阪野 貢 のすべての投稿

札幌五輪誘致に反対する

札幌冬期五輪誘致に向けて 市は大会概要案を29日公表した
大会経費2千800億~3千億円 市の負担は450億円
運営費を2千億~2千200億円と見込んだ
運営費はスポンサー収入などでまかなう 
税金は原則投入しないと明記した
取らぬ狸の皮算用 そうならない時の保険はない
札幌市内だけではなく 全道各地で種目を担う分散大会
だから全道規模でアンケート調査を実施するという
結果は誘致の是非にはならぬという怪奇な調査
高い経費と手間をかけ いいとこ取りして誘致の正当化を図る

札幌五輪誘致に反対する
一つは 五輪をなぜ開催するのか
東京五輪に見たIOCの露骨な商業主義と高圧的な態度が目に余る
五輪憲章すら踏みにじるIOCに加担することは許されない

二つに 東京五輪の経費を含めた検証が済んでいない
膨大に膨らんだ経費は 都民の意向を無視して負担される
経費圧縮を叫んで誘致した者たちは みな本番までには辞任した
誘致した責任は 見事に拡散しあやふやとなった
8年後の政治と経済の動向を予知することは出来ない
秋元克広市長も そのときにはその職にはいないだろう

三つに 必ず金儲けの美味しい話で道民を釣る
リスクを隠し 経済効果を煽り立てる
これこそ商業主義化した五輪の本質ではないか
東京の惨敗を見ても 学べぬ者たちの楽観主義が怖い

四つに IOCは「クライメート(気候)・ポジティブ」を義務づける
具体的にはまだ示していないが 対策経費が必要となる
冬期間暖房が欠かせない北海道の現状を把握すべきであろう
その上でリスクが生まれてきたなら 道民に規制を強いるのか

五つに 誘致の気運が高まるとは思えない
IOCの貴族気取りの金の亡者を 札幌に招くことなど許されない
IOC主導の東京大会に嫌悪感を憶えた人は 反対の意を示すだろう
国すら手玉に取るIOCは 札幌など赤子の手をひねるほど簡単だ
IOCの横暴な振る舞いを 決して許してはならない
その空気を察して アンケート調査で盛り上げたいと画策する
なんと見え透いたお粗末な企てか

目的を見失い アスリートを巧みに利用したIOCの卑劣さ
緊急事態宣言の最中 反対の声を踏み潰し強行したIOCと言いなりの国
五輪の恥部を見せつけた東京の教訓を 決して忘れてはならない

※「クライメート(気候)・ポジティブ」:地球温暖化の原因となる温室効果ガスの削減量が排出量を上回ること。

〔2021年11月30日書き下ろし。IOCの金権主義に懲りずに誘致を進める札幌市。アンケート調査も既成事実を積み上げるだけのこと。五輪の目的を歪ましたIOCを拒否する〕

付記
道民調査で招致是非決めず 30年札幌五輪で市方針 議会、他都市の意向参考
札幌市は2030年冬季五輪・パラリンピック招致に向け、来年3月にも全道規模で行う住民アンケートについて、結果だけで招致の是非を決めない方針を固めた。秋元克広市長は15日の定例記者会見で「(結果は)非常に大きなウエートを占める」と述べる一方、市議会や道内他都市の意向なども踏まえて最終判断する考えを示した。19年試算から最大900億円削減する開催経費は「招致決定後に増えることは許されない」と強調した。
住民アンケートは、20歳以上を対象に実施する。秋元市長は全道規模とする理由を「帯広市なども競技会場となるほか、冬場の観光客誘致など道内全体への効果も期待しており、道民の意向を把握したい」と説明。郵送やインターネットによる調査を検討し、世代や性別などのバランスを考慮する。(北海道新聞2021年11月16日)

