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阪野 貢/福祉サービス消費者の主体形成と福祉教育 ―もうひとつの福祉教育を考えるためのワンポイントメモ―

〇私事にわたる記事(資料の提示)であることをお許し願いたい。筆者(阪野)は、2023年11月4日、日本福祉教育・ボランティア学習学会第29回新潟大会の総会の席上で、学会の名誉会員の称号を野尻紀恵会長から授与された。恐縮至極であり、光栄の極みである。総会資料(「名誉会員の推挙について」)によると、その理由は次の通りである。

<学会におけるご略歴>
設立呼びかけ人であり、1995年~2010年の4期にわたって理事を務め、2002年~2007年には2期の副会長を務めた。
本学会が設立できたのは、阪野貢先生のご尽力があってのことである。設立趣旨文や会則の起草、関係者との調整、設立総会の準備など大橋謙策先生とともに東奔西走された。この学会設立の経過については、『ふくしと教育』(第17号、2014年)にて、「学会誕生の経緯、志のモノローグ―“天の時、地の利、人の和”を得て―」としてご執筆されている。
<福祉教育研究における主な研究業績>
阪野貢先生は、『日本近代社会事業教育史の研究』(共著、相川書房、1980年)、『戦後初期福祉教育実践史の研究』(単著、角川学芸出版、2006年)など本格的な歴史研究を踏まえ、史実とその時代背景を通して今日的な福祉教育の理論化とともに、その普及に尽力されてきた。『福祉教育の創造』(単著、相川書房、1989年)、『福祉のまちづくりと福祉教育』(単著、文化書房博文社、1995年)、『福祉教育論』(共編著、北大路書房、1998年)、『福祉教育のすすめ』(監修・共著、ミネルヴァ書房、2006年)など。それらの集大成として、「市民福祉教育」という理論化をはかられた。『「市民福祉教育」の研究―総括と展望―』(単著、私家版、2011年)。現在は、市民福祉教育研究所のブログ
http://sakanolab.com/ )を通して、積極的に研究成果を発表されている。(一部訂正)

〇日本福祉教育・ボランティア学習学会は1995年10月に設立された。その時の資料によると、学会設立の呼びかけ人は204人、会員は236人、予算額は200万円であった。こんにち、会員は644人(2023年10月現在)、予算額は954万円(2024年度)になっている。会員各位の尽力によって大きな学会に発展したことは、一会員として、また学会の設立に若干関わりを持たせていただいた者として、嬉しい限りである。
〇上記の「学会誕生の経緯、志のモノローグ―“天の時、地の利、人の和”を得て―」は、次の通りである。参考に供しておきたい。併せて、本ブログ<雑感>(191)1995年と1996年、そして“いま”―野澤和弘著『弱さを愛せる社会へ』のワンポイントメモ―/2023年10月30日投稿、に添付されている記事――「日本福祉教育・ボランティア学習学会設立」『月刊福祉』第79巻1号、1996年1月、108~109ページ( ⇒ 本文 )も参照されたい。







出所:「学会誕生の経緯、志のモノローグ―“天の時、地の利、人の和”を得て―」『ふくしと教育』第17号、大学図書出版、2014年8月、42~47ページ。

〇学会の設立に関する記事(資料)を探している際に、『月刊福祉』1996年6月号(第79巻6号)に掲載されている拙稿――「今後の福祉教育の展開を考える」が目に留まった。27年前の拙稿であり、忘却の彼方に消え去ったモノである。そこでは、今後の福祉教育の展開に向けて、こんにちの福祉教育が抱える問題や課題のうちのいくつかについて考察を加えている。(1)こんにちの福祉教育には総合的・計画的推進と学際的・実践的研究が求められている、(2)福祉教育とボランティア活動、ボランティア学習の関連について整理する必要がある、(3)福祉教育の評価とボランティア活動についての社会的評価は次元の異なるものである、(4)高齢消費者が増大するなかで消費者教育の一環としての福祉教育の推進が求められる、がその枠組み(見出し)である。そのうちの(4)については、次のように記している。

高齢消費者が増大するなかで消費者教育の一環としての福祉教育の推進が求められる
高齢社会は、高齢消費者したがってまた障害消費者が増大する社会である。「自立した消費者」の育成を図るための消費者教育、その一環としての福祉教育の推進が求められる。
高齢者の生活基盤は、心身の機能の低下や意思能力の衰退、それに経済的・社会的・家族的状況の変化などによって脆弱化、不安定化する。また、在宅福祉サービスの有料化や商品化が進むなかで、高齢者固有の経済的かつ精神的・身体的な消費者トラブルや被害が発生し、増大している。そこで、充実した消費生活基盤の確立をはじめ、消費者トラブルや被害に対する救済システムの整備、それに予防システムとしての自立した消費者の育成が重要な課題となる。
消費者教育は、「消費者が各自の生活の価値観、理念(生き方)を個人的にも社会的にも責任を負える形で選び、枠組みし、経済社会の仕組みや商品・サービスについての知識・情報を理解し、批判的思考を働かせながら合目的的に意思決定し、個人的、社会的に責任が持てるライフスタイルを形成し、個人として、また社会の構成員として自己実現していく能力を開発するものである」(日本消費者教育学会)。福祉教育は、社会福祉の制度・施策の仕組みや商品・サービスについての知識・情報を理解し、自主的・主体的、総合的・合理的に判断し、意思決定することのできる福祉商品・サービス消費主体の形成を図るものでもある。この点において、消費者教育の目的と福祉教育のそれは同根であり、両者は密接なかかわりのなかで展開されなければならないといえる。さらに、消費者教育と福祉教育はともに、単なる知識・情報の理解にとどまるものではなく、福祉商品・サービス消費主体としての意思決定能力の育成と態度・行動の変容・変革を促すものであり、そこから体験的・実践的学習活動が重視される点も共通するところである。消費者教育の一環としての福祉教育の実践と研究が求められる。(『月刊福祉』1996年6月号、全国社会福祉協議会、47ページ)

〇当時筆者は、消費者教育の一環としての福祉教育の展開に関して、まずは次の3つの側面における福祉教育のあり方が問われるとしている。①福祉商品・サービスや介護サービスの消費者・利用者(要介護者本人やその家族など)に対する福祉教育、②福祉商品・サービスや介護サービスの事業者や専門家に対する福祉教育、③福祉商品・サービスや介護サービスを安定的・継続的に提供するための市民的・世代間合意を図る福祉教育、がそれである。
〇また、こうも言ってきた。「消費者教育が学習素材として取り上げる消費者問題は、商品・サービスの購入や消費の際に生ずる消費者被害や不利益に関する問題(『取引問題』)としてのみとらえるのではない。それは、『生活環境問題』や『生活問題』としてとらえることが肝要となる。その点において、消費者教育と福祉教育は密接な関係性をもつ」。「消費者教育やその一環としての福祉教育は、健康で、社会参加の意思と能力を備えた高齢者に対しては有意義である。しかし、病気がちなどで社会参加の意思と能力が減退し、しかも記憶力や思考力、判断力などが低下した高齢者に対しては、その成果を期待することは難しい。そこに、代弁的機能(アドボカシー)あるいは後見的機能(ガーディアンシップ)を含めた福祉的かつ教育的な働きかけが必要不可欠となる」(阪野貢「福祉サービス消費者の主体形成と福祉教育―消費者教育に学ぶ―」『福祉文化研究』第6巻、日本福祉文化学会、1997年3月、37~38ページ)。改めて思い起こしておきたい。
〇また当時(2000年以降)、消費者教育の観点や視点から福祉教育について言及する論考が筆者の目に留まった。例えば、次のようなものがそれである。

[1]永原朗子・鳥井葉子・田結庄順子「21世紀の新しい消費者教育における生活主体の育成(第1報)―高齢化・高齢者に関する福祉教育の授業分析結果を手がかりに―」『消費者教育』第21冊、日本消費者教育学会、2001年10月、175~184ページ。
[2]鳥井葉子・永原朗子・田結庄順子「21世紀の新しい消費者教育における生活主体の育成(第2報)―高齢者に関する福祉教育の学習開発の枠組み―」『消費者教育』第22冊、日本消費者教育学会、2002年9月、149~156ページ。
[3]田結庄順子・鳥井葉子・永原朗子「21世紀の新しい消費者教育における生活主体の育成(第3報)―高校生を対象とした高齢者の消費者被害に関する授業研究―」『消費者教育』第25冊、日本消費者教育学会、2005年9月、133~140ページ。
[4]田村久美・水谷節子「消費者教育の一環としての福祉教育―市区町村社会福祉協議会の調査結果から―」『消費者教育』第25冊、日本消費者教育学会、2005年9月、21~32ページ。

〇[1]では、「福祉教育の学習テーマとして高齢者の消費者問題・被害をとりあげることは、福祉をめぐる問題の所在を究明し、その解決にむけての実践力を育成していく上で重要である」(178~179ページ)とする。そして、「消費者教育と福祉教育の関連性」について次のように整理している(179ページ)。

消費者教育
[目的]
個人的かつ社会的な生活の質的向上を図るために自らの生活目標や価値意識を形成し、商品・サービスの購入・使用・廃棄にあたっては、自主的・主体的・総合的・合理的に判断し、意思決定し、自己の生活を主体的に創造していくことの出来る力を育成すると共に、消費者問題・被害については、その事実を認識し、その解決のためには他者と連帯して行動する能動的で積極的な消費者を育成すること。
[学習素材]
*商品・サービスの購入や消費の際に生じる消費者被害や不利益に関する問題(取引問題)
*ゴミ・資源問題をはじめとする生活環境問題(生活問題)
*高齢者・障害者・女性・子どもの福祉問題(生活問題)
福祉教育
[目的]
人権を擁護し、個人の尊厳を守り、安心して生活出来るように、社会福祉の制度・施策のしくみや商品・サービスについての知識・情報を理解し、自主的・主体的・総合的・合理的に判断し、意思決定することの出来る福祉商品・サービス消費の権利主体の形成を図ると共に、ともに生きる福祉社会の創造に向けて、福祉問題を解決していくために他者と連帯して行動する能動的で積極的な人間を育成すること。
[学習素材]
*高齢者・障害者・女性・子どもの福祉問題(生活問題)

〇そして永原らは、結論的に次のようにいう。消費者教育、福祉教育、家庭科教育の「3つの教育に見られる生活主体育成の学習の視点から共通点をまとめると、人間らしい生活の創造の視点に立ち、日常生活における問題・課題を発見し、社会的視野まで取り込んだ生活に関わる課題の改善・解決に主体的に取り組むことの出来る主権者としての自覚と実践力の育成と言える。従って、21世紀の新しい消費者教育における生活主体育成の課題は、(中略)福祉教育の理念・目標の導入を欠かすことが出来ない。つまり、(中略)(21世紀の新しい消費者教育は)高齢者の福祉をめぐる消費者問題・被害を検討する中で、高齢者福祉文化の創造や共に生きる福祉社会の創造に向けて、他者と連帯して福祉の理念、制度、施策等に関する問題や課題の改善・解決策を具体的に提言していくことの出来る主権者としての自覚と実践力を育成していくことにある」(182ページ)。「“ ゆとり ”や “ うるおい ”のある生活を優先する価値観を大切に、『人間の尊厳と人間性の尊重―人権の尊重と擁護―を基盤とするこころ、精神、思いやりの育成・高揚』と『共に生きる福祉社会の創造』を目指す福祉教育を通して人間らしさを継承していくことは、これからの消費者教育にも求められる」(183ページ)。
〇[2]では、中学校・高等学校の高齢者に関する福祉教育の学習開発のための枠組みを検討し、授業実践のための具体的な学習内容案を提示する。表1は、消費者教育における高齢者福祉教育の「学習開発の枠組み」を示したものである。それに沿って「学習内容案」を提案したのが表2である。

