「雑感」カテゴリーアーカイブ

鳥居一頼のサロン(8):「福祉の授業の醍醐味」

「福祉の授業の醍醐味」

福祉の授業を終えて 校長室に戻った
校長は ソファに座ったまま 一言も発しなかった
沈黙が しばらく続く
耐えかねて 一緒に参観した教員が 口を開いた
「校長先生 そうですよね!」
校長は ただうなずいた
「どうしたんですか?」
「あの子らが 一人ひとり 自分の意見を発表するのを 初めて聞いたんです」

6年生45人との授業は 約束事が二つあった
ひとつは 
意見のある子は 挙手せず 必ず立つこと
自分の意見を聞いてほしいという 意思表示のカタチ
だから立つ
ふたつに ある子の発言を受けて 「同じです」という言葉を 禁句にしたこと
「同じです」と答えた子どもに 
「君の言葉で 言ってごらん」と促すと
少し意味が違った言葉が 返ってくる
「ほら 友だちとは少し違うね まったく同じではないね 
まったく同じには 決してならないんだ 
それが 人とは違う“きみ”である ということなんだよ」
子どもは 嬉しそうに 笑顔を見せた

そこから 子どもらは「自分の言葉」で 話さなくてはならなくなった
質問した
全員が立つまで 待った
見ている教員らは いぶかる
最後の一人が 不安げに立った

さあ 答えよう
順番に 自分の言葉で 答えていく
自分の番が終わると 緊張感から解放されてか ほっとため息を吐く
順番が進むにつれ 言葉につまりながらも 発言は続く 
前の子が何を言ったのかを 頭の中で反芻(はんすう)しながら 言い終える
残り十余人 山場を迎えた
「これから発表する子は 大変だね
だって みんなが言葉を 出し尽くしてしまった後に 
どんな言葉を使ったらいいのか すごく悩んじゃうね
最初に考えていた 自分の言葉を使われてしまったら 
また別の言葉で 考えなくてはならない
今まで発表してきた子よりも 
頭の中のコンピュータが ものすごい勢いで高速回転して 
言葉を探しているんだ 
すごいだろう 
だから がんばれって 応援してあげて」

その瞬間 自分の番が終わって ホッとした子どもたちの 目の色が変わった
「自分の言葉で話す」 
その大変さと面白さを 教室のみんなで 初めて味わう喜び
もがきながらも 言葉を生み出す苦しみを 共有した瞬間だった
最後のひとりの発表が終わると
期せずして 歓喜の拍手が起こった
やり遂げたという 充実感と満足感が 笑顔になって 教室を満たした
 
「あの6年生は 自分の意見を 自分から進んで発表する子どもたちでは ないんです」
何度も うなずく校長
「一人ひとりが 真剣に言葉を探しながら 自分の意見を堂々と発表したんですね」
強く うなずく校長
「僕ら教員が 打ちのめされた授業だったんです」
下を向いて うなずくしかない校長

子どもたちは 「自分の意見を持てず 進んで発表できない子」だと
烙印(らくいん)を押されたまま 6年間 学校に通ってきた
そう勝手に思い込んだ 教員集団は 子どもたちを洗脳(せんのう)し 
“出来ない子”のイメージを 植え付けてきた
だから 自信なげに 誰かに追従し 周りに調子を合わせる  
みんなと“同じです”が いつも逃げ道となり 卒業のときを 迎えていた

きょうの日が 子ども自身も教員も 変えた
取り返しのつかない “思い違い”をしていたことを 初めて知らされたのだ
そこには 彼らが求めてきた“子ども”たちが 実在していたのだった
予想外の展開は 教員の思惑(おもわく)から外れ
“以外だ”と いままで片付けてきた 教員の思い上がりや思い違いに 
気づかせるのは 容易なことではない
でも 子どもらは いとも簡単に 集団でやってのけた
自分にも仲間にも そして教員にも ポジティブな言動で 
見事に 他人(ひと)とは違う“わたし”であることを 意思表示したのだ 

教室での同調圧力が 子どもを圧迫し 
どれだけ その成長を阻害(そがい)してきたことか
子どもを理解するチャンスを 
どれだけ 見逃してきたことか
教員も子どもも その思い込みを変える機会を 
どれだけ 放棄(ほうき)してきたことか
子どもが身につけた能力や態度を引き出すことに 
どれだけ 手抜きしてきたことか
子どもに 負のレッテルを貼って 貶(おとし)めてきたことへの 深い悔恨(かいこん)
それが 重い沈黙の理由だった 

教員が思い込む その頑(かたく)なさを 打破しなければ 
子どもは いつまでも 彼らの思惑の中でしか 生きられない
彼らこそが 意識を変えなければならない存在そのもの
子どもと向き合うということは 
子どもの多様な有り様を共に見て 理解し合うということ
そこに 陶冶(とうや)の正否が 問われるのだ

なぜ 一期一会の「福祉の授業」で 子どもらは 躍動したのか
授業は 子どもらのおもいを そのままただ受けとめただけ
そこに生まれたのは “信じ合う”という空気
だから 意思表示することが 素直に面白いと感じる
自己肯定感が 仲間と共有された結果
彼らの思考と判断と行動を縛ってきた“しがらみ”から 自らを解き放った 
授業という枠組みの中で機能してきた “評価される発言”という苦痛ではなく 
自由で豊かな発想を 自らの言葉で語る喜びを 彼らは深く味わったのだ 

もしも この機会がなかったら…
彼らは 誤解されたままの 子どもたちであったに違いない
学び合うことの喜びを知ることなく “生きる”ということは 
悲劇でしかない

福祉の授業の醍醐味(だいごみ)は 
人間教師としての 「共育への道」を 探求すること
それは 
子どもが魅了(みりょう)される 学びの世界へと導く 道程となる

〔鳥居一頼/2019年7月12日〕

鳥居一頼のサロン(7):「The End of JAPAN」

「The End of JAPAN」

いつの頃から 社会に 
こうも鈍感(どんかん)な人間が 増殖蔓延(ぞうしょくまんえん)していったのか。

公害問題は 水俣病とスモッグともに過去形で語られ ジエンド。
環境問題を提起した 大津波による原発の爆発事故後の 全面停止も 
他所の原発再開で ジエンド。
政(まつりごと)のごたごたは 
為政者の誠実な説明拒否と 官僚の巧妙な忖度(そんたく)で ジエンド。
経済の振興も 数字上のバーチャルな世界を誇張(こちょう)して ジエンド。
国防も 沖縄の民の声を無視するばかりか 
ただただ 膨れあがった防衛費の浪費に 勇往邁進(ゆうおうまいしん)して ジエンド
子育ても学校教育も 子らの知情意 そして体の成長のバランスが崩れて ジエンド
医療と福祉は 保険料と年金のパイの実の奪い合いで破綻(はたん)し ジエンド。
天災地変は 国土防災力の欠如が露呈(ろてい)し 
回避不可能なため 被害甚大(ひがいじんだい)に陥(おちい)り ジエンド。

民は “鈍感力”という自衛力を 強化した。
社会に逆らわず 人ごとに干渉(かんしょう)せず
“あきらめ”という 思考停止の保護バリアを 張り巡らす。
わずかばかりの生活費を 稼ぐだけの仕事に就き 
欲をかかず ひたすら慎(つつ)ましく暮らす。  
何も考えず 不平も言わず スマホに指を走らせるだけ。
特にすることもなく 寿命が尽きて 
ジエンド。

こうして 
無為無策(むいむさく)の民は 
鈍感力で “生きにくさ”を 克服して 
静かに 終焉(しゅうえん)のときを 迎えた。
虚構(きょこう)の政を行った 権力者は 
支配する民を失い 自滅(じめつ)した……そうな。

残されたもの。 
返済不能な 国の莫大(ばくだい)な負債
都会の 廃墟(はいきょ)と化した 灰色の街並み
そして 毀損(きそん)された 戦争放棄の崇高(すうこう)な憲法
だった……とさ。

〔鳥居一頼/2019年7月6日〕

「生きづらさ」再考―一昔前と変わらぬ“いま”を考えるためのメモ―

〇「生きづらさ」という言葉や概念が使われるようになって久しい。藤野友紀(教育学)によると、「生きづらさ」という言葉が用いられたのは、雑誌記事検索で調べてみると、1981年の日本精神神経学会総会において「主体的社会関係形成の障害と抑制」として語られたのが最初である。2000年以降、「生きづらさ」などをタイトルに掲げる論考は一挙に増え、その学問的・実践的分野や領域も確実に拡がっている(藤野友紀「『支援』研究のはじまりにあたって―生きづらさと障害の起源―」『子ども発達臨床研究』創刊号、北海道大学、2007年3月、46ページ)。
〇「生きづらさ」の近接・関連用語に「障害」や「バリア(障壁)」がある。「障害」についてWHO(世界保健機関)は、2001年5月、ICIDH(国際障害分類)に変えて人間の生活機能と障害の分類法としてICF(国際生活機能分類)の考え方を提唱した。それは、「心身機能・身体構造」「活動」「参加」の3つの次元と「環境因子」「個人因子」の2つの因子によって構成されている。「バリア(障壁)」は、一般的には「物理的バリア」「社会的バリア」「制度的バリア」「心理的バリア」の4つに分類される。周知の通りである。
〇「生きづらさ」という用語や概念は曖昧である。しかもそれは、子ども・青年や貧困者、高齢者、障がい者などに固有のものとして、個人的・主観的な心情や問題・課題として捉えられることが多い。しかしそれは、モラルハザード(道徳性や倫理観の混乱・欠如)によるものではなく、現代日本の社会構造(現代資本主義)の政治的・経済的・社会的そして歴史的な欠陥や矛盾によるものである。その欠陥や矛盾は、1990年代、2000年代以降、なんら解決・解消されることなく、むしろ多様化・多層化・多元化が進んでいる。2016年3月に施行された安全保障関連法や2018年12月に発効した環太平洋パートナーシップ(TPP)協定(経済連携協定)などによる現代版「富国強兵」政策が推進される“いま”においても、である。
〇「生きづらさ」とは、社会や組織のなかに自分の「居場所」(「要場所」)が見つからず、将来(あす)への希望や展望をもつことができない生活上の困難や不利益を被(こうむ)っている社会的排除の状態をいう。
〇「生きづらさ」は、一人ひとりが抱える困難・不利益や不安・不満を自己責任に「内閉化した問題」や「他者との関係性」の歪(ゆが)みなどとして、複雑で多面的な様相を呈している。貧困のなかで思考や意欲までも奪われる人(湯浅誠「意欲の貧困」)や、社会や組織・集団における人間関係をうまくつくれない人などが思い起こされる。そうした人たちは、社会(財界)が求める制度やシステムによって選別・分断され、排除されている。
〇“いま”求められるのは、「生きづらさ」の正体を暴(あば)き、その今日的現状をあぶり出し、その解決策(社会参加支援や居場所支援などの社会的包摂支援)を探求することである。それは、対症療法的な単なる処方箋ではなく、「下から」のまちづくりや地域・社会改革を志向するものでなければならない。その担い手は言うまでもなく、「生きづらさ」のなかにいる一人ひとりの住民・市民であり、社会的・政治的アプローチを行う支援者や組織・団体である。そこでは、表面的な同情や共感ではなく、真の連携や共働のあり方が厳しく問われる。
〇「生きづらさ」や「生きにくさ」をタイトルにした本は、筆者(阪野)の手もとには5冊しかない。以下がそれである。