旅の友老いる

旅には必ず同伴させた
こいつとのつきあいも
丸五年過ぎた

コロナ禍で旅は激減した
こいつも少し骨休みができたと思った
動き回った旅の疲れは取れなかった

たった五年で老いてゆく
いいやつだったが反応が遅くなった
しまいに固まって手こずらせた

入力するたびにストレスになった
すでに寿命が来ていた
ネット検索だけは現役だった

旅先で原稿を書くのは難しい
浮かんだ言葉が消えてゆく
旅の友との縁も切らねばならない

PCの劣化は商業ベースで消費を促す
Windows11もこのタイミングできたか
さてさて思案の時を迎えた

消費時代に生きた世代は新製品に弱かった
購買欲を刺激され新しいものを求め続けた
ワープロからPCまで14台を消費した

これから五年どれだけ旅があるというのか
モバイルを持ち歩く仕事があるというのか
そこにものほしげな自分がいた

〔2021年11月29日書き下ろし。レスポンスが劣化して買い換えを迫られた。ただ動いているだけ有難い。最後まで頑張ってもらおうか〕

オミクロン株の脅威

南アフリカ・ハウテン州 首都プレトリアやヨハネスブルクがある
新型コロナウイルスの新変異株が 見つかった
隣国ボツワナや香港 さらに欧州へと拡散している
イギリス・ドイツ・イタリア・オランダでも 見つかった

WHOは新変異株「B・1・1・529」を「オミクロン株」と名付けた
免疫を回避する性質や高い感染力を持つ恐れがあるという
再感染の危険性が増すなか 南アからの渡航禁止を告げ防疫体制をしく
最も怖いのは「オミクロン株」は PCR検査で検出不可だという

日本国立感染症研究所は
「細胞への侵入しやすさに関連する可能性がある」という
容易に感染しやすいウイルスに変異してきたということだ
日本は水際の防疫体制の強化が唯一の防御策だ

検出には手間も時間もかかるだろう
感染経路の把握も難しい
飛行機に同乗した客すべての検査もきっと後手となる
過去簡単に突破された検疫が強化されているのか疑わしい

ワクチン接種の証明書などゴミ化する
潜伏期で症状が出なければスルーする
観察期間の縮小で安全性を担保できるはずはない
欧州を含め出入国の厳戒体制に覚悟をもって臨んでほしい

感染が収まっているかのように見えるなか
政治家は取り損ねた金の回収にパーティー三昧
円高でも経済の回復を願ってばら撒かれる国債の札びら
うだつの上がらぬしけた野党の内輪の代表選びの滑稽さ
暢気極まりない世相に活を入れる「オミクロン株」が登場した

新型コロナも易々とは退陣しないしたたかなウイルス
新兵器を開発しては攻撃の手を決して緩めない
追撃兵器の開発は後手に回り犠牲者の山をつくる
北海道の人口に匹敵する
518万8018人(27日現在)の死を無駄にしてはならない
北京五輪も東京以上の感染進撃を受けるかもしれない
IOCバッハと中国国家主席習近平の危機管理が攻撃の的となる

テレビニュースで クローズアップされた男のしたり顔
政治資金回収パーティーをしていた知事だった
何の実績を挙げずとも 誇らしげに壇上で挨拶する
取り巻きたちは おこぼれをもらうのに触手を延ばす
さもしいパーティーの裏で ウイルスは静かに牙をむく

〔2021年11月27日書き下ろし。「オミクロン株」を侮ってはならない。一層の危機管理を強化せねば、国難を招く。政府の危機管理能力は決して高くない。だからこそ検証し穴を埋める対策を迅速に整備しなければならない。なにが政治パーティーだ〕

