出典:中野伸彦・森和弘「福祉のまちづくりと総合的な学習の時間~実践例に学ぶ「ともに生きる力」~」『研究紀要』第17巻第1号、長崎ウエスレヤン大学(現・鎮西学院大学)地域総合研究所、2019年2月、45~58ページ。
謝辞:転載許可を賜りました中野伸彦先生と鎮西学院大学地域総合研究所に衷心より厚くお礼申し上げます。/市民福祉教育研究所:田村禎章・三ツ石行宏
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阪野 貢/「社会的処方」再考―西智弘編著『みんなの社会的処方』のワンポイントメモ―
〇筆者(阪野)の手もとに、西智弘編著『みんなの社会的処方―人のつながりで元気になれる地域をつくる―』(学芸出版社、2024年3月。以下[1])がある。『社会的処方―孤立という病を地域のつながりで治す方法―』(学芸出版社、2020年2月。以下[2])の続編である。[2]に関しては、本ブログの<雑感>(123)社会的処方とリンクワーカー:お医者さんが取り組む“オモロイ”はじめの一歩―西智弘編著『社会的処方』読後メモ―/2020年11月27日/本文、を参照されたい。
〇西(緩和ケア内科医)にあっては、「社会的処方」(Social Prescribing:ソーシャル・プリスクライビング)とは、「薬で人を健康にするのではなく、人とまちとのつながりで人が元気になる仕組み」(3ページ)、別言すれば「病気や障害があっても無くても、子どもから高齢者まで、誰しもが自分の『やりたい!』を自由に表現でき、それが実現できるような環境を平等に享受できるようにみんなで取り組んでいく」仕組み(5ページ)をいう。「社会的処方は、もっと自由でいい。多くの人たちが気ままに自然に『自分にできること』『自分がやりたいこと、好きなこと』を持ち寄って、お互いに『いいね、いいね!』とつながっていく先に、孤独・孤立の解消がある」(6ページ)。
〇そこで西は、[1]で、社会的な孤独・孤立の問題が深刻化するなかで、「日常生活の様々な場面に社会的処方があり、暮らしているだけで元気になれるまち」(カバーのそで)、「ごちゃまぜのまち」(246ページ)をどうつくるかについて、世界と日本における社会的処方の実践の「場」(生活の動線上で、人と人とが行き交う、ハブとなる「場」:53ページ)や具体的な取り組みに学びながら、これからを展望する。
〇また、西にあっては、社会的処方の基本的理念は、「人間中心性」「エンパワメント」「共創」の3つである。西はいう。「人間中心性」(person-centeredness)については、「その方(人)がこれまでどんな人生を歩んできて、何に興味があって、そしてこれからどう生きていきたいと思っているのか、『好奇心と思いやりをもって、目の前の個人を見ていく』姿勢が大切である」(16、18ページ)。「エンパワメント」(empowerment)については、それは「誰もが本来備えている能力を、発揮できる社会を目指す思想」であるが、「目の前にいる人を信じて、気長に、本人がもっているものを一緒に見つけていくプロセスを共に過ごすことが大事である」(19、21ページ)。「共創」(co-production)については、それは「一緒に作っていくこと」であるが、「自らの社会的処方を(リンクワーカーと一緒に)自ら生み出していく」(21ページ)ことが重要になる。
〇そして、「リンクワーカー」(link worker)は、「孤立している個人やその支援者と面会し、本人の特性や興味関心などを聴取しながら、孤立の解決のために地域活動などとつなげていく役割を担う」人をいう(16ページ)。そのリンクワーカーには、医療や保健・看護・介護・福祉などの専門職や行政職員としてのリンクワーカー(「職業リンクワーカー」)のほかに、ボランティアとしてリンクワーカー的に活動する地域住民=「市民リンクワーカー」がいる。この点について西は、日本で社会的処方を進めていくうえでは、「社会的処方を文化にする」ために「住民主体型の社会的処方モデルが好ましい」(17ページ)という。これらが「社会的処方」についての西の言説、そのポイントである。
〇ここでは[1]のなかから、「社会的処方」をめぐる論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。例によってそれは限定的(恣意的)であるとの謗(そし)りを免(まぬが)れないことは承知している。
社会的処方ではケアされる本人が主役になれるように支援することが肝要となる
「支援する」とは、「基本的には対等な二人の人間が、そこにある課題に対して、一緒に新しい価値を生み出していくこと」である。(24ページ)/ここで大切なキーワードは「本人が『主役』になれるように」である。あくまでも、主体は本人。支援者であるリンクワーカーが何かを施して、本人を受動態の形にするのではなく、かといって本人に全ての責任を押し付けるのでもなく、「一緒に決めたよね」「私たちはあなたのことを見ているよ」といった関係性で支えるという意識が大切なのである。本人が「主役」になる、ということはその主役に働きかける脇役だって必要だし、それを見続ける観客の役割だって必要なのだから。(25ページ)/「一緒に決める」「ずっと見ている」この2つをもって、自身を取り巻く社会の中での「主役」と信じられるようにしていくことが、ここで大切にしたい支援の形なのである。(25ページ)
社会的処方にとって「アート」は人と社会をつなぐ重要な社会的営みである
人々が思いを表現した絵や造形、音楽、ダンスなどをアートという。(148ページ)/アートは人類の歴史上ずっと存在しており、人にとって欠かせないものである理由のひとつは、人が社会的動物で高度な「つながり」が必須だからだ。それは単に他者との表面的な繋がりではなく、自己の内面とのつながりを含む。人は自己信頼ができなくなるとイキイキとしているのは難しく、また、心が通う他者がいない「望まない孤独や孤立」は死を近づける。心安らかに暮らすには自分とのつながり、他者とのつながり、心身ともに安心安全な居場所が必要だ。だから人は自己と自分を取り巻く世界をつなげようと表現し、他者とともに想像を共有し、つながりを形成する力をアートの形で発展させてきたのだろう。言語を超え表現するアートは高度に社会的である人間が生きることをつなぐ、切実なものとして生み出されてきた。アートは個人の創造性と深い繋がりを持ちつつ、同時に社会的な関係性をつくるソーシャルな機能を持つのが特徴だ。(148~149ページ)
社会的処方は人々がまちなかで「わずらわしいことをする権利」を行使することを求める
いつの頃からか、「公共空間で起きている問題は行政の管轄」「そこを管轄する専門家が管理するほうが面倒くさくなく、効率的」、さらには「私たちは『税金』ってかたちでお金を払っているんだから、それくらいの『サービス』はしてくれて当然だろう?」という「社会のお客様でありたい」考えに取りつかれつつある。(206ページ)/これから必要なのは「行政のダイエット」であり、できるところは自分たちの頭で考えて何とかして、行政に頼らないことで税金もかからないようにする方が、長い目で見れば結果的に僕ら自身にもお金が残っていく。もう少し見方を変えるなら、僕らは行政から「わずらわしいことをする権利」を取り戻すべきなんじゃないか、と言える。(中略)僕らは「自分が住むまちを自分できれいに整える権利」や「公園で自由に遊ぶ権利」をはじめとした、「自分たちの暮らしを自由に彩る権利」までも奪われてしまっていると言える。それら権利を全て取り戻して(すなわち、おせっかい住民をエンパワメントして:87ページ)いくことが結果的に、僕ら自身がまちなかで面白がれる生活につながっていくのだと思う。(207~208ページ)
〇2020年7月に閣議決定された政府の「骨太の方針」に、社会的な孤独・孤立対策として「社会的処方」が明示された。2023年6月に「孤独・孤立対策推進法」が公布され、翌2024年4月に施行された。筆者(阪野)は、社会的処方の言葉や理念がイギリスからの(旧態依然とした)直輸入であることに危うさを感じる(イギリスの一般市民レベルでは「社会的処方」は必ずしも十分に認知されている状況ではないとも言われている)。また、社会的「処方」に含意される医師主導に違和感を覚え、さらには慎重さに欠ける制度化に唐突感を禁じ得ない。介護保険制度が導入された2000年4月以降、「地域包括ケアシステム」(地域住民に対して住まい・医療・介護・予防・生活支援などのサービスを一体的・体系的に提供する体制)や地域共生社会づくりのための「多職種連携」の推進が図られ、最近では(2021年4月施行の改正社会福祉法で)属性を問わない相談支援・参加支援・地域づくりに向けた支援の3つの支援を一体的に実施する「重層的支援」体制の整備が図られるなかで、いま、なぜ、社会的処方なのか。また、同改正社会福祉法で「重層的支援体制整備事業を実施するに当たっては、社会福祉士や精神保健福祉士が活用されるよう努めること」と参議院で附帯決議されるが、そんななかで、なぜ、「リンクワーカー」なのか。
