「大橋謙策の福祉教育論」カテゴリーアーカイブ

老爺心お節介情報/第26号(2021年6月17日)

「老爺心お節介情報」第26号

〇皆さんお変わりなくお過ごしでしょうか。私の方は、関係する団体の理事会、評議員会も無事終わり、ちょっと一息ついています。
〇それにしても、新型コロナウイルスの件に伴い、関係する団体の研修が軒並み中止、延期、規模縮小で赤字決算になり、頭を痛めています。内閣府が定める公益法人の財務規律では、このような時には対応ができないことを改めて実感しています。
〇社会福祉分野は、“どこかお金は降ってくる”といった認識があり、財源確保や財務関係へのアプローチや研究が弱いと思っていましたが、これからは財源確保や財務関係もきちんと分析でき、その対策も考えられる力量が実践的にも、研究的にも必要だということを再認識しています。その意味でも、前回取り上げた『チャリティの帝国』は必読書で、如何に日本の戦後の社会福祉研究が歪んでいたかが分かる文献です。
〇「老爺心お節介情報」第26号では、日本社会福祉士会のニュースの200号記念に寄稿した拙稿「これからの社会福祉士―地域共生社会政策と社会福祉士の役割」と4月に行った「四国歩きお遍路」の紀行文(後編)を添付しました。お暇な折にご笑覧下さい。関心のある関係者にもご回覧下さい。

Ⅰ 日本社会福祉士会ニュース第200号記念号:拙稿「これからの社会福祉士―地域共生社会政策と社会福祉士の役割」

Ⅱ 大橋謙策「第3回四国歩きお遍路喜寿紀行(後篇)」

 添付資料Ⅰ

添付資料Ⅱ
本ブログ/大橋謙策の福祉教育論:アーカイブ(4)四国遍路紀行文/本文

(2021年6月17日記)

老爺心お節介情報/第25号(2021年6月3日)

「老爺心お節介情報」第25号

〇皆さんお変わりなくお過ごしでしょうか。
〇新型コロナウイルスの件で、私が関わっている財団、社団などの理事会は軒並み書面審査かリモートによる会議で、何か味気ない雰囲気の中で終了しています。今は、我慢の時です。ワクチン接種が進み、少し交流ができるようになることを願うばかりです。
〇この間、私が頂いた資料や本で、皆さんと情報の共有化したいものを挙げます。

Ⅰ 金澤周作著『チャリティの帝国』(岩波新書、2021年5月20日発行)

京都大学教授の金澤周作先生は、2008年に出版した『チャリティとイギリス近代』で、SOMPO福祉財団の文献賞を受賞された方であるが、この度『チャリティの帝国』(岩波新書、2021年5月20日発行)を上梓された。とてもコンパクトにイギリスのチャリティの歴史、概要についてまとめられているので必読文献の1つである。

私は、ご恵贈賜ったお礼の手紙に次のようなことを記した。
(金澤先生への礼状の一部)
私は、戦後日本の社会福祉研究は憲法第89条の規定に制約され、イギリスの行政と住民のボランティア活動との関係を巡る研究が不十分だったことを指摘してきました。また、そのイギリスのボランティア活動の一番大きなものはチャリティ、金銭のボランティア活動、それも遺贈だと言ってきました。
私は、1980年代から日本には「寄付の文化」がなく、あるのは互助組織における冠婚葬祭での金銭授受であり、かつ神社仏閣への寄進であり、社会に対する、見ず知らずの人への寄付文化は育っていないと指摘し、それを変えなければ、日本の社会福祉は発展しないと言い続けてきました。
更には、1992年にイギリスで1601年に制定された「Statute of Charitable Uses 」(チャリティ用益法、P66)の存在を知り、COの事務局でその原典に触れ、大変驚きました。また、その考え方が1960年の チャリティ法や、その1992年の大改正法にも引き継がれていることに驚き、イギリスの歴史の重みを感じました。その後、日英米3か国の共同募金や寄付の文化について調査研究し、日本の社会福祉はイギリスのCAFにもっと学ぶべきと言ってきましたが、相変わらず日本の社会福祉研究は行政依存型です。
そんな日本の社会福祉研究者に金澤先生のご労作である『チャリティとイギリス近代』を読むように言ってきましたが、その内容がこのようにコンパクトにまとめられたことは嬉しい限りです。多くの人に読んでもらい、イギリスの学び方を変えてもらえればと願うばかりです。

