「雑感」カテゴリーアーカイブ

新美一志/追記/書く:「論文の書き方」について―あなたへ―

〇本稿は、先の記事――<雑感>(165)新美一志/書く―あなたへ―/2022年12月12日投稿 の追記です。内容的には、「論文の書き方」についての基礎と基本(土台と中心、知識と認識)のあれこれを改めて考えようとするものです。叙述の形式(フォーム)については、他の記事との整合性を考慮して、阪野貢氏のそれに依ることにしました。

(1)清水幾太郎『論文の書き方』岩波新書、1959年3月(改版:2015年2月)
〇本書は、自身の経験に触れながら、「文章構成の基本的ルール」をエッセイ風に纏めたものである。それは、「Ⅰ 短文から始めよう」から始まり「Ⅱ 誰かの真似をしよう」がそれに続くが、いわゆる「ハウツーもの」ではない。文章を書く行為は人間にとって気高い精神の営みであることが詳述される。岩波新書のロングセラーであり、「古典的名著」と言われる所以でもある。
〇清水にあっては、文章・論文を書くというのは、「或る問題に答えることであり、或る問題を解くことである」(19ページ)、「観念や思いつきを大切にしなければいけない」(21ページ)、「言葉を使い、論理(ロゴス)を重んずるといことである」(108ページ)、「経験と抽象との間の往復交通を必要とする」(181ページ)、「思想に秩序を与えることである」(157ページ)、「思想を作ることであり、人間を作ることである」(229ページ)。
〇本書のうちから、留意したい言説のいくつかをメモっておく(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

書くことを通して本当を理解することができる
読むという働きより一段高い、書くという辛い働きを通して、読むという働きは漸(ようや)く完了するのである。即ち、書物を読むのは、これを理解するためであるけれども、これを本当に理解するのには、それを自分で書かねばならない。自分で書いて初めて書物は身につく。/読む人間から書く人間へ変るというのは、言ってみれば、受動性から能動性へ人間が身を翻(ひるがえ)すことである。書こうと身構えた時、精神の緊張は急に大きくなる。この大きな緊張の中で、人間は書物に記されている対象の奥へ深く突き進むことが出来る。しかも、同時に、自分の精神の奥へ深く入って行くことが出来る。対象と精神とがそれぞれの深いところで触れ合う。書くことを通して、私たちは本当に読むことが出来る。表現があって初めて本当の理解がある。(8~9ページ)

「が」に頼っていては文章は書けない
「‥‥‥が、‥‥‥」。相当に長い句が「が」という接続助詞で結びつけられている文章がある。(56ページ)/「が」の重要な用途を挙げてみると、第一に、「しかし」「けれども」「にも拘わらず」の意味があり、前の句と後の句との反対関係が「が」で示される。第二に、「それゆえ」「それから」の意味で用いられ、前の句と後の句との因果関係が「が」で示される。第三に、「そして」という程度の使い方があり、前の句と後の句との単なる並列乃至(ないし)無関係が「が」で示される。(57ページ、要約)/「が」は極めて便利な接続助詞なのであって、これを頻繁に使えば、誰でもあまり苦労せずに文章が書ける。(中略)眼の前の様子も自分の気持も、これを、分析したり、また、分析された諸要素間に具体的関係を設定したりせずに、ただ眼に入るもの、心に浮かぶものを便利な「が」で繋いで行けば、それなりに滑かな表現が生まれるもので、無規定的直接性の本質であるチグハグも曖昧も表面に出ずに、いかにも筋道の通っているような文章が書けるものである。(中略)それだけに、「が」の誘惑は常に私たちから離れないのである。(60~61ページ)/本当に文章を書くというのは、無規定的直接性(眼前や心中に現れているものをそのまま表現すること:阪野)を克服すること、モヤモヤの原始状態を抜け出ることである。(60ページ)

文章とは認識であり行為である。文章には個人性と社会性がある
文章とは、認識である。行為である。(60ページ)/(文章はそれを理解し認識することによって初めて意味をなすが:阪野)どうにでも受取れるような曖昧な表現は避けねばならない。主語がハッキリしていること、肯定か否定かがハッキリしていることが大切である。(81ページ)/(それは)書く本人が責任を負うということである。(46ページ)/言うまでもなく、文章を書くというのは自分を主張する行為である。与えられた現実を、自分というものを通して再構成する働きにほかならぬ。自分の、自分だけの行為である。文章には強く個人性の側面があると言わねばならない。しかし、その半面、特定の個人に宛てた手紙とは違って、文章は広く不定限の人々によって読まれるものである。それは社会生活の中へ出て行かねばならぬ。文章は社会生活の中で活動し、そこで評価を受けなければならない。(144ページ)

文章は自由であるが常に孤独である
話し言葉は協力者(話し相手)の群に囲まれていると同時に、紐つきである。これと反対に、書き言葉即ち文章は、孤軍奮闘、何処にも味方がいないと同時に、非常に自由である。しかし、自由は何も楽しいものとは限っていない。/文章においては、言葉は常に孤独である。それは全く言葉だけの世界であって、何処を眺めても、協力者はいない。会話において多くの協力者がやってくれた仕事を、一つ残らず、言葉が独力でやらなければならない。文章を勉強するには、何は措いても、このことを徹底的に頭に入れておく必要があると思う。この点で、書き言葉は話し言葉と全く条件が違うのである。文章を書く場合、具体的な人間が相手になっているのではないし、まして、相槌など打ってはくれない。具体的状況を相手と共有することもないから、これを当てにするという便宜も欠けている。言うまでもないことだが、表情や身ぶりも手伝ってはくれない。しかも、そういう協力者がいないというだけでなく、会話で協力者が果してくれた役割の一つ一つを、文字を使って自分で果して行かねばならないのである。(75~76ページ)

論文には説得力の広さと強さが求められる
論文は、誰にでも読んで貰える、誰にでも通用する、広い且つ強い説得力を持つべきものである。相手がいても、その相手に甘えたら、立派な論文は書けない。そういう広さや強さを身につけておいて、その上で特定の相手を考えるのが順序である。読む人の中には、さまざまの考え方の人がいるであろうが、文章は、考え方の相違を突破して行くだけの力を持たねばならない。しかし、力はただ烈しい形容詞などを用いても生れはしない。むしろ、大切なのは、静かな、しかし、誰でも認めずにいられぬような証明であろう。(77~78ページ)/文章を真面目に勉強している人なら、相手の著書や論文を本気で研究することから始めなければいけない。相手が言おうとしていることを、相手に代ってキチンと言えるくらいでなければいけない。(中略)著者の身代りになって表現出来るほどにマスターした書物や論文であってこそ、本当の批判を加えることが出来るのである。(中略)文章の修行は、ただ文章の修行ではなくなる。技術の勉強ではなく、内容の勉強に発展する。(中略)それから、もう一つ、批判の文章では、著者は確かに相手であるけれども、手紙でない限り、著者だけが読むのではない。著者以外の読者という相手がいること、そこから要求される説得力の広さと強さ、これを忘れてはならない。(78~79ページ)

日本語を客体として意識しなければならない
私たちは日本語に慣れ、日本語というものを意識していない。これは当り前のことである。しかし、その日本語で文章を書くという時は、この日本語への慣れを捨てなければいけない。日本語というものが意識されないのでは駄目である。話したり、聞いたりしている間はそれでよいが、文章を書くという段になると、日本語をハッキリ客体として意識しなければいけない。自分と日本語との融合関係を脱出して、日本語を自分の外の客体として意識せねば、これを道具として文章を書くことは出来ない。文章を書くというには、日本語を外国語として取扱わなければいけない。(87ページ)

文章を書くに当たって学説と現実的な問題に気を配る必要がある
当の問題について、既にいろいろな学説があるものである。主要な学説は、それを採用するか否かに関係なく、これを知っていなければいけないし、学説の間には相互に批判があるにきまっているから、それぞれの要点も知っていなければいけない。こういう方面で非常識であってはならない。仮に既存の学説をすべて拒否するにしても、その大体を知った上での拒否でなければならない。/社会には必ずアクチュアル(現実的)な問題がある。どういう時代にも、人々の関心を集めているアクチュアルな問題があって、それをめぐっていろいろの勢力や意見が戦い合っているものである。こういう状況はよく掴(つか)んでおいた方がよい。それは、世間の注目を集めている問題についてのみ発言せねばならぬという意味ではない。自分の文章がどんなにアクチュアルでなくても、結局はそこで読まれ、そこで或る役割を果すのであるから、こういう状況の構造は知っておく必要があるという意味である。(145ページ)

文章には攻める面と守る面とがある
文章には、攻める面と守る面とがある。文章を書く時、私たちは攻撃と守備という二つの活動をするのである。言うまでもなく、攻撃というのは、自分の意見や発見を主張する側面である。これは自分だけが社会に向かって行うものであり、自分だけが行うものであればこそ、文章を書くという張り合いがある。(中略)これに対して、守備というのは、自分の意見や発見が、学説の上と現実の上とで、社会的に孤立しないように、そこにしっかりと足場を固める作業である。これが不足だと、或いは、不足だと感じられると、社会に向って歩み出して行く自信が生まれてこない。攻める方が個人性の面であるとすれば、守る方は社会性の面である。(中略)文章を書く時、二つの側面があることを念頭に置かねばならぬ。自分は何処を攻めているのか。何処に自分の意見や発見があるのか。それを知っていなければいけない。というのは、うっかりすると、ただ守るばかりで、一向に攻めない文章を書いてしまうからである。(146~147ページ)

(2)小熊英二『基礎からわかる 論文の書き方』講談社現代新書、2022月5月
〇本書は、自身が担当する慶応義塾大学藤沢キャンパスでの「アカデミック・ライティング」の講義をもとに、学問分野を超えた共通の科学的な「論文の書き方」の「基礎」として、「論文とは何か」「科学とは何か」を提示する。そのうえで、「研究の進め方」「文章の書き方」などについて説述する。しかし、それは、「論文の書き方マニュアル」ではなく、また「文章指導」でもない。「論文の書き方」の「基礎」の「教養」(451ページ)である。
〇小熊にあっては、「基礎からわかる」とは、初歩ではなく、根本から理解することを意味する。そして、人間が論文を書くのは人間の不完全さに気づき、不完全な人間が進歩するためである(446ページ)。論文(アメリカ式の論文の型式)は、「自分の考えを根拠と論理をもって説明し、他人を説得する」(4ページ)型式であり、「必ずしも真実の探究の技法ではない」。すなわち、主題(問い)を提起し、論証し、再確認する(問いに答える)という型式(構成)で、たとえば「戦争をやろう」とも「戦争をやめよう」とも主張でき、「善用も悪用もできる技法」でもある(56ページ)。そして小熊はいう。学問は、意見・考えに対する批判と追検証による協同作業を通して発展し、みんなの共有財産(共有知識)になる(68ページ)。論文は、その「協同作業の一部」である(94ページ)。科学は、目や耳で経験的に観測できる対象を調査し、追検証できるような研究を求める(118ページ)。その実践(現実・事実の説明と因果関係の論証など)が論文の作成である。ここに、論文の社会的意義が見出され、著者の責任が問われることになる。
〇本書のうちから、留意したい言説のいくつかをメモっておく(抜き書きと要約。見出しは筆者。語尾変換)。

「論文の書き方」の基礎
「科学は進歩する」というのなら、科学は不完全だということ、もっといえば人間は不完全だということを、前提にしていることになる。(445ページ)/人間は不完全だから進歩するし、努力する。そして、人間が一人でやれることには限界がある。だから書いて、公表し、他人と対話する。それが「論文の書き方」の、いちばんの基礎にあたるものである。表面的な型式がいくらか変わったとしても、そこは変わらない。(446ページ)

「論文」の型式と「良い文章」の基準
「論文」は基本的には、①主題となる問いを提起し(序論introduction)、②証拠を挙げて論証して(本論body)、③問いに対する答えを述べる(結論conclusion)、という流れを構成する。(29ページ)/論文とは、論理で説得する技法である。/そのためには、意味が明快で、つながりが論理的であることが求められる。/それを実現するには、一つ一つの文がどういう内容を持っているのか、どういう論理的なつながりをもってその位置にあるのか、を意識することが必要である。一つの文が一つの内容を持ち、全体の主題を支えるように配置される。そのように意識するのが、論文の文章を書く一つのやり方である/。またもう一つ、学術的な論文に要求されるのは、典拠(てんきょ)が示されていることである。これがないと、読者が追検証できない。/これらから考えると、論文における「よい文章」の基準は、①意味が明確であること、②論理が追いやすいこと、③典拠が示されていること、の三つである。(376~377ページ)

