「まちづくりと市民福祉教育」カテゴリーアーカイブ

大友信勝「学生セツルメントと地域福祉施設との再会―ヤジエセツルメントを中心にして―」

はじめに
セツルメントをキーワードにした研究集会に講演依頼を受け、このようなテーマでまとまった発表をしたことがなく、半世紀以上前の実践を思い起こしながら責めを果たそうと考えている。副題のヤジエセツルメントの発表が中心で、主題に切り込んでいない。『レンガの子ども』やヤジエセツルメント保育所を論述している浅井純二さん等の先行研究を読み、自らの思い出とつないで述べてみたい。

1. 名古屋市南区弥次衛町(以下、ヤジエと略)がヤジエセツルメントの舞台
〇1959年9月、伊勢湾台風、約5000人が死亡。
〇ヤジエ町はどういう地域か。名古屋南部の被災地の一つ。ヤジエ町はゼロメートル地帯、低湿地の地域、応急仮設住宅(約300戸)が建てられ、その後、災害復旧公営住宅に移転するが、生活困窮で行き場のない被災者、非正規雇用が多く、在日コリアンの割合も高い。応急仮設住宅はバラックで8畳一間、共同トイレ、共同炊事場からなっている。
〇なぜ、在日コリアンが多いのか。名古屋南部工業地帯は戦前・戦時下の重化学工業を支え、朝鮮半島から徴用があった歴史を持っている。住宅地として環境は良くないが、ここに住み、台風にあい、他に行くところがない災害弱者に在日コリアンの割合が高かった。

2. ヤジエセツルメントの歩み
〇ヤジエセツルメントの歩みは伊勢湾台風の被災者救援から始まる。当初は様々な被災者救援活動が名古屋大学、愛知県立女子大学、名古屋市立保育短期大学、日本福祉大学等の学生たちによって行われる。救援活動からどうしてヤジエセツルメント保育所が誕生するのか。
〇避難所への避難が定着するようになると臨時保育所が開かれ、名古屋市立保育短期大学、日本福祉大学の学生たちが、その活動への参加をはかっている。この臨時保育所は学生たちが大学の災害対策本部等に必要を訴え、市役所に交渉し、その数や規模の拡大を図っている。臨時保育所が被災者にとって切実な要求であり、学生たちがその要求に答えた。
〇台風直後の臨時保育所が次第に既設保育所の再開によって縮小していく時期に、名古屋大学泥の会、日本福祉大学(学生自治会)が住民アンケートをとり、保育要求を掘り起こしている(1959年12月)。避難所も11月に入ると応急仮設住宅へと切り変わっていく。
〇ヤジエセツルメント保育所は元養鶏場(事務所)に1959年12月24日~1962年8月まで、民間保育所(無認可)として、市立宝保育園が開設されるまで活動した。
〇ヤジエセツルメント保育所の直接的な発足経緯はどういうものか。学生たちは、被災者の利用できる託児所がなければ働きに行けないという住民要求を受け止め、12月24日から冬休みを利用し、1月20日までやる予定であった。しかし、父母の会(1959年12月27日)で継続を望む声が強く、市から正式に元養鶏場(事務所)を借り、名古屋大学泥の会、日本福祉大学災害対策本部、旭丘高校童話部の3者による資金カンパの要請が行われている。
〇資金カンパは、地域と結びついた施設を作ることをうたい、設立総会がYWCAで行われている。ここで東京保育問題研究会からの保母派遣要請が行われている。
〇東京保育問題研究会から、及川嘉美子さん、難波ふじ江さんのお二人を迎え、2歳児から6歳児まで、約30名の保育を行った。
〇保育所運営委員会委員長は浅賀ふさ先生である。先の臨時保育所開設時点での市役所交渉の中心は浦辺史先生である。また、学生とともに保育所活動を支援したメンバーに、日本福祉大学保育研究室の土方弘子先生たちがいる。他大学でも、保育問題研究をしている先生方が保育要求にこたえる活動を活発に展開している。

