「まちづくりと市民福祉教育」カテゴリーアーカイブ

大橋謙策/CSW研修のプログラム・方法の構造化と体系化

日本でのCSW(コミュニティソーシャルワーク)機能の必要性と重要性は、1990年の「生活支援地域福祉事業(仮称)の基本的考え方について(中間報告)」(座長大橋謙策)において指摘された。
それは、従来のCW(コミュニティワーク)、CO(コミュニティオーガニゼーシン)をより地域福祉の理念、考え方に引き付けて発展させたものであった。これ以降、CSWは用語としても、考え方としても、かつ社会実験的にも実証され、定着してきた。
日本社会事業大学の教員による共同研究を基にまとめた『コミュニティソーシャルワークと自己実現サービス』が2000年8月に上梓されたが、その本でほぼコミュニティソーシャルワークの考え方、機能は整理されたといえる。
しかも、コミュニティソーシャルワークを展開できるシステムとしては、東京都目黒区、東京都の子ども家庭支援センター等の先駆的試みを経て、2000年4月から開始された長野県茅野市の保健福祉サービスセンターのシステム(『福祉21ビーナスプランの挑戦』参照)において、その必要性と可能性も確認された。
これらの機能、考え方、システムの在り方は、現在厚生労働省により「地域共生社会政策」として推進されている。
しかしながら、これらコミュニティソーシャルワークのシステムや機能を具現化させる職員の養成、研修の在り方は必ずしも体系化、構造化されていなかった。
筆者は、ここ数年、大学業務に束縛されることが無くなり、時間的余裕もできたので、コミュニティソーシャルワークの研修を依頼された機会を活用して、コミュニティソーシャルワーク研修のプログラム・方法の構造化と体系化に心がけてきた。それは、まさに、現場の研修を担当している職員との「バッテリー型研修」であり、「コンサルタント的研修」を行うなかで、ほぼ“完成”に近い、納得できるCSW研修のプログラム・方法の構造化と体系化ができたと思っている。
この“社会的実装”に参加してくれた社会福祉協議会は、富山県社協、香川県社協、佐賀県社協、大阪府社協、千葉県社協、岩手県社協、東京都世田谷区社協(人口92万人)等である。この紙面を借りて、改めて関係者にお礼と敬意を表したい。
このコミュニティソーシャルワーク研修を全国に広め、定着させると同時に、社会福祉系大学の教育、演習の在り方を変えてもらうためにも、全国の関係者と共有し、次年度からの研修に活かしてほしいとの思いで「老爺心お節介情報」第18号を送信する。関係者は
相互に連絡を取り合って、情報交換をし、各自が関わるところで研修を見直して頂きたい。
なお、研修プログラムの作成に当たっては、以下の点を考慮、配慮してほしい。
(1) 研修には、予算、期間の制約があり、この通りにはならないが、研修に盛り込むべき内容は同じである。
今回添付ファイルしたものは、富山県社協の地域福祉部(部長古野智也)と富山県福祉カレッジ(学長大橋謙策)とが共催で取り組んだ取組で、プログラムや参加者に課した課題の整理、あるいは演習で使用するシートを作成してくれたのは富山県社協の魚住浩二さんである。富山県社協の研修時間は残念ながら、現時点では約3時間足らない。期間としてはAM、9時30分~PM5時までの全日4日間はほしい。
なお、従来、「多問題家族のアセスメントシート」を使ってきたが、より「社会生活」をきちんとアセスメントするのがソーシャルワークであると考え、タイトルを「社会生活モデルに基づくアセスメントの視点と枠組シート」にタイトルを変えた。このシートのレイアウト作成には、世田谷区社協の山本学さんに協力を頂いた。
(2) 研修参加者の主体性を高めるために、アクテブラーニングの考え方を取り入れ、小グループ編成によるワークショップだけでなく、演習の課題に即し、参加者各個人にレポートを課し、県社会福祉協議会職員と研修講師である筆者とがコメントし、さらに加筆修正をしてもらって提出するというサイクルを試みた。
最も、典型的に取り組んでくれた県社協は佐賀県社協の小松美佳さんである。その1例が多久市の北島暁さんの「問題解決プログラム企画立案書」である。これは、1月に行われる佐賀県市町村社協役職員研修で発表されるものなので、1月末までは取り扱いに注意してほしい。
(3) 岩手県のCSW研修では、アウトリーチ型のロールプレイをビデオに収録し、その後それを再現して、検証した。これからは、ビデオ活用も考える必要がある。
(4) 富山県では、小グループごとにパソコンとプロジェクターを用意し、グループ討議の内容をあらかじめ入力してあったシートに打ち込み、映し出して論議するという方法を取った。これからは、ICTを活用した研修を考える必要がある。
(5) 今までの研修では、県内や市町村の社会福祉に関わるデータを無視して、一般的に論議し、研修をしていたが、研修を通じて県内、市町村ごとのデータを踏まえた論議と問題解決のプログラムを創る必要があるとの認識から、富山県、千葉県では県内の社会福祉に関するデータ、政策に関わる資料を収集し、ファイル化して使えるようにした。今では、上記に挙げた県社協はすべて資料集を作っている。
ただし、この資料集を十分に使った研修ができてない。時間の制約がどうしてもある。市町村社協職員は、行政に説明する場合なども考えて、この資料集を活用して“数字にも強い職員”にならないといけない。
(6) 各県のCSW研修は、初学者、初任者でなく、国家資格や一定の経験を有している人を対象にしているので、座学はあまり時間はいらないと思っていたが、それなりに時間が必要である。
各県の研修では『コミュニティソーシャルワークの理論と方法』、『コミュニティソーシャルワークの新たな展開』を使っていただいているが、CSW研修用に、この2冊から必要な部分を選択し、アレンジして新たな教材を作る必要がある。それを座学で行うか、e―ラーニングで行うかは今後考える必要がある。
(7) 事例検討の仕方は、最初に事例全体の報告をしてから行うのではなく、最初は事例の概要を報告してもらい、その報告された概要に基づき、どのようなアセスメント、聞き取りをしないと援助方針が立てられないかということを認識させる必要性から、報告された概要に基づき、確かめるべきアセスメント項目、聞き出すべきアセスメント項目を、まず参加者個人がポストイットに書いて書き出す。それを基にグループごとに類型化する。この作業を通じて、個々人のアセスメントの視点と枠組が偏っていることを認識させる。その際に、「社会生活モデルに基づくアセスメントの視点と枠組みシート」を使う。
その後、事例は具体的にどう展開したのかを報告してもらい、それでよかったのか、望ましい支援方針はどういうことが考えられるのか“夢のある支援方針”を立案してもらう。岩手県では、この部分に時間を割いたが、あまりにも参加者が制度の枠組みや固定観念に囚われて支援方針を考えていたので、“夢”を語ってほしいと述べた。
事例は、参加者が抱えている困難事例か、県内にある実際の困難事例を使う。できれば、事例報告者には事例に基づく演習が終わるまで参加してもらう。
具体的事例を扱うので、改めてプライバシー保護を徹底化させる。必要なら、事例は回収する。
(8) ソーシャルサポートネットワークづくりに関する演習の成果物で、これはというものは今のところ把握できていない。大阪府の社会福祉法人の地域貢献とコミュニティソーシャルワークの研修の中から、素晴らしいものがでてくる予感がしている。
今後深めないと意見兄分野で、住民の差別、偏見をなくす福祉教育なども視野に入れて取り組みたい。この部分こそが、「地域共生社会政策」の具現化の“象徴”である。
(9) 本来、ここに情報提供しているプログラムや演習シートなどは、商標登録や著作権の対象となるものであるが、我々社会福祉関係者はお互いの資質、能力、力量が向上し、福祉サービスを必要としている人々の生活が改善されることを願って仕事をしているのであるから、そのような制約はかけない。その分、多くの関係者が努力していることに“思い”を馳せてほしい。
(10) 演習の進め方については、演習の課題に即して、まず個人作業をすることが大切。個人作業を通じて、その課題に関する自らの認識、力量を自己覚知することが重要で、最初からグループ討議をしてしまうとその自己覚知の部分が確認できない。
その後、小グループごとに討議をするが、その過程で自分の作業と他の人の作業とを比較する中で、自分を見つめ直す機会とする。
小グループで演習課題に関する課題を完成させ、全体会で発表し、研修講師が座学で学んだことを事例、達成課題に引き付けてコメントする。
(「老爺心お節介情報」第18号、2020年12月24日)