〇ただ、WHO(世界保健機関)がいう、社会的処方の基底にある「健康の社会的決定要因」(SDH:Social Determinants of Health、1998年)や「ICF(国際生活機能分類)」(International Classification of Functioning, Disability and Health、2001年)の「環境因子」(environmental factors)について重視すべきであることは言うまでもない。
〇西はいう。「社会的処方を(市民の)文化にする」(17ページ)こと、すなわち地域に暮らす一人ひとりの住民が孤独な人のつなぎ手となっていくことが必要である。とはいえ、「社会的処方の効果に関する科学的な検証はまだ十分とは言えない。過度の投資や熱狂、手放しでの賞賛をするのではなく、目の前にいる一人一人を見つめ、必要に応じて適切な社会的支援を行っていく、その中のひとつの選択肢として、社会的処方の考え方があるのだと理解しておいた方が、現時点では無難であろう」(129ページ)。付記しておきたい。
注
➀ WHO(世界保健機関)は、「SDH(健康の社会的決定要因)」を次の10項目に分類している。①社会格差、②ストレス、③幼少期、④社会的排除、⑤労働、⑥失業、⑦社会的支援、⑧薬物依存、⑨食品、 ⑩交通、がそれである( WHO健康都市研究協力センター・日本健康都市学会訳『健康の社会的決定要因―確かな事実の探求―』(第2版)特定非営利活動法人健康都市推進会議、2004年)。
② 「ICF(国際生活機能分類)」については、スライド(3)ICFの視点と福祉教育―ICFの構成要素間の相互作用/本文、を参照されたい。
補遺
社会的処方の名前や概念は少しずつ広まり、2020年の政府「骨太の方針」にも社会的孤立対策の切り札として明記された。そして2024年には「孤独・孤立対策推進法」が施行され、孤独や孤立の問題は国や自治体だけではなく「国民一人一人も」力を合わせてその対策につとめていくべきとされた。([1]3ページ)
辻浩/社会問題の教育学を求めて―地域と福祉と学校をつなぐ「社会教育」研究のこれまでとこれから(その2)―
Ⅰ 社会問題の教育学を求めて
出典:辻浩「社会問題の教育学を求めて」『名古屋大学大学院教育発達科学研究科紀要(教育科学)』第70巻第2号、名古屋大学大学院教育発達科学研究科、 2024年3月、1~9ページ。
謝辞:転載許可を賜りました辻浩先生と名古屋大学大学院教育発達科学研究科に衷心より厚くお礼申し上げます。/市民福祉教育研究所:田村禎章・三ツ石行宏
Ⅱ 研究業績(抜粋)
老爺心お節介情報/第61号(2024年8月13日)
「老爺心お節介情報」第61号
地域福祉関係者の皆様
社会福祉協議会関係者の皆様
暑い夏です。くれぐれもご自愛ください。
「老爺心お節介情報」第61号を送ります。
2024年8月13日 大橋 謙策
〇本当に暑い夏ですね。
〇“夏の暑さにも負けず”、全国各地のCSW研修で飛び回っています。
〇7月13日~14日には、徳島県阿南市で第21回四国地域福祉実践研究セミナー(「こんぴらセミナー」から通算すると第27回になります)に参加してきました。600名もの参加者で、熱気溢れる、かつ実践報告の水準も高いセミナーでした。年々、参加市町村も増え、参加者も多彩となり、地域福祉研究者としては学びの多い、嬉しいセミナーでした。
〇恒例の句会も行われ、筆者も投句しました。選者は阿南市俳句協会の関係者で、覆面で審査してくれました。筆者の投句「時鳥、阿南の郷に人を呼び」がなんと特選3句の一つに選ばれました。
〇来年の第22回四国地域福祉実践研究セミナーは高知県黒潮町で行われることになりました。黒潮町は南海トラフで34mの津波が押し寄せると想定されている町です。「地域共生社会政策」で標榜されている多世代交流の「小さな拠点」のモデルとなっている高知県ふれあいあったかセンターを6か所も運営している町です(高知県全体で55か所)。黒潮町は重層的支援体制整備事業を受託しており、急速に、かつ着実に地域共生社会づくりが進展しています。
〇黒潮町は、「藁焼きカツオ」で有名な明神水産があり、セミナーへの参加と同時に、「藁焼きカツオ」とお酒での懇親会も楽しみです。来年、2025年7月12日~13日が開催予定日です。皆さん、大いに参加してください。
〇今回の「老爺心お節介情報」は、日本社会事業大学同窓会の北海道支部の機関紙『アガペ』に連載中の「虐待問題」のその④を転載します。『アガペ』への寄稿は、後一回でおしまいにしようと考えています。
〇筆者は、酷暑ではありますが、CSW研修で8月~9月も全国を飛び回っています。私のCSW研修は4日間か5日間のコースで、「社会生活モデル」に基づくアセスメント能力の向上、アウトリーチ型のロールプレイとその気づきの検証、地域住民が抱えているニーズに対応する問題解決プログラムの開発、地域での頃地を克服するソーシャルサポートネットワークづくりの課題を学ぶことを必須としています。前期課程と後期課程との間には宿題を出し、後期課程においてその宿題へのコンサルテーションを受講生一人一人に即して行うもので、かなりハードですし、公私の力量が問われるものです。改めて、地域福祉関係者、社会福祉協議会関係者の研修のあり方を問い直すべきではないでしょうか。
(2024年8月13日記)
(備考)
「老爺心お節介情報」は、阪野貢先生のブログ(「阪野貢 市民福祉教育研究所」で検索)に第1号から収録されていますので、関心のある方は検索してください。
この「老爺心お節介情報」はご自由にご活用頂いて結構です。
福祉と教育、福祉教育と教育福祉―辻 浩の「地域づくりと教育福祉」論に学ぶ―
主権者教育・シティズンシップ教育・政治リテラシー教育
主権者教育・シティズンシップ教育・政治リテラシー教育
(参照)
阪野 貢/「主権者教育」「シティズンシップ教育」の一環としての「市民福祉教育」を考えるために―新藤宗幸著『「主権者教育」を問う』再読メモ―/<雑感>(151)/2022年4月16日/本文
阪野 貢/「政治リテラシー」考:啓蒙主義的主権者教育と保守主義的主権者教育、市民性教育と国民性教育―関口正司編『政治リテラシーを考える』のワンポイントメモ―/<雑感>(209)/2024年7月1日/本文
阪野 貢/追補/憲法上の国民:主権者・有権者・市民について考える―駒村圭吾著『主権者を疑う』のワンポイントメモ―/<雑感>(187)/2023年9月16日/本文
辻浩/私の「社会教育」実践と研究―地域と福祉と学校をつなぐ「社会教育」研究のこれまでとこれから(その1)―
辻浩の「地域と福祉と学校をつなぐ社会教育」実践と研究
―回顧と課題―
はしがき
〇筆者(阪野)は、長い間先延ばしにしてきた辻浩(つじ・ゆたか)先生のご高著を再読し、拙稿――辻浩の「福祉と教育」による「地域づくり」を読む―辻浩著『現代教育福祉論』等のワンポイントメモ―(備考参照)を草した。そこで学んだことは、表層的の誹(そし)りを免れないが、約言すれば次の通りである。
● 辻の言説は「生涯学習と社会教育と教育福祉」「社会教育と地域福祉と地域づくり」「学校教育と社会教育と地域づくり」「共生と自治と社会教育」「歴史と理論と実践」「研究者と実践者と住民」などの視点や枠組みのもとに、また「歴史研究と社会調査とアクション・リサーチ」の手法を用いた多面的・多角的な思考によって展開される。そこに通底するのは、「子ども・若者あるいは成人が安定した生活基盤のもとで豊かな人間発達を実現することをめざす」地域づくりについての熱い思いと真摯な姿勢である。
