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阪野 貢/経済学者が説く「コミュニティの再生」:警鐘と提言 ―ラグラム・ラジャン著、月谷真紀訳『第三の支柱』のワンポイントメモ―

〇筆者の手もとに、ラグラム・ラジャン著、月谷真紀訳『第三の支柱―コミュニティ再生の経済学―』(みすず書房、2021年7月。以下[1])がある。ラジャンは、インド出身の経済学者で、シカゴ大学教授である。[1]でラジャンはまず、社会を支える三本の支柱である国家(state)と市場(market)とコミュニティ(community)について、「ざっくり」と定義づける。国家は「一国の政治統治構造」であり、市場は「経済において生産と交換を促進する民間経済構造(の)すべて」をいう。そしてコミュニティは「規模を問わず、メンバーが特定の地域に住み、統治を共有し、共通の文化的および歴史的遺産を有することが多い社会集団」である、とする(xivページ)。
〇そのうえでラジャンは説く。社会の繁栄にとって、国家と市場とコミュニティはその均衡を保つことが重要である。近代以降、国家と市場がコミュニティの権限や機能を侵食し、コミュニティが縮小・衰退するなかで、三本の支柱のバランスが崩れてきた。とりわけ1970年代前半以降、ICT(Information and Communication Technology、情報通信技術)革命や経済のグローバル化(globalization、地球規模化)なとが進展するなかでその不均衡が深刻化し、今日、社会は危機的状況にある。これがラジャンの主張である。
〇危機的状況を平易・簡潔に言えば、技術革命によって能力の高い者は、新技術に適応して高所得を得、より裕福で健全なコミュニティに移住する。その一方で、適応能力の低い者は失業や家庭・生活環境の悪化に見舞われ、衰退するコミュニティに取り残される。また、グローバル化は、地域産業を衰退させ、それに依存していたコミュニティは縮小スパイラルに陥る(xxページ)。そういうなかでラジャンにあっては、[1]における中心課題は、「三本の支柱の均衡をいかに回復し、進行中の破壊的技術変化と社会変化に対峙するか」(xiiiページ)である。また、「貧しいコミュニティは優秀な人材を(いかに)つなぎとめつつ、その場所で発展する方法を探す」(xviiページ)かが重要な課題となる。
〇こうしたコミュニティの衰退(機能不全)は、所得分配の二極化を促し、社会階層の格差の拡大と固定化をもたらす。とともに、疎外された個々人は孤立し、帰属欲求の捌け口(はけぐち)を政治的ポピュリズム(特権的なエリート層に対抗する「大衆迎合」的な政治思想・運動)に求める(xxページ)。その結果、社会に格差と分断が生み出されることになる。ラジャンが警鐘を鳴らすところである。
〇そしてラジャンは、国家・市場・コミュニティの不均衡を取り戻すための方策を「コミュニティの再生」に見出し、「包摂的ローカリズム」(localism、地域主義)を提案する。コミュニティを再生する鍵は、優れたリーダーの存在、人的・物的資産の発見・再生・誘致、住民のコミュニティ参加、それに国家による税制・財政支援である(395~410ページ)。包摂的ローカリズムは、「地域のインフラ、能力育成の手段、コミュニティレベルのセーフティネットを強化することによって、機会を広げ平等化する試みである」(466~467ページ)。別言すればそれは、(地域住民の)「アクセスを広げこと」を狙いとする。すなわち「市場、雇用、能力、そしてセーフティネットに誰もがアクセスできるようにしつつ、コミュニティに分権化し、人びとに権利感覚を与えること」(383ページ)である。ラジャンはいう。国家・市場・コミュニティの三本の支柱のどれひとつ、なくてもいいとする考えには与(くみ)しない。国家と市場は必要である。コミュニティは私たちの人間性の表現になくてはならないものである。ただし国家は力をコミュニティに移譲すべきである。国家と市場からコミュニティの領域を削り取る必要がある(467ページ要約)。
〇以上がラジャンの議論・主張の概要である。その理解を多少とも深めるために、次の一文をメモっておくことにする(見出しは筆者)。

国家・市場・コミュニティの不均衡
社会が病むのは、三本の支柱のどれか一つが他に比べて過度に弱まったり強まったりした時だ。市場が弱くなりすぎれば社会の生産性は落ち、コミュニティが弱くなりすぎれば社会は縁故資本主義( crony capitalism、縁故・仲間が優遇される資本主義:筆者)に傾き、国家が弱くなりすぎれば社会には恐怖と無関心が蔓延する。逆に市場が強くなりすぎれば社会は不公平になり、コミュニティが強くなりすぎれば社会は停滞し、国家が強くなりすぎれば社会は権威主義的になる。バランスが肝心なのだ。(xixページ)。

コミュニティの重要性
コミュニティは今でも社会で重要な役割を多数果たしている。個人を現実の人間のネットワークに定着させ、アイデンティティの感覚を与えるのはコミュニティだ。自分が世の中に存在している実感を持てるのは、自分が周囲の人々に影響を及ぼせるからだ。コミュニティを通して、私たちはPTA、教育委員会、(中略)地元の市長選挙や市議選挙といった地域の行政組織に参加して、自己決定の意識、つまり自分の生活を直接コントロールしている感覚を得ると同時に、地域の公共サービスを向上させようとする。重要なのは、公教育、政府によるセーフティネット、民間保険など、正規の制度が存在していても、今でも隣人の善意が不足を補っていることだ。(中略)現代でもコミュニティが健全に機能していれば、懇親会や自治会のような絆を強める活動を行い、市場と国家の侵食に対抗しようとしている。(xviページ)

コミュニティの価値
コミュニティが好ましい理由は容易にわかる。まず自分が何者であるかという意識を作ってくれる。そしてコミュニティ内では多彩な取引が可能だ。これは、すべてについて契約を結び、法によって厳正な履行を強制されなければならない場合の比ではない。コミュニティのためにしたことの記録はコミュニティ内で可視化され続け、匿名の市場に消え失せはしない。それが自尊心、当事者意識、責任感を高める。コミュニティは協力して子育てや弱者、高齢者、不運な者の支援にあたる。近さと受ける情報の深さのおかげで、コミュニティは状況ごとの具体的なニーズに支援内容を合わせることができる。また遠方の政府よりもはるかにタダ乗り屋に気づきやすく、給付を停止できる。結果として、利用できる資源は少ないにもかかわらず、本当に困っている人に、政府よりはるかに高度な給付を提供できる。コミュニティはこのように個人を助ける。教育や支援や拠りどころのない浮草人生の根になるのだ。(15ページ)

コミュニティ再生の方途
コミュニティ再生に成功した事例には次のテーマが共通しているようだ。すなわち、小さな熱意あるチームが取り組みを主導していること。コミュニティ内の異なるさまざまな関係者が結集していること。人的資本を含むコミュニティの主要な資産を発見し、活用、向上させていること。重大な弱点を克服してコミュニティのイメージを変えることに集中していること。そして重要なのは、成功の兆しが見えてそれに誇りを持つようになったところで、住民をコミュニティに参加させることだ。(399ページ)

小林亮平/資産運用と障がい者 ―投資で人生をより豊かにしてみませんか?―

〇僕は日頃、リハビリや生活介護の合間に講師活動や資産運用をしています。そんななかで、「障がい者などももっと投資をしたらいいのに」と思うことが時々あります。
〇そう思う一番の理由は、納税です。社会的弱者は納税の義務を免除されますが、投資をすれば所得税と地方税は徴収されます。
岸田総理は今年の参議院予算委員会で、物価高騰に対する予算案(2兆7000億円)の財源を野党に追究されるなかで、税率を上げるのではなく経済の成長を促すことにより財源を賄えるというような趣旨を述べていました。国民に投資を促せば税収増加につながるとの考えでしょうか。今年から、高校で金融教育が始まったのもそのためじゃないでしょうか。
障害のある方もこの考えに賛同して、目に見える形で社会に貢献できるというメリットは大きいと思います。通常、福祉のサービスを使うだけの存在と思われがちな障がい者も、目に見えて貢献できるという訳です。障害がある・ないにかかわらず、陰では社会貢献していてもそのことが周囲に伝わらず、時にはバッシングされるのは空しいことです。
〇二つ目の理由に、スマホもしくはパソコンが使えれば場所を選ばないということです。取引事態は市場が開いている平日の日中でなければ無理ですが、注文を出したり情報を分析したりするのはそれ以外の時間帯でもできます。つまり、寝たきりの方や病院通いの方、ひきこもりの方や外出が困難な方にも有効ではないかと思います。
〇収入は二種類に分けることができます。労働収入と金融収入です。労働収入とは、文字通り労働をして給料をもらうことです。一方金融収入とは、お金を使ってお金を増やすことで、銀行の預金や年金、そして投資もこれにあたります。
僕は18歳で入院して20歳で退院しましたが、重度の身体障がい者となっていて、定時に出社などの理由から労働収入を得ることは無理に近いと思っていました。それで投資を始めるに至ったのですが、投資とはまとまった資金でもない限り何の経験もない若造がいきなり始めて利益を上げられるものではありません。ですが障がい者には障害基礎年金という、言わばベーシックインカムのようなものがあります。これが三つ目の理由です。
〇僕は、最初の頃は安定した収益があげられず、儲かるときもあれば損をするときもあるといった具合で、結構苦労しました。でも時間が経過して経験を積み重ねた今では、少ないですがささやかな資産を築いています。
〇この15年以上の経験で学んだことはいろいろあります。一番大事な考えは、リスクは排除すべきものではなく必要経費であるという考え方です。リターンを得たければ、リスクは(大なり小なり)とらなければなりません。リスクとリターンは比例します。ローリスク・ローリターンか、ハイリスク・ハイリターンか。ローリスク・ハイリターンなんて商品はありません。あるとすれば、それはギャンブルか詐欺の類いでしょう。
そして、リスクを必要経費と捉えるには、リスク管理(リスクマネジメント)が必要です。リスク管理とはリスクを自分で引き受けコントロールすることですが、なにもすべてのリスクを自分で引き受けることではありません。そもそもリスクとは、「将来のいずれかの時において何か悪い事象が起こる可能性」(Wikipediaより)といった意味です。この商品には、どういったリスクがあるか把握し自分ならどれだけのリスクまで許容することができるのか(どこまでのリスクをとれるのか)を把握することです。
〇投資をする上での心構えとして僕は、次のように考えています。
・投資は余力資金(なくなってもいいようなお金)ですること。投資の目的は、生活をより豊かにするためであって、生活そのものの目的にはしない方が良い。生活が掛かっている投資だと、プレッシャーに負けてしまいます。
・分散投資を心掛けること。例えば災害などである国の通貨や株が暴落したとします。もしもその国に資産が集中していたら、すべてを失うことになります。リスクは分散させることが大切です。とはいえ、
・少ない元手を増やしたければ、資金を集中されることも必要であること。投資とは確率論の勝負とも言えるので、勝てる確率が高い局面を見極めてそこに資金を集中させることも時には必要かと思います。そして、
・早くから始めること。投資での利益は元手の量にも比例します。同じく、経験値にも比例します。つまり、早くから始めたほうが有利です。
〇僕たちも、障害がある・ないにかかわらず、投資で人生をより豊かにしてみませんか?

