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阪野 貢/「自己責任論」を問う:責任は肯定的なものであり、個人の主体性を取り戻す ―ヤシャ・モンク著『自己責任の時代』のワンポイントメモ―

〇吉田竜平(北星学園大学)によると、社会福祉研究領域において自己責任論を問いなおすための課題には次のようなものがある。①自己責任とそうでないとされる境界の設定、②自己責任でなく不運な状況にある人々がスティグマを感じることなく福祉サービスを利用するための方法の模索、③責任概念自体の捉えなおしと公的責任の拡大、④他者の共感の広がりと全ての「個」が他者から承認される社会についての議論の深化、がそれである(参考文献 ①)。
〇筆者(阪野)の手もとに、ヤシャ・モンク著、那須耕介・栗村亜寿香訳『自己責任の時代―その先に構想する、支えあう福祉国家―』(みすず書房、2019年11月。以下[1])という本がある。[1]においてモンクは「まず、政治における自己責任論の興隆を跡づけ、それが社会保障制度に弱者のあら探しを強いてきた過程を検討する。次に、被害者に鞭打つ行為をやめさせたい善意の責任否定論が、皮肉にも自己責任論と同じ論理を前提にしていると指摘する。そしてどちらの議論も的を外していることを明らかにし、責任とは懲罰的なものではなく、肯定的なものでありうる」(カバーそで)と説く。
〇別言すればこうである。かつて「責任」という言葉は、他者を助ける個人の義務を意味するものとして使われてきた。現在ではそれが変容し、「責任」という概念を議論する際、人びとの選択の結果(「自己選択」「自己決定」)に対して責任を負う「結果責任」(「懲罰的自己責任論」)が強調されている。それに対して、先天的あるいは構造的な要因などを除いて、純粋な結果責任のみを追求すべきであるという「責任否定論」がある。それらの主張は、結局のところ、自己選択の結果に関しては程度の差はあれ、責任を取らなければならないという前提から脱してはいない。そこで、責任の肯定的な部分を再発見し、肯定的な責任概念(「肯定的責任像」)を再興すること、すなわち「多くの人が責任を果たそうとしている理由を認め、かれらの引き受けた責任の達成を実際に援助するような責任観」(148ページ)が必要となる。それは、人びとに、「主体性」を取り戻すことでもある(参考文献 ②)。
〇上述の吉田の指摘に留意しながら、[1]におけるモンクの「自己責任論」の論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

責任像の変容―「他者への責任」から「自己責任」へ―
かつて責任という言葉は他者を助ける個人の義務のことを思い起こさせたものだが、今日では、自分で自分の面倒をみる責任――そしてそれを怠ったときにはその結果を引き受ける責任――のことが真っ先に思い浮かぶ。(中略)我々は「義務としての責任 responsibility-as-duty」〔他者への責任〕というとらえ方が優勢だった世界から、「結果責任としての責任 responsibility-as-accountability」〔自己責任〕という新たなとらえ方が舞台を支配する世界に移ったのである。責任そのものが人目を引くようになったことではなく、この変容した責任像が優位を占めていることこそが、責任の枠組みと責任の時代の両方をまとめて特徴づけているのである。(29~30ページ)

懲罰的責任論と責任否定論の論理
一見、懲罰的責任像と責任否定論とは正反対の立場のように思える。しかし、特定の問題について見解を対立させつつ、より深層の知的勢力図の分布を共有している者たちにはよくあることだが、その表面下にはおびただしい類似点が潜んでいる。適切な帰責条件については動かしがたい不一致が残るものの、責任の規範的重要性については、両者は驚くほど見方を一致させているのである。相違を声高に言いつのっておきながら、両派は次の点についてひそかに合意を交わしている。ある人の取り分が他の同胞市民よりも少ないこと、あるいは現に援助を要する状況にあることに関しては、当人がみずから招いたことかどうかによって、当人がどの程度補償を正当に要求できるのかが決まる、という点である(懲罰的責任論は、外的な環境や要因などによる、本人の責任ではないものについて懲罰的な責任を負わせることには反対するが、当人が制御することができたにもかかわらず自分が招いた結果については責任を負うべきであるとする。:筆者)。(18~19ページ)

肯定的な責任観の再興
責任の時代は、我々の政治的想像力を狭め、公共政策と現代哲学のどちらにも深刻な盲点を作ってきた。これへの主たる反発――筆者が責任否定論と呼んできたもの――も、ほぼ空振りに終わった。それは抗(あらが)うべき相手と同じ知的潮流に属しており、結局のところ理論的説得力も実践的効果もなかったのである。したがって、政治的にも哲学的にも、いまこそ肯定的な責任観を発展させるべき時だ。多くの人が責任を果たそうとしている理由を認め、かれらの引き受けた責任の達成を実際に援助するような責任観が必要なのである。(148ページ)/今日では、(中略)責任は結果責任の問題に置き換えられ、たえず懲罰的な仕打ちをちらつかせるようになった。/したがって、肯定的な責任観――個人が遂行し、社会が促進すべきものとしての責任のとらえ方――の再興をはかるには、我々の責任理解を広げる必要があるだろう。(149ページ)

肯定的な責任観の重要性
(肯定的な責任観が重要なのは)①自己への責任、自己志向的理由/自己への責任を負うことを通して、自分自身の生活に対して真の主体性の感覚をもつことができることによる(28、150ページ)。②他者への責任、他者志向的理由/他者への責任を果たすことを通して、一定の社会的役割や役目を引き受けることができ、その役割に伴う責任が自分にとってたいへん有意義だという思い(アイデンティティ)を形成することができることによる(28、159ページ)。③他者を責任ある存在と考えること、社会的理由/他者を、自分の行動への責任を負いうる存在とみなすことを通して、他者との有意義な関係を築くことができることによる(28、163ページ)。

自己志向的責任と主体性の獲得(上記①)
自分の生活を制御している感覚、すなわち主体性の感覚を求める願望は、少なくとも三つの形をとりうる。第一に、我々は一定の範囲で自分の生を実際に制御することを望んでいるはずである。第二に、我々は自分が自己への責任を果たしていると感じることを必要としているはずである。そして第三に、我々は自己への責任を果たしていると周囲からみなされることを必要としているはずである。(150~151ページ)/これと関連して、人が自己への責任を重んじる理由として、人は、自分の主体性を通じて最も基本的な欲求と欲望にかなう未来をわずかなりとも手にできる、という確信を必要としていることがあげられる。(157ページ)

他者志向的責任とアイデンティティの構成(上記②)
他者への責任を果たすことは、多くの人の生活のなかで役割を果たしていることである。他者への責任を果たすには多種多様なやり方がある。友人や家族に思いやりをもって接するという単純な行為から深い満足を得る人もいる。一定の社会的役割、配偶者や親、ペットの飼主としての役目を引き受けようとする決意する人もいるが、そこにはこれらの役割に伴う責任が自分にとってたいへん有意義だという思いがはたらいている。(159ページ)/個別の「企て project」に向けられた責任もまた、我々が他者に負う責任としては大切である。(162ページ)/(これらの)他者に対する責務、自分の家族への責務やみずから引き受けた企てへの責務は、人びとのアイデンティティを構成する。(172ページ)

社会的理由と関係性の構築(上記③)
他者を責任ある存在と考えることが重要である理由は、一つは、他者と有意義な関係を築くには、相手のことを自分の行動に責任を負える存在だと考える必要があるからである。第二の理由は、責任主体性の相互承認は、あらゆる平等主義的社会の成立条件でもあるからである。真に平等主義的な社会のねらいは、単に人びとに同程度の物質的資産を所有させることだけではなく、完全な市民としての対等な地位を互いに認めさせることでもある。この地位が致命的に損なわれるのは、一部の市民には完全な責任主体性が認められ、他方には認められない、という事態が生じた場合のことである。(164ページ)

肯定的責任像の概念
懲罰的責任像および責任否定論とは対照的に、肯定的責任像はこう主張する。(183ページ)/(1)一般に、特定の行動に責任が生じるのは、その行動が犯意mens reaという伝統的な要件を満たしている場合である。特定の行為について責任を負うには、自分自身の行動を一定範囲で制御できなければならず、たとえば条件反射的な行動であってはならない。(183ページ)/(2)特定の帰結の発生を促した行動に責任があるという事実があるからといって、その人にその帰結全体への責任があることにはならない。また、その帰結への責任の範囲は、どんなに単純化しても、その人の行動がその帰結の原因だったか否かに関する実証主義的説明に左右されることはない。(184ページ)/(3)誰かが特定の帰結について責任があるということを確定した後も、引き続き、そのことについてその人に結果責任をも負わせるべきかという問題が残る。特に、困窮状態にある人が自業自得でそのような状態に陥ったという事実があったからといって、即座にこの人への援助を否定すべきだということにはならない。(184ページ)

公共政策における肯定的責任像
責任像を懲罰的で前制度的なものから肯定的で制度的なものに切り替えると、公共政策の中心課題に関する理解を少なくとも次の三点で更新することになる。いくらか逆説的だが、そうすれば実際に意味ある仕方で責任を論じる方法を詳述できるようになるのである。非理想的な状況では、責任を負うことの意義を強調すること――そして各人の選んだ責任によって意味づけられた多くの生きがいをめぐる言説を流布させること――は、一般の市民の主体性を強化するプラグマテックな方法でありうる。同時にそれは、人に自分の責任遂行への誘因を与える鞭(むち)にばかり目を向ける傾向を克服し、人が望む責任を果たせるようになるための物質的、教育上の前提条件を整える政策設計を支える。そして最後に、それは福祉国家の官僚たちの努力を喚起して、かれらを、(片方が得点・利益するともう一方が失点・損失し、プラスマイナスゼロになる:阪野)ゼロサム・ゲームをとり仕切る懲罰的裁定者から協働的企てに関与する建設的パートナーへと変貌させうるのである。(202ページ)

「自己責任の時代」の克服
我々の選択次第で、我々は自己責任の時代を乗り越えることができる。(210ページ)/自己責任の時代の克服に必須の要素の一つは、責任の観念が求められている理由と、この概念にもっと前向きの色彩をもたせる方法とについて再考することである。(211ページ)/自己責任の時代を乗り越えるために必要なもう一つの作業は、我々の道徳的、政治的生活を別の長く忘れられてきた価値の言葉でとらえなおすことである。(211ページ)

〇限定的であるが、以上を要すると、①責任は懲罰的なものではなく、肯定的な意味を持つ(責任は、個人がそれを負い、それを社会が促進・支援すべきものである)。②懲罰的責任論と責任否定論は、結果責任について同じ論理(責任の規範的重要性)を前提にしている。③人は責任を負うことによって主体性を取り戻す(確保する)ことができ、自己責任の否定は個人の主体性を否定することに通じる。④他者への責任を果たすことは、一定の社会的役割や役目を果たすことになり、アイデンティティを育む。⑤他者を責任ある存在として認めること(責任主体の相互承認)は、他者と有意義な協働的な関係を築き、平等主義的社会の成立を促す。⑥責任を肯定的に展望するためには、責任を引き受けることを促すのではなく、責任を負う能力を養う物質的・教育的基盤を整備することが肝要となる。⑦こうした新しい責任について、その概念を社会的に周知させる方法について考えるとともに、新しい価値観に基づいて再考することが必要である、となろう。
〇価値観や社会課題が多様化・複雑化している現代社会にあって、ある結果の原因を一義的に個人に帰したり、本人の能力や努力の不足あるいは選択の失敗によって生じた結果を自業自得としてその責任を個人に押し付けることは、ほぼ不可能である。そこに求められるのは、自己責任の限界についての理解と認識である。とともに、自己責任ではなく、相互信頼と相互責任(社会的責任)を生み出す社会の構築であり、そのための物質的・教育的基盤の整備である。さらに付言すれば、自己責任を強いる自己決定ではなく、相互責任に繋がる相互決定の尊重であろう。しかもそれは、理性的・民主主義的な討議に依ることは言うまでもない。例によって唐突であるが、これらは「まちづくりと市民福祉教育」の実践・研究にも通底する。

参考文献
① 吉田竜平「自己責任論を問い直す―運の平等主義の視点から―」『北星学園大学社会福祉学部 北星論集』第59号、北星学園大学、2022年3月、61~73ページ。
② 有吉永介「ヤシャ・モンク『自己責任の時代』再考」『立教大学大学院教育学研究集録』第20号、立教大学大学院文学研究科教育学専攻、2023年3月、31~38ページ。

阪野 貢/夢の正体とキャリア教育の功罪 ―児美川孝一郎著『夢があふれる社会に希望はあるか』のワンポイントメモ―

「夢」に取扱説明書を付けることはできない(下記[1]169ページ)。/「夢」とは、個人の生き方、理想や価値観に深くかかわることがらである。だから、安易なマニュアルはない。同時に、「夢」は、それぞれの個人が、自分なりの方針や考え方、大切にしたいことを携えて、付き合っていくものである。(同、169~170ページ)

日本社会は、キャリア教育のような営みも含めて、子どもや若者が「夢を持つ」ことに過剰な価値を置き、それをあおり、称揚する社会である(下記[1]178ページ)。/「夢追い型」キャリア教育には、夢とは「見つけるもの」であり、努力すれば「見つかるもの」でもあるという(実際には根拠のない)前提がある。夢は時間の経過とともに変わるものであり、いろいろと挑戦しながら「育てるもの」でもある(同、86ページ抜き書き)