表1 中学校・高等学校の消費者教育における高齢者福祉教育の学習開発の枠組み

出所:「21世紀の新しい消費者教育における生活主体の育成(第2報)」『消費者教育』第22冊、日本消費者教育学会、2002年9月、153ページ。

表2「高齢者の消費生活と福祉環境」学習内容案

出所:「21世紀の新しい消費者教育における生活主体の育成(第2報)」『消費者教育』第22冊、日本消費者教育学会、2002年9月、154ページ。

〇そして、鳥井らはいう。「表2の各学習テーマにおいて、高齢者とかかわった具体的な学習活動を通して、高齢者の人権を侵害する消費者問題を把握し、その改善策を考え、社会へと発信していくことにより、表1で示した消費者教育における高齢者福祉教育の目的が達成できる。また、(それは)このような学習過程を通して、21世紀の新しい消費者教育における生活主体の育成をめざすものである」(155ページ)
〇[3]では、「オレオレ詐欺」(振り込め詐欺)を“ 導入 ”にして、「年金証書を担保とした貸し金被害」「商品先物取引」を“ 展開 ”し、「高齢者の消費者被害の特徴」を“ まとめ ”る授業研究をおこなっている。
〇[4]では、次のように主張(議論)する。「消費者教育は、高齢者福祉の充実を図る一助として、高齢者や高齢者を抱える家族の消費生活のより積極的支援にかかわることが重要になる。消費者教育の一環として福祉教育を視野に入れることは、生活者を対象としながらも消費者の視点に重点をおくことであり、福祉教育の一環として消費者教育を視野に入れることは、生活者を対象としながらもそこに消費者の視点も取り入れていくことを意味する。高齢社会の地域福祉をより発展させる一つの媒介である情報・学習は、福祉教育が支援する領域と消費者教育が支援する領域といった独立した点と、両教育の共通する領域の連携した点、いわゆる何を支援するかといった情報・学習内容の棲み分けが必要である」(30ページ)。そして、田村らは、「高齢者福祉に関する消費者教育の一環としての福祉教育」の促進に向けた体系図(図1)を示す。

図1「高齢者福祉に関する消費者教育の一環としての福祉教育」の促進にむけた体系図―福祉教育をアプローチとして―



*Ⅲの ● は、特に高齢者、被介護者、家族介護者に関する福祉教育内容のキーワードを示す。

出所:「消費者教育の一環としての福祉教育」『消費者教育』第25冊、日本消費者教育学会、2005年9月、30~31ページ。

〇以上、本稿では思いがけないことによって、かつて筆者が興味・関心を寄せた「消費者教育の一環としての福祉教育」に関する若干の資料を提示することにした(本稿の真のねらいはここにある)。その問題の重要性は、こんにちの福祉商品・サービス(費用負担、心理的抵抗感、情報格差など)や介護サービス(介護難民、老老介護、介護人材不足など)の現状を考えると、むしろ高まっていると言わざるを得ない。これを機会に、そのあり方等について改めて探究したいものである。

付記
冒頭に記した学会総会に参加している際に、傘寿(さんじゅ)を迎えられた大橋謙策先生からメール――「老爺心お節介情報」第50号が届いた。そのなかに、「大学の教員、研究者として、各種学会での発表のオブリゲーション(義務、責任)もなくなり、75歳以上で名誉会員に推挙されると、学会の理論研究をリードしようというモチベーションも下がり、研究範囲が狭隘になり、唯我独尊的になり、研究意欲も減退することになります」という一文があった。常にご自分を厳しく律してこられた(いまも律しておられる)先生ならではの言葉である。勝手ながら、筆者へのメッセージ(叱咤、鼓舞)として受け止めたい。

阪野 貢/1995年と1996年、そして “ いま ” ―野澤和弘著『弱さを愛せる社会へ』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、野澤和弘著『弱さを愛せる社会へ――分断の時代を超える「令和の幸福論」』(中央法規、2023年9月。以下[1])という本がある。野澤は、著名なジャーナリスト(新聞社の社会部記者、論説委員)であり、大学教員でもある。
〇[1]で野澤は、報道の現場で向き合ってきた少年犯罪の厳罰化、いじめ、ひきこもり、自殺、津久井やまゆり園事件、障がい者の身体拘束、ALS(筋萎縮側索硬化症)嘱託殺人、(ギャンブルや薬物等の)依存症、虐待する親たちの増加、正社員の解体等々の社会問題(生活問題)の本質を深く鋭く抉り出す。そして、「社会の劣化」「社会の崩落」を訴え、これからの時代に必要な価値観の転換を説く。
〇そこには、「孤独だった」「異質な存在だった」(22、23ページ)と述懐するひとりのジャーナリストとしての正義感とそれに基づく批判精神、ひとりの大人(重度知的障がい者の父親)としての自覚とそれ故の確信、そして「令和の時代に幸福な社会をもたらすヒントを見つけたい」(32ページ)という願いと過去に学び未来を拓く覚悟がある。そこに通底するのは「真摯」であり、野澤の言葉は厳しく重い。
〇「社会的弱者に寄り添う記事」を書き続け、「社会的弱者を支える実践」に取り組み続ける野澤の言説から、そのいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

1995年に日本社会は転換しその翌年に小さなやさしい風が吹いた
バブル崩壊(バブル景気:1981年~1991年頃、バブル崩壊:1991年~1993年頃)から今日まで経済の停滞と社会の劣化は続く。/特に1995年に起きた地下鉄サリン事件や阪神・淡路大震災は社会の崩落を象徴するものとして歴史に刻まれることになった。(2ページ)/日本経営者団体連盟(日経連)が「新時代の『日本的経営』――挑戦すべき方向とその具体策」を発表し、非正規雇用の増大を促し一億総中流社会を放棄する路線を示した。/1995年に起きた空前絶後の震災と犯罪、そして日本型経営(「終身雇用」「年功序列賃金」「企業別労働組合」)の大転換。運命的なものを感じさせられる。(18ページ)/未曽有の震災や事件がもたらした戦慄と混乱は日本社会の変質を決定づけたが、今振り返ってみると絶望ばかりが社会を覆っていたわけではない。(2ページ)/阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件の翌年、小さなやさしい風が吹いた。/これまで見向きもされなかった社会的弱者といわれる人々に社会や政治が手を差し伸べたのである。薬害エイズ訴訟の和解、らい予防法や優生保護法の廃止、障害者虐待の報道はいずれも1996年に起きた。/ただの偶然かもしれない。しかし、社会が崩落していくなかで、私たちは自らのなかにある弱さを見つめ、やさしさを抱きしめようとしたのだ。そうした人々の心が風を起こした。騒乱にかき消されてしまうほどの小さな風ではあったが、報道の現場で私は確かに感じた。(3ページ)

未来をすりつぶす社会の希望は過去から吹いてくる風が教えてくれる
予想を超える勢いで少子高齢化が進み、社会全体の地盤が沈んでいくのが今の日本だ。(10ページ)/報道の現場で、いじめ、ひきこもり、子どもや障害者の虐待などの記事を私は書いてきた。ジャーナリズムは歴史の最初の記録者といわれる。目の前で起きていることを記録するだけでなく、声なき声を聞き、埋もれている時代の真実を社会に伝え(「課題設定」の機能:67ページ)、政治や行政を動かす役割を担っている。今日の危機的な状況に対する責任はジャーナリズムにもある。それゆえ、私自身が未来に対する不作為の加害者でもあるのだ。(10~11ページ)/私たちは未来がすりつぶされていくことへの罪を自覚すべきだ。地図にはない暗い道を歩きながら、希望を見つけなければならない。どこかにあるはずだ。得体の知れない不安におびえ、目の前の安心にしがみついていたのでは見えないだけで、過去から吹いてくる風が教えてくれるはずである。(11ページ)

個人の暮らしに焦点を当て生身の人間の苦悩と幸福について社会化する
いじめ、ひきこもりの記事に対する読者からの反響は大きかったが、新聞社内でこうしたテーマが主流になることはなかった。政治や世界経済の動きを追い、権力を監視することがジャーナリズムの本分と信じられていた。/やはり私は主流から外れた記者だった。/真実を追っているときは孤独を感じる。ただ、国家権力を監視したり、統治する側の視点で社会を眺望したりするのとは違い、個人の私生活に焦点を当て、生身の人間の苦悩と幸福について社会化することにやりがいを感じることはできた。(16ページ)/社会が成熟してくると、政府や公的機関の役割は次第に限定的なものになり、一人ひとりの暮らしに関心の比重は高まってくる。個人の自由と多様性を享受できる社会を実現するためには、ジャーナリズムはこれまでとは違う役割が求められているのだと思う。(16~17ページ)

人々の暮らしや内面世界に安寧と潤いをもたらす価値観の転換が求められる
バブル後の30年、社会の格差は広がり、会社や地域社会のつながりは薄れ、家族すら分解されていくなかで、大人たちもまた孤立と疎外に苦しめられている。/1995年に未曽有の震災や事件の危機に直撃されたとき、自らの弱さや脆さに直面した人々のなかにやさしい風が吹いた。(中略)時の流れとともに、いつしか忘れてしまったが、今日の社会が直面している地球規模の気候変動や資本主義の行き詰まり、急激な現役世代の減少は1995年当時の危機よりもさらに大きなものである。慢性的に進行しているのでリアルに感じられないだけだ。(133ページ)/個人の力ではどうにも解決できない大きな危機に見舞われても、人々の暮らしの幸せや充足感をかみしめられる社会にしなくてはならない。(中略)この時代に生きている人々の価値観を変えなければ世界は破綻する。とりわけ社会に直接的な影響力をもたらし得る大人たちの価値観の転換が求められている。/人間の小ささや愚かさを自覚し、内面世界に安寧と潤いを運ぶやさしい風を今こそ起こさなければならないと思う。(134ページ)

過去の出来事の深層に踏み込み歴史を加筆修正していくことが重要である
バブルのあとの日本社会に起きたことを夢中になって報道してきたが、今振り返ってみるとあらゆるものが必然の糸でつながっているように思える。ジャーナリズムは歴史の最初の記録者ではあるが、歴史の真実は後の世にならなければわからないことがある。社会の最前線で目撃した者がその後の経過を追いながら過去の出来事を意味づけし、歴史を加筆修正していくことも重要な役割ではないか。「スロージャーナリズム」と私はそれを呼んでいる。/誰がどのような角度で見るかによって一つの出来事も異なる色彩を帯びて見えてくる。中立公正、不偏不党の客観報道にこだわるよりは、自らの立場を明らかにしたうえでじっくり時間をかけて深層へ踏み込んでいくことも「スロージャーナリズム」の役割と思っている。社会が多様化し、個人と社会をつなぐ情報の回路が無数に存在するようになった時代だからこそ、発信者のアイデンティティの明示が求められているのだと思う。(277ページ)

〇1995年は、筆者にとっても特別に思い出深い年である。その10月、「日本福祉教育・ボランティア学習学会」が設立された。翌1996年の11月に開催された第2回大会の基調講演では、会長の大橋謙策によって「福祉教育・ボランティア学習の理論化と体系化の課題」が提示された。福祉教育・ボランティア学習の世界に「新しい風」が吹いたのである。
〇あれからおよそ30年。その後も  “ 劣化 ”  し続ける日本社会(格差と分断と孤立の社会)にあって、その風は「追い風」になったのであろうか。現実的・実態的には、新しい風が「人々の内面世界へ吹き渡り、新しい価値観に世界を染めていく」(273ページ)ための課題は多様化・複雑化し、深刻な問題が生じてもいる。それは、福祉教育・ボランティア学習の実践と研究の劣化と空洞化が進んでいる、ともいえる。
〇ここで、いま一度原点に立ち戻ってその歴史を振り返り、福祉教育・ボランティア学習の実践と研究の今後のあり方を問うために、そしてそのための視座を再確認あるいは再構築するために、次の二つの資料を提示しておきたい。大橋による課題提起(理論的枠組みとその構造)は、「憲法13条、25条等に規定された人権を前提にして‥‥‥」という書き出しで始まる大橋の福祉教育の概念規定(神奈川県・ともしび運動促進研究会:1982年3月、全社協・福祉教育研究委員会:1983年9月)による限り、今後も「足元を照らすランプ」「進む道を照らす光」(旧約聖書・詩編119:105)たりうるのであろうか。
〇実践と研究の「後進」には、歴史を単に「鵜吞みにする」「説明する」のではなく、新しい視点・視座で歴史を読み解き、意味づけることが求められる。そのためには、歴史に向き合う自分の感性と知性を「磨く」「変える」ことが必要不可欠となる。

