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阪野 貢/「時間」と「空間」の座標・尺度で「生きる」ということについて考えるために―建築家・内藤廣の「ちから」3部作に学ぶ―

〇稚拙で荒っぽい思考であるが、筆者(阪野)は過日、「時間」と「空間」の座標や尺度のなかに我が身が存在しない、というような体験をした。全身麻酔(一時的な昏睡)による手術である。麻酔が切れたその時、眠りから覚めた(覚醒)という感覚は一切なかった。そこに存在したのは「死」であったのであろうか。それ故に、我が身の「生」(あえて言えば「生き抜く力」)の「時間」と「空間」について考えることが求められる。本稿を草することにしたひとつのきっかけであり、思い(想い)である。
〇筆者の手もとにいま、「文章を書く建築家」のひとりである内藤廣(ないとう・ひろし)の本が3冊ある(しかない)。(1)『建築のちから』(王国社、2009年7月。以下[1])、(2)『場のちから』(王国社、2016年7月。以下[2])、(3)『空間のちから』(王国社、2021年1月。以下[3])、がそれである。編集者の思いによる3部作であるが、そこにはその時々の信条や心象を言葉にした、哲学的で、専門的知識に裏打ちされた玉稿が収められている。それ故に、洞察の深い文章は筆者にとって難解である。
〇内藤は、[1]で「建築の本懐(本意)は、その誕生にあるのではなく、その後、時代と共に生きていく時間の中にこそある」(18~19ページ)。「大衆が心から望むものと建築家が実現しようとするもの、そのベクトルが一致する時、建築は街を変え、人びとを変えていく力となる」(20ページ)、と説く。[2]で「建築の依って立つところ、それは大地だ。大地とその場所に生きる人間だ」(12ページ)。いま、建築という価値が大きく毀損(きそん)され、本質的な意味で「建築の冬の時代」(12ページ)が到来しつつある。そんななかで必要とされるのは、「場所の持っている内在的な力、人を生かしめる内発的な力」(20ページ)である「場のちから」であり、それを全身で受け止めるような体験である(12ページ)、という。 [3]で「空間の本性は、『和解の場』のことなのかもしれない」。「建築や環境が内包する空間とは、(「人と自然」、「生と死」、「過去と未来」、「復興と街造り」など)全てのものが流れ込み、もつれあい、そしてその和解を用意する場のことなのではないか」(34ページ)、と問う。そして、建物の空間や街の空間を豊かなものにするのは、可能な限り「時間が生まれ育っていくような空間」をつくることだけである(236ページ)、と言い切る。
〇3冊の本に通底する基本的な言説のひとつは、次のようなものである。すなわち、「建築」(architecture)は「人間」の「身の置き所」([3]206ページ)を「構築する意志」であり、「建物」(building)はそのための道具、具体的なモノである([3]232~233ページ)。大切なのは(守るべきは)、「空間」と「時間」によって織りなされている「建築」という名の意志である。本来の建築の価値は、「人の生きる長さを越えて何事かを伝える」([3]5ページ)ところにあり、メッセージを伝えることによって建築は生命を与えられる。その際の(本当の)価値は、「生み出すものではなく、生まれてくるものであり、なおかつきわめて個人的なもの」([3]89ページ)である。
〇そして、内藤にあっては、建築について自分の思考を磨き、建物が生み出された内実について(技術や経済や制度の側から)説明すめためには、言葉の助けが必要となる。「文章を書く」ひとつの所以でもある。内藤はいう。「建物を建てる際の現実的な体験は、建築に対する思い込みに修正を迫る。現実と思考、そのやりとりの試行錯誤が言葉になり文章になる」。「建築と文章とは切っても切れない関係にある」([1]82ページ)。
〇本稿では、[1][2][3]における論点や言説から、例によって我田引水的であるが、「まちづくりと市民福祉教育」に関して「使える」であろう・留意したい一文をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

『建築のちから』
「建築の力」は空間や時間と人びととの開放的な共感のなかに現れる
われわれは、建物の完成にこだわり、品質にこだわり、意図したものができ上がる作品性に神経質になり、その結果、いちばん大切なことを見失ってはいまいか。社会制度の命ずるところ、資本主義経済が望むところ、そうしたものに対する律儀さが建物の質に無意識のうちに現れているのなら、人びとは建物から距離を置くだろう。なぜなら、建物が社会や資本に顔を向けて、人びとに背を向けているからだ。
「建築の力」(建築のなかに生まれてくる価値:阪野)はそういうところには現れない。「建築の力」は人びととの共感の中に現れる。それは、発注者、建設関係者、設計者、住民、不特定多数の人びと、よりよい社会を目指すそうした人たちの運動体、そうしたものの中で初めて兆(きざ)すはずだ。そのためには建築という価値は「完結的」であってはならない。開かれていなければならない。空間的に開かれている、あるいは時間的に開かれている必要がある。いちばん望ましいのは「空間にも時間にも開かれている」ということだ。そう誰もが感じられるような状況となった時、「建築の力」は熱湯がいきなり泡立つように内側から湧き上がってくる。([1]19ページ)

建築には空間に身を置き時間のなかに生きる人間に対する洞察が不可欠である
おそらく建築の中には、「わかりやすい価値」と「わかりにくい価値」が存在する。「わかりやすい価値」はわかりやすいのだから容易に広まる。([1]233ページ)
一方、「わかりにくい価値」は伝わりにくいから、いくら声を大にしてもなかなか広まらない。建築に時代を超えていく本質的な生命力というようなものが存在するとしたら、それはこの中にしかない。多くの場合、「わかりにくい価値」は空間の中にある。空気の肌触り、陰影の深さ、音、匂い、そうした目に見えない空間の質に価値の重点が置かれた場合、そこに表現されたもの、建築家が精魂込めて託したもの、それはきわめて高度でわかりにくいものになる。その空間に身を置き、時を過ごし、体験しなければわからない。メディアも写真家もこうした価値には不親切であり続けた。
しかし、このあり方は、誰にでも開かれているわけではない。これを現実のものとするには、才能が要る。たくさんの要素を同時に想像し、それを空間の中に結び合わせなければならないからだ。経験と直観が必要なことはいうまでもないが、それが一級のものになるためには、何より、その空間に身を置く人間というものにたいする深い洞察が不可欠で、それだけのものを身につけた建築家はめったにいない。([1]233~234ページ)

『場のちから』
建築は空間の「湿り気」・人の感情の総体と向き合わなければならない
モダニティ(近代性、近代的なもの:阪野)は、わたしたちの身の回りを覆い尽くしつつある。それは、世界的な経済構造や社会構造と連動して、いまだに生活の隅々にまで浸潤し続けている。便利さ、明るさ、速さ、安さ、そしてなによりわかりやすさ、この力には抵抗し難いものがある。しかし、人という存在は、それだけでは遥(はる)かに足りない。人の感情を受け止め、人が尊厳を保持しうる空間とは、そんなものに支配された空間ではないはずだ。
モダニティがもたらす空間は何故か乾いている。現代建築も乾いている。雑誌で目にする様々な作品には、明らかに「湿り気」が欠落している。([2]123~124ページ)
空間に「湿り気」を求めたい。ここで言う「湿り気」とは、感情の襞(ひだ)や心の陰影を受け止める空間の質のことだ。([2]124ページ)
建築という価値も、本来はそうした人の感情に生起する様々な質に内包すべきである。そのためには設計は、喜び、夢、希望、愛着、悲しみ、打算、矛盾、裏切り、葛藤、追憶、といった人の感情の総体と向き合わねばならないだろう。この態度は設計者に多大の忍耐を強いるが、結果として、出来上がる空間に「湿り気」をもたらすはずだ。この困難さに耐えることは、それ自体が「建築に感情を取り戻すための戦い」なのだ。([2]124ページ)

都市計画は終わりも完成もない物語(物語ること)のプロセスである
誰であれ志のある都市計画家を思うとき、その職業の難しさと悲しさを思わずにはいられない。彼らは100年を夢想し、理想を思い描き、今日の日常的な無理難題を扱う。それでいて、都市の時間に終わりのないこともよく知っている。華々しくテープを切るようなゴールなどない。すなわち、すべてはプロセスであって、目の前の現実は過ぎ去る一側面でしかない。そのことを誰よりも熟知している。また同時に、自らが夢想する未来もまた過ぎ去る一側面でしかないことも知っている。人間のそして人間社会の性(さが)を嫌というほど見ながら、それでも社会の改良を諦めない。都市計画家とはそういう存在なのだ。難しさと悲しさが浮かぶのはそれ故だ。([2]183ページ)
終わりのない都市の物語は、たとえそれがプロセスであったにせよ、そして、それがたとえ見果てぬ夢であったとしても、空間デザインを旋律(メロディー)に、そして社会システムを通奏低音に、より美しい韻律(リズム)を奏でることが出来るはずだ。ソフトウェアとはその韻律のこと。その韻律にこそ人間社会の希望がある。([2]186ページ)

『空間のちから』
建築は「つまらなくて価値のあるもの」「生き生きと生きる」を価値の中心に据える
建築が本来担わなければならない長い時間からすれば、「面白さ」は初期に求められる付加的な要素に過ぎない。([3]83~84ページ)
建築に「面白さ」を求めることは危険だ。一発芸と同じで、「面白さ」は一時もとはやされるが、すぐに「時代遅れ」になる。「面白さ」があったにしても、それはやはり建築の原理原則に適ったものでなくてはならないはずだ。しかし、それはそうたやすく手に入る類のものではない。昨日目新しく話題になった建物が、見る間に日常風景の中に飲み込まれ、忘れ去られていく様をいくつも見てきた。だから、「面白さ」を建築という価値の中心に据えていいはずがない。
世の中の公共建築を見渡してみると、「面白くて価値のないもの」ばかりが目立つようになってきている。そこで、逆説的なようだが、あえて「面白さ」を捨てて、「価値のあるもの」を目指してはどうか、また、多くの人が「生きること」、「生き生きと生きること」を価値の中心に据えてはどうか。
「面白さ」はわかりやすく、それ故伝わりやすいから流布しやすく、それ故に容易に消費されていく。とかく人の心は飽きやすい。それに対して、建築的体験の中に留まるような「わかりにくさ」は言葉になりにくい。それ故、伝わりにくい。この矛盾を乗り越える必要がある。([3]84~85ページ)

〇ここで、評論家・加藤周一(1919年~2008年)の『日本文化における時間と空間』(岩波書店、2007年3月。以下[4])を思い出す。加藤はいう。日本文化のなかには3つの異なる「時間」が共存している。①(『古事記』にみられる時間のような)始めなく終りない直線=歴史的時間、②(四季を中心とした)始めなく終りない円周上の循環=日常的時間、③(人生の)始めがあり終りがある普遍的時間、である。そして3つの時間のどれもが、「今」に生きることを強調する([4]28~36ページ)。日本における(閉鎖的な)「空間」の特徴は3つある。①(神社の建築的空間がそうであるように)空間の秘密性と聖性が増大する(人に見せず、大事にする)「オク」(奥)の概念、②(神社には塔がないように)建築は平屋または二階建てで、地表に沿って広がり、天に向かって伸びていくことはない「水平」面の強調、③(武家屋敷や都会の地下的のように)時とともに変わる必要に応じて家屋などを増やしていく「建増し」思想、である([4]164~174ページ)。これらによって「私の居る場所」、すなわち「ここ」を重視する。要するに、日本文化に内在する時間と空間の概念は、自分がいる「今=ここ」に集約され・強調される。それは「全体から部分へ」ではなく、「部分から全体へ」という思考過程をたどるものであり、日本文化の基本的な特徴(「今=ここ」の文化)である。その時間における典型的な表象・表現が現在主義であり、空間におけるそれが共同体集団主義である([4]233~238ページ)。
〇このような加藤の言説に対して内藤は、[2]において次のように要約して持論を展開する(抜き書きと要約。見出しは筆者)。留意しておきたい。

建築の本質は「今・ここ」を確かなものにするために「待つ」ことにある
加藤周一の「今・ここ」論を要約すると、「今・ここ」という時空の中の一点から世界の認識を広げていくという癖のようなものが(日本)文化の基層に根強くあるのではないか、という提示だ。西欧の時間と空間とは、個人という存在の外部に普遍的な尺度を設定し、自分と世界を定位しようとするが、この国の文化はそれとは違って、「今・ここ」という内部化された座標のもとに育まれてきたのだが、これがかつて戦争へと向かう精神を生み出した、というのである。([2]112~113ページ)
建築や都市に課せられた大きなテーマは、「今・ここ」の確かさではなかったか。しかし、情報化社会の出現と共にこれが急速に希薄になりつつある。今問題にすべきは、失われつつある「今・ここ」が生命を持つためにはどのようにすれば良いのかということだ。つまり、現在を起点に、時間と空間の幅を広く捉えること、それが建築や都市に課せられた大きなテーマなのではないか。([2]113ページ)
近年、建築が育んできた文化は、あまりにも一足飛びに未来を志向しすぎてはいまいか。そこには、その未来に至る持続的な時間が消去されている。どこかの時点で、建築は「待つ」ことを辞めたのである。([2]114ページ)
「待つ」という行為を通して、人は広がりのある「今・ここ」を引き出すことが出来る。([2]113ページ)
「待つ」ためには、未来を想起し、そこから現在を逆照射する逆立ちしたような意識が必要だ。「待つ」ことは建築にふたたび持続的な時間概念を導き入れることである。おそらく、「待つ」ことを想起することは、建築に新たな質をもたらすはずだ。([2]115ページ)

