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阪野 貢/自己決定と意思決定:“Nothing about us without us”(私たち抜きに私たちのことを決めるな)―大橋謙策「老爺心お節介情報」第59号の記事に寄せて― 

〇市民福祉教育研究所のブログ記事で人気の高いもののひとつに大橋謙策の「老爺心お節介情報」がある。その第59号(2024年7月6日)で大橋は、「情感的ケア観からアセスメントに基づく科学的ケア観への転換―『求めと必要と合意』に基づく支援」という見出しのもとで、イギリスの「意思決定能力法」(Mental Capacity Act 2005:MCA)について次のように論述する。本稿は、その点をめぐる一人の読者からの問い合わせに、限定的ではあるが、応えようとするものである(資料紹介)。

 イギリスでは、1990年の法律により、福祉サービスを提供する際には、その援助方針やケアプラン及び日常生活のスケジュール等を事前に本人に提示し、本人の理解を踏まえて提供することが求められるようになったが、2005年の「意思決定能力法」ではよりその考え方を重視するように法定化された。
 日本の民法の成年後見制度や社会福祉法の日常生活自立支援事業が福祉サービスを必要としている人が自ら意思決定できないことを判定するということを前提にして制度設計されているのと違い、イギリスの「意思決定能力法」は日本と逆の立場を取っている。
 「意思決定能力法」は①知的障害者、精神障害者、認知症を有する高齢者、高次脳機能障害を負った人々を問わず、すべての人には判断能力があるとする「判断能力存在の推定」原則を出発としており、②この法律は他者の意思決定に関与する人々の権限について定める法律ではなく、意思決定に困難を有する人々の支援のされ方について定める法律であるとしている。その上で、③「意思決定」とは、(イ)自分の置かれた状況を客観的に認識して意思決定を行う必要性を理解し、(ロ)そうした状況に関連する情報を理解、保持、比較、活用して (ハ)何をどうしたいか、どうすべきかについて、自分の意思を決めることを意味する。したがって、結果としての「決定」ではなく、「決定するという行為」そのものが着目される。意思決定を他者の支援を借りながら「支援された意思決定」の概念であるとしている。
 日本だと、“安易に”、あの人は判断能力がないから、脆弱だから“その意思を代行してあげる”ということになりかねない。言語表現能力や他の意思表明方法を十分に駆使できない障害児・者の方でも、自分の気持ちの良い状態には“快”の表情を示すし、気持ちが悪ければ“不快”の表現ができる。福祉サービス従事者は安易に“意思決定の代行”をするのではなく、常に福祉サービスを必要としている人本人の意思、求めていることを把握することに努める必要がある。
 その上で、本人が自覚できていない人、食わず嫌いでサービス利用の意向を持てていない人に対し、専門職としてはニーズを科学的に分析・診断・評価し、必要と判断したサービスを説明し、その上で、両者の考え方、プランのあり方を出し合って、両者の合意に基づいて援助方針、ケアプランを作成することが求められている。

〇以下では読者の求めに応じて、(1)イギリスの「意思決定能力法」と(2)「自己決定」と「意思決定」に関する4本の論稿を紹介し、そのポイントのいくつかをメモっておくことにする(抜き書き)。

(1)イギリスの「意思決定能力法」
2005年意思決定能力法は、2005年4月に成立し2007年10月から施行された、イギリスにおける成年後見制度に関する基本法である。それは、それまでのパターナリスティックな制約を課していた管理主義的な制度から、本人(成年被後見人)の意思決定を尊重し支援する本人中心主義の制度への転換を図ったものである。なお、「パターナリズム」(paternalism)については、本ブログの<まちづくりと市民福祉教育>(10)パターナリズムと市民福祉教育/2012年9月10日/本文、を参照されたい。

① 菅冨美枝「自己決定を支援する法制度、支援者を支援する法制度―イギリス2005年意思決定能力法からの示唆―」『大原社会問題研究所雑誌』No. 622、法政大学大原社会問題研究所、2010年8月、33~49ページ。
2005年意思決定能力法の最大の特徴は、①弱い(vulnerable=傷つきやすい)立場にある人々をエンパワーし保護するための、統一的な法的枠組みを与え、②「誰が」「どのような状況に限って」本人に代わって意思決定をなす権限を与えられるのか、またその際には、 ③どのような他者関与が行われるべきであり、どのような関与が禁じられるべきか、を明らかにした最初の制定法であるという点にある。(33ページ)

2005年意思決定能力法は、知的障害者、精神的障害者、認知症を有する高齢者、高次脳機能障害を負った人々を問わず、すべての人には判断能力があるとする「判断能力存在の推定」原則を出発点とし、判断能力が不十分な状態にあってもできる限り自己決定を実行できるような法的枠組みの構築を目指している。特に、契約法との関係では、契約する自由を守り、成年後見が開始されても契約能力は影響を受けない点が、わが国の制限行為能力制度にみられる法態勢(わが国の成年後見制度においては、成年後見開始の審判がなされると、本人は行為能力を制限され、民法上契約など「法律行為」をなすことができなくなる。)とは大きく異なる。(33ページ)

2005年意思決定能力法は、意思決定能力に困難を抱える人々が直面するあらゆる「決定」問題が主体的に解決されることを目的として制定された法律である。別の言い方をすれば、 2005年意思決定能力法は、他者の意思決定に関与する人々の権限について定める法律(後見人を中心とする成年後見法)ではなく、意思決定に困難を有する人々の支援のされかたについて定める法律(本人を中心とする成年後見法)である。(34ページ)

2005年意思決定能力法において、「意思決定(decision-making)」とは、①自分の置かれた状況を客観的に認識して、意思決定を行う必要性を理解し、②そうした状況に関連する情報を理解、保持、比較、活用して、③何をしたいか、どうすべきかについて、自分の意思を決めることを意味している。結果としての「決定」ではなく、「決定するという行為」そのものが着目されている点が特徴的である。また、意思決定過程(decision-making process)に焦点が当てられることによって(前述,①②③の流れ)、意思決定を他者の支援を借りながら行う「支援された意思決定(assisted decision-making)」の概念が取り入れられうるという利点がある。(34ページ)

イギリスの成年後見法態勢は、人が「自律的存在」であることを出発点とし、自分の事柄について自分で決定することが困難な状況になっても、他者の介入(お節介)を排除しながらいかにして自己決定を貫けるかを問い、自己決定を持続できるための道を開くことに焦点を当てている。一方、一般的に言って、日本社会においては、「家族共同体型」福祉観が強く(例 臓器移植について、本人の同意と独立して、家族の同意が置かれている)、また、他人に対する依存心(自ら決定を行うより、行ってもらうことを好む「甘え」の姿勢)が強いという文化的特徴があるように思われる。自己決定を支援されることよりむしろ、決断自体を他人に任せることを好む文化、あるいは、他人からの働きかけを押し付けとは受け止めず、むしろ引き入れる文化において、成年後見制度という、本質的に他者関与を前提とした制度ゆえの「内在的権利侵害性」に対して、あまり危険意識は共有されていないようにも思われる。(35ページ)

② 田中美穂・児玉聡「英国の終末期医療における意思能力法2005の現状と課題―任意後見である永続的代理権と独立意思能力代弁人の意義をめぐって―」『生命倫理』日本生命倫理学会、Vol.24 No.1(通巻25号)、2014年9月、96~106ページ。
MCA2005は、意思能力が無く、自分で意思決定できない人について、その人に代わって何かを行ったり、決定したりする方法、いわゆる成年後見制度について取り決めた法律である。次の5項目を原則としている(MCA2005の原則)(97ページ)。
1.能力を失っていると証明されない限り、人は能力を有しているとみなされなければならない。
2.当人が自ら意思決定するのを支援する実践可能な措置がすべて失敗に終わったのではない限り、その人は意思決定できないものとして取り扱われてはならない。
3.単に愚かな決定をするという理由だけで、その人は決定することができないものとして取り扱われてはならない。
4.能力を失った人のために、あるいはその人の代わりに本法に基づいて行われる行為および決定は、当人の最善の利益(ベスト・インタレスト)に基づいてなされなければならない。
5.行為や決定が行われる前に、それらの行為や決定が必要とされる目的が、本人の権利や行動の自由をより制約しない別の方法で同程度に効果的に達成できるかどうかについて、検討されなければならない。(98ページ)

(2)「自己決定」と「意思決定」
人はさまざまな事柄について「自己決定」し、自分の生活と人生を自律的に生きる権利を有している。これは自己決定権あるいは人格的自律権として、憲法第13条に規定されている幸福追求権の一部に位置づけられている。「意思決定」については、2006年12月に国連総会で採択された「障害者権利条約」(日本は2014年1月に批准、同年2月に発効)のなかで“supported decision making”(支援を受けた意思決定、支援付き意思決定、意思決定支援)という用語が用いられ、日本では2011年8月公布・施行の「改正障害者基本法」(第23条)や2012年6月公布、翌2013年4月施行の「障害者総合支援法」(第42条)に「意思決定の支援」という文言が法文化されている。なお、「自己決定」については、本ブログの雑感(85)「自己決定」と「自己責任」:いま改めてその虚飾と欺瞞について考える―小松美彦著『「自己決定権」という罠』と吉崎祥司著『「自己責任論」をのりこえる』の読後メモ―/2019年6月22日/本文、を参照されたい。

③ 遠藤美貴「『自己決定』と『支援を受けた意思決定』」『立教女学院短期大学紀要』第48号、立教女学院短期大学、2017年2月、81~94ページ。
もし自己決定を自分ひとりの意思と判断で選択・決定することであると捉えるならば、抽象的な概念の理解が難しいとされ、ことばで意思を表現することやことばで意味を受け止めることが難しいとされている知的障害当事者の自己決定は困難であるかもしれない。/ しかし、自己決定の困難さは知的障害当事者に限ったことではない。人はたくさんの選択肢の中から何かを選び、決定する時に周囲からの助言や支援を受け、判断しながら決定している。また、自分の意思というものは、自分ひとりで決めていくものではなく、周囲の人とのかかわりの中で決めていくものでもある。ただ、知的障害当事者の自己決定を考える時、これまで過小評価されてきたことや自己決定する経験が少なかったことなど、彼らが置かれてきた環境を考慮すると、 自己決定を保障するためにその経験を増やし、そのための環境を整え、社会的な認識を変え、過小評価されないようにするための社会変革が必要となる。(82ページ)

自己決定と意思決定、両者の用語の違いについて柳原清子は、「決意すること」という意味において大差はないが、原語は異なるとし、“self-determination”である自己決定とは、理解力・判断力を前提として、自己の決定に対する「主体性」「責任性」「自律性」を含む概念であり、人権・尊厳という捉えと意識が大きく関与するものであると述べている。一方、意思決定については、原語である“decision making”の“making”という語が“make”(つくる)の進行形の“~ing”であり、それは“decision”(結論・決定事項・決定)を“making”(つくり上げる)ということであることから、複数の要素とプロセスがからんでいる用語であること、ビジネスや政治など社会的に広く使われており、先の見通しを立て決断していくことを表した概念となっていると区別したうえで、自己か他者かを明確にしたい時は自己決定の語を、先のことを決めることは意思決定 の語を使うことが正しいと述べている。前者は「主体」を、後者は「対象」を指していると言える。(84ページ)

一方、知的障害当事者が自己決定の主体となった場合、その「主体」の能力・基準・条件によって自己決定か意思決定かを分ける考え方もある。例えば、柴田洋弥は「必要な判断能力に対して、本人の判断能力が十分であれば、自己決定によりその行為を行なうが、判断能力が不充分なときには、意思決定支援が必要となる」と述べている。木口恵美子もまた、「障害者の権利条約は、自分で自分の意思決定を行なう権利(自己決定権)を認めており、意思決定支援は自己決定が困難な人が意思決定を行なうための支援である」と述べており、当該当事者の判断能力が二つの用語を使い分ける基準となっている。このような判断能力に拠る分け方は個人モデルの視点であるとも言える。(84ページ)

④ 安西美咲「ソーシャルワークにおける『自己決定』と『意思決定』の理論構造の検討―日本における意思決定の支援に関するガイドラインの2つの類型―」『社会福祉学評論』第23号、日本社会福祉学会関東部会、2023年2月、31~45ページ。
最近は「自己決定」という言葉とともに「意思決定」という言葉が頻繁に使われるようになってきた。この「自己決定」と「意思決定」は同じ意味のように、または混同して使われることが多い。(34ページ)/「意思決定」という言葉の登場を整理していくと、ソーシャルワークの価値としてある「自己決定」は「意思決定」という言葉を使い分ける必要性に気づかされる。つまり、この2つの用語の理論構造を理解することが必要となる。/ここで整理をするとすれば、「自己決定」は“人権として尊重”するものであり、「意思決定」はその手段、すなわち、“能力として支援”するものとして考えるのが自然である。それぞれを独立した理論・価値として捉えることが重要である。(35~36ページ)

自己決定の権利を阻害され得る人たちは、意思決定の機会を奪われている状態だけでなく、意思決定をするための選択肢が少ない、すなわち意思形成をすることに難しさを抱えている可能性がある。そしてそれは本人の能力の問題だけでなく、経験不足によるものであったり、情報不足によるものであったりと、要因はさまざまあり得るのである。そう考えればソーシャルワーカーが行うべき意思決定の支援は、意思決定できる環境を整えていくことであり、それが「自己決定を尊重する」という価値と倫理に繋がってくるのではないだろうか。なお、そのことはただ選択肢を与え、そこから選択するということが意思決定の支援なのではなく、その選択肢をどのように持つのかという本人の価値観に寄り添った支援が必要となり、本人が選択・決定することを促し、見守るだけが意思決定の支援ではないということを示しているとも言える。(36ページ)