3. ヤジエセツルメントとの出会い
〇1962年4月~1966年3月まで、ヤジエセツルメントに在籍し、1964年4月~9月はヤジエセツルメント委員長を担当した。伊勢湾台風(1959年)の時、どうしていたかといわれると、私は秋田県の高校生であり、入学が1962年である。
〇なぜ、ヤジエセツルメントに入ったのか。学生寮に入っていたが最も熱心な誘いを受けた。天下・国家を論じるので圧倒され、価値観が揺らいだ。子どもたちや地域を守ろうとする使命感のような熱意があった。他に、井戸田セツルメント、白水セツルメントが活動しており、部落問題研究会や児童文化部の人気が高かった。
〇家庭の事情で仕送りが期待できないことから、アルバイトと奨学金によって、活動と両立できるのかを心配した。母が長期の難病で医療費の負担が重く、そのため家計が傾き、その母も入試の時期に亡くなり、不安定な状態での入学だった。
〇ヤジエとの出会いは、1962年4月、市電で杁中から大久手を経由し、笠寺方面行きの市電に乗り換え、遠くて時間のかかる道のりだった。ヤジエセツルメント保育所が二人の保母と学生,保育問題研究会の支援で運営されていた後半の時期である。仮設住宅から災害公営住宅への引っ越しも始まっており、仮設住宅に空き家が出始めていた。セツルメントの学生たち(セツラー)は応急仮設住宅の空き家を借り、そこを拠点に活動していた。共同炊事場で食事を作り、共同トイレを活用し、質素でつつましい生活だが声を掛け合い、明るく元気だった。前年(1961年)、赤痢が発生したという話も聞いたが、湿地帯でバラックの仮設住宅、共同炊事場、共同トイレ、雨が降ると汚水がたまるような環境であり、発生してもおかしくないと納得した。これは大変なことになりそうだという予感がした。
〇セツルメントの会議は会議室がなく、様々な所で臨機応変に行われた。応急仮設住宅、災害公営住宅の階段の踊り場、近くのお好み焼き屋、夕方以降はセツルメント保育所、そして、大学のサークル室等である。当時のヤジエセツルメントは名古屋市立保育短期大学と日本福祉大学の2校で構成されていた。セツルメントの日常活動は、児童部、保育部、青年会部の3部門制であり、対外活動として、名古屋南部セツルメント協議会があった。名古屋南部セツルメント協議会は全国学生セツルメント協議会に加入しており、名古屋では、ヤジエセツルメントの他に、井戸田セツルメントと白水セツルメントが加入していた。ヤジエセツルメントのセツラー総会は名古屋市内のお寺を借りて合宿形式で行うことが多かった。OSも来て総会は賑やかで、夜は、せんべい布団1枚と毛布1枚である。
〇ヤジエセツルメントの活動は災害救援活動の歩みと復旧・復興とともに変化し、常に変動の中で次の活動の開拓をしていく事業の連続であった。保育部はヤジエセツルメント保育所が市立宝保育所への切り替えとともに閉鎖され、その後の活動は児童部に一部が引き継がれていく。青年会部は、セツルメント保育所を夕方から夜にかけて活動場所にしていたことから、活動の拠点を失うことになった。リーダーの青年たちが大同製鋼やブラザーミシン等、近くの活動拠点を検討するが継続できないことになった。青年会部はレクレーションと情報交換が主なものであり、特定の地域活動はしていなかった。セツルメントの執行部は青年会部を生活相談部に切り替え、生活保護の多い地域で地域要求にこたえる道を模索した。生活相談部は生活と健康を守る会、医療生協(南診療所)に接近するが、専従の職員や専門家もいない状態で、学生中心のため、勢い学習活動が重点になる。セツルメントの性格からすれば地域実践に結び付けなければ本来の役割は果たせない。アイデアはともかく、実施体制や条件が伴わず、1年有余でこの事業は中断している。

4. 学生セツルメントの特徴と限界
〇生活相談部の挫折を通して、学生としての活動について限界があることを学んだ。限界とは、地域政策を打ち出すには、主体の側に、専門性と継続性、活動の拠点(定住性)に関わる条件整備が求められ、情熱や意欲だけではできないということである。
〇セツルメントとは何か。セツルメントは、貧困に苦しむ労働者居住区への知識人の植民が語源である。我が国は、戦前、東京帝大セツルメントが関東大震災(1923年)への救援活動(1924年)から発足している。しかし、権力の弾圧により、1938年に閉鎖している。戦後のセツルメントの多くは学生セツルメントとして取り組まれている。名古屋には、伊勢湾台風以前にセツルメントの歴史がある。しかし、当時(1962年)活動していたわけではなく、名古屋南部セツルメント協議会に入っていたのは、井戸田・白水・ヤジエの3つのセツルメントである。
〇ヤジエセツルメントはどういう性格のセツルメントか。それは、貧困に苦しむ労働者居住区への知識人の植民ではない。あくまで、伊勢湾台風の被災者支援からから始まり、貧困という悪条件を持っている地域に入り、地域、父母の要求に沿って「子どもを守る」活動に重点を置く活動展開を目的にしている。地域政策を考え、青年会部、生活相談部を作ったが、セツルメント保育所閉鎖以降、拠点施設がなく、専従の専門家も配置していないことから継続的発展につなげることができなかった。学生には入れ替わりがあり、財政問題への対応が難しいという問題がある。ヤジエセツルメント保育所の閉鎖時に活動拠点の確保に向けて募金活動を社会的に呼びかけ、労働組合や各種社会団体に先輩セツラ―とチームを組み訪問したことがある。台風から2年有余が経過し、救援の熱気はなかった。その時の「苦悩」を今でも思い出すことがある。
〇1963年に入ると、ヤジエセツルメント保育所が前年度に閉鎖しており、名古屋保育問題研究会関係者が、名古屋で新たな共同保育所作り運動、保育労働運動に取り組んでいる時期でもあり、保育問題研究会は活発な活動展開を図っていく。セツルメントは、名古屋市立保育短期大学から新入セツラ―は入らず、日本福祉大学のセツラ―に絞られていく。全体としてこの時期を見れば名古屋の保育運動が活発になり、そこにセツルメントの実践現場から人材を送り出した側面もある。見方によれば、セツルメントは人材養成の役割を多少とも果たしたのではないかと考えている。

5. ヤジエセツルメントから何を学んだのか
〇『同じ喜びと悲しみの中で』というセツルメントの実践の書がある。福祉の思想・哲学が底を流れているような気がして、座右に置いていた。ヤジエ町は非正規労働者が多く、ここに留まることしかできなかった在日コリアン、生活保護受給者の多い地域であった。子どもたちは荒れていた。どうしてここまで荒れるのか。その深い意味が当初は分からなかった。荒れている子どもたちに何もできなかった。先輩セツラ―から話を聞き、やりかたを見ながら、子どもたちの顔や名前、特徴を覚えることに努め、そこから実践を始めた。
〇セツルメントをわかっていなかった。どういう性格の組織なのか。社会的な位置と役割は何なのか。その点を学ぶ必要があった。セツルメントの歴史を調べた。COSを組織化し、社会改良の視点、理念を開拓し、トインビーホールが生まれたことがわかってきた。なんということか。社会事業・社会政策の現代史の幕開けを切り拓いたのがセツルメントではないか。セツルメントは下層労働者の自立性の強化と貧困の解決に社会改良が不可欠だという視点から博愛の科学化、組織化を主張している。それを学んだ時に、目からうろこが落ちた。
〇セツルメントは、出発点に「悲しみを分かつ」思想を持っている。労働者教育といっても、トップダウンで知識・技術をダイレクトに持ち込まない。教育とレクレーション、娯楽を組み合わせ、柔軟にそれらを取り入れ、文化を大事にし、人間としての感性を掘り起こすことを事業の重点にしている。労働者教育を行って革命を起こすわけではない。社会改良への取り組みをせめてもの第1歩とみている。しかも、無報酬であるばかりか、自らがトインビーホールに寄付までしている。
〇セツルメントは貧困をどう見ているのかが気になった。非人間的な生活環境の人々にみる「低い品性」、これは無知と人間的自立のはく奪によってもたらされたとみる。マルサスの「人口の原理」にみる「恥の烙印」(Stiguma of Pauparism)という「劣等処遇の原則」を批判する源流についてもセツルメントから学ぶものがある。