「科学」の考え方と論文を書くことの意義
近代の「科学」は、論文を公表して、相互批判や追検証を行いながら発展してきた。(63ページ)/「科学」というのは、お互いに前提を共有して、論拠を確認しながら、論理的に対話していくことである。「これは科学的に証明されていることだ。反論は許さない」とかいったら、それは「科学に名を借りた権威主義」といっていい。(64ページ)/科学が権威になったら、それはもう科学ではない。不完全さに気づき続けることが科学である。/そして、それを実践するのが、論文を書くということである。(459ページ)/学んだ知識や理論を使って、自分の問いを立て、先人の不完全さを指摘し、自分で対象を選び、自分で設計した方法論methodology(調査設計:個別の方法methodを組み合わせて、調査の全体を設計していくこと。方法の体系・システム:阪野)で調べてみる。それによって、自分が立てた問いや、自分が設計した方法論が不完全であったことを、対象と向かいあうことによって知る。あるいは、先人の知恵と試行錯誤に畏敬(いけい)の念をもつ。そうした経験をすることが、論文を書くことの意義である。(460ページ)

(3)戸田山和久『最新版 論文の教室―レポートから卒論まで―』NHKブックス、2022年1月
〇本書は、「ロングセラーの論文指南書」などと評される『論文の教室―レポートから卒論まで―』の第3版にあたる(『初版』2002年11月、『新版』2012年8月)。そこでの基本的な主張は、論文は「問いと主張と論証」のある文章であり、「型にはまった」文章である。「論文はアウトラインを膨らませて書くもの」であり、「論文の命は論証にある」(15ページ)、ということである。
〇戸田山は本書で、「論文とは何か」に始まって、論文を書くときの心構えや気をつけるべきこと、論理的な文章を書くためのノウハウ(しきたり、作法)などをめぐって、36の[鉄則](必ず守らなければならない規則)を提示する。そして、具体例をあげたり練習問題を示しながら分かりやすく、ときにはユーモアを交えながら解説する。
〇「鉄則」は次の通りである。そこから、「論文とは何か」(論文の定義)については、[鉄則05]から、「明確な問いを立て、その問いに対する一つの明確な答えを主張し、その主張を論理的に裏づけるための事実的・理論的な根拠を提示して主張を論証する文章」となる。その際の「論証」とは、ある主張の説得力を論理的に高めるためになされる言語行為のことをいう(162ページ)そして、その論証を説得力の高いものにするためには、そこで使われている根拠が十分な裏付けをもち、併せて論証の仕方・形式が妥当なものでなければならない。とりわけ留意しておきたいところである。


(4)澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年6月
〇本書は、「いかに研究するか、それをいかに論文としてまとめあげるか」についての具体的な手引であり、上述の清水の理論書に対して、「実用中心のハウ・トゥーもの」である。その重点は、論文にまとめあげるまでの研究過程に置かれ、それに関する戦略知識を提示する(15、16ページ)。その点において「名著」と評され、ロングセラーとなっている。
〇澤田にあっては、論文はおよそ次のようなプロセスを経て作成される。①論文書きの時間の約三分の二は、資料集め(トピックの選択、文献・資料探し、資料研究)で占める。②資料探しは体系的・合理的に行い、大ざっぱに資料に目を通す(仮読みする)。③参考図書に目を通し、参照した文献・資料はすべて記録する(文献カードを作成する)。④資料の必要部分を熟読し、テーマごとに分類・整理する(研究カードを作成する)。⑤手に入れた資料の真正性や信頼性をテスト(資料批判)し、正確なデータを作る。⑥集まったデータを構造的に組み立て、論理的なアウトラインを作り、それを文章化し、肉づけする(「書く」の型式的操作)。⑦データの内容について時間的・論理的アプローチや5W1Hなどの方法を用いて説明・解釈する(「書く」の内容的操作)。⑧下書き、書き直し、総点検(論文全体が明瞭で、正確で、無駄なく整理され、淀みなく流れるようにでき上っているかをチェック)し、論理的で説得力のある論文に仕上げる。
〇澤田は、「書く」ことと「読む」ことについてこういう。「書くというのは何よりも構造を作ることで、論文書きにはそれが最も大切なこと」である(103ページ)。「『書く』というのは、内容的には、資料に即して確立された正確なデータを、データに即して構成した一般概念によって説明、解釈すること」である(140ページ)。「『読む』のは、感受性、想像性、思想を豊かにするために『読む』こと」を指す(166ページ)。「広く深く『読む』ことは、よく『書く』ことの大前提で、優れた論文や著作は、『読む』ことによって豊かにされた精神からのみ生まれて」くる(167ページ)。付記しておきたい。

(5)小笠原喜康『最新版 大学生のためのレポート・論文術』講談社現代新書、2018年10月
〇本書は、レポート・論文術のベストセラーである『大学生のためのレポート・論文術』の第3版にあたる(『初版』2002年4月、『新版』2009年11月)。「1.レポート・論文のあたりまえの基本」から始まり、「2.レポート・論文の基本ルール」「3.文献・資料の集め方(テーマを絞る)」「4.レポート作成の基本」という順に詳述される。「1」と「2」は「論文の書き方事典」(16ページ)である。
〇小笠原は本書で、論文を書くテクニックではなく、クリティカル(鋭敏)な論文につながる「あたりまえの基本ルール」を微細にわたって説明する。小笠原はいう。「論文を書くには、必要な情報を検索して、問題点を絞りこみ、筋道をたてて表現しなくてはならない。こうした、探求力、構想力、論理力、表現力を総合的に身につけられるのが論文を書く作業である」(5ページ)。「現実の論文作成は、もっと泥臭く、もっと逡巡(しゅんじゅん)し、もっと後悔的である。簡単ではない。自分との闘いである」。「その苦しさの中で、自分があらわれてくる。(中略)結果ではなく、過程である」(6ページ)。「論文は、自分物語を書き、自分の世界をつくるためにある。他の誰でもない自分が、自分をみすえて自分の世界を変えていく。それが自分になる」(231ページ)。論文指導や論文論(論文に関する論)の第一人者と評される小笠原の思想・哲学である。

―あなたへ―
〇「論文の書き方」に関する本や資料は山ほどあります。今回は、論文指導や論文論に関する本のなかから、叙述の抽象度の高・低と射程範囲の広・狭を軸に、さらには論文の書き方のノウハウ(技術、コツ)の詳細度を考慮して、とりあえず以上の5冊を取り上げました。それぞれの特徴や視角・視座について誤解を恐れずあえて一言でいえば、清水のそれは「理論、」小熊は「学問」、戸田山は「鉄則」、澤田は「過程」、小笠原は「指導」という言葉になるでしょうか。また、それぞれにあっては論文を書くことは、「人間が進歩するため」(小熊)であり、「思想を作り、人間を作る」(清水)、「自分をみつける」(小笠原)、「自分を高める」(戸田山)、「自分の思想をまとめて表現する」(澤田)ことであるとしています。そして、その点への言及には哲学的・理論的な考察が含まれています。そこには濃淡(濃い味、薄い味、隠し味)がありますが、それぞれの本が版を重ねている理由のひとつを見出すことができると思います。それは、単なる「ハウツーもの」「手引書」「実用書」ではない、ということです。
〇詳細は原典にあたっていただくとして、内容の一部でも「あなた」に伝わることを願っています。

阪野 貢/「開かれた学校」と市民福祉教育:その光と影―武井哲郎著『「開かれた学校」の功罪』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、武井哲郎の『「開かれた学校」の功罪―ボランティアの参入と子どもの排除/包摂―』(明石書店、2017年2月。以下[1])という本がある。「開かれた学校」を「善」とする者にとって、またそれに対して懐疑的な者にとっても、「功」と「罪」、「排除」と「包摂」という両義的な言葉(キーワード)によって興味・関心が引き起こされる。
〇[1]では、教室での学習や生活から排除されがちなマイノリティの子どもと、教師と異なる立場にある学習支援ボランティア(「学びの場に参入するボランティア」)との関係性に着目する。そして、「授業に継続して携わるボランティアの存在が学びの場に及ぼす影響を功罪両面から明らかにする」(45ページ)。その際、3つのリサーチ・クエスチョン(RQ)を設定し、それに則(のっと)って4つの事例を分析する(インタビュー調査による質的研究)。3つのRQは次の通りである(RQ1~RQ3、47ページ)。それぞれ(検討課題)を具体的に別言すれば、以下のようになる(RQ(1)~RQ(3)、45~46ページ)。

RQ1:教師と異なる立場にあるボランティアの参入は、学びの場における子ども同士の関係性にどのような影響を及ぼすことになるのか。
RQ2:教室での学習や生活から排除されがちな子どもとの関係において、ボランティアはいかなる役割を担うことになるのか。
RQ3:授業に継続して携わるボランティアは、自身の存在や立場をどのように捉えているのか。

RQ(1):教室空間にボランティアが参入することによって、ニューカマーの子どもや障害のある子どもが学級内で劣位に置かれる構造を崩(くず)すことは可能なのだろうか。それとも逆に、ボランティアの参入は、ニューカマーの子どもや障害のある子どもに付与されるスティグマを維持・強化する結果を招くだけなのであろうか。
RQ(2):学びの場に参入したボランティアとは、学校の価値や規範を自明視し、それを一方的に子どもへと押し付ける〈指導〉的な役割を担う存在でしかないのか、それとも、個別性への配慮と応答に重きを置く〈支援〉的な役割まで担いうる存在なのだろうか。さらには、現状への異議申し立てをも厭(いと)わずにボランティアが子どもの意思を代弁しその権利を擁護すること、すなわちボランティアによる「アドボカシー」は実現可能なのか。
RQ(3):学びの場において多様な背景を有した子どもたちと出会うなかで、ボランティアを「する側」は自身の存在や立場をどのように捉えるようになるのか、そして、ボランティアが〈指導〉的な役割ではなく、〈支援〉的な役割を担うために何が重要となるのか。

〇[1]で取り上げられた事例の1つ目は、脳性麻痺による体幹機能障害と軽度の知的障害をもつシン君のB小学校での事例である。武井はいう。シン君に対する「介助ボランティア」(10名)による特別な配慮は、「同質性の前提」や「一斉共同体主義」(30ページ)によって成り立つ日本の学校文化において、「例外的な措置」としてみなされた。その結果、シン君に付与されたスティグマは軽減・解消されず(107ページ)、シン君の共同体からの周辺化は助長された。そのことを武井は、「差別や排除を生み出す学級構造の問題性を詳(つまび)らかにできないまま、結果的に、学校の持つ価値や規範を補完することになったボランティアは、〈支援〉的な役割ではなく、〈指導〉的な役割を担う存在であった」(109ページ)、と認識する。
〇2つ目の事例は、シン君とほぼ同じ障害をもつリンさんのB小学校での事例であるが、リンさんは高学年を迎えるとボランティアによる学習面への介助は不要になる。武井はいう。「同質性の前提」が揺らがない以上、障害のある子どもが「劣位に置かれる状況を変えるのは難しい」(147ページ)。ボランティア(8名)は〈支援〉的な役割を果たすが、その役割を担うためには「①子どもとの対等な関係性、②イニシアティブの移譲(介護のイニシアティブを子どもの側に委ねること)」(151ページ)の2つが重要であることが明らかとなった。とはいえ、「たとえボランティアの介入が合理的な配慮にあたるのだとしても、他の児童からは反発の声が上がることになる」。そこで武井は、「ボランティアが〈支援〉的な役割を担ったからといって、教室での学習や生活から排除されがちな子どもの包摂に繋がるかは定かでなく、ボランティアの手を借りることが原則的に許されないという学級の規範を崩すための方策を探らねばならない」(152ページ)、と指摘する。
〇3つ目の事例は、コミュニティ・スクール(保護者・地域住民等で構成する学校運営協議会を設置する学校)の指定を受けたC小学校の事例である。それは、特定の子どもの介助だけを行うのではなく、不特定多数の子どもに関わる(一対多の関係性をもつ)「個別支援ボランティア」(2名)の活動事例である。武井はいう。C小学校では、「子ども同士の関係性に序列がつくられないよう、ボランティア自身があえて授業で出された課題の内容を理解できずにいるかのように振る舞う異質な存在」(193ページ)を演じた。その「異質性の顕在化」によって、「日本の学校で暗黙に共有されている『同質性の前提』を崩すことこそ、学びの場から差別や排除の論理を駆逐するための契機となり得」(194ページ)る可能性を見出している。また、ボランティアが教室での学習や生活から排除されがちな子どもの意思を代弁する役割(アドボカシー)を担おうとする。しかし武井にあっては、「教師との間には上下の関係を認識し、その指示や意向にはできるだけ従おうとしていることからも、ボランティアの立場で学習指導や生活指導の在り方に異議を申し立てるのは難しい」(199ページ)。そこで、「ボランティアによる『アドボカシー』の困難性を乗り越えるための条件を検討すること」(200ページ)が今後の課題となる。
〇4つ目の事例は、脆弱な立場に置かれているボランティアによる「アドボカシー」の可否に関するB小学校の学習支援ボランティア(10名)の事例である。武井はいう。「専門性の侵害を忌避する教師を前にして、非専門家であるボランティアが授業の内容や展開にまで働きかけることはできず、両者が対等な関係を築くことは難しい」(208ページ)。B小学校では、「教室内で脆弱な立場に置かれているボランティア同士が、授業に携わるなかで生じる不安や懸念を共有しながら、独自のネットワークを構築している」(239ページ)。そこで武井は、「ボランティアという立場ゆえの限界を相互に確かめ合いながら判断することが可能な状況にあったからこそ、教室での学習や生活から排除されがちな子どもの意思を代弁し、その権利を擁護するべく、教師とのコンフリクト(意見の衝突、不一致)をも厭(いと)わずに現状への異議申し立てを行うことができた」(242ページ)、と分析する。
〇以上の事例分析を通して武井は、それが含意する(インプリケーション)次の3点を提示する(見出しは本文より引用)。