〇「自己決定」と「意思決定」について一言すると、自己決定についてはまず、クライエントには自分のことは自分で決定するというニーズや、自由や尊厳の基本的権利があるというバイステック(Felix P. Biestek)の「ケースワークの7原則」を思い出す。また、自己決定とは自分の考えに基づいて自由に自分らしく決定し生きることであるが(自律性)、その際の自分の考えや結論は、周囲の人や社会との関わりのなかで決めていく・決められるものである(関係性)。すなわち、自己決定は少なくとも、自律性と関係性を構成要素とする。
〇意思決定(力)は、①理解(意思決定のために必要な事柄を理解していること)、②認識(意思決定を自分自身の問題として認識していること)、③論理的思考(意思決定の内容について論理的に判断できること)、④表明(自分の意思(考えや結論)を表明できること)の4つの要素から構成されるといわれる(厚生労働省「認知症の人の日常生活・社会生活における意思決定支援ガイドライン」2018年6月、4ページ)。
〇こうした自己決定や意思決定への支援は、自己決定や意思決定を可能にするひとつの手段・方法であり、自己実現を促す行為やシステムである、と言ってよい。しかも、自己決定支援や意思決定支援は、障がい者などの判断能力や決定能力は不十分であるということが暗黙に了解されており、それを如何に覆すか、そのための環境醸成や社会改革を如何に図るかが問われることになる。
〇なお、本稿のタイトルの“Nothing about us without us”(私たち抜きに私たちのことを決めるな)は、アメリカにおける自立生活運動のスローガンとして1980年代から使われてきたものである。上述の「障害者権利条約」の策定過程においても、すべての障がい者の共通の「思い」を示すものとして使用された。胸に刻むとともに、その思いをしっかりと行動に表すべき言葉である。そしてまた、例によって唐突であるが、「まちづくりと市民福祉教育」の実践と研究に通底する理念でもある。

阪野 貢/「教育の公共性」を考える:「まちづくりと市民福祉教育」は政治の課題である ―宮寺晃夫著『教育の正議論』再読メモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、宮寺晃夫著『教育の正議論―平等・公共性・統合―』(勁草書房、2014年5月。以下[1])がある。[1]では、経済・社会システムの自由化と市場化が促され、自助の強要と共助や公助の機能低下が進むなかで、教育の格差や不平等が深刻化している。そういう現状認識のもとで、「教育の正義」を問うのではなく、「正義」の名のもとで教育のなされ方を問い質(ただ)す。宮寺はいう。「『正義』の名で取り戻さなければならないものがあるとすれば、それは、『平等と教育』、『公共性と教育』、『統合と教育』をめぐる討議に、さまざまな考え方、さまざまな立場からの参加を人びとに保障する公論の場である。(中略)『行政の効率化』と、『住民に対する直接的な責任』の名のもとで、教育に関する公論の場を不必要とし、成り立たなくしている状況が、教育のイッシュー(課題、問題)を教育のプロフェッショナルだけで解決しようとする閉鎖的な状況とともに、不正義なのである」(ⅲページ)。
〇すなわち、[1]は、「教育に関して公論の場を維持するのが危うくなってきている」なかで、「平等・公共性・統合」という「議事項目」から一連の教育政策を分析し、それによって「公論の場」の復興を求める。そして、教育をめぐって「自由」と「平等」のあり方が問われる時代にあって、「自由のなかでの平等」をいかに実現するかを探るのである。なお、[1]は、2006年から2013年の間に書かれた論稿を編んだものであり、しかも「時論」としての性格をおびたものであると宮寺はいう。
〇ここでは[1]のなかから、「教育の公共性」をめぐる論点や言説に限って、そのいくつか(以下の②から⑤)をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

①「教育への希望」は、潜在的な能力や、生れや境遇などの個人的なものではなく、人びとの互恵的関係のもとで連帯意識を育む社会的課題である
貧困が、子どもの希望をいかに限られた範囲に押しとどめているか。それをもっともよく示しているのは、児童養護施設で生活する子どもたちの事例である。養護施設の子どもの多くは、みずからの意思で、大学進学を希望しない。成就できない希望は、はじめから選択肢に入っていない。だからこそ、希望の抱き方を広げ、いままで選択肢に入ってこなかった項目にも可能性を開いていくこと、つまり「希望への教育」がなされなければならない。それは、財政の裏づけを通して人びとの「社会的」連帯意識なしには実現しない。(48ページ)/どのような境遇の子どもも、進路の選択のさい、生れと境遇の不平等のために、はじめから視野に入ってこないような選択肢がないようにしていく責任が、政策立案者にはある。選択を可能にする財政的な基盤の整備をふくめて、人びとに、負担を共有させていく責任もある。「教育への希望」は、人びとの互恵的関係なしには実現しない。子どもの教育は、親個人の責任というより、人びとの連帯意識をはぐくむ「社会的」課題なのである。(49~50ページ)

② 教育の公共性には「公共的な理由」を添え、他者の立場からも受け入れ可能な自己利益をお互いに示し合うことが必要である
自己利益を考慮に入れない個人としての市民、その市民がつくりだす公共性。そうした市民的公共性が成り立っていると想定される公共圏(国家権力や市場経済システムから独立し、誰もが参加できて、人々の共通の関心事について語り合える空間:阪野)(108ページ)の内部でさえ、個人としての市民が特定の信条や宗派の教義など、要するにそれぞれの文化的背景に従った生き方をしており、それが個々の選択の準拠となっている。政治的な決定は、そうした多様な善き生を認め合ったうえでなされるのであって、公共圏の構成員としての市民は、背景的文化をいっさい洗い流した抽象的な個人でなければならないということはない。(109~110ページ)/市民は、自分の子どもの教育にかかわる決定については、さまざまな方針を有し、たがいに自己利益に突き動かされている。そうした多様な期待が重なり合うなかで、市民の間で合意形成を図るためには、人びとが主張を述べ合うとき、裏づけとなる理由、しかもその理由が、他の人、いや反対者の側に立っても受け入れられる理由(「公共的な理由」:ジョン・ロールズ)を添え、他者の立場からも受け入れ可能な自己利益をおたがいに示し合うことを通して、公共財としての教育の分配に、責任を分け合っていくことが必要である。(110~111ページ)

③ 教育の公共性は、外部に排除された/退出した人びとの批判にも開かれた自己批評的なものでなくてはならない
私的領域で享受される自由、とくに思想・信条・信念の自由、幸福感の自由、将来の見通しの自由など、個人の生き方に関わる多様な自由がそのまま公共領域に持ち込まれると、途端に多元的な状況が現出する。その公共領域に多元的な状況が現出すると、各自の自由な主張とその根拠はたがいに共約項を持たないまま文字どおり行き交うことになる。しかし、この多元的状況の現実から目を逸(そ)らすべきではない。この現実から新たな可能性が生まれてくることがありうるからである。その可能性は、なによりも共約項を持たない他者との討議を続けるなかから開けてくる。教育の公共性は、囲い込まれた市民的公共性を超えて、外部に排除された/退出した人びとの批判に開かれた自己批評的な公共性でなければはならないであろう。(154ページ)

④ 教育の公共性には、教育の私事化の流れが強まるなかで、教育機会の実質的な平等を確保するための公論の場を確保することが求められる
教育は「生存を維持する」ために必要とされる基本財であり、その限り共通に供給されなければならない面もある。「教育機会の均等」はその最たるものである。しかし、それ以上に教育は、「才能を開花させる」ための必要に根差しており、才能がさまざまであるように、必要の中身はさまざまで、公的支援で一律に満たされることはない。それゆえ「教育の公共性」は、単に統一性、平等性を指標にして語りつくされる主題ではない。それは、わたしたち一人ひとりの個別の必要と決定を、わたしたち全体がどこまで認めることができるかという問題ともかかわっている。(157ページ)/親の責任でなされる教育に重みが掛けられるなど、教育の私事化の流れが強まる一方で、社会全体で子育てに責任を果たすことを示すため、巨額の公費主出がなされようとしている。そうした逆巻く潮流がつくりだす渦のなかで、公共領域の教育に子どもを留める人と、私的領域の教育に委ねる人が、それぞれ立場(を)入れ換えて、たがいの教育意思の「正当化」(個人が自分の要求を相対化し、それが差し向けられる相手側(場合によれば反対者)からみても「正当だ」と認められる理由を示すこと。:157ページ)を図るフォーラム(公開討論)が必要になる。それを築くことが「教育の公共性」論の使命である。(160ページ)/(すなわち)すべての親が、“自分の子どもだけは‥‥‥”といい出しかねない個人化の時代だからこそ、自由のなかで平等性を確保する議論が求められる。その議論がなされていくには、なによりも、当事者が対等な立場で参加できる公論の場を、「正義」の名で確保していかなければならない。(187ページ)

⑤ 教育の公共性は、教育の多様性がもたらす諸問題(共生の強制は個人の自由と両立するか)について政治的解決が求められる課題である
(白人と黒人の生徒などを同じ学校で平等に教育する)統合教育は、良い効果が得られるからといって、正当化されるわけではない。問われなければならないのは、自由、すなわち、個人の幸福追求の自由とアソシエーションの自由を前提にしたうえで、なおかつ相反する生き方の人と暮しを共にさせることがどこまで正当か、という憲法的枠組みにかかわる根本的な問題である。要するに、共生の強制は個人の自由と両立するか、という問題である。(205ページ)/大人は、学校に対しても、親として、地域社会の一員として、国家(の憲法的枠組み)の担い手として、それぞれ異なる役割を同時に演じ、異なる責任を同時に負っている。/大人はわが子の親であるとともに、国家のすべての子どもの保護者でもある。このとき学校は、個人的領域でも、社会的領域でもなく、まさに政治的領域(ハンナ・アーレントの学校の3領域論)に属する公共の機関となる。教育の公共性とは、教育が多様性に対して開かれており、多様性を受け入れる準備ができているという「開放性」と「準備性」を意味するが、多様性がもたらす諸問題の解決は個人間の利害調整を超えて、全体的な公正性の観点から図られなければならず、それは政治の課題である。(206~207ページ)

⑥ 時代と社会によって変化する教育の価値規準は、社会的に複合化されたものであり、その単一化を急ぐべきではない
いま求められるのは、手品のようにハンカチのなかから教育の価値規準を取り出してみせることではないであろう。教育という財は社会の所産であり、社会の他の財を分配していく財でもある。何を「教育」と呼ぶかも時代と社会により変化していく。それゆえ教育の場合、価値規準自体が社会的な複合物であることを避けられない。そこで、価値規準の単一化をあえて急がずに、他の分野の価値規準との関連、競合、接続などを経たうえで、それらを統合する端的な規準を手探りでみつけていく努力が、まだまだ必要とされるのではないか。(255ページ)

〇以上の論点や言説は、「まちづくりと市民福祉教育」の実践や研究に通底するものでもある。⑤に関連して一言すれば、「まちづくりと市民福祉教育」はこれまで、政治的領域に位置づけて論じることに必ずしも積極的であったとはいえない。まちづくりは、公共性をはじめ地域性や多様性、自律性や共働性などが厳しく問われる活動であり運動である。教育や学校は、国家による巨大な政治システムであり、そのもとでの教育行政の重層構造に組み込まれている。そうであるがゆえに、「まちづくりと市民福祉教育」には、多くの市民一人ひとりに、また地域の多様な主体に改善や改革についての確かな決意や覚悟、そして行動が求められる。
〇そして、「いま」の政治へのアプローチなくして、「いま」の、また「新しい」「まちづくりと市民福祉教育」の推進を図ることは難しい。その点で、「まちづくりと市民福祉教育」は政治的な課題であり、政治的設定を必要とする。また、それが展開される場は、参加する市民に対して、「まちづくりと市民福祉教育」の意義をいかに受け止めるかが問われ、異なる価値観をもつ多様な人々が共に生きる 「開かれた共生社会」をいかに探求するか(⑥)が問われる「政治的実験場」(207ページ)となる。そこにおいて、多くの市民一人ひとりに、「希望」をつなぐ(①)「まちづくりと市民福祉教育」の推進か図られるのである。留意したい。

老爺心お節介情報/第59号(2024年7月6日)

「老爺心お節介情報」第59号

地域福祉研究者の皆様
社会福祉協議会関係の皆様

暑い日が続いていますが、お変わりありませんか。
「老爺心お節介情報」第59号を送ります。
本体部分に、うまく「社会生活モデルに基づくアセスメントシート」を組み込めませんでしたので、別々のファイルで送ります。できれば、一体化させて保存ください。
興味、関心のある方に自由に読んでもらってください。
皆様ご自愛の上、ご活躍下さい。

2024年7月6日   大橋 謙策

〇皆さま、暑い日々がやってきましたが、お変わりありませんでしょうか。私の方は変わらず過ごしています。
〇今号は、当初、6月に行われた日本地域福祉学会で学んだこと、感じたことを書こうと思っていたのですが、思うように考えがまとまらないので、先に日本社会事業大学同窓会北海道支部の機関誌『アガペ』に寄稿した第3回目の拙稿を掲載することにしました。

<日本社会事業大学同窓会北海道支部・『アガぺ』寄稿その③>

Ⅰ 情感的ケア観からアセスメントに基づく科学的ケア観への転換――「求めと必要と合意」に基づく支援

〇日本の医療の発展の要因の一つは、症状、病変の事象から、それがどこに起因するのかを診断する検査技術の発展が大きく貢献してきたと筆者は考えている。かつては、脈を取ったり、へらで舌の状態を観察したり、聴診器で心臓の鼓動や呼吸を確認するといった診断法が、今ではレントゲン、尿検査、血液検査、MRI、CTスキャナーといった検査機器の開発により、症状、病変の診断は特段に向上してきている。それらの検査を担う検査技師の養成、資格まで確立してきている。
〇かつて、巷で言い交された“あのやぶ医者は!”といった言葉は今日では死語になっている。
〇それに比して、社会福祉分野では、長らく中央集権的機関委任事務体制のもとで、サービス利用者が行政により認定され、その人たちが行政の委任を受けた措置施設で生活を送ることを前提に、その人のADL(日常自立生活能力)が低くければ、それを補完する“世話”として三大介護と呼ばれる排せつ介助支援、食事摂取支援、入浴介助支援が展開されてきた。
〇そこでは、措置されたサービスを必要としている人の生活を向上させるために、何をするべきか、何に気を付けるべきかの診断という発想は事実上なかったといっても過言ではない。1971年の「社会福祉施設緊急整備計画」の中では、それら福祉サービスを必要としている人々を施設に“収容保護”し、いわゆる“最低限度の生活を保障すればいい”という考えで貫かれていたといっても過言ではないであろう。
〇1971年以降の「入所型社会福祉施設中心の時代」においては、ある意味、措置された福祉サービスを必要としている人の生活を“丸ごと抱え込んで支援する”という発想のもとに、その利用者の個々の差異には着目せず、同じ生活リズムで、集団的に生活を“させる”というケアを提供する職員側の立場、視点からの対応の仕方で済まされてきた。
〇しかしながら、1990年の“社会福祉八法改正”により、在宅福祉サービスが法定化され、かつ地方分権の下で中央集権的機関委任事務体制の改革が求められるようになると、状況は変わる。
〇在宅福祉サービスを利用している人は、一人ひとり生活環境も違うし、行動様式も異なるし、同一空間で集団生活をしているわけではない。それだけに、在宅福祉サービスを利用している人の支援には個々人の生活状況や本人の希望を尊重したサービスの提供が求められるようになる。
〇筆者は、1987年に書いた論文「社会福祉思想・法理念におけるレクリエーションの位置」(日本社会事業大学研究紀要第34集所収、1988年刊)において、入所型施設で提供しているサービスの分節化と構造化の必要性を提起した。それは福祉サービスを必要としている人の状況に応じて分節化させたサービスの中から必要なものを選択し、パッケージ化(当時、ケアマネジメントという用語はなかった)させれば画一的なサービス提供にもならず、かつ在宅福祉サービスの個々人の状況に対応できるということを提起した。

