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老爺心お節介情報/第63号(2024年12月14日)

「老爺心お節介情報」第63号

地域福祉関係者の皆様
社会福祉協議会関係者の皆様

「老爺心お節介情報」第63号を送ります。
向寒の折、ご自愛ください。

2024年12月14日  大橋 謙策

〇漸く冬らしい気候になってきましたが、皆様にはお変わりなくお過ごしでしょうか。
〇私の方は、春の天気の表現でよく使われる「三寒四温」ではありませんが、体の調子がいいなと思えると風邪を引く、どこに原因があるのかわからないのに体のあちこちが痛いといった状況で、「三寒四温」をもじっていえば、「三快四衰」の繰り返しで、徐々に体力が落ちていきます。そして、5年毎に階段を転がるかのようにガクッと体力が落ちるのを実感しています。それでも、毎日酒を飲んで楽しく過ごしています。
〇12月7日には、「房総地域福祉実践研究セミナー」が開催され、参加してきました。2000年冒頭に、何県かの知事たちは「社会福祉協議会不要論」を唱えました。地域福祉を専攻してきた私は、社会福祉の理念は子どもも、障害者も、高齢者も地域での自立生活が可能になるようなシステムづくりと支援をすべきだと考え、そのためには福祉サービスを必要としている人を排除、蔑視しない地域づくりが必要であるとともに、そのためにも市町村社会福祉協議会の力量を高める必要があると考え、日本地域福祉研究所のセミナーや四国地域福祉実践研究セミナー等いくつかの地域福祉実践研究セミナーの必要性を提唱し、関わってきました。
〇「房総地域福祉実践研究セミナー」もその一つで、20回も回を重ねました。今回は、「重層的支援体制整備・孤独孤立支援の地域福祉とコミュニティソーシャルワーク」をテーマに行われました。“継続は力なり”と言われますが、若い実践家が育ってきているのを実感しますし、そのような新しい実践との出会いをわくわくしながら見守っています。
〇12月4日~6日まで、石川県社会福祉協議会の茂尾亜紀さんのコーディネートで、2024年元旦の能登半島地震及び9月の集中豪雨で被害に会われた珠洲市並び穴水町、輪島市門前町を訪問させて頂きました。途中、液状化災害の酷い内灘町を経由しての訪問は、災害の広域性と多様性を彷彿とさせるものでありました。
〇今まで、富山県社会福祉協議会、香川県社会福祉協議会主催のセミナーで、能登半島地震等への支援の状況を聞いてきましたが、それらとは別の支援のあり方について考えさせられましたので、それに就いて以下に項目ごとに気が付いた点を書きたいと思います。
(2024年12月10日記)

#この小稿は、念のため、穴水町、珠洲市の関係者にご校閲頂いたうえで、発信していることを付記しておきます。
お忙しい中、穴水町、珠洲市の関係者の皆様ありがとうございました。(2024年12月14日、加筆修正)

Ⅰ 「災害ボランティアセンター」から「災害ボランティア・ささえあいセンター」への改組・発展

〇私は、以前より、災害時支援に関わる社会福祉協議会の役割は、被災者宅などの瓦礫撤去、泥水・汚泥の撤去ではなく、被災者の生活面でのニーズ把握とその解決に関わるソーシャルワーク支援を中心にすべきだと提唱してきました。
〇そのことは、社会福祉協議会が設置するボランティアセンターが瓦礫撤去や泥水・汚泥の撤去を行ってはいけないということではありませんが、それ以上に被災者、とりわけ生活再建、再興の復元力の弱い被災者へのソーシャルワーク支援が重要なのだと述べてきました。
〇この件については、東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県石巻市の被災者支援を行ってきた日本医療ソーシャルワーク協会の活動をまとめた『東日本大震災被災者への10年間のソーシャルワーク支援』(日本医療ソーシャルワーク協会監修)に詳しく書かせて頂きました。
〇今回、穴水町社会福祉協議会を訪ね、社協職員の橋本みすずさん、国際NGO・ADRAの小出一博さん、名古屋市みなと災害ボランティアネットワークの富松辰也さんにいろいろお話をお聞きしました。
〇その際に、示された穴水町社会福祉協議会のボランティア・ささえあいセンターの体系図が以下の図です。

〇この図には、既に従来の瓦礫撤去のボランティア活動の受け入れ調整とともに、生活支援、避難所支援が明確に位置づけられています。
〇と同時に、一般のボランティアによる瓦礫撤去などとは別に、高度な技術を必要としている技能系ボランティア活動も別枠で位置づけられていますし、炊き出し調整グループの位置づけも明確化されています。
〇穴水町の災害ボランティア・ささえあいセンターの体系に大きなヒントをくれたのは、2007年の震度6強の能登半島地震の際に支援に入ってくれたレスキューストックヤードの関係者で生活ニーズへの支援との一体化の提案をしてくれたそうです。また、穴水町役場・社会福祉協議会・民間団体の三者間の情報共有会議を毎週行い、連携した体系の基盤づくりをリードしてくれました。
〇国際NGO・ADRAなどの技術系ボランティア団体は、そうした連携の基盤がしっかりとできたところに2024年2月から支援に入るようになったということでした。
〇国際NGO・ADRAの小出一博さんによれば、「穴水町の災害ボランティアセンターの事例はこれまでにない優良事例だと感じておりました。どのような背景からこの素晴らしいカタチになったのかを整理したくて、キーパーソンへのインタビューなどしてきました。そんなこともあり、大橋先生が「穴水の経験を社会に伝えるべき」と橋本さんにお話なられていることに改めてその意義を思いました。私は、何でこんなにいろんな人が関わる開かれた災害ボランティアセンターとなったのか、というところにしか目が向いておりませんでした。しかし、目を向けるべきは、「作業ボランティアと生活支援ボランティアの両方を災害ボランティアセンターでやる」ということを早い段階で表明して、実現できていたところなのだと今日理解いたしました。」とメールを頂きましたが、まさにこの言葉に尽きると思います。
〇一般的な災害ボランティアセンターを開設して、がれき撤去等の需要供給の調整に関わる作業だけでなく、より専門的な対応ができる技術系ボランティア団体の活用、炊き出しや日常生活、今後の生活支援まで統合的に展開するシステムこそが社会福祉協議会に求められていると改めて実感しました。
〇穴水町災害ボランティア・ささえあいセンターは、災害ごみの搬出の他、引っ越しボランティア、避難所環境整備、食の配送・炊き出し、仮設住宅の表札づくり、被災者の健康管理、避難所での制度利用の説明会、新生活応援御用聞き、足湯・サロン等多様な活動を一体的に展開しています。
〇穴水町の災害ボランティア・ささえあいセンターは、穴水町社会福祉協議会がある建物に設置されましたが、そこに300人の人が避難する状況でした。その建物の一室がたまたま施錠されていて、避難民の方が入室していなかったので、「こちらはお身体の不自由な方のためのスペースです」という張り紙をして、その部屋を福祉避難所にし、尿臭のする認知症の方や車いすの方、全盲の視覚障害者、精神障害のある方などに利用していただいたとのことです。
〇また、子ども連れの世帯には建物の2階の部屋を利用して頂き対応しました。福祉避難所の利用者については、発災直後は職員や外部ボランティアが支援していましたが、夜間の支援も必要であり、一晩だけではあったが、DWATの方々が立ち寄ってくれた時に支援をお願いしました。その後、2月19日から2月29日の間、DWATは保健師と協働し、各避難所を訪問し、福祉的支援が必要な方々への支援を実施してくれました。
〇と同時に、多くの被災地ではり災証明に関する手続きが煩瑣で、多くの住民が支援を必要とする状況があるなかで、穴水町は人口が少ないからできたという面があるのかもしれませんが、行政がすべての世帯への被災状況の調査を地区ごとに行い、住民からり災証明発行の申し出があれば、即座に証明を出せるシステムを作ったことは高く評価できます。結果として住民のり災証明申請率が大変高くなっています(住宅被災者の中で、り災証明北郊等のニーズがどれだけ申請されているかの率では、2024年7月現在、該当する住民の80.4%が申請している。輪島市は29.9%、珠洲市は71.1%、七尾市は18.2%)。

Ⅱ 珠洲市――“禍転じて福となす”ソーシャルケアの可能性を期待して

〇珠洲市の被害状況は、大谷地区清水町、仁江町の山崩れ、山津波被害、港・海岸の隆起(4メートル)、宝立地区春日野や三崎地区寺家、粟津などの津波(津波の高さはおおよそ4~5メートル)被害、各地の液状化被害、道路の隆起・陥没による被害と多様な災害に見舞われました。さらには、9月の集中豪雨による被害、内水氾濫による被害も甚大です。
〇珠洲市では、社会福祉協議会会長の表啓一さん、事務局長の塩井豊さん、総務管理課長の奥佐公子さん等から話を聞くとともに、神徳宏紀さんが被災各地を車で案内してくれながら被害状況の説明と社会福祉協議会の対応等の説明をしてくれた。
〇珠洲市の災害ボランティアセンターには、石川県内の社会福祉協議会の白山市社協、野々市市社協、小松市社協、川北町社協、宝達志水町社協や石川県社協職員はもとより、全国の社会福祉協議会職員が支援に入ってくれており、私が訪問した日(12月5日)にも、宮崎県日向市社協、宮崎県高鍋町社協、熊本県社協、熊本県益城町社協、神奈川県箱根町社協、神奈川県川崎市社協、神奈川県横浜市社協、山梨県社協の職員が支援に来てくれていました(この日は入れ替わり日で常時4名の県外の応援が入っていました)。
〇社会福祉協議会の表会長は、ボランティア活動が夕方終わり、金沢市への帰路に就くときには、必ずバスの中でボランティアの皆様にお礼のあいさつを欠かさなかったとお聞きした。表会長は当たり前ですとは言っておられたが、表会長のボランティアの皆様への並々ならぬ感謝の表れと敬服させられました。
〇また、災害支援ボランティア団体としては、国際NGOピースウインズジャパン、ピースボート災害支援センター、チームふじさん等の団体が支援に入ってくれており、名刺交換させて頂いた。また、珠洲市には、日本災害看護学会や災害看護研究所、日本医療ソーシャルワーかー協会等の看護、保健分野の団体が多く支援に入っているとの印象をもった。
〇珠洲市では、災害ボランティアセンターと生活支援のささえ愛センターとは、別々に設置されていたが、その協働関係は良く保たれており、事実上一体的に運営されていると考えてよい。その活動は、穴水町の災害ボランティア・ささあいセンターと同じように機能していると考えらます。
〇珠洲市社会福祉協議会の活動は、被災以前は、職員のほとんどが介護保険サービスを担当しており、通所介護及び訪問介護の職員数が64名なのに対し、総務管理課の職員数は5名で、ささえ愛センター兼務2名が実質的に地域福祉を担っていたと側聞していました。珠洲市には特別養護老人ホームと老人保健施設等の入所型施設も整備されていますが、住民の多くは在宅で、集落ごとの付き合いを大切にし、訪問系、通所系の介護サービスを利用して生活してきたという。
〇能登半島地震により、介護保険分野のサービスが壊滅的な打撃を受けたものの、珠洲市社会福祉協議会は職員を解雇して、雇用調整金制度を活用するという判断をせず、職員の雇用を継続したそうです。その財源は、介護保険サービスで蓄積した基金を取り崩しての対応であり、2023年度だけでも5000万円の赤字を計上したという。同じように、今年度も、ほぼ同じ5千万円の赤字が予想されているという。そのことに対する市行政からの補助はなく、厳しい経営が迫られていました。
〇そのような中、解雇しなかったケアワーカーたちが災害被災者支援のささえ愛センター等で大きな力を発揮し始めていることに大きな期待がもてました。
〇日本の「社会福祉士及び介護福祉士法」は、入型社会福祉施設が隆盛な1987年に制定されました。その時代では、ケアワーカー(介護福祉士)の必要性は良く理解されていましたが、生活全般の支援をするソーシャルワーカー(社会福祉士)は何をする仕事か国民にも、社会福祉関係者にも、政策担当の厚生労働省にも理解されていなかった状況です。
〇ところが、1990年に在宅福祉サービスが法定化され、2000年に介護保険法、2005年に障害者総合支援法が実施されるに及んで、在宅の要支援高齢者や障害者の支援にはケアワークだけでなく、ソーシャルワーク機能も必要であることが理解されようになっていきます。まして、2021年度から始まる地域共生社会政策を具現化させる重層的支援体制整備事業等においては、要支援者へのケアワークと生活全般を支援するソーシャルワークとを統合的にとらえる「ソーシャルケア」という考え方が重要になります。
〇「ソーシャルケア」という考え方は、1998年にイギリスで提唱されましたが、日本でも2000年に「ソーシャルケアサービス研究従事者協議会」がケアワーク及びソーシャルワーク関係の17団体・学会の参加の下に立ち上げられました。
〇能登半島地震という未曽有の災害を被災した珠洲市では、地域で暮らしたいと願う住民の要望に応えていくためには、訪問介護系職員が生活支援も担当し、きめ細かく住民の支援に関わることで、他市町村にない新しいサービス体系を構築できる可能性を持っていると感じましたし、期待したいと思いました。
〇私は、そのためにも、行政と協議をして、できるだけ早く重層的支援体制整備事業を受託するように社協会長並びに事務局長に提言させて頂きました。
〇市内の被災地を案内してくれた神徳宏紀さんとご一緒している際に、技術系ボランティア団体・チームふじさんの藤野龍夫さんの現場を見る機会がありました。その現場、あるいは藤野さんの活動を聞いていると、汚泥撤去、がれき撤去のボランティアとは全く違うニーズ対応のボランティア活動があることがよくわかりました。藤野さんは泥水に浸かったエアコンの85%を修理し、生活再建に役立てたということです。私などは、泥水に浸かったエアコンは使い物にならず、廃棄処分だと思っていたのですが、技術系ボランティア活動によって再使用可能になるというのは驚きでした。
〇珠洲市では多様なボランティア団体が支援に入っていることもあり、「珠洲市災害NPO等の連絡会」が1月7日に行われ、その後も週に1回のペースで開催されているとのことです。
〇珠洲市への支援のボランティア団体の活動が早かったのは、行政や社会福祉協議会が動く前に、社会福祉協議会職員である神徳宏紀さんが個人的にメール等で依頼したからということもあるようです。
〇神徳宏紀さんは、2023年5月の能登半島地震の支援に入ってくれた支援団体の方々と個人的「関係人口」を持っており、その個人的「関係人口」が2024年元旦の災害でも威力を発揮し、多くの団体が支援に入ってくれたということです。
〇それらの団体の連絡調整を密にして、無駄のない支援を可能ならしめたのが上記の連絡会です。と同時に、珠洲市の行政も福祉課のみならず、健康増進センター、環境建設課、総務課、市民課の連携をよくとり、災害ボランティアセンター、ささえ愛センター、日本医療ソーシャルワーカー協会への委託をスムーズに展開してくれました。そのために、上記の連絡会とは別に、生活支援ネットワーク会議、情報共有会議などを随時開催しています。