(1) 中西新太郎『〈生きにくさ〉の根はどこにあるのか―格差社会と若者のいま―』(前夜セミナーBOOK)特定非営利活動法人 前夜、2007年3月(以下[1])
「苦しいけれど声が出せない日常を生きるのが若い世代の状態である」(5ページ)。本書は、その「生きづらさ」や「現代日本の抑圧構造」を確かめ、検証するために行われたセミナーの記録を中心に編まれたものである。国家主義と新自由主義とを合体させた政治体制のなかで、「まさか生存権が保障されないはずはない、という思いこみは通用しない。生きづらいと思うことさえ許されない抑圧状況はいっそう深く、広く、この社会に進行している」(6ページ)と中西新太郎(社会哲学)は説く。

(2) 湯浅誠・川添誠編『「生きづらさ」の臨界―“溜め”のある社会へ―』旬報社、2008年11月(以下[2])
本書は、社会活動家である湯浅誠と川添誠が「現代日本の生きづらさ」をテーマに、本田由紀(教育社会学)、中西新太郎(社会哲学)、後藤道夫(社会哲学)の研究者と行った鼎談を纏(まと)めたものである。湯浅は言う。「結局、私たちは『NOと言える市民・労働者・消費者になろう』と呼びかけたいんだ、と最近よく思います。こんな政治家はいらない、そんな非人間的な労働はしない、そんな商品は買わない、と個々の場面で人間(生)・労働・商品のダンピングに否をつきつけられる社会にしたい。それが言えるなら、そしてそれを言っても孤立しない、大丈夫だと感じられるようになれば、この社会の『生きづらさ』は相当程度軽減するだろう、というのがわたしの見通しです」(9ページ)。

(3) 香山リカ・上野千鶴子・嶋根克己『「生きづらさ」の時代―香山リカ×上野千鶴子+専大生―』専修大学出版局、2010年11月(以下[3])
「現在確かに『生きづらい』状況が、人間の内側(こころ)にも外側(社会)にも蔓延している」(荒木敏夫、8ページ)。本書は、「生きづらさのゆくえ」をテーマにした講演とシンポジュウ、それを聞いた学生たちの座談会の記録である。講演では、香山リカ(精神科医)が「生きるのがしんどい、と言う若者たち」、上野千鶴子(社会学)が「ネオリベ改革がもたらしたもの」について「こころ」や「社会」の問題を解きほぐす。

(4) 岡田尊司『「生きづらさ」を超える哲学』(PHP新書)PHP研究所、2008年12月
親と折り合いが悪い人、いわれのない不安に悩む人、心に空虚感を抱えている人、「絆」に縛られている人、自分が何者かわからない人、生きる意味が見つからない人。「生きづらさ」を抱える人が増えている。アルツール・ショーペンハウァー(ドイツの哲学者)、ヘルマン・ヘッセ(ドイツの詩人・小説家)、サマセット・モーム(イギリスの小説家・劇作家)らの生き方や岡田尊司(精神科医)自身の豊富な臨床経験を通して、「生きづらさ」を乗り越え、自分らしく生き抜くための哲学を描き出す。それが本書である。岡田は最後に言う。「生きるための哲学は、生きようとする営みのなかにこそある」(253ページ)。

(5) 小山真紀・相原征代・舩越高樹編『生きづらさへの処方箋』ナカニシヤ出版、2019年2月
本書は、京都大学のメンバーを中心に2014年に立ち上げた共同研究による、「生きづらさ学」からの実践的アドバイスの本である。そこでは、「過保護,性差、外国人差別、発達障害など、学生生活をメインに想定した種々の『生きづらさ』を分野横断的に分析し、克服の具体的方法を提示する」(「帯」より)。その際の「処方箋」(ヒント)は、臨床現象学をはじめ、社会学、法哲学、文化人類学、防災学、障害学生支援、精神医学、環境分析など、まさに分野横断的・俯瞰的視点に基づいている。「生きづらさ学」は「生きづらさの横軸」を探す学問であり、「生きづらさの共通性」や「他者との関係性」に留意する必要がある、と言う。

〇さて、本稿ではまず、[1]において留意したい論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

困難の内閉化と「自己責任論」
被害を被(こうむ)っている側に「自分に責任がある」と感じさせてしまう、つまり困難を内閉化させる抑圧様式は日本社会にいたるところで蔓延(まんえん)している。(中略)一人ひとりが抱える困難をその人の内側へと閉じこめる強烈な力がはたらいている。私には異議を申し立てる権利があると言わせない、封殺する力である。責任を偽装すると言ったほうが正確であるが、これは、きわめて深い抑圧の姿である。(58ページ)
このようなレトリック(表現の仕方)や自分に責任があるという感じ方を導く有力な言説として「自己責任論」がある。(中略)抑圧された者たちを徹底的に無力にしていく思想的回路として、自己責任論をとらえる必要がある。(59ページ)

自立支援と「生存権」の損壊
(近年の「自立支援型政策」にいう)政策言語としての「自立」は、公的・社会的な支援に頼らずに自己責任で生きていくという意味である。(128ページ)
「権力」と「社会的無力」という不平等な関係を含んだ(自立―依存関係)が「自立」のあるべき姿として押しつけられている。(128ページ)
生存権を保障する政策は、事情があって自立できない人たちが対象であるが、自立支援型の政策では、「自立」の見込みや「意欲」の有無という新たな尺度で対象者を再分類する。(129ページ)
生存権を平等に保障するという考え方が崩れると、どのような結果が表れるか。意欲や見込みのあるなしは、権力者によって認定・選別されるから、保障を得るには、自分は意欲も自立の見込みもない「真の弱者」だと認めなければならない。(129ページ)
つまり、自立できない存在は完全に無力であるとされ、自立できぬ以上他の人よりも低い処遇に甘んじるよう社会的に強制される。「国家の慈悲によってはじめて人権を保護される」存在になる。19世紀に福祉国家の観念が出てくるまで通用してきた「残余的福祉」という考え方である。(129ページ)
「自立支援」は、「真の弱者」をあぶり出し、同時に、自立してがんばろうと思う者を「貧困な自立」の状態に固定していく、という結果を招くのである。(中略)「自立支援」という政策を使って絶対的な貧困を受け入れさせる、生存権損壊(そんかい)のスパイラル(螺旋〈らせん〉)が出現するのである。(130ページ)

〇次に、[2]において留意したい論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

「自己責任論」と「生きづらさ」
「生きづらさ」の問題をつねに社会的次元で捉えようとするわたしたちの立場からすると、どうしても必要になるのは、現状を丁寧にあぶり出していくことで、自己責任論からの転換を図ることである。(湯浅、6ページ)
大きなレベルで自己責任論を批判することは、ある意味では易(やさ)しい。構造改革や新自由主義といった用語をもち出せば、何かが言われ、何かがわかったような気がしてくる。しかしそのことと、目の前にいる一人ひとりと向き合い、対応することが切り離されていたら、総論としては自己責任論を大いに批判する人が、各論ではその子・親族・友人にたいして自己責任論を振り回す、という悲喜劇が起こらないとはかぎらない。残念ながらそれは随所で起こっている。そうなると、現実には貧困状態に追い込まれていく人たちの数は減らない。自己責任論批判が増えていったとしても、現実の場面では、個々に切り捨てられていくからである。(湯浅、6~7ページ)

「自立」が強いる「生きづらさ」
貧困者(貧困のなかにいる若者)にとって、「自立」は存在しえない。ところが、(中略)(彼らは)つねに“社会”から“家族”から「自立」を迫られている。「いつまでもフラフラしていないで、まともな仕事について早く一人暮らしをしなさい」と。彼ら自身の仕事は、本人の選択によるものとされ、彼らが抱える困難は「自己責任」によるものとされる。彼らにとっては、「自立」は目標でありながら、自分自身を締め付ける抑圧の言葉である。(河添、19ページ)
「自立」をめざせばめざすほど、彼らは非人間的な労働環境への順応を要請される。しかしながら破壊された労働環境は、彼ら自身を安定的に「自立」させるようなものではないから、破壊された労働環境によって今度は労働者の精神状態が不安定になっていく。貧困と「自立」は両立しえない。(河添、19ページ)
このように、貧困のなかにいる若者は、「自立」しようにも「自立」しようがない。貧困を根絶していくことなく、「自立」を促すことはありえない。(河添、19ページ)

「強い市民社会」と“居場所”づくり
「強い市民社会」というのは、弱肉強食の市場原理にたいしてきちんと歯止めをかけられる社会、人間の弱さを認めて受け止められる社会、弱さの認識から相互扶助・社会連帯の必要性の認識を通じて、「市場」とは異なる「社会」を構想できる社会、を言う。そういう「強い市民社会」が確立していれば、社会制度はおのずと変わっていくはずである。(湯浅、174~175ページ)
「意義申し立てする社会連帯」というのは、「これはおかしい」ということを話し、数人なり、数十人のグループができれば、それでもって社会的に訴えていく、それが当たり前に行なわれるような、そういう社会的な雰囲気をつくっていきたい。(湯浅、175ページ)
「強い市民社会」をつくるうえでの(労働)運動論的なポイントは、(中略)究極的には“居場所”である。つまり、不満を言い合って、「おかしい」と思ったことをかたちにできる場所である。(河添・湯浅、177ページ)
社会に向けて発言ができたり、ただその場にいるだけでもお互いが尊重される安心感・信頼感を感じられる空間としての“居場所”が大事だと思う。(湯浅、178ページ)
「たたかうためには、たたかわなくていい“居場所”が必要である」。(中略)たたかわなくていい“居場所”は、たたかうための必要条件みたいなものである。(中略)そういう“居場所”が社会のなかから減ってきている。(湯浅、179ページ)

〇いまひとつ、[3]において留意したい論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

「非行から自傷へ」と「ネオリベ改革」
社会学では社会というのは、個人の集まりではなく、ふるまいの集合である。(中略)人々のふるまいの集合に一定の規則があるから、その行動がなにを意味しているかがお互いにわかるおかげで成りたっているのが社会というものである。(上野、57~58ページ)
(1980年代から90年代頃から)いわゆる青年期の逸脱といわれるものが(中略)変化してきた。それを簡単に言うと、非行から自傷へ、である。他人を傷つけることから、自分を傷つけることへの変化である。(中略)攻撃衝動というものが、他者から自己へ向かっているのではないか。何か困ったことが起きたときになんでこんなことが起きたのか、誰が悪いのかと思ったときに「私が悪い」というしかないから、生きづらい思いをするのである。これを、「私が悪い」という代わりに「貧乏が悪い」、「社会が悪い」、「学校が悪い」、「先生が悪い」、それから「資本家が悪い」とか言えたらラクである。(上野、64~65ページ)
それなのに、誰も自分以外の人を悪いと言えず、責めることができないために、自分自身を責めるほかない。それで攻撃衝動が我と我が身(われとわがみ)に向かう。なぜそういうことが起きたのか? (それは社会学者によると)「社会が変わったから」(中略)社会環境やルールが変わったからである。(上野、65ページ)
(その一つが)いわゆる「ネオリベ改革」(「ネオリベラリズム」つまり「新自由主義」改革)と言われるものである。(上野、66ページ)
ネオリベこと新自由主義とは、ごく簡単に言うと市場万能主義のことである。公平な競争のもとで勝ち負けを争って、勝ったら勝者の能力と努力のおかげ、負けたら敗者の無能と怠惰のせい。そういう「自己決定・自己責任」の原理をさす。規制緩和をして勝者が残り敗者は退出する市場の原理に委(ゆだ)ねたほうが、財の最適配分ができるようになるという考え方のことである。(上野、67ページ)