雪の朝

カーテンを開けた
夜明け頃から降り出したのだろう
窓の下の車は白く化粧していた

19日3番目に遅い記録の初雪だった
みぞれ混じりですぐに消えたという
ちらつく日はあったが積もらなかった

鉛色の空から絶え間なく降り続ける
近景の食品加工会社の看板もかすむ
国道12号線は行き交う車も少ない

重い雪ならドンドン積もる
軽い雪だから大丈夫だろう
車の雪を払うブラシを出すのを忘れていた

道北の町ではすでに1メートルの積雪だという
空知の月形町も昨日44センチ積もったと電話が来ていた
ドカンと降ると後の始末に追われる

ポプラの葉が全部落ちたら根雪になるという
まだ下の方に枯れ葉がはりつく
そういえば今年は雪虫を見ていなかった

異常気象がいつのまにか通常になる
地球の気候がドンドン変わる
暑くても寒くても人の暮らしが叩かれる

窓外はまた降り方が強くなってきた
寒風に乗って冬の到来を告げる
北の暮らしは3ヶ月間雪と寒さにジッと耐える

〔2021年11月27日書き下ろし。3日前から道北では記録的な大雪に見舞われた。小樽も積もった。昨日雪雲は南下して、積雪の多い地方を覆った。今朝は我が家までやってきた〕

いまも生きる五せる

食わせる
選挙で勝った政治家を税金で食わせる国民の無気力さ

飲ませる
国民に煮え湯を飲ませて粋がる政治家たちの傲慢さ

握らせる
権力を握らせていいように懐柔される国民の非力さ

抱かせる
国民に疑念を抱かせて愉しむ政治家たちの豪放さ

威張らせる
俺が俺がの者たちを威張らせておく国民の無干渉さ

投票を棄権した40%の者たち
賢明な判断を放棄した者たち
民主主義の根幹を貶めた者たち
無抵抗のまま支配される者たち
政治を変革できぬそもそもの元凶
主権を守れぬ国民にも非がある

悪しき習いの「五せる」は
またしてもしたたかに生き延びる

〔2021年11月25日書き下ろし。役人懐柔の「五せる」を今風に解釈した。「抱かせる」の本来の意味は卑猥だ〕

仕事を積み上げる

今日は午後から 出版会社で打ち合わせ
1年がかりの原稿を ようやく入稿する
編集指示を出しながらの確認作業は心躍る
装丁にも凝ってみた
納品は2月初めを予定する
恩師の喜ぶ顔を想像するのが一番だ

ここ10日間 出張で忙しかった 
机の上には 送られてきた書類が山となっていた
昨夜ようやく整理が終わった
ポストイットに仕事の期限をメモする
月形町あずましプラン策定委員会で検討される資料のチェック
次に檜山管内の町社協担当者と協議する事業資料のチェック
登別の第4期きずな計画の全市計画素案のチェック
間隙をぬって授業後の学生の感想文へのコメント書き
整理ケースに まずはいったん保管した

12月10日までが 勝負となる積み上がった仕事
期日が来れば終わっていると いつも楽観する
この時期に溜まるのは 承知で動く大事な仕事
地域の暮らしに直結するだけに 気を抜くことは許されぬ 
1月の日程も これらの関連で埋まってゆく
読書三昧の生活からは 当分遠ざけられる

積み上がった仕事があるだけ嬉しい
仕事が終わったらきっと寂しくなる
積み上がった仕事は人生のお駄賃
仕事に打ち込み誠意を尽くそう
積み上がった仕事は関わる人間が魅力だ
仕事ぶりと成果を喜び合いたい