●辻の3冊の単著を時系列に沿って見ると、辻の「生涯学習論」やそのひとつの側面である「地域づくり教育論」や「教育福祉論」の形成過程、すなわち社会教育や生涯学習の実践や研究の抽象化・体系化の方法と過程がわかる。それは、戦後日本の社会教育研究や生涯学習研究の到達点(成果)でもあり、次の新たな実践や研究への展望を開くものであると言えよう。辻は、研究者の立ち位置や方法について、地域住民や現場職員の「学習」による認識や行動を重視し、その「歴史と実践のなかから苦悩と喜びをともなって立ちのぼってくるような記述をめざしている」とする。強く意識したい。
● 辻の言説の特徴のひとつは、「社会構造の中で生み出される問題を見据え、制度・政策を求め、実践を展開する動態的なもの」である。しかも辻は、「学習権保障としての教育福祉」 を主軸(前提)に、教育全体のあり方を見直す教育改革の視点とともに、主体的・自律的な住民(子ども・若者や成人)による「地域づくり」に視座を置いて「論」を展開する。例によって唐突ではあるが、これらは「まちづくりと市民福祉教育」の実践と研究に課せられたものでもある。強く再認識したい。
〇この機会に、久しぶりに辻先生にご挨拶を申し上げたが、先生から『地域と福祉と学校をつなぐ社会教育』(私家版冊子、2024年)と題する冊子をご恵贈いただいた。名古屋大学大学院時代(2018年4月~2023年3月)の玉稿の一部を収録し、思いを綴ったものである。
〇筆者は、上記のような点を再確認しながらそれを拝読するなかで、本稿のようなモノをブログ読者に紹介したいという強い思いに駆られ、急ぎ集成作業を行った。そこで、辻先生に対しては失礼の極みであるが、事後承諾を得ることで本稿を投稿・アップさせていただいた次第である。従って、その一切の責任は筆者が負うものであことは承知している。先生と関係機関に対しては、まずはお詫びするしかない。
〇いずれにしろ、読者の皆さんには是非、辻先生の以下の「論稿」と「研究業績」を通して多くを学んでいただきたい。
(市民福祉教育研究所/文責:阪野 貢)
Ⅰ 「地域と福祉と学校をつなぐ社会教育」実践と研究
―辻浩 『地域と福祉と学校をつなぐ社会教育』(私家版冊子、2024年)―
『現代教育福祉論』の刊行から6年:名古屋大学で考えたこと
辻 浩
1.『現代教育福祉論』刊行の経緯
〇私が最初に単著として刊行した『住民参加型福祉と生涯学習―福祉のまちづくりへの主体形成を求めて―』(ミネルヴァ書房、2003年)は、領域的には福祉教育の研究ということができる。しかし、戦前の社会教育が翼賛体制に組み込まれたことから、たとえ福祉のためとはいえ、動員的になってはいけないと考え、住民が多様で切実な課題を抱えていることを強調し、そのことを理解できるように「学習の自由」が必要であることを訴えた。
〇そしてこの本を書いている頃から、1990年代半ば以降指摘されることになった貧困や格差の広がりについて授業で話すことが多くなり、社会教育の原論のテキストとして『現代の貧困と社会教育―地域に根ざす生涯学習―』(国土社、2009年)を編集した。これは切り口が明解でありながら社会教育の全体もわかるという点で反響が大きかったが、編者としては、前半の貧困や格差がすすむ中での社会教育実践の論稿と後半の社会教育の法や行政、施設の論稿が結びついていないと思った。その後、社会教育の計画論のテキストとして、『自治の力を育む社会教育計画―人が育ち、地域が変わるために―』(国土社、2014年)を編集することになったが、ここでも前半の自治体の計画や公民館の職員の仕事に関する論考と後半の地域課題の学習についての論稿が結びついていないと思った。
〇私がこのようなことに取り組んでいる間に、子どもや若者、女性の貧困に注目した研究がぞくぞくと発表された。また、障害のある人や外国にルーツをもつ人の研究も数多く発表されるようになった。私はそれらを紹介しながら社会的排除を克服する社会教育が求められていると授業で話していたが、何年かして、恩師の小川利夫先生の議論を受け継ぐようなものが必要ではないかと思うようになり、『現代教育福祉論―子ども・若者の自立支援と地域づくり―』(ミネルヴァ書房、2017年)を著した。貧困・障害・差別の問題を、理論、歴史、国際動向、学校づくり、地域づくり、から総合的に論じるものが1冊くらいあってもいいのではないかと考え、意識的に幅の広いものにした。
〇そこでようやく、教育福祉と社会教育と地域づくりが結びつけられるようになった。また、小川先生の教育福祉論を乗り越えることは考えず、受け継いで今の時代に照らして考えれば、自ずと何か見えるのではないかと思うようになり、小川先生が存命であれば、今の時代のどういうことに注目して研究をすすめるだろうと考えるようになった。そのようにしたことで、学校教育をどのように相対化して改革できるのか、組織労働の社会変革の力が低下している中で何に依拠して実践をすすめられるのか、といったことが自分の中で課題として明確になった。
2.研究室年報で考えたこと
〇『現代教育福祉論』の刊行の半年後に私は名古屋大学に赴任した。まず、研究室で発行されている『社会教育研究年報』(年報)を活性化させたいと思い、自分が率先して書くことにした。『現代教育福祉論』で書くべきことは全部書いたつもりだったが、自由に書ける機会ができると、教育福祉にかかわることばかりが頭をかすめ、結果的に、『現代教育福祉論』の補遺のようなものを書き続けることになった。
〇最初に書いた「『公害と教育』に関する教育福祉研究試論―森永ひ素ミルク中毒事件における『恒久救済』をめぐって―」(年報第33号、2019年)は、公害の被害にあった人やその家族はどのように自己を形成していくのか、いわば教育福祉における人格論を考えようとしたものである。このことに取り組むのには、中坊公平『私の事件簿』(集英社新書、2000年)の中で、安い粉ミルクを子どもに飲ませたことで自分を責める母親の話を聞くと「鉛を飲んだようだった」という記述が頭からを離れなかったということがある。また、大前哲彦先生から、ここでの補償の仕方は東日本大震災での原発事故の補償でも参考になるのではないかという話をうかがっていたこともかかわっている。我が子が障害を負わされたという怒り抱きながらも、子どもたちに何を残すべきかを考えて、一時金での補償ではなく生涯にわたって必要な医療・教育・福祉を受けられる「恒久救済」という補償を求めた親たち、その運動にかかわっていく医療や教育の専門家、報道関係者、そして誠実に責任を果たし再発防止にも取り組む加害企業。社会教育は社会運動の中の学びに注目してきたが、このような社会運動における合意形成に感銘を受けた。
〇次に書いた「『教育福祉的生涯学習』から見た教育基本法解釈の課題―困難を抱えた人々の連帯による教育の改革―」(年報第34号、2020年)は、現行の教育基本法で生涯学習が教育全体の理念となり(第3条)、教育の機会均等に障害のことが入ったことから(第4条)教育基本法の全条文を読み解くととどうなるのかを考えたものである。現行教育基本法は、教育の目標が徳目的に並べられていること(第2条)、私事である家庭教育に介入したこと(第10条)、教育行政による支配の可能性がないことを前提にしていること(第16条)、教育振興基本計画によって行政の権限が強化されたこと(第17条)など、大きな問題をもっている。また、生涯学習も「その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図られなければならない」とされ、個人の豊かな自己形成ではなく、社会に貢献することが中心になりかねない条文になっている。しかし、法律として存在している以上、可能な限りいい方向に向かうように解釈できないものかと、空想的ではあるが、第3条と第4条を結びつけて「教育福祉的生涯学習」という概念を設定して、そこから教育全体を考えてみた。
〇3つ目に書いた「教育福祉実践を担うNPO・市民活動と公的社会教育―新しい価値観の創造と行政的・市民的承認の地域における結合―」(年報第35号、2021年)は、NPOが最先端の教育福祉実践を切り拓いている中で、職員の異動が激しい行政の社会教育は何をすべきかを考えたものである。このことに思い至ったのは、岐阜大学での社会教育主事講習の時である。NPOが展開している教育福祉の実践の話は学生が関心をもって聞くことなのに、そこでは反応が鈍かった。なぜだろうと考えて咄嗟に思い浮かんだことは、公務員や教員である受講者にとって、最先端の実践を切り拓いているNPOのようなことをするのは無理だと思われたのではないかということであり、そうであれば、NPOと協働する公的社会教育のあり方を示す必要があるということであった。そこで思い出したのが、西東京市の公民館での困難をかかえた人のことを考える講座のことである。ここでは、子ども・若者支援でも、母子世帯支援でも、性的マイノリティのことを考える講座でも、NPOの人から優れた実践の話を聞いた後、公民館職員が受講者同士の意見交換をリードし、アフターミーティングを呼びかけ、そこからさまざまな活動が立ち上がっていく。正規の行政の社会教育職員は頻繁な異動の中でかつてのような専門性を身につけることができず、非正規の職員は社会教育実践に長年取り組んでも決定権が与えられない。このような行政の社会教育職員の置かれている状況を率直に認めて、最先端の取り組みを行っているNPOが発信してる新しい価値観を地域・自治体に定着させていくことが公的社会教育の課題ではないか考え、そこでは古い価値観と対峙することも必要で、簡単にできる仕事ではないことも指摘した。