阪野 貢/「市民社会論」再読メモ ―規範としての「市民」と実体としての「市民」―

〇筆者(阪野)の手もとにいま、「市民社会論」というタイトルの本が4冊ある(しかない)。(1)山口定(やまぐち・やすし)著『市民社会論―歴史的遺産と新展開―』(有斐閣、2004年3月。以下[1])、(2)吉田傑俊(よしだ・まさとし)著『市民社会論―その理論と歴史―』(大月書店、2005年7月。以下[2])、(3)今田忠(いまだ・まこと)著・岡本仁宏(おかもと・まさひろ)補訂『概説市民社会論』(関西学院大学出版会、2014年10月。以下[3])、(4)坂本治也(さかもと・はるや)編『市民社会論―理論と実証の最前線―』(法律文化社、2017年2月。以下[4])、がそれである
〇[1]において山口は、「市民社会」論をめぐる戦後の問題意識とその変遷、継承すべき戦後デモクラシーの遺産を明らかにし、1990年代に本格化しはじめた「新しい市民社会」論の特徴と内容、とりわけ「市民社会(論)の再構築」の動きを整理する(「帯」、320ページ)。終章の「むすび」で山口は、「市民社会」を「国家」「市場」とは区別される第3の領域として捉えるのではなく、「理念(とりわけ平等・公正)」・「場(共存・共生の場)」・「行為(自律的行為)」・「ルール(公共性のルール)」の4つの要件の総体として捉えるのが正しいのではないか、という。そして、「市民社会」とは、「さまざまの『公共空間』・『アソシエーション空間』が出会い、政治のあり方、経済のあり方、社会のあり方について、『共存・共生』の原理の上に立って協議する『場』を用意する諸条件の総体である」と再定義する(322ページ)

〇[2]で吉田は、「マルクスは階級社会または階級闘争論の理論家とみなされているが、そうであるだけではなく、彼は一貫した市民社会論の理論家でもある。彼の理論的出立点はヘーゲルの市民社会と国家の問題にあったが、その後も、市民社会概念と階級社会概念を中軸とした歴史観(「市民社会史観」と「階級社会史観」)を形成し、近代ブルジョア的社会、国家そして将来的協同社会についての総体的理論を樹立した」(53ページ)という。その視点・視座から、吉田は、マルクス市民社会論の再構成を軸に、現代的市民社会論の理論的問題と、西欧と戦後日本の市民社会論の歴史的展開について考察する。そこにおいて吉田は、国家や市場から独立した市民社会を構築する現代的市民社会論を批判する。とともに、「歴史貫通的な<土台>としての市民社会、ブルジョアジーとともに発展する近代ブルジョア的市民社会、そして将来社会における協同社会としての市民社会の重層的構成をもつ」(66~67、68ページ)マルクスの市民社会論(「重層的市民社会論」)について説く。
〇[3]の著者である今田は、日本の市民社会の構築に向けて、1980年代から30年以上にわたって実践・研究し問題を提起し続けてきた「歴戦の勇士」(岡本:ⅴページ)である。長年の経験と知見を基に、その集大成として、大学学部レベルの講義を取りまとめたものが[3]である。その内容は、日本の市民社会論の歴史的展開やデモクラシー思想の変遷をはじめ、フィランソロピーとボランティア、市民社会組織、社会的経済と社会的企業、パブリックとコモンズ、市民社会と政府・企業などと広範囲・多岐にわたる。1998年9月に設立された「市民社会ネットワーク」設立趣意書で今田はいう。「市民」は「政治的・社会的権利・義務を持ち、公共性を自覚した自立・自律した個人」である。「そのような市民がつくる社会が市民社会であり、市民社会の政治のルールが民主主義である」(16ページ)。
〇[4]は、今日的な市民社会の実態と機能を体系的に学ぶ概説入門書である。具体的には先ず、市民社会について考える際の5つの基礎理論(理論枠組)――①熟議民主主義論、②社会運動論、③非営利組織経営論、④利益団体論、⑤ソーシャル・キャピタル論を解説する。続いて、市民社会の盛衰を規定する諸要因のうちから特に重要と思われる6つの要因――①市民社会を支える資源としての「ボランティア・寄付」、②人々を市民社会へと誘う「価値観」、③市民社会の発展を促す政府と市民社会組織との「協働」、④新自由主義と市民社会の関係性(「政治変容」)、⑤市民社会を規定し構造化する「法制度」、⑥市民社会に決定的な位置を占める宗教や宗教団体(「宗教」)を解説する。そして最後に、市民社会がどのような帰結をもたらしているか(「市民社会の帰結」)の実態について、ローカルな視点やグローバルな視野から解説する。[4]は、それらを通して現代市民社会論の明日を問う著作でもある。
〇本稿では、「まちづくりと市民福祉教育」に関して論及するにあたって、山口定([1])と坂本治也([4])の所説から「市民社会」「市民」について個人的に留意したい議論や論点の一文をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

山口定の所説
目的概念としての「市民社会」の定義
われわれのいう意味での「目的概念としての市民社会」は、第1に、まず「国家」(あるいは官僚支配)から「社会」が自立するという意味での「社会の自立」を、第2に、「封建制」や前近代的な「共同体」との関係において個々人が自立するという意味での「個人の自立」を、そして第3に、「大衆社会」ならびに「管理社会」との関係において個々人が「自立」を回復し、公共社会を「下から」再構成するという意味での「個々人の自立と公共社会の回復」をその中心的内容とするものである。(12~13ページ)

「規範的人間型」としての「市民」の概念
「市民」とは「自立した人間同士がお互いに自由・平等な関係に立って公共社会を構成するという<共和感覚>に支えられ、そうした人々の自治を社会運営の基本とすることを目指して公共的決定に主体的に参加しようとする自発的人間型」をいう。(9ページ)

「ブルジョア社会」「資本主義社会」「市場社会」と「市民社会」
90年代初頭以降、本格的に登場しはじめた「新しい市民社会」論(=現代的市民社会論)には、旧来の、そしてとりわけ戦後日本の人文・社会科学において論じられた「市民社会」論(=近代的市民社会論)とは異なるさまざまの特徴がある。(149ページ)
「新しい市民社会」論においては、中心的なキーワードである「市民社会」の概念そのものにまつわる重大な意味転換が見受けられる。すなわち「市民社会」は、これまでの「ヘーゲル=マルクス主義的系譜」の中では事実上「ブルジョア社会」と等値されてきたのだが、それに対して、90年代初頭以来、「ブルジョア社会」とは明確に区別されるばかりか、場合によっては、「ブルジョア社会」もしくは「資本主義社会」「市場社会」と正面から対立し、必要ならこれをコントロールするという方向性をもったものという位置づけが与えられている。(149~150ページ)
「新しい市民社会」論の特徴をとらえるのに重要なのは、「国家」と並んで「経済」もしくは「市場」という領域を別個に設定して、その両者に対置される独自の領域としての「市民社会」をクローズアップさせ、その意義を強調することである。(154ページ)

「市民社会組織」の4つの要件
「新しい市民社会」論においてそもそも、「団体」(あるいはアソシエーション)一般と「市民社会」団体すなわち「市民社会組織」(辻中豊)との定義上の区別は何か、つまり、どのような団体が「市民社会組織」なのか。(183ページ)
「市民社会組織」さらには「市民(運動)団体」たることを自称する場合には、①その構成員同士の自由・平等な諸権利の相互承認、②人々の自発的・自律的な合意に基づく組織運営、③情報公開が保障された上で行われる理性的討議による「公共性」の推進、④異質者間の共存・共生を可能にする多様性の相互承認の4つを、その内部組織のあり方に関する基本的なスタンスとすべきである。この要件のどれをはずしても、歴史的に形成され、維持され、かつあらためて蘇(よみがえ)ってきた「市民社会」の理念そのものの中核が失われることになるからである。(189~190ページ)

坂本治也の所説
「市民社会」の定義
今日的な文脈における市民社会は、政府、市場、親密圏(家族、恋人、親友関係)との対比において定義される。すなわち、①中央・地方の統治機構による公権力の行使ないし政党による政府内権力の追求が行われる領域としての政府セクター、②営利企業によって利潤追求活動が行われる領域としての市場セクター、③家族や親密な関係にある者同士によってプライベートかつインフォーマルな人間関係が構築される領域としての親密圏セクター、という3つのセクター以外の残余の社会活動領域が市民社会である。
換言すれば、公権力ではないという非政府性(non-governmental)、利潤(金銭)追求を主目的にしないという非営利性(non-for-profit)、人間関係としての公式性(formal)という3つの基準を同時に満たす社会活動が行われる領域が市民社会である(図1-1)。そして、市民社会にはさまざまな団体、結社、組織が存在しており、それらは「市民社会組織(civil society organization、CSOと略記されることもある)」と呼ばれる。(2ページ)

「市民社会組織」の具体例
市民社会組織には、個々の市民によって自発的に活動が始められた福祉団体、環境保護団体、人権擁護団体、スポーツ・文化団体、宗教団体、ボランティア団体などはもちろん、政府セクター寄りとみなされる政治団体、行政の外郭団体、社会福祉法人、学校法人、市場セクター寄りとみなされる業界団体、労働組合、農協、医療法人、親密圏セクター寄りとみなされる自治会・町内会、地縁団体など、多様性に満ちた雑多な団体・組織が含まれる。
また、一般社団法人、一般財団法人、特定非営利活動法人、宗教法人、消費生活協同組合などの特定の法律にもとづいた法人格をもつ団体はもちろん、法人格を有さない任意団体であっても、通常は市民社会組織としてみなされる。さらに、さまざまな社会運動・市民運動においてみられる、恒常的な組織としての実体をもたない運動体も、市民社会内部の存在として位置づけられる。(2~3ページ)

規範としての「市民」「市民社会」の概念
「市民」や「市民社会」という概念は、しばしば特定の規範的立場にとっての理想的な状態や到達すべき目標を表すために用いられる。たとえば、「市民」を「自主独立の気概をもち、理性的な判断や議論ができ、能動的に政治参加や社会参加する人々」と限定的に定義するような場合である。あるいは、「市民社会」を「人々が相互に尊重し合い、理性にもとづいて対等に対話を行うことを通じて、公共問題を自主的に解決していこうとする社会」と定義するような場合である。
これらの場合、「市民」や「市民社会」は「民主主義にとって理想的な人々」「めざすべき善き社会」といった規範的ニュアンスを含むことになる。また、そのような条件を満たさない人々や社会は「市民」や「市民社会」ではない、ということになる。(6ページ)

「市民社会」の3つの機能
市民社会はアドボカシー機能、サービス供給機能、市民育成機能という3つの重要な機能を有している。(12ページ)
(1)アドボカシー機能/アドボカシー(advocacy)とは、「公共政策や世論、人々の意識や行動などに一定の影響を与えるために、政府や社会に対して行われる主体的な働きかけ」の総称である。具体的には、①直接的ロビイング(direct lobbying)=議員・議会や行政機関に対する直接的な陳情・要請、②草の根ロビング(grassroots lobbying)=デモ、署名活動、議員への手紙送付など、団体の会員や一般市民を動員するかたちでの政府への間接的働きかけ、③マスメディアでのアピール=マスメディアへの情報提供、記者会見、意見広告の掲載など、④一般向けの啓発活動=シンポジュウムやセミナーの開催、統計データ公表、書籍出版など、⑤他団体との連合形成、⑥裁判闘争、といった多様な活動形態が含まれる。(12ページ)
(2)サービス供給機能/市民社会は、政府、企業、家族と同様に、さまざまな有償・無償の財やサービスを供給する。特に、市民社会の役割が大きいのは、福祉、介護、医療、環境、教育、文化芸術、スポーツなどの領域における対人サービス供給である。これらの領域では、政府、企業、家族では十分満たされなくなったニーズを、市民社会のサービス供給によって満たす動きが昨今強くみられるようになっている。(13ページ)
(3)市民育成機能/市民社会は人々が出会い、集い、語らい、取引や交渉を行う社交の場である。家庭や職場に比べると、市民社会における人間関係は、より多様な年齢、職業、階層の人々と交わる可能性が高いものとなる。また、そこでの関係性は、基本的に公権力や貨幣価値の力によって義務的ないし強制的に発生するものではなくて、個人の自由意思にもとづいて、自発的に形成され、不要になったら解消されるものである場合が多い。
このような多様かつ自発的な人間関係が育まれる市民社会組織への参加は、人々を民主主義に適合的な「善き市民」へと育成する機能があるとされる。(14ページ)