日開野 博「ボランティア/温故知新 木谷宜弘先生の軌跡からボランティア活動のこれからを見据えて」

【備考】
木谷宜弘氏の「生涯と思想と実践」については、徳島県社会福祉協議会のホームページに表示されている「木谷宜弘資料館」(Yoshihiro Kitani Archives)をご参照下さい。

原田正樹「『ボランティアの輪』連絡会議の歩みとその特徴について」

出典:原田正樹「『ボランティアの輪』連絡会議の歩みとその特徴について」『「広がれボランティアの輪」連絡会議25周年記念誌―「いつでも、どこでも、誰でも、気軽に、楽しく」ボランティア・市民活動に参加できる環境づくり、気運づくりをめざして―』「広がれボランティアの輪」連絡会議、2020年10月、13~19ページ。

備考
(1)「広がれボランティアの輪」連絡会議とは

出典:『同上書』6~7ページ。

(2)ボランティア・市民活動と「広がれボランティアの輪」連絡会議の動き


出典:『同上書』20~22ページ。

鳥居一頼・馬川友和「令和元年度・民生委員児童委員初任者研修事務局担当者アンケート調査報告書~自由記載の内容の分析を中心にして~」

馬川友和・北海道民生委員児童委員連盟「新型コロナウイルス感染拡大による活動への影響に関する調査報告書」(暫定版/6月26日集計時点)

大友信勝「学生セツルメントと地域福祉施設との再会―ヤジエセツルメントを中心にして―」

はじめに
セツルメントをキーワードにした研究集会に講演依頼を受け、このようなテーマでまとまった発表をしたことがなく、半世紀以上前の実践を思い起こしながら責めを果たそうと考えている。副題のヤジエセツルメントの発表が中心で、主題に切り込んでいない。『レンガの子ども』やヤジエセツルメント保育所を論述している浅井純二さん等の先行研究を読み、自らの思い出とつないで述べてみたい。

1. 名古屋市南区弥次衛町(以下、ヤジエと略)がヤジエセツルメントの舞台
〇1959年9月、伊勢湾台風、約5000人が死亡。
〇ヤジエ町はどういう地域か。名古屋南部の被災地の一つ。ヤジエ町はゼロメートル地帯、低湿地の地域、応急仮設住宅(約300戸)が建てられ、その後、災害復旧公営住宅に移転するが、生活困窮で行き場のない被災者、非正規雇用が多く、在日コリアンの割合も高い。応急仮設住宅はバラックで8畳一間、共同トイレ、共同炊事場からなっている。
〇なぜ、在日コリアンが多いのか。名古屋南部工業地帯は戦前・戦時下の重化学工業を支え、朝鮮半島から徴用があった歴史を持っている。住宅地として環境は良くないが、ここに住み、台風にあい、他に行くところがない災害弱者に在日コリアンの割合が高かった。

2. ヤジエセツルメントの歩み
〇ヤジエセツルメントの歩みは伊勢湾台風の被災者救援から始まる。当初は様々な被災者救援活動が名古屋大学、愛知県立女子大学、名古屋市立保育短期大学、日本福祉大学等の学生たちによって行われる。救援活動からどうしてヤジエセツルメント保育所が誕生するのか。
〇避難所への避難が定着するようになると臨時保育所が開かれ、名古屋市立保育短期大学、日本福祉大学の学生たちが、その活動への参加をはかっている。この臨時保育所は学生たちが大学の災害対策本部等に必要を訴え、市役所に交渉し、その数や規模の拡大を図っている。臨時保育所が被災者にとって切実な要求であり、学生たちがその要求に答えた。
〇台風直後の臨時保育所が次第に既設保育所の再開によって縮小していく時期に、名古屋大学泥の会、日本福祉大学(学生自治会)が住民アンケートをとり、保育要求を掘り起こしている(1959年12月)。避難所も11月に入ると応急仮設住宅へと切り変わっていく。
〇ヤジエセツルメント保育所は元養鶏場(事務所)に1959年12月24日~1962年8月まで、民間保育所(無認可)として、市立宝保育園が開設されるまで活動した。
〇ヤジエセツルメント保育所の直接的な発足経緯はどういうものか。学生たちは、被災者の利用できる託児所がなければ働きに行けないという住民要求を受け止め、12月24日から冬休みを利用し、1月20日までやる予定であった。しかし、父母の会(1959年12月27日)で継続を望む声が強く、市から正式に元養鶏場(事務所)を借り、名古屋大学泥の会、日本福祉大学災害対策本部、旭丘高校童話部の3者による資金カンパの要請が行われている。
〇資金カンパは、地域と結びついた施設を作ることをうたい、設立総会がYWCAで行われている。ここで東京保育問題研究会からの保母派遣要請が行われている。
〇東京保育問題研究会から、及川嘉美子さん、難波ふじ江さんのお二人を迎え、2歳児から6歳児まで、約30名の保育を行った。
〇保育所運営委員会委員長は浅賀ふさ先生である。先の臨時保育所開設時点での市役所交渉の中心は浦辺史先生である。また、学生とともに保育所活動を支援したメンバーに、日本福祉大学保育研究室の土方弘子先生たちがいる。他大学でも、保育問題研究をしている先生方が保育要求にこたえる活動を活発に展開している。

