「雑感」カテゴリーアーカイブ

阪野 貢/「政治リテラシー」考:啓蒙主義的主権者教育と保守主義的主権者教育、市民性教育と国民性教育―関口正司編『政治リテラシーを考える』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、関口正司編『政治リテラシーを考える―市民教育の政治思想―』(風行社、2019年2月。以下[1])がある。[1]では、「政治リテラシ―」について原理、思想史、実際の取り組みという3つの観点から検討する。政治リテラシ―とは、政治に関する基本的な知識、政治に関与する際に求められる基本的な技能、そしてその知識や技能を積極的に用いる意欲や態度、それらの総体(15ページ)を意味する。すなわち、政治の営みに関する知識・技能・態度の複合体をいう(8ページ)。そして、関口らはこれまでの「主権者教育」に対して、「政治リテラシー教育」の必要性を説く。
〇主権者教育とは、主権者としての、「社会参加」の促進と「政治的リテラシー(政治的判断力や批判力)」の育成を図るための教育をいう。日本国憲法の下では、主権(国を統治する権力)を有する者は国民である。(付記参照)
〇[1]には、施光恒(せ・てるひさ)の論稿「主権者教育における責任や義務―よりバランスのとれた理想的主体像の必要性―」([1]61~89ページ)が収録されている。そこでは、学校における主権者教育がめざす主体像について、その「啓蒙主義的側面」と「保守主義的側面」のバランスの取れた理想的主体像として「相互作用的主体像」を設定すべきであるという。この点をめぐって、言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

現在の主権者教育における主体像―社会の合理的選択者・変革者としての主体像―
現在の主権者教育の目標とされている(理想的)主体像とは、社会の合理的選択者ないし変革者としての性格を色濃く持ち、積極的に社会に影響を及ぼしていく主体だといってよいであろう。つまり、政治に関する知識と関心を持ち、自分たちの権利や利害に自覚的であり、他者と議論を交わし協働し、積極的に政治参加し、政権や政策を選択し、社会を合理的に変革していく人々だと言えるであろう。(68ページ)

啓蒙主義的主体像と保守主義的主体像―その相互作用的な関係性―
現行の主権者教育における理想的主体像とは、政治思想的に見れば、啓蒙主義の影響を強く受けたものだといえる。自分の権利や利害について自覚的であり、それを守るために、他者と協力・結託し、社会や国家を意識的に構築し、変革していく主体である。しかし人間は、社会や国家を意識的に構築する主体というだけではない。逆に、ある社会や国家に生まれ落ち、その文化や伝統から学び、それによって一人前の知的思考や各種の活動が可能になるという側面もまた有している。/政治思想史的に述べれば、伝統や文化から影響を受け、自己が形成されるという側面を強調してきたのは保守主義の考え方である。保守主義を簡潔に規定するとすれば、人間の理性や知性の限界を強く意識し、国や地域の文化や伝統、慣習などを重視する立場だと言えるであろう。/人間と社会との関係は、啓蒙主義が強調するように、人間が社会を作り出し、また変革を加えるという側面ももちろんある。しかし同時に、保守主義が重視するように、人間の理性や知性が社会の文化や伝統を通じて形作られるという側面もある。(72~73ページ)

今後の主権者教育がめざすべき主体像―バランスの取れた相互作用的主体像―
主権者教育の目指すべき主体とは、「啓蒙主義的側面」と同時に「保守主義的側面」にも目配りし、どちらの育成も目指すものとして、つまり「相互作用的主体」として設定されるべきである。すなわち、政権や政策を選択し、社会や国を変革しようとする積極的意思を備えた存在であると同時に、社会や国の伝統や文化から恩恵を受けてきたことを認識し、その恩恵を将来も享受できるように、よりよき形で社会や国を次世代に手渡していく責任や義務が我々にはあるという自覚を有する主体こそ、今後の日本の主権者教育が目指すべき主体像だと言えるのではないだろうか。/こうした主体像からは、自己の権利や利益に自覚的であり、社会や国に積極的に働きかけていく能動性とともに、社会や国に対する責任や義務の意識も円滑に導くことが可能である。(79ページ)

〇筆者の手もとに、石田雅樹の論稿「『市民性』を陶冶する教育、『国民性』を育む教育―ジョン・デューイにおけるナショナリズムと教育」(『年報政治学』第71巻第2号、日本政治学会、2020年12月、237~255ページ。以下[2])がある。[2]では、第一次大戦期(1914~1918年)におけるジョン・デューイのテクストを主な対象として、能動的な市民を育成する「市民性教育」(citizenship education)と国民性(国民としての資質・能力)を育む「国民性教育」(national education)の言説を比較検証し、その教育論におけるナショナリズム(国家や民族の利益を強調する思想や運動)の位置づけを明らかにする。
〇[2]のうちから、石田の言説(デューイの教育論の理解・考察)のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

市民性教育は、デモクラシーを絶えずリニューアルし深化させる「市民」の育成を図る
デューイにおいて「市民性教育」とは、単に統治者にとって従順な市民を再生産することではなく、デモクラシーを構成する一員として社会に参入する手助けとなるものであった。/(すなわち)デューイにあって「市民」になるということは、単に有権者としてのみならず、家族・労働者・コミュニティの一員として社会に関わることであり、自分と異なる多様な他者と共に包括的に社会に参与し続けることで、デモクラシーを絶えずリニューアルする存在になることに他ならなかった。/(この点を踏まえると)デューイが「市民性」を涵養する「市民性教育」と、生活の糧を得る「職業教育」とを一体的に捉えることも(は)必然であった。(240ページ)

国民性教育には、国の歴史を学び直し、自らのアイデンティティを問い直し、建設的な愛国主義を涵養することが必要となる
デューイは、第一次大戦期の軍事教練や国民兵役などに言及するなかで、「国民性教育」は国民的統合や公共心(public mindness)の涵養を促すものであり、そのためには真のナショナルな社会理念が必要であると説く。また、その具体的プラン(国民性教育の構成内容)については、アメリカの歴史を学び直すこと、自らのアイデンティティを問い直すこと、建設的な愛国主義を涵養することなどの必要性や重要性を指摘する。(247~249ページ)

「市民性教育」論と「国民性教育」論は相互補完的な関係にある
「市民性教育」は、形式的な法遵守や空疎な知識の獲得ではなく、「職業教育」と一体化することで、社会生活における「デモクラシー」を実践する技能を涵養するものであり、他方で「国民性教育」は、アメリカ国民のアイデンティティそれ自体を「デモクラシー」として再定義することで、デモクラシーとナショナリズムとの接合を行うものであった。両者は共に、自由で平等な「市民/国民」から成る社会こそが、アメリカであることを再認識させるプロジェクトを共有している。そうした点で、デューイによる「市民性教育」論と「国民性教育」論は相互補完的な関係にある。(250ページ)

〇筆者はこれまで、「まちづくりと市民福祉教育」に関して、「まちづくり―みんなが主役のまちづくり―」や「まちづくり―みんなであるもの探しのまちづくり―」というキャッチコピー(スローガン)を使用してきた。一面的あるいは部分的には、「みんなが主役のまちづくり」は上述の「啓蒙主義的主権者教育」と「市民性教育」、「みんなであるもの探しのまちづくり」(ないものねだり、ではない)は上述の「保守主義的主権者教育」と「国民性教育」に通底するものであろう。なお、「まちづくり」に関して大橋謙策は、1970年代からスローガンのようにいわれていた「福祉のまちづくり」が90年代から「福祉でまちづくり」へと変わり、さらに2010年代には「福祉はまちづくり」といわれる時代へと移行した、という(山崎亮『縮充する日本―「参加」が創り出す人口減少社会の希望―』PHP新書、2016年11月、331、335ページ)。付記しておきたい。
〇本稿に関連する拙稿(記事)に次のようなものがある。併せてご参照いただければ幸いである。

①<雑感>(151)阪野 貢/「主権者教育」「シティズンシップ教育」の一環としての「市民福祉教育」を考えるために―新籐宗幸著『「主権者教育」を問う』再読メモ―/2022年4月16日/本文
②<雑感>(187)阪野 貢/追補/憲法上の「国民」:主権者・有権者・市民について考える ―駒村圭吾著『主権者を疑う』のワンポイントメモ―/2023年9月16日/本文
③<雑感>(96)戦争が始まる“臭い”がする:「愛国」「愛国心」に関するワンポイントメモ―将基面貴巳を読む―/2019年10月8日/本文
④<雑感>(97)いじめ・愛国心・道徳教育:「道徳的価値ありきの、国家のための道徳教育」を問う―大森直樹著『道徳教育と愛国心』読後メモ―/2019年11月5日/本文

付記
主権者に求められる資質・能力(主権者教育の内容)については、上記の①<雑感>(151)の拙稿と併せて、例えば次の資料を参照されたい。

 

阪野 貢/「他者」考:「差別はいけない」と断じて終えるのではなく「差別を考える」文化の醸成が肝要である ―好井裕明著『他者を感じる社会学』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、好井裕明著『他者を感じる社会学―差別から考える―』(ちくまプリマ―新書、筑摩書房、2020年11月。以下[1])がある。[1]における言説を理解するに際しては例えば、好井自身による「他者性」についての次の一節が役立つ。

社会学とは「他者の学」だ。私たちが社会を構成するメンバーとして生きるとき、他者といかに交信でき、繋がれるのかが “ 解くべき重要な問題 ” となるだろう。ただ私たちは他者を本当に理解しきることなどできるのだろうか。他者理解がいかにして可能かと問うことは、翻って他者を理解することがいかに困難であるのかを確認することとなる。さまざまな「ちがい」をもつ他者が出会い、せめぎあう。この出会いやせめぎあいの様相を克明に見つめていけば、他者理解を邪魔しているさまざまなものが見えてくる。そしてさまざまなものをさらに考えていくとき、道徳や倫理の次元で差別や排除を否定するのではなく、世の中で起きてしまう必然として、社会学的考察の対象として、差別や排除を考えることができるようになる。/「他者理解の学」というよりむしろ「いかに他者理解が困難であるのかを考える学」としての社会学の「面白さ」。差別を考える社会学の魅力。『他者を感じる社会学』(2020年)で私が伝えたかったことの一つだ。(好井裕明「社会学的想像力をいかにしたら伝え得るのか―私が新書を書き続ける理由(わけ)―」『フォーラム現代社会学』第21号、関西社会学会、2022年5月、76ページ)

〇この記述をより広く深く理解するために、[1]のなかから次の一節をメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換)。

・差別は、他者理解――あるいは他者理解の難しさ――という深遠なコミュニケーションの過程で生じてしまう “ 必然 ” であり、私たちが他者を理解しようとし、他者と何かを共有し、伝え合おうとするときに(すなわち、他者とつながろうとする過程で)生じてしまう “ 摩擦熱 ” のようなものである。(20ページ)

・私たちは普段、人間として「素晴らしい」「豊かな」存在がいるし「つまらない」「貧しい」存在もいると考えるが、それはあくまで、そのような評価の対象となる人間の営みやその人が表明する価値観や思想に由来するものであり、その人の存在自体に張り付いている属性ではない。(81ページ)/また、「貴(とうと)い―賤(いや)しい」「浄(きよ)い―穢(けが)れている」という伝統的で因習的な人間の見方があるが、廃棄すべきである。(82ページ)

・(性別や年齢、人種や民族、障害、被差別地域など)ある人々や集団、地域や状況を「きめつける」さまざまなカテゴリー化が「あたりまえ」のこととして、その時々の支配的社会や文化に息づいている。(70ページ)/文化や社会の「あたりまえ」や「普通」に息づいているものの見方や価値観こそが差別や排除をうみだす原因なのである。(208ページ)

・多様なセクシュアリティを生きる人々が性的少数者という「カテゴリー」を生き、独自に歴史を創造していく主体であるという事実を見失うことなく、私たちは、常に支配的文化や価値を相対化する「くせ」を身につけていくべきである。(128ページ)

・部落差別は、身分差別や職業賤視(せんし)、地域への偏見が密接に絡み合っており、日本の中世以前からの歴史や文化に根ざした奥の深い問題である。(88ページ)/部落差別は、本当に「不条理で」「理屈にあわない」営みである。それを背後から支えているのが、「貴(き)―賤(せん)」という人間を “ 分け隔てていく ”  見方であり考え方なのである。(90ページ)

・「差別を考える」とは、「あたりまえ」や「普通」のことと見逃している「決めつけ」や「思い込み」をあらためて洗い出し、自分自身がより優しい気持ちで他者と出会い、つながり、気持ちよく生きていくために自分の「あたりまえ」や「普通」をつくりかえていく、ということである。(246ページ)