Ⅱ 自閉傾向の強い障害者のターミナルケア(『嬉泉の新聞』第83号より)

日本社会事業大学教授であった故石井哲夫先生が、故須藤理事長と力を合わせて設立した社会福祉法人嬉泉の機関紙『嬉泉の新聞』第83号に、我々が改めて考えなければならない記事が掲載されており、とても感動した。
故石井哲夫先生のご子息で、現在、社会福祉法人嬉泉の理事長をされている石井啓氏が「自閉傾向のある人のターミナルケアを考えるーーインフォームド・コンセントの大切さー」と題して、また袖ケ浦ひかりの学園園長の松田香さんが「利用者の終末期に寄り添うーー実践を通して、援助者として思ったこと、感じたこと」を、「自分らしく生きるために」と題して、袖ケ浦ひかりの学園の鈴木雅士さんが執筆している。
袖ケ浦ひかりの学園に入園していた52歳の女性で、“自閉症のある方で、非常に拘りが強く、知的な遅れもあり、コミュニケーションをとることの難しい、いわゆる重度の方”が、定期健診で末期がんが見つかり、看取るまでの過程が記述されている。
障害のある方でも、自分らしく生きることを理念として掲げている社会福祉法人嬉泉が、家族と協働して、“がん告知”をし、延命治療をせずに、死の直前まで自らの拘りの行動、表現をされていた方を看取った記述が綴られており、大変感動した。

Ⅲ 『ICFの視点に基づく自立生活支援の福祉用具』(伊藤勝規著、中央法規、3300円)

日本社会事業大学の学部卒業生である伊藤勝規さんが描いた本です。ICFの視点に基づくマネジメントの重要性と必要性を非常にわかりやすく書いています。この本は、日本社会事業大学社会福祉学会の木田賞に選ばれました。

