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阪野 貢/追補/「キャリア」再考:計画的偶発性理論をめぐって―J.D.クランボルツ・A. S.レヴィン著『その幸運は偶然ではないんです!』のワンポイントメモ―

キャリア研究では、明確な目標を立て、そこに到達するために「逆算」して、計画化に努力していくという考え方(「キャリア・プランニング」論)ではなく、偶然のチャンスを生かして、上手に転換を図りながら自分のキャリアを歩んでいくという考え方(「計画的な偶発性(プランド・ハプンスタンス)」の理論)が主流となっている(児美川孝一郎著『夢があふれる社会に希望はあるか』KKベストセラーズ、2016年4月、136~137ページ)。

〇本稿は、<雑感>(177)夢の正体とキャリア教育の功罪―児美川孝一郎著『夢があふれる社会に希望はあるか』のワンポイントメモ―/2023年6月4日投稿、そのなかの上記の一節に関する追補である。
〇いま、いわゆるVUCA(ブーカ)――Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)の時代にあって、自分の「経歴」や「職歴」、すなわち「キャリア」(career)を他人まかせや組織まかせではなく、自らどのように構想し形成・開発していくかが問われている。
〇まず、「キャリア」という言葉・概念について簡単に押さえておきたい。ひとつは、厚生労働省の「キャリア形成を支援する労働市場政策研究会」報告書(2002年7月)がいう「キャリア」と「キャリア形成」についてである。いまひとつは、中央教育審議会の「今後の学校におけるキャリア教育・職業教育の在り方について」答申(2011年1月)がいう「キャリア」と「キャリア発達」についてである。

「キャリア」と「キャリア形成」
―厚生労働省「キャリア形成を支援する労働市場政策研究会」報告書(2002年7月)―
近年、労働市場の変化や労働者等の職業意識の変化に伴い、「キャリア」や「キャリア形成」等の言葉が個人の職業生活を論ずる場合のキーワードの一つとなっている。(中略)
「キャリア」とは、一般に「経歴」、「経験」、「発展」さらには、「関連した職務の連鎖」等と表現され、時間的持続性ないし継続性を持った概念として捉えられる。
「職業能力」との関連で考えると、「職業能力」は「キャリア」を積んだ結果として蓄積されたものであるのに対し、「キャリア」は職業経験を通して、「職業能力」を蓄積していく過程の概念であるとも言える。
「キャリア形成」とは、このような「キャリア」の概念を前提として、個人が職業能力を作り上げていくこと、すなわち、「関連した職務経験の連鎖を通して職業能力を形成していくこと」と捉えることが適当と考えられる。
また、こうした「キャリア形成」のプロセスを、個人の側から観ると、動機、価値観、能力を自ら問いながら、職業を通して自己実現を図っていくプロセスとして考えられる。

「キャリア」と「キャリア発達」
―中央教育審議会「今後の学校におけるキャリア教育・職業教育の在り方について」答申(2011年1月)―

人は,他者や社会とのかかわりの中で、職業人、家庭人、地域社会の一員等、様々な役割を担いながら生きている。これらの役割は、生涯という時間的な流れの中で変化しつつ積み重なり、つながっていくものである。また、このような役割の中には、所属する集団や組織から与えられたものや日常生活の中で特に意識せず習慣的に行っているものもあるが、人はこれらを含めた様々な役割の関係や価値を自ら判断し、取捨選択や創造を重ねながら取り組んでいる。
人は、このような自分の役割を果たして活動すること、つまり「働くこと」を通して、人や社会にかかわることになり、そのかかわり方の違いが「自分らしい生き方」となっていくものである。
このように、人が、生涯の中で様々な役割を果たす過程で、自らの役割の価値や自分と役割との関係を見いだしていく連なりや積み重ねが、「キャリア」の意味するところである。このキャリアは、ある年齢に達すると自然に獲得されるものではなく、子ども・若者の発達の段階や発達課題の達成と深くかかわりながら段階を追って発達していくものである。(中略)
このような、社会の中で自分の役割を果たしながら、自分らしい生き方を実現していく過程を「キャリア発達」という。