阪野貢「日本福祉教育・ボランティア学習学会設立」『月刊福祉』第79巻1号、1996年1月、108~109ページ



大橋謙策「福祉教育・ボランティア学習の理論化と体系化の課題」『日本福祉教育・ボランティア学習学会第2回大会』1996年11月、5~9ページ



阪野 貢/「生きづらさ」の当事者研究 ―貴戸理恵著『「生きづらさ」を聴く』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、貴戸理恵著『「生きづらさ」を聴く――不登校・ひきこもりと当事者研究のエスノグラフィ』(日本評論社、2022年10月。以下[1])という本がある。貴戸は、不登校やひきこもりを経験した「当事者が集う対話の場」である「生きづらさからの当事者研究会」(通称:「づら研」)にコーディネーターとして関わりながら、「生きづらさ」についてのフィードワークを重ねている。そこでの実践は、誰もが「生きづらさ」を抱えうる現代社会にあって、「違和を表明できる場や関係性を生み出し続けるプロセスのなかに、新たな連帯を見いだす」(298ページ)というものである。
〇[1]では、「づら研」のフィールドワークを通じて「『生きづらさ』を抱えた人の意味世界に迫るとともに、『生きづらさ』を、『自分には関係ない』と感じている人びとも含めた社会全体の連帯の基礎として、捉え直すことを目指す」(4~5ページ)。即ち換言すれば、「『生きづらさ』に基づく共同性の有り様を探る」(13ページ)のである。その際に貴戸は、「生きづらさ」を「個人化した『社会からの漏(も)れ落ち』の痛み」(14ページ)と定義する。なお、[1]のサブタイトルの「エスノグラフィ」(民族誌)とは、調査対象者(「生きづらさ」を抱えた人)と同じ場(「づら研」)に身をおき、ともに行動(対話)しながら(参与)観察やインタビューを行い記録する調査手法をいう。
〇[1]における貴戸の言説のうちから、そのいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約)。

「生きづらさ」からの脱却は、差別・不平等・貧困という社会構造的要因に目を配りながら、当事者の主観的な現実から出発することが必須である
個々の人びとが抱く「独自の人生を切り抜け、歩んできた」という実感は、「他でもない自分の人生」という圧倒的なリアリティのもとで、「社会のせいにしたくない」という誇りや、「数字など平板な記述によって解釈されうるものではない」という足元の複雑性の手放しがたさを帰結する。こうした社会構造的要因の指摘においそれとは説得されない人びとの素朴な感覚は、「自分の人生を定義するのは自分だ」という主体的な意識を下地としている。その下地に働きかけることなしに本人の認識を変えよとする営みは、「上から目線」の「啓発」「教育」にならざるをえないだろう。/社会構造的要因に目を配りながら、当事者による状況定義から出発することが必要だ。そのとき、人びとの足元に転がっている「生きづらさ」という言葉は一つの足がかりになると考えられる。(39ページ)

「生きづらさ」は10の構成要素に分節化されるが、それを組み合わせて記述することによって「生きづらさ」が明確化され、ポジティブな効果を持ちうる
(「生きづらさ」は、その構成要素として10項目に分節化される。)①無業および失業、②不安定就労、③社会的排除、④貧困、⑤格差・不平等、⑥差別、⑦トラウマ的な被害経験、⑧個々の心身のままならなさ、⑨対人関係上の困難、⑩実存的な苦しみ、である。(146ページ)/これらは相互に関連し合っており、個別に取り出せるものではない。ただ、個々の「生きづらさ」は、これらの項目の固有の濃度や絡(から)まり合いのなかで独自に存在している。(153ページ)/これらの構成要素を見定め、これらの10要素の組み合わせによって記述することで、「生きづらさ」という漠然とした言葉に一定の輪郭が生まれてくる。こうした記述は、複合的な困難を抱える個人と、それをとりまく社会環境とのあいだのコミュニケーションを回復させることに役立ち、いくつかのポジティブな効果を持ちうる。(153~154ページ)/第一に、複合的な困難を抱える個人が適切な支援を探索していく一助となりうる。第二に、「生きづらさ」を特別な事情を抱えた人だけの問題とするのではなく、濃淡はあれ現代社会に生きる多くの人に関わりのある事柄として捉え直すことが可能になる。(154~156ページ)

自分の「生きづらさ」を理解することを通して他者の「生きづらさ」を想像することができ、自分と他者がつながるなかで社会構造が見えてくる
「生きづらさ」と言う言葉には両義性があり、「限界」と「希望」をともにはらんでいる。/「限界」は、降りかかる困難を個人の感覚に押し込めることで、問題の個人化傾向を一層推し進める点だ。目の前の苦しい気持ちは、それだけにフォーカスしていると、自責や自己嫌悪が膨らみ、恵まれて見える他者への恨みや、救いのない社会への憎悪などが募っていく。(287ページ)/他方で「希望」もある。「生きづらさ」は、それを抱えている人自身が問題に取り組み、個人的な事情の向こうに構造の問題を見通していく契機にもなりうるのだ。「生きづらさ」という言葉を通じて自己の特徴や傾向を理解することで、「自分の人生を生きる」うえでのある種の「落ち着き」のようなものを得ていくことがある。「落ち着き」とは、諦めや絶望ではなく、「過去を消すことはできず、この人生の延長を生きるしかない」と腹をくくることであり、あがきや落ち込みも含めて、一筋縄ではいかない自己を受け容れていく態度である。そのように自己の「生きづらさ」を理解することで、他者の「生きづらさ」に想像をめぐらせることができるようになり、それらの向こうに共通の構造を見通すことにも開かれていく。/「生きづらさ」という言葉が、「限界」へ向かうか、「希望」の方向へ舵を切るかの分岐点は、第一に、本人がみずからの「生きづらさ」について探求すること、第二に他者との共同性のなかで取り組むこと、である。(288ページ)

「同じであるからつながれる」のではなく、個々の「生きづらさ」に基づく「つながれなさを通じたつながり」のなかに新たな共同性や連帯を見出すことができる
(「づら研」の)参加者が持ち寄る個々多様な「生きづらさ」は、「私とあなたと同じではない」「容易にはつながれない」という感覚をたびたび突きつける。だが、そうした違和感を、抱くたびに表明することができ、それをしても排除されることはないということについては、共通の信頼感を醸成していくことができる。それはいわば「つながれなさを通じたつながり」ともいうべきものである。(298ページ)/これを象徴するエピソードがある。かつてある参加者が、「自分はここにいていいのかな、と思ってしまうことがある」と「づら研」での居心地の悪さを漏らした。さまざまな参加者の経験を聴いていると、「無業ではない自分には、暴力被害を経験していない自分には、ここにいる資格がないのではないか」と思えてしまう、というのである。この発言に対して、「自分もそう思う」とその場の多くの参加者が共感を表した。「自分は「私たち」に含まれていない」というつながれなさの感覚は、まさにそれについて共感し合うことを通じて、つながりの感覚へと接続されていったのだ。(298~299ページ)

〇繰り返しになるが、以上は要するにこうである。「生きづらさ」からの脱却は、「自分の生きづらさ」について主観的・自律的(自分だけで問題に取り組む「自立」ではない)に考え、語ることがスタートとなる。「生きづらさ」は、「当事者が集う対話」の場や関係性を通じて他者とともに語り合い、探求することで対象化される。「自分はここにいていいのか」という否定的な問いかけに対しては、「ここにいていい」という存在承認ではなく、「自分もそう思う」と共感し、不安を共有することを通じて存在論的安心感の醸成をもたらす。そして、そこに新たな連帯や共同性を見出すことになる。これが[1]のひとつの議論(主張)である。
〇筆者の手もとにもう1冊、貴戸の近著がある。『10代から知っておきたい あなたを丸めこむ「ずるい言葉」』(WAVE出版、2023年7月。以下[2])がそれである。[2]は、日本社会に充満する空気(「同調圧力」)を批判的に捉え、日常的な場面において同調圧力に流されず、それから抜け出すための「10代から知っておきたい」実用書である。
〇貴戸にあっては、「同調圧力」とは、「周囲の人びとが『こうだろう』と期待する通りにみずから考え、行動するよう迫(せま)ってくる圧力」(4ページ)のことである。その不思議さは、「だれが期待や命令を発しているのか、どこに納得の根拠があるのかわからないのに、人びとが勝手に排除の恐怖を感じ取ってみずから従ってしまう」(4~5ページ)というところにある。そして、その問題点は、①「みんなで意見を出し合って合意していくプロセスがゆがむこと」、②「異質な存在が排除されること」、③「排除の不安から『集団』に同調することでいっそう同調圧力を高め、ますます排除の不安を強化してしまう、という悪循環があること」にある(6~7ページ)。
〇貴戸はいう。「同調圧力の強い社会は、多様性を認めずマイノリティ(社会的な少数派)を排除する不寛容さと表裏一体である。同調圧力に注目することは、マジョリティ(社会的な多数派)の側がそのような社会の変革を『自分ごと』としてとらえるひとつのきっかけになりえる。同調圧力にさらされる自分自身の生きづらさに、きちんと目を凝(こ)らすことを通じて、この社会から排除された人びとの苦境を想像し、マジョリティの側から変化に向けた一歩を踏み出すことを、展望してみることができる」(9~10ページ。語尾変換)。
〇[2]では、「あなたを丸めこむ」即ちその「場」の空気に従わせようとする「ずるい言葉」として、次の24の場面が登場する。参考までに列挙しておく。

(1)親密さを利用する言葉
➀「わたしたち友達でしょ」、②「仲間だろ」、③「みんなでやることに意味がある」
(2)連帯責任を利用する言葉
④「真面目か!」、⑤「みんなが迷惑してるよ」、⑥「どうせ無駄だからやめときなよ」
(3)親切を装った言葉
⑦「どうなっても知りませんよ」、⑧「仲良くしたいなら守ってね」、⑨「悪いところをみんなで教えてあげたの」
(4)人格否定の言葉
⑩「どうしてあなただけわがままいうの?」、⑪「そんなこと思うなんておかしいよ」、⑫「ノリ悪!」
(5)集団の秩序を利用する言葉
⑬「みんなが混乱してしまうよ」、⑭「世の中そういうものでしょ」、⑮「合わせる顔がない」
(6)裏切りと思わせる言葉
⑯「よくあんな恰好できるね」、⑰「ひとりだけずるいよ」、⑱「調子に乗ってない?」
(7)排除の恐怖をにおわせる言葉
⑲「同じようにできないなら必要ない」、⑳「いいよ、別の人に頼むから」、㉑「できないなら次はあなたの番だよ」
(8)「勝ち残ること」を強要する言葉
㉒「もっとポジティブじゃないと」、㉓「今どきはこのくらいできなきゃ」、㉔「個性として活かすべき」

〇いずれにしろ、例えば、「今どき」の「世の中」で「みんな」が「自由」にやっている「普通」のこと、等々の言葉に他者の意思や行動をコントロールする同調圧力が潜んでいることに留意したい(「今どき」は「時代遅れ」、「世の中」は「仲間外れ」、「みんな」は「だれか」、「自由」は「自分勝手」、「普通」は「わがまま」であろうか)。それらは、時間や空間、人間関係などの規模や範囲の境界線を曖昧にしたまま、意図的にその数や強さなどを誇示するときに使われる。先ずはその点に関して同調圧力による自分の「生きづらさ」を見据えることによって、同調圧力に流されず、他者と繋がりながら主観的・自律的に生きることが可能になる。そしてそれが、社会を変えるはじめの一歩になる。

付記
<雑感>(87)「生きづらさ」再考―一昔前と変わらぬ “いま ” を考えるためのメモ―/2019年7月7日投稿/本文(⇦クリック)、を参照されたい。

 