〇以上のメモから、「市民社会」論にいう「市民」には、「自立的」をはじめ「自律的」「理性的」「能動的」などの規範的価値や態度・行動が求められる。「自立的な市民」とは自助的自立や依存的自立をしている市民(「できる市民」)、「自律的な市民」とは自分で考え・行動し・責任を負う市民(「ブレない市民」)、「理性的な市民」とは知性や教養に基づいて合理的に判断する市民(「賢い市民」)、「能動的な市民」とは社会への参加や働きかけを行う市民(「行動する市民」)である。それらは、実体として存在する「市民」ではなく、理念的・規範的な「市民」像である。
〇また、「市民活動」と「市民運動」に関して、管見を交えて、とりあえず次のように整理できよう。すなわち、「市民活動」とは、特定の組織や団体に属さないいわゆる一般「市民」を中心に、環境・平和・人権・福祉・教育・文化・地域・まちづくりなど公共領域における広範な問題の発見と解決をめざして、協働的かつ継続的に取り組む集合行為である。そして、「市民運動」はひとつは、「市民自治」、ひいては「市民社会」の実現をめざす。
〇「市民」の要件と「市民活動」「市民運動」の成立条件でとりわけ重要なものは、「自律性」である。「自律」(autonomy)とは、権力に伏さず・権威に同調せず、自らの判断によって自らの行為を決定あるいはコントールすることである。その判断や行為決定を可能にするためには、自分が持つ知性や教養に基づいて、自分を取り巻く環境や直面している出来事・問題などについて認識・理解し、思考することが必要となる。また、自律は、自己判断に基づいて自分の行為を自分で規制・統制することから、他からの強制や拘束、妨害などを受けない、個人の自由意志を前提とすることはいうまでもない。その自由意志は、他人の言動に影響されないだけでなく、自分の欲求にも影響されずに自分をコントロールする意志を含意する。こうした自律にこそ「人間の尊厳」を見いだすことができる。
〇要するに、真に「市民社会」に求められる「市民」像は、「自律的で理性的」な市民である。一面では、それを前提に、「自立的な市民」や「能動的な市民」が存在することになる。
〇人が自ら思考・判断し、自律的に行動するためには、個々人の自由意志と社会的責任に立脚した権利意識や自治意識をもって自覚的・能動的に学び続けることが肝要となる。こうした人間(「自律的で理性的な市民」)の育成・確保は、教育が取り組むべき根本的かつ現代的課題である。そしてまた、「まちづくり」に必要不可欠な営為である。それはまさに、「市民福祉教育」の課題でもある。
〇上述のメモからいまひとつ、「市民」の要件を満たさない人々は「市民」ではない、という議論について一言したい。すなわち、日本社会はいま、分断や格差、貧困、偏見や差別が拡大し、自立が強制され、自己決定(自己責任)が追及されている。加えてコロナ禍にある。そんな社会にあって、「市民」の要件(自覚・意欲・能力など)を欠く、あるいはそれが不十分であるとみなされる高齢者や障がい者、子ども、生活困窮者、外国籍住民などがいる。形式的・外見的には市民であっても、実質的・本質的には市民ではない状況に追い込まれ、社会的に排除されている人々である。市民になろうとしても、あるいは市民になることが期待されても、市民になりえない人々である。
〇現代市民社会には、抑圧され排除される人々(「市民」)が存在し、それを生み出す歴史的社会構造がある。ここに、現代「市民社会論」が取り組むべき本質的な課題が存在する。「社会変革論としての市民社会論の現代的意義」([2]34ページ)が問われるところである。そして、現代市民社会が抱える歴史的社会問題を抉(えぐ)り出し、その根本的・本質的な解決を志向する「まちづくりと市民福祉教育」の内容や方法が問われることにもなる。目に見えない新型コロナウイルスによって、「存在」する意味を問う時間と空間の余裕もなく、(自分も含めて)ただ必死に生きているヒト(「市民」)がいるなかで、改めて強く認識したい。

補遺(1) 
「市民社会」を構想する前提として、「大衆社会」からの“個人の自立”が問われることになる。「市民」と「大衆」の特性と関係性をひとつの座標図で表すと図1のようになろうか。
「市民社会」について論じるにあたって、「市民活動」と「住民活動」を区別し、その特性と関係性をひとつの座標図で表すと図2のようになろうか。⇒

補遺(2)
「市民運動」に関して、次の一文を再掲しておきたい(本ブログ<まちづくりと市民福祉教育>(3)福祉のまちづくり運動と市民福祉教育/2012年7月4日投稿/⇒本文)。

市民運動は、人々に共通する焦眉の生活問題から生ずる。それは、建設的な批判と豊かな創造という視点・視座のもとに、具体的な運動(活動)展開を通して歴史的・社会的問題としての生活問題を解決することを第一義とする。そして、その問題解決の道筋を探り、問題解決をより確かなものにし、その成果(行動と結果)を実効あるものにするためには、市民運動は次のような属性をいかに保持するかが問われることになる。すなわち、運動そのものがもつミッション性や思想性、公共性や政治性、批判性や革新性をはじめ、運動を通して醸成される集合的アイデンティティ(われわれ意識)、その基で社会変革の実現をめざす取り組みの組織性、他の地域や運動との交流・連帯を視野に入れた開放性や普遍性、それに運動を展開するうえでの計画性や継続性、などがそれである。これらは、運動主体の育成を図る市民福祉教育の内容や方法などを規定することになる。(中略)
市民運動は、その運動を生起させる社会構造や社会変動の矛盾や非合理の反映であり、「時代と社会を映し出す鏡」である。市民運動は、単なる異議申し立てや抵抗ではなく、また行政の補完化を促すものでもない。それは、市民が新たな秩序やそれを支える新たなパラダイムを提示あるいは構築するためのものであり、「豊かな社会を創り出す原動力」である。そして、市民運動の展開は、民主主義の定着・発展の過程や方法、度合いなどを問い直すことになり、「民主主義の成熟度を示すバロメーター」である。これらは、集団的・組織的活動としての市民運動の主体形成にかかわる市民福祉教育のあり方が厳しく問われるところでもある。

小林亮平/誰もが等しく将来が望める世界を創りたい ―丸山正樹著『ワンダフル・ライフ』を読んで―

この本――丸山正樹著『ワンダフル・ライフ』(光文社、2021年)を読むことになったきっかけは、ある人に勧められたからです。読んでまず思ったことは、この本の存在を知って、読むことができて良かったということです。

内容は、四本の話が同時進行していって、最後にそれぞれの話のつながりがわかるという構成です。そして、それぞれの話は、脳性麻痺の重度障害者と女子大学生との恋愛の話や、事故で頸椎損傷となった妻を介護する夫の話、妊活が実らず養子をもらおうとする夫婦の話、上司と不倫するOLの話などです。その話のなかに、それぞれのテーマとして、障害者差別の問題、障害者の自立生活の問題、障害児の親無き後問題、介護の人手不足問題などが語られています。それらは僕も時たま考えていることなのですが、再考する良いきっかけになりました。
「排除アート」についても語られていますが、その言葉は初めて知りました。そういう手段もあるのだなあと思ったと同時に、本音と建前を使い分ける日本人らしい発想だとも思いました。
ですが、それらの話がおおよそハッピーエンドとは言えない結末であると思えるのです。ハッピーエンドの未来も語られていますが、あくまでもそれは可能性のひとつであると提示されているだけで、現実はそうはならないと思えてくるような結末でした。そして、僕の過去の体験に似た話もあったにもかかわらず、それがハッピーエンドになるとは僕には考えられなかったため、「自分もどうせ……」と考えて結構落ち込みました。読み終わった後、もう少し前向きになれるような話があれば良かったと思いました。
でもそれは間違った考え方でした。大人になり世の中の大変さを知ると、多くの人は情熱を失い現実に冷めてしまいます。僕もその例に漏れず、危うく冷めた人間になるところでした。

「私たちにその夢を追う勇気があれば、すべての夢は実現する。」(ウォルト・ディズニー)

そう思って一度冷静になり、俯瞰して考えてみると、いくつか気になるところがあります。まずは、脳性麻痺の重度障害者の自立生活と恋愛についてです。彼は脳性麻痺で重度障害者であるが故に、日常生活で多くのヘルパーやボランティアの力を借りて、24時間の介護を受けながら生活しています。そんななかで、一人の男性ヘルパーと名前を交換し、自分が障害者であるということを隠して女子大学生と会うことにします。名前を交換して自分を偽ってくれることを了承したはずの男性ヘルパーも、次第にその女子大学生に近づきたいという欲に駆られて行動するようになります。
最初はこの男性ヘルパーに怒りを感じていました。しかし、よく考えてみると、脳性麻痺の重度障害者も甘いと思います。身分を偽ったこともそうですが、ヘルパーに対する認識が甘いです。欲に駆られた男性ヘルパーは、無資格で個人的に雇っている有償ヘルパーだということですが、自分が雇用主となりヘルパーを働かせる場合は、どういう能力を有していて、どういう性格なのかをじっくり勘案してさせる仕事を選ぶべきです。ですから僕は、自分のもとでヘルパーを働かせる場合は、信頼できる人、あるいはある程度信頼関係ができた人でないと大事な仕事は任せないことにしています。そして、次の言葉を時々思い出すようにしています。

「無能な部下など存在しない。上司が無能にしているだけだ。」( 吉田松陰)

この脳性麻痺で重度障害者の男性は、先天性の障害でしかも頭の良い人となっているので、ヘルパー制度を利用することに長けているはずなのに、どうしてこんなミスをしてしまうのか。こういうことが言えるのも人的資源に困っていなくて、ヘルパーを選ぶことができるという状況があってこそだと思います。

「溺れる者は藁をもつかむ」

そういう現実が、悲しい結末を生むのではないでしょうか。そしてその現実は、次に語る、事故で障害を負ってしまった妻の介護をする夫の話にも言えます。
結末から言うと、この妻は最終的に自分の意思で施設に入ることを選びます。「夫の負担になりたくない」「夫に迷惑はかけたくはない」という考えがあったのかもしれません。プライドの高い妻という設定ですが、若い頃から、障害児と介護をする母親との無理心中の記事を集めていたことで、障害を負ってしまった自分の将来を悲観したが故の行動なのかもしれません。でも、自分の将来を悲観するに至った情報というのは、古くて時代遅れだと思うのです。できることなら、最後まで自分の好きなように生きる方が、誰だって望ましいのではないでしょうか。
でも残念ながら、日本では障害者は社会から排除されるか隔離されるかという悪しき習慣がありました。それはいまも、基本的にはかわっていません。その最たるものが障害児と介護をする母親との無理心中で、事故で頸椎損傷(ケイソン)となった妻も、暗い将来しか想像できなかったのでしょう。
ですが、自然な流れで 「障害者 → 将来が暗い」 となるのはおかしくないでしょうか。障害者であれ健常者であれ、等しく将来が望める世界になって欲しいものです。また、そんな世界を創りたいものです。
それにはまず前例を作ることです。今までにも、障害者(特に先天的など若い頃からの障害者)が生涯、自分を貫いて好きに生きるという前例はあったでしょうが、それらは小数で特例扱いでした。そうではなく、もっと多くの実例があれば、そしてその先駆者が専門家となって、エキスパートレビュー(熟練した専門家が機器やシステムをレビューすること)できる環境が必要でしょう。

「ユーザビリティの専門家は、想定されているユーザーがどのような行動をとる傾向があるかを、過去の経験から蓄積しているため、ユーザーがいなくてもおおよそどのような操作を行うかを想像することができる。最初は個別に問題点を見つけ、後半では参加者全員で問題点の整理や分析、改善案の創出を行う。」(国際ユニヴァーサルデザイン協議会)

2001年に世界保健機関(WHO)が採択した国際生活機能分類(ICF)では、「障害とは本人の持つ要因(個人因子)と環境の持つ要因(環境因子)が相互に影響して生まれるものであるという相互作用モデルの考え方」が採用されています。つまり、個人の努力ではどうにもならないレベルでも、環境によっては改善の余地はあるということです。そもそも、環境によっては助かる命、助からない命というのもあります。また、支援技術(アシスティブ・テクノロジー)というのも日々進歩しています。
そういう情報があれば、本のなかに登場する障害を負ってしまった奥さんも、古くて時代遅れの情報に踊らされて自分の未来を悲観する前に、別の選択肢を考えることができたかもしれません。また文中に、障害児が施設ではなく、地域で暮らせるようになるための準備をするための施設を作りたいという人も登場します。そういった施設も、これからは必要になってくるでしょう。小規模なものは、既にチラホラと目につきます。

最初に述べた脳性麻痺の重度障害者の話にしても、事故でケイソンとなった妻の話にしても、こういった話はこれから先、共生社会を推し進めていくに当たってどんどん増加していくと思われます。私たちはそれに備えなければなりません。この本は、ただ読んだだけで終わらせてはいけない。そういう本だと思います。健常者も障害者も、誰もが共生社会の実現に向けて、それぞれの人生と将来を切り拓くことにつながる、つなげなければならないことを改めて思い起こさせてくれる本です。そういう意味で、「読むことができて良かったということです」。

参考文献
(1)遠越段『世界の名言100』総合法令出版 2014年
(2)池田貴将『覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰』サンクチュアリ出版 2013年
(3)国際ユニヴァーサルデザイン協議会『知る、わかる、ユニヴァーサルデザイン』一般財団法人国際ユニヴァーサルデザイン協議会 2014年
 

阪野 貢/追記/「まちづくりの思想としての地域主義」を考える ―玉野井芳郎著『地域主義の思想』再読メモ―

地域というのは、人が生き、働き、思考する場であり、従って拡大し、重層する性質をもっている。地域主義というのは、その場から、その存続の可能性を信じながら、関連する全体を見通すことである。(古島敏雄。下記[4]カバー・前そで)
私たちが価値の基準を常に大都会や中央や外国において、私たち自身の生活や地域環境を軽視しつづけたこと、そのことを厳しく問い直すことがなければ、地域主義は育たないだろう。(河野健二。下記[4]カバー・後ろそで)

〇本稿は、先の拙稿――<雑感>(134)「『贈与』再考メモ―コミュニズムとアナキズム―」(2021年4月28日投稿)の「追記」「補遺」である。内容的には、玉野井芳郎の「地域主義」論の抜き書きである。そのひとつのねらいは、それによって「まちづくりの思想としての地域主義」についての理解や思考が促され、真に豊かな地域社会を再生・創造する視点・視座や方向性、そのための枠組みなどを見出すことができれば、というところにある。
〇いま筆者(阪野)の手もとにある玉野井の本は、(1)『地域分権の思想』(東洋経済新報社、1977年4月。以下[1])と(2)『エコノミーとエコロジー』(みすず書房、1978年3月。以下[2])、(3)『地域主義の思想』(農山漁村文化協会、1979年12月。以下[3])、それに清成忠男・中村尚司との共編著(4)『地域主義―新しい思潮への理論と実践の試み―』(学陽書房、1978年3月。以下[4])、この4冊である(それしかない)。
〇周知の通り、玉野井芳郎(たまのい・よしろう。1918年~1985年)は、経済学者であり、思想家、社会運動家であった。なによりも1970年代における「地域主義」「地域主義経済学」の提唱者・主唱者として著名である。1970年代は、高度経済成長(1955年~1973年)のひずみが露呈し、公害の続発や過疎・過密現象の激化をはじめ、自然環境の破壊や生活環境の悪化、住民の地域帰属意識の希薄化や連帯感の喪失などが進んだ時代であった。そんななかで地方分権や市民自治を重視する「地方の時代」や、自然・生態系や環境の保護を説くエコロジー思想などに基づく「住民運動」が注目された。
〇玉野井はいう。「現存の社会・経済システムに自然・生態系を導入することは、社会システムに〝地域主義〟(regionalism)を導入することにひとしいのである」([2]60ページ)。「60年代から70年代にかけて全国各地でまき起った激しい住民運動がなかったなら、地域主義の思想がこれほど広汎な社会的支持を得ることはなかったであろう」([3]18ページ)。「地域主義とは、<非政治的な市民文化の勃興>をこそ目指すべきものであって、そこには、市場経済的『市民社会』を突きぬけた地平(社会)に登場するであろう新たな『市民』(ビュルガー Bürger:ドイツ語)の再生が期待されている」([1]ⅲページ)。すなわち、玉野井の「地域主義」の背景には「エコロジー」や「住民運動」があり、新たな市民を再生する「社会変革」の方向が打ち出されていた。そして、玉野井の「地域主義の思想」は、「下から」の「内発的地域主義」によって、実践的に「地域共同体の構築」をめざしたのである。その理念的方向については、「地域的個性を背景としながら、独自の経済・伝統・文化の多様性を生かした地域分権的自治の自主的自発的確立」と要約される(杉野圀明「『地域主義』に対する批判(上)」『立命館経済学』第28巻第2号、立命館大学経済学会、1979年6月、22(190)ページ)。
〇本稿では、[3]を中心に、玉野井の「地域主義の思想」について個人的に留意したい議論や論点の一文をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