〇要するに、厚生労働省報告では「キャリア」とは、単なる「職歴」ではなく、職業経験を通してあらゆる経験が持続的・継続的に蓄積・連鎖して構築されていくこと(またその過程やさま)をいう。中央教育審議会答申では「キャリア」とは、「人が、生涯の中で様々な役割を果たす過程で、自らの役割の価値や自分と役割との関係を見いだしていく連なりや積み重ね」の総体を意味する。この点に関して文部科学省は、「『働くこと』については、職業生活以外にも家事や学校での係活動、あるいは、ボランティア活動などの多様な活動があることなどから、個人がその学校生活、職業生活、家庭生活、市民生活等の生活の中で経験する様々な立場や役割を遂行する活動として、幅広くとらえる必要がある」(文部科学省『中学校キャリア教育の手引き』2011年5月、16ページ)とする。留意しておきたい。
〇筆者(阪野)の手もとに、J.D.クランボルツ・A.S.レヴィン著、 花田光世・大木紀子・宮地夕紀子訳『その幸運は偶然ではないんです!―夢の仕事をつかむ心の練習問題―』(ダイヤモンド社、みすず書房、2005年11月。2022年2月・第18刷。以下[1])という本がある。クランボルツ(1928年~2019年)は、代表的なキャリア理論のひとつである「計画的偶発性理論/計画された偶発性理論」(Planned Happenstance Theory)の提唱者として著名である。
〇計画的偶発性理論の骨子は、① 人生やキャリアは、(その8割が)想定外の出来事や「偶然の出来事」(happenstance)によって影響を受ける。② 偶然の出来事に対して積極的に行動・努力することによって、キャリアを発展させることができる。③ 偶然の出来事をただ待つだけでなく、それを引き寄せる・創り出すために積極的に行動し、変化する状況に注意を向けることによってチャンスが生まれる。また、チャンスが来たときにそれを掴(つか)める準備をしておくことによってキャリア形成を図ることができる、というものである。
〇[1]はこういう。「人生には、予測不可能なことのほうが多いし、あなたは遭遇する人々や出来事の影響を受け続ける。結果がわからないときでも、行動を起こして新しいチャンスを切り開くこと、偶然の出来事を最大限に活用することが大事」である(1ページ)。「この本を通してあなたに伝えたいのは、結果がわからないときでも、行動を起こして新しいチャンスを切り開くこと、偶然の出来事を活用すること、選択肢を常にオープンにしておくこと、そして人生に起きることを最大限に活用すること。(中略)うまくいっていない計画に固執するべきではない」ことである(2ページ)。「この本で伝えたい基本的なことは、積極的に行動してチャンスをつかみ、新しい経験を最大限に活かそうとすることで満足のいくキャリア、満足のいく人生を見つけることができ」ということである(206ページ)。
〇そして、偶然の出来事をキャリア形成に繋げるためには、次のような行動(「行動原則」)が求められるという。① 好奇心(curiosity)/興味や関心をそそる活動に積極的に関わり、それを学びの経験にする(206ページ)。② 持続性(persistence)/失敗してもキャリアの夢を見続け、それが実現するための行動を起こし努力する(52ページ)。③ 楽観性(optimism)/失敗に対して悲観的にならず、建設的な行動を助けるような前向き(ポジティブ)な考え方を持つ(209ページ)。④ 柔軟性(flexibility)/ひとつの目標や計画に固執せず、他の選択肢にもオープンになる(82ページ)。⑤ 冒険心(risk taking)/結果が不確かであっても、新しい活動に挑戦し、行動を起こしてチャンスを切り開く(1ページ)、がそれである(「訳者あとがきにかえて」225ページ参照)。
〇およそ以上が、筆者の偏狭な関心事にもとつぐ[1]の議論の抜き書き・要約であり、<雑感>(177)の追補である。
〇なお、本稿を草することにした意図にいまひとつ、私事にわたるがT氏のキャリアをめぐる筆者の思いや願いがある。氏は今年度から、厳しい条件を承知のうえで所属機関を移籍し、研究・教育のステージを変えることになった。それに関して[1]のなかから、クランボルツとレヴィンの次の言葉を借りたい。T氏への敬意とエールでもある。いつも好奇心を持ち、いつも学び、いつも挑戦してほしいのである(223ページ)。

想定外の出来事は常に起こります。その中のいくつかは、あなた自身の行動の結果として起きています。そしてその中のいくつかは、あなたのキャリアに大きな影響を与える可能性があるのです。(27ページ)

あなたが夢を追求する道中では、よく目を開き耳をすませておくことをお勧めします。チャンスがやってきたときにそれをつかむ準備ができていれば、想定外の出来事があなたをさらによい結果へと導く可能性があります。(53ページ)

付記
〇筆者の手もとに、雇用ジャーナリストの海老原嗣生(えびはら・つぐお)が書いた『クラウンボルツに学ぶ夢のあきらめ方』(星海社新書、2017年4月。以下[2])という本がある。[2]では、キャリア論の「基礎中の基礎(バイブル)」(8ページ)と評するクランボルツの計画的偶発性理論を平易に、小気味よく解説している。図1は、計画的偶発性理論のポイントを整理したものである。参考に引いておくことにする。海老原はいう。「夢はときにあきらめる(消化する)べきものであり、ときに新たに見つける(代謝する)べきものである」。そのため(代謝するため)にはまず「踏み出すこと(好奇心、楽観性、冒険心)」、もう一度「いちから始めること(柔軟性)」、そして「続けること(持続性)」が重要となる。

 

 

 

阪野 貢/「利他」再考の3冊:利他は事後的であり、利他的になろうとする作為は利他を遠ざける ―中島岳志著『思いがけず利他』等のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、伊藤亜紗(編)・中島岳志・若松英輔・國分功一郎・磯崎憲一郎著『「利他」とは何か』(集英社新書、2021年3月。以下[1])という本がある。伊藤は美学者、中島は政治学者、若松は批評家・随筆家、國分は哲学者、そして磯崎は小説家である。分野も背景も異なるこの5名の研究者が、東京工業大学の「未来の人類研究センター」(2020年2月設立)のメンバーとして取り組んでいるのが、「利他」をめぐる問題である。[1]は、「全員ではぐくんできた利他をめぐる思考の、5通りの変奏」であり、いまだその「出発点であり、思考の『種』にすぎない」という(8ページ)。
〇[1]におけるひとつのキーワードは、「うつわ」――「うつわになること」「『うつわ』的利他」である。伊藤は次のようにいう。

