「雑感」カテゴリーアーカイブ

阪野 貢/村田紗耶香が述懐する「個性」と「多様性」―その言葉の暴力性―

〇芥川賞作家の村田紗耶香(むらた・さやか)の最新刊『信仰』(文藝春秋、2022年6月)を読んだ。6編の短編小説と2編のエッセイが収録されている。エッセイのひとつ「気持ちよさという罪」では、「個性」と「多様性」という言葉との出会いや、そのときの率直な思いが述懐され、その言葉の暴力性が述べられる。メモっておくことにする(抜き書き)。

●確か中学生くらいのころ、急に学校の先生が一斉に「個性」という言葉を使い始めたという記憶がある。今まで私たちを扱いやすいように、平均化しようとしていた人たちが、急になぜ? という気持ちと、その言葉を使っているときの、気持ちのよさそうな様子がとても薄気味悪かった。(中略)「さあ、怖がらないで、みんなももっと個性を出しなさい!」と言わんばかりだった。そして、本当に異質なもの、異常性を感じさせるものは、今まで通り静かに排除されていた。(110ページ)
●当時の私は、「個性」とは、「大人たちにとって気持ちがいい、想像がつく範囲の、ちょうどいい、素敵な特徴を見せてください!」という意味の言葉なのだな、と思った。(中略)「個性」という言葉のなんだか恐ろしい、薄気味の悪い印象は、大人になった今も残っている。(111ページ)
●大人になってしばらくして、「多様性」という言葉を最初に聞いたとき、感じたのは、心地よさと理想的な光景だった。例えば、(中略)仲間同士の集まりで、それぞれいろいろな意味でのマジョリティー、マイノリティーの人たちが、互いの考え方を理解しあって、そこにいるすべての人の価値観がすべてナチュラルに受け入れられている空間。発想が貧困な私が思い浮かべるのは、それくらいだった。(111~112ページ)
●私はとても愚かなので、そういう、なんとなく良さそうで気持ちがいいものに、すぐに呑み込まれてしまう。だから、「自分にとって気持ちがいい多様性」が怖い。「自分にとって気持ちが悪い多様性」が何なのか、ちゃんと自分の中で克明に言語化されて辿り着くまで、その言葉を使って快楽に浸るのが怖い。そして、自分にとって都合が悪く、絶望的に気持ちが悪い「多様性」のこともきちんと考えられるようになるまで、その言葉を使う権利は自分にはない、とどこかで思っている。(112ページ)
●私がついていけないくらい、私があまりの気持ち悪さに吐き気を催すくらい、世界の多様化が進んでいきますように。今、私はそう願っている。(117ページ)

〇以上の文章から筆者(阪野)は、例えばいまだに主要な福祉教育実践(プログラム)とされる「車椅子体験と障がい者との交流」について、「障害と個性」や「分離と統合」「排除と共生」「多様性と包摂」などの言葉とともに、その “ ぎこちなさ ” や “ 危うさ ” に思い至る。また、これまでの福祉教育プログラムは、子どもたちやマジョリティ(多数派)に属していると思っている(思わされている)人たちに、「気持ちよさという罪」を負わせてきたのではないか、と疑心暗鬼になる(自責の念に駆られる)。付記しておきたい。

阪野 貢/排除と包摂:主体的営為としての「包摂」を考える ―倉石一郎著『教育福祉の社会学』のワンポイントメモ―

〇筆者の手もとに、倉石一郎(くらいし・いちろう、教育社会学専攻)の本が2冊ある。『包摂と排除の教育学―戦後日本社会とマイノリティへの視座―』(生活書院、2009年11月。以下[1])と『教育福祉の社会学―〈包摂と排除〉を超えるメタ理論―』(明石書店、2021年6月。以下[2])がそれである。[1]で倉石は、「包摂」を「それまで教育が関心の埒外(らちがい)においやっていた存在に『今さらながら』関心のまなざしを向け、それに対して何らかのはたらきかけを開始すること」(9ページ)と定義づける。そして、在日朝鮮人教育や高知県の「福祉教員」制度(同和教育)をめぐる言説や実践を実証的に明らかに、「包摂」を探求する。[2] で倉石は、「教育福祉」の「メタ理論」を探究する。その際の「教育福祉」は、「貧困や排除の克服を目的に立ち上げられた教育政策や制度、あるいは官民両方におよぶ社会事業的改善策の展開」を総称する。その第一義的な目的は、「学校からの排除に直面している子どもや家族等が被(こうむ)っている種々の不利益や剥奪(はくだつ)が軽減されるような支援を、主として教育の場でおこなうこと」にある。「メタ理論」(ある理論の前提となる理論:筆者)とは、「教育福祉をめぐる個別の経験的研究が参照すべき道しるべ」となる事例横断的な「理論軸」をいう(9ページ)。
〇本稿では、[2]における「包摂と排除」に関する論点や言説を取りあげる。倉石はまず、包摂と排除をめぐる「同心円モデル」という思考図式について説き、その問題性を指摘する(以下のページ表記はすべて[2]のそれである)。
〇「包摂と排除の同心円モデル」において「排除」とは、「中心に経済システムが位置し、周辺に政治、法、教育、福祉システム等が配置されている」現行の社会システムに、「十全に参加しえず、恩恵をこうむることができない立場(状態)」にあることをいう(10ページ)。「包摂」はその逆で、居ながらにして(そのままの状態で)、そのシステムの恩恵をこうむることができる立場(状態)にあることをいう。この「包摂と排除の同心円モデル」においては、排除の状態が先にあり、それへの対処策として事後的に包摂がなされる(排除が先で、包摂が後にくる)という「時間的序列」を考える。とともに、排除が悪で、包摂が善であるという「価値序列」を考える(20ページ)。倉石にあっては、この「時間的序列」と「価値序列」は、素朴で日常知に近い単線思考であり、包摂に潜むパターナリズム(「あなたのため」という根拠・理由によって介入・干渉あるいは支配すること:筆者)の問題などが見過ごされたりする。そしてなによりも、「包摂と排除の同心円モデル」には、包摂「される」側の主体性が看過されているという致命的な欠陥がある(103ページ)。
〇次いで倉石は、「包摂と排除の同心円モデル」思考に対して、より適切なものとして「包摂と排除の入れ子構造」論を対置(提起)する。それは、「包摂のなかに排除が、また逆に排除のなかに包摂が宿されているという認識を骨子とする議論」である。すなわち、「包摂と排除はそれ単独では成立せず、互いに他をともなうことでようやく完結をみる」、「排除と包摂は互いに他を必要とする」(20ページ)という考え方である。そこでは、包摂の進展が排除を促進・高度化し、逆に排除の進展が包摂を促進・完全化する、という図式がみられる。要するに、包摂と排除は、「対立しあう相克的関係」(30ページ)にあるのではなく、「相互参照的なもの」(45ページ)である。
〇さらに倉石にあっては、「入れ子構造」論にも問題がある。排除の通俗的なイメージには最初から、社会の周辺部や外部に追いやられていることが含意されている、というのがそれである。こうした思考から解放されるためには、「創発的包摂」概念が肝要となる。「創発的包摂」について倉石はいう。「創発的包摂」とは、「既存の秩序により多数の他者を取り込むのでなく秩序を『中断』させ変形させるものとしての包摂」(105ページ)を意味する。別言すれば、ソーシャル・マイノリティの人びとが、現存する秩序に単に包摂されたいと願うのではなく、共生社会の形成者として、新しい行動や生活の仕方が可能になような方法でその秩序を作り直すことが肝要である、ということである。その点において、「創発的包摂」は、専門家・専門職との調和的関係を前提とするが、当事者の意向が最優先される「主体的営為としての包摂」(103ページ)である。
〇およそ以上が筆者が読み取った、[2]における倉石の言説、そのワンポイントメモである。その点から福祉教育に関して一言すれば、福祉教育はこれまで往々にして、高齢者や障がい児・者などに関する「排除と包摂」の観点から福祉教育の理念や実践・研究のあり方を問いがちであった。例えば、排除(悪)への対処策として包摂(善)が位置づけられ、「社会的包摂に向けた福祉教育」「共生社会をめざした排除のない地域づくりと福祉教育」といったことが理念的・総論的、あるいは二項対立的に語られてきた。この発想は、倉石の言説に依れば再検討が要請される。また、福祉教育では、マイノリティの包摂が「多様性」についての理解に留まったり、包摂の進展を図るマイノリティ側の主体性・自律性、あるいは主導性に十分に関心を払ってこなかった。場合によっては意図的に「無頓着」でもあった、といえば言い過ぎであろうか。包摂という営為は誰かによってなされる(受動的な)ものではなく、排除されている当事者本人が主体的・自律的に、そしてまた共働的になす(能動的な)ものである。またそれは、形式的なものではなく、確かに・豊かに「生きる」ことの内実が伴うものでなければ意味をなさない。そうした前提に立てば、そこにこそ福祉教育のあり方が厳しく問われることになる。
〇周知のように、戦後の学校教育法体制(1947年4月施行)の最大の特徴は、「障がい児をひとまず他の一般の子どもと同様、就学義務制度の対象として位置づけたこと」(29ページ)にある。障がい児の公教育への「包摂」である。しかし、その体制整備は先送りされ、就学に困難をきたす子どもには就学猶予・免除制度が適用されることになる。障がい児の普通教育からの「排除」である。その後、遅ればせながら1979年4月に「養護学校」が義務化され、形式的には障がい児の教育機会が保障されることになる(包摂)。また、2007年4月には「特殊教育」が「特別支援教育」、「特殊教育諸学校」(盲学校、聾学校、養護学校)が「特別支援学校」に名称変更される。さらに、2012年7月の中央教育審議会報告を受けて、共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システムの構築とそのための特別支援教育の推進が図られることになる。これらは、「分離教育」から「統合教育」、そして「インクルーシブ教育」への変遷(過程)として捉えることができる。しかし、基本的には能力主義教育政策に基づく分離・別学体制が堅持されている(排除)。
〇こうした障がい児教育政策に対して、特別支援学校に在籍する子どもの数が増加傾向にあるなかで(特別支援学校在籍者数:2010年12万1,815人、2015年13万7,894人、2020年14万4,823人)、福祉教育はどのような立ち位置から、どのように(理論的・実践的に)振る舞ってきたのか。いま改めて根本的な科学的理解と検証をおこない、それに基づいて理論と実践の見直しと再構築を図ることが求められる。相変わらず分離・別学体制を所与のものとして受け容れ、障がい児・者に対する「思いやり教育」「共生教育」としての福祉教育の実践・研究が展開されるなかで、そのあり方が厳しく問われている。
〇唐突ながら、いま、「福祉教育・ボランティア学習を軸とした福祉でまちづくり」に熱心に取り組んできた(いる)社協のコミュニティソーシャルワーカー(坂本大輔)の言葉を思い出す。その言葉が胸に突き刺さる。「福祉教育に関して研究者や実践者の意識は薄れてきているのではないか」。それに関して、福祉教育実践・研究者(鳥居一頼)はいう。「貧しいとか、苦しいとか、障がいがあるとかという以前に、この世に生まれ育ち、『生きる』(二重かぎ括弧は筆者)ということに対して、子どもに対してのまなざしを私たちはどれだけ熱くしていけるのか」が問われる。胸に刻んでおきたい(『ふくしと教育』第33号、大学図書出版、2022年8月、34、41ページ)。

