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老爺心お節介情報/第38号(2023年1月2日)

「老爺心お節介情報」第38号

新年明けましておめでとうございます。
本年もなにとぞよろしくお願い致します。
お互いに体に気を付けて、素晴らしい地域福祉実践を創造しましょう。
「老爺心お節介情報」第38号をお届けします。
どうぞ、ご自由にお使い下さい。
2023年1月2日   大橋 謙策

新年明けましておめでとうございます
〇皆さんにはお変わりなく新年を迎えられたこととお慶び申し上げます。私も元気に新年を迎えることができました。
〇今年も、草の根からの地域福祉実践を豊かにし、地域共生社会を実現するためにお互いに頑張りましょう。
〇ところで、私の場合昔からそうなのですが、睡眠がノンレム睡眠からレム睡眠に変わる時に目覚め、トイレに行ったり、考え事をします。その考え事を明日の朝まで忘れないようにしようとすると眠れなくなるので、その考え事、思いついたことは枕元にいつも置いてあるメモ用紙に書いて、眠ることにしています。
〇12月31日の夜の睡眠時の夢は初夢とは言わず、1月1日の夜の睡眠時の夢が初夢ということのようですが、私は12月31日の深夜の2時30分(実際は1月1日の午前2時30分)に目覚め、トイレに行き、その後考え事をしたことが2023年の最初の「老爺心お節介情報」の内容です。
〇それは、この間気になっていたNPO法人と社会福祉協議会との関わりです。

Ⅰ “地域を基盤としている社会福祉法人”としての社会福祉協議会のプラットホーム機能とテーマ型支援をしているNPO法人との関りーー社会福祉協議会は“自己満足”、“唯我独尊”、“視野狭窄”で生き残れるのであろうか?

〇新年に頂いた年賀状の中に、東京都の福祉局の職員として勤め、定年後に地区社会福祉協議会に関わり、草の根の地域福祉実践をしている方から、“社会福祉協議会は旧態依然で、改革する意欲がない”という嘆きの言葉が書かれた年賀状を頂きました。
〇私は厚生労働省が進めている地域共生社会政策の具現化には、社会福祉協議会が改革され、住民のニーズに対応する活動を展開できなければ、その具現化は難しいと思っていますし、かつ社会福祉協議会は生き残れないと思っています。
〇地域共生社会政策における重層的支援体制整備事業は、包括的相談と福祉サービスを必要としている人の社会参加支援とそれを可能ならしめる地域づくりの3つの事業を三位一体として展開して欲しいとしています。
〇これを行うためには、市町村における第2層の専門多機関、専門多職種の連携と第3層の小学校区レベルでの住民参加、住民のボランティア活動の活性化が不可欠ですし、とりわけ第2層の機能と第3層の機能をつなげ、コーディネートする力が必要です。この第2層と第3層との有機化ができないと、また“新たな縦割り”を産みかねません。
〇これらの事業・活動を展開する組織として、最もふさわしい組織は市町村社会福祉協議会ではないかと私は思っています。
〇私の地域福祉実践、研究、教育は全国の社会福祉協議会とバッテリーを組むことにより展開され、体系化できました。言わば、私は社会福祉協議会によって“地域福祉研究者”に育てられたと思っていますので、身びいきすぎるかも知れませんが、上記の機能を考えたたら社会福祉協議会しかないと思っています。
〇1980年代から社会福祉協議会は小学校区レベルで地区社会福祉協議会づくりを推進してきました。その過程で、自治会組織や民生委員・児童委員とも深い関係を築いてきました。
〇1990年代には、住民に信頼される組織になるためには、住民のニーズに応える具体的サービスを展開し、そのサービス提供過程において、新たな住民のニーズを把握しようという「事業型社協」の考え方を打ち出しました。
〇また、1991年からは潜在化しているニーズを発見し、専門多機関でのチームアプローチによる支援を行う「ふれあいのまちづくり事業」を展開してきました。
〇このような経緯を考えれば、地域共生社会政策の具現化、重層的支援体制整備事業は社会福祉協議会がその中軸になって活動して“当たり前”だと私は思うのです。
〇しかしながら、冒頭に述べたように、社会福祉協議会は未だ1980年代までの“旧態依然”の活動、組織になっています。これで、社会福祉協議会はいつまでも行政からの補助金を貰えるのでしょうか。
〇全国各地の地方自治体では、9月の決算議会で社会福祉協議会への補助金の費用対効果が問われ、補助金の見直しの論議が各地の自治体で論議されています。あるいは、行政の監査委員会から社会福祉協議会への補助金の見直しの勧告もされています。行政の保健福祉部局が社会福祉協議会への理解を示してくれても、財政部局が理解せず、補助金カットの厳しい査定が続いています。社会福祉協議会が有している「基金」を全て遣い切ってから、改めて補助金の支出の論議を余儀なくされているところもあります。地方自治体の「指定管理制度」に伴う入札において、従来使用していた事務所がある社会福祉センターの管理運営に関わる指定管理で、社会福祉協議会が落札できず、他の業者に事務所代の賃料を払って入居している社会福祉協議会もあります。その場合の事務所賃貸料の補助金は行政から出ません。
〇このような状況下で、社会福祉協議会の経営のあり方は現在とても厳しい状況にあり、早く“眼を覚ます”必要があると思っています。
〇私自身、昨年だけでも岩手県、秋田県、福島県、香川県等の社会福祉協議会の経営問題に関する会議・研修に招聘され、上記のような状況と課題を提起し、コンサルテーションを行ってきました。
〇社会福祉協議会を取り巻くこのような状況を改革するためには、地域共生社会政策における重層的支援体制整備事業を受託し、第2層の地域包括支援センターの運営を軸にした専門多機関協働と第3層の小学校区の地区社協における住民参加、ボランティア活動とを有機化させる活動に取り組むしか“生き残る道はない”と考えています。
〇そのためには、従来の社会福祉協議会の事務局体制を改編し、地区社会福祉協議会ごとの「地区担当制」を導入し、その地区において福祉サービスを必要としている人の“発見”と個別支援に関する包括的総合相談を行い、かつその福祉サービスを必要としている人の社会参加に関する問題解決プログラムを開発・提供すること、更にはそれらの活動を住民が支え、ボランティア活動として協力するとともに、福祉サービスを必要とする人々を地域から排除することなく、蔑視をすることなく、共に生きていける地域づくり、福祉教育の推進を統合的に展開できる事務局体制に再編するしか“生き残れる道はない”と思っています。
〇そのためには、社会福祉協議会職員、総務部門の職員も、生活福祉資金や権利擁護部門の職員も、施設・団体支援部門の職員も含めてコミュニティソーシャルワーク機能の研修を受講し、その資質向上を図るしかありません。
〇厚生労働省の2015年の「新たな福祉提供ビジョン」(この報告書が地域共生社会政策の起点になる)の中で述べているように、“個別支援を通じて地域を変えていく”過程が重要なのです。
〇その点、テーマ型NPO法人は、福祉サービスを必要としている人の個別課題分野ごとに特化した活動を展開していますので、“個別問題”に強い“印象”を創り出していますし、事実、個別課題分野ごとに大きな成果を挙げて評価されています。
〇また、それらのNPO法人は今日のインターネット社会の機能をよく活用し、全国的に組織化を図り、個別課題分野における“発言力”(政治的にも、行政の信頼度においても、行政からの補助金獲得においても、クラウドファンディングにおいても)を高めています。
〇正直なところ、この間の内閣府等の政府の福祉サービスを必要としている人の個別課題分野ごとに取り組むNPO法人への評価は高く、政府の審議会での発言力や報告書における位置づけも高いものがあります。
〇それに比して、社会福祉協議会への評価、位置づけは“相対的に地盤沈下”していると思います。福祉サービスを必要としている人の個別分野の取り組みが全体的に増加しているので、その個別課題に取り組む団体・組織が増えることはいいことであり、その結果、社会福祉協議会が“相対的に地盤沈下”するのも当然でやむを得ないと考えるべきなのでしょうか。
〇私は、社会福祉協議会の位置は“相対的に地盤沈下”しているのではなく、“絶対的に地盤沈下”していると考えています。つまり、住民のニーズに対応しないで、相変わらず“旧態依然”の活動に終始し、“自己満足”、“唯我独尊”、“視野狭窄”に陥っているのではないでしょうか。
〇これらの課題は一朝一夕には解決できないと思いますが、せめてNPO法人と社会福祉協議会との“彼我の位置関係”を確認するためにも、各都道府県、各市町村で取り組み始めて貰っている「社会福祉関係資料集」の中に、これら「福祉サービスを必要としている人の個別支援をしているNPO法人」と「福祉サービスを必要としている当事者組織・団体」の把握を行い、収録することが必要ではないかと思っています。
〇私は、富山県社会福祉協議会のコミュニティソーシャルワーク研修において、「社会福祉関係資料集」の作成の必要性を説き、富山県福祉カレッジと協働して立派な「富山県社会福祉関係資料集」を作成してもらいました。この実践の取り組みは、現在では千葉県、岩手県、香川県、佐賀県の社会福祉協議会に普及しています。
〇地域共生社会政策では、社会福祉法の改正で地域福祉計画等を作成する際に、「地域生活課題」を明確に把握することを求めています。私は、この改正が行われる前から、住民のニーズに関わる「地域福祉・地域包括ケアに関わる基本情報」を市町村ごとに、かつ地域包括支援センター圏域毎に作ることの必要性と重要性を指摘してきました。
〇上記の「社会福祉関係資料集」は、これらの国の動向を踏まえても必要な取り組みです。富山県では、コミュニティソーシャルワークの研修の時のみならず、いろいろな研修の機会に「社会福祉関係資料集」を活用しています。
〇せめて、これらの「社会福祉関係資料集」の中で、全国の、各都道府県の、各市町村で活動している「福祉サービスを必要としている人への個別支援をしているNPO法人」と「福祉サービスを必要としている人々の当事者団体・組織」の一覧を収録することにより、“彼我の位置関係”を認識し、社会福祉協議会が陥っている“自己満足”、“唯我独尊”、“視野狭窄”に気付き、改革する契機になればと思っています。
〇そして、社会福祉協議会がそれらの組織、団体の参加の基にプラットホームを創り、その“中核的組織”として社会福祉協議会が活動を行い、社会的評価を高められればと祈念しています。
〇これが12月夜の睡眠時に考えたことです。2023年も、これらの課題を解決すべく、全国各地を飛び回り、美味しい肴と美味しいお酒を飲みながら、社会福祉協議会職員と談論風発の論議をしたいものだと夢見ています。

(2023年1月2日記)

市民福祉教育研究所/2022年のブログ/年間レポート

市民福祉教育研究所/2022年のブログ/年間レポート 

統計情報
〇2022年における記事の表示数は28,095回、訪問者は16,004人を数えました。
全期間(2012年6月25日~2022年12月31日)における記事の表示数は280,020回、訪問者は137,045人を数えました。
〇2022年における記事の投稿数は119本を数えました。
全期間(2012年6月25日~2022年12月31日)における記事の投稿数は1,411本を数えました。

注目記事
〇2022年において最もよく読まれた記事は次の通りです。末尾の数字は表示数です。
(1)ホームページ/ アーカイブ/2012年6月28日/2,653回
(2)市民福祉教育の実践と研究/2012年6月28日/1,957回
(3)二項対立の思考:「分かりやすさ」の罠―仲正昌樹を再読する―/2017年12月25日/843回
(4)「ボランティア拒否宣言」(1986年)再考:ボランティア活動は主体的・自律的で相互実現を図る活動である―資料紹介―2018年10月6日/665回
(5)「滅私奉公」と「活私開公」―資料紹介―/2014年12月12日/547回
(6)図1 リザルトパラダイムとプロセスパラダイムの違い/2017年6月1日/542回
(7)大橋謙策「地域福祉実践の神髄―福祉教育・ニーズ対応型福祉サービスの開発・コミュニティソーシャルワーク―」/2018年4月4日/505回
(8)福祉教育の歴史と理念/阪野 貢/2019年9月29日/481回
(9)社会的処方とリンクワーカー:お医者さんが取り組む“オモロイ”はじめの一歩―西智弘編著『社会的処方』読後メモ―/2020年11月27日/481回
(10)「共生」と「共に生きる」:寺田貴美代「社会福祉と共生」再考―資料紹介―/2016年3月22日/459回

読者の所在地
〇2022年における読者の所在地は33ヶ国です。括弧内の数字は表示数です。
人気の国は、日本(25,623回)のほか、アメリカ合衆国(1,699回)、大韓民国(641回)、イギリス(18回)、イタリア(11回)、台湾(11回)、オーストラリア(8回)、カナダ(8回)、中華人民共和国香港特別行政区(7回)、フランス(7回)、等です。

備考
〇 このウェブサイトは、2022年1月1日より、顧問/阪野貢、主宰/田村禎章・三ツ石行宏、サイト運営協力者/村上進によって運営・管理されています。

老爺心お節介情報/第37号(2022年12月26日)

「老爺心お節介情報」第37号

皆さんお変わりありませんか。随分とご無沙汰しています。
8月に出す予定の「老爺心お節介情報」が漸くできました。送ります。関係者で自由にご活用下さい。
向寒の折、皆様くれぐれもご自愛ください。
(2022年12月26日記)

〇皆さんお変わりありませんでしょうか。新型コロナウイルスの第7波が驚異的に拡大していますが、皆さんのところは大丈夫でしょうか。私は、7月4日に第4回目のワクチン接種を行いました。ワクチンの効果はいかほどか分かりませんが、出来る対策の一つです。
〇今回のテーマは、1960年代から悩んできた「人が育つということ」、「人を育てる」ということに関わり、言語、思考のとらえ方です。
(2022年8月15日記)

Ⅰ 「言語と思考」――「言語の脳科学」(酒井邦嘉著、中央公論新社、2002年)

〇私は、日本社会事業大の学部2年生の時のゼミナールで、カール・マルクスの『経済学・哲学草稿』を講読した。その時以来、人間の主体性をどう形成するのか、できるのかに関心を寄せるようになった。主体形成を図るということは、人が育つということ、人を育てるという営みについて考えることであると思い、教育学を学ぶ必要性を感じ、学生サークル「教育科学研究会」を立ち上げ、当時、日本社会事業大学の非常勤講師を勤められていた山住正巳先生(東京都立大学教授、後に総長)に指導をお願いした。「教育科学研究会」では、月刊誌『教育』(国土社)に連載中の勝田守一先生の連載原稿の「能力と発達と学習」(後に国土社から単行本『能力と発達と学習』として刊行)を輪読することを中心に勉強した。
〇これらの勉強の中から、人間が育つうえで「外化」(「疎外」ともいう)という営みの重要性を認識する。人間の成長には、自らの内なるものを外に出して、自らがそれを客観化し、そのありようを意識して改善していく営みが主体形成には欠かせないと考えた。鉄道関係者がよくしている「指差し喚呼」や、学校で国語の教科書を音読させたりする営みは、その「外化」の一つである。自らの内なるものが“外”で出て、それを自らが対象化し、意識化し、それを主体的に改善、克服するという弁証法的取り組みである。
〇この“学び”の過程において、“言語と思考”とのかかわりに興味を持ち、ピアジェの『言語と思考』による内言語と外言語、ヴィゴツキー『思考と言語』(柴田義松訳)等も読むことになる。難しくて、十分咀嚼できているとは思わないが、心理学も含めて思考と言語との関り、その心理、かつ思考、言語の背景にある民俗学、文化に関心を拡大させていく。しかしながら、この論考はあまりにも奥が深く、途中で思考をとん挫させてしまった。
〇この8月に、「言語の脳科学」(酒井邦嘉著、中央公論新社、2002年)を知り、読み始め、それの読後感も含めて「老爺心お節介情報」として情報提供したかったが、全国各地のコミュニティソーシャルワーク研修が始まり、時間的にも、精神的にも余裕がなく、この「老爺心お節介情報」は8月15日の段階で、書きかけのまま、放置されることになった。
〇皆さんには、是非「言語の脳科学」(酒井邦嘉著、中央公論新社、2002年)を読んで欲しい。
〇筆者が、“言語と思考”、民俗学、心理学等への傾倒を強めていくのには、柴田義松先生の存在がある。
〇筆者は、1970年に東京大学大学院教育学研究科の修士課程を修了し、博士課程への進学が認められていたが、恩師の小川利夫先生を介して、女子栄養大学の助手にお誘い頂いた。
〇当時、筆者は全国の「教育科学研究会」の教授学部会にも参加しており、「島小物語」等を書いた教育方法論、教授学で名を馳せていた斎藤喜博先生(「斎藤喜博全集」が刊行されている)や柴田義松先生とは顔みしりであった。そのような関係もあったのか、大学院博士課程に在籍のまま、女子栄養大学の助手に採用するとの条件だったので、1970年4月から女子栄養大学に赴任することになる。女子栄養大学人間学教室には動物生態学の先生や科学史の先生がおり、より広く学問を考える環境があった。柴田義松先生は、のちに東京大学教育学部の教育方法論講座の教授として転任された。(2022年8月15日記、一部2022年12月26日追記)