利他とは「うつわ」のようなものではないか。相手のために何かをしているときであっても、自分で立てた計画に固執せず、常に相手が入り込めるような余白を持っていること。それは同時に、自分が変わる可能性としての余白でもある。この何もない余白が利他であるとするならば、それはまさにさまざまな料理や品物をうけとめ、その可能性を引き出すうつわのようである。(58ページ。語尾変換)

〇人間は「うつわ」のような存在として生きることによって、「利他」が宿る。こうした人間観を生み出す伊藤の言説は、こうである。利他的な行動には本質的に、「これをしてあげたら相手にとって利になるだろう」という、「私の思い」が含まれている。その「私の思い」は私の思い込みでしかなく、「自分の(利他的な)行為の結果はコントロールできない」、すなわち見返りは期待できない(「利他の不確実性」)。自分の利他的な行為は、相手は「喜ぶはずだ」「喜ぶべきだ」という押しつけが始まるとき、人は利他を自己犠牲と捉えており、その見返りを相手に求めていることになる。その点において、利他的な「思い」や「行為」は、相手をコントロールしたり、支配することにつながる危険をはらんでいる。そうならないためには、相手を「信頼」してその自律性を尊重し、相手の言葉や反応を「聞く」ことを通じて相手の潜在的な可能性を引き出すこと、すなわち相手の力を信じることが必要不可欠となる。それは、「こちらには見えていない部分がこの人にはあるんだ」という距離と敬意を持って、相手を気づかうこと(「ケア」)である。この他者への気づかい、すなわち「ケアとしての利他」は、相手の隠れた可能性を引き出すこと(「他者の発見」)になり、それは同時に自分が変わること(「自分の変化」)になる。そのためには、こちらから善意を押しつけるのではなく、相手を信頼し、利他の結果の可能性や意外性を受け入れる、うつわのような「余白」を持つことが必要となる。この自由な余白、スペースは、とくに複数の人が「ともにいる」ことをかなえる場面で重要な意味を持つ(50~56、59ページ)。
〇筆者の手もとに、中島岳志著『思いがけず利他』(ミシマ社、2021年10月。以下[2])という本がある。中島は[1]の著者のひとりである。[2]において中島は、「利他の本質に『思いがけなさ』ということがある。利他は人間の意思を超えたものとして存在している」(6ページ)と説く。具体的にはこうである。「利他は自己を超えた力の働きによって動き出す(「縁起による業」:私はさまざまな縁によって(縁起的現象として)存在している)。利他はオートマティカルなもの(意思を超えたもの)。利他はやって来るもの(利他の与格性)。利他は受け手によって起動する(利他は事後的)。そして、利他の根底には偶然性の問題がある(利他の偶然性)」(174ページ。括弧内は筆者)。
〇[2]のうちから、中島の言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

「共感」が利他的行為の条件となったとき、「別の規範」が起動し「共感される人間」になることが求められる
通常、利他的行為の源泉は、「共感」にあると思われている。/他者への共感、そして贈与(利他)。この両者のつながりは非常に重要である。(21ページ)/しかし、共感が利他的行為の条件となったとき、例えば重い障害のある人たちのような日常的に他者からの援助・ケアが必要な人は、「共感されるような人間でなければ、助けてもらえない」といった思いに駆(か)られる。/他者に自分の苦境を伝えることが苦手な人、笑顔を作ることが苦手な人、人付き合いが苦手な人。人間は多様で、複雑である。だから「共感」を得るための言動を強(し)いられると、そのことがプレッシャーとなり、精神的に苦しくなる人は大勢いる。/そもそも「共感される人間」にならなければならないとしたら、自分の思いや感情、個性を抑制しなければならない場面が多く出てくる。(22ページ)/「共感」されるために我慢を続ける。自分の思いを押し殺し続ける。むりやり笑顔を作る。そうしないと助けてもらえない。そんな状況に追い込むことが「利他」の影で起きているとすれば、問題は深刻である。(23ページ)/さらに、「より深い共感」を利他の条件にしてしまうと、今度は自分の思っていることや感情を露わにしなければならないという「別の規範」が起動してしまう。そうすると、「自分をさらけ出さないと助けてもらえない」という新たな恐怖が湧き起こってくる。(24ページ)

利他の主体はどこまでも受け手側にあり、その意味において私たちは利他的なことを行うことはできないのである
特定の行為が利他的になるか否かは、事後的にしかわからない。いくら相手のことを思ってやったことでも、それが相手にとって「利他的」であるかはわからない。与え手が「利他」だと思った行為であっても、受け手にとってネガティブな行為であれば、それは「利他」とは言えない。むしろ、暴力的なことになる可能性もある。いわゆる「ありがた迷惑」というものである。/つまり、「利他」は与えられたときに発生するのではなく、それが受け取られたときにこそ発生するのである。自分の行為の結果は、所有できない。あらゆる未来は不確実である。そのため、「与え手」の側は、その行為が利他的であるか否かを決定することができない。あくまでも、その行為が「利他的なもの」として受け取られたときにこそ、「利他」が生まれるのである。(122ページ)/受け手が相手の行為を「利他」として認識するのは、その言葉(や行為など)のありがたさに気づいたときであり、発信と受信の間には長いタイムラグがある。(128ページ)/つまり、発信者にとって、利他は未来からやって来るものである。また、発信者を利他の主体にするのは、どこまでも、受け手の側であるということである。この意味において、私たちは利他的なことを行うことができないのである。/発信者にとって、利他は未来からやって来るものであり、受信者にとっては、「あのときの一言」(や「あのときの行為」)のように、過去からやって来るもの。これが利他の時制である。(132ページ)