阪野 貢/殺されてもよい人はいない、忘れられてもよい人はいない ―辻野弥生著『福田村事件』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、辻野弥生著『福田村事件―関東大震災・知られざる悲劇』(五月書房新社、2023年7月。以下[1])と佐藤美侑・米原範彦編『映画「福田村事件」公式パンフレット』(太秦、2023年9月。以下[2])がある。映画「福田村事件」を観た際に購入したものである。部落差別のなかを生き抜いてきた売薬行商団の支配人(29歳)の「朝鮮人なら殺してええんか」、惨状を前に鳴咽(おえつ)を漏らしながら、初行商旅の子ども(13歳)の「なんで、なんでなんで、俺たち、なんで、なんでなんで‥‥」が胸に刺さった、深く重い映画である。
〇「福田村事件」の概要はこうである。「関東大震災が発生した1923(大正12)年9月1日以降、(「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人が略奪や放火をした」などの流言蜚語(りゅうげんひご)が飛び交い)各地で『不逞鮮人』(ふていせんじん)狩りが横行するなか、9月6日、四国の香川県からやって来て千葉県の福田村に投宿していた15名の売薬行商人の一行が朝鮮人との疑いをかけられ、地元の福田村・田中村の自警団によって、ある者は鳶口(とびぐち)で頭を割られ、ある者は手を縛られたまま利根川に放り投げられた。虐殺された者9名(胎児を含めると10名)のうちには、6歳・4歳・2歳の幼児と妊婦も含まれていた。犯行に及んだ者たちは法廷で自分たちの正義を滔々(とうとう)と語り、なかには出所後に自治体の長になった者まで出て、事件は地元のタブーと化した。そしてさらに、行商人一行が香川の被差別部落出身者たちだったことが、事件の真相解明をさらに難しくした」([1]帯)。なお、福田村では、殺人罪で逮捕された「かれらは自分たちの代表で捕まったのだという同情の意識から、見舞金のみならず、村をあげて農作業の援助もしたといわれる」([1]141ページ)。また、第2審(1924年9月)で懲役3年から10年の判決が言い渡され、千葉刑務所に収監されたが、その際、「福田村及び田中村では、一人前、800円位の餞別を贈ったと」([1]185ページ)されている。そして、1926年12月、「大正天皇の死去により、翌年多くの犯罪者が恩赦を受けているが、福田村事件の被疑者8名(福田村4名、田中村4名)も、第2審から2年5カ月後に全員恩赦で無罪放免になっている」([1]187ページ。)
〇関東大震災の混乱のなかで起こった福田村事件は、元をたどれば日本が1910(明治43)年8月に朝鮮を植民化したことが遠因になっていた。韓国併合によって多くの朝鮮人が日本に移住し、その一方で朝鮮半島で抗日闘争が激化するなかで、その「暴徒」に対して日本人(福田村の住民)の多くが不安と恐怖(反逆、報復)を感じ、差別意識を強めていった。その際、流言蜚語(デマ)の拡散に大きな役割を果たしたのは、政府・官憲の情報であり、新聞の報道であった。また、朝鮮人虐殺は、6,000人以上とされているが、軍・警察が主導し、主に役所や警察の教唆煽動(きょうさせんどう)によって組織された「自警団」によって行われた。それは、「国家(福田村)を憂えて」の蛮行であり、集団の狂気、共同体の暴力であった。「同調圧力」の強い現代の日本社会と「権力監視」の使命を放棄した日本のメディアの現状において、「負の歴史」に学ぶ意義は大きい。
〇スクリーンにおける船頭・田中倉蔵の一言と、それに対して悲しく笑っている売薬行商団の支配人・沼部新助の最期の一言である。([2]81ページ)

〇福田村の村長・田向龍一と新聞記者・恩田楓のやり取りである。その後、駐在が保護した生き残りの6人を連れて行く。([2]84ページ)

〇香川県の売薬行商について辻野はいう。「もともと香川県は全国一の小さな県で、『五反百姓』といって平均5反くらいしか農地を持たなかった。多くは5反以下で、小作率も全国一と高く、小作争議も頻発した。十分な耕作面積を得られない被差別部落の人たちは、行商で稼ぐしかなかったのである」([1]133~134ページ)。貧困は、歴史的・社会的要因によって階級的・構造的に作り出される不平等である。それは、生活や人生を破壊する恐怖であり、暴力である。「福田村事件」は、ロシア革命(1917年)や米騒動(1918年)などをきっかけにさまざまな社会運動が勃興する時代背景のもとで、民族差別とともに、部落差別とそれに基づく貧困に起因するものでもあった。強く認識したい。なお、香川県では、「福田村事件」の翌年1924年に県水平社が結成されている。
〇最後に、映画「福田村事件」の監督・森達也の次の一文を引いておく。「映画はフィクションだ。エンタメの要素も強い。だから実在していない人もたくさん登場する。物語を紡ぎながら事実を補強する。/でもそれは史実とは微妙に違う。だからこそ、この本の位置は重要だ。もう一度書く。忘れてはいけない。忘れたらまた同じことをくりかえす。過去にあった戦争や虐殺よりも恐ろしいことがひとつだけある。戦争や虐殺を忘却することだ」([1]242ページ)。2023年は関東大震災から100年の節目に当たる。

付記
本稿のタイトル「殺されてもよい人はいない、忘れられてもよい人はいない」は、美術作家・飯山由貴の言葉である。飯山は問う。「私たちは『殺されてもよい人はいない』ことを当たり前とする社会を、それを当たり前のこととする文化を、作れているのだろうか」([2]37ページ)。

 

阪野 貢/欽ちゃんの「運の神様に好かれる5大ポイント」―萩本欽一著『ダメなときほど運はたまる』等のワンポイントメモ―

計画的偶発性理論の骨子は、① 人生やキャリアは、(その8割が)想定外の出来事や「偶然の出来事」(happenstance)によって影響を受ける。② 偶然の出来事に対して積極的に行動・努力することによって、キャリアを発展させることができる。③ 偶然の出来事をただ待つだけでなく、それを引き寄せる・創り出すために積極的に行動し、変化する状況に注意を向けることによってチャンスが生まれる。また、チャンスが来たときにそれを掴(つか)める準備をしておくことによってキャリア形成を図ることができる、というものである。(<雑感>(182)阪野貢)

〇本稿は、<雑感>(182)追補/「キャリア」再考:計画的偶発性理論をめぐって―J.D.クランボルツ・A. S.レヴィン著『その幸運は偶然ではないんです!』のワンポイントメモ―/2023年7月25日投稿、の追補である。
〇筆者(阪野)の手もとに、萩本欽一(「コント55号」「視聴率100%男」の欽ちゃん)の本が3冊ある。『ダメなときほど運はたまる―だれでも「運のいい人」になれる50のヒント』(廣済堂新書、2011年1月。以下[1])、『負けるが勝ち、勝ち、勝ち!―「運のいい人」になる絶対法則』(廣済堂新書、2012年10月。以下[2])、『続 ダメなときほど運はたまる』(廣済堂新書、2015年2月。以下[3])がそれである。そこで欽ちゃんは、「運のいい人になる」ための人生訓や「運をつかむ生き方」を説く。その際、欽ちゃんにあっては「運の神様」は実在し(「僕には専属の運の神様がいるんです」[2]47ページ)、「運」はコントロールすることができるのである。またその3冊から、一面あるいは一部において、キャリア理論のひとつである「計画的偶発性理論」(Planned Happenstance Theory)に関する素材やヒントを見出すこともできようか。
〇欽ちゃんはいう。「目の前には3つの運がある」(3ページ)。「生まれながらの運」と「だれかが持ってきてくれる運」、そして「努力した人の元へやってくる運」である。「生まれながらの運」を持っているのは、つらい環境や子育てに向かない親の元に生まれてきた人などで、こういう人は自分の境遇を恨まず、ごく普通の生活を送っているだけで必ず幸運がやってくる。「だれかが持ってきてくれる運」は、人から好かれている人、いやなことをじっと我慢している人、人間関係に悩んでいる人、いじめられている人などにくる。しかも、人を見る目が育つという“おまけ”もついてくる。「努力した人の元へやってくる運」については、「努力は人を裏切らない」という言葉があるが通りである([1]3~8ページ)。
〇そして、欽ちゃんは、「これまでの人生を振り返って見ると、80%以上は『運』で生きてきたような気がします」([2]174ページ)という。その「運を呼び寄せる」ために大事なことを、次の5つに要約する(「運の神様に好かれる5大ポイント」)。

① 運は自分で貯金する――だれもが運の預金通帳を持っており、その人の生活に応じて増えたり減ったりしている。
② 向いていない場所に運がある――運は好きなことのなかにではなく、苦手なこと、向いていないことのなかに落ちている。
③ 運は言葉と行動に左右される――運も不運も自分の周りに漂っているが、そのなかからいい運を引き寄せるには、いい言葉やいい行動が必要になる。
④ 運と不運はトータル50%ずつ――人生の最期の日にトータルすると、運と不運は半分半分になり、つまり運から見ると人生はチャラ(プラマイゼロ)である。
⑤ つらい境遇は「運のせい」にする――つらい境遇にいる人には、いつか絶対いい運がやってくるので、「今、このとき」の不運について深刻に考えすぎないようにしたほうがいい。([3]181~188ページ)

〇ここで、[3]から、恣意的であることを承知のうえで、運を引き寄せる(「運のいい人」になる)法則やヒント、態度や行動のいくつかを引いておく。

●  運の神様に好かれるコツは、人間関係で言えば、「威張らない」「気をつかう」「親切にする」、たったこれぐらい。(19ページ)
●  運のいい人になるためには、運を引き寄せるための行動や言葉をいつも考えて、用意しておいたほうがいい。(43ページ)
●  運の神様は「運」を人に託して運びます。あなたも周りの人もすべて、「運」をもたらすメッセンジャーです。(70ページ)
●  性格のよさや誠実さって、周りの人間に「放っておけないな」と思わせて、運を呼び寄せるんです。(157ページ)
●  そのときの損、得じゃなくて、自分の目の前にやってきたことを精いっぱいこなしていく人に、運は近づいてくるんです。(168ページ)
●  運の神様は、才能や頭脳のありなしじゃなく、努力の足跡を見てくれています。(178ページ)

〇ここ数本(「夢」「キャリア」等)、T氏に対する念(おも)いから、意図的に本筋のテーマからそれたような記事を投稿してきた(本質的にはそれていないと認識している)。ここらで、閑話休題(かんわきゅうだい)としたい。

あなたが夢を追求する道中では、よく目を開き耳をすませておくことをお勧めします。チャンスがやってきたときにそれをつかむ準備ができていれば、想定外の出来事があなたをさらによい結果へと導く可能性があります。(<雑感>(182)阪野貢)

阪野 貢/追補/憲法上の「国民」:主権者・有権者・市民について考える ―駒村圭吾著『主権者を疑う』のワンポイントメモ―

「国民」には、①主権者(「主権」を有する国民)、②有権者(「固有の権利」を有する国民)、③市民(「不断の努力」をする国民)の3つの役柄があてがわれている。国民は、局面に応じてこの3役を演じ分けなければならない。(下記[1]19ページ)

〇本稿は、<雑感>(151)「主権者教育」「シティズンシップ教育」の一環としての「市民福祉教育」を考えるために―新籐宗幸著『「主権者教育」を問う』再読メモ―/2022年4月16日投稿、の追補である。
〇筆者(阪野)の手もとに、駒村圭吾著『主権者を疑う――統治の主役は誰なのか?』(ちくま新書、2023年4月。以下[1])という本がある。[1]において駒村にあっては、「主権はフィクション」(273ページ)、観念的なものであり、「主権者」は「空虚な政治的表象」(14ページ)に過ぎず、その意味において主権者はいない。それは幻想でしかない。しかし、主権や主権者について論じることは可能であり、主権論や主権者論にはリアリティがある。
〇主権のフィクション性を再認識し、主権論・主権者論のリアリティを解き解す駒村の議論(主権論)、その序論(「見取り図」)はこうである。日本国憲法の舞台に登場する「国民」は、ひとりで3役を演じている。「主権者」と「有権者」、そして「市民」がそれである。国民はまず、憲法「前文」が規定するように、「主権者」(国民主権)である(戦前は君主(天皇)主権)。その際の主権とは、国のあり方を最終的に決める絶対的な決定権、あるいは国の権力の行使の正当性を支える究極的な権威をいう。主権者とは、主権を実現する主体、主権的決定ができる主体であり、主権者には国のあり方について絶対的かつ最終的に判断することが求められる。国民が主権者として立ち現れるのは、基本的には憲法を制定あるいは改正するとき(局面)である。
〇「有権者」とは、憲法第15条第1項が規定するように、権力者を選び罷免するとともに、権力者になることもできる国民をいう。「市民」には、憲法第12条が規定するように、憲法が保障する自由や権利を獲得・保持するために「不断の努力」が求められる。さらに、公共の福祉のために憲法が保障する自由や権利を「利用する責任」が課せられている。市民とはこういう国民をいう。そして、憲法第13条がいうように、主権者と有権者、そして市民は、すべて「個人」として尊重されなければならない。
〇以上を整理すると次のようになる(抜き書きと要約。見出しは筆者)。また、図1は、「憲法上の『国民』は3つの仮面を演じ分ける」という言説を図示したものである。