Ⅲ 特別養護老人ホーム長寿会における緊急避難・帰宅支援・介護経営の問題

〇社会福祉法人長寿会では、参事兼事務局次長の高堂泰孝さんと特別養護老人ホーム長寿園と第三長寿園の施設長中村充宏さんにお話しをお聞きしました。
〇特別養護老人ホーム長寿園は、定員98名、ショート利用者8名、デイ利用者17名で経営されている築40年の施設です。能登半島地震により、停電、断水、浄化槽の使用不可の状況に陥りました。
〇長寿園は高台にありますが、津波に襲われた地区が近くにあり、一般市民の避難者が250名身を寄せてきたそうです。施設が有している備蓄品は3日間で、それをどうにかやりくりしてしのいだが、急遽支援を要請したといいます。

・1月3日には自衛隊の物資のパンが届くと同時に、ガス管直結でガスが使用可能になりました。
・1月5日、関西電力の送配電車両が到着し、本館などの明かりがともりました。
・1月13日、県、市、DMATの関係者の判断で入居者の避難を決定。自衛隊、民間救急、ヘリコプター、リムジンバスを利用し、避難開始。
・1月17日、DWAT(福井、静岡)4名来援。1月22日にはDWAT(岐阜県)から5名来援。
・1月26日、避難完了。

〇長寿会での聞き取りにおいていくつかの疑問、介護保険制度等不備を実感しました。
〇第1は、サービス利用者の全員を避難する際に、DMATが大きな役割を果たし、感染症等の危険性から避難を要請されたにも関わらず、それらに関わる対応が不十分であり、制度に不備があるということです。
〇緊急事態に遭遇している状況の中で、とりわけ要介護の高齢者のケアをしている立場から言えば、感染症の危険性等を指摘され、避難の必要性を誘導され、実際の避難は自衛隊などによって避難させてもらったにも関わらず、その避難者が帰郷する際の支援は介護タクシーのみであり、それ以外の避難に関わる費用も自己負担ということはとても解せないと思いました。愛知県、大阪府の避難先からの帰郷もあったということです、
〇第2には、そのような避難を行いながら、避難させた長寿会には、実際のケアを提供していないからという理由で、介護報酬費が入らず、経営難に直面するということです。働いている職員の雇用確保を継続するためには、介護報酬の収入がないなか、社会福祉法人自体がその工面をしなければならないという点も制度のある側面だけに焦点化させているのではないかと思いした。緊急事態いうことが何ら考えられていないと思いました。
〇たまたま社会福祉法人長寿会は施設の移転建築を考えていたため、そのための積み立て金7億円を含めた積立金が約10億円あったので、そこから1億円を支出して、職員の雇用を確保できたということですが、近隣施設で職員を解雇し、雇用調整金制度で対応した社会福祉法人は現在でも施設を再開できずにいるとのことです。それは一端解雇した職員が戻らず、職員を確保できないからだということです
〇長寿会では、職員を確保できていたので、9月末には被災前の利用者で遠隔地に避難していた人もすべてが戻ってきて、現在サービスを利用されているという。
〇そのような中、金沢市の施設へ避難した利用者20名とケアの職員は、その施設を利用させていただいたにも関わらず、介護報酬はすべて長寿会の収入として取り扱ってくれ、大変助かったということです。
〇長寿会では、現在のところ、地上に水道管を配管すると同時に、下水道も40名分の浄化槽を2基地上に設置することでサービスを提供できているという。
〇また、第3長寿園の空き地は、復興住宅に隣接しているが、その空き地を利用して、被災者の交流拠点施設の計画を進めており、カフェスペースや相談室も備えた多世代交流型の復興支援活動の拠点にしたいと考えているとの事でした。

Ⅳ 輪島市門前町の総持寺祖院の復興を願って

〇輪島市門前町の総持寺祖院は、明治39年の火災で焼失、その後復興され、今日では国の重要文化財に指定されようかと言われるほど重要な建造物であったが、先の地震で被害を受け、14年ぶりに落慶法要が終わった。その矢先に、今回の能登半島地震で再度大きな被害を受けました。
〇私は今から30年前ぐらいに訪問し、その素晴らしさ、荘厳さに胸を打たれていたので、今回訪問させて頂くことにしました。
〇曹洞宗青年部の僧侶としてボランティア活動されてきた副監院兼副寺の高島弘成さんにいろいろ説明を頂きました。
〇今回の地震波は前回と異なる横揺れだったので、せっかく再建したにも関わらず被害を受けることになったとのことです。
〇今回は、国の重要指定文化財に指定されそうなので、復興には国の関与がいろいろあり対応が大変ではあるが、前回のようなお寺と地域の負担は大きくならないとだろうとのお話に少し安心しました。
〇今回の地震では3つある塔頭のうち2つが崩壊してしまったし、門前の商店街も被災しているので、地域の皆さんには前回のような負担をお願いできないと言われていましたが、まさにそうだろうなと得心しました。
〇高島弘成さんは旧来のまちを復興・再建するのでなく、新しい街をつくるという発想が重要だと言われていたことが非常に印象に残りました。
〇被災した門前の商店街もプレハブを建てて、仮の商店街を開いていましたので、今後の復興、新しい街づくりに心から期待したいと思いました。
(2024年12月14日記)

(備考)
「老爺心お節介情報」は、阪野貢先生のブログ(「阪野貢 市民福祉教育研究所」で検索)に第1号から収録されていますので、関心のある方は検索してください。
この「老爺心お節介情報」はご自由にご活用頂いて結構です。

 

阪野 貢/「地者」「曲者」「切れ者」による「自立」「自律」「内発性」のまちづくり ―岡崎昌之著『まちづくり再考』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、岡崎昌之著『まちづくり再考―現場から学ぶ地域自立への道しるべ―』(ぎょうせい、2020年1月。以下[1])がある。[1]は、自治体学会が企画して2017年2月から2018年12月にかけて東京都中央区、愛媛県内子町、大阪府豊中市、岩手県遠野市において開催された「自治立志塾」(集中講義)における講義内容と対論を再構成したもの(「まちづくり実践論」)である。そこでは、岡崎が関わった草の根的なまちづくりの事例が豊富に収録され、これからのまちづくりの視点や方向性について言及される。
〇本稿では、岡崎が紹介・解説する「まちづくり」の定義をめぐって、留意すべき基礎的・基本的な事項をメモっておくことにする(抜き書きと要約)。

「まちづくり」の定義
〇[1]で岡崎は、日本地域開発センター(1964年2月設立)の「地域社会研究会」が提示した定義を取り上げる。「まちづくりとは、それぞれの地域社会の歴史的、文化的な個性を基礎にして、その地域に本当に(真に)必要なものを、そこに生活する人々が自らの知恵と活力で発見し実現していく創造的な過程である」(「北海道池田町まちづくりシンポジウム―地域にみる生活と文化の再生―」1975年10月)がそれである(15、16ページ)。ここでは、「そこに生活する人々」(住民主体)の「自立(independence)」と「自律( autonomy)」の志向、「内発性(endogenous)」の発想が重視される。

「自立」「自律」「内発性」のまちづくり
〇岡崎にあっては、まちづくりにおける地域の「自立」とは、まちづくりについて「地域が決意し、主体性をもって取り組むこと(ローカル・イニシアティブ:local initiative)」であり、「自分自身や地域のもつ力量を最大限に発揮して、やり通そうとする意志(セルフ・リライアンス:self-reliance)」である。すなわち、「まちづくりにおける自立とは、自らが決意し、自らの力量で、まずは内を固め、そこを足場に外と連携するまちづくりの方策」をいう(51~52ページ)。
〇地域の「自律」とは、「反目したり、反発することもある組織間や地区間のベクトルを、地域の将来や全体の方向性を共有し、互いをおもんぱかりつつ、地域内で調整し、課題を解決しようとする力」(意識や行動力)をいう。その “ 自律 ” 的な意識や行動力は、「地域の総合的な力量を高めるうえでも、また地域における信頼関係や連携(ネットワーク)といった、いわゆる社会関係資本(ソーシャルキャピタル:Social Capital)を構築していくうえでも欠かせない」(53ページ)。
〇地域の「内発性」とは、地球規模や全国規模の地域課題に対して、単一の発展方式や全国同一の解決方式あるいは外来型の開発方式ではなく、「地域の特性や組織、課題の内容に即して、様々な解決の方向や新しい道筋をつけていこうとする試み」である(62ページ)。すなわち、「地域の良さや個性、価値を、そこに生活している人々が気づいていないものまでも、切り拓いて確認をし、その可能性を模索すること」(73ページ)をいう。
〇そして岡崎は、確かな「自立」と「自律」、「内発性」をめざすまちづくりを進めるためには、①歴史的視点からの地域の徹底的な調査(地域の歴史の探索)と、②地域が誇る資源や “ 宝 ” だけではない、地域にとって本質的な価値の模索(地域価値の模索)、そして③広域的な視点に立った、地域の “ 価値 ” や地域に “ あるもの ” の意味の模索(地域の相対化)が必要かつ重要であるという(64~70ページ)。それは、“ ないものねだり ” のまちづくりではなく、“ あるもの探しのまちづくり ” を説く結城登美雄らの「地元学」に通じるものである。
〇そのうえで岡崎はいう。「自立や内発とは、必ずしも特定地域に固執して、内にこもり閉鎖的になることではない。地域内に存在する価値や独自性を明確に認識しつつ、周辺地域や類似の価値をもつ地域とも幅広い連携を保ち、連携のなかからまた新しい価値を創出していくことが重要である。他地域との連携、関連の識者や専門家とのネットワーク形成はまちづくりには不可欠である」(71ページ)。