利他的になるためには「偶然の自覚」に基づいて器(うつわ)のような存在になり、与格的主体を取り戻すことが必要である
私という存在は、突然、根拠なく与えられたものである。あらゆる存在は、自己の意志によって誕生したのではなく、意志の外部の力によってもたらされたものである(与格的な存在)。ここに存在の被贈与性という原理がある。/そして、誕生以降も私という存在の奇跡は続く。今の私は、様々な偶然性の奇跡的な組み合わせによって成立している。私という個性は、単純な因果関係では説明できない天文学的な縁起によって構成されている。(150ページ)/この「私が私であることの偶然性」についての自覚が、「自分が現在の自分ではなかった可能性」「私がその人であった可能性」へと自己を開くことになる。(143ページ)/この「偶然の自覚」が他者への共感や寛容へとつながり、連帯意識を醸成し、「利他」が共有される土台を築くことになる。(143、145ページ)/ここで重要なのは、私たちが偶然を呼び込む器(うつわ)になることである。偶然そのものをコントロールすることはできない。しかし、偶然が宿る器になることは可能である。(176ページ)/そして、この器にやって来るものが「利他」である。器に盛られた不定形の「利他」は、いずれ誰かの手に取られる。その受け手の潜在的な力が引き出されたとき、「利他」は姿を現し、起動し始める。/このような世界観のなかに生きることが、「利他」なのである。/だから、利他的であろうとして、特別のことを行う必要はない。毎日を精一杯生きることである。私に与えられた時間を丁寧に生き、自分が自分の場所で為(な)すべきことを為す。能力の過信を諫(いさ)め、自己を超えた力に謙虚になる。その静かな繰り返しが、自分という器を形成し、利他の種を呼び込むことになるのである。(177ページ)

〇筆者の手もとに、若松英輔著『はじめての利他学』(NHK出版、2022年5月。以下[3])という本がある。若松も[1]の著者のひとりである。若松はいう。人と人との「つながり」が問われている今日、「私たちがもう一度、他者とともに生きるために『つながり』を持続的に深めるには何が必要か。この問題を解く鍵語(キーワード)として考えてみたいのが『利他』である」(6ページ)。そして若松は、[3]において、日本仏教の視座から最澄や空海、儒教のそれから孔子や孟子、西洋哲学からフランスのオーギュスト・コント(1798年~1857年)やアラン(本名:エミール=オーギュスト・シャルティエ、1868年~1951年)らの「利他」の思想を取りあげる。とともに、「利他を生きた人たち」として吉田松陰や西郷隆盛、二宮尊徳、中江藤樹らの「利他」の哲学を紹介し、論述する。そのうえで若松は、ドイツの心理学者・哲学者であったエーリッヒ・フロム(1900年~1980年)の『愛するということ』(1956年)を読み解き、「自分を愛すること」、すなわち「自分を深く信頼すること」が「利他」につながる、と主張する。次の一節が若松の結論である。

自分で自分のことを愛することができれば、その人は自分を固有なものにできる。そして、そのうえで誰かのことを愛することができれば、その人は他人のことを固有な存在として認めることができる。自分自身が固有であると知ることは、他者が固有であると知ることである。それはすなわち自他ともに等しい存在であることを経験するということでもある。/愛を通して利他を考えるとき、私たちは愛の前で等しくなければならない。Aさんのことは愛せて、Bさんのことは愛せないのであれば、それは利他がうまく働いている状態とはいえないのである。/利他には等しさが必要である。そして、そのためにはまず、他者を愛するように、自分を愛し、信じることが大切なのである。/(人は唯一無二の存在であることを認め、自他を愛するという)真の意味の「愛」があるとき、そこに在るものはすべて等しくなる。ただ人間であるというそのことにおいて、等しく貴い存在になる、のである。(118~119ページ。語尾変換)

〇前述の[1]で伊藤は、障がい者へのインタビューを通じて、こう語る。晴眼者が視覚障がい者に先回りしてことこまかに道案内をするとき、それはしばしば「善意の押しつけ」になってしまう。それは、視覚障がい者にとっては、「障がい者を演じること」が求められることになり、自分の聴覚や触覚を使って自分なりに世界を感じることができなくなってしまう。それはまた、障がい者が「健常者の思う『正義』を実行するための道具にさせられてしまう」(47ページ)ことになる。さらに伊藤は、認知症当事者の言として、こういう。認知症の当事者がイライラし怒りっぽいのは、支援や援助を求めていないのに周りの人が助けすぎるからではないか(46~48ページ)。福祉教育の実践・研究において、深く留意したい点である。
〇なお、筆者はしばしば、とりわけ福祉教育実践をめぐって「思いやり」と「思い違い」「思い上がり」はときとして紙一重(かみひとえ)であり表裏一体である、と語ってきた。ここで改めて強く認識したい。
〇加えて、次のことを付言しておきたい。人間は日常生活や社会生活を営むうえで何らかの支援や援助を受けるに際して、「たすけられ上手・たすけ上手に生きる」ことが問われることがある。その際の「たすけられ上手」とは、  甘え上手や集(たか)り上手ではないのは当然のことながら、社会(世間、財界)や支援者・援助者が期待し求める「たすけられ上手を演じる(あるいは演じさせられる)こと」(演じるさまや人)であってもならない。