〇4つ目に書いた、「『学校から社会への移行期』における教育福祉と学校改革―『総合教育政策』の可能性―」(年報第36号、2022年)は、社会教育や教育福祉がもっとも必要な時期として「学校から社会への移行期」について考えたものである。社会教育の歴史を思い返せば、上級学校に進学できない農村青年や勤労青年の教育に力を注いできた。今日ではほとんどの子どもが高校に進学しているが、高校を中退した若者がどのように社会に出ていくことができるかが課題となり、高校や大学を卒業しても社会でつまずいた時の立ち直りの支援も課題となっている。また、障害のある人が特別支援学校高等部を卒業した後に、大学や専門学校に進学することが少なく、学習・文化・スポーツ活動に参加することも難しい。障害者権利条約を批准したにもかかわらずこのような状態になっていることから、文部科学省でも障害者の生涯学習のあり方を検討する有識者会議を設置して、モデル事業を委嘱している。有識者会議のメンバーでもある田中良三先生が学長を務める見晴台学園大学にかかわり、そこから「障がい者生涯学習研究会」や「全国専攻科(特別ニーズ教育)研究会」に参加して、学校卒業後の社会教育の整備だけではなく、卒業後の生涯学習を見通した学校教育の改革がめざされていることに感銘を受けた。このような中で、私は中央教育審議会生涯学習分科会の委員になり、生涯学習を所管しているのが総合教育政策局であることからすすれば、初等中等教育局と高等教育局にはたらきかけて「総合教育政策」の内実をつくってほしいと機会があるたびに発言した。また、附属中学・高校の校長を併任することになり、大学受験で終わるわけではない生涯学習時代にどのようなことを考えなければならないのかを生徒に話し、『希望への学びのために―「生涯学習の校長」が学校で語ったこと―』(私家版、2023年)にまとめてみた。
〇5つ目に書いた「教育福祉から見た『働くこと』による人間発達と地域社会―『もう一つの経済循環』を視野に入れて―」(年報第37号、2023年)は、困難をかかえた人の支援として働くことを位置づけることが必要であり、そのために人間らしい働き方がどのようにつくられつつあるのかをまとめたものである。ここには、学部時代に学んだエンゲルスの「猿が人間になるについての労働の役割」や「子どもの遊びと手の労働研究会」の取り組み、障害者の共同作業所づくりの理念、大学院時代に出会った「人間発達の経済学」「内発的発展論」「地域内経済循環」の考え方が背景にある。また、前任校で地域福祉のあり方を考えている中で出会った労働者協働組合や農福連携事業の取り組みや、若者支援の最先端を切り拓いている文化学習協同ネットワークで、「働くこと」をめぐって、その時々の取り組みを教えてもらったことが影響している。そして、社会教育・生涯学習研究所で福島県飯館村や長野県阿智村にかかわる中で、地域・自治体の最大の課題である人口減少に歯止めをかけるには、若者の目から見て、自分の願いが実現できそうな働き方ができそうかどうかということがそこに住むかどうかの分かれ目になることがわかったことも大きいことだった。このような「もう一つの経済循環」は社会に参加してその人らしく生きることができる仕組みではあるが、まだ局所的であり、大きな流れにするためには、住宅政策や社会保障制度の改革を求める運動ともかかわらせる必要がある。
3.教育福祉研究において心すべきこと
〇教育福祉という用語はまだ定着していないものの、困難をかかえた子ども・若者への関心が高まり、多くの研究が発表されるようになってきている。その原因として、格差や貧困の広がりが深刻に受け止められていることがあると思われるが、一方で、安易にこの研究に関心が向けられるという側面もあるのではないだろうか。教育福祉研究によって、これまでの研究の欠けた部分を埋めることができ、次々と起きる問題とそれに対応した実践には新しさがあり、そのことに取り組むことは社会正義にもかなう。しかし、教育福祉研究は人の困難を研究材料にする罪深さがあり、困難の原因を明らかにすることでレッテル貼り・宿命論につながることもある。その意味では、教育福祉研究には、子ども・若者の権利保障の立場に立ち、その運動に参加し、痛みを感じながら取り組むことが必要であり、その上で、表層的なことではなく本質的なことを見定めて研究する必要があると考える。
〇教育福祉を提唱した小川利夫先生は、進学できる青年と働く青年という「二つの青年期」に注目し、差別的な後期中等教育を問題にした。しかしその後、子ども・若者に限定しない教育福祉の研究も行われるようになっている。私も教育福祉を成人や高齢者の課題として授業で話していた時期もあるが、『現代教育福祉論』では子ども・若者の課題として考えた。すべての世代に教育と福祉の連携が必要ということにすれば、教育福祉研究の対象が広がる一方で、学校教育の差別的構造を改革するという教育福祉がもっていた重要な視点が入らなくなるということをわかっておく必要がある。また、子ども・若者の教育福祉の研究は、奨学制度のような学校教育福祉と居場所づくりのような社会教育福祉に分けることができるが、その重なりや関連を意識して、学校教育の改革につなげることに力点を置くのか、それぞれの領域の制度や計画、技術に力点を置くのかを考える必要がある。
〇教育福祉は当初、中卒集団就職者の自立、児童養護施設入所児童の高校進学率の低さ、障害児の不就学などに、自治体労働者や福祉施設職員、教職員が取り組み、その背景に労働組合や自主的な研究会があった。しかし今日、そのような組織的な労働者の社会運動の力は低下していく。このような中で、教育福祉と地域づくり教育の担い手はどのように変化してきたのか、それぞれの時代に精一杯の実践がどのように展開されてきたのかを跡づけるために、『<共生と自治>の社会教育―教育福祉と地域づくりのポリフォニー―』(旬報社、2022年)を著した。しかし現実の公務労働者をめぐる状況はますます厳しくなり、人員が削減され、非正規・委託で働く人が増え、手薄になる地域の末端を住民が「我が事・丸ごと」考えて支えることが期待されている。このような地域・自治体の全体構造を理解しないで、教育福祉実践だけに注目すると、実践者をますます過酷な状況に追い込むことになるのではないだろうか。そこで、今日の地方自治の動向の中で、優れた社会教育実践の創造と生活ができる労働条件の確保を同時に追求する道はないものかと、『地方自治の未来をひらく社会教育』(自治体研究社、2023年)を編集したが、まだ自覚的な公務労働者の苦悩と実践をいくらか前向きに示すことしかできていない。
〇教育福祉は困難をかかえた子どもの問題に限定するにせよ、そこから競争主義的な教育全体の問題に言及するにせよ、「国民の学習権確保」の課題として提起された。しかしその後、ポストモダンの思想的背景をもった主張があらわれ、同じ目の高さで交流することや異なる他者が出会うことの豊かさを実感することなど「関係形成」や「相互承認」に価値が置かれるようになり、さらには、困難をかかえた人の権利保障の取り組みは、低い位置にいる人を人並みに救い上げていくという上下関係でものを考えているとの指摘までなされるようになった。このような「権利保障の反作用」という指摘に対して、私は「関係形成・相互承認の反作用」ということがあるのではないかと考えてきた。そして、見晴台学園大学(発達障害の子ども・青年のための無認可の学園)や専攻科で在学期間を延長しようとする取り組みに触れて、その思いを強くしている。同じ人間として豊かな関係をつくることを否定はしないが、簡単にそのようなことができるとは考えられず、マジョリティとしての贖罪(しょくざい)の意識を潜(くぐ)り抜ける必要があり、そのためには、権利保障の取り組みに参加することが必要ではないかと考える。また、恵まれない環境が今なお存在しているにもかかわらず、社会的・制度的な課題に目を向けないのは、権利保障を求めてきた人びとの歴史と今日の取り組みを蔑(ないがし)ろにするものであり、関係形成や相互承認ができるようになったことだけを評価することは、自分の至らなさを反省するという意味で、国民総懺悔的な思考を広めることになるのではないだろうか。このような問題意識をもって、『高度経済成長と社会教育』(大空社出版、2024年)を編集したが、そこでは「権利としての社会教育」の歴史的文脈と課題を再確認し、形而上学に流れることが厳しく批判されていたことから示唆を得ることができた。