「生きづらさ」と不安
「生きづらさ」の精神構造は、不安と似ているのである。あるいは「生きづらさ」の原因は漠然とした不安感なのではないかとさえ思う。自分自身が何者であるかの不安、自分の将来や可能性にたいする不安、人が自分をどう見ているのかについての不安、この社会の先行きに関する不安、そうしたもろもろの不安が、私たちの精神や生活を脅かし、「生きづらい」感覚をもたらしているように思えてならない。(嶋根、209ページ)
不安そのものを完全になくすことはできない。しかし不安に直面したとき、その原因が何に由来しているかを知れば、不安はやわらぐものである。同じように、私たちが何となく感じている「生きづらさ」も、他の人や他の社会と引き比べてみたり、その原因が私たちの外部にあることを知ったりすることで、「生きづらさ」の感覚を多少なりとも乗り越えていくことができるかもしれない。(嶋根、209~210ページ)

〇以上の諸言説のなかで、河添の「貧困者にとって、『自立』は存在しえない」「貧困と『自立』は両立しえない」([2]19ページ)という言葉から思い出すことがある。1956年11月から1963年7月にかけて、岸勇(当時・日本福祉大学)と仲村優一(当時・日本社会事業大学)との間で、公的扶助とケースワークの位置づけをめぐって展開されたいわゆる「岸・仲村論争」である。ここでは、その論争に関する加藤園子(当時・立命館大学)の一文を紹介しておくことにする。「今は昔」ではなく、「今も昔(も変わらない)」である。

岸説では「最低生活保障」と「自立助長」をあいいれるものとしてではなく、本来分離、対立したものとして位置づけている。そこでは、公的扶助にケースワークが導入される根拠となった「自立の助長」の意味について、自立の基本的要素は経済的自立であり、自立の喪失が社会的原因にもとづくものである以上、自立は国家の雇用政策によってはじめて助長されるものであること、そして、これに反して公的扶助の目的である最低生活保障それ自体は決して自立を助長するものではありえず、そこではむしろ「自立」という概念が似而非(えせ)なる意味にすりかえられ、その強調は、実は保護の制限と引きしめの意図がその背後に政策的に存在することを厳しくとらえねばならないとしている。そして「自立の助長」と関連して公的扶助にケースワークが導入された目的もまさにその民主主義的体裁によるにすぎず、保護引き締め強化による対象者の人権侵害の事実や公的扶助のもつ救貧法的本性をそれによって隠蔽・合理化することに役立てられてきているとして、仲村説と真っ向から対立することとなった。
(加藤園子「仲村・岸論争」真田是編『戦後日本社会福祉論争』法律文化社、1979年9月、91~92ページ)

鳥居一頼のサロン(6):「国道12号線」

「国道12号線」

札幌と旭川を結ぶ幹線道路 国道12号線。
老いた男が 無謀にも横断を始めた。
信号のある横断歩道は 遠回り。
背中に小さなリュックを 背負い
左手に 12ロールのトイレットペーパーのワンパック
右手に 5箱のテッシュのワンパックと重そうなポリ袋をさげて
痩(や)せて背を丸めた 貧相な風体の男は
数台の車をやり過ごし よたよたしながら 渡りきった。
目が合うと 一瞬苦笑いを浮かべる。 
歩道を 川沿に左に折れて 家路につく。
その背を見送りながら はたと気づく。
男の向かった先には ドラックストアがあり
そこでも 手にしていた品物は 買えるのに
男は 少しでも安い 遠方の店に来たのだろうと。

老いた男の 危険な行動は 
老いの暗澹(あんたん)たる行く末を現す いまの世相そのもの。

安全な「横断歩道」を渡る余力は 民に残されることなく 
渡れるのは 一部の恵まれた者たちでしかない。 
勝者の 傲慢(ごうまん)と蔑視(べっし)。
余録も途絶え 余力も萎(な)えて 年金に頼る多くの老いた民たちは 
命がけの横断を 強いられる。 
敗者の 羨望(せんぼう)と屈辱(くつじょく)。

判断力が鈍(にぶ)り 身体能力が落ちたと 嘲笑(ちょうしょう)され
事故にあえば 自己責任が問われるだけの 
不条理な 人の世の非情。
数十円安い物を 買い求めて 
よろよろと 歩くしかない民たちが 彷徨(ほうこう)する
孤独な 人の世の無常。

権力に取り憑(つ)かれた者たちの 百年安心の 虚言に
幻想を抱かされた 老いた民たちは
リスクにさらされながら 最短のルートを 今日も歩く。
暮らし向きの 厳しい民たちの 
生死の分岐道 虚実が入り交じる 国道12号線。

付記
老後に2千万円 正面から年金の議論を
90歳を超えて生きるには、夫婦の老後資金として年金とは別に2千万円の蓄えが必要だから、「人生100年時代」に備え、現役時代から資産形成を促す―。
こんな内容の金融庁金融審議会の報告書が波紋を広げている。
政府が、公的年金だけでは老後の資金は賄いきれないことを認めたのだから当然だ。
これを受け、安倍晋三首相は「不正確で、誤解を与えるものだった」と釈明した。麻生太郎金融担当相は報告書の受け取りを拒否し、実質的な撤回に追い込んだ。異例の事態と言えよう。
少子高齢化で年金財政が厳しいのは誰の目にも明らかである。
参院選をにらみ、政府・与党が火消しに躍起になればなるほど、国民の疑念は膨らむだろう。
年金の将来に不安を感じる人は多い。報告書は、これが現実のものであることを示したからだ。
政府は報告書を撤回して幕引きを図るのではなく、まず国民に丁寧に説明しなければならない。
与野党とも国会で年金制度を立て直す議論を始めるべきだ。
報告書は、平均的な無職の夫婦世帯(夫65歳以上、妻60歳以上)の場合、毎月の赤字は約5万円と試算した。20年生きると1300万円、30年だと2千万円不足することになる。
退職金が減少し、少子高齢化で年金給付水準の調整も予想され、不足額は今後拡大するという。
こうした見通しには一定の説得力があるものの、その対策として、政府が投資による資産形成を推奨するのは筋違いである。
そもそも、年金だけでは暮らせず、働かざるを得ない高齢者もいる。非正規雇用の人には、貯蓄する余裕のない人が少なくない。投資には縁遠いのが現実だ。
2004年の年金改革で、与党は「100年安心」を強調した。
多くの国民は、老後の安心の保証と受け止めたが、現実には、その趣旨は、給付の抑制を通じた年金制度の安定だったらしい。
制度の持続可能性を巡っても、公的年金の給付水準や財政見通しを試算した「財政検証」のたびに、信頼が揺らいでいる。
今年は5年に1度の財政検証の年で、既に内容が公表されていい時期である。
参院選への影響を懸念して、遅らせているとしたら、あまりに不誠実と言わざるを得ない。現実を直視して問題を正面から論じなければ、若い世代が年金保険料を支払う意欲を失うだろう。
(北海道新聞/どうしん電子版/社説/2019年6月12日)

〔鳥居一頼/2019年7月1日〕

「自己決定」と「自己責任」:いま改めてその虚飾と欺瞞について考える―小松美彦著『「自己決定権」という罠』と吉崎祥司著『「自己責任論」をのりこえる』の読後メモ―

〇1990年代後半以降、財界の要望に応える「小さな政府」を実現するために、「措置から契約へ」という社会福祉基礎構造改革の推進が図られた(1998年6月:中央社会福祉審議会社会福祉構造改革分科会「社会福祉基礎構造改革について(中間まとめ)」等)。そのなかで、「自己選択」「自己決定」すなわち「自己責任」が声高に叫ばれるようになった。また、「市場原理の導入」などの新自由主義的教育改革の推進が図られた(1996年7月:中央教育審議会「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について(第一次答申)」等)。そこでは、子ども・青年が抱える困難や不利益を、「自己責任」として個々人が引き受ける「生きる力」の育成が強調されるようになった。周知の通りである。
〇「自己決定」と「自己責任」は口当たりのよい言葉である。しかし、その言葉に関して、「自己」すなわち「個人」「ひとり」については曖昧であり、「共に」決定する、「共に」責任を取るなどとはあまり言わない。また、「自己決定」と「自己責任」の実相は、外見だけを飾り(虚飾)、人目をあざむき、だます(欺瞞)という危険性がある。
〇自己決定や自己責任について論述した本は、筆者(阪野)の手もとには、次の4冊しかない。

(1) 小松美彦著『「自己決定権」という罠―ナチスから相模原障害者殺傷事件まで―』言視舎、2018年8月(以下[1])
本書(語りおろし)は、『自己決定権は幻想である』(洋泉社新書y、2004年7月)の増補改訂版である。旧版では、「自己決定権」の概念それ自体や「自己決定権」への無条件の信頼は非常に危ういことを論じている。旧版のインタビュー(2003年)から15年後のこんにちでは、主に医療や福祉の分野において、「自己決定権」「自己決定」という言葉と概念は当たり前のものになっている。しかし、その問題性は見えにくい形でますます拡がっている。「自己決定権」に加えて、「人間の尊厳」という言葉と概念も巧妙に作用し、差し迫った状況にある(3~4ページ)。小松美彦(専攻は生命倫理学)は、その問題状況をダイナミックに論考する。
(2) 吉崎祥司著『「自己責任論」をのりこえる―連帯と「社会的責任」の哲学―』学習の友社、2014年12月(以下[2])
小泉政権(2001年4月~2006年9月)によって、競争原理を基本理念とする規制緩和の推進が図られた。そのなかで、1990年代以降の「自己責任論」が、政財界においてより一層強調されるようになった。また、経済の低成長下における社会保障費の削減を理由づける
考え方として、「自立・自助論」が展開された。ヨーロッパなどと比べて、日本では、社会的責任の観念が必ずしも十分に定着しているわけではない(6~13ページ)。こうした特殊「日本型自己責任論」(13ページ)について吉崎祥司(専攻は哲学)は、その内容と特質を批判的に検討し、それを克服するための課題と道筋を明らかにする。
(3) 高橋隆雄・八幡英幸編『自己決定論のゆくえ―哲学・法学・医学の現場から―』九州大学出版会、2008年5月
本書では、生命倫理における基本的概念のひとつである「自己決定」をめぐって、その歴史的由来や概念の意味、法的観点からの問題、医師や看護師の専門職の自律性とのかかわり、等々について多面的に論考する。そのなかで、小柳正弘(専攻は哲学)は、「『私たち』の自己決定」について、次のように述べている。自己決定の主体である「自己」は、理念としては「強い個人」が前提とされている。しかし、現実には「弱い個人」が主体として困難を引き受けているのが現状である。それでも「私」が自己決定しなければならないとすれば、私は他者によって支えられなければならない。すなわち、私が他者とともに「私たち」として決定することが必要となる。「自己が自己のことを決定する」という自己決定には、もうひとつ、「私たちが私たちのことを決定する」という自己決定の理念型が存在することを思い起さなければならない、と。(38~40ページ)。特筆しておきたい。
(4) 湯浅誠『どんとこい、貧困!』イースト・プレス、2011年7月
本書は、現代日本の貧困問題を現場から訴え続け、社会的包摂を説く湯浅誠(社会活動家)が子どもたちに書き下ろした自己責任論である。そこでのキーワードのひとつに、「溜め(ため)」がある。湯浅にあっては、それは、「がんばるための条件」「その人が持っている条件」を意味するが、基本的な「溜め」となるのは「お金」「人間関係(親や友達など)」「精神(的なもの)」の三つである。「家にお金がなくて、人間関係に恵まれないなら、社会がその人の“溜め”になればいい」。(49ページ)。また、自己責任論をふりかざす人たちに共通しているのは、「上から目線」である。自己責任論は「問い」を外に、社会に出てこないように封じ込めること、自己責任論の一番の目的、最大の効果は、相手を黙らせることである。自己責任論は、弱いものイジメが横行し、生きづらい、誰も幸せでない、満ち足りない社会をつくる(153~157ページ)。