阪野 貢/追記/「あるがままの君はここにいる。ここにいていい。いる権利がある」ということ ―内田樹著『複雑化の教育論』のワンポイントメモ―

〇本稿は、先の拙稿――<雑感>(155)「私のなかにみんながいる」ということ―桜井智恵子著『教育は社会をどう変えたのか』読後メモ―/2022年7月18日投稿 の追記である。
〇内田樹(うちだ・たつる)の近刊、『複雑化の教育論』(東洋館出版社、2022年1月。以下[1])を読んだ。[1]のキーワードは「複雑化」である。内田にあっては、教育とは子どもの「成熟」を支援する営みである。成熟とは量的増大ではなく、できあいの「定型」に収まることでもない。それは、漸進的に変化し、「複雑化」すること、昨日とは違う人間になることである(36、40ページ)。複雑化とは、繰り返し脱皮して変化していくことである。そこで教師や大人は、子どもが殻(から)を脱いで剝(む)き出しの裸になっている時に、「決して傷つけない」という保証をすることが肝要となる(51ページ)。学校は、査定や格付けの機関ではなく、子どもたちの成熟すなわちより複雑なものに成長してゆくプロセスを支援する場でなければならない(35、51ページ)。
〇これが[1]のひとつの要点である。その基底には、「複雑化するのは生命の自然である」(164ページ)、「複雑化することは進化することである」、「複雑なシステムの方が複雑な現実に適切に対処できる」(165ページ)、「システムを単純化すればするほど、システムは機能不全になり、脆弱になる」(163ページ)という内田の命題がある。
〇[1]のなかで内田は、「存在承認」に関して次のように説述する。それをメモっておくことにする(抜き書き。見出しは筆者)。本稿を草したねらいのひとつはここにある。

子どもたちを歓待し承認すること
学校教育で一番大事なことは、まずは子どもたちを歓待し、子どもたちを承認することです。君はここにいる。ここにいていい。いる権利がある。君がここにいることを私たちは願っている。そう伝えることができたら、学校教育としてはもう上等だと僕は思います。(221ページ)

「あなたはそこにいる」と認められること
人間は「救援の要請」(「ちょっと手を貸して」というタイプの要請)を断ることができない。これは人類学的真理なんです。それは「救援信号の宛て先はそれを聴き取った者である」という太古からのルールがあるからです。聴き取った者が「宛て先」なんです。「宛て先」はあらかじめ決まっていたわけじゃない。聴き取ってしまった者が「宛て先」に指名されて、ただちに応答責任が発生する。その時、人は「主体」として立ち上がる。
「他者からの承認」というのは、いろいろなかたちがありますけれど、要するに「あなたはそこにいる」と認められるということです。認知的にただ「あなたはそこにいる」と言うだけでもいいけれど、「あなたがそこにいることを私は願う」という遂行的なメッセージの方がずっと承認の強度は高い。そして、「あなたがそこにいることを私は願う」というメッセージを端的に表現したのが「ちょっと手を貸して」であり、さらに端的に言えば「助けて」ということになるわけです。人間は他者からの「助けて」という支援要請を聴き取った時に主体として立ち上がる。(204、205ページ)

「ありがとう」は承認と祝福を与える言葉
「ありがとう」と言われるのは、生きる上で必須なんです。それなしでは生きられない。「ありがとう」は「あなたはここにいてよい。あなたはここにいる権利がある。私はあなたがここにい続けることを願う」という社会的承認と祝福を与える言葉ですからね。(88ページ)

続「蛇足」
「お母さん、町屋のみっちゃんが来てくれたよ」「‥‥‥」「どちらさんですか?」「町屋のみっちゃんやがな」「‥‥‥」「町屋?‥‥‥それはどこや?」「町屋に行ったかどうか、わからんなあ」「‥‥‥」「そういうたら、頭が大きい子がいたなあ」「‥‥‥」「あの子はどうしてんのかなあ?」「‥‥‥」「ええ年齢やったからな、もう亡くなってるんやろうなあ」「‥‥‥」

筆者は、<雑感>(83)“死”とどう向き合うか、「生死の教育」を考えるために/2019年6月1日投稿、の記事の「蛇足」で、50年数ぶりに、壮絶な人生を送ってきた従姉に再会したことを記した。その時の、筆者(町屋のみっちゃん)らとの会話である。
彼女には再婚後、夫の連れ子との確執、夫の服役、加えて実子の自殺などの想像を絶する・耐え難いことが矢継ぎ早に起こった。そしてそこには、絶対的な貧困があった。周りの人はみな、見て見ぬふりをし、見ぬふりをして見ていた。そんななかで彼女は、「土方(どかた)」に出て生命(生活)の糧を得、一つひとつの困難に向き合い、同時並行的にそれらに対処した(そうせざるを得なかった)。そうして彼女は、がむしゃらに生きてきた。そしていま彼女は、80歳代後半の認知症患者として「存在」する。その存在(生命の主体)を娘たちは、しっかりと承認している。だからこそ彼女はいう、「私はいまが一番幸せやなあ!」。娘たちもいう、「ありがとうなあ!」
[1]で内田は、何を、どれだけ知っているかによる「頭がいい」ことについてではない。複数の仮説を並列処理できるだけの「頭の中のスペースの大きさ」、「未決状態に耐える能力」によって、じっくりと状況を観察し、時間をかけて確かに対処することの重要性について説く(54、55ページ)。
そんなことを思い出し、また思いを巡らしながら筆者はいま、美輪明宏の「ヨイトマケの唄」(1965年)や岡林信康の「山谷ブルース」(1968年)を聴いている。涙がとまらない。

阪野 貢/「私のなかにみんながいる」ということ―桜井智恵子著『教育は社会をどう変えたのか』読後メモ―

〇小気味よい本に出会うと楽しいものである。筆者の手もとにある、桜井智恵子(さくらい・ちえこ、教育社会学)の『教育は社会をどう変えたのか―個人化がもたらすリベラリズムの暴力―』(明石書店、2021年9月。以下[1])もその一冊である。タイトルからも興味をそそられる。(小気味よさはしばしば、一元論的な思考やそれに基づく思考停止状態のなかにあることに留意しておきたい。)
〇生存のための「自立」を必要条件とする資本主義社会は、能力と所有の論理に基づいている。現代社会のルールであるリベラリズム(自由主義)は、個人の尊厳や自由、多様性、自己決定(自己責任)などを最も重要な価値とみなしている。そういう社会の政治経済的構造が生み出す排除や差別などの諸困難に対する桜井の主張は、明快である。能力主義の価値観を是認し、それを国家や社会の支配層と共有している限り、排除や差別は助長され正当化される。すなわち、個人が「自立」能力で生き延びるために自己中心的に生きることは、排除や差別する社会を自分自身が支えていることになる。そこで考えるべきは、現代社会の根底にある能力主義=業績承認の解体、である。
〇[1]におけるキーワードは、「個人化」、「能力の共同性」、「存在承認」である。それぞれの定義とそれに関する言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。一部語尾変換)。

個人化
私たちは、個人で稼いで個人で満たすという「勤労」概念に基づく個人化社会をつくった。生きていくためのニーズを満たすために、がんばって働き自分で稼ぐスタイルが前提となり、皆で分かち合う共同性は縮減した。環境や状況の劣悪は横に置き、「生きる上での困難」を乗り越えられないことを個人の問題に矮小化する傾向を「個人化」と呼ぶ(16ページ)。

能力の共同性
能力は個人が有する固有(単独)のものではない(私的所有物ではない:阪野)。能力は、他者や社会・文化によって、個のなかに共同的に培われているものであり、他者や環境とのかかわりという相互関係自体(能力の共同性)である(188ページ)。すなわち、能力とは、分かちもたれて現れたもの(互いに分かち合って共有するもの:阪野)であり、それゆえその力は関係的であり共同のものである。能力は個に還元できない(190ページ)。「共同」とは、個が「力を合わせる」「互いに助け合う」というものではなく、「いっしょにある」という意味合いであり、「私のなかにみんながいる」(189ページ)のである。

存在承認
現代社会を覆う能力主義は、「できること」(成果や業績)を承認する「業績承認」を意味する。それに対していま必要とされるのは、「在ること」(ありのまま)を承認する「存在承認」である。それは、自分自身を自分で承認し得る、「社会的状態」の構想である(187ページ)。すなわち、存在承認とは、「共同的なものを基底に、自分を自分で承認しうる所得配分を前提にした状態」(251ページ)をいう。

●現代の学校現場で、子どもは批判的に物事を考える機会を奪われている。必要なときに他者を頼ることは「依存」と見なされ、自助努力で生きることが大事だという価値観が教え込まれる。教育現場は、学力やコミュニケーション能力で人の価値が計られる能力主義によって貫かれ、自己責任という考え方を刷り込む場となっている。そこには、共に生きる社会や国の在り方を考えたり、能力主義によって正当化される経済格差をもたらす資本主義に疑問を持ったりする余地はない(12~13ページ)。

●学校や社会には「能力の高い人ほど優秀」というソフトな優生思想が浸透している(15ページ)。それによって生きづらさが生じ、社会的弱者がつくられ、自責他害が強まっている(206ページ)。また、凄惨(せいさん)な相模原障害者施設殺傷事件(2016年7月)を受けてもなお、自己責任や排除を生み出す能力主義に基づく教育を問い直す機運は高まらず、グローバル人材の育成という形でむしろ強化されている。他方で、子どもの状況に応じた多様な教育機会を確保するとして個別支援の流れが強まっている。それは、学校のありようを問い直さずに子どもの分断を正当化する(15ページ)。

●個別救済は、トラブルが起きてからの救済システムであり、それらを生み出す社会的なあり方をこそ、問う必要がある。個別救済だけでは、逆に現在の排除的な社会の原理や個人化を補完することになる(19ページ)。

●資本主義経済を基調とする日本の公教育制度は、教育を受けることを権利として保障し、その保障を通して教育における国家支配を実現していくような体制である。いいかえれば、「保障」を通して「支配」を実現し、「支配」を実現するために「保障」を行う教育体制である(岡村達雄)(111ページ)。

●リベラリズムは近代個人の自由や多様性を尊重するために、政治権力や世間から干渉されない個人の自由を重視した。すなわち、個人の自由が、個人化された自由に矮小化されてしまった。個人の自由にとって大切なのは、個人化されない自由である(20、21ページ)。

●能力主義が導く自己責任論は、本人の能力や努力に問題を矮小化し、社会が協働する意味や契機を奪っている。すなわち、能力が個に分断されることで、人々には共同性が見えにくくなっている。「地域との連携」がお題目のように叫ばれているが、連携をすればよいというわけではない。自己責任論を広げるような連携ならしない方がずっとましだ。また、自己責任論は、「自立支援」という名の下に「自立するなら支援する」という脅迫めいたメッセージを発している(60~63ページ)。「支援」は支配的要素を含む言葉でもある(59ページ)。

●「能力の共同性」は、多様な人々が力を合わせるという意味合いとは異なり、個に還元できない能力論である。「依存先を増やす」というような個人化された共同性は、いともたやすくネオリベラリズム(新自由主義。個人の選択や市場原理の重視)に利用される。「存在承認」は、あなたの存在を認めるよといった承認論ではない(261ページ)。共同的なものでしかありえない、個人化されていない存在のあり方である(251ページ。)

〇繰り返しになるが、桜井の主張は脱個人化と能力主義の解体である。それによって、「自由で平等な社会への書き換え」(257ページ)が可能となる。その際、桜井にあっては、新しいしくみを構築するのではなく、現在の社会を覆う個人化や能力主義に基づく仕組みや制度を「脱構築」(既存のものを問い直して一度解体し、新たなものに再構成)し、非資本主義的な生活様式による社会を構想することが肝要となる。そこに求められるのは、「能力が個人のものではなく、いつも共同ではたらいていて、競争をしなくても必要に応じて分かち合う論理」(252ページ)である。それは、「(存在承認の基で)生きていくための所得分配がフェアで、それぞれが自由に生き合うという世界」(262ページ)、「アナキズム(国家や市場の支配権力に向き合いながら、自分たちの問題を自分たちで解決す知恵・思想:阪野)のようなもので教育や福祉の世界を包囲する」(252ページ)社会をめざす。要するに、個々人の「能力に応じて」から「必要に応じて」への転換である。
〇なお、[1]のタイトルを「市民福祉教育は地域・社会をどう変えたのか」と読み替えると、汗顔の至りである。福祉教育は、子どもが自主的に、そして自由かつ平等に学ぶ場としての学校や学校教育の根源的・社会構造的な問題状況やその要因を厳しく問うてきたか。支配的な価値観のままに物事を承認し提案することは現状肯定につながるが、人間・社会の現実を主導する価値観やその枠組みにあてはめることに終始し、枠組みそのものを問うてこなかったのではないか。仮に桜井の言説に依拠するとすれば、個人化や能力主義、業績承認や存在承認などについて深く問うことなく、自立(自律)や連帯(共生)、まちづくりなどについて理念的・表層的に言及するだけではなかったか。それらを問うてこなかった「成果」は、資本主義システムにおける教育や福祉を下支えし、補完することにある。個人化や能力主義に基づく教育や福祉の拡大再生産(個人の自由と分断と多様化による管理・統治)である。
〇筆者はかつて、『みんなのなかにわたしがいる みんなとともにわたしがいる』(三重県社会福祉協議会、2004年3月)というタイトルの「小学生からの福祉読本」の作成にかかわったことがある。そのタイトルの意味するところは、「よりよくある」ための人間の「自立と連帯」「自律と共生」である。それは、桜井の言説によると、個人化に基づくものであり、個人モデルのそれであることになる。そこで筆者には、「自立と連帯」「自律と共生」を「個のもの」のままではなく、「共同のもの」「分かち合うもの」としていかに展望するかが問われることになる。その意味で、「私のなかにみんながいる」という桜井の言葉は重い。
〇「私のなかにみんながいる」は、「みんなのなかに私がいる みんなとともに私がいる」の基底あるいは前提に位置づくのであろうか。そう考える場合、それは、(必ずしも力を合わせるという要素はない)一緒に行う「共同」と相互作用の「共働」を含意する(分かち合う)ことになる。「共同と共働」に基づく「自立と連帯」「自律と共生」である。そしてそこには、アナキズムやコミュニズム(共同体主義)に基礎をおく社会像が構想される。