「地者(じもの)」「曲者(くせもの)」「切れ者(きれもの)」
〇以上のようなまちづくりの担い手についてはこれまで、「よそ者」「若者」「バカ者」の3者が挙げられてきた。従来のシステムや活動に対して批判的で、新しい見方を醸成する「よそ者」、しがらみのない立場から、新たなエネルギーによって次の時代を切り拓く「若者」、旧来の価値観の枠組みからはみ出し、既成概念を壊す「バカ者」がそれである(真壁昭夫『若者、バカ者、よそ者―イノベーションは彼らから始まる!』PHP研究所、2021年8月参照)。この点について岡崎はこういう。「それらの人たちだけではまちづくりは続きにくい。地域に根づき、持続するまちづくりを展開するためには、よそ者だけでなく『地者』、若者だけでなく、土地の事情や人間関係を(も)熟知した年配者や得意技を持つ『曲(クセ)者』、知恵と決断力をもった『切れ者』が必要とされる」(99ページ)。
〇その際、岡崎は、自治体や地域社会の「定住人口」だけではなく、「交流人口」(地域の住民とはならないまでも、その地域が自己実現した魅力にひかれてそこを訪れ、地域の人々とコミュニケーションを持つ人々)や「関係人口」(長期的な定住人口でも短期的な交流人口でもない、地域や地域の人々と多様に関わる者)、それに「活躍人口」(まちづくりを担い、地域を支えようと頑張る人)をいかに拡大し、活かすかが重要となる、という(96~99ページ)。
〇要するに岡崎にあっては、まちづくりの担い手には、地域内外の人材や資源、さらには専門的な知識を有する関係人口などとの信頼関係や有機的連携のもとに、まちづくりの目標を明確に認識し、地域を歴史的かつ客観的・相対的に見る視点を持つことによって、地域の特色や個性を把握し、これまで見落とされてきた価値を見出し、地域の課題解決や将来の地域社会形成を図るための新しい方向を提示することが求められるのである(117ページ)。
〇この点に関して岡崎は、「他者への配慮、互いの信頼性、有機的連携といった社会関係資本こそ(が)、これまでのハード中心の社会資本に変わって、これからのまちづくりにとって必要な新しい資本といえる」という(140ページ)。最後に引いておきたい。

阪野 貢/「生まれる」こと、「生きる」こと―谷川俊太郎が逝った―

〇2024年11月13日、「生きる」を問う珠玉の言葉を紡ぎ続けた詩人・谷川俊太郎が逝った。享年92。「もちろんぼくは詩とははるかに距(へだ)たった所にいる」(「理想的な詩の初歩的な説明」『世間知ラズ』思潮社、1993年5月)が、世間では谷川に対する感謝とその死を悼(いた)む声が絶えない。
〇1952年6月に刊行された谷川の最初の詩集『二十億光年の孤独』(創元社)、そのなかの詩句――「万有引力とは/ひき合う孤独の力である/宇宙はひずんでいる/それ故みんなはもとめ合う」を思い出す。人は本質的に不安や孤独のなかに生きる。それゆえに他者を求め、引き寄せ合って生きる、というのであろう。人はひとりでは生きられない。誰かとつながり合って生きている、のである。
〇金子みすゞの詩句――「鈴と、小鳥と、それから私、/みんなちがって、みんないい。」(「私と小鳥と鈴と」『金子みすゞ全集』JULA出版局、1984年2月)もいい。または、歌人・俵万智の短歌 ――「「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ」(『サラダ記念日』河出書房新社、1987年5月)もいい。
〇それよりも、谷川俊太郎の、「生まれた」 ぼくが “ いま ” を “ ただ ” 「生きる」、の方がなおいい。次の4篇の作品を通してだけからでも、唯一無二である命(いのち)の大切さや尊さ、生きることの豊かさや意味、そして支え合って生きることの素晴らしさやありがたさについて、改めて思う。併せて、言葉は生きる力を生み出し、人と人をつなぎ、そして未来(あす)を拓くことに、改めて気づく。

生まれたよ ぼく
~『子どもたちの遺言』(田淵章三・写真、佼成出版社、2009年1月)より~

生まれたよ ぼく
やっとここにやってきた
まだ眼は開いてないけど
まだ耳も聞こえないけど
ぼくは知ってる
ここがどんなにすばらしいところか

だから邪魔しないでください
ぼくが笑うのを ぼくが泣くのを
ぼくが誰かを好きになるのを
ぼくが幸せになるのを

いつかぼくが
ここから出て行くときのために
いまからぼくは遺言する
山はいつまでも高くそびえていてほしい
海はいつまでも深くたたえていてほしい
空はいつまでも青く澄んでいてほしい

そして人はここにやってきた日のことを
忘れずにいてほしい

 

一人きり
~『子どもたちの遺言』(田淵章三・写真、佼成出版社、2009年1月)より~

ぼくはぼくなんだ ぼくは君じゃない
この地球の上にぼくは一人しかいない
もしかする半径百三十七億光年の宇宙で
ぼくは一人きり

生れる前もぼくはぼくだったのか
死んだ後もぼくはぼくなのか
どこへ行ってもぼくはぼく
いつまでたってもぼくはぼく
ぼくはぼくが不思議でしかたがない

ぼくはいま本を読んでいる
ぼくは息をしている
妹はいま大声で泣いている
妹も息をしている

いまから千年前
ここには誰がいたんだろう
いまから千年後
ここには誰がいるだろう

 

生きる
~『生きる』(岡本よしろう・絵、福音館書店、2017年3月)より~

生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木漏れ日がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみすること
あなたと手をつなぐこと

生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと

生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ

生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまが過ぎてゆくこと

生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ

 

ただ生きる
~『詩の本』(集英社、2009年9月)より~

立てなくなってはじめて学ぶ
立つことの複雑さ
立つことの不思議
重力のむごさ優しさ

支えられてはじめて気づく
一歩の重み 一歩の喜び
支えてくれる手のぬくみ
独りではないと知る安らぎ

ただ立っていること
ふるさとの星の上に
ただ歩くこと 陽をあびて
ただ生きること 今日を

ひとつのいのちであること
人とともに 鳥やけものとともに
草木とともに 星々とともに
息深く 息長く

ただいのちであることの
そのありがたさに へりくだる

〇シンガーソングライター・さだまさしの「いのちの理由」もいい。はじめてコンサートに行って聴いた詞(うた)、心の琴線にふれる言葉が紡がれる(ルビは筆者)。

いのちの理由
~オリジナル・アルバム『美しい朝』(ユーキャン、2009年6月)より~



〇そして、思う。生まれることは生きること、生まれることでそのすべてが始まる。人は、きのう(過去)を振り返り、あす(未来)を想い描き、きょう(現在)を思い考える。そして人は、自分の体験や人生のなかに、幸と不幸を見出す。それが、喜びや悲しみをもたらす。また人は、支え合って、いま・ここで・わたしを生きる。それが、安らぎや豊かさをもたらす。ときに、苦しみや困難をもたらす。あなたもわたしも、これからもずっと。‥‥‥ということを。
〇そして、気づく。わたしはいま、ひとまずすべてを飲み込んだことにして、幸か不幸かではなく、自分らしくわたしを生きてきたかどうか、その証(あかし)を探し求めている。それは例えば、エーリッヒ・フロムがいう「もつこと」か「あること」か(※)ではなく、その混沌のなかに、である。‥‥‥ということに。

※「もつこと」と「あること」
人間の存在(あり方)には、「もつこと:to hove」と「あること:to be」の2つの様式がある。「持つ存在様式は財産と利益を中心とした態度であって、必然的に力への欲求――というよりは必要――を生み出す。(中略)ある様式においては、それは愛すること、分かち合うこと、与えることの中にある」(117~118ページ)。すなわち、「もつ様式」は、富や名声や権力などを持つことを指向する存在様式をいい、「ある様式」は、何ものにも束縛されず自分らしく生きることを指向する存在様式をいう。(エーリッヒ・フロム、佐野哲郎訳『生きるということ』(原題:To Have or to Be?)紀伊國屋書店、1977年7月)

 

追記
〇谷川俊太郎の詩を改めて読む・味わうなかで、「言葉は生きる力を生み出す」ことを改めて認識した。そんななかで併せて、ノンフィクション作家の柳田邦男の『言葉の力、生きる力』(新潮文庫、2005年7月)を読み返した。その本の最後で、柳田はいう。「人生後半に入っている今は、自分の心の座標軸を次のように明確に語ることができる。/<私の心には自分の境遇を幸福か不幸かという次元で色分けする観念も意識もない。あるのは、内面の成熟か未熟かという意識だ。そして、内面において様々な未成熟な部分があっても、あせることなく、人生の終点に到達する頃に、少しでも成熟度を増していればよしとしよう>――と」(272ページ)。柳田が65歳の時に書いた「『成熟』という心の座標軸」(2001年9月)の一節である。
〇「わたしを生きる」ことと「内面の成熟と未熟」とは、どのようにかかわるのであろうか。人生の最期を迎える頃に、わたしを生きたことのいくらかでも認識できれば、それでよしとするのであろうか。(2024年12月4日記)

阪野 貢/大空小学校と木村泰子の「みんなの学校」に学ぶ ―木村泰子著『「ふつうの子」なんて、どこにもいない』等のワンポイントメモ―

「人権って空気みたい」(子ども)。「どうして空気なん?」(大人)。「えー、だって空気なかったら人間死ぬでー」(子ども)。(以下[3]24ページ)

〇前稿(<雑感>(216)阪野 貢/「ふつう」再考:「ふつう」は “ 障害 ” を排除し、社会秩序を維持する ―信濃毎日新聞社編集局著『ルポ「ふつう」という檻(おり)』のワンポイントメモ―/2024年11月2日/本文 )において、「周りの子が豊かに育てば、障害は長所に変わる」という小見出しで、大阪市立大空小学校と初代校長・木村泰子の言説と実践について記した。それを機に改めて、木村の本を読むことにした。
〇筆者(阪野)の手もとに、木村泰子の本が4冊ある(しかない)。

(1)木村泰子著『「みんなの学校」が教えてくれたこと―学び合いと育ち合いを見届けた3290日―』小学館、2015年9月(以下[1])
(2)木村泰子著『「ふつうの子」なんて、どこにもいない』家の光協会、2019年7月(以下[2])
(3)尾木直樹・木村泰子著『「みんなの学校」から「みんなの社会へ』岩波ブックレット、2019年4月(以下[3])
(4)木村泰子・高山恵子著『「みんなの学校」から社会を変える―障害のある子を排除しない教育への道―』小学館新書、2019年8月(以下[4])

〇大阪市立大空小学校については周知の通りであるが、[2]から紹介しておくことにする。

大空小学校は、2006年創立の大阪市住吉区にある公立小学校。/初代校長を務めた木村泰子と教職員たちが掲げた「すべての子どもの学習権を保障する学校をつくる」という理念のもと、さまざまな個性をもつ子どもたちがともに学び合う姿が、(2015年2月に)ドキュメンタリー映画『みんなの学校』として公開され、大きな話題となった。/校則はなし。あるのはたった一つの約束「自分がされて嫌なことは人にしない。言わない」のみ。/木村校長在任中の9年間に転校してきた特別支援の対象となる児童は、50人を超えたが、不登校はゼロ。/地域に開かれた学校として、教職員のみならず、地域住民や学生ボランティア、保護者をはじめ多くの大人たちが、つねに子どもたちを見守っている。(7ページ)

〇大空小学校の「すべての子どもの学習権を保障する」という教育理念について、木村はいう。「これがパブリックの学校の目的です」([2]51ページ)。「学校教育の目的は一つしかありません。どれだけ貧困であれ、どれだけ重度の障害があれ、どれだけ人を殴ってしまう子であれ、目の前の一人の子どもが『安心して学んでいる』という事実をつくること。そのために必要な教員の資質とは、『人の力を活用する力』をどれだけつけるか」([2]87ページ)。そのためには、学校だけに子どもをまかせるのではなく、「地域の住民、保護者、教職員、子どもたち自身がつくる『自分の学校』でなくてはなりません」([2]28ページ)。
〇大空小学校の「たった一つの約束」である「自分がされて嫌なことは人にしない。言わない」について、木村はいう。「この約束は、すべての子ども、すべての大人のためにあるものです」([1]201ページ)。「子どもはこの約束を破ると『やり直す』ために、(説教部屋ではない)『やり直しの部屋』と呼ばれる校長室へとやってくる」([1]3ページ)。「『たった一つの約束』を破った時に待っているのは、罰でも、お説教でもないんです。自分のために、やり直す。これしかないんですよ」([4]179ページ)。やり直しには「決まったやり方があるわけではなく、何をやるべきかは一人ひとりが考え、行動します。そして、(下記の)『四つの力』全部を使ってやり直すんです」([4]180ページ)。
「地域に開かれた学校」について、木村はいう。「学校は地域のもの。地域でつくられる『みんなの学校』」([2]102ページ)。「『みんなの学校』とはパブリックの学校、つまり『地域住民のための学校』という意味」です([3]6ページ)。「学校はそこにあるものではなくて、つくるものです。学校は、『みんながつくる、みんなの学校』を合言葉に、『自分』がつくるのです」([3]14ページ)。「子どもだけじゃない。学校というのは、先生も親も地域の大人も、みんなが学びにいくところ、自分を変えるところ。だから学校は楽しいんです」([2]111ページ)。
〇また、大空小学校では、点数や数値で測れる「見える学力」ではなく、「見えない学力」すなわち「自分から、自分らしく、自分の言葉で語れる、なりたい自分になれる、そのために必要な力」を「四つの力」として育てることを優先順位の一番にしている([4]60ページ)。木村はいう(抜き書きと要約)。