3. ヤジエセツルメントとの出会い
〇1962年4月~1966年3月まで、ヤジエセツルメントに在籍し、1964年4月~9月はヤジエセツルメント委員長を担当した。伊勢湾台風(1959年)の時、どうしていたかといわれると、私は秋田県の高校生であり、入学が1962年である。
〇なぜ、ヤジエセツルメントに入ったのか。学生寮に入っていたが最も熱心な誘いを受けた。天下・国家を論じるので圧倒され、価値観が揺らいだ。子どもたちや地域を守ろうとする使命感のような熱意があった。他に、井戸田セツルメント、白水セツルメントが活動しており、部落問題研究会や児童文化部の人気が高かった。
〇家庭の事情で仕送りが期待できないことから、アルバイトと奨学金によって、活動と両立できるのかを心配した。母が長期の難病で医療費の負担が重く、そのため家計が傾き、その母も入試の時期に亡くなり、不安定な状態での入学だった。
〇ヤジエとの出会いは、1962年4月、市電で杁中から大久手を経由し、笠寺方面行きの市電に乗り換え、遠くて時間のかかる道のりだった。ヤジエセツルメント保育所が二人の保母と学生,保育問題研究会の支援で運営されていた後半の時期である。仮設住宅から災害公営住宅への引っ越しも始まっており、仮設住宅に空き家が出始めていた。セツルメントの学生たち(セツラー)は応急仮設住宅の空き家を借り、そこを拠点に活動していた。共同炊事場で食事を作り、共同トイレを活用し、質素でつつましい生活だが声を掛け合い、明るく元気だった。前年(1961年)、赤痢が発生したという話も聞いたが、湿地帯でバラックの仮設住宅、共同炊事場、共同トイレ、雨が降ると汚水がたまるような環境であり、発生してもおかしくないと納得した。これは大変なことになりそうだという予感がした。
〇セツルメントの会議は会議室がなく、様々な所で臨機応変に行われた。応急仮設住宅、災害公営住宅の階段の踊り場、近くのお好み焼き屋、夕方以降はセツルメント保育所、そして、大学のサークル室等である。当時のヤジエセツルメントは名古屋市立保育短期大学と日本福祉大学の2校で構成されていた。セツルメントの日常活動は、児童部、保育部、青年会部の3部門制であり、対外活動として、名古屋南部セツルメント協議会があった。名古屋南部セツルメント協議会は全国学生セツルメント協議会に加入しており、名古屋では、ヤジエセツルメントの他に、井戸田セツルメントと白水セツルメントが加入していた。ヤジエセツルメントのセツラー総会は名古屋市内のお寺を借りて合宿形式で行うことが多かった。OSも来て総会は賑やかで、夜は、せんべい布団1枚と毛布1枚である。
〇ヤジエセツルメントの活動は災害救援活動の歩みと復旧・復興とともに変化し、常に変動の中で次の活動の開拓をしていく事業の連続であった。保育部はヤジエセツルメント保育所が市立宝保育所への切り替えとともに閉鎖され、その後の活動は児童部に一部が引き継がれていく。青年会部は、セツルメント保育所を夕方から夜にかけて活動場所にしていたことから、活動の拠点を失うことになった。リーダーの青年たちが大同製鋼やブラザーミシン等、近くの活動拠点を検討するが継続できないことになった。青年会部はレクレーションと情報交換が主なものであり、特定の地域活動はしていなかった。セツルメントの執行部は青年会部を生活相談部に切り替え、生活保護の多い地域で地域要求にこたえる道を模索した。生活相談部は生活と健康を守る会、医療生協(南診療所)に接近するが、専従の職員や専門家もいない状態で、学生中心のため、勢い学習活動が重点になる。セツルメントの性格からすれば地域実践に結び付けなければ本来の役割は果たせない。アイデアはともかく、実施体制や条件が伴わず、1年有余でこの事業は中断している。

4. 学生セツルメントの特徴と限界
〇生活相談部の挫折を通して、学生としての活動について限界があることを学んだ。限界とは、地域政策を打ち出すには、主体の側に、専門性と継続性、活動の拠点(定住性)に関わる条件整備が求められ、情熱や意欲だけではできないということである。
〇セツルメントとは何か。セツルメントは、貧困に苦しむ労働者居住区への知識人の植民が語源である。我が国は、戦前、東京帝大セツルメントが関東大震災(1923年)への救援活動(1924年)から発足している。しかし、権力の弾圧により、1938年に閉鎖している。戦後のセツルメントの多くは学生セツルメントとして取り組まれている。名古屋には、伊勢湾台風以前にセツルメントの歴史がある。しかし、当時(1962年)活動していたわけではなく、名古屋南部セツルメント協議会に入っていたのは、井戸田・白水・ヤジエの3つのセツルメントである。
〇ヤジエセツルメントはどういう性格のセツルメントか。それは、貧困に苦しむ労働者居住区への知識人の植民ではない。あくまで、伊勢湾台風の被災者支援からから始まり、貧困という悪条件を持っている地域に入り、地域、父母の要求に沿って「子どもを守る」活動に重点を置く活動展開を目的にしている。地域政策を考え、青年会部、生活相談部を作ったが、セツルメント保育所閉鎖以降、拠点施設がなく、専従の専門家も配置していないことから継続的発展につなげることができなかった。学生には入れ替わりがあり、財政問題への対応が難しいという問題がある。ヤジエセツルメント保育所の閉鎖時に活動拠点の確保に向けて募金活動を社会的に呼びかけ、労働組合や各種社会団体に先輩セツラ―とチームを組み訪問したことがある。台風から2年有余が経過し、救援の熱気はなかった。その時の「苦悩」を今でも思い出すことがある。
〇1963年に入ると、ヤジエセツルメント保育所が前年度に閉鎖しており、名古屋保育問題研究会関係者が、名古屋で新たな共同保育所作り運動、保育労働運動に取り組んでいる時期でもあり、保育問題研究会は活発な活動展開を図っていく。セツルメントは、名古屋市立保育短期大学から新入セツラ―は入らず、日本福祉大学のセツラ―に絞られていく。全体としてこの時期を見れば名古屋の保育運動が活発になり、そこにセツルメントの実践現場から人材を送り出した側面もある。見方によれば、セツルメントは人材養成の役割を多少とも果たしたのではないかと考えている。

5. ヤジエセツルメントから何を学んだのか
〇『同じ喜びと悲しみの中で』というセツルメントの実践の書がある。福祉の思想・哲学が底を流れているような気がして、座右に置いていた。ヤジエ町は非正規労働者が多く、ここに留まることしかできなかった在日コリアン、生活保護受給者の多い地域であった。子どもたちは荒れていた。どうしてここまで荒れるのか。その深い意味が当初は分からなかった。荒れている子どもたちに何もできなかった。先輩セツラ―から話を聞き、やりかたを見ながら、子どもたちの顔や名前、特徴を覚えることに努め、そこから実践を始めた。
〇セツルメントをわかっていなかった。どういう性格の組織なのか。社会的な位置と役割は何なのか。その点を学ぶ必要があった。セツルメントの歴史を調べた。COSを組織化し、社会改良の視点、理念を開拓し、トインビーホールが生まれたことがわかってきた。なんということか。社会事業・社会政策の現代史の幕開けを切り拓いたのがセツルメントではないか。セツルメントは下層労働者の自立性の強化と貧困の解決に社会改良が不可欠だという視点から博愛の科学化、組織化を主張している。それを学んだ時に、目からうろこが落ちた。
〇セツルメントは、出発点に「悲しみを分かつ」思想を持っている。労働者教育といっても、トップダウンで知識・技術をダイレクトに持ち込まない。教育とレクレーション、娯楽を組み合わせ、柔軟にそれらを取り入れ、文化を大事にし、人間としての感性を掘り起こすことを事業の重点にしている。労働者教育を行って革命を起こすわけではない。社会改良への取り組みをせめてもの第1歩とみている。しかも、無報酬であるばかりか、自らがトインビーホールに寄付までしている。
〇セツルメントは貧困をどう見ているのかが気になった。非人間的な生活環境の人々にみる「低い品性」、これは無知と人間的自立のはく奪によってもたらされたとみる。マルサスの「人口の原理」にみる「恥の烙印」(Stiguma of Pauparism)という「劣等処遇の原則」を批判する源流についてもセツルメントから学ぶものがある。