阪野 貢/経済学者が説く「コミュニティの再生」:警鐘と提言 ―ラグラム・ラジャン著、月谷真紀訳『第三の支柱』のワンポイントメモ―

〇筆者の手もとに、ラグラム・ラジャン著、月谷真紀訳『第三の支柱―コミュニティ再生の経済学―』(みすず書房、2021年7月。以下[1])がある。ラジャンは、インド出身の経済学者で、シカゴ大学教授である。[1]でラジャンはまず、社会を支える三本の支柱である国家(state)と市場(market)とコミュニティ(community)について、「ざっくり」と定義づける。国家は「一国の政治統治構造」であり、市場は「経済において生産と交換を促進する民間経済構造(の)すべて」をいう。そしてコミュニティは「規模を問わず、メンバーが特定の地域に住み、統治を共有し、共通の文化的および歴史的遺産を有することが多い社会集団」である、とする(xivページ)。
〇そのうえでラジャンは説く。社会の繁栄にとって、国家と市場とコミュニティはその均衡を保つことが重要である。近代以降、国家と市場がコミュニティの権限や機能を侵食し、コミュニティが縮小・衰退するなかで、三本の支柱のバランスが崩れてきた。とりわけ1970年代前半以降、ICT(Information and Communication Technology、情報通信技術)革命や経済のグローバル化(globalization、地球規模化)なとが進展するなかでその不均衡が深刻化し、今日、社会は危機的状況にある。これがラジャンの主張である。
〇危機的状況を平易・簡潔に言えば、技術革命によって能力の高い者は、新技術に適応して高所得を得、より裕福で健全なコミュニティに移住する。その一方で、適応能力の低い者は失業や家庭・生活環境の悪化に見舞われ、衰退するコミュニティに取り残される。また、グローバル化は、地域産業を衰退させ、それに依存していたコミュニティは縮小スパイラルに陥る(xxページ)。そういうなかでラジャンにあっては、[1]における中心課題は、「三本の支柱の均衡をいかに回復し、進行中の破壊的技術変化と社会変化に対峙するか」(xiiiページ)である。また、「貧しいコミュニティは優秀な人材を(いかに)つなぎとめつつ、その場所で発展する方法を探す」(xviiページ)かが重要な課題となる。
〇こうしたコミュニティの衰退(機能不全)は、所得分配の二極化を促し、社会階層の格差の拡大と固定化をもたらす。とともに、疎外された個々人は孤立し、帰属欲求の捌け口(はけぐち)を政治的ポピュリズム(特権的なエリート層に対抗する「大衆迎合」的な政治思想・運動)に求める(xxページ)。その結果、社会に格差と分断が生み出されることになる。ラジャンが警鐘を鳴らすところである。
〇そしてラジャンは、国家・市場・コミュニティの不均衡を取り戻すための方策を「コミュニティの再生」に見出し、「包摂的ローカリズム」(localism、地域主義)を提案する。コミュニティを再生する鍵は、優れたリーダーの存在、人的・物的資産の発見・再生・誘致、住民のコミュニティ参加、それに国家による税制・財政支援である(395~410ページ)。包摂的ローカリズムは、「地域のインフラ、能力育成の手段、コミュニティレベルのセーフティネットを強化することによって、機会を広げ平等化する試みである」(466~467ページ)。別言すればそれは、(地域住民の)「アクセスを広げこと」を狙いとする。すなわち「市場、雇用、能力、そしてセーフティネットに誰もがアクセスできるようにしつつ、コミュニティに分権化し、人びとに権利感覚を与えること」(383ページ)である。ラジャンはいう。国家・市場・コミュニティの三本の支柱のどれひとつ、なくてもいいとする考えには与(くみ)しない。国家と市場は必要である。コミュニティは私たちの人間性の表現になくてはならないものである。ただし国家は力をコミュニティに移譲すべきである。国家と市場からコミュニティの領域を削り取る必要がある(467ページ要約)。
〇以上がラジャンの議論・主張の概要である。その理解を多少とも深めるために、次の一文をメモっておくことにする(見出しは筆者)。

国家・市場・コミュニティの不均衡
社会が病むのは、三本の支柱のどれか一つが他に比べて過度に弱まったり強まったりした時だ。市場が弱くなりすぎれば社会の生産性は落ち、コミュニティが弱くなりすぎれば社会は縁故資本主義( crony capitalism、縁故・仲間が優遇される資本主義:筆者)に傾き、国家が弱くなりすぎれば社会には恐怖と無関心が蔓延する。逆に市場が強くなりすぎれば社会は不公平になり、コミュニティが強くなりすぎれば社会は停滞し、国家が強くなりすぎれば社会は権威主義的になる。バランスが肝心なのだ。(xixページ)。

コミュニティの重要性
コミュニティは今でも社会で重要な役割を多数果たしている。個人を現実の人間のネットワークに定着させ、アイデンティティの感覚を与えるのはコミュニティだ。自分が世の中に存在している実感を持てるのは、自分が周囲の人々に影響を及ぼせるからだ。コミュニティを通して、私たちはPTA、教育委員会、(中略)地元の市長選挙や市議選挙といった地域の行政組織に参加して、自己決定の意識、つまり自分の生活を直接コントロールしている感覚を得ると同時に、地域の公共サービスを向上させようとする。重要なのは、公教育、政府によるセーフティネット、民間保険など、正規の制度が存在していても、今でも隣人の善意が不足を補っていることだ。(中略)現代でもコミュニティが健全に機能していれば、懇親会や自治会のような絆を強める活動を行い、市場と国家の侵食に対抗しようとしている。(xviページ)

コミュニティの価値
コミュニティが好ましい理由は容易にわかる。まず自分が何者であるかという意識を作ってくれる。そしてコミュニティ内では多彩な取引が可能だ。これは、すべてについて契約を結び、法によって厳正な履行を強制されなければならない場合の比ではない。コミュニティのためにしたことの記録はコミュニティ内で可視化され続け、匿名の市場に消え失せはしない。それが自尊心、当事者意識、責任感を高める。コミュニティは協力して子育てや弱者、高齢者、不運な者の支援にあたる。近さと受ける情報の深さのおかげで、コミュニティは状況ごとの具体的なニーズに支援内容を合わせることができる。また遠方の政府よりもはるかにタダ乗り屋に気づきやすく、給付を停止できる。結果として、利用できる資源は少ないにもかかわらず、本当に困っている人に、政府よりはるかに高度な給付を提供できる。コミュニティはこのように個人を助ける。教育や支援や拠りどころのない浮草人生の根になるのだ。(15ページ)

コミュニティ再生の方途
コミュニティ再生に成功した事例には次のテーマが共通しているようだ。すなわち、小さな熱意あるチームが取り組みを主導していること。コミュニティ内の異なるさまざまな関係者が結集していること。人的資本を含むコミュニティの主要な資産を発見し、活用、向上させていること。重大な弱点を克服してコミュニティのイメージを変えることに集中していること。そして重要なのは、成功の兆しが見えてそれに誇りを持つようになったところで、住民をコミュニティに参加させることだ。(399ページ)