鳥居一頼/市民福祉教育研究所開設十周年を祝して

市民福祉教育研究所開設十周年を祝して

ひとりの男の ささやかなおもいは
十年の時を経て 6月25日メモリアルの日を迎える

福祉と教育への志を抱く者たちのおもいと重なり合い
いつか日本の福祉教育を支える研究所となった

ひとりの男の小さなつぶやきは
十年の時を隔てて 大きなつぶやきとなった

若き者たちが慕いつつ学ぶ場と機会となり
いつか福祉と教育を考え推し進める研究所となった

ひとりの男のちっぽけな願いは
十年の歳月を実現の道へと誘った

若き者たちの研究と実践への気運を高め
いつか福祉と教育を統合する研究所となる

ひとりの男の歩いた足跡は
十年の軌跡を鮮やかに残し続けた
ひとりの男から投げかけられた課題は
十年の重みとともに常に突きつけられる

若き者たちがその礎に新しき道標を立てる
いつか日本の福祉教育を熟成させる研究所にする

福祉教育に生きるひとりの男に導かれて
若き者たちよ
ひるまず果敢に時代を豊かに拓け
若き者たちよ
研究と実践を糧に次の時代を自由に語れ

それこそが男が求め続けた福祉教育への道なのだ

共同研究者/鳥居一頼

阪野 貢/「まちづくりと市民福祉教育」はアートであり、デザインである―東京藝大で “福祉”を学び、東大で “デザイン” を学ぶ―

〇筆者(阪野)の手もとに、東京藝術大学や東京大学で中高生や社会人を対象に行なわれた体験型授業の様子をまとめた本がある。東京藝術大学 Diversity on the Arts プロジェクト編『ケアとアートの教室』(左右社、2022年1月。以下[1])と山中俊治著『だれでもデザイン―未来をつくる教室-』(朝日出版社、2021年11月。以下[2] )がそれである。
〇[1]は、2016年より開設された、約100人の社会人と約30人の藝大生が共に学ぶ履修証明プログラム(Diversity on the Arts Project、通称:DOOR)の講義と実践の様子(体験)を記録したものである。そこでは、「アート Χ 福祉」をテーマに、共生社会を支える人材の育成とコミュニティの醸成をめざす(2ページ)。講義で取り上げる具体的なテーマは、貧困、障害、性的マイノリティ、引きこもりなど多岐にわたる。講師もアーティストや障がい者、福祉の専門家、現代社会に生きづらさを感じている当事者など多様である。
〇DOORでの「学び」は、次のようなことを基本的な考え方(コンセプト)にする。共生社会の実現には、創造性(アート)とそれが活きる環境を耕す(cultivate)ことが重要である(4ページ)。何かを学ぶうえで、「誰と学ぶのか」、学びの対象と「どう出会うのか」が重要な要素となる(5ページ)。アート(=創造性)の領域では「個人の主観」が大切にされるが、自分の主観の深いところには他者との共通点がある。アートも福祉も、多くのひとたちとの「対話」(「創造のコミュニケーション」)や「協同」のなかで、異なった何かと自分とが融合し、変化し、豊かになっていく(7、8ページ)。すなわちこれである。
〇身近にある、状態としての多様性(diversity)に対して「想像」を巡らし、対話し、歩み寄り、見えないものを知覚することによって、共生社会の「創造」に向けて動き出す(236、238ページ)。多様性が創造性(creativity)を生み、育てるのである。
〇[1]から、「まちづくりと市民福祉教育」に関して、「気になる」あるいは「使える」論点や言説のいくつかをメモっておく(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者。見出しの後の氏名は講義者)。

アートと福祉は多様性を特性とする/日比野克彦
アートと福祉は、アプローチこそ違え、視座が「多様性」を重視しているのは同じである。多様性のある社会を築いていくためには、違いを認め合う「アートの特性」を基盤にして、そのうえに福祉や経済などさまざまなものを組み立てていくことが肝要になる。(17ページ)

被支援者との共感不可能性を共感する/奥田知志
ホームレスなどの生活困窮者を支援する際、「大変でしたね」「わかります」というと、10人にふたりくらいは「野宿をしたこともないのに何がわかるんだ」と怒る。支援活動を行なううえでは、この「共感不可能性」を常に意識していなければならない。相手との対等性をいかに保ち、共感不可能性にどれほど共感できるかが重要となる。(40ページ)

アートは既成の価値観に異議を唱えること/久保田翠
知的障害があるひとの、「よくわからない」行為も、本人が生きるために不可欠なことであり、生きている証である。知的障害のあるひとたちの存在自体がアートであり、彼らの生き様そのものがひとつの表現である(「表現未満、」)。表現やアートはできあがった作品だけをさすのではない。知的障害のあるひとたちの存在をまるごと認め、彼らに対する見方を変えこと、すなわち既成の価値観に異議を唱えることがアートである。(59、61ページ)

ALLY(アライ)の存在は重要であるが‥‥‥/松岡宗嗣
性的マイノリティの存在は「いない」のではなく、「見えていない」のである。性的マイノリティのひとびとは、「ふつう」や「あたりまえ」とされる規範的な性のあり方の枠組みから排除されることで、さまざまなライフステージごとの困難に直面する。「ALLY(アライ)」は、「支援者」「同盟」「味方」を意味する。アライになるためには、「知る」こと、「変わる」こと、そして「行動する」ことといったステップが必要となるが、誰もが誰かのアライになれる。しかしその際の、「当事者ではないが味方」という考え方は、二項対立的な考えにつながる。「かわいそうなマイノリティを助ける」という考え方は、自分自身の差別意識を不可視化する。(85、91、98、99、100ページ)

対話がつながりの回復を図る/六車由実
介護現場では、利用者の人生や経験について話を聞くことで、彼らそのものを理解し、思い出を共有すること。それと共に、個人史からそのひとたちが生きてきた時代や地域の歴史、生活のあり方を知り、伝えていくこと、が大切となる(「介護民俗学」)。利用者同士や利用者とスタッフによる平等で開かれた「対話」によって、スタッフから利用者へという一方的な固定化された関係性が修復される。介護現場で一番大切なのは、要介護度が上がらないようにする支援(自立支援介護)ではなく、「つながりの回復」を図る支援である。つながりがあれば、老いや病、認知症で体が動かなくなったとしても、ひとは最後まで希望をもって生きていける。(123、129、131ページ)

〇[2]は、2017年に22名の中高生に対して、山中俊治(デザインエンジニア)の研究室(東京大学生産技術研究所)で行なわれた「デザイン」に関する4日間の特別授業を再現したものである。そこでは、身の回りのものをよく観察してアイデアを生み出し、「そこに新しい価値を見出し、形に落とし込み、人に伝え、一緒に完成させていくデザイナーの営み(デザインの方法)の根幹」(5ページ)が具体的に綴(つづ)られている。山中にあってはそれは、「人間がなにかを生み出す時の普遍的な方法」(6ページ)である。また、デザインは「人工物、あるいは人工環境と人の間で起こるほぼ全てのことを計画し、幸福な体験を実現すること」(43ページ)と定義づけられる。
〇デザインは、ひとびとが日常生活上のベネフィット(benefit:利益、恩恵、便益)を得て効率よく、豊かに暮らすために、安全性や操作性、格好よさや愛着、値段などをトータルにプランニングする営為である(44ページ)。それは、感覚的なものと科学的な知識を融合する営みである。その仕事を行なうデザイナーは、それが「総合的な営み」であるという点において、映画監督やオーケストラの指揮者に近いともいえる(51ページ)。
〇[2]から、「まちづくりと市民福祉教育」に関して、「気になる」あるいは「使える」論点や言説のいくつかをメモっておく(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

サイエンスとアートとデザイン/デザインする
サイエンスとアートの目的は真理の探求にある。デザインはいつも誰かをハッピーにすることをめざす。サイエンスは、客観性を追求して記述し、検証しあって知識を共有する。アートは、主観を追求して表現し、「共感」を共有する。その共感を確実なものにするために、評論が大切な役割を果たす。デザインは、サイエンスとアートの両方の知見から得たことを統合して、安全性や操作性、格好よさなどの高いモノをつくる。(47、49、51ページ)

デザインはアイデアが命である/アイデアを出す
デザインのコアになるのはアイデアである。アイデアの本質はそもそも偶然である。アイデアのヒントはいつも観察のなかに、他人の頭のなかにある。また、知識や経験、情報のなかにある。そしてアイデアは、それらを「つなぎ替える」「つなぎ直す」ことである。要するに、「アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもない」(ジェームス・W・ヤング)。(174、186、188、190、344ページ)

スケッチを描くということ/スケッチする
スケッチを描くということは、自分が何を見て、何を見ていないかを意識することである。描くということは、そこを見ることと連動していて、見ていないところは描けないし、描く時には必ず見ようとする。私たちは注目しているところ以外を見ておらず、無意識に、全部は見ないようにしている。絵を描くことで意識的に見る範囲を限定したり、見る範囲を決めることができる。スケッチに全ては描かない。最も重要なエッセンスを抽出して(抽象化して)リアリティを与えるということが、スケッチの表現の根幹である。(70、71、110ページ)

デザインが社会変革を促す/未来を拓く
義足をデザインしているとき、失われた体の一部を補完するというより、新しい体を作っている感覚がある。義足は障がい者のために作ったものであるが、実は、障がい者を見る社会のほうが変わるきっかけになる。義足は大量生産ではなく、一人ひとりの切断者に合わせて、「かっこよく」「美しく」作る。一人ひとりのためのデザインが、そのものに目を向けさせ、社会の意識を変え、未来を拓く。いま、みんなのためのデザインから一人ひとりのためのデザインへと、時代は流れている。(318、320、323ページ)

〇以上を要するに(一面的であるが)、アートは、多様性にアプローチしてその異なる存在を認識し、より理解を深め、問いを投げかける(自己表現、問題提起の)営みである。デザインは、過去や「いまここ」から学び、一人ひとりに合わせたものの存在を生み出し、社会変革をもたらす(他者実現、問題解決の)営みである。その点においてアートとデザインは、「まちづくりと市民福祉教育」が内包する営みでもある。留意しておきたい。
〇前述のように、DOORでの「学び」のキーワードのひとつは、「創造性」と「多様性」である。その点に関して、重ねて次の一節を引いておく(抜き書き)。

アート=創造性は、誰のなかにでもある。ひとはどんな苦境においても、創造性を完全に忘れることはない。むしろ、そうした創造性に小さな喜びや希望を見出し、自己と向き合い、ときに他者とそれを共有することで、ひとはひとらしくあり続けることができ、「生きよう」とする思いをも強くできる。([1]3ページ)。

ダイバーシティ(多様性)をめざす、という言葉をよく聞く。しかし、多様性とは状態であり、すでに私たちの周りに存在しているものである。こうした多様性があるという状況を、どれだけセンシティブ(敏感)に感じとれるかということが重要になる。「さまざまなひとがこの世界で生きている」と言葉ではわかっていても、どれだけその状況を意識できるかどうかは、個々によって開きがある。多様なひとびとがいて、さまざまな世界の感じ方がある、ということをより意識できるようになってほしい。([1]232~233ページ)

〇創造性は時に、「ひらめき」すなわち偶然から生まれる。その「ひらめき」は、個々人の「記憶された知識や経験」に基づいてもいる。したがって、創造性は不確かであり、独創的である。しかしその本質は、新しい快適で豊かな未来社会を拓くところにある。多様性は一面では、マジョリティ(多数派)の文化や視点から唱えられる。一方からの多様性の強調は、“出る杭は打たれる”日本社会にあって、同調圧力を強めることにもなる。しかしその本質は、マイノリティ(少数派)の文化や視点を中心に据えた共生社会を形成するところにある。そこでまずは、創造性も多様性も、そのひとがそのひとらしく、共に生きられる地域・社会を共に創ることをめざして、さまざまなヒト・コト・モノをそれぞれに「気にする」ことから始まる。付記しておきたい。

