〇筆者(阪野)の手もとに、東京藝術大学や東京大学で中高生や社会人を対象に行なわれた体験型授業の様子をまとめた本がある。東京藝術大学 Diversity on the Arts プロジェクト編『ケアとアートの教室』(左右社、2022年1月。以下[1])と山中俊治著『だれでもデザイン―未来をつくる教室-』(朝日出版社、2021年11月。以下[2] )がそれである。
〇[1]は、2016年より開設された、約100人の社会人と約30人の藝大生が共に学ぶ履修証明プログラム(Diversity on the Arts Project、通称:DOOR)の講義と実践の様子(体験)を記録したものである。そこでは、「アート Χ 福祉」をテーマに、共生社会を支える人材の育成とコミュニティの醸成をめざす(2ページ)。講義で取り上げる具体的なテーマは、貧困、障害、性的マイノリティ、引きこもりなど多岐にわたる。講師もアーティストや障がい者、福祉の専門家、現代社会に生きづらさを感じている当事者など多様である。
〇DOORでの「学び」は、次のようなことを基本的な考え方(コンセプト)にする。共生社会の実現には、創造性(アート)とそれが活きる環境を耕す(cultivate)ことが重要である(4ページ)。何かを学ぶうえで、「誰と学ぶのか」、学びの対象と「どう出会うのか」が重要な要素となる(5ページ)。アート(=創造性)の領域では「個人の主観」が大切にされるが、自分の主観の深いところには他者との共通点がある。アートも福祉も、多くのひとたちとの「対話」(「創造のコミュニケーション」)や「協同」のなかで、異なった何かと自分とが融合し、変化し、豊かになっていく(7、8ページ)。すなわちこれである。
〇身近にある、状態としての多様性(diversity)に対して「想像」を巡らし、対話し、歩み寄り、見えないものを知覚することによって、共生社会の「創造」に向けて動き出す(236、238ページ)。多様性が創造性(creativity)を生み、育てるのである。
〇[1]から、「まちづくりと市民福祉教育」に関して、「気になる」あるいは「使える」論点や言説のいくつかをメモっておく(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者。見出しの後の氏名は講義者)。
アートと福祉は多様性を特性とする/日比野克彦
アートと福祉は、アプローチこそ違え、視座が「多様性」を重視しているのは同じである。多様性のある社会を築いていくためには、違いを認め合う「アートの特性」を基盤にして、そのうえに福祉や経済などさまざまなものを組み立てていくことが肝要になる。(17ページ)
被支援者との共感不可能性を共感する/奥田知志
ホームレスなどの生活困窮者を支援する際、「大変でしたね」「わかります」というと、10人にふたりくらいは「野宿をしたこともないのに何がわかるんだ」と怒る。支援活動を行なううえでは、この「共感不可能性」を常に意識していなければならない。相手との対等性をいかに保ち、共感不可能性にどれほど共感できるかが重要となる。(40ページ)
アートは既成の価値観に異議を唱えること/久保田翠
知的障害があるひとの、「よくわからない」行為も、本人が生きるために不可欠なことであり、生きている証である。知的障害のあるひとたちの存在自体がアートであり、彼らの生き様そのものがひとつの表現である(「表現未満、」)。表現やアートはできあがった作品だけをさすのではない。知的障害のあるひとたちの存在をまるごと認め、彼らに対する見方を変えこと、すなわち既成の価値観に異議を唱えることがアートである。(59、61ページ)
ALLY(アライ)の存在は重要であるが‥‥‥/松岡宗嗣
性的マイノリティの存在は「いない」のではなく、「見えていない」のである。性的マイノリティのひとびとは、「ふつう」や「あたりまえ」とされる規範的な性のあり方の枠組みから排除されることで、さまざまなライフステージごとの困難に直面する。「ALLY(アライ)」は、「支援者」「同盟」「味方」を意味する。アライになるためには、「知る」こと、「変わる」こと、そして「行動する」ことといったステップが必要となるが、誰もが誰かのアライになれる。しかしその際の、「当事者ではないが味方」という考え方は、二項対立的な考えにつながる。「かわいそうなマイノリティを助ける」という考え方は、自分自身の差別意識を不可視化する。(85、91、98、99、100ページ)
対話がつながりの回復を図る/六車由実
介護現場では、利用者の人生や経験について話を聞くことで、彼らそのものを理解し、思い出を共有すること。それと共に、個人史からそのひとたちが生きてきた時代や地域の歴史、生活のあり方を知り、伝えていくこと、が大切となる(「介護民俗学」)。利用者同士や利用者とスタッフによる平等で開かれた「対話」によって、スタッフから利用者へという一方的な固定化された関係性が修復される。介護現場で一番大切なのは、要介護度が上がらないようにする支援(自立支援介護)ではなく、「つながりの回復」を図る支援である。つながりがあれば、老いや病、認知症で体が動かなくなったとしても、ひとは最後まで希望をもって生きていける。(123、129、131ページ)
〇[2]は、2017年に22名の中高生に対して、山中俊治(デザインエンジニア)の研究室(東京大学生産技術研究所)で行なわれた「デザイン」に関する4日間の特別授業を再現したものである。そこでは、身の回りのものをよく観察してアイデアを生み出し、「そこに新しい価値を見出し、形に落とし込み、人に伝え、一緒に完成させていくデザイナーの営み(デザインの方法)の根幹」(5ページ)が具体的に綴(つづ)られている。山中にあってはそれは、「人間がなにかを生み出す時の普遍的な方法」(6ページ)である。また、デザインは「人工物、あるいは人工環境と人の間で起こるほぼ全てのことを計画し、幸福な体験を実現すること」(43ページ)と定義づけられる。