〇筆者(阪野)の手もとに、「キャリア教育」研究で著名な児美川孝一郎(こみかわ・こういちろう)が上梓した『夢があふれる社会に希望はあるか』(ベスト新書、KKベストセラーズ、2016年4月。以下[1])という本がある。
〇キャリア教育という言葉が明確に使われたのは、1999年12月の中央教育審議会答申「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」であるとされる。そこでは、「学校と社会及び学校間の円滑な接続を図るためのキャリア教育(望ましい職業観・勤労観及び職業に関する知識や技能を身に付けさせるとともに、自己の個性を理解し、主体的に進路を選択する能力・態度を育てる教育)を小学校段階から発達段階に応じて実施する必要がある」とされた。2004年1月には、文部科学省から「キャリア教育の推進に関する総合的調査研究協力者会議報告書~児童生徒一人一人の勤労観,職業観を育てるために~の骨子」が出され、それに基づいてキャリア教育が本格的に始動することになる。2004年が「キャリア教育元年」といわれる所以である。その報告書では、キャリアを「個々人が生涯にわたって遂行する様々な立場や役割の連鎖及びその過程における自己と働くこととの関係付けや価値付けの累積」として捉えている。そして、キャリア教育を「児童生徒一人一人のキャリア発達を支援し,それぞれにふさわしいキャリアを形成していくために必要な意欲・態度や能力を育てる教育」、端的にいえば「児童生徒一人一人の勤労観,職業観を育てる教育」と定義づけている。
〇この時期、キャリア教育で育成すべき能力に関して、例えば国立教育政策研究所生徒指導研究センターが「職業的(進路)発達にかかわる諸能力」(「4領域8能力」)について、2002年11月に公表した(「児童生徒の職業観・勤労観を育む教育の推進について(調査研究報告書)」)。その後、中央教育審議会が「基礎的・汎用的能力」について、2011年1月に提示した(「今後の学校におけるキャリア教育・職業教育の在り方について(答申)」)。「基礎的・汎用的能力」は、「4領域8能力」を補強・再構成し、より一層現実に即した、社会的・職業的自立に必要な能力の育成を図ろうとしたものである。前者(「4領域8能力」)は、①人間関係形成能力(自他の理解能力、コミュニケーション能力)、②情報活用能力(情報収集・探索能力、職業理解能力)、③将来設計能力(役割把握・認識能力、計画実行能力)、④意思決定能力(選択能力、課題解決能力)で構成されている。後者(「基礎的・汎用的能力」)は、①人間関係形成・社会形成能力、②自己理解・自己管理能力、③課題対応能力、④キャリアプランニング能力によって構成されている。
〇キャリア教育の経緯について児美川は、概略次のようにいう。高度経済成長期(1955年~1973年頃)における画一主義的な日本の教育は1980年代に、「個性」重視の教育に急転換した。それによって、子どもや若者が自分を軸にして自分の「夢(やりたいこと)」を探す、「自分さがし」という考え方や価値観が普及する。1990年代になると、バブル景気(1981年~1991年頃)の崩壊(1991年~1993年頃)と経済不況が長期化する(「失われた30年」の)なかで、若者の就職難や非正規雇用が拡大した。「就職氷河期」(1993年~2005年頃)の到来である。2000年代に入ると競争原理と自己責任を基本とする新自由主義の推進と徹底が(小泉・安倍・菅政権によって)図られ、格差と分断の社会が若者の就労問題を深刻化させる。しかも、その原因が若者の意識や意欲、能力の問題にすり替えられ、「若者バッシング」の風潮が強化される。そこに政策化されたのが財界の求めに応じたキャリア教育の推進である。こうして、「1980年代の『夢』を賞賛する社会的風潮は、90年代以降における『夢を持て』という政治家や企業経営者たちのメッセージを経て、子どもや若者に『夢』を持たせることを教育の目的とする段階にまで到達する」(74ページ)。
〇そしていま、人口減少や少子高齢化、経済のグローバル化やデジタル化などを背景に、「国際競争に打ち勝つ」ための社会経済システムの構築が求められている。そういうなかで、政府・財界にあっては、個性や創造性豊かな質の高い、前向きでチャレンジ精神旺盛な、グローバル人材の育成(エリート教育)が喫緊の課題とされる。そこで、財界の教育要求に基づいたキャリア教育が重視され、キャリア教育政策の推進(小・中・高等学校を見通した、かつ学校の教育活動全体を通じたキャリア教育の充実)が図られることになる。〔補遺(1)参照〕
〇児美川にあっては、キャリア教育は子どもや若者に夢を持たせること、夢を追わせることを教育の目的とする政策である。児美川がいうこの「夢追い型」(80ページ)のキャリア教育が、「夢を強迫する社会」(61ページ)の基盤を整備することになる。ここで、[1]のなかから、「夢の正体とキャリア教育の功罪」に関するフレーズのいくつかを、限定的・恣意的であることを承知のうえで、メモっておくことにする(抜き書きと要約)。

● 夢は、人を前向きにさせる破壊的な威力があると同時に、時には人の人生を狂わせてしまうかもしれないようなやっかいさを持がゆえに、「怪物くん」である。(13ページ)
● 夢は「出会い頭の恋」のようなものなのではないか。その恋心をじっくり温めて、ふくらませていくこともできるが、逆に、いつのまにか忘れてしまうこともできる。(18ページ)
● 夢は、人を熱中させ、前のめりにさせることができるが、反面、その人にとって、ありえたかもしれない他の可能性に対して盲目にさせ、選択肢を狭めてしまう力も持っている。(22~23ページ)
● 日本における雇用の仕組みは、「就職(=職に就く)」ではなくて「就社(=会社に入る)」という仕組みになっている。「就社」社会の現実と、現実のキャリア教育のあいだには、抜き差しならないズレ(齟齬)がある。(44、89ページ)
● 「就きたい職業」「やりたい仕事」という意味での夢を持っている子どもや若者は、実際には年齢が上がるにつれて少なくなり、同世代の半数程度にとどまる。(45ページ)
● 夢は固定的で動かないものではなく、育ったり、育てたりできるものであり、夢と現実が交差する地点でどう振る舞うかが大事になる。(55、56ページ)
● キャリア教育は、概ね①自己理解、②職業理解、③キャリアプランの作成の3つのジャンルから構成されていた。キャリア教育の主要なジャンルに、「夢(やりたいこと)」が登場していることが注目される(77、80ページ)
● 夢には、①「実現したいこと」、②「将来やりたい仕事」「自分が就きたい仕事」、③「仕事を通じて達成したいこと」、④「なりたい自分」など、多様な意味がある。(107~109ページ)
● 夢の正体をつかむためには、夢の側を掘り下げる(=夢の世界の現実や周辺を知る)ことと、自分の側を掘り下げる(=自分の夢の根っこ・根拠を探る)ことが必要になる。(128ページ)
● 夢を考えていく際の「軸」には、自分本位の基準で夢を抱く「自分軸」と、社会参加・社会貢献の側面から夢を発想する「社会軸」の2つがある。(128~129ページ)
● キャリア教育は、「やりたいこと(希望、願望)」「やれること(能力、適性)」「やるべきこと(社会参加、社会貢献)」の3つの視点から考えることが肝要である。(132~134ページ)
● キャリア研究では、明確な目標を立て、そこに到達するために「逆算」して、計画化に努力していくという考え方(「キャリア・プランニング」論)ではなく、偶然のチャンスを生かして、上手に転換を図りながら自分のキャリアを歩んでいくという考え方(「計画的な偶発性(プランド・ハプンスタンス)」の理論)が主流となっている。(136~137ページ)
●「夢と向き合う」ということは、自分自身の「願望」や「理想」と、「現実」をどう擦り合わせ、どのように折り合いを付けるかという問題である。(145~146ページ)
● 夢が見つからないときには、意識的に「自分の枠」(興味や関心、能力や資質)を広げることが肝要となる。(149~150ページ)
● キャリア研究の世界では、近年、職業や仕事というキャリア(人生、生き方)に限らず、それと並行して別のキャリアを持つという「パラレル・キャリア」の考え方が注目されている。(167ページ)

〇[1]のタイトルは、「夢をあおる」現在の日本社会に抗するものであり、刺激的で挑発的である。児美川の主張(メッセージ)は要するにこうである。夢(希望、願望、理想)は育てるものである。夢は、その持ち主である自分自身が上手く付き合い、マネジメントし、現実と折り合いをつけていくしかないものである(自己実現)。その一方で夢は、「その社会を映し出す鏡にほかならない」(178ページ)。そこで、求められる社会は、「夢を強迫する社会」ではなく、「等身大の、ありのままの自分が認められ、でも、少し背伸びすることを求め、励ます社会」(182ページ)である。すなわち夢は、独(ひと)りよがりのものではなく、市民社会や共生社会のなかで育まれるものであり、その社会への参加・貢献を軸にして考える必要がある。キャリア教育の本来の役割は、子どや若者が社会参加・社会貢献するための力量形成を図ることにある(93ページ)。キャリア形成やキャリア教育の意義はここにある。さらに、筆者なりにあえて言えば、キャリア教育はシティズンシップ教育としてのそのあり方が問われることになる。
〇最後に参考までに、ハンナ・アーレント(Hannah Arendt、1906年~1975年、ドイツ出身の政治哲学者)の、人間の生活(「活動的生活(vita activa)」を規定する3つの条件(「活動力」)――「労働(labor)」「仕事(work)」「活動(action)」に関する言説を引いておく(ハンナ・アレント、 志水速雄訳『人間の条件』ちくま学芸文庫、1994年10月)。アーレントがいう「労働」は「人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力」(19ページ)、すなわち生命を維持するための生物学的な行為、「仕事」は「人間存在の非自然性に対応する活動力」(19ページ)、すなわち工作物を製作する職人的な行為、「活動」は「物あるいは事柄の介入なしに直接人と人との間で行なわれる唯一の活動力」(20ページ)、すなわち多くの他者に働きかける公共的(政治的)な行為、である。さらに筆者なりに別言すれば、労働=カネを得るための生産的な活動力、仕事=モノ(作品)を生み出す創造的な活動力、活動=ヒトと関わる公共的(政治的)な活動力、である。
〇アーレントにあっては、近代社会はキリスト教に依って「労働」が優位な社会となり、「仕事」と「活動」の領域が狭められ、それが最終的には全体主義を生み出した。その全体主義に対抗するためには、公共的な問題について議論する公共空間を創り出すこと(多様な個性を持つ多数の他者と積極的に関わる「活動」の領域)が重要となる。それはすなわち、マルクス主義が「仕事」を含んだ「労働」のなかに人間性の本質を見出そうとしたのに対して、アーレントは「活動」に最も重要な「人間の条件」を見出したのである。今日、社会や世論などに影響を及ぼすソーシャルメディアや検索エンジンなどによってもたらされる、20世紀の全体主義とは異なるいわゆる「デジタル全体主義」の台頭が指摘されている。そんななかで、アーレントの「公共性」をめぐる言説が、市民社会や参加民主主義、地域活動などについて議論する際にもしばしば引用される所以でもある。
 
 
補遺
現行の「小・中・高等学校学習指導要領」では、「キャリア教育」に関して次のように記載されている。

小学校学習指導要領(2017年3月告示、2020年4月から全面実施)
第1章 総則/第4 児童の発達の支援/1 児童の発達を支える指導の充実
(3) 児童が、学ぶことと自己の将来とのつながりを見通しながら、社会的・職業的自立に向けて必要な基盤となる資質・能力を身に付けていくことができるよう、特別活動を要としつつ各教科等の特質に応じて、キャリア教育の充実を図ること。

中学校学習指導要領(2017年3月告、2021年4月から全面実施)
第1章 総則/第4 生徒の発達の支援/1 生徒の発達を支える指導の充実
(3) 生徒が、学ぶことと自己の将来とのつながりを見通しながら、社会的・職業的自立に向けて必要な基盤となる資質・能力を身に付けていくことができるよう、特別活動を要としつつ各教科等の特質に応じて、キャリア教育の充実を図ること。その中で、生徒が自らの生き方を考え主体的に進路を選択することができるよう、学校の教育活動全体を通じ、組織的かつ計画的な進路指導を行うこと。

高等学校学習指導要領(2018年3月告示、2022年4月から年次進行で実施)
第1章 総則/第1款 高等学校教育の基本と教育課程の役割
4    学校においては、地域や学校の実態等に応じて、就業やボランティアに関わる体験的な学習の指導を適切に行うようにし、勤労の尊さや創造することの喜びを体得させ、望ましい勤労観、職業観の育成や社会奉仕の精神の涵養に資するものとする。
第2款 教育課程の編成/3 教育課程の編成における共通的事項/(7)キャリア教育及び職業教育に関して配慮すべき事項
ア 学校においては、第5款の1に示すキャリア教育及び職業教育を推進するために、生徒の特性や進路、学校や地域の実態等を考慮し、地域や産業界等との連携を図り、産業現場等における長期間の実習を取り入れるなどの就業体験活動の機会を積極的に設けるとともに、地域や産業界等の人々の協力を積極的に得るよう配慮するものとする。
第5款 生徒の発達の支援/1 生徒の発達を支える指導の充実
(3) 生徒が、学ぶことと自己の将来とのつながりを見通しながら、社会的・職業的自立に向けて必要な基盤となる資質・能力を身に付けていくことができるよう、特別活動を要としつつ各教科・科目等の特質 に応じて、キャリア教育の充実を図ること。その中で、生徒が自己の在り方生き方を考え主体的に進路を選択することができるよう、学校の教育活動全体を通じ、組織的かつ計画的な進路指導を行うこと。

老爺心お節介情報/第46号(2023年6月2日)

「老爺心お節介情報」第46号

「老爺心お節介情報」を送ります。
ご自愛の上、ご活躍下さい。

2023年6月2日   大橋 謙策

< 90日間の禁酒、5月29日に解禁 >

〇皆さんお変わりありませんか。
〇私の方は、2月28日から重粒子線治療のために禁酒生活でしたが、5月29日の診察で、前立腺がん腫瘍マーカーも0・065になり、無事解禁の許可が出ました。その晩のビール、日本酒での晩酌のうまいこと、やはりお酒はいいですね。

Ⅰ 市町村単位での、子育ち、子育ての健全育成システムの構築が重要――久徳重和著『人間形成障害』と岡田尊司著『発達障害「グレーゾーン」その正しい理解と克服法』及び成田奈緒子著『「発達障害」と間違われる子どもたち』を読んで

〇1947年に制定された児童福祉法は、すべての子どもの健全育成対策と何らかの支援を必要としている要保護児童対策が法律に盛り込まれている。
〇児童福祉法が制定された当時は、戦前の富国強兵に向けた“産めよ増やせよ”の時代の名残りもあり、世帯当たりの子どもの数も多く(ベビーブームの時期)、かつ近隣の社会関係も豊かにあり、子ども自身もインフォーマルな遊びの中で豊かに育っていた時代であったにも関わらず、児童福祉法で児童健全育成の必要性を打ち出していた。
〇そこでは、子ども会活動、青少年委員による多様な学校外の社会活動があり、都市化が騒がれる1970年代には各地で児童館、学童保育の設置がすすめられてきた。
〇それは、どちらかといえば、児童福祉行政もさることながら、社会教育行政によって推進されてきたという面があったこと否めない。
〇私自身、1970年代に書いた論文で、それら地域での児童の子育ち・子育てに関わる健全育成政策に関し、学校外教育の組織化として考え、論文を書いてきた。
〇しかし、一方で、1970年ころには子ども・青年の発達の歪みが明らかになり、私自身、社会関係を持てない“さあ別に族”や“まあね族”の登場を指摘し、要保護児童ではない子ども・青年の発達保障の必要性を指摘してきた。
〇それは、オオカミ少女アマラ・カマラやオオカミ少年ヴィクトールほどの極端な例ではないにしても、家庭での子育て機能がぜい弱化し、その機能を社会化しなければ大きな問題になることを指摘してきた。それは、ジョン・デューイの教育論、宮原誠一の教育論の改めての見直しの必要性をのべたものであった。
〇それは、1978年に上梓された久徳重盛著『人間形成障害病』のご子息である久徳重和著『人間形成障害』祥伝社)や岡田尊司著『発達障害「グレーゾーン」その正しい理解と克服法』(SB新書)、成田奈緒子著『「発達障害」と間違われる子どもたち』(青春新書)でも指摘していることと同じである。
〇発達障害の“グレーゾーン”の子ども・青年を要保護児童として位置づけ、療育の対象と考えるよりも、それらの現象、事象が生活様式や生活リズムを変えることにより改善されていること、うらを返せばそれらの現象、事象は“日常生活における無意識な中での人間形成に由来している“ということをきちんと押さえておく必要があるのではないか。
〇人間の成育を“社会実験”するわけにはいかないが、それらの現象、事象は生活様式、生活のリズムの崩壊がもたらしたものと考えることが重要ではないか。
〇そうだとすると、現象、事象の喧嘩に対し、要保護児童対策として対症療法的に政策を考えても、個別問題を解決できても、また同じような個別問題が創出されるということになり、全体としての問題解決にはならない。
〇市町村を基盤に、子育ち、子育ての新しい文化を児童健全育成として構築し、そのシステム化を市町村に展開することが喫緊の課題ではないのだろうか。
〇現在取り組まれている子ども政策は、どこかこの健全育成のシステム化、学校外教育の組織化の問題は失念されているように思われてならない。