「地方分権」は「地域分権」、「地方の時代」は「諸地域の時代」を意味する
「中央」そのものが地方分権、いや正しくは地域分権の確立を中央集権的に達成するというのは、もともと論理的矛盾ではないだろうか。すなわち、国が権力とカネをもって地域分権を達成するという道筋には、ほんらい大きい限界が横たわっているものとみなければならない。しかもその道筋には、国からのカネとモノの画一的な大量投入にともなう地域の混乱と荒廃が、いつものことながら待ち受けているはずである。([3]14ページ)
各自治体は、地域住民の総意を体現して、「地方の時代」にふさわしい自主・自立の姿勢を国にたいして表明しなければならないように思われる。最近、「国と地方は上下の関係でなく、対等の立場でそれぞれの機能を生かした協力関係でなければならない」と適切に提言されている。(それは)「地方」といわれるものが、単数の「国」と同一平面上にある単数の「地方」ではなく、「国」とは次元を異にして、歴史と伝統を誇る複数的個性の諸地域――そこには人間の生き生きとした生活感情がある――からなっていることを是認することにほかならない。「地方の時代」とは、正しくは「諸地域の時代」を意味するのである。([3]14~15ページ)

「地域主義」は実践的に地域共同体を構築することをめざす
国が「上から」提唱し組織する「官製地域主義」と区別して、「内発的地域主義」の私なりの定義を掲げておこう。――それは、「地域に生きる生活者たちがその自然・歴史・風土を背景に、その地域社会または地域の共同体にたいして一体感をもち、経済的自立性をふまえて、みずからの政治的・行政的自律性と文化的独自性を追求することをいう。」
この定義をめぐって、まず経済的自立というのは、閉鎖的な経済自給を指しているのではなく、とりわけ土地と水と労働について地域単位での共同性と自立性をなるべく確保し、そのかぎりで市場の制御を企図しようとしている。次に政治と行政については「自律」という表現を用いているように、地域住民の自治が強調されている。最後に、地域に生きる人びとがその地域――自然、風土、歴史をふまえたトータルな人間活動の場――と「一体感」をもつという重要な思想が語られていることに注意してほしい。([3]19ページ)
地域主義はもはや論理的構築というよりも実践的・歴史的構築の対象といってよい。([2]60ページ、[3]181ページ)

「地域主義」は地域生活者による「生活づくり」を最大の課題とする
地域主義のエコロジー基礎は、当然のことながら大気系と水系と土壌生態系より構成される。だからその地域性は、同時に季節性を含むことになる。地域主義における〝地域〟とは、このようなに空間的地域と時間的季節性によって特徴づけられる人間の生活=生産の場所と考えなければならない。([3]10ページ)
「地域主義」はなによりもまず地域共同体の構築をめざすことを提唱する。この提唱にたいして、「地域主義」とはかつての農村共同体の復活をはかる封建的反動だなどと非難するなら、それは見当違いもはなはだしいといわなければならない。こんにち求められている町づくりや村づくりはこれまでのような「ものづくり」ではない。町や村に棲む人びとの「生活づくり」こそが最大の課題なのだ。地域共同体の構築という「地域主義」の課題は、「ものづくり」から「生活づくり」への転換という時代の展望を含意するものであることが知られなければならない。([4]9ページ上・下段)
人間生活の日常性にかかわる諸問題については、その決定の主体は、国や社会のレベルにおける抽象的個人ではなくて、諸地域のレベルに位置する地方自治体であり、正しくはそれを構成する地域住民=地域に生きる生活者でなければならない。([3]22ページ)

「諸地域の時代」とは諸自治体が「憲法」や憲章などを制定する時代のことである
地域に生きる人々の文化・生活権は国レベルの法律ではなくて、地方の各自治体においてこそ確立されるべきものである。地方の時代とは諸地域の時代のことであり、諸地域の時代とは諸自治体がそれぞれの本格的な「憲法」、憲章、または条例を制定する時代のことであるといってよいのではなかろうか。なるほどこれらは、いずれも法律の下位規範であるかもしれない。しかし、何が地域の生活者=住民にとって真に共通の利益となるべきものであるかを自分自身の手で書くということは、法律にまさるとも劣ることのない「よきしきたり」をうちたてることを意味する。これが自治体の自己革新でなくて何であろう。([3]38~39ページ)

「地域主義」がめざす地域共同体は市町村レベルにおける「開かれた共同体」である
私たちの生活の小宇宙は、中央からの権力や金(かね)の支配から独立した、なによりも自立的な共同体でなければならない。これが第一の眼目と思われるが、それにとどまるものではない。第二には、この共同体は外にたいして開かれたものでなければならない。行政単位の面からすると、「わたしのまち」「わたしのむら」を代表する市町村は、都道府県の自治体レベルにたいして、「下から上へ」の情報の流れを根幹とする開かれた行政システムの基礎単位となるべきものであろう。([3]124ページ)
地域主義がめざす地域共同体は開かれた共同体でなければならない。開かれたという意味は、上からの決定をうけいれるというより、下から上への情報の流れをつくりだしてゆく。そればかりか地域と地域との横の流れを広くつくりだしてゆくことをも意味する。([4]9ページ下段)
それは、「中央」を否定して無政府の混乱した体制をつくりだすというのではない。それは「中央」を、個性的諸地域の自立にもとづく地域分権に照応する、あるべき「中央」へと復位させるものといってよい。([3]17ページ)

「内発的地域主義」は「行政への住民参加」ではなく「住民への行政参加」をめざす
地域主義とは、金(かね)や政治権力の優位するMacht(権力:ドイツ語)の世界から、あらためて真のRecht(法と正義:ドイツ語)の世界を復位させてゆく努力を開始しなければならない時代と考えられる。([1]ⅲページ、[3]118~119ページ)
地域主義とは、単なる地方主義の域をこえて、内発的地域主義であるということを確認しなければならない。となると、自治体行政と住民との関係も、まさしく主客を転倒させなければならない。行政への住民参加ではなく、住民への行政参加ということとなり、ここに自立的主体による内発的地域主義の主張があらわれる。([3]119ページ)

〇地方分権改革は、1993年6月に衆参両院で「地方分権の推進に関する決議」がなされたことから始まる(それを起点とする)。1999年7月にはいわゆる「地方分権一括法」(2000年4月施行)が成立し、国と地方の関係が上下・主従の関係から対等・協力の関係に変わり、機関委任事務制度が廃止され、国の関与の新しいルール化が図られた。2021年3月、「第11次地方分権一括法案」が閣議決定されている。
〇「自治基本条例」が全国で最初に施行されたのは、2001年4月、北海道ニセコ町の「ニセコまちづくり基本条例」である。自治基本条例は、他の条例や施策の指針となる、自治体の自治(まちづくり)の方針と基本的なルールを定める条例であり、「自治体の憲法」と言われる。2021年4月現在、全国397自治体(全国1718市町村)で制定されている。
〇玉野井の「地域主義」は、一面では、これらの動きを生み出すものでもあった。しかし、「地域主義」は、1970年代を中心にひとつのブームを巻き起こしたが、その後はいわれるほどの進展はみせなかった。その原因は奈辺にあるのか。その点をめぐって例えば、①自然環境や生態系と人間との関係性(破壊と脅威)や、巨大な独占資本による経済とそれに支配される地域経済(第一次産業や地方小工業など)との関連性(競争と収奪)などについての実証的分析なしに、規範的議論や主張(べき論)がなされている。②市場経済や政治・官僚・産業機構(癒着体制)がもたらす現実の地域社会の構造的矛盾について、科学的分析が不十分なまま、抽象的な議論にとどまっている。③「地方分権」(「地域分権」)という政治や行政に関わる議論でありながら、現実の政治・権力構造や政治・行政過程の分析を欠いている。④地域共同体が消滅しているなかで、また現実の中央集権的な行政システムのなかで、如何にして「地域主義」の実現を図るかという方法論が不明確である。⑤「まちづくり」の方向と展望は、その地域に自分を同一化する「定住市民」を必要とするが、その能動性や主体性を如何に育成・形成するかという論理が欠落している、などと評されることによるのであろう。これらを総じて別言すれば、地域・住民が地域の実態を踏まえて主体的・自律的に統治権を行使する(国の地方への関与を縮小するという「地方分権」と対峙する)「地域主権」(regional sovereignty)の「社会変革」の課題や方法、展望が見いだせない、ということであろう。
〇玉野井の「地域主義」に共感するところは多い。「地域主義」は、公害反対運動や生活環境を守る住民運動、それに「まちづくり」の実践・研究などに大きな示唆を与えた。しかし、それが規範的であるがゆえに、理論構築については厳しい評価を受けた(受けている)ことも確かである。(筆者による)以上の諸点はその一部であり、相互に関連し重なり合っているが、「まちづくりと市民福祉教育」に関する課題に通底するものでもある。そしてそれは、新たな「社会像」としての「コミュニズム」(共同体主義)や「地域主権社会(国家)」とそのための「市民」の育成・確保のあり方を問うことになる。あえて付記しておきたい。

阪野 貢/「贈与」再考メモ―コミュニズムとアナキズム―

贈与概念を初めて体系的な社会分析のために用いた研究は、マルセル・モースの『贈与論』である。その主要な問いは、贈物の中に潜むいかなる力が、貰い手に返礼させるのかというものである。これに対するモースの答は神秘性を帯びている。つまり、マオリ族が用いる「ハウ」という観念それ自体に原因を求めた。「ハウ」とは、「物の霊、とくに森の霊や森の獲物の霊」とされ、返礼されずにいると――もち主を殺してでも――元の場所に戻りたがる「贈与の霊」である。贈与者は、贈物をハウと共に送ることで、貰い手に対して神秘的で危険な力を行使していることになる。この観念を媒介として、富、貢納、贈与の義務的循環と、それを通じた社会的結合関係の維持機能を説明するというのが、かの古典的名著の主旨であった。(下記[5]、28ページ)