6. ヤジエセツルメントと歩んで
〇セツルメントは仲間たちに正義感が強く、実践力のあるセツラ―が多く、人生の得難い先輩や仲間たちに恵まれたと思っている。
〇生活相談部の挫折をはじめ、苦い思い出はあるが、セツルメントでの成功談はない。しかし、セツルメントから学んだこと、やっていてよかったと思えることがある。名古屋南部セツルメント協議会の役員をやったことがある。日本子どもを守る会の総会に出た時のことである。会長の羽仁説子さんが貴重な時間を割てくださり、昼食の集いをもって、直接面談できる機会を作ってくださった。学生セツルメントの子どもを守る活動を熱心に聞いてくださったことが印象に残っている。その後、羽仁さんが関わっている自由学園について学ぶことができた。昭和大恐慌で大凶作の東北農村に当時(1930年代)、「農村セツルメント」を作ったのがお母様の羽仁もと子さんである。私が生活保護を担当した秋田県田沢湖町生保内にその農村セツルメントがあった。奥羽山脈の村々を生活保護で8年間担当し、中山間地域の貧困問題に取り組んだ。そこに自由学園の足跡が残っていた。
〇全学連電車(通称、往復とも夜行で各停)に乗り、氷川下セツルメントハウスに全国学生セツルメント連合の会議で通った時期がある。『太陽のない街』(徳永直)の地域であり、下町の風景、全セツ連のメンバーの生き生きとした姿から励まされるものがあった。
〇浦辺史先生、浅賀ふさ先生、高島進先生をはじめ、セツルメントとご縁のあった先生方と研究・教育交流ができ、研究者の社会的位置と役割について学んだ。
〇在学中に、社学連(全国社会福祉系学生ゼミナール連絡協議会)分科会において、日本福祉大学を代表して研究発表を行った。セツルメントの活動で、貧困の分析視点を学んだことが役に立ったものと考えている。
〇卒論は、朝日訴訟や結核政策の歩みを研究し、約6万字の長文を書いた。日本福祉大学に当時(1965年)、大学院はなかったこともあるが考えたことはなかった。当時考えていたのは、卒論で研究方法を学ばなければ、人生で再び学ぶ機会はないのではないか。そのため、卒業後、一人で実践に立ち向かえる基礎的な研究方法を身に着けようと考え、長文の卒論を考えた。長文は研究計画、研究方法をしっかり組み立て、先行研究や仮説の実証が必要であり、研究の仕方について基礎的な力量を形成しておかないと書けない。また、何のための卒論か。政策の代弁や受け売りをするのではない。社会問題を社会的に追求するような方向でなければ意味がない。社会問題を当事者の目線から見るために、日本患者同盟、朝日訴訟原告団を訪問し、専門的な動向は結核予防会、政策動向は厚生省(結核予防関連部署)に足を運んだ。全セツ連で、東京への出張やフィールドワークの手続きに少し慣れていたのが幸いしたと考えている。また、生活相談部の試行錯誤で、事前準備が必要なことも少しはわかっていた。セツルメントは先輩との議論で先行研究、実践記録、政策研究は事前にチェックしておかないと太刀打ちできないことから、自立的に研究する姿勢がセツルメントで形成されたとすれば、それが役立ったのかもしれない。
〇セツルメントでの成功談はないといった。1983年、名古屋南部で生活問題研究会(事務局、日本福祉大学)が被保護母子世帯調査を実施した。そのとき、偶然、ヤジエセツルメントで担当したAさんが調査対象に入っていた。貧困の世代間継承を断ち切ろうと実践していたが、厳しい生活の歩みを余儀なくされていた。AさんはDVを何とか乗り越えて心身の落ち着きを取り戻し克服への努力も始めていた。子どもさんへの教育計画を話している姿を見て、少し遠回りをしたが母子が健康でこの困難を乗り切ってくれるだろうと祈った。貧困の世代間継承を断ち切ることがどんなに難しいことか。主体的に学ぶ力、なぜ学ぶのかという人生の志や希望、学ぶための条件や環境等、いろいろなことが頭を駆け巡り、セツルメントの活動を反省させられることしきりであった。

終わりに
〇セツルメントで何を学び、多少とも身に着けたのであろうか。卒業後、郷里の秋田県庁民生部の職員となり、生活保護行政を担当した。担当地域の保護率を1年未満で秋田県で最も高い水準に引き上げたようであった。直ちに、厚生省の特別監査の対象になった。福祉事務所は国の特別監査に緊張した。査察指導員は「悪いことをしたわけではない」。「なぜ保護率が高いのか。実証できるデータを作成するように」という指示を出した。担当地域の「貧困問題の一考察」を約4万字でまとめた。国有林事業の衰退、鉱山の閉山、地域経済の不振、が重なる社会経済的要因による貧困が要因とまとめた。この資料は、特別監査で役に立ち、大きな指摘は出されなかった。また論文として、日本福祉大学社会福祉学会の学術奨励賞を受けた。セツルメントの経験、卒論作成が参考になった。セツルメントから何を学んだのであろうか。最も大事な学びは、利用者・当事者視点からみて、そこにより添える事。そのために社会正義が求められる。社会問題を地域・住民生活から見る社会科学的な視点、セツルメントの運営・実践に持ちこまれる問題に対して、開拓的・創造的に困難に立ち向かう姿勢だったのではないか。
〇セツルメントをやって「成功した」、「楽しかった」という思いでは殆どない。貧しい境遇であっても、人が生きるということの意味、どう生きたいかを考えさせてくれる源泉がセツルメントにある。在日コリアンの中心になっている方を訪問したことがある。質素な生活、災害や社会的偏見にさらされてきたというのに、子どもの学習支援へのお礼、落ち着いてインタビューに答える姿勢、品性から人間としての生き方や誠実さが伝わってくる。社会的地位、権力、お金がなくても庶民は子どもを守り、家族を守り、同胞を大事にして悲しみや苦しみを乗り越えて人間として生きている。使命感をもって、社会の底点に立って物事を考え、魂を磨くことがセツルメントから得られる価値ではないか。ヤジエの人々が置かれている社会的位置と環境、ここからどう生きていくか。そこからセツルメントは何を学び、自分たちは社会の底点に目線の標準を置き、そこからどう生きるかを貫くことではないか。
〇セツルメントは「福祉の思想」を形成する豊かな源泉だった。自助、互助(共助)が言われる地域福祉の中で、セツルメントはオルタナティブとして利用者・当事者の自主性とエンパワメント、共生と多様性の意味をいつも考えさせてくれる。子どもたちに人生の夢と希望、生きる目標と喜びをどう育てていくか。新自由主義の下で、もう一つの価値を掘り下げ、構築するように迫ってくる。
〇今回の講演依頼からいうと、一つ、大きな課題を残している。名古屋キリスト教社会館との比較を理論的にしていないことである。キリスト教関係者が全国から被災者支援に集まり、多くの社会貢献をした。その中で、名古屋キリスト教社会館は拠点を早く形成し、専門職を配置し、地域に根差し、専門性、継続性、発展性を示した実践を積んでおられる。名古屋キリスト教社会館から何を学ぶか。その点が課題として残されている。

資 料

藤江紀彦「人が育ち、地域をつくる、市民と進める福祉でまちづくり―登別市社協の取り組み―」

(1)登別市の概要

登別市は、北海道の南西部に位置する人口47,795人の都市です。
全国でも有数の知名度・豊富な湯量を誇る「登別温泉」や「カルルス温泉」を擁し、約400万人(平成29年実績)の観光客を迎えています。

温泉地区は、市街地から約8キロ山間にある地域で、人口は758人(人口比1.6%)です。
市街地は、鉄のまち室蘭のベットタウンとして市街化が進んだ地域で、サラリーマンの多いまちです。高齢化率16%の地域から60%台の地域があり、地域で抱えるニーズは異なります。

「地域福祉推進圏域」を小学校区8校区と定めており、市民と共に地域福祉を推進しています。まちの概況はご覧とおりです。

(2)社協事業における福祉教育の位置づけ

私たちは、「福祉教育」を大変重要視しています。
それは、社協の使命が「住民主体」による地域福祉の推進であり、そのためには、多くの市民に福祉に関心を持ってもらい、自分のまちを自分たちの手で良くしていこうとする市民協働の取組みとして進めなければならないからです。