Ⅱ 健診とがん告知・その ④

〇新型コロナウイルス感染症の影響のマイナス面は大きいものがあるが、私にとってはある意味、従来の行動パターンを見直す機会にもなったし、事実上研修などが控えられたことで自分の時間が持てるようになった。
〇その所為もあって、前立腺がん治療も滞りなく進捗したし、ついでというのもおかしいが、以前より気になっていた耳鼻咽喉科の検査、眼科の検査も受診しようと考えることができた。
〇結果は、耳鼻咽喉科では補聴器を6月2日より試用的に装用することになり、眼科では10年ぶりの診察で、白内障が進んでいることが明らかになり、8月3日と9月7日に白内障の手術を受けることになった。
〇79歳の年に、眼科、耳鼻咽喉科、泌尿器科の診察でクリニック通いが目白押しであり、以前から通っている歯科を加えると、まるで毎日がクリニック通いになってしまった。
〇しかし、これらの“人間改造”も、80歳台を楽しく生きる準備だと前向きにとらえ、一つ一つの経験が興味深く、楽しみながらクリニック通いをしている。
〇昔の人は、実に人間観察が鋭かったのだと最近つくづく思っている。私も、頬の筋肉がたるんできたのか、“瘤取り爺さん”の様相を呈し始めてきており、毎朝洗顔時に顔の筋肉のトレーニングをしているが、残念ながら“瘤取り爺さん”の様相は変えられない。
〇歯肉が痩せ、上顎の犬歯が飛び出す“鬼の形相”にもなってきたのも昔の人の観察と同じである。
〇そのような加齢に伴う顔の形状変化に加えての白内障手術、補聴器装用、前立腺がんと全く自然には逆らえないことを実感する日々である。せめて、足の筋力が落ちないようにと、ひたすら歩いて、体力維持を試みるしかない。

〇前立腺前立腺がんの重粒子線治療後の経過診察が、神奈川県立がんセンターで術後3か月の2023年5月29日に行われた。
〇前立腺腫瘍マーカであるPSA数値は、0・065なので、これはゼロにならなくていいのかと医師に聞くと、なってもならなくても変わらないというので、それは前立腺がんが消滅したことを意味するのかと問うとそうだと理解していいという。
〇お酒は飲んでいいのかと問うとこれもいいという答え。温泉はどうかと質問するとそれも問題ないという。
〇前立腺がんに伴う重粒子線治療で、禁忌になったのは、洪文部を圧迫するために自転車に乗ることを禁止されただけになる。
〇医師の診察を受け、自分としては“準快気祝い”だと考えて、5月29日、お酒を飲む。缶ビールと日本酒を飲んだが、やはり美味しい。
〇10年前の第2回目の四国歩きお遍路の時は、40日間禁酒をした。結願した後の徳島市で、仲間とお酒を飲んだが、その時はビールがまずく、酒席を早々に引き上げた。今回は90日間の禁酒期間であったが、ビールもお酒も美味しかった。
〇この違いは何かと考えてみたがよくわからない。四国お遍路の時は、体重が74キロから68キロまで落ち、体脂肪率も18であったのに比し、今回は禁酒前が72キロ、解禁日が71キロ、体脂肪率が20ということの違いかなと思ったりする。
〇今後は、神奈川県立がんセンターには3か月ごとに通いか、郵送で重粒子線治療を進めた日本医科大学多摩永山病院の3か月ごとの血液検査結果を報告するだけになる。基本は日本医科大学多摩永山病院で3か月ごとの診察とホルモン注射を受けることになる。服薬しているホルモン療法の錠剤は毎日1錠、2024年6月末まで続けることになる。

(2023年6月2日記)

(備考)
「老爺心お節介情報」は、阪野貢先生のブログ(「阪野貢 市民福祉教育研究所」で検索)中の「大橋謙策の福祉教育論」に第1号から収録されていますので、関心のある方は検索してください。この「老爺心お節介情報」はご自由にご活用頂いて結構です。
そこにはまた、3回の「四国歩きお遍路紀行」と「熊野古道(中辺路・伊勢路)紀行」も収録されています。

大橋謙策/地域福祉研究者の「研究者文化」と日本地域福祉研究所の設立目的―理事長の退任に際して―

2023年5月20日に大正大学で行われた日本地域福祉研究所の理事会、総会で、日本地域福祉研究所の理事長を退任することが認められました。
1994年12月23日に、日本地域福祉研究所を設立し、2000年1月にNPO法人格を取得し、理事長を担ってきましたが、30年目の節目の年に後進に道を委ねます。
地域福祉研究者の皆様、社会福祉協議会関係者の皆様には、長年に亘り、日本地域福祉研究所及び理事長である私を支えてくださり、衷心より厚く感謝とお礼を申し上げます。理事長は替わりますが、今後とも日本地域福祉研究所へのご支援、ご鞭撻を心よりお願い申し上げます。(2023年5月21日記)

地域福祉研究者の「研究者文化」と日本地域福祉研究所の設立目的

〇日本地域福祉研究所は1994年12月23日に設立されました。日本社会事業大学大学院修士課程を修了した人を中心に設立しました。元東京都社会福祉協議会職員で、静岡英和大学、静岡福祉大学で教員をされた青山登志夫さん等が尽力してくれて、日本地域福祉研究所の設立ができました。
〇日本地域福祉研究所設立に際し、私は4つの設立目的を考えました。
〇第1は、新しい社会福祉の考え方である「地域福祉」の哲学、理念、実践の在り方などに関する「地域福祉」の普及・啓発でした。
〇筆者は、地域福祉実践・研究を市町村社会福祉協議会を基盤に確立しようと考えて、取り組んで来ましたが、日本の社会福祉学界では、“私のような研究領域、研究方法は社会福祉プロパーでない”と厳しい批判を受けてきました。それらの意見との戦いも含めて、「地域福祉」の考え方の普及と啓発が必要だと考えました。そのことが、従来のコミュニティオーガニゼーション、コミュニティワークに代えてコミュニティソーシャルワークという提唱になります。また、同じように福祉教育を軸とした地域福祉の主体形成理論の提唱も行ってきました。
〇第2には、地域福祉実践の向上に向けた各種研修と実践者の組織化です。
〇筆者は、全社協主催の「地域福祉活動指導員養成課程」の講師を長らく務め、社会福祉協議会職員の研修の重要性を痛感していました。
〇その全社協主催の「地域福祉活動指導員養成課程」が修了したこともあり、その代替機能を担えればと思いました。一時は、通信制の研修システムの構築も考えました(当時は、今ほどICTの発展・普及がない中での紙媒体による通信制を考えていました。いまなら、ICTを使ってできるかもしれません)。
〇その代わりというわけではありませんが、年1回「地域福祉実践研究セミナー」を日本地域福祉研究所が「関係人口」として深く関わり、その地域の実践にある意味影響力を持っている地域で、その地域の実践をフィールドに学習するセミナーを開催しようと考えました。名称も、“地域福祉実践セミナー”でもないし、”地域福祉研究セミナー“でもなく、「地域福祉実践研究セミナー」としたのも、実践と研究の循環を考えたからです。
〇1995年5月に島根県邑南郡瑞穂町で行われた「山野草を食べる会」に呼ばれた際に、当時の瑞穂町社会福祉協議会の日高政恵事務局長にお願いし、1995年8月に第1回を開催したのが始まりです。
〇筆者自身の瑞穂町との関りは、1981年に当時の島根県社会福祉協議会の山本直治常務理事、松徳女学院高校の山本壽子教諭の紹介で訪問したのが最初で、その後瑞穂町の福祉教育、地域づくりの支援に関わってきました(『安らぎの田舎の道標』大橋謙策監修、澤田隆之・日高政恵共著、万葉舎、2000年8月参照)。
〇第3は、地域福祉実践の記録化と出版化です。
〇筆者は、日本社会事業大学大学院で博士課程を修了し、博士の学位を取得した人にはその博士論文を単著として、刊行し、世の評価を受けるべきだと考えてきました。
〇当時、中央法規出版にお願いしました。できれば中央法規出版が全国の大学の社会福祉系の博士論文を刊行するシリーズを作ってくれればありがたいという思いも含めてお願いしました。日本社会事業大学で博士の学位を授与された野川とも江さん、田中英樹さん、宮城孝さんの博士論文は刊行されました。その後は、出版事情の悪化などもあり頓挫してしまいました。
〇これは、当時の日本社会事業大学の伝統に倣ったものです。当時の日本社会事業大学では、40歳で単著を刊行するのが、教授に昇格する基準でした。私も必死だったことが思いだされます。
〇また、当時は、出版される本の背表紙に著者であれ、監修であれ、名前が明記されるのは、ある意味研究者のステイタスシンボルでもありました。私の恩師は、そのような機会を若手に作り、論文をかくことを奨励してくれました。
〇そのような“伝統”を引き継ぎたいと考えて、博士論文の出版化を推奨してきました。
〇と同時に、日本地域福祉研究所が関わることで、全国各地の実践が向上するならば、その実践を記録化し、できれば刊行したいと考えました。研究所の設立に何かとご支援、ご協力してくれた東洋堂企画出版社(のちに、万葉舎と改名)の尾関とよ子社長(尾関社長との間を取り持ってくれたのは、1970年からのお付き合いがある手嶋喜美子元板橋区区議会議長さんである)が、この考え方に賛同してくれて、出版事情が悪くなってきている中でも、日本地域福祉研究所が関わった実践を出版化してくれました(この件は、「老爺心お節介情報」の第44号の「関係人口」の中で紹介しているので参照してください)。
〇第4は、地域福祉実践・研究者の育成の機会の提供です。
〇筆者は、地域福祉研究者は、自分のフィールドを持ち、その地域と深く関わりながら、その実践を体系化、理論化することが肝要で、“空理空論”を振りましても地域福祉実践・研究にならないと考えてきました。だからこそ、市町村自治体の地域福祉計画を作る場合でも、タスクゴールだけ華やかに、かっこよく作っても、それが具現化されなければ駄目だと考え、住民の意識変容と参加を促すプロセスゴールと地域関係者の社会福祉に関わる力学を変えるリレーションシップゴールの重要性と必要性を考え、実践してきました。
〇そのようなフィールドを持てる研究者に育てるためには、私自身が関わるフィールドに同道して学んでもらうとか、フィールドを提供して実習なり、その地域へのコンサルテーションを行う能力を身に着けてもらうことが必要だと考えてきました。
〇私自身、恩師の“カバン持ち”で、随分と全国の実践現場に連れて行ってもらいましたし、恩師の名刺に“大橋を頼む”という一筆を書いてもらって、恩師が紹介するフィールドに出かけたものです。
〇そんなこともあり、大学院生や若手の研究者にフィールドをもってもらいたくて、いろいろチャンスを提供してきました。成功した場合の方が多いのですが、失敗したことも多々あります。若い頃は、ついつい“自分ひとりで偉くなったつもり、自分は豊かな能力があると過信しがち“で、私の教えが頭に入らず、生意気な言動をとって、実質的に”退室“せざるを得ない人もありました。
〇第5は、日本地域福祉研究所で長らく地域福祉実践に貢献された方々の“たまり場”、拠り所としての「福祉サロン」の機能を持つことでした。
〇全社協の事務局長された永田幹夫先生や三浦文夫先生をはじめとして、社会福祉協議会の第一線で頑張ってこられた方々や地域福祉研究者の「福祉サロン」ができれば、ノンフォーマルな学習の場が機能できると考えました。日本地域福祉研究所の事務室とは別の階のフロアーを借り、冷蔵庫等を整備して、「土曜福祉サロン」などの開催も試みました。現役の方は忙しいけれど、たまには集い、定年退職された方はサロンに来るのを楽しみ、若手に自分の実践を話してくれれば、それが地域福祉実践研究の向上につながると“夢”見ました。
〇このような目的を考えて設立した日本地域福祉研究所ですが、どれだけその目的が達成されたかは、関係者の皆様の評価に委ねることにします。
〇ところで、このような日本地域福祉研究所設立の目的を考えたのは、筆者を育んでくれた「研究者文化」があったからです。
〇日本の大学の教育研究システムは、大きく分けて講座制と学科目制があります。講座制は主任教授、助教授、講師、助教等複数の教育研究スタッフがいて、いわばチームで教育研究を行うシステムです。それに比し、学科目制は、開講されている授業科目を担当する教員が個別学科目毎に配属されているシステムで、研究というより、授業を行う教育に比重があるシステムです。
〇現在の社会福祉系大学は学科目制で教育研究が行われています。したがって、教員がチームで仕事をするとか、大学ごと、講座制の教室毎の「研究者文化」というものを構築することが難しいシステムで、教員個々人が独立した状況で教育研究を行います。大学院を出て、助教、講師という若手も一人前の教員、研究者であり、長年教育・研究に携わってきたベテランの教員とも対等であり、結果として若手の時から“自立している”とみなされるので、ベテランの先生方から「研究者文化」を伝授されるという機会がほとんどない状況です。
〇私の場合には、幸か不幸か、旧制大学で学んだ先生方から教えをうけたので、この「研究者文化」というものを色濃く受けています。妻に言わせれば、それほどまでにしなくてもいいのではないかと揶揄されるほど、“先生の言動、論理展開、先生の社会活動”に“憧れ”、学び、時には“盗み”、身に着けてきました。日本地域福祉研究所の設立の目的は、そのような経緯の中で育てられた私が“行うべき責務、任務”だと学び、受け継ぎ、実践してきたものです。
〇日本地域福祉研究所を維持することは、所員になってくれた方々の会費だけでは賄いきれません。日本地域福祉研究所の理事になってくれた方々には寄付をお願いしました。また、日本地域福祉研究所自身、全国の自治体、社会福祉協議会の研修や計画策定業務の委託を受けて経営努力もしてきました。しかしながら、それでもとても経営は厳しく、私自身も毎年100万円以上の寄付を続けてきました。したがって、私の寄付金の累計は30年間で3000万円を超しています。そのような行動をとれたのは、恩師が“講演や研修で頂いた謝金は自分の懐に入れるな、自分の生活費に使うな”と強調していたからです。それらのお金は、実践で働いている方々や社会に還元しろと口を酸っぱくするほど言い募っていました。そんな「研究者文化」を長年叩き込まれてきましたのでできたことです。
〇このような「研究者文化」がいいかどうかは分かりません。しかしながら、現在の社会福祉系大学の教員、地域福祉研究者の言動をみていると、このような「研究者文化」ともいえる文化を身に着け、行動している人がほとんど見られないことはなんとも淋しい限りです。このような状況の下では、実践と研究のよき循環が衰退し、実践力もぜい弱化し、研究者の質も下がるという“悪循環”に陥らないか危惧しています。

老爺心お節介情報/第45号(2023年5月21日)