阪野 貢/「弱さ」と「多様性」―今中博之著『なぜ「弱い」チームがうまくいくのか』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)は今中博之(いまなか・ひろし)氏から、新著『なぜ「弱い」チームがうまくいくのか―守り・守られる働き方のすすめ―』(晶文社、2022年4月。以下[1])のご恵贈を賜った。[1]は対話形式の本ではないが、読み進めるとしばしば今中氏が眼前に立ち現れ、親しく対話していることに気づく。またそのなかで、ときに自分の姿を見る(内省する)ことになる。鋭い論考によって、針で刺されたような痛みを覚えるのである。
〇[1]の主要な議論はチーム論である。そこでは、「デザインと社会福祉と仏教を行ったり来たりしながら」(24ページ)、働き方・仕事論や組織マネジメント・リーダーシップ論、そして生き方・人生論などが広く深く説かれる。しかもそれらは、今中氏の「デザイナーと障がい者とリーダー」としての多様な社会生活経験と幅広い教養、そして哲学・思想や社会学などの知識と言葉に裏付けられており、「私」を圧倒する。
〇今中氏の主張はシンプルである。「弱い人はお互いを守り合いながら長く生存できる。強い人を守る人はいない、強い人は生き残れない」。極論すればこれだけである。その際のキーワードは、「弱さ」と「多様性」である。今中氏はいう。「チームに一番必要なのは弱さである」。すなわち、人間はそもそも、弱い存在であり、弱いからこそチームを組んで生き延びようとする。弱く矛盾した存在としての個人が有機的につながることによって、チームは機能する。チームは強い人だけでは構成できないのである(9、113ページ)。
〇そしていう。「多様性を失ったシステムは崩壊する」。すなわち、共生社会はバラツキを是とする社会(多様性のある社会)であり、その違いをひとまとめにせずお互いを認め合う。違いが交差すれば違和感も生まれるが、それ以上に異なる視点が有効に機能し、新たな希望が見つかる。弱い人も強い人も、異なるものが異なるものとして共存・協働することが肝要である(17、103ページ)。今中氏のこうしたシンプルな思考が、みごとにコトの核心をあぶりだす。そして、「私」が「使える」モノを見出し、知見を導出し、管見を再構成するのを促し助けてくれる。小さくもあり大きくもある「喫茶店」(64ページ)での、今中氏との対話の魅力である。
〇筆者が探究する「まちづくりと市民福祉教育」の主体形成に関して、今中氏の「ソーシャルデザイン」と「チーム」についての論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

原点と視点
●個人のミクロ(小領域)的視点から、チームのメゾ(中領域)的視点を経て、社会のマクロ(大領域)的視点まで、一気通貫の幸せが実現できなければ、人の幸せはない。(12ページ)
●障がい者が生み出す作品や商品は「現代アート」であり、「障がい者アート」などとカテゴライズすることは、彼ら彼女らとその作品・商品の尊厳を否認することである。それは障害のあるアーティストに強烈なスティグマを与える。(32~33、130~131ページ)
●集団に多様性があるように見せかけるために「お飾りのマイノリティ」が選別されることがある。その「トークン(token:象徴)な存在」は、弥縫であり欺瞞である。(55~57ページ)
●「自立とは依存先を増やすこと」「依存症とは身近な他者に依存できない病気」(熊谷晋一郎)である。人はひとりで自立できないし、ひとりで自立してはいけない。障害の有無に関係なく、他者に依存することが自立である。(100~101ページ)

ソーシャルデザインとシーシャルデザイナー
●ソーシャルデザインとは、「社会的課題を解決するための意図的な企て」「(弱い人を)非差別化するデザイン」をいう。それは、「公憤」(正義感から湧きあがる公共のための怒り)を前提とする。(14~15ページ)
●ソーシャルデザインはまた、共通の目的のために自発的に結びつき、協働しながらも、度が過ぎた干渉はしない「ギルド(guild)的チーム」(生活共同体)のうえに成立する。つながり過ぎると協働することはできない。(37~38、85ページ)
●他者の生活の困りごとを解決したいと願う人は誰もが、ソーシャルデザイナーである。ソーシャルデザイナーはミクロ領域を注視し、常に弱者に寄り添い、傍(かたわ)らに立ちその機会を増やしていく。そのソーシャルデザイナーが「正義のミカタ」であるかどうかを決めるのは、弱者である。(14、42ページ)

チームとリーダー
●多様性を抜きにしたチームづくりは不可能である。多様な社会的背景を持つ人たちが集まれば、その人の数だけ仕事のバリエーションは増える。バラツキをバラツキのままひとつのチームにまとめれば、より永く生き延びる。(12~13、102、106ページ)
●チームが深く協働するためには、メンバーが悲しい秘密を持ち寄り・共有し・守り合えること、しかもメンバーに強すぎる結びつきを要求しないことが肝要である。そこには、信頼と安心があり、過剰なコントロールがない。(94~97ページ)
●他者の意見やアイディアは自分のものである。これはリーダーの特権ではなく、チームのメンバー全員に与えられ戦術である。メンバーの意見・アイディアが「取り込み、取り込まれる」なかで、意見・アイディアもチームも成熟する。(162~165ページ)
●チームには、他者に自らの揺らぎを見せない・ブレない「強いリーダー」ではなく、他者に自らの揺らぎを見せつつ、協働で答えを探る「専門家としての弱いリーダー」が必要となる。(169ページ)
●行政と企業とNPOが協働して社会的課題を解決する、しかもその三角形の真ん中に市民がいる市民自立型社会の形成が求められる(村木厚子)。そのためには、3つのセクター(行政、企業、NPO)を架橋する・垣根を越えて活躍する「トライセクター・リーダー(Tri-Sector Leader)」が必要かつ重要となる。(198~199ページ)

〇前述の「弱さ」と「多様性」に関するひとつの論点を再確認しておきたい。先ず「弱さ」については、高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)氏の「効率的な社会、均質な社会、『弱さ』を排除し、『強さ』と『競争』を至上原理とする社会は、本質的な脆(もろ)さを抱えている」(高橋源一郎・辻信一『弱さの思想―たそがれを抱きしめる―』(大月書店、2014年2月。12ページ)という指摘である。併せて、筆者の拙稿――本ブログの<雑感>(146)「弱さ」考―「弱さの強さ」と「強さの弱さ」―/2021年11月24日アップ、を思い起こしたい。そこで紹介している天畠大輔(てんばた・だいすけ)氏と澤田智洋(さわだ・ともひろ)氏の次の一節を引いておくことにする。「僕は介助なしでは何もできない。しかし、だから多くの人とかかわり、深く繋がり、ともに創りあげる関係性を築いていける。それが僕の<強み>になっている。能力がないことが<強み>なのである。自分だけで何もできないことは、無能力と同義ではない」(天畠大輔『<弱さ>を<強み>に―突然複数の障がいをもった僕ができること』(岩波新書、2021年10月、226ページ)。「『弱さ』の中にこそ多様性がある。だからこそ、強さだけではなく、その人らしい『弱さ』を交換し合ったり、磨き合ったり、補完し合ったりできたら、社会はより豊かになっていく」(澤田智洋『マイノリティデザイン―「弱さ」を生かせる社会をつくろう―』(ライツ社、2021年1月、51~52ページ)。ともに今中氏の言説に通底するところである。
〇「多様性」については、熊谷晋一郎(くまがや・しんいちろう)氏の「凡庸(ぼんよう)コンプレックス」、すなわち個性のない・どこにでもいる規格化・平準化された「ふつう」の人間が、「奇妙に多様性を奨励する社会の中で、相対的に可視化された(奇抜な)障害者への嫉妬が芽生えるという転倒した現象も起きている」(熊谷晋一郎「『用無し』の不安におびえる者たちよ」里見喜久夫『障害をしゃべろう! 上巻 ―『コトノネ』が考えた、障害と福祉のこと―』(青土社、2021年10月、185ページ))という指摘である。併せて、筆者の拙稿――本ブログの<雑感>(122)「ふつう」別考―深澤直人著『ふつう』と佐野洋子著『ふつうがえらい』等のワンポイントメモ―/2020年10月30日アップ、の一節を改めて引いておきたい(一部修正)。

「ふつう」は私とあなたの「あいだ」にある(私は、周りのあなたとの類似性を重視し、そこに安寧や安心を感じる。私は、周りのあなたとの相異性に緊張し、そこに不安や劣等感を感じる)。/「ふつう」は私とあなたの「ふだん」にある(私が「ふつう」を意識するのは、日常の生活場面においてである)。/「ふつう」の隣に「特別」がある(私には独自性欲求があり、それが自尊感情を高める一方で、孤独感や差別意識・偏見を生む)。/そして、私は「ふつう」を求め、あなたを「ふつう」にさせる(私は、人並みを求め、周りから目立つあなたを攻撃する)。