しかしながら、それは容易なことではありません、多くの人は、福祉は障がいのある人や高齢者を助けるもので、自分には関係ないことだと思っています。

差別や偏見、貧困や孤立など、複雑に絡み合った福祉課題は「専門職」だけで解決することはできません。ましてや、人の幸せを「サービス」で満たすことなんかできるわけがありません。そこに気づいてもらわなければなりません。
いや、実は気づいていても、一人ではどうすることもできなし、言ったところで・・と、考えているのかもしれません。

私たちは、市民の福祉の学びを意識した事業展開を通じ、いま、地域で起きている現実を受け止め、その上で、よりよく生きるための手立てを自分たちの問題として考え、行動していく取り組みを進めています。
そのためのキーワードが「福祉教育」であると考えています。

(3)「福祉教育・ボランティア学習」を軸とした 福祉でまちづくりの歩み

これは、これまでの取組みを、年表に落とし込んだものです。

子どもの学び
子どもの福祉の学びを「ボランティア学習」を通して進めてきました。
そのきっかけとなったのは、昭和60年に点字図書室の開設・運営に携わり、点訳や朗読ボランティアの養成、視力障害者協会の活動を支援することになったことです。登別は、開湯160年の歴史ある温泉地があるため鍼灸マッサージを生業とする視力障がいのある方が多く暮らしており、当時は会員が30人以上いて活発に活動されていました。

協会の皆さんと深くかかわる中で、全盲であっても、家事や身の回りのことは自分で行い、人様に迷惑をかけないように一生懸命に生活をされている姿に驚きました。いくら頑張っても「見えない」ことだけはどうしようもないんだよな。決して「可哀そうな人」ではないし、無理・難題を求めているわけではない。普通にここで暮らしていきたいだけなんだよね。でも、なかなか、わかってもらえなくてさ―。当事者のつぶやきです。

幼少の頃、祖母の近所に全盲で盲導犬ユーザーの夫婦が暮らしていました。当時周囲の大人たちから、あそこには「近づくんじゃないよ」、「猛犬注意の貼り紙があるでしょ」と教えられ、近所のお年寄りからは、「めくらはうつるから近寄ったらだめじゃ」とも聞かされていました。
何の疑問も持たず受け流してきたことへの恥ずかしさと申し訳なさを痛感し、障がいや障がい者についてきちんと伝えていかなければない。誤解や偏見のない「正しい理解」を広げる必要性を強く感じました。

昭和63年に学童・生徒ボランティア普及事業の指定を受け、子どもたちと福祉の学びに取り組みことになりました。協会の皆さんやその友人の車いすユーザーの方々にボランティア講師として協力をお願いしたところ、二つ返事で引き受けて頂くことができました。
「見えない」「歩けない」という「ハンディキャップ」があっても、自分らしく、逞しく生活している、その生き様を子どもたちに伝える取り組みを通し、ボランティアは助けるという一方的なことではなく、違いを認め合い、共に生きるという人としての当たり前のことであることを学び合いました。

授業内容については、社協が間に立って、ボランティア講師と担当教諭の話し合いで決めました。「障がいの大変さ」や、ガイドヘルプや車いす等の「介助の方法」を学ばせたい、という要望でした。こちらからは、子どもたちとボランティア講師の出会いの中から、子どもたちが感じたこと、学んだことを、先生も含めてみんなで確かめ合う時間にしませんか、と提案させていただきました。
ガイドヘルプの体験についても、助けるための技術習得ではなく、目の見えない人と仲良くなるための“エチケット講座”として行い、普段から身に着けておくべきマナーとして伝えることにしました。

ある日、ボランティア講師の協会の会長さんが私に嬉しそうに話してくれました。「福祉の授業を始めてから、毎日のように子どもたちから挨拶されるようになり、外出が楽しくて仕方なくなりました」この間も、店の前に自転車が停まっていて立ち往生していたら、気づいた子どもたちが声をかけてくれて、安全なところまで導いてくれました。その子は、福祉の授業を受けた小学5年生の男の子で一緒にいた友達のことも紹介してくれたそうです。「挨拶は、声を掛けたら正面から名前を言って、握手するんだよ」、「盲導犬はハーネスを付けているときは仕事中だから触っちゃいけないんだよ」と、友達に一生懸命も教えてくれて、とても嬉しい気持ちになったそうです。これからも子どもたちと一緒に福祉の授業を頑張りたいと言われました。

ボランティア指定校から始まった「福祉の授業」をきっかけに、平成4年からは、夏休みを利用した宿泊体験学習「ワークキャンプ研修会」に取り組みました。多くの関係者の協力を得て、小学生は「養護老人ホーム」、中学生は「地域に暮らす障がいのある方々との交流」、高校生は「特別養護老人ホーム」をフィールドにした1泊3日の体験プログラムで行いました。

子どもたちが体験から得た感動や心の変容、小さな胸に刻まれた大きな決意は、体験文集や学校や地域で開いた発表会等を通じて、多くの地域関係者や学校関係者に伝えられ、体験学習の大切さ、福祉の学びの重要性が認識されました。
平成5年には、その成果を踏まえ、待望のボランティアセンターを設置できることになり、子どもから大人まで世代を超えたボランティア活動の振興に取り組むことになりました。

子どもたちの豊かな学びを大人の方々にも・・との思いで、市民ボランティア講座を開講しました。「みんなでつくるあったかい街」をテーマに、暮らしの中にある大切な福祉を学び合う体験型研修として全11講座を9か月間で学び合うものです。当時、先駆的な取組まれていた釧路市社協の取組みを参考にさせていただきました。

子どもたちも大人の方々も、福祉の学び合いの中から、仲間意識が生まれ、「何とかしたい」「なんとかしなきゃ」との課題意識をもって、いくつものボランティアサークルが誕生し、そのほとんどが現在でも活動されています。NPO法人として活動している団体もあります。四半世紀前に始めた福祉の学習が今日の登別のボランティア活動の土台となっています。

ワークキャンプ研修会をきっかけに、高校生や学生たちのボランティアサークルも誕生しました。彼らは、「デパートでショッピングしてみたい」や「観覧車に乗ってみたい」といった仲間たちの願いを叶えるためのプロジェクトに取り組みました。

車椅子でJRに乗れるのか、エレベーターはあるか、車いす用のトイレはあるか、横になれる休憩場所はあるか、盲導犬は入れるかなど、仲間の不安や自分たちの疑問を取り除くために、旅程の下見を行い、行った先々の関係者に会って対応策を相談するなどして、自分たちの手で困難をひとつひとつ乗り越えて、プロジェクトの実現に尽くし成し遂げていきました。

大人の学び
ボランティアセンターを担当していて、ボラセンの取組みが、地域の活動と連携できないことにもどかしさを感じるようになりました。それは、ボランティア活動は、福祉センターで行うもので、地域の活動とは違うものだ。と思われているように感じたからです。

ボランティア活動は、志ある人が集い活動するものなので、当然なのかもしれませんが、好きな人だけが行えば良いものではなく、まちを良くする取り組みとして地域に定着させていく必要があると考えていたからです。そうしなければ、無知で無関心、誤解や偏見にまみれた地域は変わらないと思っていたからです。

