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「相模原障害者施設殺傷事件」の本質と正義:「見て見ぬふりをする私」「見ぬふりをして見る私」、その「後ろめたさ」―神奈川新聞取材班著『やまゆり園事件』読後メモ―

死刑制度そのものの問題もあった。 彼が犯した罪は命を選別し「生きる価値がない」と断定して殺したこと。その彼を僕たちが「生きる価値がない」と断定して処刑する。選別に対する選別。これほどのジレンマはない。(森達也:下記[本書]139ページ)

〇筆者(阪野)の手もとに、神奈川新聞取材班が著わした『やまゆり園事件』(幻冬舎、2020年7月。以下[本書])がある。2016年7月に神奈川県相模原市の県立知的障がい者施設「津久井やまゆり園」で、入所者19人が殺害され、職員2人を含む26人が重軽傷を負った「やまゆり事件」を追いかけたドキュメントである。本書のカバー「そで」には次のように記されている。「事件を起こしたのは、元職員の植松聖(うえまつ・さとし)。当時26歳。20年3月、死刑判決が確定した。『障害者は人の幸せを奪い、不幸をつくり出す』など障害者への差別発言をくり返した植松は、人々の意識に巣くう差別と偏見、優生思想など、社会に潜む課題をあぶり出した」。
〇筆者は「やまゆり園事件」については、25年近く相模原市に居住していたこともあって、事件の発生からある“おもい”をもってきた。そこで、本ブログの<ディスカッションルーム>(81)2020年1月1日投稿や<雑感>(99)2020年1月9日投稿の拙稿などで若干ふれてきた。その“おもい”とは、事件の風化が進み、事件の記憶や教訓の継承が危ぶまれるなかでの、次のようなものである。① どのような差別意識がいつから、どのように醸成されてきたのか。② 匿名裁判は人間の尊厳を毀損(きそん)するものではないのか。③ 刑事責任能力の有無だけを争点にした裁判は真相解明を不可能にするのではないか。④ 皮相浅薄な共生思想では根強い優生思想に太刀打ち(たちうち)できないのではないか。⑤ 加害者を断罪する正義によって「見て見ぬふりをする私」「見ぬふりをして見る私」の加害者性は免罪されるのか、などである。
〇本稿では、それらの“おもい”に関する本書の叙述のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

① どのような差別意識がいつから、どのように醸成されてきたのか―「私が殺したのは人ではありません。心失者です」―
● 「事件を起こしたことは、いまでも間違っていなかったと思います。意思疎通のできない重度障害者は人の幸せを奪い、不幸をばらまく存在。絶対に安楽死させなければいけない」。さも常識であるかのような口ぶりで、彼は笑みを浮かべながらこうも言い放つ。「私が殺したのは人ではありません。心失者です」。(97ページ)
「心失者」(しんしつしゃ)――。この耳慣れない言葉は彼の造語だ。人の心を失った者という意味で、主に「意思疎通の取れない重度障害者」を指すという。この事件を象徴するキーワードと言ってもいい。(98、55ページ)
● 判決は、「施設勤務経験を基礎として動機が形成された」と認定した。彼の証言を事実認定したくだりはこうだ。
≪施設での仕事中、利用者が突然かみついて奇声を発したり、自分勝手な言動をしたりすることに接したこと、溺れた利用者を助けたのにその家族からお礼を言われなかったこと、一時的な利用者の家族は辛そうな半面、施設に入居している利用者の家族は職員の悪口を言うなど気楽に見えたこと、職員が利用者に暴力を振るい、食事を与えるというよりも流し込むような感じで利用者を人として扱っていないように感じたことなどから、重度障害者は不幸であり、その家族や周囲も不幸にする不要な存在であると考えるようになった≫
彼から見えた施設の「現実」だったのだろうが、同僚らの証言などを踏まえた徹底的な検証が公判でなされることはなかった。(352~353ページ)
● 「なぜ、あのような人物を採用したのか」。事件後、ある施設の関係者は、資質に欠けた元職員による犯行と切り捨てた。どこか人ごとのようだった。こうした反応について、県内の入所施設職員は憤りを隠せなかった。「自分たちが普段取り組んでいる支援のありようが問われた事件だったのに、あまりにも人ごとではないか」。この職員の危機感はひときわ強かった。事件によって、入所施設の構造的な問題があらためて浮き彫りになったと受け止めていた。(354ページ)
● (息子が重傷を負った)尾野剛志は語気を強め、こう指摘した。「障害者の家族は悩みながら子育てをしている。その中で感じる小さな喜びを、あなたは奪った」。(120ページ)