小林亮平/資産運用と障がい者 ―投資で人生をより豊かにしてみませんか?―

〇僕は日頃、リハビリや生活介護の合間に講師活動や資産運用をしています。そんななかで、「障がい者などももっと投資をしたらいいのに」と思うことが時々あります。
〇そう思う一番の理由は、納税です。社会的弱者は納税の義務を免除されますが、投資をすれば所得税と地方税は徴収されます。
岸田総理は今年の参議院予算委員会で、物価高騰に対する予算案(2兆7000億円)の財源を野党に追究されるなかで、税率を上げるのではなく経済の成長を促すことにより財源を賄えるというような趣旨を述べていました。国民に投資を促せば税収増加につながるとの考えでしょうか。今年から、高校で金融教育が始まったのもそのためじゃないでしょうか。
障害のある方もこの考えに賛同して、目に見える形で社会に貢献できるというメリットは大きいと思います。通常、福祉のサービスを使うだけの存在と思われがちな障がい者も、目に見えて貢献できるという訳です。障害がある・ないにかかわらず、陰では社会貢献していてもそのことが周囲に伝わらず、時にはバッシングされるのは空しいことです。
〇二つ目の理由に、スマホもしくはパソコンが使えれば場所を選ばないということです。取引事態は市場が開いている平日の日中でなければ無理ですが、注文を出したり情報を分析したりするのはそれ以外の時間帯でもできます。つまり、寝たきりの方や病院通いの方、ひきこもりの方や外出が困難な方にも有効ではないかと思います。
〇収入は二種類に分けることができます。労働収入と金融収入です。労働収入とは、文字通り労働をして給料をもらうことです。一方金融収入とは、お金を使ってお金を増やすことで、銀行の預金や年金、そして投資もこれにあたります。
僕は18歳で入院して20歳で退院しましたが、重度の身体障がい者となっていて、定時に出社などの理由から労働収入を得ることは無理に近いと思っていました。それで投資を始めるに至ったのですが、投資とはまとまった資金でもない限り何の経験もない若造がいきなり始めて利益を上げられるものではありません。ですが障がい者には障害基礎年金という、言わばベーシックインカムのようなものがあります。これが三つ目の理由です。
〇僕は、最初の頃は安定した収益があげられず、儲かるときもあれば損をするときもあるといった具合で、結構苦労しました。でも時間が経過して経験を積み重ねた今では、少ないですがささやかな資産を築いています。
〇この15年以上の経験で学んだことはいろいろあります。一番大事な考えは、リスクは排除すべきものではなく必要経費であるという考え方です。リターンを得たければ、リスクは(大なり小なり)とらなければなりません。リスクとリターンは比例します。ローリスク・ローリターンか、ハイリスク・ハイリターンか。ローリスク・ハイリターンなんて商品はありません。あるとすれば、それはギャンブルか詐欺の類いでしょう。
そして、リスクを必要経費と捉えるには、リスク管理(リスクマネジメント)が必要です。リスク管理とはリスクを自分で引き受けコントロールすることですが、なにもすべてのリスクを自分で引き受けることではありません。そもそもリスクとは、「将来のいずれかの時において何か悪い事象が起こる可能性」(Wikipediaより)といった意味です。この商品には、どういったリスクがあるか把握し自分ならどれだけのリスクまで許容することができるのか(どこまでのリスクをとれるのか)を把握することです。
〇投資をする上での心構えとして僕は、次のように考えています。
・投資は余力資金(なくなってもいいようなお金)ですること。投資の目的は、生活をより豊かにするためであって、生活そのものの目的にはしない方が良い。生活が掛かっている投資だと、プレッシャーに負けてしまいます。
・分散投資を心掛けること。例えば災害などである国の通貨や株が暴落したとします。もしもその国に資産が集中していたら、すべてを失うことになります。リスクは分散させることが大切です。とはいえ、
・少ない元手を増やしたければ、資金を集中されることも必要であること。投資とは確率論の勝負とも言えるので、勝てる確率が高い局面を見極めてそこに資金を集中させることも時には必要かと思います。そして、
・早くから始めること。投資での利益は元手の量にも比例します。同じく、経験値にも比例します。つまり、早くから始めたほうが有利です。
〇僕たちも、障害がある・ないにかかわらず、投資で人生をより豊かにしてみませんか?

阪野 貢/追記/「あるがままの君はここにいる。ここにいていい。いる権利がある」ということ ―内田樹著『複雑化の教育論』のワンポイントメモ―

〇本稿は、先の拙稿――<雑感>(155)「私のなかにみんながいる」ということ―桜井智恵子著『教育は社会をどう変えたのか』読後メモ―/2022年7月18日投稿 の追記である。
〇内田樹(うちだ・たつる)の近刊、『複雑化の教育論』(東洋館出版社、2022年1月。以下[1])を読んだ。[1]のキーワードは「複雑化」である。内田にあっては、教育とは子どもの「成熟」を支援する営みである。成熟とは量的増大ではなく、できあいの「定型」に収まることでもない。それは、漸進的に変化し、「複雑化」すること、昨日とは違う人間になることである(36、40ページ)。複雑化とは、繰り返し脱皮して変化していくことである。そこで教師や大人は、子どもが殻(から)を脱いで剝(む)き出しの裸になっている時に、「決して傷つけない」という保証をすることが肝要となる(51ページ)。学校は、査定や格付けの機関ではなく、子どもたちの成熟すなわちより複雑なものに成長してゆくプロセスを支援する場でなければならない(35、51ページ)。
〇これが[1]のひとつの要点である。その基底には、「複雑化するのは生命の自然である」(164ページ)、「複雑化することは進化することである」、「複雑なシステムの方が複雑な現実に適切に対処できる」(165ページ)、「システムを単純化すればするほど、システムは機能不全になり、脆弱になる」(163ページ)という内田の命題がある。
〇[1]のなかで内田は、「存在承認」に関して次のように説述する。それをメモっておくことにする(抜き書き。見出しは筆者)。本稿を草したねらいのひとつはここにある。

子どもたちを歓待し承認すること
学校教育で一番大事なことは、まずは子どもたちを歓待し、子どもたちを承認することです。君はここにいる。ここにいていい。いる権利がある。君がここにいることを私たちは願っている。そう伝えることができたら、学校教育としてはもう上等だと僕は思います。(221ページ)

「あなたはそこにいる」と認められること
人間は「救援の要請」(「ちょっと手を貸して」というタイプの要請)を断ることができない。これは人類学的真理なんです。それは「救援信号の宛て先はそれを聴き取った者である」という太古からのルールがあるからです。聴き取った者が「宛て先」なんです。「宛て先」はあらかじめ決まっていたわけじゃない。聴き取ってしまった者が「宛て先」に指名されて、ただちに応答責任が発生する。その時、人は「主体」として立ち上がる。
「他者からの承認」というのは、いろいろなかたちがありますけれど、要するに「あなたはそこにいる」と認められるということです。認知的にただ「あなたはそこにいる」と言うだけでもいいけれど、「あなたがそこにいることを私は願う」という遂行的なメッセージの方がずっと承認の強度は高い。そして、「あなたがそこにいることを私は願う」というメッセージを端的に表現したのが「ちょっと手を貸して」であり、さらに端的に言えば「助けて」ということになるわけです。人間は他者からの「助けて」という支援要請を聴き取った時に主体として立ち上がる。(204、205ページ)

「ありがとう」は承認と祝福を与える言葉
「ありがとう」と言われるのは、生きる上で必須なんです。それなしでは生きられない。「ありがとう」は「あなたはここにいてよい。あなたはここにいる権利がある。私はあなたがここにい続けることを願う」という社会的承認と祝福を与える言葉ですからね。(88ページ)

続「蛇足」
「お母さん、町屋のみっちゃんが来てくれたよ」「‥‥‥」「どちらさんですか?」「町屋のみっちゃんやがな」「‥‥‥」「町屋?‥‥‥それはどこや?」「町屋に行ったかどうか、わからんなあ」「‥‥‥」「そういうたら、頭が大きい子がいたなあ」「‥‥‥」「あの子はどうしてんのかなあ?」「‥‥‥」「ええ年齢やったからな、もう亡くなってるんやろうなあ」「‥‥‥」