Ⅳ シルバー産業新聞の4月版、5月版に連載した原稿を添付しておきます。

(1)シルバー産業新聞の4月版
「求めと必要と合意に基づく支援」

(2)シルバー産業新聞の5月版
「家族・地域の介護力、養育力の脆弱化とソーシャルサポートネットワークの必要性」

添付資料(1)
シルバー産業新聞連載記事第4回

「求めと必要と合意に基づく支援」

福祉サービスを必要としている人々への支援において、よほど気を付けないと無意識のうちに“上から目線”の世話をしてあげるというパターナリズムになりがちになる。
福祉サービスを必要としている人はさまざまな心身機能の障害や生活上の機能障害において要介護、要支援の状態に陥っているので、ついつい福祉サービス従事者はその機能障害を改善、補完するために“いいことをしてあげる”という意識になりがちである。それは、一見“善意”に満ちた行為として考えられがちであるが、福祉サービスを必要としている人の意思や主体性を尊重しての“誠意”ある行為といえるのであろうか。
また、福祉サービスを必要としている人で、家族と同居している人の場合には、福祉サービスを必要としている人本人の意思よりも、同居している家族が自分の“思い”、“願い”を福祉サービス従事者に話され、その家族の希望が優先され、ややもすると本人の意向や意思は無視されがちになる。ましてや、福祉サービスを必要としている人は、日常的に同居している家族に普段から迷惑をかけているからという“負い目”もあり、家族に遠慮して、自分の意向、意思を表明しない場合が多々ある。
イギリスのブラッドショウは1970年代に、住民の抱える生活上のニーズを4つに類型化(①本人から表明されたニーズ、②住民は生活上の不安や不満、生活のしづらさを抱えているが表明されていないニーズ、③住民は気が付いていないか、表明もしていないが専門職が気づき、必要だと考えられるニーズ、④社会的にすでにニーズとして把握され、対応策が考えられているニーズ)した。この類型化されたニーズにおいて、日本の社会福祉分野において気を付けなければならないニーズ把握は、②の住民の生活上様々なニーズがあるにも関わらず気が付いていないか、自覚しておらず、表明されていないニーズである。
日本の“世間体の文化”、“忖度の文化”、”もの言わぬ文化”に馴染んで生活してきた国民は、自らの意思を表明することや自らの希望や願いを表明することに多くの人が躊躇してしまう。したがって、本人が自分の意見や気持ちを表明しないのだからニーズがないのだろうと解釈するととんでもない間違いを起こすことにもなりかねない。それらのニーズは潜在化しがちで、対応が遅れることになる。
一方、専門職が気づき、必要と判断するニーズにおいても、社会生活モデルに基づくアセスメントやナラティブに基づく支援方針の立案が的確に行われていればいいが、上記したようなパターナリズムでのアプローチをしている場合には専門職の判断が必ずしも妥当であると言えない場合が生じてくる。
イギリスでは、1990年の法律により、福祉サービスを提供する際には、その援助方針やケアプラン及び日常生活のスケジュール等を事前に本人に提示し、本人の理解を踏まえて提供することが求められるようになったが、2005年の「意思決定能力法」ではよりその考え方を重視するように法定化された。
日本の民法の成年後見制度や社会福祉法の日常生活自立支援事業は福祉サービスを必要としている人が自ら意思決定できないことを前提にして制度設計されているのと違い、イギリスの「意思決定能力法」は日本と逆の立場を取っている。
「意思決定能力法」は①知的障害者、精神障害者、認知症を有する高齢者、高次脳機能障害を負った人々を問わず、すべての人には判断能力があるとする「判断能力存在の推定」原則を出発としており、②この法律は他者の意思決定に関与する人々の権限について定める法律ではなく、意思決定に困難を有する人々の支援のされ方について定める法律であるとしている。その上で、➂「意思決定」とは、(イ)自分の置かれた状況を客観的に認識して意思決定を行う必要性を理解し、(ロ)そうした状況に関連する情報を理解、保持、比較、活用して (ハ)何をどうしたいか、どうすべきかについて、自分の意思を決めることを意味する。したがって、結果としての「決定」ではなく、「決定するという行為」そのものが着目される。意思決定を他者の支援を借りながら「支援された意思決定」の概念であるとしている。(註)
日本だと、“安易に”、あの人は判断能力がないから、脆弱だから“その意思を代行してあげる”ということになりかねない。言語表現能力や他の意思表明方法を十分に駆使できない障害児・者の方でも、自分の気持ちの良い状態には〟“快”の表情を示すし、気持ち悪ければ“不快”の表現ができる。福祉サービス従事者は安易に“意思決定の代行”をするのではなく、常に福祉サービスを必要としている人本人の意思、求めていることを把握することに努める必要がある。
その上で、本人が自覚できていない人、食わず嫌いでサービス利用の意向を持てていない人に対し、専門職としてはニーズを科学的に分析・診断・評価し、必要と判断したサービスを説明し、その上で、両者の考え方、プランのあり方を出し合って、両者の合意に基づいて援助方針、ケアプランを作成することが求められている。(2021年3月12日記)

(註)菅冨美枝「自己決定を支援する法制度・支援者を支援する法制度――イギリス2005年意思決定能力法からの示唆―」法政大学大原社会問題研究所雑誌No822、2010年8月所収。