② 匿名裁判は人間の尊厳を毀損するものではないのか―「生きた証として実名と写真を公表してほしい」―
● 県によると、名前を出したり匿名でも遺影を掲げたりするのに理解を示す遺族がいる一方、「マスコミの取材に追われたり、他人から心ない言葉をかけられたりするのではないか」「そっとしておいてほしい」といった意見も少なくないという。県の担当者は「遺族を二次被害から守ることを一番に考えたい」とする一方、一般参列者からは式典の形骸化や事件の風化を懸念する声も上がる。(51ページ)
● (遺族の男性は、)匿名審理は姉の存在を否定することにならないか。事件以降、そんな思いをずっと抱えてきた。姉の命を奪った男の裁判を機に自分が顔をさらし、姉の代わりに法廷に立つことが、姉の尊厳を守り、供養になるのではないか。そう考えた。(114ページ)
神奈川県警は「遺族からの強い要望」を理由の一つとして、被害者を匿名で発表した。「名前を出さないのは家族も差別しているから」「匿名は人生を否定すること」。県警や遺族の対応を批判する意見が相次いだ。「匿名発表に傷ついた」と語る障害者もいた。男性は障害を理由に匿名を望んだわけではなかったが、自分が責められているように感じた。
自宅を訪ねてくる記者は「生きた証しとして実名と写真を公表してほしい」と口々に言った。自分は姉にひどいことをしているのか。心が揺らぎ、ふさぎ込んだ。それでも、姉の実名を出せば事件に巻き込まれたと知った周囲が戸惑うのではないか。そう考えると、とても公表する気持ちになれなかった。(114ページ)
● (園の家族会会長を長く務めた)尾野剛志は唯一、実名で取材に応じてきた。当事者が声を上げなければ、「障害者は不幸をつくることしかできない」と言ってはばからない植松に屈してしまうと考えるからだ。(119ページ)
● なぜ、実名を明かせないのか。「だって、いままでだって、ずっと、ひっそり生きてきたんだから」。(長男が入所する)男性は、犠牲となった入所者は生前から「隠された存在」だったと明かした。(162ページ)

③ 刑事責任能力の有無だけを争点にした裁判は真相解明を不可能にするのではないか―「被告を裁くだけの裁判に終わった」―
● 植松が重度障害者に抱いた嫌悪感が事件の引き金となったことは疑いようがない。しかし、何をきっかけに差別的感情が芽生え、殺害をいとわないほどの憎悪へと飛躍させたのか。刑事責任能力の有無のみが争われた裁判ではほとんど解明されなかった。その糸口となる植松の生い立ちや人間性にも迫りきれず、司法の限界を露呈する形となった。事件の真相解明を訴える識者からは控訴を求める声が上がった。(121ページ)
● 責任能力の有無だけを争点にした裁判には、むなしさが募った。判決後の会見で、(障害のある娘と暮らす和光大学名誉教授で社会学者の)最首悟は「被告を裁くだけの裁判に終わった。障害者本人やその家族、障害者福祉に関わる人々の願いとは程遠い内容だった」と残念がった。突飛な考え方をする人間が引き起こした特異な事件として断罪してみせるのではなく、植松の主張を「社会への告発」として受け止め、真の動機を引き出してほしいと期待していたからこその落胆だった。(128ページ)

④ 皮相浅薄な共生思想では根強い優生思想に太刀打ちできないのではないか―社会の底流にはいつ爆発してもおかしくないマグマのように優生思想がある―
● 事件の根底には、優生思想がある。植松は衆院議長に宛てた手紙で、「障害者は不幸しかつくらない」「重度障害者が安楽死できる世界を目指す」と記していた。優生思想が極端な形で現れた事件だったが、いまの社会のありようと無関係ではない。
子どもが五体満足で生まれてきてほしいと願うのは、親としての素朴な愛情だと思う。否定するつもりはない。だが、その願いは裏を返せば、障害を持って生まれてきてほしくないということでもある。新型出生前診断で染色体異常が見つかった場合、9割以上が中絶を選ぶ時代だ。
社会の底流にはいつ爆発してもおかしくないマグマのように優生思想がある。だが、多くの人たちは自らの内にある優生思想を自覚したくないのだろう。あの事件が突き付けたことに向き合わず、「極端な考えを持った男が起こした事件」としてだけ受け止められて事件が風化していく可能性が高い。(338~339ページ)

⑤ 加害者を断罪する正義によって「見て見ぬふりをする私」「見ぬふりをして見る私」の加害者性は免罪されるのか―「加害者」の一人としての後ろめたさを抱えながら取材を続けてきた―
● 「リンカーンは黒人を(奴隷制度から)解放した。自分は重度障害者を生み育てる恐怖から皆さまを守った、ということです」。恥ずかしそうに語りながらも、彼の表情は誇らしげに見えた。(101ページ)
「社会の役に立たない重度障害者を支える仕事は、誰のためにもなっていない。だから自分は社会にとって役に立たない人間だった。事件を起こして、やっと役に立てる存在になれたんです」。ぞっとした。自らをリンカーンに重ね合わせる彼の心の深淵(しんえん)をのぞき見た思いがした。ゆがんだ正義感を振りかざし、周囲からの称賛を疑わず、心の中の闇を増幅させていったように思えてならない。その闇にのみ込まれ、いつしか「心失者」になっていたのは彼自身ではなかったか。(105ページ)
● 彼の言動は本人の思惑を超えて、多くの人々が長きにわたって十分に目を向けずに放置してきたことを白日の下にさらした。
それは、私たちが暮らす地域社会が重度の知的障害者を迷惑視し、家族を孤立させ、親による介護が限界に達したら施設しか居場所がないようにしてきた、ということにほかならない。地域での無自覚な差別や排除のなれの果てが、意思疎通ができないと一方的に断じた入所者を次々と襲った彼だったのではないか。そうした社会のありようについて気に留めることもなく黙認してきた「加害者」の一人として後ろめたさを抱えながら取材を続けてきた。(351ページ)
● (姉を亡くした)男性は自ら証言台に立ち、死刑判決を求めていた。「想像通りの判決だった。若者に死刑を求めた十字架は一生背負っていく」。(121ページ)