筆者は、<雑感>(83)“死”とどう向き合うか、「生死の教育」を考えるために/2019年6月1日投稿、の記事の「蛇足」で、50年数ぶりに、壮絶な人生を送ってきた従姉に再会したことを記した。その時の、筆者(町屋のみっちゃん)らとの会話である。
彼女には再婚後、夫の連れ子との確執、夫の服役、加えて実子の自殺などの想像を絶する・耐え難いことが矢継ぎ早に起こった。そしてそこには、絶対的な貧困があった。周りの人はみな、見て見ぬふりをし、見ぬふりをして見ていた。そんななかで彼女は、「土方(どかた)」に出て生命(生活)の糧を得、一つひとつの困難に向き合い、同時並行的にそれらに対処した(そうせざるを得なかった)。そうして彼女は、がむしゃらに生きてきた。そしていま彼女は、80歳代後半の認知症患者として「存在」する。その存在(生命の主体)を娘たちは、しっかりと承認している。だからこそ彼女はいう、「私はいまが一番幸せやなあ!」。娘たちもいう、「ありがとうなあ!」
[1]で内田は、何を、どれだけ知っているかによる「頭がいい」ことについてではない。複数の仮説を並列処理できるだけの「頭の中のスペースの大きさ」、「未決状態に耐える能力」によって、じっくりと状況を観察し、時間をかけて確かに対処することの重要性について説く(54、55ページ)。
そんなことを思い出し、また思いを巡らしながら筆者はいま、美輪明宏の「ヨイトマケの唄」(1965年)や岡林信康の「山谷ブルース」(1968年)を聴いている。涙がとまらない。

阪野 貢/「私のなかにみんながいる」ということ―桜井智恵子著『教育は社会をどう変えたのか』読後メモ―

〇小気味よい本に出会うと楽しいものである。筆者の手もとにある、桜井智恵子(さくらい・ちえこ、教育社会学)の『教育は社会をどう変えたのか―個人化がもたらすリベラリズムの暴力―』(明石書店、2021年9月。以下[1])もその一冊である。タイトルからも興味をそそられる。(小気味よさはしばしば、一元論的な思考やそれに基づく思考停止状態のなかにあることに留意しておきたい。)
〇生存のための「自立」を必要条件とする資本主義社会は、能力と所有の論理に基づいている。現代社会のルールであるリベラリズム(自由主義)は、個人の尊厳や自由、多様性、自己決定(自己責任)などを最も重要な価値とみなしている。そういう社会の政治経済的構造が生み出す排除や差別などの諸困難に対する桜井の主張は、明快である。能力主義の価値観を是認し、それを国家や社会の支配層と共有している限り、排除や差別は助長され正当化される。すなわち、個人が「自立」能力で生き延びるために自己中心的に生きることは、排除や差別する社会を自分自身が支えていることになる。そこで考えるべきは、現代社会の根底にある能力主義=業績承認の解体、である。
〇[1]におけるキーワードは、「個人化」、「能力の共同性」、「存在承認」である。それぞれの定義とそれに関する言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。一部語尾変換)。

個人化
私たちは、個人で稼いで個人で満たすという「勤労」概念に基づく個人化社会をつくった。生きていくためのニーズを満たすために、がんばって働き自分で稼ぐスタイルが前提となり、皆で分かち合う共同性は縮減した。環境や状況の劣悪は横に置き、「生きる上での困難」を乗り越えられないことを個人の問題に矮小化する傾向を「個人化」と呼ぶ(16ページ)。

能力の共同性
能力は個人が有する固有(単独)のものではない(私的所有物ではない:阪野)。能力は、他者や社会・文化によって、個のなかに共同的に培われているものであり、他者や環境とのかかわりという相互関係自体(能力の共同性)である(188ページ)。すなわち、能力とは、分かちもたれて現れたもの(互いに分かち合って共有するもの:阪野)であり、それゆえその力は関係的であり共同のものである。能力は個に還元できない(190ページ)。「共同」とは、個が「力を合わせる」「互いに助け合う」というものではなく、「いっしょにある」という意味合いであり、「私のなかにみんながいる」(189ページ)のである。

存在承認
現代社会を覆う能力主義は、「できること」(成果や業績)を承認する「業績承認」を意味する。それに対していま必要とされるのは、「在ること」(ありのまま)を承認する「存在承認」である。それは、自分自身を自分で承認し得る、「社会的状態」の構想である(187ページ)。すなわち、存在承認とは、「共同的なものを基底に、自分を自分で承認しうる所得配分を前提にした状態」(251ページ)をいう。

●現代の学校現場で、子どもは批判的に物事を考える機会を奪われている。必要なときに他者を頼ることは「依存」と見なされ、自助努力で生きることが大事だという価値観が教え込まれる。教育現場は、学力やコミュニケーション能力で人の価値が計られる能力主義によって貫かれ、自己責任という考え方を刷り込む場となっている。そこには、共に生きる社会や国の在り方を考えたり、能力主義によって正当化される経済格差をもたらす資本主義に疑問を持ったりする余地はない(12~13ページ)。

●学校や社会には「能力の高い人ほど優秀」というソフトな優生思想が浸透している(15ページ)。それによって生きづらさが生じ、社会的弱者がつくられ、自責他害が強まっている(206ページ)。また、凄惨(せいさん)な相模原障害者施設殺傷事件(2016年7月)を受けてもなお、自己責任や排除を生み出す能力主義に基づく教育を問い直す機運は高まらず、グローバル人材の育成という形でむしろ強化されている。他方で、子どもの状況に応じた多様な教育機会を確保するとして個別支援の流れが強まっている。それは、学校のありようを問い直さずに子どもの分断を正当化する(15ページ)。

●個別救済は、トラブルが起きてからの救済システムであり、それらを生み出す社会的なあり方をこそ、問う必要がある。個別救済だけでは、逆に現在の排除的な社会の原理や個人化を補完することになる(19ページ)。

●資本主義経済を基調とする日本の公教育制度は、教育を受けることを権利として保障し、その保障を通して教育における国家支配を実現していくような体制である。いいかえれば、「保障」を通して「支配」を実現し、「支配」を実現するために「保障」を行う教育体制である(岡村達雄)(111ページ)。

●リベラリズムは近代個人の自由や多様性を尊重するために、政治権力や世間から干渉されない個人の自由を重視した。すなわち、個人の自由が、個人化された自由に矮小化されてしまった。個人の自由にとって大切なのは、個人化されない自由である(20、21ページ)。

●能力主義が導く自己責任論は、本人の能力や努力に問題を矮小化し、社会が協働する意味や契機を奪っている。すなわち、能力が個に分断されることで、人々には共同性が見えにくくなっている。「地域との連携」がお題目のように叫ばれているが、連携をすればよいというわけではない。自己責任論を広げるような連携ならしない方がずっとましだ。また、自己責任論は、「自立支援」という名の下に「自立するなら支援する」という脅迫めいたメッセージを発している(60~63ページ)。「支援」は支配的要素を含む言葉でもある(59ページ)。

●「能力の共同性」は、多様な人々が力を合わせるという意味合いとは異なり、個に還元できない能力論である。「依存先を増やす」というような個人化された共同性は、いともたやすくネオリベラリズム(新自由主義。個人の選択や市場原理の重視)に利用される。「存在承認」は、あなたの存在を認めるよといった承認論ではない(261ページ)。共同的なものでしかありえない、個人化されていない存在のあり方である(251ページ。)

〇繰り返しになるが、桜井の主張は脱個人化と能力主義の解体である。それによって、「自由で平等な社会への書き換え」(257ページ)が可能となる。その際、桜井にあっては、新しいしくみを構築するのではなく、現在の社会を覆う個人化や能力主義に基づく仕組みや制度を「脱構築」(既存のものを問い直して一度解体し、新たなものに再構成)し、非資本主義的な生活様式による社会を構想することが肝要となる。そこに求められるのは、「能力が個人のものではなく、いつも共同ではたらいていて、競争をしなくても必要に応じて分かち合う論理」(252ページ)である。それは、「(存在承認の基で)生きていくための所得分配がフェアで、それぞれが自由に生き合うという世界」(262ページ)、「アナキズム(国家や市場の支配権力に向き合いながら、自分たちの問題を自分たちで解決す知恵・思想:阪野)のようなもので教育や福祉の世界を包囲する」(252ページ)社会をめざす。要するに、個々人の「能力に応じて」から「必要に応じて」への転換である。
〇なお、[1]のタイトルを「市民福祉教育は地域・社会をどう変えたのか」と読み替えると、汗顔の至りである。福祉教育は、子どもが自主的に、そして自由かつ平等に学ぶ場としての学校や学校教育の根源的・社会構造的な問題状況やその要因を厳しく問うてきたか。支配的な価値観のままに物事を承認し提案することは現状肯定につながるが、人間・社会の現実を主導する価値観やその枠組みにあてはめることに終始し、枠組みそのものを問うてこなかったのではないか。仮に桜井の言説に依拠するとすれば、個人化や能力主義、業績承認や存在承認などについて深く問うことなく、自立(自律)や連帯(共生)、まちづくりなどについて理念的・表層的に言及するだけではなかったか。それらを問うてこなかった「成果」は、資本主義システムにおける教育や福祉を下支えし、補完することにある。個人化や能力主義に基づく教育や福祉の拡大再生産(個人の自由と分断と多様化による管理・統治)である。
〇筆者はかつて、『みんなのなかにわたしがいる みんなとともにわたしがいる』(三重県社会福祉協議会、2004年3月)というタイトルの「小学生からの福祉読本」の作成にかかわったことがある。そのタイトルの意味するところは、「よりよくある」ための人間の「自立と連帯」「自律と共生」である。それは、桜井の言説によると、個人化に基づくものであり、個人モデルのそれであることになる。そこで筆者には、「自立と連帯」「自律と共生」を「個のもの」のままではなく、「共同のもの」「分かち合うもの」としていかに展望するかが問われることになる。その意味で、「私のなかにみんながいる」という桜井の言葉は重い。
〇「私のなかにみんながいる」は、「みんなのなかに私がいる みんなとともに私がいる」の基底あるいは前提に位置づくのであろうか。そう考える場合、それは、(必ずしも力を合わせるという要素はない)一緒に行う「共同」と相互作用の「共働」を含意する(分かち合う)ことになる。「共同と共働」に基づく「自立と連帯」「自律と共生」である。そしてそこには、アナキズムやコミュニズム(共同体主義)に基礎をおく社会像が構想される。