〔2021年11月25日書き下ろし。集中する時にはガッチリやるしかない。段取りがすべてだ。共に動くひとがいるのは最高の喜びだ〕

忍従を強いられる

ホームヘルパーが忍従を強いられている
町内に住む独り暮らしの老女の家事援助
老女はあたってマヒが残った
それでも自宅で暮らしたかった

そこに通うのは苦痛になった
内地に住む娘が時折りやってきては
クレームの限りを尽くす

金を出して雇っている家政婦
命じたままにしなければならない下僕
見下した横柄な態度に心が折れた

怒声を浴びせいたぶる
感謝の欠片もない
割り切れない感情労働

気力は萎み
心は凹んで
意欲は失せる

このままではヘルパーを助けられない
不当な言動に抗議し契約を破棄する
それはできるのだ
ただできないジレンマの中に立たされる

町内にヘルパーの事業所はたった一つ
支援を得られなければ老女は孤立する
頼りの在宅支援ネットはここにしかない

福祉を担う事業所とヘルパーが老女の救い手
福祉の理念を掲げる以上捨て置けない
娘の心ないクレームに老母の心も折れてゆく

大きなジレンマを抱えて在宅支援は危機に瀕する
貴重な福祉の人材が理不尽な言動で離職を迫られる
クレーマー化する消費者意識の高い者たちは
老いた親を日々介護することなく他人に預ける

聴く耳持たぬクレーマーは
今日もどこかでえげつなく吠えている

〔2021年11月24日書き下ろし。小さな町で起こっている事態に苦慮する。えげつない者たちが平然とヘルパーをいたぶる〕

阪野 貢/「弱さ」考―「弱さの強さ」と「強さの弱さ」―

「ある社会がその構成員のいくらかの人々を閉め出すような場合、 それは弱くもろい社会なのである。障害者は、その社会の他の異なったニーズを持つ特別な集団と考えられるべきではなく、その通常の人間的なニーズを満たすのに特別の困難を持つ普通の市民と考えられるべきなのである。」(国連総会決議「国際障害者年行動計画」1980年1月30日採択)

〇筆者(阪野)の手もとにいま、天畠大輔(てんばた・だいすけ)の『<弱さ>を<強み>に―突然複数の障がいをもった僕ができること』(岩波書店、2021年10月。以下[1])と、澤田智洋(さわだ・ともひろ)の『マイノリティデザイン―「弱さ」を生かせる社会をつくろう―』(ライツ社、2021年1月。[2])という本がある。天畠は、四肢マヒ、発話障害、嚥下(えんげ)障害、視覚障害などの重複障害を抱える、「世界でもっとも障害の重い研究者のひとり」である。澤田は、「息子に視覚障害があるとわかってから、『強さ』だけで戦うことをやめた」コピーライターであり、「言葉とスポーツと福祉」が専門の広告クリエイターである。ともに1981年生まれの気鋭のヒトである。
〇[1]で天畠は、生活上の困難(「弱さ」)と徹底的に向き合いながら、独自のコミュニケーション法(「あ、か、さ、た、な話法」)を創り、24時間介助による一人暮らし、大学進学、会社の設立(介護者派遣事業所)、大学院での当事者研究(博士号取得)、全国各地の重度障がい者と介助者の相談支援活動など、自身の人生の軌跡と生き様を紹介する。その際のキーワードのひとつは「当事者力」「当事者研究」である。天畠はいう。「当事者力」とは、「自身の抱える困難<弱さ>を自覚し、社会にその困難<弱さ>と解決の方法を訴えていく力」(182ページ)である。「当事者研究」は、障がい者の生活が制度によって “ 囲われた生活 ” になっている状況を打開し、「個人的なこと」を「政治的なこと・社会的なこと」に結びつける。すなわち当事者研究には、障害の「個人モデル」を「社会モデル」に転換し、社会規範を変える・社会変革を促す障がい者運動を再び活性化させる可能性がある(212ページ)。
〇いまひとつのキーワードは「合理的配慮」であろう。合理的配慮とは、「障がいのある人が、過度な負担を伴わず社会参加の機会を得られるように社会の障壁を取り除き、障がい者に配慮すること」(69ページ)をいう。2016年4月の障害者差別解消法の施行をきっかけに社会で大きく注目を集めるようになった。
〇天畠の「合理的配慮」に関する論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