〇筆者(阪野)の手もとにいま、3冊の本がある。白井聡(しらい さとし)著『武器としての「資本論」』(東洋経済新報社、2020年4月。以下[1])、斎藤幸平(さいとう こうへい)著『人新世の「資本論」』(集英社、2020年9月。以下[2])、内田樹(うちだ たつる)著『コモンの再生』(文藝春秋、2020年11月。以下[3])がそれである。現代の日本社会は、「格差」「分断」「貧困」、そして「コロナ禍」などの言葉で語られる。その現状は、「グローバル資本主義末期における、市民の原子化・砂粒化、血縁・地縁共同体の瓦解、相互扶助システムの不在という索漠(さくばく)たる」([3]6ページ)ものである。この3冊の本は、こうした行き詰まる資本主義社会の「いま」と、向こう側の新たな「社会像」について思考する際に役立つ。
〇[1]にあっては、自立が強制され、自己決定(自己責任)が追及される現代資本主義社会を生き延びるための「武器」になるのは、カール・マルクスの『資本論』である。1980年代以降の新自由主義(ネオリベラリズム)は、「小さな政府」「規制緩和」「市場原理主義」などをキーワードに、社会の仕組みだけではなく、人間の魂や感性、センスを変えてしまった。資本による生産・労働過程のそれのみならず、労働者の魂、人間の全存在(身体・心理・文化・社会的諸側面の全体。人間の「全体性」)の「包摂」である(66、67ページ)。[1]は、『資本論』のキモを平易に解説した画期的な入門書であるが、裏にあるテーマは「新自由主義の打倒」(222ページ)である。別言すれば、「資本主義を内面化した人生から脱却するための思考法」(「帯」)である。
〇[2]において斎藤は、「マルクスが求めていたのは、無限の経済成長ではなく、大地=地球を〈コモン〉として持続可能に管理することであった」(190ページ)として、「資本主義の転換」を迫る。その際の〈コモン〉とは、「社会的に人々に共有され、管理されるべき富のことを指す」。それは、資本主義(新自由主義)でも社会主義(国有化)でもない「社会像」(「脱成長コミュニズム」)であり、「水や電力、住居、医療、教育といったものを公共財として、自分たちで民主主義的に管理する」(141ページ)ことをめざす。
〇[3]で内田はいう。新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)によって、グローバル資本主義と新自由主義は大規模な修正を余儀なくされることになる。その先に取り得る選択肢のひとつが「コモンの再生」である。それは「いま」、世界各地で、共同・協働のネットワークの再評価が始まっていることからもうかがい知ることができる(270ページ)。内田にあっては、国民国家がより小さな政治単位に分割されてゆく「『地域主義』がこれからの流れ」(261ページ)になるなかで、「コモン(共有地)」とは(「私」ではなく)「私たち」による「ご近所」共同体(6ページ)である。
〇私事にわたるが、2020年9月、「PSA:4.43」が筆者のその後の生活を決することになった。同年12月、「グリソンスコア:9」によって奈落の底に突き落とされる。そして、コロナ禍のなかの2021年4月、手術のために12日間の入院生活を強いられた。入院中のある日、(本当に)何故かふと、40年以上も前のことであるが、他界した伯父の「献体」のことを思い出した。身体の「贈与」である。なお、伯父は晩年、百姓仕事などのすべてを娘婿に渡し、近くの寺院(真宗高田派本山 専修寺)で奉仕活動に没入している。
〇いま、資本主義社会の行き詰まりについて批判する文脈で、またコミュニティの再興が叫ばれ、「コモンズ」(共有資源)や「コミュニズム」(共同体主義)について論じられるなかで、「贈与」が注目されている。「贈与」は多義的で、多用あるいは乱用されている感があるが、その言葉で思い出すのはマルセル・モースの『贈与論』である。モース(1872年~1950年)は、フランスの社会学者・文化人類学者であり、協同組合運動を中心とする社会主義思想への共感・共鳴を示していた。1925年に出版された『贈与論』は、「バイブル的存在」(小林修一)、「現代贈与論の原点」(平尾昌宏)などと評される。周知の通りである。
〇以下では、モース著・森山工(もりやま たくみ)訳『贈与論 他二篇』(岩波文庫、2014年7月。以下[4])におけるモースの基本的な議論・主張のうちから、(1)「贈与の3つの義務」と(2)「全体的社会的事象」についてのみ再確認しておくことにする。それは例によって、「市民福祉教育」実践・研究に「使える」であろう理論や方法に関する筆者の個人的な関心による。
〇モースにあっては、伝統的な「贈与」は、「贈り物をおこなう義務」「贈り物を受け取る義務」、そして「受け取った贈り物に対してお返しをする義務」の3つの義務から成っている。この「贈与」「受領」「返礼」という義務のうち、その根幹に位置づけられるのは第3の義務すなわち「返礼」である。それは、「贈与」と「受領」の義務を前提としている(101ページ)。要するに、モースがいう「贈与」は、相互性(互酬性)に基づく義務的な「贈与交換」(「贈与と交換」「贈与=交換」「贈与という名の交換」)である。そして、モースによると、「贈与」「受領」「返礼」は「気前よく」(60ページ)なされねばならず、「借りを返さないままでいる」(395ページ)と劣位に置かれたり、対抗関係を生み出すことになる。この点は現代社会においても然りである。「ギフト(gift)という一つの単語が『贈り物』という意味と『毒』という意味」(37ページ)の両義性を持つといわれる所以でもある。物の贈与には悪意や敵対といった感情的要素(感情的価値)が備わっているのである。モースはいう。「物には依然として情緒的な価値(精神的価値:筆者)が備わっているのであって、貨幣価値に換算される価値(金銭的価値:筆者)だけが備わっているわけではない」(393ページ)。
〇「返礼」の義務の特徴は、「贈与の恩恵に浴した人には、もらったものと等価のものに、さらに何かを上乗せしてお返しすることが義務づけられるようになること」(15ページ)にある。そして、「贈与」「受領」「返礼」が果たす機能は、物の交換や流通それ自体ではなく、「贈り物を受け取るということ、さらには何であれ物を受け取るということは、呪術的にも宗教的にも、倫理的にも法的にも、物を贈る側と贈られる側とにある縛りを課し、両者を結びつける」(43ページ)ことにある。すなわち、「贈与」「受領」「返礼」の循環・体系は、個人や集団などの間に友好的な関係(紐帯)を生み出し、その維持・強化を促すのである。モースはいう。「社会が発展してきたのは、当のその社会が、そしてその社会に含まれる諸々の下位集団が、さらにその社会を構成している個々人が、さまざまな社会関係を安定化させることができたからである。すなわち、与え、受け取り、そしてお返しをすることができたからである」(450ページ)。
〇ところでモースは、「贈与」は、「社会生活をかたちづくるあらゆることが、ここで混ざり合っている」という。それは、「宗教的な制度であり、法的な制度であり、倫理的な制度である――この場合、それは同時に政治的な制度でもあり、家族関係にかかわる制度でもある。それはまた、経済的な制度である」。それゆえにモースは、これを「『全体的な』社会的現象」(「全体的社会的事象」)と呼ぶことを提唱する(59ページ)。これは、「『全体』への強い志向性にもとづいて学術的探究に臨む」(「訳者解説」476ページ)モースの社会学・文化人類学の特徴を示すものである。ここで、次の一文を引いておくことにする。「全体を丸ごと考察すること、これによって、本質的なことがら、全体の動き、生き生きとした様相を把捉(はそく)することができたのであり、(中略)社会生活を具体的に観察することのうちに、新しい諸事象を見いだす手段がある。(中略)全体的社会的事象を考究すること以上に差し迫ったものはないし、また実り多いものもない」(442ページ)。
〇上述したように、モースは[4]で、「贈与の3つの義務」に基づく贈り物が循環することによって、社会的連帯・紐帯が生み出されることを指摘した。その点に関して、私事ながら本稿の冒頭に記した伯父の「献体」の贈与行為についてはどう考えるのか。公益財団法人・日本篤志献体協会によると、「献体の最大の意義は、みずからの遺体を提供することによって医学教育に参加し、学識・人格ともに優れた医師・歯科医師を養成するための礎となり、医療を通じて次の世代の人達のために役立とうとすること」(同ホームページより)にある。現在、わが国には献体篤志家団体が62団体あり、献体登録者の総数はおよそ30万5000人を越え、そのうちすでに献体した人は約14万人に達している(2019年3月31日現在)。
〇伯父の献体行為は、宗教的な動機も考えられるが、見返りを求めない、利他主義に基づく不特定の匿名他者への自発的な贈与であった。また、伯父が普段所属していたアソシエーション(機能集団)やコミュニティ(共同体)に対する個人的な感情(正義、責任、義務、感謝、愛、自己実現など)の発露であったろう。しかもそれは、医学教育に参加し、医療を通じて次世代の人達に役立とうとする公的な贈与であったといってよい。さらに言えば、医学や医療技術、生命科学や生命倫理などの発展をもたらし、回りまわって伯父の家族の自己利益にもつながることが想定される。いずれにしろ、伯父の献体行為は何らかの個人的・社会的な連帯意識に基づくものであり、またその行為の結果として人々の個人的・社会(文化)的な連帯意識の形成が促される。あえて指摘するほどに目新しいものではないが、ひとつの論点として再確認しておきたい。
〇筆者の手もとにいま、2冊の本がある。仁平典宏(にへい のりひろ)著『「ボランティア」の誕生と終焉――〈贈与のパラドックス〉の知識社会学』(名古屋大学出版会、2011年2月。以下[5])と山田広昭(やまだ ひろあき)著『可能なるアナキズム――マルセル・モースと贈与のモラル』(インスクリプト、2020年9月。以下[6])がそれである。そこに見いだされるひとつの論点([5]の〈贈与のパラドックス〉、[6]の「支配への抵抗」)について留意したい。
〇[5]において仁平は、「ボランティアをはじめとする参加型の市民社会の諸カテゴリーは、『善意』や『他者のため』と解釈される契機を不可避的に含むことになる。(中略)この『他者のため』と外部から解釈される行為の表象」を「贈与」と呼ぶ(10ページ)。そのうえで、「近現代の日本におけるボランティア言説の展開をたどり、参加型市民社会のあり方を鋭く問いなおす」(「帯」)。サブタイトルにいう〈贈与のパラドックス〉(paradox:逆説、矛盾)とは、贈与は行為者の真の意図とは別に、交換や見返り、偽善や自己満足などとして外部観察されがちである、という意味である。平易に言えば、「贈与の偽善性」「贈与の疑わしさ・怪しさ」である。
〇「アナキズム」には、「無政府主義」「政治的極左」「革命思想」といったイメージがつきまとう。その実は互酬性や相互扶助に基づく「支配に抗する思想」である。[6]において山田は、モースの『贈与論』を手がかりに、多くの思想家の議論・言説について言及し、「来たるべき経済」(贈与経済)社会を模索する。そして山田は、「非中心性、自主的連合、そしてつねにダイレクトに否を表明できる直接民主主義、これらはアナキズムの変わることのない基底である」(228ページ)。アナキズムは「個人的自由の追求と連帯の追求とがけっして矛盾しないと考える思想」である。「個人の自由の確保こそが真の連帯の条件である」(195ページ)、という。なお、ここで筆者は、アナキズムに関して「地域主義」(「小さな政府」)の理念を基盤に、「市民」のつながりや集まりである「地域コミュニティ」における「共働」をイメージしている。誤解を恐れずに付記しておきたい。

アナキズムとは、個人の自由を抑圧・侵害するようなあらゆる支配権力(とくに国家権力)を否定し、上からの組織化や統制を拒否しながら、合意によって自由で調和的な社会を建設しようとする思想である。したがってその根本には、権力による支配や強制なしに、社会を運営していくことが可能だとする発想がある。方法は大別してふたつある。ひとつは直接政治の領域に入って、国家権力を打倒しようとするものであり、もうひとつは国家権力と直接対決するのではなく、権力支配とは無縁な空間を(多くの場合、小規模かつ分散的性格の自治的協同体を建設するなどの方法で)非政治領域のなかに作り上げることによって、国家による権力支配を骨抜きにしていこうとするものである。(上記[6]、195、196ページ。中見真理(なかみ まり)著『柳宗悦――時代と思想―』東京大学出版会、2003年3月、59~60ページ。)

補遺
筆者の手もとにいま、在野の日本近代史家・渡辺京二(わたなべ きょうじ)の本『幻のえにし――渡辺京二 発言集』(弦書房、2020年10月)がある。少し長くなるが、次の一文を引いておきたい。なお、渡辺は、『苦海浄土――わが水俣病』(講談社、1969年1月)などで知られる作家・石牟礼道子(いしむれ みちこ)を「50年間一緒にやってきた戦友」(本書、119ページ)という。二人の「道行き」(歩み)については周知のことである(米本浩二『魂の邂逅――石牟礼道子と渡辺京二――』新潮社、2020年10月)。

自分というものがこの世に生まれてきて満足するような人間のあり方というのは、一人一人が独立するしかないんですよ。一人一人が独立してね、自分の主人公になってね、そういう本当に独立した人間がある地域を介してね、地域というのは土地、土地は自然ということでもあるけれども、そういうものを介して、お互いが結びついて、その土地の生活を守り抜いていくということしか無いんですよ。
要するに、僕らは自分自身をまず独立させることなんですよ。それはどういう意味かというと、自分の考えを持つことなんですね。自分の考えを持つ。(253~254ページ)
自分の頭で考えるということは、コモンセンスで考えることなんです。コモンセンス。つまり普通の良識です。生活する上での普通の理屈で考えればいいわけなんですよ。すべての事柄は。そうするとおかしい事は、いくら理論ぶって言ったっておかしいわけなんです。そういう健全な批判能力みたいなものをね、保持していこうというのが、自分が一人である事なんですよ。(255ページ)
つまり自分は一人である、自分は自分の考えで生きている、国からも支配されない、いわゆる世論からも妄想からも支配されないというあり方ができるのは、自分がある土地に仲間とともに結びついていると感じるからなんだ。ところがそういう基盤がなくなっているからね。自分が生きている土地に相当するのは、自分がともに生きてきた仲間なんだよ。自分がこの世の中で自分でありたい、妄想に支配されたくないという同じ思いの仲間がいる。それが小さな国である。自分が自分でありたいという自分と、同じく自分が自分でありたい人たちで作った仲間が、小さな国になっていく。そういうものをしっかり作るということが僕の思う革命なのさ。それ以外はない。(257~258ページ)

追記(「岐阜新聞」2023年3月5日朝刊/2023年3月13日)

阪野 貢/追記 /「脱成長」:人間の生き方の転換と生活基盤の再ローカル化を図る思想―セルジュ・ラトゥーシュの「脱成長」論のワンポイントメモ―

〇本稿は、先の拙稿――<雑感>(132)「『人新世』における『変革への途』について考えるために―斎藤幸平著『人新世の「資本論」』のワンポイントメモ―」(2021年1月27日投稿)の「追記」「補遺」である。内容的には、フランスの経済哲学者セルジュ・ラトゥーシュ(Serge Latouche)の「脱成長」論の抜き書きである。そのひとつのねらいは、それによって斎藤の「脱成長コミュニズム」論についての理解や思考が促され、真に豊かな地域社会を再生・創造する視点や方向性、そのための枠組みなどを見出すことができれば、というところにある。
〇いま筆者の手もとにあるラトゥーシュの本は、次の4冊である。(1)中野佳裕訳『脱成長』(白水社、2020年11月。以下[1])、(2)同訳『経済成長なき社会発展は可能か? ―<脱成長>と<ポスト開発>の経済学―』(作品社、2010年7月。以下[2])、(3)同訳『<脱成長>は、世界を変えられるか? ―贈与・幸福・自律の新たな社会へ―』(作品社、2013年5月。以下[3])、(4)ディディエ・アルパジェス(Didier Harpagès)との共著、佐藤直樹・佐藤薫訳『脱成長(ダウンシフト)のとき―人間らしい時間をとりもどすために―』(未来社、2014年6月。以下[4])、がそれである。
〇[1]は、21世紀に入りフランスから世界へと普及した脱成長運動の歴史的背景や理論研究を整理・分析し、「簡素な生活と節度ある豊かな社会」を構築するための方策などについて解説する。ラトゥーシュの資本主義批判と脱成長論の集大成である。[2]は、「ポスト開発」の経済思想について論述する単著と、脱成長運動の骨子を整理する単著の2冊が収録されている。ラトゥーシュ思想の決定版である。[3]は、20世紀後半から世界で展開されている産業文明批判の思想を脱成長論の視点から議論し、経済成長なき社会発展の方法と実践を整理する。「脱成長の道」を描く思想書である。[4]は、生産至上主義による資本主義経済・社会の発展によって人間は、「時計」時間に隷属するようになったと、人間と時間との関係性について論じ、人間らしい時間の再征服(reconquête、レコンキスタ)を説く。若者向けの啓蒙書である。
〇ここでは[1][2][3]から、ラトゥーシュの「脱成長」(仏:décroissance、デクロワサンス。英:degrowth、デグロース)の言説について、その一文をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。例によって、我田引水の誹(そし)りは免れないであろうことを承知のうえで、である。