(1)保護者・地域住民による「教育活動への参加」がもたらす影響
ボランティアが「一斉共同体主義」とも称される日本の学校文化を無批判に受け入れて活動するだけなのであれば、教室での学習や生活から排除されがちな子どもたちを、より不利な立場に追い込むことにもなりかねない。通常の学級に在籍する児童・生徒の多様化が進むなかで、保護者・地域住民による「教育活動への参加」を過度に礼賛するべきではないだろう(258~259ページ)。
(2)教師の専門性に介入するボランティアの困難と意義
依って立つべき専門性を有していないボランティアが、教師の指示や判断に対抗できるかというと必ずしもそうではなく、学校組織に「ゆらぎ」を与えるのは容易でない(260~261ページ)。(しかし)依って立つべき専門性を有していない保護者・地域住民であっても、差別や排除を生む学びの場の構造を批判的に問い直し、現状に対するオルタナティブ(代替)を提起することは可能である(262~263ページ)。
(3)学校―家庭・地域が異質な価値をぶつけ合うことの重要性
子どもの最善の利益を保障するという目的に照らせば、学校―家庭・地域の間で異質な価値がぶつかり合うことそれ自体を排除するべきではなく、むしろ、困難を抱える子どもたちに向き合う責任を三者(教職員・保護者・地域住民)が分有する契機として積極的に評価する必要がある(264ページ)。(すなわち)家庭や地域とのコンフリクトを回避するべく、現状に対する異議申し立ての声を全て封じ込めようとすることなどあってはならない。なぜならば、保護者・地域住民から上がる異議申し立ての背後には、教室での学習や生活から排除されがちな子どもたちの声が潜んでいる可能性が捨てきれないからである(266ページ)。

〇以上が[1]における武井の論点や言説の骨子である。それを「まちづくりと市民福祉教育」に引き寄せて一言する。
〇学校における主要な福祉教育活動のひとつに、高齢者や障がい者が学校を訪問し子どもたちと交流する活動がある。その際の高齢者は元気で生き生きと暮らす高齢者であり、障がい者は障害を乗り越えて前向きに暮らす障がい者であることが多い。介護や介助を要する高齢者や障がい者との交流は福祉施設でのそれが多い。しかもその際は、学校(教師)と施設(職員)によって事前準備がなされ、定型化されたプログラムを無難にこなすことがよしとされる。そこでは、高齢者や障がい者の多様性や異質性、個別性は捨象される。そして、こうした訪問・交流活動のねらいは一様に、精神主義的・道徳主義的な「思いやりの心」「福祉の心」の育成に置かれる。
〇こうした高齢者・障がい者の訪問・交流活動を「開かれた学校」づくりの一環として捉え、「学習指導」の視点からRQ(問い、課題)を例示すると次のようになろうか(RQ10プラス1)。それは内容的には、高齢者・障がい者による「単発的な訪問・交流活動が学びの場に及ぼす影響、その光と影」である。それを誤解を恐れずに極言すれば、高齢者・障がい者を学校や教師にとって使い勝手の良いだけの存在にするか、あるいは高齢者・障がい者が学校教育や子ども・教師を揺さぶる存在になることを期待するか、ということになる。本稿のむすびにかえたい。

RQ①:「同質性の前提」や「一斉共同体主義」の学校文化が無批判に受け入れられるなかで、高齢者・障がい者によって異質な価値を持ち込み、ぶつけ合うことは可能か、それは学校文化や教育を揺さぶることになるか。
RQ②:点数学力の競争と序列化を基本としながら理念的に協調や共生が叫ばれる教室での学習や生活において、高齢者・障がい者による学習指導は特別で例外的な活動とされるのではないか。
RQ③:教室での学習や生活において高齢者・障がい者はどのような役割や機能を果たすべきか、高齢者・障がい者に過剰期待や過重負担をかけないか、そのためには、またそれを防ぐためにはどのような事前確認や準備が必要か。
RQ④:素人である、また多様で異質な高齢者・障がい者によって子どもの関心や意欲が喚起され、教師がもっていない情報や知識・技能が提供されることは果たして可能か、また学習指導のねらいが期待通り達成されるか。
RQ⑤:脆弱な高齢者・障がい者による学習指導への参入が、高齢者・障がい者の社会的弱者としての烙印(スティグマ)を強化しないか、あるいは教室内で脆弱な立場に置かれている子どもをより不利な立場に追い込むことにならないか。
RQ⑥:過去に、あるいは差別や排除のなかで学んだ高齢者・障がい者にあっては、学校文化や教育の現状はどのように映り、どのように認識されるか、あるいはその点の事実認識は追求せず、等閑視してよいか。
RQ⑦:高齢者・障がい者によって子ども・教師との関係性について、あるいは教室での学習や生活の現状について異議申し立てがなされた場合、教師や学校は高齢者・障がい者による学習指導に消極的にならないか。
RQ⑧:学習指導に参入する高齢者・障がい者は子ども・教師との関係において、あるいは高齢者・障がい者同士においていかなる苦悩や葛藤を抱くか、それを解決するための学校内外におけるネットワーク化は可能か。
RQ⑨:高齢者・障がい者による学習指導が高齢者・障がい者自身や子ども・教師たちの社会貢献や地域活動への関心・意欲・態度を生み出し、地域とともにある学校づくりや共生のまちづくりを志向することになるか。
RQ⑩:学習指導終了後、高齢者・障がい者、そして子ども・教師は学習指導の過程や状況をどのように評価するか、その評価は高齢者・障がい者や子ども・教師にどのようにフィードバックされ、活動の改善に役立てられるべきか。
<プラス1>
RQ⑪:高齢者・障がい者による学習指導以前に、子どもたちが多様性や異質性を認め合う授業や学級経営、そのための教師の力量形成などのあり方が問われるべきではないか、その課題や方策はなにか。
 
 
備考
1996年7月に答申された第15期中央教育審議会第1次答申(「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」)で、「開かれた学校」が提示された。その要旨はこうである。子どもの育成は、学校・家庭・地域社会との連携・協力なしにはなしえない。これからの学校は、社会に対して「開かれた学校」とならなければならない。そこで学校は、保護者や地域住民に自らの考えや教育活動の現状について率直に語る必要がある。とともに、保護者や地域住民、関係機関の意見を十分に聞くなどの努力を払う必要がある。また、学校がその教育活動を展開するに当たっては、地域の教育力を生かしたり、家庭や地域社会の支援を受けることに積極的であるべきである。例えば、非常勤講師として地域住民を採用したり、保護者や地域住民を学校ボランティアとして協力してもらうなどの努力をすべきである。さらに、学校は、地域社会の子どもや大人に対する学校施設の開放や学習機会の提供などを積極的に行い、地域社会の拠点としての様々な活動に取り組む必要がある。
文部科学省はその後、「開かれた学校」の制度化(学校評議員制度、学校運営協議会制度、学校支援地域本部事業など)を進める。しかし、学校の閉鎖性・画一性や教育の均質性・一斉性が容易に解消されず、また教師集団の凝集性が高いなかで、保護者や地域住民の学校への参加や支援の限界や形骸化が指摘されることになる。すなわち、「地域に開かれた学校」づくりや「地域とともにある学校」づくりは、言われるほどには進まず、それが企図するところも十全に果たされていない。

付記
本稿を草することにしたひとつのきっかけは、あることから筋ジストロフィーを患う中学生のことを思い出したことにある。彼は、教職員による全面的な支援を受けて、学校挙げての福祉教育に先駆的に取り組んでいた地元のA中学校に通った。地域の人たちにも理解があった。時が経つにつれて複数の生徒たちには、教師による学習支援や生活支援が「特別な扱い(えこひいき)」と映るようになっていった。そんななかで、彼に対するいじめや暴力が明るみになった。それは、学校における福祉教育のあり方を厳しく問うことになる。その後、彼は、「建築家になって大きなビルを建てたい」という夢を抱いて地元の高校に進学することを志望する。しかし、障害があるがゆえに入学は許されなかった。しばらくして彼は、懸命に生き、懸命に学んだ足跡を残して、若くして亡くなった。
子どもには残酷な一面がある。福祉教育は脆弱であり、共生を保障するとは限らないことを痛感した事例である。

新美一志/書く―あなたへ―

あなたは自分の思考に使えるものを探し続けてきました
あなたは探し当てたあれこれを大事に扱ってきました
あなたはそれを心を砕(くだ)いて若い人に伝えてきました

あなたは長いあいだ文章を書いてきました
あなたは共に生きる豊かさを求めて書き続けてきました
書くことはあなたの存在証明のようでもありました

そんなあなたがもう書かないと言ってきました
それも突然にです
なんの説明もなくです

人は社会的にも不完全な存在です
人は何かを求め何かをめざして生きています
それゆえに人は書き続けます

書くことは人や社会とのつながりに基づく行為(デザイン)です
書くことは数え切れない人の思いや考えに基づく行為(アート)です
その営みは書くことを確かで豊かな学びに昇華させます

書くことの社会的な意義と責任のひとつはここにあります
それゆえに書くことには強い覚悟と厳しさが求められます
書くことに善意と誠意が問われる理由もここにあります

書くことはあなたがこれまで生きてきた証(あかし)です
書くことはあなたがこれからも生きてゆくための拠り所です
その証明が新しい潮流となって人の心や社会を揺さぶり動かします

書くことの醍醐味とやりがいがここにあります
書くことの苦しみとそれを乗り越える楽しさがここにあります
あなたが書かなければならない根拠(わけ)がここにあります

寒い冬の生活が始まります
でも春は必ず戻ってきます
その時にまたお会いしましょう
 
 
備考
デザイン=問題解決、社会性。 アート=自己表現、創造性。
醍醐味=物事の本当の面白さ。 やりがい=物事を行うときの価値。

 

阪野 貢/「地域教育経営」と住民「参加型評価」を考えるために―荻野亮吾・丹間康仁編著『地域教育経営論』のワンポイントメモ―

〇まず次のことを確認しておきたい。
●地域福祉における評価は、実践の成果や課題解決の側面から行われる「タスクゴール」(課題達成)、実践の過程や住民・関係主体の参加や連携・協働の側面から行われる「プロセスゴールス」(過程達成)、住民や行政などの関係性や地域の権力構造の側面から行われる「リレーションシップゴール」(関係力学変容)という視点が重視される(補遺(1) 参照)。
●学校教育における評価は、それがいつ行われるかによって、教育活動を始める前に行われる「診断的評価」、教育活動の途中で行われる「形成的評価」、教育活動が終了した後で行われる「総括的評価」に分けられる(補遺(2)参照)。
●問題・課題解決を図るための福祉・教育実践は、計画の立案・仮説の設定を行い(Plan)、計画・仮説を実行し(Do)、実行した結果に基づいて計画・仮説を評価・検証し(Check)、計画・仮説の改善・修正を行う(Action)、というプロセスを経る。そしてそれを、次の新たな取り組みに活かす。いわゆる「PDCAサイクル」である(仮の結論=仮説を設定して考える問題解決のための思考法を「仮説思考」という)。
●市民福祉教育の実践プログラムの企画・立案は、例えば、「学習者の設定・理解」、「学習要求と学習必要の把握」、「学習目標と内容・方法等の選定」、「実践プログラムの実施」、「学習評価とその共有」、「実践プログラムの改善・再計画」などの流れで行われる。
〇筆者の手もとに、荻野亮吾・丹間康仁編著『地域教育経営論』(大学教育出版、2022年10月。以下[1])がある。サブタイトルは「学び続けられる地域社会のデザイン」である。周知の通り、社会福祉では「我が事・丸ごと」地域共生社会の政策化が図られ、学校教育では新学習指導要領が提唱する「社会に開かれた教育課程」の具体化が志向されている(補遺(3)参照)。福祉教育では、共生社会の形成や多文化共生の実質化をめざした「地域を基盤とした福祉教育」の推進が要請されている。これらはいずれも、誰もが地域社会づくり(まちづくり)に参加し、安全で快適に「住み続けられる地域社会のデザイン」を企図している。その点において[1]は、一面では、時宜にかなったものであり、「まちづくりと市民福祉教育」について思考する筆者にとって興味をそそられる。
〇[1]では、地域社会を教育の基盤として位置づけ、学校教育と社会教育の双方の視点から、生涯学習を可能にする地域社会を総合的にデザインし、その運営について考える「地域教育経営」という枠組みを提示する(ⅰページ)。そして、「地域教育経営とは、学校の構成員や地域社会で暮らす人々を教育の当事者として位置づけ、それらの人々の間に『つながり』を紡ぐことで、学校運営協議会などの組織化された公的な意思決定の場面をはじめ、教育に関して『熟議』がなされる領域を日常的なさまざまな場面にも広げていこうとする実践、および、それを支える仕組みや制度に関する理論」である、と定義づける(17ページ)。
〇この定義では、地域教育経営を実現するための要素として、「つながり」と「熟議」が重視される。すなわち、地域住民をはじめ行政や企業、関係機関・組織などの「つながり」づくりが地域教育経営の基礎に位置づけられる。そして、「熟議」が、単なる話し合いではなく、地域社会を構成するさまざまな主体(関係主体)が連携・協働してまちづくりを推進し、地域社会に新たな「つながり」を紡ぐ実践として重要視される(18ページ)。定義でいう「学校運営協議会」は、教育委員会によって学校内に設置され、保護者や地域住民などが一定の権限を持って学校運営に参加する合議制の機関である。2004年9月の法定化以来、2021年5月現在で学校運営協議会を設置する学校(コミュニティ・スクール)は、全国の公立学校(幼稚園・小学校・中学校・義務教育学校・高等学校・中等教育学校・特別支援学校)の33.3%にあたる1万1,856校を数えている。
〇[1]は、地域教育経営の「見取り図」を示し、各地域の課題解決に向けた先進事例を紹介しながら「課題と展開」、「主体とパートナーシップ」、「デザインと評価」について議論する、入門・基礎レベルのテキストとして編まれている。筆者にとってはとりわけ、身近な地域社会での「つながり」と「熟議」をどのように組織化するか、地域教育経営の目標である「エンパワーメント」をどのように実現するか、そして住民主体の活動をどのように評価するか、などの論究(実践的方法論)が興味深い。
〇これらの点について、[1]における論点や言説のいくつかをメモっておく(抜き書きと要約。見出しは筆者。見出しの後の氏名は分担執筆者)。