〇植松は公判で、「事件後、共生社会に傾いたが、やがて破綻する」と述べたという。人々に「本気になって共生社会をつくる気があるのかどうか」(364ページ)、を問うものである。
〇本書は終章(結論と展望)で、「分ける教育」と「分ける社会」について言及する。その概要はこうである。やまゆり園事件は、教育のあり方が問われる事件である。何かが「できる、できない」という能力主義教育が、障がい者への差別意識を生み出す温床になっていないか。学校現場では、障害の有無や程度、学力に応じて学ぶ場を「分ける教育」が日常になっている。事件を機にあらためて、「共に学ぶ」インクルーシブ教育(「分けない教育」)の意義を考えるべきである(360~361ページ)。
〇「共に学ぶ」、その先に「共に生きる」がある。「分ける社会」のありようを変えていくためには、「障害者には優しく接しなければならない」といった上から目線の考えや、障がい者を「理解」や「支援」の対象として見るのではなく、対等な仲間として付き合い、「私とあなた」という二人称の関係性を紡いでいくことである。「分ける社会」を変えていくには、障がい者と出会うことからしか始まらない(363、365ページ)。
〇これらの言説は目新しいものではなく、紋切り型の、言い古されたものである。とはいえ、障がい者と仲間として付き合い、障がい者を仲間外れにしない「共生社会」が実現するまで、強調されるべき言説である。そこには、いまも続く障がい者差別や排除、抹消の実態がある。

付記
本稿を草することにしたきっかけのひとつは、次の記事(書評)にある(『岐阜新聞』2020年9月6日付)。とりわけ最後の一節を心に刻んでおきたい。本稿のサブタイトル―「見て見ぬふりをする私」「見ぬふりをして見る私」、その「後ろめたさ」―が意味するところでもある。

“取材班は地元紙記者として「社会のありようについて気に留めることもなく黙認してきた『加害者』の1人として後ろめたさを抱えながら取材を続けてきた」という。植松死刑囚の「正義」、彼を断罪する「正義」。彼を英雄とする「正義」が対立する中で、この「後ろめたさ」こそが自らを免罪せずに真理への扉を開く鍵だと思う。”

追記(2020年9月17日)
鳥居一頼先生から次のようなメールをいただいた。「後ろめたさ」を抱えながら、生きながらえようとする「私」がいる。「私」を抉(えぐ)る言葉―「声するだけ」「書くだけ」「口先だけ」、「懺悔(ざんげ)」「内省」「良心」等々を心に刻み込みたい。

後ろめたさ

報われぬ世と 嘆くとも
分断の世を 抗(あらが)いながら
差別の世に 人として生きたい

ただいつも 後ろめたさがつきまとう
声するだけの 自分の無力に
書くだけの 自分の非力に
口先だけの 自分の卑力に

だからいつも 後ろめたさが強くなる
動けぬ エネルギーの枯渇
憤るしかない 自己完結
悟ったフリする 自己欺瞞

いつまでも 後ろめたさは責め続ける
世の非道を傍観する 加害者として
世の不正を見逃す 加害者として
世の不義に目を背ける 加害者として

それでも 後ろめたさが人の道を示す
後悔とは違う 懺悔
弁解とは違う 内省
詭弁とは違う 良心

後ろめたさの功罪
忘却した罪過を 白日の下に晒(さら)す
無関心を装った罪過を 社会に問う
利己的に生きた罪過を 一人ひとりに課す

キャリーケースを押す

幼子は 目の高さの
黒いキャリーケースを押す

歩道の段差で つまずきながら
三歳児は めげずに押す

見かねて母親が 手をかけると
かぶりをふって 手を払う

父親は 空の乳母車を押しながら
女児の動きを 見守る

サッポロファクトリーからの道すがら
旅行者然とした 三人家族

幼児の 果敢な挑戦を
目を細めながら 追い越す

家族連れが 札幌の街を歩く
ただの 昼下がりの風景
観光地札幌の日常が
穏やかに 戻ってきただけ
 
秋の札幌は
疲れた心と身体を 癒す街
秋の札幌は
食欲を満たす食材が 豊富に溢れる街

マスク越しに
ようこそ札幌へ

〔2020年9月15日書き下ろし。道内の観光地の疲弊度は限界。来る方も迎える方もコロナ感染予防対策を万全に。Welcome SAPPORO! Welcome HOKKAIDO!〕