阪野 貢/「主権者教育」「シティズンシップ教育」の一環としての「市民福祉教育」を考えるために―新籐宗幸著『「主権者教育」を問う』再読メモ―

〇教育基本法(2006年12月22日公布・施行)の第14条(政治教育)は、「良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない。2 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。」と謳(うた)っている。まず、この条文を押さえておきたい。
〇日本において「主権者教育」の必要性が声高に叫ばれるようになるのは、2000年代以降である。その政策化のひとつの重要な契機は、総務省が2011年4月に設置した「常時啓発事業のあり方等研究会」(座長:佐々木毅)の報告である。その「最終報告書」(2011年12月)では、子ども・若者に対する新たなステージとしての「主権者教育」の必要性と重要性を説き、現代に求められる新しい主権者像のキーワードは「社会参加」の促進と「政治的リテラシー(政治的判断力や批判力)」の向上である、とした。そして、「主権者教育」を次のように規定する。「欧米においては、コミュニティ機能の低下、政治的無関心の増加、投票率の低下、若者の問題行動の増加等、我が国と同様の問題を背景に1990年代から、シティズンシップ教育が注目されるようになった。それは、社会の構成員としての市民が備えるべき市民性を育成するために行われる教育であり、集団への所属意識、権利の享受や責任・義務の履行、公的な事柄への関心や関与などを開発し、社会参加に必要な知識、技能、価値観を習得させる教育である。その中心をなすのは、市民と政治との関わりであり、本研究会は、それを『主権者教育』と呼ぶことにする」(7ページ)。
〇いまひとつ注目すべきは、文部科学省が2015年10月、1969年10月の文部省初等中等教育局長通達「高等学校における政治的教養と政治的活動について」を廃止し、それに代わって同通知「高等学校等における政治的教養の教育と高等学校等の生徒による政治的活動等について」を発出したことである。1969年通達では、「国家・社会としては未成年者が政治的活動を行なうことを期待していないし、むしろ行なわないよう要請している」。「生徒が政治的活動を行なうことは、学校が将来国家・社会の有為な形成者として必要な資質を養うために行なっている政治的教養の教育の目的の実現を阻害するおそれがあり、教育上望ましくない」などとして、学校内外における政治的活動を「禁止」した。そのねらいは、1960年代後半にベトナム反戦運動等を契機に多発・激化した学生運動(大学闘争)やその高校・高校生への波及(高校紛争)を阻止しようとするところにあった。
〇2015年通知では、「今後は、高等学校等の生徒が、国家・社会の形成に主体的に参画していくことがより一層期待される」。「現実の具体的な政治的事象も取り扱い、生徒が有権者として自らの判断で権利を行使することができるよう、より一層具体的かつ実践的な指導を行う」などとした。その背景には、「18歳が世界標準」というなかで、選挙権年齢が「満18歳以上」(2016年6月施行)、成年年齢が「18歳」(2022年4月施行)にそれぞれ引き下げられたことがある。それに伴って、「主権者教育」の重要性が強調されることになる。
〇しかし、2015年通知の内実は、「高等学校等の生徒による政治的活動等は、無制限に認められるものではなく、必要かつ合理的な範囲内で制約を受ける」などと、学校や教員の「指導」等による、学校内外における政治的活動の規制を求めるものとなっている。すなわちそれは、基本的には政治的活動の自由化を促したり、容認したりするものではない。
〇2015年9月、総務省と文部科学省は、高等学校等の生徒向け副教材として『私たちが拓く日本の未来―有権者として求められる力を身に付けるために―』の<解説編><実践編><参考篇>と教師用の<活用のための指導資料>を作成・公表した。それは、政府主導の「主権者教育」の展開をこと細かく指示するものとなっている。また、選挙権年齢の引き下げによる「主権者教育」の強調は、「有権者教育」に縮小・限定される恐れなしとしない。そこで、民主主義を成り立たせる前提である「人権」や「思想・良心(信条)の自由」などに基づく議論が必要かつ重要となる。
〇2017年3月に小・中学校、2018年3月に高等学校の「新学習指導要領」が告示された(小学校では2020年度、中学校では2021年度から全面実施、高等学校では2022年度から年次進行で実施)。それに基づいて、小・中学校と高等学校では、児童・生徒の発達段階に応じた「主権者教育」を実施し、主権者として必要な資質・能力を教科等横断的な視点で育成することとされている。高等学校では、従来の「現代社会」に代わって、「公民」科の新しい必修科目「公共」が設けられている。
〇また、文部科学省は2018年8月、新学習指導要領の下での学校・家庭・地域における「主権者教育」の推進方策について検討するために、「主権者教育推進会議」(座長:篠原文也)を設置した。そして、2021年3月に「今後の主権者教育の推進に向けて」最終報告を公表した。そこでは、主権者教育をめぐる課題と今後の推進方策に関し、(1)(小・中学校、高等学校、大学、教師養成・研修等)各学校段階等における取り組みの充実、(2)家庭、地域における取り組みの充実、(3)主権者教育の充実に向けたメディアリテラシー(メディアからの情報を批判的・創造的に読み解く能力)の育成、などについて提言する。そして、その提言を実現するために、(4)社会総がかりでの「国民運動」としての主権者教育推進の重要性を説く。こうした文部科学省の取り組みは、前述の2015年通知や『私たちが拓く日本の未来<活用のための指導資料>』に示された考え方の周知を図ろうとするものであり、内容的には新味に欠ける。
〇ところで、3月13日、新藤宗幸(しんどう・むねゆき。行政学・地方自治論専攻)が亡くなった(享年75)。4月1日、「18歳、きょうから成人」である。そんななかで、新藤の著作の一冊である『「主権者教育」を問う』(〈岩波ブックレット No.953〉岩波書店、2016年6月。以下[1])を再読することにした。
〇[1]における議論・言説の要点のひとつは、こうである(抜き書きと要約)。「主権者教育」は、現実の政治の実態を棚にあげ、単に新有権者に「政治的な教養を育む教育」を説くのではない(10ページ)。「主権者教育」は、まず現実の政治が生み出している社会的問題事象の中身を学習し、政治にどのような利害が反映されているのかを学ぶことから始めるべきである(15ページ)。「主権者教育」に求められているのは、日々生起する政治的事象の内実をみる眼を養うことであり、また政治権力の行動の意味を洞察する能力を高めることである(7ページ)。「主権者教育」は、政治権力に従順な人間を育てることではない(21ページ)。
〇「主権者教育」と表裏一体で強調されるものに、「教育における政治的中立性」がある。続けて新藤はいう。政権の言説やそれを忖度した同調の「政治性」は不問に付され、それらに対する批判的言説が「政治的中立性」に反するとされる傾向にある(23ページ)。「教育における政治的中立性」という場合の「政治」とは、「政治」一般をさしているのではなく、あくまで「政党政治」を意味する(30ページ)。「教育における政治的中立性」とは、政党政治の介入を排除する規範としての意味をもつものである(30ページ)。しかも、それだけではなく、教員にあっては自らの思想・信条や専門的知識にもとづいて、物事には社会的にも学問的にも多様な見解があることを示しつつ、自らの見解を説かねばならない(31ページ)。こうした能動的な教育と教員による「政治的中立性」を保障するためには、文部科学省から校長にいたる「タテの行政系列」を改革する必要がある。同時に、首長のもとの教育行政への市民参画を徹底するとともに、学校ごとに生徒・教員・市民が参画する運営組織をつくるなどして、「教育行政の政治的中立性」が実現されなければならない(43ページ)。
〇日本においては、国家による統一的・画一的な管理主義教育や教育行政が、学校現場や教育委員会を「思考停止」状態に追いやり、生徒の自主的・主体的な活動を制約あるいは否定してきた。そういうなかで、真の「主権者教育」の推進を図るためには、如何にして生徒の政治的関心を高め、政治的教養を豊かにするか。そして、学校内外における多様な政治的問題状況に異議申し立てをし、政治的活動への参加を促すか、が問われることになる。そのためには例えば次のようなことが求められる、と新藤はいう。政治的教養を培うにあたって、若者に限らず大人たちが生活の場に生じているさまざまな市民運動や社会運動との接点をもつ(61ページ)。学校は地域の多様な集団と生徒の交流の場を用意し、生徒たちが地域の課題を通じて政治のあり方を考える機会とする(63ページ)。地方自治体の首長や各行政セクションの職員、教育委員会や教育長・教育委員、自治体の議会や議員などと交流し、地域政治や地域行政の役割やあり方などについて議論する(64、65ページ)。学校を「地域に開かれた学校」「民主的な学校」にするために教員は、市民としての感性を磨きつつ、教育のプロフェッション(専門職)として、市民の支援を得ながら、学校改革や教育改革に立ち上がる(59、60ページ)、などがそれである。
〇日本における「主権者教育」のモデルのひとつは、イギリスの「シティズンシップ教育(Citizenship Education)」である。それを方向づけたのは、政治学者のバーナード・クリック(Bernard Crick)らが中心となってまとめた1998年9月の政府答申「シティズンシップのための教育と学校でのデモクラシーの指導(Education for citizenship and the teaching of democracy in schools)」(「クリック・レポート」)である。イギリスでは、この答申に基づいて2002年から、中等教育段階(第7学年~第11学年。日本の小学校1年~高校1年)でシティズンシップ教育が必修化された。
〇クリック・レポートでは、シティズンシップを構成する要素として、「社会的・道徳的責任(social and moral responsibility)」「コミュニティへの関与(community involvement)」「政治的リテラシー(political literacy)」の3つが挙げられている。この3つの事柄は、相互に関連性を有し、依存関係にある。クリックによればシティズンシップ教育は、ボランティア活動の促進に偏りがちであるが、「能動的な市民(active citizen)」の育成こそがその中心に位置づけられるべきである。そのためには、「政治的リテラシー」(政治的判断力や批判力)を中核的な内容とするシティズンシップ教育が肝要となる。なお、この「3つの柱」について、クリック・レポートは次のように述べている(下記「参考文献」(3)122、123、124ページ)。

社会的・道徳的責任
子どもたちが、権威のある者ならびにお互いに対して、幼少からの自信や社会的・道徳的な責任ある態度を教室の内外で見につけることです。このような学習は学校の内外を問わず、子どもたちが集団で行動したり遊んだりするときあるいは自分たちの地域における活動に参加するときに、時と場所を選ばずに展開されるべきです。
コミュニティーへの関与
自分たちの社会における生活や課題について学び、それらに有意義な形で関われるようになることです。社会参加・社会奉仕活動を通じた学習もここに含まれます。
政治的リテラシー
児童・生徒が知識・技能・価値観といったものを通じて、市民生活(public life)について、更には自身が市民生活において有用な存在となるための手段について学ぶことです。

〇シティズンシップ教育の一環として考える「まちづくりと市民福祉教育」についても、同じことが言える。すなわち、「市民福祉教育」が「まちづくり」のための地域貢献活動やボランティア活動、あるいはサービスラーニングなどとの関連性を問うとき、主権者・政治主体としての子ども・青年から大人までの「市民」に求められる政治的リテラシーの育成にとりわけ留意する必要がある。別の著作で述べているクリックの次の一節を引いておく(下記「参考文献」(2)199~200ページ)。留意したい。

イギリスでも合衆国でも、多くの指導的政治家たちはシティズンシップを、イギリスでは「ボランティア活動」に、合衆国では「公共奉仕学習」(サービス・ラーニング)に切り詰めようとしている。しかし、ここには難しさがある。ボランティア活動一辺倒になってしまうと、善意あふれる年寄りたちが若者に何をすべきかを言って聞かせるだけに終わってしまいかねないのだ。ボランティアに与えられた任務の目的や方法を誤っていると思ったり、つまらないことのよう思ったりしたときに、その改善策を提案してゆく責任を与えないでおいて、それを全うする責任だけを引き受けさせるということになれば、ボランティアたちは市民として扱われていないことになる。こうなれば、ボランティアは単なる使い捨ての要員にされかねないし、また彼らを幻滅させることになるだろう。

補遺
〇日本における「シティズンシップ教育」の政策化に関しては、経済産業省(委託先:三菱総合研究所)が「シティズンシップ教育と経済社会での人々の活躍についての研究会」(委員長:宮本みち子)を設置し、2006年3月に「報告書」、同年5月に「シティズンシップ教育宣言」(パンフレット)をそれぞれ発表している。「報告書」では、「シティズンシップ」について、「多様な価値観や文化で構成される社会において、個人が自己を守り、自己実現を図るとともに、よりよい社会の実現に寄与するという目的のために、社会の意思決定や運営の過程において、個人としての権利と義務を行使し、多様な関係者と積極的に(アクティブに)関わろうとする資質」(20ページ)と定義している。
〇また、「シティズンシップ教育宣言」では、「シティズンシップ教育の必要性」について、「報告書」中の説述(9ページ)を次のようにまとめている(3ページ)。

私たち研究会では、成熟した市民社会が形成されていくためには、市民一人ひとりが、社会の一員として、地域や社会での課題を見つけ、その解決やサービス提供に関する企画・検討、決定、実施、評価の過程に関わることによって、急速に変革する社会の中でも、自分を守ると同時に他者との適切な関係を築き、職に就いて豊かな生活を送り、個性を発揮し、自己実現を行い、さらによりよい社会づくりに関わるために必要な能力を身につけることが大切だと考えます。
一方で、こうした能力を身につけることは、いかなる人々にとっても、個々人の力では達成できないものであり、家庭、地域、学校、企業、団体など、様々な場での学びや参画を通じてはじめて体得されうるものであると考えます。
上記のような能力を身につけるための教育、すなわちシティズンシップ教育を普及して、市民一人ひとりの権利や個性が尊重され、自立・自律した個人が自分の意思に基づいて多様な能力を発揮し、成熟した市民社会が形成されることを期待しています。
なお、私たち研究会の提言は、市民に奉仕活動などを義務付けたり、国家や社会にとって都合のよい市民を育成しようという目的のものではありません。

参考文献
(1)新藤宗幸『「主権者教育」を問う』(岩波ブックレット No.953)岩波書店、2016年6月。
(2)バーナード・クリック、添谷育志・金田耕一訳『デモクラシー』(<一冊でわかる>シリーズ)岩波書店、2004年9月。
(3)長沼豊・大久保正弘編、バーナード・クリックほか著、鈴木崇弘・由井一成訳『社会を変える教育 Citizenship Education ~英国のシティズンシップ教育とクリック・レポートから~』キーステージ21、2012年10月。
(4)蒔田純『政治をいかに教えるか―知識と行動をつなぐ主権者教育―』弘前大学出版会、2019年6月。
(5)日本学術会議政治学委員会政治過程分科会『報告 主権者教育の理論と実践』日本学術会議、2020年8月。
(6)全国民主主義教育研究会編『「公共」で主権者を育てる教育を』(民主主義教育21 Vol.15)同時代社、2021年7月。