・日常生活に生起する偏見や差別をなくすためには、まずは自分自身で「差別を考える」 “ くせ ” を身につけることが必要であり、それによって “ 差別などしない自分らしさ ” を身につけることになる。さらに「みんな」で「差別を考える」ことを模索し、そうした営みの延長に、しなやかでタフな「差別を考える」文化が息づく日常が私たちの前に立ち現れてくる。(252ページ)

・差別を受ける人々の「リアル」に対する想像力の圧倒的な欠如、貧困がある。/他者への想像力が枯渇するとき、差別は繁殖する。今、まさに「他者へのより深く豊かで、しなやかでタフな想像力」が必要とされている。(255ページ)

〇こんにち、ネット時代におけるコミュニケーションの変化や社会の分断化・個別化が指摘されるなかで、多様な存在としての「他者」と向き合う対面の人間関係(つながり)が希薄化している。そんななかでまた、自分と向き合う機会も少なくなっている。それは好井にあっては、他者を尊厳あるひとりの「人間として感じない」ゆゆしき事態であり、そこから日常生活における差別や排除が生起する。その改善や改革を図るためには、「他者を感じる」「差別を考える」ことが必要不可欠となる(11ページ)。また、「差別はいけない」と断じて終えるのではなく、「今、ここ」(現在進行形)で「差別を考える」ことによって私が「かわり」、「みんな」が「かわる」のである(252ページ)。好井からのメッセージである。
〇この点を福祉教育の実践や研究に引き寄せて言えば、例えば障がい者差別についてその歴史や現状(実態)、原因や背景などをしっかりと押さえてきたか。障がい者は憐憫(れんびん)や同情の対象ではないとしても(いまだにそうであることが多い)、「あたりまえ」のように「思いやり」の対象として直截的に認識させてきたのではないか。障がい者差別はよくないこととして、反省すべき問題であり、反省すれば「それはそれでよし」としてこなかったか。
〇また、福祉教育実践や研究は、上述の「貴―賤」に関する部落問題(さらには天皇制)について、「家柄」や「血筋」といった人間の地位や場所、属性だけで評価するという “ 偏った ” 他者理解の仕方に言及してきたか。間違っても「寝た子を起こすな」という考えはないと思うが、どうだろうか。「浄(じょう)―穢(え)」に関して言えば、伝統的で因習的なジェンダーをめぐる知識や規範、性的少数者( LGBTQ)というカテゴリーを生きる人たちの理解について関心を持ってきたか(持っているか)。福祉教育実践や研究において、「他者を感じる」「差別を考える」問題は山積している。

 

阪野 貢/「他者」考:他者と共に生きることによって自分らしく生きる ―磯野真穂著『他者と生きる』のワンポイントメモ―

〇人は、2020年1月に始まるコロナ禍において、疫学理論や統計解析手法などを用いた新型コロナウイルスの感染予測(流行予測)に一喜一憂し、罹患のリスクを避けようとした。そんななかで、普段の暮らしにおいて如何に「自分らしく」生きるかを問い、それができる社会システムを求めたのは、昨日のことのようである。筆者(阪野)の手もとに、磯野真穂著『他者と生きる』(講談社新書、2022年1月。以下[1])がある。[1]において磯野は、前者の概念を「統計学的人間観」、後者のそれを「個人主義的人間観」と呼び、また「生の手ざわり」(生きていることの実感や経験)を求めて、前者に関して「“正しさ”は病を治せるか?」、後者に関して「“自分らしさ”はあなたを救うか?」([1]帯)と問う。
〇磯野は、現代社会における人間観、すなわち「人とは何か」「人とはどのような存在であるか」という問いに対して、3種類の人間観を措定する。統計学的人間観、個人主義的人間観、そして「関係論的人間観」がそれである。[1]におけるひとつのキーワードである。本稿では限定的になるが、それに関する一節をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。
〇磯野はいう。「人間の病いと生き死に、及びそれをいかに避けるか、引き受けるかをめぐる問題の諸相の根底には、この3つの人間観の錯綜(さくそう)があると捉えるべきである。つまりあるひとりの人間の病気や死をめぐって、本人とその人を取り巻く人々の間で行き違いが起こる時、その問題に関わる人それぞれが、思考の根底で異なる人間観を前提としながら、同じ人、同じ問題について語っている可能性がある。ある問題に複数の関係者が存在する時、関係者それぞれがどのような人間観を持っているかで、立ち上がる価値と倫理は異なる。したがって、そこのすり合わせが意識的にも、無意識的にも起こらない話し合いは、どこまでも平行線を辿るだろう」(180~181ページ)。

統計学的人間観――病気の事前予測や予防的介入に価値を与える人間観
統計学的人間観は、主に疫学の文脈で提示されるが、例えば50代以上の男性は高血圧だと脳梗塞に罹患する確率が高いというように、統計学的にある集団を数量化することによって導かれた、社会のなかの平均的な人間像(「平均人」:アドルフ・ケトレ)に基づく人間観をいう(150ページ)。その「平均人」は、ある集団の特徴を客観的に表すとみなされながらも、実体としてそれはどこにも存在しない。複雑な計算式を通して現れる架空の物言わぬ人である。それはどこにでもいることにされているが、どこにもいない。誰でもあるが、誰でもない(153ページ)。統計学的人間観は、計算式の上に成り立つ極めて抽象度の高い人間観であり、その最大の特徴は、ある集団の行く末を予想することが可能になるという点にある(184ページ)。

個人主義的人間観――「自分らしさ」(=「私たちらしさ」)を礼賛する素地となる人間観
個人主義的人間観は、自分の内発的な選択や動機によって、社会規範や世間の当たり前に逆らって自分の望みを実現する・表明するといった意味の「自分らしさ」や個性という価値によって支えられる人間観をいう(162、163ページ)。しかし、その「自分らしさ」は、ある選択や行動が「自分らしい」と認められるためには、その選択や行動に社会的承認が伴う必要がある(165ページ)。すなわち、「自分らしさ」が達成されたと思われる時、実際そこで起こっているのは「私たちらしさ」の発現であり(212ページ)、「自分らしさ」はその響きとは裏腹に、合意の形成に他ならない。その点を捉え損ねると、「自分らしさ」は、「それはあなたが決めたこと」という過度の自己責任論や責任回避の機能を生み出したり、「異なる他者といかに生きるか」という共生への省察を欠くことになる(176ページ)。

統計学的人間観と個人主義的人間観の協働と相互支援
統計学的人間観は個々人の価値を棄却する冷たい人間観であり、個人主義的人間観は個々人の価値を大切にする温かい人間観であるように思える。しかし、このふたつの人間観は、一見相反するように見えながら、実は背後(裏)で手を結び協働しあいながら、互いの存在を支え合っている(186ページ)。それはそこに、「生物的な命が存続することが何よりも素晴らしい」という絶対性を帯びた倫理が存在することによる(226ページ)。すなわち、統計学的人間観は、個人のかけがえのなさに絶対的な価値を置く個人主義的人間観に基づいて立ち上がっている(支えられている)のである(193ページ)。

関係論的人間観――自分と他者との「関係性」の生成や変化に価値を見出す人間観
関係論的人間観は、個人主義的人間観の特殊性を浮き立たせるために措定されたカテゴリであるが、他者との関わりのなかではじめて生まれる者として「自分」(個人)を捉える人間観をいう(212ページ)。そこにおいて、この人間観は、自分と他者との関係性の生成や変化に注目することになり、「他者とは何か」「出会いとは何か」「他者と生きるとはどういうことか」などを問うことになる。「他者」とは、分かり合えるかもしれないという存在であり、同時に分かり合えないかもしれないという両義的な存在である(232ページ)。そういう他者との関わり(つまり出会い)は、不安や恐れなどをもたらすが、他者との言動の相互行為を通してどのように他者と共に在るか、共に在り続けるかについて互いの間に規則性が生成される。この相互行為の場や規則(「共在の枠」:磯野)を前提に出会いは進展するが、未来に向かって共に在り続けるためにはその「共在の枠」を変化させていく身構えと身振り(「投射」:磯野)が必要となる(238~241ページ)。その意味において、「他者と生きる」とは、「共在の枠」を共有する自分と他者が、「投射」(相互行為の姿勢や態度)によってその関係性を維持し、新たな関係性を生み出すことによって、出会った他者と共に生きていく「私」/「あなた」が存在することをいう(251ページ)。

〇要するに、一見相反するかのように見える統計学的人間観と個人主義的人間観は実は、一緒になって「生物的な命が存続することが何よりも素晴らしい」という絶対的な倫理観や価値観を創り出す。そしてそれは、絶対性を帯びているがゆえに、人々の営みを制約する。そこにおいて磯野は、両者の人間観を二項対立的な図式で措定するのではなく、両者は協働関係にあるという。そして(そのうえで)、3つ目の人間観として、自分と他者との関係性の生成や変化に注目する関係論的人間観を考えるべきである、という。それが、「他者とともに生きる」すなわち「自分らしく生きる」ことに繋がる。これが磯野の言説であり、視座である。
〇磯野は[1]の最後でいう。「ひとつの尺度で他者の生の長さ(人生の長さ:阪野)を測り、それを価値付け、生き方に介入する際には、唯一の生への畏怖(いふ)を宿した慎み深さが求められる」(269ページ)。留意したい。
〇この指摘から、例によって唐突であるが、これまでの福祉教育の実践や研究は真に「唯一の生への畏怖を宿した慎み深さ」をもってきたか。さまざまな人間観をすり合わせる地道な・丁寧な作業を行ってきたか。特定の人間観を強要し(押し付け)てはこなかったか。そんな疑問が頭をよぎる。

阪野 貢/「他者」考:完全には理解できないからこそ他者と共に生きていける ―奥村隆著『他者といる技法』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、奥村隆著『他者といる技法―コミュニケーションの社会学―』(筑摩書房、2024年2月。以下[1])がある。人は、多くの他者といっしょにいながら(その場を「社会」と呼ぶ)、そのためのさまざまな「技法」を用いて暮らしている。[1]は、そのさまざまな技法(「他者といる技法」)について体系的に論じたものである。ここでは、それらのうちから、「理解」できない(わかりあえない)「他者」とともにいるための技法の一節をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。なお、[1]は、単行本(日本評論社、1998年3月)を文庫化したものである。
〇その点に関する奥村のひとつのメッセージはこうである。「私たちは、『わからない他者』と『いっしょにいる』技法を、ていねいに考えていかなければならない」。「そこにはたくさんの居心地が悪い世界があるかもしれないが、どうやらそもそも他者といるということはそういうことなのだ。そして、それができることは、他者といるということを、もっとずっとゆたかなものにしてくれるように、私は思う」(298ページ)。

①「わかってくれない」ことと「わからないこと」は、他者といるときによく起こる問題である
「理解」は、他者と共存するためのひとつの有力な「技法」である。私たちは、これをよく知っており、じっさいにいつも行っている。また、それと関係するある苦しさも知っている。私たちは、よく「私のことを理解してくれない!」と嘆いたり、「私はあの人を理解できない!」と叫んだりする。わかってくれないこととわからないこと、このふたつは、他者といるときによく起こる問題である。そして、わかられたいこと、わかりたいことが、私たちがしばしば望むことである。(254ページ)

② 他者に「理解」されない「私だけ」の領域があるとき、そこに「自由」や「私」が存在する
これはありえない想定であるが、完全に他者の「こころ」(思いや考え:阪野)が「理解」できたとしたら、どうなるだろう。完全に私の「こころ」が他者によって「理解」されたとしたら、なにが起きるのだろう。(272ページ)/なにもかも「理解」されてしまうとき、私たちは「こころ」を自由に働かせることはできないだろう。むしろ、私たちの「自由」は、他者に「理解」されないことを条件にするようだ。もちろん、他者に「理解」されることと両立する「自由」もある。しかし、両立しない「自由」もたくさんある。たとえば、「まちがえる自由」。他者に「こころ」をすべて「理解」されるとき、私たちは決して「まちがえる」ことはできない。しかし、「理解」されない領域があるとき、私たちは「こころのなか」でいくらも「まちがえる」ことができる。「まちがえる」ことが、私たちにたくさんの「自由」を、可能性を与えてくれる。完全に理解されてしまうとき、私たちはその可能性をもちえない。/また、完全に理解されてしまうとき、「私」など存在しない。「私」のこころのすみずみまで他者によって「理解」されるとき、「私」のなかに「私だけ」の場所などどこにもないことになる。(中略)私は、他者の理解によって、どんどん蒸発していってしまう。逆にいえば、他者に「理解」されない場所をもつことによって、「私」は「私」でありはじめる。(274ページ)