何のおもいもわかず

日本丸の船長が 決まった
コロナと不況の海に 漂う〈いま〉
前船長が頼れる人だと 太鼓判を押す
そこが 一番恐ろしい

日本丸の船長を 決めた
建前と本音の海に 乗り出す〈いま〉
傀儡もどきの 船長らしい
舵は一つとは 限らない 

日本丸の船長は 決められた
国民無視の政治の海に 挑む〈これから〉
ひとり 俺がボスだとばかりに 
解散風を 吹聴する

日本丸の船長は 決められない
手強い派閥の海に あらがう〈これから〉
誰がそばについても 安心できぬ
問題ないとは もう言えぬ

日本丸の船長は 決めたい
コロナと不況の海に 進路を取る〈これから〉
叩き上げの根性が いかばかりのものか
家業にしてきた者への しなやかなあてつけ

日本丸の船長は 決めるしかない
舵取り次第で荒れる海に 覚悟する〈これから〉 
逆らう船員は 下船させると言い放つ
その強気が 墓穴を掘らぬよう

日本丸の船長は 決まった
短い航海になるやもしれぬ海に 出でし〈いま〉
激務に耐えるだけの タフさが試される
団塊の世代の輝く星か それとも流れ星か

〔2020年9月14日書き下ろし。自民党総裁が今日の午後管義偉氏に決まった。心動かぬ決定に、期待感がないのはむしろ幸いかもしれない〕

Congratulation!

大坂なおみ
全米オープン
Congratulation!

「私はアスリートである前に、一人の黒人の女性です。
私のテニスを見てもらうよりも、いまは注目しなければいけない大切な問題があります」
アスリートは 政治や社会運動から距離を置くべきか
違うと 毅然と言い放し 試合放棄という行動に出る
「●●の仕事をしている者は、政治を語ってはならないのか」
選手も市民であり 発言する権利を有することを
シンプルに分かりやすく 見事に言明する

全米オープンへの参加宣言
「7枚のマスクを持ってきた」
黒人差別の被害者の 名前入りマスクを着用する
人種差別への 抗議のメッセージを発信し
決勝までの7試合に挑む 決意表明
「自らの身には起きていないからといって、それが起きていないということではない」
「あなたがどんなメッセージを受け取ったのか。それの方がもっと大事です。
私はみんなに話を始めてもらうことが重要だと、そんなふうに感じています」
国際社会の耳目を集めた
「彼らが必要とすることは、なんでも手伝いたい」
「7枚じゃ足りないことが、すごく悲しい」
準々決勝後の 犠牲者の遺族からの感謝にそう答えた
タフな決勝戦を制し 有言実行に感服する間もなく
勝利後のコメントも 秀でていた
核心を突いた ほとばしる柔らかな生きたことばを 
すでに身につけた 22歳の女性だった

黒人の差別問題という一点から 果敢に切り込む
日本の若者たちへの 強烈なメッセージ
社会問題に無関心な者たちへの 喚起のメッセージ
ひとりの人間として 
いかに考えるべきか
いかに行動すべきか
いかに生きるべきか

優勝は 
スポーツを通して培われてきた
人間的な 社会的な 成長を雄弁に語る
優勝は
意志力が 発言力とその発信力を鍛え
ファンの垣根を越えて 
世界中に 共感のムーブメントを起こす

「新しいなおみも、古いなおみもいない。
自分をどうやって成長できるかだけだと思う。
全ての失敗から学ぶことはある」
優勝インタビューの〆で語った
人間的成熟を目指す 
若いアスリートのポジティブな態度に
歓喜と共に 
また魅了された 

〔2020年9月13日書き下ろし。深いことを分かりやすくコメントする彼女に言葉力をいつも感じる。英語教育に熱心な文科省や中教審の方々には、大きな課題。国語力すら心配な日本の子どもたち。自由意思とその表現力をいかに保障するのか。12日の総裁選の討論を聞いていて、保身的な答弁を繰り返す方への信頼はいかがなものかと心許ない〕

付記
コートを正義を守る場に変えた
〈アスリートと社会問題の歴史に詳しいグランドバレー州立大のルイス・ムーア准教授の話〉大坂選手が過去の犠牲者の名前に言及することで、人びとは彼らの事件について考えざるをえなくなる。マスクの着用は、テニスコートを社会的正義を守るグローバルなプラットフォームに変える。いまの大坂選手には、人びとの注目を引きつけるテニスの才能がある。それを生かし、人種差別に関する世界的な意識を高めているのは素晴らしい。
 大坂選手を見て私が思い出すのは、1950年代に黒人の女子選手として初めて4大大会に勝った故アリシア・ギブソンさんのことだ。ギブソンさんは「公民権運動における自分の役割は素晴らしいテニスをすることと、素晴らしい人間になることだ」と口にしていた。(朝日新聞9月13日「大坂なおみと7枚のマスク」の記事の一部) 

ラブレター

ラブレターの小宇宙
好きが 新世界を創る

ラブレターの魅惑
好きが 動揺を誘う

ラブレターは 恋心が量られる
愛の本気度 上昇中

ラブレターは 恋心を熱くする
唯一無二へと 昇華する

ラブレターは 恋心を夢路に誘う
ひとりよがりの 赤い糸

ラブレターに 恋心を熱く描く
大胆に繊細に 言葉を綴る

ラブレターは 恋心が詩(うた)になる
ひとり芝居の 回転木馬

ラブレターは 恋心の終着駅
一歩通行 行き止まり

ラブレターは 恋心に恋する
短編のラブストリー

ラブレターは 恋心を明かす
なぜ恋をしたのか 理を越えた情動

ラブレターに 恋心を告る
人生を賭けた 一発勝負

ラブレターの返信
…× …? …!  

