。そこには、「共に考える」ことを拡大・深化させるに際して、例えば、「論理的思考と批判的思考」、「具体的思考と抽象的思考」、「課題解決型思考と価値創造型思考」、「帰納的思考と演繹的思考」(複数の個別事例から一般原則・理論(結論)を導き出す思考と、一般原則・理論(一般論)を前提に個別の結論を導き出す思考)、あるいは他の人の考えの「容認と受容」などをめぐる疑問なしとしない。その点についての検討は別稿に譲ることにして、ここでは、再認識する意味で次の一文を引いておくことにする。それは、例によって唐突であるが、「まちづくりと市民福祉教育」の実践・研究に求められるひとつの理念や思想に通底するものでもある。地域コミュニティにおいて「共に考える」ことを通して自分の生きる現実を問い、考え、それを変え、自由と責任を取り戻してだれもが「よく生きる」、という理念や思想(地域共創のための自己責任と自己実現、相互責任と相互実現)である。

地域コミュニティにおいて、地元住民が当事者として地域をどうするかを考えなければならないはずなのに、それを国や自治体、もしくはどこかの企業が代わって考え、決めてきた。/何か問題が起きたら、住民は行政や企業を非難するが、彼らが責任をとることはない。当たり前である。それは彼らの人生ではないからだ。他方、当事者である住民は、自分たちで考えも決めもしなかったから、責任がとれない。それなのにその結果を引き受けるしかない。何とも理不尽なことではないか。(102~103ページ)

私たちは、自分の生き方に関わることを誰かに委ねるべきではない。また誰かに代わって考えて決めてあげることもやめなければならない。人間は自ら考えて決めたことにしか責任はとれないし、自分の人生には自分しか責任はとれないのだ。/しかもそのさい、一人で考えるのではなく、他者と共に考えることが重要なのだ。(103ページ)

哲学は夢を追いかけるユートピア思想ではないし、社会全体を変えようとする革命思想でもない。それは「考える」ということを通して、誰もが自分の生きる現実をほんの少しでも変え、自由と責任を取り戻して生きるための小さな挑戦である。そこで必要なのは、高邁(こうまい)な理想よりも徹底的なリアリズルなのだ。(259ページ)

〇筆者の手もとにもう1冊、「哲学対話」に関する本がある(2冊しかない)。哲学者の河野哲也(こうの・てつや)が編集する『ゼロからはじめる哲学対話―哲学プラクティス・ハンドブック―』(ひつじ書房、2020年10月。以下[2])がそれである。[2]は、哲学対話=哲学プラクティスに関する論点や言説が網羅的に記されているハンドブック(マニュアル)である。そこでは、「哲学対話とは、人が生きるなかで出会うさまざまな問いを、人々と言葉を交わしながら、ゆっくり、じっくり考えることによって、自己と世界の見方を深く豊かにしていくこと」(寺田俊郎:3ページ)をいう。
〇そして、哲学対話の特徴と実際的な意義・効用のポイントについて次の諸点を指摘する。[1]における説述と重複するが、参考に供しておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

哲学対話の特徴―「自由」によって自分と世界の見方を深く豊かにする
(1)哲学対話には問いがある
● 哲学的な問いは対話を必要とし、哲学的な問いを考える唯一の方法は対話である。
● 哲学的な問いの最終的な答えは誰も知らないのだから、対話に参加する人々の関係は平等・対等になる。
(2)哲学対話は答えを急がない
● 哲学対話は、速やかに答えを出さなければならないという圧力から自由である。
● 自分の意見を他の人々の意見に照らして吟味することによって、自分の意見の根底にある暗黙の前提に気づくことができる。
● その前提を明らかにすることは、自分の意見を明らかに、深く、豊かにしていくために必要であると同時に、互いに意見を理解するためにも必要なことである。
● 哲学対話が成功するということは、新たに問いが見出されるということであり、哲学対話を重ねれば重ねるほど問いが生まれ、さらに哲学対話が続いていく。
(3)哲学対話は自他の考えが変わっていくことを大切にする
● 自分で考え、他の人々と共に考えることによって、自他の考えが変わっていくことを自覚し認めあうことができる。
これらの特徴から、哲学対話を成立させるためにもっとも大切な条件は「自由」――問いを立てる自由、意見を表明する自由、意見に対する問いを立てる自由、答えを出す圧力からの自由、そして自分の考えを変える自由、である。(寺田俊郎:3~9ページ)