ユネスコ学習権宣言/サラマンカ宣言/ハンブルグ宣言

ユネスコ学習権宣言/サラマンカ宣言/ハンブルグ宣言


ユネスコ学習権宣言

学習権

学習権とは、読み書きの権利であり、問い続け、深く考える権利であり、想像し、創造する権利であり、自分自身の世界を読みとり、歴史をつづる権利であり、あらゆる教育の手だてを得る権利であり、個人的・集団的力量を発達させる権利である。/学習権は、人間の生存にとって不可欠な手段である。/学習権なくしては、人間的発達はあり得ない。/学習権はたんなる経済発展の手段ではない。それは基本的権利の一つとしてとらえられなければならない。学習活動はあらゆる教育活動の中心に位置づけられ、人々を、なりゆきまかせの客体から、自らの歴史をつくる主体にかえていくものである。

 

<ユネスコ「学習権宣言」(抜粋)「第4回国際成人教育会議」(フランス・パリ)1985年3月採択。国民教育研究所 訳>


サラマンカ宣言 ― インクルーシブ教育 ―

インクルーシブ教育

すべての子どもは誰であれ、教育を受ける基本的権利をもち、また、受容できる学習レベルに到達し、かつ維持する機会が与えられなければならず、/特別な教育的ニーズをもつ子どもたちは、彼らのニーズに合致できる児童中心の教育学の枠内で調整する、通常の学校にアクセスしなければならず、/このインクルーシブ志向をもつ通常の学校こそ、差別的態度と戦い、すべての人を喜んで受け入れる地域社会をつくり上げ、インクルーシブ社会を築き上げ、万人のための教育を達成する最も効果的な手段であり、さらにそれらは、大多数の子どもたちに効果的な教育を提供し、全教育システムの効率を高め、ついには費用対効果の高いものとする。

 

<ユネスコ「サラマンカ宣言」(抜粋)「特別ニーズ教育世界会議:アクセスと質」(スペイン・サラマンカ)1994年6月採択。国立特別支援教育総合研究所 訳>


ハンブルグ宣言 ― 成人学習 ―

成人学習

生涯にわたる過程という視点からみた青少年教育および成人教育の目的は、人びとと地域社会の自律と責任感を育み、経済・文化・社会全体の変化に対応する能力を強め、共存と寛容を促し、人びとが情報を得て地域社会に創造的に参加することを促進すること、てみじかに言えば、目の前に直面している自分たちの運命や社会の課題に対して、人びとや地域社会が自ら対処できる力を高めることである。成人学習の手法は、人びとの伝統、文化、価値、過去の経験に基づかなければならない。また実施にあたっては、市民の積極的な参加と表現を促すための多様な方法がとられなければならない。

 

<ユネスコ「成人学習に関するハンブルグ宣言」(抜粋)「第5回国際成人教育会議」(ドイツ・ハンブルグ)1997年7月採択。三宅隆史 訳>


日本国憲法/社会福祉法/教育基本法/社会教育法

日本国憲法/社会福祉法/教育基本法/社会教育法


日本国憲法

日本国憲法

(個人の尊重と公共の福祉)
第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

(生存権及び国民生活の社会的進歩向上に努める国の義務)
第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

(教育を受ける権利と受けさせる義務)
第26条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

 

<「日本国憲法」は、1946年11月3日に公布され、1947年5月3日に施行された。>


社会福祉法

社会福祉法

(地域福祉の推進)
社会福祉法第4条
2 地域住民、社会福祉を目的とする事業を経営する者及び社会福祉に関する活動を行う者(以下「地域住民等」という。)は、相互に協力し、福祉サービスを必要とする地域住民が地域社会を構成する一員として日常生活を営み、社会、経済、文化その他あらゆる分野の活動に参加する機会が確保されるように、地域福祉の推進に努めなければならない。

 

<「社会福祉法」は、1951年3月に制定された「社会福祉事業法」の名称と内容が改正され、2000年5月に公布・施行された。>


教育基本法

教育基本法

(前文)
教育基本法
我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。
我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。
ここに、我々は、日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。

 

<「教育基本法」は、1947年3月に制定された「(旧)教育基本法」が全面的に改正され、2006年12月に公布・施行された。>


社会教育法

社会教育法

(国及び地方公共団体の任務)
社会教育法第3条
国及び地方公共団体は、この法律及び他の法令の定めるところにより、社会教育の奨励に必要な施設の設置及び運営、集会の開催、資料の作製、頒布その他の方法により、すべての国民があらゆる機会、あらゆる場所を利用して、自ら実際生活に即する文化的教養を高め得るような環境を醸成するように努めなければならない。

(公民館/目的)
社会教育法第20条
公民館は、市町村その他一定区域内の住民のために、実際生活に即する教育、学術及び文化に関する各種の事業を行い、もつて住民の教養の向上、健康の増進、情操の純化を図り、生活文化の振興、社会福祉の増進に寄与することを目的とする。