添付資料(2)
シルバー産業新聞連載記事第5回

「家族・地域の介護力、養育力の脆弱化とソーシャルサポートネットワークの必要性」

戦後日本の社会福祉問題は、1970年頃を境に大きく変質する。1960年代末から1970年代にかけて、「新しい貧困」という考え方が登場する。
従来の貧困は、経済的貧困であり、労働経済学的視点に基づく対応策が考えられ、ほぼ金銭瀬的給付をすれば問題は解決できると考えられていた。そのような中で、江口英一は「不安定就業層」という新しい考え方を提示し、労働者世帯の生活の不安定さは労働経済的対応策だけでは不安定な生活の問題解決につながらず、地方自治体における様々な対人援助サービスの整備が必要であることを指摘した。1970年頃“ポストの数ほど保育所を”というスローガンの下に、保育所増設運動が全国各地で台頭したのはその一つの現れである。
また、金銭的給付では解決できない「新しい貧困」への対処も求められるようになってくる。農業中心の時代には、家族も多世代同居家族であり、地域においても農業を通じての地縁・血縁関係が豊かにあり、様々な生活問題があってもそれらへの対処は家族や近隣での助け合いの中で問題解決が行われ、行政による社会的対応策が求められなくても済んだ。
しかしながら、急激な工業化、都市化、核家族化の進展により、家族構成員の抱える生活問題への対処力が脆弱化していく。
第1には、家族の構成員が抱える様々なショックをやわらげ、慰め、励ます機能が家族形態の変容と核家族化することにより脆弱化していく。人間は弱い動物であり、日常的に受けるショックを和らげてくれる機能や慰め、励ましてくれる機能が身近になければ一人で対処することは大変なことである。筆者は、家族構成員が受けるショックを和らげ、慰め、励ましてくれる機能を自動車の乗り心地の良さを左右するショックアブソーバー(衝撃緩衝装置)にたとえ、家族が持っていたショックアブソーバー機能が脆弱化することにより、家族とその構成員の精神的不安定さと生活問題対処力の脆弱化が増大していることを指摘した。離婚が増え、一人親家庭が増大していくと、家族のショックアボソーバー機能は家族内にはほとんどなくなり、かつ社会的にも“支援”がなく、孤立していく。また、それとともに精神疾患の増大も深刻化していく。
第2には、急激に核家族化されたことにより、親の世代から引き継ぐべき生活文化、生活様式、生活習慣といったものの“世代間継承”ができず、生活力の弱い核家族が増えることになる。塩月弥栄子の『冠婚葬祭入門』が1971年に刊行され、ベストセラーになったのも、松田道雄等の『育児書』が刊行され、重宝されたのも、この生活文化、子育ての文化の“世代間継承”が断絶したことの一つの証左であろう。高度経済成長に必要な労働力として、“金の卵”として全国から集められた中卒集団就職者にとっては、自らの生活力を豊かに育む生活環境を持てず、厳しい生活にさらされる。
福祉事務所で生活保護業務を担当する現業員らによる調査で、生活保護世帯への救済策として金銭的給付では解決できない「新しい貧困」、“生活力“の脆弱さが指摘された。
第3には、急激な都市化、工業化の中で、住居の移動も激しく、近隣関係を構築できない、地域コミュニティを形成できない中で、多くの住民が日常的に触れ合える、支え合える近隣関係、人間関係を持てずに暮らすことになる。
2015年に施行された「生活困窮者自立支援法」は、まさにこれらの「新しい貧困」問題への対応策であり、かつ2016年から推進されている地域共生社会政策はよりその対応策を強化しようとするものである。
それは、福祉サービスを必要としている人が地域において、孤立することなく、排除されることなく“社会参加”できるようにしようとするもので、日本でもイギリスと同じように、“孤立・孤独問題担当大臣”を任命せざるを得ないほど地域においてソーシャルサポートネットワークを持てずに孤立・孤独に陥っている人々の問題は深刻化している。
地域生活している単身高齢者や単身障害者の数はますます増大しており、それらの人々への支援には、介護保険サービスや障害者サービスを“点と点を結ぶ”方式で提供しても解決できない問題が数多くあることが指摘されている。
民法の成年後見制度や社会福祉法に基づく日常生活自立支援事業もあるが、それだけでは解決できない様々な生活上の支援が必要とされている。入退院時の保証人制度や庭木の手入れ等の住宅管理保全、ゴミの分別と廃棄、看取り、死後対応事務(火葬許可書の名義、葬儀の扱い、遺骨の取り扱い)等、既存のサービスにない日常生活支援サービスが必要になっているが、それとともに重要なのが孤立・孤独問題である。
従来の家族、地域が有していた生活支援に“幻想を抱かず”、それとは別に、新たなソーシャルサポートネットワークを構築することが求められている。悲しい時に慰めてくれる人、嬉しい時に一緒に喜んでくれる人など情緒的にサポートしてくれる人の存在、生活上のちょっとした困りごとを手伝ってくれる人の存在、日々変わる日常生活上の制度などについて情報を教えてくれる人の存在、一人の人間としての尊厳を守り接してくれる人、人間として評価してくれる人の存在という4つのソーシャルサポートネットワークの機能が地域自立生活にはとても重要で、その機能の構築が地域共生社会政策として不可欠である。

(註)J・S・Houseの4つの機能、『支えあう人と人』浦光博著、サイエンス社、1992年参照。

(2021年6月3日記)

老爺心お節介情報/第24号(2021年5月2日)