③「理解」の素晴らしさ(「理解の過少」)には敏感であるが、「理解」の苦しさ(「理解の過剰」)には鈍感である
私たちは「理解」のすばらしさはよく知っているが、「理解」が生む苦しみは(感じていても)あまり論じないのではないか。「理解の過少」という事態には敏感だが、「理解の過剰」という事態にはひどく鈍感なのではないか。人がわかりすぎてしまったり、わかられすぎて苦しんでいるときにも(他者の「こころ」が全てわかってしまったと感じたり、他者に自分の「こころ」が全てわかってしまったと感じたりして苦しんでいるときにも:阪野)、もっとわからなければ、もっとわかられなければと思い込み、かえって「理解の過剰」の苦しみを増幅するということが頻繁にあるのではないか。そして、「理解」を断ち切って別の技法を探すことをあまりせず、「理解」の技法が有効でない場面においてもこの技法を使用しているのではないだろうか。(284~285ページ)

④「理解の過少」と「理解の過剰」の苦しみと、「完全な理解」と「適切な理解」の基準はそれぞれ異なる
「理解」にはふたつの異なる基準がある。ひとつは、「完全な理解」という、原理的な基準である。ここから見れば現実に存在するすべての「理解」は「過少」である。もうひとつは、それよりも「理解」が「過少」でも「過剰」でも苦しみを感じる、ある実践的な基準――「適切な理解」とでも呼ぼう――である。そして、このふたつの基準はまったく異なる。(中略)私たちはときに、「完全な理解」が「適切な理解」であると取り違える。「完全な理解」が達成されたら(それは原理的に絶対に経験できないから確かめようがないのだが)どれだけすばらしいだろう、と思い込む。しかし、これはと取り違えである。原理的な「完全な理解」を誤って実践的な「適切な理解」とするとき、私たちはいつも「理解の過少」だけを発見し、「理解の過剰」は絶対に発見できないことになる。/私は、「理解の過少」の苦しみと「理解の過剰」のそれをしっかりと区別しなければならないと考える。また、「完全な理解」という基準と「適切な理解」という基準が異なることを明確に自覚しなければならないと考える。これができないとき、私たちは、それでは解決できなかったりかえって苦しみを増す問題までも「より多くの理解」という技法で解決できると思い込み、それを使用してしまう。(286~287ページ)

⑤「わかりあえない」けれど「いっしょにいる」ための技法、すなわち「理解」とは異なるかたちで他者と「共存」するための技法が必要である
私たちがよく知っているのは、「わかりあう」から「いっしょにいられる」という状態だ。だから、「わかりあえない」とき、「いっしょにいる」ために「もっとわかりあおう」とする。それは、おそらく「社会」という領域のある部分では、必要なことだし大切な成果を生むだろう。しかし、この技法しかもたないとき、「わかりあえない」と私たちは「いっしょにいられなく」なってしまう。おそらくもうひとつの技法があるのだ。「わかりあえない」とき「もっとわかりあおう」とするのではなく、「わかりあえない」けれど「いっしょにいる」ための技法、「わかりあえない」ままでひとつの「社会」を作っていく技法。私は、「他者」といること、「社会」を形成することの少なくともある領域において、このような技法を探すことが必要だと思う。「わかりあわない」と「いっしょにいられない」、「社会」がつくれない、という技法は、私たちの「社会」の可能性を大きく限定する。「理解」は「他者」との「共存」のためのひとつの技法でしかなく、このふたつは別のことなのだ。私たちはときに、他者との「共存」よりも「理解」のほうを目的として設定してしまう。しかし、「理解」できない他者と「社会」を作る場面はあり、そのとき「理解」に囚われることは、私たちを「共存」できなくさせてしまう。私たちは「理解」を断ち切り、それ以外の「共存」のための技法を開発し始めなければならない。(290~291ページ)

⑥「話しあう」技法を身につけているとき、人は「わかりあわない」ときにも「いっしょにいる」ことができる
「他者はわからない」という想定を出発点として、他者といることを模索する技法、そのひとつは、ごく素朴でありふれているが、「話しあう」ということである。/「話しあう」ということは、次のふたつからなりたつ。ひとつは、「尋ねる」「質問する」ということ。これは、いうまでもなく、「わからない」とき、その「わからなさ」につきあっていこうとするときにのみ、開かれる。もうひとつは、「答える」「説明する」ということ。これも、相手が私を「わかっていない」と感じるときにしか、始まらないことだ。(294ページ)/「話しあう」こと。「質問しあい」「説明しあう」こと。――これは、じつに居心地の悪い時間を私たちに開いてしまう。(中略)このことは「わからない!」と相手にはっきり伝えることからしか始まらず、ひとつひとつ「質問し」「声明する」ことは双方にこころの負担をかけることだし、「わかりあっていない」ことを自覚しながらいっしょにいる時間をずいぶん長く共有することになる。しかし、この「話しあう」技法を身につけているとき、人は「わかりあわない」ときにも「いっしょにいる」ことができる。(294~295ページ)

⑦ 早く「わかる」ための技法よりも、「わからない」でもゆっくりとしていられる技法が大切である
私たちは、「わかりあおう」とするがゆえに、ときどき少し急ぎすぎてしまう。しかし、「わからない」時間をできるだけ引き延ばして、その居心地の悪さのなかに少しでも長くいられるようにしよう。その間に、「わかりあう」ことが自然に開かれる場合も、「話しあう」ことを意識的に開く場合も、「わかりあわないまま」ただいっしょにいるだけという場合もあるだろう。しかし、「わかる」ことを急ぎすぎ、その時間を稼げないと、私たちは多くの可能性を閉ざしてしまう。私たちは「わかる」ことにすぐに着地したがる。しかし、より困難で大切なのは、「わかる」ための技法よりも、「わからないでいられる」ようにする技法であるように私は思う。(中略)これをもたないとき、「わからない」とすぐに「なぐりあう」=「暴力」を振るうことをしてしまったり、すぐに「わかろう」として乱暴な「類型」に他者をひきつけるような「理解」に着地する=「差別」することをしてしまったりする(すぐに「わかろう」として高齢者や障がい者、女性などの「類型」によって他者を理解することは、独自性を欠いた部分的な理解にとどまり、差別することになる:阪野、259ページ)。しかし、「わからないでいる」のが常態であり、そこにゆっくりといられるのなら、私たちは「なぐりあう」ことも「差別」することもずっとしなくてすむだろう。(296ページ)

〇人は、他者を理解したい・わかりたい、他者から理解されたい・わかってもらいたいと望む。しかし、他者を完全に理解すること・わかること、他者から完全に理解されること・わかってもらうことは、原理的には不可能である。そこで人は、他者を「ああいう人」「こういう人」や「高齢者」「障がい者」などの「類型」(常識的な思考の構成概念:259ページ)にはめ込むことによって、他者を理解しようとする。しかし、それも部分的・表層的なものにとどまり、他者を完全に理解すること・わかることにはつながらない。むしろ「類型」を利用することによって、他者から離れたり、他者を排除したりする。あるいは、苦しい思いをしながらも他者と共にいることによって、他者への偏見や差別を引き起こすことにもなる。
〇しかし人は、他者と共にいることによって、「生」(生命、生活、人生)の営みを続けることができる。それによってしか、できない。そこで奥村は、理解できない・わからない他者といっしょにいるための技法について考える。理解できなくても・わからなくても、異なるかたちで他者とともにいっしょにいるための技法について言及するのである。
〇上記の見出しを再掲する。

①「わかってくれない」ことと「わからないこと」は、他者といるときによく起こる問題である。
②  他者に「理解」されない「私だけ」の領域があるとき、そこに「自由」や「私」が存在する。
③「理解」の素晴らしさ(「理解の過少」)には敏感であるが、「理解」の苦しさ(「理解の過剰」)には鈍感である。
④「理解の過少」と「理解の過剰」の苦しみと、「完全な理解」と「適切な理解」の基準はそれぞれ異なる。
⑤「わかりあえない」けれど「いっしょにいる」ための技法、すなわち「理解」とは異なるかたちで他者と「共存」するための技法が必要である。
⑥「話しあう」技法を身につけているとき、人は「わかりあわない」ときにも「いっしょにいる」ことができる。
⑦  早く「わかる」ための技法よりも、「わからない」でもゆっくりとしていられる技法が大切である。

〇以上のうちとりわけ、②の、他者に「理解」されない「私だけ」の領域があるとき、そこにたくさんの「自由」や可能性があり、「私は(が)私である」ことの自己理解(認知)がすすむ。⑤の、「わかりあわない」と「いっしょにいられない」、「社会」がつくれないという技法は、私たちの「社会」の可能性を大きく限定する。「理解」は「他者」との「共存」のためのひとつの技法でしかない。そして⑦の、早く「わかる」ための技法よりも、「わからない」でもゆっくりとしていられる技法が大切である、という指摘に注目したい。それが、他者といるということを、もっと、ずっと、きっと豊かなものにしてくれるのであろう。
〇福祉教育実践における高齢や障害の疑似体験は、高齢・障害理解や高齢者・障がい者理解を通して、共存や共生、共存社会や共生社会のあり方を問う。その際の高齢・障害「理解」や高齢者・障がい者「理解」に関して、奥村の議論に留意したい。例によって唐突であるが、付記しておく。

阪野 貢/障害疑似体験の落とし穴―村田観弥「障害疑似体験を『身体』から再考する」のワンポイントメモ―

〇福祉教育実践ではこれまで、「訪問・交流活動」「収集・募金活動」「清掃・美化活動」の“3大活動”や「疑似体験」「技術・技能の習得」「施設訪問(慰問)」の“3大プログラム”を中心にした体験活動が実施・展開されてきた(されている)。圧倒的に多いのは、障害や高齢の疑似体験、なかでも車いす体験やアイマスク体験、インスタントシニア体験である。相変わらず「慰問」という施設訪問も多い。これらの体験活動は場合によっては、誤解や思い込み、偏見を助長し、「貧困的な福祉観の再生産」(原田正樹)を促すことになる。
〇ここで、障害疑似体験の陥穽(かんせい。落とし穴)について、村田観弥の論考――「障害疑似体験を『身体』から再考する」佐藤貴宣・栗田季佳編『障害理解のリフレクション―行為と言葉が描く〈他者〉と共にある世界―』ちとせプレス、2023年3月、123~153ページ。――から先行研究と村田の言説の一部をメモっておくことにする(抜き書きと要約)。
〇なお、本稿は、 新訂「まちづくりと市民福祉教育」論の体系化に向けて―その哲学的思考に関する研究メモ―(2024年5月10日/本文)のなかの 06「しょうがい」と疑似体験の陥穽 に追記されている。

西舘有沙らは、できないことに目が行き過ぎて事実誤認やミスリードを引き起こし、障害者へのネガティブな態度を植えつける点、障害者の能力を特別視する傾向が強まる点など、障害者の姿を誤って捉え、障害に対する認識のゆがみを強固にする側面を挙げ、この検討をせずに教育方法としての疑似体験を採用すべきでないと指摘する。そして改善策として、➀体験の目的を具体的かつ明確に定める、②できないことばかりを体験させない、④事後指導の時間を設ける、④指導者の指導技術を高める、を提案する。(124ページ)

松原崇と佐藤貴宣は、障害学や障害当事者からの視点として、➀政治・社会的構造の要因の看過(個人にばかり焦点を当てる)、②差別的な見方の強化(障害者の無力さが強調され、障害者や障害にネガティブな価値づけが生じる)、③体験の精度の低さ(疑似体験できるのは、個人が突然身体機能の障害を負ったときの状態やそのときの感情のみで、症状の不安定さや症状の進行などの可変的状態がシミュレートできない)、④障害者への倫理的問題(試しにちょっとやってみる程度に扱われ、しばしば楽しい遊びやゲームのように行われる)、を批判として挙げる。そこで対策として、障害者自身がファシリテーターとなる手法や、注意深くブログムムをデザインすることでネガティブな効果を回避する事例など、学習を始める参加者が「現実」を対象化するきっかけとして、プログラムの一部や出発点として位置づけることを提案する。そして、社会構成主義的な協働体験として再構成し(体験は人々の間のコミュニケーションを通じて協働的に構成されると考える社会構成主義の観点に依拠し)、①問題を障害者個人でなく、外部環境へと問題帰属する文脈を用意する、②障害者が企画者として参加する、③障害者を含む参加者間での対話を喚起する、の3点の「仕掛け」を挙げている。(124~125ページ)

障害当事者である鈴木治郎は、体験し経験して知ることはけっして無駄ではないとしながらも、「その場限りの経験」になることや、企画者が「役に立つことだから善いこと」だと押しつける点を指摘する。そして、誰もが「当たり前」を共有化できる場づくりのための「互いの差異を認め共に出会う教育」が必要だと述べる。それを受け谷内孝行は、障害理解プログラムは、障害を理解することに重きを置くのではなく、障害から個性の尊重、共生の重要性、社会変革などを学び、新たな価値を創造する場であるとする。(128ページ)