〇『現代教育福祉論』から6年、名古屋大学で研究と教育をする中で、教育福祉研究にはこのように考えなければならない課題があることに気づいた。このことを個々の論文に書く込むことはできないが、研究者としてのスタンスとして意識しておく必要がある。また、若手・中堅の研究者によって、教育福祉の個々の事象を取り上げた研究がなされていくと思われるが、年長の研究者によって、教育福祉全体を歴史の大河に照らして総括されることが何年かに一度は必要なのではないかと思っている。
出典:辻浩「教育福祉研究の展開のために」『地域と福祉と学校をつなぐ社会教育―回顧と課題―』(私家版冊子、2024年)1~5ページ。
Ⅱ 研究業績(抜粋)
謝辞:本稿の掲載について辻浩先生と名古屋大学大学院教育発達科学研究科に衷心より厚くお礼申し上げます。/市民福祉教育研究所:阪野 貢
備考:<雑感>(212)阪野 貢/辻浩の「福祉と教育」による「地域づくり」を読む―辻浩著『現代教育福祉論』等のワンポイントメモ―/2024年8月1日/本文、をご参照下さい。
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阪野 貢/辻浩の「福祉と教育」による「地域づくり」を読む―辻浩著『現代教育福祉論』等のワンポイントメモ―
〇筆者(阪野)の手もとに、辻浩(つじ・ゆたか)の本が7冊ある(しかない)。
(1)辻浩著『住民参加型福祉と生涯学習―福祉のまちづくりへの主体形成を求めて―』ミネルヴァ書房、2003年12月(以下[1])
(2)辻浩著『現代教育福祉論―子ども・若者の自立支援と地域づくり―』ミネルヴァ書房、2017年10月(以下[2])
(3)辻浩著『<共生と自治>の社会教育―教育福祉と地域づくりのポリフォニー』旬報社、2022年10月(以下[3])
(4)島田修一・辻浩編『自治体の自立と社会教育―住民と職員の学びが拓くもの―』ミネルヴァ書房、2008年8月
本書では、自治体の自立には住民と職員の「学び」が不可欠であるという考えのもとに、住民と職員の協働による地域づくりの実践を取り上げ、自治の主体に育っていく姿を明らかにする。
(5)上田幸夫・辻浩編著『現代の貧困と社会教育―地域に根ざす生涯学習―』国土社、2009年8月
本書では、「社会教育は社会問題教育である」(小川利夫)という考えのもとに、社会教育の本質を再認識し、今日の深刻な問題を解決するのに社会教育が有効であることを示す。
(6)辻浩・細山俊男・石井山竜平編『地方自治の未来をひらく社会教育』自治体研究社、2023年3月
本書では、優れた実践の創造と職員の働き方は循環しながら発展していかなければならないという考えのもとに、社会教育職員の取り組みを紹介し、そのための適切な社会教育労働(公務労働)のあり方を論究する。
(7)辻浩編『高度経済成長と社会教育』大空社出版、2024年1月
本書では、1950年代半ばから70年代初めにかけての高度経済成長期における社会教育の実践的・理論的課題をおさえながら、「地域社会教育実践史」を描く。
〇本稿では以上のうちから、辻の単著である3冊([1]から[3])を取り上げ、そこでの論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。例によってそれは、限定的で我田引水のものになることを断っておきたい。
(1)辻浩著『住民参加型福祉と生涯学習』
〇[1]のテーマは、生涯学習の視点から、「福祉のまちづくりを住民の主体的な参加ですすめるための視点や方法を明らかにする」(1ページ)ことにある。そこで辻は、住民参加による福祉のまちづくりの課題として、①批判精神と創造的情熱を統合すること、②困難を抱えている住民の参加を考えること、③住民参加を社会構造や社会規範のなかでとらえ実践的に解決すること、の3点を指摘する(1~3ページ)。そして、「当事者主体」「学習の自由の尊重」「住民と社会教育職員の学び」に焦点を当てて社会教育・生涯学習の歴史と理論と実践を提示する。その際辻は、これらの課題とめざすべき方向性について、抽象化・体系化された一般論として提起することよりも、実践者にその「苦悩や喜び」(4ページ)を語らせる(実践者の文章を引用する)というスタイルを取る。そこから、実践者とその実践に対して真摯に・誠実に向き合う辻の熱い姿勢が見て取れる。
〇併せて辻は「福祉のまちづくり」は、社会参加や自己実現を含むノーマライゼーションをめざして展開される必要がある。また、無償のボランティア活動に加えて非営利活動・市民活動も含めて住民の連帯に依拠して進められる必要がある。それはまた、住民によるインフォーマルサービスと自治体によるフォーマルサービスの関連を視野に入れて議論する必要がある。さらに、「福祉と教育」の共同性の追求とそこから生まれるその公共性のあり方を考える必要がある、という。こうしたことなどから辻は、「福祉のまちづくり」、その中心課題である「福祉に関する住民の理解を深め、誰もが社会に参加し豊かな交流がもてる地域社会をつくること」(18ページ)を、「社会参加を軸とした主体形成をめざす生涯学習」の視点(24ページ)から考察することになる。
〇その際辻は、「福祉と教育」(「教育福祉」と「福祉教育」)の関連(連携)をその歴史と実践から問い、住民の生活実態や人権問題に注目しながら追究する(論を進める)。
今日、違いが尊重される「共生」文化の育成と「協同」による地域社会経済発展に基づく地域づくりが求められる
今日、経済のグローバル化のなかで、一般労働者や「周辺地域」における貧困が深刻になってきている。構造的な失業に典型的に現れる「社会的排除」を克服するためには、地域社会経済発展の戦略が必要であり、そのための協同活動が求められている。/社会教育と社会福祉の関連を考える際、まずは社会教育の場面に参加していない人への機会の提供と、そこでの学習の内容や方法が問題となるであろう。しかし注意しなければならないのは、学習を通して住民の同質化を強要する結果になることであり、違いが尊重される共生の文化を育むことが大切である。また、経済的要因による社会的排除の問題が深刻になっているなかにあって、協同による地域社会経済発展という戦略のもとで人権問題を考えることが必要になってきている。(43ページ)
福祉教育プログラムが開発されればされるほど、「行為の中の省察」を行える「反省的実践家」が強調されなければならない
福祉教育のプログラム開発は、たんなる便利な教材づくりではなく、それを活用する視点を同時に提案してきた。しかし、プログラムが魅力的であればあるほど、福祉教育の実践者がそれに頼ってしまうという傾向も見られる。その意味で、福祉教育プログラムの活用と福祉教育の実践場面での実践者の主体的判断をどう組み合わせるかが課題となる。/そこで注目されるのが、ドナルド・ショーン(Donald Alan Schön)が提起する「行為の中の省察」(reflection-in-action)や「反省的実践家」(reflective practitioner)という視点である。(190ページ)/福祉教育プログラムが開発されればされるほど、実践者は実践を通じて「状況との対話」や「自己との対話」を行い、(自分の行為や考え方を振り返り、その改善を図りながら成長していく:阪野)「反省的実践家」が求められる。(191ページ)
困難を抱えた住民が社会参加するためにはまず、人と人が語り合い受け止め合える地域社会をつくることが必要である