コミュニティにおける話し合いの問題と対処法/佐藤智子
●古典的な意味でのコミュニティは、一定の地域的範囲(範域)をもつ「地域性」と、そこでの生活の「共同性」をその要素としている( R.M.マッキーバー)。現代におけるコミュニティは、一定地域に「常に在るもの」ではなく「失われつつあるもの」となり、ゆえに多くの場合、「新たにつくられるべきもの」ととらえられている。(162ページ)
●分断された社会に共生を取り戻し、包摂的なコミュニティを構築していく過程では、対話(話し合い)が欠かせない。話し合いの場では、①社会的な「上下関係」に起因した遠慮(反対意見を言いづらいなど)、②参加者間での前提の不一致や非共有(意見の前提にある情報や事実認識が異なるために話がかみ合わないなど)、③義務的な参加動機(話し合いに対してやる気がない、地域の問題に興味がないなど)、④発想の固定化(似通った意見しか出ないなど)、などの問題が生じやすい。(163、169~170ページ)
●こうした問題に対処するためには、①水平的な関係づくりを重視する(参加者の属性による区別も優遇もしないなど)、②情報やアイディアの提供(アウトプット)とともに吸収(インプット)を重視する(参加者が客観的な情報を吸収することができるなど)、③「楽しい」という感覚を優先する(参加者が意見表明や情報吸収に楽しさを感じるなど)、④問題解決や合意形成を目的としない(すべての参加者によって表明された意見やアイディア全体を総括し集約するなど)、などが有効である。(170~171ページ)

「まちの居場所」の種類とデザインの方法/荻野亮吾・高瀬麻以
●「まちの居場所」(たまり場)は、飲食店や自宅、公共スペースなどの場を開放して、交流やつながりづくりを重視するコミュニティカフェ型の居場所、高齢者・子ども・子育て支援などをテーマに、社会的課題の解決を目的とするコミュニティケア(community care)型の居場所、さまざまな人たちが出入りして独立した仕事を行うスペースだけでなく、属性の異なる利用者の交流や地域活動・市民活動を支援する場としてのコワーキングスペース(coworking space)型の居場所など、多種多様な形態をとる。(177~180ページ)
●それらは、既存の制度や施設の枠組みからこぼれおちたニーズ(隙間)に対応しようとするものであり、個々人が孤立せず他者と居合わすことができる場である。しかも、気軽に利用しやすい日常生活の場に根ざして設置され、地域の人々が中心になって運営される点に特徴がある。(175~176ページ)
●「まちの居場所」づくりは、それに関わる人それぞれが「想い」を出し合い・デザインし、誰もが気持ちよく参加することのできる空間・時間づくりや人間関係づくり(「空間」「時間」「人間(じんかん)」「隙間」の4つの「間」をデザインすること)を進め、ゆるやかな関係のなかで関わる人々がその「役割」を少しずつ担い・デザインしながら、自分たちの居場所を徐々に創出する「熟議」の過程が重要となる。(180~183、185ページ)

地域課題の解決とエンパワメント/菅原育子
●人々が、自分(たち)のもつ力や可能性を知り、自ら(地域の)課題解決に向けて行動したり、環境をより良くしようとすることや、そのための力を得たり力を発揮する過程は、「エンパワメント(empowerment)」という概念で説明される。エンパワメントとは、力を引き出す、力を与えるといった意味をもつ言葉である。(202ページ)
●地域社会におけるエンパワメントは、「専門家に頼るのではなく、住民自らが力をつけること」(住民個人のエンパワメント)とともに、組織や地域が「多様な個人を活かしながら地域の課題解決への力量形成をめざすこと」(組織・コミュニティのエンパワメント)と表現される。住民が中心となり、他者と協働して地域が抱えるさまざまな課題に向かって行動する地域づくりは、住民、住民主体の活動、そして地域全体のエンパワメントを推進することと同義である。(202ページ)
●エンパワメントは、住民と地域の関係性を理解し、住民主体の活動への支援を考えるうえで欠かせない概念である。そして、エンパワメントを推進する過程で不可欠となるのが、活動の評価である。評価とは、対象について、なぜそれをするのか、どのようにするのか、その結果どう変わったか、その変化は期待したものであったか、などの問いにこたえる行為である。(202ページ)

「住民参加型評価」とその流れ/菅原育子
●課題解決をめざす活動(「プログラム」)は一般的に、①ニーズや課題の把握、②企画と関係者の巻き込み、③具体的な実施体制の構築と実行計画の立案、④計画の実行と改善・修正、⑤最終的な振り返り、という流れで計画・実行されるが、評価(「プログラム評価」)はこの各段階で行われる。①の段階では状況把握のための「ニーズ評価」、②③の段階では活動の目標や計画が妥当かを評価する「セオリー評価」、④の段階では活動が計画通りに実行されているかを評価する「プロセス評価」や短期的な成果を評価する「アウトカム評価」、⑤の段階では長期的な成果を評価する「アウトカム評価」や活動の広範な影響を評価する「インパクト評価」が行われる。(204ページ。表1参照)
●住民をはじめとする当事者にとって、評価は活動を整理し、改善し、推進するのに役立つ。また、自分たちの置かれた状況を客観的に理解し、自分たちの強みや弱みを知り、関係者全員で課題を共有することや、活動の目的を共有することにつながる。さらに、活動展開中の評価は、活動の目的を関係者間で再確認し、自分たちの活動が期待していた成果に向かって進んでいるかを把握し、うまくいっていない時には活動内容を見直し改善することにつながる。また、うまくいっている時には、自信をもって活動を継続することに結びつく。(203ページ)
●(当事者である住民と評価の専門家が協働して行う住民「参加型評価」について)源由理子は、評価のプロセスを「評価の事前準備」および「評価の設計」「データの収集と分析」「データの価値づけと解釈」「評価情報の報告と共有」の4段階に分けたうえで、「参加型評価」の基本的な流れとして、各段階で当事者がどのように評価に参加し役割を担うかを設計する手順を示している。参加型評価においては、評価の4段階すべてにおいて、住民を含めた関係者が対話・討議を行い、合意形成を行いながら進めていくプロセスが重視される。多様な関係者が一同に介し(一堂に会し)、対話と討議を行う場として評価ワークショップ、または検討会と呼ばれる場を設ける手法が多く用いられる。参加型評価に関わる専門家には、これらの対話の場において多様で対等な意見の発散・構造化・収斂(しゅうれん)を導くファシリテーターとしての技能が求められる。(206~207ページ。図1、表2参照)

「エンパワメント評価」と地域のエンパワメントの実現/菅原育子
●参加型評価のなかでも、評価における当事者の参加と、参加を通したエンパワメントを強調するのが「エンパワメント評価」である。それは、当事者が主体的に評価を行い、その過程で評価に必要な技術を取得し、評価をもとに当事者自身が活動のすべてを決定することに重点を置く点で、徹底した当事者主体の評価手法である。(207ページ)
●評価は、当事者が自分たちのためのものであると実感でき、評価を通して活動の改善や深化が達成できるときに、(当事者個人や組織・コミュニティの)エンパワメントにつながる。評価の目的を関係者で共有し、適切な評価のデザインを協議しながら決めていくことが、(住民をはじめとする)当事者の主体性を高め、エンパワメント促進につながる評価の条件である。(211ページ)

〇ここで、上述の菅原が引用する源の言説(評価論)を引いておくことにする。表1の「プログラム評価の主な焦点」、図1の「参加型評価の流れ」、表2の「参加型評価の主な作業」がそれである(源由理子編著『参加型評価―改善と変革のための評価の実践―』晃洋書房、2016年11月)。

 

 

〇ところで、「まちづくりと市民福祉教育」実践では、福祉・教育関係機関・組織などが所在する地域を基盤に、子ども・青年や大人、高齢者や障がい者、行政や関係主体など多様な実践主体によって展開され、「つながり」と「熟議」を通じた合意形成と、実践(援助・支援、活動)や運動を通じた主体形成を図ることが必要かつ重要となる。
〇その際、地域の実態・実情やそれまでの実践・運動を分析し、それを通してどのような状態・到達目標を設定するか、それに対してどのような内容・方法が有効で、どのような状態・成果が期待できるか、などについて事前に体系的に検討することが肝要となる。いわゆる「実践仮説」の設定である。
〇そして、そこに求められるのは、多様な実践主体が参加して展開される住民「参加型」評価である。上述の源によると、対話による合意形成を前提とした参加型評価では、評価対象に対する帰属意識やプログラム(課題解決をめざす活動)に対する当事者意識が高まり、結果として評価情報の共有や活用の度合いが高まることが期待される。そして、「参加型評価をとおして民主的な市民参加の場を提供することが、社会の改善や変革に貢献する」(源『前述書』19ページ)ことになる。
〇以上を踏まえて、「まちづくりと市民福祉教育」に関する住民「参加型評価」について、ひとつの「評価指標の体系」を図2(試案)に示すことにする。

 

 

〇加えて、「まちづくりと市民福祉教育」に関する総括的評価の設問を例示しておく。以下の「この活動」についてはとりあえず、コミュニティソーシャルワークの代表的な実践である地域福祉(活動)計画の策定活動とその主体である地域住民(子ども・青年や大人、高齢者、障がい者など)を念頭に置いている。

ニーズ評価 × 学習者の設定・理解
・このまちはいま、どんな問題や課題を抱えていると思っていましたか
・この活動は、社会のニーズに合っていると思っていましたか
・この活動を通してまちづくりに参加しようと思った理由はなんでしたか
セオリー評価 × 学習要求と学習必要の把握 × 学習目標と内容・方法等の選定
・この活動の目的や取り組みの内容・方法等についてどう思いましたか
・この活動に参加するにあたってなにを学びたい・学ぶべきだと思いましたか
・この活動に関する学習の目標や内容・方法等についてどう思いましたか
プロセス評価 × 実践プログラムの実施
・この活動と学習は計画通り・期待していたように実施されたと思いますか
・この活動と学習を通して住民や関係機関等のつながりが深まり・広がったと思い          ますか
・この活動と学習について、あるいはそれを通して話し合いが深まり・広がったと           思いますか
アウトカム評価・インカム評価 × 学習評価とその共有
・この活動に参加する意欲や推進する能力は高まったと思いますか
・この活動に関する学習は活動を進めるうえで役立ったと思いますか
・この活動と学習を通してまちづくりについての認識は変わったと思いますか
費用対便益・費用対効果 × 実践プログラムの改善・再計画
・この活動と学習は効果的・効率的に取り組まれたと思いますか
・この活動と学習は見直し、改善・修正する必要があると思いますか
・この活動と学習は今後も継続あるいは拡大する必要があると思いますか

〇なお、社会福祉実践プログラムにおける「参加型評価」の適用をめぐって論究したものに、藤島薫『福祉実践プログラムにおける参加型評価の理論と実践』(みらい、2014年3月)がある。参照されたい。

 