「老爺心お節介情報」第24号   

〇皆さんお変わりなくお過ごしでしょうか。新緑が目と心を癒してくれる季節になりました。
〇私は、この4月2日から、昨年、新型コロナウイルスに伴う緊急事態宣言発出により中断を余儀なくされた「四国歩きお遍路」を再開しました。4月3日に高知県37番札所岩本寺から歩きはじめ、4月28日に88番札所大窪寺を打ち、無事結願しました。その後、徳島から和歌山へフェリーで渡り、高野山奥の院に詣で、4月30日夕刻に帰宅しました。
〇26日間に亘るお遍路は、721キロ、1030941歩で、一日平均27・8キロ、39652歩の行程でした。出発時の体重が71・4キロ、体脂肪率が19であったのが、帰宅後は体重が68・7キロ、体脂肪率15でした。
〇今回のお遍路は、ある意味、四国4県の市町村社会福祉協議会への行脚でもありました。高知県社会福祉協議会、高知市社協、津野町社協、土佐清水市社協、宿毛市社協、宇和島市社協、今治市社協、観音寺市社協、丸亀市社協、善通寺市社協、香川県社協を訪問し、関係者と懇談をしたり、資料をお渡ししたり、定年退職した職員と懇談する等の交流をしてきました。
〇皆さん、新型コロナウイルスの件もあり、十分な時間も懇親の機会も持てない中でしたが、当初の目的の一つは遂行できたかなと思っています。いずれ、「四国歩きお遍路喜寿紀行の後編」としてまとめたいと思います。
〇留守の間、受領した郵便物を5月1日に整理していて、皆さんに情報提供しておいたほうがいいと思われるものを下記に列挙しました。参考にして頂ければ幸いです。

Ⅰ 東日本大震災関係資料

①「災害福祉支援ネットワーク、DWATの実態把握、課題分析及び運営の標準化    に関する調査研究事業」富士通総研・行政経営グループ
②「東日本大震災宮城県民100の提言」宮城県サポートセンター支援事務所
③「令和2年度東日本大震災被災者実態調査研究報告書」岩手県社会福祉協議会
④「東日本大震災に伴う生活支援相談員活動事例集2020」岩手県社会福祉協議会
⑤『岩手県における生活支援相談員の活動と地域福祉』山崎美喜子・山下興一郎、岩手県社会福祉協議会共編、中央法規
⑥『地域福祉から未来へー社協職員が向き合った3・11』
『地域福祉から未来へ2―社協職員が歩んだ10年』原田正樹編著、全国コミュニティサポートセンター発行

Ⅱ 新型コロナウイルスに伴う生活福祉資金「特例給付」関係資料

①「兵庫県内社協・新型コロナウイルス感染拡大に伴う生活福祉資金特例貸付レポート2020」兵庫県社会福祉協議会

(2021年5月2日記)

老爺心お節介情報/第23号(2021年3月25日)

「老爺心お節介情報」第23号

〇桜の季節なのに、気分は今一つすっきりしない閉塞感のある日々ですが、皆さまお変わりありませんか。
〇人事異動の季節で、ちらほら聞こえてきますが、もし変更があったら教えてください。
〇 例によって、「老爺心お節介情報」第23号を送ります。
〇くれぐれもご自愛の上ご活躍下さい。