〔2020年9月12日書き下ろし。好きなことへの純なラブレターが、いまはいい〕

ラブソング

ラブソングは 書けない
過去に戻るタイムマシン
青春の一片(かけら)

ラブソングは 書かない
美辞麗句で飾る
薄っぺらな独白

ラブソングは 歌えない
想い出にふける
淡い青春賛歌

ラブソングを 書きたい
熱く突き動かされる
おもいを取り戻せるのなら

ラブソングを 歌いたい
熱く歌いあげる
音域を取り戻せるのなら

いまは ラブソングを 聴くだけ
歌詞の一つひとつを噛みしめる
静かに愛せる時間は 残されていると

〔2020年9月10日書き下ろし。老いを労りあう残り時間を感じながら、ラブソングを聴く〕

夢なき政争

「こんちは、いましたか!」

「あがっておいで」

「さっそくあがらせていただきました」

「すいませんね、お休みの時にお呼びだてして申し訳ない」

「溜まっておいででしょう」

「お察しの通り。あなたしかおりませんからね」

「いやいや、そうおっしゃられると、ありがたい限りです」

「先月の安倍さんの辞任表明から、次の人を選ぶ一連の流れに、政治の末期と末路を思い知らされています。安倍さんの政治の検証なんぞきっとしないでしょうし、辞めた人は叩かないみたいな変な世間の空気も相まって、また派閥がのしてきて高齢の方々がここぞとばかりに雁首並べて、仕切りを入れる。怖い国になりました」

「やっとお辞めになったかと思ったら、もう出来レースに早変わりとは恐れ入りましたね。管さんで決まりでしょうね。本当に風見鶏のように、アベノミクス継承宣言に何の批判もなくなびいていくその図は、見事としか言いようがありません。雛壇に三人あがっての記者会見もお葬式みたいで、気持ち悪かったし、外された二階さんも滑稽でしたね」

「自分らの力を誇示する政局は、最高の舞台になる。ああして演出しちゅうところにドンの力を強烈にアピールして面目躍如たる場にしたところから、管さんの悲哀が始まったような気がしますね」

「叩き上げの田中角栄さんのような庶民派とは、全く違う感覚の人のように思えますが」

「官房長官のような黒子でいるのがお似合いだった人が、どう変わるのか関心はありますが、取り巻きがああしたパフォーマンスをしているだけに、前途多難でしょう」

「国民は、安倍さんに愛想を尽かして飽きてしまったから、誰でもいいと思う気持ちがいま充満しています。その道筋を四人の爺さんたちが付けてくれて、逆らえきれない下々の議員は、後で仕打ちを受けぬよう、吹いた風に乗っかるだけのこと。右でも左でもない風任せの 議員さん、その正体が丸見えですね」

「そんな中で、岸田さんが貧乏くじを引いてしまったというわけですか」

「あの人ってああして自己主張できるんだって、初めて思いましたね。禅譲だって言われ続けてて素直に従ってきたものの、安倍さんからも見事に袖にされた。自分の主張がない人のようにキャラクターが固まって、国民受けが最悪だったにもかかわらず、政治は国民の人気投票じゃないからと我慢をしてきて、いざそのときが来たら、足下をすっかり崩され陸の孤島に立っていたという、何とも言い難い。戦う前に敗将となってしまった」

「舞台は、すでに人事に移りましたね」

「菅政権の人事は、もう派閥の圧力が強くて、そのパワーバランスを取ることで憔悴するでしょうね。下手な人事をすれば、すぐに反旗を翻す手強い派閥集団ですからね」

「無派閥の管さん、だれがゴッドファーザーになるか、人事で見えてきますか?」

「彼の自由にさせないために、派閥のドンたちは裏で何をしでかすのか、素人には全く読めません。二階さんが幹事長になれば選挙を仕切れるので、金も人も思うがままで、かなり有利になります。ここを外せるだけの度胸はないでしょう。外した途端、はしご降ろしにかかりますからね。財務、麻生さんだけは、勘弁してほしい。膨大な赤字財政の立て直しを誰に委ねるのか。ここは管さんの手腕に注目したいですね。連動する経済の復興は、やはり梶山さんの続投でしょうか。朋輩に支えてもらいたい思いは強いでしょう。弱点は外交ですが、米大統領選挙の結果次第では、4年間の反動で世界は再編成・再構成が起こるでしょうから、万全な対応を求められる外交能力の高い人が必要になるでしょう」

「コロナ感染症の対策は、この総裁選のせいでなにかいま小康状態が続いていますが、厚生労働も重要ですね。なにせ経済と直結する労働こそ、暮らしの基盤ですからね」

「厚労省が、後手後手で批判されることが多かったのは、専門家がこぞって正解を出せなかったことと、政治判断の稚拙さが絡まっての結果ではなかったかと、いまはそう思えますね。ただ、面白い動きをするのではないかと期待されるのは都知事の小池さん。なにせ管さんとは犬猿の仲ですから、オリンピックもコロナ対策も経済復興も、どんなバトルをしでかすのか、こちらも目が離せません」

「それは楽しみですね。政治家はバトルしあってなんぼの世界。忖度ばかりで、野党も力不足でバトルどころか、はなっから相手にされず、軽くあしらわれて負け戦ばかりで、不甲斐ない」