〇さて、本稿ではまず、[1]において留意したい論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

自己責任論と「自己決定」「自己決定権」
政府の言う自己責任論は、国家や支配権力が、基本的に人々を強制したいと考えている事実の裏返しの表現にすぎない。自己決定をするのなら自分で責任をとれという、身の蓋もない態度の裏側には、文句を言わずに言うことを聞けという、国家の冷徹で傲慢な態度が透けて見える。(18ページ)
自己決定と自己決定権とはまったく違うものである。自己決定イコール自己決定権だと単純に考えていると、権利という制度的な思弁の土俵の上で、思わぬ落とし穴にはまってしまう危険がある。(19~20ページ)
私たちの行動には、「思わず~する」という無意識の行動、すなわち言葉で考えるというよりも身体全体で考えると言ったほうがよいようなものがあり、自己決定には、そういった具体的な生の実相が、まるごと含まれている。
これに対して、自己決定権にはこのような自ずからなる要素はない。自己決定権は、言葉によって普遍化された人為的な権利であり、思弁によって客観化された制度であり、さらには個別の実相を他人事に変えてしまう装置であり、したがって、いつでも政治的な恣意によって道具にされるという危険性をもったものである。(20ページ)

自己決定権批判の根拠
自己決定権という考え方には、根本的に問題がある。
①人が生きていくすべての場面において、個人が何かを決めるということは、決して個人の問題にとどまらない。自己決定権という言葉によって、人間関係の尊重すべき貴重な機微(微妙な事情・おもむき)が覆い隠されてしまっている。
②「本人の意思による」という自己決定権という言葉が謳(うた)われ、その美しい響きが無為に受け入れらてしまったことによって、(政府や政治に対する)人々の抵抗が鈍ってしまった。
③いったん自己決定権を盾(たて)にしてしまうと、さまざまなことに関して、自分のことは自分で決めればよいのだから、他人には口を出してほしくないという壁ができてしまう。その結果として、自己決定権が他者同士のコミュニケーションを遮断・排除する道具として機能する危惧がある。
④死は果たして自己決定できるのか。死は一個人に閉じ込められたものではなく、家族や医師、看護師など実に多くの人がかかわる。死は、周囲の人々すべてにまたがる、人間関係のなかでおきる事柄である。(40~49ページ)

自己決定・自己決定権と「共決定」
自己決定とは、起こっている事柄それ自体のことである。あるいは生の具体的な局面で私たちが絶えず行っている個々の判断や選択や行為そのもののことである。その意味では、人間が自己決定なしに通常の社会生活を送ることは、とてもできないと言ってよい。
自己決定権とは、自己決定することを社会や国家が、個人の権利として認めるということである。「する」あるいは「せざるをえない」のが自己決定であるのに対して、「認められる」あるいは「するために使う」のが自己決定権であると言ってよい。(98ページ)
私たちは、いつも他者とのかかわりのなかで自分の行動を決定している。同じように、自分が決定した行動は、いつもまわりの他者たちに少なからぬ影響を及ぼしている。決定すればそれで終わりということは本来的にない。
自己決定とは、他者との複雑な網の目のなかで行われるしかないものであり、そういう意味では、純粋な自己決定はない。私たちの行う決定は、好むと好まざるとにかかわらず、いつも本質的に「共決定」であることを強いられているといえる。(98ページ)

「共決定」と関係性・共同性
共決定とは、猶予のある場合にそうすべきだといモデルである。そのモデルを不毛なものにしないためには、それぞれがそれぞれの立場から努力し、徹底的に話し合いながら決めていくことである。(102ページ)
関係性を大切にする立場は、まず内と外を区別しない。個々の人間的な交渉から目をそらさないことを原則として、これを守ることができるのであれば、どこまでも外に広がっていこうとする態度のことである。(103ページ)
共同性を重視する立場は、私たちは私たち、あなたたちはあなたたちというように、そもそも内と外に縁取りをこしらえておいて、二つを区分けし固定していこうとする態度のことである。(103~104ページ)
だから、関係性を重視する立場は相互の異質性を厭(いと)わないし、共同性を重視する立場では自分たちのなかにある同質性に、まず目を向けるということになる。(104ページ)
個々の人間の具体的な実存を前にすれば、抽象的な同質性などというものは、はじめからどこにもない。共同体の掲げる同質性は、いつも避けがたい抽象性を帯びてしまい、個々人の具体的な個別性にあるかけがえのなさを、共同体の意思の名をもって、裏切っていくことになる。(105ページ)

「人権」と「存在」
「人権」とは、結局、国家や社会によって与えられる人為的なものである。しかし、それ以前に、障害者にせよ健常者にせよ、その人がいるということ、「存在」していること自体が第一次的なもののはずである。これ自体は絶対に否定できない。(311ページ)
仮に、心や意識が本当に絶無のまま生きている人がいるとして、それをどう考えたらよいのか。それでもその人が“そこにいる”という厳然たる事実が、その人から被(こうむ)る迷惑と呼ばれることまで含めて、私たち自身が“いる”ことを何らかの形で支えてくれているのである。「迷惑をかける―かけられる」という関係をもてることは、実は人間の豊かさに思われる。(316ページ)
「自己決定権」にせよ、「人間の尊厳」にせよ、検討にあたって必須のことは、型どおりの「人権」的な思考ではなく、誰々がいた、あるいは誰々がいるという「存在」ベースで考え直すことである。(319ページ)

〇次に、[2]において留意したい論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

「自己責任論」の機能
「自己責任論」の機能とは、さしあたり、①競争を当然のこととし、②競争での敗北を自己責任として受容させ(自らの貧困や不遇を納得させ)、③社会的な問題の責任をすべて個人に押しつけ(苦境に立たされた“お前が悪い”)、④しかもそうした押しつけには理由がある(不当なものではない)と人びとに思い込ませ(る)ことによって、⑤抗議の意思と行動を封殺する(“だまらせる”)、というものである。そのようなものとして、「自己責任論」は、新自由主義的支配の合理化・正当化のためのイデオロギー(支配層の思想形態)であることを本質としている。(11ページ)

「自己責任論」の特徴
「自己責任論」は、次のような特徴をもっている。
①「自己責任論」は、「社会的責任」と「個人的責任」を意図的に混同したうえで、「社会的責任」を否定する、あるいは相対化する。
②「自己責任論」は、社会的責任の否定にとどまらず、社会的な問題をすべて「個人」のうちに押し込め、個人的な解決を迫る。
③「自己責任論」は、個人が抱える困難は、誰のせいでもなく、当の本人の努力や能力の不足によるもので、その事実を受け入れよと強く迫る。一生懸命努力していても報われない場合は、そもそも「能力」が不足しているからだ、と個々人の「能力」の有無・高低をあげつらう。
④「自己責任論」は、本質的に「社会問題」であるのにもかかわらず、社会的責任に蓋(ふた)をして、問題をもっぱら個人的なものに還元し、しかも困難の最終的な原因を個人の能力に求めることで、「責任」を自認させ、抗議の意思も封じる。
⑤「自己責任論」は、それが流布しやすい理由の一つに、「一人前」の人間は、他人に頼らずに自立すべきもの・自ら助けるべきもの、という「自立・自助」の世間的常識がある。誰にも頼らずにちゃんと生活をたてていけないような人間は一人前ではない、といった「自立」観を前提としている。
⑥「自己責任論」では、何にせよ、自分で決定し、選択したことの結果について自分で責任をとるのは当然であり、ある人がおかれた状況・境遇は、そうした決定・選択の結果なのだから「自己責任」であるという一見もっともらしい理屈のもとで、「自己決定=自己責任」が説かれる。
⑦それらの結果として、「自己責任論」は、人びとの間に、多重的な分断をもたらし、個人を孤立化させるにとどまらず、たがいを敵視するように仕向ける。
これらの諸特徴をもつ「自己責任論」が通用しやすい特有の土壌(「社会文化」)が日本社会にはある。(16~17ページ)

自己決定の前提と条件
自己決定には、それを簡単に許さない前提や条件(困難性)がある。①自己決定は、社会制度や時代の支配的な社会的観念や意識、社会の風潮や趨勢、慣習や風俗などの「状況」の「圧力」や「傾向性」のもとで行われる。②「状況」の圧力や傾向性に対して自覚的・批判的であるためには、十分な情報の獲得と、「選択」の結果についての適切な判断が必要とされるが、それが困難である。③「状況」や「選択」にかかわる基本的な情報が獲得されているとしても、従属的位置にある労働者に、その特定の社会関係において自由な選択を行うことは許されない。(55~58ページ)
こうして、「自己決定」は多くの場合、疑似的で、決定者の「自己責任」を問えるようなものではない。つまり、「自己決定」は、個人の「自己責任」に直結させることができるようなものではない。真に自由な自己決定・選択が可能になる前提・条件の周到な吟味なしに、自己決定を自己責任に直結させるような「自己決定論」は、多く欺瞞をかかえるものである。(58ページ)
そこで、労働者が自己決定する際の鍵になるのは、個人が他者と「共にする決定」の場と仲間、連帯する組織を作り出すことである。(60ページ)

〇筆者はかつて、『みんなのなかにわたしがいる みんなとともにわたしがいる』(三重県社会福祉協議会、2004年3月)というタイトルの「小学生からの福祉読本」の作成にかかわったことがある。そこでの根本的な考え方は「実存」「自立」「共生」「まちづくり」「参画」「共働」などであった。
〇そのことを思い出しながら、改めて[1]における小松の言説を要約する。「自己決定」は、実際には、社会的広がりや他者との関係性(「関係としての私」「われわれのわれ」198ページ)のなかで行われる。「自己決定権は、個人主義を擬装しながら、実際には抽象化され、普遍化されることによって、いつでも国家共同体に転化・悪用されかねない危険性をもったもの」である。その意味で、「自己決定権を個々人の具体的な実存の側から見てみれば、そんなものは、はじめからないのだと極論してもよい。それをあるのだとなお言い募るのであれば、幻想としてあるのだと言うしかない」(106ページ)。これが、小松が最も強く主張する「自己決定権の欺瞞性」、すなわち「自己決定権という罠」である。
〇筆者は、本ブログの雑感(83)「“死”とどう向き合うか、『生死の教育』」を考えるために―大谷いづみと松田純のひとつの言説メモ―」(2019年6月1日投稿)で、従姉のことを「80歳代後半を認知症患者として『存在』し、『いのち』の自己展開を図っている」と書いた。また、自分自身のことを「みっともない生き方しかできなかった(できないでいる)」と書いた。
〇そのことを思いながら、筆者は、“いま”、“やっかいな自分”を“生きにくい社会”の“ここ”で、“みっともなくも生き抜く”ことを考えている。また、多少とも“生きやすいまち”づくりの末席に連なることができればと念じてもいる。そこに立ちはだかるのが、政府や財界が求める「自己決定」と「自己責任」である。それは、1990年代後半以降こんにちまで、とりわけ第1次・第2次安倍政権の空虚な「スローガン政治」(2006年9月:国会での所信表明演説「美しい国、日本」、2016年6月:閣議決定「ニッポン一億総活躍プラン」等)が推し進められるなかで、むしろこれまで以上に巧妙に作用している。

追記(2019年6月23日)
さっそく鳥居一頼先生から次のようなメール(抜粋)と玉稿(コラム)をいただきました。いつもながらのご厚情とご指導に感謝です。先生の「コラム」は、小松美彦著『自己決定権は幻想である』(洋泉社、2004年7月)と同じ時期に執筆されたものです。