6. ヤジエセツルメントと歩んで
〇セツルメントは仲間たちに正義感が強く、実践力のあるセツラ―が多く、人生の得難い先輩や仲間たちに恵まれたと思っている。
〇生活相談部の挫折をはじめ、苦い思い出はあるが、セツルメントでの成功談はない。しかし、セツルメントから学んだこと、やっていてよかったと思えることがある。名古屋南部セツルメント協議会の役員をやったことがある。日本子どもを守る会の総会に出た時のことである。会長の羽仁説子さんが貴重な時間を割てくださり、昼食の集いをもって、直接面談できる機会を作ってくださった。学生セツルメントの子どもを守る活動を熱心に聞いてくださったことが印象に残っている。その後、羽仁さんが関わっている自由学園について学ぶことができた。昭和大恐慌で大凶作の東北農村に当時(1930年代)、「農村セツルメント」を作ったのがお母様の羽仁もと子さんである。私が生活保護を担当した秋田県田沢湖町生保内にその農村セツルメントがあった。奥羽山脈の村々を生活保護で8年間担当し、中山間地域の貧困問題に取り組んだ。そこに自由学園の足跡が残っていた。
〇全学連電車(通称、往復とも夜行で各停)に乗り、氷川下セツルメントハウスに全国学生セツルメント連合の会議で通った時期がある。『太陽のない街』(徳永直)の地域であり、下町の風景、全セツ連のメンバーの生き生きとした姿から励まされるものがあった。
〇浦辺史先生、浅賀ふさ先生、高島進先生をはじめ、セツルメントとご縁のあった先生方と研究・教育交流ができ、研究者の社会的位置と役割について学んだ。
〇在学中に、社学連(全国社会福祉系学生ゼミナール連絡協議会)分科会において、日本福祉大学を代表して研究発表を行った。セツルメントの活動で、貧困の分析視点を学んだことが役に立ったものと考えている。
〇卒論は、朝日訴訟や結核政策の歩みを研究し、約6万字の長文を書いた。日本福祉大学に当時(1965年)、大学院はなかったこともあるが考えたことはなかった。当時考えていたのは、卒論で研究方法を学ばなければ、人生で再び学ぶ機会はないのではないか。そのため、卒業後、一人で実践に立ち向かえる基礎的な研究方法を身に着けようと考え、長文の卒論を考えた。長文は研究計画、研究方法をしっかり組み立て、先行研究や仮説の実証が必要であり、研究の仕方について基礎的な力量を形成しておかないと書けない。また、何のための卒論か。政策の代弁や受け売りをするのではない。社会問題を社会的に追求するような方向でなければ意味がない。社会問題を当事者の目線から見るために、日本患者同盟、朝日訴訟原告団を訪問し、専門的な動向は結核予防会、政策動向は厚生省(結核予防関連部署)に足を運んだ。全セツ連で、東京への出張やフィールドワークの手続きに少し慣れていたのが幸いしたと考えている。また、生活相談部の試行錯誤で、事前準備が必要なことも少しはわかっていた。セツルメントは先輩との議論で先行研究、実践記録、政策研究は事前にチェックしておかないと太刀打ちできないことから、自立的に研究する姿勢がセツルメントで形成されたとすれば、それが役立ったのかもしれない。
〇セツルメントでの成功談はないといった。1983年、名古屋南部で生活問題研究会(事務局、日本福祉大学)が被保護母子世帯調査を実施した。そのとき、偶然、ヤジエセツルメントで担当したAさんが調査対象に入っていた。貧困の世代間継承を断ち切ろうと実践していたが、厳しい生活の歩みを余儀なくされていた。AさんはDVを何とか乗り越えて心身の落ち着きを取り戻し克服への努力も始めていた。子どもさんへの教育計画を話している姿を見て、少し遠回りをしたが母子が健康でこの困難を乗り切ってくれるだろうと祈った。貧困の世代間継承を断ち切ることがどんなに難しいことか。主体的に学ぶ力、なぜ学ぶのかという人生の志や希望、学ぶための条件や環境等、いろいろなことが頭を駆け巡り、セツルメントの活動を反省させられることしきりであった。