註1 拙著『地域福祉とは何か――哲学・理念・システムとコミュニティソーシャルワーク』(中央法規出版、2022年4月刊、P32参照)

〇このことを進めるためには、福祉サービスを必要としている人は何を望んでいるのかその人の希望、願い、思いをきちんと受け止めなければならないし、同時に福祉サービスを必要としている人にケア・支援を行う専門職が、その人にはどういうサービスが必要であるかを診断したうえで支援する必要があることも提起した。
〇筆者の言い方で言えば、福祉サービスを必要としている人の求め、希望と専門職が生支援上必要と考えることを出し合い、両者の合意で在宅福祉サービスの提供を考えていくという「求めと必要と合意」に基づく支援のあり方である。
〇ところで、福祉サービスを必要としている人々への支援において、よほど気を付けないと無意識のうちに“上から目線”の世話をしてあげるというパターナリズムになりがちになる。
〇福祉サービスを必要としている人はさまざまな心身機能の障害や生活上の機能障害において要介護、要支援の状態に陥っているので、ついつい福祉サービス従事者はその機能障害を改善、補完するために“いいことをしてあげる”という意識になりがちである。それは、一見“善意”に満ちた行為として考えられがちであるが、福祉サービスを必要としている人の意思や主体性を尊重しての“誠意”ある行為といえるのであろうか。
〇また、福祉サービスを必要としている人で家族と同居している場合には、福祉サービスを必要としている人本人の意思よりも、同居している家族が家族自身の“思い”、“願い”を福祉サービス従事者に話され、その家族の希望が優先され、ややもすると福祉サービスを必要としている本人の意向や意思は無視されがちになる。ましてや、福祉サービスを必要としている人は、日常的に同居している家族に普段から迷惑をかけているからという“負い目”もあり、家族に遠慮して、自分の意向、意思を表明しない場合が多々ある。日本の戦後の社会保障・社会福祉制度設計は、家族がおり、家族が“助け合う”ことを当たり前のように前提として設計されてきたために、福祉サービスを必要としている人本人の意思や希望は家族の前ではかきけされてしまいがちであった。
〇イギリスのブラッドショウは1970年代に、住民の抱える生活上のニーズを4つに類型化(①本人から表明されたニーズ、②住民は生活上の不安や不満、生活のしづらさを抱えているが表明されていないニーズ、③住民自身は気が付いていないし、表明もしていないが専門職が気づき、必要だと考えられるニーズ、④社会的にすでにニーズとして把握され、対応策が考えられているニーズ)した。
〇この類型化されたニーズにおいて、日本の社会福祉分野において気を付けなければならないニーズ把握の問題は、②の住民が生活上様々なニーズがあるにも関わらず気が付いていないか、自覚しておらず、表明されていないニーズである。
〇日本の“世間体の文化”、“忖度の文化”、”もの言わぬ文化”に馴染んで生活してきた国民は、自らの意思を表明することや自らの希望や願いを表明することに多くの人が躊躇してしまう。したがって、本人が自分の意見や気持ちを表明しないのだからニーズがないのだろうと解釈するととんでもない間違いを起こすことにもなりかねない。それらのニーズは潜在化しがちで、対応が遅れることになる。
〇一方、専門職が気づき、必要と判断するニーズにおいても、社会生活モデルに基づくアセスメントやナラティブに基づく支援方針の立案が的確に行われていればいいが、上記したようなパターナリズムでのアプローチをしている場合には専門職の判断が必ずしも妥当であると言えない場合が生じてくる。
〇イギリスでは、1990年の法律により、福祉サービスを提供する際には、その援助方針やケアプラン及び日常生活のスケジュール等を事前に本人に提示し、本人の理解を踏まえて提供することが求められるようになったが、2005年の「意思決定能力法」ではよりその考え方を重視するように法定化された。
〇日本の民法の成年後見制度や社会福祉法の日常生活自立支援事業が福祉サービスを必要としている人が自ら意思決定できないことを判定するということを前提にして制度設計されているのと違い、イギリスの「意思決定能力法」は日本と逆の立場を取っている。
〇「意思決定能力法」は①知的障害者、精神障害者、認知症を有する高齢者、高次脳機能障害を負った人々を問わず、すべての人には判断能力があるとする「判断能力存在の推定」原則を出発としており、②この法律は他者の意思決定に関与する人々の権限について定める法律ではなく、意思決定に困難を有する人々の支援のされ方について定める法律であるとしている。その上で、③「意思決定」とは、(イ)自分の置かれた状況を客観的に認識して意思決定を行う必要性を理解し、(ロ)そうした状況に関連する情報を理解、保持、比較、活用して (ハ)何をどうしたいか、どうすべきかについて、自分の意思を決めることを意味する。したがって、結果としての「決定」ではなく、「決定するという行為」そのものが着目される。意思決定を他者の支援を借りながら「支援された意思決定」の概念であるとしている。
〇日本だと、“安易に”、あの人は判断能力がないから、脆弱だから“その意思を代行してあげる”ということになりかねない。言語表現能力や他の意思表明方法を十分に駆使できない障害児・者の方でも、自分の気持ちの良い状態には“快”の表情を示すし、気持ちが悪ければ“不快”の表現ができる。福祉サービス従事者は安易に“意思決定の代行”をするのではなく、常に福祉サービスを必要としている人本人の意思、求めていることを把握することに努める必要がある。
〇その上で、本人が自覚できていない人、食わず嫌いでサービス利用の意向を持てていない人に対し、専門職としてはニーズを科学的に分析・診断・評価し、必要と判断したサービスを説明し、その上で、両者の考え方、プランのあり方を出し合って、両者の合意に基づいて援助方針、ケアプランを作成することが求められている。

註2,菅冨美枝「自己決定を支援する法制度・支援者を支援する法制度――イギリス2005年意思決定能力法からの示唆―」法政大学大原社会問題研究所雑誌No622、2010年8月所収)参照

Ⅱ ナラティブ(人生の物語)を大切にした支援――福祉サービスを必要としている人のアセスメントを「医学モデル」から「社会生活モデル」へ

〇筆者は、1970年頃から、社会福祉学研究、社会福祉実践において労働経済学を理論的支柱にした経済的貧困に対する金銭給付と憲法第25条に基づく最低限度の生活保障の考え方では国民が抱える生活問題の解決ができず、新たな社会福祉の考え方が必要であると考え、提唱してきた。
〇筆者が考える社会福祉とは、その人が願うその人らしさの自立生活が何らかの事由によって阻害、停滞、不足、欠損している状況に対して関わり、その阻害、停滞、不足、欠損の要因を除去し、その人の幸福追求、自己実現を図れるように対人援助することだと考えた。
〇その場合の“自立生活”とは、古来から“人間とは何か?”と問われてきた課題を基に6つの要件(ⅰ)労働的・経済的自立、(ⅱ)精神的・文化的自立、(ⅲ)身体的・健康的自立、(ⅳ)生活技術的・家政管理的自立、(ⅴ)社会関係的・人間関係的自立、(ⅵ)政治的・契約的自立)があると考えた。と同時に、それらの6つの「自立生活」の要件の根底ともいえる、その人の生きる意欲、生きる希望を尊重し、その人に寄り添いながら、その人が望むナラティブ(人生の物語)を一緒に紡ぐ支援だと考えてきた。
〇戦前の生活困窮者を支援する用語に「社会事業」という用語がある。この「社会事業」には、積極的側面と消極的側面とがあるといわれており、その両者を統合的に提供することの重要性が指摘されていた。積極的側面とは、その人の生きる意欲、希望を引き出し支えることで、消極的側面は生活の困窮を軽減するための物質的援助のことを指していた。消極的側面は、気を付けないと“人間をスポイルする”危険性があることも懸念されていた。
〇現在の民生委員制度の原型である大阪府の方面委員制度を1918年に大阪で創設した小河滋次郎は、“その人を救済する精神は、その人の精神を救済することである“として、「社会事業」における積極的側面を重視した。しかしながら、戦後の生活困窮者を支援する「社会福祉」は積極的側面を実質的に“忘却”してしまい、物質的援助をすれば問題解決ができると考えてきた。
〇憲法第25条の最低限度の生活保障では消極的側面の対応でよかったのかもしれないが、憲法第13条に基づく幸福追求の支援ということでは、高齢者のケアであれ、障害者のケアであれ、生活困窮者の支援であれ、その人が送りたい“人生”、その人が願う希望をいかに聞き出し、その人の生きる意欲、生きる希望を支え、伴走的に支援していくことが求められる。
〇従来の社会福祉学研究や社会福祉実践では、「療育」、「家族療法」、「機能回復訓練」などの用語が使われており、その人らしさの生活を尊重し、支援するということよりも、ややもすると専門職的立場からのパターナリズム的に“治療・療育”し、“問題解決”を図るという目線に陥りがちであった。
〇また、従来の社会福祉学や社会福祉実践では、よくアブラハム・マズローの「欲求階梯説」が使われが、この考え方も気を付けないといけない。アブラハム・マズローがいう生理的欲求、安全の欲求、愛情と所属の欲求、自尊と承認の欲求、自己実現の欲求の6つの欲求の項目の意味は重要であるが、それらの項目において、下位の欲求が満たされたら上位の欲求が生じるという“欲求階梯説”はどうみてもおかしい。人間には、自ら身体的自立がままならず、他人のケアを必要としている人であっても、当然その人が願うナラティブ(人生の物語)があり、それを自己実現したいはずである。
〇その際、福祉サービスを必要としている人自らが自分の希望、欲求を表出できるとは限らない。福祉サービスを必要としている人の中には、さまざまなヴァルネラビリティ(社会生活上のさまざまな脆弱性)を抱えている人がおり、自らの願いや希望を表出できない人がいる。更には、障害を持って生まれてきたことで、多様な社会体験の機会に恵まれず、一種の“食わず嫌い”の状況で、何を望んだらいいのかも分からない人という生活上の“第2次障害”ともいえる状況に陥っている人もいる。このような人々の場合には、その人の“意思を形成する”ことに関わる支援も必要になってくる。
〇日本の社会福祉関係者の中には、1981年に世界保健機関で制定されたICIDH(国際障害分類)に基づくアセスメントを無意識に、いまだ利活用している人がいる。
〇ICIDHは、その人の心身機能に障害があるかどうかを診断し、その人の心身機能の障害がその人の能力不全をもたらし、ひいてはそのことがその人の社会生活上において不利をもたらすというImpairment――Disability――Handicapの関係を直線的に描くもので、心身機能の不全を診断することを基底とする「医学モデル」と呼ばれるものである。
〇この「医学モデル」は、ある意味わかりやすい構造になっているので、今でも多くの社会福祉関係の底層の心理として位置づいてしまっているが、これによる支援は機能障害を直すか、直せないまでもそれを補完するというレベルの支援になってしまう。
〇WHOは2001年にICF(国際生活機能分類)を発出し、ICIDHからICFへの転換を求めた。
〇ICFは、福祉サービスを必要としている人の生活環境を変えれば、従来のICIDHでは機能障害によりできないと思われていたことができるかもしれないので、その福祉サービスを必要としている人の“最低限度の生活保障”という考え方でなく、福祉サービスを必要としている人の生活環境を変えて、その人の自己実現を図る支援への転換を求めたものである。
〇ICFの考え方と昨今の急速な福祉機器の開発により、福祉現場は急速に変わらざるを得ない。介護ロボットや障害者のコミュニケーションを保障する福祉機器の導入如何では、従来の障害児・者、高齢者などの福祉サービスを必要としている人への支援のあり方は全く違うものになってします。
〇このような背景も踏まえて、筆者は従来の「医学モデル」に基づく診断(アセスメント)ではなく、社会生活上に必要な機能が歩かないかを基に診断する「社会生活モデル」に基づくアセスメントの必要性を提起している。
〇「社会生活モデルに基づくアセスメントシート」の図の表頭の大項目に基づきアセスメントを行うことが、ケアの科学化には必須である。
〇今日のように、福祉機器の開発やICT、IoTが急速に進展している状況の下では、福祉サービスを必要としている本人は福祉機器を使ったら自分の生活がどのように変容するのかのイマジネーション(想像性)をもてない人がいる。そのような人々に対し、イマジネーションがもてるようにし、新たな人生を作り出すクリエーション(創造性)機能も重要な支援となる。
〇従来の社会福祉実践は、福祉サービスを必要としている人の「できないことに着目し、できないことを補完・補填する目的で、してあげるケア観」に陥りがちであった。幸福追求、自己実現を図るケア観に立つと、福祉サービスを必要とする人の「できることを発見し、それを励ますケア観」が重要になる。
〇社会福祉実践は、その人の生育歴におけるナラティブ(narrative:身の上話、経験などに関する物語)に着目し、その人が望む人生を創り上げることに寄り添い、支援することが求められている。

「社会生活モデル」に基づくアセスメントの視点と枠組シート

出典:大橋謙策『地域福祉とは何か―哲学・理念・システムとコミュニティソーシャルワーク』中央法規出版、2022年4月、135~136ページ。

(2024年7月5日記)

(備考)
「老爺心お節介情報」は、阪野貢先生のブログ(「阪野貢 市民福祉教育研究所で検索)に第1号から収録されていますので、関心のある方は検索してください。
この「老爺心お節介情報」はご自由にご活用頂いて結構です。

阪野 貢/「政治リテラシー」考:啓蒙主義的主権者教育と保守主義的主権者教育、市民性教育と国民性教育―関口正司編『政治リテラシーを考える』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、関口正司編『政治リテラシーを考える―市民教育の政治思想―』(風行社、2019年2月。以下[1])がある。[1]では、「政治リテラシ―」について原理、思想史、実際の取り組みという3つの観点から検討する。政治リテラシ―とは、政治に関する基本的な知識、政治に関与する際に求められる基本的な技能、そしてその知識や技能を積極的に用いる意欲や態度、それらの総体(15ページ)を意味する。すなわち、政治の営みに関する知識・技能・態度の複合体をいう(8ページ)。そして、関口らはこれまでの「主権者教育」に対して、「政治リテラシー教育」の必要性を説く。
〇主権者教育とは、主権者としての、「社会参加」の促進と「政治的リテラシー(政治的判断力や批判力)」の育成を図るための教育をいう。日本国憲法の下では、主権(国を統治する権力)を有する者は国民である。(付記参照)
〇[1]には、施光恒(せ・てるひさ)の論稿「主権者教育における責任や義務―よりバランスのとれた理想的主体像の必要性―」([1]61~89ページ)が収録されている。そこでは、学校における主権者教育がめざす主体像について、その「啓蒙主義的側面」と「保守主義的側面」のバランスの取れた理想的主体像として「相互作用的主体像」を設定すべきであるという。この点をめぐって、言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