「自己決定」と「自己決定権」は、個々の「意思決定」のあり方について、尊厳死問題も含めて考えなければならない重要な課題であることを再認識しました。また、「自己決定権」の裏にある「おぞましさ」も鋭い感覚で指摘されており、私にとっては、最近の日本の「差し迫った状況」を「易しい暮らしことば」で表現するというテーマを示されたという思いです。
次の一文は、地方紙(「室蘭民報」)に連載していた「子ども・未来・ボランティア」というコラムです。当時、世間で「自己責任」について当事者への批判が起こったことで触発され、したためたものです。いままた中東では、生臭い火薬の臭いが立ち上っている様子、繰り返される悲劇の前で、人間はその無能さをさらけ出しています。
今日はいみじくも沖縄「慰霊の日」であり、「沖縄全戦没者追悼式」が開かれました。犠牲になられた方々の御霊に哀悼の意を捧げます。

「個人と国家」/「子ども・未来・ボランティア」(第39回)、室蘭民報/2004年4月19日
四月十五日、イラクで拉致され人質になっていた三人の日本人が無事解放されました。一週間に及ぶ監禁状態は情報の乏しい中最悪の事態も想像されただけに、その無事を確信した時の家族の安堵の表情に、関心を持ち続けた人たちもほっとしたことでしょう。この事件で、イラク戦争が身近に感じた人も増えたに違いありません。
その間、真綿で首を絞められるような恐怖心を抱きながら無事を祈り続けた家族のもとに、心ない中傷や罵声を浴びせた輩がいたという報道もありました。人の不幸を見て「ざまあみろ!」とあざける卑劣な行為も世の常ですが、決して許されるものではありません。
現在も二人のジャーナリストが拉致(編集者注・日本時間十七日午後解放される)されているとのことですが、彼らはプロであり戦火の中で取材するのは「死」をも覚悟した上での行動とはいえ、それでもなお無事を祈るのは当たり前の人情です。人命の重さを痛感します。
今回の事件は、退避勧告が出ている戦乱のイラクで、ボランティアとして市民の中に入り市民と共に生きたいと切望した日本人が、「人質」としての価値を持つという事実を、国民に突きつけました。
止むに止まれぬ志と使命感の強さが、状況判断を誤ったことは否定できません。天候の異常を察知して山に登らず引き返す決断が本当の勇気であると考えれば、ボランティアの個人の意思は尊重されながらも、その個人の自己責任が問われることは必然です。
個人の想いで行動することは、「私発」というボランティア活動の原点です。何事もなければ、個人の活動として終始したのですが、「人質」となった瞬間に「個人」ではなく「日本国民」としての存在が問われ、個人と国家との関係を如実に象徴した事件となったのです。
それは、個人レベルの想像や行動の範疇を越えて、個人が国家間ないし民族間の争乱に巻き込まれたときには、簡単に戦略として「利用」される存在となるのです。その行為が卑怯だという倫理観では、決して解決されない現実を突きつけました。平和を当たり前の生活環境として享受し、その価値の重さに気づかない日本人に衝撃を与えたのです。それが戦争本来の姿であると。それは、「テロ」という言葉で一方的に相手の非を責めてきた「つけ」を払うことでもあったのです。
ボランティアは、想いも活動もそれぞれですが、「よきこと」をしているという善意を強調するだけでは、安心かつ安全の保障にはなりません。受け止める相手やその環境状況の判断を誤ると、「からまわり」したり「押しつけ」や「自己満足」とも映る危険性をはらんでいます。また、今回の事件では、拉致したグループから自衛隊の撤退要求が出されたことで、今後日本の国や国民がイラクに対してどのような支援がベストなのか、事態の進展を見極めながら論議されなければなりません。
さて、NHKのニュースの中で、「ボランティア活動家」と紹介されていましたが、「活動家」という表現には違和感を感じます。「活動家」というこわもてのイメージを付加することは不要です。私は、「ボランティア」です。

鳥居一頼のサロン(5):「義理を果たす」「原則論の正体」

「義理を果たす」

87歳のばーさまは 14、5年前に 連れ合いが死んでから
あの家で 気丈に独り暮らしをしていたんだよ。
子どもらは 村を出ていって 家さ帰ってくることは 滅多にない。
でも若いときから よく村のために尽くしてくれた夫婦だった。
お人好しで 何でも二つ返事で引き受けてくれたもんだよ。

身体が動いて元気なときは 若妻会だといって
サロンに 歩いてよく通ってきてた。
昔話に花を咲かせていたり ゲームや体操したりして
楽しそうに身体を動かしてさ みんなと笑っていたっけ。

小さな畑さこしらえて 一人ではもうこれっくらいが丁度いいって
毎日飽きずに 畑仕事をしていたっけ。
冬支度にかかる頃には 畑の始末も上手かったね。
裏山から薪さ背負ってきては まてい(丁寧)に軒下に積んでいた。
そうなんだ 灯油は 銭っこかかるっていってね
薪ストーブ焚いていたんだわ。
薪はそれでも 知り合いに頼んで割ってもらってたね。

年金だって 月たった3~4万円だったよ。
だから よく辛抱していたね。
明るい人だったから 愚痴ってるのを あんまり聞いたことなかったけど
一度 ぽつんと しゃべったことがあったわ。

「義理は欠けないね」
「どうしたの?」
「いやいや また世話になった人が 亡くなったって知らせがきて
 香典包まねばなんないのさ」
「物入りだね」
「うんだ。この歳になると 世話をかけた人がみんな先に死んでいく。
 じさまの葬式もみんなにお世話になって出させてもらったしね。
 じさまの親戚やわしの親戚 知り合いや隣近所にも ずいぶん世話になってきた。
 恩のある人もまだまだいる。
 だけど そろそろお迎えのくる歳に みんななってきたんだわ。
 わしより若く亡くなった人もいてね。長生きすればするほど、見送らねばなんない。
 知らせがくるたんびに 義理欠くわけにはいかないしょ」
「それは大変だね」
「浮世の義理さ欠いて あの世さ行ったときに じさまに会わせる顔がない。
 死んでまでも肩身の狭い思いさ かけたくないしょ。
 これがわしの最後のお勤めなんや」
と寂しげに笑った。

よほど やりくりが苦しかったのかも知れない。
年に十度ほど 香典を包むという。
葬儀には出ることは出来ないが 香典だけは欠かさない。
いままでお世話になった恩返しに 香典を包む。
義理を果たすことで 報われると信じている。
暮らし向きは厳しいけれども 自分が辛抱することで 義理を果たそうとする気概。
世間に後ろ指を指されぬよう じさまにあの世でよくやったと褒めてもらえるよう
世間の習わしのなかで 懸命に生きてきたのだ。

務めを終えた その安らかな表情に 南無阿弥陀仏と唱え 合掌した。
夫婦の今生での義理を欠くことなく 浄土へと旅立った。
村の会館での葬儀のおかげで みんな最期の別れもできた。

喪主の子も 老齢期を迎えていた。
母親が この村に残した人とのぬくもりを きっと感じていたであろう。
その義理を果たすことはできないと 親不孝を恥じ入るかもしれない。
失って初めて知らされる 母の温情と恩情が漂う しめやかな葬儀となった。

付記
贈与慣行は互酬という性格をもっているために、一種の相互扶助の感情を生み出すことになる。吉本隆明はこのような共同体のあり方についてつぎのようにいう。

そこでの共同体のあり方は、人類の理想といえる面をもっているのです。なぜならば、そこにおける村落共同体のあり方のなかには、相互扶助共生感情と、相互の親和感が豊かにあります。人間が人間として孤立している。民衆が相互に孤立をしたり矛盾しあったりする。そういう近代社会の病理とは遠い平安もあります。

「世間」の贈与・互酬という関係は、同時に「相互扶助共生感情」つまり「助け合いの精神」が宿る関係でもある。ただしそれは「無償」の助け合いではなく、いわば「有償」の助け合いである。それは義理・人情とよんでもいい。
(佐藤直樹『「世間」の現象学』青弓社、2001年12月、47ページ)

〔鳥居一頼/2019年6月18日〕

「原則論の正体」

2018年9月6日、胆振東部地震発生。
突然、停電になった。
水が出ない。断水だ。
ポンプアップしているから、停電になると地下水を汲み出せない。

役場の広報車が回ってきた。
「今日午後3時、地区会館に給水車が来ます。水を入れる容器を持って来てください」
広報車は、繰り返し給水車が来ることをふれ回る。

3時、部落の人たちが給水車を囲んだ。
口々に停電が復旧しないことに、愚痴をこぼす。

給水に張り付いていた役場の職員に、
「そこのおうちのおばあさん、足も腰も悪くて、ここまで水を取りにくることできないの。悪いけど、そこのお宅まで水を届けてあげてください」
丁寧にお願いした。
「それはできないね。給水車のところまでこれないと、水をあげるわけにはいかない。
それが決まりなので」
「それじゃ、歩けない人、病気で寝ている人、腰が悪くて重たいものを持てない人、みんなここには来られないわ。その人たちにここまで来て持っていけって言うの。それって、本当に規則なの。困っている人を少しでも楽にしてあげるのが、役場の仕事でないの」
「そう言われても、ルールはルールなので」
上から目線で、規則だと繰り返す職員と押し問答が続く。
一向に埒(らち)があかない。
非常事態にこそ機転を利かし、動かなければならないのに……失望。
あきらめて、そこで汲んだ水をおすそ分けした。

気分は最悪。
公僕も、ただの木偶坊(でくのぼう)になったというつまらないお話……ではなかった。

もつれた糸が解けたように、はたと気づいた。ここが分水界(ぶんすいかい)だったと。
歩けない人、病気で寝ている人、腰が悪くて重たいものを持てない人。
水を取りに、来られない人たちと来られる人の分水界。
ここまで水は運んでやるよ。
ここから先は、行政の仕事じゃない。
決まりがある以上、一線越えたら、みんなに公平にサービスしなきゃならないだろう。
そんなことしたら、人手もお金もパンクする。
だから住民の裁量で、どうぞお好きにやってください。
非常事態こそ、「住民の助け合い」を実現するチャンス。
心を鬼にして、規則遵守して仕事しているだけなので、責めないでください。
「われわれは施しを与えている」のだからという、高飛車な態度も意に介さない。
いままで行政がしてきたことの、延長線上にしかない対応の根っこにあるのは、
暮らしの実態や市民意識との乖離(かいり)だと、ようやく悟った。
彼らもまた、地域で暮らす者たちにも関わらず、
仕事への虚(むな)しさをなぜ覚えないのか、不思議に感じたが、
お上に庇護(ひご)された安定した暮らしがあるからだと、納得する。

役場だけではない。お国の事情も同じ。
役人は権力者に忖度(そんたく)し、民をほっぽり出していても、誰の文句も届かない。
権力者は、金がない、人手もかかる、だからみんなで助け合えと、法の下に号令をかける。
上流の水が濁(にご)れば、下流の水も濁る。
納めた税金が、施しの水に変わったとしても、
もらえる人ともらえない人がいる、歪んだ再配分という悪しき事態が、これからも続く。
情けないと、自らをさいなむあきらめ顔の、不条理な国に生きる心優しき民たち。

しかし、思考停止してはならない。
刹那主義(せつなしゅぎ)に陥ってはならない。
利己主義に陥ってはならない。
いまこそ利他主義に立つ、民の底力が試される。
お上の尊大な態度ややり方に、泣き寝入りはできない。
現状に我慢し、耐え忍ぶことを、美徳とはしない。
あきらめず、めげず、果敢に問題に立ち向かう。
解決には、民の才知と才覚を集めるしか道はない。
そこが、お上の思う壺であろう。

それでも、無作為に放置したら、後世まで悔(く)いる。
だから、やるしかない。
たった一度の人生、その主役は、自分。
追い込まれても、追い込まれても、負けない、負けたくない。
同じ思いを持つ、一人でも多くの心優しき民たちよ、
こころ一つにして、この世に、この地に、したたかでしなやかな民の力を集めよう。
誰もが人として、ここで幸せに生きるために。