補遺
(1)タスクゴール、プロセスゴール、リレーションシップゴール
タスク・ゴールは、目的達成面からの評価で、地域の福祉課題や生活問題を具体的にどの程度解決したか、福祉ニーズに対して社会資源の提供はどの程度活用されたか、問題解決に住民はどの程度満足しているか、などを量的・質的側面から評価する。
プロセス・ゴールは、課題達成に至るまでの諸過程、手続きを重視する側面からの評価で、住民(組織)が計画から実施の過程でどういう形で参加したか、参加を通じて問題解決能力をどれだけ身につけたか、住民組織や機関の協働促進はどう進展したか、また、その主体形成力はどう図られたかなどの評価である。
リレーションシップ・ゴールは、関係面からの評価で、地域住民や当事者の声及びニーズがどの程度活動に反映し、取り入れられたか、組織活動を通して地域の民主化は進展したか、当事者などの人権は擁護されたか、地域住民の連帯感は強まったか、などを評価する。これら3つの評価視点は業務分析に当たって総合的に活用してこそ有効である。
(日本地域福祉学会編集『地域福祉事典』中央法規出版、1997年12月、229ページ)

(2)診断的評価、形成的評価、総合的評価
事前的診断的評価は、新しい課程、学年、学期、単元、授業などに入る前に、指導の参考となる各種の事前的情報を収集する目的で行う評価である。例えば、新しい学習内容を習得するのに必要なレディネスの獲得状況(知識や経験、環境などの準備状態:筆者)、新しい学習内容の予習状況、あるいは習熟度・知能・性格・興味・適性などに関する情報が収集される。
形成的評価は、従業中・授業後・小単元終了時など、ある単元の指導を進める過程で、途中で学習者の学習状況(教育目標の達成状況)を確認し、教師と学習者の双方にフィードバックし、つまずきの早期発見・早期回復を行うことにより、学力形成に利用する目的で行う評価である。
総括的評価は、課程、学年、学期、単元の終了時などに、1つ以上の単元にまたがる広い範囲について、そこでの学習成果をまとめ、成績づけに利用する目的で行う評価である。すなわち、卒業(修了)試験、学年末試験、学期末試験などが総括的評価の手段である。
(辰野千壽・石田恒好・北尾倫彦監修『教育評価事典』図書文化社、2006年6月、62ページ)

(3)「社会に開かれた教育課程」
〇新学習指導要領(小学校は2020年度、中学校は2021年度から全面実施、高等学校は2022年度から年次進行で実施)は新たに設けられたその「前文」で、次のように述べている。「教育課程を通して、これからの時代に求められる教育を実現していくためには、よりよい学校教育を通してよりよい社会を創るという理念を学校と社会とが共有し、それぞれの学校において、必要な学習内容をどのように学び、どのような資質・ 能力を身に付けられるようにするのかを教育課程において明確にしながら、社会との連携及び協働によりその実現を図っていくという、社会に開かれた教育課程の実現が重要となる」。
〇すなわち、「社会に開かれた教育課程」の理念を実現するための要件として、①社会や世界の状況を幅広く視野に入れ、よりよい学校教育を通じてよりよい社会を創るという目標を持ち、教育課程を介してその目標を社会と共有していくこと。 ②これからの社会を創り出していく子供たちが、社会や世界に向き合い関わり合い、自分の人生を切り拓いていくために求められる資質・能力とは何かを、教育課程において明確化し育んでいくこと。 ③教育課程の実施に当たって、地域の人的・物的資源を活用したり、放課後や土曜日等を活用した社会教育との連携を図ったりし、学校教育を学校内に閉じずに、その目指すところを社会と共有・連携しながら実現させること、の3つが重要であるとする(文部科学省)。
〇ちなみに、今回の学習指導要領改訂に向けての中央教育審議会答申(2016年12月)は、「社会に開かれた教育課程」の実現について次のように述べている。
●(前略)新しい学習指導要領等においては、教育課程を通じて、 子供たちが変化の激しい社会を生きるために必要な資質・能力とは何かを明確にし、教科等を学ぶ本質的な意義を大切にしつつ、教科等横断的な視点も持って育成を目指して いくこと、社会とのつながりを重視しながら学校の特色づくりを図っていくこと、現実の社会との関わりの中で子供たち一人一人の豊かな学びを実現していくことが課題となっている。
● これらの課題を乗り越え、子供たちの日々の充実した生活を実現し、未来の創造を目指していくためには、学校が社会や世界と接点を持ちつつ、多様な人々とつながりを保ちながら学ぶことのできる、開かれた環境となることが不可欠である。そして、学校が社会や地域とのつながりを意識し、社会の中の学校であるためには、学校教育の中核となる教育課程もまた社会とのつながりを大切にする必要がある。
●こうした社会とのつながりの中で学校教育を展開していくことは、我が国が社会的な課題を乗り越え、未来を切り拓ひらいていくための大きな原動力ともなる。特に、子供たち が、身近な地域を含めた社会とのつながりの中で学び、自らの人生や社会をよりよく変えていくことができるという実感を持つことは、困難を乗り越え、未来に向けて進む希望と力を与えることにつながるものである。
〇周知のように、1998年12月告示の学習指導要領に向けて1996年7月に答申された中央教育審議会第1次答申(「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」)で、「開かれた学校」が提示された。「社会に開かれた教育課程」は、その「開かれた学校」教育の延長線上にあるだけではない。学校・家庭・地域社会の連携にとどまらず、教育課程の目標やカリキュラム・マネジメント(学校が、教育目標の実現に向け、また子どもや地域の実態を踏まえて教育課程の編成・実施・評価・改善を計画的・組織的に進め、教育の質を高めること)のあり方にまで踏み込んでいる点が注目される。

阪野 貢/多様な考え方や価値観を持つ人たちとのコラボレーション ―アダム・カヘン著『敵とのコラボレーション』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、「紛争解決」「変革」「世界的」ファシリテーターなどと評されるアダム・カヘン(Adam Kahane)の『敵とのコラボレーション』(小田理一郎監訳・東出顕子訳、英治出版、2018年10月。以下[1])という本がある。サブタイトルは「賛同できない人、好きでない人、信頼できない人と協働する方法」である。かつて『手ごわい問題は、対話で解決する』(ヒューマンバリュー訳、ヒューマンバリュー、2008年10月)を著したアダムが[1]で、「対話は最大の関心事ではない」(9ページ)、「対話が最善の選択肢ではない」(182ページ)という。「協働や対話の伝道師」とも評されてきてアダムのこの言葉に、驚きを禁じ得ない。
〇[1]でアダムは、多様化・複雑化、分断化・孤立化、それゆえに「敵化(enemyfying )」(自分ではなく相手に問題の原因や責任を求め、相手を自分の敵と見なす姿勢や態度)が進む現代社会にあって、(1)サブタイトルにあるように、賛同できない人・好きでない人・信頼できない人たちと如何に協働し問題解決を図るかを提起する。(2)問題解決に際して協働や対話が必ずしも最善の選択肢ではなく、それ以外にどのような選択肢があるか、協働やそれ以外の選択肢はどのようなときに有効に機能するかについて論述する。そして(3)従来型のそれを超える新たなコラボレーション(Collaboration、協働)、すなわち「ストレッチ・コラボレーション(Stretch Collaboration)」とその実践方法(手法)について提示する(188~189ページ)。
〇上記の(1)に関して、「従来型の窮屈なコラボレーション」をめぐるアダムの言説、その一部をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

これまでのコラボレーションの想定
従来のコラボレーションの解釈は、みんながみんな同じチームの一員となって、同じ方向をめざし、こうなるべきと合意して、必ずそうなるようにし、必要なことをみんなにさせるというものだ。つまり、コラボレーションは統制下に置けるものであり、そうしなければならないという想定がある。(24ページ)

これまでのコラボレーションの難題
コラボレーションの難しいところは、前に進むためには、賛同できない人、好きではない人、信頼できない人も含め、他者と協力しなければならないが、一方、背信行為をしないためには、そういう人々と協力してはいけないということだ。この難題はますます深刻になっている。(37ページ)
(コラボレーションにおける)上位の者が下位の者を変えるという根本的に階層制に根差した前提は、誰をも自己防衛に走らせてしまう。人は変化が嫌いなのではなく、変化させられるのが嫌いなのだ。(67ページ)
コラボレーションの困難は、一つの正しい答えがあるという前提をもつことから始まる。正しい答えを知っていると確信していると、他者の答えを受け入れる余地がほとんどなくなってしまうので、協力するのがいっそう難しくなる。(72ページ)

〇現代社会の個人主義化や多様化が進み、それに伴って変動性(Volatility)、 不確実性(Uncertainty)、複雑性(Complexity)、曖昧性(Ambiguity)が増すいわゆるVUCA(ブーカ)の時代にあるなかで、従来のコラボレーションの難しさ(難題)についてアダムはいう。「従来のコラボレーションの想定は間違っている。複雑な状況で多様な人々と一緒に仕事をする場合、コラボレーションはコントロールできるものではないし、そうする必要もない」(24ページ)。「従来のコラボレーションは時代遅れになってきている」(77ページ)。「慣れていて、安心感があるから、うまくいくと知っているからという理由で、従来型コラボレーションを採用してしまうと、むしろ敵化が増大し、状況をさらに手に負えなくしてしまう」(78ページ)。そこでアダムにあっては、非従来型のアプローチによるコラボレーション、すなわちコントロールせず、実験しながら共に学び前進する方法(「合意なき前進」を可能にする方法)を採用する必要がある。それは、「従来型コラボレーションを包含し、またそれを超えるストレッチ・コラボレーション」(92ページ)である。
〇上記の(2)に関して、「問題の複合する状況に対する4つの対処法」をめぐるアダムの言説、その一部をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

問題の複合する状況に対応する4つの選択肢
問題の複合する状況に直面しているときは常に、4通りの反応、すなわちコラボレーション、強制、適応、離脱の選択肢がある。常にこの4つの選択肢から選ぶ必要がある。(53ページ)
コラボレーションを試みるのは、置かれている状況を変えることを望み、かつ他者と協力して(多方向的に)変える以外に変化を実現する方法がないと考える場合だ。
コラボレーションのプラス面(チャンス)は、他者と協力して、より効果的な打開策を見つけ、今の状況にできるかぎり大きく、持続的な影響を及ぼす点にある。しかし、コラボレーションは特効薬ではない。そのマイナス面(リスク)は、実り少なく、遅々として進まない。大幅に妥協する、相手側に取り込まれる、自分たちにとって最も重要なことを裏切るという結果になることだ。(53~54ページ)
強制を試みるのは、今の状況を他者と協力せず(一方的に)変えるべき、あるいは変えられるかもかもしれないと考える場合だ。
強制のプラス面は、それが多くの人にとって自然で習慣的な考え方と一致するという点にある。マイナス面は、自分たちがなすべきだと考えていることを押し通そうとすれば、違う考えの人たちに押し返され、それによって意図する結果を達成できないことだ。(54、56ページ)
適応を試みるのは、今の状況を変えられないから、それに耐える方法を見つける必要があると考える場合だ。
適応のプラス面は、変えられないものを変えようとすることにエネルギーを費(つい)やさずに何とか生きていける点にある。マイナス面は、身を置いている状況が過酷だと適応できなくなり、生き残るだけで必死という事態になることだ。(56~57ページ)
離脱を試みるのは、今の状況を変えられず、もはやそれに耐える気もないという場合だ。離脱が簡単で気楽な場合もあれば、自分にとって重要な多くのことをあきらめなければならない場合もある。(57ページ)

〇アダムにあっては、複雑化・複合化した問題を解決する方法には、「コラボレーション」「強制」「適応」「離脱」の選択肢がある。多くの人は、人間が関係的・依存的存在であることから、コラボレーションを定番の・最善の選択と考えがちであるが、選択肢のひとつに過ぎない。コラボレーションの選択は、「力」という実用的な観点から言えば、「それが目標を達成する最善の方法である場合」に限られる。「一方的な選択である強制と適応と離脱が不可能で、受け入れ難い場合」に、多方向的な選択であるコラボレーションを選ぶことになる。「関係者の力が互角で、誰も意志を押しつけられない場合」のみコラボレーションが選択されるのである(58ページ)。
〇上記の(3)に関して、「ストレッチ・コラボレーション」をめぐるアダムの言説、その一部をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

新しいコラボレーションの方法―3つのストレッチ―
(これまでとは違ったコラボレーションの推進を図るためには)従来のコラボレーションの概念を引き伸ばし(視野の広い考え方を持ち)、根本的に取り組み方を変えること(「ストレッチ」)が求められる。
第1に、他の協働者(コラボレーター)との関係について、チーム内の共有目標と調和を重視するという狭い範囲に集中することから抜け出し、チーム内外の対立とつながりの両方を受け入れる方向に広げていかなければならない。
第2に、取り組みの進め方について、問題、解決策、計画に対する明確な合意があるべきと固執することから抜け出し、さまざまな観点や可能性を踏まえて体系的に実験する方向に広げていかなければならない。
第3に、状況にどう関与するか、すなわち私たち自身が果たす役割について、他者の行動を変えようとすることから抜け出し、自分も問題の一因であるという意識で状況に取り組み、自身を変えることを厭(いと)わない方向に広げていかなければならない。(25~26ページ)