大空小学校では「ふれあい科」という独自の教科をつくりました。/人と出会うと、そこに必ずふれあいがあるでしょ。ふれあうと、かかわりを持つ。するとそこに学びが生まれる。/その根本にあるのが、大空小学校の教育のキーワード「学び・感動・愛」。([2]153ページ)/そういう空気の中で、どんな力を身につけたら、子どもたちが将来「なりたい自分」になれるか。そう考えて、辿りついたのが「四つの力」でした。一つめは「人を大切にする力」。二つめは「自分の考えを持つ力」。三つめは「自分を表現する力」。四つめは「チャレンジする力」です。/これら四つの力は、すべて「なりたい自分になる力」であり、「誰かと共に生きる」ための力です。「ふれあい科」の目的は、この四つの力を身につけることです。([2]154~155ページ)

〇大空小学校にあっては、「四つの力」は「なりたい自分になる力」であり、「誰かと共に生きる」ための力である。そして木村は断言する。「『見えない学力』を育てていると、自然に『見える学力』も育ってくる」([4]63ページ)。
〇また、大空小学校には特別支援学級はないが、「『障害』のレッテルを貼られた子」がたくさん通っている。「すべての子どもの学習権を保障する」という教育理念の「すべての子ども」とは、文字通り「すべての子ども」を意味する。すなわち、障害の有無にかかわらず、多様な個性や特性を持った子ども同士が学び合い、育ち合うために、子どもを主語にして物事を考える。「教師が主語」ではない、「子どもが主語」の教室・学校づくりを進める、のである。木村はいう(抜き書きと要約)。

学校が「障害があるから別の学校・教室へ」という考えを持ったら、それは差別や偏見を教えているのと一緒ではありませんか?/いろんな子どもがいつも一緒にいるからこそ、多様な社会で生きていく力を学べる。/分断は、障害がある子だけでなく、むしろその周りの子の大事な力を奪うことになります。いろんな特性を持った多様な人と一緒に社会をつくる大人になる。そのための力を小学校、中学校の義務教育で獲得していくんですから。([2]35ページ)/彼ら(障害がある子)に一番必要なのは、周りの子どもたちとどう対等に繋がるかっていうこと。それが「社会で生きる力」でしょう。/障害を長所に変えるための方法は、大空小学校では一つしか見つけられませんでした。その子の周りの社会をどれだけ育てるか。それだけなんです。/周りが育ては、障害は「個性」に変わる。/そして周りを育てるということは、すべての子が育つということ。障害のある子がたくさんいるから、自分も育つんだとわかれば、迷惑だなんて誰一人思うはずがないでしょ?([2]37ページ)

〇「『ふつうの子』なんて、どこにもいない」。「『迷惑な子』なんて誰一人いません」。「分断は、障害がある子だけでなく、むしろその周りの子の大事な力を奪うことになります」。蓋(けだ)し至言である。そして、木村はいう(抜き書きと要約)。

車椅子体験、目隠し体験などは、自分と違う人のことを考える最初の一歩といわれています。が、それでわかったつもりになってはいけない。思い上がってはいけません。/みんなそれぞれ違いがあって、自分にない違いをもっている友だちがいる。/「自分はこうだけど、友だちはこうなんや。じゃあ、どうしたらいいか」([1]85ページ)/大空の子どもたちは、そういったことをいつも考え、試みる機会がいっぱいありました。/「この子のことを知ろう」と思いさえすれば、みんなつながれる。/「その子」を排除することは、かけがえのない学びを捨てるのといっしょ。([1]86ページ)

〇「みんなの学校」では、「ふつう」や「あたりまえ」を疑いそれに抗(こう)する(すなわち「自分を生きる」)こととともに、多様性を受け入れ学び合い・育ち合うことを可能にする工夫や場づくりを進める(すなわち「みんなと生きる」)ことなどを問い、求める。それは、例によって唐突であるが、「思い上がり」と紙一重の単なる「思いやり」の心を育てるのではなく、「みんなの社会」をつくる「まちづくりと市民福祉教育」に通底する。本稿の「結びにかえて」おきたい。

老爺心お節介情報/第62号(2024年11月3日)

「老爺心お節介情報」第62号

地域福祉関係者の皆様
社会福祉協議会関係者の皆様

漸く秋めいてきましたが、お変わりなくお過ごしでしょうか。
「老爺心お節介情報」第62号を送ります。
皆様、ご自愛の上、ご活躍下さい。

2024年11月3日   大橋 謙策

〇皆様お変わりなくお過ごしでしょうか。私の方は、元気に各地の講演・研修で飛び回っています。
〇前回の「老爺心お節介情報」を出してから、だいぶ月日が経ちました。いろいろ伝えたいことはあったのですが、9月、10月と各地の講演・研修に忙殺され、書くことができませんでした。8~10月までの間で、これは伝えておいた方がいいと思うものをピックアップして送ります。
〇内容は、以下の通りです。
Ⅰ 「我が青春譜」―東京都三鷹市勤労青年学級での10年間の学びと交流
Ⅱ 前立腺がんの治療、処方が終わり、後は半年ごとの経過観察に移行
Ⅲ 人口減少、超高齢化小規模町村の“地域”福祉は成り立つか?
Ⅳ 敬愛する忍博次先生が逝去される

Ⅰ 「我が青春譜」―東京都三鷹市勤労青年学級での10年間の学びと交流

〇去る8月31日に30回目の『きずな祭』が20名余の参加者を得て行われました。
〇『きずな祭』とは、故小川正美先生(三鷹市社会教育主事で、三鷹市勤労青年学級主事を兼ねていた)が1995年8月31日に亡くなられた翌年から、小川正美先生を偲び、その恩顧に報い、三鷹市勤労青年学級生同士の交流を深める目的で、小川先生の祥月命日の前後で行われてきた「祭り」です。
〇今回は、当時の勤労青年学級生もほぼ70台後半になっていることから、これが最後の『きずな祭』として行われました。
〇『きずな祭』は、小川正美先生の墓所のある八王子市犬目の明観寺での30回忌法要に参列し、お墓参りをしました。明観寺のご住職は、30回忌法要に青年学級生が20名近く参加したことを驚かれ、余ほど個人は人徳ある高邁な方だったのですねと法要の説話の中で述べられていたが、確かに葬儀ではなく、30年間も『きずな祭』が続いていること、30回忌の法要に子ども、親類を除いて、20名近くの当時の勤労青年が参列したことに感嘆されていた。
〇筆者は、故小川正美先生とは1965年からのお付き合いになる。小川正美先生は、東京学芸大学の社会教育主事養成課程において、私の恩師の故小川利夫先生と出会い、以後三多摩社会教育研究会のメンバーとして一緒に活動を行ってきた。故小川利夫先生曰く“義兄弟の契り”を結んだ仲であるという。
〇小川利夫先生は、日本社会事業大学の小川ゼミ、あるいは大学の講義科目である社会教育の科目をうけていた“貧乏学生”を三鷹市勤労青年学級に送り込み、勉強と同時にアルバイト先として活用していた。筆者も、日本社会事業大学学部4年の1966年から三鷹市勤労青年学級の講師補佐の役割を担い、社会教育の勉強の機会を与えられた。
〇筆者は、三鷹市勤労青年学級の社会コースの講師を1967年から勤め、日本社会事業大学の専任講師に採用された後の1975年までつとめさせて頂いた。
〇筆者にとって、中卒、高卒の勤労青年は社会教育と社会福祉の接点に存在する人々で、その学習者である青年の生活を垣間見ることにより、人間理解、生活分析、発達の可能性などについて考えることができたように思われる。
〇小川正美先生から、勤労青年学級の紀要ともいえる『青年学級の視点』に毎年のように教育実践のまとめと青年論についての原稿を書かされたのは苦痛であったが勉強になった。
〇三鷹市勤労青年学級の実践は、1960年代~1980年代に花開いた教育実践であるが、その実践は全国的にみても高く評価されていた教育実践である。その主な特色を箇条書き的に列挙すると以下のとおりである。

①  勤労青年学級の教育実践を各コース毎に毎年まとめ、『青年学級の視点』として刊行していた。その『青年学級の視点』には、青年教育論、勤労青年の生活分析などの小論文である拙稿も掲載されている。『青年学級の視点』に書かされたことにより、筆者はそれなりに書く“力”を身につけたように思える。
②  勤労青年学級の週刊新聞「きずな」を350号近くまで刊行したことである。これを発刊するために、学級生は「ガリ版」の筆耕を習い、発刊し続けた。
この週刊新聞「きずな」の刊行が契機となり、三鷹市に独りぼっちの青年を無くそうという運動が、学級生から起こり、三鷹市の様々なところ(飲み屋、喫茶店なども含めて)に、学級生が作った「壁新聞」が張られることになる。
③  勤労青年学級は、毎年4コースほど開設されたが、講師は各分野の講師、あるいは大学院生が講師を務めていたが、講師補佐制度を作り、この講師補佐は学級生の中から選ばれ、学級運営について小川正美青年学級主事と話し合う機会をもっていた。講師補佐たちは合宿を行ったりして、自分たちの学級の運営や来年度に向けた企画立案を行った。
④  勤労青年学級生たちは、自分たちの居場所を確保するために、当時の三鷹市の市長である鈴木平三郎市長あてに手紙を書き、24時間自由になる居場所として公共施設を開放してもらい、その建物のカギを預からせてもらった。
⑤  勤労青年学級生は、三鷹市立図書館が使いづらいと考え、学級生の「みんなの文庫」を設立する。小学校で廃棄される下駄箱を譲り受け、洗い、ペンキを塗り、「みんなの文庫」として青年学級が行われている市民センターの一角に設置した。大学ノートを吊り下げておいて、借りていく人はそのノートに名前を書くだけの簡便な手続きにし た。文庫の本はなくなるどころか増えていき、ある時にはLP版のレコードが多数寄贈されていた。
⑥  筆者が担当した「社会コース」では、ある年度、青年学級生の言語能力の向上、論理的思考法の獲得、大学生にコンプレックスを抱いている青年のコンプレックスからの解放といった教育理念の基に、三鷹市在住の絵本作家赤木由子著『はだかの天使』から読み始め、岩崎京子さんの童話『鯉のいる村』、あるいは青春ものを書いた早船ちよさんの『キューポラのある町』や早乙女勝元のものを読んだ。その後は、渡辺洋三さんの岩波新書『法とういうものの考え方』や美濃部亮吉の岩波新書『日本経済図説』なども読んだ。岩波新書を読むということは、大学生と同じくらいの学力があるのだと、コンプレックスをなくす一つの方法であった。この一連の読書の過程では、国語辞書の引き方等も学習し、知らないことが恥ずかしいことではない。学ぶ方法を身につけていないことが恥ずかしいのだと学級生たちと頑張ったことが強く印象に残っている。
⑦  三鷹市勤労青年学級には、重要な“たまり場”、“居場所”があった。それは学級が開かれている施設とは別に存在していた。それは今聡子さん(青森県出身)が経営していた「おでん屋」で、学級生からは「おばちゃんち」と呼ばれ、親しまれていた。そこが学級生たちの夕食の場であり、懇親の場であり、恋愛の場でもあった。勤労青年学級生たちが作成した『おばちゃんち』と題する記念誌も刊行されている。
この「おばちゃんち」で、酒を飲みながら、談論風発をしていたこともあって、小川正美先生が三鷹市教育委員会を退職するときには『酒会教育』という名の小川正美社会教育実践集が刊行されている。

〇筆者の地域福祉論における「地域福祉の4つの主体形成論」は、この三鷹市勤労青年学級の実践が基になるもので、筆者が各地で“住民座談会を行い、住民のニーズキャッチをし、それを基に行政への政策提言を行うという地域づくりの住民の主体形成論”として発展していく。
(2024年9月23日記)

Ⅱ 前立腺がんの治療、処方が終わり、後は半年ごとの経過観察に移行

〇2022年3月に発見された前立腺がんは、2024年9月4日の診察で処方が終わり、服薬していた薬がなくなる9月末をもって治療が終了となった。
〇前立腺がんの腫瘍マーカーも、ここ1年0・008で推移しており、この数値は前立腺を除去しない限り0にはならないという。0・008は前立腺がんを治療できたと考えてよいとの医師の判断でした。
〇話には聞いていましたが、服薬していた女性ホルモン剤と女性ホルモン注射で、本当に筋力が落ちた。服薬が終わったので、筋力が戻りますかと医師に問うと、80歳代の人の筋力は20歳代の人の3分の1ですよ。戻らないと考えた方が賢明ですと言われたが、もう一度筋力を鍛えて歩きたいと考えることは夢想なのでしょうか?
(2024年9月29日記)

Ⅲ 人口減少、超高齢化小規模町村の“地域”福祉は成り立つか?