細馬宏通は、アイマスク体験の主役は、アイマスクをつくる人ではなく、ナビゲーター(ガイドヘルパー)側だと述べている。(148ページ)

村田観弥はいう。
● 操作的に経験された疑似体験は、障害者への偏見をもってはいけないとする常識的な規範意識に囚われ、障害/健康の枠組みを強固にし、特別な存在とする見方を先鋭化することにもなりうる。また場合によっては、その経験は個々に異なるにもかかわらず、障害当事者の発言があたかも正解のように伝わることもある。(126~127ページ)
● 障害を疑似的に体験する活動をたんに問題とするよりも、その経験を自分自身の「日常」や「身体」について考えるきっかけとしての「学びの契機」(「障害者理解」でなく「自己理解」の体験)とする論を試みる。(130ページ)
● 他人の経験を生きるという試みは困難である。であるならば、体験が疑似(似て非なるもの)であることを問題にするよりも、疑似であることの可能性(誰かの立場になって考えたことによる意味の変化や視野の広がり等)に視点をずらすことで、思い込みや誤解が生じるプロセスに気づき、みずからの問題として考える教育的契機にできるのではないか。(144ページ)
● 体験活動は、「意図的に制限した身体を生きる」という体験を、「まずは実践してみる」ことに重点を置く。特定の障壁を感じることなく生きてきた同質性の高い日常から外へ出て、そうでない世界に身を投じる。「健常者」として規格化された身体を崩すことで、「差異化」の体験過程が言語化され、新たな「私」が再構成される。体験は「他人の身体を生きる」ということとは程遠いけれど、何かが生まれるきっかけにはなる。疑似体験では誤解や思い込み、偏見が生起しやすい。あえて誤解や偏見が顕在化する「場」として提示することで、それが我々の日常に遍在し、気づきにくく、見えない壁をつくっており、そこへ意識を向けることで壁を動かすことには有効かもしれないと考える。(151ページ)
● まず己の身体を通した困惑や不安、違和感といった感覚に向き合ってみる経験こそが、「私も同情や特別視をしているのではないか」との気づきにつながり、誤解や偏見と生きる自分自身に向き合うことになるのではないだろうか。(152ページ)

〇疑似体験には「有効論」と「有害論」がある(杉野昭博)。前者は、疑似体験は障がい者への配慮や支援の仕方について理解することを通して、障がい者への共感性を高めることになる、というものである。後者は、疑似体験は障がい者個人の機能障害(インペアメント)が強調され、社会の偏見や差別についての理解が進まず、障害や障がい者に対するネガティブな価値づけがなされてしまう、といものである。いずれもそこでは、一面的なあるいは一時(いっとき)の障害理解や障がい者体験にとどまり、計画的・継続的なまちづくりや社会変革への視点が弱いと言わざるをえない。再認識したい。

阪野 貢/“ Well-being ”再々考:文化的幸福観と集合的幸福をめぐって ―内田由紀子著『これからの幸福について』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、内田由紀子著『これからの幸福について―文化的幸福観のすすめ―』(新曜社、2020年5月。以下[1])という本がある。内田にあっては、主観的な幸福感(Happiness、subjective well-being)は、「喜びや満足などを含んだ、ポジティブな感情・感覚」として定義することができる。それは、一時的な感情状態だけではなく、持続的な、自分の状態や人生に対する評価や心理的安寧(well-being)も含んだ概念である(1ページ)。また、幸福は、個人の性格特性や志向性などの価値観を反映するものであるが、その個人が暮らす環境や文化社会的要因についての状態を示すものである。つまり公共の政策や意思決定にも関わるものである(20ページ)。国レベルの幸福については、経済的な豊かさが重要視されるが、経済自体が直接的に幸せをもたらすわけではなく、GDP(国内総生産)に代表される経済状態は幸福を高める要因のひとつに過ぎない(13ページ)。こうした考えのもとで内田は、専門とする文化心理学の視点・視座から、「幸福とは何か」「幸福とはどのように私たちが暮らす文化と関わっているのか」について客観的・実証的に探究する。内田はいう。[1]において「『幸せになりましょう』というキラキラ輝くメッセージではなく、『幸せとは何かをシリアスに考えましょう』というメッセージを発信したい」と(151ページ)。
〇[1]のキーワードのひとつに「文化的幸福観」がある。その一文をメモっておくことにする(抜き書き)。

幸福と文化的幸福観
幸福は個人が感じるものでありながら、何を幸福と感じるかは実はその人が生きる時代や文化**(傍点筆者)の精神、価値観、地理的な特徴を反映している。たとえば自然のなかで過ごすことで感じる幸福、消費のなかで感じる幸福は、どちらも幸せをもたらすものでありながら、前者はより自然豊かな地域で、後者はより都市的地域で感じられるものであり、農村部と都市部では幸せに関する考え方が違っているかもしれない。幸福はどのような状況に暮らす人もある程度理想とする感情状態でありながら、「どのように幸福を得るのか」はやはり文化によって異なっているだろう。/このような幸福についての考えは「文化的幸福観」と呼ぶことができる。文化的幸福観は、文化を構成する価値観や人生観を反映して成立している。社会生態学的環境(生業あるいは気候など)や宗教・倫理的背景などにより、人々が実際に追求する幸福の内容は異なっている可能性がある。文化・思想的背景がいったんできあがれば、人々は「幸福とは〇〇なものである」という文化的幸福観を教育などにより意識的・無意識的に再生産し、その文化内の他者の幸福の感じ方にも違いを与えるかもしれない。そしてどのようにして幸福を得ようとするか、どの程度の幸福を求めようとするかなどの幸福への動機づけのあり方も異なってくるであろう。(ⅴページ)

〇ここでいう「文化」とは、「ある集団内に社会・集団の歴史を通じて築かれ、共有された、価値あるいは思考・反応のパターン」をいう。すなわち、習慣やルール・価値観など、一定の集団(国家、民族、地域、家族など)のなかで共有され、伝達される有形無形の枠組みが文化である。それはまた、生活のなかに多層的に重なって存在しており、集団を構成する人々が変化すれば文化自体も変化することになる(73、74ページ)。
〇いまひとつのキーワードは「集合的幸福」である。その一文をメモっておくことにする(抜き書きと要約)。

個人の幸福と集合的幸福
個人の幸福は、個々人の「心の持ち方」だけではなかなかうまくいかず、いろいろな社会の相互作用のなかで実現されている。これまでの個人の幸福モデルでは、一人ひとりの幸福の実現をめざすことが、組織や地域全体の集合的な幸福を高めることになるという視点で捉えられてきた。しかし、個人の幸福の追求は、誰かの幸福を搾取したり、誰もが利己的になることで「共貧状態」に陥ったりすることもあり得る。この視点に立てば、個人の幸福の追求だけでは集合的な幸福は実現せず、集合での持続可能な幸福モデルを考えることも必要になる。つまり、これからの幸福については、組織や地域全体における「個人の幸福」と「集合的幸福」の良きバランスを考えることが重要になる。(105、106ページ)

個人の幸せが、他者の幸せを搾取せずに協調的に成立することも大事な要件である。おそらく日本の協調的な幸福******(傍点筆者)は、他者との調和を重視することで、天災などの困難を乗り越え、周囲と助け合うために自分を律する、そういう機能をもって受け継がれてきた。個人ばかりに目を向けてそれが競争的な形で相手を打ち負かし、自らが多くの取り分を得ようとするようなものでは、社会は過度に競争的になり、安定した幸福は得られない。個人の幸せの行きつく先が、足りない部分を満たし続けようとしてしまう快楽主義的なものになってしまっては持続的な幸福は見込めない。個人が生きる意味や価値を感じられるような幸福を実感しながら、それを支える社会・集合とバランスを持っていくことは、現在日本における幸福について考えるうえで極めて重要なことなのではないだろうか。(143ページ)

〇日本の「協調的な幸福」については、内田は「文化的自己観」(Markus & Kitayama)――「相互独立的自己観」と「相互協調的自己観」をめぐって、こう説述する。相互独立的自己観は、人は他者や周囲の状況から区別されて独立に存在するものであり、人の行動はその人の内部にある属性(能力、性格など)による、という考え方(自己観)である。相互協調的自己観は、人は他者や周囲の状況などによって左右されるものであり、人の行動は周囲からの要求に合わせて行われる、という考え方(自己観)である(77~79ページ)。狩猟採集に依存する経済体系を歴史的にもってきたアメリカでは、前者の「個人の自立」が優先されやすく、定住型の農耕に依存する経済体系を歴史的にもってきた日本では、後者の「社会の協調」が優先されやすい(84ページ)。それゆえに、日本人は、自分だけが周囲から飛び抜けて幸福であったりすることよりは、「人並みの日常的幸せ」「ほどほどの幸せ」が大切にされる(68ページ)。
〇なお、内田は、「個人の自由」を重んじる価値観が形成されるなかで、日本人の心のあり方は今、一階が協調性、二階が独立性という、二階建ての家のようになっているのではないか、と指摘する(123ページ。図1:124ページ)。そして、「一階部分の協調性を、保守的で階層的なものではなく、互いの信頼関係を構築し、維持するためのシステムとして活用すれば、(増設された)二階部分の独立性とは両立する可能性がある」(125ページ)という。

図1 現代日本の自己における独立性と協調性の二階建てモデル

〇もうひとつのキーワードとして、「地域の幸福」に関する内田らの調査結果の概要をメモっておくことにする(抜き書き)。

地域内の「つながり」と幸福
地域内のつながりは住人の幸福度を上げている傾向がある。また、つながりは地域内部だけではなく、外の人とも広がっているほうがより良いようである。分析の結果、地域の幸福*****(傍点筆者)には社会関係資本(信頼関係)や地域内でのサポートのやり取りなどが重要な要素となっていることなどが見いだされた。また「閉鎖的」と思われがちな日本の地域内のつながりは、意外にも逆に「開放性」につながっていた。地域内信頼関係があれば、移住者についても受け入れる気持ちが強く、世代が異なる人など、多様な人の意見を聴こうとする雰囲気が醸成されていることなどがわかったのである。/このようなことから、地域内の「つながり」や「共有されている価値」を維持することに貢献するような活動(お祭りなど)や、地域間を橋渡しする制度設計(プロのコーディネート機能の活用)、そして地域外からの評価によって、自分たちが生きる社会・自然・文化的環境を再評価し、誇りをもてるような指針をつくることが重要なのではないかと考えている。(110~111ページ)

〇内田は、「地域の幸福」(地域内の集合的幸福)を高める試みの一例として、農村コミュニティにおける「普及指導員」の果たす役割について紹介する。普及指導員は、農業者や農業コミュニティを対象に、技術指導や経営指導を行う都道府県の職員である。内田らの研究の結論はこうである。農業コミュニティ内部の信頼関係(つながり)である「ソーシャル・キャピタルを形成することは農業コミュニティの幸福につながっていること、そしてそれは内部住民任せの自発的な部分だけではなく、普及指導員による外部からの働きかけによって支えることができるということが示された」(116ページ)。例によって唐突ながら、「まちづくり」や関係人口、コミュニティソーシャルワーカーなどにも通底する言説であろう。留意しておきたい。
〇[1]における内田の主張のひとつは、「幸福は『ごく個人的な』ものと考えられがちであるが、実は社会や文化の影響を大きく受ける、『集合的な現象』でもある」(146ページ)というものである。個人の幸福と集合的幸福の関係は、個人の幸福の追求は集合的幸福度を高め、集合的幸福の追求は個人の幸福度を高めるという相互性・不可分性にある。そこで内田は、個人の幸福と集合的幸福のバランスを保つことが重要であると言う。その際のバランスには、前述した日本人の相互協調的自己観、すなわち「人並み」「ほどほど」といった感覚を大切にするバランス思考が反映されているのであろう。
〇ここでは、個人の幸福度と集合的幸福度を高めるためには、個人に対する働きかけと組織や地域・社会に対する働きかけが必要かつ重要となることに留意したい。その際、ステレオタイプの幸福(「これが幸せなんだ」)や社会的に強制された幸福(「幸せだと思いなさい」)ではなく、それぞれの幸福とそれを支える要件を個々人が、地域・社会全体が思考し追求することが肝要となる(21ページ)。そこで問われるのが、内田が紹介する農業者(個人の幸福)や農業コミュニティ(集合的幸福)に対する「普及指導員」(生産技術に関連する技術力・活動と地域のつながりに関連するコーディネート力・活動が求められる:116ページ)のような役割や機能であろう。「まちづくり」(住民と地域コミュニティ)における重要な視点・視座でもある。
〇なお、筆者が本稿のタイトルを「“Well-being”再々考」としたのは、内田と同様に、「幸福」は個人的な感情状態をさす「幸せ」(happy、happiness)ではなく、地域・社会や環境などを含めた包括的な「幸福」(Well-being)概念として表示すべきであるという思考によるものである。そして、その根底には(またまた唐突であるが)、「困っている人を助ける」という「福祉」(welfare)観ではなく、「みんなの必要を満たす」という「ふくし」(Well-being)観がある。