「脱成長」という言葉と「脱成長社会」
脱成長という語は、概念ではない。また、経済成長の対義語でもない。脱成長は何よりも論争的な政治スローガンである。その目的は、我々に省察を促して限度の感覚を再発見させることにある。特に留意すべきは、脱成長は景気後退やマイナス成長を意図していないという点だ。したがって、この語は文字通りの意味で受け取ってはならない。(中略)「脱成長派」(脱成長運動の賛同者)は、生活の質、空気や水の質、そして経済成長のための経済成長が破壊してきた多くの物の質を向上させることを望んでいる。(中略)脱成長という語を「経済成長を崇拝しない態度(acroissance)」を指す語として使用しなければならないだろう。まさしく、進歩・発展という信仰や宗教を捨て去ることなのだ。([1]8~9ページ)

脱成長は、別の形の経済成長を企図するものでも、(持続可能な開発、社会開発、連帯的な開発など)別の形の開発を企図するものでもない。それは、これまでとは異なる社会(「節度ある豊かな社会」「ポスト成長社会」「経済成長なき繁栄」)を構築する企てである。言い換えると、脱成長は経済学的な企てでも別の経済を構築する企てでもなく、現実としての経済および帝国主義的言説としての経済から抜け出すことを意味する社会的企てである。([1]12ページ)

<脱成長>というスローガンは、成長を際限なく追求することを徹底的に放棄することを至上命題とする。つまり、資本移動を規制緩和しながら利潤を追求し、自然環境と人類に壊滅的な結果をもたらすその目的を破棄することである。/<脱成長>はマイナス成長ではない。(中略)ただ単に成長の速度を緩めるだけでは社会が混乱に陥ることは周知の事実である。失業は増加し、必要不可欠な最低限の生活の質を保障するところの社会、保健、教育、文化、環境の各分野におけるプログラムを破綻させることになる。(中略)雇用のない労働社会ほど最悪なものはないことと同じように、成長を約束できない成長社会ほど危険な社会はない。(中略)<脱成長>は「<脱成長>社会」においてのみ、つまり〔成長想念(思想)とは〕別の論理に基づいた体制においてのみ思考可能であるといえる。/厳密に言うならば、理論レベルでは、(中略)成長の減少・緩慢化・衰退(dé-croissance)よりも「無成長」(a-croissance)について語るべきである。何よりも重要なことは、経済・進歩および発展といった信仰ないし宗教を破棄することである。([2]140ページ)

<脱成長>は、蓄積、資本主義、搾取、略奪の縮小のほかにはない。/<脱成長>は断固として反資本主義の立場をとる。/多かれ少なかれ自由主義的な資本主義と生産主義的な社会主義は、成長社会という同一のプロジェクトの2つの類型である。/(<脱成長>における)発展、経済、成長からの脱出は、経済と関わっている社会制度のすべてを放棄するのではなく、むしろそれら諸制度を別の論理に組み込むことを意味する。<脱成長>はおそらく「エコロジカル(生態学的)な社会主義」と見なすことができるだろう。([2]245、246、248ページ)

われわれが構想し求めなければならないのは、経済的価値を中心的な価値(あるいは唯一の価値)とはしない社会、つまり経済を増大させることを前提とするようなこの狂気じみたシナリオを放棄しなければならない。このことは、地球環境の決定的な破壊を回避するためだけではなく、現代に生きる人間の心理的かつ道徳的な貧困から脱出するためにも必要である。([2]123ページ)

愛他主義はエゴイズムよりも重視されるべきである。同様に、際限なき競争よりも協力が、労働への執着よりも余暇の快楽と遊びの精神(エトス)が、制約のない消費よりも社会生活の大切さが、グローバルなものよりローカルなものが、他律性よりも自律性が、生産主義的な効率性よりも素晴らしい手作りの作品を好むことが、科学的合理性(le rationnel)よりも思慮深さ〔実践倫理〕(le raisonnable)が、そして物質的なものよりも人間関係が重視されるべきである。真実への配慮、正義の感覚、責任、民主主義の尊重、差異の称賛、連帯の形成、既知に富んだ生活。これこそが何物に代えてもわれわれが取り戻さねばならない価値である。([2]172ページ)

〇以上のようにラトゥーシュは、開発・発展による地球環境の破壊や、資本による人間の支配・搾取などをもたらす資本主義から脱出し、そのためのオルタナティブな(それに代わるもうひとつの新しい)価値体系に基づく人間の生き方や社会像について議論し構想する。その際、脱成長を「『経済成長社会から抜け出す』」という否定の側面からだけでなく、『節度ある豊かさ(abondance frugale)』という創造すべきプランの価値の側面からも」([1]153ページ)説いている。留意すべき視点・視座である。

「脱成長社会」へ移行するための具体的なプログラム
経済成長社会との断絶、すなわち脱生産力至上主義社会の構想は、簡素な生活の「好循環」の形をとる。以下の8つの目標(「8つの再生プログラム」)は、生産力至上主義および消費主義の論理と対照を成す重要な点に触れており、相互に依存している。8つの目標は、穏やかで、自立共生的で、持続可能な簡素さから成る「自律社会」(脱成長社会)へ向かう推進力となる。([1]61~68ページ。[2]170~185ページ)
(1)再評価する(réévaluer)
経済成長社会におけるそれとは異なる価値観を再評価することである。例えば、エゴイズムよりも愛他主義が、競争よりも協力が、労働への執着よりも余暇の快楽と遊びの精神が、制約のない消費よりも社会生活の大切さが、グローバルなものよりもローカルなものが、物質的なものよりも人間関係が重視されるべきである。また、自然に対しては侵略者のような態度を改め、庭師(にわし)のような態度をとり、自然と人間との調和を図らなければならない。
(2)概念を再構築する(reconceputualiser)
諸価値を問い直すこと(価値観の変革)は、われわれの世界と実在を理解する諸概念を問い直すことにつながる。特に考慮しなければならないのは、豊かさはお金だけに還元されないということである。本当の豊かさは、何よりもまず、よく機能する社会関係の組織のなかから生まれる。豊かさを問い直すことは、貧しさについて考え直すことも意味する。貧しさもまた、経済的次元や物質的な極貧状態の次元にのみ還元されてはならない。
(3)社会構造を組立て直す〔再構造化〕(restructurer)
変革された価値観に応じて、生産の仕方が変わる。つまり、われわれが生産するものや生産関係(生産に関わる法的・制度的・慣習的な構造)が変わり、社会関係の調整が行われる。ここで重要なことは、<脱成長>社会へ向かうことである。こうすることで、資本主義から脱出するための具体的な問題提起が行われる。
(4)再分配を行う(redistribuer)
生産関係や社会関係の構造が変われば、再分配の仕組みも必然的に変わる。再分配は、階級間、世代間、諸個人の間といった各社会の内部にとどまらず、北側諸国と南側諸国との間における富および自然資産へのアクセス(利用する権利)の分配も含む。再分配は、直接的には「グローバルな消費階級」の権力と手段を削減する。間接的には、誇大妄想的な消費への勧誘を消滅する。
(5)再ローカリゼーションを行う(relocaliser)
地域のニーズ充足のために地域レベルでなされるあらゆる生産活動は、地元企業を通じて、地域単位で実現されなければならない。商品と資本の移動は必要不可欠な範囲に制限されなければならない。地域レベルで実行可能なあらゆる経済的、政治的、文化的な決断が、地域規模でなされなければならない。
(6)削減する(réduire)
われわれの生産様式と消費様式が生物圏に与える影響を縮小しなければならない。われわれの生活習慣となっている過剰消費を制限することをはじめ、ゴミの廃棄や保健衛生上のリスク、ツーリズム(観光旅行)などを削減する必要がある。とりわけ、仕事をしたいと望むすべての人々が雇用されるようにワークシェアリング(仕事の分かち合い)を実施したり、余暇、芸術・製作活動、遊び、会話、生の喜びなどのために、労働時間の削減は肝要である。「仕事」中毒を解毒することである。
(7)再利用する(réutiliser)/(8)リサイクルを行う(recycler)
抑制の効かない美食を制限し、設備の周期的な廃棄を止め、直接には再利用不可能なゴミをリサイクルすることが必要である。物や機械を廃棄せず再利用することは、資源浪費を削減するために必要なだけでなく、物の本当の価値を学び直し、寛大な自然が与える贈与に愛着をもつためにも必要である。最後に、再利用できないものはリサイクルするように努めるべきである。

「8つの再生プログラム」と「贈与」の精神
贈与の精神は脱成長社会構築の要石(かなめいし)である。贈与の精神は、自律社会(脱成長社会)という具体的なユートピアの建設のために提案された好循環を形成する8つの再生プログラム(8つの「R」)のそれぞれの中に顕在している。わけても最初の再生プログラムである「再評価」が特徴的だ。なぜなら市場社会の諸価値―悪化する経済競争、我利我利(がりがり。自分の利益だけを営むこと)の精神、富の際限なき蓄積―と自然に対する略奪的思考に代わり、利他主義、互酬性、コンヴィヴィアリテ(convivialité、楽しい生活を創造し分かち合う倫理)、自然環境の尊重などの諸価値を導入することが大切である。(中略)つましさの中でも分かち合いを行えば万人が満足し、さらには生きる楽しみも生まれるが、我利我利の精神と結びついて豊かさは不幸を生む。そこで2番目の再生プログラム「概念の再構築」は豊かさと貧しさを再考する必要性を重視す。「本当の」豊かさは人間関係からなる様々な財によってつくられる。例えば相互扶助、分かち合い、知識、愛情、友情に基づく財のことである。反対に不幸は何をおいても心理的なものであり、近代社会が連帯的共同体の代わりにもたらした「孤独な群衆」の中の孤独感からもたらされる。([3]88~89ページ)

〇ラトゥーシュにあっては、以上の「8つの再生プログラム」はどれも、ある種のユートピア(希望と夢の源泉)である。そして、その実現は、地域社会という具体的な場所において生起し、地域社会の基本的なニーズの充足をめざすことに収斂される。その点で、「再ローカリゼーション」は、「具体的なユートピアにおいて中心的な位置を占める」([2]186ページ)ものであり、「脱成長」の要諦(ようてい)である。
〇ラトゥーシュは、日本社会について、次のように評している。「日本は新興工業国が台頭する以前に西洋型経済成長を遂げた最後の偉大な社会である」([1]24ページ)。「日本は独自の<脱成長>社会を創造するに相応しい位置にいるように思われる。なぜなら日本には、古(いにしえ)から続く東洋の文化が凶暴な西洋化によって完全に根絶されることなく残っており、そのような伝統文化が現在の経済危機を契機に復活する可能性があるからである」([2]17ページ)。
〇自然環境の破壊や資源の枯渇が進行し、人間(人類)社会は存続の脅威にさらされている。貧困や格差・分断が深刻化し、民主主義が機能不全に陥り、しかもコロナ禍で社会全体が未曽有の危機的状況にある。そんななかで日本社会はいまだ、「経済成長」信仰の呪縛(じゅばく)から逃れられないでいる。オルタナティブな「脱成長」社会の創造は、人間と自然との関係性の再構築とともに、地域社会の政治・経済の自立性や歴史・文化の独自性を模索し再発見・再生することから始まる。それは、グローバルな経済成長や物質的な充足に価値をおく社会とは異なる論理の構築と展開を必要とし、住民自身の主体的・自律的で、連帯的・共働的な地道な実践(「生活基盤の再ローカル化」)に基づく。しかもその活動や運動は、日本の経済や社会に回収されてしまうのではなく、「節度ある豊かな地域社会」の創造に集約されなければならない。
〇本稿で取り上げたラトゥーシュの3冊の本の訳者である中野佳裕は、次のように述べている。「訳者として最も望むことは、ラトゥーシュ思想を通じてわれわれが戦後日本の社会発展の歴史を国際的な文脈で再検討し、その結果として、日本の(玉野井芳郎らの)地域主義や(宮本憲一らの)地方自治論等のオルタナティブな日本を求める思想潮流がより統合された形で急進化され、地域社会の自律自治を再生する実践が活性化されることである」([2]332ページ)。付記しておきたい。