現在の主権者教育における主体像―社会の合理的選択者・変革者としての主体像―
現在の主権者教育の目標とされている(理想的)主体像とは、社会の合理的選択者ないし変革者としての性格を色濃く持ち、積極的に社会に影響を及ぼしていく主体だといってよいであろう。つまり、政治に関する知識と関心を持ち、自分たちの権利や利害に自覚的であり、他者と議論を交わし協働し、積極的に政治参加し、政権や政策を選択し、社会を合理的に変革していく人々だと言えるであろう。(68ページ)

啓蒙主義的主体像と保守主義的主体像―その相互作用的な関係性―
現行の主権者教育における理想的主体像とは、政治思想的に見れば、啓蒙主義の影響を強く受けたものだといえる。自分の権利や利害について自覚的であり、それを守るために、他者と協力・結託し、社会や国家を意識的に構築し、変革していく主体である。しかし人間は、社会や国家を意識的に構築する主体というだけではない。逆に、ある社会や国家に生まれ落ち、その文化や伝統から学び、それによって一人前の知的思考や各種の活動が可能になるという側面もまた有している。/政治思想史的に述べれば、伝統や文化から影響を受け、自己が形成されるという側面を強調してきたのは保守主義の考え方である。保守主義を簡潔に規定するとすれば、人間の理性や知性の限界を強く意識し、国や地域の文化や伝統、慣習などを重視する立場だと言えるであろう。/人間と社会との関係は、啓蒙主義が強調するように、人間が社会を作り出し、また変革を加えるという側面ももちろんある。しかし同時に、保守主義が重視するように、人間の理性や知性が社会の文化や伝統を通じて形作られるという側面もある。(72~73ページ)

今後の主権者教育がめざすべき主体像―バランスの取れた相互作用的主体像―
主権者教育の目指すべき主体とは、「啓蒙主義的側面」と同時に「保守主義的側面」にも目配りし、どちらの育成も目指すものとして、つまり「相互作用的主体」として設定されるべきである。すなわち、政権や政策を選択し、社会や国を変革しようとする積極的意思を備えた存在であると同時に、社会や国の伝統や文化から恩恵を受けてきたことを認識し、その恩恵を将来も享受できるように、よりよき形で社会や国を次世代に手渡していく責任や義務が我々にはあるという自覚を有する主体こそ、今後の日本の主権者教育が目指すべき主体像だと言えるのではないだろうか。/こうした主体像からは、自己の権利や利益に自覚的であり、社会や国に積極的に働きかけていく能動性とともに、社会や国に対する責任や義務の意識も円滑に導くことが可能である。(79ページ)

〇筆者の手もとに、石田雅樹の論稿「『市民性』を陶冶する教育、『国民性』を育む教育―ジョン・デューイにおけるナショナリズムと教育」(『年報政治学』第71巻第2号、日本政治学会、2020年12月、237~255ページ。以下[2])がある。[2]では、第一次大戦期(1914~1918年)におけるジョン・デューイのテクストを主な対象として、能動的な市民を育成する「市民性教育」(citizenship education)と国民性(国民としての資質・能力)を育む「国民性教育」(national education)の言説を比較検証し、その教育論におけるナショナリズム(国家や民族の利益を強調する思想や運動)の位置づけを明らかにする。
〇[2]のうちから、石田の言説(デューイの教育論の理解・考察)のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

市民性教育は、デモクラシーを絶えずリニューアルし深化させる「市民」の育成を図る
デューイにおいて「市民性教育」とは、単に統治者にとって従順な市民を再生産することではなく、デモクラシーを構成する一員として社会に参入する手助けとなるものであった。/(すなわち)デューイにあって「市民」になるということは、単に有権者としてのみならず、家族・労働者・コミュニティの一員として社会に関わることであり、自分と異なる多様な他者と共に包括的に社会に参与し続けることで、デモクラシーを絶えずリニューアルする存在になることに他ならなかった。/(この点を踏まえると)デューイが「市民性」を涵養する「市民性教育」と、生活の糧を得る「職業教育」とを一体的に捉えることも(は)必然であった。(240ページ)

国民性教育には、国の歴史を学び直し、自らのアイデンティティを問い直し、建設的な愛国主義を涵養することが必要となる
デューイは、第一次大戦期の軍事教練や国民兵役などに言及するなかで、「国民性教育」は国民的統合や公共心(public mindness)の涵養を促すものであり、そのためには真のナショナルな社会理念が必要であると説く。また、その具体的プラン(国民性教育の構成内容)については、アメリカの歴史を学び直すこと、自らのアイデンティティを問い直すこと、建設的な愛国主義を涵養することなどの必要性や重要性を指摘する。(247~249ページ)

「市民性教育」論と「国民性教育」論は相互補完的な関係にある
「市民性教育」は、形式的な法遵守や空疎な知識の獲得ではなく、「職業教育」と一体化することで、社会生活における「デモクラシー」を実践する技能を涵養するものであり、他方で「国民性教育」は、アメリカ国民のアイデンティティそれ自体を「デモクラシー」として再定義することで、デモクラシーとナショナリズムとの接合を行うものであった。両者は共に、自由で平等な「市民/国民」から成る社会こそが、アメリカであることを再認識させるプロジェクトを共有している。そうした点で、デューイによる「市民性教育」論と「国民性教育」論は相互補完的な関係にある。(250ページ)

〇筆者はこれまで、「まちづくりと市民福祉教育」に関して、「まちづくり―みんなが主役のまちづくり―」や「まちづくり―みんなであるもの探しのまちづくり―」というキャッチコピー(スローガン)を使用してきた。一面的あるいは部分的には、「みんなが主役のまちづくり」は上述の「啓蒙主義的主権者教育」と「市民性教育」、「みんなであるもの探しのまちづくり」(ないものねだり、ではない)は上述の「保守主義的主権者教育」と「国民性教育」に通底するものであろう。なお、「まちづくり」に関して大橋謙策は、1970年代からスローガンのようにいわれていた「福祉のまちづくり」が90年代から「福祉でまちづくり」へと変わり、さらに2010年代には「福祉はまちづくり」といわれる時代へと移行した、という(山崎亮『縮充する日本―「参加」が創り出す人口減少社会の希望―』PHP新書、2016年11月、331、335ページ)。付記しておきたい。
〇本稿に関連する拙稿(記事)に次のようなものがある。併せてご参照いただければ幸いである。

①<雑感>(151)阪野 貢/「主権者教育」「シティズンシップ教育」の一環としての「市民福祉教育」を考えるために―新籐宗幸著『「主権者教育」を問う』再読メモ―/2022年4月16日/本文
②<雑感>(187)阪野 貢/追補/憲法上の「国民」:主権者・有権者・市民について考える ―駒村圭吾著『主権者を疑う』のワンポイントメモ―/2023年9月16日/本文
③<雑感>(96)戦争が始まる“臭い”がする:「愛国」「愛国心」に関するワンポイントメモ―将基面貴巳を読む―/2019年10月8日/本文
④<雑感>(97)いじめ・愛国心・道徳教育:「道徳的価値ありきの、国家のための道徳教育」を問う―大森直樹著『道徳教育と愛国心』読後メモ―/2019年11月5日/本文

付記
主権者に求められる資質・能力(主権者教育の内容)については、上記の①<雑感>(151)の拙稿と併せて、例えば次の資料を参照されたい。

 

阪野 貢/「他者」考:「差別はいけない」と断じて終えるのではなく「差別を考える」文化の醸成が肝要である ―好井裕明著『他者を感じる社会学』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、好井裕明著『他者を感じる社会学―差別から考える―』(ちくまプリマ―新書、筑摩書房、2020年11月。以下[1])がある。[1]における言説を理解するに際しては例えば、好井自身による「他者性」についての次の一節が役立つ。

社会学とは「他者の学」だ。私たちが社会を構成するメンバーとして生きるとき、他者といかに交信でき、繋がれるのかが “ 解くべき重要な問題 ” となるだろう。ただ私たちは他者を本当に理解しきることなどできるのだろうか。他者理解がいかにして可能かと問うことは、翻って他者を理解することがいかに困難であるのかを確認することとなる。さまざまな「ちがい」をもつ他者が出会い、せめぎあう。この出会いやせめぎあいの様相を克明に見つめていけば、他者理解を邪魔しているさまざまなものが見えてくる。そしてさまざまなものをさらに考えていくとき、道徳や倫理の次元で差別や排除を否定するのではなく、世の中で起きてしまう必然として、社会学的考察の対象として、差別や排除を考えることができるようになる。/「他者理解の学」というよりむしろ「いかに他者理解が困難であるのかを考える学」としての社会学の「面白さ」。差別を考える社会学の魅力。『他者を感じる社会学』(2020年)で私が伝えたかったことの一つだ。(好井裕明「社会学的想像力をいかにしたら伝え得るのか―私が新書を書き続ける理由(わけ)―」『フォーラム現代社会学』第21号、関西社会学会、2022年5月、76ページ)

〇この記述をより広く深く理解するために、[1]のなかから次の一節をメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換)。

・差別は、他者理解――あるいは他者理解の難しさ――という深遠なコミュニケーションの過程で生じてしまう “ 必然 ” であり、私たちが他者を理解しようとし、他者と何かを共有し、伝え合おうとするときに(すなわち、他者とつながろうとする過程で)生じてしまう “ 摩擦熱 ” のようなものである。(20ページ)

・私たちは普段、人間として「素晴らしい」「豊かな」存在がいるし「つまらない」「貧しい」存在もいると考えるが、それはあくまで、そのような評価の対象となる人間の営みやその人が表明する価値観や思想に由来するものであり、その人の存在自体に張り付いている属性ではない。(81ページ)/また、「貴(とうと)い―賤(いや)しい」「浄(きよ)い―穢(けが)れている」という伝統的で因習的な人間の見方があるが、廃棄すべきである。(82ページ)

・(性別や年齢、人種や民族、障害、被差別地域など)ある人々や集団、地域や状況を「きめつける」さまざまなカテゴリー化が「あたりまえ」のこととして、その時々の支配的社会や文化に息づいている。(70ページ)/文化や社会の「あたりまえ」や「普通」に息づいているものの見方や価値観こそが差別や排除をうみだす原因なのである。(208ページ)

・多様なセクシュアリティを生きる人々が性的少数者という「カテゴリー」を生き、独自に歴史を創造していく主体であるという事実を見失うことなく、私たちは、常に支配的文化や価値を相対化する「くせ」を身につけていくべきである。(128ページ)

・部落差別は、身分差別や職業賤視(せんし)、地域への偏見が密接に絡み合っており、日本の中世以前からの歴史や文化に根ざした奥の深い問題である。(88ページ)/部落差別は、本当に「不条理で」「理屈にあわない」営みである。それを背後から支えているのが、「貴(き)―賤(せん)」という人間を “ 分け隔てていく ”  見方であり考え方なのである。(90ページ)

・「差別を考える」とは、「あたりまえ」や「普通」のことと見逃している「決めつけ」や「思い込み」をあらためて洗い出し、自分自身がより優しい気持ちで他者と出会い、つながり、気持ちよく生きていくために自分の「あたりまえ」や「普通」をつくりかえていく、ということである。(246ページ)

・日常生活に生起する偏見や差別をなくすためには、まずは自分自身で「差別を考える」 “ くせ ” を身につけることが必要であり、それによって “ 差別などしない自分らしさ ” を身につけることになる。さらに「みんな」で「差別を考える」ことを模索し、そうした営みの延長に、しなやかでタフな「差別を考える」文化が息づく日常が私たちの前に立ち現れてくる。(252ページ)

・差別を受ける人々の「リアル」に対する想像力の圧倒的な欠如、貧困がある。/他者への想像力が枯渇するとき、差別は繁殖する。今、まさに「他者へのより深く豊かで、しなやかでタフな想像力」が必要とされている。(255ページ)

〇こんにち、ネット時代におけるコミュニケーションの変化や社会の分断化・個別化が指摘されるなかで、多様な存在としての「他者」と向き合う対面の人間関係(つながり)が希薄化している。そんななかでまた、自分と向き合う機会も少なくなっている。それは好井にあっては、他者を尊厳あるひとりの「人間として感じない」ゆゆしき事態であり、そこから日常生活における差別や排除が生起する。その改善や改革を図るためには、「他者を感じる」「差別を考える」ことが必要不可欠となる(11ページ)。また、「差別はいけない」と断じて終えるのではなく、「今、ここ」(現在進行形)で「差別を考える」ことによって私が「かわり」、「みんな」が「かわる」のである(252ページ)。好井からのメッセージである。
〇この点を福祉教育の実践や研究に引き寄せて言えば、例えば障がい者差別についてその歴史や現状(実態)、原因や背景などをしっかりと押さえてきたか。障がい者は憐憫(れんびん)や同情の対象ではないとしても(いまだにそうであることが多い)、「あたりまえ」のように「思いやり」の対象として直截的に認識させてきたのではないか。障がい者差別はよくないこととして、反省すべき問題であり、反省すれば「それはそれでよし」としてこなかったか。
〇また、福祉教育実践や研究は、上述の「貴―賤」に関する部落問題(さらには天皇制)について、「家柄」や「血筋」といった人間の地位や場所、属性だけで評価するという “ 偏った ” 他者理解の仕方に言及してきたか。間違っても「寝た子を起こすな」という考えはないと思うが、どうだろうか。「浄(じょう)―穢(え)」に関して言えば、伝統的で因習的なジェンダーをめぐる知識や規範、性的少数者( LGBTQ)というカテゴリーを生きる人たちの理解について関心を持ってきたか(持っているか)。福祉教育実践や研究において、「他者を感じる」「差別を考える」問題は山積している。

 