〔鳥居一頼/2019年6月19日〕

“死”とどう向き合うか、「生死の教育」を考えるために―大谷いづみと松田純のひとつの言説メモ―

〇日本における「生命倫理教育」の草分けであり、「尊厳死」言説の研究に優れた業績をあげていると評されるひとりに、大谷いづみ(おおたに・いづみ)がいる。筆者(阪野)が大谷の論考にふれたのは、松原洋子・小泉義之編『生命の臨界―争点としての生命―』(人文書院、2005年2月)に所収の「『いのちの教育』に隠されてしまうこと―『尊厳死』言説をめぐって―」(論文)と「『問い』を育む―『生と死』の授業から―」(語りおろし)が最初である。
〇印象に残っている大谷の「語り」に、次のようなものがある(抜き書きと要約)。それぞれの語り口(切り口)はシャープであり、多くの示唆を得る。また、本質を突いた文や単語は聞き手(読み手)をハットさせる。

◍私は高校教師時代から、「人権」「平和」「民主主義」の三語は極力使わないで授業をしてきた。この三語はすでに答えるべき解答が用意されている、思考停止を引き起こす言葉でしかないからである。(143ページ)
◍ロリ・アンドリュース(ヒトゲノム解析機構)は出生前診断を「この世への入会審査」と言ったが、だとすれば尊厳死言説はこの世の「会員審査」だということである。自由な自己決定によって自らが会員制クラブの維持のためにクラブ外に出ていくこと、すなわち自らの質の低さを自認して自らを死へと廃棄することを納得するための概念装置が、「犠牲」「尊厳」なのではないか。(144、145ページ)
◍会員制クラブの正会員や準会員、員数外も、「何か」に怯(おび)えている。そのひとつが、役に立つ人間でなければならないという強迫観念である。その強迫観念は、役に立たないと見なせる人間への憤怒(ふんど)や憎悪(ぞうお)と表裏一体のはずである。その憤怒と憎悪を、妬(ねた)みや嫉妬(しっと)と連動させて正当化したのが、まさにナチズムだったのではないか。(150ページ)
◍ジェンダー論や障害学に期待するところはあるが、それが旧態然とした「人権」の話しに終始するのだとしたら、結局は「告発する被差別者」のスティグマを自ら招いて終わるだけで、さしたる展望はもてない。(151ページ)
◍世の中を支えているのは現場で日々賽の河原(さいのかわら:無駄な努力)のような労働にたずさわっている「小さき人々」なのであって、「天下国家を机上で脳天気に論じている高等遊民とその卵たち」に何がわかるか、という思いがないわけではない。現場の「上がり」が研究生活であるかのような、現場・研究双方の一部の見方にも抵抗がある。(中略)他方で、現場の体験に自閉しているだけでは閉塞感を深めていくばかりだろうというのも実感としてある。(154ページ)

〇今回改めて、大谷のその「論文」と「語り」を読むことにした。以上の「語り」に加えて、留意したい論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

「癒し系授業」と「悩ませ系授業」
「いのちの教育」「死の教育」は、実は癒しブームと連動した「癒し系授業」だと見なせなくもない。子どもたちの生と死をめぐって、現実に起きる「事件」が、へたな小説を凌駕(りょうが:上回る。超える)してしまったような現代にあって心身疲れ果てた教師が、感動の涙に至る「癒し系授業」に活路を見いだしたくなるのは、わからないでもない。これに対して、バイオテクノロジーと先端医療の発達がもたらす生と死の問題群の、倫理的・法的・社会的ディレンマに向き合う生命倫理教育は、「悩ませ系授業」だと、わたしは本気で考えてはいるが、一見価値中立にその是非を問いつつ、結果、先端医療技術のつゆ払い(つゆはらい:先導して道を開く)役を果たす意味において、両者が補完関係を形成するであろうことは、見逃せない点である。(論文:95ページ)

「いのちの輝き」と「自分らしい死」
「いのちの教育」は、それだけが独立して作用するわけではない。だから、授業者や世間が期待するほど、生徒に影響力をもつわけではないことを、安心してもいる。しかし、一方では、「安楽死」や「尊厳死」が自己決定権にもとづく権利として教科書に叙述されて語られ、「自分らしい死」が「いのちの輝き」とともに語られる。他方では、少子高齢社会への懸念がつぼ型に移行しつつある人口ピラミッドとともに語られる。生老病死(しょうろうびょうし)を語るその枠組みは、太田典礼が著書で安楽死を提案した枠組みと重なってはいないだろうか。(論文:118ページ)

「自分は生きる」と「他者を殺す」
生老病死をディベイトのような二項対立の是非で問う問い方を批判し続けてきた。答は多様にあるはずなのに、たった二つの答に収斂(しゅうれん)させる問い方に、最初から、生理的嫌悪感を感じていたのだが、最近ようやく、その理由がはっきりした。生命倫理問題に関して、是か非か、という問いに答えることを強要することは、究極、自分が死ぬか生きるか、他者を生かすか殺すかという問いへの答を強要することに他ならない。しかも、「生命は尊いにしても、先端医療の発達した現在の、その尊さの複雑困難な状況」を、これでもかと提示した条件の下に答えさせるわけで、一見価値中立に見えるが、実際には、問い自体が「自分は生きる、他者も生かす」ことが肯定されにくい位置に置かれているわけである。このような問いは、問い方それ自体がまったく倫理的ではない。(語り:132~133ページ)

先端医療や高齢社会のつゆ払いと後始末
生死にかかわる問いは、教師の意図や教育技術がどうであれ、また意識的であれ無意識であれ、教師生徒双方が何らかの形で、「自分自身」を問題に織り込むことを余儀なくする。(136ページ)
ただ、当然落とし穴もある。生命倫理問題のディレンマを討論させたり考えさせたり、死に直面した人の話を聞いたり遺書を書かせ感性と体験に訴えたりして、教室の空気が「動く」ことに、教師は目を奪われがちである。(中略)だからこそ、考えたり感動したりした「その先」が何なのか、それを考える必要がある。生命倫理教育と死の教育は、一歩間違えば、先端医療と高齢社会のつゆ払いと後始末を相補的に成す危険性と隣り合わせである。(語り:137ページ)

「生命倫理教育」「死の教育」と「生死の教育」
学校での「生死の教育」は今後どうなっていくべきか。第一、大きくは生命倫理教育と死の教育に二分されている現在の生死の教育を止揚して、自己を問い、他者に問いかけ、社会を変革してゆく地平を切り拓くものにしていくこと。第二に、そのためには、生命倫理学と死生学だけを親学問にするのではなく、医療社会学や文化人類学、科学技術社会論、社会福祉学やジェンダー論、障害学など、近接領域、関連領域からの知見を貪欲かつ批判的に取り入れてゆくこと。第三に、生死の教育が、言挙げ(ことあげ:言葉を発すること)できない「小さき人々」の、言葉にならない言葉を掬(すく)い取ってゆくことである。
(語り:140ページ)

〇以上の大谷の、鋭い考察と深い洞察、そして強い筆力には驚嘆させられる。語るべきは「美しく死ぬ作法」ではなく、「みっともなくても生きのびろ」ということである(語り:139ページ)、と言う。大谷の論点や言説は「市民福祉教育」に通底するものが多い。市民福祉教育のねらいのひとつは、「生きる力」ではなく、「生きのびる力」を育てることにある。それが豊かなまちづくりを促す。再確認しておきたい。
〇さて、筆者の「積読」(つんどく)本のなかに、松田純(まつだ・じゅん)著『安楽死・尊厳死の現在―最終段階の医療と自己決定―』(中公新書、2018年12月。以下[1])と梶田叡一(かじた・えいいち)著『〈いのち〉の教育のために―生命存在の理解を踏まえた真の自覚と共生を―』(金子書房、2018年6月。以下[2])がある。
〇[1]で松田は、「21世紀初頭、世界で初めてオランダで合法化された安楽死。同国では年間6000人を超え、増加の一途である。容認の流れは、自己決定意識の拡大と超高齢化社会の進行のなか、ベルギー、スイス、カナダ、米国へと拡散。他方で精神疾患や認知症の人々への適用をめぐり問題も噴出している。“先進”各国の実態から、尊厳死と称する日本での問題、人類の自死をめぐる思想史を繙(ひもと)き、「死の医療化」(患者の「死ぬ権利」ではなく、法の下で医師が死を管理すること:阪野)と言われるその実態を描く」(「帯」より)。
〇松田は、「安楽死」を三つに区別する。①狭義の安楽死――医師が患者に致死薬を注射して生命を終結させる行為など。②医師による自死介助――医師が患者に致死薬を処方し、患者が自らそれを服用して生命を終結させることなど(服用でない形もある)。③生命維持治療の中止――「消極的安楽死」とも呼ばれ、臨床上の方針として、生命を維持するためのさまざまな治療を中止あるいは開始しないこと、がそれである(「はじめに」ⅱページ)。世界では①②③を「尊厳死」と呼ぶが、日本では「安楽死」と区別して、③のみが一般的に「尊厳死」と呼ばれている。
〇松田によると、現代の安楽死論の論調に、「自分の生命に対する処分権(死ぬ権利)」(205ページ)、すなわち自己決定権(憲法13条から導出される人権のひとつ)に基づく安楽死正当化論がある。しかし、そこには、「本人の自発的な要望による安楽死から、非自発的な安楽死の強制へのなし崩し的な拡大」、すなわち「『死ぬ権利』から『死ぬ義務』への転換」(208~209ページ)という危うさが潜んでいる。いわゆる「すべり坂」(〈安楽死を〉公共政策化すると、障害などを抱えた弱い立場にある人が、本人の意思に反して、家族や社会の負担とされ、被害を受ける可能性が増大すること)への懸念である(28ページ)。別言すれば、「なし崩し的な運用」への不安である。
〇また、松田によると、自己決定の判断をするためには、「自律」(autonomy)が鍵概念となる。その点について松田は、「自律」至上主義的な考え方に対して、「自律・独立と依存は表裏の関係にある」「人間は自由にして依存的な存在」(215ページ)であることを重視する。
〇松田にあっては「自律」とともに、「健康」(health)がいまひとつの鍵概念になる。「健康」については、WHO(世界保健機関)憲章「前文」の「身体的・心理的・社会的に完全に良い状態」という定義を想起する。それに対して松田は、健康を「完全に良い状態」という静止状態として捉えるのではなく、「立ち直り、復元力、適応力」として動的に捉えることが重要であるとする(222ページ)。オランダの女性医師マフトルド・ヒューバーが提唱する新しい健康概念、つまり「たとえ病気で苦境に陥ってもなんとか事態に適応し、人々の支援を受け入れ(=依存を受け入れ)、気落ちすることなくポジティヴに生きていくという健康観」(230ページ)である。

〇松田がいう「自律」と「健康」に留意しておきたい。「死」について考えることは、「生」の意味やあり方を問うことでもある。
〇次に、[2]における梶田の言説については、次の一節だけをメモっておくことにする。「尊厳死」思想に通底する根本的な言説である(見出しは筆者)。

「いのちの教育」はヒトがそこに存在していること自体を理解し承認することから始まる
「人間としての尊厳=ヒューマン・ディグニティ」という言葉は、「能力があるから」でなく、「役に立つ」からでなく、ましてや「美しいから」とか「感動を与えるから」でもなく、人間一人ひとり、そこに存在していること自体として、かけがえのない大切さがある、ということです。(「プロローグ」2ページ)
私自身と同じように、他の人も与えられた〈いのち〉を精いっぱい生きている存在なのだ、という根本的立場の同一性の認識がなくては、一人ひとりの個性や能力や社会的位置づけ等々の違いを乗り越えて互いが互いを無条件に尊重する、といった事態は生じないのではないでしょうか。(「プロローグ」3ページ)