現代社会は困難を抱えた人たちが社会から孤立し、存在証明を喪失するという現実を生み出している。また、そのような現実を生み出す装置として「世間」が機能し、困難を抱える人たちの異議申し立てを許さない精神的な構造がつくられている。さらに、そのような「世間」に向かって異議申し立てをした場合には、自分とは別の困難を抱えた人を差別する結果に陥ることが多いということも重要である。これらの議論から見えてくる現代社会の課題は、困難を抱えた人々が自分たちで語りあい、受けとめあえる関係をつくり、その関係を地域社会が認め、そこから何かを学ぶことではないだろうか。(217ページ)/福祉教育が主催者の意図に反して差別意識の助長につながる可能性があることは時に指摘されるが、その歯止めをどのようにかけるは難しい。住民誰もが自分らしく生きることのできる地域をつくるためには、一足飛びに人権や共生という価値やそれを実現する方法を提起するのではなく、困難を抱えた住民がまずは親密圏をつくり、そこでの話し合いや活動を地域が認めていくことが、遠回りに見えて意外に近道なのではないだろうか。(218ページ)
大人が地域の福祉に参加しながら共同意志を形成し、子どもとの関係をつくる教育改革が求められる
障害をもつ人への差別意識や偏見をなくすためにはできるだけ早い時期に障害をもつ子どもともたない子どもが触れ合うことが大切だといわれ、「総合的な学習の時間」の導入にともなって、子どもへの福祉教育の機会が増えてきている。(222ページ)/今日の教育改革に関する中央教育審議会の議論は、子どもを学校教育、社会教育、家庭教育でどのようにしていくかに議論が偏り、大人の学習や成長が子どもの発達や地域の教育力を高めるという文脈はほとんど見られない。しかも、子どもへの期待の核心は、経済のグローバル化のなかでますます激しくなる競争にうち勝つ「たくましい日本人」である。(223ページ)/このように、子どもの意見を聞かず、社会の退廃への有効な手立てを示さないまま、一部の大人が特定の価値にもとづいて、未来の国民像を議論しているところに、今日の教育改革に関する議論の欠陥がある。/まずは大人が地域の福祉に参加しながら、地球的な課題を考え、他者の声を「聴く」ことをはじめれば、そのことをもって、子どもとの対話が生まれ、大人と子どもの共同の関係が築けるのではないだろうか。(224ページ)
(2)辻浩著『現代教育福祉論』
〇[2]の課題は、「教育と福祉が連携して、すべての子ども・若者の豊かな人間発達を保障する道筋を明らかにすること」(ⅰページ)にある。その際、「子ども・若者の自立支援と地域づくり」というサブタイルが示すように、「困難をかかえた子ども・若者の自立支援の一環で、教育の機会均等を実現するための方策に思われがちな教育福祉から、人間発達にかかわる教育的価値と誰をも排除しない地域づくりにかかわる教育福祉にまで視野を広げて検討する」(ⅲページ)。そこで辻は、教育福祉を次のように定義する。「教育福祉とは、教育と福祉が連携して、子ども・若者あるいは成人が安定した生活基盤のもとで豊かな人間発達を実現することをめざす概念である。しかしそれは、静態的なものではなく、社会構造の中で生み出される問題を見据え、制度・政策を求め、実践を展開する動態的なものである。教育福祉は、困難をかかえる子どもにも等しく教育の機会を提供するためのものと見なされがちであるが、それだけではなく、教育全体のあり方を見直す視点であり、さらには、地域づくりの視点を提供するものでもある」(1ページ)。
〇そして辻は、この定義に基づいて教育福祉における4つの論点を提起する。①すべての子ども・若者にかかわる教育福祉(教育福祉は困難をかかえた子ども・若者の課題だけではなく、すべての子どもの幸せにつながる教育のあり方を全体的に検討することが必要である)。②「地域と教育」という視点からの教育福祉(教育福祉は学校内に限定されるものではなく、学校と地域が連携するなかで子ども・若者にかかわる多様な人々が共通に学ぶべきものであると考える必要がある)。③まちづくりにつながる教育福祉(教育福祉は困難をかかえた子ども・若者の課題解決のためにまちづくりと連動する必要があるが、それだけではなくまちづくりをすすめる契機としても考えることが必要である)。④社会教育・生涯学習の本質としての教育福祉(教育福祉は社会教育・生涯学習に内包されるが、その意義が大きくなるなかで教育改革と地域づくりに迫ることが必要である)、がそれである(4~9ページ)。こうした広く・新しい視野・枠組みのもとで辻は、これまでの教育福祉の歴史的・理論的な展開を丁寧かつ誠実に振り返り、そして今日的な課題に焦点を当てながら「現代」教育福祉論を展開する。
「開かれた学校づくりにおける教育福祉」と「生活と地域からの教育改革としての教育福祉」をつなぐ理論的探求が求められる
教育福祉は便宜上、学校を中心に行われる「学校教育福祉」と地域を中心に行われる「地域教育福祉」に区分され、それぞれに個別領域の中で実践するタイプと領域横断的に実践するタイプがある。(34ページ)/「開かれた学校づくりにおける教育福祉」を追求する学校教育福祉と「生活と地域からの教育改革としての教育福祉」を追求する地域教育福祉は連携できることが多い。困難をかかえた子どもに対して社会的な制度や地域の力も活用して支援しようというスクールソーシャルワークと、住民やNPOが地域の現実を見つめ学習しながら子どもを支援する実践をつくってきていることが連携することで、今日の教育の全体を見直し、「学習権保障論としての教育福祉論」を大きく発展させることができる。/個別領域を重視した「学校・学級経営の中での教育福祉」や「成人教育の機会均等をめざす教育福祉」は課題が単純でわかりやすい。しかし、子ども・若者の生きづらさが問題となり、その解決が切実な社会の課題になっている中で、多機関連携重視の教育福祉論の発展がめざされている。すなわち、「開かれた学校づくりにおける教育福祉」と「生活と地域からの教育改革としての教育福祉」をつなぐ理論的探求が求められているのである。(36ページ)
社会福祉のなかには具体的に問題を解決する「教育福祉」よりも、意識改革で問題を乗り切る「福祉教育」を重視する発想がないとは言い切れない
小川利夫の教育福祉論は、「教育福祉と福祉教育の関連」について、一つに、福祉教育が現実の教育福祉問題から切り離されてはならないこと(現実は切り離されていることが多いことへの批判を含む)、二つに、教育福祉と関連する福祉教育は、国家権力が支持するものと困難をかかえた民衆が支持するもののせめぎ合いの中で展開されていることを指摘した。(51ページ)/今日では学校教育と並んで車の両輪のように見られることが多い社会教育であるが、歴史的には学校教育を刺激し改革するものとして社会教育が存在した。それは社会の民主化と関連することであるが、必ずしもそうでないこともあった(近代日本の感化救済事業や社会事業は、生活支援のための「物質的救済」には消極的で、「精神的救済」に重要な位置が与えられた:53ページ)。このことは社会福祉が教育福祉を軽視して福祉教育に力を入れることを警戒しなければならないという指摘につながる。具体的に問題を解決する教育福祉よりも、意識改革で問題を乗り切る福祉教育を重視する発想が、今日の日本の社会福祉の中にないとはいいきれない状況の中で忘れてはならないことである。(53ページ)
今日、教育福祉は「教育運動」と「当事者主体」と「地域づくり」の交わりによって展開されるようになっている
今日、教育福祉は「教育運動」と「当事者主体」と「地域づくり」の交わりによって展開されるようになっている(図1:162ページ)。ここでは、一つに、教育運動を当事者が中心となって展開するようになってきていることが注目される(①の領域)。二つに、当事者が自らの権利を行使できるようになることを支援する地域での取り組みが見られることが注目される(②の領域)。三つに、ボランティア活動やNPOの力で、福祉のまちづくりとして子ども・若者の困難と教育にかかわる実践が展開されるようになってきていることが注目される(③の領域)。(そして)これらの根底に、自治の力による教育福祉のまちづくりがある(④の領域)。(161~163ページ)
図1 教育福祉をめぐる重層構造
教育運動や当事者主体と結びついた地域づくりを進めることによって、真に自治的な地域づくりが可能になる