「自民党の総裁選の裏で、野党が結束し直して党首選びの最中ですが、話題性にこれだけ薄いのは、全く期待感がないからでしょうね。お茶の出がらしは誰も飲みたくない。そんな風に感じさせていること自体、当の本人たちには分かっていない。もっと多くの議員が立候補するかと思いきや、たった二人では政論も乏しく、まあ好きにしてって冷め切っています」

「ほんとにそうですね。先日ワイドショーを見ていたら、コメンテーターが盛んに、私たちはとか国民はとか、頭に付けてさもさもらしく語っているのを聞いて、なんだかわけもなく腹が立ちました」

「それはきっとあなた方に代弁してとは頼んでもいないのに、私たちはって一体誰のことを言ってるのということですね。本来ああいう立場で自分の論を展開するのに、私たちではなく、あくまでも私という一人称で論ずるべきなんですよ。そう語るのは、皆さんの思いを代弁していますという思い上がりでしょうか。あるいは媚を売るような方々のそんな態度に、きっと我慢がならなかったのでしょう。好きに話すは自由ですから、聞いている方が判断すべきです。ただ私たちはとか、国民はとか、決めつけたような言い回しは止めてほしいですね。私は私でいいんです。私たちでどっかで責任放棄している。これは議員の方々も同様ですね」

「国民がって、言った先から言葉が朽ちるって感じですね」

「仰るとおりです。だから議員の言葉に信頼を置けない。今回のようにやっていることも、石破落とし見え見えの姑息な選挙方法。党員選挙じゃ勝てないと二階さんは素早く判断。さらに国会議員の票を集めるのに、派閥のパワーバランスを利用するという、見事な策略。タヌキですね」

「公明党さんも、派閥もどきでは?」

「管さんはそこも抜け目はない。問題ありません。管さんもかなりのタヌキでしょう。でなければ無派閥でここまでのし上れない。問題ありません、すでに説明されていますって、いけしゃあしゃあと記者の質問に答えるときのあの口調、これからも続けるでしょうね」

「記者も記者で突っ込みが足りない。東京新聞の望月さんのような記者は出てこない。みんな子飼いのペットのように従順で、発表されたことだけ流すオウム返しの得意な方ばかり。反骨のジャーナリストって、いまいるんでしょうか?」

「そこですね。私はどこに判断のものさしをもっているのかを、毎度確かめていかないと、自分で考えることもおぼつかなくなってしまいます。問題はメディアが同調圧力に屈してしまうという事態です。偏った情報が世の中にまかり通ることを、一番恐れています」

「そのためにも、自分の判断を右寄りでも左寄りでもない前を向いて考えることが大事なんですね」

「上手いことを仰いますね。その通りです。どうも考え方が右だとか左だとかで政治を語るだけでは、テレビに出てくる顔見世興行のコメンテーターばかりが増えるだけのことですからね。私らはもっと前を向いて建設的なことを考えていきましょう。政治に夢をみたいですね」

「政治に夢を、ですね。だからこそ、自分の意見を持つことが大事になるんですね。こうして大家さんとお話することで、自分の考えが見えてきます。だから大家さんから声がかかると二つ返事で伺うのも、いまの自分の立ち位置を確かめることができるからと、そう思いますね」

「私もあなたと話していると、押しつけになるのではと思いながらも、つい楽しくて本音で語ってしまいます。こんな語り場こそほんとは必要なのに、地域からもなくなっていることが、一番問題なのでしょう。雄弁に語る方があっても、何やら批評家めいて誰かの受け売りだとすぐにバレてしまいます。政治と地域づくりや役所や住民のまちづくり、そんな自由な語り場がなくなったから、余計に政治の劣化、地域づくりの形骸化が起こっているんでしょう。地域に核になる人が育たないことが問題です。あなたのような人が一人でも育ってくれると、もっと地域も元気が出ると思うのですが」

「いやいや、買いかぶりです。でもこうして大家さんとお付き合いしていただくためにも、まちづくりにもしっかり身を置きたいと思います。民生委員の仕事も大事なお役目なんですね。それじゃ管政権が決まった折にでも、またお邪魔します。今日もありがとうございました。」