「関わること(つながり)」と「主張すること(対立)」―その相補性―
調和のとれた(「愛」すなわち「統一の衝動」による)関わりは受け入れるが、調和しない(「力」すなわち「自己実現の衝動」による)主張(競争、論争、運動、訴訟など)は拒否する。これを続ければ最後には自分たちが問題解決に取り組んでいる社会システムを窒息させることになる。(106、110~111ページ)
従来型コラボレーションは関わることに重きを置き、そのために主張する余地がないから、コラボレーションが硬直化して弾力性を失い、壊れやすくなる。麻痺状態に陥り、行き詰まる。それとは対照的に、ストレッチ・コラボレーションは、関わることから主張することへ、またその逆へと生成的に循環し、社会システム――家族、組織、国家など――をより高いレベルへ進化させる。(119ページ)
関わることが屈服をもたらし、相手を操作する恐れがあるなら、主張を促進するときだ。主張することが抵抗をもたらし、相手に強要する恐れがあるなら、関わりを促進するときだ。大切なのは、静的なバランスの位置を保つのではなく、動的なアンバランスに気づき、それを修正することなのだ。(ストレッチ・コラボレーションに求められる)関わることと主張することの両方を使うスキルとは、注意を怠らず、勇気をもって必要なら逆方向に動けるようにすることだ。(121ページ)

〇「3つのストレッチ」は要するに、①「対立や偽りのない関係をオープンに受け入れること」(多様性を受け入れること)、②「うまくいかないかもしれない不慣れな新しい行動をやってみること」(試行錯誤すること)、③「現状に対する自分の役割と責任を引き受けること」(我が事にすること)、である(83ページ、丸括弧内は筆者)。換言すれば、①「多様な他者と協働するときは、一つの真実、答え、解決策への合意を要求できないし、要求してはならない」こと(同じ方向をめざす必要はない)、②コラボレーションの成功とは、参加者が互いに賛同するとか信頼するということではなく、「行き詰まりから脱して、次の一歩を踏み出すこと」(それぞれの解決策を試みる)、③誰かに、何かをさせるのではなく、「自分の役割と責任を見つめ、認めて、自分の仕事を進めていくこと」(共創者として自分にできることを行う)、となろう(76、135、161ページ、丸括弧内は筆者)。
〇以上のうち、第3のストレッチ(③)はアダムにあっては、「最大のストレッチ」である。その状況・事態(「舞台」)に自分の身を置き、行動すること(「ゲーム・フィールドに足を踏み入れること」)は、傍観者ではいられないし、他責にすることもできない。それは、「隔たりと行動の自由が減り、つながりと対立が増えるということであり、スリルや怖さを感じることにもなりえ」(153ページ)、「快適ではない」(81ページ)。そうしたなかで、ストレッチ・コラボレーションの参加者(共創者)には如何なる姿勢や態度が求められるか。アダムは次のようにいう(抜き書き)。

目標は、非の打ちどころのないコラボレーションをすることではなく――社会活動では、そんなことは不可能だろう――自分のしていること、自分が及ぼしている影響への自覚を高め、より迅速に行動修正し、学べるようになることだ。ストレッチを学ぶときに直面する第一の障害は、習慣的な物事のやり方の慣れ親しんだ快適さに打ち克つことだ。「こうあらねば」という平叙文から「こうもできそうだ」という仮定文に移行する必要がある。ストレッチ・コラボレーションでは、異質な他者(賛同できない人、好きでない人、信頼できない人)から遠ざかるのではなく、そういう人に向かっていくことが求められる。敵は最大の師になりうるのだ。(180、181ページ)

〇異質な他者と正面から向き合い、「関わること」と「主張すること」(「関与」と「敵対」、「愛」と「力」)はアダムにあっては、「複雑な問題を進展させるための手段として対立するものではなく、補完し合うもの、どちらも正当で必要なもの」(102ページ)である。アダムの主張の要点のひとつである。

阪野 貢/「コミュニティ・オーガナイジング」考―そのプロセスとステップ―

〇筆者(阪野)の手もとに、「コミュニティ・オーガナイジング」に関する本が2冊ある。マシュー・ボルトン著/藤井敦史(ふじい・あつし)ほか訳『社会はこうやって変える!―コミュニティ・オーガナイジング入門』(法律文化社、2020年9月。以下[1])と鎌田華乃子(かまた・かのこ)著『コミュニティ・オーガナイジング―ほしい未来をみんなで創る5つのステップ』(英治出版、2020年11月。以下[2])がそれである。
〇[1]は、「現状に怒りを覚え、それに対して何かをしたいと考えている人、社会システムに不満を抱いている人、国の行く末に不安を覚えている人のためのもの」であり、「自分の信じていることに対してどのように変化を生み出していくことができるかについて書かれている」(1ページ)。[2]は、「世の中のできごとに『何かがおかしい』と思ったり、暮らしている地域の問題に気づいたり、今の日本社会や政治の状況にもやもやしたものを感じたりしている人に、少しでも、その状況を変えられるかもしれない、と思ってもらうために」(1ページ)書かれたものである。[1]と[2]はともに、「コミュニティ・オーガナイジング」の手法や本質について具体例を交えながら解説(説述)し、それを通して「社会を変える」「ほしい未来をみんなで創る」プロセスや方法を解き明かす。
〇[1]における基本的な概念のひとつは、「パワー」と「自己利益」である。「パワー」についてボルトンはいう。社会の変革と民主主義の刷新を図るためには、日常的な生活における「パワー」(課題を解決する能力、影響力を発揮する能力)が必要不可欠である。市民は誰もが、何らかのパワーを持っている。市民は、正義や道徳的正しさを振りかざして政治や社会に対する批判や糾弾に終始したり、限定的で象徴的な抗議活動や政治運動を展開したりするのではなく、自らのパワーの形成・向上に努めなければならない。その際、権威や権力、組織や資金などを持たない多くの市民にとっては、異質な人々や団体・組織などとの関係性(信頼関係、協働関係)を構築・拡大することが肝要となる。そこにパワーが生み出される。そして、社会変革は、「小文字の政治」(政府レベルでの意思決定をめぐる『大文字の政治』ではなく、ローカルな領域で共通の課題をめぐってなされる市民間の協議や意思決定)によって可能となる(27ページ)。
〇「自己利益」についてボルトンはいう。社会変革への市民参加は、自分の利益を度外視したものではなく、先ずは個人的で具体的なニーズや動機による「自己利益」に基づく。その個人的な利益は他の人々との個人的な利益と結びついており、そこから自己利益の共通部分すなわち公共的な利益が見出されることになる。そして共有された自己利益が他者や団体・組織などとの関係性と、それに基づくパワーを創り出す。共通の自己利益によって、「人々は、偏見のバリアを越えて、連携することができ」、それが「健全な民主政治のために必要とされる幅広い連帯感情の基盤」となるのである(41ページ)。要するに(平易に言えば)、社会を変えるためには関係性に基づく市民の力(パワー)が必要であり、自己利益につながっている課題こそが市民の行動やアクションを促す。これがコミュニティ・オーガナイジングの起点となる考え方である。
〇ボルトンは、コミュニティ・オーガナイジングのプロセスについて次のように述べる。図1は、「コミュニティ・オーガナイジングのプロセス」を表示したものである。

もし変化を望むのならば、パワーが必要だ。共通の利益をめぐって、他の人々との関係を通してパワーを構築するのだ。そして、共通に直面している大きな(抽象的な)問題を(解決可能な)具体的課題に分解し、必要な変化を作り出せるパワー(権力、影響力)を持っている意思決定者が誰なのかを特定することが重要である。それから、意思決定者の反応(リアクション)を引き出すアクションを起こして、彼らとの関係を構築する必要がある。もし、彼らが変化を実行することに同意しないのであれば、アクションのレベルを上げるか、より創造的な戦術を駆使することになる。そして、実践しながら学び、徐々に小さな成功体験を積み重ねながら、より大きな課題に対する準備を進めていく。こうした戦略を可能にするために、コミュニティ・オーガナイジングと呼ばれるアプローチを構成する一連のスキルやツールが存在している。(3~4ページ。丸括弧内は筆者)

〇以上が、[1]におけるボルトンのコミュニティ・オーガナイジング論から筆者が押さえておきたい論点や言説である(パワーとアクションに関する実用的なスキルやツールについては省略)。社会変革を生み出すためのコミュニティ・オーガナイジングの方法、その原則についてボルトンはいう。「正義は、それを実現するパワーがある時だけ手にすることができる」(24ページ)、「自分でできることをしてあげてはならない」(120ページ)。別言すれば、「正義を追求・実現するためにはパワーが必要である」、「他の人の能力を高める・自分でできることは自分でする」、それが社会を変えるのである。そしてボルトンは、「コミュニティ・オーガナイジングの文化は個人の絶望や挫折を集団的な怒りや変化へのパワーへと変えることを目的としている」(132ページ)と述べる。核心の一言である。
〇[2]は、世の中の出来事について「仕方がない」と諦めてしまうのではなく、「仕方がある」ことを知って社会を変えていく方法論、すなわちコミュニティ・オーガナイジングについて解説する。それは、鎌田にあっては、「仲間を集め、その輪を広げ、多くの人々が共に行動することで社会変化を起こすこと」(1~2ページ)と定義づけられる。
〇[2]で注目すべきは、コミュニティ・オーガナイジングの「5つのステップ」である。その要点をメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。ページ表記省略)。図2は、「コミュニティ・オーガナイジングのステップ」を表示したものである。

(1)共に行動を起こすためのストーリーを語るパブリック・ナラティブ
まず自分自身のナラティブ(物語)を語ることによって自分の想い(私のストーリー)を他者に伝え、それを他者と共有して一体感(私たちのストーリー)を作り出し、共有した価値観のもとで、いま共に行動する必要性や理由(行動のストーリー)について語る。
(2)活動の基礎となる人との強い関係を作る関係構築
ひとつひとつのアクションを振り返り(すなわち学びながら行動し)、それぞれが持つ関心や資源を交換し、そのためにも一対一(フェイス・トゥ・フェイス)の対話を重視することによって価値観を共有し、人との強いつながりを作る。
(3)みんなの力が発揮できるようにするチーム構築
多様性に富んだメンバーで共有する目的を作り、みんなの約束事(合意事項)を設定し、相互依存に基づく役割を明確にすることによって計画したゴールが達成され、チームワークが向上し、活動に参加しているメンバー個人が成長するチームを作る。
(4)人々の持つものを創造的に生かして変化を起こす戦略作り
①一緒に立ち上がる人(同志)は誰か、②ほしい変化(戦略的ゴール)は何か、③どうしたら持っているものを必要な力(問題解決能力)に変えられるか、④戦術(戦略を具体的に実行する手段)は何か、⑤(時間枠のある)行動計画は何か、に応える効果的な戦略(方向性・シナリオ)を立てる。
(5)たくさんの人と行動し、効果を測定するアクション
小さなことから安心して・安全にチャレンジできる場を用意したり、多様な視点や意見を出し合って自由闊達に議論できる場を設定したりしてリーダーシップ(他者と関係を作り、他者の力を引き出し、他者を動かす能力)を育み、よりたくさんの人をアクションに誘うとともに、一連の行動やプロセスを振り返る。

〇こうした「5つのステップ」(実践)を支えるのは、「コーチング」である。鎌田はいう。コーチングは、①より前向きに仕事に取り組むために行う。②成果を達成するための資源の使い方を分析・評価できるようにする。③知識やスキルを強化するために行う、のである。そして、コーチングを受けることによって、またチームメンバー同士がコーチングすることによって、主体的に動けるリーダーや自分で考えて行動できる人が育っていく(231ページ)。
〇以上が、[2]における鎌田のコミュニティ・オーガナイジング論の骨子である(具体的な方法や手法については省略)。その基本的な考え方は至ってシンプルである。自分たちが暮らす地域・社会を自分たちの選択と行動によって創造あるいは変革する(より健全な市民社会を創る)ためには、人々の間に関係性を作り、草の根のリーダーシップを育て、共に行動する(コミュニティを作る)ことが肝要となる。そしてそこでは、解決や変化を求めて「行動する人」(コミュニティ・オーガナイザー)の育成・確保が問われる。その際のコミュニティ・オーガナイザーとは、「困難に直面している人たちをオーガナイズ(組織化)して、その人たちの持っているものを使って、パワーを作り出し、問題の解決を促す人のこと」(63~64ページ)をいう。
〇「困難を抱える人々が変化の源」(63ページ)である。一般市民がアクション(活動や運動)を起こして社会変革を促す。そのための方法や行動である「コミュニティ・オーガナイジングを日本社会にも広めていかなければならない」(4ページ)。これが鎌田の考えや願いである。「まちづくりと市民福祉教育」について探究する筆者のそれと通底するところでもある。
〇改めて強調しておきたい。「コミュニティ・オーガナイジングは、いつも次の質問から始まる。あなたは何に怒りを覚えるのか」([1]18ページ)。「人を行動(コミュニティ・オーガナイジング)に動かす原動力は『怒り』である」([2]92ページ)。