鳥居一頼/市民福祉教育研究所開設十周年を祝して

市民福祉教育研究所開設十周年を祝して

ひとりの男の ささやかなおもいは
十年の時を経て 6月25日メモリアルの日を迎える

福祉と教育への志を抱く者たちのおもいと重なり合い
いつか日本の福祉教育を支える研究所となった

ひとりの男の小さなつぶやきは
十年の時を隔てて 大きなつぶやきとなった

若き者たちが慕いつつ学ぶ場と機会となり
いつか福祉と教育を考え推し進める研究所となった

ひとりの男のちっぽけな願いは
十年の歳月を実現の道へと誘った

若き者たちの研究と実践への気運を高め
いつか福祉と教育を統合する研究所となる

ひとりの男の歩いた足跡は
十年の軌跡を鮮やかに残し続けた
ひとりの男から投げかけられた課題は
十年の重みとともに常に突きつけられる

若き者たちがその礎に新しき道標を立てる
いつか日本の福祉教育を熟成させる研究所にする

福祉教育に生きるひとりの男に導かれて
若き者たちよ
ひるまず果敢に時代を豊かに拓け
若き者たちよ
研究と実践を糧に次の時代を自由に語れ

それこそが男が求め続けた福祉教育への道なのだ

共同研究者/鳥居一頼

阪野 貢/「まちづくりと市民福祉教育」はアートであり、デザインである―東京藝大で “福祉”を学び、東大で “デザイン” を学ぶ―

〇筆者(阪野)の手もとに、東京藝術大学や東京大学で中高生や社会人を対象に行なわれた体験型授業の様子をまとめた本がある。東京藝術大学 Diversity on the Arts プロジェクト編『ケアとアートの教室』(左右社、2022年1月。以下[1])と山中俊治著『だれでもデザイン―未来をつくる教室-』(朝日出版社、2021年11月。以下[2] )がそれである。
〇[1]は、2016年より開設された、約100人の社会人と約30人の藝大生が共に学ぶ履修証明プログラム(Diversity on the Arts Project、通称:DOOR)の講義と実践の様子(体験)を記録したものである。そこでは、「アート Χ 福祉」をテーマに、共生社会を支える人材の育成とコミュニティの醸成をめざす(2ページ)。講義で取り上げる具体的なテーマは、貧困、障害、性的マイノリティ、引きこもりなど多岐にわたる。講師もアーティストや障がい者、福祉の専門家、現代社会に生きづらさを感じている当事者など多様である。
〇DOORでの「学び」は、次のようなことを基本的な考え方(コンセプト)にする。共生社会の実現には、創造性(アート)とそれが活きる環境を耕す(cultivate)ことが重要である(4ページ)。何かを学ぶうえで、「誰と学ぶのか」、学びの対象と「どう出会うのか」が重要な要素となる(5ページ)。アート(=創造性)の領域では「個人の主観」が大切にされるが、自分の主観の深いところには他者との共通点がある。アートも福祉も、多くのひとたちとの「対話」(「創造のコミュニケーション」)や「協同」のなかで、異なった何かと自分とが融合し、変化し、豊かになっていく(7、8ページ)。すなわちこれである。
〇身近にある、状態としての多様性(diversity)に対して「想像」を巡らし、対話し、歩み寄り、見えないものを知覚することによって、共生社会の「創造」に向けて動き出す(236、238ページ)。多様性が創造性(creativity)を生み、育てるのである。
〇[1]から、「まちづくりと市民福祉教育」に関して、「気になる」あるいは「使える」論点や言説のいくつかをメモっておく(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者。見出しの後の氏名は講義者)。

アートと福祉は多様性を特性とする/日比野克彦
アートと福祉は、アプローチこそ違え、視座が「多様性」を重視しているのは同じである。多様性のある社会を築いていくためには、違いを認め合う「アートの特性」を基盤にして、そのうえに福祉や経済などさまざまなものを組み立てていくことが肝要になる。(17ページ)

被支援者との共感不可能性を共感する/奥田知志
ホームレスなどの生活困窮者を支援する際、「大変でしたね」「わかります」というと、10人にふたりくらいは「野宿をしたこともないのに何がわかるんだ」と怒る。支援活動を行なううえでは、この「共感不可能性」を常に意識していなければならない。相手との対等性をいかに保ち、共感不可能性にどれほど共感できるかが重要となる。(40ページ)

アートは既成の価値観に異議を唱えること/久保田翠
知的障害があるひとの、「よくわからない」行為も、本人が生きるために不可欠なことであり、生きている証である。知的障害のあるひとたちの存在自体がアートであり、彼らの生き様そのものがひとつの表現である(「表現未満、」)。表現やアートはできあがった作品だけをさすのではない。知的障害のあるひとたちの存在をまるごと認め、彼らに対する見方を変えこと、すなわち既成の価値観に異議を唱えることがアートである。(59、61ページ)

ALLY(アライ)の存在は重要であるが‥‥‥/松岡宗嗣
性的マイノリティの存在は「いない」のではなく、「見えていない」のである。性的マイノリティのひとびとは、「ふつう」や「あたりまえ」とされる規範的な性のあり方の枠組みから排除されることで、さまざまなライフステージごとの困難に直面する。「ALLY(アライ)」は、「支援者」「同盟」「味方」を意味する。アライになるためには、「知る」こと、「変わる」こと、そして「行動する」ことといったステップが必要となるが、誰もが誰かのアライになれる。しかしその際の、「当事者ではないが味方」という考え方は、二項対立的な考えにつながる。「かわいそうなマイノリティを助ける」という考え方は、自分自身の差別意識を不可視化する。(85、91、98、99、100ページ)

対話がつながりの回復を図る/六車由実
介護現場では、利用者の人生や経験について話を聞くことで、彼らそのものを理解し、思い出を共有すること。それと共に、個人史からそのひとたちが生きてきた時代や地域の歴史、生活のあり方を知り、伝えていくこと、が大切となる(「介護民俗学」)。利用者同士や利用者とスタッフによる平等で開かれた「対話」によって、スタッフから利用者へという一方的な固定化された関係性が修復される。介護現場で一番大切なのは、要介護度が上がらないようにする支援(自立支援介護)ではなく、「つながりの回復」を図る支援である。つながりがあれば、老いや病、認知症で体が動かなくなったとしても、ひとは最後まで希望をもって生きていける。(123、129、131ページ)

〇[2]は、2017年に22名の中高生に対して、山中俊治(デザインエンジニア)の研究室(東京大学生産技術研究所)で行なわれた「デザイン」に関する4日間の特別授業を再現したものである。そこでは、身の回りのものをよく観察してアイデアを生み出し、「そこに新しい価値を見出し、形に落とし込み、人に伝え、一緒に完成させていくデザイナーの営み(デザインの方法)の根幹」(5ページ)が具体的に綴(つづ)られている。山中にあってはそれは、「人間がなにかを生み出す時の普遍的な方法」(6ページ)である。また、デザインは「人工物、あるいは人工環境と人の間で起こるほぼ全てのことを計画し、幸福な体験を実現すること」(43ページ)と定義づけられる。
〇デザインは、ひとびとが日常生活上のベネフィット(benefit:利益、恩恵、便益)を得て効率よく、豊かに暮らすために、安全性や操作性、格好よさや愛着、値段などをトータルにプランニングする営為である(44ページ)。それは、感覚的なものと科学的な知識を融合する営みである。その仕事を行なうデザイナーは、それが「総合的な営み」であるという点において、映画監督やオーケストラの指揮者に近いともいえる(51ページ)。
〇[2]から、「まちづくりと市民福祉教育」に関して、「気になる」あるいは「使える」論点や言説のいくつかをメモっておく(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

サイエンスとアートとデザイン/デザインする
サイエンスとアートの目的は真理の探求にある。デザインはいつも誰かをハッピーにすることをめざす。サイエンスは、客観性を追求して記述し、検証しあって知識を共有する。アートは、主観を追求して表現し、「共感」を共有する。その共感を確実なものにするために、評論が大切な役割を果たす。デザインは、サイエンスとアートの両方の知見から得たことを統合して、安全性や操作性、格好よさなどの高いモノをつくる。(47、49、51ページ)

デザインはアイデアが命である/アイデアを出す
デザインのコアになるのはアイデアである。アイデアの本質はそもそも偶然である。アイデアのヒントはいつも観察のなかに、他人の頭のなかにある。また、知識や経験、情報のなかにある。そしてアイデアは、それらを「つなぎ替える」「つなぎ直す」ことである。要するに、「アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもない」(ジェームス・W・ヤング)。(174、186、188、190、344ページ)