哲学対話の意義・効用―共生社会・成熟社会の構築と集団的意思決定に貢献する
(1)哲学対話は、多様な人々が、人が生きるうえで大切な問いを、互いの意見を尊重しあいつつ考えることによって対話の文化を醸成し、共生する社会を築くことに役立つ。
(2)哲学対話は、共生社会の別言であるが、風通しがよく、居心地がよく、生きやすい成熟した社会を築くことに貢献する。
(3)哲学対話は、重大な根本的な問題について問い、熟議し、まともな集団的意思決定を行うことに貢献する。それは民主主義に貢献するということである。(寺田俊郎:17~22ページ)。

自分の「考え」を持っていないということは、この考えを作りあげるための「考え方」を持っていないということである。(中略)何かの思想を持つことは、そうむつかしいことではない。それには出来合いのいろいろの思想があるからである。日本は今日まで、いつもそういう出来合いの西洋の思想を貰(もら)ってきて、サシ根して育てようとした。(中略)しかしほんとうに自分の考えを持つためには、それを持つ手段としての自分の「考え方」がなくてはならない。その考え方が我々にないならば、新たに学ぶほかはないのである(笠信太郎『ものの見方について』(改訂新版)角川ソフィア文庫、1966年7月、6ページ)。

追記
梶谷真司の次の文献も参照されたい。
・『人生を変える文章教室 書くとはどういうことか』飛鳥新社、2022年12月。
・『問うとはどういうことか―人間的に生きるための思考のレッスン―』大和書房、2023年8月。

阪野 貢/追補/「キャリア」再考:計画的偶発性理論をめぐって―J.D.クランボルツ・A. S.レヴィン著『その幸運は偶然ではないんです!』のワンポイントメモ―

キャリア研究では、明確な目標を立て、そこに到達するために「逆算」して、計画化に努力していくという考え方(「キャリア・プランニング」論)ではなく、偶然のチャンスを生かして、上手に転換を図りながら自分のキャリアを歩んでいくという考え方(「計画的な偶発性(プランド・ハプンスタンス)」の理論)が主流となっている(児美川孝一郎著『夢があふれる社会に希望はあるか』KKベストセラーズ、2016年4月、136~137ページ)。

〇本稿は、<雑感>(177)夢の正体とキャリア教育の功罪―児美川孝一郎著『夢があふれる社会に希望はあるか』のワンポイントメモ―/2023年6月4日投稿、そのなかの上記の一節に関する追補である。
〇いま、いわゆるVUCA(ブーカ)――Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)の時代にあって、自分の「経歴」や「職歴」、すなわち「キャリア」(career)を他人まかせや組織まかせではなく、自らどのように構想し形成・開発していくかが問われている。
〇まず、「キャリア」という言葉・概念について簡単に押さえておきたい。ひとつは、厚生労働省の「キャリア形成を支援する労働市場政策研究会」報告書(2002年7月)がいう「キャリア」と「キャリア形成」についてである。いまひとつは、中央教育審議会の「今後の学校におけるキャリア教育・職業教育の在り方について」答申(2011年1月)がいう「キャリア」と「キャリア発達」についてである。

「キャリア」と「キャリア形成」
―厚生労働省「キャリア形成を支援する労働市場政策研究会」報告書(2002年7月)―
近年、労働市場の変化や労働者等の職業意識の変化に伴い、「キャリア」や「キャリア形成」等の言葉が個人の職業生活を論ずる場合のキーワードの一つとなっている。(中略)
「キャリア」とは、一般に「経歴」、「経験」、「発展」さらには、「関連した職務の連鎖」等と表現され、時間的持続性ないし継続性を持った概念として捉えられる。
「職業能力」との関連で考えると、「職業能力」は「キャリア」を積んだ結果として蓄積されたものであるのに対し、「キャリア」は職業経験を通して、「職業能力」を蓄積していく過程の概念であるとも言える。
「キャリア形成」とは、このような「キャリア」の概念を前提として、個人が職業能力を作り上げていくこと、すなわち、「関連した職務経験の連鎖を通して職業能力を形成していくこと」と捉えることが適当と考えられる。
また、こうした「キャリア形成」のプロセスを、個人の側から観ると、動機、価値観、能力を自ら問いながら、職業を通して自己実現を図っていくプロセスとして考えられる。