〇以前にも「老爺心お節介情報」で取り上げましたが、人口減少、超高齢化した小規模町村や市町村合併に伴い社会福祉協議会が中央に集約化されて、合併後の「周辺地域」となった合併前の旧町村の地域力が急速に減退し、その地域の地域福祉が成り立たなくなってきている。
〇2023年6月の日本地域福祉学会の後に、長野市に合併した中条地区を訪ね、中条地区での“地域住民の自立生活”をどう支援するかということで懇談したが、2024年10月19日に改めて中条地区に入らせて頂いた。合併前の中条村は黒岩秀美さんをはじめとした社会福祉協議会が頑張って地域づくりをしていたが、合併後は長野市の“周辺地域”として、急速に地域力がぜい弱化していく。
〇長野市行政は総務省の「まちづくり協議会」の構想で対応しようとしているが、「まちづくり協議会」への補助金では専任職員を配置できない状況で、住民の負担が大きく、その地区はどうなっていくのかとても心配である。
〇今回の中条地区での住民との懇談は、古民家の囲炉裏を囲んでの「ろばた懇談会」でした。その「ろばた懇談会」では、従来の地域づくりが、ややもすると、いわゆる健常者住民中心の地域づくりに流れ、生活のしづらさを抱えている引きこもりの方や精神障害者の方々などを巻き込み、それらの人の社会参加促進とそれを支える地域づくりにはなってなかったのではないか、また具体的数字と其の人々がどこの集落に住んでいるかという臨場感ある具体的データに基づかずに“ともに生きましょう”という抽象論に終始していたのではないかという論議をさせて頂いた。
〇その翌日の10月20日には、長野県社会福祉協議会と長野県の未来基金とがジョイントしようとしている「小規模町村の活性化支援プロジェクト」の打ち合わせが小川村で行われるので参加した。
〇人口440人の売木村社会福祉協議会の圓口實局長、人口660人の王滝村社会福祉協議会の中嶋素道局長、人口1400人の小川村社会福祉協議会宮下隆男局長、築北市へ移住し、NPO法人わっこ谷の山福農林舎代表の和栗剛理事長を交えて、小規模町村の現状と支援のあり方について論議した。
〇これらの小規模町村からは、民間介護保険事業者が撤退し、社会福祉協議会の訪問介護によってかろうじて住民の生活支援ができていることなどが論議された。他方、合併により、かつ行政の集約化の中で、役場もなくなり、社会福祉協議会もなくなり、住民自身で地域を支えていく厳しさのある中条地区などの“周辺地域”の課題との比較を通して、今後の地域福祉のあり方について論議した。
〇来年の2月末には、長野県木曽郡の6町村における社会福祉協議会の経営と地域住民の自立生活支援を考える会合を持とうということを約束して帰路に就いた。
〇これに先立って、10月5日には島根県出雲市で「しまねの社会教育を振興する会」の主催で、以下のようなレジュメで講演をした。
〇島根県も440人の知夫村や雲南市の南部地域等小規模町村、人口減少、超高齢化地域の中で、地域住民は呻吟している。
〇島根での講演では、「社会教育と地域福祉の統合的実践のシステムづくり」が重要で、そのためにも地域住民自身が「選択的土着民」として筆者が作成した「ボランティア活動の構造図」のような取り組をしていくことが重要であると提言した。
〇「しまねの社会教育を振興する会」のレジュメなどは、阪野貢先生のブログ(ブログのフロントページ、「最近の記事」中の <まちづくりと市民福祉教育>(76)⇒本文)に収録されているので参照してください。ここでは、その一部を抜粋掲載しておきます。

(2024年10月27日記)

Ⅳ 敬愛する忍博次先生が逝去される

〇日本地域福祉学会の名誉会員であり、北星学園大学の教授等をされた忍博次先生が、10月22日に逝去された。享年94歳であった。
〇筆者と忍博次先生との出会いは、日本地域福祉学会が設立される1987年以前の1982年である。
〇筆者が明治学院大学の三和治先生や日本女子大学の佐藤進先生、高橋誠一先生に依願されて日本社会事業学校連盟の事務局長に就任した時である。其の三和治先生が、国立身体障害者更生相談所(のちの国立身体障害者リハビリテーションセンター)で、忍博次先生と同僚であった関係で、いろいろ教えを乞う機会が増えていった。
〇忍博次先生とお酒を酌み交わした最後の機会は、2022年9月29日(当時92歳)に、札幌すすきので、大内高雄先生、白戸一秀先生、忍正人先生(忍博次先生のご子息)と懇親した機会である。
〇その日は、忍博次先生の北海道大学時代の恩師である城戸幡太郎先生、留岡清男先生(留岡幸助のご子息)、三井透先生などとの思い出話に花が咲いた。筆者自体は、留岡清男先生とは本(『教育農場50年』岩波書店)を通して存じ上げているだけで、三井透先生はお名前のみ知っている先生であった。
〇城戸幡太郎先生は、筆者の恩師である小川利夫先生と一粒社から『教育と福祉の理論』を出版するに際して、編集実務を担当していたこともあって、城戸幡太郎先生、官忠道先生、浦辺史先生、小川利夫先生の座談会(テーマは『「教育福祉」問題の現代的展望』)に陪席させて頂き、謦咳に接したことがある。座談会を終えて、小川利夫先生の命で、城戸幡太郎先生をご自宅までタクシーでお送りさせて頂いた(註)。
〇そんなご縁もあり、忍博次先生と当時の北海道大学教育学部の恩師たちの話は大変参考になったし、もっと丁寧に聞き取りをしておくべきだったと後悔している。今となっては、“後悔先立たず”である。当時の北海道大学教育学部と東京大学教育学部は、憧れの教育学者が沢山いた。
〇亡くなられた忍博次先生は、気骨のある人で、かつ教条的ではなく、配慮できる先生であり、研究者とはこうあるべきという姿勢を我々に示してくださった。
〇忍博次先生は戦後の障害者研究、ノーマライゼーション研究を牽引された先生で、日本の社会福祉教育のあり方にも一家言を有している見識の高い、敬愛する先生であった。敬愛する先生がまた一人亡くなられた。淋しい限りである。


〇『教育と福祉の理論』(1973年刊、小川利夫・土井洋一編)の編集実務は筆者が一人で担ったが、出版に際し、恩師の小川利夫先生は、“大橋謙策は既に編著書があるので、編者に名前を入れず、土井洋一を共編者にして、大学の就職口を探してあげたいので、了承してほしい”と言われ、学問の世界はそんなものかと納得させられた。確かに、出版物の表紙に単著、共編著として名前が載るのは、研究者として、一つの評価のメルクマールであることは理解できる。
〇同じようなことは、筆者が日本社会教育学会の常任理事として、日本社会教育学会編集・刊行の『生活構造の変容と社会教育』(東洋館、1984年)の企画・編集を一手に担ったものの、出版に際し、当時の千野陽一学会長から伊藤三次先生の業績と大学との関係で、編集代表を伊藤三次先生にさせて欲しいと言われ、理不尽だと思いつつ了承させられたことがある。今のような研究倫理が厳しい状況であったら通らなかった事案である。
(2024年11月2日記)

(備考)
「老爺心お節介情報」は、阪野貢先生のブログ(「阪野貢 市民福祉教育研究所」で検索)に第1号から収録されていますので、関心のある方は検索してください。
この「老爺心お節介情報」はご自由にご活用頂いて結構です。

阪野 貢/「ふつう」再考:「ふつう」は “ 障害 ” を排除し、社会秩序を維持する ―信濃毎日新聞社編集局著『ルポ「ふつう」という檻(おり)』のワンポイントメモ―

「ふつう」とは、「こうあるべき」にも似ています。親、教師、学校の「こうあるべき」が息子を追い詰めたのだと思います。(保護者からのメール。下記[1]206ページ)

学校では、多様性を認める動きの広がりを感じる一方で、支援級の増加に表れているように、障害がある子の「緩(ゆる)やかな排除」が同時に進んでいるように思います。(教師からのメール。同上、210ページ)

高校卒業後は職を転々としました。職場で「おまえのどこが障害者だ? 障害者手帳を返上するつもりで働け」と言われたりしました。今は、無職の私ですが、自殺せずに、精いっぱい生きています。(ASD、LD、知的障害を持つ人からのメッセージ。同上、216、217ページ)

〇筆者(阪野)の手もとに、信濃毎日新聞社編集局著『ルポ「ふつう」という檻(おり)―発達障害から見える日本の実像―』(岩波書店、2024年7月。以下[1])がある。[1]の “ 帯 ” は、「学校で、職場で。『ふつうであること』をめぐって葛藤を抱える人たち、それを支える人たちの姿を丹念に描き出し(た)」と記す。また 、“ カバー・そで ” では、発達の「特性がある人が負った心の傷、『ふつう』をめぐる本人や保護者の葛藤、学校教育のゆがみ‥‥‥。増え続ける発達障害の周辺を、地方新聞の記者たちが丹念にルポ。人が自分らしく生きることを阻む、生きづらい令和時代の日本を深堀りした」とある。なお、「発達障害」には、自閉スペクトラム症(ASD)、注意欠如・多動症(ADHD)、学習障害(LD、限局性学習症ともいう)などが含まれる(41ページ)。
〇ある教師は「連載記事を読みながら、胸が詰まり涙が出ました」(209ページ)。ある保護者は「胸をえぐられるような思いで連載記事を読みました」(212ページ)、と投書する。取材に参加した記者たちは、「自分が多数派であり、自分の中に『ふつう』があることに無自覚ではいられませんでした。自分自身をえぐりながら記事を書いていきました」(ⅷページ)と吐露(とろ)する。そしていう。

デジタル技術や人工知能(AI)は、人により速く、効率的に生きることを求めています。だからと言って、発達の特性を「障害」とし、生きづらい人たちに苦しさの原因と結果を背負わせているだけでは、社会は立ちゆきません。まずは、その生きづらさの根っこにあるものを、当事者も周囲の人たちも「異(い)なもの」とせず、心に置いてみること。そして「聴く」こと。そうすることで、多くの人が感じる生きづらさの背景にある社会の構造、そこにつながる私たちの意識の中の「ふつう」に目を向ける道が開かれるのではないか――。取材班は、希望へのヒントにたどり着きました。(ⅷページ)

ある小学生に、「どんな人がそばにいたらいい?」と尋ねたことがある。その子は「うちの犬みたいに、黙って話を聴く人」と言った。「犬は、私の言ったことを良いとか違うとか、言わない」/小さな声が胸に刺さった。聴くより前に、自分の意見を言っていないか。人のことを分かったような気になっていないか――。(190ページ)

取材班の記者たちの中にも「ふつう」はあり、それは容易に解体されないし、報道機関はむしろこの社会の秩序を補強する側にあるのだろう。だが、「ふつう」を凝視することは、社会の構造を問う態度につながる。そのきっかけは、生きづらさの語りを「聴く」ことから始まる。それが、取材班が身をもってたどり着いた差しあたりの終着点だった。(222ページ)

〇この社会はどこまでも、健康で、普通の学校に行き、仕事に就き、家庭を築くことなどを「ふつう」のこととして求める。その社会が求める「ふつう」の生き方が困難で、そこに「生きづらさ」を感じている人たちがいる。その人たちの “ 語り ” を「聴く」ことが、「生きづらさ」を共有し、それを生み出す社会の背景や構造を問うことに通じる。これが[1]の基底的な視点・視座である。
〇その点を踏まえて、[1]のなかから、「ふつう」という「檻」に閉じ込められていること、すなわち「ふつう」に縛られて発達特性(障害)を否定的に考えることに関して、その論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