 

<「社会教育法」は、1949年6月に公布・施行された。>


ボランティア学習―日本青年奉仕協会研究室等

ボランティア学習―日本青年奉仕協会研究室等


ボランティア学習―日本青年奉仕協会研究室等

日本青年奉仕協会研究室
「ボランティア学習」とは、学習者が、ボランティア活動をとおして、さまざまな社会生活の課題に触れることにより、公共の社会にとって有益な社会的役割と活動を担うことで、学習者の自己実現をはかり、さらには自発性を育み、無償性を尊び、公共性を身につけ、よりよき社会人としての全人格的な発展を遂げるために行う、社会体験学習である。その学習内容は、教育的活動、社会福祉的活動、歴史及び社会文化の向上に寄与する活動、自然及び生活環境の保全、コミュニティづくり、国際社会への協力と貢献、その他の幅広い分野に渡っている。また、ボランティア学習においては、私たちの暮らす地域社会及び国際社会そのものを学習のフィールドとしてとらえる。こうした学習は、家庭、学校、地域、さらにはあらゆる地域社会において世代を越えて取り組まれることが大切である。
(JYVA「ボランティア学習ガイドブック」編集委員会編『地球人になろう―ボランティア学習ガイドブック―』日本青年奉仕協会、1991年3月、22ページ)

興梠 寛
ボランティア学習とは、人とのふれあいや自然とのふれあいをとおして、地域社会や地球社会にある多様な課題を知り、その解決のために果たすべき、公共の社会の一員としての役割を探るための社会体験学習である。学習者は、その課題を体験的に知ることによって、それぞれの発達年齢や個性に応じて、課題解決のための役割を担う。と同時に、自発的社会参加の芽を育み、公共性を身につけ、自己の実現をはかり、やがては自立した人間へと全人格的な成長を遂げることが期待される。また、その学習の対象となる社会課題は、社会福祉、教育、文化、スポーツ、国際交流と協力、自然と環境、保健医療、消費生活、人権、平和、地域の振興など、多様である。
(興梠 寛「ボランティア学習の理論」『たすけあいのなかで学ぶ―教師のためのボランティア学習ガイドブック―』日本青年奉仕協会出版部、1995年3月、12ページ)

長沼 豊
ボランティア学習の構成要素は、「ボランティア活動」と「学習」との関係のあり方から分類すると次の3つになる。

タイプ➀:ボランティア活動のための学習(目的としてのV活動)
タイプ➁:ボランティア活動についての学習(対象としてのV活動)
タイプ➂:ボランティア活動による学習(手段としてのV活動)

ボランティア活動と学習との関係は、ボランティア活動は
➀(Learning for Volunteer activity)では学習の目的、
➁(Learning to Volunteer activity)では学習の対象、
➂(Learning by Volunteer activity)では学習の手段、
ということになる。
(長沼 豊『新しいボランティア学習の創造』ミネルヴァ書房、2008年12月、145~146ページ)

 

(参照)
長沼 豊『新しいボランティア学習の創造』ミネルヴァ書房、2008年12月、145~146ページ。


高島 巌/ボランティア―それは生活であり、権利である―

高島 巌/ボランティア―それは生活であり、権利である―


ボランティアのはたらきの原点・ボランティアする心の原点

ボランティアのはたらきは
かまえたものであってはならない
ボランティアのはたらきは
活動ではない 生活なのだ
活動にはかまえがある
けれども
生活にはかまえはない
活動には限界がある
けれども
生活には限界はない

ボランティアのはたらきは
もてるものが
もたないものに
ではない
しあわせなものが
ふしあわせなものに
ではない
もてるものも
もたないものも
しあわせなものも
ふしあわせなものも
ともに考え
ともに学び
ともに生活しあうことなのだ

いそいではいけない
かまえてはいけない
たえることだ
まつことだ
いのることだ

人間はみな
ボランティアする権利をもっているのだ
その権利は人間にだけあたえられた
楽しき権利なのである

 

(参照)
高島 巌『子どもは本来すばらしいのだ』誠信書房、1963年1月。
阪野 貢/高島巌先生と木谷宜弘先生のこと:木谷宜弘「学校における福祉教育を考える―5つの柱―」(1979年10月)―資料紹介―/<ディスカッションルーム>(59)/2016年4月19日/本文


 

学校教育・サービスラーニング・福祉教育―中央教育審議会答申等―

学校教育・サービスラーニング・福祉教育―中央教育審議会答申等―


学校教育・サービスラーニング・福祉教育

中央教育審議会
〇サービスラーニングは、教育活動の一環として、一定の期間、地域のニーズ等を踏まえた社会奉仕活動を体験することによって、それまで知識として学んできたことを実際のサービス体験に活かし、また実際のサー ビス体験から自分の学問的取組や進路について新たな視野を得る教育プログラム。サービスラーニングの導入は、①専門教育を通して獲得した専門的な知識・技能の現実社会で実際に活用できる知識・技能への変化、②将来の職業について考える機会の付与、③自らの社会的役割を意識することによる、市民として必要な資質・能力の向上、などの効果が期待できる。
(中央教育審議会「用語集」『新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて~生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ~(答申)』2012年8月、38ページ)