「キャリア」と「キャリア発達」
―中央教育審議会「今後の学校におけるキャリア教育・職業教育の在り方について」答申(2011年1月)―

人は,他者や社会とのかかわりの中で、職業人、家庭人、地域社会の一員等、様々な役割を担いながら生きている。これらの役割は、生涯という時間的な流れの中で変化しつつ積み重なり、つながっていくものである。また、このような役割の中には、所属する集団や組織から与えられたものや日常生活の中で特に意識せず習慣的に行っているものもあるが、人はこれらを含めた様々な役割の関係や価値を自ら判断し、取捨選択や創造を重ねながら取り組んでいる。
人は、このような自分の役割を果たして活動すること、つまり「働くこと」を通して、人や社会にかかわることになり、そのかかわり方の違いが「自分らしい生き方」となっていくものである。
このように、人が、生涯の中で様々な役割を果たす過程で、自らの役割の価値や自分と役割との関係を見いだしていく連なりや積み重ねが、「キャリア」の意味するところである。このキャリアは、ある年齢に達すると自然に獲得されるものではなく、子ども・若者の発達の段階や発達課題の達成と深くかかわりながら段階を追って発達していくものである。(中略)
このような、社会の中で自分の役割を果たしながら、自分らしい生き方を実現していく過程を「キャリア発達」という。

〇要するに、厚生労働省報告では「キャリア」とは、単なる「職歴」ではなく、職業経験を通してあらゆる経験が持続的・継続的に蓄積・連鎖して構築されていくこと(またその過程やさま)をいう。中央教育審議会答申では「キャリア」とは、「人が、生涯の中で様々な役割を果たす過程で、自らの役割の価値や自分と役割との関係を見いだしていく連なりや積み重ね」の総体を意味する。この点に関して文部科学省は、「『働くこと』については、職業生活以外にも家事や学校での係活動、あるいは、ボランティア活動などの多様な活動があることなどから、個人がその学校生活、職業生活、家庭生活、市民生活等の生活の中で経験する様々な立場や役割を遂行する活動として、幅広くとらえる必要がある」(文部科学省『中学校キャリア教育の手引き』2011年5月、16ページ)とする。留意しておきたい。
〇筆者(阪野)の手もとに、J.D.クランボルツ・A.S.レヴィン著、 花田光世・大木紀子・宮地夕紀子訳『その幸運は偶然ではないんです!―夢の仕事をつかむ心の練習問題―』(ダイヤモンド社、みすず書房、2005年11月。2022年2月・第18刷。以下[1])という本がある。クランボルツ(1928年~2019年)は、代表的なキャリア理論のひとつである「計画的偶発性理論/計画された偶発性理論」(Planned Happenstance Theory)の提唱者として著名である。
〇計画的偶発性理論の骨子は、① 人生やキャリアは、(その8割が)想定外の出来事や「偶然の出来事」(happenstance)によって影響を受ける。② 偶然の出来事に対して積極的に行動・努力することによって、キャリアを発展させることができる。③ 偶然の出来事をただ待つだけでなく、それを引き寄せる・創り出すために積極的に行動し、変化する状況に注意を向けることによってチャンスが生まれる。また、チャンスが来たときにそれを掴(つか)める準備をしておくことによってキャリア形成を図ることができる、というものである。
〇[1]はこういう。「人生には、予測不可能なことのほうが多いし、あなたは遭遇する人々や出来事の影響を受け続ける。結果がわからないときでも、行動を起こして新しいチャンスを切り開くこと、偶然の出来事を最大限に活用することが大事」である(1ページ)。「この本を通してあなたに伝えたいのは、結果がわからないときでも、行動を起こして新しいチャンスを切り開くこと、偶然の出来事を活用すること、選択肢を常にオープンにしておくこと、そして人生に起きることを最大限に活用すること。(中略)うまくいっていない計画に固執するべきではない」ことである(2ページ)。「この本で伝えたい基本的なことは、積極的に行動してチャンスをつかみ、新しい経験を最大限に活かそうとすることで満足のいくキャリア、満足のいく人生を見つけることができ」ということである(206ページ)。
〇そして、偶然の出来事をキャリア形成に繋げるためには、次のような行動(「行動原則」)が求められるという。① 好奇心(curiosity)/興味や関心をそそる活動に積極的に関わり、それを学びの経験にする(206ページ)。② 持続性(persistence)/失敗してもキャリアの夢を見続け、それが実現するための行動を起こし努力する(52ページ)。③ 楽観性(optimism)/失敗に対して悲観的にならず、建設的な行動を助けるような前向き(ポジティブ)な考え方を持つ(209ページ)。④ 柔軟性(flexibility)/ひとつの目標や計画に固執せず、他の選択肢にもオープンになる(82ページ)。⑤ 冒険心(risk taking)/結果が不確かであっても、新しい活動に挑戦し、行動を起こしてチャンスを切り開く(1ページ)、がそれである(「訳者あとがきにかえて」225ページ参照)。
〇およそ以上が、筆者の偏狭な関心事にもとつぐ[1]の議論の抜き書き・要約であり、<雑感>(177)の追補である。
〇なお、本稿を草することにした意図にいまひとつ、私事にわたるがT氏のキャリアをめぐる筆者の思いや願いがある。氏は今年度から、厳しい条件を承知のうえで所属機関を移籍し、研究・教育のステージを変えることになった。それに関して[1]のなかから、クランボルツとレヴィンの次の言葉を借りたい。T氏への敬意とエールでもある。いつも好奇心を持ち、いつも学び、いつも挑戦してほしいのである(223ページ)。