責任を持って「ふつう」という言葉を使う
「多様性」や「共生」といった言葉が流布し、誰もが肯定するに違いありませんが、現実社会ではそれはいかに心許ないものか。自分が発達障害ではないかと恐れ自死した男性の娘の中学生は、「普通」という言葉への怒りを作文にぶつけました。「己の『普通』が他の人の人生にどのような影響を及ぼすのか、責任を持って『普通』という言葉を使ってほしい」(ⅷ~ⅸページ)/私たちが目を凝らして見つめるべきことは、社会が「ふつう」とする物差しに合わせられるかどうか、なのでしょうか。問われるべきなのは、自分は「ふつう」の側にいると思っている一人一人、社会そのものではないのでしょうか。(ⅹページ)

「ふつう」がこの社会の「生きづらさ」の根源である
保護者や教育・福祉関係者は、良かれと思って人を「ふつう」に矯正しようとしてしまう。(219ページ)/その矯正する力に従えない人は次第に分離され、(中略)一人、個別化されて社会から漏(も)れ落ちていく。漏れ落ちないでいる人も「ふつう」に耐えながら、漏れ落ちないように、「ふつう」にしがみつく。これが、この社会の「生きづらさ」の根源そのものではないだろうか。(220ページ)/生きづらさの根源には高度な資本主義社会が横たわっていて、その社会で「役立ち」ながら生活していくために「ふつう」が私たちにすり込まれている。人材への要請と教育・社会システムは結びついていて、私たちに求められる「ふつう」のハードルは間違いなく高くなっている。令和の時代に「ふつう」であることは、とても難しいことなのだ。(221ページ)

「ふつう」からの解放が自己認識を新たにする
私は連載の経験を経て、この同僚たちを含む一人一人が多様であることを肌で感じられるようになった。みんな個性や特性があり、見た目に分からない生きづらさを感じている。人の内側には ” 深い海 ” があることを想像できるようになった。(222~223ページ)/人に対して「ふつう」という「冷たい定規」を当てはめないだけでなく、自分に対してもそうだ。自分のことを「ふつう」だと認めて安心するのをやめ、心の中で「健常であること」や「新聞社のデスク」といった自己認識を一つずつ剝(は)がしてみる。すると、本当の自分が何者か分からなくなる。むしろそこから、自分の個人的な経験が捉え直され、個性や意思のか細い声が聞こえてくる気がする。(223ページ)

「周りの子が豊かに育てば、障害は長所に変わる」
「子どもを座らせなくちゃ、静かに話を聞かせなくちゃと先生が思えば思うほど、発達障害は増えますよ」。大阪市立大空小学校初代校長の木村泰子さんは、発達障害の子が増える原因をこう指摘する。大空小は、木村さんの方針で特別支援教育の対象の子と障害がない子が同じ教室で学び、補助教員や地域住民、学生ボランティアを積極的に受け入れて運営。(中略)木村さんから見れば、言うことを聞かない子に困った先生が、子どもを「特別」な存在にしてしまう。「学校が変われば発達障害は生まれない」と言う。(70ページ)/子どもの一番の支援者は大人ではなく、「周りの子ども」であり、「周りの子が豊かに育てば、障害は長所に変わる」とも。/木村さんは、学校の最上位の目的は「すべての子に学習権を保障すること」だと強調する。(71ページ)

〇そして[1]は、「日本のインクルーシブ教育には理念とかけ離れた現実がある」と糾弾する。本稿の「まとめ」にかえておくことにする。

文部科学省は障がい児を排除しない「インクルーシブ(包み込む)教育システム」の構築を唱えるが、普通学校では学力が重視され、障がい児の受け入れに消極的である。文科省が言う「個別の配慮」はスローガンだけで、一人一人の先生の属性や理解に任されている。(74、80ページ)/特別支援学校は施設環境が貧弱であり、図書館の蔵書が少なかったり、図書館が設置されていないところもある。(99ページ)/民間のフリースクールの利用については、原則自己負担であり、保護者の経済的負担が重い。(100ページ)/民間事業者も参入する「放課後等デイサービス」については、公費の不正受給や質の確保の問題が発生している。(116ページ)/(ことほどさように)日本のインクルーシブ教育においては、理念と懸け離れた現実(分離と排除)があり、発達の特性がある子どもにとって、学校に居場所があり安心して学べるかどうかは、教師の感度や力量によって大きく左右される。それが現場の実態である。(74、105ページ)/日本の「インクルーシブ教育」とは、「ふつう」の側のための社会秩序を維持する装置なのではないか。(219ページ)

補遺
「学びの場」の枠組みと現状
義務教育の9年間の子どもたちの学びの場は、学校教育法などの法令に基づき、①小中学校の通常の学級、②通級による指導(通級指導教室)③特別支援学級(支援級)、そして④特別支援学校(小・中学部)という4つの枠組みに大きく分かれている(106~110、116ページ)。

➀小中学校などの通常の学級
最も多くの子どもが通っているのは、国や地方公共団体、学校法人が設置する小中学校や義務教育学校(小学校から中学校までの義務教育を9年間一貫して行う学校)の通常学級である。2013年度:1,005万4,000人→2023年度:894万8,000人。
②通級による指導(通級指導教室)
通常学級に在籍し学習におおむね参加できるが、比較的軽度の障害があり、一部特別な指導を必要とする子どもが通う。2013年度:7万7,000人→2021年度:18万2,000人。
③小中学校の特別支援学級(支援級)
障害がある子どものために、学校の中に通常学級とは別に設けられる学級で、小中学校の教育課程に準じつつ、子どもの状態に合わせて特別の教育課程を編成することができる。2013年度:17万4,000人→2023年度:37万2,000人。
④小・中学部の特別支援学校
学校教育法は、視覚や聴覚、知的な障害がある子ども、体が不自由な子どもや慢性的な疾患があり病弱な子どもが学ぶ場として、都道府県に特別支援学校(幼稚部、小学部、中学部、高等部)の設置を義務づけている。2013年度:6万7,000人→2023年度:8万4,000人。
⑤フリースクール
以上の他に、不登校の子どもに学習支援をしたり教育相談をしたりする民間のフリースクールがある。2015年度:474カ所。
⑥放課後等デイサービス
2012年4月に児童福祉法に位置づけられた支援(障がい児通所支援サービス)であり、障害のある子どもが放課後や長期休暇の際に通い、訓練や支援を受けることができる。原則として障害のある18歳までの就学児を利用対象とする。2012年度:3,107事業所→2022年度:1万9,408事業所。
なお、主に6歳までの未就学の障害のある子ども対する通所支援サービスに「児童発達支援」がある。2013年度:2,453事業所→2021年度:8,995事業所(厚生労働省ホームページより)。

付記
次の記事を参照されたい。
阪野 貢/「ふつう」別考―深澤直人著『ふつう』と佐野洋子著『ふつうがえらい』等のワンポイントメモ―/<雑感>(122)/2020年10月30日/本文

 

大橋謙策/「人口減少、超高齢化地域における自立生活を支援する社会教育と地域福祉の統合的実践―つながりの重要性と必要性―」(講演レジュメ、2024年10月)

















大石剛史/『ケアリングコミュニティの理論―社会福祉の新しい地平を拓く地域福祉のメタ理論―』(学文社、2024年9月)












阪野 貢/「町内会」基礎考―玉野和志著『町内会』のワンポイントメモ―

〇久しぶりに「町内会」に関する本を読んだ。玉野和志の新刊『町内会―コミュニティからみる日本近代―』(ちくま新書、2024年6月。以下[1])がそれである。[1]で玉野は、多くの研究者の言説を引きながら、町内会の歴史を解明し、その特質や現状について解説する。それを踏まえて、「これからの町内会や市民団体が、どのように日本の地域社会を支えていけばよいかを展望する」(10ページ)。その概要は以下の通りである。

「町内会」の概念について、玉野は規定する。「町内会・自治会は、『共同防衛』を目的とする『全戸加入原則』をもった地域住民組織である」(28ページ)。この定義でいう「共同防衛」とは、その地域に住む人々に求められる「生活協力を円滑に安心して行うことができるように、みんなでもって気をつけて、災害や外敵の侵入、内的な秩序破壊としての犯罪の発生などを防ぐ」こと(48ページ)を意味する。この「共同防衛」と「生活協力」という本質的な機能(目的)ゆえに、町内会は全戸加入原則をもつことになる。
町内会の歴史的成立過程について、玉野は解明する。町内会は大正・昭和初期以降、政府によって、社会不安を抑えるために行政の執行過程への協力を求めることで人々を統治する形態として期待され、育成されてきた(町内会の「統治性」)。町内会が政府や行政による日本的統治の「芸術品」(58ページ)と言われる所以である。戦時中は天皇制ファシズムの底辺を支える「町内会・隣組」として、国家によって奨励され、戦争に動員された。敗戦後はアメリカ占領軍=GHQによって出された町内会の解散・禁止令をくぐり抜け、戦後も行政への協力を通して自らの存在を示してきた。こうした町内会を積極的に支えたのは、主として「都市の自営業者層」(123ページ)であった(町内会の「階級制」)。
〇1970年代になると、「都市自営業者層の一部は一方で町内会を通して行政の執行過程に協力し、他方では政治家の個人後援会組織を支えることで、政治的意思決定にもそれなりの影響力を行使することのできる存在となっていった」(150ページ)。1970年代に、現在の「町内会体制」が確立されたのである(95、151ページ)。なお、1969年9月に、内閣府の国民生活審議会調査部会コミュニ ティ問題小委員会が『コミュニティ―生活の場における人間性の回復―』という報告書を公表する。そして政府は、この報告書に基づいて1970年代のコミュニティ政策を展開することになる。そこでは、旧来からの町内会による協力が尊重された。
〇1980年代以降、経済の自由化やグローバル化、そして市民社会の台頭が進行し、都市自営業者は経済的基盤を失い、町内会に代わる市民活動団体への期待がふくらんでいく。ちなみに、特定非営利活動促進法(NPO法)が1999年12月に施行される。そんななかで町内会は、2010年代後半以降現在に至って、保守的・閉鎖的な体質への批判や若い世代の無関心、それによる町内会への加入率の低下や担い手の不足・高齢化などによって、存続の危機が叫ばれることになる。その一方で、阪神・淡路大震災(1995年1月)や東日本大震災(2011年3月)などによって、町内会への期待が高まることにもなる。また、2000年12月に北海道ニセコ町で制定された「自治基本条例」を皮切りに、「町内会を名指しにしているわけではないが、『まちづくり条例』や『自治基本条例』などを制定し、これにもとづく住民協議会などの地域自治組織を作る自治体も増えている」(156ページ)。
町内会の今後について、玉野は展望する。町内会の弱体化が進み、維持・存続が困難になっているなかで、「町内会はいざというとき、住民どうしが助け合うこと(共助)や、行政や政治に要求すること(公助)が、円滑に連動できるように、日頃からゆるやかなつながりを維持することに、その存在意義がある」(175ページ)。そこで、「町内会という日本の近代が生み出したかけがえのない資産を、行政との折衝と議会への政治的要求とを可能にする、市民の協議の場へと受け継ぐことはできないか」(173ページ)。「町内会がいざというとき、外国人も含めたあらゆる住民と行政職員、さらには議員も集まって討議=闘技する場を提供できるならば、日本の自助、共助、公助もずいぶんと違ったものになるにちがいない」(177ページ)。

〇以上の言説について一言すれば、①「都市の自営業者層」に支えられた町内会のあり様は、当時もいまも、そのまま地方の農村部の町内会にも該当した(する)とは思えない。筆者が所属する下記のS市H自治会の実態(光景)の一端からも推測することができようか。
〇②いわゆる「住民が主役のまちづくり」には、住民と行政と議会による「共働」を必要不可欠とするが、そのための具体的な条件や施策についての言及がなされていない。なかでも一般住民に、まちづくりに求められる主体的・自律的な意識や力量が備わっているとも思えない。そのための教育・啓発の推進が肝要となる。
〇③行政職員の数は他の先進諸国に比べてかなり少ないと言われ、また一般行政職員は部門を超えて幅広く頻繁に移動するなかで、町内会は下請けの分業構造のなかに位置づけられてきた(いる)と言える。とすれば、行政職員が、期待される共働活動に能動的・積極的に参加する・取り組めることができるかについても疑問を感じざるを得ない。
〇④「自助」「共助」「公助」については、公助より共助、共助より自助といったようにその優先順位が問われることがある。それよりも、自己責任や自己努力による「自助」が強調され、地域コミュニティが衰退するなかで「共助」が瓦解し、制限的な「公助」のさらなる縮小が進むいわゆる「無助社会」の実相について、その認識は不十分なものに留まっていると言わざるを得ない。
〇これらの点を別言すれば、要するに、町内会の「危機」が叫ばれ、行政と町内会や市民活動団体などとの新たな地域共働(協働)体制のあり方が探求されるこんにち、戦前からの町内会と行政との相互依存関係や行政協力制度について如何に歴史的・構造的に分析・検討するか。そしてそれを受けて、如何にして地域共働体制を時代や地域の要請に応えうるものに構築していくか、が問われるのである。