阪野 貢/「他者」考:他者と共に生きることによって自分らしく生きる ―磯野真穂著『他者と生きる』のワンポイントメモ―

〇人は、2020年1月に始まるコロナ禍において、疫学理論や統計解析手法などを用いた新型コロナウイルスの感染予測(流行予測)に一喜一憂し、罹患のリスクを避けようとした。そんななかで、普段の暮らしにおいて如何に「自分らしく」生きるかを問い、それができる社会システムを求めたのは、昨日のことのようである。筆者(阪野)の手もとに、磯野真穂著『他者と生きる』(講談社新書、2022年1月。以下[1])がある。[1]において磯野は、前者の概念を「統計学的人間観」、後者のそれを「個人主義的人間観」と呼び、また「生の手ざわり」(生きていることの実感や経験)を求めて、前者に関して「“正しさ”は病を治せるか?」、後者に関して「“自分らしさ”はあなたを救うか?」([1]帯)と問う。
〇磯野は、現代社会における人間観、すなわち「人とは何か」「人とはどのような存在であるか」という問いに対して、3種類の人間観を措定する。統計学的人間観、個人主義的人間観、そして「関係論的人間観」がそれである。[1]におけるひとつのキーワードである。本稿では限定的になるが、それに関する一節をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。
〇磯野はいう。「人間の病いと生き死に、及びそれをいかに避けるか、引き受けるかをめぐる問題の諸相の根底には、この3つの人間観の錯綜(さくそう)があると捉えるべきである。つまりあるひとりの人間の病気や死をめぐって、本人とその人を取り巻く人々の間で行き違いが起こる時、その問題に関わる人それぞれが、思考の根底で異なる人間観を前提としながら、同じ人、同じ問題について語っている可能性がある。ある問題に複数の関係者が存在する時、関係者それぞれがどのような人間観を持っているかで、立ち上がる価値と倫理は異なる。したがって、そこのすり合わせが意識的にも、無意識的にも起こらない話し合いは、どこまでも平行線を辿るだろう」(180~181ページ)。

統計学的人間観――病気の事前予測や予防的介入に価値を与える人間観
統計学的人間観は、主に疫学の文脈で提示されるが、例えば50代以上の男性は高血圧だと脳梗塞に罹患する確率が高いというように、統計学的にある集団を数量化することによって導かれた、社会のなかの平均的な人間像(「平均人」:アドルフ・ケトレ)に基づく人間観をいう(150ページ)。その「平均人」は、ある集団の特徴を客観的に表すとみなされながらも、実体としてそれはどこにも存在しない。複雑な計算式を通して現れる架空の物言わぬ人である。それはどこにでもいることにされているが、どこにもいない。誰でもあるが、誰でもない(153ページ)。統計学的人間観は、計算式の上に成り立つ極めて抽象度の高い人間観であり、その最大の特徴は、ある集団の行く末を予想することが可能になるという点にある(184ページ)。

個人主義的人間観――「自分らしさ」(=「私たちらしさ」)を礼賛する素地となる人間観
個人主義的人間観は、自分の内発的な選択や動機によって、社会規範や世間の当たり前に逆らって自分の望みを実現する・表明するといった意味の「自分らしさ」や個性という価値によって支えられる人間観をいう(162、163ページ)。しかし、その「自分らしさ」は、ある選択や行動が「自分らしい」と認められるためには、その選択や行動に社会的承認が伴う必要がある(165ページ)。すなわち、「自分らしさ」が達成されたと思われる時、実際そこで起こっているのは「私たちらしさ」の発現であり(212ページ)、「自分らしさ」はその響きとは裏腹に、合意の形成に他ならない。その点を捉え損ねると、「自分らしさ」は、「それはあなたが決めたこと」という過度の自己責任論や責任回避の機能を生み出したり、「異なる他者といかに生きるか」という共生への省察を欠くことになる(176ページ)。

統計学的人間観と個人主義的人間観の協働と相互支援
統計学的人間観は個々人の価値を棄却する冷たい人間観であり、個人主義的人間観は個々人の価値を大切にする温かい人間観であるように思える。しかし、このふたつの人間観は、一見相反するように見えながら、実は背後(裏)で手を結び協働しあいながら、互いの存在を支え合っている(186ページ)。それはそこに、「生物的な命が存続することが何よりも素晴らしい」という絶対性を帯びた倫理が存在することによる(226ページ)。すなわち、統計学的人間観は、個人のかけがえのなさに絶対的な価値を置く個人主義的人間観に基づいて立ち上がっている(支えられている)のである(193ページ)。

関係論的人間観――自分と他者との「関係性」の生成や変化に価値を見出す人間観
関係論的人間観は、個人主義的人間観の特殊性を浮き立たせるために措定されたカテゴリであるが、他者との関わりのなかではじめて生まれる者として「自分」(個人)を捉える人間観をいう(212ページ)。そこにおいて、この人間観は、自分と他者との関係性の生成や変化に注目することになり、「他者とは何か」「出会いとは何か」「他者と生きるとはどういうことか」などを問うことになる。「他者」とは、分かり合えるかもしれないという存在であり、同時に分かり合えないかもしれないという両義的な存在である(232ページ)。そういう他者との関わり(つまり出会い)は、不安や恐れなどをもたらすが、他者との言動の相互行為を通してどのように他者と共に在るか、共に在り続けるかについて互いの間に規則性が生成される。この相互行為の場や規則(「共在の枠」:磯野)を前提に出会いは進展するが、未来に向かって共に在り続けるためにはその「共在の枠」を変化させていく身構えと身振り(「投射」:磯野)が必要となる(238~241ページ)。その意味において、「他者と生きる」とは、「共在の枠」を共有する自分と他者が、「投射」(相互行為の姿勢や態度)によってその関係性を維持し、新たな関係性を生み出すことによって、出会った他者と共に生きていく「私」/「あなた」が存在することをいう(251ページ)。

〇要するに、一見相反するかのように見える統計学的人間観と個人主義的人間観は実は、一緒になって「生物的な命が存続することが何よりも素晴らしい」という絶対的な倫理観や価値観を創り出す。そしてそれは、絶対性を帯びているがゆえに、人々の営みを制約する。そこにおいて磯野は、両者の人間観を二項対立的な図式で措定するのではなく、両者は協働関係にあるという。そして(そのうえで)、3つ目の人間観として、自分と他者との関係性の生成や変化に注目する関係論的人間観を考えるべきである、という。それが、「他者とともに生きる」すなわち「自分らしく生きる」ことに繋がる。これが磯野の言説であり、視座である。
〇磯野は[1]の最後でいう。「ひとつの尺度で他者の生の長さ(人生の長さ:阪野)を測り、それを価値付け、生き方に介入する際には、唯一の生への畏怖(いふ)を宿した慎み深さが求められる」(269ページ)。留意したい。
〇この指摘から、例によって唐突であるが、これまでの福祉教育の実践や研究は真に「唯一の生への畏怖を宿した慎み深さ」をもってきたか。さまざまな人間観をすり合わせる地道な・丁寧な作業を行ってきたか。特定の人間観を強要し(押し付け)てはこなかったか。そんな疑問が頭をよぎる。

阪野 貢/「他者」考:完全には理解できないからこそ他者と共に生きていける ―奥村隆著『他者といる技法』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、奥村隆著『他者といる技法―コミュニケーションの社会学―』(筑摩書房、2024年2月。以下[1])がある。人は、多くの他者といっしょにいながら(その場を「社会」と呼ぶ)、そのためのさまざまな「技法」を用いて暮らしている。[1]は、そのさまざまな技法(「他者といる技法」)について体系的に論じたものである。ここでは、それらのうちから、「理解」できない(わかりあえない)「他者」とともにいるための技法の一節をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。なお、[1]は、単行本(日本評論社、1998年3月)を文庫化したものである。
〇その点に関する奥村のひとつのメッセージはこうである。「私たちは、『わからない他者』と『いっしょにいる』技法を、ていねいに考えていかなければならない」。「そこにはたくさんの居心地が悪い世界があるかもしれないが、どうやらそもそも他者といるということはそういうことなのだ。そして、それができることは、他者といるということを、もっとずっとゆたかなものにしてくれるように、私は思う」(298ページ)。

①「わかってくれない」ことと「わからないこと」は、他者といるときによく起こる問題である
「理解」は、他者と共存するためのひとつの有力な「技法」である。私たちは、これをよく知っており、じっさいにいつも行っている。また、それと関係するある苦しさも知っている。私たちは、よく「私のことを理解してくれない!」と嘆いたり、「私はあの人を理解できない!」と叫んだりする。わかってくれないこととわからないこと、このふたつは、他者といるときによく起こる問題である。そして、わかられたいこと、わかりたいことが、私たちがしばしば望むことである。(254ページ)

② 他者に「理解」されない「私だけ」の領域があるとき、そこに「自由」や「私」が存在する
これはありえない想定であるが、完全に他者の「こころ」(思いや考え:阪野)が「理解」できたとしたら、どうなるだろう。完全に私の「こころ」が他者によって「理解」されたとしたら、なにが起きるのだろう。(272ページ)/なにもかも「理解」されてしまうとき、私たちは「こころ」を自由に働かせることはできないだろう。むしろ、私たちの「自由」は、他者に「理解」されないことを条件にするようだ。もちろん、他者に「理解」されることと両立する「自由」もある。しかし、両立しない「自由」もたくさんある。たとえば、「まちがえる自由」。他者に「こころ」をすべて「理解」されるとき、私たちは決して「まちがえる」ことはできない。しかし、「理解」されない領域があるとき、私たちは「こころのなか」でいくらも「まちがえる」ことができる。「まちがえる」ことが、私たちにたくさんの「自由」を、可能性を与えてくれる。完全に理解されてしまうとき、私たちはその可能性をもちえない。/また、完全に理解されてしまうとき、「私」など存在しない。「私」のこころのすみずみまで他者によって「理解」されるとき、「私」のなかに「私だけ」の場所などどこにもないことになる。(中略)私は、他者の理解によって、どんどん蒸発していってしまう。逆にいえば、他者に「理解」されない場所をもつことによって、「私」は「私」でありはじめる。(274ページ)

③「理解」の素晴らしさ(「理解の過少」)には敏感であるが、「理解」の苦しさ(「理解の過剰」)には鈍感である
私たちは「理解」のすばらしさはよく知っているが、「理解」が生む苦しみは(感じていても)あまり論じないのではないか。「理解の過少」という事態には敏感だが、「理解の過剰」という事態にはひどく鈍感なのではないか。人がわかりすぎてしまったり、わかられすぎて苦しんでいるときにも(他者の「こころ」が全てわかってしまったと感じたり、他者に自分の「こころ」が全てわかってしまったと感じたりして苦しんでいるときにも:阪野)、もっとわからなければ、もっとわかられなければと思い込み、かえって「理解の過剰」の苦しみを増幅するということが頻繁にあるのではないか。そして、「理解」を断ち切って別の技法を探すことをあまりせず、「理解」の技法が有効でない場面においてもこの技法を使用しているのではないだろうか。(284~285ページ)

④「理解の過少」と「理解の過剰」の苦しみと、「完全な理解」と「適切な理解」の基準はそれぞれ異なる
「理解」にはふたつの異なる基準がある。ひとつは、「完全な理解」という、原理的な基準である。ここから見れば現実に存在するすべての「理解」は「過少」である。もうひとつは、それよりも「理解」が「過少」でも「過剰」でも苦しみを感じる、ある実践的な基準――「適切な理解」とでも呼ぼう――である。そして、このふたつの基準はまったく異なる。(中略)私たちはときに、「完全な理解」が「適切な理解」であると取り違える。「完全な理解」が達成されたら(それは原理的に絶対に経験できないから確かめようがないのだが)どれだけすばらしいだろう、と思い込む。しかし、これはと取り違えである。原理的な「完全な理解」を誤って実践的な「適切な理解」とするとき、私たちはいつも「理解の過少」だけを発見し、「理解の過剰」は絶対に発見できないことになる。/私は、「理解の過少」の苦しみと「理解の過剰」のそれをしっかりと区別しなければならないと考える。また、「完全な理解」という基準と「適切な理解」という基準が異なることを明確に自覚しなければならないと考える。これができないとき、私たちは、それでは解決できなかったりかえって苦しみを増す問題までも「より多くの理解」という技法で解決できると思い込み、それを使用してしまう。(286~287ページ)

⑤「わかりあえない」けれど「いっしょにいる」ための技法、すなわち「理解」とは異なるかたちで他者と「共存」するための技法が必要である
私たちがよく知っているのは、「わかりあう」から「いっしょにいられる」という状態だ。だから、「わかりあえない」とき、「いっしょにいる」ために「もっとわかりあおう」とする。それは、おそらく「社会」という領域のある部分では、必要なことだし大切な成果を生むだろう。しかし、この技法しかもたないとき、「わかりあえない」と私たちは「いっしょにいられなく」なってしまう。おそらくもうひとつの技法があるのだ。「わかりあえない」とき「もっとわかりあおう」とするのではなく、「わかりあえない」けれど「いっしょにいる」ための技法、「わかりあえない」ままでひとつの「社会」を作っていく技法。私は、「他者」といること、「社会」を形成することの少なくともある領域において、このような技法を探すことが必要だと思う。「わかりあわない」と「いっしょにいられない」、「社会」がつくれない、という技法は、私たちの「社会」の可能性を大きく限定する。「理解」は「他者」との「共存」のためのひとつの技法でしかなく、このふたつは別のことなのだ。私たちはときに、他者との「共存」よりも「理解」のほうを目的として設定してしまう。しかし、「理解」できない他者と「社会」を作る場面はあり、そのとき「理解」に囚われることは、私たちを「共存」できなくさせてしまう。私たちは「理解」を断ち切り、それ以外の「共存」のための技法を開発し始めなければならない。(290~291ページ)

⑥「話しあう」技法を身につけているとき、人は「わかりあわない」ときにも「いっしょにいる」ことができる
「他者はわからない」という想定を出発点として、他者といることを模索する技法、そのひとつは、ごく素朴でありふれているが、「話しあう」ということである。/「話しあう」ということは、次のふたつからなりたつ。ひとつは、「尋ねる」「質問する」ということ。これは、いうまでもなく、「わからない」とき、その「わからなさ」につきあっていこうとするときにのみ、開かれる。もうひとつは、「答える」「説明する」ということ。これも、相手が私を「わかっていない」と感じるときにしか、始まらないことだ。(294ページ)/「話しあう」こと。「質問しあい」「説明しあう」こと。――これは、じつに居心地の悪い時間を私たちに開いてしまう。(中略)このことは「わからない!」と相手にはっきり伝えることからしか始まらず、ひとつひとつ「質問し」「声明する」ことは双方にこころの負担をかけることだし、「わかりあっていない」ことを自覚しながらいっしょにいる時間をずいぶん長く共有することになる。しかし、この「話しあう」技法を身につけているとき、人は「わかりあわない」ときにも「いっしょにいる」ことができる。(294~295ページ)