憲法上の「国民」
主権者(前文)――憲法を制定・改正する局面
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢(けいたく)を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
● 前文では、国民は「主権」を持っていること、主権を持つ国民は自分で主権を持つと一方的に宣言していること、主権を持つ国民がなしとげた最初の仕事はこの憲法を制定したことであったということを規定している。( 16ページ)
● 主権とは、「国政についての最高の決定権」とされ、それは「国の政治のあり方を最終的に決定する力または権威」(国の統治のあり方を最終的・究極的に決定する権限)を意味する。(26~27ページ)

有権者(第15条)――選挙をする局面
公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
● 第15条第1項では、公務員を選び罷免することは、「国民固有」の、つまり国民だけに認められる権利であることを規定している。(17ページ)
● 有権者とは、権力者を選び罷免するだけでなく、権力者そのものになることもできるという、両者を総合した国民をいう。(17ページ)

市民(第12条)――市民社会において「不断の努力」をする局面
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
● 第12条では、国民に自由と権利の行使について「不断の努力」を求め、公共のために「これを利用する責任」を 国民が負うことを規定している。(18ページ)
● 市民とは、社会を支え、政治と私的世界のバランスに腐心し、公共的負担を引き受ける国民をいう。(18ページ)

個人(第13条)――いずれの局面において(国民ではなく)「個人」として尊重される
すべて国民は、個人として尊重される。
● 第13条では、「主権者」も「有権者」も「市民」も、すべて「個人」として尊重されることを規定している。(19ページ)
● 「主権者」「有権者」「市民」の3役を演じ分ける「国民」という演じ手は、時に一己の「個人」に立ち戻り、舞台から離れることができることを意味する。(19~20ページ)

図1 憲法上の「国民」は3つの仮面を演じ分ける

出典:駒村圭吾著『主権者を疑う』ちくま新書、2023年4月、帯より。

〇そして、駒村はいう。「主権は“取扱い注意”(主権は、国の統治のあり方を絶対的・最終的に決定する権限であるがゆえに、 恐怖と期待に満ちた“取扱い注意”の概念)であるから、最後の『賭け』(つまり改憲)に打って出るのは慎重な上にも慎重であるべきである。一歩間違えると“革命”になりうるような『主権者』の登場をたのむ前に、統治上の諸課題を通常政治の枠の中でどうにか解決すべく、国民は『有権者』として、また『市民』としてがんばるべき」である(277ページ)。
〇そのためには、有権者や市民に求められる関心や問題意識を喚起・醸成するための仕掛けや教育・訓練が必要不可欠となる。主権者においても然りである。すなわち、有権者教育、市民教育、そして主権者教育がそれである。

憲法は主権者を畏(おそ)れている。主権者を畏れ敬いつつも、それを不断に疑うことを私たちに求めている。(14ページ)

阪野 貢/コモンズと福祉コミュニティ、そしてエピソディック・ボランティア ―宮本太郎編『自助社会を終わらせる』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、宮本太郎編『自助社会を終わらせる――新たな社会的包摂のための提言』(岩波書店、2022年6月。以下[1])という本がある。自助頼みの社会が、日本の地域と経済を脆弱化している。言われる「多様性」や「包摂」はときに、あまりにも浅薄すぎる。そんななかで[1]では、自助社会を終わらせるために、「単に包摂的な社会についての理念を称揚するにとどまらず、政策の実現を妨げる自助社会の成り立ちを解明し、転換の道筋を展望」(319ページ)し、「新たな包摂的社会に向けた政策と政治」(320ページ)を提起する。
〇そこでは、議論の枠組みを分野横断的に設定し、11名の執筆者が健筆を振るう。執筆者たちの専門領域は、社会政策学、政治学、行政学、社会福祉学、教育学、法律学などである。そのうちから、宮本太郎(政治学)と野口定久(地域福祉学)、須田木綿子(福祉社会学)の言説の一部をメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。
〇宮本は、序章「自助社会をどう終わらせるか」を執筆する。その前半で、自助と自己責任を迫る社会の成り立ちを掘り下げ、その構造を分析する。宮本はいう。単に新自由主義が席巻していることにのみ自助社会の原因があるのではなく、共助(社会保険)や公助(生活保護)の支え合いの制度のなかにも自助の原理が強調される傾向がある(7ページ)。また、自助社会では、いろいろなリスクを自前で解消するために、かえって歪んだ依存関係を生み出し、男性優位のジェンダー秩序や上位・下位関係に整序された階層秩序などによる権力的な相互依存関係を不断に増殖させていく(12ページ)。
〇その後半では、自助社会を終わらせる処方箋として、「社会的包摂」という考え方を提示する。それは、「困窮や格差の広がりに対して、誰も排除することなく社会の一員として迎え入れることができるように、施策をすすめようという考え方」(14ページ)である。そして宮本は、自助社会を脱却し、社会的包摂を刷新するための施策のための視点として、次の3つを主張する。①「所得保障」――分断を超える・選択を可能にする・勤労所得を補完する「所得保障」の再編成、②「社会サービス」――縦割りの「社会サービス」の包括化と多様な人々のケアへの参加、③「コモンズ」――誰もが必要であり利用できる・私有財でも公共財でもない「コモンズ」(共有資源)の構築、がそれである。最後に宮本はいう。

自助社会の終焉とコモンズ
現金給付のみならずサービスとインフラによってコモンズとしてのコミュニティにつながり、自尊の感覚を維持し広げることができること、税負担をめぐる損得勘定から中間層の支持を引き出すのではなく、中間層を含めて誰もが納得のできる「生活」のかたちを示し、その実現のための条件形成へ合意を広げることこそが、自助社会を終わらせるのである。(30ページ)

〇野口は、第3章「誰も排除しないコミュニティの実現に向けて――地域共生社会の再考」を執筆する。野口の所見はこうである。政府によって1979年に出された「日本型福祉社会論」は、公的福祉への支出の縮小・切り捨てを求め、家族や地域社会、企業の連帯を強調した。ところが、バブル経済の崩壊(1991年~1993年)を機に日本経済は低成長時代に入り、2000年代以降になると、日本型福祉社会論が強化を図った家族・地域社会・企業の連帯機能(関係動員機能)が縮小する。そんななかで、信頼と互酬の規範が内在する新しい市民活動(NPOやボランティア活動等)が、特に地域社会において台頭することになる(98~99ページ)。こうした状況から政府(厚生労働省)は、2016年に「地域共生社会」の実現を掲げ、社会福祉法を改正する。それ以降、法改正を重ね、地域共生社会政策の推進を図るが、そこには2つの側面、ないしベクトルが存在している。「旧来の制度の延命のために、新しい市民活動を組み込んでいくという面」と、「新たな市民活動や信頼と互酬の規範を広げ、当事者や住民、NPO組織による『誰も排除しないコミュニティ』の形成を後押しする面」(101ページ)がそれである。
〇そして、野口にあっては、「現在の日本の福祉レジーム(体制)は、負担と受給の面でいえば『中福祉中負担型』と見ることができる」。そこでは、新しい福祉レジームを、①雇用の安定と創出、②職業訓練、就労支援、所得と医療と住宅の保障、③社会的脆弱層へのソーシャルワーク支援、➃生活保護制度やベーシックインカム、からなる重層的なセーフティネットとして張り替えることが必要となる(102ページ)。その際、①「縦割りの制度が地域で生じているさまざまな切実なニーズに対応できていない状況をいかに変えていくか」、②「新たな市民活動と信頼を組み込んだ福祉コミュニティをどう構築していくか」などが問われることになる(108ページ)。
〇ここで、野口がいう②の「福祉コミュニティの創出(実現)」について、その言説をメモっておくことにする。なお、野口は「福祉コミュニティ」を「人々が共に生き、それぞれの生き方を尊重し、さらには生活環境として支え合いの機能を発揮できるようなコミュニティ」、すなわち「誰ひとりとして排除しないコミュニティ」と考える(91ページ)。

地域共生社会と福祉コミュニティの実現
福祉コミュニティの実現は、「共感」軸と「支援」軸で整理できる(図1)。図1に示した①当事者や家族の会と、②支援者・市民活動・ボランティア活動が結びつく場が地域拠点となれば、そこには多様な福祉専門職、社会貢献型の企業やNPOなども関わる。/①と②の集合である地域拠点は、まだ福祉コミュニティとはいえない。福祉コミュニティの十分条件には、③地域住民の理解と承諾、そして参加が必要となる。問題は、③が得られるかということである。/例えばしばしば、福祉施設の建設に住民の反対運動が生じることもある。こうした福祉施設建設をめぐるコンフリクト(住民との摩擦)を解消することは、地域共生社会の実現において通過しなければならない「壁」となって立ちはだかっている。/施設コンフリクトの合意形成を促すためには、施設側と住民側が感情論で対峙するのではなく、それぞれの利害を客観的に考慮することのできる仲介者が必要となる。/この仲介者の役割を果たす可能性が高いのが、ソーシャルワーカーなど各種の福祉専門職である。(111~112ページ)

図1 地域共生社会の実像としての福祉コミュニティの具現

出典:宮本太郎編『自助社会を終わらせる』岩波書店、2022年6月、111ページ。

〇須田は、第9章「個人化の時代の包摂ロジック――「つながり」の再生」を執筆する。須田はいう。2000年以降、保健・福祉領域の民営化政策が推進された。その過程で、NPOやボランティアが注目されたが、制度のあり方に影響を及ぼしたり、社会全体の空気を変えるには至らなかった(256ページ)。その一方で、自分の生活のあらゆる局面を自分で選択するという「個人化」(個人化の時代)と、その選択によって安全・安心と思われていた生活がリスクを伴うものとなる「リスク化」(リスク社会)が進むなかで、新しいタイプのNPOやボランティアが生まれている。そのひとつに、「エピソディック・ボランティア」(Episodic Volunteer)がある。エピソディック・ボランティアは、新しい形の「つながり」を多く生み出している(270ページ)。
〇エピソディック・ボランティアに関する須田の言説のひとつをメモっておくことにする。

エピソディック・ボランティアと新たな「つながり」
エピソディック・ボランティアは、その折々に社会的に関心を集めている課題に集中するひとつの課題が落ちつけば、次の課題に関心を移す。その流動性が、気まぐれで、あてにならないといわれる所以である。しかし、いつ、どこにいても、社会的課題への関心は継続してもち続けている。だからこそ、その時々の課題に即座に反応し、必要と思われるところに出没し、物事がおさまるとともに姿を消す。(273ページ)
エピソディックなNPO&ボランティアが生み出している「つながり」を社会的な包摂の力に転換するためには、保健・福祉サービス供給の場合とは異なる枠組みにおける行政とNPO&ボランティアの協働が必要である。とりわけ考慮すべき事柄として、次の3点が挙げられる。
第1に、エピソディックなNPO&ボランティアに関わる人々の多くが、必ずしも活動の広がりを求めていない。
第2に、エピソディックなNPO&ボランティアの活動は、既存の社会貢献活動の感覚になじまない。
第3に、エピソディックなNPO&ボランティアの活動は、既存の支援の枠組みにもなじまない場合が少なくない。(274~275ページ)

〇アメリカの Nancy Macduff が1990 年に提唱したと言われる「エピソディック・ボランティア」は、活動の「はじまり」と「終わり」が明確であるということから、「エピソード」(episode) という言葉に由来している。また、日本では「ちょこっとボランティア」「ちょこボラ活動」などとも言われるが、その特徴は「マイペース」にある。それ故に、「無責任で身勝手」「気まぐれ」な「今どきのボランティア」と揶揄されることもある。その活動は、地域で開催される行事・イベントや災害発生後の被災地支援など、さまざまな場面で行われている。エピソディック・ボランティアの功罪、その独自の機能や価値、その活動を支援する際の方策、等についてのさらなる検討が今後の課題となろう。