スケッチを描くということ/スケッチする
スケッチを描くということは、自分が何を見て、何を見ていないかを意識することである。描くということは、そこを見ることと連動していて、見ていないところは描けないし、描く時には必ず見ようとする。私たちは注目しているところ以外を見ておらず、無意識に、全部は見ないようにしている。絵を描くことで意識的に見る範囲を限定したり、見る範囲を決めることができる。スケッチに全ては描かない。最も重要なエッセンスを抽出して(抽象化して)リアリティを与えるということが、スケッチの表現の根幹である。(70、71、110ページ)

デザインが社会変革を促す/未来を拓く
義足をデザインしているとき、失われた体の一部を補完するというより、新しい体を作っている感覚がある。義足は障がい者のために作ったものであるが、実は、障がい者を見る社会のほうが変わるきっかけになる。義足は大量生産ではなく、一人ひとりの切断者に合わせて、「かっこよく」「美しく」作る。一人ひとりのためのデザインが、そのものに目を向けさせ、社会の意識を変え、未来を拓く。いま、みんなのためのデザインから一人ひとりのためのデザインへと、時代は流れている。(318、320、323ページ)

〇以上を要するに(一面的であるが)、アートは、多様性にアプローチしてその異なる存在を認識し、より理解を深め、問いを投げかける(自己表現、問題提起の)営みである。デザインは、過去や「いまここ」から学び、一人ひとりに合わせたものの存在を生み出し、社会変革をもたらす(他者実現、問題解決の)営みである。その点においてアートとデザインは、「まちづくりと市民福祉教育」が内包する営みでもある。留意しておきたい。
〇前述のように、DOORでの「学び」のキーワードのひとつは、「創造性」と「多様性」である。その点に関して、重ねて次の一節を引いておく(抜き書き)。

アート=創造性は、誰のなかにでもある。ひとはどんな苦境においても、創造性を完全に忘れることはない。むしろ、そうした創造性に小さな喜びや希望を見出し、自己と向き合い、ときに他者とそれを共有することで、ひとはひとらしくあり続けることができ、「生きよう」とする思いをも強くできる。([1]3ページ)。

ダイバーシティ(多様性)をめざす、という言葉をよく聞く。しかし、多様性とは状態であり、すでに私たちの周りに存在しているものである。こうした多様性があるという状況を、どれだけセンシティブ(敏感)に感じとれるかということが重要になる。「さまざまなひとがこの世界で生きている」と言葉ではわかっていても、どれだけその状況を意識できるかどうかは、個々によって開きがある。多様なひとびとがいて、さまざまな世界の感じ方がある、ということをより意識できるようになってほしい。([1]232~233ページ)

〇創造性は時に、「ひらめき」すなわち偶然から生まれる。その「ひらめき」は、個々人の「記憶された知識や経験」に基づいてもいる。したがって、創造性は不確かであり、独創的である。しかしその本質は、新しい快適で豊かな未来社会を拓くところにある。多様性は一面では、マジョリティ(多数派)の文化や視点から唱えられる。一方からの多様性の強調は、“出る杭は打たれる”日本社会にあって、同調圧力を強めることにもなる。しかしその本質は、マイノリティ(少数派)の文化や視点を中心に据えた共生社会を形成するところにある。そこでまずは、創造性も多様性も、そのひとがそのひとらしく、共に生きられる地域・社会を共に創ることをめざして、さまざまなヒト・コト・モノをそれぞれに「気にする」ことから始まる。付記しておきたい。

阪野 貢/「弱さ」と「多様性」―今中博之著『なぜ「弱い」チームがうまくいくのか』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)は今中博之(いまなか・ひろし)氏から、新著『なぜ「弱い」チームがうまくいくのか―守り・守られる働き方のすすめ―』(晶文社、2022年4月。以下[1])のご恵贈を賜った。[1]は対話形式の本ではないが、読み進めるとしばしば今中氏が眼前に立ち現れ、親しく対話していることに気づく。またそのなかで、ときに自分の姿を見る(内省する)ことになる。鋭い論考によって、針で刺されたような痛みを覚えるのである。
〇[1]の主要な議論はチーム論である。そこでは、「デザインと社会福祉と仏教を行ったり来たりしながら」(24ページ)、働き方・仕事論や組織マネジメント・リーダーシップ論、そして生き方・人生論などが広く深く説かれる。しかもそれらは、今中氏の「デザイナーと障がい者とリーダー」としての多様な社会生活経験と幅広い教養、そして哲学・思想や社会学などの知識と言葉に裏付けられており、「私」を圧倒する。
〇今中氏の主張はシンプルである。「弱い人はお互いを守り合いながら長く生存できる。強い人を守る人はいない、強い人は生き残れない」。極論すればこれだけである。その際のキーワードは、「弱さ」と「多様性」である。今中氏はいう。「チームに一番必要なのは弱さである」。すなわち、人間はそもそも、弱い存在であり、弱いからこそチームを組んで生き延びようとする。弱く矛盾した存在としての個人が有機的につながることによって、チームは機能する。チームは強い人だけでは構成できないのである(9、113ページ)。
〇そしていう。「多様性を失ったシステムは崩壊する」。すなわち、共生社会はバラツキを是とする社会(多様性のある社会)であり、その違いをひとまとめにせずお互いを認め合う。違いが交差すれば違和感も生まれるが、それ以上に異なる視点が有効に機能し、新たな希望が見つかる。弱い人も強い人も、異なるものが異なるものとして共存・協働することが肝要である(17、103ページ)。今中氏のこうしたシンプルな思考が、みごとにコトの核心をあぶりだす。そして、「私」が「使える」モノを見出し、知見を導出し、管見を再構成するのを促し助けてくれる。小さくもあり大きくもある「喫茶店」(64ページ)での、今中氏との対話の魅力である。
〇筆者が探究する「まちづくりと市民福祉教育」の主体形成に関して、今中氏の「ソーシャルデザイン」と「チーム」についての論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

原点と視点
●個人のミクロ(小領域)的視点から、チームのメゾ(中領域)的視点を経て、社会のマクロ(大領域)的視点まで、一気通貫の幸せが実現できなければ、人の幸せはない。(12ページ)
●障がい者が生み出す作品や商品は「現代アート」であり、「障がい者アート」などとカテゴライズすることは、彼ら彼女らとその作品・商品の尊厳を否認することである。それは障害のあるアーティストに強烈なスティグマを与える。(32~33、130~131ページ)
●集団に多様性があるように見せかけるために「お飾りのマイノリティ」が選別されることがある。その「トークン(token:象徴)な存在」は、弥縫であり欺瞞である。(55~57ページ)
●「自立とは依存先を増やすこと」「依存症とは身近な他者に依存できない病気」(熊谷晋一郎)である。人はひとりで自立できないし、ひとりで自立してはいけない。障害の有無に関係なく、他者に依存することが自立である。(100~101ページ)

ソーシャルデザインとシーシャルデザイナー
●ソーシャルデザインとは、「社会的課題を解決するための意図的な企て」「(弱い人を)非差別化するデザイン」をいう。それは、「公憤」(正義感から湧きあがる公共のための怒り)を前提とする。(14~15ページ)
●ソーシャルデザインはまた、共通の目的のために自発的に結びつき、協働しながらも、度が過ぎた干渉はしない「ギルド(guild)的チーム」(生活共同体)のうえに成立する。つながり過ぎると協働することはできない。(37~38、85ページ)
●他者の生活の困りごとを解決したいと願う人は誰もが、ソーシャルデザイナーである。ソーシャルデザイナーはミクロ領域を注視し、常に弱者に寄り添い、傍(かたわ)らに立ちその機会を増やしていく。そのソーシャルデザイナーが「正義のミカタ」であるかどうかを決めるのは、弱者である。(14、42ページ)

チームとリーダー
●多様性を抜きにしたチームづくりは不可能である。多様な社会的背景を持つ人たちが集まれば、その人の数だけ仕事のバリエーションは増える。バラツキをバラツキのままひとつのチームにまとめれば、より永く生き延びる。(12~13、102、106ページ)
●チームが深く協働するためには、メンバーが悲しい秘密を持ち寄り・共有し・守り合えること、しかもメンバーに強すぎる結びつきを要求しないことが肝要である。そこには、信頼と安心があり、過剰なコントロールがない。(94~97ページ)
●他者の意見やアイディアは自分のものである。これはリーダーの特権ではなく、チームのメンバー全員に与えられ戦術である。メンバーの意見・アイディアが「取り込み、取り込まれる」なかで、意見・アイディアもチームも成熟する。(162~165ページ)
●チームには、他者に自らの揺らぎを見せない・ブレない「強いリーダー」ではなく、他者に自らの揺らぎを見せつつ、協働で答えを探る「専門家としての弱いリーダー」が必要となる。(169ページ)
●行政と企業とNPOが協働して社会的課題を解決する、しかもその三角形の真ん中に市民がいる市民自立型社会の形成が求められる(村木厚子)。そのためには、3つのセクター(行政、企業、NPO)を架橋する・垣根を越えて活躍する「トライセクター・リーダー(Tri-Sector Leader)」が必要かつ重要となる。(198~199ページ)