Ⅱ 都道府県社会福祉協議会の創設時・初代事務局長に関わる調査研究の必要性

(はじめに)
〇皆さんお変わりなくお過ごしでしょうか。私は、12月も秋田、岩手、富山、石巻等のコミュニティソーシャルワーク研修で忙しくしていましたが、それも12月24日で終わり、漸くのんびりとする時間が持てています。
〇新型コロナウイルス感染症のワクチンも第5回目が終わり、何とか元気に過ごしています。
〇今回は、「老爺心お節介情報」第37号の追記部分として書いて、今年の仕事納めにしようと思います。

(日本地域福祉学会の地域福祉実践の地方史研究と都道府県社会福祉協議会の創設時・初代事務局長に関わる調査研究の必要性)

〇11月、12月と岩手県に行き、日本社会事業大学を卒業し、岩手県に入職後、岩手県立大学の教授をされた細田重憲さんや、日本社会事業大学を卒業後、岩手県社会福祉協議会に入職し、岩手県社会福祉協議会の事務局長を務められた右京昌久さん達と懇親する機会があり、『都道府県社会福祉協議会の創設時・初代事務局長に関わる調査研究』の必要性を痛感したので、その情報提供とお願いである。
〇筆者は、日本地域福祉学会の事務局長当時、財団法人安田火災記念財団からの助成を頂き、北海道、東京、近畿ブロックの地域福祉実践の地方史をまとめる研究プロジェクトのプロモーターを務めた。その成果物は、1992年に中央法規出版から『地域福祉史研究序説』として刊行されている。
〇この研究プロジェクトは、その後各都道府県単位の学会支部で取り組んで欲しい旨をお願いしたが、筆者が知る限りめぼしい成果は出ていない。富山県地域福祉研究会が、富山国際大学短期大学の学長をされている宮田伸朗先生を中心に、富山県地域福祉実践の地方史の研究をまとめられているが、それ以外では寡聞にして知らない。
〇上記したように、今回岩手県の訪問に際し、岩手県立大学が「岩手の社会福祉史研究会」を組織し、岩手県社会福祉協議会の初代事務局である見坊和雄さんに聞き取りしている資料をご恵贈賜り、読むことができた。聞き取りの要約は、細田重憲さんが『岩手の保健』第226号=228号(令和3年3月・8月・令和4年3月)、岩手県国民健康保険団体連合会発行に連載している。
〇これらの資料を読み、改めて地域福祉実践における地方史研究の必要性、とりわけ都道府県社会福祉協議会の創設時の初代事務局の人物像も含めた研究が必要ではないかと思った。その際に、筆者がすぐに思いついたのが、秋田県社会福祉協議会の三浦三郎事務局長と山形県社会福祉協議会の松田仁兵衛事務局長である(松田仁兵衛さんの本は全社協選書から『社会福祉とともに』が刊行されている)。
〇秋田県社会福祉協議会の三浦三郎事務局長には、筆者が日本社会事業大学学部3年生の時、恩師の小川利夫先生に名刺に添え書きをして頂いて、山形、秋田を訪問した際に大変お世話になった。三浦三郎事務局長は、戦前の社会事業主事講習を受けており、戦前のセツルメントハウス・興望館にも勤めていたこともある。三浦三郎事務局には、秋田の祭り・竿灯を見せて頂いた上に、下浜の自宅に留めて頂いた。
〇見坊和雄さんは、三浦三郎さんと松田仁兵衛さんと一緒になって、いろいろな取り組みをされたことを話しておられる。改めて、東北3県の社会福祉協議会の事務局に焦点を当てて、地域福祉実践の地方史を研究する必要があるのではないか。
〇と同時に、全国の各県社会福祉協議会の創設の時の状況や初代の事務局長の動向についての歴史研究に各県社会福祉協議会の職員や日本地域福祉学会の各県支部の会員は是非取り組んで欲しいものである。

(2022年12月26日追記)

阪野 貢/「開かれた学校」と市民福祉教育:その光と影―武井哲郎著『「開かれた学校」の功罪』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、武井哲郎の『「開かれた学校」の功罪―ボランティアの参入と子どもの排除/包摂―』(明石書店、2017年2月。以下[1])という本がある。「開かれた学校」を「善」とする者にとって、またそれに対して懐疑的な者にとっても、「功」と「罪」、「排除」と「包摂」という両義的な言葉(キーワード)によって興味・関心が引き起こされる。
〇[1]では、教室での学習や生活から排除されがちなマイノリティの子どもと、教師と異なる立場にある学習支援ボランティア(「学びの場に参入するボランティア」)との関係性に着目する。そして、「授業に継続して携わるボランティアの存在が学びの場に及ぼす影響を功罪両面から明らかにする」(45ページ)。その際、3つのリサーチ・クエスチョン(RQ)を設定し、それに則(のっと)って4つの事例を分析する(インタビュー調査による質的研究)。3つのRQは次の通りである(RQ1~RQ3、47ページ)。それぞれ(検討課題)を具体的に別言すれば、以下のようになる(RQ(1)~RQ(3)、45~46ページ)。

RQ1:教師と異なる立場にあるボランティアの参入は、学びの場における子ども同士の関係性にどのような影響を及ぼすことになるのか。
RQ2:教室での学習や生活から排除されがちな子どもとの関係において、ボランティアはいかなる役割を担うことになるのか。
RQ3:授業に継続して携わるボランティアは、自身の存在や立場をどのように捉えているのか。

RQ(1):教室空間にボランティアが参入することによって、ニューカマーの子どもや障害のある子どもが学級内で劣位に置かれる構造を崩(くず)すことは可能なのだろうか。それとも逆に、ボランティアの参入は、ニューカマーの子どもや障害のある子どもに付与されるスティグマを維持・強化する結果を招くだけなのであろうか。
RQ(2):学びの場に参入したボランティアとは、学校の価値や規範を自明視し、それを一方的に子どもへと押し付ける〈指導〉的な役割を担う存在でしかないのか、それとも、個別性への配慮と応答に重きを置く〈支援〉的な役割まで担いうる存在なのだろうか。さらには、現状への異議申し立てをも厭(いと)わずにボランティアが子どもの意思を代弁しその権利を擁護すること、すなわちボランティアによる「アドボカシー」は実現可能なのか。
RQ(3):学びの場において多様な背景を有した子どもたちと出会うなかで、ボランティアを「する側」は自身の存在や立場をどのように捉えるようになるのか、そして、ボランティアが〈指導〉的な役割ではなく、〈支援〉的な役割を担うために何が重要となるのか。

〇[1]で取り上げられた事例の1つ目は、脳性麻痺による体幹機能障害と軽度の知的障害をもつシン君のB小学校での事例である。武井はいう。シン君に対する「介助ボランティア」(10名)による特別な配慮は、「同質性の前提」や「一斉共同体主義」(30ページ)によって成り立つ日本の学校文化において、「例外的な措置」としてみなされた。その結果、シン君に付与されたスティグマは軽減・解消されず(107ページ)、シン君の共同体からの周辺化は助長された。そのことを武井は、「差別や排除を生み出す学級構造の問題性を詳(つまび)らかにできないまま、結果的に、学校の持つ価値や規範を補完することになったボランティアは、〈支援〉的な役割ではなく、〈指導〉的な役割を担う存在であった」(109ページ)、と認識する。
〇2つ目の事例は、シン君とほぼ同じ障害をもつリンさんのB小学校での事例であるが、リンさんは高学年を迎えるとボランティアによる学習面への介助は不要になる。武井はいう。「同質性の前提」が揺らがない以上、障害のある子どもが「劣位に置かれる状況を変えるのは難しい」(147ページ)。ボランティア(8名)は〈支援〉的な役割を果たすが、その役割を担うためには「①子どもとの対等な関係性、②イニシアティブの移譲(介護のイニシアティブを子どもの側に委ねること)」(151ページ)の2つが重要であることが明らかとなった。とはいえ、「たとえボランティアの介入が合理的な配慮にあたるのだとしても、他の児童からは反発の声が上がることになる」。そこで武井は、「ボランティアが〈支援〉的な役割を担ったからといって、教室での学習や生活から排除されがちな子どもの包摂に繋がるかは定かでなく、ボランティアの手を借りることが原則的に許されないという学級の規範を崩すための方策を探らねばならない」(152ページ)、と指摘する。
〇3つ目の事例は、コミュニティ・スクール(保護者・地域住民等で構成する学校運営協議会を設置する学校)の指定を受けたC小学校の事例である。それは、特定の子どもの介助だけを行うのではなく、不特定多数の子どもに関わる(一対多の関係性をもつ)「個別支援ボランティア」(2名)の活動事例である。武井はいう。C小学校では、「子ども同士の関係性に序列がつくられないよう、ボランティア自身があえて授業で出された課題の内容を理解できずにいるかのように振る舞う異質な存在」(193ページ)を演じた。その「異質性の顕在化」によって、「日本の学校で暗黙に共有されている『同質性の前提』を崩すことこそ、学びの場から差別や排除の論理を駆逐するための契機となり得」(194ページ)る可能性を見出している。また、ボランティアが教室での学習や生活から排除されがちな子どもの意思を代弁する役割(アドボカシー)を担おうとする。しかし武井にあっては、「教師との間には上下の関係を認識し、その指示や意向にはできるだけ従おうとしていることからも、ボランティアの立場で学習指導や生活指導の在り方に異議を申し立てるのは難しい」(199ページ)。そこで、「ボランティアによる『アドボカシー』の困難性を乗り越えるための条件を検討すること」(200ページ)が今後の課題となる。
〇4つ目の事例は、脆弱な立場に置かれているボランティアによる「アドボカシー」の可否に関するB小学校の学習支援ボランティア(10名)の事例である。武井はいう。「専門性の侵害を忌避する教師を前にして、非専門家であるボランティアが授業の内容や展開にまで働きかけることはできず、両者が対等な関係を築くことは難しい」(208ページ)。B小学校では、「教室内で脆弱な立場に置かれているボランティア同士が、授業に携わるなかで生じる不安や懸念を共有しながら、独自のネットワークを構築している」(239ページ)。そこで武井は、「ボランティアという立場ゆえの限界を相互に確かめ合いながら判断することが可能な状況にあったからこそ、教室での学習や生活から排除されがちな子どもの意思を代弁し、その権利を擁護するべく、教師とのコンフリクト(意見の衝突、不一致)をも厭(いと)わずに現状への異議申し立てを行うことができた」(242ページ)、と分析する。
〇以上の事例分析を通して武井は、それが含意する(インプリケーション)次の3点を提示する(見出しは本文より引用)。

(1)保護者・地域住民による「教育活動への参加」がもたらす影響
ボランティアが「一斉共同体主義」とも称される日本の学校文化を無批判に受け入れて活動するだけなのであれば、教室での学習や生活から排除されがちな子どもたちを、より不利な立場に追い込むことにもなりかねない。通常の学級に在籍する児童・生徒の多様化が進むなかで、保護者・地域住民による「教育活動への参加」を過度に礼賛するべきではないだろう(258~259ページ)。
(2)教師の専門性に介入するボランティアの困難と意義
依って立つべき専門性を有していないボランティアが、教師の指示や判断に対抗できるかというと必ずしもそうではなく、学校組織に「ゆらぎ」を与えるのは容易でない(260~261ページ)。(しかし)依って立つべき専門性を有していない保護者・地域住民であっても、差別や排除を生む学びの場の構造を批判的に問い直し、現状に対するオルタナティブ(代替)を提起することは可能である(262~263ページ)。
(3)学校―家庭・地域が異質な価値をぶつけ合うことの重要性
子どもの最善の利益を保障するという目的に照らせば、学校―家庭・地域の間で異質な価値がぶつかり合うことそれ自体を排除するべきではなく、むしろ、困難を抱える子どもたちに向き合う責任を三者(教職員・保護者・地域住民)が分有する契機として積極的に評価する必要がある(264ページ)。(すなわち)家庭や地域とのコンフリクトを回避するべく、現状に対する異議申し立ての声を全て封じ込めようとすることなどあってはならない。なぜならば、保護者・地域住民から上がる異議申し立ての背後には、教室での学習や生活から排除されがちな子どもたちの声が潜んでいる可能性が捨てきれないからである(266ページ)。

〇以上が[1]における武井の論点や言説の骨子である。それを「まちづくりと市民福祉教育」に引き寄せて一言する。
〇学校における主要な福祉教育活動のひとつに、高齢者や障がい者が学校を訪問し子どもたちと交流する活動がある。その際の高齢者は元気で生き生きと暮らす高齢者であり、障がい者は障害を乗り越えて前向きに暮らす障がい者であることが多い。介護や介助を要する高齢者や障がい者との交流は福祉施設でのそれが多い。しかもその際は、学校(教師)と施設(職員)によって事前準備がなされ、定型化されたプログラムを無難にこなすことがよしとされる。そこでは、高齢者や障がい者の多様性や異質性、個別性は捨象される。そして、こうした訪問・交流活動のねらいは一様に、精神主義的・道徳主義的な「思いやりの心」「福祉の心」の育成に置かれる。
〇こうした高齢者・障がい者の訪問・交流活動を「開かれた学校」づくりの一環として捉え、「学習指導」の視点からRQ(問い、課題)を例示すると次のようになろうか(RQ10プラス1)。それは内容的には、高齢者・障がい者による「単発的な訪問・交流活動が学びの場に及ぼす影響、その光と影」である。それを誤解を恐れずに極言すれば、高齢者・障がい者を学校や教師にとって使い勝手の良いだけの存在にするか、あるいは高齢者・障がい者が学校教育や子ども・教師を揺さぶる存在になることを期待するか、ということになる。本稿のむすびにかえたい。