「弱さ」を「強み」にする「合理的配慮」
介助者の介入ありきで論文を書きあげるという、一般的に考えられている規範(かくあるべきもの)からは外れてしまう自分の「弱い」部分にあえてスポットを当て、逆にそのことの合理性の証明を(個人的なことを徹底的に深堀りする)当事者研究によって実践してきた。そしてそれを発信することで、社会の見方を変え、すでにある合理性の考え方やその境界線を変化させること、ひいては合理的配慮の範囲を広げていくことにも繋がる、という可能性を実感した。/合理的配慮は「与えられるもの」ではない。「でき上がっているもの」でもない。当事者が自分のニーズを発信して、何が合理的であるかを社会と対話しながら、つくり上げていくものなのである。/障がい者が合理的配慮を受けるのは権利であるが、配慮を受けるためには相応の「責任を負う」。(73~74ページ)/「当事者が制度の上にあぐらをかいてはいけない」(74ページ)

介助者と協働で書いた論文は「自分の論文」と言えるのだろうか‥‥‥。介助者の能力に「依存」して、僕は自分の能力を水増しさせているのではないか‥‥‥。僕は論文執筆における「能力の水増し問題」に長く苦しめられることになった。(130ページ)/僕は「介助者と協働で論文執筆する研究方法」にみずから疑問を持ちながら、介助者と協働で博士論文を書き上げた。しかし、ある意味自分の<弱さ>と徹底的に向き合っていく作業ともいえるその過程で、誰しもが自分一人の能力で生きているわけではない、ということに気がついた。ちなみに僕は<弱さ>という言葉を、社会的規範からはみ出てしまうこと、それに付随する生きづらさという意味で使っている。(131ページ)

僕は常に介助者との関係性のなかで自己決定をしている。(204ページ)/一見すると僕の自己決定のあり方はとても特殊なように思えるが、他者とかかわりながら生きていく以上、「健常者」であっても発話が可能な障がい者であっても、基本はみんな同じである。誰もが、自分以外の他者の影響を受け、ときに〝妥協〟しながら、日々自己決定をしていると言えるのではないか。(204~205ページ)/研究の結果たどり着いたのが、「<弱い>主体としてのあり方を受け入れる」という思いである。他者の意見に左右されながら、そして協働しながら、モノを生み出していくことは、障がいがあるゆえの特別なことではなく、人間誰もがそういった側面を持っている。そのことへの気づきによって、僕の持つ生きづらさは軽減された。さらに、それがいかに合理的であるかということを論理的に分析していくことで、逆に自分の<弱さ>が<強み>になることもある、という発見に至った。(205ページ)

今の社会で能力主義から自由に生きられる人はほとんどいないのではないか。(225ページ)/能力主義は、個人の努力や責任を求めるあり方である。しかし、重度障がい者の置かれている現状をみれば、個人の努力や責任ではどうにもならないことのほうが多いのである。/僕は介助なしでは何もできない。しかし、だから多くの人とかかわり、深く繋がり、ともに創りあげる関係性を築いていける。それが僕の<強み>になっている。能力がないことが<強み>なのである。自分だけで何もできないことは、無能力と同義ではない。(226ページ)

〇[2]で澤田はいう。だれもが持つマイノリティ性である「苦手」や「できないこと」、「障害」、「コンプレックス」は、克服しなければならないものではなく、生かせるものである。だれかの弱さは、だれかの強さを引き出す力である(12ページ)。人はみな、なにかの弱者・マイノリティであり(42ページ)、人はみな、クリエイターである。(324ページ)。そこに「マイノリティデザイン」という新して言葉と考え方を見出す。
〇澤田は「運動音痴」すなわち「スポーツ弱者」である。そこで、「スポーツ弱者を、世界からなくす」ことをミッションに、90競技以上の「ゆるスポーツ」を発案する。粘り気のあるハンドソープを手につける「ハンドソープボール」、イモムシをモチーフにした衣装を着てコート内を這う「イモムシラグビー」、穴の開いたラケットを使う「ブラックホール卓球」等々である。勝利至上主義や強者にハンデをつけるスポーツではなく、「勝ったらうれしい、負けても楽しい」「健常者と障がい者の垣根をなくした」スポーツである。その競技場には、「弱さを強さに変える」仕事をする、「(目の見えない息子の)弱さを生かせる社会」を(息子に)残したいという澤田の姿がある。
〇澤田の「マイノリティデザイン」に関する論点や言説をメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