阪野 貢/「共感」再考:共感のメリットとデメリット ―山竹伸二著『共感の正体』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、山竹伸二著『共感の正体―つながりを生むのか、苦しみをもたらすのか―』(河出書房新社、2022年3月。以下[1])という本がある。「共感論」について活発な議論が展開されるなかでこんにち、「反共感論」の主張が少なからずみられる。山竹はいう。「共感は本当に相互理解と協調、平和をもたらす自然の恩恵なのだろうか? それとも、不安や自由の喪失、憎しみ、差別をもたらす、悪魔のささやきなのか‥‥‥?」(21~22ページ)。「共感が生み出す助け合いが集団を強化し、文化を築く礎になったこと、その一方で、共感による集団の排他性が紛争や差別、迫害を生んできた歴史がある」(24ページ)。
〇[1]において山竹は、多角的な視点に立って、また科学的・哲学的な考察を通して「共感」の本質を解明しようとする。とともに、心のケアの領域や日常の対人関係における共感の有効性や応用可能性を明らかにし、共生社会における共感の重要性を指摘する。山竹は説く。「共感のメリットはリスクを大きく超える可能性がある」(204ページ)。「大事なのは共感に頼らないことではなく、共感のデメリットを減らし、よりよい形で共感を活かせるようにすること」(205ページ)である。
〇[1]で注目すべきポイントは、現象学(自分の意識・主観に現われていることを出発点にして、誰もが共通して了解できる意味(「本質」)を解明するための哲学的思考法)の観点から共感の本質にアプローチし、その問い直しを試みるところにある。山竹はそれを次のように整理する(7. 8.  以外の丸括弧内の解説は別頁より引用。126~129ページ)。

  1. 共感が生じる経験は、①「情動的共感」(相手と同じ感情であると感じる共感)と②「認知的共感」(相手と同じ考え方、感受性、価値観であると感じる共感)の2つに分けられる。
  2. 共感の質は心の発達、特に自己の確立と認知の発達にともなって変化する。
  3. 他者の共感によって得られる自己了解(自分の感情に対する気づき・自覚)と「存在の承認」(「ありのままの自分」が受け容れられていること)。
  4. 心理的距離、空間的距離の近い人間ほど共感が生じやすい。
  5. 共感力(相手の考えや気持ちを察することができ、その気持ちに寄り添うことができる力)には個人差がある。
  6. 共感は感情の共有であり、自己了解と同時に他者了解(他者の感情に対する気づき・自覚)が生じている。
  7. 共感は他者理解をとおして他者のためになる行動(利他的行為)を生む。
  8. 共感は喜びだけでなく、苦しみを生む場合もある(共感的苦悩)。
  9. 共感はお互いを理解し、協力し合う基盤となり、文化・社会を形成する。

〇以上の「共感の本質」(「共感の原理」)に続いて山竹は、「共感の功罪」について次のように整理する(130ページ)。


〇ここで、[1]のうちから、「共感」をめぐる論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

共感と利他的行為
共感という経験は対人関係における感情共有の確信であり、共感が生じると多くの場合、相手に対して親和的な感情(親しみ)が生じ、他人事ではないと感じられる。/この時、自己了解(自己の感情への気づき)と同時に、他者の感情了解が生じている。自己了解が「自分がどうしたいのか」という欲望を告げ知らせる以上、共感は「他者がどうしてほしいのか」を理解し、相手が望む行為の選択を、つまり利他的行為を可能にするのである。/もちろん、自分の感情と相手の感情が同じである、という保証はない。だが、私たちは共感を手がかりにして、相手に気持ちや望みを言葉で確認することができるし、それによって適切な対応を取ろうとする。そうやって経験を何度も積み重ねるほど、次第に的を外すことなく相手の感情を理解できるようになり、適切な対応が可能になる。/こうした理解力を培うには、言葉と想像力、推論する理性の力を身につけることが必要である。(110ページ)

排他的共感と差別
共感はすべてにおいてよいことが起きるわけではない。/誰かの悲しみや苦しみに共感し、助けたいと思う場合でも、必ずしもよい結果、正しい行動につながるとは限らない。共感から、目の前にいる人を手助けしてしまい、結果的に大勢の人を苦しめたり、困らせてしまうこともある。助けたつもりでいても、相手にとっては迷惑だったり、かえって悪い結果を招く場合も少なくない。/また、共感は憎悪や怒りのような感情にも共振するため、憎しみや怒りを増幅させる危険性がある。/仲間への共感から、仲間以外の人々を敵視したり、憎悪や軽蔑の眼差しを向けたりすることを、「排他的共感」と呼ぶことにしよう。/共感は文化を形成し、集団の結束を強めるのだが、それは半面、共感できない文化や自分の所属する集団以外の人々に対して、排除する傾向を生みやすい。共感による民族や国との一体感は、外国への差別意識、敵対意識につながりやすいのだ。繰り返される戦争、少数民族への迫害、異質な文化への差別などは、排他的共感が拍車をかけている。(116~117ページ)

協調的共感と共同性意識
多様な価値観を学び、様々な立場の人の身になって考えることで、偏った行動ではなく、より公正で適切な共感と利他的行為ができるようになる。/多様な価値観に寛容になるには、人間は集団の属性や価値観によらず、存在そのものが尊重されるべきだ、という感覚が必要になる。/この感覚を養うものこそ、親密な人々による共感なのだ。それは「ありのままの自分」が受容される経験、無条件の承認を感じる経験であり、だからこそ、「ありのままの他者」を受け容れ、共感できるようになるのである。/こうした対応を各々の人間ができるようになれば、他者との間に良好な関係性が形成され、よりよい協調が生まれ、お互いに助け合えるような社会を築くことができる。異なる考え方や価値観の人々の間にも、差異を認め合いながらも共感できるものを見出せるようになる。私はこれを「協調的共感」と呼び、共感の成熟したものとして捉えておきたい。(123~124ページ)/共感は人間同士の心のつながりを感じさせ、同じ人間であるという意識、共に生きているという意識をもたらすのだ。/しかし、この共同性の意識においても、適度な距離感、公正な判断力がなければ、容易に集団心理に呑み込まれてしまうだろう。/したがって、共感が人間の道徳性や共同性の意識において重要だとしても、そこに潜んでいるリスクを十分に自覚し、その対処法を考えなければならない。排他的共感に陥らず、協調的共感に至る道を考える必要があるのだ。(124~125ページ)

共感のリスクとその回避
共感には様々なリスクが付きまとっている。/まず第1に、共感しやすい人は、相手の感情に巻き込まれ、自分自身の感情を制御することが難しくなりやすい。/第2に、思い込みの強い人、自己中心的な人の場合、共感は相手と自分を同一視し、相手の他者性、固有性を無視してしまう傾向がある。/そして第3に、自分の所属集団、立場、価値観を過剰評価している人が共感すると、自分が共感できない人々に対して無関心になったり、敵視する傾向がある。/こうした共感のリスクを回避するためには、自己了解ができていること、感情の制御ができることが必要になる。自己了解の力があり、感情のコントロールができる人は、過度に相手の感情に巻き込まれたりしないし、相手と自分を同一視したりもしない。また、多様性に寛容で、他者との差異や他者性を認められる人は、排他的にもなりにくい。だから自分とは経験も立場も異なる相手であっても、先入観なしに対話し、相手との差異を認めつつも、自分と共通するものを見出すことができる。そうやって相手の感情に近づき、共感する可能性が高いのである。(166~167ページ)

良心と共感
「良心」は善悪を判断し、「人として正しくありたい」という思いが含まれているが、この判断の基準は内面にある価値観や行動規範、人としての理想などである。それは多くの人が認める価値観や社会規範とほぼ重なるため、共感や同情に公平性、公正さをもたらしている。しかし、そうした個人の内面にある価値観や行動規範は、何らかの状況で取り込まれ、身につけたはずなので、成長にともなって変化し、良心も変わってくることになる。(184~185ページ)/完全に「他者のため」という動機だけで良心が生じるわけではない。他者に承認されたい、他者と共に生きたい、という「自己のため」の動機も当然あるだろう。そうでなければ、自己犠牲を美徳と考えるような偏った義務論になりかねない。(188ページ)/共感によって他者の苦しみを知れば、自己の欲望を超えて、心から他者を助けたいという思いも強くなる。承認欲望と救済欲望が重なりあい、「自己のため」の行為が「他者のため」の行為になるのだ。そして共感の経験を繰り返し、理性的な思考が深まるにつれ、多様な他者の身になって考える力もついてくる。/こうして、成熟した良心は自己の欲望を自覚した上で、他者を心から助けたいと感じ、より普遍性のある判断を求めるようになるのである。(189~190ページ)

〇山竹にあっては、現代社会は、異なった文化や立場、多世代の「多様な人々が交流するようになり、共感が拡大する可能性のある時代である」(201ページ)。その一方で、現代社会では「絶対的な価値基準が見失われ、どうすれば周囲に認められるのか、自分の価値を確信できるのか、という承認不安が蔓延している」(202ページ)。そこで、上述の「共感の本質」を認識し、「心のケアの原理」に基づいて子育て、教育を実践すれば、「共感は私たちの未来を切り開く上で、とても重要な役割をはたすはず」(202ページ)である。「共感」への期待と展望である。山竹はいう。「楽観的と思う人もいるかもしれないが、私はそうした未来の可能性を信じたい」(205ページ)。
〇「まちづくりと市民福祉教育」(とりわけ学校福祉教育)においてはこれまで、抽象的な理念やひとつのスローガンとして「共感」が声高に叫ばれてきた感なきにしも非ずである。「共感の本質」についての理解・認識と、それに裏付けられた共感力を高めるための取り組みや教育プログラムの開発を如何に進めるかが問われよう。例によって唐突であるが、指摘しておきたい。
〇なお、上記の「心のケアの原理」とは、「共感は『ありのままの自分』が受け容れられている(認められている)という実感を与えることで、相手の不安を緩和する。また、共感によって相手の苦しみの根底にある感情を理解し、それを相手に伝えることで、相手に自己了解を促すことができる。すると、相手は自分を見つめなおすことができるようになり、考え方を修正したり、自分がどうしたいのか、どうすべきなのか、納得のいく判断ができるようになる」(194ページ)ということを指す。

補遺
〇筆者(阪野)の手もとに、ポール・ブルーム(Paul Bloom、アメリカ・イェール大学心理学教授)著/高橋洋訳『反共感論―社会はいかに判断を誤るか―』(白揚社、2018年2月。以下[2])と、永井陽右(ながい・ようすけ、テロ・紛争解決スペシャリスト)著『共感という病―いきすぎた同調圧力とどう向き合うべきか?―』(かんき出版、2021年7月。以下[3])という本がある。ともに、共感の負の側面に焦点を当てた本である。
〇[2]のブルームによると、「共感」(empathy)は「情動的共感」と「認知的共感」に分けられる。「情動的共感」は、「他者が感じていると思しきことを自分でも感じること」すなわち「他者の経験を経験する」(10ページ)という意味での共感(感情的な働き)である。「認知的共感」は、「他者の心のなかで起こっている事象を、感情を挟まずに評価する能力に結びつけてとらえる」(25ページ)という意味での共感(理性的な働き)である。ブルームは、前者の情動的共感に反対し、後者の認知的共感を評価する。「共感には善玉と悪玉がある」(20ページ)。「共感(情動的共感)は愚かな判断を導き、無関心や残虐な行為を動機づけることも多い」(9ページ)。「共感は道徳的指針としては不適切である」(9ページ)。「私たちは(共感の時代ではなく)理性の時代に生きている」(19ページ)、別言すれば“他者を思いやる善き人になりたいのなら、あるいは世界をもっとよい場所にしたいのなら、理性を行使すること(理性に基づく判断や行動)が重要である”(9ページ、第6章)、などがブルームの主張である。詳細は、本ブログ<雑感>(81)共感≠善:共感は道徳的指針としては不適切である―ポール・ブルーム著『反共感論』読後メモ―/2019年5月15日投稿/本文(⇦クリック)、を参照されたい。
〇[3]の永井にあっては、「共感」とは「他者の感情経験に直面した人が、認知的および感情的に反応すること」。その「反応に至るまでのプロセス」(33ページ)、である。永井はいう。「共感は、全員ではなく特定の誰かしか照らさない『スポットライト的性質』と、自分にとって照らすべきだと思えた相手しか照らさない『指向性』を持つ」(17ページ)。「共感とは誰かの困難に対してではなく、困難に陥っている自分側(同じグループの仲間)の誰かに作用している。まさに共感は差別主義者なのである」(18ページ)。「共感は一般的に、理性的な『認知的共感』と感情的な『情動的共感』の2つに、機能的に分けられている」(28ページ)。
〇永井は続ける。「多様性とは、自分にとって都合の悪い人の存在を認めることである。『多様性を受け入れることは難しい』という心構えを持つべきである」(161、162ページ)。「共感できない・共感されにくい人をなおざりにしないために、共感に代わるものが必要となる。共感ではなく、地に足のついたリアルな、実体の伴った、権利に対する理性的な眼差し(理性的に、自分の権利と同時に他者の権利を見つめること)こそが、憎悪が渦巻く現代の世界を良くする鍵である」(167~169ページ)。
〇要するに永井にあっては、「共感」とそれに代わるものとして、「理性」と「人権」、人権に対する理性的な理解と反応が重要である。「感情に任せるのではなく、共感の良いところをうまく使いながらも、同時に理性も働かせてその手綱(たづな)をしっかりと持ち、取り残されている人がいないか、対立や分断をどう乗り越えることができるか、などを常々考えることが社会と世界を良くしていくことに繋がる」(180ページ)のである。
〇なお、[3]には、永井と内田樹(うちだ・たつる、思想家)との対談が収録されている。そこで内田はいう。いまの日本社会は、「共感過剰」な社会になっている。共感できる人間だけで固まって、同質的な、集合的共感のようなものを作って、外部の人とのコミュニケーションができなくなってきている。共感や理解をベースにして人間関係を構築するのは危険である。それよりは、「共感も理解もできないけど、目の前に困ってる人がいたらとにかく助ける」(「惻隠の情」)というルールの方が汎用性が高いし、間違いが少ない。惻隠の情が発動するためには、「自分から見て弱者である」こと、「自分の力の範囲内で救うことができると思える」ことの2つの条件がある(191、218、222ページ要約)。参考までに付記しておくことにする。