想定外の出来事は常に起こります。その中のいくつかは、あなた自身の行動の結果として起きています。そしてその中のいくつかは、あなたのキャリアに大きな影響を与える可能性があるのです。(27ページ)

あなたが夢を追求する道中では、よく目を開き耳をすませておくことをお勧めします。チャンスがやってきたときにそれをつかむ準備ができていれば、想定外の出来事があなたをさらによい結果へと導く可能性があります。(53ページ)

付記
〇筆者の手もとに、雇用ジャーナリストの海老原嗣生(えびはら・つぐお)が書いた『クラウンボルツに学ぶ夢のあきらめ方』(星海社新書、2017年4月。以下[2])という本がある。[2]では、キャリア論の「基礎中の基礎(バイブル)」(8ページ)と評するクランボルツの計画的偶発性理論を平易に、小気味よく解説している。図1は、計画的偶発性理論のポイントを整理したものである。参考に引いておくことにする。海老原はいう。「夢はときにあきらめる(消化する)べきものであり、ときに新たに見つける(代謝する)べきものである」。そのため(代謝するため)にはまず「踏み出すこと(好奇心、楽観性、冒険心)」、もう一度「いちから始めること(柔軟性)」、そして「続けること(持続性)」が重要となる。

 

 

 

阪野 貢/「利他」再考の3冊:利他は事後的であり、利他的になろうとする作為は利他を遠ざける ―中島岳志著『思いがけず利他』等のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、伊藤亜紗(編)・中島岳志・若松英輔・國分功一郎・磯崎憲一郎著『「利他」とは何か』(集英社新書、2021年3月。以下[1])という本がある。伊藤は美学者、中島は政治学者、若松は批評家・随筆家、國分は哲学者、そして磯崎は小説家である。分野も背景も異なるこの5名の研究者が、東京工業大学の「未来の人類研究センター」(2020年2月設立)のメンバーとして取り組んでいるのが、「利他」をめぐる問題である。[1]は、「全員ではぐくんできた利他をめぐる思考の、5通りの変奏」であり、いまだその「出発点であり、思考の『種』にすぎない」という(8ページ)。
〇[1]におけるひとつのキーワードは、「うつわ」――「うつわになること」「『うつわ』的利他」である。伊藤は次のようにいう。

利他とは「うつわ」のようなものではないか。相手のために何かをしているときであっても、自分で立てた計画に固執せず、常に相手が入り込めるような余白を持っていること。それは同時に、自分が変わる可能性としての余白でもある。この何もない余白が利他であるとするならば、それはまさにさまざまな料理や品物をうけとめ、その可能性を引き出すうつわのようである。(58ページ。語尾変換)

〇人間は「うつわ」のような存在として生きることによって、「利他」が宿る。こうした人間観を生み出す伊藤の言説は、こうである。利他的な行動には本質的に、「これをしてあげたら相手にとって利になるだろう」という、「私の思い」が含まれている。その「私の思い」は私の思い込みでしかなく、「自分の(利他的な)行為の結果はコントロールできない」、すなわち見返りは期待できない(「利他の不確実性」)。自分の利他的な行為は、相手は「喜ぶはずだ」「喜ぶべきだ」という押しつけが始まるとき、人は利他を自己犠牲と捉えており、その見返りを相手に求めていることになる。その点において、利他的な「思い」や「行為」は、相手をコントロールしたり、支配することにつながる危険をはらんでいる。そうならないためには、相手を「信頼」してその自律性を尊重し、相手の言葉や反応を「聞く」ことを通じて相手の潜在的な可能性を引き出すこと、すなわち相手の力を信じることが必要不可欠となる。それは、「こちらには見えていない部分がこの人にはあるんだ」という距離と敬意を持って、相手を気づかうこと(「ケア」)である。この他者への気づかい、すなわち「ケアとしての利他」は、相手の隠れた可能性を引き出すこと(「他者の発見」)になり、それは同時に自分が変わること(「自分の変化」)になる。そのためには、こちらから善意を押しつけるのではなく、相手を信頼し、利他の結果の可能性や意外性を受け入れる、うつわのような「余白」を持つことが必要となる。この自由な余白、スペースは、とくに複数の人が「ともにいる」ことをかなえる場面で重要な意味を持つ(50~56、59ページ)。
〇筆者の手もとに、中島岳志著『思いがけず利他』(ミシマ社、2021年10月。以下[2])という本がある。中島は[1]の著者のひとりである。[2]において中島は、「利他の本質に『思いがけなさ』ということがある。利他は人間の意思を超えたものとして存在している」(6ページ)と説く。具体的にはこうである。「利他は自己を超えた力の働きによって動き出す(「縁起による業」:私はさまざまな縁によって(縁起的現象として)存在している)。利他はオートマティカルなもの(意思を超えたもの)。利他はやって来るもの(利他の与格性)。利他は受け手によって起動する(利他は事後的)。そして、利他の根底には偶然性の問題がある(利他の偶然性)」(174ページ。括弧内は筆者)。
〇[2]のうちから、中島の言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