マイノリティデザインは「弱さを生かせる社会」を創る
「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」。トルストイの言葉である。/「弱さ」のなかにこそ多様性がある。(51ページ)/だからこそ、強さだけではなく、その人らしい「弱さ」を交換し合ったり、磨き合ったり、補完し合ったりできたら、社会はより豊かになっていく。/息子が目に見えないという「弱さ」と、自分のコピーを書けるという「強さ」をかけ合わせる。自分がスポーツが苦手という「弱さ」と、いろいろな人の「強さ」をかけ合わせる。/今、僕は「強さ」も「弱さ」も、自分や大切な人のすべてをフル活用して仕事をしている。弱さは無理に克服しなくていい。あなたの弱さは、だれかの強さを引き出す力だから。/弱さを受け入れ、社会に投じ、だれかの強さと組み合わせる――これがマイノリティデザインの考え方である。そして、ここからしか生まれない未来がある。(52ページ)/マイノリティとは、「社会的弱者」ではなく、「今はまだ社会のメインストリームには乗っていない、次なる未来の主役」である。(42ページ)

すべての「弱さ」は社会の「伸びしろ」
「迷惑かけて、ありがとう」。昭和のプロボクサーでありコメディアンのたこ八郎さんの言葉である。(326ページ)/迷惑とは、あるいは弱さとは、周りにいる人の本気や強さを引き出す、大切なもの。/だからこそ、お互い迷惑をかけあって、それでも「ありがとう」と言い合える関係をつくれたなら、これ以上の幸せはない。/すべての弱さは、社会の伸びしろ。(327ページ)

〇筆者(阪野)の手もとにいま、上記の2冊のほかに、「弱さ」をテーマにした本が2冊ある。高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)・辻信一(つじ・しんいち)の『弱さの思想―たそがれを抱きしめる―』(大月書店、2014年2月。以下[3])と、鷲田清一(わしだ・きよかず)の『<弱さ>のちから―ホスピタブルな光景―』(講談社、2014年11月。以下[4])がそれである。
〇[3]は、2010年から2013年にかけて行われた「弱さの研究」(共同研究)に基づく、高橋(作家、社会批評家)と辻(文化人類学者、環境運動家)の対談本である。その研究の「目的と意義」は次の通りである。

「弱さの研究」の目的と意義
社会的弱者と呼ばれる存在がある。たとえば、「精神障害者」、「身体障害者」、介護を必要とする老人、難病にかかっている人、等々である。あるいは、財産や身寄りのない老人、寡婦、母子家庭の親子も、多くは、その範疇(はんちゅう)に入るかもしれない。自立して生きることができない、という点なら、子どもはすべてそうであるし、「老い」てゆく人びともすべて「弱者」にカウントされるだろう。さまざまな「差別」に悩む人びと、国籍の問題で悩まなければならない人びと、移民や海外からの出稼ぎ、といった社会の構造によって作りだされた「弱者」も存在する。それら、あらゆる「弱者」に共通するのは、社会が、その「弱者」という存在を、厄介なものであると考えていることだ。そして、社会は、彼を「弱者」を目障りであって、できるならば、消してしまいたいなあ、そうでなければ、隠蔽(いんぺい)するべきだと考えるのである。/だが、ほんとうに、そうだろうか。「弱者」は、社会にとって、不必要な、害毒なのだろうか。彼らの「弱さ」は、実は、この社会にとって、なくてはならないものなのではないだろうか(かつて、老人たちは、豊かな「智慧」の持ち主として、所属する共同体から敬愛されていた。それは、決して遠い過去の話ではない)。/効率的な社会、均質な社会、「弱さ」を排除し、「強さ」と「競争」を至上原理とする社会は、本質的な脆(もろ)さを抱えている。精密な機械には、実際には必要のない「可動部分」、いわゆる「遊び」がある。「遊び」の部分があるからこそ、機械は、突発的な、予想もしえない変化に対処しうるのだ。社会的「弱者」、彼らの持つ「弱さ」の中に、効率至上主義ではない、新しい社会の可能性を探ってみたい。(高橋:11~12ページ)