終わりに
〇セツルメントで何を学び、多少とも身に着けたのであろうか。卒業後、郷里の秋田県庁民生部の職員となり、生活保護行政を担当した。担当地域の保護率を1年未満で秋田県で最も高い水準に引き上げたようであった。直ちに、厚生省の特別監査の対象になった。福祉事務所は国の特別監査に緊張した。査察指導員は「悪いことをしたわけではない」。「なぜ保護率が高いのか。実証できるデータを作成するように」という指示を出した。担当地域の「貧困問題の一考察」を約4万字でまとめた。国有林事業の衰退、鉱山の閉山、地域経済の不振、が重なる社会経済的要因による貧困が要因とまとめた。この資料は、特別監査で役に立ち、大きな指摘は出されなかった。また論文として、日本福祉大学社会福祉学会の学術奨励賞を受けた。セツルメントの経験、卒論作成が参考になった。セツルメントから何を学んだのであろうか。最も大事な学びは、利用者・当事者視点からみて、そこにより添える事。そのために社会正義が求められる。社会問題を地域・住民生活から見る社会科学的な視点、セツルメントの運営・実践に持ちこまれる問題に対して、開拓的・創造的に困難に立ち向かう姿勢だったのではないか。
〇セツルメントをやって「成功した」、「楽しかった」という思いでは殆どない。貧しい境遇であっても、人が生きるということの意味、どう生きたいかを考えさせてくれる源泉がセツルメントにある。在日コリアンの中心になっている方を訪問したことがある。質素な生活、災害や社会的偏見にさらされてきたというのに、子どもの学習支援へのお礼、落ち着いてインタビューに答える姿勢、品性から人間としての生き方や誠実さが伝わってくる。社会的地位、権力、お金がなくても庶民は子どもを守り、家族を守り、同胞を大事にして悲しみや苦しみを乗り越えて人間として生きている。使命感をもって、社会の底点に立って物事を考え、魂を磨くことがセツルメントから得られる価値ではないか。ヤジエの人々が置かれている社会的位置と環境、ここからどう生きていくか。そこからセツルメントは何を学び、自分たちは社会の底点に目線の標準を置き、そこからどう生きるかを貫くことではないか。
〇セツルメントは「福祉の思想」を形成する豊かな源泉だった。自助、互助(共助)が言われる地域福祉の中で、セツルメントはオルタナティブとして利用者・当事者の自主性とエンパワメント、共生と多様性の意味をいつも考えさせてくれる。子どもたちに人生の夢と希望、生きる目標と喜びをどう育てていくか。新自由主義の下で、もう一つの価値を掘り下げ、構築するように迫ってくる。
〇今回の講演依頼からいうと、一つ、大きな課題を残している。名古屋キリスト教社会館との比較を理論的にしていないことである。キリスト教関係者が全国から被災者支援に集まり、多くの社会貢献をした。その中で、名古屋キリスト教社会館は拠点を早く形成し、専門職を配置し、地域に根差し、専門性、継続性、発展性を示した実践を積んでおられる。名古屋キリスト教社会館から何を学ぶか。その点が課題として残されている。

資 料

藤江紀彦「人が育ち、地域をつくる、市民と進める福祉でまちづくり―登別市社協の取り組み―」

(1)登別市の概要

登別市は、北海道の南西部に位置する人口47,795人の都市です。
全国でも有数の知名度・豊富な湯量を誇る「登別温泉」や「カルルス温泉」を擁し、約400万人(平成29年実績)の観光客を迎えています。

温泉地区は、市街地から約8キロ山間にある地域で、人口は758人(人口比1.6%)です。
市街地は、鉄のまち室蘭のベットタウンとして市街化が進んだ地域で、サラリーマンの多いまちです。高齢化率16%の地域から60%台の地域があり、地域で抱えるニーズは異なります。

「地域福祉推進圏域」を小学校区8校区と定めており、市民と共に地域福祉を推進しています。まちの概況はご覧とおりです。

(2)社協事業における福祉教育の位置づけ

私たちは、「福祉教育」を大変重要視しています。
それは、社協の使命が「住民主体」による地域福祉の推進であり、そのためには、多くの市民に福祉に関心を持ってもらい、自分のまちを自分たちの手で良くしていこうとする市民協働の取組みとして進めなければならないからです。

しかしながら、それは容易なことではありません、多くの人は、福祉は障がいのある人や高齢者を助けるもので、自分には関係ないことだと思っています。

差別や偏見、貧困や孤立など、複雑に絡み合った福祉課題は「専門職」だけで解決することはできません。ましてや、人の幸せを「サービス」で満たすことなんかできるわけがありません。そこに気づいてもらわなければなりません。
いや、実は気づいていても、一人ではどうすることもできなし、言ったところで・・と、考えているのかもしれません。

私たちは、市民の福祉の学びを意識した事業展開を通じ、いま、地域で起きている現実を受け止め、その上で、よりよく生きるための手立てを自分たちの問題として考え、行動していく取り組みを進めています。
そのためのキーワードが「福祉教育」であると考えています。

(3)「福祉教育・ボランティア学習」を軸とした 福祉でまちづくりの歩み

これは、これまでの取組みを、年表に落とし込んだものです。

子どもの学び
子どもの福祉の学びを「ボランティア学習」を通して進めてきました。
そのきっかけとなったのは、昭和60年に点字図書室の開設・運営に携わり、点訳や朗読ボランティアの養成、視力障害者協会の活動を支援することになったことです。登別は、開湯160年の歴史ある温泉地があるため鍼灸マッサージを生業とする視力障がいのある方が多く暮らしており、当時は会員が30人以上いて活発に活動されていました。

協会の皆さんと深くかかわる中で、全盲であっても、家事や身の回りのことは自分で行い、人様に迷惑をかけないように一生懸命に生活をされている姿に驚きました。いくら頑張っても「見えない」ことだけはどうしようもないんだよな。決して「可哀そうな人」ではないし、無理・難題を求めているわけではない。普通にここで暮らしていきたいだけなんだよね。でも、なかなか、わかってもらえなくてさ―。当事者のつぶやきです。

幼少の頃、祖母の近所に全盲で盲導犬ユーザーの夫婦が暮らしていました。当時周囲の大人たちから、あそこには「近づくんじゃないよ」、「猛犬注意の貼り紙があるでしょ」と教えられ、近所のお年寄りからは、「めくらはうつるから近寄ったらだめじゃ」とも聞かされていました。
何の疑問も持たず受け流してきたことへの恥ずかしさと申し訳なさを痛感し、障がいや障がい者についてきちんと伝えていかなければない。誤解や偏見のない「正しい理解」を広げる必要性を強く感じました。