「共感」が利他的行為の条件となったとき、「別の規範」が起動し「共感される人間」になることが求められる
通常、利他的行為の源泉は、「共感」にあると思われている。/他者への共感、そして贈与(利他)。この両者のつながりは非常に重要である。(21ページ)/しかし、共感が利他的行為の条件となったとき、例えば重い障害のある人たちのような日常的に他者からの援助・ケアが必要な人は、「共感されるような人間でなければ、助けてもらえない」といった思いに駆(か)られる。/他者に自分の苦境を伝えることが苦手な人、笑顔を作ることが苦手な人、人付き合いが苦手な人。人間は多様で、複雑である。だから「共感」を得るための言動を強(し)いられると、そのことがプレッシャーとなり、精神的に苦しくなる人は大勢いる。/そもそも「共感される人間」にならなければならないとしたら、自分の思いや感情、個性を抑制しなければならない場面が多く出てくる。(22ページ)/「共感」されるために我慢を続ける。自分の思いを押し殺し続ける。むりやり笑顔を作る。そうしないと助けてもらえない。そんな状況に追い込むことが「利他」の影で起きているとすれば、問題は深刻である。(23ページ)/さらに、「より深い共感」を利他の条件にしてしまうと、今度は自分の思っていることや感情を露わにしなければならないという「別の規範」が起動してしまう。そうすると、「自分をさらけ出さないと助けてもらえない」という新たな恐怖が湧き起こってくる。(24ページ)

利他の主体はどこまでも受け手側にあり、その意味において私たちは利他的なことを行うことはできないのである
特定の行為が利他的になるか否かは、事後的にしかわからない。いくら相手のことを思ってやったことでも、それが相手にとって「利他的」であるかはわからない。与え手が「利他」だと思った行為であっても、受け手にとってネガティブな行為であれば、それは「利他」とは言えない。むしろ、暴力的なことになる可能性もある。いわゆる「ありがた迷惑」というものである。/つまり、「利他」は与えられたときに発生するのではなく、それが受け取られたときにこそ発生するのである。自分の行為の結果は、所有できない。あらゆる未来は不確実である。そのため、「与え手」の側は、その行為が利他的であるか否かを決定することができない。あくまでも、その行為が「利他的なもの」として受け取られたときにこそ、「利他」が生まれるのである。(122ページ)/受け手が相手の行為を「利他」として認識するのは、その言葉(や行為など)のありがたさに気づいたときであり、発信と受信の間には長いタイムラグがある。(128ページ)/つまり、発信者にとって、利他は未来からやって来るものである。また、発信者を利他の主体にするのは、どこまでも、受け手の側であるということである。この意味において、私たちは利他的なことを行うことができないのである。/発信者にとって、利他は未来からやって来るものであり、受信者にとっては、「あのときの一言」(や「あのときの行為」)のように、過去からやって来るもの。これが利他の時制である。(132ページ)