阪野 貢/「まちづくりと市民福祉教育」再考―新たな福祉教育の理論研究を求めて―

〇筆者(阪野)は、『ワンポイントメモ35+3 まちづくりと市民福祉教育―視点と論点―』、『ワンポイントメモ23+3 日本社会・まちづくり・教育づくり―視点と論点―』、『ワンポイントメモ13+3 まちづくりと教育づくり、周辺領域からのアプローチ―視点と論点―』(市民福祉教育研究所、2022年6月、追補版 2022年7月)をブログにアップした。過去の244本の記事(拙稿)から80本を選択し、3分冊に集成したもの(電子書籍?)である。
〇早速、海外の読者を含め、熱心なブログ読者から複数のメールが届いた。ひとりの盟友からはありがたい、また厳しい内容のものをいただいた。感謝である。あえてその一部(総評的な一文)を記しておくことにする。

●読破された本とそれに基づくテーマのボリュームに圧倒されました(本の紹介とテーマの表示が狙いなのでは?)。貴兄の10年余にわたるこうした努力に敬服します。10年間は当然必要とする内容だと思いました。貴兄の知識や経験から語られる啓発的で、議論の呼び水的な内容は、ブログを読む若い人には魅力的で刺激的だと思います。ますますの健筆を期待します。
●相変わらず、難しい論考です。「当事者論」に関連して言えば、貴兄の文章は、完全に男性による福祉教育論ですね。今日的に言えば、なぜジェンダーやセクシャリティ、ダイバーシティの問題が取り上げられないのか。不思議に思います。フロイドをはじめとした男性心理学者が今日的に手厳しく批判されているのをもちろんご存じだと思います。心理学だけでなく、歴史学、医学、社会学、そして貴兄の福祉教育論も男性史観ですね。
●「障碍者論」に関連して言えば、「青い芝の会」のことが詳しく出ていますが、当時あの運動(川崎バス闘争:1977年~1978年)の発端となった川崎市営バスを通学等で利用していたものとして懐かしく読ませていただきました。横田弘が「闘争」という言葉に「ふれあい」というルビを振ったことを思い出しながら、一人の人間の疑問や私憤によって世の中を変えることができた例が少なくないことを改めて認識しています。貴兄が福祉教育に期待するところでしょうか。
●貴兄は「まちづくり」に関して批判的思考と社会変革を強調されますが、批判力と変革力はつながるものなのか、延長線上なのか、よくわかりません。また、教育概念でくくられた「福祉教育」と主体形成論の「福祉教育」が私のなかでは結びつきません。さらに、貴兄が多用される「市民」はひとつの理念であり、理想的な目的概念ですから、実在するヒトではありません。そう考えると、貴兄の福祉教育論のキー概念である「市民福祉教育」を「市民・福祉教育」として捉えれば、私のなかでは一つひとつの論考への違和感が少なかったかな、という感じです。

〇福祉教育学界では、教育方法・技術論的な観点からの研究は盛んであるが、福祉教育の本質に迫る理論的・歴史的かつ哲学的論考はいまだに少ない。そうした福祉教育研究の現状と課題、その背景(要因)を明らかにするとともに、福祉教育実践・研究の新たな展開の方向性と可能性を探ることが、いま、改めて求められている。それに応えるためには、多面的・多角的な視座に基づく福祉教育理論の構築や刷新に関する総合的な研究が肝要となる。それは、歴史的視点や哲学的思考を大事にしながら、如何にして理論と実践の往還・融合の具現化を図るかを探究するものでなければならない。
〇福祉教育の理論研究に関して一言しておきたい。理論研究に関してまず押さえておくべきは、大橋謙策と原田正樹のそれである。大橋の『地域福祉の展開と福祉教育』(全国社会福祉協議会、1986年9月。以下[1])と『地域福祉とは何か―哲学・理念・システムとコミュニティソーシャルワーク―』(中央法規出版、2022年4月。以下[2])、原田の『共に生きること 共に学びあうこと―福祉教育が大切にしてきたメッセージ―』(大学図書出版、2009年11月。以下[3])と『地域福祉の基盤づくり―推進主体の形成―』(中央法規出版、2014年10月。以下[4])に注目すべきである。衆目の一致するところであろう。
〇大橋は[1]で、「本書は学術論文というよりも実践的研究書である」(ⅳページ)、「筆者の問題関心は、教育と福祉における“問題としての事実”に学びつつ、問題、課題をどう実践的に解決するのかという点にある」(ⅳページ)、「『地域福祉を推進する住民の主体形成』を意図的に行う営みが福祉教育である」(ⅲページ)という。「実践的研究書」という一言が、筆者の福祉教育実践・研究の起点となっている。具体的には、1990年4月からの狛江市社会福祉協議会における福祉教育実践(あいとぴあカレッジ、福祉えほん・幼児のあいとぴあ)を嚆矢とする。それは、拙稿「地域における福祉教育の計画と学習プログラム」(『日本の地域福祉』第5巻、日本地域福祉学会、1992年3月)として纏められている。
〇原田は[3]で、「福祉教育を通して育みたい力は『共に生きる力』である。個人のなかで完結する生きる力だけではなく、他者と共に生きることができる力を大切にする。そのために、私たちはいのちや他者、そしてその生活基盤である地域について考えてみることが、まず福祉教育をとらえるスタートである」(11ページ、語尾変換)という。障がい者施設で介護職員として働いたことに基づく原田の、地域共生教育としての福祉教育論の出発点である。筆者が原田の理論研究について、感性的・理性的・主体的認識(一番ヶ瀬康子)の確かさと豊かさを痛感することにつながる点でもある。
〇大橋の[2]は、「50年間の実践的研究を振り返りながら、地域福祉の考え方をまとめたもの、地域福祉についての集大成」である。そこには「補論」として、「戦前社会事業における『教育』の位置」と「福祉教育の理念と実践的視座」と題する論考が収録されている。それはともに、36年前の[1]に収録されているものでもある。とりわけ「福祉教育の理念と実践的視座」は、その歴史的・社会的背景に留意しながら、今後の福祉教育の理論研究において立ち返るべきひとつの原点である。
〇原田の[4]は、「地域福祉計画づくりを中心とした地域福祉実践の分析であり、地域福祉の主体形成に関わる地域福祉実践研究法に関する著書」(大橋謙策「推薦の辞」)である。原田は、「大橋先生が『地域福祉の展開と福祉教育』を上梓されたのが1986年である。本書の内容(構想)は、その今日的な続編でありたいと考えた」(231ページ)という。そこに、大橋-原田の師弟関係を超えた、研究者としての真摯な姿勢を見る。
〇[1]と[4]の次に求められるのは、大橋と原田の理論研究に批判的検討を加えながら、その特徴、有効性と限界、歴史的・現代的意義などを明らかにする。そして、それを通して福祉教育の原理や哲学、理念、歴史、対象、機能、展開方法、存在意義などの根源的な課題を解く、新たな理論研究であろう。その際、科学一般に求められる特性と、福祉教育研究に固有の研究方法すなわち固有の分析視点や枠組み、手順と手続き、言語体系、そして記述の方法(古川孝順)などが問われることになる。そこではじめて、実践の学・課題解決の学としての「福祉教育学」の構築の方向性が見えてくる。若い実践者や研究者に期待するところである。

阪野 貢/村田紗耶香が述懐する「個性」と「多様性」―その言葉の暴力性―

〇芥川賞作家の村田紗耶香(むらた・さやか)の最新刊『信仰』(文藝春秋、2022年6月)を読んだ。6編の短編小説と2編のエッセイが収録されている。エッセイのひとつ「気持ちよさという罪」では、「個性」と「多様性」という言葉との出会いや、そのときの率直な思いが述懐され、その言葉の暴力性が述べられる。メモっておくことにする(抜き書き)。

●確か中学生くらいのころ、急に学校の先生が一斉に「個性」という言葉を使い始めたという記憶がある。今まで私たちを扱いやすいように、平均化しようとしていた人たちが、急になぜ? という気持ちと、その言葉を使っているときの、気持ちのよさそうな様子がとても薄気味悪かった。(中略)「さあ、怖がらないで、みんなももっと個性を出しなさい!」と言わんばかりだった。そして、本当に異質なもの、異常性を感じさせるものは、今まで通り静かに排除されていた。(110ページ)
●当時の私は、「個性」とは、「大人たちにとって気持ちがいい、想像がつく範囲の、ちょうどいい、素敵な特徴を見せてください!」という意味の言葉なのだな、と思った。(中略)「個性」という言葉のなんだか恐ろしい、薄気味の悪い印象は、大人になった今も残っている。(111ページ)
●大人になってしばらくして、「多様性」という言葉を最初に聞いたとき、感じたのは、心地よさと理想的な光景だった。例えば、(中略)仲間同士の集まりで、それぞれいろいろな意味でのマジョリティー、マイノリティーの人たちが、互いの考え方を理解しあって、そこにいるすべての人の価値観がすべてナチュラルに受け入れられている空間。発想が貧困な私が思い浮かべるのは、それくらいだった。(111~112ページ)
●私はとても愚かなので、そういう、なんとなく良さそうで気持ちがいいものに、すぐに呑み込まれてしまう。だから、「自分にとって気持ちがいい多様性」が怖い。「自分にとって気持ちが悪い多様性」が何なのか、ちゃんと自分の中で克明に言語化されて辿り着くまで、その言葉を使って快楽に浸るのが怖い。そして、自分にとって都合が悪く、絶望的に気持ちが悪い「多様性」のこともきちんと考えられるようになるまで、その言葉を使う権利は自分にはない、とどこかで思っている。(112ページ)
●私がついていけないくらい、私があまりの気持ち悪さに吐き気を催すくらい、世界の多様化が進んでいきますように。今、私はそう願っている。(117ページ)

〇以上の文章から筆者(阪野)は、例えばいまだに主要な福祉教育実践(プログラム)とされる「車椅子体験と障がい者との交流」について、「障害と個性」や「分離と統合」「排除と共生」「多様性と包摂」などの言葉とともに、その “ ぎこちなさ ” や “ 危うさ ” に思い至る。また、これまでの福祉教育プログラムは、子どもたちやマジョリティ(多数派)に属していると思っている(思わされている)人たちに、「気持ちよさという罪」を負わせてきたのではないか、と疑心暗鬼になる(自責の念に駆られる)。付記しておきたい。