RQ①:「同質性の前提」や「一斉共同体主義」の学校文化が無批判に受け入れられるなかで、高齢者・障がい者によって異質な価値を持ち込み、ぶつけ合うことは可能か、それは学校文化や教育を揺さぶることになるか。
RQ②:点数学力の競争と序列化を基本としながら理念的に協調や共生が叫ばれる教室での学習や生活において、高齢者・障がい者による学習指導は特別で例外的な活動とされるのではないか。
RQ③:教室での学習や生活において高齢者・障がい者はどのような役割や機能を果たすべきか、高齢者・障がい者に過剰期待や過重負担をかけないか、そのためには、またそれを防ぐためにはどのような事前確認や準備が必要か。
RQ④:素人である、また多様で異質な高齢者・障がい者によって子どもの関心や意欲が喚起され、教師がもっていない情報や知識・技能が提供されることは果たして可能か、また学習指導のねらいが期待通り達成されるか。
RQ⑤:脆弱な高齢者・障がい者による学習指導への参入が、高齢者・障がい者の社会的弱者としての烙印(スティグマ)を強化しないか、あるいは教室内で脆弱な立場に置かれている子どもをより不利な立場に追い込むことにならないか。
RQ⑥:過去に、あるいは差別や排除のなかで学んだ高齢者・障がい者にあっては、学校文化や教育の現状はどのように映り、どのように認識されるか、あるいはその点の事実認識は追求せず、等閑視してよいか。
RQ⑦:高齢者・障がい者によって子ども・教師との関係性について、あるいは教室での学習や生活の現状について異議申し立てがなされた場合、教師や学校は高齢者・障がい者による学習指導に消極的にならないか。
RQ⑧:学習指導に参入する高齢者・障がい者は子ども・教師との関係において、あるいは高齢者・障がい者同士においていかなる苦悩や葛藤を抱くか、それを解決するための学校内外におけるネットワーク化は可能か。
RQ⑨:高齢者・障がい者による学習指導が高齢者・障がい者自身や子ども・教師たちの社会貢献や地域活動への関心・意欲・態度を生み出し、地域とともにある学校づくりや共生のまちづくりを志向することになるか。
RQ⑩:学習指導終了後、高齢者・障がい者、そして子ども・教師は学習指導の過程や状況をどのように評価するか、その評価は高齢者・障がい者や子ども・教師にどのようにフィードバックされ、活動の改善に役立てられるべきか。
<プラス1>
RQ⑪:高齢者・障がい者による学習指導以前に、子どもたちが多様性や異質性を認め合う授業や学級経営、そのための教師の力量形成などのあり方が問われるべきではないか、その課題や方策はなにか。
 
 
備考
1996年7月に答申された第15期中央教育審議会第1次答申(「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」)で、「開かれた学校」が提示された。その要旨はこうである。子どもの育成は、学校・家庭・地域社会との連携・協力なしにはなしえない。これからの学校は、社会に対して「開かれた学校」とならなければならない。そこで学校は、保護者や地域住民に自らの考えや教育活動の現状について率直に語る必要がある。とともに、保護者や地域住民、関係機関の意見を十分に聞くなどの努力を払う必要がある。また、学校がその教育活動を展開するに当たっては、地域の教育力を生かしたり、家庭や地域社会の支援を受けることに積極的であるべきである。例えば、非常勤講師として地域住民を採用したり、保護者や地域住民を学校ボランティアとして協力してもらうなどの努力をすべきである。さらに、学校は、地域社会の子どもや大人に対する学校施設の開放や学習機会の提供などを積極的に行い、地域社会の拠点としての様々な活動に取り組む必要がある。
文部科学省はその後、「開かれた学校」の制度化(学校評議員制度、学校運営協議会制度、学校支援地域本部事業など)を進める。しかし、学校の閉鎖性・画一性や教育の均質性・一斉性が容易に解消されず、また教師集団の凝集性が高いなかで、保護者や地域住民の学校への参加や支援の限界や形骸化が指摘されることになる。すなわち、「地域に開かれた学校」づくりや「地域とともにある学校」づくりは、言われるほどには進まず、それが企図するところも十全に果たされていない。

付記
本稿を草することにしたひとつのきっかけは、あることから筋ジストロフィーを患う中学生のことを思い出したことにある。彼は、教職員による全面的な支援を受けて、学校挙げての福祉教育に先駆的に取り組んでいた地元のA中学校に通った。地域の人たちにも理解があった。時が経つにつれて複数の生徒たちには、教師による学習支援や生活支援が「特別な扱い(えこひいき)」と映るようになっていった。そんななかで、彼に対するいじめや暴力が明るみになった。それは、学校における福祉教育のあり方を厳しく問うことになる。その後、彼は、「建築家になって大きなビルを建てたい」という夢を抱いて地元の高校に進学することを志望する。しかし、障害があるがゆえに入学は許されなかった。しばらくして彼は、懸命に生き、懸命に学んだ足跡を残して、若くして亡くなった。
子どもには残酷な一面がある。福祉教育は脆弱であり、共生を保障するとは限らないことを痛感した事例である。

新美一志/書く―あなたへ―

あなたは自分の思考に使えるものを探し続けてきました
あなたは探し当てたあれこれを大事に扱ってきました
あなたはそれを心を砕(くだ)いて若い人に伝えてきました

あなたは長いあいだ文章を書いてきました
あなたは共に生きる豊かさを求めて書き続けてきました
書くことはあなたの存在証明のようでもありました

そんなあなたがもう書かないと言ってきました
それも突然にです
なんの説明もなくです

人は社会的にも不完全な存在です
人は何かを求め何かをめざして生きています
それゆえに人は書き続けます

書くことは人や社会とのつながりに基づく行為(デザイン)です
書くことは数え切れない人の思いや考えに基づく行為(アート)です
その営みは書くことを確かで豊かな学びに昇華させます

書くことの社会的な意義と責任のひとつはここにあります
それゆえに書くことには強い覚悟と厳しさが求められます
書くことに善意と誠意が問われる理由もここにあります

書くことはあなたがこれまで生きてきた証(あかし)です
書くことはあなたがこれからも生きてゆくための拠り所です
その証明が新しい潮流となって人の心や社会を揺さぶり動かします

書くことの醍醐味とやりがいがここにあります
書くことの苦しみとそれを乗り越える楽しさがここにあります
あなたが書かなければならない根拠(わけ)がここにあります

寒い冬の生活が始まります
でも春は必ず戻ってきます
その時にまたお会いしましょう
 
 
備考
デザイン=問題解決、社会性。 アート=自己表現、創造性。
醍醐味=物事の本当の面白さ。 やりがい=物事を行うときの価値。

 

阪野 貢/「地域教育経営」と住民「参加型評価」を考えるために―荻野亮吾・丹間康仁編著『地域教育経営論』のワンポイントメモ―

〇まず次のことを確認しておきたい。
●地域福祉における評価は、実践の成果や課題解決の側面から行われる「タスクゴール」(課題達成)、実践の過程や住民・関係主体の参加や連携・協働の側面から行われる「プロセスゴールス」(過程達成)、住民や行政などの関係性や地域の権力構造の側面から行われる「リレーションシップゴール」(関係力学変容)という視点が重視される(補遺(1) 参照)。
●学校教育における評価は、それがいつ行われるかによって、教育活動を始める前に行われる「診断的評価」、教育活動の途中で行われる「形成的評価」、教育活動が終了した後で行われる「総括的評価」に分けられる(補遺(2)参照)。
●問題・課題解決を図るための福祉・教育実践は、計画の立案・仮説の設定を行い(Plan)、計画・仮説を実行し(Do)、実行した結果に基づいて計画・仮説を評価・検証し(Check)、計画・仮説の改善・修正を行う(Action)、というプロセスを経る。そしてそれを、次の新たな取り組みに活かす。いわゆる「PDCAサイクル」である(仮の結論=仮説を設定して考える問題解決のための思考法を「仮説思考」という)。
●市民福祉教育の実践プログラムの企画・立案は、例えば、「学習者の設定・理解」、「学習要求と学習必要の把握」、「学習目標と内容・方法等の選定」、「実践プログラムの実施」、「学習評価とその共有」、「実践プログラムの改善・再計画」などの流れで行われる。
〇筆者の手もとに、荻野亮吾・丹間康仁編著『地域教育経営論』(大学教育出版、2022年10月。以下[1])がある。サブタイトルは「学び続けられる地域社会のデザイン」である。周知の通り、社会福祉では「我が事・丸ごと」地域共生社会の政策化が図られ、学校教育では新学習指導要領が提唱する「社会に開かれた教育課程」の具体化が志向されている(補遺(3)参照)。福祉教育では、共生社会の形成や多文化共生の実質化をめざした「地域を基盤とした福祉教育」の推進が要請されている。これらはいずれも、誰もが地域社会づくり(まちづくり)に参加し、安全で快適に「住み続けられる地域社会のデザイン」を企図している。その点において[1]は、一面では、時宜にかなったものであり、「まちづくりと市民福祉教育」について思考する筆者にとって興味をそそられる。
〇[1]では、地域社会を教育の基盤として位置づけ、学校教育と社会教育の双方の視点から、生涯学習を可能にする地域社会を総合的にデザインし、その運営について考える「地域教育経営」という枠組みを提示する(ⅰページ)。そして、「地域教育経営とは、学校の構成員や地域社会で暮らす人々を教育の当事者として位置づけ、それらの人々の間に『つながり』を紡ぐことで、学校運営協議会などの組織化された公的な意思決定の場面をはじめ、教育に関して『熟議』がなされる領域を日常的なさまざまな場面にも広げていこうとする実践、および、それを支える仕組みや制度に関する理論」である、と定義づける(17ページ)。
〇この定義では、地域教育経営を実現するための要素として、「つながり」と「熟議」が重視される。すなわち、地域住民をはじめ行政や企業、関係機関・組織などの「つながり」づくりが地域教育経営の基礎に位置づけられる。そして、「熟議」が、単なる話し合いではなく、地域社会を構成するさまざまな主体(関係主体)が連携・協働してまちづくりを推進し、地域社会に新たな「つながり」を紡ぐ実践として重要視される(18ページ)。定義でいう「学校運営協議会」は、教育委員会によって学校内に設置され、保護者や地域住民などが一定の権限を持って学校運営に参加する合議制の機関である。2004年9月の法定化以来、2021年5月現在で学校運営協議会を設置する学校(コミュニティ・スクール)は、全国の公立学校(幼稚園・小学校・中学校・義務教育学校・高等学校・中等教育学校・特別支援学校)の33.3%にあたる1万1,856校を数えている。
〇[1]は、地域教育経営の「見取り図」を示し、各地域の課題解決に向けた先進事例を紹介しながら「課題と展開」、「主体とパートナーシップ」、「デザインと評価」について議論する、入門・基礎レベルのテキストとして編まれている。筆者にとってはとりわけ、身近な地域社会での「つながり」と「熟議」をどのように組織化するか、地域教育経営の目標である「エンパワーメント」をどのように実現するか、そして住民主体の活動をどのように評価するか、などの論究(実践的方法論)が興味深い。
〇これらの点について、[1]における論点や言説のいくつかをメモっておく(抜き書きと要約。見出しは筆者。見出しの後の氏名は分担執筆者)。

コミュニティにおける話し合いの問題と対処法/佐藤智子
●古典的な意味でのコミュニティは、一定の地域的範囲(範域)をもつ「地域性」と、そこでの生活の「共同性」をその要素としている( R.M.マッキーバー)。現代におけるコミュニティは、一定地域に「常に在るもの」ではなく「失われつつあるもの」となり、ゆえに多くの場合、「新たにつくられるべきもの」ととらえられている。(162ページ)
●分断された社会に共生を取り戻し、包摂的なコミュニティを構築していく過程では、対話(話し合い)が欠かせない。話し合いの場では、①社会的な「上下関係」に起因した遠慮(反対意見を言いづらいなど)、②参加者間での前提の不一致や非共有(意見の前提にある情報や事実認識が異なるために話がかみ合わないなど)、③義務的な参加動機(話し合いに対してやる気がない、地域の問題に興味がないなど)、④発想の固定化(似通った意見しか出ないなど)、などの問題が生じやすい。(163、169~170ページ)
●こうした問題に対処するためには、①水平的な関係づくりを重視する(参加者の属性による区別も優遇もしないなど)、②情報やアイディアの提供(アウトプット)とともに吸収(インプット)を重視する(参加者が客観的な情報を吸収することができるなど)、③「楽しい」という感覚を優先する(参加者が意見表明や情報吸収に楽しさを感じるなど)、④問題解決や合意形成を目的としない(すべての参加者によって表明された意見やアイディア全体を総括し集約するなど)、などが有効である。(170~171ページ)

「まちの居場所」の種類とデザインの方法/荻野亮吾・高瀬麻以
●「まちの居場所」(たまり場)は、飲食店や自宅、公共スペースなどの場を開放して、交流やつながりづくりを重視するコミュニティカフェ型の居場所、高齢者・子ども・子育て支援などをテーマに、社会的課題の解決を目的とするコミュニティケア(community care)型の居場所、さまざまな人たちが出入りして独立した仕事を行うスペースだけでなく、属性の異なる利用者の交流や地域活動・市民活動を支援する場としてのコワーキングスペース(coworking space)型の居場所など、多種多様な形態をとる。(177~180ページ)
●それらは、既存の制度や施設の枠組みからこぼれおちたニーズ(隙間)に対応しようとするものであり、個々人が孤立せず他者と居合わすことができる場である。しかも、気軽に利用しやすい日常生活の場に根ざして設置され、地域の人々が中心になって運営される点に特徴がある。(175~176ページ)
●「まちの居場所」づくりは、それに関わる人それぞれが「想い」を出し合い・デザインし、誰もが気持ちよく参加することのできる空間・時間づくりや人間関係づくり(「空間」「時間」「人間(じんかん)」「隙間」の4つの「間」をデザインすること)を進め、ゆるやかな関係のなかで関わる人々がその「役割」を少しずつ担い・デザインしながら、自分たちの居場所を徐々に創出する「熟議」の過程が重要となる。(180~183、185ページ)

地域課題の解決とエンパワメント/菅原育子
●人々が、自分(たち)のもつ力や可能性を知り、自ら(地域の)課題解決に向けて行動したり、環境をより良くしようとすることや、そのための力を得たり力を発揮する過程は、「エンパワメント(empowerment)」という概念で説明される。エンパワメントとは、力を引き出す、力を与えるといった意味をもつ言葉である。(202ページ)
●地域社会におけるエンパワメントは、「専門家に頼るのではなく、住民自らが力をつけること」(住民個人のエンパワメント)とともに、組織や地域が「多様な個人を活かしながら地域の課題解決への力量形成をめざすこと」(組織・コミュニティのエンパワメント)と表現される。住民が中心となり、他者と協働して地域が抱えるさまざまな課題に向かって行動する地域づくりは、住民、住民主体の活動、そして地域全体のエンパワメントを推進することと同義である。(202ページ)
●エンパワメントは、住民と地域の関係性を理解し、住民主体の活動への支援を考えるうえで欠かせない概念である。そして、エンパワメントを推進する過程で不可欠となるのが、活動の評価である。評価とは、対象について、なぜそれをするのか、どのようにするのか、その結果どう変わったか、その変化は期待したものであったか、などの問いにこたえる行為である。(202ページ)