「老爺心お節介情報」第45号

お変わりありませんか。
「老爺心お節介情報」第45号をお届けします。
どうぞご自由にお使いください。

2023年5月21日   大橋 謙策

< 日本地域福祉研究所の理事長退任 >

〇2023年5月20日に大正大学で行われた日本地域福祉研究所の理事会、総会で、日本地域福祉研究所の理事長を退任することが認められました。
〇1994年12月23日に、日本地域福祉研究所を設立し、2000年1月にNPO法人格を取得し、理事長を担ってきましたが、30年目の節目の年に後進に道を委ねます。
〇今回の改選で、理事等が大幅に若返りました。70歳以上の理事は基本的に退任(『コミュニティソーシャルワーク』の編集担当の田中英樹理事は重任)し、若いフレッシュな人が理事に選任されました。同時に、特任理事、客員研究員、主任研究員等の選任も行われました。この特任理事、客員研究員、主任研究員についても、若返りを図る必要がありますが、それは次期理事会で検討することになりました。
〇新体制の理事会は、6月1日に行われ、互選で理事長などを選びますが、現時点では法政大学現代福祉学部教授、当研究所の副理事長の宮城孝先生が選任される見込みです。
〇地域福祉研究者の皆様、社会福祉協議会関係者の皆様には、長年に亘り、日本地域福祉研究所及び理事長である私を支えてくださり、衷心より厚く感謝とお礼を申し上げます。理事長は替わりますが、今後とも日本地域福祉研究所へのご支援、ご鞭撻を心よりお願い申し上げます。(2023年5月21日記)

Ⅰ 地域福祉研究者の「研究者文化」と日本地域福祉研究所の設立目的

〇日本地域福祉研究所は1994年12月23日に設立されました。日本社会事業大学大学院修士課程を修了した人を中心に設立しました。元東京都社会福祉協議会職員で、静岡英和大学、静岡福祉大学で教員をされた青山登志夫さん等が尽力してくれて、日本地域福祉研究所の設立ができました。
〇日本地域福祉研究所設立に際し、私は4つの設立目的を考えました。
〇第1は、新しい社会福祉の考え方である「地域福祉」の哲学、理念、実践の在り方などに関する「地域福祉」の普及・啓発でした。
〇筆者は、地域福祉実践・研究を市町村社会福祉協議会を基盤に確立しようと考えて、取り組んで来ましたが、日本の社会福祉学界では、“私のような研究領域、研究方法は社会福祉プロパーでない”と厳しい批判を受けてきました。それらの意見との戦いも含めて、「地域福祉」の考え方の普及と啓発が必要だと考えました。そのことが、従来のコミュニティオーガニゼーション、コミュニティワークに代えてコミュニティソーシャルワークという提唱になります。また、同じように福祉教育を軸とした地域福祉の主体形成理論の提唱も行ってきました。
〇第2には、地域福祉実践の向上に向けた各種研修と実践者の組織化です。
〇筆者は、全社協主催の「地域福祉活動指導員養成課程」の講師を長らく務め、社会福祉協議会職員の研修の重要性を痛感していました。
〇その全社協主催の「地域福祉活動指導員養成課程」が修了したこともあり、その代替機能を担えればと思いました。一時は、通信制の研修システムの構築も考えました(当時は、今ほどICTの発展・普及がない中での紙媒体による通信制を考えていました。いまなら、ICTを使ってできるかもしれません)。
〇その代わりというわけではありませんが、年1回「地域福祉実践研究セミナー」を日本地域福祉研究所が「関係人口」として深く関わり、その地域の実践にある意味影響力を持っている地域で、その地域の実践をフィールドに学習するセミナーを開催しようと考えました。名称も、“地域福祉実践セミナー”でもないし、”地域福祉研究セミナー“でもなく、「地域福祉実践研究セミナー」としたのも、実践と研究の循環を考えたからです。
〇1995年5月に島根県邑南郡瑞穂町で行われた「山野草を食べる会」に呼ばれた際に、当時の瑞穂町社会福祉協議会の日高政恵事務局長にお願いし、1995年8月に第1回を開催したのが始まりです。
〇筆者自身の瑞穂町との関りは、1981年に当時の島根県社会福祉協議会の山本直治常務理事、松徳女学院高校の山本壽子教諭の紹介で訪問したのが最初で、その後瑞穂町の福祉教育、地域づくりの支援に関わってきました(『安らぎの田舎の道標』大橋謙策監修、澤田隆之・日高政恵共著、万葉舎、2000年8月参照)。
〇第3は、地域福祉実践の記録化と出版化です。
〇筆者は、日本社会事業大学大学院で博士課程を修了し、博士の学位を取得した人にはその博士論文を単著として、刊行し、世の評価を受けるべきだと考えてきました。
〇当時、中央法規出版にお願いしました。できれば中央法規出版が全国の大学の社会福祉系の博士論文を刊行するシリーズを作ってくれればありがたいという思いも含めてお願いしました。日本社会事業大学で博士の学位を授与された野川とも江さん、田中英樹さん、宮城孝さんの博士論文は刊行されました。その後は、出版事情の悪化などもあり頓挫してしまいました。
〇これは、当時の日本社会事業大学の伝統に倣ったものです。当時の日本社会事業大学では、40歳で単著を刊行するのが、教授に昇格する基準でした。私も必死だったことが思いだされます。
〇また、当時は、出版される本の背表紙に著者であれ、監修であれ、名前が明記されるのは、ある意味研究者のステイタスシンボルでもありました。私の恩師は、そのような機会を若手に作り、論文をかくことを奨励してくれました。
〇そのような“伝統”を引き継ぎたいと考えて、博士論文の出版化を推奨してきました。
〇と同時に、日本地域福祉研究所が関わることで、全国各地の実践が向上するならば、その実践を記録化し、できれば刊行したいと考えました。研究所の設立に何かとご支援、ご協力してくれた東洋堂企画出版社(のちに、万葉舎と改名)の尾関とよ子社長(尾関社長との間を取り持ってくれたのは、1970年からのお付き合いがある手嶋喜美子元板橋区区議会議長さんである)が、この考え方に賛同してくれて、出版事情が悪くなってきている中でも、日本地域福祉研究所が関わった実践を出版化してくれました(この件は、「老爺心お節介情報」の第44号の「関係人口」の中で紹介しているので参照してください)。
〇第4は、地域福祉実践・研究者の育成の機会の提供です。
〇筆者は、地域福祉研究者は、自分のフィールドを持ち、その地域と深く関わりながら、その実践を体系化、理論化することが肝要で、“空理空論”を振りましても地域福祉実践・研究にならないと考えてきました。だからこそ、市町村自治体の地域福祉計画を作る場合でも、タスクゴールだけ華やかに、かっこよく作っても、それが具現化されなければ駄目だと考え、住民の意識変容と参加を促すプロセスゴールと地域関係者の社会福祉に関わる力学を変えるリレーションシップゴールの重要性と必要性を考え、実践してきました。
〇そのようなフィールドを持てる研究者に育てるためには、私自身が関わるフィールドに同道して学んでもらうとか、フィールドを提供して実習なり、その地域へのコンサルテーションを行う能力を身に着けてもらうことが必要だと考えてきました。
〇私自身、恩師の“カバン持ち”で、随分と全国の実践現場に連れて行ってもらいましたし、恩師の名刺に“大橋を頼む”という一筆を書いてもらって、恩師が紹介するフィールドに出かけたものです。
〇そんなこともあり、大学院生や若手の研究者にフィールドをもってもらいたくて、いろいろチャンスを提供してきました。成功した場合の方が多いのですが、失敗したことも多々あります。若い頃は、ついつい“自分ひとりで偉くなったつもり、自分は豊かな能力があると過信しがち“で、私の教えが頭に入らず、生意気な言動をとって、実質的に”退室“せざるを得ない人もありました。
〇第5は、日本地域福祉研究所で長らく地域福祉実践に貢献された方々の“たまり場”、拠り所としての「福祉サロン」の機能を持つことでした。
〇全社協の事務局長された永田幹夫先生や三浦文夫先生をはじめとして、社会福祉協議会の第一線で頑張ってこられた方々や地域福祉研究者の「福祉サロン」ができれば、ノンフォーマルな学習の場が機能できると考えました。日本地域福祉研究所の事務室とは別の階のフロアーを借り、冷蔵庫等を整備して、「土曜福祉サロン」などの開催も試みました。現役の方は忙しいけれど、たまには集い、定年退職された方はサロンに来るのを楽しみ、若手に自分の実践を話してくれれば、それが地域福祉実践研究の向上につながると“夢”見ました。
〇このような目的を考えて設立した日本地域福祉研究所ですが、どれだけその目的が達成されたかは、関係者の皆様の評価に委ねることにします。
〇ところで、このような日本地域福祉研究所設立の目的を考えたのは、筆者を育んでくれた「研究者文化」があったからです。
〇日本の大学の教育研究システムは、大きく分けて講座制と学科目制があります。講座制は主任教授、助教授、講師、助教等複数の教育研究スタッフがいて、いわばチームで教育研究を行うシステムです。それに比し、学科目制は、開講されている授業科目を担当する教員が個別学科目毎に配属されているシステムで、研究というより、授業を行う教育に比重があるシステムです。
〇現在の社会福祉系大学は学科目制で教育研究が行われています。したがって、教員がチームで仕事をするとか、大学ごと、講座制の教室毎の「研究者文化」というものを構築することが難しいシステムで、教員個々人が独立した状況で教育研究を行います。大学院を出て、助教、講師という若手も一人前の教員、研究者であり、長年教育・研究に携わってきたベテランの教員とも対等であり、結果として若手の時から“自立している”とみなされるので、ベテランの先生方から「研究者文化」を伝授されるという機会がほとんどない状況です。
〇私の場合には、幸か不幸か、旧制大学で学んだ先生方から教えをうけたので、この「研究者文化」というものを色濃く受けています。妻に言わせれば、それほどまでにしなくてもいいのではないかと揶揄されるほど、“先生の言動、論理展開、先生の社会活動”に“憧れ”、学び、時には“盗み”、身に着けてきました。日本地域福祉研究所の設立の目的は、そのような経緯の中で育てられた私が“行うべき責務、任務”だと学び、受け継ぎ、実践してきたものです。
〇日本地域福祉研究所を維持することは、所員になってくれた方々の会費だけでは賄いきれません。日本地域福祉研究所の理事になってくれた方々には寄付をお願いしました。また、日本地域福祉研究所自身、全国の自治体、社会福祉協議会の研修や計画策定業務の委託を受けて経営努力もしてきました。しかしながら、それでもとても経営は厳しく、私自身も毎年100万円以上の寄付を続けてきました。したがって、私の寄付金の累計は30年間で3000万円を超しています。そのような行動をとれたのは、恩師が“講演や研修で頂いた謝金は自分の懐に入れるな、自分の生活費に使うな”と強調していたからです。それらのお金は、実践で働いている方々や社会に還元しろと口を酸っぱくするほど言い募っていました。そんな「研究者文化」を長年叩き込まれてきましたのでできたことです。
〇このような「研究者文化」がいいかどうかは分かりません。しかしながら、現在の社会福祉系大学の教員、地域福祉研究者の言動をみていると、このような「研究者文化」ともいえる文化を身に着け、行動している人がほとんど見られないことはなんとも淋しい限りです。このような状況の下では、実践と研究のよき循環が衰退し、実践力もぜい弱化し、研究者の質も下がるという“悪循環”に陥らないか危惧しています。

(2023年5月21日記)

 

阪野 貢/3.5%(?)の「市民的抵抗」:新しい形の政治参加と社会変革 ―エリカ・チェノウェス著『市民的抵抗』のワンポイントメモ―

ここに「3.5%」という数字がある。なんの数字かわかるだろうか。ハーヴァード大学の政治学者エリカ・チェノウェスらの研究によると、「3.5%」の人々が非暴力的な方法で、本気で立ち上がると、社会が大きく変わるというのである。(斎藤幸平『人新生の「資本論」』集英社新書、2020年9月、362ページ)

〇筆者(阪野)の手もとに、エリカ・チェノウェス著、小林綾子訳『市民的抵抗―非暴力が社会を変える―』(白水社、2023年1月。以下[1])という本がある。「非暴力行動は弱い、受け身の行動である。もつとも速く解放に至るのにもっとも頼りになるのは暴力だ。非暴力抵抗は行き過ぎた不正義に対しては無理があり効果もない」などといった、「非暴力に対する迷信や批判」がある(22~23ページ)。そんななかで[1]は、「非暴力が社会を変える」と説く。
〇[1]は、非暴力による「市民的抵抗」の基礎的・基本的な事項について事例に基づいて紹介する。その際、「歴史や理論から最新情報まで網羅し、市民的抵抗を多角的に考察し」(354ページ)、その可能性を展望する。そこでは、「市民的抵抗」とは、「非武装の民衆がさまざまな活動を組み合わせながらおこなう闘争の形態である」(61ページ)と定義する。そして、ある国のすべての人口の「3.5%」が非暴力で立ち上がれば社会は変わる、という「3.5%ルール」(仮説)を提唱する。チェノウェスはいう。「1900年から2019年の間に、非暴力革命は50パーセント以上が成功した一方で、暴力革命の成功率は26パーセントにとどまる。/これは驚くべき数字である。なぜなら、この数字は、非暴力は弱々しく効果も乏しいが、暴力行為は強力で効果的だという、一般的な見方をひっくり返す数字だからだ」(43~44ページ)。
〇その一方で、チェノウェスは、市民的抵抗の成功率は、2010年以降低下している、としてこういう。「市民的抵抗キャンペーンは、1940年代の低いところから、2010年まで、10年ごとに安定して効果を高めていた。それ以降、すべての革命の成功率は、低下している」(316ページ)。その原因や背景については、現代の政府が「下からの非暴力的挑戦について学習し、適応している」ことがあげられる。すなわち、国家が「運動の中に入り込み、運動を内部から分裂させ」(「スマートな抑圧」)たり、そうすることによって、政府側が「非暴力運動が暴力などもっと軍事的戦術を使うよう仕向ける(運動を過激な方向に進める)」(318ページ)のである。留意すべき点(指摘)である。
〇[1]におけるチェノウェスの主張は、次の5点に要約される。(1)市民的抵抗は、多くの場合、暴力的抵抗よりも現実的・効果的な方法である。(2)市民的抵抗がうまくいくのは、敵方の支持基盤から離反を生み出すことによってである。(3)市民的抵抗は、ストライキや代替機構の構築など、単なる抗議以上のものを含む。(4)市民的抵抗は、過去百年にわたって、武装抵抗よりもはるかに効果的であった。(5)非暴力抵抗は常に成功するわけではないが、市民的抵抗を非難する者たちが考えるよりも、はるかにうまくいく(347ページ)。すなわちこれである。
〇ここでは、[1]のうちから、「市民的抵抗とは何か」と「市民的抵抗キャンペーンを効果的にする要素(条件)」(「市民的抵抗が成功する条件」)の2つの事項について、チェノウェスの言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。一部見出しは筆者)。