Ⅰ 地域福祉実践現場で行われる講演・研修の「講師」の立ち位置と地域福祉研究者の「バッテリー型研究」を行う必要性

私は、1960年代、東京都三鷹市で中卒青年等を対象とした青年学級の講師を約10年間担当した。その際に、青年たちから投げかけられた言葉はいまでも忘れられないし、忘れてはいけないと“自虐”的と思えるほど意識して研究者生活をしてきた。
その言葉は“あなたたちが大学院に進み、研究できているのは我々の税金があるからではないのか。我々は、勉強したくても家が貧困で高校へも行けなかったし、大学へも行けなかった。だから、この青年学級で学んでいる。あなた方の奨学金も我々の税金で賄われているのではないのか。そいうことを考えてあなたは生活し、研究しているのかという”問い掛けであった。
当時は、東大紛争もあったりして、このような言葉がだされたのだと思うが、この言葉は自分にとって大変身に堪えた。そうでなくても、日本社会事業大学を進路として選択する際に、そのような考えを自分でしていたものの、直接、面と向かって、このような言葉を投げ掛けられると身に堪えた。それ以来、ディレッタンティズム(もの好き)で研究するのではなく、社会に貢献できる研究者になろうと誓った研究生活であった。
そんなこともあり、私は講演や研修を依頼されると、常に参加者にどのような“お土産”を持って帰ってもらうのか、参加してよかったと思える“成果”をどう提供できるのかを考えてきた。
また、講演や研修等の頂いた機会にその地域、その組織、その自治体から何を自分が学ぶかということを常に考えてきた。それは自分自身の学びであると同時に、参加者への“お土産”の素材を掴むことにもつながっていた。
その際の私の姿勢として、自分が学んだことや自分が知っている情報を“分かち与える”という、ややもすると“上から目線”になりがちな“教える”ということではなく、参加者がこれから考える糸口、課題を整理し、学びへの関心、興味を引き出せるような契機になればということを常に意識してきた。それは、言葉で優しく言うとか、言葉で励ますとかいうことではなく、参加者が主体的に考え、行動に移したいと思えるような問題の整理と課題の提起を志すことであった。
一方、私は1985年1月に『高齢化社会と教育』を室俊二先生と共編著で上梓した。それに収録された論文の中で、生涯教育、リカレント教育、有給教育制度等に触れながら、これからは高学歴社会と高度情報化社会が到来し、従来のような知識“分与”的、情報伝達的教育や研修は変わらざるをえないことを指摘した。
今、文部科学省はアクティブラーニングの必要性をしきりに強調しているが、それはかつて社会教育が青年団を中心に提唱してきた「問題発見・問題解決型協働学習」で言われてきたことと同じである。
このような状況のなかで、地域福祉研究者は、気軽に“地域づくり”、“地域共生社会”づくりというが、どのような立ち位置で研究し、どのような立ち位置で講演や研修に臨んでいるのであろうか。
他方、筆者は地域福祉実践をしている現場の方々と“バッテリーを組んで”、その地域、その自治体、その社会福祉協議会をフィールドにして研究を行ってきた。そして、その研究は一時的なものではなく、長期に亘り、継続的に関わることによって行われるべきものだと考えてきた。
地域に住んでいる住民は、移転、移住しようにも、先祖伝来の土地、「家」のしがらみの中で生きており、気軽に移動できない状況を十分理解しないままに、外部から入り、外部の目線で“気軽に”地域づくりを言い、短期で関わりを切ってしまう研究方法は、あたかも住民の方々を弄ぶかのように思えていたからである。
筆者は、1970年に現在の東京都稲城市に移住し、地域活動を始めたが、それ以降、よほどのことが無い限り、この稲城市を離れることをしまいと決意を固めた。“地域づくり”を言うということは、それだけの重みのある取組であるべきだし、そうでないと住民の方々は納得してくれないと思ったからである。現に、そのような指摘は各地で幾度も聞いたし、聞かされてきた。
そんなこともあり、“バッテリーを組めた地域”には、長い地域では40年間のお付き合いをさせて頂いている地域もある。
ところで、このような文章を書いたのは、まさに「老爺心お節介」の最たるものかもしれないが、最近目にする論文等を読んでいて、研究者自身の立ち位置を明確にしないままに、取り組まれている実践を評価、紹介しているものが多く、地域福祉研究者として“一種の研究倫理”に抵触しているのではないかと思う論文を散見するからである。全国のいい実践は、大いに紹介し、情報共有化がおこなわれてほしいが、その場合でも紹介なのか、評論なのか、自分の学説の論証に使うのか等その位置づけは明確にしてほしいものである。しかも、その実践のアイディアは誰が出したのか、参与観察をするならばどういう立ち位置で行うのかを明確にする必要がある。最近、政治学の分野で「オーラルヒストリー研究法」が活用されているが、ある政策、ある実践がどういう形で企画され、政策化されていくのかを、その過程の力学も踏まえて研究が進められている。地域福祉研究においても、同じような研究の枠組みを作る必要があるのではないかと考え、この拙稿を書いてみた。

Ⅱ 「シルバー産業新聞」連載3月号添付

Ⅲ コミュニティソーシャルワーク研修モデルプログラムと関係シート添付

# このプログラムの整理には、富山県地域福祉部魚住浩二さんにご尽力頂いた。

Ⅳ 市民福祉教育研究所を主宰している阪野貢先生(元中部学院大学教授)が開設しているブログに「大橋謙策の福祉教育論」のコーナーが開設されたそうです。興味のある方は検索してください。