昭和63年に学童・生徒ボランティア普及事業の指定を受け、子どもたちと福祉の学びに取り組みことになりました。協会の皆さんやその友人の車いすユーザーの方々にボランティア講師として協力をお願いしたところ、二つ返事で引き受けて頂くことができました。
「見えない」「歩けない」という「ハンディキャップ」があっても、自分らしく、逞しく生活している、その生き様を子どもたちに伝える取り組みを通し、ボランティアは助けるという一方的なことではなく、違いを認め合い、共に生きるという人としての当たり前のことであることを学び合いました。

授業内容については、社協が間に立って、ボランティア講師と担当教諭の話し合いで決めました。「障がいの大変さ」や、ガイドヘルプや車いす等の「介助の方法」を学ばせたい、という要望でした。こちらからは、子どもたちとボランティア講師の出会いの中から、子どもたちが感じたこと、学んだことを、先生も含めてみんなで確かめ合う時間にしませんか、と提案させていただきました。
ガイドヘルプの体験についても、助けるための技術習得ではなく、目の見えない人と仲良くなるための“エチケット講座”として行い、普段から身に着けておくべきマナーとして伝えることにしました。

ある日、ボランティア講師の協会の会長さんが私に嬉しそうに話してくれました。「福祉の授業を始めてから、毎日のように子どもたちから挨拶されるようになり、外出が楽しくて仕方なくなりました」この間も、店の前に自転車が停まっていて立ち往生していたら、気づいた子どもたちが声をかけてくれて、安全なところまで導いてくれました。その子は、福祉の授業を受けた小学5年生の男の子で一緒にいた友達のことも紹介してくれたそうです。「挨拶は、声を掛けたら正面から名前を言って、握手するんだよ」、「盲導犬はハーネスを付けているときは仕事中だから触っちゃいけないんだよ」と、友達に一生懸命も教えてくれて、とても嬉しい気持ちになったそうです。これからも子どもたちと一緒に福祉の授業を頑張りたいと言われました。

ボランティア指定校から始まった「福祉の授業」をきっかけに、平成4年からは、夏休みを利用した宿泊体験学習「ワークキャンプ研修会」に取り組みました。多くの関係者の協力を得て、小学生は「養護老人ホーム」、中学生は「地域に暮らす障がいのある方々との交流」、高校生は「特別養護老人ホーム」をフィールドにした1泊3日の体験プログラムで行いました。

子どもたちが体験から得た感動や心の変容、小さな胸に刻まれた大きな決意は、体験文集や学校や地域で開いた発表会等を通じて、多くの地域関係者や学校関係者に伝えられ、体験学習の大切さ、福祉の学びの重要性が認識されました。
平成5年には、その成果を踏まえ、待望のボランティアセンターを設置できることになり、子どもから大人まで世代を超えたボランティア活動の振興に取り組むことになりました。

子どもたちの豊かな学びを大人の方々にも・・との思いで、市民ボランティア講座を開講しました。「みんなでつくるあったかい街」をテーマに、暮らしの中にある大切な福祉を学び合う体験型研修として全11講座を9か月間で学び合うものです。当時、先駆的な取組まれていた釧路市社協の取組みを参考にさせていただきました。

子どもたちも大人の方々も、福祉の学び合いの中から、仲間意識が生まれ、「何とかしたい」「なんとかしなきゃ」との課題意識をもって、いくつものボランティアサークルが誕生し、そのほとんどが現在でも活動されています。NPO法人として活動している団体もあります。四半世紀前に始めた福祉の学習が今日の登別のボランティア活動の土台となっています。

ワークキャンプ研修会をきっかけに、高校生や学生たちのボランティアサークルも誕生しました。彼らは、「デパートでショッピングしてみたい」や「観覧車に乗ってみたい」といった仲間たちの願いを叶えるためのプロジェクトに取り組みました。

車椅子でJRに乗れるのか、エレベーターはあるか、車いす用のトイレはあるか、横になれる休憩場所はあるか、盲導犬は入れるかなど、仲間の不安や自分たちの疑問を取り除くために、旅程の下見を行い、行った先々の関係者に会って対応策を相談するなどして、自分たちの手で困難をひとつひとつ乗り越えて、プロジェクトの実現に尽くし成し遂げていきました。

大人の学び
ボランティアセンターを担当していて、ボラセンの取組みが、地域の活動と連携できないことにもどかしさを感じるようになりました。それは、ボランティア活動は、福祉センターで行うもので、地域の活動とは違うものだ。と思われているように感じたからです。

ボランティア活動は、志ある人が集い活動するものなので、当然なのかもしれませんが、好きな人だけが行えば良いものではなく、まちを良くする取り組みとして地域に定着させていく必要があると考えていたからです。そうしなければ、無知で無関心、誤解や偏見にまみれた地域は変わらないと思っていたからです。

その頃、平成7年の合併特例法にはじまった「平成の大合併」で、「福祉の切り捨て」を危惧する声が全国各地から聞こえてきました。
役員研修で伺った地域では、合併後の行革という名の事業縮小によって、生活に欠かすことのできない福祉サービスが次々と廃止され、再開を求める住民の声も数の原理で聞き入れられず、不便な生活を強いられている現状を聞かされました。
危機感を覚えた私たちは、暮らしを護るための福祉は、住民の手でつくらなければならない。そのためにも地域が「意志」を持たなければならない。ということを強く感じました。

このような経過を経て、平成14年から、今一度、社協の原点に立ち戻り、住民主体の福祉のまちづくりをどのように進めていくべきかの議論をはじめ、平成17年に登別市地域福祉実践計画(愛称「きずな計画」)の策定がスタートしました。
市民で組織する「福祉のまちづくり推進会」が中心となって、住民座談会やアンケート調査等を通して、地域の福祉課題を住民自らが発見・共有し、課題解決に向けた福祉活動を計画化、策定後は、「きずな推進委員会」として再発足し、計画の推進と進捗管理を担っています。