阪野 貢/追補/「聞くこと」「話すこと」を考える:「ただ聞く」ことをめぐって ―尹雄大著『聞くこと、話すこと。』のワンポイントメモ―

言葉が信じられない時代であるのは間違いない。それでも私とあなたのあいだにある言葉を愛(いとお)しく思う。わかり合うためではなく、わかりあえなさが明らかになるとき、かけがえのない存在としてここにいることがわかるからだ。(下記[1]258ページ)

〇本稿は、<雑感>(183)「考えること」を考える:「哲学対話」をめぐって―梶谷真司著『考えるとはどういうことか』のワンポイントメモ―/2023年8月8日投稿、の追補である。
〇筆者(阪野)の手もとに、インタビュアー・作家の尹雄大(ユン・ウンデ)の『聞くこと、話すこと。―人が本当のことを口にするとき―』(大和書房、2023年5月。以下[1])という本がある。[1]は、濱口竜介(映画監督)や上間陽子(琉球大学教授)、坂口恭平(建築家)、そして「ユマニチュード」という認知症高齢者のためのケアの技法を開発したイヴ・ジネストらとの対話を通して、「聞くこと」、「話すこと」とはどういう体験なのか、人間にとって「言葉」とは何か、といったことをめぐる評論である。
〇ユマニチュード(Humanitude)とは、相手のことを大切に思っていることを伝えるための「見る・話す・触れる・立つ」(「ケアの4つの柱」)の技術を通して、人間らしさ(ユマニチュード)を尊重するケアの技法をいう。
〇[1]のキーワードのひとつに、「ただ聞く」がある。それは、上記の本ブログ<雑感>(183)で述べた、相手の話を聞きそれを「受け止める」ことが大切である、という指摘にも通じる。その点をめぐって、[1]における尹の論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

余計な聞き方をせず「ただ聞く」という態度によってこそ信頼関係が生まれる
互いが「あなたを知りたい」というあまりの率直さに触れたとき、私が私であることを許される、認められる。そこに「私自身であっていいのだ」という安心を覚える。確実な約束を与えられるからそれが信じられるのではなく、ただ許され、認められることに自らを懸けようとする。それが信頼ではないか。/そうなると「あなたを知りたい」という問いかけで重要なのは「何を聞くか」でも、それによって話された言葉の理解でもない。この場にいる互いのあり方にただ注視する態度だけが必要だ。/そのとき聞くことは意味の理解につながらないだろう。というより、つなげる必要がない。日常においては、聞くことを理解にすぐさま結びつけてしまう。ともかくわかろうとするのもまた意識的な行為のなせる業(わざ)だ。そこからは信頼して言葉を紡げる関係性は生まれにくい。(27~28ページ)

「ただ聞く」とはその人の「今ここ」の感情を分かろうとする試みである
たいていの場合、人は相手の話を「その人の話」としてではなく、「自分の話」として聞きがちだ。自分の理解できる範囲の出来事を相手に見出しては「わかる」と言い、共感できないことはただちに「わからない」と判断する。わからなさを前にした途端、実際には口にしなくても、心の中で相手の話に対して「つまり・結局・要するに」を持ち出して解釈することに忙しい。その後に続くのは「だから良い・悪い」のジャッジだ。(43ページ)/「完全に聞く」(「ただ聞く」)とは相手を完璧に理解することではない。わかろうと試みる状態のことだ。/そういう時間と空間であるためには、互いの協力が必要になる。どのような関係性がそれを可能にするかといえば、少なくとも話し手がその人のすべてで「今ここ」において話すという態度が必要になる。(45ページ)

相手の話を「ただ聞く」ためには自分の判断基準や価値観を手放す必要がある
相手の話を「私の話」として聞いてしまうとき、「私」は必ずジャッジ(判断)している。/私たちは物事をジャッジするとき、善悪は対象に属していると思っている。相手が良いことをしたから、それを「良い」とし、悪いから「悪い」と判断したと。そうではない。自分の解釈が善悪正誤を決めているのだ。あなたが誰かの行いや発言に「善悪」をつけたとき、そこで明らかになるのは、あなたが長年培ってきた価値観であり信条だ。(233ページ)/私たちのジャッジの基準は、生まれ育った環境、時代、社会の中で選ばざるを得なかったというような、極めて個人的な事情に基づいている。生き延びるためにそれを身につけてきた経緯がある。(235ページ)/他人の話を聞く前に、自身のジャッジを形成するに至ったストーリーを知り、その顛末を最後まで聞きとり、それを手放さない限り、私たちは相手の話を聞くことができない。本当に尊重することができない。(237ページ)

生きている事実について「ただ聞く」ことによって「聞き取られない声」を聞かないといけない
(ドメスティック・バイオレンス(DV)や性暴力などの過酷な境遇を生きている少女など)「本当に話せない」という我が身を引き裂くような、晴れることのない思いが胸奥(きょうおう)に腹に全身にわだかまったまま生きている人が現にいる。そんな切迫した思いが、コミュニケーションにおいて推奨されている通りの共感や肯定を示すことで太刀打(たちう)ちできるはずもない。(93ページ)/「本当にのたうち回るような経験というのをした人は自分の体験を表す言葉を持たない」(上間陽子)。(94ページ)/身に刻まれた痛みや悲しみを抑えることも晴らすこともかなわない。引き裂かれた感情を抱え、それでも正気を保たないことには生きていけない。摩滅しそうになりながら生きてきた人の言葉が、穏当に理解できるようなものになるわけがない。身が軋(きし)むような生き方を強いられてきたのであれば、ほつれた語り口(まとまりを欠いた話し方:筆者)で言わざるを得ない必然性がある。(106ページ)/聞き取られない声がある。だから聞かないといけない。何を聞くのかではなく、ただ聞く。子供らにより良い生き方を諭す前にすべきなのは、すでに生きている事実について耳を傾けることではないか。(111ページ)

〇ここで、2つの文章を引いておきたい。ひとつは、「話をしている最中に概念的な理解をしようとして頭で考えてしまうということは、相手の話から常に遅れている。(中略)そのときその場にいながらそこにおらず、想定の中にまどろむことを自分に許している。端的に言えば、話を聞いていない」(21ページ)というそれである。意識的に集中して相手の話を聞き、いろいろ考えようとするとき、相手の「話を聞いていない」のである。対話における「聞くこと」「話すこと」と「考えること」(自分が設定した「問い」に自分なりに「答え」る営み)の難しさがここにある。体験的に納得できるところでもあり、留意しておきたい。
〇いまひとつは、「共感は理解への唯一の道ではない」(226ページ)。「共感は、相手の話を自分の話として聞いている。けれども本当に話を聞こうと思うのならば、他者の声を尊重するならば、相手の話を相手の話として聞かなくてはならない。あなたという存在は私の共感の及ばないところで生きている」(228ページ)というそれである。「ただ聞く」のは難しい。それは、対話の知恵や技法を問うものではなく、「今ここ」にいる相手を、かけがえのない存在・尊厳ある存在として真に「受け止める」ことによって可能になるのである。

(人の話を聞くにあたり)聞き慣れない表現に戸惑ったときに求めるべきは、戸惑いをちゃんと味わうことではないか。それもせずに正当性という正解に向かう道筋を選ぶ発想こそが、相手の話の聞けなさにつながっている気がする。(上記[1]194ページ)

 

阪野 貢/「考えること」を考える:「哲学対話」をめぐって ―梶谷真司著『考えるとはどういうことか』のワンポイントメモ―

意見とは、自分が考えてきた「問い」に対して、自分が出した「答え」である(山田ズーニー『伝わる・揺さぶる! 文章を書く 』(PHP新書、2001年11月、41ページ)。

〇筆者(阪野)の手もとに、哲学者の梶谷真司(かじたに・しんじ)の『考えるとはどういうことか―0歳から100歳までの哲学入門―』(幻冬舎新書、2018年9月。以下[1])という本がある。梶谷にあっては、哲学とは、「考える」営みそのものであり、「問い、考え、語ること」である(32ページ)。
〇梶谷はいう。「考える」という営為は本来、自分自身に問いかけ、自分なりの答えを出すことであり、自分自身との「対話」を意味する。しかし、ひとりで悶々(もんもん)と考えることには限界がある。また、現実の家庭や学校、社会(会社、地域等)における「考える」という営為は、既に決められている「正しいこと」「よいこと」「他者の意に沿うこと」の「正解」を探し求めるそれであり、そう考えさせられている。とりわけ学校では、生徒は教師や教科書によって提示された問いについて、強制的に考えさせられ、ひとつの正解を見出し、統制・画一化されている。また、特定の基準に即して選別され、序列化され、場合によっては周縁化され、排除される(12~13、52~53ページ)。
〇そこで、より広く、深く考えるためには、多様な立場の人が集まり、自由に「共に問い、考え、語り、聞くこと」が肝要になる。別言すれば、複数の人がいっしょに問い、その答えを探して考え、言葉にして語り、それを聞き、それを受け止める(「受け入れる」ではない)ことが、「共に考える」ということである。その際、とりわけ大事なのは、分からないことを「問う」ことである。それによって、はじめて「考える」ことができる。分からないことが増えれば、それだけ問うこと、考えることが増えるのである。そして、その過程を通して、自分を縛りつけるさまざまな制約(息苦しい世間の常識や慣習、人間関係、自分自身の思い込みや不安・恐怖、こだわり等)から解き放たれ、他の人といっしょに「自由になること」ができる。それは、人と人が「共に生きること」を意味する。こうした「共に問い、考え、語り、聞くこと」の具体的な方法(method)と方法論(methodology、方法の体系・システム)が、知識として学ぶ哲学(philosophy)ではなく、梶谷のいう「共に考える営み」としての哲学(philosophize)、すなわち「哲学対話」である(12~17ページ)。
〇「哲学対話」では、多様な立場の人が参加することが重要となる。適正な参加人数は10~15人前後とされる。また参加者は、対等であることを明確にするために、輪になって座る。そして、進行役(ファシリテーター)の支援のもとに、「共に考える体験」(共に問い、考え、語り、聞くこと)を通して個人的・主観的な感覚を覚え、それが「共感」を呼び起こし、思考を深化・拡大させる。こうした「哲学対話」について、[1]における梶谷の論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