「住民参加型評価」とその流れ/菅原育子
●課題解決をめざす活動(「プログラム」)は一般的に、①ニーズや課題の把握、②企画と関係者の巻き込み、③具体的な実施体制の構築と実行計画の立案、④計画の実行と改善・修正、⑤最終的な振り返り、という流れで計画・実行されるが、評価(「プログラム評価」)はこの各段階で行われる。①の段階では状況把握のための「ニーズ評価」、②③の段階では活動の目標や計画が妥当かを評価する「セオリー評価」、④の段階では活動が計画通りに実行されているかを評価する「プロセス評価」や短期的な成果を評価する「アウトカム評価」、⑤の段階では長期的な成果を評価する「アウトカム評価」や活動の広範な影響を評価する「インパクト評価」が行われる。(204ページ。表1参照)
●住民をはじめとする当事者にとって、評価は活動を整理し、改善し、推進するのに役立つ。また、自分たちの置かれた状況を客観的に理解し、自分たちの強みや弱みを知り、関係者全員で課題を共有することや、活動の目的を共有することにつながる。さらに、活動展開中の評価は、活動の目的を関係者間で再確認し、自分たちの活動が期待していた成果に向かって進んでいるかを把握し、うまくいっていない時には活動内容を見直し改善することにつながる。また、うまくいっている時には、自信をもって活動を継続することに結びつく。(203ページ)
●(当事者である住民と評価の専門家が協働して行う住民「参加型評価」について)源由理子は、評価のプロセスを「評価の事前準備」および「評価の設計」「データの収集と分析」「データの価値づけと解釈」「評価情報の報告と共有」の4段階に分けたうえで、「参加型評価」の基本的な流れとして、各段階で当事者がどのように評価に参加し役割を担うかを設計する手順を示している。参加型評価においては、評価の4段階すべてにおいて、住民を含めた関係者が対話・討議を行い、合意形成を行いながら進めていくプロセスが重視される。多様な関係者が一同に介し(一堂に会し)、対話と討議を行う場として評価ワークショップ、または検討会と呼ばれる場を設ける手法が多く用いられる。参加型評価に関わる専門家には、これらの対話の場において多様で対等な意見の発散・構造化・収斂(しゅうれん)を導くファシリテーターとしての技能が求められる。(206~207ページ。図1、表2参照)

「エンパワメント評価」と地域のエンパワメントの実現/菅原育子
●参加型評価のなかでも、評価における当事者の参加と、参加を通したエンパワメントを強調するのが「エンパワメント評価」である。それは、当事者が主体的に評価を行い、その過程で評価に必要な技術を取得し、評価をもとに当事者自身が活動のすべてを決定することに重点を置く点で、徹底した当事者主体の評価手法である。(207ページ)
●評価は、当事者が自分たちのためのものであると実感でき、評価を通して活動の改善や深化が達成できるときに、(当事者個人や組織・コミュニティの)エンパワメントにつながる。評価の目的を関係者で共有し、適切な評価のデザインを協議しながら決めていくことが、(住民をはじめとする)当事者の主体性を高め、エンパワメント促進につながる評価の条件である。(211ページ)

〇ここで、上述の菅原が引用する源の言説(評価論)を引いておくことにする。表1の「プログラム評価の主な焦点」、図1の「参加型評価の流れ」、表2の「参加型評価の主な作業」がそれである(源由理子編著『参加型評価―改善と変革のための評価の実践―』晃洋書房、2016年11月)。

 

 

〇ところで、「まちづくりと市民福祉教育」実践では、福祉・教育関係機関・組織などが所在する地域を基盤に、子ども・青年や大人、高齢者や障がい者、行政や関係主体など多様な実践主体によって展開され、「つながり」と「熟議」を通じた合意形成と、実践(援助・支援、活動)や運動を通じた主体形成を図ることが必要かつ重要となる。
〇その際、地域の実態・実情やそれまでの実践・運動を分析し、それを通してどのような状態・到達目標を設定するか、それに対してどのような内容・方法が有効で、どのような状態・成果が期待できるか、などについて事前に体系的に検討することが肝要となる。いわゆる「実践仮説」の設定である。
〇そして、そこに求められるのは、多様な実践主体が参加して展開される住民「参加型」評価である。上述の源によると、対話による合意形成を前提とした参加型評価では、評価対象に対する帰属意識やプログラム(課題解決をめざす活動)に対する当事者意識が高まり、結果として評価情報の共有や活用の度合いが高まることが期待される。そして、「参加型評価をとおして民主的な市民参加の場を提供することが、社会の改善や変革に貢献する」(源『前述書』19ページ)ことになる。
〇以上を踏まえて、「まちづくりと市民福祉教育」に関する住民「参加型評価」について、ひとつの「評価指標の体系」を図2(試案)に示すことにする。

 

 

〇加えて、「まちづくりと市民福祉教育」に関する総括的評価の設問を例示しておく。以下の「この活動」についてはとりあえず、コミュニティソーシャルワークの代表的な実践である地域福祉(活動)計画の策定活動とその主体である地域住民(子ども・青年や大人、高齢者、障がい者など)を念頭に置いている。

ニーズ評価 × 学習者の設定・理解
・このまちはいま、どんな問題や課題を抱えていると思っていましたか
・この活動は、社会のニーズに合っていると思っていましたか
・この活動を通してまちづくりに参加しようと思った理由はなんでしたか
セオリー評価 × 学習要求と学習必要の把握 × 学習目標と内容・方法等の選定
・この活動の目的や取り組みの内容・方法等についてどう思いましたか
・この活動に参加するにあたってなにを学びたい・学ぶべきだと思いましたか
・この活動に関する学習の目標や内容・方法等についてどう思いましたか
プロセス評価 × 実践プログラムの実施
・この活動と学習は計画通り・期待していたように実施されたと思いますか
・この活動と学習を通して住民や関係機関等のつながりが深まり・広がったと思い          ますか
・この活動と学習について、あるいはそれを通して話し合いが深まり・広がったと           思いますか
アウトカム評価・インカム評価 × 学習評価とその共有
・この活動に参加する意欲や推進する能力は高まったと思いますか
・この活動に関する学習は活動を進めるうえで役立ったと思いますか
・この活動と学習を通してまちづくりについての認識は変わったと思いますか
費用対便益・費用対効果 × 実践プログラムの改善・再計画
・この活動と学習は効果的・効率的に取り組まれたと思いますか
・この活動と学習は見直し、改善・修正する必要があると思いますか
・この活動と学習は今後も継続あるいは拡大する必要があると思いますか

〇なお、社会福祉実践プログラムにおける「参加型評価」の適用をめぐって論究したものに、藤島薫『福祉実践プログラムにおける参加型評価の理論と実践』(みらい、2014年3月)がある。参照されたい。

 

補遺
(1)タスクゴール、プロセスゴール、リレーションシップゴール
タスク・ゴールは、目的達成面からの評価で、地域の福祉課題や生活問題を具体的にどの程度解決したか、福祉ニーズに対して社会資源の提供はどの程度活用されたか、問題解決に住民はどの程度満足しているか、などを量的・質的側面から評価する。
プロセス・ゴールは、課題達成に至るまでの諸過程、手続きを重視する側面からの評価で、住民(組織)が計画から実施の過程でどういう形で参加したか、参加を通じて問題解決能力をどれだけ身につけたか、住民組織や機関の協働促進はどう進展したか、また、その主体形成力はどう図られたかなどの評価である。
リレーションシップ・ゴールは、関係面からの評価で、地域住民や当事者の声及びニーズがどの程度活動に反映し、取り入れられたか、組織活動を通して地域の民主化は進展したか、当事者などの人権は擁護されたか、地域住民の連帯感は強まったか、などを評価する。これら3つの評価視点は業務分析に当たって総合的に活用してこそ有効である。
(日本地域福祉学会編集『地域福祉事典』中央法規出版、1997年12月、229ページ)

(2)診断的評価、形成的評価、総合的評価
事前的診断的評価は、新しい課程、学年、学期、単元、授業などに入る前に、指導の参考となる各種の事前的情報を収集する目的で行う評価である。例えば、新しい学習内容を習得するのに必要なレディネスの獲得状況(知識や経験、環境などの準備状態:筆者)、新しい学習内容の予習状況、あるいは習熟度・知能・性格・興味・適性などに関する情報が収集される。
形成的評価は、従業中・授業後・小単元終了時など、ある単元の指導を進める過程で、途中で学習者の学習状況(教育目標の達成状況)を確認し、教師と学習者の双方にフィードバックし、つまずきの早期発見・早期回復を行うことにより、学力形成に利用する目的で行う評価である。
総括的評価は、課程、学年、学期、単元の終了時などに、1つ以上の単元にまたがる広い範囲について、そこでの学習成果をまとめ、成績づけに利用する目的で行う評価である。すなわち、卒業(修了)試験、学年末試験、学期末試験などが総括的評価の手段である。
(辰野千壽・石田恒好・北尾倫彦監修『教育評価事典』図書文化社、2006年6月、62ページ)

(3)「社会に開かれた教育課程」
〇新学習指導要領(小学校は2020年度、中学校は2021年度から全面実施、高等学校は2022年度から年次進行で実施)は新たに設けられたその「前文」で、次のように述べている。「教育課程を通して、これからの時代に求められる教育を実現していくためには、よりよい学校教育を通してよりよい社会を創るという理念を学校と社会とが共有し、それぞれの学校において、必要な学習内容をどのように学び、どのような資質・ 能力を身に付けられるようにするのかを教育課程において明確にしながら、社会との連携及び協働によりその実現を図っていくという、社会に開かれた教育課程の実現が重要となる」。
〇すなわち、「社会に開かれた教育課程」の理念を実現するための要件として、①社会や世界の状況を幅広く視野に入れ、よりよい学校教育を通じてよりよい社会を創るという目標を持ち、教育課程を介してその目標を社会と共有していくこと。 ②これからの社会を創り出していく子供たちが、社会や世界に向き合い関わり合い、自分の人生を切り拓いていくために求められる資質・能力とは何かを、教育課程において明確化し育んでいくこと。 ③教育課程の実施に当たって、地域の人的・物的資源を活用したり、放課後や土曜日等を活用した社会教育との連携を図ったりし、学校教育を学校内に閉じずに、その目指すところを社会と共有・連携しながら実現させること、の3つが重要であるとする(文部科学省)。
〇ちなみに、今回の学習指導要領改訂に向けての中央教育審議会答申(2016年12月)は、「社会に開かれた教育課程」の実現について次のように述べている。
●(前略)新しい学習指導要領等においては、教育課程を通じて、 子供たちが変化の激しい社会を生きるために必要な資質・能力とは何かを明確にし、教科等を学ぶ本質的な意義を大切にしつつ、教科等横断的な視点も持って育成を目指して いくこと、社会とのつながりを重視しながら学校の特色づくりを図っていくこと、現実の社会との関わりの中で子供たち一人一人の豊かな学びを実現していくことが課題となっている。
● これらの課題を乗り越え、子供たちの日々の充実した生活を実現し、未来の創造を目指していくためには、学校が社会や世界と接点を持ちつつ、多様な人々とつながりを保ちながら学ぶことのできる、開かれた環境となることが不可欠である。そして、学校が社会や地域とのつながりを意識し、社会の中の学校であるためには、学校教育の中核となる教育課程もまた社会とのつながりを大切にする必要がある。
●こうした社会とのつながりの中で学校教育を展開していくことは、我が国が社会的な課題を乗り越え、未来を切り拓ひらいていくための大きな原動力ともなる。特に、子供たち が、身近な地域を含めた社会とのつながりの中で学び、自らの人生や社会をよりよく変えていくことができるという実感を持つことは、困難を乗り越え、未来に向けて進む希望と力を与えることにつながるものである。
〇周知のように、1998年12月告示の学習指導要領に向けて1996年7月に答申された中央教育審議会第1次答申(「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」)で、「開かれた学校」が提示された。「社会に開かれた教育課程」は、その「開かれた学校」教育の延長線上にあるだけではない。学校・家庭・地域社会の連携にとどまらず、教育課程の目標やカリキュラム・マネジメント(学校が、教育目標の実現に向け、また子どもや地域の実態を踏まえて教育課程の編成・実施・評価・改善を計画的・組織的に進め、教育の質を高めること)のあり方にまで踏み込んでいる点が注目される。

阪野 貢/「まちづくりと市民福祉教育」論の体系化に向けて―大橋謙策の「福祉教育原論」に関する研究メモ―  

「まちづくりと市民福祉教育」論の体系化に向けて
―大橋謙策の「福祉教育原論」に関する研究メモ―

阪野 貢/市民福祉教育研究所

 

 福祉教育とは、「憲法13条、25条等に規定された人権を前提にして成り立つ平和と民主主義社会を作りあげるために、歴史的にも、社会的にも疎外されてきた社会福祉問題を素材として学習することであり、それらとの切り結びを通して社会福祉制度、活動への関心と理解をすすめ、自らの人間形成を図りつつ社会福祉サービスを受給している人々を、社会から、地域から疎外することなく、共に手をたずさえて豊かに生きていく力、社会福祉問題を解決する実践力を身につけることを目的に行われる意図的な活動」と規定することができる(「学校外における福祉教育のあり方と推進」全社協・全国ボランティア活動振興センター、1983年9月、15ページ)。

〇ここ10年ほどの福祉教育学界は、地域福祉の主流化が進むなかで、良しにつけ悪しきにつけ、その視座が「教育と福祉」から「地域福祉と福祉教育」に矮小化され、俯瞰的議論から遠ざかっているようである。また、実践を支える理論や思想・哲学、価値、歴史などへの関心は未だ低い。実践方法の原理・原則の探究が不十分であり、理論的枠組みも不明確な福祉教育実践論が展開されているようでもある。

1 福祉教育の概念規定
〇上記の福祉教育の概念規定は、30年以上も前に大橋謙策によってなされたものである。今日においてもしばしば引用される。この概念規定以外にも、「福祉教育とは何か」について論考したものは複数、捉え方によっては多数あるが、大橋のそれがよく援用される。それは、「人権」や「平和と民主主義」といった普遍的な理念や価値に基礎をおいた理念型の定義であり、また包括的で汎用性が高いことに起因するといってよい。具象的な定義はその解釈を狭くするが、抽象的定義はその抽象度によって解釈を広げ、読み手の洞察によって解釈を深めることができる。そうした点で、この定義は多くの人が「使える」、多くの人にとって「使いやすい」ものになっているのであろう。
〇周知のように、全社協・全国ボランティア活動振興センターが1980年9月、「福祉教育研究委員会」(委員長・大橋謙策)を設置し、翌1981年11月に「福祉教育の理念と実践の構造―福祉教育のあり方とその推進を考える―」について研究の中間成果を纏め、報告した。委員会の設置は、全国各地で福祉教育実践の進展が図られ、学校における福祉教育のあり方について一定の理論的整理が求められるようになってきたことへの対応であった。次いで、1982年9月に第2次の「福祉教育研究委員会」(委員長・大橋謙策)が設置され、翌1983年9月に「学校外における福祉教育のあり方と推進」と題する中間報告が行われた。大橋の福祉教育の定義は、第1次ではなく、「第2次福祉教育研究委員会」報告のなかで述べられている。そこではまた、次のように述べられている。「社会教育行政における福祉教育の促進には二つの視点が『車の両輪』としてなければならない。第一は、国民が社会福祉問題を学習し、それへの関心と理解を促進させる福祉教育活動の促進であり、第二には、今日の社会福祉問題の中心的課題を担っている障害者、高齢者の社会教育(学習、文化、スポーツ活動)の促進である」(15ページ)というのがそれである。後者(「第二」)に関してはさらに、「今日の社会福祉サービスの主たる対象である障害者、高齢者の学習、文化、スポーツ活動を豊かに促進させることが、国民の障害者観、老人観を変え、ひいては社会福祉観を変えて、ともに生きていく街づくりをすすめる上で重要」(16ページ)であるとされた。
〇ところで、大橋のこの定義は、全社協の「第2次福祉教育研究委員会」報告以前の1982年3月、神奈川県の「ともしび運動促進研究会」(委員長・大橋謙策)が編集し、「ともしび運動をすすめる県民会議」が発行した『ともしび運動促進研究会中間報告』で述べられている(4ページ)。「ともしび運動」は、長洲一二県知事の提唱によって、1976年10月から展開された行政・県民協働の福祉コミュニティづくり(自立と連帯のまちづくり)運動である。具体的には、「障害者の自立促進を」「おとしよりに生きがいを」「連帯感にあふれた地域社会づくり」などをその目標とし、「『ともしび運動』によってすすめられるべき課題の第一は “福祉教育の促進” である」(4ページ)とされた。
〇以上を要するに、大橋の福祉教育論については、一面では「子ども・青年の発達(の歪み)」を軸に体系化された教育論としても評価されるが、併せて高齢者や障がい者の「社会教育の促進」や「福祉コミュニティの形成」との関わりで福祉教育を捉える研究の視座に注目しないと、その定義や所説を読み解くことはできないということである。