市民的抵抗とは何か
● 市民的抵抗とは、政治的、社会的、経済的な現状を打破しようとする目的で、暴力を用いる、あるいはちらつかせる者に対して、暴力を用いずに、暴力をちらつかせたりせずにおこなう集団行動様式である。市民的抵抗は、手段と目的において、組織立っており、民衆によるものであり、明確に非暴力である。(27ページ)
● 市民的抵抗は、動的な紛争の方法であり、非武装の人びとが、さまざまに調整された、非制度的な方法――ストライキ、抗議、デモ、ボイコット、代替機構構築、その他たくさんの戦術――を用いて、敵に危害を加えたり、危害を加えるぞと脅したりせずに、変化を促すことを目的とする。(28ページ)
● (市民的抵抗は、次のような要素を含むアプローチ・行動である。)
第1に、市民的抵抗は紛争の方法である――人びとあるいは運動が、政治的、社会的、経済的あるいは道徳的な主張をおこなうために、動的に立ち向かう技術である。市民的抵抗は、積極的に紛争を惹起するもので、混乱を招いたり、現状を打破したり、別のものと替えたり、変革したりするために、力を集結させる。(29ページ)
第2に、市民的抵抗を仕掛けるのは、敵に直接危害を加えることがない非武装の市民である。変化をもたらそうとする人びとは、自分たちの創造性や独創性を武器に戦う一般市民であり――さまざまな社会的、経済的、文化的、政治的な梃子(てこ)の力を働かせて――自分たちのコミュニティや社会に影響を及ぼそうという目的を持っている。(29ページ)
第3に、市民的抵抗は多様な一連の方法を組み合わせることを含む。この戦いのアプローチでは、意図的に、事前の話し合いをもとに、目的を持ってさまざまな方法が駆使される――たとえば、ストライキ、抗議、怠業、欠勤、占拠、非協力、それから経済、政治、社会の代替機構の開発などをつうじて下からの力や下からの梃子を構築するのである。人びとが道路上で抗議をしているからというだけでは、市民的抵抗をおこなっているとはいえない。(30ページ)
最後に、市民的抵抗の目標は、現状に影響を及ぼすことである。市民的抵抗は、広い社会の中での変化――しばしば革命的な変化――を求める傾向がある。市民的抵抗は、民衆やそこに住む市民といった属性を兼ね備えている傾向があり、複数の集団や連合が手を取り合って活動し、政治、経済、社会、宗教、または道徳的慣行や懸念事項についてまとまった声を上げる――より大きな集団を代表して。(31~32ページ)
● 市民的抵抗とは何かを確認する上で、市民的抵抗ではないことは何かを理解することは有益だろう。
第1に、市民的抵抗は、抗議のような、たったひとつの技術を用いることではない。市民的抵抗は、多数の異なる非暴力の技術(中略)を含むもので、これらを意図的に相次いで発生させ、長期政権を追放しようとする。こうした技術には組織と調整が必要であることが暗に示されている。(32ページ)
第2に、市民的抵抗は必ずしも平和的な紛争解決の話ではない。本来的な意味では、市民的抵抗は建設的に紛争を促進する。(33ページ)
第3に、市民的抵抗は、非暴力的アプローチを用いるが、必ずしも非暴力とイコールではない。(中略)規律立った非暴力は、道徳的理由から暴力の行使を禁止する。同じように、穏健主義(反戦・反暴力主義)は、暴力の行使を無条件に拒むという規律的立場を取り、暴力を道徳に欠けた行為だとみる。(34ページ)

市民的抵抗キャンペーンを効果的にする要素(条件)
キャンペーン(闘争、運動)は、限定的な期間、人びとを動員し、一連の調整された方法を用いて個別の目的を達成しようとする。(中略)これらはたとえばストライキ、抗議、座り込み、ボイコット、その他の非協力の形態を取る混乱をもたらす方法である――これらは党への参加、選挙への立候補、請願といった、政治的あるいは経済的関与をおこなうための制度内にある通常の方法の枠外にある。(116ページ)
(市民的抵抗キャンペーンを成功させる要素(条件)として、次の4つをあげることができる。)
(1)あらゆる社会的地位から集まる大衆の参加(大規模な参加)
市民的抵抗キャンペーンの成功を決定的に左右するもっとも重要な要素は、参加する人びとの規模と範囲である。キャンペーン参加者の基盤が大きく多様なほど、より成功する傾向にある。大衆の参加によって、真の意味で現状を打破でき、続いてきた抑圧を維持することができないように変化させ、敵の組織やしばしば治安部隊も含む支持者の離反を促し、権力保持者の選択肢を狭める。大規模キャンペーンを無視することは政治的に不可能になる。(134~135ページ)
(2)政権支持者の忠誠心を変化させること(忠誠心の変容)
市民的抵抗がうまくいくのは、下からの十分な力を誘発すること、つまり、草の根の市民社会が権力保持者の計画や政策を実行・施行する責任者たちを本質的に分裂させたり、抱き込むことによってである。(中略)この要素は、敵側の支柱にいる人びとに忠誠心の変化を促す抵抗運動の能力である。/この能力を獲得するためには、抵抗キャンペーンが多くの異なるコミュニティから支持を得ている必要がある。(中略)支持者の幅が広くなるほど、その運動は社会のあらゆる立場を代表し、多様な場に影響を及ぼすようになる。(137ページ)
(3)デモに限らず幅広い戦術を用いること(多様な戦術)
さまざまな戦術を駆使する運動は、抗議活動やデモなど、ひとつの方法に頼りすぎる運動よりも成功する傾向にある。新しく、予想もしない戦術を生み出す上で、多くの人的資本をうまく活用できる非暴力キャンペーンは、予想可能で戦術的に面白みがない運動よりも、活動の勢いを維持することに長けている。抵抗運動の規模がとりわけ大きな場合には、他の方法で圧力をかけられる限り、路上での活動から退くことも可能なのだ。(140ページ)
(4)抑圧を前にしても規律と強靭さを保つこと(規律と強靭さ)
運動は、とどまる力を培うと成功する傾向にある。つまり、強靭(きょうじん)さを養い、規律を保ち、政府が暴力的に壊しにかかってきても大衆の参加を保持できることを意味する。もっとも重要な点は、組織性を維持することである。政権側が何をぶつけてきても――暴力で仕返しをするのでも、暴力に反応し退こうと散り散りになるのでもなく。これを達成できる運動は、たいていはっきりとした組織構造を有する。(141ページ)なお、「抑圧」とは、政府や政府関係機関が、強制力を使って相手の行動に影響を及ぼす場合を指す。(262ページ)

〇チェノウェスの「3.5%ルール」は、世界中の耳目を集めた言葉(仮説)である。チェノウェスがいう「3.5%ルール」とは、「運動の観察可能な出来事の絶頂期に全人口の3.5パーセントが積極的に参加している場合、革命運動は失敗しないという仮説」(174ページ)である。ただし、この仮説にはいろいろな点に留意する必要がある。「絶頂期」とは、「ある出来事が一番盛り上がった」時点をいい、「参加者数が時間の経過によって増えていく流れ」を説明するものではない(175ページ)。「人口」とは、ある国の全ての人口であり、自治体や地域、あるいは特定の組織・集団の人口ではない。「革命運動」とは、「指導者の退陣や独立を達成するといった大きな変化を目的とする運動」(180ページ)であり、その「成功」(「失敗しない」)とは、その運動が「いちばんの盛り上がりをみせてから1年以内」(43ページ)に目的が達成されたことをいう。革命運動は、すなわち「政権転覆」をめざす運動であり、政治的譲歩(政策・制度の改善・廃止等)を促すものではない。したがってまた、「3.5%ルール」は、「気候変動運動や、地方政府、企業や学校に対する運動」(180ページ)に適応できるものではない。そしてチェノウェスはいう。「この数字の裏にあるデータは、過去に何が起こったかを語るもので、将来も同じことが必ず起こるとはいっていない。この歴史的傾向は、だれかが意識する前から存在した。人びとがこの閾値(いきち。境界となる値)を意識的に達成しようとするようになってもこのルールがあてはまるかはだれにもわからない」(175ページ)。「1945年から2014年までの間に、3.5パーセントというハードルを超えたのは、389の抵抗運動のうちたった18事例だけである。これは対象期間中に起きた抵抗運動全体の5パーセント未満である」(175~176ページ)。本稿のタイトルを「3.5%(?)の『市民的抵抗』」とし、(?)を付した意味はここにある。本稿の冒頭に記した斎藤幸平の一文にも注意したい。
〇「市民的抵抗」の言葉から思い出すものに、「抗議」「市民的不服従」「社会運動」などがある。その違いについて、チェノウェスの言説を引いておくことにする(抜き書きと要約)。

「抗議」は、市民的抵抗のひとつの方法である。抗議は、典型的には象徴的行動であり、ある問題に対して人びとの関心を集め、変化を要求することをめざす。多くの人びとが抗議と市民的抵抗を同一視する。だが、効果的な市民的抵抗は、通常、抗議にとどまらず、たくさんの非暴力的方法を用いる。(75~76ページ)

「市民的不服従」では、自分たちが不当とみなすものに対して公然と抗議しておこなうものである。法を犯して逃亡することはカウントしない。法を犯す人物は、刑に処せられることを完全に受け入れていなければならず、要求されれば服役する。(104~105ページ)

市民的抵抗は、ストライキ、抗議、座り込み、ボイコットなど、限定的な期間、人びとを動員し、一連の調整された方法を用いて個別の目的を達成しようとする。「社会運動」は市民的抵抗と異なり、長期間にわたって継続するような現象を意味している。社会運動は、社会を変化させるために、組織化、政策提言、その他の政治的活動を組み合わせる傾向にある。社会運動は必ずしも市民的抵抗を用いない。(116~117ページ)

大橋謙策/「バッテリー型研究」と「関係人口」―関係性を豊かに持った自治体―

1)はじめに
〇筆者の「老爺心お節介情報」の誤字脱字を修正したうえで、多くの方に読んでもらえるよう、阪野貢先生が自ら主宰している「市民福祉教育研究所」のブログにおいて、「大橋謙策の福祉教育論」というコーナーを設置してくれ、その中に「アーカイブ(3)老爺心お節介情報」が第1号から収録されている。
〇その阪野貢先生からの要望で、筆者の地域福祉実践、地域福祉研究に於いて、「関係人口」をどう考え、位置付けているのかを書いて欲しいという要望があった。

阪野貢先生のメール
“先生がこれまで、全国で「関係人口」として主導されてこられた数多くの地域づくりに関し「関係人口」のあり様等についての玉稿を(福祉教育の視点から)お願いしたいと念じております。いかがでしょうか。恐縮至極ですが、「老爺心お節介情報」の一読者からの願い(リクエスト)です。

〇その要望に応えるべく、本稿を書いているが、本稿はもとより「関係人口」に関わる学術論文ではないし、阪野先生なり、阪野先生のブログの読者が何を聞きたいのかを精査しているわけではないので、ある意味、私なりにこの50年間の地域福祉実践、地域福祉研究において、どのような関係性をもって行ってきたのかを書くことで責をはたしたいと思う。
〇ただし、阪野先生のメールの括弧書きしてある“福祉教育からの視点”は今回は触れずに書かせて頂いた。

2)「バッテリー型研究」と「関係人口」――その関係性
〇「関係人口」という定義は、緩やかにその地域とその地域づくりに関わる外部の人間として定義しても、その関係性をどういう尺度で図るのか定かでない。関りを持つ地域への訪問の頻度、回数の問題なのか、地域に関わりを持とうとしている外部人間をその地域関係者がアドバイザーや各種計画策定委員として任命しているのか、それとも関りを持とうとしている人間が自称「関係人口」と標ぼうしているのか、さらにはその地域との関りが一過性でなく、継続的に、長期的に関わる期間、スパンのことを問うているのか、必ずしも定かでない。
〇筆者が「バッテリー型研究」というのは、これら「関係人口」の考え方も含めていると同時に、その地域における地域福祉実践に関わる研究方法をも考えている。
〇社会福祉学会における研究方法、研究倫理は、リサーチ系研究における研究方法、研究倫理、あるいは個別支援に関わるソーシャルワーク実践における質的研究、研究倫理はそれなりに確立し、研究者も順守する環境が整備されつつある。
〇しかしながら、地域福祉実践、地域福祉研究における研究方法、研究倫理は必ずしも論議が進んでいないし、確立もしていない。
〇筆者は、講演や研修で招聘だけの地域の関りなのか、それともその地域の地域福祉実践に関わるコンサルテーションまでも依頼されるのか、その地域との関りを持つ際に常にそれらのことを意識してきた。
〇そして、単なる講演や研修のための招聘に留まらず、その地域の地域福祉実践の向上に自分がどう関われるのか、時には差し出がましい提案を敢えてするようにしてきた。コンサルテーションを行うにしても、“差し出がましい提案”をするにしても、その地域の住民の地域社会生活課題はなんであり、それをどう改善する地域福祉実践を展開するのかを常に考え、把握しようと意識してきた。
〇それと同時に、その地域を訪問する際には、事前に各種統計資料や既存の策定された計画を送って頂き、分析していくとか、現地に入り、地域を短時間でも案内して頂くとか、行政や社会福祉協議会の職員に何が生活課題なのかを聞く等して把握するように努めてきた。
〇コンサルテーションや“差し出がましい提案”をする場合には、自分なりに、その地域の地域福祉実践を向上させるための“実践仮説”を提示することに努めてきた。その地域の実践の“評論”ではなく、今後の発展を考えての“実践仮説”の提示である。“評論”と“実践仮説”との違いは、その地域で頑張っている人々を励まし、やる気にさせ、改革してみようと思わせるかどうかが重要な違いのポイントだと考えてきたし、“実践仮説”を提示するということはその内容、発言に責任をもつということでもある。
〇また、そのことは、どのような「関係人口」に位置づくかは知れないけれど、担当の職員が継続的関りを持ちたい(年賀状のやり取り、手紙やメールでの相談等職員が尋ねてくれば対応するという“来るものは拒まず、去る者は追わず”の精神)と思うならば、それなりに支援することを考えてきた。
〇というのも、地域の力学は複雑であり、担当の職員がいくらがんばろうとしても、“地域は動かない”場合があり、地域を対象に考える場合、“天の時、地の利、人の和”という諺通り、時期が来ないと地域を変える改革のエネルギーが充満しない場合がある。これらの時期を見誤ると、“実践仮説”ももって頑張ろうとしている職員の努力が徒労に終わるか、あるいは“組織から、地域から排除の対象”になりかねない。このことで苦労された職員を数多見てきている。地域福祉研究者はそれらのことにも目配り、気配りができなければならず、“実践仮説”という名のもとに、担当職員を“煽り、扇動し”、結果的に職員のみならず、研究者自身がその地域への“出入り禁止”を事実上申し渡される事案は数多ある。
〇筆者が関わった地方自治体において、行政との関わりは主に地域福祉計画等の行政計画のお手伝いを通し、その計画策定後、その計画の進行管理、アフターフォローを兼ねて、地域保健福祉審議会等を条例設置し、その委員長として以後関りを継続する場合が多い。
〇他方、市町村社会福祉協議会を通じての関りは、担当の職員は全社協主催の「地域福祉活動指導員養成課程」の研修やコミュニティソーシャルワーク研修の際に出会い、意気投合して、その職員の社会福祉協議会を軸にした市町村の地域福祉実践の向上を目指して関りを持ってきたことも多い。
〇前者の場合では、岩手県遠野市、東京都目黒区、豊島区、長野県茅野市等であり、後者の場合では、東京都狛江市、富山県氷見市などがある。この両者は関りの入り口、契機は別々であるが、筆者は常に市町村行政とそこの社会福祉協議会とが共働するように仕向け、新たなシステム、サービス開発を行ってきた。それは、地域福祉は市町村という政治行政機構の最も基礎となる自治体が基盤だということを常に意識していたからである。