〇[3]では、“ 大きいこと ” や “速いこと ” などを良しとする「強さ」の思想と “ 小さいこと ” や “ 遅いこと ” などに価値を見出す「弱さ」の思想を対比するなかで、「弱さの再発見」を説き、「弱さの思想」の必要性が打ち出される。
〇要するにこうである。人間は、身体をもつ存在(身体的存在)であり、必ず死を迎える有限性がある、本質的に「弱い」存在である(有限性=弱さ)。それゆえに人間は、家族やコミュニティを形成し、支え合い・分かち合い・補い合うという「内なる力(パワー:Power)」によって生きている。そしてそこに、やさしさや思いやり、明るさや楽しさなどの人間的な価値や意味が見出されることになる。政府や法律などによる強制力をもつ「外なる力(フォース:Force)」ではなく、この「内なる力」こそが真の強さである(7ページ)。すなわち人間には、「弱さ」のなかに多様な可能性があり、「強さ」が潜んでいる。「弱さの強さ」である(71ページ)。
〇現代社会は、経済成長をひとつのゴールとする競争社会である。競争は、多様性を犠牲にし、均質性や効率性を重視する。そこでは「強さ」が追求され、「弱さ」が排除される。その意味で、現代社会は強者に向けて設計されている社会である(74ページ)。現実世界では、社会的・経済的・(自然)環境的な破綻が露わになり、「強さ」と信じられてきたものの「弱さ」が明らかになっている。「強さの弱さ」である。そしていま、「強さ」をめぐる競争ではなく、多様な者たち同士がお互いの「弱さ」を補い合いながら如何に豊かに生きるか、すなわち多様性を如何にとりもどすか、人間に根源的に備わっていた「弱さの思想」を如何に育てるかが問われている。それは、「弱さ」を中心とした共同体を形成すること、弱者に向けて社会を設計し直すことを意味する(95ページ)。そこでは、「弱さの思想」の入口として、競争の「勝ち」「負け」や、人間の「弱さ」や「強さ」という二元論から自由になることが求められる(203ページ)。
〇次の一節をメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

「弱さの思想」と社会改革
この社会は、弱いとか強いとかというふうに二元論的にできていて、強さを上に、弱さを下にした固定的なヒエラルキーでオーガナイズされている。弱さの思想とは、その「強さ・弱さ」の二元論そのものを超えていくことである。この二項対立を溶かしていく、あるいは無効化していく。それが、社会を支配・被支配のない、よりよい場所へと変えていくのに役立つことになる。社会について言えることはそのまま自分にも言えるわけで、まずは内なる二元論やヒエラルキーからいかに自らを解き放つか、である。(辻:203~204ページ)