2 福祉教育と「社会福祉問題」
〇先に記した大橋の福祉教育の定義についてその構成要素を弁別すると、次のようになる。(1)憲法第13条、第25条等に基づく人権思想をベースにする。(2)歴史的・社会的存在としての社会福祉問題を素材とする。(3)社会福祉問題との切り結びを通して、社会福祉制度や活動への関心と理解を進める。(4)社会福祉問題を解決する実践力を身につけるために、実践に基づく体験学習を重視する。(5)「自立と連帯の社会・地域づくり」の主体形成を図る、などがそれである。
〇大橋の定義における鍵概念のひとつは「社会福祉問題」である。大橋は、1981年2月に刊行された吉田久一編『社会福祉の形成と課題』(川島書店)所収の論文「高度成長と地域福祉問題―地域福祉の主体形成と住民参加―」(231~249ページ)で、高度経済成長期以降、「社会福祉問題の国民化と地域化」(大橋謙策『地域福祉の展開と福祉教育』全社協、1986年9月、3~11ページ)が進んでいるが、地域で福祉問題を解決するためには、それができる「住民の形成とネットワークづくり、とりわけそこにおける住民参加の問題」(238ページ)が重要であり、焦眉の課題であるとする。そのうえで、地域福祉の主体形成のための福祉教育の必要性と、福祉行政の「地方分権主義」への転換を図り、地方自治体が自律性をもって「地域社会福祉計画」を住民参加のもとに策定することの必要性を指摘している。
〇福祉教育が学習素材とする「社会福祉問題」、とりわけ高度経済成長期以降のそれは、大橋にあっては、「戦前の大河内一男の社会政策と社会事業という整理や戦後の孝橋正一の社会問題と社会的問題という整理でも、包含できない課題として創出されてきた」(231ページ)。公害・環境問題と外的な生活破戒、過疎問題と家庭破戒、過密問題と生活の共同的集団的再生産機能の弱まりと不安定化、合理化・機械化による生活リズムの破戒や老人福祉問題の深刻化などが、「従来の問題にくわえてあらわれてきた」ものである(232~234ページ)。
〇地域住民のこれらの具体的な生活破戒の “状況” については、簡潔明瞭にカテゴライズしても、他の領域や次元の “状況” で説明するだけではその本質に迫ることはできない。社会福祉問題の分析は、それを現代社会の仕組みと運動法則によって必然的に生み出される構造的な「社会問題」として、社会科学的に捉えることによってはじめて可能となる。そうした分析のうえで、その問題解決に向けて、批判的・論理的かつ創造的に思考・判断・実践する “力” の育成・向上をいかにして図るか。そのための福祉教育実践の具体的展開について検討することが求められる。
〇以下に、上記の論文中から、「福祉教育と地域福祉の主体形成」に関する叙述部分を記しておく。大橋の「福祉教育の理念と実践の構造」についての所説の基本的部分(特色)を概観・俯瞰することができる。

福祉教育は、国民が社会福祉を自らの課題として認識し、福祉問題の解決こそが社会・地域づくりの重要なバロメーターとして考え、共に生きるための福祉計画づくり、福祉活動への参加を促すことを目的に行なわれる教育活動である。したがって、福祉教育は少なくとも次の諸点を構成要件として意識的に行なわれてこそ意味がある。
第一は、差別、偏見を排除し、人間性に対する豊かな愛情と信頼をもち、人間をつねに “発達の視点” でとらえられる人間観の養成、第二に社会福祉のもつ劣等処遇観、スティグマ(恥辱)をなくすことが必要で、そのためには国民の文化観、生活観を豊かにすることに他ならないこと、第三に、人間は人々との豊かな交流の中で生きる以上、生活圏の狭い障害者等の社会福祉サービス受給者の生活がいかに非人間的であるかをコミュニケーションの手段も含めてとらえられること、第四に複雑な社会における歴史的、社会的存在としての福祉問題を分析できる社会科学的認識が必要なこと、第五に今日の福祉は、福祉行政の中でも細分化されているが、その解決には関連行政たる労働行政、教育行政、保健衛生行政などを含めて地域的課題を総体的にとらえる力が必要であること、の五つを基本に、情報の周知徹底、体験・交流などによって感覚として体得することなどが方法論的にも加味されて、はじめて福祉教育の実践といえる。
福祉教育は、住民の福祉意識を変え、福祉問題をトータルにとらえ、問題解決のための福祉計画づくり、具体的解決のための実践などを行なえる住民の形成であり、それこそ地域福祉の主体形成といえよう。(243ページ)

3 福祉教育と「地域福祉の主体形成」
〇大橋は、岡本栄一によって「住民の主体形成と参加志向の地域福祉論」と評されるように、「地域福祉の主体形成」を重視する。その点について、大橋は、前記の著書『地域福祉の展開と福祉教育』において、「地域福祉の主体形成のしかたと主体として形成されるべき力量には、次のような7つのことが考えられる」とした。(1)社会福祉に関する情報提供による関心と理解の深化、(2)地域福祉計画策定への参加と政策立案能力、(3)社会福祉行政のレイマンコントロール(政治や行政の一部を一般市民に委ねること:筆者)、(4)社会福祉施設運営への参加、(5)意図的、計画的な福祉教育の推進、(6)地域の社会福祉サービスへの参加(ボランティア活動)による体験化と感覚化、(7)社会福祉問題をかかえた当事者の組織化と当事者のピア(仲間、peer)としての援助、がそれである(46ページ)。その後、大橋は、この「地域福祉の主体形成」(「住民の主体形成」)の7つの「枠組み」を整理し、「『地域福祉の主体』形成には、4つの課題がある」として、4つの主体形成の枠組みを提示する。すなわち、(1)地域福祉計画策定主体の形成、(2)地域福祉実践主体の形成、(3)社会福祉サービス利用主体の形成、(4)社会保険制度契約主体の形成、である(大橋謙策『地域福祉論』放送大学教育振興会、1995年3月、75~82ページ)。それは同時に、福祉教育の課題でもある。
〇この大橋の4つの主体形成については、7つから4つに “綺麗” に整理・集約された故にか、4つの側面が並列的に理解されがちで、その内的・構造的な相互関連性の把握を困難なものにしている。主体としての「住民」は、基本的には労働主体と(労働以外の)生活主体の統一的存在であろうが、政治主体・経済主体・文化主体であり、また地域の自治主体や変革・創造主体でもある。「住民」はこれらの側面を重層構造的にもつ存在である。地域の自治主体や変革・創造主体に関していえば、住民主体の社会福祉問題の解決や「自立と連帯の社会・地域づくり」を推進するためには、個人的主体形成のみならず集合行為主体や運動主体の形成が必要かつ重要となる。こうしたことを踏まえたうえで、地域福祉(住民)の主体形成を促進する福祉教育実践の内容や方法について具体的に検討することが肝要となる。

4 「大橋福祉教育論」に対する批判
〇以上が、「社会福祉問題」と「主体形成」の鍵概念を中心にみた「大橋福祉教育論」の概括である。こうした大橋の所説に対してこれまで、「地域福祉と福祉教育」を説く地域福祉研究者からの系統的な批判はあまりみられない。それは、大橋の所説が一定の理論体系を作り上げていることによるが、大橋のそれが「福祉教育原理論」として前提され、そのうえで立論されていることにもよるといってよい。そういうなかで、生涯学習やESD(持続可能な開発のための教育)の研究者である松岡廣路が、論文「福祉教育・ボランティア学習とESDの関係性」(『持続可能な社会をつくる福祉教育・ボランティア学習(日本福祉教育・ボランティア学習学会研究紀要)』第14号、2009年11月、8~23ページ)において、大橋の所説に批判的考察を加えている。
〇松岡の大橋批判は、大橋の福祉教育の定義は「汎用的であるがゆえに、同時に、脆弱性を併せもっている」。「脆弱性を項目化すると、<未分化な学習者像>、<社会福祉活動の内実の曖昧さ>、<楽観的な社会形成ビジョン>、<教育概念の曖昧さ>と約言できる」(13ページ)、というものである。そして、松岡は、「脆弱性の高い『福祉教育』の定義に基づいてしまうと、時代の大きな物語に押し流され、重要と思われる要素が外延化され、体制的要素を内包とする対象化(理論化)と実践化が、当然のごとく進んでいく。福祉教育が、現実と理想の拮抗関係の中に位置することを意識し、従来の枠組みを等閑視しないという批判的な姿勢を保つことが、今まさに重要である」(16ページ)として、「批判的創造性」の観点の必要性と重要性を説いている。松岡の批判は必ずしも、「大橋福祉教育論」をその理論的体系化の過程も視野に入れて、総合的・体系的に行うものにはなっていない。とはいえ、「社会的・福祉的課題の解決に不可欠な『批判的創造性』が、実践における学びの目標・内容(いわゆる『学びのベクトル』)から排除されている」(16ページ)という指摘は、首肯されるところである。

5 「大橋福祉教育論」再考のための枠組み
〇ある理論や所説を、内在的にしろ外在的にしろ批判的に考察するためには、その枠組みを構造的に捉え、それを主体的に再構成することが求められる。その点において、「大橋福祉教育論」を超える新たな福祉教育論の理論的枠組みを構築し、新たな実践方法を創造するためには、まずはいま一度「大橋福祉教育論」の理論的枠組みの構築化の過程を時系列的に把握するとともに、その枠組みの構造を総合的に理解する必要がある。そこで、以下では、そのためのひとつの方法として、大橋が行った福祉教育についての2つの「講演」からそのレジュメの枠組みと項目をみることにする。日本福祉教育・ボランティア学習学会の第2回大会と第10回大会での講演である。

(1)福祉教育・ボランティア学習の理論化と体系化の課題(第2回大会・基調講演/1996年11月23日/日本社会事業大学)

出所:『日本福祉教育・ボランティア学習学会第2回大会』1996年11月、5~9ページ。

〇地域づくりや地域福祉の主体「形成」は、福祉「教育」やボランティア活動(ボランティア「学習」)が推進されればそれで可能になるものではない。それは、子ども・青年や成人などの地域住民が、地域の社会福祉問題の本質を科学的に理解・分析し、変革的・創造的に問題解決を図ることのできる“力”を獲得し、しかもそれを具体的・現実的に行使することによって初めて可能となる。その主体形成ができなければ、福祉を学ぶことやボランティ活動は単なる「善行」にとどまり、無批判的で体制適応(順応)的な住民主体を形成することになる。福祉教育は「両刃の剣」になりかねない、といわれるところである。
〇そういう意味からも、上記の枠組みと項目のなかから、ここではとりわけ「形成と教育と学習」について留意しておきたい。それは、上述の松岡が、大橋の定義は「意図的な活動」と明記されていることからも「福祉教育が、ややもするとフォーマルな教育が中心であるとの理解(誤解)を許す脆弱性を有している」(15ページ)と指摘する点に関わることである。
〇大橋の指摘を俟つまでもなく、福祉教育を進めるにあたっては、その対象である子ども・青年あるいは成人などの「学習者」の発達特性や発達課題、学習者が置かれている状況などを理解すること(「学習者理解」)が重要となる。それは、「人格発達論」(「人間発達論」)にまで深められなければならない。そのうえで、子ども・青年や成人の、地域づくりや地域福祉の「形成」と「教育」と「学習」との関係を改めて考えてみる必要がある。
〇宮原誠一によると、「形成」は、人間の社会的生活における自然成長的な過程として捉えられる。それが豊かであることによってはじめて、組織的体系的な制度であり、目的意識的な過程としての「教育」が成り立つ。換言すれば、人間の「形成」の過程を、それぞれの時代の社会、政治、経済、文化の必要に基づいて「望ましい方向」に制御しようとする人間の努力が「教育」という営為である。宮原にあっては、広義の「教育」は「形成」と呼ばれるべきであり、学校教育や社会教育などの狭義の「教育」は「形成」を前提とする。すなわち、狭義の「教育」は、人間の「形成」のうちにあるひとつの営為であり、「形成」の過程に内包されるひとつの要因に過ぎない。
〇「形成」は、人間が社会的生活そのものによって “形づくられる” 過程である。それは、第一次的には社会的・自然的環境によって行われる。とすれば、「形成」は「学習」なしには成り立たず、「学習」は「形成」に不可欠なものとして位置づけられる。そこから、「形成」と「教育」の関係は、「学習」と「教育」の関係になる。その関係について、勝田守一は、「学習のないところに教育はない」「教育は学習の指導である」という。勝田にあっては、「形成」にはその前提として「学習」があり、「形成」は自己の希望や意欲による目的意識的な営為である。従ってそれは、「自然成長的」(宮原)ではない(佐藤一子ほか「宮原誠一教育論の現代的継承をめぐる諸問題」『東京大学大学院教育学研究科紀要』第37巻、東京大学、1997年12月、311~331ページ。宮崎隆志「教育本質論における宮原誠一と勝田守一の差異について」『北海道大学大学院教育学研究科紀要』第83号、北海道大学、2001年6月、1~24ページ、等参照)。
〇いずれにしても、宮原と勝田の「形成」「教育」「学習」などをめぐる「教育」の概念や本質についての再検討は、福祉教育やボランティア学習の概念把握や本質理解に対してひとつの視座やアプローチの仕方を与えてくれるであろう。地域づくりを担う子ども・青年や成人などの多様な実践・運動主体の育成・確保が求められ、市民活動や教育活動のあり方が厳しく問われている今日、その再検討の意義は大きいと考えられる。それは、宮原と勝田は、「連帯」の概念を基底に地域を捉え、勝田は「自立と連帯」の場として地域を理解する。そのうえで、“地域づくりと教育実践(地域教育計画)” について言及するからでもある。

(2)学会の新たなる10年に向けて~福祉教育・ボランティア学習学会の今後の課題―学会創設10年の総括~(第10回大会・総括講演/2004年11月28日/神奈川県立保健福祉大学)