3)関係性も持った自治体、社会福祉協議会の計画、実践の記録化
〇筆者が「バッテリー型実践、研究」として関係性を持った自治体は、山口県宇部市や富山県氷見市のように30年を超えるところもあるし、担当職員の熱意に絆され関係を持ち始めたが、その担当職員の人事異動や組織の上司が変わり理解を得られなくなるなどの理由から3~4年で関係性がなくなる場合もある。さらには、いったん関係が閉ざされたように思えたものが数年後に再開される場合などもあり一様ではない。
〇筆者が関わりを持ち続けたいと思い、かつ地域の関係者も持ち続けてほしいという場合でも、筆者の時間には限りがあるし、筆者が関係性も持ち、その地域の地域福祉実践を向上させるために継続的に関わっていくためには、筆者個人ではどうみても対応できない。
〇そこで、1994年12月に日本地域福祉研究所を設立し、日本社会事業大学大学院で教えた教え子たちを私のいわば“分身”として関係性のある自治体に派遣し、組織的に関係性を継続できるようにしようと考えた。それは、大学院で“頭でっかちな地域福祉論を学ぶ”ことよりも、身につく体験学習の場ではないかとも考えて、教え子たちに筆者が関係性を持っていた自治体を任せ、継続的にコンサルテーションができればと考えたからである。
〇しかしながら、筆者の思惑を理解し、思惑通りに成長してくれた人もいれば、期待にそぐわず、関係性を壊してしまったり、期待する実践家、研究者にならなかった人もいる。
〇と同時に、筆者は、その地域との関係性を“俗人的なもの”にせず、社会的に汎用性あるものとするために、関係性により作り上げられた、その自治体の地域福祉実践や地域福祉計画を記録化し、世に問うために出版するということを心掛けてきた。
〇その場合、計画レベルのものを本にしても実践的裏付け、検証がなく、単なるきれいごとの“絵にかいた餅”になりかねないので、一定の実践を踏まえた後に、計画の理念と実際という形でその自治体の実践を本として刊行するということを心掛けてきた。
〇それら実践の記録化したものを、手元にある資料だけで紹介すると以下の通りである。

〇以上のような本としての記録は残っていないが、筆者が筆者なりに関係性をもって取り組んできた自治体として思い起すことができる自治体を列挙すれば以下の通りである。
北海道鷹栖町、遠別町、美深町、岩手県沢内村、秋田県藤里町、宮城県石巻市、千葉県鴨川市、富里市、東京都稲城市、東京都目黒区、東京都豊島区、香川県琴平町、愛媛県今治市、四国中央市、徳島県美馬市、島根県松江市、沖縄県浦添市
等である。
〇上記以外に、“関係性”の中味の捉え方に関わってくるが、日本地域福祉研究所が開催してきた27回の地域福祉実践研究セミナーの開催自治体、あるいは25回の四国地域福祉実践研究セミナーの開催地、さらには18回を数える房総地域福祉実践研究セミナーなども関係性を大切して、その地域の地域福祉実践を向上させようと取り組んできた自治体ということができる。

老爺心お節介情報/第44号(2023年5月9日)

「老爺心お節介情報」第44号

「老爺心お節介情報」第44号を送ります。
ご自由にお使いください。

2023年5月9日   大橋 謙策

〇皆さんお変わりありませんか。ゴールデンウイークは十分満喫されましたでしょうか。私はカレンダー通りの生活リズムで、自宅(標高60メートル)から歩いて30分かかる多摩の横山(万葉集の防人の歌として万葉集に登場する多摩丘陵の尾根で、標高100メートル~140メートル)を散策し、山野草のきれいな金襴を探して喜んでいました。
〇4月30日に、パソコンで作業をしていたら、突然画面が「トロイの木馬」になり、“このパソコンはウイルスに感染しました。この画面を修復するには会の電話番号に電話ください”というテロップが流れました。いくら操作しても画面はかわらないので、テロップに流れた電話番号に電話をするとかからず、電話を切ったら、先ほど電話したところから電話があり、“自分の指示の通りにすればパソコンの画面は我慢修復できます”というので、その指示に従って操作を続けた。電話の主は外国人らしく、日本語がたどたどしい状況で、不思議に思いながら指示された通りに操作していると、“このウイルスに感染した状況はお判りになったでしょう。これを修復するのには通常40万円かかりますが、私なら5万円で修復してあげます”というので、私は“これは詐欺ですね”といって、電話を切った。その後も電話がかかってきたが、対応せずにいたところに、娘の夫(娘婿)が丁度来たので画面を見てもらい、操作をしていたら、画面は戻った。娘の夫曰く、いつも来てもらっているシステムエンジニアに来てもらって、ウイルスに感染しているか確認してもらった方がいいということになった。システムエンジニアは自宅に来れるのが5月2日の夕方なので、それまでパソコンの電源を切って使わないでほしいということであった。
〇5月2日の夕方、システムエンジニアが来て、確認してくれた結果、パソコンはウイルスには感染していないようで、「トロイの木馬」を使って、画面を占有し、修理代を巻き上げようという詐欺ではないかということに落着した。
〇丸々2日間、パソコンが使えず、不安の日々を過ごした。システムエンジニア曰く、パソコンを使い始めて25年になるのに、今までよくこのような事案にかかりませんでしたねと妙に感心されてしまった。
〇皆さんはパソコンのトラブルにはどのように対応されているのでしょうか。とても怖くなりました。(2023年5月9日記)

Ⅰ 「バッテリー型研究」と「関係人口」――関係性を豊かに持った自治体

1)はじめに
〇筆者の「老爺心お節介情報」の誤字脱字を修正したうえで、多くの方に読んでもらえるよう、阪野貢先生が自ら主宰している「市民福祉教育研究所」のブログにおいて、「大橋謙策の福祉教育論」というコーナーを設置してくれ、その中に「アーカイブ(3)老爺心お節介情報」が第1号から収録されている。
〇その阪野貢先生からの要望で、筆者の地域福祉実践、地域福祉研究に於いて、「関係人口」をどう考え、位置付けているのかを書いて欲しいという要望があった。

阪野貢先生のメール
“先生がこれまで、全国で「関係人口」として主導されてこられた数多くの地域づくりに関し「関係人口」のあり様等についての玉稿を(福祉教育の視点から)お願いしたいと念じております。いかがでしょうか。恐縮至極ですが、「老爺心お節介情報」の一読者からの願い(リクエスト)です。

〇その要望に応えるべく、本稿を書いているが、本稿はもとより「関係人口」に関わる学術論文ではないし、阪野先生なり、阪野先生のブログの読者が何を聞きたいのかを精査しているわけではないので、ある意味、私なりにこの50年間の地域福祉実践、地域福祉研究において、どのような関係性をもって行ってきたのかを書くことで責をはたしたいと思う。
〇ただし、阪野先生のメールの括弧書きしてある“福祉教育からの視点”は今回は触れずに書かせて頂いた。

2)「バッテリー型研究」と「関係人口」――その関係性
〇「関係人口」という定義は、緩やかにその地域とその地域づくりに関わる外部の人間として定義しても、その関係性をどういう尺度で図るのか定かでない。関りを持つ地域への訪問の頻度、回数の問題なのか、地域に関わりを持とうとしている外部人間をその地域関係者がアドバイザーや各種計画策定委員として任命しているのか、それとも関りを持とうとしている人間が自称「関係人口」と標ぼうしているのか、さらにはその地域との関りが一過性でなく、継続的に、長期的に関わる期間、スパンのことを問うているのか、必ずしも定かでない。
〇筆者が「バッテリー型研究」というのは、これら「関係人口」の考え方も含めていると同時に、その地域における地域福祉実践に関わる研究方法をも考えている。
〇社会福祉学会における研究方法、研究倫理は、リサーチ系研究における研究方法、研究倫理、あるいは個別支援に関わるソーシャルワーク実践における質的研究、研究倫理はそれなりに確立し、研究者も順守する環境が整備されつつある。
〇しかしながら、地域福祉実践、地域福祉研究における研究方法、研究倫理は必ずしも論議が進んでいないし、確立もしていない。
〇筆者は、講演や研修で招聘だけの地域の関りなのか、それともその地域の地域福祉実践に関わるコンサルテーションまでも依頼されるのか、その地域との関りを持つ際に常にそれらのことを意識してきた。
〇そして、単なる講演や研修のための招聘に留まらず、その地域の地域福祉実践の向上に自分がどう関われるのか、時には差し出がましい提案を敢えてするようにしてきた。コンサルテーションを行うにしても、“差し出がましい提案”をするにしても、その地域の住民の地域社会生活課題はなんであり、それをどう改善する地域福祉実践を展開するのかを常に考え、把握しようと意識してきた。
〇それと同時に、その地域を訪問する際には、事前に各種統計資料や既存の策定された計画を送って頂き、分析していくとか、現地に入り、地域を短時間でも案内して頂くとか、行政や社会福祉協議会の職員に何が生活課題なのかを聞く等して把握するように努めてきた。
〇コンサルテーションや“差し出がましい提案”をする場合には、自分なりに、その地域の地域福祉実践を向上させるための“実践仮説”を提示することに努めてきた。その地域の実践の“評論”ではなく、今後の発展を考えての“実践仮説”の提示である。“評論”と“実践仮説”との違いは、その地域で頑張っている人々を励まし、やる気にさせ、改革してみようと思わせるかどうかが重要な違いのポイントだと考えてきたし、“実践仮説”を提示するということはその内容、発言に責任をもつということでもある。
〇また、そのことは、どのような「関係人口」に位置づくかは知れないけれど、担当の職員が継続的関りを持ちたい(年賀状のやり取り、手紙やメールでの相談等職員が尋ねてくれば対応するという“来るものは拒まず、去る者は追わず”の精神)と思うならば、それなりに支援することを考えてきた。
〇というのも、地域の力学は複雑であり、担当の職員がいくらがんばろうとしても、“地域は動かない”場合があり、地域を対象に考える場合、“天の時、地の利、人の和”という諺通り、時期が来ないと地域を変える改革のエネルギーが充満しない場合がある。これらの時期を見誤ると、“実践仮説”ももって頑張ろうとしている職員の努力が徒労に終わるか、あるいは“組織から、地域から排除の対象”になりかねない。このことで苦労された職員を数多見てきている。地域福祉研究者はそれらのことにも目配り、気配りができなければならず、“実践仮説”という名のもとに、担当職員を“煽り、扇動し”、結果的に職員のみならず、研究者自身がその地域への“出入り禁止”を事実上申し渡される事案は数多ある。
〇筆者が関わった地方自治体において、行政との関わりは主に地域福祉計画等の行政計画のお手伝いを通し、その計画策定後、その計画の進行管理、アフターフォローを兼ねて、地域保健福祉審議会等を条例設置し、その委員長として以後関りを継続する場合が多い。
〇他方、市町村社会福祉協議会を通じての関りは、担当の職員は全社協主催の「地域福祉活動指導員養成課程」の研修やコミュニティソーシャルワーク研修の際に出会い、意気投合して、その職員の社会福祉協議会を軸にした市町村の地域福祉実践の向上を目指して関りを持ってきたことも多い。
〇前者の場合では、岩手県遠野市、東京都目黒区、豊島区、長野県茅野市等であり、後者の場合では、東京都狛江市、富山県氷見市などがある。この両者は関りの入り口、契機は別々であるが、筆者は常に市町村行政とそこの社会福祉協議会とが共働するように仕向け、新たなシステム、サービス開発を行ってきた。それは、地域福祉は市町村という政治行政機構の最も基礎となる自治体が基盤だということを常に意識していたからである。

3)関係性も持った自治体、社会福祉協議会の計画、実践の記録化
〇筆者が「バッテリー型実践、研究」として関係性を持った自治体は、山口県宇部市や富山県氷見市のように30年を超えるところもあるし、担当職員の熱意に絆され関係を持ち始めたが、その担当職員の人事異動や組織の上司が変わり理解を得られなくなるなどの理由から3~4年で関係性がなくなる場合もある。さらには、いったん関係が閉ざされたように思えたものが数年後に再開される場合などもあり一様ではない。
〇筆者が関わりを持ち続けたいと思い、かつ地域の関係者も持ち続けてほしいという場合でも、筆者の時間には限りがあるし、筆者が関係性も持ち、その地域の地域福祉実践を向上させるために継続的に関わっていくためには、筆者個人ではどうみても対応できない。
〇そこで、1994年12月に日本地域福祉研究所を設立し、日本社会事業大学大学院で教えた教え子たちを私のいわば“分身”として関係性のある自治体に派遣し、組織的に関係性を継続できるようにしようと考えた。それは、大学院で“頭でっかちな地域福祉論を学ぶ”ことよりも、身につく体験学習の場ではないかとも考えて、教え子たちに筆者が関係性を持っていた自治体を任せ、継続的にコンサルテーションができればと考えたからである。
〇しかしながら、筆者の思惑を理解し、思惑通りに成長してくれた人もいれば、期待にそぐわず、関係性を壊してしまったり、期待する実践家、研究者にならなかった人もいる。
〇と同時に、筆者は、その地域との関係性を“俗人的なもの”にせず、社会的に汎用性あるものとするために、関係性により作り上げられた、その自治体の地域福祉実践や地域福祉計画を記録化し、世に問うために出版するということを心掛けてきた。
〇その場合、計画レベルのものを本にしても実践的裏付け、検証がなく、単なるきれいごとの“絵にかいた餅”になりかねないので、一定の実践を踏まえた後に、計画の理念と実際という形でその自治体の実践を本として刊行するということを心掛けてきた。
〇それら実践の記録化したものを、手元にある資料だけで紹介すると以下の通りである。

〇以上のような本としての記録は残っていないが、筆者が筆者なりに関係性をもって取り組んできた自治体として思い起すことができる自治体を列挙すれば以下の通りである。
北海道鷹栖町、遠別町、美深町、岩手県沢内村、秋田県藤里町、宮城県石巻市、千葉県鴨川市、富里市、東京都稲城市、東京都目黒区、東京都豊島区、香川県琴平町、愛媛県今治市、四国中央市、徳島県美馬市、島根県松江市、沖縄県浦添市
等である。
〇上記以外に、“関係性”の中味の捉え方に関わってくるが、日本地域福祉研究所が開催してきた27回の地域福祉実践研究セミナーの開催自治体、あるいは25回の四国地域福祉実践研究セミナーの開催地、さらには18回を数える房総地域福祉実践研究セミナーなども関係性を大切して、その地域の地域福祉実践を向上させようと取り組んできた自治体ということができる。

Ⅱ 市町村における子育て・子育ちシステムの構築化を求めて

〇2023年4月に、「子ども家庭庁設置法」が施行され、子育て、子育ち政策が新たな局面を迎えている。
〇従来の児童福祉行政は、“要保護児童を点と点でつなぐ、療育型、治療型、保護型施策に偏りすぎていて、地域で子育て、子育ちを支援するシステムになっていない“と筆者は批判してきたし、新たな視点に基づく市町村版の児童福祉行政の必要性を説いてきた。
〇しかしながら、考えられている子ども支援の政策は、必ずしも筆者が考えていることにはなっていない。
〇今、必要なのは、子育ての力が家庭でも、地域でも恐ろしくぜい弱になっており、この子育て、子育ちの土台となる地域で、社会的に子ども育てる機能を復元しない限り、要保護児童への対症療法的施策を展開しても問題解決にはつながらないと考えている。
〇戦後初期に制定された児童福祉法は要保護児童への対策、サービスの提供と他方、地域での児童健全育成という機能を促進させる2重の性格を有していた。戦後初期の子どもの数が多く、かつ地域での近隣の自然発生的助け合いが色濃く残っている時代であってが、児童福祉法は児童健全育成の必要性を説いていた。
〇今日の状況を考えると、要保護児童問題を発生させている基盤である市町村の、地域のすべての子どもを対象とした児童健全育成システムを構築することが必要ではないか。
〇それは、従来の児童福祉行政のみなら、学校教育行政、学校外教育の組織化、社会教育の再編成、新たな地域づくりまで含めて論議されなければならない課題である。
〇この2023年3月に、日本社会事業大学同窓会沖縄県支部の沖縄原宿会が主催でセミナーがオンラインで開催された。企画・立案してくれたのは沖縄大学の玉木千賀子教授で、筆者に『沖縄子ども白書』を始め、多くの資料、調査報告書を送り届けてきて、それを読み込んで講演してほしいという要望であった。
〇その講演の原稿起こしがなされるのかどうかわからないが、とても重要な今日的課題でもあるので、「老爺心お節介情報」の読者に是非考えてほしいと思い、とりあえずその講演のレジュメをここに転載することにした。皆さんに子ども問題への対応を考えてほしい。