その頃、平成7年の合併特例法にはじまった「平成の大合併」で、「福祉の切り捨て」を危惧する声が全国各地から聞こえてきました。
役員研修で伺った地域では、合併後の行革という名の事業縮小によって、生活に欠かすことのできない福祉サービスが次々と廃止され、再開を求める住民の声も数の原理で聞き入れられず、不便な生活を強いられている現状を聞かされました。
危機感を覚えた私たちは、暮らしを護るための福祉は、住民の手でつくらなければならない。そのためにも地域が「意志」を持たなければならない。ということを強く感じました。

このような経過を経て、平成14年から、今一度、社協の原点に立ち戻り、住民主体の福祉のまちづくりをどのように進めていくべきかの議論をはじめ、平成17年に登別市地域福祉実践計画(愛称「きずな計画」)の策定がスタートしました。
市民で組織する「福祉のまちづくり推進会」が中心となって、住民座談会やアンケート調査等を通して、地域の福祉課題を住民自らが発見・共有し、課題解決に向けた福祉活動を計画化、策定後は、「きずな推進委員会」として再発足し、計画の推進と進捗管理を担っています。

この私たちの想いを具現化できたのは、ここにおられる鳥居一頼さんのお力添えがあったからであります。構想の段階からご助言いただくだけではなく、当時、小学校の校長として登別に赴任されたことを契機に、一市民として推進会に参加いただき、委員長として登別市民の福祉活動をけん引していただきました。現在も「きずな大使」としてご指導いただいております。

(4)きずな計画策定を通しての“地域づくり”の実践と挑戦

この取り組みの最大のポイントは、住民同士が我がまちに必要な福祉を考え、自らの行動を計画し実践するというもので、社協はその取り組みを全力で支え、共に行動することを内外に宣言することであります。

そのための住民福祉活動の組織化は必須であり、住民同士の繋がりを深め、より強固なものにしていくための地域福祉推進圏域の設定が必要と考えました。
地域住民との度重なる協議によって、5つの中学校区でスタートしましたが、第2期計画では、住民同士が顔の見える関係を大切に、より地域に根差した活動を進めたいとの想いから、圏域を8つの小学校区に細分化するとともに、計画の構成を校区計画と全市計画の二層構造とすることにしました。
また、地域が抱える課題が多様化・複雑化するため校区の取り組みを専門職がサポートする仕組みが必要となり、社会福祉法人や福祉事業所、相談機関等でつくる「専門委員会」も誕生しました。

このように、地域住民が福祉関係者を巻き込み、地域が一体となって「福祉でまちづくり」を進めています。このきずなの推進は、そこに暮らす「地縁的なつながり」から、志を同じくする全ての者が協働して福祉を創りあげていく市民協働の取り組みであることから、住民主体ではなく「市民主体」という表現を用いることにしています。

(5)地域の支え合いを計画化するプロセス

この図は、山積する地域の福祉課題を踏まえ、市民自らが取り組むべき活動を選択し、行動していくためのプロセスをイメージしたものです。

きずな計画は、市民が取り組む市民のための福祉活動計画であります。市民の暮らしを護るために必要な取り組みは、市民自らが選択し取り組みます。地域だけではどうしようもできないことは、社協や専門機関、行政にしっかり対応してもらわなければなりません。公私の役割とその責務を明確にする計画でもあります。

登別社協では、このことをしっかり受け止め、それぞれの校区が大切にする取り組みの支援、地域格差が起きないように全市に普及しなければならない取り組みの推進、そして、地域の課題解決に向けて、従来の福祉の枠を超えた新たな協働の仕組みづくりにもチャレンジしています。

(6)日常的な参加の方法を一般化する

これは、きずな計画を進めるためのアクションプランです。
きずな推進委員会は、計画をつくるだけではなく、市民の手で計画の推進と進捗管理を担っており、長年にわたる試行錯誤のなかから、このようなサイクルが出来上がりました。

全市委員会は、計画推進のための決定機関として、その年の具体的な活動方針や取り組みの評価を行うとともに、各校区の進捗状況を共有する場として開催しています。
リーダー会議は、執行部にあたるもので、8校区と専門委員会の正副リーダーによって随時行われています。
プロジェクトチームは、各期で掲げる重点目標を進めるため、テーマに精通する委員と外部から有識者を招聘し、調査研究や新たな事業の企画に取り組んでいます。

私たちが計画づくりから一貫して大切にしている取組みが二つあります。
その一つは、「まちの小さき声を聴く」ための住民座談会です。各校区で定期的に開催しており、会場づくりから参加案内、当日の進行からまとめに至るまで、委員の皆さんが主体的に取り組んでいます。
そして二つ目は、「きずなシンポジウム」の開催です。前年度の各校区の活動報告と次年度に向けた決意を発信するとともに、きずな活動を全市へ広げるための講演やパネルディスカッション等を行い、市民のさらなる活動喚起に取り組んでいます。

計画策定後13年になりますが、この流れがきずな活動のルーティンとして地域に定着していることは、とても大きな強みになっています。

それは、地域リーダーの皆さんが、この流れを踏まえて、校区委員会を地区連の役員研修に位置付けたり、住民座談会を地域の炊き出し訓練と一緒に開催したり、校区活動の中に「お茶の間会議」と称して、中学生と校区委員の福祉でまちづくりを語り合う授業を行うなど、創意工夫を凝らして数々の取り組みが展開されているからです。

私たちのこの活動に終わりはありません。やり続けなければならない大切な取組ですが、同じ人がいつまでも続けることは不可能です。役員改選、世代交代、新規加入など、様々な人が入れ替わるなかで進めていかなければならないものです。そのためにも、これらの取り組みを地域のルーティンとして習慣化させることで、余計なことを考えずスムーズに次の行動に移せるようになるのだと考えています。

(7)住民座談会を通して育まれた福祉教育①

住民座談会は、市民と共に福祉でまちづくりを行うための必須の取組みとして、計画策定後も、各地域で継続しており、委員の皆さんが地域へ出向き、住民同士ひざを突き合わせてより良い地域をつくるための話し合いを進めています。

いまでこそ、委員自らが先頭に立ち、当たり前のように行われていますが、決して最初から順調にいったわけではありません。
当時、地域の課題は行政が用意する「市政懇談会」で要望するものだと考える人がほとんどで、自分たちが地域のことを話し合うという場ではありませんでした。
不安と戸惑いのスタートではありましたが、生活者の目線で暮らしの困りごとや地域の気になることを話し合うことで、様々な境遇のなかで生活している人のことを知るとともに、その切実な願いは、決して他人事ではなく誰にでも共通することであることに気づくのでした。「ほっとけないよね」、「なんとかしなきゃ」という感情が参加者に芽生えはじめ、その気持ちが「きずな」活動の原動力になっています。

①は、住民座談会において、福祉教育的機能が発揮された事例として紹介しているものです。
私としては、ひとつの小さな地域の中で”地域福祉ガバナンス”が実践された事例であると考えています。当事者一人の声を地域があたたかく受け止め、同じ生活者として暮らしを見つめ直すことから、住民自らの手でとても大切な決断を下されたことに深い感銘を受けました。

美園地区という住民座談会の出来事です。委員の進行により、地域に対する各々の気持ちを話し合っていたところ、車いすユーザーの女性が、町会の文化祭に参加できなかった残念な気持ちを打ち明けました。役員は「ひと声掛けてくれたら迎えに行ってあげたのに・・・」と答えましたが、会館にはスロープがなく、車いすごと持ち上げてもらうことが申し訳なくて言えなかったのです。他にも、下肢障がいのため和式トイレは使えないこと、トイレのないところには不安で行けないという切実な声を聴き、そう指摘されると当たり前のことなのに、周囲の誰もが気づいていなかったことに申し訳なさを感じたそうです。話し合いを続けるうちに、多くの住民が玄関の段差が大変であると感じていることや、和式トイレが辛くて我慢していることがわかり、これは障がいのある人だけの問題ではなく、自分たちの問題として考える必要があることが認識されました。