出所:「実践と研究の未来」『日本福祉教育・ボランティア学習学会年報(10周年記念)』第10号、2005年12月、91ページ。

〇学校は、「学習者」(生徒)と「指導者」(教師)、その両者を媒介する「教材」(教育内容)によって構成される。そこでの教育活動は、教科活動と教科外活動(特別活動、総合的な学習の時間)、学習指導と生活指導という2つの領域や機能に分けられる。また、教科活動と教科外活動、学習指導と生活指導はともに、学校や教育活動の理念や目的・目標を達成するうえで重要な機能を果たすものであり、学校教育において重要な意義をもつ。教育の理念や目的・目標の明確化なくして、学習者の主体的・創造的な学習活動や指導者の意欲的・積極的な学習・生活指導は促進されず、教育の成果を期待することはできない。そこから、教育の「理念・目的・目標」は、学校や学校教育の構造を成す重要な内部要素であるといえる。そして、「理念・目的・目標」「学習者」「指導者」「教材」は、相互に作用・影響し合い、相乗効果を生み出すものとして存在する。
〇こうした認識に立って、以上の枠組みと項目から、ここでは「福祉教育の構造」に関する研究・実践課題について一言する。管見によれば、福祉教育は、(1)理念・目的・目標、(2)学習者、(3)指導者・支援者、(4)素材・教材、(5)教育内容・方法(評価を含む)などによって構造化される(「福祉教育の構造」)。それらの構成要素のうち、例えば(1)については、福祉教育(「市民福祉教育」)は、「自立(independence)と自律(autonomy)、共働(coaction)と共生(symbiosis)」という理念のもとで、「福祉文化の創造や福祉によるまちづくりをめざして日常的な実践や運動に取り組む主体的・自律的な市民の育成を図る」ことを目的とする。福祉教育は、そのために、地域の「社会福祉問題」を発見・理解・解決するための横断的・重層的な実践プログラムを開発・編成し、地域を基盤とした総合的・複合的な「地域をつくる学び合い」(東京都生涯学習審議会答申「地域における『新しい公共』を生み出す生涯学習の推進~担い手としての中高年世代への期待~」2002年12月)の支援を行う教育営為である、といえる。
〇そう考えたとき、(2)に関しては、「子ども・青年」のみならず、「成人」(中高年世代)の状況について分析・理解すること(「学習者理解」)。(3)に関しては、求められる資質・能力や知識・技能とは何かを探究し、その育成・向上を図ること(「指導者・支援者育成」)。(4)に関しては、学習者の問題意識や学習意欲を喚起し、教育(学習)目標を達成するために、身近な地域・生活「素材」(具体的事象)を掘り起し、「教材」化すること(「教材開発」)。(5)に関しては、地域(「地元」)や「まちづくり」に焦点をあてたカリキュラムやプログラムを開発・編成し、実施・展開、評価すること(「プログラム編成」)、などが求められる。これらは、福祉教育における普遍的な課題でもあるが、人権侵害や立憲主義・民主主義・平和主義の後退、福祉や教育の改悪・切り捨てなどが激しく進行するいまこそ、福祉教育を体制内的な教育営為にしないためにも、自律的・批判的・創造的に取り組むことが求められる重要な研究・実践課題であるといえよう。
〇周知の通り、教育の形態は一般的には、大きく次の3つに分類される。(1)定型教育(formal education:制度化された学校において、構造化されたカリキュラムに基づいて教師と生徒の関係によって展開される教育。学校教育など)、(2)不定型教育(non-formal education:学校の教育課程として行われる教育の外部において、一定の学習者に対して、ある学習目的を達成するために意図的・組織的に行われる教育。社会教育など)、(3)非定型教育(informal education:日常的な生活経験(体験)や環境によって、知識や技能などを習得する無意図的・非組織的な教育。家庭教育など)、がそれである。加えて、日常生活上の市民・文化活動(運動)などを展開するなかで生じる教育課程としての(4)市民・文化活動(運動)を考えることができる。それは、非意図的・間接的あるいは偶発的でもある。
〇福祉教育(福祉教育事業、福祉教育機能)はこれまで、学校における福祉教育を中心にしながらも、学校外における福祉教育、成人を対象とした社会教育における福祉教育等の多様な分野で実践展開が図られてきた。具体的には、家庭や学校をはじめ、社協や公民館、福祉施設、民生委員・児童委員、NPO・ボランティア団体、自治会・町内会、企業、その他の関連施設・組織・団体などが、多様な “機会” や “場” を設けて福祉教育に取り組んできている。これまでの経過や現状・実態を踏まえると、福祉教育は、子ども・青年や成人などの地域住民を対象に、フォーマル、ノンフォーマル、インフォーマルの3つの形態の教育活動や市民・文化活動(運動)等を相互に媒介し、関連づけ、学校や地域などで展開される多様な教育活動として構造化されることになる。「福祉教育の構造」について検討し、その再構築を図るに際して、上述の5つの構成要素とともに留意すべき点である(表1「市民福祉教育の構造」参照)。


 むすびにかえて
〇大橋は、「教育と福祉」に関する初期の著作『地域福祉の展開と福祉教育』のなかで、「本書は、学術論文というよりも実践的研究書という方があたっているかもしれない。筆者の問題関心は、教育と福祉における“問題としての事実”に学びつつ、問題、課題をどう実践的に解決するのかという点にある」(「まえがき」)と述べている。この「実践的研究」の姿勢は、その一貫性を保ちながら「大橋福祉教育論」を深化・体系化させていく。
〇いわれるように、「実践的研究」は、「実践を通しての研究」と「実践に関する研究」に大別される。前者は仮説探索型の研究であり、後者は仮説検証型のそれである。この両者を循環的に組み合わせ、相互作用を引き起こすことによって、実践性と科学性を備えた、さらにはそれらを統合した研究と理論構築が可能となる。「大橋福祉教育論」を再考し、新たな福祉教育論を展開するに際して留意すべきひとつの視点・視座である。
〇改めていうまでもなく、上記の大橋「講演」の枠組みは壮大である。同時にそれは、幅広く奥深い「大橋福祉教育論」再考に向けた多様な視点・視座とアプローチの方向性を示すものでもある。「理論」(所説)は新たな時代や現実によって不断に凌駕され、更新されていく。「大橋福祉教育論」が「福祉教育原理論」としてその普遍性と不変性を今後も保持し続けるか否かの評価についてはひとまず置くとして、「大橋福祉教育論」をいかに継承し、新しく展開するかは福祉教育の実践者や研究者に課せられた大きな課題である。

補遺
(1)大橋謙策は、福祉教育とボランティア活動の関係性について、例えば次のように述べている。

ボランティア活動の契機・動機が(中略)自己満足的なもの、慈善的なものであったとしても、多くのボランティアはその活動を通して厳しいものの見方・考え方を修得していく。社会福祉一つとってみても単なる人のやさしさ、情熱だけでは解決できず、制度の確立と住民の協働がなければならない。ボランティアたちはそれらに関する意識を豊かにしはじめる。/社会福祉に関する意識は、知的理解のみではなかなか変容しない。社会福祉問題を抱えた人々との交流の中で、あるいはその問題解決の実践・体験の中で変容する。それだけにボランティア活動の推進は重要である。と同時に、福祉教育が求められる背景を解決するためにもボランティア活動を豊かなものにしなければならない。
(大橋謙策「福祉教育の構造と歴史的展開」一番ヶ瀬康子・小川利夫・木谷宜弘・大橋謙策編著『福祉教育の理論と展開』(シリーズ福祉教育1)光生館、1987年9月、74ページ。)

(2)福祉教育とその近似概念である「ボランティア学習」の関係性については、例えば長沼豊は次のように述べている。参考に供しておきたい。なお、長沼は、ボランティア学習は3つの構成要素から成るという。①ボランティア活動のための学習(目的としてのボランティア活動)、②ボランティア活動についての学習(対象としてのボランティア活動)、③ボランティア活動による学習(手段としてのボランティア活動)、がそれである。

福祉教育とボランティア学習は、ある実践では領域接近的に、ある実践では融合形として、ある実践は福祉教育の発展として(結果として)ボランティア学習がある、というように、重層的、輻輳(ふくそう)的に領域や方法が重なり合っているといえるだろう。
(長沼豊『新しいボランティア学習の創造』ミネルヴァ書房、2008年12月、135ページ。)

(3)また、福祉教育とボランティア学習の「違い」と「関係」について、全社協の『新 福祉教育実践ハンドブック』では次のように述べられている。

福祉教育とボランティア学習は、(中略)双方とも人権尊重・異文化理解をベースに、共生文化・市民社会の創造を大目標に掲げる実践です。(中略)しかし概念的には、学習素材・期待される成果・手法において若干の違いがあるともいえます。/ボランティア学習の概念の中心に位置づけられる、「ボランティア活動に組み込まれている学び」という発想は、(中略)リアル空間での学びを強調するものです。(中略)安易な疑似体験や講話的な福祉教育への警鐘としてボランティア学習をとらえることこそが重要なのです。/現在、福祉教育とボランティア学習は、ともすると、異なる文脈で実際の教育現場に導入されていますが、両者の特徴を総合することが求められています。理念的にも、福祉教育とボランティア学習は相補う関係にあります。
(上野谷加代子・原田正樹監修『新 福祉教育実践ハンドブック』全社協、2014年3月、32~33ページ。)

付記
阪野貢「『大橋福祉教育論』再考の視座と枠組み―新たな思考軸の構築をめざして―」市民福祉教育研究所ブログ〈まちづくりと市民福祉教育〉(26)2014年11月4日アップ。一部加筆修正。
阪野貢「『大橋福祉教育原論』再考の視座と枠組み―新たな思考軸の構築をめざして―」『ワンポイントメモ35+3 まちづくりと市民福祉教育―視点と論点―』(追補版)市民福祉教育研究所、2022年7月、14~27ページ所収。一部加筆修正。

 

阪野 貢/「まちづくりと市民福祉教育」論の体系化に向けて―岡村重夫の「1976年論文」に関する研究メモ―

「まちづくりと市民福祉教育」論の体系化に向けて
―岡村重夫の「1976年論文」に関する研究メモ―

阪野 貢/市民福祉教育研究所

 

〇春が戻ってきた(内山節の「横軸の時間」)。筆者は、定年を契機に、年金で生計を維持しながら、80坪ほどの農地で自家用野菜を育てる(「定年百姓」「年金百姓」になれるわけがない)家庭菜園者でもある。それが、「老人」(※)である自分の新たな生きがいやレクリエーションになっている。いまは、毎晩のように食卓に上がる“つみ菜”の春の香りを楽しんでいる。昨日(3月5日)は、春ジャガイモの植え付けをおこなった。

※民俗学者の宮田登(みやた・のぼる、1936年~2000年)は、『老人と子供の民俗学』(白水社、1996年3月)で、〈おい〉には「盛りを過ぎた」という語感がある〈老い〉と、「追加する」というイメージがある〈追い〉の二つがある。落ち目になっていくというマイナスの〈おい・老い〉を意味する前に、プラスイメージの〈おい・追い〉があった、という(5~6ページ)。
※農(百姓仕事)は季節による単純な繰り返しの作業ではなく、自然を相手にした繊細で創造的な仕事である。アメリカの精神科医で老年学者のジーン・コーエンは、『いくつになっても脳は若返る』(野田一夫監訳、ダイヤモンド社、2006年10月)で、「創造性」は年をとるとより一層深まり、豊かになり得る。ガーデニングは「小さな創造性」が発揮しやすい分野である、という(225、227ページ)。

〇筆者の手もとに、安室知(やすむろ・さとる)の『都市と農の民俗―農の文化資源化をめぐって―』(慶友社、2020年2月)という本がある。この本では、「現代日本における農の存在意義について、生活者の目線に立ち、国の政治や経済とは別の角度から捉え直し」ている。その際の切り口は、都市や農村における「農の文化資源化」である。「文化資源化」とは、「人が遺伝的に獲得したもの以外のすべてを文化とし、それを何らかの目的をもって資源として利用すること、および利用可能な状態にすること」をいう。安室にあっては「現代民俗学においては、文化資源化は避けて通ることができない問題である。現代において民俗伝承とされるものは、程度の差こそあれ、商品化や観光化など何らかの形で資源化されているといってよい」(9ページ)ここで筆者は、都市における「市民農園」とともに、無農薬・有機栽培野菜の商品化やグリーン・ツーリズム(農山漁村地域における滞在型の交流・余暇活動)、棚田のオーナー制度や観光などを思い出す。
〇筆者が暮らす岐阜県S市は、700年以上の伝統をもつ“刃物のまち”として知られている。まちには何故か、喫茶店と寿司屋が多い(筆者にはそう思える)。住民には、労働に追われることから、また家事時間の削減を図るために喫茶店で「モーニング」の朝食をとり、夕食を外食ですませる習慣があるのであろうか。それは、S市の刃物産業は部品製造業者と工程加工業者による社会的分業体制が採られていることから、零細企業や家内工業が多いことによると思われる。また、喫茶店や寿司屋は、コミュケーションや接待・商談の場となっているのであろう。
〇喫茶店の「モーニング」といった “日常の実際の暮らし” “人間の生” を民俗学の視点で探り、それを「ヴァナキュラー(vernacular)」と称して、「現代民俗学」(「現代学」としての民俗学)の研究対象とする本がある。島村恭則(しまむら・たかのり)の『みんなの民俗学―ヴァナキュラーってなんだ?―』(平凡社、2020年11年)がそれである。この本で、島村は、「ヴァナキュラー(俗)」について次のように定義づけている。「民俗学とは、人間(人びと=〈民〉)について、〈俗〉の観点から研究する学問である」。その際の「〈俗〉とは、①支配的権力になじまないもの、②啓蒙主義的な合理性では必ずしも割り切れないもの、③「普遍」「主流」「中心」とされる立場にはなじまないもの、④(支配的権力、啓蒙主義的合理性、普遍主義、主流・中心意識を成立基盤として構築される)公式的な制度からは距離があるもの、のいずれか、もしくはその組み合わせのことをさす」(16、31ページ)。
〇別言すれば、〈俗〉とは、「対覇権主義的、対啓蒙主義的、対普遍主義的、対主流的、対中心的、対公式的な観点を集約的に表現したもの」(30、107ページ)である。それらの観点を持ち、それらの世界を研究対象とするのが「民俗学」である。島村によると、こうした観点や志向は、「日本の民俗学の基底部に確実に存在している」(29ページ)。なお、「覇権」とは「強大な支配的権力」(20ページ)を意味し、「啓蒙」とは「非合理的な世界にいる無知蒙昧な人を、明るい世界に導いて賢くすること」(17ページ)、「普遍」とは遍(あまね)く通用すること、を意味する。
〇周知の通り、「日本民俗学の創始者」と言われる人に柳田國男(やなぎた・くにお、1875年~1962年)がいる。その柳田民俗学に対して批判的な論陣を張る民俗学者に赤松啓介(あかまつ・けいすけ、1909年~2000年)がいる。筆者の手もとに、赤松の『差別の民俗学』(筑摩書房、2005年7月)という本がある。赤松は例えば、次のように批判する。「柳田系民俗学の最大の欠陥は、差別や階層の存在を認めようとしないことだ。いつの時代であろうと差別や階層があるかぎり、差別される側と差別する側、貧しい者と富める者とが、同じ風俗習慣をもっているはずがない。差別する側、富める者は、どうすれば自分の優位を示せるかを、いつの場合でも最大の関心にしている」(165ページ)。
〇赤松にあっては、民俗学は、伝承(「口頭伝承」「民間伝承」)や民俗に内在する階級性や差別論理と切り結び、それを読み解くことに意味があり、避けがたい必然がある。そして、日本社会の重層的な差別構造を見据えて、「解放の民俗学」を標榜し、「実践の民俗学」に執着する。赤松はいう。「一般の民俗学と、私たちの民俗学はどこが違うのか。権力や行政の民衆支配に協力するための調査、学術的研究のためという学閥的、また立身出世型のタネ探し、そうしたものがこれまでの民俗学であったといえる。(中略)解放の民俗学は、立身出世や金儲け、憐憫(れんびん。情けをかけること)などとは無縁のものである。あらゆる底辺、底層からの民俗の堀り上げ、掘り起こし、その人間性的価値の発見と、新しい論理、思考認識の道を開くということであろう。しかし、それは今後においても、とうてい平坦な道ではありえないのである」(116~117ページ)。
〇唐突であるが、ここで想起されるものに、岡村重夫(おかむら・しげお、1906年~2001年)の論稿「福祉と風土―民俗としての福祉こそ基底―」がある。日本生命済生会社会事業局発行の雑誌『地域福祉』1976年3号(通巻121号)、1976年7月、4~9ページに掲載されている。岡村がそこで指摘することは、「われわれの社会生活や個人意識は、強く日本の風土によって規定される事実、従ってまたその共同生活を基盤とする社会福祉も、日本特有の風土性をもつという事実」(6ページ上段)である。
〇岡村はその論稿で、「民俗としての福祉」について概念規定はしない。ただ、福祉を「生活の次元」で捉えれば、福祉は風土によって規定され伝承された共同生活上の「生活の知恵」「生活の工夫」であり、「風土の産物」である、とする。次の一節を引いておく。