〇ところで、筆者が住むS市は、日本の中心に位置し、清流として名高い長良川が流れる豊かな自然、積み重ねられた歴史、育まれてきた文化など貴重な地域資源を背景に地場産業が栄え、刃物のまちとして発展してきた(「自治基本条例」前文、2014年12月施行)。2024年10月現在の人口は8万4,036人、世帯数は3万6,475世帯、自治会数は563団体を数える。筆者が所属するH自治会は、2024年4月現在、307世帯、3事業所で構成されている。筆者は一「個人会員」として、回覧板を回すことをはじめ、ゴミステーション清掃、自治会一斉側溝清掃、公民センター・神社清掃、春・夏・元旦祭、交通安全指導、防災訓練、そして老人クラブ例会や敬老祝賀会などの活動や行事に参加することになっている。ちなみに、個人会員(世帯単位)の会費は月額700円、2023年度の自治会決算額は約1,500万円(内、前期繰越金1,100万円、自治会費264万円、補助金113万円、入会金29万円(10世帯入会)など)、2024年度の支出予算額は約1,382万円(内、事業費・助成金等約625万円、次期繰越金約756万円など)である(「令和5年度 H自治会定期総会」資料より)。
〇このようなH自治会とそこでの活動に関して筆者は、かつて次のように書いた。地方の町内会のひとつの実相である。再掲しておきたい。

地方で暮らす筆者にとって、年度替わりが近づくと、心臓が規則正しく鼓動し肺でゆっくりと呼吸をする「静かな時間」が、多少とも揺らぐ。過日、地区の高齢者の寄り合いに参加した際、求めに応じて自分の意見を開陳することになった。話の途中で、寄り合った人たちの心模様が頭をよぎった。「空気」が支配する地域コミュニティのなかで、①歴史や文化の継承・発展や経済や生活の拡大・成長に貢献してきたという思いから、昔ながらの「つながり」(関係性)にこだわり、その制度やシステムを守ろうとする人がいる。②なるようにしかならないという思いから、ひとまず様子見して大勢に従い、いまの「つながり」をやむなしとして、それらしく振舞う人がいる。③精神的な豊かさや生活の質的充実を志向・実現したいという思いから、その時の流れやその場の力関係に異を唱え、新しく「つながり」を組み換えようとする人がいる。
今回の寄り合いも、何代にもわたって住み続けている①の圧勝、外部から移住してきた移住一代の③の惨敗で終わった。旧住民であれ新住民であれ、自らを「一般住民」や社会的地位(階層)の中位層に位置づけている②はいつも、賢い処世術で利口に日和(ひよ)る。これが、筆者が暮らす地方都市(過疎区域含む)の中心市街地の周辺地域(地区)の現実である。
蛇足ながら、その寄り合いでは、筆者の話に対して「学校の先生だったかもしれないが‥‥‥」という、聞こえよがしのつぶやき(嘲笑と愚弄)があった。「梯子(はしご)を外される」(梯子はかかっていなかった)、「出る杭(くい)は打たれる」(出る杭は抜かれる)ことも二度三度。さすがに「あほらしくってやってらんねーよ」。いまだに「世間」の「空気」が読めない自分がいる。そうであっても、「我がまち・我がこと」(さすがに「丸ごと」とはいかないが)である移住一代(筆者)が住むこの地域・社会は、持続可能か?
また、ある年度の自治会総会で、まったくもって不合理な事柄について意見を述べると、重鎮(何代も続くかつての豪農)から「先人の素晴らしい知恵に基づくものであり、まったく問題はない!」と、一蹴される。しかも、地元有力者の息子と思われる若い人から、「あんた、しゃべり過ぎだよ!」という決定打を浴びせられてしまう。重ね重ねご丁寧なことである。その後の議事は、何事もなかったかのように静かに、淡々と進められることになる。後日、一人の参加者から、「私もあんたと同じ意見なんだが‥‥‥」と話しかけられた。いつでも、どこにでもある光景であり、特筆すべきものでもないことは承知しているのだが‥‥‥。なお、日頃の寄り合いや年度総会の参加者は、そのほとんどが男性(世帯主)である。
こんな “ まち ” であり、自治会であるとはいえ、ここで、これまでの自分とこれからの自分を精一杯生きるしかない。
(<雑感>(106)あほらしくってやってらんねーよ! とはいえ:「定常型社会」と地域コミュニティ―広井良典の「定常型社会論」を読む―/2020年4月26日/一部加筆修正。⇒本文)。

備考
首都圏近郊の都市における自治会の加入率は、「2000年代の初めには50%近くになっていたと思われる」([1]13ページ)。全国の市区町村における加入率(世帯単位)は、2021年71.8%(2010年78.0%、2015年75.3%、2020年71.7%)となっている(総務省「自治会等に関する市区町村の取組に関するアンケート」2022年2月)。なお、上記のH自治会の「規約」には、「脱会の時は、(ゴミステーションや公民センターの利用など)一切の権利を放棄する」とある。

阪野 貢/Z世代と不安社会:近頃の若者とつながりと不安の格差社会 ―舟津昌平著『Z世代化する社会』等のワンポイントメモ―

本書の結論を、“ たとえ話 ” を用いて述べれば、次のようになる。
ある村で、若者だけに感染する病が発見された。若者が次々と病気にかかっていく。それを見て、お偉いさんや親族は「これだから若者は」「若者の生活がたるんでいるのでは」「昔はこんなことなかった」などと若者を責め、病の原因を若者の資質に求める。ところが、この病気は「若者であるほど早く感染する」というだけで、実はすべての年齢層に感染するものだった。かくして、村は老若男女、この病気に侵されていくのだった。(以下[1]4ページ)

〇筆者(阪野)の手もとに、舟津昌平著『Z世代化する社会―お客様になっていく若者たち―』(東洋経済新報社、2024年4月。以下[1])がある。[1]では、新進気鋭の経営学者である舟津(「ゆとり世代」)によって、企業組織やビジネスの視点からの実証的でユニークな若者論(現代大学生論)が展開される。舟津によるとそれは、「現実を無視した印象論」ではなく、「並の若者を論じた本よりよほど丁寧な取材を経て書かれている」(303ページ)。それゆえにか、そこではインターネットやSNS(Social Networking Service)の用語や若者言葉が多用され、「団塊の世代」(1947年から1949年にかけて生まれた世代)の筆者にとってはいささか読みづらい本ではある。とはいえ、「Z世代と呼ばれる若者たちを観察することで、われわれが生きる社会の在り方と変化を展望しよう」(5ページ)とする点で、興味深い。
〇「ゆとり世代」とは一般的には、2002年4月から始まる「ゆとり教育」(「完全学校週5日制」「総合的な学習の時間」等)を受けた世代で、1987年から2004年に生まれた世代の呼称である。「Z世代」とは概ね、1990年代半ばから2010年代前半に生れた世代(1990年代後半から2012年頃に生れた世代:67ページ)で、デジタル機器やインターネットが普及している環境で育った世代をいう。なお、こうした世代(cohort)論に関しては、多様性の時代や個人化社会が進行するなかで、その世代の実体や共通性(同質性)は流動的であり、若者の真の姿を描写することが困難になっている。すなわち、Z世代の共通性を前提として、固定的・集合的に若者論を説くことは難しい、とも言えよう。それは、根拠が脆弱な単なる印象論に陥ることにもなる。
〇[1]におけるキーワードのひとつは「不安」である。舟津はいう。Z世代の若者たちは、友達に依存して生きており、友達や友達候補がいないと不安を感じ、孤独は恐怖である。そこでまず、「 友達の共感」(44ページ)を求める 。そして、黙っていて静かな、目立たない「いい子」(51ページ)になる。また、若者たちは、インターネットやSNSの開かれたネットワーク(コミュニケーション)のなかに “ 閉じられたコミュニティ ” をつくり、そのなかで互いの行動を監視・管理し合っている。友達関係は必ずしも自由なものではなく、コミュニティからの疎外や排除、追放に不安を感じているのである。筆者はここで、2005、6年頃に話題になった大学生の「便所飯」を思い出す。ひとりで食事をする “ ぼっち飯 ” に恐怖を覚え、トイレの個室で食事をする、というのである。
〇このようにZ世代は、他人を警戒し、かなり慎重に周りを観察しながら、その一方でほどよく得(とく)できる、コストパフォーマンス(費用対効果)の良い「最適」をめざす。「周りをつぶさに見て、平均を推定して、そのちょっと上になる」ことを慎重にめざして、「最適の置き所を探っている」(61ページ)。
〇この点をめぐって舟津はいう(抜き書きと要約)。

Z世代は周囲への監視の目を絶やさず、他者評価に敏感である。そして、常に「横」を見る。(何処かに)みんな行ってるなら行く、なのだ。わざわざ断るほどの主体性はない。極端なことを言えば、Z世代は他人を信じていない。他者を警戒して監視して、損しないように立ち回って、平均ちょっと上で得することをめざしているから、同世代すら信じていない。/そうでもないと、あんなに手の込んだ友達作りをするわけがない。(220~221ページ)

〇また、いまの若者たちは、就職に不安を感じ、就活を早期から始める。就職後、職場での人間関係に不安を覚え、上司からの不快な非難はぜんぶ「アンチ」であり(88ページ)、説教や叱責に恐れを感じる。また、「自分は他社や他部署(ヨソ)で通用しない」のではないか、こんな「職場では自分は成長できない」のではないかと思い、不安を抱え、転職を考えるのである(246ページ)。
〇ことほどさように、Z世代の若者たちの悩みや不安のタネは尽きない。そしてそれは、社会の変化に敏感に反応し、社会の病理が具体化・体現化されたものである。若者たちは、大人の「映し鏡」(161ページ)である。その点において、上の世代にとっても無関係ではなく、確実に影響を受けている。冒頭に記した “ たとえ話 ” の一節が意味するところである。
〇この点をめぐって舟津はいう(抜き書きと要約)。

Z世代はわれわれの――Z世代以外を含む――社会の構造を写し取った存在であり、写像(しゃぞう)である。/若者は経験が浅く、雑味(ざつみ)がなく澄んでいて、だから外からの影響を受けやすい。社会の構造なるものが生まれる――たとえば不安を利用したビジネスが横行する――とき、社会に在るわれわれは、多かれ少なかれその影響を受ける。なかでも若者は感度が高く適応が早いので、いち早く構造を反映して言動に移す。/だから、異様に見える。でも異様に見えるZ世代は決して地球外から来たエリイリアン(異星人)ではなく、社会構造をより純粋に敏感に写し取った、先端を往く者なのだ。ビジネス化する社会も、不安を利用する社会も、(何の実態もなく、意味内容の存在しない唯(ただ)の言葉しかない)唯言(ゆいごん)的な社会も、若者の方が影響を受けやすいというだけで、確実にわれわれにも影響している。(264ページ)

〇以上を要するに、[1]の結論はこうである。それは、冒頭の “ たとえ話 ” の別言である。

Z世代と、それ以外の他者としてのわれわれをつなぐかすがいは、(中略)社会の中で、われわれのあいだに同じ構造が在ることを認識し、どうやってそこから生きていくのかを一緒に考えることにあるのではなかろうか。/現代社会とはいわばZ世代化する社会である。時代の最先端を走るトップランナー(top runner)でありアーリーアダプター(early adopter:最初期に適応する人)である若者を観察すれば、われわれが置かれた社会構造がより鮮明に見える。Z世代が、意識・無意識によらず感取し現前化させたものこそ、われわれの生きる社会を表したものなのだ。(264、265ページ)