〇なお、高橋と辻は、「勝ち」「負け」や「弱さ」「強さ」の二元論から自由になるための方策、すなわち「弱さの思想」(「勝たないし、負けない」、「勝ち負け」そのものを超えるという考え方(161ページ) ) に基づく社会を実現するための具体的方策については言及しない。ここでは、そのひとつとして、社会的に弱い立場に置かれている人々の「内なる力」を育成・強化し、社会改革に向けた下からの草の根運動としてその力を臨機応変に発揮する、そのための教育的営為が必要かつ重要となる、と言っておきたい。
〇[4]で鷲田(哲学者)は、僧侶をはじめ教師、建築家、ゲイバーのマスター、性感マッサージ嬢、精神科医、医療シーシャルワーカーなど、人を「温かくもてなす」(hospitable) 仕事をする13人へのフィールドワーク(聞き書き)を通して、ケア(世話)する人がケアを必要としている人に逆にケアされるという反転(「ケアの反転」)の意味を追い、ケア関係の本質に迫る。そこでは、自分と他者の弱さを受け入れ、その存在を認め合い、信頼して他者に身をあずける関係(「存在を贈りあう関係」)が必要かつ重要となる。鷲田はいう。「『弱さ』は『強さ』の欠如ではない(松岡正剛)」(226ページ)。「弱い者には強い者を揺さぶるような力(弱さの力)がある」(210ページ)。「〈弱さ〉はそれを前にしたひとの関心を引きだす。弱さが、あるいは脆(もろ)さが、他者の力を吸い込むブラックホールのようものとしてある」(212ページ)。「ケアを、『支える』という視点からだけではなく、『力をもらう』という視点からも考える必要がある」(221ページ)。
〇鷲田による  “  まとめ  ”  のエッセイ(「めいわくかけて、ありがとう」:たこ八郎)から、次の一節をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

「存在を贈りあう関係」と生きる力
じぶんがここにいることがだれかある他人にとってなんらかの意味をもっていること、そのことを感じることができれば、ひとはなんとかじぶんを支えることができる。(231ページ)/じぶんの存在が、「ふつうのひと」としてではなく、看護され、介護されるべきひとという規定を受けることが、病院や施設のなかでひとをいかに生きづらくしているかは、しばしば語られてきたことである。ひとは世話をしてもらう、聴いてもらうばかりでなく、じぶんだってひとの世話ができる、じぶんだって聴いてあげられる、じふんだってここにいる意味があるのだ、という想いが閑(しず)かに湧いてくるとき、ちょっとばかり元気になるものだ。/じぶんのしていることが、あるいはじぶんの存在が、だれか別のひとのなかである意味をもっていると確認できること、そのことが生きる意味をもはやじぶんのなかに見いだせなくなっているひとがなおもかろうじて生きつづけるその力をあたえるということとともに、その逆のこと、つまり他者に関心をもたれている、身守られているのではなく他者への関心をもちえているということもまた、ひとに生きる力というものをあたえてきたのではないだろうか。(232ページ)

手紙

鳥居先生へ

研修後、なぜか心がほっこり。
帰りの車の運転、イライラすることもなくゆったり。
なんだか分からないけど、優しい気持ちの自分。
我が家に帰り、妻に「詩」を数編紹介。
夕食後、今日は自分から食器洗い。
妻から「ありがとう、助かるわ」「なんもさ」
これから、我が家の「愛ことば」

心に響き、心を癒やし、心を鼓舞する「詩」の数々
アナウンサーのような心地よい声と語り
そしてグリークラブのような美声
こんな研修、何度でもいいなあ。
ありがとうございました。

〔2021年11月23日書き下ろし。今秋の民生委員児童委員研修のアンケートにあったわたし宛の手紙。詩との出逢いに感謝〕

二つ返事

頼まれたら断れない
頼ってきたら力を貸したい
出来ることなら即答する

信じられたら断れない
信じるのなら力を注ぎたい
出来なそうでも無理をする

面白いなら断らない
一緒にやるなら力を出そう
出来ることなら山ほどある

苦しくとも断らない
一緒に汗をかくなら力を試そう
出来るよう知恵を絞る

仕事なら断らない断れない
仕事なら選ばない選べない
出来るだろうと二つ返事で引き受ける

求められるのは相手のおもいの代弁者
求めるのは相手のおもいの熱さと明瞭さ
出来なければ挑むだけ

求められ求めるつながりに
いまの自分の生き様を重ねる
二つ返事で動けることが唯一か

〔2021年11月22日書き下ろし。この10日間、今年一番の強行日程だった。老体はよく持った。自重という言葉が真実味を増してくる〕