福祉とは、すぐれた人々の日常生活上の困窮に対する地域住民の共同的な援助に由来するものであると考えるならば、それは、人々の日常生活のいとなまれる環境、すなわち歴史的であると同時に空間的、自然的な風土との関連を無視することはできないであろう。社会福祉は政府の政策である以前に、すでに生活者が共同生活を守るために工夫した、いわば「生活の知恵」であった。(4ページ下段~5ページ上段)

主として輸入文化に支えられた官製社会福祉や専門家の社会福祉論と、民俗としての社会福祉も、また二重構造的に考えられるけれども、重要なことは、民俗としての福祉こそが基底となって、その上に社会福祉政策や社会福祉文化が消長するということである。福祉の風土とは、まさしくこの基底部分であると考えられる。そしてこの基底部分が掘りくずされ、分解しないためには、外来の上部構造に対して、生活者の見解を対置させ、近視眼的な専門家や法律を鋭く批判しなければならない。(9ページ下段)

〇古くは一番ケ瀬康子(いちばんがせ・やすこ、1927年~2012年)の指摘(「社会事業諸技術の文化的基盤」『社会事業』1958年2月号、全国社会福協議会)を引用するまでもなく、欧米の社会福祉やソーシャルワークの理論や思想、価値や倫理については、直輸入的に摂取し定着を図るのではなく、日本の文化や風土、日本人の国民性、社会構造や生活環境の特質などを十分に踏まえた日本的展開が求められる。ここで思い起こしておきたい。安易な輸入理論や思想(なかでも周回遅れのそれ)への依存には、十分注意すべきである。
〇ところで、「1976年」と言えば、岡村重夫の「福祉教育の目的」と題する論稿を思い出す。それは、伊藤隆二・上田薫・和田重正編著『福祉の思想・入門講座 ③福祉の教育』(柏樹社、1976年4月)の13~36ページに収められている。そこで岡村は、「福祉教育」は社会福祉の専門的知識や技術をもった福祉事業従事者を養成する「福祉専門教育」ではなく、一般市民の地域社会における福祉問題や社会福祉に対する関心を高めるものである(「福祉一般教育」)として、次のように述べている。

福祉教育の目的は、単に現行の社会福祉制度の普及・周知や「不幸な人びと」に対する同情をもとめることではなくして、社会福祉の原理ともいうべき人間像ないしは人間生活の原点についての省察を深めることであり、この省察にもとづく新しい社会観と人類文明の批判をも含まなくてはならないであろう。さらに言うならば、このような新しい社会観や生活観にもとづく具体的な対策行動の動機づけによって、福祉教育の目的は完結するものである。(19~20ページ)

〇そして、岡村にあっては、「真の福祉教育の目的」は具体的に以下の3点に集約される。そのなかで岡村は、次のように厳しく指摘する。福祉教育において「外在的な社会制度の欠陥を指摘する場合に、自分の内面的な偏見や人間観を自己批判することなしに、(あるいは)ひとの内面的文化を問うことなしに、単なる同情心や恩恵をよりどころとした『外面的福祉』の世論を造成することは、(それが)実現すればするほど福祉サービスの対象者は『気の毒なひと』として一般社会から疎外される結果になり終わり、福祉教育の目的は自己矛盾に陥らざるをえない」(34ページ抜き書き)。いまだに観念的な「福祉の心」や「思いやりの心」を育成する福祉教育が叫ばれ、その表層的な実践が展開されているなかで、改めて強く認識すべき指摘である。

(1)福祉的人間観の理解と体得
社会福祉は、その根底において独自の人間観に支えられねばならない。社会福祉の人間観は、社会的=全体的=主体的=現実的存在としての人間像である。この人間像の基礎にある仮説は、すべての個人が生活者であり、生活はいかなる場合にも、自己自身を貫徹してやまないということである。社会福祉の人間観は、抽象的に、あるいは観念的に「人格の尊厳」を主張するのではなく、具体的な生活者としての個人の重み、生活の重みを主張するものである。(31~32ページ抜き書き)
(2)現行社会制度の批判的評価
現在の社会制度によって福祉的人間性を無視せられ、そのような人間像による自己実現を妨げられている個人の生活実態を明らかにしなくてはならない。福祉教育の目的は、現行の社会制度から疎外され、「社会的・全体的・主体的・現実的な人間像」実現の機会を奪われている人が、どこに、またどれだけいるかを認識させることでなくてはならない。このことによって、福祉教育は、単なる人間観の教育よりすすんで具体的な教育目標をもつことができる。(33ページ)
(3)新しい社会福祉的援助方式の発見
福祉は本質的に社会福祉である。その「社会」とは、対等平等の個人によって形成される共同社会(コミュニティ)であり、社会福祉は、「慈善」や「施し」ではなくて、対等平等の個人が相互に援助し合う相互援助を本質とする。対等平等の個人が、全体的な自己実現の機会を提供されるように組織化された地域共同社会において、人びとはサービスの客体であると同時に主体にもなりうるような相互援助体系こそ、福祉的人間観から発展する新しい社会福祉体系である。その体系のなかで社会の果たすべき責任と個人の果たすべき責任とを明確にすることが福祉教育の第三の目的である。(35ページ抜き書き)

〇「民俗としての福祉」は、岡村の着想を手がかりに、今後洗練されるべき「形成途中の概念」(岡田哲郎)であると評される(福山清蔵・尾崎新編著『生のリアリティと福祉教育』誠信書房、2009年3月、180ページ)。また、「生活主体者の論理」を強調する岡村理論には、地域福祉の主体形成や福祉教育についての論究がほとんどみられないと言われる。そんななかで、「生活の知恵」「生活の工夫」としての「民俗としての福祉」という概念の明確化を図る。個人の社会生活の実態を生活者の目線に立ち、国の政治や経済とは別の角度や位相から捉え直す。そして、それを基底として地域住民の「相互援助の地域共同社会」に対する理解やそれに基づく行動のあり方を問う。それがいま、「福祉教育」実践や研究に改めて求められるひとつの歴史的・社会的視点や認識であろう。岡村の「民俗としての福祉」と「福祉教育の目的」の「1976年論文」は、その点においても注目すべき論稿(論考)である。「民俗としての福祉」と「(市民)福祉教育」の親和性・関連性に留意したい。
〇「人間(「民」)が遺伝的に獲得したもの以外はすべて文化」であり、「俗」である。それゆえに、民俗学はすべての学問の基底に位置づく。民俗学は非普遍や非主流、非中心などの民俗事象を研究対象とする。それゆえに、民俗学は「グラスルーツ(草の根)の学問」とも呼ばれる。また民俗学は、普遍や主流、中心などとされる側の基準によって形成された知識体系を相対化し、それを乗り越える知見を生み出そうとする学問である(島村恭規、30、256ページ)。「民俗としての福祉」の延長線上に「福祉民俗学」が構想されるとすれば、それは一面においてこうした民俗学に通底するものであろう。そしてそこに、生活主体者としての一般市民に対する福祉教育の新たな論理が見出される、あるいは見出すべきであろう。
〇なお、「福祉民俗学」を提唱するひとりに柴田周二(しばた・しゅうじ)がいる。柴田にあっては、「『福祉民俗学』を提唱する主たる理由は、福祉文化の基礎としての自立と協同の人間関係の根底に存在する、福祉をうけることを権利とする個人の協同を支える小集団をいかに形成するか、あるいはそれが形成されるための課題は何かを探究することである」(『福祉文化研究』Vol.24、日本福祉文化学会、2015年3月、63ページ)。別言すれば柴田は、「福祉社会を支える福祉文化の基礎を個人の自立と協同の人間関係とそれを支える小集団の形成に求め、福祉文化のあり方を、制度面だけでなく、人々の生活態度の面から考察する学問を『福祉民俗学』として位置付け、その方法と課題について」考察する(『人間福祉学研究』第10巻第1号、京都光華女子大学、2017年12月、8ページ)。
〇また、六車由実(むぐるま・ゆみ)は、「介護現場は民俗学にとってどのような意味をもつのか?」、「民俗学は介護の現場で何ができるのか?」という二つの方向性から問題提起をしようとして「介護民俗学」を掲げる。その際の問題意識のひとつは、「民俗研究者が地域で行っている聞き書きや調査が、地域の高齢者の介護予防につながる地域資源になりうるのではないか」ということにある(『驚きの介護民俗学』医学書院、2012年3月、6、227ページ)。本稿の最後に、六車の次の一節を引いておくことにしたい。

これまで民俗学は、地域の民俗の保存とそれを使った地域活性化という点で、地域づくり、まちづくりには積極的に関わってきた。高齢化がますます進み、在宅介護が地域における切実な問題となる今後は、このように高齢者が地域で暮らしていくことを支える介護予防事業に関わっていくことが、実践的な学問である民俗学に対して求められていくのではないだろうか。/だが、一方で私は、「介護予防」という言葉に少なからぬ違和感を覚えている。/介護予防という言葉には、介護は予防されるべきもの、という考え方が露骨に反映されている。/要介護状態になることは人間にとっては誰しもが迎える普遍的なことであり、(中略)介護を問題化するのではなく、介護を引き受けていく社会へと日本社会を成熟させていく(ことが必要である。)/そこで私は、「介護準備」という言葉を使ってみたい。(227~228ページ)

付記
阪野貢「『民俗としての福祉』×『福祉教育の目的』―岡村重夫の『1976年論文』―」市民福祉教育研究所ブログ〈ディスカッションルーム〉(90)2021年3月23日アップ。
阪野貢「『民俗としての福祉』と『福祉教育の目的』―岡村重夫の『1976年論文』を起点に―」『ワンポイントメモ35+3 まちづくりと市民福祉教育―視点と論点―』(追補版)市民福祉教育研究所、2022年7月、8~13ページ所収。

謝辞
本稿を草するに際しては、日本福祉大学の副学長・原田正樹先生と付属図書館にご高配を賜った。記して感謝申し上げます。

 

 

阪野 貢/多様な考え方や価値観を持つ人たちとのコラボレーション ―アダム・カヘン著『敵とのコラボレーション』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、「紛争解決」「変革」「世界的」ファシリテーターなどと評されるアダム・カヘン(Adam Kahane)の『敵とのコラボレーション』(小田理一郎監訳・東出顕子訳、英治出版、2018年10月。以下[1])という本がある。サブタイトルは「賛同できない人、好きでない人、信頼できない人と協働する方法」である。かつて『手ごわい問題は、対話で解決する』(ヒューマンバリュー訳、ヒューマンバリュー、2008年10月)を著したアダムが[1]で、「対話は最大の関心事ではない」(9ページ)、「対話が最善の選択肢ではない」(182ページ)という。「協働や対話の伝道師」とも評されてきてアダムのこの言葉に、驚きを禁じ得ない。
〇[1]でアダムは、多様化・複雑化、分断化・孤立化、それゆえに「敵化(enemyfying )」(自分ではなく相手に問題の原因や責任を求め、相手を自分の敵と見なす姿勢や態度)が進む現代社会にあって、(1)サブタイトルにあるように、賛同できない人・好きでない人・信頼できない人たちと如何に協働し問題解決を図るかを提起する。(2)問題解決に際して協働や対話が必ずしも最善の選択肢ではなく、それ以外にどのような選択肢があるか、協働やそれ以外の選択肢はどのようなときに有効に機能するかについて論述する。そして(3)従来型のそれを超える新たなコラボレーション(Collaboration、協働)、すなわち「ストレッチ・コラボレーション(Stretch Collaboration)」とその実践方法(手法)について提示する(188~189ページ)。
〇上記の(1)に関して、「従来型の窮屈なコラボレーション」をめぐるアダムの言説、その一部をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

これまでのコラボレーションの想定
従来のコラボレーションの解釈は、みんながみんな同じチームの一員となって、同じ方向をめざし、こうなるべきと合意して、必ずそうなるようにし、必要なことをみんなにさせるというものだ。つまり、コラボレーションは統制下に置けるものであり、そうしなければならないという想定がある。(24ページ)

これまでのコラボレーションの難題
コラボレーションの難しいところは、前に進むためには、賛同できない人、好きではない人、信頼できない人も含め、他者と協力しなければならないが、一方、背信行為をしないためには、そういう人々と協力してはいけないということだ。この難題はますます深刻になっている。(37ページ)
(コラボレーションにおける)上位の者が下位の者を変えるという根本的に階層制に根差した前提は、誰をも自己防衛に走らせてしまう。人は変化が嫌いなのではなく、変化させられるのが嫌いなのだ。(67ページ)
コラボレーションの困難は、一つの正しい答えがあるという前提をもつことから始まる。正しい答えを知っていると確信していると、他者の答えを受け入れる余地がほとんどなくなってしまうので、協力するのがいっそう難しくなる。(72ページ)

〇現代社会の個人主義化や多様化が進み、それに伴って変動性(Volatility)、 不確実性(Uncertainty)、複雑性(Complexity)、曖昧性(Ambiguity)が増すいわゆるVUCA(ブーカ)の時代にあるなかで、従来のコラボレーションの難しさ(難題)についてアダムはいう。「従来のコラボレーションの想定は間違っている。複雑な状況で多様な人々と一緒に仕事をする場合、コラボレーションはコントロールできるものではないし、そうする必要もない」(24ページ)。「従来のコラボレーションは時代遅れになってきている」(77ページ)。「慣れていて、安心感があるから、うまくいくと知っているからという理由で、従来型コラボレーションを採用してしまうと、むしろ敵化が増大し、状況をさらに手に負えなくしてしまう」(78ページ)。そこでアダムにあっては、非従来型のアプローチによるコラボレーション、すなわちコントロールせず、実験しながら共に学び前進する方法(「合意なき前進」を可能にする方法)を採用する必要がある。それは、「従来型コラボレーションを包含し、またそれを超えるストレッチ・コラボレーション」(92ページ)である。
〇上記の(2)に関して、「問題の複合する状況に対する4つの対処法」をめぐるアダムの言説、その一部をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

問題の複合する状況に対応する4つの選択肢
問題の複合する状況に直面しているときは常に、4通りの反応、すなわちコラボレーション、強制、適応、離脱の選択肢がある。常にこの4つの選択肢から選ぶ必要がある。(53ページ)
コラボレーションを試みるのは、置かれている状況を変えることを望み、かつ他者と協力して(多方向的に)変える以外に変化を実現する方法がないと考える場合だ。
コラボレーションのプラス面(チャンス)は、他者と協力して、より効果的な打開策を見つけ、今の状況にできるかぎり大きく、持続的な影響を及ぼす点にある。しかし、コラボレーションは特効薬ではない。そのマイナス面(リスク)は、実り少なく、遅々として進まない。大幅に妥協する、相手側に取り込まれる、自分たちにとって最も重要なことを裏切るという結果になることだ。(53~54ページ)
強制を試みるのは、今の状況を他者と協力せず(一方的に)変えるべき、あるいは変えられるかもかもしれないと考える場合だ。
強制のプラス面は、それが多くの人にとって自然で習慣的な考え方と一致するという点にある。マイナス面は、自分たちがなすべきだと考えていることを押し通そうとすれば、違う考えの人たちに押し返され、それによって意図する結果を達成できないことだ。(54、56ページ)
適応を試みるのは、今の状況を変えられないから、それに耐える方法を見つける必要があると考える場合だ。
適応のプラス面は、変えられないものを変えようとすることにエネルギーを費(つい)やさずに何とか生きていける点にある。マイナス面は、身を置いている状況が過酷だと適応できなくなり、生き残るだけで必死という事態になることだ。(56~57ページ)
離脱を試みるのは、今の状況を変えられず、もはやそれに耐える気もないという場合だ。離脱が簡単で気楽な場合もあれば、自分にとって重要な多くのことをあきらめなければならない場合もある。(57ページ)