Ⅲ 健診とがん告知・その ③ ――重粒子線治療のその後の経過

〇1月30日の医師による診察日から、2月28日に始まる重粒子線治療に向けての準備として胃腸の整腸剤の服薬が始まった。それから、2週間たち、左足の脱力感が強く、時々力が入らず、膝ががくっとしてしまうことが度々出てきた。その後の医師の診断の際にそのことを伝えると、それは整腸剤の影響ではなく、投与してきたホルモン療法によるものではないかといわれた。しかしながら、ホルモン療法は昨年2022年の6月から投与しているわけで自分では納得できなかった。投与された整腸剤の副作用として、筋力の低下がいわれていたので、自分には納得できなかった。
〇重粒子腺治療がおわり、整腸剤の投与もなくなって1か月、左足の脱力感はなくなり、普通に歩けるようになった。私としては、どう見ても整腸剤の副作用としか思えないが、釈然としないままである。要は、普通に歩けるようになったのだからいいとしなければならない。
〇同じように、ホルモン療法の副作用かどうかわからないが、自分の乳首の周りが何となく膨らんできているのが気になる。2~3年前から、3キロのダンベルを両手に持って、胸筋や背筋などの筋トレを行ってきた成果なのか、ホルモン療法の影響なのか分からないが、気になる状況である。
〇また、お酒を飲んでいるときには、ほとんど見向きもしなかった“甘いもの”が非常に欲しくなり、時々草餅や柏餅を買ってたべているのもホルモン療法の副作用なのだろうか。こんなに嗜好が変わるものだと自分自身驚いている。
〇夜間の頻尿は、重粒子線治療前後は1時間に1回という頻尿であったし、排尿する際にお尻がキューと絞られ、ふぐりから脳天まで通り抜けるような痛さが走り、我慢できず、薬を服薬してもらってきたが、その薬も4月17日できれた。5月に入ると夜間の排尿時の痛さもほぼなくなり、かつ頻尿も1時間30分に1回程度になり、状況によっては3時間ももつようになり、夜が少し楽になってきた。
〇禁酒解禁まであと3週間、この間6回ほど酒席懇親の場があったが、よく我慢できた。後、指折り数えて禁酒解禁を待つばかり。
〇前立腺がんとは関係ないが、妻がテレビを見ている時のボリュウムが高いような気がしていて、妻に4月になったら一緒に耳鼻咽喉科を受診しようといっていた。
〇(公財)テクノエイド協会の調べで、近くの聖蹟桜ヶ丘駅近くに日本耳鼻咽喉科学会認定の補聴器相談医がいることが分り、4月7日に受診した。結果は妻は25dBで問題なく、言い出した私が右耳30dB、左耳35dBで、私が軽度難聴者で、補聴器を付ける丁度いい時期だという診断になった。試みに6月2日より補聴器を体験することにした。
〇前立腺がんが落ち着きそうになったら、耳の問題、さらには、眼科にもいかないと運転免許の更新が難しいかもしれない。
〇老いるということはまさに医療機関のオンパレードだということを実感させられている。

(2023年5月9日記)

阪野 貢/階級論的視点に基づく貧困研究―志賀信夫著『貧困理論入門』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、志賀信夫著『貧困理論入門―連帯による自由の平等―』(堀之内出版、2022年5月。以下[1])という本がある。志賀にあっては、貧困とは「人間生活において何かが剥奪(はくだつ)されている状態」であり、「あってはならない生活状態」(8ページ)のことをいう。その貧困を論じることと、貧困問題を論じることとは異なる。前者は、「貧困とは何か」や「貧困対策の理論的核となる原理」について論じることであり、後者は、「現象した貧困」を論じることである。志賀は前者に焦点化したものを「貧困理論」と呼び、[1]のテーマとする(7ページ)。
〇[1]ではまず、「貧困」や「階級」などの諸概念について整理する。次いで、貧困理論の歴史的変遷について整理・検討する。そのうえで、現代日本の貧困問題の検討・考察を通じて、「階級論的貧困理論」を練り上げる。
〇志賀によると、貧困を理解する方法には「階層論」的な視点と「階級論」的な視点の2つがある。その際の「階層」とは、「なんらかの特徴にそくして人びとを区分し層化したもの」(27ページ)である。この立場においては、「貧困を余儀なくされている階層の人びとを事後的にどのように階層移動させるか」(28ページ)ということが課題となる。それに対して「階級」とは、「何らかの地位身分の違いを指示する概念」(28ページ)である。それは、資本主義社会においては「資本-賃労働」という地位身分、すなわち「資本家-労働者」という階級を問うことになる。この立場においては、「貧困をそもそも生じさせる社会関係、つまり『資本-賃労働関係』そのものの変革や資本の振る舞いに対する規制」(28ページ)が課題となる。そして志賀はいう。「前者は、いま現在起きている現実問題への対応であり、後者は、根本原因への介入である。この両者はどちらか一方だけが重要であるというのではなく、その両方が重要である」(28~29ページ)。
〇志賀によると、貧困と非貧困を区別する境界は歴史的に変化し、貧困の概念は歴史的に拡大してきた。それにともなって貧困理論は、19世紀末から20世紀初頭の「絶対的貧困理論」(チャールズ・ブース、シーボーム・ラウントリー)から、20世紀半ばの「相対的貧困理論」(ピーター・タウンゼント)、そしてEUにおける現代(1980年代以降)の「社会的排除理論」へと発展してきた。絶対的貧困理論においては、貧困は「『動物的生存の維持』さえもできないような生活状態」を指す。相対的貧困理論においては、貧困は「『一般的な生活様式(style of living)の維持』ができないような生活状態」を指す。それは、時代と社会によって変化する。現代の貧困論の社会的排除理論においては、貧困を「『幸福(=well-being)を追求できないような自由の欠如、権利の不全』という視点」から理解しようとする(32ページ)。すなわち、そこでは、幸福を追求するための「自由の平等」が社会的目標とされ、それを如何に拡大するかが重要となる。また、「社会的排除」(Social Exclusion)の対概念は「社会的包摂」(Social Inclusion)であるが、それは、「自由」と「権利」が実質的に保障されている状態をいう。それを可能にするのは「自己決定」に基づく「社会参加」である(118ページ)。
〇要するに、志賀にあっては、現代の貧困(「新しい貧困」)は、「自由・権利」に基づく「自己決定型社会参加」の阻害の問題を含んでいる。従って、現在の貧困対策は、個人の「自由・権利」が実質的に保障されているか否かが問われることになる。ただし、こうした貧困概念の拡大は、従来の絶対的貧困や相対的貧困が一掃されたことを意味するものではない。日本においては、「いまだに餓死事件が後を絶たないし、低所得や所得の喪失は貧困問題の中心であり続けている」ことに留意する必要がある(119ページ)。
〇志賀は、以上のような現代の貧困に関する「社会的排除理論」を提示したうえで、貧困を解消するための戦略について論じる。その中心は、「相対的過剰人口対策」と「脱商品化」である。
〇「相対的過剰人口」は、「資本-賃労働関係」のなかで、生産技術の進歩・向上等によって構造的・必然的に生み出される労働者人口(失業者)をいう。それは、景気循環によって排出される労働者(流動的過剰人口)や、都市労働者の供給源である農村に潜在している過剰人口(潜在的過剰人口)、就業が不安定な日雇い労働者(停滞的過剰人口)などの形態をとって現れる。この「相対的過剰人口」は、「失業者個人のあり方に注目し、行動変容や認識の変容によって就労を促す『失業者』対策」(200ページ)によって解消することはできない。そこで必要とされるのは、「資本の振る舞いの規制や『資本-賃労働』という社会関係への介入・変革を促す『相対的過剰人口』対策」である。そして志賀はいう。社会変革をめざす「相対的過剰人口」対策と、個人の変化をめざす「失業者」対策はいずれも重要である。「前者だけに終始するならば、社会変革が実現されるまで多くの人びとが貧困状態を脱することができないし、後者だけに終始するならば、貧困は自己責任の証左であるという主張を裏付けるものとして機能してしまう」(200ページ)。
〇「脱商品化」は、保育、教育、医療、介護、住宅などを低額化、無償化、普遍化することをいう。さらに「社会環境の整備に努め、個人の自己決定に基づく要求があれば、能力に対する支援や特性への配慮をおこなっていくというものである」(174ページ)。これを志賀は「ベーシックサービス(BS)」と呼ぶ(207ページ)。そしてこれは、「自由の平等」の具体化と権利の実質的保障の実現を促すことになる(175ページ)。こうした脱商品化は、貨幣がなくてもそれらの商品(BS化された共同所有物)を利用できるようになり、「労働力商品を常に売らなければ生きていけないという状態から徐々に抜け出し、労働力の脱商品化」を可能にする(208ページ)。そして志賀はいう。「BS化されていく領域を増やしていくことができれば、その過程で資本主義的生産様式や『資本-賃労働関係』は廃絶されていき、貧困根絶の道の先に、資本主義社会とは異なる包摂型社会が実現するかも知れない」(212ページ約)。
〇以上が、「資本-賃労働関係」の廃絶の必要性を説く「階級論」的視点に立って、「社会的排除理論」を手掛かりに立論する志賀の「貧困理論」、その概要である。ここで、いささか長い引用であり、重複するところもあるが、志賀の言説の理解を深めるために、その一文をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

「社会的排除」とは「市民的生存」が否定されたり「自己決定型社会参加」が阻害されている状態をいう
「自己決定」できるためには、選択可能な選択肢の束が必要である。この選択肢の束とは、「自由」の広さのことである。社会全体で保障しようと約束し、法としてルール化した「自由」の範囲が「権利」であり、この「権利」を持つ人びとのことを(「市民(citizen)」と呼ぶ。(116ページ)/貧困概念と自己決定概念が関連付けられながら議論され始めているということは、貧困概念に「自由」と「権利」の要素が付加されつつあるということである。つまり、人びとに保障されるべき生存のあり方の歴史的変遷は、「動物的生存」(絶対的貧困理論)⇒「共同体的生存」(相対的貧困理論)⇒「市民的生存」(社会的排除理論)と整理できる。また、貧困対策のなかで保障されるべき社会参加のありかたは、(家父長制的共同体のメンバーシップに基づく(105~106ページ))「役割遂行型社会参加」⇒(シティズンシップの諸権利に基づく(106ページ))「自己決定型社会参加」と変化してきていると整理できる。1980年代以降、何らかの事情により「市民的生存」が否定されていたり、「自己決定型社会参加」が阻害されている場合、これを「社会的排除(Social Exclusion)」の状態にあると表現するようになってきている。(116~117ページ)

現代の貧困理論や貧困対策には労働者階級の「階級意識」や「連帯」に基づく「階級的視点」が必要である
「階級はなくなった」「階級など古い」という言説は、連帯の不可能性を大きくする。日本では、社会の人びとが総中流化したという言説が人口に膾炙(かいしゃ。広く知れ渡ること)し、彼ら・彼女らに内面化させられ、労働者階級としての連帯の意義が不透明化させられている。そのため、労働生活を含む生活の保障が弱体化し、代わって分断による生活と労働の管理が前面化傾向にある。階級的な緊張関係ではなく、「国民一丸となって」というスローガンは日本でなじみのものとなっている。(194ページ)/当然のことだが、階級的視点を持った貧困研究や反貧困の社会運動は、拙速に「資本-賃労働関係」の廃絶を強調するものではない。「資本-賃労働関係」が継続していても、シティズンシップの諸権利の実質化は併存することが可能である。また、これまでの歴史的過程のなかで人びとの自由と権利の拡大は達成されてきており、その連続性を無視するなどということもありえない。逆に、「資本-賃労働関係」と自由と権利の併存があるからといって、それが階級的視点の不必要性を意味するものでもない。ここでは、貧困を根絶する連帯のための必要条件が階級的視点であるといっているのである。(195ページ)

貧困・差別を根絶するためには「脱商品化」と「資本-賃労働関係」の廃絶を進めることが必要となる
保育、教育等をはじめとするBS化は、権利の実質的保障にもつながる。BS化されれば、貨幣がない場合でも、保育サービスや教育をうけることができる可能性が高まるからである。教育が脱商品化されれば、教育への権利が実質的に保障される道がひらかれる。食への権利も食料が脱商品化されれば実質的に保障される可能性が高まるだろう。(210ページ)/ただ、課題もある。BSのような共同所有は、社会の人びとの共同的な経営を原則としなければならない。そしてその共同的な経営は、差別がある場合、うまくいかないことが予測されるのだ。経営の場に差別が持ち込まれ、権力勾配(こうばい)が生じてしまうと私的所有に傾いたり汚職につながるからである。汚職は共同経営に対する信頼を動揺させ、私的所有の台頭は共同経営を突き崩す直接の原因となる。私的所有は、差別と貧困の上でこそ花開く。別の見方をすれば、資本主義的生産様式や「資本-賃労働関係」を維持したままで貧困・差別の完全な根絶は不可能だということである。(210~211ページ)