〇デザインは、ひとびとが日常生活上のベネフィット(benefit:利益、恩恵、便益)を得て効率よく、豊かに暮らすために、安全性や操作性、格好よさや愛着、値段などをトータルにプランニングする営為である(44ページ)。それは、感覚的なものと科学的な知識を融合する営みである。その仕事を行なうデザイナーは、それが「総合的な営み」であるという点において、映画監督やオーケストラの指揮者に近いともいえる(51ページ)。
〇[2]から、「まちづくりと市民福祉教育」に関して、「気になる」あるいは「使える」論点や言説のいくつかをメモっておく(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。
サイエンスとアートとデザイン/デザインする
サイエンスとアートの目的は真理の探求にある。デザインはいつも誰かをハッピーにすることをめざす。サイエンスは、客観性を追求して記述し、検証しあって知識を共有する。アートは、主観を追求して表現し、「共感」を共有する。その共感を確実なものにするために、評論が大切な役割を果たす。デザインは、サイエンスとアートの両方の知見から得たことを統合して、安全性や操作性、格好よさなどの高いモノをつくる。(47、49、51ページ)
デザインはアイデアが命である/アイデアを出す
デザインのコアになるのはアイデアである。アイデアの本質はそもそも偶然である。アイデアのヒントはいつも観察のなかに、他人の頭のなかにある。また、知識や経験、情報のなかにある。そしてアイデアは、それらを「つなぎ替える」「つなぎ直す」ことである。要するに、「アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもない」(ジェームス・W・ヤング)。(174、186、188、190、344ページ)
スケッチを描くということ/スケッチする
スケッチを描くということは、自分が何を見て、何を見ていないかを意識することである。描くということは、そこを見ることと連動していて、見ていないところは描けないし、描く時には必ず見ようとする。私たちは注目しているところ以外を見ておらず、無意識に、全部は見ないようにしている。絵を描くことで意識的に見る範囲を限定したり、見る範囲を決めることができる。スケッチに全ては描かない。最も重要なエッセンスを抽出して(抽象化して)リアリティを与えるということが、スケッチの表現の根幹である。(70、71、110ページ)
デザインが社会変革を促す/未来を拓く
義足をデザインしているとき、失われた体の一部を補完するというより、新しい体を作っている感覚がある。義足は障がい者のために作ったものであるが、実は、障がい者を見る社会のほうが変わるきっかけになる。義足は大量生産ではなく、一人ひとりの切断者に合わせて、「かっこよく」「美しく」作る。一人ひとりのためのデザインが、そのものに目を向けさせ、社会の意識を変え、未来を拓く。いま、みんなのためのデザインから一人ひとりのためのデザインへと、時代は流れている。(318、320、323ページ)
〇以上を要するに(一面的であるが)、アートは、多様性にアプローチしてその異なる存在を認識し、より理解を深め、問いを投げかける(自己表現、問題提起の)営みである。デザインは、過去や「いまここ」から学び、一人ひとりに合わせたものの存在を生み出し、社会変革をもたらす(他者実現、問題解決の)営みである。その点においてアートとデザインは、「まちづくりと市民福祉教育」が内包する営みでもある。留意しておきたい。
〇前述のように、DOORでの「学び」のキーワードのひとつは、「創造性」と「多様性」である。その点に関して、重ねて次の一節を引いておく(抜き書き)。
アート=創造性は、誰のなかにでもある。ひとはどんな苦境においても、創造性を完全に忘れることはない。むしろ、そうした創造性に小さな喜びや希望を見出し、自己と向き合い、ときに他者とそれを共有することで、ひとはひとらしくあり続けることができ、「生きよう」とする思いをも強くできる。([1]3ページ)。
ダイバーシティ(多様性)をめざす、という言葉をよく聞く。しかし、多様性とは状態であり、すでに私たちの周りに存在しているものである。こうした多様性があるという状況を、どれだけセンシティブ(敏感)に感じとれるかということが重要になる。「さまざまなひとがこの世界で生きている」と言葉ではわかっていても、どれだけその状況を意識できるかどうかは、個々によって開きがある。多様なひとびとがいて、さまざまな世界の感じ方がある、ということをより意識できるようになってほしい。([1]232~233ページ)
〇創造性は時に、「ひらめき」すなわち偶然から生まれる。その「ひらめき」は、個々人の「記憶された知識や経験」に基づいてもいる。したがって、創造性は不確かであり、独創的である。しかしその本質は、新しい快適で豊かな未来社会を拓くところにある。多様性は一面では、マジョリティ(多数派)の文化や視点から唱えられる。一方からの多様性の強調は、“出る杭は打たれる”日本社会にあって、同調圧力を強めることにもなる。しかしその本質は、マイノリティ(少数派)の文化や視点を中心に据えた共生社会を形成するところにある。そこでまずは、創造性も多様性も、そのひとがそのひとらしく、共に生きられる地域・社会を共に創ることをめざして、さまざまなヒト・コト・モノをそれぞれに「気にする」ことから始まる。付記しておきたい。