添付資料
シルバー産業新聞連載記事第3回

「ナラティブ(人生の物語)を大切にする自立支援」

筆者は、1970年頃から、社会福祉学研究、社会福祉実践において労働経済学を理論的支柱にした経済的貧困に対する金銭給付と憲法第25条に基づく最低限度の生活保障の考え方では国民が抱える生活問題の解決ができず、新たな社会福祉の考え方が必要であると考え、提唱してきた。
筆者が考える社会福祉とは、その人が願うその人らしさの自立生活が何らかの事由によって阻害、停滞、不足、欠損している状況に対して関わり、その阻害、停滞、不足、欠損の要因を除去し、その人の幸福追求、自己実現を図れるように対人援助することだと考えた。
その場合の“自立生活”とは、古来から“人間とは何か?”と問われてきた課題を基に6つの要件(ⅰ)労働的・経済的自立、ⅱ)精神的・文化的自立、ⅲ)身体的・健康的自立、ⅳ)生活技術的・家政管理的自立、ⅴ)社会関係的・人間関係的自立、ⅵ)政治的・契約的自立)があると考えた。と同時に、それらの6つの「自立生活」の要件の根底ともいえる、その人の生きる意欲、生きる希望を尊重し、その人に寄り添いながら、その人が望むナラティブ(人生の物語)を一緒に紡ぐ支援だと考えてきた。
戦前の生活困窮者を支援する用語に「社会事業」という用語がある。この「社会事業」には、積極的側面と消極的側面とがあるといわれてき、その両者を統合的に提供することの重要性が指摘されていた。積極的側面とは、その人の生きる意欲、希望を引き出し支えることで、消極的側面は生活の困窮を軽減するための物質的援助のことを指していた。消極的側面は、気を付けないと“人間をスポイルする”危険性があることも懸念していた。
現在の民生委員制度の原型を1918年に大阪で創設した小河滋次郎は、“その人を救済する精神は、その人の精神を救済することである“として、「社会事業」における積極的側面を重視した。しかしながら、戦後の生活困窮者を支援する「社会福祉」は積極的側面を実質的に“忘却”してしまい、物質的援助をすれば問題解決ができると考えてきた。
憲法第25条の最低限度の生活保障では消極的側面の対応でよかったのかもしれないが、憲法第13条に基づく幸福追求の支援ということでは、高齢者のケアであれ、障害者のケアであれ、生活困窮者の支援であれ、その人が送りたい“人生”、その人が願う希望をいかに聞き出し、その人の生きる意欲、生きる希望を支え、伴走的に支援していくことが求められる。
従来の社会福祉学研究や社会福祉実践では、「療育」、「家族療法」、「機能回復訓練」などの用語が使われており、その人らしさの生活を尊重し、支援するということよりも、ややもすると専門職的立場からのパターナリズム的に“問題解決”を図るという目線に陥りがちであった。
また 従来の社会福祉学や社会福祉実践では、よくアブラハム・マズローの「欲求階梯説」が使われが、この考え方も気を付けないといけない。アブラハム・マズローがいう生理的欲求、安全の欲求、愛情と所属の欲求、自尊と承認の欲求、自己実現の欲求の6つの欲求の項目の意味は重要であるが、それらの項目において、下位の欲求が満たされたら上位の欲求が生じるという“欲求階梯説”はどうみてもおかしい。人間には、自ら身体的自立がままならず、他人のケアを必要としている人であっても、当然その人が願うナラティブ(人生の物語)があり、それを自己実現をしたいはずである。
その際、福祉サービスを必要としている人自らが自分の希望、欲求を表出できるとは限らない。福祉サービスを必要としている人の中には、さまざまなヴァルネラビリティ(社会生活上のさまざまな脆弱性)を抱えている人がおり、自らの願いや希望を表出できない人がいる。更には、障害を持って生まれてきたことで、多様な社会体験の機会に恵まれず、一種の“食わず嫌い”の状況で、何を望んだらいいのかも分からない人という生活上の“第2次障害”ともいえる状況に陥っている人もいる。このような人々の場合には、その人の“意思を形成する”ことに関わる支援も必要になってくる。
まして、福祉用具のような、新しい領域では、どの福祉用具を使用したら、自分の生活がどのように変容するのかのイマジネーション(想像性)をもてない人がいる。そのような人々に対し、イマジネーションがもてるようにし、新たな人生を作り出すクリエーション(創造性)機能も重要な支援となる。
従来の社会福祉実践は、福祉サービスを必要としている人の「できないことに着目し、それを補完する目的で、してあげるケア観」に陥りがちであった。幸福追求、自己実現を図るケア観に立つと、福祉サービスを必要とする人の「できることを発見し、それを励ますケア観」が重要になる。
社会福祉実践は、その人の生育歴におけるナラティブ(narrative:身の上話、経験などに関する物語)に着目し、その人が望む人生を創り上げるナラティブ(出来事などに関する物語、語ること)に寄り添い支援することが求められている。(2021年2月14日)

(2021年3月25日記)