阪野 貢/「地域力」「住民力」再考のために―宮城孝著『住民力』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)が気になる言葉・概念に「地域力」がある。それは、「まちづくりと市民福祉教育」において諸刃(もろは)の剣(つるぎ)になるからでもある。
〇「地域力」は、1995年1月に発生した阪神・淡路大震災を契機に、宮西悠司(みやにし・ゆうじ。まちづくりプランナー)によって提唱されたものである。具体的には、論稿「地域力を高めることがまちづくり―住民の力と市街地整備―」(『都市計画』第143号、日本都市計画学会、1986年12月、25~33ページ。以下[1])においてである。[1]で宮西は、まちづくりは「地域力を高める運動」として包括的に捉えるべきである。「まちづくりは、地域を基盤にし、地域住民が自主的、集団的活動を通じて、住民相互が助け合う心を養い、良好な住環境を形成するところにある。見方を変えれば、住民自身が地域への関心をいかに高めるか、地域の持つ資源をいかに充実させるか、加えて地域の自治能力の強化といったことがまちづくりという言葉で実践されている」(31ページ)、という。すなわち、宮西にあっては、「地域力」は、(1)「地域への関心力」―①地域・近隣社会とのかかわり、②地域環境への関心度合。(2)「地域資源の貯蓄力」―①地域居住環境状況(ハード)、②地域組織結成状況(ソフト)。(3)「地域の自治能力」―①住民組織の活動状況、②地域イベントへの参加状況、の3つの構成要素からなる(31~32ページ。図1参照)。そして、まちづくりは住民主体と行政参加によって進められ、行政は「地域力」の向上に取り組み、それを通じて行政改革を図ることが求められるのである。

〇「地域力」の概念について、その基本的な整理を行ったものに日本都市計画学会の学会誌に収録されている河上牧子(かわかみ・まきこ。都市計画専攻)の論稿「『地域力』と『ソーシャル・キャピタル』の概念に関する計画論的一考察」(『都市計画論文集』第40-3巻、日本都市計画学会、2005年10月、205~210ページ。以下[2])がある。[2]で河上は、上記の宮西や、地域力は「地域の問題解決力、コミュニティガバナンス、ソーシャルキャピタルの3要素から構成される」という山内直人(やまうち・なおと。公共経済学専攻)などの言説をめぐって、「地域力」と「ソーシャル・キャピタル」の概念整理を行う。そのまとめとして、河上はいう。「地域力」は、「ソーシャル・キャピタル」を包含する概念である。「地域力」は、「ソーシャル・キャピタル」によって支えられた「地域の問題解決能力」「地域の公共(財)とその計画・管理・運営能力」「地域自治の推進力」によって構成される。すなわち、「地域力」は、地域社会における住民の意識や行動、活動(ソフト面)のみならず、地域資源としての、地域の環境を構成する公共施設、公益施設、住居施設などのハードの状況も包含する地域の総合力的な概念という点が特徴的である(210ページ)。

〇1990年代以降の経済のグローバル化のなかで、経済成長の停滞と国・地方を通じた財政赤字問題が深刻化した。2000年4月の地方分権一括法の施行や2004年から2006年にかけての「三位一体改革」(国庫補助負担金の廃止・縮減、国から地方への税源移譲、地方交付税の見直し)などによって、地方分権改革の進展が図られた。しかも、国による三位一体改革は、地方財源を大幅に削減し、地方財政の逼迫化をもたらした。それらを背景に、実質的な住民参加が疑問視されるなかで、地域・住民を主役に祭りあげた地域・社会の活性化や再生が志向される。そのひとつとして、地域における住民参加や人材育成の促進が図られ、政府や地方自治体の行政機関・団体などによって「地域力」についての調査・研究がなされる。例えば、東京都市長会の提言「地域力の向上に向けて」(2008年11月。以下[3])や、総務省に設置された「地域力創造に関する有識者会議」(座長:月尾嘉男。2008年11月~2010年6月)の「地域力創造に関する有識者会議 最終取りまとめ 人材と資源で地域力創造を~まだまだできる人材力活性化」(2010年8月。以下[4])がそれである。
〇[3]では、「地域力」は「自治会・町会等の地縁組織、NPO等の市民団体や企業、これらの核となる市民及び行政が相互に連携し、総合力をもって主体的に地域の課題を発見し解決する力」(1ページ)と定義される。そして、その「地域力」の向上を図るためには、行政には(1)気軽に語り合い、活動できる場の提供(地域住民が互いを認識・理解し地域生活課題を共有化するために、気軽に人々が集える場を整備・提供する)。(2)地域力の向上の担い手の確保(地域が地域力の向上の担い手を確保し活用していくことに対して、十分な下支えをする)。(3)人材の発掘・育成(地域力の向上に必要なマンパワーとして、地域力の担い手に係る人材を発掘・育成する)。(4)地域力の向上のための財政支援(地域力の担い手がさまざまな活動を行う際の経費について、財政的に支援する)、などが求められることになる(19~25ページ)。
〇[4]では、今後の「地域力」創造の基本は、「地域資源の有効活用」と「人材力の強化」である(2ページ)、とする。そしていう。● 「地域力」には地域資源や人的要素、社会的要素、経済的要素、自然的要素など多様な要素・内容が含まれている。経済的条件、自然的条件は地域においてさまざまであるが、同じような条件下にあっても活性化している地域とそうでない地域がある。地域を活性化させる要因としては、究極的には「人材力」の要素が大きい。● 「人材力」は、さまざまな得意分野を持った多様な人々を発掘し、まわりの人々が支え、誰かに強制されるのではなく、緩やかにつながり、協力し合うことによって向上する。● 「人材力」が向かう対象として地域資源がある。地域に愛着を持ち自らの地域の魅力、資源に気づき、それらを磨いていけるよう、地域資源の発掘、再生、創造に向けた取り組みに「人材力」をつなげ、それを結集していくことが重要となる(3~4ページ、「最終取りまとめ概要」)。そのうえで、[4]は、表1のように「地域力」の構成要素を分解する。そして、「地域力」全般の評価や地域づくり事例のデータベースの構築について検討する必要があるとする。

〇総務省はその後、「地域力」の基本的・中核的な要素である「人材力」の強化を図るために2010年6月、「人材力活性化研究会」(座長:飯盛義徳)を設置する。そして、研究会は、2011年3月に『人材力活性化プログラム』と『地域づくり活動のリーダー育成のためのカリキュラム』を作成する。加えて、「プログラム」と「カリキュラム」の有効活用の促進とその普及を図るために、2012年3月に『地域づくり人の育成に関する手引き』、2013年3月に『地域づくり人育成ハンドブック』を作成・編集する。こうして、国主導の・上からの「地方分権」と同様に、国主導の・国好みの「地域づくり人」の育成・確保が、「地域おこし協力隊」や「地域力創造アドバイザー」「全国地域づくり人財塾」などを通じて図られる。
〇ここで、厚生労働省等が推進する「我が事・丸ごと」の地域共生社会の実現に向けた検討会について思い起こしておきたい。厚生労働省に設置された「地域における住民主体の課題解決力強化・相談支援体制の在り方に関する検討会」(座長:原田正樹、2016年10月~2017年9月)、略称「地域力強化検討会」がそれである。そこでは、(1)住民主体による地域課題の解決力(すなわち「地域力」)の強化・体制づくりのあり方、(2)市町村による包括的な相談支援体制の整備のあり方、(3)寄附文化の醸成に向けた取り組み、について検討された。そして、2017年9月、「地域力強化検討会 最終とりまとめ~地域共生社会の実現に向けた新しいステージへ~」が報告されている。その内容は総じていえば、耳ざわりのよい言葉と裏腹に、地域・住民の「自立(自活)と連帯(絆)」「自助(個人)と互助(近隣)」の強制と財政の抑制(「我が事」)、社会福祉の市場化・商品化と社会保障・社会福祉の公的責任(行政責任)の地域への丸投げ(「丸ごと」)、などの理念が通底している。そしてそれは、少子高齢・人口減少社会が進展し地域社会(コミュニティ)の衰退や崩壊が進むなかで、分断と孤立、格差と不平等、そして差別と排除などの助長・再生産を促すものである。ここで、1979年8月の「新経済社会7カ年計画」(閣議決定)で打ち出された、「個人の自助努力と家庭や近隣・地域社会等の連帯」を基礎とする「日本型福祉社会」論が思い出される。
〇ところで、筆者(阪野)の手もとにいま、宮城孝(みやしろ・たかし。地域福祉専攻)の最新の著作『住民力―超高齢社会を生き抜く地域のチカラ―』(明石書店、2022年1月。以下[5])がある。[5]で宮城は、各地の住民福祉活動に共通しているのは、「住民リーダーたちの地域に対する強い愛着と将来への危機感」であり、「住民相互の協力関係の強さ」である(3ページ)。日本が直面している超高齢化や頻発する自然災害などの危機に立ち向かうためには、「住民力」が必要不可欠となる、という。その際の「住民力」とは、「地域の暮らしを守るためのチカラ」である(4ページ)。そこで、宮城は、地域づくりにおける住民参加や「住民力」のあり方について、自らが地域福祉実践・研究のフィールドとして関わってきた島根県松江市淞北台地区をはじめ、東京都中野区や立川市、神奈川県横須賀市における地域・住民の取り組み、さらには東日本大震災で被害を受けた陸前高田市での支援活動などを紹介しながら論述する。
〇そのうえで宮城は、[5]のまとめとして、「住民力」を高めるための「7つのポイント」を提示する(141~161ページ)。その要点をメモっておくことにする(抜き書きと要約)。

「住民力」を高めるための7つのポイント
(1)地域の現状を知り、未来を予測する
地域住民、特に地域のリーダー層が、自分たちの地域の現状と今後の課題、将来の予測について、基本的・客観的なデータなどから知り、考えることが重要である。そのためにも、行政は、地域のデータを積極的に地域に示すべきである。住民が不安に思うのではないかのような点について余計な配慮は必要ない。住民自身が、地域のことを正確に知ることから、地域の課題を考えることが始まる。
(2)課題を共有化し、住民にできることを探る
行政は、前例の踏襲や公平性といったことから、新しい事業や施策が実現するには、手続きや時間がかかるなど壁が厚い。そこで、最初から行政にすべてを期待するのではなく、住民が自分たちでできることを追求する。そして、実績を示して行政や専門機関を最大限に活用すべきである。すなわち、住民ができることを探り、住民がいろいろな意味で力をつけて、行政が取り組まざるを得ないようにすることが大事なのである。
(3)住民力を高めるリーダーシップ
リーダーのあり様は、住民による福祉活動が地域に広がり発展していく決定的に重要なポイントとなる。リーダーには、地域への愛情(愛着)と熱意、地域課題に対する客観的理解(受容力)と危機感やチャレンジ精神、課題解決のための責任感と仲間との信頼関係の構築、などが求められる。住民主体による福祉活動が活発に展開されるためには、住民リーダーの的確なリーダーシップとともに、地域を支援する関係者には、そのリーダーの信頼を得る関係づくりと適切な刺激や情報を提供する力が求められる。
(4)チームの結束力とお互いの協力関係をつくる
住民による福祉活動を継続的に推進していくためには、リーダーとリーダーをサポートする周辺のスタッフによる「コア・チーム」の結束と協力関係を構築することが鍵となる。このコア・チームが、それぞれの地域の情報を持ち寄って情報交換し、課題に対応るアイデアを出し合い、協議していく必要がある。地域の課題に取り組むには、中・長期的な取り組みが必要となる。そのためにも、強力なリーダー一人に依存するのではなく、コア・チームづくりが非常に重要となる。
(5)行政や関係機関・団体を最大限に活用する
これからの時代は、行政や専門機関が地域に出向き、地域の課題をしっかりと理解し、その課題に対応していくことがますます求められる。その際、行政と地域住民との橋渡しをするのが、社会福祉協議会や地域包括支援センターである。人口減少・超高齢社会において、地域の課題がさまざまに顕在化する時代では、住民組織が自らその役割を果たしつつ、住民のみでは対応できない課題に対して、行政や関係機関・団体の力を最大限に活用する力を持つことが重要となる。
(6)理解者・協力者の参加を広げるしかけ
これからの住民福祉活動の大きな課題は、いかに一般住民を巻き込むかという点にある。福祉活動に参加する住民や団体が持続性を高め活性化していくためには、新たな人材の参加が不可欠となる。その際に重要なのは、活動に「楽しさ」(友達や仲間をつくる、知識や情報、技術を身につけるなど)の要素を取り入れるとともに、「その人を活かす」(趣味や特技などを活かす)ことである。
(7)新たな課題に粘り強く挑戦し続けるチカラ
住民によるこれまでの取り組みでは地域の課題に十分対応できなかったり、取り組みが中断してしまうことも生じる。地域は簡単に変わらないが、5年、10年で地域は大きく変わる。地域がそれなりの成果を出すまでには、必ずそこに至るまでのプロセスと多くの努力の積み重ねがある。超高齢社会にあって、地域では今後さまざまなことが起こり得るが、それらの変化を見つめつつ、新たな課題に果敢に、また粘り強く挑戦し続けることが必要かつ重要となる。