〇アダムにあっては、複雑化・複合化した問題を解決する方法には、「コラボレーション」「強制」「適応」「離脱」の選択肢がある。多くの人は、人間が関係的・依存的存在であることから、コラボレーションを定番の・最善の選択と考えがちであるが、選択肢のひとつに過ぎない。コラボレーションの選択は、「力」という実用的な観点から言えば、「それが目標を達成する最善の方法である場合」に限られる。「一方的な選択である強制と適応と離脱が不可能で、受け入れ難い場合」に、多方向的な選択であるコラボレーションを選ぶことになる。「関係者の力が互角で、誰も意志を押しつけられない場合」のみコラボレーションが選択されるのである(58ページ)。
〇上記の(3)に関して、「ストレッチ・コラボレーション」をめぐるアダムの言説、その一部をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

新しいコラボレーションの方法―3つのストレッチ―
(これまでとは違ったコラボレーションの推進を図るためには)従来のコラボレーションの概念を引き伸ばし(視野の広い考え方を持ち)、根本的に取り組み方を変えること(「ストレッチ」)が求められる。
第1に、他の協働者(コラボレーター)との関係について、チーム内の共有目標と調和を重視するという狭い範囲に集中することから抜け出し、チーム内外の対立とつながりの両方を受け入れる方向に広げていかなければならない。
第2に、取り組みの進め方について、問題、解決策、計画に対する明確な合意があるべきと固執することから抜け出し、さまざまな観点や可能性を踏まえて体系的に実験する方向に広げていかなければならない。
第3に、状況にどう関与するか、すなわち私たち自身が果たす役割について、他者の行動を変えようとすることから抜け出し、自分も問題の一因であるという意識で状況に取り組み、自身を変えることを厭(いと)わない方向に広げていかなければならない。(25~26ページ)

「関わること(つながり)」と「主張すること(対立)」―その相補性―
調和のとれた(「愛」すなわち「統一の衝動」による)関わりは受け入れるが、調和しない(「力」すなわち「自己実現の衝動」による)主張(競争、論争、運動、訴訟など)は拒否する。これを続ければ最後には自分たちが問題解決に取り組んでいる社会システムを窒息させることになる。(106、110~111ページ)
従来型コラボレーションは関わることに重きを置き、そのために主張する余地がないから、コラボレーションが硬直化して弾力性を失い、壊れやすくなる。麻痺状態に陥り、行き詰まる。それとは対照的に、ストレッチ・コラボレーションは、関わることから主張することへ、またその逆へと生成的に循環し、社会システム――家族、組織、国家など――をより高いレベルへ進化させる。(119ページ)
関わることが屈服をもたらし、相手を操作する恐れがあるなら、主張を促進するときだ。主張することが抵抗をもたらし、相手に強要する恐れがあるなら、関わりを促進するときだ。大切なのは、静的なバランスの位置を保つのではなく、動的なアンバランスに気づき、それを修正することなのだ。(ストレッチ・コラボレーションに求められる)関わることと主張することの両方を使うスキルとは、注意を怠らず、勇気をもって必要なら逆方向に動けるようにすることだ。(121ページ)

〇「3つのストレッチ」は要するに、①「対立や偽りのない関係をオープンに受け入れること」(多様性を受け入れること)、②「うまくいかないかもしれない不慣れな新しい行動をやってみること」(試行錯誤すること)、③「現状に対する自分の役割と責任を引き受けること」(我が事にすること)、である(83ページ、丸括弧内は筆者)。換言すれば、①「多様な他者と協働するときは、一つの真実、答え、解決策への合意を要求できないし、要求してはならない」こと(同じ方向をめざす必要はない)、②コラボレーションの成功とは、参加者が互いに賛同するとか信頼するということではなく、「行き詰まりから脱して、次の一歩を踏み出すこと」(それぞれの解決策を試みる)、③誰かに、何かをさせるのではなく、「自分の役割と責任を見つめ、認めて、自分の仕事を進めていくこと」(共創者として自分にできることを行う)、となろう(76、135、161ページ、丸括弧内は筆者)。
〇以上のうち、第3のストレッチ(③)はアダムにあっては、「最大のストレッチ」である。その状況・事態(「舞台」)に自分の身を置き、行動すること(「ゲーム・フィールドに足を踏み入れること」)は、傍観者ではいられないし、他責にすることもできない。それは、「隔たりと行動の自由が減り、つながりと対立が増えるということであり、スリルや怖さを感じることにもなりえ」(153ページ)、「快適ではない」(81ページ)。そうしたなかで、ストレッチ・コラボレーションの参加者(共創者)には如何なる姿勢や態度が求められるか。アダムは次のようにいう(抜き書き)。

目標は、非の打ちどころのないコラボレーションをすることではなく――社会活動では、そんなことは不可能だろう――自分のしていること、自分が及ぼしている影響への自覚を高め、より迅速に行動修正し、学べるようになることだ。ストレッチを学ぶときに直面する第一の障害は、習慣的な物事のやり方の慣れ親しんだ快適さに打ち克つことだ。「こうあらねば」という平叙文から「こうもできそうだ」という仮定文に移行する必要がある。ストレッチ・コラボレーションでは、異質な他者(賛同できない人、好きでない人、信頼できない人)から遠ざかるのではなく、そういう人に向かっていくことが求められる。敵は最大の師になりうるのだ。(180、181ページ)

〇異質な他者と正面から向き合い、「関わること」と「主張すること」(「関与」と「敵対」、「愛」と「力」)はアダムにあっては、「複雑な問題を進展させるための手段として対立するものではなく、補完し合うもの、どちらも正当で必要なもの」(102ページ)である。アダムの主張の要点のひとつである。

阪野 貢/「コミュニティ・オーガナイジング」考―そのプロセスとステップ―

〇筆者(阪野)の手もとに、「コミュニティ・オーガナイジング」に関する本が2冊ある。マシュー・ボルトン著/藤井敦史(ふじい・あつし)ほか訳『社会はこうやって変える!―コミュニティ・オーガナイジング入門』(法律文化社、2020年9月。以下[1])と鎌田華乃子(かまた・かのこ)著『コミュニティ・オーガナイジング―ほしい未来をみんなで創る5つのステップ』(英治出版、2020年11月。以下[2])がそれである。
〇[1]は、「現状に怒りを覚え、それに対して何かをしたいと考えている人、社会システムに不満を抱いている人、国の行く末に不安を覚えている人のためのもの」であり、「自分の信じていることに対してどのように変化を生み出していくことができるかについて書かれている」(1ページ)。[2]は、「世の中のできごとに『何かがおかしい』と思ったり、暮らしている地域の問題に気づいたり、今の日本社会や政治の状況にもやもやしたものを感じたりしている人に、少しでも、その状況を変えられるかもしれない、と思ってもらうために」(1ページ)書かれたものである。[1]と[2]はともに、「コミュニティ・オーガナイジング」の手法や本質について具体例を交えながら解説(説述)し、それを通して「社会を変える」「ほしい未来をみんなで創る」プロセスや方法を解き明かす。
〇[1]における基本的な概念のひとつは、「パワー」と「自己利益」である。「パワー」についてボルトンはいう。社会の変革と民主主義の刷新を図るためには、日常的な生活における「パワー」(課題を解決する能力、影響力を発揮する能力)が必要不可欠である。市民は誰もが、何らかのパワーを持っている。市民は、正義や道徳的正しさを振りかざして政治や社会に対する批判や糾弾に終始したり、限定的で象徴的な抗議活動や政治運動を展開したりするのではなく、自らのパワーの形成・向上に努めなければならない。その際、権威や権力、組織や資金などを持たない多くの市民にとっては、異質な人々や団体・組織などとの関係性(信頼関係、協働関係)を構築・拡大することが肝要となる。そこにパワーが生み出される。そして、社会変革は、「小文字の政治」(政府レベルでの意思決定をめぐる『大文字の政治』ではなく、ローカルな領域で共通の課題をめぐってなされる市民間の協議や意思決定)によって可能となる(27ページ)。
〇「自己利益」についてボルトンはいう。社会変革への市民参加は、自分の利益を度外視したものではなく、先ずは個人的で具体的なニーズや動機による「自己利益」に基づく。その個人的な利益は他の人々との個人的な利益と結びついており、そこから自己利益の共通部分すなわち公共的な利益が見出されることになる。そして共有された自己利益が他者や団体・組織などとの関係性と、それに基づくパワーを創り出す。共通の自己利益によって、「人々は、偏見のバリアを越えて、連携することができ」、それが「健全な民主政治のために必要とされる幅広い連帯感情の基盤」となるのである(41ページ)。要するに(平易に言えば)、社会を変えるためには関係性に基づく市民の力(パワー)が必要であり、自己利益につながっている課題こそが市民の行動やアクションを促す。これがコミュニティ・オーガナイジングの起点となる考え方である。
〇ボルトンは、コミュニティ・オーガナイジングのプロセスについて次のように述べる。図1は、「コミュニティ・オーガナイジングのプロセス」を表示したものである。

もし変化を望むのならば、パワーが必要だ。共通の利益をめぐって、他の人々との関係を通してパワーを構築するのだ。そして、共通に直面している大きな(抽象的な)問題を(解決可能な)具体的課題に分解し、必要な変化を作り出せるパワー(権力、影響力)を持っている意思決定者が誰なのかを特定することが重要である。それから、意思決定者の反応(リアクション)を引き出すアクションを起こして、彼らとの関係を構築する必要がある。もし、彼らが変化を実行することに同意しないのであれば、アクションのレベルを上げるか、より創造的な戦術を駆使することになる。そして、実践しながら学び、徐々に小さな成功体験を積み重ねながら、より大きな課題に対する準備を進めていく。こうした戦略を可能にするために、コミュニティ・オーガナイジングと呼ばれるアプローチを構成する一連のスキルやツールが存在している。(3~4ページ。丸括弧内は筆者)

〇以上が、[1]におけるボルトンのコミュニティ・オーガナイジング論から筆者が押さえておきたい論点や言説である(パワーとアクションに関する実用的なスキルやツールについては省略)。社会変革を生み出すためのコミュニティ・オーガナイジングの方法、その原則についてボルトンはいう。「正義は、それを実現するパワーがある時だけ手にすることができる」(24ページ)、「自分でできることをしてあげてはならない」(120ページ)。別言すれば、「正義を追求・実現するためにはパワーが必要である」、「他の人の能力を高める・自分でできることは自分でする」、それが社会を変えるのである。そしてボルトンは、「コミュニティ・オーガナイジングの文化は個人の絶望や挫折を集団的な怒りや変化へのパワーへと変えることを目的としている」(132ページ)と述べる。核心の一言である。
〇[2]は、世の中の出来事について「仕方がない」と諦めてしまうのではなく、「仕方がある」ことを知って社会を変えていく方法論、すなわちコミュニティ・オーガナイジングについて解説する。それは、鎌田にあっては、「仲間を集め、その輪を広げ、多くの人々が共に行動することで社会変化を起こすこと」(1~2ページ)と定義づけられる。
〇[2]で注目すべきは、コミュニティ・オーガナイジングの「5つのステップ」である。その要点をメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。ページ表記省略)。図2は、「コミュニティ・オーガナイジングのステップ」を表示したものである。

(1)共に行動を起こすためのストーリーを語るパブリック・ナラティブ
まず自分自身のナラティブ(物語)を語ることによって自分の想い(私のストーリー)を他者に伝え、それを他者と共有して一体感(私たちのストーリー)を作り出し、共有した価値観のもとで、いま共に行動する必要性や理由(行動のストーリー)について語る。
(2)活動の基礎となる人との強い関係を作る関係構築
ひとつひとつのアクションを振り返り(すなわち学びながら行動し)、それぞれが持つ関心や資源を交換し、そのためにも一対一(フェイス・トゥ・フェイス)の対話を重視することによって価値観を共有し、人との強いつながりを作る。
(3)みんなの力が発揮できるようにするチーム構築
多様性に富んだメンバーで共有する目的を作り、みんなの約束事(合意事項)を設定し、相互依存に基づく役割を明確にすることによって計画したゴールが達成され、チームワークが向上し、活動に参加しているメンバー個人が成長するチームを作る。
(4)人々の持つものを創造的に生かして変化を起こす戦略作り
①一緒に立ち上がる人(同志)は誰か、②ほしい変化(戦略的ゴール)は何か、③どうしたら持っているものを必要な力(問題解決能力)に変えられるか、④戦術(戦略を具体的に実行する手段)は何か、⑤(時間枠のある)行動計画は何か、に応える効果的な戦略(方向性・シナリオ)を立てる。
(5)たくさんの人と行動し、効果を測定するアクション
小さなことから安心して・安全にチャレンジできる場を用意したり、多様な視点や意見を出し合って自由闊達に議論できる場を設定したりしてリーダーシップ(他者と関係を作り、他者の力を引き出し、他者を動かす能力)を育み、よりたくさんの人をアクションに誘うとともに、一連の行動やプロセスを振り返る。

〇こうした「5つのステップ」(実践)を支えるのは、「コーチング」である。鎌田はいう。コーチングは、①より前向きに仕事に取り組むために行う。②成果を達成するための資源の使い方を分析・評価できるようにする。③知識やスキルを強化するために行う、のである。そして、コーチングを受けることによって、またチームメンバー同士がコーチングすることによって、主体的に動けるリーダーや自分で考えて行動できる人が育っていく(231ページ)。
〇以上が、[2]における鎌田のコミュニティ・オーガナイジング論の骨子である(具体的な方法や手法については省略)。その基本的な考え方は至ってシンプルである。自分たちが暮らす地域・社会を自分たちの選択と行動によって創造あるいは変革する(より健全な市民社会を創る)ためには、人々の間に関係性を作り、草の根のリーダーシップを育て、共に行動する(コミュニティを作る)ことが肝要となる。そしてそこでは、解決や変化を求めて「行動する人」(コミュニティ・オーガナイザー)の育成・確保が問われる。その際のコミュニティ・オーガナイザーとは、「困難に直面している人たちをオーガナイズ(組織化)して、その人たちの持っているものを使って、パワーを作り出し、問題の解決を促す人のこと」(63~64ページ)をいう。
〇「困難を抱える人々が変化の源」(63ページ)である。一般市民がアクション(活動や運動)を起こして社会変革を促す。そのための方法や行動である「コミュニティ・オーガナイジングを日本社会にも広めていかなければならない」(4ページ)。これが鎌田の考えや願いである。「まちづくりと市民福祉教育」について探究する筆者のそれと通底するところでもある。
〇改めて強調しておきたい。「コミュニティ・オーガナイジングは、いつも次の質問から始まる。あなたは何に怒りを覚えるのか」([1]18ページ)。「人を行動(コミュニティ・オーガナイジング)に動かす原動力は『怒り』である」([2]92ページ)。