この私たちの想いを具現化できたのは、ここにおられる鳥居一頼さんのお力添えがあったからであります。構想の段階からご助言いただくだけではなく、当時、小学校の校長として登別に赴任されたことを契機に、一市民として推進会に参加いただき、委員長として登別市民の福祉活動をけん引していただきました。現在も「きずな大使」としてご指導いただいております。

(4)きずな計画策定を通しての“地域づくり”の実践と挑戦

この取り組みの最大のポイントは、住民同士が我がまちに必要な福祉を考え、自らの行動を計画し実践するというもので、社協はその取り組みを全力で支え、共に行動することを内外に宣言することであります。

そのための住民福祉活動の組織化は必須であり、住民同士の繋がりを深め、より強固なものにしていくための地域福祉推進圏域の設定が必要と考えました。
地域住民との度重なる協議によって、5つの中学校区でスタートしましたが、第2期計画では、住民同士が顔の見える関係を大切に、より地域に根差した活動を進めたいとの想いから、圏域を8つの小学校区に細分化するとともに、計画の構成を校区計画と全市計画の二層構造とすることにしました。
また、地域が抱える課題が多様化・複雑化するため校区の取り組みを専門職がサポートする仕組みが必要となり、社会福祉法人や福祉事業所、相談機関等でつくる「専門委員会」も誕生しました。

このように、地域住民が福祉関係者を巻き込み、地域が一体となって「福祉でまちづくり」を進めています。このきずなの推進は、そこに暮らす「地縁的なつながり」から、志を同じくする全ての者が協働して福祉を創りあげていく市民協働の取り組みであることから、住民主体ではなく「市民主体」という表現を用いることにしています。

(5)地域の支え合いを計画化するプロセス

この図は、山積する地域の福祉課題を踏まえ、市民自らが取り組むべき活動を選択し、行動していくためのプロセスをイメージしたものです。

きずな計画は、市民が取り組む市民のための福祉活動計画であります。市民の暮らしを護るために必要な取り組みは、市民自らが選択し取り組みます。地域だけではどうしようもできないことは、社協や専門機関、行政にしっかり対応してもらわなければなりません。公私の役割とその責務を明確にする計画でもあります。

登別社協では、このことをしっかり受け止め、それぞれの校区が大切にする取り組みの支援、地域格差が起きないように全市に普及しなければならない取り組みの推進、そして、地域の課題解決に向けて、従来の福祉の枠を超えた新たな協働の仕組みづくりにもチャレンジしています。

(6)日常的な参加の方法を一般化する

これは、きずな計画を進めるためのアクションプランです。
きずな推進委員会は、計画をつくるだけではなく、市民の手で計画の推進と進捗管理を担っており、長年にわたる試行錯誤のなかから、このようなサイクルが出来上がりました。

全市委員会は、計画推進のための決定機関として、その年の具体的な活動方針や取り組みの評価を行うとともに、各校区の進捗状況を共有する場として開催しています。
リーダー会議は、執行部にあたるもので、8校区と専門委員会の正副リーダーによって随時行われています。
プロジェクトチームは、各期で掲げる重点目標を進めるため、テーマに精通する委員と外部から有識者を招聘し、調査研究や新たな事業の企画に取り組んでいます。

私たちが計画づくりから一貫して大切にしている取組みが二つあります。
その一つは、「まちの小さき声を聴く」ための住民座談会です。各校区で定期的に開催しており、会場づくりから参加案内、当日の進行からまとめに至るまで、委員の皆さんが主体的に取り組んでいます。
そして二つ目は、「きずなシンポジウム」の開催です。前年度の各校区の活動報告と次年度に向けた決意を発信するとともに、きずな活動を全市へ広げるための講演やパネルディスカッション等を行い、市民のさらなる活動喚起に取り組んでいます。

計画策定後13年になりますが、この流れがきずな活動のルーティンとして地域に定着していることは、とても大きな強みになっています。

それは、地域リーダーの皆さんが、この流れを踏まえて、校区委員会を地区連の役員研修に位置付けたり、住民座談会を地域の炊き出し訓練と一緒に開催したり、校区活動の中に「お茶の間会議」と称して、中学生と校区委員の福祉でまちづくりを語り合う授業を行うなど、創意工夫を凝らして数々の取り組みが展開されているからです。

私たちのこの活動に終わりはありません。やり続けなければならない大切な取組ですが、同じ人がいつまでも続けることは不可能です。役員改選、世代交代、新規加入など、様々な人が入れ替わるなかで進めていかなければならないものです。そのためにも、これらの取り組みを地域のルーティンとして習慣化させることで、余計なことを考えずスムーズに次の行動に移せるようになるのだと考えています。

(7)住民座談会を通して育まれた福祉教育①

住民座談会は、市民と共に福祉でまちづくりを行うための必須の取組みとして、計画策定後も、各地域で継続しており、委員の皆さんが地域へ出向き、住民同士ひざを突き合わせてより良い地域をつくるための話し合いを進めています。

いまでこそ、委員自らが先頭に立ち、当たり前のように行われていますが、決して最初から順調にいったわけではありません。
当時、地域の課題は行政が用意する「市政懇談会」で要望するものだと考える人がほとんどで、自分たちが地域のことを話し合うという場ではありませんでした。
不安と戸惑いのスタートではありましたが、生活者の目線で暮らしの困りごとや地域の気になることを話し合うことで、様々な境遇のなかで生活している人のことを知るとともに、その切実な願いは、決して他人事ではなく誰にでも共通することであることに気づくのでした。「ほっとけないよね」、「なんとかしなきゃ」という感情が参加者に芽生えはじめ、その気持ちが「きずな」活動の原動力になっています。

①は、住民座談会において、福祉教育的機能が発揮された事例として紹介しているものです。
私としては、ひとつの小さな地域の中で”地域福祉ガバナンス”が実践された事例であると考えています。当事者一人の声を地域があたたかく受け止め、同じ生活者として暮らしを見つめ直すことから、住民自らの手でとても大切な決断を下されたことに深い感銘を受けました。