利他的になるためには「偶然の自覚」に基づいて器(うつわ)のような存在になり、与格的主体を取り戻すことが必要である
私という存在は、突然、根拠なく与えられたものである。あらゆる存在は、自己の意志によって誕生したのではなく、意志の外部の力によってもたらされたものである(与格的な存在)。ここに存在の被贈与性という原理がある。/そして、誕生以降も私という存在の奇跡は続く。今の私は、様々な偶然性の奇跡的な組み合わせによって成立している。私という個性は、単純な因果関係では説明できない天文学的な縁起によって構成されている。(150ページ)/この「私が私であることの偶然性」についての自覚が、「自分が現在の自分ではなかった可能性」「私がその人であった可能性」へと自己を開くことになる。(143ページ)/この「偶然の自覚」が他者への共感や寛容へとつながり、連帯意識を醸成し、「利他」が共有される土台を築くことになる。(143、145ページ)/ここで重要なのは、私たちが偶然を呼び込む器(うつわ)になることである。偶然そのものをコントロールすることはできない。しかし、偶然が宿る器になることは可能である。(176ページ)/そして、この器にやって来るものが「利他」である。器に盛られた不定形の「利他」は、いずれ誰かの手に取られる。その受け手の潜在的な力が引き出されたとき、「利他」は姿を現し、起動し始める。/このような世界観のなかに生きることが、「利他」なのである。/だから、利他的であろうとして、特別のことを行う必要はない。毎日を精一杯生きることである。私に与えられた時間を丁寧に生き、自分が自分の場所で為(な)すべきことを為す。能力の過信を諫(いさ)め、自己を超えた力に謙虚になる。その静かな繰り返しが、自分という器を形成し、利他の種を呼び込むことになるのである。(177ページ)

〇筆者の手もとに、若松英輔著『はじめての利他学』(NHK出版、2022年5月。以下[3])という本がある。若松も[1]の著者のひとりである。若松はいう。人と人との「つながり」が問われている今日、「私たちがもう一度、他者とともに生きるために『つながり』を持続的に深めるには何が必要か。この問題を解く鍵語(キーワード)として考えてみたいのが『利他』である」(6ページ)。そして若松は、[3]において、日本仏教の視座から最澄や空海、儒教のそれから孔子や孟子、西洋哲学からフランスのオーギュスト・コント(1798年~1857年)やアラン(本名:エミール=オーギュスト・シャルティエ、1868年~1951年)らの「利他」の思想を取りあげる。とともに、「利他を生きた人たち」として吉田松陰や西郷隆盛、二宮尊徳、中江藤樹らの「利他」の哲学を紹介し、論述する。そのうえで若松は、ドイツの心理学者・哲学者であったエーリッヒ・フロム(1900年~1980年)の『愛するということ』(1956年)を読み解き、「自分を愛すること」、すなわち「自分を深く信頼すること」が「利他」につながる、と主張する。次の一節が若松の結論である。

自分で自分のことを愛することができれば、その人は自分を固有なものにできる。そして、そのうえで誰かのことを愛することができれば、その人は他人のことを固有な存在として認めることができる。自分自身が固有であると知ることは、他者が固有であると知ることである。それはすなわち自他ともに等しい存在であることを経験するということでもある。/愛を通して利他を考えるとき、私たちは愛の前で等しくなければならない。Aさんのことは愛せて、Bさんのことは愛せないのであれば、それは利他がうまく働いている状態とはいえないのである。/利他には等しさが必要である。そして、そのためにはまず、他者を愛するように、自分を愛し、信じることが大切なのである。/(人は唯一無二の存在であることを認め、自他を愛するという)真の意味の「愛」があるとき、そこに在るものはすべて等しくなる。ただ人間であるというそのことにおいて、等しく貴い存在になる、のである。(118~119ページ。語尾変換)

〇前述の[1]で伊藤は、障がい者へのインタビューを通じて、こう語る。晴眼者が視覚障がい者に先回りしてことこまかに道案内をするとき、それはしばしば「善意の押しつけ」になってしまう。それは、視覚障がい者にとっては、「障がい者を演じること」が求められることになり、自分の聴覚や触覚を使って自分なりに世界を感じることができなくなってしまう。それはまた、障がい者が「健常者の思う『正義』を実行するための道具にさせられてしまう」(47ページ)ことになる。さらに伊藤は、認知症当事者の言として、こういう。認知症の当事者がイライラし怒りっぽいのは、支援や援助を求めていないのに周りの人が助けすぎるからではないか(46~48ページ)。福祉教育の実践・研究において、深く留意したい点である。
〇なお、筆者はしばしば、とりわけ福祉教育実践をめぐって「思いやり」と「思い違い」「思い上がり」はときとして紙一重(かみひとえ)であり表裏一体である、と語ってきた。ここで改めて強く認識したい。
〇加えて、次のことを付言しておきたい。人間は日常生活や社会生活を営むうえで何らかの支援や援助を受けるに際して、「たすけられ上手・たすけ上手に生きる」ことが問われることがある。その際の「たすけられ上手」とは、  甘え上手や集(たか)り上手ではないのは当然のことながら、社会(世間、財界)や支援者・援助者が期待し求める「たすけられ上手を演じる(あるいは演じさせられる)こと」(演じるさまや人)であってもならない。