阪野 貢/「人新世」における「変革への途」について考えるために―斎藤幸平著『人新世の「資本論」』のワンポイントメモ―

〇あまりにも難解で、いまだに積読(つんどく)を続けている本にカール・マルクスの『資本論』がある。筆者(阪野)がそれを読もうと思ったきっかけは、当時、社会福祉(社会事業)を学ぶ学生の必読書であった孝橋正一の『全訂・社会事業の基本問題』(ミネルヴァ書房、1962年5月)に挑戦していたときであったと記憶している。孝橋の「社会事業とは、資本主義制度の構造的必然の所産である社会的問題」を対象にする、という一節である。(その後、筆者は、マルクス経済学者宇野弘蔵の「原理論」「段階論」「現状分析」のいわゆる三段階論にハマった時期があった。今は昔である。)
〇「資本論」という言葉が本のタイトルにあるだけで積読になっていた本がいま、筆者の手もとにある。斎藤幸平(さいとう・こうへい)の『人新世の「資本論」』(講談社新書、2020年9月。以下[本書])がそれである。今回は、「資本論」という言葉に対するアレルギー反応が起きる前に、一気に通読することができた。それは、現代に生きる者(ヒト)として、地球を破壊するほどに進んでいる「気候変動」やその影響に関心をもたざるを得ないことによる。とともに、「気候危機」とも言われるその原因の資本主義を丁寧に解き明かし、鋭く批判し、それゆえに刺激的である斎藤の議論・主張による。とりわけ、『資本論』第1巻の刊行後に「マルクスが取り組んでいたのはエコロジー研究と共同体研究」(179ページ)であった。晩年のマルクスは、「資本主義がもたらす近代化が、最終的には人類の解放をもたらす」という「進歩史観」(史的唯物論)と決別した(152ページ)。マルクスがめざした「コミュニズムとは、平等で持続可能な脱成長型経済(定常型経済)」(195ページ)であったという、斎藤による、マルクスの再解釈・再発見(「マルクスの復権」「マルクス理解の理論的大転換」)によるところが大きい。
〇本書のタイトルの「人新世」(ひとしんせい)とは、斎藤によると、「人類の経済活動が地球に与えた影響があまりに大きいため、ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンは、地質学的に見て、地球は新たな年代に突入したと言い、それを『人新世』(Anthropocene)と名付けた。人間たちの活動の痕跡(こんせき)が、地球の表面を覆いつくした年代という意味である」(4ページ)。現在の地球の環境危機は、人(ヒト)の経済活動すなわち資本主義それ自体がもたらしたものであり、地球は新たな地質時代に突入した、というのである。
〇斎藤は本書で、環境危機を乗り越えようとする多様な主義・主張や運動に言及し、その問題点や限界を抉(えぐ)り出す。自然エネルギーや気候変動対策への公共投資によって、新たな雇用や経済成長を生み出そうとする「グリーン・ニューディール」(気候ケインズ主義)や、ロボットや人口知能(AI)の技術革新を加速させれば、持続可能な経済成長が可能になると主張する「加速主義」などについてである。それとともに、斎藤は、「マルクスが求めていたのは、無限の経済成長ではなく、大地=地球を<コモン>として持続可能に管理することであった」(190ページ)という。そして、気候変動問題の解決策として「脱成長コミュニズム」を提唱する。それは、資本主義の転換を迫る、資本主義でも社会主義でもない平等で持続可能な「社会像」である(コミュニズムは一般的には共産主義と訳される)。

〇本書から、<コモン>(共有資源)や「脱成長コミュニズム」に関する斎藤の言説について、筆者が留意したい一文をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

いま求められる脱成長型のポスト資本主義
資本主義は、利潤を増やすための経済成長をけっして止めることはない。/資本は、(経済成長のための)手段を選ばない。気候変動などの環境危機が深刻化することさえも、資本主義にとっては利潤獲得のチャンスになる。山火事が増えれば、火災保険が売れる。バッタが増えれば、農薬が売れる。ネガティブ・エミッション・テクノロジー(大気中の二酸化炭素を回収・除去する技術)は、その副作用が地球を蝕(むしば)むとしても、資本にとっての商機となる。いわゆる惨事便乗型資本主義だ。/このように危機が悪化して苦しむ人々が増えても、資本主義は、最後の最後まで、あわゆる状況に適応する強靭(きょうじん)性を発揮しながら、利潤獲得の機会を見出していくだろう。環境危機を前にしても、資本主義は自ら止まりはしない。/だから、このままいけば、資本主義が地球の表面を徹底的に変えてしまい、人類が生きられない環境になってしまう。それが、「人新世」という時代の終着点である。/それゆえ、無限の経済成長をめざす資本主義に、今、ここで本気で対峙しなくてはならない。私たちの手で資本主義を止めなければ、人類の歴史が終わる。(117~118ページ)
環境危機に立ち向かい、経済成長を抑制する唯一の方法は、私たちの手で資本主義を止めて、脱成長型のポスト資本主義(「脱成長コミュニズム」)に向けて大転換することである。(119ページ)

「脱成長コミュニズム」を実現する道としての<コモン>
マルクスは、人々が生産手段を<コモン>(common)として共同で管理・運営するだけでなく、地球をも<コモン>として管理する社会を、コミュニズム(communism)として構想していた。(142~143ページ)
<コモン>とは、社会的に人々に共有され、管理されるべき冨のことを指す。(中略)/<コモン>は、アメリカ型新自由主義とソ連型国有化の両方に対峙する「第3の道」を切り拓く鍵だといっていい。つまり、市場原理主義のように、あらゆるものを商品化するのでもなく、かといって、ソ連型社会主義のようにあらゆるものの国有化をめざすのでもない。第3の道としての<コモン>は、水や電力、住居、医療、教育といったものを公共財として、自分たちで民主主義的に管理することをめざす。(141ページ)
(すなわち、マルクスがそう考えたように)<コモン>の思想は、貨幣や私有財産を増やすことをめざす個人主義的な生産から、将来社会においては「協同的富」を共同で管理する生産に代わることをめざすのである。(201ページ)

「脱成長コミュニズム」を実現するための具体的方策
「脱成長コミュニズム」をどのように実現させるのか、そのためになすべきことは大きく5点にまとめられる。
(1)使用価値経済への転換/生産の目的を商品としての「価値」(儲け)の増大すなわち利潤の獲得ではなく、「使用価値」(有用性。商品やサービスの質)に重きを置いた経済に転換して、大量生産・大量消費から脱却する。別言すれば、生産を社会的な計画のもとに置き、人々の基本的ニーズを満たすことを重視する。
(2)労働時間の短縮/労働時間を削減して、生活の質を向上させる。社会の再生産にとって本当に必要な生産に労働力を意識的に配分し、金儲けのためだけの、意味のない仕事を大幅に減らす。「使用価値」の経済に向けた転換には、労働時間の短縮が根本条件である。
(3)画一的な分業の廃止/画一的な労働をもたらす分業を廃止して、労働の創造性を回復させる。資本主義の分業体制のもとでは、労働は画一的で、単調な作業が多い。労働をより創造的な、自己実現の活動に変えていくためには、多種多様な労働に従事できる生産現場の設計が好ましい。
(4)生産過程の民主化/生産のプロセスの民主化を進めて、経済を減速させる。「使用価値」に重きを置きつつ、労働時間を短縮するために、開放的技術を導入していく。そのためには、一部の経営陣の意向に基づいて非民主的な決定が行われるのではなく、労働者たちが生産における意思決定権を握る必要がある。
(5)エッセンシャル・ワークの重視/使用価値経済に転換し、労働集約型のエッセンシャル・ワーク(生活維持に不可欠な仕事)を重視する。ロボットやAIでは対応しきれない、ケアやコミュニケーションを必要とする介護や看護、保育や教育などの労働がしっかりと評価される必要がある。(300~314ページ)

<コモン>と「社会的共通資本」(宇沢弘文)の違い
(<コモン>に関して、より一般的に馴染みがある概念として、宇沢弘文の「社会的共通資本」がある。)宇沢は、人々が「豊かな社会」で暮らし、繁栄するためには、一定の条件が満たされなくてはならない。そうした条件が、水や土壌のような自然環境、電力や交通機関といった社会的インフラ、教育や医療といった社会制度である。これらを、社会全体にとって共通の財産として、国家のルールや市場的基準に任せずに、社会的に管理・運営していこうと考えたのである。<コモン>の発想も同じだ。/ただし、「社会的共通資本」と比較すると、<コモン>は専門家任せではなく、市民が民主的・水平的に共同管理に参加することを重視する。そして、最終的には、この<コモン>の領域をどんどん拡張していくことで、資本主義の超克(ちょうこく。困難を乗り越えること)をめざすという決定的な違いがある。(141~142ページ)

〇経済成長は確かに、私たちの生活や社会を物質的に豊かにした。それは、資本主義のグローバル化が進むなかで、グローバル・ノース(北の先進国)によるグローバル・サウス(南の発展途上国)からの労働力の搾取や自然資源の収奪のうえに成り立っている。グローバル・ノースの「過剰発展」や大量生産・大量消費のライフスタイル(「帝国的生活様式」)は、グローバル・サウスの人々の劣悪な生活条件に依存している。そしてまた、グローバル・サウスはそのグローバル・ノースに依存せざるを得ない。ここに資本主義の「矛盾」と「悲劇」がある(27~30ページ)。いずれにしろ、資本主義社会は、絶えず「外部性」を作り出し、そこに負担や犠牲を強いる・転嫁することによって発展してきたのである。
〇現代の資本主義は、「不平等を一層拡大させながら、グローバルな環境危機を悪化させてしまう」。資本主義は、豊かさを生み出すシステムではなく、「私たちの生活に欠乏をもたらしている」。「持続可能で公正な社会」を実現するためには、資本主義によって解体させられた、人々が生産手段を自律的・水平的に「自治管理」「共同管理」する<コモン>を再建する必要がある。そのための唯一の選択肢が、マルクスにみる「脱成長コミュニズム」である(258、290、360ページ)。斎藤の、ラディカルな主張である。
〇それを換言すれば、生産手段を<コモン>として社会的に所有し、民主的に管理することによって、経済活動は減退するが、現代の環境危機を乗り越えることはできる。このコミュニズムの萌芽は、「21世紀の環境革命として花開く可能性を秘めている」(323ページ)、となる。ここに本書の核心があり、思考や概念の斬新さをみる。
〇そして、斎藤は、「資本の専制から、この地球という唯一の故郷を守る」ためには、「3.5%」(ハーヴァード大学の政治学者エリカ・チェノウェスらの研究による)の人々が非暴力的な方法で、本気で立ち上がることであるという(362、364ページ)。この点は非現実的な楽観論と評されるおそれなしとしないが、社会に大きなインパクトを与えた多くの抗議活動や社会運動は、最初は少人数で始まっている。本稿のタイトルにいう「変革への途」が含意するところでもある。

付記
〇論拠は不明であるが、斎藤の挑発的で小気味よい指摘やフレーズに次のようなものがある。あえて付記しておくことにする。

2015年9月に国連で開かれたサミットによって採択され、各国政府も大企業も推進する「SDGs」(エス・ディー・ジーズ、Sustainable Development Goals、持続可能な開発目標)は、「アリバイ作りのようなものであり、目下の危機から目を背(そむ)けさせる効果しかない。(中略)SDGsまさに現代版『大衆のアヘン』である」(4ページ)。

「高度経済成長の恩恵を受けてあとは逃げ切るだけの団塊世代の人々が、脱成長という『綺麗事(きれいごと)』を吹聴している。(中略)若いころに経済成長の果実を享受しておきながら、一線を退いたそのときから『このままゆっくり日本経済は衰退していけばいい』と言い始めたというわけである(120ページ)。(ちなみに、「平等に、緩(ゆる)やかに貧しくなっていけばいい」という上野千鶴子(うえの・ちずこ)は1948年生まれであり、「本当に豊かな生き方は『ローカル』と『定常経済』にある」という内田樹(うちだ・たつる)は1950年生まれである)。

(「定常型社会」論を展開する広井良典(ひろい・よしのり)や社会経済学者の佐伯啓思(さえき・けいし)によれば)「資本主義的市場経済を維持したまま、資本の成長を止めることができるという」(128~129ページ)。「利潤獲得に駆り立てられた経済成長という資本主義の本質的な特徴をなくそうとしながら、資本主義を維持したいと願うのは、丸い三角を描くようなものである。まさに、真の『空想主義』である。これが旧世代の脱成長論の限界なのだ」(133ページ)。

阪野 貢/「人間は善であると同時に悪である」という言説―リチャード・ランガム著『善と悪のパラドックス』のワンポイントメモ―

〇進化論や人類学などに関して全くの門外漢である筆者(阪野)が、興味深く読んだ本がある。リチャード・ランガム著・依田卓巳訳『善と悪のパラドックス―ヒトの進化と<自己家畜化>の歴史―』(NTT出版、2020年10月。以下[本書])がそれである。カバーの「そで」には次のような紹介文が記されている。「最も温厚で、最も残忍な種=ホモ・サピエンス。協力的で思いやりがありながら、同時に残忍で攻撃的な人間の特性は、いかにして育まれたのか? <自己家畜化>という人間の進化特性を手がかりに、(中略)人類進化の秘密に迫る」。この一文が目に留まったときなぜか、医療や介護の現場で献身的に働く職員の姿とともに、2016年7月の「相模原障がい者施設殺傷事件」のこと、2018年10月に20年ぶりに訪れた韓国の板門店(パンムンジョム)や非武装地帯(DMZ)の風景などが脳裏をかすめた(昨年12月に1週間の検査入院をしたこと、25年近く相模原市に居住していたこと、1989年前後の10年近くしばしば韓国・ソウルを訪ねていたこと、などによるのであろうか)。
〇「人間の本性(本質)は善か悪か」ではなく、「善良であると同時に邪悪である」(19ページ)。攻撃性の資質に関して人間は「どっちつかずであり、どちらでもある」(356ページ)。本書では、この矛盾を解明するために、「反応的攻撃性」(reactive aggression)と「能動的攻撃性」(proactive aggression)というキー概念を用い、「自己家畜化」(self-domestication)という仮説に基づいた進化論を展開する。その際、「専門的な論文と、その広範囲に及ぶ意味をわかりやすく(しかも丁寧に)紹介する」(5ページ)。筆者でも好奇心をもって通読できた要因のひとつである。
〇ランガムにあっては、「ほかの霊長類と比較して、人間が日々の生活で暴力的になることは例外的に少ないが、戦争時の暴力による死亡の割合は例外的に高い」という、この矛盾(paradox、背反)が「善と悪のパラドックス」(34ページ)である。それを解消するために用いる概念が、「反応的攻撃性」と「能動的攻撃性」である。反応的攻撃性は「恐怖や激情に駆られて衝動的に暴力をふるう性質」(「激情タイプ」)をいい、能動的攻撃性は「冷静に計画して相手を排除する性質」(「冷静沈着」タイプ)をいう(16、376ページ)。人間は、ほかの動物に比べて反応的攻撃性が低く、能動的攻撃性が高い。
〇その理由は「家畜化」にある。「ヒトは『家畜化された種』と呼んでさしつかえない特徴を充分に備えている」(16ページ)。その際の「家畜化」とは、生涯のあいだに飼い慣らされるというのではなく、「遺伝的適応の結果として従順になる」という意味である。ランガムは、「ほかの種にうながされることなく、反応的攻撃性が低下するプロセスを『自己家畜化』と呼ぶ」(116ページ)。「人間の(反応的攻撃性が弱く)従順な行動は、家畜化された種を思わせるが、われわれを家畜化しうる種がいない以上、自己家畜化したにちがいない」(82~83ページ)。
〇では、ヒトの自己家畜化はどうやって起きたのか。ランガムはいう。「ヒトは、おそらく比較的穏やかな社会的圧力に合わせて、とりわけ高い反応的攻撃性を示す個体をときおり排除しながら、ゆっくりと自己家畜化していったのだろう」(209ページ)。「言語能力の向上にともない、集団内で連携して支配的な攻撃者を排除、追放する個人の能力が発達した。その連合で、過度に攻撃的な人間を淘汰することが可能になり、結果として(中略)自己家畜化が進行した」(213ページ)。すなわち、横暴な支配者を連帯行動によって意図的・計画的に排除(「処刑」)する能動的攻撃性の発達が、(処刑の恐怖によって)反応的攻撃性を抑制し、ヒトの自己家畜化が進んだ、というのである。さらに自己家畜化の副産物として、有益な情報を意図的に共有する「協調的コミュニケーション」の能力(240ページ)が発達した、とランガムはいう。
〇およそ以上がランガムの議論・見識の要点である。一言でいえば、「人間は善であると同時に悪である」(12ページ)。「人類は『最高』で『最悪』の種になった」。すなわち、性善説か性悪説かの二者択一ではない。そのうえでランガムは、次のように述べて本書を締めくくる。