哲学対話のルールと特徴―「他者へ」と「世界へ」と自らを開く
①何を言ってもいい
哲学対話においてもっとも大切なのは、「自由に考えること」であり、「問う」と「語る」からいかにして制約を取り払うかである。自由に問い、自由に語ることによって、はじめて自由に考えられるようになる。(47、48ページ)
②人の言うことに対して否定的な態度をとらない
自分の言うことが同意されなくても、決して否定されないと分かっていることが重要である。自分の言うことをそのまま受け止めてもらえると思えてはじめて、何でも言えるようになる。(55~56ページ)
③発言せず、ただ聞いているだけでもいい
話したくなければ黙っていていい。その自由がなければ、話したいことを話す自由もないことになる。「聞く」というのは、対話への立派な参加である。聞いていることじたいが、対話にとって決定的に重要である。(58ページ)
④お互いに問いかけるようにする
「問い」かけができなければ、対話で思考を深めたり広げたりすることはできない。問うことを学ばないところでは、考えることも学べるはずがない。考えるとは、「分からないことを増やすこと」であり、何を質問してもいい、ということである。(60、64、66ページ)
⑤知識でなく、自分の経験にそくして話す
知識に基づいて話したり、人の言葉や何かの用語を引き合いに出すのは、権威づけをし、それによって自分の優位を示そうとしていることが多い。「共に考える」ためには、
自分の言葉で、自分の経験や思いと結びつけたり、身近な例を出したりして話せばいいのである。(71ページ)
⑥話がまとまらなくてもいい
話し合いの答えを安易に先送りすることがあってはならないが、お互いに問い、考えた結果、結論が出るのであれば、それでいい。大切なのは、言いたいことを言い、問いたいことを問い、考えるべきことを考えたかどうかなのである。(75ページ)
⑦意見が変わってもいい
哲学対話では、みんなで考えているのだから、考えを深めたり広げたりするのであれば、個々人の意見は変わってもいい。意見が変わるということは、思考が深まった、広まった、違う角度から考えた、前提が問い直されたということであり、望ましいことである。(76ページ)
⑧分からなくなってもいい
分からなくなるというのは、問いが増える、考えることが増えることである。対話で分からなくなるのは、望ましいことであり、他者へと、世界へと自らを開いていくことである。(76、77ページ)

哲学対話の意義―「自由」と「責任」と「自分」のための哲学
哲学対話は「自由」を実感し理解する格好の機会である
哲学対話で自分とは違う考え方、ものの見方を他の人から聞いた時、自分自身から、そして自分の置かれた状況、自分のもっている知識やものの見方から距離をとる。その時私たちは、それまでの自分自身から解き放たれる。自分を縛っているもの――役割、立場、境遇、常識、固定観念など――がゆるみ、身動きがとりやすくなる。/また、哲学対話で今まで分かっていたことが分からなくなると、いわゆるモヤモヤした感覚、それこそ靄(もや)の中に迷い込んだ感じがする。/この自分を縛りつけていたものからの解放感と、自分を支えていたものを失う不安定感――この両義的感覚は、まさしく自由の感覚であろう。(93、94ページ)
哲学対話において感じるこの自由は、感覚じたいが個人的であり、主体的であるとしても、だからといって、他者と共有できないわけではない。そこで自分が感じる自由は、まさにその場で他の人と共に問い、考え、語り、聞くことではじめて得られるものである。だからそれは、他者と共に感じる自由なのだ。/こうして私たちは考えることで自由になり、また他の人といっしょに考えることで、お互いが自由になる――哲学対話は、このような固有の、そしておそらくは、より深いところにある自由を実感し理解する格好の機会なのである。(96~97ページ)

哲学対話を通して生まれる「責任」は他者と共に享受する権利である
哲学対話を通して自ら考え、決めた時に生じる責任の問題は、ポジティブな意味での責任である。それは、自由と引き換えにしぶしぶ負う義務ではなく、むしろ自由と共に手に入れるべき権利のようなものではないか。(98ページ)
私たちは、自ら考えて決めた時にだけ、自分のしたことに責任をとることができる。だから自ら考えていないということは、自分で決めていないということであり、そうであれば、やったことの責任は、本来とれないはずである。(100ページ)
哲学対話で選んだこと、決めたことは、結果がどうであれ、責任をとることができる。そうして私たちは、ただ自由だけを求めるのでも、責任だけを甘受するのでもなく、その間で妥協するのでもなく、自由と責任をいっしょに取り戻す。それは他でもない、自分自身の人生を生きることなのだ。/しかもそれは、対話を通して生まれた他者との共同的な関係に根差している。だからそこで引き受ける責任は、一人で負わなければならない責めでも、できれば避けたい負担でもない。他者と共に享受する権利となるのだ。(104ページ)

哲学対話は人生を「自分」のものにする営みである
哲学対話は、“恋愛”と同じである。/恋愛も人生も、自分で身をもってやってみるしかない。一から始めなければならない。うまくいかなくても、時に嫌気がさしても、臆病になっても、手放してしまうわけにはいかない。(110ページ)
哲学対話=「考えること」もそれと同じだ。レベルの高さ、厳密さ、深さ、一貫性を求める必要はかならずしもない。誰のためでもない。自分のために考えるのだ。どんなにつたなくても、自分でつまずいて自分で考えたことしか、その人のものにはならない。/だから、とにかくやってみればいい。そうして自由と思考を自分のものにし、人生を自分のものにするのだ。その時、いっしょに考えてくれる人がいたら続けられる。だから哲学は対話でするのがいいのだ。(110~111ページ)

哲学対話の核心―自分自身の「問い」をもつことと「考えること」の関連性
「問い、考え、語り、聞くこと」としての哲学(哲学対話)において、もっとも重要なのは「問うこと」である。「問い」こそが、思考を哲学的にする。/「考える」というのは、自発的で主体的な活動を指す。それは「問い」があってはじめて動き出す。問い、答え、さらに問い、答える――この繰り返し、積み重ねが思考である。それを複数の人で行えば、対話となる。(115ページ)
考えるには、考える動機と力がいる。自分自身が日ごろ、疑問に思っていることはつい考えたくなる。考えずにはいられない。こういう考える力をくれる問い、つい考えたくなる問い、考えずにはいられない問い、それが自分の問いであり、そうした問いを問うのが、自分を問うことである。/自ら問いたいことを問い、そこから考えることは、「問題を解くために考える」=「考えさせられる」のとは、まったく違うのである。(118~119、120ページ)
知識だけ学んで問うことがなければ、思考はどこにも行かず、育つこともない。知識もなしに問うばかりでは、思考は方向を見失う。知識はそこからさらに問うてこそ意味があり、問いは知識によってさらに発展する。だから哲学的に考えるためには、答えのある問いとない問い、閉じた問い(簡潔に答えられてそれ以上の説明を要しない問い)と開いた問い(答えに説明を要する問い)の両方が必要なのである。(141、144ページ)

〇およそ以上が、筆者の関心に基づいて捉えた、[1]が説く「哲学対話」や「考えること」の理念や意義、方法についての要点である(哲学対話の具体的な実践法については省略する)。そこには、「共に考える」ことを拡大・深化させるに際して、例えば、「論理的思考と批判的思考」、「具体的思考と抽象的思考」、「課題解決型思考と価値創造型思考」、「帰納的思考と演繹的思考」(複数の個別事例から一般原則・理論(結論)を導き出す思考と、一般原則・理論(一般論)を前提に個別の結論を導き出す思考)、あるいは他の人の考えの「容認と受容」などをめぐる疑問なしとしない。その点についての検討は別稿に譲ることにして、ここでは、再認識する意味で次の一文を引いておくことにする。それは、例によって唐突であるが、「まちづくりと市民福祉教育」の実践・研究に求められるひとつの理念や思想に通底するものでもある。地域コミュニティにおいて「共に考える」ことを通して自分の生きる現実を問い、考え、それを変え、自由と責任を取り戻してだれもが「よく生きる」、という理念や思想(地域共創のための自己責任と自己実現、相互責任と相互実現)である。

地域コミュニティにおいて、地元住民が当事者として地域をどうするかを考えなければならないはずなのに、それを国や自治体、もしくはどこかの企業が代わって考え、決めてきた。/何か問題が起きたら、住民は行政や企業を非難するが、彼らが責任をとることはない。当たり前である。それは彼らの人生ではないからだ。他方、当事者である住民は、自分たちで考えも決めもしなかったから、責任がとれない。それなのにその結果を引き受けるしかない。何とも理不尽なことではないか。(102~103ページ)

私たちは、自分の生き方に関わることを誰かに委ねるべきではない。また誰かに代わって考えて決めてあげることもやめなければならない。人間は自ら考えて決めたことにしか責任はとれないし、自分の人生には自分しか責任はとれないのだ。/しかもそのさい、一人で考えるのではなく、他者と共に考えることが重要なのだ。(103ページ)

哲学は夢を追いかけるユートピア思想ではないし、社会全体を変えようとする革命思想でもない。それは「考える」ということを通して、誰もが自分の生きる現実をほんの少しでも変え、自由と責任を取り戻して生きるための小さな挑戦である。そこで必要なのは、高邁(こうまい)な理想よりも徹底的なリアリズルなのだ。(259ページ)

〇筆者の手もとにもう1冊、「哲学対話」に関する本がある(2冊しかない)。哲学者の河野哲也(こうの・てつや)が編集する『ゼロからはじめる哲学対話―哲学プラクティス・ハンドブック―』(ひつじ書房、2020年10月。以下[2])がそれである。[2]は、哲学対話=哲学プラクティスに関する論点や言説が網羅的に記されているハンドブック(マニュアル)である。そこでは、「哲学対話とは、人が生きるなかで出会うさまざまな問いを、人々と言葉を交わしながら、ゆっくり、じっくり考えることによって、自己と世界の見方を深く豊かにしていくこと」(寺田俊郎:3ページ)をいう。
〇そして、哲学対話の特徴と実際的な意義・効用のポイントについて次の諸点を指摘する。[1]における説述と重複するが、参考に供しておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

哲学対話の特徴―「自由」によって自分と世界の見方を深く豊かにする
(1)哲学対話には問いがある
● 哲学的な問いは対話を必要とし、哲学的な問いを考える唯一の方法は対話である。
● 哲学的な問いの最終的な答えは誰も知らないのだから、対話に参加する人々の関係は平等・対等になる。
(2)哲学対話は答えを急がない
● 哲学対話は、速やかに答えを出さなければならないという圧力から自由である。
● 自分の意見を他の人々の意見に照らして吟味することによって、自分の意見の根底にある暗黙の前提に気づくことができる。
● その前提を明らかにすることは、自分の意見を明らかに、深く、豊かにしていくために必要であると同時に、互いに意見を理解するためにも必要なことである。
● 哲学対話が成功するということは、新たに問いが見出されるということであり、哲学対話を重ねれば重ねるほど問いが生まれ、さらに哲学対話が続いていく。
(3)哲学対話は自他の考えが変わっていくことを大切にする
● 自分で考え、他の人々と共に考えることによって、自他の考えが変わっていくことを自覚し認めあうことができる。
これらの特徴から、哲学対話を成立させるためにもっとも大切な条件は「自由」――問いを立てる自由、意見を表明する自由、意見に対する問いを立てる自由、答えを出す圧力からの自由、そして自分の考えを変える自由、である。(寺田俊郎:3~9ページ)

哲学対話の意義・効用―共生社会・成熟社会の構築と集団的意思決定に貢献する
(1)哲学対話は、多様な人々が、人が生きるうえで大切な問いを、互いの意見を尊重しあいつつ考えることによって対話の文化を醸成し、共生する社会を築くことに役立つ。
(2)哲学対話は、共生社会の別言であるが、風通しがよく、居心地がよく、生きやすい成熟した社会を築くことに貢献する。
(3)哲学対話は、重大な根本的な問題について問い、熟議し、まともな集団的意思決定を行うことに貢献する。それは民主主義に貢献するということである。(寺田俊郎:17~22ページ)。

自分の「考え」を持っていないということは、この考えを作りあげるための「考え方」を持っていないということである。(中略)何かの思想を持つことは、そうむつかしいことではない。それには出来合いのいろいろの思想があるからである。日本は今日まで、いつもそういう出来合いの西洋の思想を貰(もら)ってきて、サシ根して育てようとした。(中略)しかしほんとうに自分の考えを持つためには、それを持つ手段としての自分の「考え方」がなくてはならない。その考え方が我々にないならば、新たに学ぶほかはないのである(笠信太郎『ものの見方について』(改訂新版)角川ソフィア文庫、1966年7月、6ページ)。

追記
梶谷真司の次の文献も参照されたい。
・『人生を変える文章教室 書くとはどういうことか』飛鳥新社、2022年12月。
・『問うとはどういうことか―人間的に生きるための思考のレッスン―』大和書房、2023年8月。