丁度その年、その町会は創立50周年を迎え、町会としてどういった記念事業を行うべきかの協議が行われていました。盛大な祝賀会や記念誌の発行を訴える声が多い中、座談会に参加した役員からの提案で、会館の玄関スロープの設置と洋式トイレの改修を行うことが決定され、多くの地域住民に喜ばれることになりました。
後日、町会長さんに伺ったところ、最初は大方の役員が反対し、「集会所の改修は行政が行うべきで自分たちの金でやるべきではない」との声が多かったそうです。それでも、大規模改修の順番がいつになるかわからない状況の中、この問題をいつまでも放置していいのか、住民にとって一番有意義なものは何か、広く会員の意見を聞き、幾度もの協議を重ね、町会として決断することができた、と話されました。
このように、一人の小さき声に耳を傾け、心を寄せることによって、地域がより豊かになる選択を行った好事例であると思います。

(8)住民座談会を通して育まれた福祉教育②

②は、福祉教育的機能が発揮され、事業化した事例です。
この地域は、市街地から離れているため買物難民が増え続けています。地域では移動販売車の誘致を試みますが、収益性の乏しい地区にはなかなか来てもらないのが実情です。座談会では、身寄りのない高齢者や自力では外出できない高齢者等から、買い物支援を望む声が多く出されます。「生鮮食品は自分の目で見て買いたい」、「宅配サービスはカタログをみても注文の仕方がわからない」、「タクシーで買い物に行くのは経済的にも負担が大きい」などの切実な声が挙げられます。話し合いの中では、「自家用車で買い物に連れて行ってあげている役員の方もいるようですが、自身も高齢でいつまでも続けられない」、「何とかしたい気持ちはあっても事故や責任問題を考えたら個人では難しい」、「自分の買い物ついでに乗せてあげるのは構わないけど、毎回お礼の品を渡され、かえって負担をかけているのが心苦しい」などの意見も出され、座談会をきっかけに、校区委員会において、支え合う者同士がそれぞれの負担を軽減できる買い物支援の協議が始まりました

校区委員会では、詳しいニーズを知るため町内会の協力を得てヒアリング調査を行い、希望に応えるための支援内容や方法を検討し、必要な協力者の募集、活動に必要な研修会の企画、校区内の自動車整備工場にも協力を求め、送迎車両としてレンタカーの提供を受けるなどして、モデル事業の実施にこぎつけることができました。地域では送迎車両の確保が一番の課題でしたが地域の新たな支え合い活動の創出として民間の助成事業を活用することできたため、費用面の心配もなく取り組むことができました。
そして、1年間にわたるモデル事業の成果をもとに、翌年、対象校区を拡大して地域住民と企業等が連携した買物支援事業の本格実施に結び付くことになりました。

この取組を通して、地域では、暮らしの大変さや苦労を知っているからこそ、「共感同行」する仲間を得た住民は、同じ境遇の人や地域へ目を向けるきっかけになるのだと思います。そういった住民の思いを地域に循環させることで、「市民の地域力」に変換することができると確信しました。

(9)地域の課題を助け合いで解決

きずな計画は1期5か年の計画として、地域をより良くするために市民のための活動を計画しています。
山ほどある地域課題の中から、蔑ろにできない問題、市民が力を合わせて取り組まなければならない課題を抽出して、それを全市共通の重点課題として位置付けています。

市民主体の福祉活動に終わりはありません。自治体の枠組みが変わろうとも、ふだんのくらしのしあわせを求めて、継続していかなければならないものです。普遍的な取組であるからこそ、マンネリ化は大敵です。活動にメリハリをつけることが重要であり、各期の重点課題を掲げることは、新たな取組へのチャレンジと、市民のモチベーション維持に大きく役立っていると考えています。

重点目標は、市民の声を元に、地域の出来事やその時代の流れを捉えたタイムリーなテーマを設定するようにしています。
第1期計画では、社会的孤立の防止と早期発見・早期予防をテーマに仲間づくりと居場所づくりを掲げました。
第2期計画では、登別を襲った暴風雪による大規模停電の経験をもとに災害や緊急時を意識した平時からの支え合い活動の全市展開を掲げました。
第3期計画では、地域で暮らし続けるための生活支援サービスの開発をテーマに現在も新たな活動にチャレンジしています。

この重点目標の取り組みについては、テーマに精通する委員と外部の専門家によるプロジェクトチームを立ち上げ、課題背景の調査・分析を行い、具体的なゴールを設定し、全市展開するための活動プランを企画します。最終案は委員会で全体共有を図り、承認を得たのち事業化していきます。

(10)サロンサポーター制度の創設と第1期重点事業

第1期計画では、住民座談会や全市アンケート調査によって、孤立する高齢者の生活実態が明らかになりました。「何日も会話することがない」、「毎日あてもなく病院の待合室やショッピングセンターで過ごしている」といった孤立する高齢者が多いことに大きな衝撃を受けました。これを受けて、委員会では、重点目標に「仲間づくり」と「居場所づくりを」掲げ、いきいきサロンを広げるためのサポーター制度を創設しました。

当時、サロン活動は全国的にも注目されており、社協としても活動を呼びかけていましたが、一部の町内会しか行われていませんでした。
委員会では、プロジェクトチームを立ち上げ、サロンが広がらない背景を調査するとともに、地域がやる気を起こして、楽しくサロンに取り組むための仕掛けづくりを検討しました。

地域アセスメントの結果、サロン活動に興味・関心を持つ住民は多いのですが、新たな活動に負担を感じる町内会長が多いため、なかなか活動に踏み切れない町内会が多いということがわかりました。
社協では、地域の福祉事業は、そのほとんどが町内会長を窓口にしており、人の配置や活動の集約、活動の困りごと等は、すべて地域任せであり、住民主体という名の「丸投げ」であったことを深く反省することになりました。

プロジェクトチームでは、これらの反省を踏まえ、町内会がサロンを行うという発想ではなく、興味・関心のある人を育て、それぞれの繋がりから生まれる多様な活動を認めながら、その活動を社協職員や専門機関がしっかりとサポートする仕組みとしてスタートしました。

その成果もあって、昨年度実績では、418人のサロンサポーターが、市内各地で45のサロンを運営し、年間3万3千人の市民が参加する取り組みへと拡大しています。

(11)小地域ネットワーク活動推進事業の再構築

第2期の重点目標は、小地域ネットワーク活動の全市展開を掲げました。
登別では、平成24年11月末に爆弾低気圧による暴風雪によって、送電線の鉄塔が倒れて市内全域が四日間にわたる停電に見舞われました。
社協では、復旧まもなく、災害発生時の地域の取組を明らかするため、暴風雪による大規模停電に関する緊急アンケート調査(平成24年12月26日実施)を行いました。

この調査によって、民生委員や町会役員など多くの人が安否確認や生活支援に取り組んだことがわかりましたが、それらの活動は一部の個人的な活動に終始するもので、地域や関係機関との連携がなかったため、支援を求める人への配慮が行き渡らなかったことが判明しました。

委員会では、調査結果を踏まえ、「普段できていないことは、災害や緊急時にはできない」ということ、「見守り活動の目的は、有事の際の命を護ること」など、停電の経験で得た教訓をもとに、プロジェクトチームを立ち上げ、災害や緊急時を意識した平時からの取り組みに向けて協議を始めました。