今日、高齢社会や生活困窮者の増加、過疎化、地域保全などに対応するために、政策として「行政と住民の協働(公私協働)」の必要が強く求められている。それは当初、財政的に厳しい中で地域課題を解決しなければならないという側面と、住民が自分たちのくらしを見つめかかわることの大切さという側面が融合したものであったが、今日、それに加えて、日本の国づくりの方向に積極的に協力する国民形成という色合いが強くなってきているように思われる。/このような福祉のまちづくりと「公私協働」の複雑な状況の中で、政策に振り回されない歯止めが求められている。そして<図1>のように、教育運動や当事者主体と結びついた地域づくりをすすめることは、一つの歯止めになると考えられる。切実な課題をもった人のことを念頭におき、その人たちの発達を中心に地域づくりをすすめれば、国づくりの方向性に疑問が生じることもあり、真に自治的な地域づくりが可能になる。(163ページ)
(3)辻浩著『<共生と自治>の社会教育』
〇[3]の目的は、「すべての人が社会に参加して人間らしく生きることができる地域社会を、住民と職員(社会教育職員)の学びに依拠してつくるための実践的な課題を明らかにすること」(3ページ)にある。その際の視座は、「社会教育」をはじめ「共生」「自治」「教育福祉」「地域づくり」というキーワーで表される。辻はいう。「教育福祉と地域づくりの取り組みに含まれる学習を通して、人びとは<共生と自治>の力を身につけ、社会教育(「権利としての社会教育」)はそこで重要な役割を果たす」(5ページ)。「教育福祉」とは、「困難をかかえた人に対して、教育と福祉、すなわち豊かな人間発達の保障と生活基盤の安定をともに追求することである」(3ページ)。<共生と自治>は、「共生のために自治が必要であり、共生によって自治が高まる」(5ページ)という関係にある。こうした思考に基づいて辻は、<共生と自治>の視点から、戦後日本の社会教育論と社会教育実践を問題史的通史として跡づける。加えて、今日的な社会教育実践について、自らの理論的・実践的探究を丁寧かつ真摯に振り返りながら論究する(6ページ)。
「権利としての社会教育」では「学習の自由」と「教育の機会均等」と「人びとのつながり」を追求することが求められる
戦後日本の学習と教育の権利保障の動き(自己教育と条件整備を求める動き:阪野)は、1950年代後半から、その運動にかかわる住民と職員、研究者の間で「権利としての社会教育」と呼ばれるようになった。/「権利としての社会教育」は近代社会の中で確立した自由権と社会権を求めるものだったが、1970年代にユネスコで(自由権と社会権に続く:阪野)第三世代の人権(連帯の権利)が議論され、80年代に入って日本の社会教育でもそれに依拠した議論がはじまる。競争に苛(さいな)まれて人と人とがつながれなくなる一方で、障害のある人たちの社会参加が唱えられ、新たに定住する外国人が増えてくる中で、「連帯の権利」は社会教育を考える新しい視点となった。/しかし今日の状況を見ると、施設の貸し出しや講師の選定、展示内容、配架図書などをめぐって自由が侵害される事案が生じ、争いが起きないようにあらかじめ自己規制することも多くなっているように思われる。また、所得格差が他の要因とも絡(から)んで意欲格差にまで及んでいる中で、等しく教育機会を保障するとはどういうことかが問われている。したがって、社会教育研究は自由権と社会権の追求をないがしろにするわけにはいかない。「権利としての社会教育」では「学習の自由」と「教育の機会均等」と「人びとのつながり」を追求することが求められている。(30~31ページ)
住民参加による福祉のまちづくりはその実践が住民の統制や動員に転じないかを見極めることが重要である
福祉のまちづくりは、困難をかかえた人が地域とかかわりながら自己実現をめざすノーマライゼーションの理念にかなうものであるが、一方で、高齢化によって福祉予算の増額が必要であるにもかかわらず、財政構造を抜本的に改革できないことから、「自助」と「共助」で乗り切ろうとする側面がある。また、「地域包括ケアシステム」をつくるには住民への説明が必要であるが、はじめから政策的にゴールが設定され、そこに辿(たど)り着くことが求められる学習は主体的な学習ということはできない。福祉のまちづくりをめぐって、地域課題を学び実践することでかかわった人びとの人格や能力が豊かに形成されるのか、それとも地域課題への動員的な参加が恒常化し義務的な雰囲気にすらなっていくのか、それを見極めることが重要である。(73ページ)
「学習の自由」「教育の機会均等」の実現と「関係形成」「相互承認」を結びつけた社会教育論の展開が求められる
今日、多様な価値観を認めあってともに生きることができる社会をめざすことが求められ、仲間とともに主体的に課題に取り組むことも大切なことと考えられている。このような中で、「学習の自由」や「教育の機会均等」への関心をもたず、(障害のある人とない人、高齢の人と若い人というように、立場の違う人が交流し、共感することができる:142ページ)「関係形成」や「相互承認」のみに注目する社会教育の考え方もある。(81ページ)/このような中で、「学習の自由」や「教育の機会均等」という課題を捨象して「関係形成」や「相互承認」を追求する社会教育論は、一つに、今日起きている問題に目を閉ざしている点で、二つに、課題は残っているとはいえ今日の状況をつくってきた歴史的な努力に思いを馳(は)せない点で、三つに、これまで関係形成や相互承認ができなかったことが個人の責任にされてしまう点で、気づかないうちに今日的な新しい権力的統制に追随することにならないだろか。「学習の自由」と「教育の機会均等」を今日的な状況の中で実現することと「関係形成」「相互承認」を結びつけた自己教育運動に注目した社会教育論が求められる。(82ページ)
地域・自治体づくりには、学習をはじめ、住民のエネルギーとネットワーク、住民と職員の協働、一般住民の理解と合意などを生み出す仕組みや仕掛けが必要である
(「住民主体」で地域・自治体づくりをすすめる)長野県阿智村では、さまざまな課題をもつ住民が学習を通して共通認識をつくり、そこで出てきた課題を自治体職員もともに考える仕組みがある。地区の計画づくりや広報説明会、村の予算概要の配布を通して、住民が地域課題を自覚して、それを職員とともに考えることができ、公民館や社会教育研究集会で取り上げられることで、その課題を全村的に共有し、解決に取り組もうとする住民の出会いが生まれる。そして、具体的な活動は村づくり委員会や地域自治組織で取り組まれ、協働活動推進課がそれを後押しして、議会は政策をつくる。このようなことを通して、課題に取り組む住民のエネルギーが蓄積され、職員も住民とともに活動する意識をもち、そのことが労働組合で交流されている。(193~194ページ)/ここで注目すべきことは、このような学習と計画策定と情報発信を通して、地域の中で多くの住民から理解を得て合意をつくっていくということである。また、活動にかかわる住民のネットワークが形成され、そのことで当初の目的を達成した後も新しい展開があることも注目される。(194ページ)
アクション・リーチでは➀実践の流れを阻害しない、②実践者の執筆を支援する、③研究を受け止めてもらえる基盤をつくることが重要となる。
社会教育を研究する者の多くが、研究と実践のかかわりを求めて、フィールドをもって研究に取り組み、その方法論(アクション・リサーチ)をめぐる議論もなされている。(157ページ)/実践にかかわる研究者は、細かい事情を理解して鮮明な課題を提起するようになっていく実践者に対して、「負い目」を感じることもある。(161ページ)/実践の根幹にせまるアクション・リサーチのためには、(現在の取り組みだけに注目するのではなく)その実践が生まれる歴史的背景や社会的文脈を知らなければならないし、実践をつぶさに把握している実践者に学ばなければならない。(162、163ページ)/(研究者が実践者とアクション・リサーチを進めるためには、次のようなことが必要かつ重要となる:阪野)第一に、実践をリードする気持ちを抑えて、実践の流れを阻害しないようにするということである。研究者が実践の流れの中に身を置き、求められることに何とか応えていく中で、その先駆性や意義を察知して、それを住民や職員に伝えていくことは、研究者の認識の変容をともなう研究につながると考えられる。(210、211ページ)第二に、実践者が研究者に先立って論稿を書き、場合によっては実践者が執筆できる機会をつくったり、執筆を支援したりすることが大切であるということである。優れた実践を展開しそこに研究者を巻き込むのは力量の高い実践者であり、実践の経緯やその中で感じ取ったことを発信する力ももっている。実践をつぶさに知っている実践者や住民が先に執筆してこそ、研究者が書くべきことが見えてくる。(211ページ)第三に、アクション・リサーチを受け止めてもらえる基盤をつくりながら研究をすすめることが必要であるということである。研究の成果は本来、直接的であれ、間接的であれ、新しい政策の立案や優れた実践の広がりに貢献するものでなければならない。(そのためには)自分の研究を受け止めてもらえる状況を意識的につくることが必要になってきている。(212ページ)