阪野 貢/地域・社会変革は自律教育活動や運動を伴う長期の過程である ―デヴィッド・ハーヴェイ著、大屋定晴監訳『反資本主義』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、デヴィッド・ハーヴェイ著、大屋定晴監訳『反資本主義―新自由主義の危機から〈真の自由〉へ―』(作品社、2023年12月。以下[1])という本がある。[1]は、日本でも話題になった旧著『新自由主義―その歴史的展開と現在―』(作品社、2007年2月)の続編・新版でもある。
〇[1]の出版意図は、「社会主義への関心が高まるさなかにあって、教育機関での授業に採用されるとともに、労働者階級と社会主義運動での民衆教育における教材をも提供すること」(12ページ)にある。そこでハーヴェイは、(1)資本主義体制の問題点、(2)資本主義体制の新自由主義国家化の現局面、(3)社会主義的代替案への移行の可能性、について論究する(316ページ)。要するに、マルクスの経済理論を通して現代資本主義の危機を分析し、社会主義的代替案を探求するのである。
〇本稿では、[1]のうちから、ハーヴェイの言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

新自由主義に決定的な問題があるのではなく根本の問題は資本主義そのものにある
私見では、新自由主義とは一貫して、一つの階級プロジェクトと定義される。少数のエリート階級に、より多くの富と権力とを蓄積させる一つのプロジェクトなのだ。(49ページ)/資本主義の新自由主義的形態には深刻な問題があり、その是正は必要である。(35ページ)/最近では、自分たちが効率性と収益性を重視しすぎており、自らの活動の社会的、環境的影響といった問題に取り組むことが今や重要なのだと一部の企業集団が認めている。(34ページ)/だが、新自由主義が決定的問題だということには私は賛同しかねる。まず世界には、新自由主義的資本主義が支配的になっていないうえに、そこでの経済モデルが大衆のためにもなっていない地域がいくつもある。つまり問題は資本主義なのであり、その特殊な新自由主義的モデルではない。(35ページ)

革命とはひとつの出来事ではなく長期の過程である
資本主義体制には多くの矛盾があり、あるものは他のものよりも顕著だ。明らかな優先事項は、信じがたいほどの階級的、社会的不平等にあり、環境条件の崩壊にある。しかしその一方で「大きすぎて潰(つぶ)せないが、巨大すぎて存続できない」という矛盾が生じる。この基本的矛盾に挑まないかぎり、社会的不平等にも環境劣化問題にも対処できない。(43ページ)/資本主義が一夜にして破壊される革命的打倒が起こりうる時代が、かつてはあったと思われるにしても、今日にあっては、この種の夢想は不可能である。(45ページ)/(現在の資本主義体制の諸矛盾を解決するにあっては)既存の社会に潜むものを明らかにし、社会主義的代替案(オルタナティブ)への平和的移行を見つけだすことが課題なのだ。革命とは長期の過程であって、一つの出来事ではないのである。(46ページ)

浸透している複合的疎外こそ資本主義体制の変革が求められる前提である
労働過程からの疎外(注①)、現代的消費様式(注②)との関連で蔓延した疎外、政治過程と関わる疎外、伝統的に物事の対処を支援し人生の意味を与えてくれた多くの仕組みに関わる疎外――これらの疎外を包含した状況が生じている。これらがすべて組み合わさると恐ろしいことになる。疎外された人々がただそこに甘んじるほかなく、不満を抱え、受動的攻撃状態(注③)で集団形成から引きこもり、何もかも無意味に思えるがゆえに何事にも無関心になるとすれば、これは危険な事態だ。(254ページ)/(また)社会的不平等が急拡大し、負債懲役(負債を払うまで職を離れられない状態)の深刻化とともに賃金奴隷制(注④)も拡大し、環境的諸条件も急速に悪化している。薄っぺらな代償的消費様式と社会的包摂についての空虚な身振りとで人々は持ちこたえようとするが、この可能性も急激に消えつつある。不平不満は多種多様だ。疎外という概念が、政治的対話のなかで復活させられなければならない。この概念を抜きにして現在、政治の世界で進行していることは理解できないであろう。基本的に、すべての人々が疎外状況に陥っている。(255ページ)/疎外の諸構造を徹底的に見極めないことには、現在の困難から脱出することは不可能であろう。(256ページ)


① マルクスは、『経済学・哲学草稿』で(1)労働の生産物からの疎外、(2)労働行為における疎外、(3)類的存在(人間は生産共同体において他者とともに共同生活を営む社会的存在である)からの疎外、そして(4)人間からの人間疎外(自己疎外)、を説いた。
② 「労働過程からの疎外」の代償として、労働過程から離れた消費生活の豊かさを手にできる消費様式(代償的消費様式)が生み出されるが、その実は消費生活様式が資本によって誘導・強制され、消費活動における人々の自律性が略奪されている。
③ 怒りなどの否定的感情を直接表わさず、消極的かつ否定的な態度・行動で相手に反抗・攻撃する状態のこと(255ページ)。
④ 労働力の所有者である労働者は、生活を維持するために、いずれかの資本家に労働力を商品として売らなければならないという強制によって資本家階級につなぎとめられている。このような状態をマルクスは、『資本論』で「賃金奴隷制」と名づけた。

社会主義的代替案への移行の可能性は4つの矛盾する事態に見出される
ハーヴェイは、社会主義的代替案への移行の可能性を、アメリカ社会を念頭に、次のような4つの「矛盾する事態」に見出す。そして、それらの事態に対処しない限り、社会主義的代替案へと移行する可能性は切り開かれないとする。(「日本語版解説」324~327ページ)
第1は、「新しい労働者階級」の台頭である。自動車製造業や鉄鋼製造業などの伝統的な労働者階級とともに、ファーストフード産業や運輸産業などの新しい労働者階級について考えるべきである。この階級は、一時雇用契約による労働様式ばかりか、人種・民族・ジェンダーによるアイデンティティの分裂もあって、依然として未組織である。しかしその「きわどい道筋」が展開されながらも、彼・彼女らの組織化は反資本主義的プログラムの実現のために必須である。(第12章、207~208ページ)
第2は、資本の略奪の多面性に対応して、人々のなかに生じる多面的な疎外である。資本主義的生産様式における労働過程からの疎外だけでなく、社会的・経済的・政治的・文化的生活における複合的な疎外が浸透している。疎外されている、見捨てられている、無視されていると感じている人々のあいだには不快感が蔓延している。この疎外こそが革命の主体的条件の前提である(325ページ)。(第15章、254~255ページ)
第3は、人工知能に代表される近年の技術革新である。この種の革新は、「一方では、自由に処分できる時間を創造することである」が、他方では資本家階級の利益のために「それを剰余労働に転化することである」。自由に処分できる時間は労働者の解放にふりむけられるはずなのに、現実にはそうはならない。現実にはブルジョアジーの私腹を肥やすためふりむけられる。ここに中心的矛盾がある。資本主義体制そのものが変革されなければ、いかなる技術も「略奪」に応用される(326ページ)。(第18章、296ページ)
第4は、「自由」の問題である。真の自由とは、何でも望むことのできる自由な時間がある世界である。そのためには、きちんとした適切な生活を万人が送るために基本的に必要となるもののすべてが現実に提供されなければならない。社会主義社会における自由は、集団主義ではなく、基本的必要を満たすための個々人の自由である。そのような社会を確実に構築可能にするには集団的運動がなければならない(297ページ)。社会主義的解放のプロジェクトは、その政治的使命の革新として真の自由を提起する。これこそ、われわれが邁進できる目標であり、邁進すべき目標である。(第5章、108~110ページ)

今は社会主義的想像力を駆使できる好機である
(コロナウイルスへの対応という)緊急事態のまっただなかにおいて、われわれはじつにさまざまな代替的(オルタナティブ)体制を実験している。貧しい人や被災地域や被災集団に対する基礎食品の無償提供であり、無料の医療処置であり、インターネットを通じた別種の通信交流環境などだ。実際、新たな社会主義社会の輪郭はすでに明らかになりつつあり、だからこそおそらく右翼や資本家階級も不安のあまり、以前の状態に人々を連れ戻そうとしている。(299ページ)/今という瞬間は代替的社会を築くために、この社会主義的想像力を駆使できる時ではないのか? これはユートピアではない。(300ページ)/この面白い瞬間において、代替的な社会主義社会の構築可能性とそのための積極的活動とを本気で検討できるのではないか?(301ページ)

〇的外れの一言。上記の「新自由主義に決定的な問題があるのではなく根本の問題は資本主義そのものにある」という見出しから、40年以上も前のY先生の言葉を思い出す。「現象を現象で説明しても、何の役にも立たない」がそれである。現象(事実)と現象(事実)の関係性(つながり)=構造、現象(事実)と現象(事実)の共通点(通底するモノ)=本質、である。多くの現象(事実)と現象(事実)の関係性を多面的・多角的に追究することによって構造的に考えることができ、多くの現象(事実)と現象(事実)の共通点を横断的・総合的に探究することによって一般化・普遍化そして理論化を促すことになる。
〇いま一言。上述の「労働者階級と社会主義運動での民衆教育(注⑤)」についてである。ここでいう民衆教育(社会教育、成人教育)の主体は、労働者階級と社会主義運動の「当事者」自身であり、「代弁者」などではない。[1]のなかの「日本語版解説」に次のような一文がある。「福祉自給者は、専従組織者(オルグ)によって外部から組織されるべきではない。むしろ運動の目標は、福祉受給者自身の必要とする訓練と手段とを提供し、貧困当事者が自ら運動統率者となって分析し、戦略を立てられるようにすることにある」(329ページ)。「人々の思想の『革命』なくして、『集団的活動』の『組織化』もありえない」(339ページ)。
〇ここで、(障害はないほうがよいという)「障害からの解放」ではなく、(障害によってこうむる)「差別からの解放」を求めて、1970年代から80年代にかけて展開された「青い芝の会」の障がい者自身による障がい者運動を思い出す(注⑥、⑦)。とともに、障がい者自身が福祉教育を担う「福岡市身体障害者福祉協会」や「コミュニティおきなわ」の1990年代後半以降の取り組みを思い起こしたい(注⑧)。


⑤「民衆教育は、ブラジルの教育学者パウロ・フレイレの活動と思想に端を発した、『対話』的関係にもとづく教育方法論である。そこから発展した民衆教育運動は、ラテンアメリカにおいては世界社会フォーラムの基盤にもなっている。その目標は、抑圧され『沈黙』を強いられた人々に対話的関係を構築することで、その抑圧状況を『意識化』させ、それを打破する知的・実践的能力を涵養することである」(大屋定晴「アメリカ反資本主義運動の位置―マルクス派の理論と直接行動派の倫理をめぐって」『季刊経済理論』経済理論学会、第50巻第2号、2013年7月、51~52ページ)。
⑥ <雑感>(67)障がい者差別と生の思想:「自分の存在意義を問う」(「“ただ生きる”ことの保障」×「“よく生きる”ことの実現」×「“つながりのなかに生きる”ことの持続」)―野崎泰伸「生の無条件の肯定」思想についての福祉教育的視点からのメモ―/2018年11月3日/本文
⑦ <雑感>(144)阪野 貢/言葉とフレーズと福祉教育 :福祉教育は障がい者から感動や勇気をもらい、自分を演じるための教育的営為か? ―荒井裕樹を読む―/2021年9月19日/本文
⑧ <ディスカッションルーム>(73)あの頃の福祉教育、その記憶と記録(4):「福岡市身体障害者福祉協会」「コミュニティおきなわ」 による「障がい者主導の福祉教育実践」―資料紹介―/2018年6月18日/本文

 

補遺  ―自律と教育:自律のための教育―
〇教育の基本的目標は自律的人間の育成にある。それは、教育基本法にいう「教育の目的」としての「人格の完成」を意味する(人間の自律=人格の完成)。そして、自律的人間こそが真に、地域・社会を担い、変革・創造することができる。
〇「自律」とは、自らの判断によって自らの行為を決定あるいはコントールすることである。その判断や行為の決定を可能にするためには先ず、自分を取り巻く環境やそのもとに展開されている状況、直面している出来事や事柄、問題などについて認識、理解し、思考することが必要となる。また、自律は、自己判断に基づいて自分の行為を自分で規制・統制することから、他からの強制や拘束、妨害などを受けない、個人の自由意志の存在を前提とすることはいうまでもない。その自由意志は、他人の言動に影響されないだけでなく、自分の欲求にも影響されずに自分をコントロールする意志を含意する。
〇こうした自律にこそ「人間の尊厳」を見出すことができ、「自から」を「律する」ことができる点において人間は尊厳に値する存在であるといえる。そして、その尊厳を保持するためには、主体的・自律的な思考や判断、行動ができる人間(市民)の育成、すなわち「自律のための教育」(「自律教育」)が必要不可欠となる。それによってはじめて、地域・社会を変革し、新しい未来を開拓・創造することができるのである。
〇前述の「青い芝の会」の運動は自律のための闘争(ふれあい)であり、「コミュニティおきなわ」の実践は自律に基づく社会貢献活動であった。それらの根底に流れる「自律の思想」をいま、しっかりと思い起こしたい。