蛇足
誤解を恐れずに一言しておくことにする。
以下を草することにしたのは、私事にわたるが最近、高齢者特有の心身上の変調が顕著になってきたことによる。また、他県の老人介護保健施設を訪ね、50数年ぶりに、びっくりするほど「小さくなった」従姉に再会したことにもよる。あまりにも壮絶な人生を送ってきた彼女はいま、80歳代後半を認知症患者として「存在」し、「いのち」の自己展開を図っている。「私はいまが一番幸せです!」という言葉が耳に残る。

〇落語「地獄八景亡者戯」(じこくばっけいもうじゃのたわむれ)が面白い。「まくら」のあと、「健康が一番でございます。‥‥‥さて、いずれ人間は死ななければいけないわけでございますね~」と「本題」に入る。
〇友達からもらった鯖(さば)を二枚におろし、その片身を肴(さかな)に一杯飲んだら鯖にあたって死んだ、いたって気楽な男、喜六。夢でもなし、現(うつつ)でもなし、空空寂寂(くうくうじゃくじゃく)としたところへ出てきて、薄暗い感じ。前を行く者、後ろから来る者、額に角帽子(すんぼうし)、首から頭陀袋(ずだぶくろ)、手には麻幹(おがら)の杖、糸より細い声をあげ、「お~い」。
〇喜六は、冥度への旅路で伊勢屋のご隠居と再会する。そして、喜六によってご隠居の立派な葬式の様子が語られる。隠居は、喜六が葬式の手伝いに来てくれていたことも、香典の5000円をくすねたことも知っていた。「わしゃ棺桶の隙間から覗いてたんや、ズ~ッと」。「あぁ、あの人も来てくれてるなぁ、この人も来てくれてるなぁと思てな、見てたんやで‥‥‥」。
〇私(阪野)はそろそろ「死に支度」について考えなければならない歳になった。私は、伊勢屋のご隠居とはちがって、自分の遺体が安置されている部屋の鴨居(かもい)や欄間(らんま)のあたりから下を見ている。粗末な棺桶の周りにいる数少ない弔問者や会葬者の「他人が知っている私」の話を聞いている。その話に対してときに、「私が知っている私」について語りかける。でも、その声は届かない。そこで、人生を振り返り、「私が知らない私」について考え始める。そうこうしているうちに、閻魔庁の門前にたどり着く。いよいよ閻魔大王の裁定が下り、既に決まっている4人(医者、山伏、軽業師、歯抜き師)の男に加えて、「私」(井の中の蛙の田舎教師)も地獄行きとなる。熱湯の釜や針の山などの責め苦をかいくぐるが、最後には「人呑鬼」(じんどんき)に丸呑みにされてしまう。しかし、その腹のなかで4人は暴れまくり、それにたえかねた人呑鬼は大王(「大黄」という下剤)を呑み、われわれを下(くだ)してしまう。そうするとまた、どこからか「他人(亡者)が知っている私」の話が聞こえてくる。
〇そこでまた、「私が知っている私」や「私が知らない私」の具体的な中身(なかみ)について考え始める。例えば、(現世では)みっともない生き方しかできなかった(できないでいる)ことはともかくとして、市民福祉教育に“一所懸命”であったとはいえ基礎的・専門的な研究力や実践力を身につけられなかったこと、現場と研究の双方において浅薄で皮相的な見方や取り組みしかできなかったこと、教育がもつ暴力性や市民福祉教育がもつ欺瞞性について十分に自覚しえなかったこと、それゆえに、まちづくり(福祉)や市民福祉教育を哲学する道筋を描くことに程遠かったこと、などについてである。加えて、早い時期から「福祉教育」について語ってきた者としての、“限界”や“責任”についてである。それは厳しく、重い。

鳥居一頼のサロン(4):「優しすぎる友よ」

「優しすぎる友よ」

いま退院してきたと 携帯の先で語り出す友
老人ホームで 酔っ払って転んで 
右目の下 七針縫った
アルコール依存症って診断されて 系列の精神病院に強制入院

C病棟 精神疾患の重い人たちが
いき場所もなく もう何年も措置入院している 最後の収容所
相部屋に入るも 会話も成り立たない彼らと 二ヶ月過ごす
精神疾患の病名も 個々バラエティに富む
中には 知的障がいを併せ持つ人もいた
誰も ここから二度と 社会に復帰することは ない
終の住処のC病棟で 生き地獄を見たという
隔絶された狂気の世界に 彼はいた

退院の朝 看護師たちに混じって
患者たちが バイバイと 別れの手を振った
彼らと情を通わせた彼の姿に 看護師たちは驚いた
彼は 言い放った
障がいがあろうが こころの病気だろうが 彼らも人間なんだよ と

こころの闇と生きる痛みを知る者同士が 通じ合えるサインがあるとすれば
互いに傷つけ合わないという 暗黙の了解なのか
医師も看護する者も 心神制御・管理統制・行動規制することが ここでの仕事
彼は患者として 彼らと関わることで 初めて出会った彼らの理解者となった

バイバイ もうここには戻ってくるな
バイバイ おれも連れていってくれ
バイバイ また会いたい 元気でね 
 
バイバイ 忘れないよ
バイバイ 憤怒(ふんぬ、ふんど)と憐憫(れんびん)の情が 渦巻いた
バイバイ おれは… 自戒とそして自壊の前兆の涙が 頬(ほお)をつたう

施設に戻った
無断で コンビニから酒を買ってきて 二ヶ月ぶりに飲んだ
やりきれない虚しさからの 自己逃避 
いつもの おれの弱さの証明
彼らも おれも 救われない不条理の世界で いまも生きている

優しすぎる友よ
自死願望が強くなったときも 仕事を失ったときも 
酒に身をまかせて 弱音を吐いてきた
だから 絶望しないためにも 電話しておいで 
いつでも 回線はつながっている
安心して かけておいで

優しすぎる友よ
他人(ひと)のことで いつもこころを砕き 自滅する
それが 君の生き方 いまさら 変わることは ない
だから 酒に逃げず 電話しておいで 
いつでも 回線はつながっている
遠慮しないで かけておいで
 
優しすぎる友へ
いろんな人に 悪気なく迷惑をかける
なんて 憎めないやつなのか
奈落の底に 何度落ちても 這(は)い上がってくる
なんて 生命力の強いやつなのか
何度失敗しても 何度失望させても 君を信じる人がいる
なんて 幸せなやつなのか

優しすぎる友へ
君は つねに誰かに生かされて きょうまできた
六十五の歳を過ぎ 財産も 社会的地位も 
そして家族も 全てを失った 悲惨な人生
それでもなお 優しすぎる君だからこそ
伝えなければならぬことがある
若き学生たちに 強さと弱さが同居した “素のおのれ”を晒(さら)しながら
生まれてきたことの 生きていくことの 意味を問い続けよ
それこそが 君がこの世に生かされている そもそもの理由なのだ
そこに“人間教師”としての生き様に触れ 人は惹(ひ)かれる

そして 優しすぎる友よ
君が 人を魅了するのは
いまの世の中で 失いつつある
弱き者たちへそそぐ 慈愛のまなざしそのもの
だから 自らのおもいのなかに 生きよ

〔鳥居一頼/2019年5月31日〕

共感≠善:共感は道徳的指針としては不適切である―ポール・ブルーム著『反共感論』読後メモ―

「共感には善玉と悪玉がある」
「共感は道徳的指針としては不適切である」
「私たちは(共感の時代ではなく)理性の時代に生きている」(ブルーム)

〇筆者(阪野)は、1989(昭和64)年1月7日(土)と1989(平成元)年1月8日(日)は韓国・ソウルにいた。1月5日~10日の5泊6日、学生を引率しての研修旅行であった。ソウルの学生たちと「アリラン」(民謡)を合唱する機会にめぐまれた。また、7日から9日までのいずれかに、臨津江(イムジンガン)を渡って38度線・板門店を訪ねている。「イムジン河 水清く とうとうと流る‥‥‥」ではじまるザ・フォーク・クルセダーズ(学生フォークグループ)の「イムジン河」を思い出していた。
〇2019(平成31)年4月30日(火)と2019(令和元)年5月1日(水)は鹿児島にいた。4月28日~5月2日の4泊5日、福岡(大宰府天満宮と九州国立博物館)と鹿児島への観光旅行である。4月30日には川辺郡知覧町(現・南九州市)にある知覧特攻平和会館を訪ねた。そこに展示されている遺影と遺書・遺品などに圧倒され、多くの観光客がいるなかで筆者は、ただ立ち尽くすだけだった。何通かの遺書を読んだとき、脳裏をかすめたのは「検閲」「虚飾」そして「殺された」(「国家による殺人」)の三つの言葉である。
〇特攻隊員の全戦死者は1036人、そのうち知覧基地から出撃した者は402名。また、戦死した朝鮮人特攻隊員は17人、知覧特攻平和会館に祀(まつ)られている者は11人である。そのうちのひとりに、卓庚鉉(タク・キョンヒョン)がいる。「アリラン特攻」卓庚鉉と「特攻の母」鳥濱(とりはま)トメとの感動の物語は有名である。卓は、その前日に鳥濱が経営する富屋食堂で「アリラン」を歌い、1945(昭和20)年5月11日に出撃する。24歳の若さであった。「アリラン アリラン アラリヨ アリラン ゴゲロ ノモガンダ(アリラン アリラン アラリよ アリラン峠を越えて行く)‥‥‥」。
〇朝鮮人特攻隊員に関する最近の論文に、権学俊(クオン・ハクジュン)「韓国における朝鮮人特攻隊員像の変容」『立命館産業社会論集』第52巻第4号、立命館大学産業社会学会、2017年3月、67~81ページ、がある。そこに次の叙述がある。

植民地支配された朝鮮人青年が、自らを支配する国のために死を選択した、また、差別を受けた朝鮮人青年を、基地があった町で食堂を営んでいた日本人女性が自分の子どものように世話をし、その青年が出撃に前夜に朝鮮のアリランを歌ったという物語は、日本の都合に合わせた解釈がなされ、「悲劇の主人公」として同情を集めるだけでなく、一部からは「朝鮮人であるのに日本のために命を捧げた人物」と賞賛され、「アリラン特攻」としての物語性が評価された一方で、アリランを歌う以外の彼の心の声は全く聞こえてこなかった。(75ページ)