ユネスコ学習権宣言/サラマンカ宣言/ハンブルグ宣言

ユネスコ学習権宣言/サラマンカ宣言/ハンブルグ宣言


ユネスコ学習権宣言

学習権

学習権とは、読み書きの権利であり、問い続け、深く考える権利であり、想像し、創造する権利であり、自分自身の世界を読みとり、歴史をつづる権利であり、あらゆる教育の手だてを得る権利であり、個人的・集団的力量を発達させる権利である。/学習権は、人間の生存にとって不可欠な手段である。/学習権なくしては、人間的発達はあり得ない。/学習権はたんなる経済発展の手段ではない。それは基本的権利の一つとしてとらえられなければならない。学習活動はあらゆる教育活動の中心に位置づけられ、人々を、なりゆきまかせの客体から、自らの歴史をつくる主体にかえていくものである。

 

<ユネスコ「学習権宣言」(抜粋)「第4回国際成人教育会議」(フランス・パリ)1985年3月採択。国民教育研究所 訳>


サラマンカ宣言 ― インクルーシブ教育 ―

インクルーシブ教育

すべての子どもは誰であれ、教育を受ける基本的権利をもち、また、受容できる学習レベルに到達し、かつ維持する機会が与えられなければならず、/特別な教育的ニーズをもつ子どもたちは、彼らのニーズに合致できる児童中心の教育学の枠内で調整する、通常の学校にアクセスしなければならず、/このインクルーシブ志向をもつ通常の学校こそ、差別的態度と戦い、すべての人を喜んで受け入れる地域社会をつくり上げ、インクルーシブ社会を築き上げ、万人のための教育を達成する最も効果的な手段であり、さらにそれらは、大多数の子どもたちに効果的な教育を提供し、全教育システムの効率を高め、ついには費用対効果の高いものとする。

 

<ユネスコ「サラマンカ宣言」(抜粋)「特別ニーズ教育世界会議:アクセスと質」(スペイン・サラマンカ)1994年6月採択。国立特別支援教育総合研究所 訳>


ハンブルグ宣言 ― 成人学習 ―

成人学習

生涯にわたる過程という視点からみた青少年教育および成人教育の目的は、人びとと地域社会の自律と責任感を育み、経済・文化・社会全体の変化に対応する能力を強め、共存と寛容を促し、人びとが情報を得て地域社会に創造的に参加することを促進すること、てみじかに言えば、目の前に直面している自分たちの運命や社会の課題に対して、人びとや地域社会が自ら対処できる力を高めることである。成人学習の手法は、人びとの伝統、文化、価値、過去の経験に基づかなければならない。また実施にあたっては、市民の積極的な参加と表現を促すための多様な方法がとられなければならない。

 

<ユネスコ「成人学習に関するハンブルグ宣言」(抜粋)「第5回国際成人教育会議」(ドイツ・ハンブルグ)1997年7月採択。三宅隆史 訳>


日本国憲法/社会福祉法/教育基本法/社会教育法

日本国憲法/社会福祉法/教育基本法/社会教育法


日本国憲法

日本国憲法

(個人の尊重と公共の福祉)
第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

(生存権及び国民生活の社会的進歩向上に努める国の義務)
第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

(教育を受ける権利と受けさせる義務)
第26条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

 

<「日本国憲法」は、1946年11月3日に公布され、1947年5月3日に施行された。>


社会福祉法

社会福祉法

(地域福祉の推進)
社会福祉法第4条
2 地域住民、社会福祉を目的とする事業を経営する者及び社会福祉に関する活動を行う者(以下「地域住民等」という。)は、相互に協力し、福祉サービスを必要とする地域住民が地域社会を構成する一員として日常生活を営み、社会、経済、文化その他あらゆる分野の活動に参加する機会が確保されるように、地域福祉の推進に努めなければならない。

 

<「社会福祉法」は、1951年3月に制定された「社会福祉事業法」の名称と内容が改正され、2000年5月に公布・施行された。>


教育基本法

教育基本法

(前文)
教育基本法
我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。
我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。
ここに、我々は、日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。

 

<「教育基本法」は、1947年3月に制定された「(旧)教育基本法」が全面的に改正され、2006年12月に公布・施行された。>


社会教育法

社会教育法

(国及び地方公共団体の任務)
社会教育法第3条
国及び地方公共団体は、この法律及び他の法令の定めるところにより、社会教育の奨励に必要な施設の設置及び運営、集会の開催、資料の作製、頒布その他の方法により、すべての国民があらゆる機会、あらゆる場所を利用して、自ら実際生活に即する文化的教養を高め得るような環境を醸成するように努めなければならない。