大橋謙策/和田敏明著『和田敏明 地域福祉実践・研究のライフヒストリー』が刊行される

〇私が敬愛する日本社会事業大学の一年先輩の和田敏明さんの50年余に亘る社会福祉協議会での実践、地域福祉研究のライフヒストリーが本として上梓された。
〇この『和田敏明 地域福祉実践・研究のライフヒストリー』は、香川県社会福祉協議会の日下直和局長が精力的に編集業務を担ってくれて刊行出来た。お礼を申し上げたい。
〇この本の基になる対談の場は、社会福祉協議会四国ブロックの研修会や日本地域福祉研究所の地域福祉実践研究セミナーin今治の特別分科会、あるいは香川県内社会福祉協議会常務吏・事務局長セミナーの場において行われたものを香川県社会福祉協議会がテープ起こしをしてくれ、それを基に編集したものである。
〇全社協の地域福祉部を中心に、日本の社会福祉協議会の質の向上、社会的評価を高め、かつ日本地域福祉学会の創設をはじめとして地域福祉実践の理論化、体系化をされ、かつ全社協の事務局をされた和田敏明さんなので、私は出版先はどう見ても全社協出版部ではないかと勝手に思い込んでいたが、残念ながら全社協出版部からは出版事情の悪化などもあり、叶わなかった。結果として、「自費出版」という形で香川県社会福祉協議会を発行元に刊行出来た。是非、全国の社会福祉協議会関係者、地域福祉研究者は自らのための1冊はもとより、大学の図書館、社会福祉協議会の事務局用にも購入して頂きたい。
〇本書は、和田敏明さんの社会福祉協議会入職の1960年代から、ほぼ10年スパンにおいて、そのスパンの中における社会福祉政策、社会福祉協議会実践などのトピックスを取り上げて、それらのことに和田敏明さんがどう関わってこられたのか、その当時の思いや今だから話せる秘話、エピソードを交えながら語って頂いた。和田敏明さんの語りから、その当時の時代状況や社会福祉協議会の変遷が良くわかる内容に編集されている。
〇と同時に、日下直和局長のご尽力で、和田敏明さんの話に出てくる当時の政策や関係資料を可能な限り収録して頂いた。この収録されている資料を今手元で自分が集めようとすると容易ではない。この本は、1960年代以降の社会福祉協議会、地域福祉における関係資料がまとまって収録されているということも貴重な本となっている。
〇和田敏明さんとの対談当事者として非常に貴重だと思えたことは、①市町村社会福祉協議会法制化のプロセス、②「広がれボランティアの輪」と阪神淡路大震災、③厚生省(当時)との政策立案化に向けての相互交流と研究会活動、④社会福祉法人聖労会理事長として、地元の社会福祉協議会と協働して地域貢献活動を行った点等である。

 

阪野 貢/地域づくりと「住民の学習・トレーニング」 ―韓国住民運動教育院著『地域アクションのちから』に学ぶ―

〇筆者(阪野)の手もとに、韓国住民運動教育院著、平野隆之・穂坂光彦・朴兪美編訳著『地域アクションのちから―コミュニティワーク・リフレクションブック―』全国コミュニティライフサポートセンター、2018年3月。以下[1])という本がある。韓国住民運動教育院(CONET:Korea Community Organizing Network for Education & Training)は、地域・社会変化(「地域が社会を変化させる」)のために住民・コミュニティリーダー(住民リーダー)・コミュニティワーカーに対して、「コミュニティ組織化」(Community Organizing:CO)の教育・トレーニングを行う団体・専門家集団である。1996年に設立されている(後注)。コミュニティワーカーとは、資格や地位ではなく、コミュニティを組織化し「住民による、住民の」運動を促進し活性化する人をいう(60ページ)。
〇[1]は、CONET(コネット)による「コミュニティ組織化」とその教育・トレーニングの経験のエッセンスをまとめたものであり、コミュニティワークの振り返り(リフレクション)や点検のガイドブックである。そして、次のように言う。「コネットが長年こだわり続けてきた『コミュニティ組織化によるコミュニティ運動』は、日本で私たちが目指してきた『住民主体の地域福祉』にほぼ置き換えて考えることができる」(5ページ)。
〇[1]でいう「コミュニティ組織化」(地域組織化)とは、地域の「課題を解決するために住民を組織化し、その結集した力の実体として『コミュニティ組織』(住民組織)を立ち上げること」である。それは、住民自身が自分の生活と地域の現実を正しく認識し、住民意識をもつことから始まる。そして、住民自らが課題解決のための力(変化の力)を結集し、自らの行動・活動で自治的なコミュニティ組織を立ち上げるのである(40、42ページ)。「コミュニティ運動」(住民(自治)運動)は、「コミュニティ組織化によって形成されたコミュニティ組織が新しい地域をつくっていく動き(Movement)」をいう。それは、「住民のための」運動ではなく、「住民による、住民の」運動であり、住民自らが組織化された力で地域・社会を変えていく組織的な行動・活動であり運動である(39、40ページ)。
〇CONETのプロジェクトは、日本の社会福祉協議会のようにその地域に拠点をもってコミュニティの組織化を行うのとは異なり、パラシュート(落下傘)のようにコミュニティワーカーが見知らぬ地域に降り立って始まる(10ページ)。
〇当然のことながら、「地域づくり」には「コミュニティ組織化」が必要になる。CONETにあっては、その「コミュニティ組織化」は、コミュニティ組織とコミュニティリーダー、そしてコミュニティワーカーの三者の主体同士が協働して取り組む。その際、実際のコミュニティ組織化は、コミュニティワーカーではなく、コミュニティリーダーによって行われる。すなわち、コミュニティリーダーこそが、住民とコミュニティワーカーの間にあって、またコミュニティワーカーの参加・協力を得ながら、住民を組織化し、コミュニティ組織を立ち上げ、動かしていく。そして、そのコミュニティ組織は、コミュニティリーダーによって活性化したり停滞したりするが、コミュニティ運動の主体となり、新しい地域づくりに取り組むのである(13、21ページ)。コミュニティワーカーは、この(潜在する)コミュニティリーダーを見出し、リーダーシップを育成し、コミュニティ組織のリーダーとなるよう支援することが求められる(13ページ)。
〇このように、コミュニティ組織、コミュニティリーダー、コミュニティワーカーの三者の主体が協働することで、コミュニティ組織がコミュニティの問題や課題を解決できる活動・運動体となることができるのである。[1]の言説の核心はここにある(21~22ページ)。
〇表1は、「コミュニティ組織化の準備と行動」について、4過程、10段階に区分して表示したものである(23ページ。一部削除修正)。この10段階における主語は、コミュニティリーダーとコミュニティワーカーの協働である。

表1 コミュニティ組織化の準備と行動

〇表1の「コミュニティ組織化の4過程10段階」について、その要点をメモっておくことにする(22~24、47~49ページ。抜き書きと要約)。

コミュニティ組織化の4過程10段階
コミュニティ組織化を図るのは、住民とコミュニティリーダーとコミュニティワーカーである。そのうち、コミュニティリーダーが中心的な存在であり、民主的リーダーシップによって重要な役割を果たす。コミュニティ組織化は次の4過程10段階を経る。

第1過程/予備
第1段階:現場に入る
コミュニティワーカーは、組織化の目的や目標を立てて、自分が活動する地域を選択する。現場に入って、必要な基礎情報を把握する予備調査を実施し、その結果を分析・整理し、住民との出会いを構想してコミュニティ組織化の準備過程に入る。

第2過程/準備
第2段階:住民と出会う
コミュニティワーカーは、住民との出会いと関係の形成を通して、地域問題を綿密に分析し、住民にとって切実な問題を探り出す。その過程のなかで問題解決に向けて、コミュニティリーダーとしての可能性をもっている人は誰なのかを観察することが求められる。
第3段階:組織化のスケッチを描く
コミュニティワーカーは、住民が最も切実に感じ、行動する意欲をもっている課題を一つ選択し、解決のための暫定的な案として住民行動の目標と計画を用意することが求められる。

第3過程/組織化の行動
第4段階:コミュニティリーダーシップを形成する
コミュニティワーカーは、コミュニティリーダーシップの集いを開催・継続しつつ、学習・トレーニングを通して潜在的なコミュニティリーダーが自身のリーダーシップを成長させるように導くことが求められる。
第5段階:行動計画を立てる
コミュニティワーカーは、調査研究、目標と行動方針の設定、計画策定、役割分担のようなプロセスが進むように、潜在的なコミュニティリーダーの集まりに参加し、ファシリテーターとして支援することが求められる。
第6段階:住民を集める
潜在的なコミュニティリーダーは、直接住民と会い、課題について情報や問題意識を共有する。そして、住民自らが立てた目標と行動計画について話し合う。コミュニティワーカーは、潜在的なコミュニティリーダーが住民との出会いや対話、動機づけなどの方法を開発するように支援することが求められる。
第7段階:住民が行動する
潜在的なコミュニティリーダーは、住民を正式な集い(公聴会、討論会、学習会など)に招き入れ、正式なリーダーの役割を遂行し始める。具体的な行動計画を提案し、議論しつつ計画を実践していく。コミュニティワーカーは、潜在的なコミュニティリーダーが意思決定や実践の力量を身につけるように支援することが求められる。
第8段階:評価する
潜在的なコミュニティリーダーは、住民とともに実践結果を点検・評価し、新たな実践課題を確認し計画を用意するために、評価の場をつくり、その場を進行するファシリテーターとなる。コミュニティワーカーは、潜在的なコミュニティリーダーが住民力の結集という観点で評価できるように支援し、住民の関心が継続的に広がるようにすることが求められる。

第4過程/組織の立ち上げ
第9段階:省察する
省察を通して、継続して自分たちの生活課題や関心事を解決していくために、コミュニティ組織が必要だということを確認する。コミュニティリーダーは住民の振り返りを促し、コミュニティワーカーはコミュニティリーダーの活動を支援しながら、住民が組織の立ち上げを進めるように支援することが求められる。
第10段階:組織を立ち上げる
コミュニティリーダーと住民が、持続可能な活動のために、自分たちのコミュニティ組織を準備する(組織の名称や定款の準備、設立総会の開催など)。コミュニティワーカーは、住民の積極的な参加によって組織が立ち上げられるように、そのプロセスにおいてコミュニティリーダーを支援することが求められる。

〇次に、表1の第3過程「組織化の行動」、第4段階「コミュニティリーダーシップを形成する」、その核心キーワードである住民の「学習・トレーニング」に焦点を当て、要点をメモっておくことにする(120~126ページ。抜き書きと要約)。

住民の学習・トレーニング
住民は、「学習・トレーニング」を通じて生活課題や地域の現実について理解を進める。それによって、住民意識が形成され、コミュニティ組織化の過程に登場する。「住民の学習・トレーニング」は、コミュニティ組織化の必須過程であり、コミュニティ組織を発展させる重要な過程である。

Ⅰ.   住民の学習・トレーニングとは?
(1)住民が自分の生活と地域の現実を自ら理解していくことである
住民は学習・トレーニングを通して、自分の生活課題をさまざまな角度からみることができる。住民の学習・トレーニングは、知識を伝えたり方法を教えるのではなく、住民が自分の生活と地域の現実を自ら理解していくことである。
(2)住民が地域の課題を見つけ、行動を組織していくことである
住民の学習・トレーニングは、住民が自分の生活と地域の現実を理解するにとどまらず、地域の課題を見つけ、それを解決するための行動へと実践意志や力量を組織化していくことである。
(3)住民が住民意識を高めながらリーダーシップを開発していくことである
住民の学習・トレーニングは、住民が学習・トレーニングによって住民意識や自尊感情・自負心を高め、潜在的なリーダーがリーダーとしての意識と資質(リーダーシップ)を開発していくことである。
(4)住民がコミュニティ運動の新たな可能性と方向をつくっていくことである
住民は学習・トレーニングを通して想像力を発揮し、可能性や希望を見出していく。住民の学習・トレーニングは、住民がコミュニティの組織化についての意識をもって、コミュニティ運動の新たな可能性と方向性を創っていくのである。