〇筆者の手もとに、白井聡著『今を生きる思想 マルクス―生を呑み込む資本主義帯―』(講談社現代新書、2023年2月。以下[2])という本がある。[2]において白井は、「われわれの意識や感性、感覚、価値観、思考といった、普通われわれ一人一人が『自分のもの』であると信じて疑わないもののなかに、資本主義のロジックがどのように入り込んでいるのか、(中略)われわれ自身のなかで資本主義がどのように深化しているのか、それをマルクスの理論を通じて検証する」(6~7ページ)。
〇先の[1]で志賀は、「社会参加」の概念や論理に基づいて、「社会的排除」の対概念である「社会的包摂」について論じる。しかしそれは、「社会的排除」の議論に比して必ずしも十分なものではない。そこでここでは、きわめて恣意的であることを承知のうえで、[2]で白井が説く「社会的包摂」についてみておくことにする(抜き書きと要約)。
〇白井はいう。「マルクスの言う『包摂』は、社会学などでよく使われる『包摂』とは、ニュアンスがまったく異なる。後者の『包摂』は、『社会的包摂』などといった言い回しで使われ、どちらかと言うと肯定的な意味合いで使われる。社会的に周縁化された存在や、逸脱したあるいは逸脱しかかった存在を、社会がその一員として受け入れ、適切な居場所を与えることを、社会学的な意味での『包摂』というのである。/これに対して、マルクスの言う『包摂』には、何かを包み込み、徐々に圧迫し、ついには窒息させるという意味合いを読み込むことができる。つまり、否定的なイメージを喚起する。/では、何が何を包み込むのか。端的に言って、資本主義のシステムがわれわれ人間の全存在を含むすべて、自然環境を含む全地球を包み込む」(100ページ)のである。
〇資本主義的生産様式において労働者は、生産手段(物を生産するための原料や工場・機械など)を持っていないために、自らの労働力(物を生産するための人間の精神的・肉体的能力)を商品として資本家に売り、資本家の指揮・監督のもとで労働することになる。これは、資本が労働を「形式的に包摂」(形式的包摂)することを意味する。しかもその資本は、剰余価値(労働者の労働力の価値(賃金)を超えて生み出される価値。利潤)を生産するために、生産力の向上を常に追求する。そこで、労働者はそのプロセスに巻き込まれ、生産様式の絶えざる変化に適応することを強いられる。これは、資本による労働の「実質的包摂」を意味する(103、104ページ)。
〇そして白井はいう。本来、「仲間」や「協働」「共感」「連帯」「団結」といったものは自主的につくり出すべきものであり、仕事の「やりがい」も自ら発見すべきものである(119ページ)。しかし、新自由主義の現代において、「19世紀的な蓄積様式に回帰した資本」(116ページ)は、「実質的包摂」を高度化し、労働者を純然たる「労働力商品の所有者」へと還元させている。そういうなかで資本は、労働者のあいだで自然発生しない「協働」「共感」「連帯」「団結」や「やりがい」などの情動を商品として売るに至る。これらの情動商品の代金は、労働者の賃金から天引きされており、低賃金はその結果である(118~119ページ)。こうして、「われわれの情動、感情生活までもが商品化され、買うべき対象となった後、まだ包摂されていないものとして残っているものは何もない」(120ページ)。これが白井がいう「新自由主義段階の包摂」である。留意しておきたい。
〇ここで、「資本が人間の道徳的意図や幸福への願望とはまったく無関係のロジックを持っており、それによって運動している。その意味で、人類にとって資本は他者である」(96ページ)というマルクスの「資本の他者性」の概念が思い出される。併せて筆者は、(1)労働の生産物からの疎外、(2)労働行為における疎外、(3)類的存在(人間は生産共同体において他者とともに共同生活を営む社会的存在である)からの疎外、そして(4)人間からの人間疎外(自己疎外)、というマルクスの「疎外論」を思い出す(マルクス著、城塚登・田中吉六訳『経済学・哲学草稿』岩波文庫、1964年3月)。
〇雇用破壊が進む現代社会について「格差社会」「分断社会」「無縁社会」「管理社会」、あるいは「貧困強制社会」( ※)などと言われ、「資本主義の危機」が叫ばれる。その基底をなすのは紛(まぎ)れもなく「階級社会」である。そこから、それらの言葉が表す諸現象について議論したり、「共生社会」を展望する際には、「階級論的視点」が必要かつ重要となる。本稿で言いたいことのひとつである。例によって唐突ながら、それは「まちづくりと市民福祉教育」の実践・研究にも通底する。

※藤田和恵著『不寛容の時代 ボクらは「貧困強制社会」を生きている』 くんぷる、2021年8月。

補遺
図1は、「資本-賃労働関係」に関し、賃労働の再生産過程の範式を示したものである。参考に供しておくことにする。

資本の循環過程におけるGは貨幣、Wは商品、Pmは生産手段、Aは労働力、Pは生産過程、W´は剰余価値によって増加した商品、G´は剰余価値によって増加した貨幣、をそれぞれ表す。賃労働の再生産過程におけるA(W)は労働力商品、APは労働過程、(G)‥‥AP‥‥Gは賃金の後払い、をそれぞれ表す。――は資本および労働力の流通過程、‥‥は商品および労働力の移動、==は資本の下での労働者の労働、をそれぞれ表す。
労働者は労働市場において、労働力を商品として販売するが、その販売に失敗すると失業という労働問題を抱える。労働過程(資本にとっては生産過程)においては、低賃金、長時間労働、劣悪な労働環境などの労働問題が生じる。消費生活過程では、資本から独立し、労働者の消費生活が世帯内で私的・個別に営まれる。そこでは、労働問題の具体的結果として、また労働者やその世帯内の個人的な理由によって生活上の諸困難(生活問題)が生じる。未来の労働力である子どもの生育にも支障をきたすことになる。一方、資本は、労働力の再生産の必要から、あらゆる手段を駆使して労働者の消費生活に介入する。
なお、高齢者や障がい者は、資本にとって衰退した労働力あるいは欠損した労働力であるがゆえに、労働市場・労働過程・消費生活過程において、健常な労働者に比してより厳しい状況に置かれることになる。

老爺心お節介情報/第43号(2023年5月5日)

「老爺心お節介情報」第43号

お変わりありませんか。
「老爺心お節介情報」第43号を送ります。
ご自愛の上、ご活躍下さい。

2023年5月5日   大橋 謙策

〇皆さんお変わりありませんでしょうか。季節の変わり目の日々の気候変動が激しく、体調管理が容易ではありません。お互いにくれぐれも気を付けましょう。
〇新型コロナウイルス感染症が感染症分類で2類から5類に変更になることで、規制緩和が進み、本当に人出が急速に増えました。
〇嬉しい便りがあります。私の教え子の朝倉香織さんが鳥取県社会福祉協議会の事務局長に4月1日付けで就任しました。体に気を付けて職務を遂行してほしいと願うばかりです。
〇「老爺心お節介情報」第42号でご案内した『福来の挑戦――氷見市地域福祉実践40年の歩み』の出版記念を兼ねた氷見市地域福祉実践セミナーが4月15日~16日に行われ、全国各地(宮城、群馬、長野、岐阜、愛知、静岡、香川、佐賀、宮崎等)から200名を超える参加者で盛会裏に行われました。原田正樹日本福祉大学学長や、全社協地域福祉部の高橋良太部長、香川県社会福祉協議会の日下直和事務局長等も参加して頂き、久しぶりの対面でのセミナーを満喫しました。
〇私は35年ぶりに氷見市内の2つの地区の住民座談会に参加しました。35年前に、地区社会福祉協議会作りのために入り、住民座談会をした地区です。その後地区社会福祉協議会がつくられ活動を展開してきたものの、それもマンネリ化し、形骸化していたのを、氷見市社会福祉協議会職員のエリア担当制の導入とともに、担当職員が地区社会福祉協議会の活動を住民の生活課題を明らかにするアンケート調査などを行い、地域生活課題を明らかにして、再活性化してきている実践を垣間見ることができました。
〇求められたコメントで、私は2つのことを言いました。その一つは、なぜ地区社会福祉協議会を1980年代に作ろうとしたのかという点です。それは、岡村重夫の一般コミュニティ論と福祉コミュニティ論との関係であったが、今や一般コミュニティ全体が社会福祉の普遍化の中で生活のしづらさを考えなければならない時代(地域の住民の自治能力が減退し、かつ高齢化することで地区に住むすべての住民が生活のしづらさを抱え、地域自体の存続が危ぶまれる時代)になってきているので、単に地区社会福祉協議会の再活性化に取り組むだけでは十分でないこと、二つ目に、地域自体の力がなくなり、自治会活動もままならない状況のなかで、内閣府、国土交通省、農林水産省、総務省などが「地域づくり協議会」づくりを市町村に推奨している時代に、それらの活動と無関係に地区社会福祉協議会 活動を位置づけていたのでは社会福祉協議会の存在が意味がなくなることを指摘しました。
〇社会福祉協議会が進める地域福祉は、“地域の基盤があったらばこそ”の活動でもあり、その地域のぜい弱化と無関係に社会福祉協議会及び地域福祉関係者は地域福祉を語るべきでないことを戒めました。
〇それにしても対面でのセミナーはいいですね。残念だったのは、懇親会で私はお酒を飲めず、ノンアルコールとウーロン茶、ジンジャエールなどを飲んでいたことです(2023年4月26日記)。

Ⅰ 憲法第13条と「社会福祉観の貧困」「人間観の貧困」「貧困観の貧困」「生活観の貧困」

〇5月3日は憲法記念日。筆者は、日本社会事業大学の講義で、よく「社会福祉観の貧困」「人間観の貧困」「貧困観の貧困」「生活観の貧困」という用語を使用して講義をしてきた。
〇それは、社会福祉を志している学生が陥り易い社会福祉観を問い直す作業過程として、その用語を使ってきた。
〇筆者は、社会福祉を憲法第25条からだけ説き起こすのではなく、それとともに憲法第13条からも説き起こすべきだと1960年代末から言ってきたし、論文にも書いてきた。
〇憲法第25条の社会権的生存権の規定は、人類が歴史的に獲得してきた権利であり、国民のセーフティネット機能として重要であることは重々分かったうえで、それだけだと提供される社会福祉サービスがちまちました“最低限度の生活保障”の域を出ないことになるし、その反動として、社会福祉サービスを提供する側のパターナリズムが避けられないと考えてきたからである。
〇それらのことを実感する機会は、1970年に女子栄養大学に助手として採用され、勤務し始めて改めて痛感したし、同じく1970年から始めた聖心女子大学の非常勤講師の勤務からも痛感させられた。
〇女子栄養大学では、昼食を大学の食堂で摂るのだけれど、その食堂はキャフェテリア方式で、自分の好み、自分の懐具合、自分が食べたい分量を自分で考えるという“主体性”が常に求められる。
〇当時の社会福祉施設の食事は盛っ切りで、自分(福祉サービス利用者)の主体的選択の余地はなく、かつ食器も割れない食器で供されていた。日常生活における食事の持つ意味、食事に伴う生活文化などを女子栄養大学でいろいろ教わった。
〇当時、島根県出雲市の長浜和光園がバイキング方式の食事を提供し始めていて、社会福祉施設における食事に関わる問題の重要性を随分と学ばせてもらった。食事を通して学ぶ食文化、食事の場における会話、食事を作る生活技術など日常生活における食事の持つ意味は大きい。女子栄養大学では、当時核家族化が進む中での“子どもの孤食”の問題が大きく取り上げられていた。
〇筆者は、当時の女子栄養大学の社会福祉の科目を受講している学生に、夏休みの宿題として、社会福祉施設を訪問し、その施設の食事の実態を分析するレポート課題を出した。そのレポートに書かれた当時の分析と今日とを比較出来たらとても良かったと思うのだけれど、そのレポートは女子栄養大学を退職した際に、廃棄処分してしまったことが残念である。
〇他方、聖心女子大学でも社会福祉の科目を教えていたのであるが、同じように夏休みの宿題として、社会福祉施設を訪問してボランティア活動を行い、学生なりの社会福祉施設の評価を求めるレポートを課した。その際、学生から質問があった。訪ねる社会福祉施設は日本の社会福祉施設でなければ駄目かという質問である。その学生は、夏休みに入ると同時に、父母がいる海外へ行くという。その海外の社会福祉施設の訪問記でもいいのかという質問であった。そのような境遇の学生が数人いた。日本と海外の社会福祉施設との比較が図らずも行うことができた。社会福祉施設を取り巻く福祉文化の違いを期せずして学生同士で論議できたことはおもしろかった。
〇1992年、筆者は日本社会事業大学の長期在外研究が認められ、イギリスに半年間滞在した。それも、筆者はロンドン大学などへの派遣ではなく、自由にさせて頂いた。
〇筆者は、ロンドンのケンジントン&チェルシー区に滞在し、区内にあるホスピスやボランティアセンターなどに出入りさせてもらった。ホスピスでは、余命いくばくもない人々が、私が訪問する度に、私に向かって“エンジョイしているか”と尋ねられる日々であった。そのホスピスでは、余命いくばくもないのに、ドリンキングパーティもあり、かつ犬のボランティアも登録されていて連れてこられたり、浴室にはカラフルな壁画が描かれていたりという福祉文化の違いを様々な形で私に問いかけてきた。
〇筆者は、憲法第13条に基づく社会福祉観を考える場合、生活上の様々な事象に対し「快・不快」を基底として、生活を楽しむ、生活を再創造するというリクリエーションが大切ではないかと考え、1980年代後半に、日本社会事業大学の故垣内芳子先生や日本レクリエーション協会の園田碩哉さん、千葉和夫さん(のちに日本社会事業大学の教員)、淑徳短期大学の木谷宜弘先生(元全社協ボランティア活動振興センター長)等と“社会福祉における文化の問題、レクリエーションの位置”について研究を行った。社会福祉施設の食事、社会福祉施設のインテリア、社会福祉施設職員のユニフォーム、行動規範などについて調査研究をした。その結果は、1989年4月に『福祉レクリエーションの実践』(ぎょうせい)として上梓された。その『福祉レクリエーションの実践』には、筆者が日本社会事業大学研究紀要第34集に寄稿した「社会福祉思想・法理念にみるレクリエーションの位置」と題する論文が収録されている。
〇その論文では、(1)社会福祉とレクリエーション、(2)レクリエーションの捉え方の視角、(3)西洋の社会福祉思想とレクリエーション及び娯楽、(4)日本における社会福祉思想にみるレクリエーション及び娯楽、(5)社会福祉六法の目的と生活観、(6)施設最低基準にみる生活観、(7)在宅生活自立援助ネットワークの構成要件、(8)在宅福祉サービスの供給方法と施設整備の在り方について論述している。権田保之助の社会事業や娯楽の捉え方や如何に社会福祉法の目的が狭隘であるかを論述すると同時に、入所型社会福祉施設のサービスを分解して、地域で住民の必要と求めに応じてサービスパッケージをすれば、社会福祉施設の位置と役割が変わることを指摘している(当時はケアマネジメントという用語は使われてなく、筆者は必要なサービスをパッケージして提供するという意味でサービスパッケージという用語を使用していた)。
〇1996年に総理府の社会保障審議会が社会保障の捉え方を見直し、事実上福祉サービスを必要としている人のその人らしさを支えるサービスに転換させる勧告を出す。憲法第25条に基づく“最低限度の生活保障”への偏りを反省し、事実上憲法第13条を法源とする社会保障、社会福祉への転換が求められた。
〇しかしながら、相も変わらず社会福祉分野では、“上から目線のサービスを提供してあげる”という考え方や姿勢が蔓延っているし、生活を楽しく、明るく、楽しむ自立生活支援にはなっていない。
〇社会福祉分野では、故一番ケ瀬康子先生等が「福祉文化学会」を設立し、社会福祉サービスの考え方や社会福祉における文化性について研究を推進してきたが、その研究枠組みは必ずしも私の先の論文の枠組みとは同じではない。
〇他方、1970年代から播磨靖男さんたちのわたぼうしコンサートを始めとして、社会福祉の枠にとらわれない障害者文化の向上に貢献する実践があるが、それらがどれだけ社会福祉分野に影響を与えて、社会福祉の質を変えたかは定かでない。
〇憲法記念日の今日、改めて社会福祉の在り方、考え方と憲法第13条との関り、社会福祉従事者の“内なる社会福祉観、人間観、生活観、貧困観”を見直す契機になればとこの小稿を書いた(2023年5月3日記)。

(注記)
この「老爺心お節介情報」は、私のメールアドレスに登録されている人を中心に送付していますが、時々メールの送信ミスがあるようです。
「老爺心お節介情報」は、阪野貢先生のブログに、阪野貢先生が誤字脱字を修正してくれた上で、閲覧できるように転載されています。「阪野貢 市民福祉教育研究所」で検索して、入手してください。