私たちはときに協調を価値ある目標と考えるが、道徳と同じく、それは善にも悪にもなりうる。/人類が探求すべき重要なことは、協調の促進ではない。その目標はむしろ単純で、家畜化と道徳感覚によってしっかりと基礎づけられている。それより困難な課題は、組織的な暴力が持つ力をいかに軽減させるかだ。/私たちはその道を歩きはじめたが、まだ先は長い。(366ページ)

〇筆者(阪野)は、市民福祉教育の思想や哲学、原理や価値についてどう考えるか、市民福祉教育の実践や研究の根底にはいかなる生命観や人間観、生活観を必要不可欠とするか、そんなことを考えている。本稿は、そのとてつもなく大きな課題にアプローチするためのひとつのメモにすぎない。

大橋謙策/「日本社会福祉士会NEWS No197(2020年9月)」を読んで、疑問に思うこと(「老爺心お節介情報」第12号、2020年10月11日)

今回のニューズレターは地域共生社会政策を踏まえて国の2021年度予算等への要望と提案を特集している。このニューズレターに出てくる用語に疑問と違和感を感じたので話題提供したい。

➀ 国への要望事項で使われている用語の中に、「生活保護ケースワーカー」「、スーパーバイザー」、「ソーシャルアクション」が使用されているが、その用語の意味を省庁の関係者は理解できるであろうか。また、社会福祉学界で“慣用句”的に、何気なく使っている用語ではあるが、それを“吟味”しないで、使っていていいものだろうか。
② 同じく、ニューズレターの「倫理綱領」の欄に出てくる「クライエント」という語句の使用もこのままでいいのであろうか、

私は「ソーシャルワーク機能」という用語を1990年前後から意識して使ってきた。
1990年以前に“ソーシャルワーク機能”という用語を使用していた研究者を私は寡聞にして知らない(知っている方がいたら教えて頂きたい)。
なぜ、私が「ソーシャルワーク機能」という用語を意識して使用するようになったかは、そのころまで、社会福祉研究者、とりわけ社会福祉方法論を研究している方々が、ソーシャルワーカー=社会福祉士ととらえて論文を書いたり、話をしているのに違和感を感じたからである。社会福祉士は“相談援助”という位置づけであり、必ずしもソーシャルワーク機能を具現化出来る立ち位置にない上に、かつ、その当時、中央集権的機関委任事務体制であった時代(1990年に変るが)でもあり、社会福祉実践現場は福祉サービスを必要としている人が既存の社会福祉制度に該当するかどうかを判断する業務が中心で、とてもソーシャルワークとはいえず、私は日本には1990年までソーシャルワークはなかったと考えていたし、そういろいろな会合で述べてきた。
日本の社会福祉界にソーシャルワークを定着させるためには、かつ社会福祉士をソーシャルワークに関する専門職として社会的承認を得るためには、そもそもソーシャルワーク機能とはなにかを明らかにし、その機能は教師も弁護士も、保健師もソーシャルワーク機能の一部を有しているが、その機能全般を統合的に具現化出来るようにしないと社会福祉士の地位は確立しないという立場から、ソーシャルワーク機能という用語を使ってきた。そのソーシャルワーク機能といういい方が、今日ではほぼ定着したことは嬉しい限りである。

#「生活保護ケースワーカー」は「生活保担当現業員」では苗いけないのか。“ソーシャルワーク機能”が定着してきている時に、“ケースワーク”という用語を使うのであろうか。更には、「生活保護担当現業員」は“ケースワーク”だけで業務が遂行できるのであろうか。

しかしながら、それ以外では、相変わらずWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)文化の中で確立してきた、かつアメリカの社会構造の中で確立してきたソーシャルワークに関わる用語を無自覚的に、当たり前のように使用することに正直驚いていると同時に、それが本当の日本の専門職なのかと疑義を感じざるを得ない。
私は、玉木千賀子さんの著書『ヴァルネラビリティへの支援――ソーシャルワークを問い直すー』(相川書房)の推薦の辞で、そのことを書いた(是非読んで欲しい)。「クライエント」、「インテーク」、「ワーカビリティ」をごく当たり前に使って、痛痒を感じないソーシャルワークに関する専門職というのは、果たして専門職なのであろうか。言葉だけが“飛んでいる”のではないだろうかと思わざるを得ない。“福祉サービスを必要としながら、社会福祉の制度、サービス、相談窓口につながっていない人”をも、「クライエント」と呼ぶのであろうか。社会福祉学界では、ニーズ論、ディマンド論が大きな問題であって、今や厚生労働省も「地域共生社会政策」の流れの中で、“待ちの姿勢ではなく、アウオトリーチして問題を発見して欲しい”と言っている時代でも「クライエント」なのであろうか。
同じことは、「ソーシャルアクション」という用語もそうである。一般的にソーシャルアクションを起こすという言い方(その用語は使い易いので、私も一般的な使い方として使っていることがある)とソーシャルワーク機能を展開する上で使う「ソーシャルアクション」は同じなのか、違うのかである。
かつて、東京学芸大学の高良麻子先生が書かれた『日本におけるソーシャルアクションの実践モデルーー「制度から排除」への対処』について、高良先生に同じような感想を述べさせて頂いた。一般的に使われている用語を、社会福祉分野である意味を持たせて使う場合には自ずと説明をしないといけないのではないかと思っている。専門職だけに通用する意味で使うとすれば、それはある意味、専門職の“思い上がり”であり、“上から目線”になりかねない。意識して、専門職はそれらのことについて自戒すべきなのではないだろうか。
「ソーシャルアクション」は住民の立場から言えば、陳情なのか、告発なのか、制度改善運動なのかということであろう。専門職が使う「ソーシャルアクション」にはそれらが含まれているというなら、住民が一般的に使用している用語を使えばいいのではないか。それらと違ったソーシャルワーク分野における独特の“ソーシャルアクション”という“専門職の機能を発揮する独自領域”があるというのなら、それをきちんと説明した上で使って欲しい。
更には、「スーパーバイザー」という用語の使い方も同じである。“スーパーバイザー”とは、“施設、機関、病院などにおいて、スーパービジョンを行う熟練したソーシャルワークの指導担当者を指す”(『現代社会福祉事典』1982年、全社協、秋山智久執筆)と説明され、かつ、その“スーパービジョン”とは、“かつて指導監督と訳したことがあるが、現在では正確な意味を伝えるため原語をそのまま使用する。つまり、具体的なケースに関し、ソーシャルワーカーが援助内容を報告し、スーパーバイザーはそれを受けてクライエントや家族、状況の理解を深めさせ、面接など援助方法について示唆を与えたり、考えさせたりする教育・訓練の方法である”(前掲同書、黒川昭登執筆)と解説している。
この説明で言えば、その役割を担うのは、上司の場合もあれば、チームアプローチをしている場合には他の専門職かも知れないし、あるいは所属している学会や専門職団体の同僚かも知れない分けで、「スーパーバイザー」と言って、それがどのような職種で、どこに所属してその業務を行うのか、指導を受けるソーシャルワーカーとの関係やその指導の妥当性を担保する機能があるのかどうかもわからないのに、「スーパーバイザー」を配置しろという使い方には違和感を感じざるを得ない。
組織のなかで、援助方針に関し、問題を発見し、論議し、改善のための企画提案をするという営みは組織的にとても重要なことであり、かつそれでも十分でないとすれば顧問弁護士制度や顧問会計士制度と同じように外部監査制度、外部評価制度をシステムとしてどう位置付けるかを考えて欲しい。私自身はいくつかの自治体で顧問やアドバイザーとして職務を担ったことがあるが、“スーパーバイザー”という意識はなかった。

大橋謙策/地域共生社会政策時代における地域福祉・地域包括ケア推進の10のポイント(「老爺心お節介情報」第6号、2020年8月2日)

2015年より厚生労働省で政策化が進められている地域共生社会政策は、我々日本地域福祉研究所が従来唱え、各地の市町村と協働して、開発、実践してきた「地域福祉」「地域包括ケア」の考え方及びシステムの具現化である。

(1)「地域福祉」とは、住民の自立生活(6つの自立要件――労働的・経済的自立、精神的・文化的自立、生活技術的・家政管理的自立、身体的・健康的自立、社会関係的・人間関係的自立、政治的・契約的自立――とその前提としての住宅保障)を基礎自治体である市町村を基盤に保障していく社会福祉の新しい考え方である。
(2)「自立生活」の保障の目的、内容は憲法第25条に基づく、“最低生活”の保障という“救貧”的考え方ではなく、憲法第13条に基づく、全ての国民が幸福追求、自己実現を図れるように支援するものである。それは1995年、国の社会保障審議会の勧告でも提唱された考え方である。
(3)「地域福祉」を推進するためには、住民と行政との「協働」が欠かせない。したがって、住民参加による市町村の地域福祉計画づくりが不可欠である。地域福祉計画は、従来の高齢者分野、子育て分野、障害者分野を統合的に地域福祉の視点を踏まえて策定すると同時に、健康増進計画や自殺予防、再犯防止、成年後見推進、農福連携等の従来の社会福祉行政の枠を超えて地域住民の健康と暮らしを守り、生きがいのある、差別・偏見のない、住んでいて良かったと思える市町村をつくる計画である。できれば、策定された地域福祉計画の進行管理も含めて、日常的に市町村の社会福祉行政について討議できる、条例設置による「地域保健福祉審議会」(仮称)の設置が求められる。
(4)住民の自立生活を保障していくためには、戦後の社会福祉行政が行ってきた属性分野毎の縦割り福祉行政(高齢者福祉課、障害福祉課、子育て支援課等)を再編成して、住民の出来るだけ身近なところ、アクセスしやすいところで相談をたらい回しさせることなく、かつ子ども、障害者、高齢者、生活困窮者等区別なく、福祉サービスを必要としているすべての人及びその家族、「世帯全体」への支援を一か所(ワンストップ)で行える総合相談体制システムの構築及びその拠点整備が必要である。
(5)住民の自立生活を保障していくためには「地域トータルケアシステム」(地域包括ケア)という医療、介護、福祉の連携が欠かせず、医療機能の構造化と地域化(中核病院と開業医(かかりつけ医)との病診連携、開業医(かかりつけ医)と介護支援専門員、訪問看護、保健師、障害相談支援員等との連携)を日常生活圏域の地域包括支援センター単位で展開できるシステムの構築が必要である。
(6)住民の自立生活を保障していくためには、制度化されているサービスと近隣住民などによるインフォーマルサービスとが有機化される必要がある。わけてもサービスを必要としている人を地域から排除せず、孤立させず、その人を支えるソーシャルサポートネットワーク(情緒的支援、手段的支援、情報的支援、人として認め、その人なりができる役割を遂行できるように支援)づくりが重要な機能となる。これらの機能、活動を展開するシステムとして、先に述べた総合相談体制とリンクする形で、コミュニティソーシャルワークを展開できるシステムの構築が必要である。
(7)コミュニティソーシャルワークを展開できるシステムには、別紙に書いてあるコミュニティソーシャルワーク研修の要件を体得した職員の配置が必要である。それは、地域という面を基盤にして従来業務を展開してきた社会福祉協議会の職員がこれらの研修要件を身に付けて配属されることが望ましい。そのためには、地域のニーズキャッチ(課題把握)機能、潜在化しがちな福祉サービスを必要としている人を発見し、つながる機能、自立生活支援に関わる生活福祉資金、成年後見制度、日常自立生活支援等の業務を担当地域ごとに総合的に対応できるようにするための社会福祉協議会の事務組織の改編が望まれる。
(8)「地域福祉」の推進には、相談の窓口、災害時の福祉避難所等において、社会福祉施設が大きな役割を果たせる。施設を経営している社会福祉法人は社会福祉法により、地域貢献をすることが義務付けられているので、地域包括ケアセンター圏域ごとに施設連絡協議会を設置し、民生委員、児童委員や地区社会福祉協議会と協働して問題解決を図るシステムの構築が必要である。
(9)「地域福祉」は、街づくりにも貢献できる。空家を活用しての居場所づくり、障害者が農業分野で働く「農福連携」、社会福祉施設が日々使用するお米や野菜を地元農家と契約して使用する地産地消の活動等「福祉でまちづくり」という考え方が重要である。そのために、商工会、JA等との連携が求められる。
(10)単身高齢者、単身障害者が増大し、家族、親族に頼ることができなくなってきている状況を踏まえ、「最期まで、地域で暮らし、地域に見守られ、地域で看取られる地域生活総合支援サービス」の構築が必要である。