〇「〇〇力」という言葉・概念は多様である。例えば、「生きる力「社会力」「人間力」「福祉力」などがそれである。
〇「生きる力」は、(1)確かな学力:知識・技能に加え、自分で課題を見つけ、自ら学び、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力、(2)豊かな人間性:自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、(3)健康・体力:たくましく生きるための健康や体力、などからなる(第15期中央教育審議会第1次答申「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について―子供に[生きる力]と[ゆとり]を―」1996年7月)。その答申を受けて、小・中・高等学校に「総合的な学習の時間」が新設された(小・中学校は2002年度、高等学校は2003年度から実施)。
〇「社会力」とは、「社会を作り、作った社会を運営しつつ、その社会を絶えず作り変えていくために必要な資質や能力」のことをいう。その基盤になる能力は、①「他者を認識する能力」と②「他者への共感能力ないし感情移入能力」の2つである(門脇厚司『子どもの社会力』〈岩波新書〉岩波書店、1999年12月、61、65ページ)。
〇「人間力」とは、「社会を構成し運営するとともに、自立した一人の人間として力強く生きていくための総合的な力」をいう。それは、①基礎学力、専門的な知識・ノウハウ、論理的思考力、創造力などの「知的能力的要素」、②コミュニケーションスキル、リーダーシップ、公共心、規範意識などの「社会・対人関係的要素」、③意欲、忍耐力、自分らしい生き方や成功を追求する力などの「自己制御的要素」からなる(内閣府・人間力戦略研究会「人間力戦略研究会報告書 若者に夢と目標を抱かせ、意欲を高める~信頼と連帯の社会システム~」2003年4月)。
〇「福祉力」は、地域福祉の推進を図るための地域の自発的な支援活動を総称する。地域福祉の推進(力)は、「地域の福祉力」と「福祉の地域力」との合力(ごうりょく)によって形成される。「地域の福祉力」は、「地域社会のなかに存在する、地域住民による自発的で開拓的な福祉活動や支援のエネルギー」(10ページ)をいう。それは、地域福祉の主体・当事者としての住民が「異質な他者との出会い、コミュニケーション、体験、学び、理解といった一連の過程を通じ、地域の多様性や異質性を受け入れ、活動を作り山し、地域のありようを構想していく力」(14ページ)をいう。ここでは、「出会いの場」(共有する力)、「協働の場」(作り出す力)、「協議の場」(構想する力)が重視される。「福祉の地域力」は、「『地域に潜在する福祉力』を奪わず活かすために、専門職・行政職がその福祉力を評価する意識や価値をもち、より積極的に『地域の福祉力』を形成さらには発展させるために用いる支援の方法」(21ページ)を意味する(全国社会福祉協議会・地域の福祉力の向上に関する調査委員会『地域福祉をすすめる力~育てよう、活かそう「地域の福祉力」~』2007年2月)。
〇「〇〇力」の「力」は「資質・能力」を意味する。地域・住民の「資質・能力」は本質的に、その有無や程度(高低、上下)は異なり、その特性も多様・異質であることを前提にする。その多様性や異質性は、そのものには問題はない。地域・住民が多様で異質なものであるという点においては対等である。問題は、多様・異質なものと関わることができる「資質・能力」があるかどうか、多様性や異質性を知り、理解し、受け入れ、共有することができるかどうかにある(岩佐礼子『地域力の再発見―内発的発展論からの教育再考―』藤原書店、2015年3月、350ページ)。
〇こうした「資質・能力」に対する国や行政による「上から」「外から」の、しかも手あかのついたステレオタイプな働きかけは、画一化・没個性化とそのもとでの選別化・序列化を促し、息苦しい地域・住民を生むことになる。それは、管理・統制とその強化を意味する。超高齢化や頻発する自然災害に立ち向かうためにいま求められるのは、国主導の「地域再生」「地域の活性化」や「地方創生」ではない。住民主体・住民主導の、自律的で内発的な、地域に根ざしたその地域ならではの豊かさの実現と価値の共創である。そこには、緩(ゆる)やかな「コミュニズム(共同体主義)」が見出される。この言説は必ずしも目新しいものではないが改めて、本稿で紹介した宮城孝による「まちづくり」「住民力」に “温もり” と “確かさ” を感じるのは、筆者だけではあるまい。国や行政による無味乾燥な言葉(「地域力」「人間力」等)や羊頭狗肉(ようとうくにく)の政策・制度だけはご免(めん)こうむりたい。

備考
表1 (「地域力」要素分解図 )の拡大版を表示しておくことにする。

謝辞
宮西悠司の論稿「地域力を高めることがまちづくり―住民のチカラと市街地整備―」を拝受するにあたっては、日本都市計画学会事務局から格別のご高配を賜った。記して感謝申し上げます。

阪野 貢/「世界第3位の経済大国」とはいうものの「相当やばい国」日本:「奇跡」の幻想と「経済発展」の死語 ―本田由紀著『「日本」ってどんな国?』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、本田由紀(ほんだ・ゆき。教育社会学専攻)の、中・高校生向きに書かれた『「日本」ってどんな国?―国際比較データで社会が見えてくる―』(〈ちくまプリマー新書〉筑摩書房、2021年10月。以下[1])という本がある。[1]で本田は、「家族」「ジェンダー」「学校」「友だち」「経済・仕事」「政治・社会運動」「『日本』と『自分』」の7つのテーマを取り上げ、系統的に国際比較データを提示しながら日本という国の特殊性や後進性などをあぶりだす。日本は、「奇妙な国」「相当やばい国」である。そんな日本という国のあり方を真面目に考え、諦(あきら)めないでこれからの「進み行き」を少しでも良くしていきたい。「あきらめたらすべては終わりです。日本も、世界も、そして個々の人間――あなたも、私も」(257ページ)。本田の、中・高校生に対するメッセージである。それはそれ以上に、大人に対するものでもある。
〇本田が各テーマごとに提示する、世界の潮流から乖離した統計データ(とりわけ下位に位置する統計項目のデータ)と、その分析に基づく主要な論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。統計データの出典は一部のみ)。

家族
●日本における家庭生活の満足度は31カ国中、男性では27位、女性では29位と、非常に低い位置にある。(ISSP〈国際社会調査プログラム〉、2012)
●若者(13歳から29歳)が父親・母親との肯定的もしくは親密な関係性について、「あてはまる」と答えた比率は、日本が7カ国中、最低である。(内閣府、2018)

日本では、一方では古い家族観が根強く、政府も家族を美化したり様々な社会的責任を押しつけたりするようなふるまいが著しい。他方では現実の家族は成立や維持が難しくなったり、家族間の関係が不十分であったり壊れていたりし、また家族が人々の間の格差や分断を生み出し続けているという問題も抱えている。(50~51ページ)

いま必要なのは、古い家族像を理想化したり、家族が担い切れないほどの負担を負わせたりすることではなく、どのように異例な「家族」であったとしても、あるいは一人で独立して生きていく場合であっても、安心して、かつ尊重されて人生を送れるようにすることである。そのためには、個々人を単位として、生命と生活を維持することができるためのモノ(住居や食品など)やサービス(医療や教育など)が、普遍的に確保できるような方向に向かっていくしかないのである。(51ページ)

ジェンダー
●国会議員に占める女性比率は37カ国中、最下位、企業の管理職に占める女性比率も33カ国中、最下位である。(OECD〈経済協力開発機構〉、2019)
●日本の15歳から64歳の男性の1日当たりの無償労働時間(家事・育児・介護など)は41分で、30カ国中、最低である。女性は224分で、男性との落差は大きい。(OECD統計より本田作成)

日本の女性は総じて「公的」な立場から排除され、仕事の世界でも男性との不平等は根強い。男性の「家庭進出」が停滞し、今なお「男は仕事、女は仕事も家庭も」が望まれている。「女性活躍」は実現されていないのである。(65~69ページ)

何より重要なことは、男性であっても女性であってもセクシャルマイノリティであっても、誰もが対等な人間であり、誰もが他者から敬意を払われ、自分の望みを表明したり行動に表したりできるような社会にしてゆくということである。そのためには、男性/女性という区分を、ぐらつかせていくことが必要となる。体のつくりが自分とは少し異なるだけの相手を、侮蔑(ぶべつ)したり依存したり憎悪したりすることが、いかに愚かなことか。何かの「らしさ」にはまらなくとも、あなたはあなたであるだけで十分なのである。男性/女性「らしさ」に捉われているのは本当につまらないことである。(94、95ページ)

学校
●日本は34カ国・地域中、「試験不安」(テストが難しいのではないか、悪い成績をとるのではないかという心配)は高く、「学習への動機づけ」は非常に低い。(OECD・PISA〈生徒の学習到達度調査〉、2015)
●日本の中学校における1学級当たりの児童生徒数は、33カ国中、32人と最多である。(OECD、2020)
●日本の中学校の教員は、1週間当たりの労働時間は48カ国中、最長の56時間を数え、文字通り世界一、多忙である。(OECD・TALIS〈国際教員指導環境調査〉、2018より本田作成)
●2009年と2018年において、日本の学校では内外におけるコンピューターやインターネットの(ICT:情報通信技術)の活用が、他国と比べて非常に遅れている。(OECD、2009、2018)
●「求めるスキルをもつ人材が採用できない」と回答した企業の比率は、26カ国中、一番高い。(Manpower Group、2015)

日本の教員たちは授業をうまく行うことにはかなり長(た)けており、それによって日本の生徒は国際学力調査で高い成績を示すことができている。しかし、日本の教員は、個々の児童生徒の学習状況を個別にフィードバックしたり、学ぶことの価値や物事を根底から考えさせたりすること(「学習の価値」「批判的思考」)については、うまく行えていない。その背景には、教室内の児童生徒数が多いことや、教員の多忙さ、ICT化の遅れ、異常に厳しいルールで児童生徒をしばる行為などがある。(113~114、121、127ページ)

他国と比べて特殊で「異様」な面がたくさんあり、国全体を覆う巨大なシステムである「学校」を変えることはとても難しい。だからこそ、当事者である児童生徒や教員、保護者を含め、多くの人たちに、変えるべきことは変えてゆくという決意や行動が必要とされる。(138ページ)

友だち
●「家族以外の人」(「友人、職場の同僚、その他社会団体の人々」)との交流が「ない」と答えた人の割合は、日本では15.3%と、20カ国中、最も高い。(OECD、2005)
●1週間当たりの「社会的交流時間」(家族との交流を含む)は2時間、日本は24カ国中、とびぬけて最下位である。(OECD、2020)
●「過去1カ月の間に、助けを必要としている見知らぬ人を助けましたか?」という質問に「はい」と答えた比率は、日本では25%、調査対象国140カ国中、139位である。(アメリカの世論調査会社・Gallup社、2015)
●「暮らし向きの良い人は、経済的に苦しい友人を助けるべきだ」への賛否について、「そう思う」と答えた比率は、30カ国中、他国を引き離して最下位である。(ISSP、2017より本田作成)

日本の社会は、他国に比べて、人への冷淡さや不信が強い。日本では「絆」とか「団結」とかが称賛されることがしばしばあるが、社会の実態はそれらとはほど遠く、ばらばらに切り離され相互に警戒し合うような関係のほうが、広がってしまっている。「友だち」に関する日本の特徴は、「友だち」の少なさや格差、それらが人生のあとになるほど著しくなること、「友だち」が同質的な相手に限られがちであること、そして「友だち」以外のより広い他者との関係も希薄であることなどである。(166、169ページ)

ちょっと話す、ちょっと笑う、互いに傷つけない関係が少しあるだけで十分な人もいる。自分と全然ちが属性や境遇の人の存在に触れてみるだけでもよい。型にはまらない、いろいろな関係が可能な社会にするにはどうすればいいか、この難題について考えることが求められる。(170ページ)

経済・社会
●1週間当たり49時間以上(長時間労働)働いている人の比率は、やや減ってきているとはいえ、16カ国中、飛びぬけて高い比率が続いている。(労働政策研究・研修機構データ、2019より本田作成)
●2016年におけるGDP(国内総生産)に占める労働市場政策への公的支出(失業者の救済や職業紹介・訓練など)は、17カ国中、米国に次いで2番目に少ない。(リクルートワーク研究所、2020)
●「仕事をするうえで大切だと思うもの」について、日本以外の8カ国では「高い賃金・充実した福利厚生」が重視されるのに対して、日本では「良好な職場の人間関係」が選択比率1位である。(リクルートワーク研究所、2012)