美園地区という住民座談会の出来事です。委員の進行により、地域に対する各々の気持ちを話し合っていたところ、車いすユーザーの女性が、町会の文化祭に参加できなかった残念な気持ちを打ち明けました。役員は「ひと声掛けてくれたら迎えに行ってあげたのに・・・」と答えましたが、会館にはスロープがなく、車いすごと持ち上げてもらうことが申し訳なくて言えなかったのです。他にも、下肢障がいのため和式トイレは使えないこと、トイレのないところには不安で行けないという切実な声を聴き、そう指摘されると当たり前のことなのに、周囲の誰もが気づいていなかったことに申し訳なさを感じたそうです。話し合いを続けるうちに、多くの住民が玄関の段差が大変であると感じていることや、和式トイレが辛くて我慢していることがわかり、これは障がいのある人だけの問題ではなく、自分たちの問題として考える必要があることが認識されました。

丁度その年、その町会は創立50周年を迎え、町会としてどういった記念事業を行うべきかの協議が行われていました。盛大な祝賀会や記念誌の発行を訴える声が多い中、座談会に参加した役員からの提案で、会館の玄関スロープの設置と洋式トイレの改修を行うことが決定され、多くの地域住民に喜ばれることになりました。
後日、町会長さんに伺ったところ、最初は大方の役員が反対し、「集会所の改修は行政が行うべきで自分たちの金でやるべきではない」との声が多かったそうです。それでも、大規模改修の順番がいつになるかわからない状況の中、この問題をいつまでも放置していいのか、住民にとって一番有意義なものは何か、広く会員の意見を聞き、幾度もの協議を重ね、町会として決断することができた、と話されました。
このように、一人の小さき声に耳を傾け、心を寄せることによって、地域がより豊かになる選択を行った好事例であると思います。

(8)住民座談会を通して育まれた福祉教育②

②は、福祉教育的機能が発揮され、事業化した事例です。
この地域は、市街地から離れているため買物難民が増え続けています。地域では移動販売車の誘致を試みますが、収益性の乏しい地区にはなかなか来てもらないのが実情です。座談会では、身寄りのない高齢者や自力では外出できない高齢者等から、買い物支援を望む声が多く出されます。「生鮮食品は自分の目で見て買いたい」、「宅配サービスはカタログをみても注文の仕方がわからない」、「タクシーで買い物に行くのは経済的にも負担が大きい」などの切実な声が挙げられます。話し合いの中では、「自家用車で買い物に連れて行ってあげている役員の方もいるようですが、自身も高齢でいつまでも続けられない」、「何とかしたい気持ちはあっても事故や責任問題を考えたら個人では難しい」、「自分の買い物ついでに乗せてあげるのは構わないけど、毎回お礼の品を渡され、かえって負担をかけているのが心苦しい」などの意見も出され、座談会をきっかけに、校区委員会において、支え合う者同士がそれぞれの負担を軽減できる買い物支援の協議が始まりました

校区委員会では、詳しいニーズを知るため町内会の協力を得てヒアリング調査を行い、希望に応えるための支援内容や方法を検討し、必要な協力者の募集、活動に必要な研修会の企画、校区内の自動車整備工場にも協力を求め、送迎車両としてレンタカーの提供を受けるなどして、モデル事業の実施にこぎつけることができました。地域では送迎車両の確保が一番の課題でしたが地域の新たな支え合い活動の創出として民間の助成事業を活用することできたため、費用面の心配もなく取り組むことができました。
そして、1年間にわたるモデル事業の成果をもとに、翌年、対象校区を拡大して地域住民と企業等が連携した買物支援事業の本格実施に結び付くことになりました。

この取組を通して、地域では、暮らしの大変さや苦労を知っているからこそ、「共感同行」する仲間を得た住民は、同じ境遇の人や地域へ目を向けるきっかけになるのだと思います。そういった住民の思いを地域に循環させることで、「市民の地域力」に変換することができると確信しました。

(9)地域の課題を助け合いで解決

きずな計画は1期5か年の計画として、地域をより良くするために市民のための活動を計画しています。
山ほどある地域課題の中から、蔑ろにできない問題、市民が力を合わせて取り組まなければならない課題を抽出して、それを全市共通の重点課題として位置付けています。

市民主体の福祉活動に終わりはありません。自治体の枠組みが変わろうとも、ふだんのくらしのしあわせを求めて、継続していかなければならないものです。普遍的な取組であるからこそ、マンネリ化は大敵です。活動にメリハリをつけることが重要であり、各期の重点課題を掲げることは、新たな取組へのチャレンジと、市民のモチベーション維持に大きく役立っていると考えています。

重点目標は、市民の声を元に、地域の出来事やその時代の流れを捉えたタイムリーなテーマを設定するようにしています。
第1期計画では、社会的孤立の防止と早期発見・早期予防をテーマに仲間づくりと居場所づくりを掲げました。
第2期計画では、登別を襲った暴風雪による大規模停電の経験をもとに災害や緊急時を意識した平時からの支え合い活動の全市展開を掲げました。
第3期計画では、地域で暮らし続けるための生活支援サービスの開発をテーマに現在も新たな活動にチャレンジしています。

この重点目標の取り組みについては、テーマに精通する委員と外部の専門家によるプロジェクトチームを立ち上げ、課題背景の調査・分析を行い、具体的なゴールを設定し、全市展開するための活動プランを企画します。最終案は委員会で全体共有を図り、承認を得たのち事業化していきます。