〇以上の限定的なメモからではあるが、辻の言説は「生涯学習と社会教育と教育福祉」「社会教育と地域福祉と地域づくり」「学校教育と社会教育と地域づくり」「共生と自治と社会教育」「歴史と理論と実践」「研究者と実践者と住民」などの視点や枠組みのもとに、また「歴史研究と社会調査とアクション・リサーチ」の手法を用いた多面的・多角的な思考によって展開される、と言えよう。そこに通底するのは、「子ども・若者あるいは成人が安定した生活基盤のもとで豊かな人間発達を実現することをめざす」([2]1ページ)地域づくりについての熱い思いと真摯な姿勢である。
〇また、[1]から[3]を時系列に沿って見ると、辻の「生涯学習論」やそのひとつの側面である「地域づくり教育論」や「教育福祉論」の形成過程、すなわち社会教育や生涯学習の実践や研究の抽象化・体系化の方法と過程がわかる。それは、戦後日本の社会教育研究や生涯学習研究の到達点(成果)でもあり、次の新たな実践や研究への展望を開くものであると言えよう。辻は、研究者の立ち位置や方法について、地域住民や現場職員の「学習」による認識や行動を重視し、その「歴史と実践のなかから苦悩と喜びをともなって立ちのぼってくるような記述をめざしている」([14ページ])とする。強く意識したい。
〇辻の言説の特徴のひとつは、批判的精神と創造的情熱の統合と、困難を抱える住民の社会参加の重視(「当事者主体」)の姿勢にある。そしてその言説は、「社会構造の中で生み出される問題を見据え、制度・政策を求め、実践を展開する動態的なもの」([2]1ページ)である。そこでは、当事者が中心となって展開する「教育運動」が重視される。しかも辻は、「学習権保障としての教育福祉」 を主軸(前提)に、教育全体のあり方を見直す教育改革の視点とともに、主体的・自律的な住民(子ども・若者や成人)による「地域づくり」に視座を置いて「論」を展開する。例によって唐突ではあるが、これらは「まちづくりと市民福祉教育」の実践と研究に課せられたものでもある。強く再認識したい。
追記
辻浩先生の「現代教育福祉論」理解を福祉教育の視点・視座から広げ深めるために、原田正樹先生の「福祉と教育の接近性」についての論稿を紹介しておきたい。『ふくしと教育』通巻34号、大学図書出版、2023年2月、2~3ページに収録されている。転載をご許可いただいた原田正樹先生に感謝申し上げます。
老爺心お節介情報/第60号(2024年7月24日)
「老爺心お節介情報」第60号
地域福祉研究者の皆様
社会福祉協議会関係者の皆様
「老爺心お節介情報」第60号を送ります。
2024年7月24日 大橋 謙策
〇酷暑の夏、皆様には如何お過ごしでしょうか。
〇私の方は、この暑さでは散歩もままならず、睡眠も熟睡できずと、少々へたり込んでいます。皆様には、くれぐれもご自愛の上、ご活躍下さい。
Ⅰ 「災害と福祉」のテーマに、日本地域福祉学会はどう立ち向かうのか?
〇2024年6月15日~16日に、第38回日本地域福祉学会東京大会が文京学院大学・本郷キャンパスを会場にして行われました。昨年の長野大会に続いての対面・集合型の大会で、久し振りに旧知の方々とお会いでき、旧交を温めることができ、嬉しい、楽しい機会でした。
〇私は、大会課題シンポジュウム「災害と地域福祉」のコメンテーターとして参加をしました。
〇コメンテーターとしては異色かもしれませんが、この機会に社会福祉関係者に災害支援のあり方を考え直してほしいと思い、以下のようなレジュメを用意して臨みました。
〇学会としては、災害にどう対応したのかという状況報告はそれなりに重要ですが、それはある意味“善意”のレベルであり、学会としては、被災者支援にどう対応するのか、対応の際の視点は、方法はどうあるべきか、その視点、方法は他の分野の被災者支援の方々とどこが同質で、どこが異質なのかを整理・対応することが、“誠意”ある対応ではないのかという考えのもとに、コメントというより、学会への問題提起という意味合いでレジュメを作成しました。
Ⅱ ケアリングコミュニティの形成と「社会福祉施設の地域貢献」
〇筆者は、1977年に大正大学で行われた日本社会福祉学会のシンポジストに指名され、学会デビューを果たした。その報告は、1978年の日本社会福祉学会紀要『社会福祉学』第19号に「施設の社会化と福祉実践ーー老人福祉施設を中心にー」として掲載されている。
〇筆者は、その論文において、社会福祉施設の社会化と地域化を進め、社会福祉施設を地域住民の生活を守る“共同利用施設”として位置づけるべきことを提言した。
〇その後、筆者は、2014年4月に『ケアとコミュニティ』(ミネルヴァ書房)を編者として上梓する。その本の中で「社会福祉におけるケアの思想とケアリングコミュニティの形成」と題する論文を書き、その一節で「ケアリングコミュニティの構築・コミュニティソーシャルワークの触媒機能」について言及した。
〇ケアリングコミュニティを構築するのには、地域の社会福祉施設が社会化、多機能化、地域化して、地域住民の生活を守る“共同利用施設”の役割を担うことの重要性を指摘した。
〇去る6月に行われた第38回日本地域福祉学会で「地域福祉優秀実践賞」を受賞した広島県福山市鞆の浦地区を基盤に実践を展開している「さくらホーム」の代表をしている羽田冨美江さん(理学療法士)が書かれた『超高齢社会の介護はおもしろい』(七七舎発行、CLC発売)を読んで、“我が意を得たり”と喜んだ。
〇まず、この本のサブタイトルが「介護職と住民でつくる地域共生のまち」というのが嬉しい。
〇第2には、筆者の1978年論文と同じに、「利用者さんを地域化する、「スタッフを地域化する」という理念を掲げて実践していることである。そのことにより、サービス利用者の居場所、生き甲斐が増進し、そのことを通して住民の意識が変わり、介護施設自体が地域の中に入り込んでいくというケアリングコミュニティづくりの実践が展開されている。
〇第3には、福山市鞆の浦地区といっても、人口3900人、高齢化率49・3%で、その地区の中がまた4地区に分かれていて、各地区の祭り、独自の文化を形成してきた地域状況を踏まえ、住民の自宅から半径400mの圏域ごとに小規模多機能型施設等を配置し、その施設が住民の生活を守る拠り所になっているという。これは、厚生労働省が進めている地域共生社会づくりの「小さな拠点」と同じ発想であり、事実上、それらの拠点施設が住民の生活を守る共同利用施設になっていて、ケアリングコミュニティを支えていることである。
〇第4には、「さくらホーム」で実践されているケア観が私の考え方と一致していることである。サービス利用者一人一人にあった、その人の生育歴や地域の人間関係、日常行動様式も十分踏まえたケアプランを作成提供していること、それを前提として、“介護とは相手の人生を支えることであり、生きる意欲をもち続けられようにサポートすること”であり、かつ“どんな人でも居場所がある地域とは、支援が必要な人を住民が自然に受け入れ、「相手に助けが必要なら、できる範囲で手を貸すのが当たり前」という文化がある町です”と言える羽田さんの生き方に大いなる共感をした。
〇皆さんには、是非、この本を読んで欲しい。そして同じような実践を全国で取り組みたいものである。
〇羽田さんの実践と同じように、ケアリングコミュニティづくりに取り組んでいる実践を書いた本を紹介するので、是非読んで頂きたい。
(参考文献)「ケアリングコミュニティの拠点としての施設・社会福祉法人の実践例」
① 『ソーシャルイノベーションー社会福祉法人佛子園が「ごちゃまぜ」で挑む地方再生』(監修 雄谷良成 ダイヤモンド社、2018年9月)
② 『里山人間主義の出番ですー福祉施設がポンプ役のまちづくり』指田志恵子著、あけび書房、2015年10月ーー社会福祉法人優輝会(広島県三次市)の実践)
(2024年7月24日記)
(備考)
「老爺心お節介情報」は、阪野貢先生のブログ(「阪野貢 市民福祉教育研究所」で検索)に第1号から収録されていますので、関心のある方は検索してください。
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