プロジェクトチームでは、この取り組みを全市に広げるためには、町内会・民生委員・社協・行政の四者が協力して、全市一丸となった登別独自の支え合いの仕組みをつくり、地域住民へ参加を呼び掛ける必要があると考えました。
当時、行政では、避難行動要支援者名簿の作成が義務付けられていましたが、その取り組みは一向に進んでいなかったため、きずな推進委員会から行政に対し福祉台帳と避難行動支援者名簿を集約・統合し、災害時と平常時のたすけあい活動を一体的に行うことを提案し、承認を得ることができました。

きずな推進委員会では、地域住民の福祉意識と防災意識を高めるとともに、自ら地域の支え合い活動に参加を意思表示する仕組みを整えるため、日ごろから見守りや声掛けが必要な世帯を対象に、透明な筒に登別オリジナルの「きずなづくり台帳」をセットにした「きずな安心キット」を町内会の福祉委員を通じて配布することで地域の絆を広げていきました。
こうした取り組みにより、現在78町会(実施率84%)の参加を得て、6,104人の住民が助け合いの仕組みに参加いただいています。
この取り組みは、市民が本気になって行政を動かし、本当の意味での市民協働が実践された事例であると考えています。
ちなみに、室蘭工業大学建築社会基盤計学科の調査・研究論文「登別市大規模停電における自助・共助・公助ネットワークの役割」では、今回の災害では、公助の役割は、他の行政機関との情報の共有や、避難所の設営など限られたものであり、地域住民と行政機関の間で活動を行っていたのは、社会福祉協議会や連合町内会等、共助の範疇で実施していた組織であったことが分かっている。との調査結果が報告されています。

(12)地域拠点丸ごと支え合い事業 ―日々の暮らしを支える”協同の仕組み”づくり チャレンジ !!

これまでの計画策定は、地域の課題把握を主眼とした調査に基づき取り組んできましたが、第3期計画では、地域包括ケアシステムの名のもとに、自助・共助・互助を強化する施策が進められていることを踏まえ、地域を支えている実践者と福祉事業所に焦点を当て、支える側の福祉意識や活動の実態を把握することから取り組むことにしました。

調査の結果、実践者の意見としては、今後地域に必要な取り組みは、買物や外出などの生活支援との回答が最も多く、これらの取り組みは、無償のボランタリーな活動には限界があるので、実費負担を求める活動もやむを得ない。と考える人が多いことがわかりました。これは住民座談会で出された校区の意見と同様の結果であり、地域の支え合いの最前線にいる福祉実践者は、日々地域住民と接することで、ニーズの高い取り組みや地域に不足している取組みを肌で実感していることの表れであり、実費負担の仕組みを視野に入れる必要性を示唆する結果となりました。

更に分析してみると、実費負担程度の有償化の仕組みの中で参加したいと回答した人の割合は、町内会関係者よりも町内会以外の実践者が多いことがわかりました。町内会活動の大変さが表れた結果とも受け取れますが、今後新たな生活支援サービスを構築するにあたっては、町内会関係者や民生委員等といった活動の垣根を取り払い、新たな活動者の発掘を念頭に、サービスを提供する環境や仕組みを作っていく必要があることがわかりました。

一方、福祉事業所の調査結果でも、今後地域に必要な取り組みは、家事援助や移動支援との回答が最も多く、福祉事業者と福祉実践者、それぞれの進むべき方向は合致していることがわかりました。また、7割近くの事業所が、事業所と地域関係者をつなぐ仕組みづくりを社協に求めており、社協が地域と事業所を結び付けていくネットワーカーとしての機能を十分に発揮しなければならないことを改めて確認しました。

社協では、それぞれの校区が日々の暮らしの支え合いに取り組もうとしているなか、その想いを形にして、最初の一歩を踏み出せるように支援するためには、「活動拠点の確保」、「運営体制づくり」、「担い手の発掘・育成」、「活動をサポートする協力体制の確立」、「地域福祉コーディネーターの配置」が必要であると考えました。また、それらの活動は全校区一斉に取り組みことは難しいので、進取的な意欲のある地域から協力体制を整備して、モデル事業から取り組むことにしました。

そこで最初に取り組んだのは、先ほど、住民座談会を通して生まれた福祉教育②で紹介した「移動支援サービスモデル事業」です。
高齢者の買物ニーズを満たすだけでなく、ショッピングセンターの売上貢献にもつながり、きずな活動への理解と協力の輪が広がっていきました。
モデル事業の評価では、継続を希望する高齢者が多く、買物の他にも交流を望む意見が多くありました。活動者の意見としては、活動は楽しいが頻繁になると負担になるため活動者の増員を望む声がありました。またモデル事業の報道を聞いて他校区の高齢者から利用の問い合わせが多かったことから、委員会では、モデル事業の成果を踏まえ、対象校区を拡大し本格実施する方向で検討に入ることになりました。

ショッピングセンターに引き続き対象校区を広げて継続したい意向を伝え、買物に来た高齢者等の交流スペースの確保について相談したところ、きずなの取り組みに共感していただき、空き店舗スペースを無償で提供してくれることになりました。こうして、念願であった活動拠点を確保できたことにより、高齢者の生活を応援する「地域拠点丸ごと支え合い事業」をスタートすることができたのであります。

(13)地域拠点丸ごと支え合い事業 ―幌別、幌別東、幌別西

丸ごと事業は、高齢者等の自立した生活を地域で応援する支え合い事業です。公的サービスの不足を補うための安上がりサービスではないため要介護認定等の有無は問いません。概ね75歳以上の高齢者等で頼れる親族がいない方であれば利用することができます。利用するには月額3千円の会費を負担して、月4回、ショッピングセンターでの買物と介護予防体操等による健康づくり、茶話会や福祉相談を受けることができます。利用中は運営スタッフが付き添っているため、重たい荷物も安心して買物することができます。月に1回昼食交流会が企画されており皆さん楽しみにしています。

運営スタッフは、担い手養成研修を受講した人やこの活動に興味・関心のある人であれば、誰でも登録して活動することができます。話し相手、体操やゲームの進行、買物の付き添い、送迎車両の運転など、自分の得意な部分で役割を見つけて活動しています。

活動を楽しく継続する仕組みの一つとして、丸ごと事業限定のボランティアポイント制度を導入しました。運営スタッフとして活動すると、活動1回につき1ポイントが付与され、貯まったポイントは1ポイントで500円のショッピングセンターの商品券に交換できます。毎月4ポイント、2千円まで交換できるので、最大年間2万4千円相当の商品券と交換できる仕組みとなっています。

私たちは、このボランティアポイントをショッピングセンターの商品券に交換することに協働の意義があると考えています。この事業は、地域住民・社協・協同組合の連携から生まれた取り組みですが、ショッピングセンターの善意の気持ちだけで活動拠点の無償提供を続けることは難しいと思っています。この仕組みによって地域の支え合い活動で生まれたお金を循環させることで、この活動拠点の維持・継続が実現可能になるのではないかと考えました。

手探りの中で丸ごと事業がスタートしたわけですが、取り組みが可視化されることによって他の校区や社会福祉法人から大きな関心が寄せられるようになりました。既に二つの校区から買物支援を検討したいとの意向が示され、地元町内会と連携して社協職員と共にヒアリング調査を始めると、地域の動きに触発されて社会福祉法人も協議の輪に入ってくるなど、地域の機運の少しずつ高まって来ているように感じます。

まだまだ続く険しい道のりではありますが、これからも市民と共に一歩一歩着実に福祉でまちづくりを進めていきたいと思います。

これで発表を終わります。
ご清聴ありがとうございました。