「あいわかりました。こちらこそ楽しみにしております。ところで、内閣が発足したら、すぐに衆議院解散ってなこともあり得ますよ」

「えっ、それもありですか!」

「利にさとい者たちは、なんでもありです」

〔2020年9月10日書き下ろし。波乱万丈の政治の世界。明日はまだ未定。だから目を離せない。離しちゃいけない。〕

プッツン

なぜあれだけ こだわったのだろう
どうして 頑なに意地を張ったのだろう

プッツンと切れた
とたんに なぜどうしてだけが
き・え・た

なぜあれだけ 無理強いをしたのだろう
どうして 異言を拒んだのだろう

プッツンと切れた
とたんに なぜどうしてだけが
に・げ・た

なぜあれだけ 情熱を注いだのだろう
どうして 視界を狭くしたのだろう

プッツンと切れた
とたんに なぜどうしてだけが
と・ん・だ

悔しさが
の・こ・る
虚しさが
し・み・る
赤とんぼが
わ・ら・う

〔2020年9月9日書き下ろし。座を降りた途端、振り返りたくない残滓。栄華の跡に吹く秋風に赤ンボが舞う〕

和顔愛語地蔵の開眼

9月とは思えぬ 30度を超える真夏日
柔和なお顔をしたお地蔵さまが 中庭に立つ
四百キロを超える 頭でっかちの体躯はご立派

コロナ禍に
負けない笑顔と
優しい言葉で
満ち溢れる職場を
願って建立した

師は 地蔵開眼に祈念して 経を唱える
老男女が 中庭を見渡せる窓越しに席を置き
静かに読経に合わせ 合掌する

師は 浄土真宗の僧侶である
特養ホームの中庭に 
コロナウイルスの収束を願い
和顔愛語のこころを伝える
地蔵を 建立した

施設の利用者も 職員も
和顔愛語のこころを尽くして
終の住処で 安心して過ごせるよう
その願いを 一身に受けたお地蔵さま
御利益は 
一人ひとりのこころに宿る

信じるということは 
自分のいまのあり方を問うことか
信じるということは
ひとの仕合わせを祈ることか
信じるということは
信じる人に救われるということか

コロナ禍で 日々の安寧を祈り
こころ穏やかにして 今日もひとと関わる
こころ安らかにして 今日も家路につく
こころ無にして 今日も手を合わせる

※和顔愛語(わげんあいご):大無量寿経の一節で、その意はうそ、いつわり、こび、へつらいの心を持つことなく、いつも穏やかな笑顔、愛情のある言葉を持って人に接し、相手の意志を先んじて知り、その望みを満たすこと。

〔2020年9月8日書き下ろし。8日地蔵開眼の儀があった。リスクゼロを続ける職員への師の思いを伝える日となった〕

追記/社会変革とソーシャルアクション:「社会を変える」の至言―ワンポイントメモ―

保守的な人も左翼的な思想の持ち主もいる。そこで「君たちは右なのか左なのか」という質問がでました。そのとき、「われわれは右でも左でもない、前だ」と答えたという。「問題の認識」のしかた(フレーム=枠組み)を変えることが、運動にとって重要だという理論がフレーミングです。(小熊英二、下記[1]454、456ページ)

社会とは、結局のところ、人のつながりだ。社会を変えるとは、人のつながりを結びなおすことだ。(小熊英二、下記[2]「帯」)

〇筆者(阪野)は、本ブログの<雑感>(117)2020年9月1日投稿の「ライフ・セキュリティとソーシャルワーク」と題する拙稿の最後で、「ソーシャルワークとソーシャルアクション」について若干ふれた。そこでは、高良麻子の「ソーシャルアクションの実践モデル」(「闘争モデル」と「協働モデル」)の一部を紹介したに過ぎない。
〇この点に関して、山東愛美は、ソーシャルアクションをそのプロセスに基づいて次の二つに類型化している。要求や闘争による「ダイレクトアクション」と交渉や調整による「インダイレクトアクション」がそれである。山東にあっては、その特徴は次の表のようになる。

〇そして山東は、2010年頃から、「ソーシャルアクションが論じられる際には、インダイレクトアクションをイメージすることが増えつつある」。それは、従来のソーシャルアクションとして認識されてきたダイレクトアクションの「完全な変容ではなく、分化・多様化」によるものである。こうした傾向がみられるのは、「地方分権や地域包括ケアなどの制度・政策的背景や、地域を基盤としたソーシャルワークやコミュニティソーシャルワークの台頭などの理論的動向も反映されていると考えられる」、という(山東愛美「日本におけるソーシャルアクションの2類型とその背景―ソーシャルワークの統合化とエンパワメントに着目して―」『社会福祉学』第60巻第3号、日本社会福祉学会、2019年11月、44ページ)。高良のそれとともに、留意しておきたい言説である。
〇いま、筆者の手もとに、社会変革とソーシャルアクションに関する本が2冊ある(しかない)。(1)小熊英二著『社会を変えるには』(講談社現代新書、講談社、2012年8月、以下[1])と(2)木下大生・鴻巣麻里香編著『ソーシャルアクション! あなたが社会を変えよう! ―はじめの一歩を踏み出すための入門書―』(ミネルヴァ書房、2019年9月、以下[2])がそれである。[1]は、「社会を変える」ということについて歴史的、社会構造的、そして思想的に考察したものである。小熊は、「思考や討論のためのテキストブックとして本書を使ってもらえればいい」(513ページ)、という。[2]は、ソーシャルアクションの実践者とその実践者を支援することで間接的にアクションを起こした人々の物語集である。鴻巣は、「あなたのアクションは本の中にはありません。フィールドに出かけましょう」(ⅶページ)、という。
〇本を読んでいると、新たな気づきや学びとともに、“確かにその通りである”(「至言」)という一文に出合うものである。それが読書の魅力や醍醐味でもある。次に、[1][2]から、筆者にとって、「社会を変える」の至言の一文のみをメモっておくことにする(抜き書き、見出しは筆者)。