(公民館/目的)
社会教育法第20条
公民館は、市町村その他一定区域内の住民のために、実際生活に即する教育、学術及び文化に関する各種の事業を行い、もつて住民の教養の向上、健康の増進、情操の純化を図り、生活文化の振興、社会福祉の増進に寄与することを目的とする。

 

<「社会教育法」は、1949年6月に公布・施行された。>


ボランティア学習―日本青年奉仕協会研究室等

ボランティア学習―日本青年奉仕協会研究室等


ボランティア学習―日本青年奉仕協会研究室等

日本青年奉仕協会研究室
「ボランティア学習」とは、学習者が、ボランティア活動をとおして、さまざまな社会生活の課題に触れることにより、公共の社会にとって有益な社会的役割と活動を担うことで、学習者の自己実現をはかり、さらには自発性を育み、無償性を尊び、公共性を身につけ、よりよき社会人としての全人格的な発展を遂げるために行う、社会体験学習である。その学習内容は、教育的活動、社会福祉的活動、歴史及び社会文化の向上に寄与する活動、自然及び生活環境の保全、コミュニティづくり、国際社会への協力と貢献、その他の幅広い分野に渡っている。また、ボランティア学習においては、私たちの暮らす地域社会及び国際社会そのものを学習のフィールドとしてとらえる。こうした学習は、家庭、学校、地域、さらにはあらゆる地域社会において世代を越えて取り組まれることが大切である。
(JYVA「ボランティア学習ガイドブック」編集委員会編『地球人になろう―ボランティア学習ガイドブック―』日本青年奉仕協会、1991年3月、22ページ)

興梠 寛
ボランティア学習とは、人とのふれあいや自然とのふれあいをとおして、地域社会や地球社会にある多様な課題を知り、その解決のために果たすべき、公共の社会の一員としての役割を探るための社会体験学習である。学習者は、その課題を体験的に知ることによって、それぞれの発達年齢や個性に応じて、課題解決のための役割を担う。と同時に、自発的社会参加の芽を育み、公共性を身につけ、自己の実現をはかり、やがては自立した人間へと全人格的な成長を遂げることが期待される。また、その学習の対象となる社会課題は、社会福祉、教育、文化、スポーツ、国際交流と協力、自然と環境、保健医療、消費生活、人権、平和、地域の振興など、多様である。
(興梠 寛「ボランティア学習の理論」『たすけあいのなかで学ぶ―教師のためのボランティア学習ガイドブック―』日本青年奉仕協会出版部、1995年3月、12ページ)

長沼 豊
ボランティア学習の構成要素は、「ボランティア活動」と「学習」との関係のあり方から分類すると次の3つになる。

タイプ➀:ボランティア活動のための学習(目的としてのV活動)
タイプ➁:ボランティア活動についての学習(対象としてのV活動)
タイプ➂:ボランティア活動による学習(手段としてのV活動)

ボランティア活動と学習との関係は、ボランティア活動は
➀(Learning for Volunteer activity)では学習の目的、
➁(Learning to Volunteer activity)では学習の対象、
➂(Learning by Volunteer activity)では学習の手段、
ということになる。
(長沼 豊『新しいボランティア学習の創造』ミネルヴァ書房、2008年12月、145~146ページ)

 

(参照)
長沼 豊『新しいボランティア学習の創造』ミネルヴァ書房、2008年12月、145~146ページ。


高島 巌/ボランティア―それは生活であり、権利である―

高島 巌/ボランティア―それは生活であり、権利である―


ボランティアのはたらきの原点・ボランティアする心の原点

ボランティアのはたらきは
かまえたものであってはならない
ボランティアのはたらきは
活動ではない 生活なのだ
活動にはかまえがある
けれども
生活にはかまえはない
活動には限界がある
けれども
生活には限界はない

ボランティアのはたらきは
もてるものが
もたないものに
ではない
しあわせなものが
ふしあわせなものに
ではない
もてるものも
もたないものも
しあわせなものも
ふしあわせなものも
ともに考え
ともに学び
ともに生活しあうことなのだ

いそいではいけない
かまえてはいけない
たえることだ
まつことだ
いのることだ

人間はみな
ボランティアする権利をもっているのだ
その権利は人間にだけあたえられた
楽しき権利なのである

 

(参照)
高島 巌『子どもは本来すばらしいのだ』誠信書房、1963年1月。
阪野 貢/高島巌先生と木谷宜弘先生のこと:木谷宜弘「学校における福祉教育を考える―5つの柱―」(1979年10月)―資料紹介―/<ディスカッションルーム>(59)/2016年4月19日/本文