阪野 貢/排除と包摂:主体的営為としての「包摂」を考える ―倉石一郎著『教育福祉の社会学』のワンポイントメモ―

〇筆者の手もとに、倉石一郎(くらいし・いちろう、教育社会学専攻)の本が2冊ある。『包摂と排除の教育学―戦後日本社会とマイノリティへの視座―』(生活書院、2009年11月。以下[1])と『教育福祉の社会学―〈包摂と排除〉を超えるメタ理論―』(明石書店、2021年6月。以下[2])がそれである。[1]で倉石は、「包摂」を「それまで教育が関心の埒外(らちがい)においやっていた存在に『今さらながら』関心のまなざしを向け、それに対して何らかのはたらきかけを開始すること」(9ページ)と定義づける。そして、在日朝鮮人教育や高知県の「福祉教員」制度(同和教育)をめぐる言説や実践を実証的に明らかに、「包摂」を探求する。[2] で倉石は、「教育福祉」の「メタ理論」を探究する。その際の「教育福祉」は、「貧困や排除の克服を目的に立ち上げられた教育政策や制度、あるいは官民両方におよぶ社会事業的改善策の展開」を総称する。その第一義的な目的は、「学校からの排除に直面している子どもや家族等が被(こうむ)っている種々の不利益や剥奪(はくだつ)が軽減されるような支援を、主として教育の場でおこなうこと」にある。「メタ理論」(ある理論の前提となる理論:筆者)とは、「教育福祉をめぐる個別の経験的研究が参照すべき道しるべ」となる事例横断的な「理論軸」をいう(9ページ)。
〇本稿では、[2]における「包摂と排除」に関する論点や言説を取りあげる。倉石はまず、包摂と排除をめぐる「同心円モデル」という思考図式について説き、その問題性を指摘する(以下のページ表記はすべて[2]のそれである)。
〇「包摂と排除の同心円モデル」において「排除」とは、「中心に経済システムが位置し、周辺に政治、法、教育、福祉システム等が配置されている」現行の社会システムに、「十全に参加しえず、恩恵をこうむることができない立場(状態)」にあることをいう(10ページ)。「包摂」はその逆で、居ながらにして(そのままの状態で)、そのシステムの恩恵をこうむることができる立場(状態)にあることをいう。この「包摂と排除の同心円モデル」においては、排除の状態が先にあり、それへの対処策として事後的に包摂がなされる(排除が先で、包摂が後にくる)という「時間的序列」を考える。とともに、排除が悪で、包摂が善であるという「価値序列」を考える(20ページ)。倉石にあっては、この「時間的序列」と「価値序列」は、素朴で日常知に近い単線思考であり、包摂に潜むパターナリズム(「あなたのため」という根拠・理由によって介入・干渉あるいは支配すること:筆者)の問題などが見過ごされたりする。そしてなによりも、「包摂と排除の同心円モデル」には、包摂「される」側の主体性が看過されているという致命的な欠陥がある(103ページ)。
〇次いで倉石は、「包摂と排除の同心円モデル」思考に対して、より適切なものとして「包摂と排除の入れ子構造」論を対置(提起)する。それは、「包摂のなかに排除が、また逆に排除のなかに包摂が宿されているという認識を骨子とする議論」である。すなわち、「包摂と排除はそれ単独では成立せず、互いに他をともなうことでようやく完結をみる」、「排除と包摂は互いに他を必要とする」(20ページ)という考え方である。そこでは、包摂の進展が排除を促進・高度化し、逆に排除の進展が包摂を促進・完全化する、という図式がみられる。要するに、包摂と排除は、「対立しあう相克的関係」(30ページ)にあるのではなく、「相互参照的なもの」(45ページ)である。
〇さらに倉石にあっては、「入れ子構造」論にも問題がある。排除の通俗的なイメージには最初から、社会の周辺部や外部に追いやられていることが含意されている、というのがそれである。こうした思考から解放されるためには、「創発的包摂」概念が肝要となる。「創発的包摂」について倉石はいう。「創発的包摂」とは、「既存の秩序により多数の他者を取り込むのでなく秩序を『中断』させ変形させるものとしての包摂」(105ページ)を意味する。別言すれば、ソーシャル・マイノリティの人びとが、現存する秩序に単に包摂されたいと願うのではなく、共生社会の形成者として、新しい行動や生活の仕方が可能になような方法でその秩序を作り直すことが肝要である、ということである。その点において、「創発的包摂」は、専門家・専門職との調和的関係を前提とするが、当事者の意向が最優先される「主体的営為としての包摂」(103ページ)である。
〇およそ以上が筆者が読み取った、[2]における倉石の言説、そのワンポイントメモである。その点から福祉教育に関して一言すれば、福祉教育はこれまで往々にして、高齢者や障がい児・者などに関する「排除と包摂」の観点から福祉教育の理念や実践・研究のあり方を問いがちであった。例えば、排除(悪)への対処策として包摂(善)が位置づけられ、「社会的包摂に向けた福祉教育」「共生社会をめざした排除のない地域づくりと福祉教育」といったことが理念的・総論的、あるいは二項対立的に語られてきた。この発想は、倉石の言説に依れば再検討が要請される。また、福祉教育では、マイノリティの包摂が「多様性」についての理解に留まったり、包摂の進展を図るマイノリティ側の主体性・自律性、あるいは主導性に十分に関心を払ってこなかった。場合によっては意図的に「無頓着」でもあった、といえば言い過ぎであろうか。包摂という営為は誰かによってなされる(受動的な)ものではなく、排除されている当事者本人が主体的・自律的に、そしてまた共働的になす(能動的な)ものである。またそれは、形式的なものではなく、確かに・豊かに「生きる」ことの内実が伴うものでなければ意味をなさない。そうした前提に立てば、そこにこそ福祉教育のあり方が厳しく問われることになる。
〇周知のように、戦後の学校教育法体制(1947年4月施行)の最大の特徴は、「障がい児をひとまず他の一般の子どもと同様、就学義務制度の対象として位置づけたこと」(29ページ)にある。障がい児の公教育への「包摂」である。しかし、その体制整備は先送りされ、就学に困難をきたす子どもには就学猶予・免除制度が適用されることになる。障がい児の普通教育からの「排除」である。その後、遅ればせながら1979年4月に「養護学校」が義務化され、形式的には障がい児の教育機会が保障されることになる(包摂)。また、2007年4月には「特殊教育」が「特別支援教育」、「特殊教育諸学校」(盲学校、聾学校、養護学校)が「特別支援学校」に名称変更される。さらに、2012年7月の中央教育審議会報告を受けて、共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システムの構築とそのための特別支援教育の推進が図られることになる。これらは、「分離教育」から「統合教育」、そして「インクルーシブ教育」への変遷(過程)として捉えることができる。しかし、基本的には能力主義教育政策に基づく分離・別学体制が堅持されている(排除)。
〇こうした障がい児教育政策に対して、特別支援学校に在籍する子どもの数が増加傾向にあるなかで(特別支援学校在籍者数:2010年12万1,815人、2015年13万7,894人、2020年14万4,823人)、福祉教育はどのような立ち位置から、どのように(理論的・実践的に)振る舞ってきたのか。いま改めて根本的な科学的理解と検証をおこない、それに基づいて理論と実践の見直しと再構築を図ることが求められる。相変わらず分離・別学体制を所与のものとして受け容れ、障がい児・者に対する「思いやり教育」「共生教育」としての福祉教育の実践・研究が展開されるなかで、そのあり方が厳しく問われている。
〇唐突ながら、いま、「福祉教育・ボランティア学習を軸とした福祉でまちづくり」に熱心に取り組んできた(いる)社協のコミュニティソーシャルワーカー(坂本大輔)の言葉を思い出す。その言葉が胸に突き刺さる。「福祉教育に関して研究者や実践者の意識は薄れてきているのではないか」。それに関して、福祉教育実践・研究者(鳥居一頼)はいう。「貧しいとか、苦しいとか、障がいがあるとかという以前に、この世に生まれ育ち、『生きる』(二重かぎ括弧は筆者)ということに対して、子どもに対してのまなざしを私たちはどれだけ熱くしていけるのか」が問われる。胸に刻んでおきたい(『ふくしと教育』第33号、大学図書出版、2022年8月、34、41ページ)。

阪野 貢/経済学者が説く「コミュニティの再生」:警鐘と提言 ―ラグラム・ラジャン著、月谷真紀訳『第三の支柱』のワンポイントメモ―

〇筆者の手もとに、ラグラム・ラジャン著、月谷真紀訳『第三の支柱―コミュニティ再生の経済学―』(みすず書房、2021年7月。以下[1])がある。ラジャンは、インド出身の経済学者で、シカゴ大学教授である。[1]でラジャンはまず、社会を支える三本の支柱である国家(state)と市場(market)とコミュニティ(community)について、「ざっくり」と定義づける。国家は「一国の政治統治構造」であり、市場は「経済において生産と交換を促進する民間経済構造(の)すべて」をいう。そしてコミュニティは「規模を問わず、メンバーが特定の地域に住み、統治を共有し、共通の文化的および歴史的遺産を有することが多い社会集団」である、とする(xivページ)。
〇そのうえでラジャンは説く。社会の繁栄にとって、国家と市場とコミュニティはその均衡を保つことが重要である。近代以降、国家と市場がコミュニティの権限や機能を侵食し、コミュニティが縮小・衰退するなかで、三本の支柱のバランスが崩れてきた。とりわけ1970年代前半以降、ICT(Information and Communication Technology、情報通信技術)革命や経済のグローバル化(globalization、地球規模化)なとが進展するなかでその不均衡が深刻化し、今日、社会は危機的状況にある。これがラジャンの主張である。
〇危機的状況を平易・簡潔に言えば、技術革命によって能力の高い者は、新技術に適応して高所得を得、より裕福で健全なコミュニティに移住する。その一方で、適応能力の低い者は失業や家庭・生活環境の悪化に見舞われ、衰退するコミュニティに取り残される。また、グローバル化は、地域産業を衰退させ、それに依存していたコミュニティは縮小スパイラルに陥る(xxページ)。そういうなかでラジャンにあっては、[1]における中心課題は、「三本の支柱の均衡をいかに回復し、進行中の破壊的技術変化と社会変化に対峙するか」(xiiiページ)である。また、「貧しいコミュニティは優秀な人材を(いかに)つなぎとめつつ、その場所で発展する方法を探す」(xviiページ)かが重要な課題となる。
〇こうしたコミュニティの衰退(機能不全)は、所得分配の二極化を促し、社会階層の格差の拡大と固定化をもたらす。とともに、疎外された個々人は孤立し、帰属欲求の捌け口(はけぐち)を政治的ポピュリズム(特権的なエリート層に対抗する「大衆迎合」的な政治思想・運動)に求める(xxページ)。その結果、社会に格差と分断が生み出されることになる。ラジャンが警鐘を鳴らすところである。
〇そしてラジャンは、国家・市場・コミュニティの不均衡を取り戻すための方策を「コミュニティの再生」に見出し、「包摂的ローカリズム」(localism、地域主義)を提案する。コミュニティを再生する鍵は、優れたリーダーの存在、人的・物的資産の発見・再生・誘致、住民のコミュニティ参加、それに国家による税制・財政支援である(395~410ページ)。包摂的ローカリズムは、「地域のインフラ、能力育成の手段、コミュニティレベルのセーフティネットを強化することによって、機会を広げ平等化する試みである」(466~467ページ)。別言すればそれは、(地域住民の)「アクセスを広げこと」を狙いとする。すなわち「市場、雇用、能力、そしてセーフティネットに誰もがアクセスできるようにしつつ、コミュニティに分権化し、人びとに権利感覚を与えること」(383ページ)である。ラジャンはいう。国家・市場・コミュニティの三本の支柱のどれひとつ、なくてもいいとする考えには与(くみ)しない。国家と市場は必要である。コミュニティは私たちの人間性の表現になくてはならないものである。ただし国家は力をコミュニティに移譲すべきである。国家と市場からコミュニティの領域を削り取る必要がある(467ページ要約)。
〇以上がラジャンの議論・主張の概要である。その理解を多少とも深めるために、次の一文をメモっておくことにする(見出しは筆者)。

国家・市場・コミュニティの不均衡
社会が病むのは、三本の支柱のどれか一つが他に比べて過度に弱まったり強まったりした時だ。市場が弱くなりすぎれば社会の生産性は落ち、コミュニティが弱くなりすぎれば社会は縁故資本主義( crony capitalism、縁故・仲間が優遇される資本主義:筆者)に傾き、国家が弱くなりすぎれば社会には恐怖と無関心が蔓延する。逆に市場が強くなりすぎれば社会は不公平になり、コミュニティが強くなりすぎれば社会は停滞し、国家が強くなりすぎれば社会は権威主義的になる。バランスが肝心なのだ。(xixページ)。

コミュニティの重要性
コミュニティは今でも社会で重要な役割を多数果たしている。個人を現実の人間のネットワークに定着させ、アイデンティティの感覚を与えるのはコミュニティだ。自分が世の中に存在している実感を持てるのは、自分が周囲の人々に影響を及ぼせるからだ。コミュニティを通して、私たちはPTA、教育委員会、(中略)地元の市長選挙や市議選挙といった地域の行政組織に参加して、自己決定の意識、つまり自分の生活を直接コントロールしている感覚を得ると同時に、地域の公共サービスを向上させようとする。重要なのは、公教育、政府によるセーフティネット、民間保険など、正規の制度が存在していても、今でも隣人の善意が不足を補っていることだ。(中略)現代でもコミュニティが健全に機能していれば、懇親会や自治会のような絆を強める活動を行い、市場と国家の侵食に対抗しようとしている。(xviページ)

コミュニティの価値
コミュニティが好ましい理由は容易にわかる。まず自分が何者であるかという意識を作ってくれる。そしてコミュニティ内では多彩な取引が可能だ。これは、すべてについて契約を結び、法によって厳正な履行を強制されなければならない場合の比ではない。コミュニティのためにしたことの記録はコミュニティ内で可視化され続け、匿名の市場に消え失せはしない。それが自尊心、当事者意識、責任感を高める。コミュニティは協力して子育てや弱者、高齢者、不運な者の支援にあたる。近さと受ける情報の深さのおかげで、コミュニティは状況ごとの具体的なニーズに支援内容を合わせることができる。また遠方の政府よりもはるかにタダ乗り屋に気づきやすく、給付を停止できる。結果として、利用できる資源は少ないにもかかわらず、本当に困っている人に、政府よりはるかに高度な給付を提供できる。コミュニティはこのように個人を助ける。教育や支援や拠りどころのない浮草人生の根になるのだ。(15ページ)

コミュニティ再生の方途
コミュニティ再生に成功した事例には次のテーマが共通しているようだ。すなわち、小さな熱意あるチームが取り組みを主導していること。コミュニティ内の異なるさまざまな関係者が結集していること。人的資本を含むコミュニティの主要な資産を発見し、活用、向上させていること。重大な弱点を克服してコミュニティのイメージを変えることに集中していること。そして重要なのは、成功の兆しが見えてそれに誇りを持つようになったところで、住民をコミュニティに参加させることだ。(399ページ)