⑦ 早く「わかる」ための技法よりも、「わからない」でもゆっくりとしていられる技法が大切である
私たちは、「わかりあおう」とするがゆえに、ときどき少し急ぎすぎてしまう。しかし、「わからない」時間をできるだけ引き延ばして、その居心地の悪さのなかに少しでも長くいられるようにしよう。その間に、「わかりあう」ことが自然に開かれる場合も、「話しあう」ことを意識的に開く場合も、「わかりあわないまま」ただいっしょにいるだけという場合もあるだろう。しかし、「わかる」ことを急ぎすぎ、その時間を稼げないと、私たちは多くの可能性を閉ざしてしまう。私たちは「わかる」ことにすぐに着地したがる。しかし、より困難で大切なのは、「わかる」ための技法よりも、「わからないでいられる」ようにする技法であるように私は思う。(中略)これをもたないとき、「わからない」とすぐに「なぐりあう」=「暴力」を振るうことをしてしまったり、すぐに「わかろう」として乱暴な「類型」に他者をひきつけるような「理解」に着地する=「差別」することをしてしまったりする(すぐに「わかろう」として高齢者や障がい者、女性などの「類型」によって他者を理解することは、独自性を欠いた部分的な理解にとどまり、差別することになる:阪野、259ページ)。しかし、「わからないでいる」のが常態であり、そこにゆっくりといられるのなら、私たちは「なぐりあう」ことも「差別」することもずっとしなくてすむだろう。(296ページ)

〇人は、他者を理解したい・わかりたい、他者から理解されたい・わかってもらいたいと望む。しかし、他者を完全に理解すること・わかること、他者から完全に理解されること・わかってもらうことは、原理的には不可能である。そこで人は、他者を「ああいう人」「こういう人」や「高齢者」「障がい者」などの「類型」(常識的な思考の構成概念:259ページ)にはめ込むことによって、他者を理解しようとする。しかし、それも部分的・表層的なものにとどまり、他者を完全に理解すること・わかることにはつながらない。むしろ「類型」を利用することによって、他者から離れたり、他者を排除したりする。あるいは、苦しい思いをしながらも他者と共にいることによって、他者への偏見や差別を引き起こすことにもなる。
〇しかし人は、他者と共にいることによって、「生」(生命、生活、人生)の営みを続けることができる。それによってしか、できない。そこで奥村は、理解できない・わからない他者といっしょにいるための技法について考える。理解できなくても・わからなくても、異なるかたちで他者とともにいっしょにいるための技法について言及するのである。
〇上記の見出しを再掲する。

①「わかってくれない」ことと「わからないこと」は、他者といるときによく起こる問題である。
②  他者に「理解」されない「私だけ」の領域があるとき、そこに「自由」や「私」が存在する。
③「理解」の素晴らしさ(「理解の過少」)には敏感であるが、「理解」の苦しさ(「理解の過剰」)には鈍感である。
④「理解の過少」と「理解の過剰」の苦しみと、「完全な理解」と「適切な理解」の基準はそれぞれ異なる。
⑤「わかりあえない」けれど「いっしょにいる」ための技法、すなわち「理解」とは異なるかたちで他者と「共存」するための技法が必要である。
⑥「話しあう」技法を身につけているとき、人は「わかりあわない」ときにも「いっしょにいる」ことができる。
⑦  早く「わかる」ための技法よりも、「わからない」でもゆっくりとしていられる技法が大切である。

〇以上のうちとりわけ、②の、他者に「理解」されない「私だけ」の領域があるとき、そこにたくさんの「自由」や可能性があり、「私は(が)私である」ことの自己理解(認知)がすすむ。⑤の、「わかりあわない」と「いっしょにいられない」、「社会」がつくれないという技法は、私たちの「社会」の可能性を大きく限定する。「理解」は「他者」との「共存」のためのひとつの技法でしかない。そして⑦の、早く「わかる」ための技法よりも、「わからない」でもゆっくりとしていられる技法が大切である、という指摘に注目したい。それが、他者といるということを、もっと、ずっと、きっと豊かなものにしてくれるのであろう。
〇福祉教育実践における高齢や障害の疑似体験は、高齢・障害理解や高齢者・障がい者理解を通して、共存や共生、共存社会や共生社会のあり方を問う。その際の高齢・障害「理解」や高齢者・障がい者「理解」に関して、奥村の議論に留意したい。例によって唐突であるが、付記しておく。

阪野 貢/障害疑似体験の落とし穴―村田観弥「障害疑似体験を『身体』から再考する」のワンポイントメモ―

〇福祉教育実践ではこれまで、「訪問・交流活動」「収集・募金活動」「清掃・美化活動」の“3大活動”や「疑似体験」「技術・技能の習得」「施設訪問(慰問)」の“3大プログラム”を中心にした体験活動が実施・展開されてきた(されている)。圧倒的に多いのは、障害や高齢の疑似体験、なかでも車いす体験やアイマスク体験、インスタントシニア体験である。相変わらず「慰問」という施設訪問も多い。これらの体験活動は場合によっては、誤解や思い込み、偏見を助長し、「貧困的な福祉観の再生産」(原田正樹)を促すことになる。
〇ここで、障害疑似体験の陥穽(かんせい。落とし穴)について、村田観弥の論考――「障害疑似体験を『身体』から再考する」佐藤貴宣・栗田季佳編『障害理解のリフレクション―行為と言葉が描く〈他者〉と共にある世界―』ちとせプレス、2023年3月、123~153ページ。――から先行研究と村田の言説の一部をメモっておくことにする(抜き書きと要約)。
〇なお、本稿は、 新訂「まちづくりと市民福祉教育」論の体系化に向けて―その哲学的思考に関する研究メモ―(2024年5月10日/本文)のなかの 06「しょうがい」と疑似体験の陥穽 に追記されている。

西舘有沙らは、できないことに目が行き過ぎて事実誤認やミスリードを引き起こし、障害者へのネガティブな態度を植えつける点、障害者の能力を特別視する傾向が強まる点など、障害者の姿を誤って捉え、障害に対する認識のゆがみを強固にする側面を挙げ、この検討をせずに教育方法としての疑似体験を採用すべきでないと指摘する。そして改善策として、➀体験の目的を具体的かつ明確に定める、②できないことばかりを体験させない、④事後指導の時間を設ける、④指導者の指導技術を高める、を提案する。(124ページ)

松原崇と佐藤貴宣は、障害学や障害当事者からの視点として、➀政治・社会的構造の要因の看過(個人にばかり焦点を当てる)、②差別的な見方の強化(障害者の無力さが強調され、障害者や障害にネガティブな価値づけが生じる)、③体験の精度の低さ(疑似体験できるのは、個人が突然身体機能の障害を負ったときの状態やそのときの感情のみで、症状の不安定さや症状の進行などの可変的状態がシミュレートできない)、④障害者への倫理的問題(試しにちょっとやってみる程度に扱われ、しばしば楽しい遊びやゲームのように行われる)、を批判として挙げる。そこで対策として、障害者自身がファシリテーターとなる手法や、注意深くブログムムをデザインすることでネガティブな効果を回避する事例など、学習を始める参加者が「現実」を対象化するきっかけとして、プログラムの一部や出発点として位置づけることを提案する。そして、社会構成主義的な協働体験として再構成し(体験は人々の間のコミュニケーションを通じて協働的に構成されると考える社会構成主義の観点に依拠し)、①問題を障害者個人でなく、外部環境へと問題帰属する文脈を用意する、②障害者が企画者として参加する、③障害者を含む参加者間での対話を喚起する、の3点の「仕掛け」を挙げている。(124~125ページ)

障害当事者である鈴木治郎は、体験し経験して知ることはけっして無駄ではないとしながらも、「その場限りの経験」になることや、企画者が「役に立つことだから善いこと」だと押しつける点を指摘する。そして、誰もが「当たり前」を共有化できる場づくりのための「互いの差異を認め共に出会う教育」が必要だと述べる。それを受け谷内孝行は、障害理解プログラムは、障害を理解することに重きを置くのではなく、障害から個性の尊重、共生の重要性、社会変革などを学び、新たな価値を創造する場であるとする。(128ページ)

細馬宏通は、アイマスク体験の主役は、アイマスクをつくる人ではなく、ナビゲーター(ガイドヘルパー)側だと述べている。(148ページ)

村田観弥はいう。
● 操作的に経験された疑似体験は、障害者への偏見をもってはいけないとする常識的な規範意識に囚われ、障害/健康の枠組みを強固にし、特別な存在とする見方を先鋭化することにもなりうる。また場合によっては、その経験は個々に異なるにもかかわらず、障害当事者の発言があたかも正解のように伝わることもある。(126~127ページ)
● 障害を疑似的に体験する活動をたんに問題とするよりも、その経験を自分自身の「日常」や「身体」について考えるきっかけとしての「学びの契機」(「障害者理解」でなく「自己理解」の体験)とする論を試みる。(130ページ)
● 他人の経験を生きるという試みは困難である。であるならば、体験が疑似(似て非なるもの)であることを問題にするよりも、疑似であることの可能性(誰かの立場になって考えたことによる意味の変化や視野の広がり等)に視点をずらすことで、思い込みや誤解が生じるプロセスに気づき、みずからの問題として考える教育的契機にできるのではないか。(144ページ)
● 体験活動は、「意図的に制限した身体を生きる」という体験を、「まずは実践してみる」ことに重点を置く。特定の障壁を感じることなく生きてきた同質性の高い日常から外へ出て、そうでない世界に身を投じる。「健常者」として規格化された身体を崩すことで、「差異化」の体験過程が言語化され、新たな「私」が再構成される。体験は「他人の身体を生きる」ということとは程遠いけれど、何かが生まれるきっかけにはなる。疑似体験では誤解や思い込み、偏見が生起しやすい。あえて誤解や偏見が顕在化する「場」として提示することで、それが我々の日常に遍在し、気づきにくく、見えない壁をつくっており、そこへ意識を向けることで壁を動かすことには有効かもしれないと考える。(151ページ)
● まず己の身体を通した困惑や不安、違和感といった感覚に向き合ってみる経験こそが、「私も同情や特別視をしているのではないか」との気づきにつながり、誤解や偏見と生きる自分自身に向き合うことになるのではないだろうか。(152ページ)

〇疑似体験には「有効論」と「有害論」がある(杉野昭博)。前者は、疑似体験は障がい者への配慮や支援の仕方について理解することを通して、障がい者への共感性を高めることになる、というものである。後者は、疑似体験は障がい者個人の機能障害(インペアメント)が強調され、社会の偏見や差別についての理解が進まず、障害や障がい者に対するネガティブな価値づけがなされてしまう、といものである。いずれもそこでは、一面的なあるいは一時(いっとき)の障害理解や障がい者体験にとどまり、計画的・継続的なまちづくりや社会変革への視点が弱いと言わざるをえない。再認識したい。

原田正樹の「地域福祉と福祉教育」実践と研究 ―地域福祉の主体形成に関わる地域福祉実践研究のこれまでとこれから―

原田正樹の「地域福祉と福祉教育」実践と研究

―地域福祉の主体形成に関わる地域福祉実践研究のこれまでとこれから―

 

はしがき

〇原田正樹先生の専攻は「地域福祉と福祉教育」である。先生は断言する。「福祉教育は地域福祉の下位概念ではない。福祉教育を豊かにしていくことが地域を変えていく力になり、同時に地域福祉を推進することで私たち一人ひとりの福祉意識が変わっていく。地域福祉を福祉教育によって支えあうことができる社会、ケアリングコミュニティをどう構築していくことができるかを問うことが『地域福祉の基盤づくり』である」(『地域福祉の基盤づくり』「はじめに」)。先生のこの「地域福祉と福祉教育」研究の視座に、筆者(阪野)は強く同意する。筆者は浅学菲才ながら、その点を「まちづくりと市民福祉教育」として追究してきたが、それに比して先生の実践と研究は広くて深い。碩学(せきがく)である。
〇その点を原田先生の師である大橋謙策先生は、『地域福祉の基盤づくり』を次のように評している。「本書は、岡村重夫先生や私が重視してきた地域福祉実践・研究において、その重要性を指摘しながら必ずしも十分な研究を行ってこれなかった地域福祉の主体形成について正面から実証的に取り組み、その実践を質的研究の視点から明らかにしようとした労作である」。また、大橋先生は原田先生の研究者としての実践・研究姿勢について、次のように評する。「私以上に住民、計画策定委員会委員、あるいは行政担当職遺の “ 伴走者 ” として寄り添い、支えると同時に、時には “ 参与観察者 ”として客観的に計画策定のプロセスを細かく、あまねくみてきた」(『地域福祉の基盤づくり』「推薦の辞」)。筆者はかつて、大橋先生を「『福祉でまちづくり』の『スーパースター』(田中輝美の言葉)的な『関係人口』」と評させていただいたことがあるが、原田先生も正に、「地域福祉と福祉教育」の「スーパースター」的な「関係人口」である。
〇筆者は、大橋先生から薫陶を受けた一人である。原田先生とはいろいろな時や場で共働させていただいた。感謝に堪えない。
〇原田先生の研究業績について、諸般の事情から、ここに(「大橋謙策の『地域福祉とコミュニティソーシャルワーク』実践と研究」の )「補遺」として掲載させていただくことにした。その一切の責任は筆者が負うものである。読者の皆さんには是非、大橋先生と原田先生の「福祉教育」実践と研究から多くを学んでいただきたい。その一念のみである。
〇大橋先生と原田先生の真摯であくなき探究は、 “ これまで ” と 同様に、“ これから ” も続く。
                  (市民福祉教育研究所/文責:阪野 貢)

 


Ⅰ 地域福祉と福祉教育

―原田正樹『地域福祉の基盤づくり』(中央法規出版、2014年10月)―











出典:原田正樹『地域福祉の基盤づくり―推進主体の形成―』中央法規出版、2014年10月、はじめに、目次、230~23ページ、奥付。
謝辞:転載許可を賜りました原田正樹先生と中央法規出版に衷心より厚くお礼申し上げます。/市民福祉教育研究所:阪野 貢