「参加して何が変わるのか」「参加できる社会、参加できる自分が生まれる」
運動とは、広い意味での、人間の表現行為です。仕事も、政治も、芸術も、言論も、研究も、家事も、恋愛も、人間の表現行為であり、社会を作る行為です。それが思ったように行なえないと、人間は枯渇します。「デモをやって何が変わるのか」という問いに、「デモができる社会が作れる」と答えた人がいました。「対話をして何が変わるのか」といえば、対話ができる社会、対話ができる関係が作れます。「参加して何が変わるのか」といえば、参加できる社会、参加できる自分が生まれます。([1]516~517ページ)

誰もが何かの「当事者」であり、誰もが何かの「非当事者」である
障がい者、引きこもり、被差別部落、貧困、在日外国人、オキナワ、フクシマ、女性、LGBT。誰もが何かの「当事者」であり、誰もが何かの「非当事者」なのだ。私たちを「当事者」と「非当事者」に分断しようとする力に常に抵抗し続け、作られた境界を共に超えていこうとすることが、社会を変えることにつながるのかもしれない。([2]52ページ)

〇日本における「ソーシャルアクション」の実践や研究、それに教育は、「乏しく」「停滞しており」「脆弱である」などと評される。その背景は何か、その問題や原因は奈辺にあるか。「ソーシャルアクション」は、当事者を含む社会福祉運動なのか、ソーシャルワーカーによる援助技術なのか。「ソーシャルアクション」とコミュニティソーシャルワークやアドボカシー(擁護・代弁)の概念との関係性や整合性をどう考えるか。「ソーシャルアクション」におけるソーシャルワーカーの役割や専門性をどこに見出すか。検討すべき残された課題は多い。[1]と[2]は、これらの課題検討のひとつのとば口(入り口)にあるとも言えよう。
〇取り急ぎ本稿を草することにしたきっかけは、本ブログの<鳥居一頼の世語り>(421)2020年9月6日投稿の「おもえ うごけ かんじよう」と題する散文詩の最後の一節にある。「思考せよ~おもえ!/行動せよ~うごけ!/感動せよ~かんじよう!」がそれである。これは、鳥居が一人のヒト(孫娘)に「贈る言葉」であり、「命」「生きる」「人生」のありようを問うものである。それは、「自分を変える」、そして「社会を変える」の至言でもある。

追記(2020年9月10日)
鳥居一頼先生から次のようなメールをいただいた。まさに「至言」である。鳥居先生とのこうしたやり取りは実に楽しく、有意義である。

〇「ソーシャルアクション」の実践と研究に、教育はどれだけ貢献しているのか。特に学校教育は、国家的に承認された文化的・道徳的価値や社会的認識の上に成り立っている公教育機関ですから、そもそも彼ら自身が動くことはありません。組合運動も日和っている現代では、子どもへの働きかけも地域活動への参加も、主体的にする人は希有でしょう。
〇北海道では、高校の教師が6月の学校再開以来、「残業が増えている」とアンケートに答えています。ダラダラとしていても、時間が過ぎれば残業です。処理能力がなくて時間のかかるのも残業です。段取りがしっかりしている者は、多少の残業でクリアできるでしょう。周りを見て残業するフリをするしかない風見鶏も混じっています。それを一色単に「残業」というくくりで、マスコミがさも「やっている」ごとく報道することに苛立ちを覚えます。時間ではなく中身です。もちろん良心的な先生もたくさんいます、きっと。
〇ただ多くの先生は「社会的活動をしてますか」との問にどう答えるでしょう。学校に籠城していては、社会がどう働きかけても、出てこられないですね。大学の教員も内部で権威闘争してるばかりでは、果たしていかがなものかと、いつも感じています。
〇教育の閉塞は、国家による管理統制が強化されたことによる、教員の市民力の低下ないし劣化でしょうか。無作為でいることが、楽なのです。指示されて動けばいいだけです。忙しいフリをしているだけで、いいのです。子どものことを建前にすれば、社会的な面倒さからは逃げられるのです。確かになすべきことが多くなって、処理しきれないところは同情の余地はありますが、「右でも左でもない。その考えすらない」と答えるかもしれません。そんな風潮の中で、子どもを粗末にしてはならないと、自分を見失わぬよう善戦する「変わり者」が、教師の良心を失うことのないようエールを贈りたいですね。
〇ソーシャルワーカー、コミュニティソーシャルワーカーについても、名刺を出されてその肩書きを尋ねると苦笑いされた社協マンがいましたが、その資格に恥じぬよう健闘をただ祈るだけです。さして地域福祉を推進しているとは思えない地域の方でした。資格の肩書き化を促している現状では、そもそも福祉における市民運動の地ならしさえ難しいでしょう。その核にならねばならぬ社協マンの地域福祉への熱い思いを、彼らと市民をつないで、一緒に考え、動き、感じる、指導者との出会いが、いまあまりにも少なすぎるのではないでしょうか。また、多くの研究者は、国や地方の行政の施策の理論的後付けに精を出して、箔を付けようと頑張っています。地域包括ケアシステムの制度化の推進も然りですが、果たしていかがなものかと、横文字の概念づくりに加担するのは、私にはとうてい無理ですし、そもそも見識すらありません。頑張る方々には、全く失礼な私です。
〇社会変革とは自らの生き方を変えることから始まるしかありませんね。そのためには「自らを振り返る力」を、私の身近なひとたちと共に付けていくことに心掛けていくことにいたします。身の程をわきまえながら、できることから、ですね。