日本福祉大学
〇サービスラーニングとは、1980年からアメリカで始まった教育活動の一つであり、「社会活動を通して市民性を育む学習」です。具体的には、「見返りを求めない伝統的なボランティアの概念に基づくものの、しいて言えば『学習』を見返りとして、ボランティアサービスを提供する学生側とそれを受ける側とが対等の互酬関係に立ち、学生がボランティア活動の経験を授業内容に連結させ、学習効果を高めるとともに、責任ある社会人になる為に行うボランティア活動」といえます。
〇サービスラーニングでは、社会を見つめる基本的な力や課題について理解を深め、広い意味で仕事をするために必要なものの見方や判断力を身につけながら、市民性を育むことを目的としています。
〇サービスラーニングは、『学生が直接、自分自身で意味ある経験をすること』『その経験を教員の指導のもと熟考し、ふりかえり、分析すること』という二つの過程を結び付けた学習方法です。
〇サービスラーニングは、しばしばボランティア活動と混同されます。ボランティアは自発的な活動であり第三者の評価はありません。しかし、サービスラーニングは、あくまでも教育活動の一環であり、授業として評価を伴います。このように、大学教育としてカリキュラムに位置づけられた評価を伴う点が異なります。
(「日本福祉大学サービスラーニング」Webサイト)

筑波大学
〇サービスラーニングは、教室で学ばれた学問的な知識・技能を,地域社会の諸課題を解決するために組織された社会的活動に生かすことを通して,市民的責任や社会的役割を感じ取ってもらうことを目的とした教育方法、と定義されます。具体的な事例としては、教室でコンピュータ科学の知識・技能を身に付けた高校生・大学生が、小学生や高齢者にコンピュータの使い方を教えるという社会的活動を通して、地域社会で自分にできることを学び、市民としての責任を感じていく、といった教育実践を挙げることができます。
〇大切にされるべきは、教室で学んだ学問的な知識・技能を社会的活動の中で最大限に生かすこと、活動現場へ足を運ぶことを一度きりで終わりにせず何度も繰り返すこと、活動の中で見たこと・聞いたこと・感じたことをしっかりと振り返ることなどです。
(「筑波大学人間学群 サービスラーニング」Webサイト)

『新 福祉教育実践ハンドブック』
〇サービスラーニングは、「学習活動と社会貢献活動を意図的、計画的に結びつけ相乗効果を生むことにより、社会の主体としての市民を育むことを目的とした教育プログラム」といえます。
〇アメリカには、サービスラーニングを国家が推進する根拠となる法律「全国および地域サービス信託法1993」(National and Community Service Trust Act of 1993)があります。この法律においてサービスラーニングは、次のような4つの要件を備えたものと記述されています。
(a)児童・生徒や学生の社会貢献活動における教育的要素を高め、学校カリキュラム(教育課程)に組み込まれて行われる。
(b)初等、中等、高等教育機関と地域の連携によって行われる市民としての責任意識を育む取り組みである。
(c)地域ニーズに応じて綿密に組み立てられた社会貢献活動を通して、児童・生徒や学生たちの学習と発達を促す手法である。
(d)児童・生徒や学生たち、または参加者が、社会貢献活動をふりかえるための時間を組み込んだ取り組みである。
〇サービスラーニングを最も狭くとらえる場合、上記の4つの要件が同時に備えられていることが求められます。この場合、学校の取り組みとして行われる社会貢献活動であっても、課外活動として行われる取り組みは、サービスラーニングとはいわないことになります。
〇サービスラーニングを最も幅広くとらえる場合、上記の(d)の要件、ふりかえりを行っていればサービスラーニングといえます。
〇アメリカでは、「ボランティア」と「コミュニティサービス」という言葉を厳格に使い分けています。コミュニティサービスというのは地域貢献活動であり、サービスラーニングのなかで行われる教育活動そのもので、一定のノルマや枠組み、評価がともなう枠組みのなかで行うものです。
〇ボランティアとコミュニティサービスはしっかり使い分けることが大事です。サービスラーニングはコミュニティサービスをしっかりと使った授業であり、ボランティアを使ったものではないのです。
コミュニティサービスという意図的・計画的につくられた地域貢献の体験を使いながら授業をしていく。ここの違いをまず前提としてしっかり押さえることが大切です。
(上野谷加代子・原田正樹監修『新 福祉教育実践ハンドブック』全社協、2014年3月、114~121ページ)

 

(参照)
原田正樹/地域の課題に取り組む―サービスラーニングを理解する―/<原田正樹の福祉教育論>アーカイブ(2)講演録(1)/2021年3月2日/本文
上野谷加代子・原田正樹監修『新 福祉教育実践ハンドブック』全社協、2014年3月、114~121ページ。


 

ICFの視点と福祉教育―ICFの構成要素間の相互作用―

ICFの視点と福祉教育―ICFの構成要素間の相互作用―


ICFの視点と福祉教育

ICF(International Classification of Functioning, Disability and Health, 国際生活機能分類)は、2001年5月にWHO総会で採択された。 ICF の前身である ICIDH(国際障害分類、1980年)が「疾病の帰結(結果)に関する分類」であったのに対し、ICF は「健康の構成要素に関する分類」であり、 新しい健康観を提起するものとなった。