Ⅱ 研究業績

Ⅰ 著 書

2023/04 『福来の挑戦―氷見市地域福祉実践40年のあゆみ―』(共著)中央法規出版
2022/03 『福祉教育の理論の実践方法-共に生きる力を育むために-』(単著)全社協
2021/08 『地域づくりとソーシャルワークの展開』(共著)全社協
2021/08 『伴走型支援-新しい支援と社会のカタチ-』(共著)有斐閣
2021/03 『地域福祉から未来へ2-社協職員が歩んだ10年 宮城からのメッセージ』 (共著)全国コミュニティライフサポートセンター
2019/11 『地域福祉政策論』(共著)学文社
2019/06 『コミュニティソーシャルワークの新たな展開-理論と先進事例』(共著)中央法規出版
2019/05 『ボランティア・市民活動実践論』(共著)ミネルヴァ書房
2018/10 『地域共生社会に向けたソーシャルワーク 社会福祉士による実践事例から』(共著)中央法規出版
2016/06 『地域福祉の学びをデザインする』(共著)有斐閣
2015/08 『社会保障制度改革とソーシャルワーク-躍進するソーシャルワーク活動Ⅱ-』  (共著)中央法規出版
2015/06 『社会福祉学習双書2015 地域福祉論 地域福祉の理論と方法』(共著)全社協
2015/01 『コミュニティソーシャルワークの理論と実践』(共著)中央法規出版
2014/10 『Readings 福祉教育・ボランティア学習の新機軸-学際性と変革性』(共著)大学図書出版
2014/10 『社会福祉研究のフロンティア』(共著)有斐閣
2014/10 『地域福祉の基盤づくり-推進主体の形成-』(単著)中央法規出版
2014/03 『改訂版 地域福祉の展開』(共著)放送大学教育振興会
2014/03 『新福祉教育実践ハンドブック』(共著)全社協
2013/06 『ネットワークを活用した ソーシャルワーク実践』(共著)中央法規出版
2012/10 『地域福祉援助をつかむ』(共著)有斐閣
2011/02 『改訂 民生委員のための地域福祉活動Q&A』(共著)中央法規出版
2010/10 『ボランティアを楽しむ 奉仕体験活動のアイデア&指導案』(共著)学事出版
2010/04 『ボランティア論-「広がり」から「深まり」へ-』(共著)みらい
2010/03 『地域福祉の展開』(共著)日本放送出版協会
2009/11 『共に生きること 共に学びあうこと-福祉教育が大切にしてきたメッセージ-』 (単著)大学図書出版
2009/03 「コミュニティソーシャルワークとボランティアコーディネート」 『ボランティア白書2009』(単著)日本青年奉仕協会
2009/03 『「地域生活の質」に基づく高齢者ケアの推進』(共著)有斐閣
2008/12 『高齢者福祉の世界』(共著)有斐閣
2008/06 『社協の底力』 (共著)中央法規出版
2006/07 『民生委員のための地域福祉活動』(共著)中央法規出版
2005/04 『地域福祉論』「個別支援から地域支援につなげる地域福祉実践」(単著)NHK学園
2004/09 『新・社会福祉士の共通基盤』(共著)中央法規出版
2004/07 『障害福祉の基礎知識』「福祉教育」(単著)日本知的障害者福祉協会
2004/04 『四訂 社会福祉実習』「社会福祉の専門職教育と実習教育」(単著)中央法規出版
2004/04 『地域福祉論』(共著)第一法規
2004/03 『実践子ども家庭福祉論』(共著)中央法規出版
2004/01 『否定されるいのちからの問い』横田弘対談集 (共著)現代書館
2003/04 『社会福祉基礎』文部科学省検定教科書 (共著)中央法規出版
2003/02 『福祉21ビーナスプランの挑戦』(共著)中央法規出版
2002/12 『権利擁護』「福祉教育」(共著)中央法規出版
2002/11 『介護等体験ハンドブック』(共著)埼玉県社協
2002/04 『福祉科指導法入門』(共著)中央法規出版
2002/01 『福祉教育実践ハンドブック』(共著)全社協
2001/09 『ソーシャルワークの共通基盤』「地域福祉支援」(共著)日本社会福祉士会生涯研修センター
2001/09 『地域福祉計画と地域福祉実践』(共著)万葉舎
2001/08 『コミュニティとソーシャルワーク』(共著)有斐閣
2001/04 『社会福祉士事例集Ⅱ』(単著)中央法規出版
2000/08 『コミュニティソーシャルワークと自己実現サービス』(共著)万葉舎
2000/05 『福祉教育の理論と実践』(共著)相川書房
2000/04 『地域福祉論』(共著)みらい
2000/02 『障害のある人々の生活と福祉』(共著)中央法規出版
1999/11 『ゆらぐことのできる力』(共著)誠心書房

Ⅱ 論 文

2023/03 「重層的支援体制整備事業について―その構造と留意点― 」『高齢者虐待防止研究』 (19) 日本高齢者防止学会(単著)
2023/02 「福祉と教育 そして福祉教育と教育福祉 」『ふくしと教育』 (34) 大学図書出版(単著)
2022/11 「誰一人取り残さない社会ま実現に向けた孤独・孤立対策」 『自治体法務研』 (71) ぎょうせい(単著)
2022/03 「コロナ差別・社会的排除に抗う福祉教育」 『地域福祉研究』 50 日本生命済生会(単著)
2022/03 「地域包括ケアシステムの深化としての包括的支援体制」 『病院』 81(3) 医学書院(単著)
2020/07 「withコロナ時代の地域共生社会」 『月刊ガバナンス』2020年7月号  ぎょうせい(単著)
2020/03 「日本福祉大学における地域連携教育の系譜と特徴-サービスラーニングからCOC事業への展開を中心に-」『 日本福祉大学 全学教育センター紀要』第8号  日本福祉大学全学教育センター(単著)
2018/12 「ボランティアを再考する」『 公明』公明党機関紙委員会 (単著)
2018/10 「地域共生社会の実現に向けて その背景と方向性」『 保健師ジャーナル 特集 保健師がつくる地域共生社会 』第74巻第10号 医学書院(単著)
2018/03 「地域共生社会の実現にむけた『教育と福祉』」『 社会福祉学 』58(4)  日本社会福祉学会(単著)
2017/12 「『地域共生社会』の現実を問う 」『こころと社会』№170 48(4)  日本精神衛生会(単著)
2017/12 「地域福祉と地域のガバナンス」『 月刊ガバナンス』 創刊(200) ぎょうせい(単著)
2017/10 「改正地域福祉計画と地域住民等の参加の諸相」『ソーシャルワーク研究』 43(3) 相川書房 (単著)
2017/09 「ケアリングコミュニティの構築をめざして」『月刊自治研』 59(696) 自治研中央推進委員会(単著)
2017/06 「社会福祉協議会との協働にむけて」『 月刊地方自治 職員研修 』 公職研(単著)
2017/04 <特集 災害に備える、地域ネットワークづくり>「災害ソーシャルワークとDWATの期待」『 月刊福祉』 100(4)  全社協(単著)
2017/02 「地域共生社会の実現に向けて」『 月刊福祉』 100(2)  全社協(単著)
2017/02 「包括的、包摂的な地域づくりへのビジョン」『月刊ガバナンス』2017年2月 ぎょうせい(単著)
2012/11 「福祉教育・ボランティア学習における創造的リフレクションの開発」 『日本福祉教育・ボランティア学習学会研究紀要』 第20巻  日本福祉教育・ボランティア学習学会(単著)
2011/02 「ソーシャル・キャピタルの質とは-地域の福祉力を高めるための実践から-」 『保健師ジャーナル』 第67巻第2号 医学書院(単著)
2011/01 「ボランティアと現代社会」 『ふくしと教育』 通巻10号 大学図書出版(単著)
2011/01 「身近な地域における福祉活動に今、求められること」 『月刊福祉』 第94巻第1号 全社協 (単著)
2010/11 「コミュニティソーシャルワークの介入としての福祉教育」 『コミュニティソーシャルワーク』第6号 日本地域福祉研究所(単著)
2010/06 「社会福祉協議会に期待される役割と機能」 『まちと暮らし研究 社会福祉協議会と地域福祉』No.9  財団法人地域生活研究所(単著)
2010/06 <学会大会報告>「共生文化を創造する学びをどうデザインするか-あいち・なごや大会 ラウンドセッションからのメッセージ-」 『日本福祉教育・ボランティア学習学会研究紀要』 Vol.15  日本福祉教育・ボランティア学習学会(単著)
2007/03 「JRC活動と福祉教育をめぐる研究の論点について」 『青少年赤十字活動と福祉教育の関連と今後の展開 研究報告書』 日本地域福祉研究所(単著)
2006/12 「活力ある市民パワーと共に新たな「協働」へ」 『ノーマライゼーション』 第26巻第12号  日本障害者リハビリテーション協会(共著)
2006/11 「福祉教育が当事者性を視座にする意味」 『日本福祉教育・ボランティア学習学会研究紀要』 第11巻  日本福祉教育・ボランティア学習学会(単著)
2006/04 「福祉教育実践の質を高めていくために」 『兵庫教育』 第58巻第2号(単著)
2005/03 「福祉教育実践のクオリティを高めていくために」 『月刊福祉』 第88巻第3号  全社協(単著)
2004/11 「福祉教育実践における学習者の生活世界の再構」 『日本福祉教育・ボランティア学習学会年報』 第9巻 日本福祉教育・ボランティア学習学会(共著)
2004/07 「地域福祉計画と地域住民の主体性に関する一考察-岡村理論を手がかりにして」 『都市問題』 第95巻第7号  東京市政調査会(単著)
2003/11 「福祉科教育法の確立をめざして」 『日本福祉教育・ボランティア学習学会年報』 第8巻  日本福祉教育・ボランティア学習学会(単著)
2003/09 「地域福祉計画の策定プロセスと住民参加の方法」 『地域政策研究』 第24号 地方自治研究機構(単著)
2003/07 「福祉教育を地域を広げよう」 『社会福祉セミナー』 第16巻第51号  日本放送出版協会(共著)
2003/05 「リスクマネジメントと地域福祉システムの構築」 『都市問題』 第94巻第5号 東京市政調査(単著)
2003/02 「行政計画策定への市民の参画の始動」 『地域政策』 №8  三重県政策開発研修センター(単著)
2003/01 「地域における学びの意義と方法」 『社会科教育研究年報』 日本社会科教育学会(単著)
2002/11 「福祉教育における学習者の内面的変化に関する検討」 『日本福祉教育・ボランティア学習学会年報』 第7巻  日本福祉教育・ボランティア学習学会(共著)
2002/03 「住民が創造する地域福祉システム-茅野市地域福祉計画の策定から学ぶ-」 『地域福祉研究』 No.30  日本生命済生会(単著)
2002/01 「施設における福祉教育推進の視点―社会福祉施設が福祉教育を大切にする意味―」 『介護福祉』  社会福祉振興・試験センター(単著)
2001/08 『発達25 21世紀の社会福祉』 社会福祉法の成立と21世紀の社会福祉』 ミネルヴァ書房(共著)
2001/07 「地域を基盤とした福祉教育システムへの転換」 『社会福祉研究』第81号 鉄道弘済会 (単著)
2001/06 「福祉を学ぶ授業をつくる」 『月刊福祉』 第84号8号  全社協(共著)
2001/02 「計画策定への住民参加をどうすすめるか」 『月刊・地方分権』 第22巻  ぎょうせい(単著)
2000/09 「地域福祉計画の策定とソーシャルワークの視点」 『東京国際大学論叢 人間社会学部』第6号(通巻57号)東京国際大学(単著)
2000/03 「日本社会福祉士会における生涯研修体系と展開」 『日本社会福祉士会研究紀要』第6号  日本社会福祉士会(共著)
1996/07 「地域福祉の時代における福祉教育の展開-社会福祉施設からのアプローチ-」 日本精神薄弱者愛護協会『AIGO』 43(6)  日本精神薄弱者愛護協会(単著)
1996/05 『福祉教育』研究の動向と課題 『日本福祉教育・ボランティア学習学会研究紀要 』創刊  日本福祉教育・ボランティア学習学会(単著)
1995/03 「福祉専門職としての社会福祉士の実態に関する考察」『社会福祉士』 2  日本社会福祉士会(単著)
1994/03 「福祉教育における障害理解プログラムの一考察」『 日本の地域福祉 』第7巻 日本地域福祉学会(単著)