〇前述の「弱さ」と「多様性」に関するひとつの論点を再確認しておきたい。先ず「弱さ」については、高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)氏の「効率的な社会、均質な社会、『弱さ』を排除し、『強さ』と『競争』を至上原理とする社会は、本質的な脆(もろ)さを抱えている」(高橋源一郎・辻信一『弱さの思想―たそがれを抱きしめる―』(大月書店、2014年2月。12ページ)という指摘である。併せて、筆者の拙稿――本ブログの<雑感>(146)「弱さ」考―「弱さの強さ」と「強さの弱さ」―/2021年11月24日アップ、を思い起こしたい。そこで紹介している天畠大輔(てんばた・だいすけ)氏と澤田智洋(さわだ・ともひろ)氏の次の一節を引いておくことにする。「僕は介助なしでは何もできない。しかし、だから多くの人とかかわり、深く繋がり、ともに創りあげる関係性を築いていける。それが僕の<強み>になっている。能力がないことが<強み>なのである。自分だけで何もできないことは、無能力と同義ではない」(天畠大輔『<弱さ>を<強み>に―突然複数の障がいをもった僕ができること』(岩波新書、2021年10月、226ページ)。「『弱さ』の中にこそ多様性がある。だからこそ、強さだけではなく、その人らしい『弱さ』を交換し合ったり、磨き合ったり、補完し合ったりできたら、社会はより豊かになっていく」(澤田智洋『マイノリティデザイン―「弱さ」を生かせる社会をつくろう―』(ライツ社、2021年1月、51~52ページ)。ともに今中氏の言説に通底するところである。
〇「多様性」については、熊谷晋一郎(くまがや・しんいちろう)氏の「凡庸(ぼんよう)コンプレックス」、すなわち個性のない・どこにでもいる規格化・平準化された「ふつう」の人間が、「奇妙に多様性を奨励する社会の中で、相対的に可視化された(奇抜な)障害者への嫉妬が芽生えるという転倒した現象も起きている」(熊谷晋一郎「『用無し』の不安におびえる者たちよ」里見喜久夫『障害をしゃべろう! 上巻 ―『コトノネ』が考えた、障害と福祉のこと―』(青土社、2021年10月、185ページ))という指摘である。併せて、筆者の拙稿――本ブログの<雑感>(122)「ふつう」別考―深澤直人著『ふつう』と佐野洋子著『ふつうがえらい』等のワンポイントメモ―/2020年10月30日アップ、の一節を改めて引いておきたい(一部修正)。

「ふつう」は私とあなたの「あいだ」にある(私は、周りのあなたとの類似性を重視し、そこに安寧や安心を感じる。私は、周りのあなたとの相異性に緊張し、そこに不安や劣等感を感じる)。/「ふつう」は私とあなたの「ふだん」にある(私が「ふつう」を意識するのは、日常の生活場面においてである)。/「ふつう」の隣に「特別」がある(私には独自性欲求があり、それが自尊感情を高める一方で、孤独感や差別意識・偏見を生む)。/そして、私は「ふつう」を求め、あなたを「ふつう」にさせる(私は、人並みを求め、周りから目立つあなたを攻撃する)。

阪野 貢/「主権者教育」「シティズンシップ教育」の一環としての「市民福祉教育」を考えるために―新籐宗幸著『「主権者教育」を問う』再読メモ―

〇教育基本法(2006年12月22日公布・施行)の第14条(政治教育)は、「良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない。2 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。」と謳(うた)っている。まず、この条文を押さえておきたい。
〇日本において「主権者教育」の必要性が声高に叫ばれるようになるのは、2000年代以降である。その政策化のひとつの重要な契機は、総務省が2011年4月に設置した「常時啓発事業のあり方等研究会」(座長:佐々木毅)の報告である。その「最終報告書」(2011年12月)では、子ども・若者に対する新たなステージとしての「主権者教育」の必要性と重要性を説き、現代に求められる新しい主権者像のキーワードは「社会参加」の促進と「政治的リテラシー(政治的判断力や批判力)」の向上である、とした。そして、「主権者教育」を次のように規定する。「欧米においては、コミュニティ機能の低下、政治的無関心の増加、投票率の低下、若者の問題行動の増加等、我が国と同様の問題を背景に1990年代から、シティズンシップ教育が注目されるようになった。それは、社会の構成員としての市民が備えるべき市民性を育成するために行われる教育であり、集団への所属意識、権利の享受や責任・義務の履行、公的な事柄への関心や関与などを開発し、社会参加に必要な知識、技能、価値観を習得させる教育である。その中心をなすのは、市民と政治との関わりであり、本研究会は、それを『主権者教育』と呼ぶことにする」(7ページ)。
〇いまひとつ注目すべきは、文部科学省が2015年10月、1969年10月の文部省初等中等教育局長通達「高等学校における政治的教養と政治的活動について」を廃止し、それに代わって同通知「高等学校等における政治的教養の教育と高等学校等の生徒による政治的活動等について」を発出したことである。1969年通達では、「国家・社会としては未成年者が政治的活動を行なうことを期待していないし、むしろ行なわないよう要請している」。「生徒が政治的活動を行なうことは、学校が将来国家・社会の有為な形成者として必要な資質を養うために行なっている政治的教養の教育の目的の実現を阻害するおそれがあり、教育上望ましくない」などとして、学校内外における政治的活動を「禁止」した。そのねらいは、1960年代後半にベトナム反戦運動等を契機に多発・激化した学生運動(大学闘争)やその高校・高校生への波及(高校紛争)を阻止しようとするところにあった。
〇2015年通知では、「今後は、高等学校等の生徒が、国家・社会の形成に主体的に参画していくことがより一層期待される」。「現実の具体的な政治的事象も取り扱い、生徒が有権者として自らの判断で権利を行使することができるよう、より一層具体的かつ実践的な指導を行う」などとした。その背景には、「18歳が世界標準」というなかで、選挙権年齢が「満18歳以上」(2016年6月施行)、成年年齢が「18歳」(2022年4月施行)にそれぞれ引き下げられたことがある。それに伴って、「主権者教育」の重要性が強調されることになる。
〇しかし、2015年通知の内実は、「高等学校等の生徒による政治的活動等は、無制限に認められるものではなく、必要かつ合理的な範囲内で制約を受ける」などと、学校や教員の「指導」等による、学校内外における政治的活動の規制を求めるものとなっている。すなわちそれは、基本的には政治的活動の自由化を促したり、容認したりするものではない。
〇2015年9月、総務省と文部科学省は、高等学校等の生徒向け副教材として『私たちが拓く日本の未来―有権者として求められる力を身に付けるために―』の<解説編><実践編><参考篇>と教師用の<活用のための指導資料>を作成・公表した。それは、政府主導の「主権者教育」の展開をこと細かく指示するものとなっている。また、選挙権年齢の引き下げによる「主権者教育」の強調は、「有権者教育」に縮小・限定される恐れなしとしない。そこで、民主主義を成り立たせる前提である「人権」や「思想・良心(信条)の自由」などに基づく議論が必要かつ重要となる。
〇2017年3月に小・中学校、2018年3月に高等学校の「新学習指導要領」が告示された(小学校では2020年度、中学校では2021年度から全面実施、高等学校では2022年度から年次進行で実施)。それに基づいて、小・中学校と高等学校では、児童・生徒の発達段階に応じた「主権者教育」を実施し、主権者として必要な資質・能力を教科等横断的な視点で育成することとされている。高等学校では、従来の「現代社会」に代わって、「公民」科の新しい必修科目「公共」が設けられている。
〇また、文部科学省は2018年8月、新学習指導要領の下での学校・家庭・地域における「主権者教育」の推進方策について検討するために、「主権者教育推進会議」(座長:篠原文也)を設置した。そして、2021年3月に「今後の主権者教育の推進に向けて」最終報告を公表した。そこでは、主権者教育をめぐる課題と今後の推進方策に関し、(1)(小・中学校、高等学校、大学、教師養成・研修等)各学校段階等における取り組みの充実、(2)家庭、地域における取り組みの充実、(3)主権者教育の充実に向けたメディアリテラシー(メディアからの情報を批判的・創造的に読み解く能力)の育成、などについて提言する。そして、その提言を実現するために、(4)社会総がかりでの「国民運動」としての主権者教育推進の重要性を説く。こうした文部科学省の取り組みは、前述の2015年通知や『私たちが拓く日本の未来<活用のための指導資料>』に示された考え方の周知を図ろうとするものであり、内容的には新味に欠ける。
〇ところで、3月13日、新藤宗幸(しんどう・むねゆき。行政学・地方自治論専攻)が亡くなった(享年75)。4月1日、「18歳、きょうから成人」である。そんななかで、新藤の著作の一冊である『「主権者教育」を問う』(〈岩波ブックレット No.953〉岩波書店、2016年6月。以下[1])を再読することにした。
〇[1]における議論・言説の要点のひとつは、こうである(抜き書きと要約)。「主権者教育」は、現実の政治の実態を棚にあげ、単に新有権者に「政治的な教養を育む教育」を説くのではない(10ページ)。「主権者教育」は、まず現実の政治が生み出している社会的問題事象の中身を学習し、政治にどのような利害が反映されているのかを学ぶことから始めるべきである(15ページ)。「主権者教育」に求められているのは、日々生起する政治的事象の内実をみる眼を養うことであり、また政治権力の行動の意味を洞察する能力を高めることである(7ページ)。「主権者教育」は、政治権力に従順な人間を育てることではない(21ページ)。
〇「主権者教育」と表裏一体で強調されるものに、「教育における政治的中立性」がある。続けて新藤はいう。政権の言説やそれを忖度した同調の「政治性」は不問に付され、それらに対する批判的言説が「政治的中立性」に反するとされる傾向にある(23ページ)。「教育における政治的中立性」という場合の「政治」とは、「政治」一般をさしているのではなく、あくまで「政党政治」を意味する(30ページ)。「教育における政治的中立性」とは、政党政治の介入を排除する規範としての意味をもつものである(30ページ)。しかも、それだけではなく、教員にあっては自らの思想・信条や専門的知識にもとづいて、物事には社会的にも学問的にも多様な見解があることを示しつつ、自らの見解を説かねばならない(31ページ)。こうした能動的な教育と教員による「政治的中立性」を保障するためには、文部科学省から校長にいたる「タテの行政系列」を改革する必要がある。同時に、首長のもとの教育行政への市民参画を徹底するとともに、学校ごとに生徒・教員・市民が参画する運営組織をつくるなどして、「教育行政の政治的中立性」が実現されなければならない(43ページ)。
〇日本においては、国家による統一的・画一的な管理主義教育や教育行政が、学校現場や教育委員会を「思考停止」状態に追いやり、生徒の自主的・主体的な活動を制約あるいは否定してきた。そういうなかで、真の「主権者教育」の推進を図るためには、如何にして生徒の政治的関心を高め、政治的教養を豊かにするか。そして、学校内外における多様な政治的問題状況に異議申し立てをし、政治的活動への参加を促すか、が問われることになる。そのためには例えば次のようなことが求められる、と新藤はいう。政治的教養を培うにあたって、若者に限らず大人たちが生活の場に生じているさまざまな市民運動や社会運動との接点をもつ(61ページ)。学校は地域の多様な集団と生徒の交流の場を用意し、生徒たちが地域の課題を通じて政治のあり方を考える機会とする(63ページ)。地方自治体の首長や各行政セクションの職員、教育委員会や教育長・教育委員、自治体の議会や議員などと交流し、地域政治や地域行政の役割やあり方などについて議論する(64、65ページ)。学校を「地域に開かれた学校」「民主的な学校」にするために教員は、市民としての感性を磨きつつ、教育のプロフェッション(専門職)として、市民の支援を得ながら、学校改革や教育改革に立ち上がる(59、60ページ)、などがそれである。
〇日本における「主権者教育」のモデルのひとつは、イギリスの「シティズンシップ教育(Citizenship Education)」である。それを方向づけたのは、政治学者のバーナード・クリック(Bernard Crick)らが中心となってまとめた1998年9月の政府答申「シティズンシップのための教育と学校でのデモクラシーの指導(Education for citizenship and the teaching of democracy in schools)」(「クリック・レポート」)である。イギリスでは、この答申に基づいて2002年から、中等教育段階(第7学年~第11学年。日本の小学校1年~高校1年)でシティズンシップ教育が必修化された。
〇クリック・レポートでは、シティズンシップを構成する要素として、「社会的・道徳的責任(social and moral responsibility)」「コミュニティへの関与(community involvement)」「政治的リテラシー(political literacy)」の3つが挙げられている。この3つの事柄は、相互に関連性を有し、依存関係にある。クリックによればシティズンシップ教育は、ボランティア活動の促進に偏りがちであるが、「能動的な市民(active citizen)」の育成こそがその中心に位置づけられるべきである。そのためには、「政治的リテラシー」(政治的判断力や批判力)を中核的な内容とするシティズンシップ教育が肝要となる。なお、この「3つの柱」について、クリック・レポートは次のように述べている(下記「参考文献」(3)122、123、124ページ)。