Ⅱ.   住民の学習・トレーニングの原則
(5)住民の学習・トレーニングの主体は住民である
住民の学習・トレーニングの必要性の認識から企画・実行・評価・フォローアップの過程に至るまで、その主体は住民である。
(6)住民自らが発言し行動する
コミュニティ運動は住民自らの発言と行動によって展開されることから、学習・トレーニングの過程も住民自らが発言し行動することであり、教える主体と学ぶ主体が同じである。
(7)住民の学習・トレーニングは現場で日常的に起こる
住民の学習・トレーニングは、住民が生きる具体的な暮らしの現場で日常的に起こる。コミュニティ組織化が起っている現場こそがよい教科書である。
(8)住民の学習・トレーニングを持続的に展開する
住民の意識の成長と新しい活動が継続されると、コミュニティ運動も持続可能な形で発展する。住民の学習・トレーニングは終わったり完成されるものではなく、循環的・持続的に展開されるものである。

Ⅲ.   住民の学習・トレーニングのテーマ
(9)テーマはコミュニティ組織化の現場から出てくる
テーマは、住民の生活やニーズに基づくものであり、自分の価値・思い・イメージ・希望などと現実生活との関わりにおいて具体化される。
(10)コミュニティ組織化の過程がテーマをつくる
テーマは、コミュニティ組織化を促す手段であり、地域・生活理解から意識の高揚や資質の向上、課題の解決などの組織化の過程において作り出される。
(11)住民の変化や成長へと導くテーマを選ぶ
住民がコミュニティの組織化の過程に参加し、自分の変化を経験するなかで、自己開発やリーダーシップ開発、ビジョン開発など、住民自身の変化や成長を導くテーマが見出される。
(12)テーマは多様な方法で扱われる
テーマは一つの方法ではなく、評価・省察、具体的な行動・実践、対話・討論、共同のチームワーク、文化活動など、多様な方法で扱われる。

Ⅳ.    住民の学習・トレーニングの方法  1
(13)住民一人一人と出会いながら行われる
コミュニティリーダーやコミュニティワーカーは、住民が自分の生活と地域問題を客観化できるよう、一人一人の住民と出会いながら学習・トレーニングを進行させる。
(14)住民の集まりで行われる
コミュニティリーダーやコミュニティワーカーは、住民の集まりに参加したり住民の集まりを設けて、住民とともにテーマについて話し合い、学習・トレーニングを行う。
(15)コミュニティ組織化のプログラムとして行われる
コミュニティ組織化の過程のなかで、住民の意識を発展させコミュニティ運動の可能性を追求するために、地域の状況や住民の考えが反映された体系的なプログラムを開発し実施する。
(16)住民の実践的な行動を通じて行われる
学習・トレーニングは、住民の実践的な行動を通じて行われる。実践的な行動は、学習・トレーニングの過程であり、結果でもある。

.    住民の学習・トレーニングの方法  2
(17)体験と事例に基づいて進められる
現場の事例を振り返ったり互いの体験を分かち合うことによって、学習・トレーニングは多様なテーマで、ダイナミックに展開される。
(18)生活のなかのさまざまな出来事が学習の契機となる
住民が生活のなかで経験する多様な出来事自体が重要な学習・トレーニングのテーマになり、その出来事について話し合い、分析・整理することによって住民は多くのことを学ぶ。
(19)住民の利害関係をテーマとして進められる
自分の利害関係に関連している生活上の関心事をテーマとして取り上げると、住民の自発的・積極的な参加は高まる。
(20)コミュニティ組織のビジョンをめざして進められる
自分の生活や地域に対する期待や恐れは、コミュニティ組織のビジョンをつくる基礎になる。期待を具体化するテーマや、恐れを克服するテーマを取り上げながら、住民の学習・トレーニングを進める。

〇[1]のうちから「コミュニティ組織化の4過程10段階」と「住民の学習・トレーニング」をピックアップし、その要点をメモったのは、例によって我田引水的であるが、筆者がかねてより議論してきた「まちづくりと市民福祉教育」について考えるための新たなヒントを得たいがためでもある。
〇ここで、筆者がかつて関わった東京都狛江市社協と岐阜県郡上市(旧・八幡町)社協における地域福祉活動計画の策定と市民福祉教育実践について思い起こす。狛江市社協の地域福祉活動計画(「あいとぴあ推進計画」1990年3月策定)とそれに基づく「あいとぴあカレッジ」(1991年5月~)、郡上市社協の地域福祉活動計画(「みんなでやらまいか八まん福祉文化プラン21」2001年3月策定)とそれに基づく「福祉文化カレッジ」(2003年6月~)がそれである。その資料(拙稿)の一部を付記しておきたい。それは、本稿で取りあげたCONETの考え方と一部通底するところがあると考えるからでもある(阪野貢『市民福祉教育の探究―歴史・理論・実践―』みらい、2009年10月、205~231、241~246ページを参照されたい)。

Ⅰ.    “ あいとぴあカレッジ ” と学習プログラム

“ あいとぴあカレッジ ” の学習テーマおよび学習内容

Ⅱ.    “ 福祉文化カレッジ ” と学習プログラム

福祉文化カレッジの学習目標

“ 福祉文化カレッジ ” の学習テーマおよび学習内容

 


「韓国住民運動教育院」については、次の文献を参照されたい。
朴兪美「韓国住民運動教育院の地域組織化のトレーニング」『日本福祉大学研究紀要―現代と文化』第140号、日本福祉大学福祉社会開発研究所、2020年3月、56~67ページ。

付記
〇筆者にとって市民福祉教育実践と研究の原点でもある “ あいとぴあカレッジ ” については、実に多くのヒトやコトが思い出される。足のご不自由なTさんに  “ あいとぴあカレッジ ”の講師をお願いしたとき、「そんな暇はない。タバコ販売をして細々と暮らしている。われわれのそんな生活を何とかしてほしいものだ!」とすごい剣幕で怒られたことを思い出す。Tさんからはその後、講師を承諾していただき、緊張しながらも地域におけるご自分の生活の様子や問題についてリアルな講話をいただいた。それを一つの契機にTさんは、市民を対象にした「福祉の集い」などにも積極的に参加し、彼らを取り巻く地域生活の現状と課題について訴えられるようになる。大変身である。“ あいとぴあカレッジ ”では、学習者(受講者)とともに、講師の意識変革と態度変容を期待(企図)していたのである。
〇 “ 福祉文化カレッジ ” では、親子で受講された娘さんとお母さんのコトを思い出す。地元の高校で「福祉」を学ぶ娘さんは、「まちの “ ふくし ” についてもっと知りたい」という願いから、お母さんは、「お世話になっている地域に貢献したい」という念(おも)いから受講されたのである。その後娘さんは、卒業後は地元に戻って介護福祉の仕事をしたいという希望を抱いて、県内の福祉系大学に進む。お母さんは、カレッジで新たに知り合った仲間たちとともにボランティア活動に取り組むことになる。地元の福祉系高校 ⇄  “ 福祉文化カレッジ ” ⇨ 福祉系大学 ⇨「地元福祉」、という循環(進路)を描いて、高校福祉科教育と高大連携や、学校と地域の連携・協働(地域とともにある学校、地域に根ざした学校福祉教育)などについて考えていたのである。

阪野 貢/「ケアリングコミュニティ」基礎考 ―ケアリングコミュニティと福祉教育に関する大橋謙策と原田正樹の言説を中心に―

ケアリングは「世話をする」「面倒を見る」「思いやる」といった行動を指し、人々の相 互関係の中に広く見られるものである。人々が共存するために不可欠のものであり、看護の中核となる重要な概念でもある。「ケアリング」と「ケア」(さまざまな人によって行われる世話、配慮、介護、子育てなど)は、いずれも人に対する気遣いや配慮、関心といった極めて近い意味を 持つが、「ケアリング」はケアを受ける人と提供する人が相互に支え合い、成長する点に言 及しているところに特徴がある。/ケアリングにおいて、ケアを提供する人は、その相手を大切に思い、成長や自己実現に 向けて、専心する。そしてそのプロセスを通じて、ケアを提供する人自らも成長を遂げる。 ケアリングは社会が人間らしさを保持していく上でなくてはならないものであり、看護の道徳的理念といわれるゆえんでもある。(日本看護協会『改訂版 看護にかかわる主要な用語の解説』2023年11月、12ページ)

〇超少子高齢・人口減少・多死社会が進展するなかで、家族機能の低下や社会的紐帯の希薄化、社会的孤立の深刻化などがすすみ、複合化・複雑化した地域・社会生活上の諸問題が顕在化している。そんななかで、 従来の地域の “支え合い”ではなく、意識的に活動する住民による新しい地域づくりが求められている(下記[1]18~19ページ)。本稿で取り上げる「ケアリングコミュニティ」(caring community)とは、看護の領域で用いられてきたケアリングの考え方をコミュニティにまで広げて展開しようという考え方である(下記[3]16ページ)。
〇筆者(阪野)の手もとに、大橋謙策編著『ケアとコミュニティ―福祉・地域・まちづくり―』(講座ケア 新たな人間-社会像に向けて 第2巻)(ミネルヴァ書房、2014年4月)という本がある。その「カバー・そで」は、その内容を次のように紹介する。「本書は、地域福祉の視点からケアを再検討するとともに、ケアリングコミュニティ構築のための実践方法を提起することを目的として企画されたものである。ケアリングコミュニティとは、福祉サービスを必要とする人を社会的に排除するのではなく、地域社会を構成する一人として包摂し、日常生活圏域の中で支えていく機能を有しているコミュニティのことである」。
〇以下では、この本に収録されている19本の論文のうちから、ケアリングコミュニティについての基礎的論考と、そこから福祉教育の必要性について言及する次の2本の論文について、その論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

(1) 大橋謙策「はしがき」「社会福祉におけるケアの思想とケアリングコミュニティの形成」『同書』ⅴ~ⅶ、1~21ページ(以下[1])。
(2) 原田正樹「ケアリングコミュニティの構築に向けた地域福祉-地域福祉計画の可能性と展開―」『同書』87~103ページ(以下[2])。
併せて、原田正樹の次の論文にも注目する。
(3) 原田正樹「ケアリングコミュニティの構築をめざして」『月刊自治研』第59巻696号、自治労サービス、2017年9月、16~22ページ(以下[3])。

 

Ⅰ. 大橋謙策のケアリングコミュニティ論

人間存在の本質に「ケアする」「ケアされる」関係性がある
一般的な人間の生涯を通して考えてみると、われわれ人間は誕生期と終末期において“ケアされる”時期なくして生きることができない。まして、心身に障害を有したり、一時的に病気になった時には他者のケアなくして生きていくことができない。/それにもかかわらず、なぜ今ケアが問われているのであろうか。/逆に、ケアが必要な生涯を誰しもが送るにもかかわらず、なぜ他者へのケア、“ケアする”ことが問題になるのであろうか。/そもそも人間は1人では生きて行くことが困難な動物であり、集団の中でこそ生きるすべを獲得し、言語や文字を発達させてきたのではないか。だとすれば、“ケアする”、“ケアされる”関係性というものは人間にもともと求められていた機能だったのではないか。([1]2ページ。以下[1]省略)

「ケア」は自己実現を図ることに関わる営みである
ケアとは、子育ての時期のケアを考えても、終末期のケアを考えても、要は人間としての尊厳を護り、自己実現を図ることに関わる営みである。/とすれば、それは自己実現や人間としての尊厳をどう考えるかに関わっている命題である。ケアの目的は、人間が自立生活を送る上で必要な要件が何らかの要因で停滞、欠損、不足している時に支援を受けて、自己実現を図ることであろう。(8ページ)

「ケア」の考え方の構成要素として「6つの自立」がある
自立生活に必要な要件(条件)には次の6つがある(8~11、17ページ)。(そのような自立・自己実現の支援がケアの内容や方法を生み出し、そのための地域住民による意図的・意識的、主体的・能動的な助け合い(ケアリング)のコミュニティが「ケアリングコミュニティ」の形成と、住民と行政の協働による「地域共生社会」の創出につながる。:阪野)
① 労働的自立・経済的自立:労働をとおして社会とつながり、労働をとおしてものを創造する喜びを得ることは人間の成長に重要な要件である。労働の結果が経済的自立につながる。
② 精神的・文化的自立:人間として自らの快・不快の感性をもとにして、自ら感じたことを自己表出させる文化的自立の問題が大切である。思うところを多様な方法で感情表出するのは人間そのものの権利であり、人間だけに許される営みである。
③ 身体的・健康的自立:生活のリズムを保ち、生きる気力、生きる意欲、喜怒哀楽を豊かにもてることである。24時間の生活リズムをもち、社会関係・人間関係を築き、社会的に生きていくことは身体的・健康的自立のもっとも基本である。
④ 生活技術的・家政管理的自立:自らが生きていく上で生活を整える、日常生活を維持していく上での技術・知恵がなければ生きていけない。自立した生活を送る上では家政管理能力や生活技術能力がなければ生きていけない。
⑤ 社会関係的・人間関係的自立:地域にある社会関係・人間関係はすべて助け合いの精神に満ちた“麗(うるわ)しい”ものではない。プライバシーもなければ、生活共同体での役割を果たせなければ厳しい対応が求められる。そのような日本の文化のもとでは、意図的・意識的に社会生活上、良好な社会関係・人間関係を構築する必要がある。
⑥ 自律的意見表出的・契約的自立:日本の文化は、自分の意見を表出し、お互いがそれを認め合い契約する文化とはなっていない。日本の稲作農耕構造は、「世間体」を気にし、“長い物には巻かれろ”、“出る釘は打たれる”、“物言わぬ農民”などの文化をつくり出してきた。そのような文化的背景のなかで、1人の人間として自律的に意見表出し、社会的に契約する能力(自立)が求められる。