Ⅲ その他

2022/05 『自立相談支援事業従事者要請研修テキスト』中央法規出版(共著)
2022/03 「ウィズコロナ時代の地域福祉実践」『 社会保障・福祉政策の動向』全社協 (単著)
2021/08 「市民が主体-学びと実践の循環  」大学図書出版 (共著)
2021/06 「高齢化の進展と高齢者を取り巻く状況」『介護支援専門員基本テキスト』 長寿社会開発センター (共著)
2021/03 「地域共生社会政策と地域福祉研究」『 日本の地域福祉』日本地域福祉学会 第34巻 (単著)
2021/02 『社会福祉士養成講座 精神保健福祉士養成講座 6 地域福祉と包括的支援体制』中央法規出版  (共著)
2021/02 『社会福祉学習双書 地域福祉と包括的支援体制』 全社協 (共著)
2020/06 「これからの時代におけるボランティア」『 月刊福祉 』103(6)  全社協(座談会収録)
2020/01 「成年後見を通した地域共生社会」『 日本青年貢献法学会 成年後見ニュース』№34 巻頭言  日本青年貢献法学会(単著)
2019/12 「協同による社会資源開発のアプローチ 」日本地域福祉学会 (共著)
2019/12 「地域共生社会にむけた0歳から100歳の包括ケアシステムの構築にむけて 」『コミュニティソーシャルワーク 』日本地域福祉研究所 (共著)
2019/11 「社会福祉士・精神保健福祉士養成課程の見直しとこれからのソーシャルワーカーに求められるものとは 」『月刊福祉』 全社協 102(11)(共著)
2019/11 「地域共生社会の実現にむけた包括的支援体制と多様な参加・協働の推進に関する検討会・中間とりまとめの概要と地域包括・在宅センターに期待すること 」『ネットワーク』 (152) 全社協 全国地域包括・在宅介護支援センター協議会(単著)
2019/10 「10代の君への手紙 『彼に教えてもらったこと』」 『道徳教育』59(11)  明治図書 (単著)  
2019/10 「サービスラーニングと地域共生社会をめぐって」 『地域共生社会に向けた福祉教育の展開~サービスラーニングの手法で地域をつくる~』全社協(共著)
2019/10 <書評>清成 忠男 監修、市川 一宏 編集代表『人生100年時代の地域ケアシステム』『 月刊福祉』102(10) 全社協(単著)
2019/08 「2000年以降の福祉教育実践の展開-全社協の取り組みから紐日本福祉教育・ボランティア学習学会解く-」『ふくしと教育』通巻27号 大学図書出版(単著)
2019/07 「共生を問う-福祉教育・ボランティア学習は「共に生きる力」をどう育むか-」『 日本福祉教育・ボランティア学習学会 研究紀要 』第32巻 日本福祉教育・ボランティア学習学会(共著
2019/06 「講演録 地域共生社会の実現に向けて」『 ヒューマンライツ 』No.375 一般社団法人部落解放・人権研究所(単著)
2019/05 「<インタビュー>プロデュース力で一人ひとりを主役にする舞台をつくる 」『月刊福祉』 102(5) 全社協(単著)
2019/03 『厚生労働省平成30年度生活困窮者就労準備支援事業費補助金社会福祉事業 地域での計画的な包括支援体制づくりに関する調査研究事業『地域共生社会の実現に向けた地域福祉計画の策定・改訂ガイドブック』全社協   (共著)
2018/06 「地域福祉ガバナンスをつくる 第2回 新しい地域福祉計画の策定と協働」『 月刊福祉 』全社協  (単著)
2018/05 「地域福祉ガバナンスをつくる 第1回 地域福祉ガバナンスへの視座 」『月刊福祉』 101(5) 全社協 101(5)(単著)
2018/04 「<インタビュー>・地域共生社会の実現に向けて」『 週刊保健衛生ニュース』  第1955号  社会保険実務研究所 (単著)
2017/11 『地域福祉のイノベーション : コミュニティの持続可能性の危機に挑む :日本地域福祉学会第30回大会記念出版  』  中央法規出版  (共著)
2017/10 「<放送講座>福祉教育とボランティア 」『NHKテキスト 社会福祉セミナー』 30(99) NHK出版 (単著)
2017/09 「<座談会>地域共生社会をめざして-福祉21ビーナスプラン(茅野市地域福祉計画)の挑戦-」『 月刊福祉』 100(9) 全社協 (共著)
2017/06 「地域福祉の基礎づくりの考え方」『 聖カタリナ大学公開講座「風早の塾」幸福の地域コミュニティ~ソーシャルワークにおける”人-地域-自然”との関係のあり方を問う』カタリナ学園(単著)
2017/06 「<インタビュー>自分を守る武器だった水泳で「障害」の意味を世に問いかけたい」『 月刊福祉』 100(6) 全社協 (単著)
2017/02 「特集 七・二六(相模原殺傷)事件を考える> 『事件が問いかける意味とは』」『 ふくしと教育』 (22)  大学図書出版(単著)
2015/03 「上野谷加代子、松端克文、斉藤弥生編著『対話と学びあい』の地域福祉のすすめ」 『地域福祉研究』 43  日本生命済生会(単著)
2014/07 『生活困窮者自立支援法 自立相談支援事業従事者養成研修テキスト』中央法規出版 (共著)
2011/03 「<書評>岩田正美監修、野口定久・平野隆之編『リーディングス日本の社会福祉 第6巻 地域福祉」 『日本の地域福祉』日本地域福祉学会  第24巻 (単著) 
2010/11 特別寄稿>JRC活動と片葩小学校の取り組みから学ぶ」知多郡東浦町立片葩小学校 (共著)
2009/04 『新 社会福祉援助の共通基盤 第2版』   中央法規出版(共著)
2009/03 『社会福祉学習双書 第8巻 地域福祉論 地域福祉の理論と方法』   全社協共著)
2009/03 『新・社会福祉士養成講座 9 地域福祉の理論と方法-地域福祉論』中央法規出版   (共著)
2009/01 『精神保健福祉士・社会福祉士養成基礎セミナー 第5巻 地域福祉論 地域福祉の理論と方法』   へるす出版(共著)
2006/05 「クローズアップ社協活動(神川町、伊賀市、土佐町、横浜市中区) 」『月刊福祉』 第89巻第5号、第8号、第11号、第90巻第2号  全社協(単著)
2006/03 「学校と地域でつくる新しいかたちの学びの育み 」『なごや福祉教育セミナー報告書』名古屋市社協 (単著)
2006/03 「地域ぐるみですすめる福祉教育の視点と方法 」『福祉教育の歩み』 島根県社協 (単著)
2006/03 「長崎県における『ふれあい学『『』の意義と展開 」『ふれあい学習推進地区報告書』  長崎県社協(単著)
2004/10 「社会福祉専門職と養成教育」『社会保障・社会福祉大辞典』労働旬報社   (単著)
2004/09 「市町村による次世代育成支援-長野県茅野市の取り組み- 」『こども未来』 第397号 こども未来財団(共著)
2004/08 「論壇 『地域での福祉教育の推進にむけて』」『 福祉新聞』 第2211号 福祉新聞社 (単著)
2004/04 『プロセスを大切にした学びの展開』全社協 (共著)
2004/03 『広域における子どものボランティア体験活動の試み ―ヤングボランティアキャラバン事業の評価― 平成15年度独立行政法人福祉医療機構助成事業 』全社協  (単著)
2004/03 『福祉施設における児童・生徒の福祉学習プログラムの開発と大学生の福祉学習サポーター・モデル事業 報告書平成15年度独立行政法人福祉医療機構助成事業   』全社協(単著)
2003/12 地域福祉計画」『社会福祉士のための基礎知識』「地域福祉計画」   中央法規:日本社会福祉士養成校協会(共著)
2003/12 『講演録:地域福祉をすすめるために』  日本生協連:コープくらしの助け合いの会全国ネットワーク (単著)
2003/06 『日本社会福祉士会十年史』   日本社会福祉士会(単著)
2003/03 『社会福祉士実習受入組織における実習指導者の質の向上と経済的・地域的貢献に関する研究 平成14年度厚生労働科学研究費政策科学推進研究事業報告書  』 日本社会福祉士会(共著)
2003/03 『住民参加による地域福祉計画策定実践手法に関する研修プログラム研究開発事業報告 平成14年度社会福祉・医療事業団助成事業』   全社協(共著)
2002/04 「住民参加と小地域活動」「地域福祉とまちづくり」「福祉教育と社会福祉」  『よくわかる社会福祉』ミネルヴァ書房  (単著)
2002/04 「ボランティア学習」『ボランティア・NPO』中央法規出版 (共著)
2002/04 『大学と施設をつなぐ介護等体験プログラム』東京都社協  (共著)
2001/04 「他者理解・疑似体験」『新・社会福祉援助技術演習』中央法規出版(共著)
2001/04 「福祉教育」『新社会福祉双書・地域福祉論』全社協(共著)
2001/03 『これからの福祉教育実践と福祉学習サポーターの研修のあり方」福祉学習サポーター等養成開発委員会報告書 』全社協 (共著)
1999/09 「福祉計画」「地域福祉」「ボランティア活動」「互助」 『生活学辞典』日本生活学会編TBSブリタニカ  (単著)

謝辞:本稿の掲載について関係者や関係機関に衷心より厚くお礼申し上げます。/市民福祉教育研究所:阪野 貢

老爺心お節介情報/第58号(2024年5月5日)

「老爺心お節介情報」第58号

地域福祉研究者各位
社会福祉協議会関係者各位

とても気持ちのいい季節になりました。
皆様お変わりなくお過ごしでしょうか。
「老爺心お節介情報」第58号を送ります。

2024年5月5日   大橋 謙策

Ⅰ 『穂積重遠ー社会教育と社会事業とを両翼として』(大村敦志著、ミネルヴァ書房、2013年4月)を読んで

〇朝日新聞に掲載されたミネルヴァ書房の広告を見て、大変驚き、すぐに読み始めた本が『穂積重遠ー社会教育と社会事業とを両翼として』(大村敦志著、ミネルヴァ書房、2013年4月)である。
〇更に驚いたことは、NHKの朝のテレビ小説の『虎の翼』で俳優の小林薫が演ずる「穂高重親」は穂積重遠がモデルであると知ったことである。
〇穂積重遠は、戦前の有名な民法の法学者であり、最高裁判事や東宮大夫を歴任された人で、以前よりその名前と華麗なる「学閥一族」のことは知っていたが、その穂積重遠の“社会評伝”のサブタイトルに“社会教育と社会事業とを両翼として”が付けられていることに、“社会事業と社会教育の学際的研究”をしてきたものにとって、自分の勉強不足を恥じ入るばかりであった。
〇穂積重遠は、末広厳太郎とともに、関東大震災後に東京帝国大学セツルメントを学生と一緒に行っていたことは知っていたが、穂積重遠が財団法人社会教育協会の会長、理事長を歴任し、「法を軸にした公民教育」をこれほど手掛けていたことは知らなかった。しかも、私は財団法人社会教育協会(当時の財団理事長は有光次郎、元文部事務次官)の「加齢学研究懇談会」で講演(1988年3月)し、その講演録が「高齢化社会に向けてー教育行政はいかにあるべきか」と題して、社会教育協会機関誌『国民』のNO1064(1988年6月)に掲載されているにも関わらず、その社会教育協会の設立者が穂積重遠であることも知らず、本当に恥じ入るばかりである。
〇私が大学院で学んでいる時代は“戦前の研究は皆、封建的で、戦後の考え、研究はいい”という実に単純な「ポツダム研究」(ポツダム宣言の受託前と後)という思考法があったし、「ポツダム研究者」という言い方もあった。
〇また、鶴見俊介が主宰する「転向の科学」という研究同人の思考法があったこともあり、自分自身戦前の社会事業の歴史研究をしているにも関わらず、謙虚に戦前の思想、研究をどこか斜に構えて研究していたのかもしれないと反省するばかりである。
〇私の東京大学大学院の修士学位請求論文は『戦前社会事業における「教育」の位置』であるが、その公開口述試験の際、指導教員であった宮原誠一先生が私の修士学位請求論文を高く評価してくれた上で、宮原先生から、今度は「社会教育における社会事業の位置」を研究して欲しい。そうでないと全体が分からないのではないかと指摘された。宮原先生から与えられた宿題は残念ながら研究しきれていないが、穂積重遠の社会評伝を読んで、宮原誠一先生の指摘の重要性に改めて気づかされた。
〇穂積重遠が設立した社会教育協会は、家庭教育の重要性を考えて、東京家庭学園を設立し、穂積重遠がその東京家庭学園の学園長を兼任している。この東京家庭学園は今日の白梅学園大学の前身である。
〇穂積重遠の人物評伝の中から学ぶ点も多々ある本であったが、著者の大村敦志先生の執筆の仕方にも大いに学ぶことが多かった。何しろ、法学者の大村敦志先生が書かれたものだけに、論文執筆はこうあるべきだという見本のように、実に膨大な資料を駆使して、多面的に論考されている姿勢は、社会福祉学研究者、地域福祉学研究者は学ばないといけないと強く感じた。
〇本書は、法学研究の枠組みについてとか、法と社会との関係、あるいは法と道徳との関係、あるいは1930年代~1940年代における大学、学問のあり方等が論じられており、法学研究の方法が分からないものにとってはやや難しかった点もあったが、とても学問のあり方、大学教員のあり方などとても参考になった。私も大学時代学んだ家族法の川島武宜、中川善之助、我妻栄などの先生方の名前がでてくるので、それらのことを思い起こしながら読み進めることができた。
〇本書は、東京大学法学部の2011年の学生向けの講義「穂積重遠論ー20世紀前半の社会と法」とそれに関連するゼミナールでの報告、論議が基になっているというが、なんとも羨ましい大学教育のあり方であり、大学教員としての姿勢である。
〇咋今の福祉系大学が社会福祉士国家試験対応の予備校的な教育に堕していることを憂いているものにとって、改めて福祉系大学の教員に本書を読んで、考えて欲しい本である。

Ⅱ 『原子力災害からの複線型復興ーー被災者の生活再建の道』(丹波史紀著、明石書房、2023年3月刊)を読んで

〇本書は、立命館大学産業社会学部教授の丹波史紀先生が、日本福祉大学に提出した博士学位請求論文を基に刊行されたもので、2023年度SOMPO福祉財団の社会福祉文献賞を受賞した著作である。
〇丹波史紀先生がそのご高著を恵贈してくれたので、私がお礼の手紙に書いた感想をここに転記しておきたい。

『この度は、SOMPO福祉財団の社会福祉学文献賞の受賞、本当におめでとうございました。私も6年間選考委員長をしていましたので、文献賞の受賞は本当に素晴らしいものです。その受賞文献をご恵贈賜りありがとうございました。
未だ丁寧に読んではいませんが、一読させて頂いた感想は、SOMPO福祉財団の選考委員の皆さんの評価とほぼ同じです。その上で、私の感想を述べます。
第1は、「災害ケースマネジメント」のあり方に関する論述がもっと欲しかったです。ご高著自体が、被災者の横断的、大量調査を基にしての論証でしたからやむを得ないかもしれませんが、社会福祉学の文献としては実態調査のみでなく、その支援のあり方、その支援システムのあり方にもっと論究してほしかったですね。以前お送りした私どもがまとめた石巻市の被災者へのソーシャルワーク支援はそれに少しでも迫れればという思いで纏めました(『東日本大震災被災者への10年間のソーシャルワーク支援』参照)。
第2には、「複線型復興」の持つ意味です。自然災害と原子力放射能汚染災害との複合的災害が福島県の特色で、私も浪江町等の避難所に行く機会を持ちましたが、複合的災害の持つ意味があまりにも深刻で、研究に関わることを断念した思いがあります。それだけ難しい問題ではありますが、複合的被災者の支援のあり方は、もっと多角的に検討されるべきではないかと思いました。特に、同居家族だった世帯が、放射能汚染災害により、家族分解、離婚、複数世帯化による経済的困難さなどを見聞きしてきたものには、原子力放射能汚染災害の一般的課題のみならず、社会福祉学の視点からの考察がよりあってほしかったというのが私の感想です。精読しておらず、とりあえず礼状を出すに当たっての感想を述べなければという思いからの感想ですから、正鵠を得ていないかもしれませんが、お許しください。』

〇地域福祉実践の領域において、阪神淡路大震災以降、社会福祉協議会による「災害ボランティアセンター」設置による支援が定着化しているが、“災害と社会福祉”との関りにおいて、被災者支援を長期的なスパンで、世帯全体の再建を考えていくことが重要である。限界集落、過疎地、高齢化という状況の中では、生活再建は被災直後の“がれき撤去”というレベルでは済まされない深刻な生活の変容があり、その支援が求められていることを社会福祉関係者、とりわけ地域福祉関係者は実践上でも、研究上でもきちんと受け止め、対応策を考え行くべきである。

(2024年5月5日記)

(備考)
「老爺心お節介情報」は、阪野貢先生のブログ(「阪野貢 市民福祉教育研究所」で検索)に第1号から収録されていますので、関心のある方は検索してください。
この「老爺心お節介情報」はご自由にご活用頂いて結構です。