社会的・道徳的責任
子どもたちが、権威のある者ならびにお互いに対して、幼少からの自信や社会的・道徳的な責任ある態度を教室の内外で見につけることです。このような学習は学校の内外を問わず、子どもたちが集団で行動したり遊んだりするときあるいは自分たちの地域における活動に参加するときに、時と場所を選ばずに展開されるべきです。
コミュニティーへの関与
自分たちの社会における生活や課題について学び、それらに有意義な形で関われるようになることです。社会参加・社会奉仕活動を通じた学習もここに含まれます。
政治的リテラシー
児童・生徒が知識・技能・価値観といったものを通じて、市民生活(public life)について、更には自身が市民生活において有用な存在となるための手段について学ぶことです。

〇シティズンシップ教育の一環として考える「まちづくりと市民福祉教育」についても、同じことが言える。すなわち、「市民福祉教育」が「まちづくり」のための地域貢献活動やボランティア活動、あるいはサービスラーニングなどとの関連性を問うとき、主権者・政治主体としての子ども・青年から大人までの「市民」に求められる政治的リテラシーの育成にとりわけ留意する必要がある。別の著作で述べているクリックの次の一節を引いておく(下記「参考文献」(2)199~200ページ)。留意したい。

イギリスでも合衆国でも、多くの指導的政治家たちはシティズンシップを、イギリスでは「ボランティア活動」に、合衆国では「公共奉仕学習」(サービス・ラーニング)に切り詰めようとしている。しかし、ここには難しさがある。ボランティア活動一辺倒になってしまうと、善意あふれる年寄りたちが若者に何をすべきかを言って聞かせるだけに終わってしまいかねないのだ。ボランティアに与えられた任務の目的や方法を誤っていると思ったり、つまらないことのよう思ったりしたときに、その改善策を提案してゆく責任を与えないでおいて、それを全うする責任だけを引き受けさせるということになれば、ボランティアたちは市民として扱われていないことになる。こうなれば、ボランティアは単なる使い捨ての要員にされかねないし、また彼らを幻滅させることになるだろう。

補遺
〇日本における「シティズンシップ教育」の政策化に関しては、経済産業省(委託先:三菱総合研究所)が「シティズンシップ教育と経済社会での人々の活躍についての研究会」(委員長:宮本みち子)を設置し、2006年3月に「報告書」、同年5月に「シティズンシップ教育宣言」(パンフレット)をそれぞれ発表している。「報告書」では、「シティズンシップ」について、「多様な価値観や文化で構成される社会において、個人が自己を守り、自己実現を図るとともに、よりよい社会の実現に寄与するという目的のために、社会の意思決定や運営の過程において、個人としての権利と義務を行使し、多様な関係者と積極的に(アクティブに)関わろうとする資質」(20ページ)と定義している。
〇また、「シティズンシップ教育宣言」では、「シティズンシップ教育の必要性」について、「報告書」中の説述(9ページ)を次のようにまとめている(3ページ)。

私たち研究会では、成熟した市民社会が形成されていくためには、市民一人ひとりが、社会の一員として、地域や社会での課題を見つけ、その解決やサービス提供に関する企画・検討、決定、実施、評価の過程に関わることによって、急速に変革する社会の中でも、自分を守ると同時に他者との適切な関係を築き、職に就いて豊かな生活を送り、個性を発揮し、自己実現を行い、さらによりよい社会づくりに関わるために必要な能力を身につけることが大切だと考えます。
一方で、こうした能力を身につけることは、いかなる人々にとっても、個々人の力では達成できないものであり、家庭、地域、学校、企業、団体など、様々な場での学びや参画を通じてはじめて体得されうるものであると考えます。
上記のような能力を身につけるための教育、すなわちシティズンシップ教育を普及して、市民一人ひとりの権利や個性が尊重され、自立・自律した個人が自分の意思に基づいて多様な能力を発揮し、成熟した市民社会が形成されることを期待しています。
なお、私たち研究会の提言は、市民に奉仕活動などを義務付けたり、国家や社会にとって都合のよい市民を育成しようという目的のものではありません。

参考文献
(1)新藤宗幸『「主権者教育」を問う』(岩波ブックレット No.953)岩波書店、2016年6月。
(2)バーナード・クリック、添谷育志・金田耕一訳『デモクラシー』(<一冊でわかる>シリーズ)岩波書店、2004年9月。
(3)長沼豊・大久保正弘編、バーナード・クリックほか著、鈴木崇弘・由井一成訳『社会を変える教育 Citizenship Education ~英国のシティズンシップ教育とクリック・レポートから~』キーステージ21、2012年10月。
(4)蒔田純『政治をいかに教えるか―知識と行動をつなぐ主権者教育―』弘前大学出版会、2019年6月。
(5)日本学術会議政治学委員会政治過程分科会『報告 主権者教育の理論と実践』日本学術会議、2020年8月。
(6)全国民主主義教育研究会編『「公共」で主権者を育てる教育を』(民主主義教育21 Vol.15)同時代社、2021年7月。