日本の働き方は、「世界標準」から見れば異様ともいえるような側面が多々見いだされる。長時間労働や正社員と非正社員の間の賃金格差をはじめ、勤続年数が長くなるほど賃金が上がっていく度合いの大きさ、転職の少なさ、企業規模間の賃金格差の大きさ、教育機関を卒業する以前に就職先が決まっている(新卒一括採用)割合の大きさ、職場でスキルを活かせている度合いの低さ、正社員のなかでの男女間賃金格差の大きさ、管理職の女性比率の低さなど、日本の働き方・働かせ方の特徴は枚挙にいとまがない。このような日本の特徴をひとことに集約した言葉として、最近、「メンバーシップ型雇用」という表現が頻繁に使われる。これと対比される「世界標準」的な働き方が「ジョブ型雇用」である(注①)。それは、職場の「メンバー」に入れてもらったあとは組織に身を委ねる、という働き方(「メンバーシップ型雇用」)ではなく、賃金や勤務時間、働く場所、オフィス環境など、様々な事柄に対して会社と交渉し、企業側とすりあわせて納得がいった場合にそこで働くという働き方である。(185~187、194ページ)

これからは、企業に溶け込んでお任せしっぱなしの働き方ではない、個人としての誇りと主張、確実なスキルをもった働き手が増えていく必要がいっそう高まる。それは、専門性の発揮だけでなく、働く側が、輪郭の明確な「ジョブ」に即した自律性や自由を取り戻すきっかけになる。(197、198ページ)

政治・社会運動
●国政選挙における投票率は、他国と比べて日本では(2014年衆議院選挙の投票率)52.66%で、200カ国中、150位である。(国際IDEAのサイトから本田作成)
●7カ国の若者(13歳から29歳)の政治意識について、「政治への関心」「社会問題の解決」「政策決定への参加」「子どもや若者の意見の反映」「社会現象の変革」「政府の決定への影響」などは、日本は軒並み、最小の数値が並んでいる。(内閣府、2018)
●「医療の提供」「高齢者の生活保障」「低所得家庭の大学生への援助」「住居の保障」「自然環境保全」について「政府の責任」とみなす度合いは低く、35カ国・地域中、最下位である。(ISSP、2016データより本田作成)

日本の人々は政府に対して、医療や教育、住居など生命と生活を守るための基本的な条件を整えることや、失業者や高齢者や低所得家庭の大学生を助けたり、男女平等を推進したりといった、「公平さ」を実現する役割を強く求めていない。経済や物価だけちゃんとまわしてくれればいい、あとは自分たちで稼いで生きていくから、といった意識が、他国と比べて強い。(220~221ページ)

人々の自活・自助を当然視し、政府はそのための経済的な環境を整えてさえいればよい、社会のなかに苦しい人や不平等があったとしても、その是正は政府の役割ではない、という考え方。これは、政府が長年にわたり明に暗に発してきたメッセージそのものである。
それは人々が、生命と生活を守るために、政府に対して監視・批判・要請を十分に行ってこなかったということでもある。確固たる民主主義のもとで、生命と生活を守って生きてゆくために必要な施策や制度を、政府に対してあきらめずに強く要請し続けていかなければならない。(222、224ページ)

「日本」と「自分」
●高校1年生への「生きる意味」の問いに対して、「何のために生きてるのかわからない‥‥‥」といった虚無的な回答が73カ国・地域中、日本は最低である。(OECD・PISA、2018)
●「親世代より生活水準は上がるだろう」という質問に対する日本の若者(16歳から24歳)の肯定率は、30カ国中、最下位である。(IYF〈国際若者基金〉とCSIS〈戦略的国際研究センター〉、2016)

「自分はハッピーだから日本という国のことなんて関係ねぇ!」とはほど遠く、日本の若者のなかには、日本固有と言っていいようなネガティブな人生観や自己認識、不安などが色濃く観察される。この国で生きる若者たちは、知らず知らずのうちに傷ついている。日本という国の仕組みによって打ちのめされている。その結果、若者には強そうで安定した存在には従順に従う傾向がある。そうした「もじれた」(もつれる・こじれる・もじもじするなどを合わせた本田の造語)状況こそが、実は若者の自己意識の暗さの中核にあるのかもしれない。(238、245~246ページ)

「もじれた」現状から脱するためには、みんなが薄々気づき始めていたり、いろいろなデータによって否応なく突きつけられたりする、日本の現実を、まずは直視することからしか、何も始まらない。そして、高度経済成長期に成立し、その後の日本の経済社会を支えてきた「戦後日本型循環モデル」が1990年代以降破綻していることを認識し、新たな社会モデルを構想する必要がある。(246、248~249ページ)
なお、「戦後日本型循環モデル」(注②、補遺)とは、「教育」「仕事」「家族」という3つの社会領域が、互いに一方向的に資源を流し込む形で緊密に結びついた社会構造をいう。新規学卒一括採用、日本的雇用慣行(終身雇用、年功賃金・企業別組合)、性別役割分業、教育への私費負担の大きさ、社会保障の家族関連支出の少なさ、などを特徴とする。これからの日本を立て直してゆくためには、過去の「循環モデル」に決別し、教育・仕事・家族、そして福祉や政府の関係を、一方向的な循環ではなく双方向的な連携やバランスの関係へと組み替えていくしかない。(249~250、253ページ)

〇筆者(阪野)は、「世界標準」を “すべてよし” として、それに倣(なら)うべきである、とは考えない。しかし、[1]では、「相当やばい国」日本の「いま」があぶりだされるなかで、“然(さ)もありなん”と思わざるを得ない。しかも、こんなことを思う。戦後日本の「エコノミックミラクル」(経済的復興と高度経済成長)を経て、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」「一億総中流社会」などと言われたのは、今は昔である。その際、誰にとっての「ミラクル」(奇跡)であったのか。また、その奇跡は誰の犠牲のうえに成り立ったのか、が問われなければならない。そして「いま」、「経済発展」という言葉も死語と化している、等々がそれである。
〇本田はいう。「それぞれのテーマに関する国際比較データは、現在の日本社会が、人と人との関係という点でも、物事の合理的な進め方という点でも、非常に多数の問題を抱えていることを表している。(お上〈政府〉)による)気分的な『愛国心』に浸っているひまなどなく、もし本当にこの国を大切に思うのであれば、それらの問題を、たとえ気が遠くなるほど難しくとも、“直視”して是正してゆく覚悟が必要」(248ページ。括弧内は阪野)である。本田の覚悟であり、若者と大人に求められる覚悟でもある。そして本田は断言する。「あきらめるという選択肢がないということだけは確か」(271ページ)である、と。
〇そこで問われるもののひとつは、本田も言及する、危機的状況にあると言われる日本の「いま」の民主主義のありようである。具体的には、自律的で自由な市民の社会参加(参集・参与・参画)は拡大しているのか、政治権力に対する監視・批判や責任追及は強化されているのか、が問われる。
〇宇野重規(うの・しげき。政治思想史・政治哲学専攻)は著書『民主主義とは何か』(〈講談社現代新書〉講談社、2020年10月)で、民主主義について次のようにいう。(1)民主主義は多数決であるが、すべての人間は平等であり、多数派によって抑圧されないように少数派の意見を尊重しなければならない。(2)民主主義(国家)は選挙を通じて国民の代表者を選ぶだけでなく、自分たちの社会の課題を自分たち自身で解決していくことである。(3)民主主義は国の具体的な制度であるが、平等な人々がともに生きていく社会をつくっていくための、終わることのない理念でもある(244、247、252ページ)。留意しておきたい。
〇なお、[1]における「相当やばい国」日本の言説は、一面では個別具体的な「やばいまち」の問題状況に基づくもの(それを積み上げたもの)であり、その事象とデータを社会学的な考察の俎上に載せて分析・整理し、国際比較したものである。それらを、例によって我田引水的であるが、「まちづくりと市民福祉教育」に引き寄せて一言すれば、「やばいまち」の問題状況や課題を踏まえ、それを“直視”することがまず必要かつ重要となる。そのうえで、理念的・抽象的な「思いやり教育」「共生教育」としての「福祉教育」(学校福祉教育、地域福祉教育)ではなく、批判的思考に基づく、自律的改革のための「まちづくりとしての市民福祉教育」のあり方やその推進方策が厳しく問われることになる。その際、「いま」流行(はやり)の、「我が事・丸ごと」の地域共生社会の実現に向けた政策や事業展開から、政府の「我が事」(自助・互助、絆)と「丸ごと」(規制緩和、福祉の市場化・福祉サービスの商品化)の思惑(真のねらい)に敏感であることが求められる。再確認しておきたい。
〇さらに付言すれば、筆者(阪野)はこれまで、「まちづくりと市民福祉教育」に関して、「まちづくりは人づくり 人づくりは教育づくり」である、と言ってきた。そこには、「教育づくりは政治づくり」が含意される。主権者である国民一人ひとりが政治に対する関心と意識を深め、「いま」の政治を変えない限り「いま」の教育は変わらない、という厳しい現実において「政治づくり」はなおさらのことである。
〇ここで、大阪市淀川区の市立木川南小学校の久保敬校長が2021年5月、松井一郎大阪市長に送った「大阪市教育行政への提言:豊かな学校文化を取り戻し、学び合う学校にするために」を思い出す。「提言書」で久保はいう。「学校は、グローバル経済を支える人材という『商品』を作り出す工場と化している。そこでは、子どもたちは、テストの点によって選別される『競争』に晒(さら)される。そして、教職員は、子どもの成長にかかわる教育の本質に根ざした働きができず、喜びのない何のためかわからないような仕事に追われ、疲弊していく。さらには、やりがいや使命感を奪われ、働くことへの意欲さえ失いつつある」。教育現場の現役校長の悲痛な叫びである。
〇久保は続ける。「今、価値の転換を図らなければ、教育の世界に未来はない」。「本当に子どもの幸せな成長を願って、子どもの人権を尊重し、『最善の利益』を考えた社会ではない」。「『生き抜く』世の中ではなく、『生き合う』世の中でなくてはならない」。「子どもたちと一緒に学んだり、遊んだりする時間を楽しみたい」。「『競争』ではなく『協働』の社会でなければ、持続可能な社会にはならない」。この至極当然の言に対して、「政治的権力を持つ立場にある人にはその大きな責任が課せられている」ことに多言を要しない。松井大阪市長は、マスコミ報道によると、「この校長は現場がわかっていない」「子どもたちは、競争する社会のなかで生き抜いていかなければならない」「ルールに従えないなら、組織を出るべきだ」などと述べたという。その意向を受けて、2021年8月、大阪市教育委員会は久保に「文書訓告」の処分を強行する。この恥ずべき愚行は、子どもや教員、保護者、地域社会などの利益や福祉に大きく反するものである。そして、国民が国の政治を決定する権利をもつという国民主権の「政治づくり」、その必要性と重要性をより一層根拠づけることになる。強調しておきたい。
〇福祉教育の関心はこれまで、学校内や学校が所在する地域内の狭義の「ふくし」に留まりがちで、地方自治体や国、さらには国際レベルの「政治づくり」について十分に議論してこなかった。福祉教育は、混迷・荒廃する「いま」の教育に揺さぶりをかけ、その改革を図り、教育の本来の目的や目標をよみがえらせる長期的な教育戦略でもある。その具現化のひとつが政治教育(主権者教育)や政治活動であるが、福祉教育はこれまで、その取り組みに積極的であったとは言えない。付記しておきたい。


①「メンバーシップ型雇用」「ジョブ型雇用」については、その用語の提唱者でもある濱口桂一郎(はまぐち・けいいちろう。労働法・社会政策専攻)の次の本を参照されたい。
・濱田桂一郎『新しい労働社会―雇用システムの再構築へ―』〈岩波新書〉岩波書店、2009年7月
・濱口桂一郎『ジョブ型雇用社会とは何か―正社員体制の矛盾と転機―』〈岩波新書〉岩波書店、2021年9月
②「戦後日本型循環モデル」については、本田の次の本を参照されたい。
・本田由紀『社会を結びなおす―教育・仕事・家族の連携へ―』〈岩波ブックレット〉岩波書店、2014年6月
・本田由紀『もじれる社会―戦後日本型循環モデルを超えて―』〈ちくま新書〉筑摩書房、2014年10月

補遺
本田が説く「戦後日本型循環モデル」と「新たな循環モデル」は下図の通りである。