「ケアリングコミュニティ」をつくる考え方を「コミュニティソーシャルワーク」という
「コミュニティ」とは一般的に、そこに帰属している人のアイデンティティ(同一性の感情)が豊かにあり、そこに帰属している人が安心できる空間・組織であり、その生き方を支える社会システム、生活環境である。/「コミュニティ」は、「ケア」と本来密接不可分の関係にあり、生活の基盤を成している実質的な基礎である。(3ページ)/ケアリングコミュニティとは、福祉サービスを必要とする人を社会的に排除するのではなく、地域社会を構成する1人として包摂することであり、要支援者を日常生活圏域の中で支えていく機能を有している地域社会をいう。(ⅴページ)/日常生活圏を基盤として行政の制度的サービスと近隣住民のインフォーマルサービスとを結びつけて、地域住民の自立生活を支援する新しいケアリングコミュニティをつくる考え方はコミュニティソーシャルワークと言われる。(19ページ)

ケアリングコミュニティの実現には「地域福祉の4つの主体形成」が重要になる
(ケアリングコミュニティの実現を図るためには4つの地域福祉の主体形成を図ることが重要になる。:阪野)第1は、地方自治体においてどういう福祉サービスを整備するべきかという地域福祉計画策定主体の形成であり、第2には制度化された福祉サービスをどう有効に、合理的に、過不足なく利用するかという地域福祉サービス利用主体の形成であり、第3は地域から差別・偏見をなくし、福祉サービスを必要としている人を支える福祉コミュニティをどうつくるかという地域福祉実践主体の形成であり、第4は対人サービスとしての社会福祉を支える社会保険制度をどうつくるかという社会保険制度の契約主体の形成である。(15ページ)

地域福祉の“主体形成に向けての学習”が必要である
このような主体形成や市民活動は自然発生的にはつくれない。そこには“主体形成に向けての学習”が必要である。フランス市民革命が、「博愛」という哲学、あるいは社会契約という理念を具現化させていく上で、成人の“理性”が重要で、その“理性”を身につけるための成人の社会教育を公費で行うべきであるとした点は注目に値する。/住民か生活者としてエゴイスティックなままでなく、地方自治体のあり方に参画できる「市民」としての力量、あるいは国のあり方も含めて「博愛」と「社会契約主体」を身につけて行動できる「公民」としての主体形成が今求められている。(15~16ページ)

 

Ⅱ. 原田正樹のケアリングコミュニティ論

ケアリングコミュニティは「5つの構成要素」によって成立する
ケアリングコミュニティとは、「共に生き、相互に支え合うことができる地域」のことである。それは、地域福祉の基盤づくりである。/そのためには、共に生きるという価値を大切にし、実際に地域で相互に支え合うという行為が営まれ、必要なシステムが構築されていかなければならない。こうしたケアリングコミュニティは、①ケアの当事者性(エンパワメント)、②地域自立生活支援(トータルケアシステム)、③参加・協働(ローカルガバナンス)、④共生社会のケア制度・政策(ソーシャルインクルージョン)、⑤地域経営(ローカルマネジメント)といった5つの構成要素により成立している。([2]100~102ページ)
① ケアの当事者性:地域福祉の当事者とは、そこに暮らしを営む住民自身である。とはいえ、すべての地域住民が「当事者意識」をもっていないのも事実である。そこで、福祉を学びあう場(福祉教育)が必要になる。
② 地域自立生活支援:地域包括ケアシステムが強調されている。コミュニティケアをどう地域で総合的に展開していくか、その際に専門職や機関だけではなく地域の福祉力を活用していく視点が必要である。
③ 参加・協働:ケアリングコミュニティの特徴は、相互に支え合う互酬性に基づくコミュニティである。そのためには完全な「参加」と新しい公共を創り出す「協働」のしくみ(統治)が必要である。
④ 共生社会のケア制度・政策:ケアに関する制度・政策介護保険だけのことではない。社会的排除と社会的包摂のあり方を政策としてとらえ、共生社会をめざした必要な政策、制度を推進していかなければならない。
⑤ 地域経営:ケアリングコミュニティを推進していくためには、必要な財源や人材が不可欠である。社会資源の開発や新たなビジネスモデルを創り出す必要(民間活力の活用:阪野)もある。

ケアリングコミュニティには「相互実現的自立」の自立観が据えられる
ケアリングコミュニティでは「相互に支え合う地域」を大切にする。その根底には相互実現的自立(interdependent)という新しい自立観を据えなければならない。20世紀、自立という考え方を拡大し多面的にとらえ、自立した近代的な市民像を描いてきた。自立プログラムでは依存(dependent)から自立(independent)へ、すなわち援助を受けなくてすむようになることを目標にしてきた。しかし人間は弱い存在である。その存在の弱さを認めあい、自己実現ではなく相互実現をしていく生き方が問われるようになった。/注目されているinterdependentとは、心理学の分野では依存的自立などと訳されている。codependent(共依存)とは異なり、相互によりよく生きていこうというベクトルを有する。地域福祉の分野では「相互実現」という概念が使われてきた。/個人が他からの援助を受けずにすむように自立させるのではない。お互いが支え合いながらより良く生きていけるような自立観の転換が求められているのである。ケアリングコミュティニで求める自立観はこの視点が基本である。([3]18~19ページ)

【備考】
ケアリングコミュニティと「相互実現的自立」

2021年4月から始まる重層的体制整備事業(社会福祉法第106条4)で必須とされる「相談支援」「参加支援」「地域づくり」を一体的に実施するということは、換言すればコミュニティソーシャルワークの展開である。それが可能になるシステム構築が求められる。申請主義からどう脱却し、アウトリーチや伴走型支援を重視し、参加によって役割や出番を創出することで社会関係を育み、生きる意欲(エンパワメント)を喚起する。そうした個人の存在が承認されるような地域、あるいは持続可能な地域社会にしていくために、新たな住民自治(多様性と多機能性)による地域づくりをめざす。こうしたテーマは、地域福祉における地域福祉ガバナンスや地域福祉マネジメントの研究課題でもある。/地域共生社会でいうところの「支え手側と受け手側に分かれるのではなく、地域のあらゆる住民が役割を持ち、支え合いながら、自分らしく活躍できる地域コミュニティ」とは、まさにケアリングコミュニティのことである。「支える、支えられる」という一方的な関係ではなく、「相互に支え合う」地域を構築する。そのときに基軸になるのは、従来のような個人のなかで自立を捉えるだけではなく、関係性のなかで自立を考えるという、相互実現的自立(interdependence)という考え方である。相互実現とは、お互いによりよく生きるという関係性を基盤にした自立観であり、伴走型支援といった方法につながる。これらは地域福祉の原理研究につながる(原田正樹「地域共生社会政策と地域福祉研究」『日本の地域福祉』第34巻、日本地域福祉学会、2021年3月、2ページ)。

〇大橋が指摘するように、「主体形成」や市民活動は自然発生的なものではなく、それに向けての目的意識的な「学習」が必要になる。地域福祉の主体形成は、①地域住民が地域の社会福祉問題を発見する・気づくことから始まり、②その問題や課題を“ひとごと”ではなく“自分ごと”と認識し、③それを“みんなごと”として共有・共通認識し、④その問題や課題の本質をみんなで理解・認識し、⑤組織的かつ変革的・創造的に課題解決を図ることのできる“力”を獲得し、⑥それを具体的・現実的に行使することによって初めて可能となる。⑦そしてその過程を振り返り(リフレクション)、⑧そこから得た知見をもとに次の新たなアプローチを試みる(「主体形成のサイクル」)。その主体形成ができなければ、福祉を学ぶことやボランティ活動は単なる“善行”にとどまり、無批判的で体制適応(順応)的な住民主体を形成することにもなる。また、主体形成の強調は、その一方で国や行政の責任や役割の矮小化、地域住民への“丸投げ”を招くことになる。福祉教育は“両刃の剣”になりかねない、といわれるところである。
〇主体「形成」について別言すればこうである。「形成」は、人間が社会的生活そのものによって “形づくられる” 過程である。それは、第一次的には社会的・自然的環境によって行われる。とすれば、「形成」は「学習」なしには成り立たず、「学習」は「形成」に不可欠なものとして位置づけられる。また、「学習」と「教育」は、「学習のないところに教育はない」「教育は学習の指導である」(勝田守一)という関係にある。そこから、地域福祉の「主体形成」にはその前提に福祉「学習」・福祉「教育」があり、それを必要とするのである。
〇原田が指摘するように、ケアリングコミュニティの形成主体である地域住民には、「当事者意識」を持つことが求められる。その際、「当事者」(concerned parties)という言葉には、「当事者」と「非当事者」を区分する、「当事者」の内在化と外在化を促す危険性がある。とりわけ「援助者」と「非援助者」、「教育者」と「学習者」という関係性のそれにあっては、見下したり偉ぶったりする言動をとる「上から目線」の関わりになることがある。その点において、その使用については慎重でありたい。また、当事者そのものではない「当事者性」という概念や言説(原田正樹、松岡廣路)があるが、それは、周囲の人が「当事者」をどのように理解・認識し、その関係性がどれだけ深まったかを示すものである。従ってそれは、「当事者」と「非当事者」という二項対立的な考え方を解消するものではない。
〇ケアリングコミュニティの形成主体としての地域住民は、その地域に暮らす生活主体である。その生活主体は、生活者として多様な境遇・立場や程度の異なる生活技術能力などをもつ存在である。その点において、社会的排除や包摂の対象とされる高齢者や障がい者、外国籍住民(などの要支援者)も同一である。また、その生活は社会関係・人間関係のなかで営まれるが、それゆえに「当事者」は、生活の多様な場面・局面において固定的あるいは個別的に生成・変容する。すなわち、「当事者」(生活者)は、その生活や人生において、ある問題の「当事者」であっても、別の問題では「非当事者」である(になる))存在でもある。要するに、「当事者」は、その人を取り巻く周囲との関係性や社会的状況によって一様ではなく、変容する存在である。しかもそれは、すべての地域住民の生活や人生に設定されるものである。そこから、地域に住む「すべての人が当事者である」という意識を持ち、「当事者問題」を地域・社会全体で引き受けることが必要かつ重要となる。その際の理念が、ノーマライゼーション(normalization)やインテグレーション(integration)、ソーシャルインクルージョン(social inclusion)である。
〇これらは、筆者がかねてより、とりわけ福祉教育の場面において、“ふくし”とは、“一人ひとりの しあわせ をめざすものであり、すべての人にかかわるものである”。“ふくし”とは、“ふだんの くらしの しあわせ”について、“みんなで考え みんなで汗をながすこと”である、と言ってきた所以である。またここで、高島巌の言葉を思い起こす。“ボランティアのはたらきは ともに考え ともに学び ともに生活しあうことなのだ”。“人間はみな ボランティアする権利をもっているのだ その権利は人間にだけあたえられた 楽しき権利なのである”。(「まちづくりと市民福祉教育」について論究する際、「ボランティア」を「ボランティア・地域活動」や「まちづくり」「市民活動」などに置き換えることも可能であろう。それは、「福祉の心は地域のなかで育つ」ことを唱えた高島の思想や実践に通じようか)高島は、児童養護施設「双葉園」園長であり、児童憲章草案起草者の一人であった。「わが国ボランティアの先駆者」「ボランティアの旗手」と評される(『ボランティア』第28巻第2号、富士福祉事業団、1993年6月)。例によって唐突であるが、付記しておく。

 

補遺
―ケアリングコミュニティ構築のためのコミュニティソーシャルワークの機能―

“無縁化社会”、“限界集落”になった地域を「福祉コミュニティ」や「ケアリングコミュニティ」に再構築していくためには、行政と住民の協働を媒介するか触媒機能であるコミュニティソーシャルワーク機能がもとめられている。([1]20~21ページ)