〇17人の朝鮮人特攻隊員は、植民地支配と民族的差別の被害者である。権はいう。朝鮮人「特攻隊員は日本のために死んだ『対日協力者』であり、民族の『裏切り者』だという認識・見方から脱することは非常に難しい」(76ページ)。「彼らの魂は依然として、軍神として賞賛された日本でも、祖国である韓国でも受け入れられずに、日韓の失われた歴史の空白の狭間でひたすら漂流している」(78ページ)。この一節に触れたとき筆者は、目頭を押さえる人がいた知覧特攻平和会館の時空ではあまり感じなかった怒りや悲しみを覚える。とともに、歴史的・理性的思考の重要性を再認識する。そして、30年前の平成元年早々に、ソウルで合唱した「アリラン」の哀愁や板門店の軍事停戦委員会本会議場の緊張を思い出した。なお、筆者には戦死した伯父(おじ)がいる。その長男(筆者の従兄)は70年以上もたったいまも、戦争の呪縛や国家不信から抜け出すことができないでいる。悲惨である。
〇こうした感情やわずかな理性をきっかけに、「積読」(つんどく)本のなかにあった、ポール・ブルーム(Paul Bloom、アメリカ・イェール大学心理学教授)著/高橋洋訳『反共感論―社会はいかに判断を誤るか―』(白揚社、2018年2月。以下「本書」)を読むことにした。それはまた、いま社会的風潮として(福祉教育の世界において)「共感」や「共生」、とくにその「心」が強調されるなかで、いかにして「感情」(「共感」)と「理性」のバランスをとるかが問われている、という認識に基づいてもいる。さらに一言すれば、筆者は、「共感」と「理性」にはそれぞれ限界があり、その両者の漸進的な共働によってよりよい“まちづくり”を進めることができる(進めなければならない)、と考えている。
〇ブルームによると、「共感」(empathy)は「情動的共感」と「認知的共感」に分けられる。「情動的共感」は、「他者が感じていると思しきことを自分でも感じること」すなわち「他者の経験を経験する」(10ページ)という意味での共感(感情的な働き)である。「認知的共感」は、「他者の心のなかで起こっている事象を、感情を挟まずに評価する能力に結びつけてとらえる」(25ページ)という意味での共感(理性的な働き)である。ブルームは、前者の情動的共感に反対し、後者の認知的共感を評価する。「共感には善玉と悪玉がある」(20ページ)。「共感(情動的共感)は愚かな判断を導き、無関心や残虐な行為を動機づけることも多い」(9ページ)。「共感は道徳的指針としては不適切である」(9ページ)。「私たちは(共感の時代ではなく)理性の時代に生きている」(19ページ)、別言すれば“他者を思いやる善き人になりたいのなら、あるいは世界をもっとよい場所にしたいのなら、理性を行使すること(理性に基づく判断や行動)が重要である”(9ページ、第6章)、などがブルームの主張である。
〇ブルームは、本書の要点について次のように簡潔に述べている。

共感とは、スポットライトのごとく今ここにいる特定の人々に焦点を絞る。だから私たちは身内を優先して気づかうのだ。その一方、共感は私たちを、自己の行動の長期的な影響に無関心になるよう誘導し、共感の対象にならない人々、なり得ない人々の苦難に対して盲目にする。つまり共感は偏向しており、郷党性(きょうとうせい。同郷のよしみ)や人種差別をもたらす。また近視眼的で、短期的には状況を改善したとしても、将来悲劇的な結果を招く場合がある。さらに言えば数的感覚を欠き、多数より一人を優先する。かくして暴力の引き金になる。身内に対する共感は、戦争の肯定、他者に向けられた残虐性の触発などの強力な要因になる。人間関係を損(そこ)ない、心を消耗させ、親切心や愛情を減退させる。(17ページ)

〇この「要点」の理解を深めるために、ブルームの「反共感論」の論点や言説について、その一部をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

共感のスポットライト的な特質――共感はその射程が限定的であり、数的感覚を欠いている
◍私たち人間にとって、共感はスポットライトのようなものである。つまり、焦点が絞られ、自分が大切に思っている人々は明るく照らし出し、見知らぬ人々や、自分とは違う人々や、脅威を感じる人々はほとんど照らし出さないスポットライトなのだ。
共感は、大勢の人々が関わる問題に直面すると黙して語らず、共感は大勢よりたった一人を重視するよう私たちを仕向ける。
共感は、特定の個人ではなく統計的に見出される結果に対しては反応を示さない。(45ページ)
スターリンは、「一人の死は悲劇的だが、100万人の死は統計的だ」と述べたと言われている。またマザー・テレサは、「大衆を見ても、私は決して行動しないでしょう。でも、一人を見れば行動します」と言った。道徳的判断において数の重要性が認められるのなら、それは理性のゆえであって感情のゆえではない。(112ページ)
◍共感を含めた他者に対する反応は、既存の偏見、嗜好(しこう)、判断を反映するものである。この事実は、共感が無条件に私たちを道徳的にするわけではないことを示す。(88ページ)
◍スポットライトの問題の一つは、焦点の狭さだ。またもう一つの問題は、向けた場所しか照らし出さないことである。だからバイアス(偏った見方)の影響を受けやすい。(112~113ページ)
◍スポットライト的な性質のゆえに、共感はバイアスの影響を受けやすい。また、焦点の狭さ、特定性、数的感覚の欠如という特質を持つがゆえに、自分の注意を惹くもの、人種の好みなどの影響をつねに受けている。私たちが少なくともある程度の公平さや公正さを保てるのは、共感の作用から免(まぬか)れ、規則や原理、あるいは費用対効果の計算に依拠した場合に限られる。(119ページ)

共感と思いやり――共感と思いやりは独立しており、ときには対立することさえある
◍心理学者のヴィッキー・ヘルゲソンとハイディ・フリッツは、「他者に過剰に配慮し、自分のニーズより他者のニーズを優先する」ことを「過度の共同性」(unmitigated communion)と呼んだ。(165ページ)
「共同性」(過度なタイプではなく適切な共同性)が高い人と、「過度の共同性」が高い人の違いはどこにあるのか? どちらのタイプの人々も、他者を気づかう。しかし「共同性」が、配慮や思いやりとも呼べるものに対応するのに対し、「過度の共同性」は共感、もっと正確に言えば共感的苦痛(empathic distress)、つまり他者の苦しみに苦しむことにより強く結びついている。
私は、「過度の共同性」の高さが、共感力の高さとまったく同じであるとは思っていない。とはいえそれらのいずれも、他者との関わりという点では、同じ根本的な脆弱性をもたらす。自身の生活を阻害する過剰な苦痛を本人に引き起こす。(167~168ページ)
◍共感と思いやり(compassion)の区別は、非常に重要である。(中略)あるレビュー論文のなかで、神経科学者のタニア・シンガーと認知科学者のオルガ・クリメッキは、この区別について次のように述べている。「共感とは対照的に、思いやりは他者の苦しみの共有を意味しない。そうではなく、それは他者に対する温かさ、配慮、気づかい、そして他者の福祉を向上させようとする強い動機によって特徴づけられる。思いやりは他者に向けられた感情であり、他者とともに感じることではない」。(170ページ)
「感情的な共感は、思いやりの前駆である」「最初に情動的共感を覚えない限り、思いやりを感じることはできない」と主張される。
私たちは一般に、日常生活で情動的共感を特に覚えなくても他者を気づかったり手助けしたりしていることを考えてれば、これらの主張は理解しがたい。(中略)思いやりや親切心は共感から独立しているばかりでなく、それと対立することさえあり、共感感情を抑えたほうが人はより適切に振舞える場合がある。(174ページ)

暴力・残虐性と共感――暴力と残虐性の要因は必ずしも「共感の欠如」ではない
◍暴力行為にはさまざまな原因があり、私は犠牲者の苦難に対する共感が、それ以外の原因より重要であると言い張るつもりはない。しかし共感は暴力と無関係ではない。ヒトラーがポーランドに侵攻したとき、彼を支持したドイツ人は、ポーランド人による同胞のドイツ人の殺害や虐待のストーリーに激怒していた。(234ページ)
私は平和主義者ではない。無実の人々の苦難は、アメリカが第二次世界大戦に参戦したときのように、場合によっては軍事介入を正当化すると、私は考えている。それでもやはり、共感は暴力行為を選好する方向へと、あまりにも強く人々を傾(かたむ)かせると言わざるを得ない。共感は私たちが戦争の恩恵を考慮するよう仕向ける。それを通じて被害者のために復讐し、危機に直面している人々を救い出させようとする。(235ページ)

感じることと考えること――「共感」に代わる道徳的指針・行動基準は「理性」である
◍情動の本性が過大評価されている。私たちは直観力を備える一方、それを克服する能力(理性的熟慮の能力)を持つ。道徳問題を含めものごとを考え抜き、意外な結論を引き出すことができるのだ。ここにこそ人間の真の価値が存在する。この能力は、人間を人間たらしめ、互いに適正に振舞い合えるよう私たちを導いてくれる。そして苦難が少なく幸福に満ちた社会の実現を可能にする。(14~15ページ)
善き行ないには、あらゆる種類の動機が存在する。それには、より包括的な関心、思いやりなどがある。(中略)また、名声に対する関心、怒りの感情、プライド、罪悪感、信仰、世俗的な信念体系などがある。私たちには、正しい行ないを動機づける要因として、あまりにも性急に共感をあげる傾向があるようだ。(126~127ページ)
善き人であるためには、他者への気づかい、すなわち他者の苦しみを緩和し、世界をよりよい場所にしようとする心構えと、何が最善かを見極められる理性的な能力の組み合わせが必要である。(127ページ)
◍「私たちは共感をはじめとする直感の影響を受けても、その奴隷ではない」。開戦するか否かを決定する際に費用対効果分析に依存する、あるいは自分の子どもに愛情を注ぎ、赤の他人には特に何も感じなくても、彼らの命も自分の子どもの命と同じく重要であることを認識するなど、私たちはもっとよいことができる。(258ページ)

〇本書の原題は、“Against Empathy”(2016)である。一瞬ギョッとするが、ブルームは、“Empathy Is Not Everything”(「共感がすべてではない」)、“Empathy Plus Reason Make a Great Combination”(「共感と理性は偉大な組み合わせをなす」)などといったタイトルでも構わなかった、という。「自立」やそのための「自己決定」「自己責任」が強調される現代社会において、“共感の欠如”、したがって“共感性の強化”“共感力の育成”こそが最大の課題である、と言われる。それは、「共感」が無条件に肯定されていることにもよる。しかし、ことはそれほど単純ではない。「私は共感に反対する」というブルームの「具体的な見解に賛成するにせよ反対するにせよ、情動的に反応するのではなく、それについて理性的に考察し皆で議論することが肝要である」(「訳者あとがき」302ページ)。まさにそれが本書でブルームが説くところである。ブルームの「反共感論は理性の存在を前提とする」(258ページ)。留意したい。

参考資料
「朝鮮日報」が1989年1月8日の1面(3番手〈ハラ〉)で報じた「 히로히토(裕仁)日王(天皇)死亡:昨日 87歳 아키히토(明仁)即位  新元号「平成」 」の記事である。

鳥居一頼のサロン(3):「助かるわ」

「助かるわ」

夫婦二人のところに
精米した新米が たんと送られてきた
すぐには食べきれんから ご近所さんに ちょっとお裾分け
「お米嬉しい 助かるわ」
「なんもさ うちも助かるんだから」

買い物の帰りに 町会の人の車に 乗っけてもらった
小雨がぱらついてきて 荷物もあったから
「助かったわ」
「なんもさ 雨の中 ほっとかれんからね」

家のもんが だれもいなくて ひとりでいたら
突然胸が苦しくなって 消防に電話した
「助けて!」
サイレンならして 救急車が飛んできた
したら 隣の奥さんが 駆けつけて来て
「大丈夫?」っていいながら 病院まで付き添ってくれた
「本当に助かったわ」って こころから感謝したら
「お互い様だよ」って 返ってきた

「助けて!」って 相手に負担をかけると 知っているから
なかなか 言いだせないことば
「助かるわ」って すぐに出てくる 感謝のことば

「助かるわ」「助かったわ」ということばは
他人(ひと)とのかかわりを 和ませる
そのかかわりの さりげなさが
いざというときに「助けて」って すぐに伝えることばに変わる

だから 「助かるわ」「助かったわ」は
お互いの助け合いや支え合いを 身近に感じることばとなる
そのこころは あなたを信じ 分かち合いから生まれ 育まれて さらに豊かになる

それは 一人ひとりに宿る こころの風景そのもの
わたしのまちの 「愛ことば」
「助かるわ」「助かったわ」「なんもさ」「お互い様」
愛ことばの往来が
わたしのまちを ぬくもりあるまちへと 突き動かす

〔鳥居一頼/2018年10月28日〕