〇なお、舟津は、Z世代に巣食う病理、すなわち現代社会が孕(はら)む社会病理について、その処方箋(アイデア)をいくつか提示する。「理由を探さないで、根拠のない自信を持って生きる」(信頼や不安にはもともと根拠はない)こと、「欠落していることを自覚し、満点人間をめざさない」こと、「したたかに、余裕を持って生きる」こと、などがそれである(285~300ページ)。
〇要するに、根拠がなくても自分や他人を信頼して、(根拠のない)不安を打ち消し、日々の生活(仕事)に向き合っていくことであろう。それは、一面では社会構造的な「解」を求めたい筆者にとっては、いささか手ごたえがないモノである。そう評価する理由のひとつは、若者の価値観やメンタリティ、行動特性(「若者文化」)に焦点を当てる[1]に対して、貧困や社会的孤立のなかで生きるいまの若者を「社会的弱者」として、歴史的・社会的文脈のなかで構造的に捉えることが必要かつ重要である、と考えるからでもある。
〇最後に、Z世代に関して一言。舟津によると、[1]を読んだある読者から「Z世代は “ 炭鉱のカナリア ” である」と評されたという(注①)。言い得て妙(いいえてみょう)である。前述した「黙っていて静かな、目立たない『いい子』」や授業中「黙って座っていれば、いい子だと思ってる」(52ページ)学生は、さしずめ “ 歌を忘れたカナリア ” であろうか。「全共闘世代」(1941年から1949年生まれ)に属するとも言われる「団塊の世代」の筆者から、若者にエールを送り、若者の奮起に期待したい。

①「舟津昌平 Z世代とは日本社会を映す『鏡』である」『日経BOOKプラス』(2024年7月19日掲載)
https://bookplus.nikkei.com/atcl/column/071100393/071100001/(最終閲覧日:2024年9月30日)

〇ここで、「不安社会」に関して一言したい。筆者(阪野)の手もとに、「不安社会」に関する本が2冊ある(しかない)。奥井智之著『恐怖と不安の社会学』(弘文堂、2014年12月。以下[2])と石田光規著『孤立不安社会―つながりの格差、承認の追求、ぼっちの恐怖―』(勁草書房、2018年12月。以下[3])がそれである。
〇先ず[2]で、奥井は、「ますますグローバル化し、個人化する社会は、わたしたちの恐怖と不安の温床である。――わたしたちは今日、そういう恐怖と不安にクールに向き合うことを求められている。しかしクールに向き合うだけで、恐怖と不安が解消するわけではない。他者との連帯にクールに向き合うことが、新しいクールな課題であろう」(156~157ページ)という。これが奥井の主張である。
〇すなわち、こうである。人間はコミュニティに帰属することで「安全」を確保する。しかしそれは、「自由」の喪失を意味する。そこで、「自由」を確保するためには、コミュニティから離脱しなければならない。しかしそれは、「安全」の喪失を意味する(73ページ)。こうして、「コミュニティに埋没すること」の「恐怖と不安」と、「コミュニティから乖離すること」の「恐怖と不安」は、非常に密接で切り離せない「相即不離」(そうそくふり)の関係(87~88ページ)にある。
〇現代社会は、グローバル化し、それに伴ってコミュティの喪失と個人化が進行するなかで、社会的結合が弱体化している(116ページ)。「グローバル化=個人化社会とは別名、非コミュニティ社会である」(165ページ)。そのコミュニティのつながりの希薄化やコミュニティからの解放や離脱、拒絶や排除、すなわち社会関係の喪失や社会的分断は、「自由に自己をデザインできる」(165ページ)こと、すなわち自己選択・自己決定と自己責任を意味する。それは、人間にとって「恐怖と不安に満ちた状況」(70ページ)でもある。そこで人々は、「社会の動向と切っても切れない関係」にある「恐怖と不安」に冷静に向き合い、新たな社会的連帯を求める。別言すれば、「恐怖と不安」は社会的連帯への契機になる可能性を持つのである(142ページ)。
〇なお、奥井は、「恐怖」と「不安」を個別に捉えるのではなく、「恐怖と不安」を並列的に位置づける。つまり、奥井にあっては、「恐怖と不安」は「複雑にからみ合って」(15ページ)おり、「十分に認識したり、制御したりできないもの」(16ページ)である。そこで例えば、「死の不可避性は、恐怖と不安の最大の源泉である」(25ページ)、「恐怖と不安の最大の源泉は社会関係にある」(28ページ)、「恐怖と不安の根源は、人間の知性の限界にある」(17、160ページ)などとなる。
〇とはいえ、“ ヒトはいつか必ず死ぬ ” ことについて「不安」を感じ、“ 死を間近に控えたヒト ” は死への「恐怖」を覚える。近い将来 “ 大地震が来る ” と言われることに「不安」を感じ、“ 地震でいま、家が揺れている ” ときに「恐怖」を覚える。このことだけを考えても、「恐怖と不安」は「恐怖」と「不安」に区別して、個別の概念として捉える必要があると言える。また、ヒトは、未確定あるいは不確実なことについて無知であり、あるいは漠然としか認識できず、さらには十分に制御できず「安心」が得られないときに、「不安」を感じる。その「不安」が広がり・深まる(「不安」が増幅する)なかで「危険」な状況に直面するとき、「恐怖」を覚えるであろう。そして、こうした個人の感情である「恐怖」と「不安」は、それに対処し得る資源をそのヒトがどれだけ持っているかによって、またそのヒトが属するコミュニティや人間関係のありようによって、その感じ方(強度)も異なるであろう(「恐怖」と「不安」の格差)。それはつまり、「恐怖」と「不安」は、個人的要因だけでなく、歴史的・社会的要因について構造的に把握する必要があることを意味する。
〇次に、[3]についてである。そこで石田は、「孤立にまつわる一連の問題を、個人の決定・選択を重視する社会(個人化社会)の産物と見なし、当該社会における人間関係の問題を、孤立を中心に」論じる。その際、個人化とは、「社会を構成するさまざまな単位が個人に分割される現象」をさす(3ページ)。
〇[3]におけるキーワードのひとつは「選択的関係」(「選択的関係」の主流化)である。石田は次のようにいう。

旧来的な農村のように、強固な役割構造を内包する集団に人びとが埋め込まれている社会では、そこに暮らす人が人間関係を選択・決定する自由はきわめて少ない。生命の維持と共同が結びついていた社会では、所属集団の拘束は絶大なものであった。人びとは血縁・地縁といった中間集団への埋没と引き替えに、自らの生命を維持していたのである。この時代の人間関係を、さしあたり、「共同体的関係」としておこう。/一方、現代社会のように、人びとの生活を消費および国の提供する社会保障サービスが補償するようになると、人びとが固有の人と付き合う必然性は低下する。それとともに、私たちを縛り付けていた血縁や地縁の拘束は揺らぎ、人間関係には感情の入る余地が増してゆく。私たちは今や「自らの好み」に応じて関係を形成・維持する自由を手に入れたのである。このようなつながりを「選択的関係」としておこう。「選択的関係」の主流化は現代社会における孤立不安と密接に関連する。(4ページ)

〇これが、石田の言説(立論)の基本的視点・視座である。それに基づいて石田は、現代社会の「選択的関係」の主流化による孤独・孤立に関する諸問題(婚活、孤立死、コミュニティ活動、育児・介護など)を、学説や量的データを用いて分析・検討し明らかにする。それらの結果は次のように “ まとめ ” られる((a)(b)(c)は筆者)。

(a)人間関係が選択化するなか、私たちのつながりを支える基盤は、社会的な役割から個人的な感情に変わってゆく。感情を仲立ちとした関係は、相手からの承認の獲得という課題を押しつけ、人びとの孤立への不安を拡大する。同時に、「選択的関係」の主流化は、他者から選ばれる人・選ばれない人を明確にし、つながり格差をもたらす。/(b)その一方で、個人の決定をとりわけ重視する社会は、選ばれないことによる孤立も、自らの選択の帰結として処理してゆく(自己責任:筆者)。しかし、その背後には、個々人の行動様式(自己への関心)、親の養育方針(面倒の見方)にまで浸透した排除が潜んでいる。/(c)孤立問題を解決する切り札として期待される地域のつながりは、高度経済成長がひと段落した1970年代に、すでに動揺が指摘されていた。私たちは、地域の人たちとつきあわなくても生きていけるように、社会の諸システムを整備してきたのである。こうしたなかで、地域での活動に携わる人びとは、いかにして地域住民の共同性を再編させるか頭を悩ませている。(209~210ページ)

〇この “ まとめ ” を別言すると、こうである(見出しは筆者)。

(a)他者から「必要とされる」資源の多寡(たか)が孤立に結びつく
「選択的関係」の主流化は、私たちの心に「選ばれない恐怖」を植え付け、つながり獲得の行動へと駆り立てる。その一方で、選択のなかに埋め込まれた〝 選別性 〟は、「選ばれる資源」(学歴や収入など、選ばれるために相手の欲求を満たす資源:筆者)をもたない人びとを振り落としてゆく。かくして恵まれない人ほど孤立の恐怖に取り込まれてゆくのである。(76ページ)

(b)自己への関心(自己理解)や親の養育態度が孤立に影響を及ぼす
自己への関心が高い人、親による面倒見の多かった人ほど、孤立していない傾向が見られる。(124~125ページ)/学歴の高い人、暮らし向きのよい人、親によく面倒を見てもらった人ほど、自己への関心(自己理解:筆者)が高い。(中略)そういう人ほど、関係形成に望ましい生活態度を身につけている。(126~127ページ)/親子の経済資本(経済力)、人的資本(学力)に加えて、文化資本(養育指針、生活態度)が相まって、社会経済的地位の低い人びとを孤立に貶(おとし)めてゆく。(130~131ページ)

(c)地域住民の共同性をいかに再編するかが問われている
高齢化の進展、単身世帯の急増、財政の逼迫により地域の互助に対する期待は年々高まっている。にもかかわらず、互助を期待しうる「濃密な関係」は、地域や近隣には見られない。つまり、孤立への打開策として、近隣に期待するのは難しいということだ。これが量的データで鳥瞰的にあぶれ出された地域の実情である。(166ページ)

〇「恐怖」と「不安」が個人化され、その格差が生じている。それがまた、「恐怖」と「不安」をいっそう増幅させている。そんななかで、社会的連帯の方途を見出すことは難しい。石田がいうように、「孤立不安社会としがらみ不満社会を超克(ちょうこく)しうる『第三の道』へは、そう簡単には到達し得ない」(232ページ)。(c)に関して石田は、新たなつながりを生み出す契機として、新たな互助関係としての「ボランティア」、目的集団としての「趣味縁」、所有よりも必要性に根ざした「シェア」、が期待されるとする(228~229ページ)。この提示に関しては、ここに至って、それまでの学説や量的データに基づく石田の論理展開は、影を潜(ひそ)める。指摘しておきたい。
〇例によって唐突であるが筆者は、構造的に生み出される社会的現象としての「恐怖」と「不安」に対処するための理論的根拠のひとつに「共生」論や「ソーシャル・キャピタル」論があり、社会的仕掛けのひとつに「まちづくりと市民福祉教育」がある、と考えている。
〇なお、「共生」論のひとつに、「共生」とは「二つ以上の異なる主体間でお互いに依存しあうなかに、『特定の利益』が共有される状態」をいう、という言説がある(金子勇『格差不安時代のコミュニティ社会学―ソーシャル・キャピタルからの処方箋―』ミネルヴァ書房、2007年11月、43ページ。本書で金子は、『格差不安社会』の典型は『少子化する高齢社会』であるという)。「ソーシャル・キャピタル」(社会関係資本)論とは、知らない人を含む一般的な人々に対する「信頼」、“  お互いさま ” という想いから互いに支え合う互酬性の「規範」、人々の協調行動を活発にする「ネットワーク」(社会的つながり)によって、コミュニティの諸問題が解決され、よりよい統治が進み、豊かなコミュニティが創り出される、という考え方をいう。付記しておきたい。

あなたは、日頃の生活の中で、悩みや不安を感じていますか。それはどのようなことについてですか。
日頃の生活の中で、悩みや不安を感じているか聞いたところ、「感じている」とする者の割合が75.9%(「感じている」の割合34.8%と「どちらかといえば感じている」の割合41.1%との合計)、「感じていない」とする者の割合が15.5%(「どちらかといえば感じていない」の割合12.4%と「感じていない」の割合3.2%との合計)となっている。
日頃の生活の中で、悩みや不安を「感じている」、「どちらかといえば感じている」と答えた者(2,335人)に、悩みや不安を感じているのはどのようなことか聞いたところ、「老後の生活設計について」を挙げた者の割合が63.6%、「今後の収入や資産の見通しについて」が59.8%、「自分の健康について」が59.2%と高く、以下、「家族の健康について」(50.7%)、「現在の収入や資産について」(47.0%)などの順となっている(注②)。

②「日常生活での悩みや不安」「悩みや不安の内容」内閣府『国民生活に関する世論調査(2023年11月調査)』(2024年3月19日掲載)
https://survey.gov-online.go.jp/r05/r05-life/2.html#midashi13(最終閲覧日:2024年9月30日)