※ICIDH(1980)
病気・変調(disease or disorder)が機能障害(impairment)を引き起こし、その機能障害が能力障害(disability)を引き起こす。そして、機能障害と能力障害が社会的不利(handicap)の要因になる、という考え方。

※ICF(2001)
心身機能・構造(body functions and structures)だけでなく、活動(activities)や参加(participation)も含めて、それらに問題を抱える状態を障害として捉える。そのうえで、環境因子(environmental factors)と個人因子(personal factors)という要素を入れ、それらが障害に影響を与えている、という考え方。

ICFは、障害を3つのレベルで把握しようとする点はICIDHとなんら変わらないが(ICIDH/ICF=機能障害/心身機能・構造、能力障害/活動、社会的不利/参加)、「生活機能」というプラス面からみるように視点を転換し、さらに環境因子や個人因子の観点を加えたことが評価される。すなわち、障害のみの分類ではなく、生活機能と障害の分類となり、あらゆる人間の生活と人生に関することのすべてを対象とするものとなったことや、障害は本人(当事者)の問題として捉えられていたものを、環境によって社会的不利がつくられるという批判のもとに、環境因子と個人因子を「背景因子」として取りあげたこと、などに留意したい。

2006年12月、第61回国連総会において採択された「障害者の権利に関する条約」(Convention on the Rights of Persons with Disabilities)では、障害者(当事者)については、handicappedやdisabledではなく、一貫して、Persons with Disabilities (障害のある人)という表現を用いている。

 

(参照)
阪野 貢『Lecture Notes  地域福祉・まちづくり・市民福祉教育』市民福祉教育研究所、2021年7月、8~10ページ。


 

障がい者差別の諸相―障がい者は「役に立たない」という烙印

障がい者差別の諸相―障がい者は「役に立たない」という烙印


障がい者差別の諸相―障がい者は「役に立たない」という烙印

(1) 障がい者は「役に立たない」という烙印
誰かに対して「役に立たない」という烙印を押すとき、そこには自分は何かの役に立っているという認識(ときに思い上がり)がある。誰かの役に立つことは、役に立たない人を見つけ、その人を見下すことにもなる。

(2) 障がい者は「遠慮すべきである」という暴力
障がい者に「遠慮すべきである」というとき、その人の命や人生に大きな影響を与えることにもなる。遠慮や謙遜は美徳であるといわれる。しかし、人に命や人生に関わる遠慮を強いるのは暴力である。

(3)「障害は個性」「みんなちがって、みんないい」という言葉
「障害は個性」「みんなちがって、みんないい」という言葉は、障がい者との共生をめざす文脈で語られる。しかし、この言葉は、障がい者と情感的に仲良くするための言葉であり、障がい者差別と闘う言葉ではない。

(4)「障がい者も同じ人間である」というフレーズ
「障がい者も同じ人間である」というフレーズは、障がい者(少数者)に、障害のない人(多数者)の考え方や価値観を押しつけたりする言葉ともなる。そのフレーズは、すべての人に認められている参加と平等の権利は、障がい者にも十全に認められなければならない、という意味内容で使われるべきである。

(5) 障がい者の「差別と区別は違う」という定型句
「差別と区別は違う」というのは、障がい者差別が起きたときにも出てくる定型句である。差別は不当にする・されるものであり、区別は不利益が生じないようにする・してもらうものである。不利益が生じる区別は差別であり、そもそも障害の有無や性別などの属性を理由に不利益を押しつけることは犯罪である。

 

(参照)
阪野 貢/言葉とフレーズと福祉教育 :福祉教育は障がい者から感動や勇気をもらい、自分を演じるための教育的営為か? ―荒井裕樹を読む―/<雑感>(144)/2021年9月19日/本文


 

「ふつう」に暮らすこと―その功罪

「ふつう」に暮らすこと―その功罪


「ふつう」に暮らすこと―その功罪

(1)「ふつう」は私とあなたの「あいだ」にある
私は、周りのあなたとの類似性を重視し、そこに安寧や安心を感じる。
私は、周りのあなたとの相異性に緊張し、そこに不安や劣等感を感じる。

(2)「ふつう」は私とあなたの「ふだん」にある
私が「ふつう」を意識するのは、日常の生活場面においてである。
しかもその現実の場面は、生活と人生のひとコマに過ぎず、常に変化する。

(3)「ふつう」の隣に「特別」がある
私には社会的に許容される独自性欲求があり、それが自尊感情を高める。
その一方で、社会意識である孤独感や差別意識・偏見を生む。

(4)- ➀  私は「ふつう」を求め、あなたを「ふつう」にさせる
私は、人並みを求め、周りから目立つあなたを攻撃する。
それが窮屈で、生きづらい地域・社会をつくる。

(4)- ➁   私は「ふつう」を捨て、あなたと「わがまま」をいう
私は、生き方や価値観を変え、あなたと権利や不満を主張する。
それが地域・社会を革め、豊かな未来を切り拓く。

 

(参照)
阪野 貢/「ふつう」別考―深澤直人著『ふつう』と佐野洋子著『ふつうがえらい』等のワンポイントメモ―/<雑感>(122)/2020年10月30日/本文
阪野 貢/「ふつう」を捨てて「わがまま」を言うこと―富永京子著『みんなの「わがまま」入門』読後メモ―/<雑感>(93)/2019年9月1日/本文