(10)サロンサポーター制度の創設と第1期重点事業

第1期計画では、住民座談会や全市アンケート調査によって、孤立する高齢者の生活実態が明らかになりました。「何日も会話することがない」、「毎日あてもなく病院の待合室やショッピングセンターで過ごしている」といった孤立する高齢者が多いことに大きな衝撃を受けました。これを受けて、委員会では、重点目標に「仲間づくり」と「居場所づくりを」掲げ、いきいきサロンを広げるためのサポーター制度を創設しました。

当時、サロン活動は全国的にも注目されており、社協としても活動を呼びかけていましたが、一部の町内会しか行われていませんでした。
委員会では、プロジェクトチームを立ち上げ、サロンが広がらない背景を調査するとともに、地域がやる気を起こして、楽しくサロンに取り組むための仕掛けづくりを検討しました。

地域アセスメントの結果、サロン活動に興味・関心を持つ住民は多いのですが、新たな活動に負担を感じる町内会長が多いため、なかなか活動に踏み切れない町内会が多いということがわかりました。
社協では、地域の福祉事業は、そのほとんどが町内会長を窓口にしており、人の配置や活動の集約、活動の困りごと等は、すべて地域任せであり、住民主体という名の「丸投げ」であったことを深く反省することになりました。

プロジェクトチームでは、これらの反省を踏まえ、町内会がサロンを行うという発想ではなく、興味・関心のある人を育て、それぞれの繋がりから生まれる多様な活動を認めながら、その活動を社協職員や専門機関がしっかりとサポートする仕組みとしてスタートしました。

その成果もあって、昨年度実績では、418人のサロンサポーターが、市内各地で45のサロンを運営し、年間3万3千人の市民が参加する取り組みへと拡大しています。

(11)小地域ネットワーク活動推進事業の再構築

第2期の重点目標は、小地域ネットワーク活動の全市展開を掲げました。
登別では、平成24年11月末に爆弾低気圧による暴風雪によって、送電線の鉄塔が倒れて市内全域が四日間にわたる停電に見舞われました。
社協では、復旧まもなく、災害発生時の地域の取組を明らかするため、暴風雪による大規模停電に関する緊急アンケート調査(平成24年12月26日実施)を行いました。

この調査によって、民生委員や町会役員など多くの人が安否確認や生活支援に取り組んだことがわかりましたが、それらの活動は一部の個人的な活動に終始するもので、地域や関係機関との連携がなかったため、支援を求める人への配慮が行き渡らなかったことが判明しました。

委員会では、調査結果を踏まえ、「普段できていないことは、災害や緊急時にはできない」ということ、「見守り活動の目的は、有事の際の命を護ること」など、停電の経験で得た教訓をもとに、プロジェクトチームを立ち上げ、災害や緊急時を意識した平時からの取り組みに向けて協議を始めました。

プロジェクトチームでは、この取り組みを全市に広げるためには、町内会・民生委員・社協・行政の四者が協力して、全市一丸となった登別独自の支え合いの仕組みをつくり、地域住民へ参加を呼び掛ける必要があると考えました。
当時、行政では、避難行動要支援者名簿の作成が義務付けられていましたが、その取り組みは一向に進んでいなかったため、きずな推進委員会から行政に対し福祉台帳と避難行動支援者名簿を集約・統合し、災害時と平常時のたすけあい活動を一体的に行うことを提案し、承認を得ることができました。

きずな推進委員会では、地域住民の福祉意識と防災意識を高めるとともに、自ら地域の支え合い活動に参加を意思表示する仕組みを整えるため、日ごろから見守りや声掛けが必要な世帯を対象に、透明な筒に登別オリジナルの「きずなづくり台帳」をセットにした「きずな安心キット」を町内会の福祉委員を通じて配布することで地域の絆を広げていきました。
こうした取り組みにより、現在78町会(実施率84%)の参加を得て、6,104人の住民が助け合いの仕組みに参加いただいています。
この取り組みは、市民が本気になって行政を動かし、本当の意味での市民協働が実践された事例であると考えています。
ちなみに、室蘭工業大学建築社会基盤計学科の調査・研究論文「登別市大規模停電における自助・共助・公助ネットワークの役割」では、今回の災害では、公助の役割は、他の行政機関との情報の共有や、避難所の設営など限られたものであり、地域住民と行政機関の間で活動を行っていたのは、社会福祉協議会や連合町内会等、共助の範疇で実施していた組織であったことが分かっている。との調査結果が報告されています。

(12)地域拠点丸ごと支え合い事業 ―日々の暮らしを支える”協同の仕組み”づくり チャレンジ !!

これまでの計画策定は、地域の課題把握を主眼とした調査に基づき取り組んできましたが、第3期計画では、地域包括ケアシステムの名のもとに、自助・共助・互助を強化する施策が進められていることを踏まえ、地域を支えている実践者と福祉事業所に焦点を当て、支える側の福祉意識や活動の実態を把握することから取り組むことにしました。

調査の結果、実践者の意見としては、今後地域に必要な取り組みは、買物や外出などの生活支援との回答が最も多く、これらの取り組みは、無償のボランタリーな活動には限界があるので、実費負担を求める活動もやむを得ない。と考える人が多いことがわかりました。これは住民座談会で出された校区の意見と同様の結果であり、地域の支え合いの最前線にいる福祉実践者は、日々地域住民と接することで、ニーズの高い取り組みや地域に不足している取組みを肌で実感していることの表れであり、実費負担の仕組みを視野に入れる必要性を示唆する結果となりました。

更に分析してみると、実費負担程度の有償化の仕組みの中で参加したいと回答した人の割合は、町内会関係者よりも町内会以外の実践者が多いことがわかりました。町内会活動の大変さが表れた結果とも受け取れますが、今後新たな生活支援サービスを構築するにあたっては、町内会関係者や民生委員等といった活動の垣根を取り払い、新たな活動者の発掘を念頭に、サービスを提供する環境や仕組みを作っていく必要があることがわかりました。

一方、福祉事業所の調査結果でも、今後地域に必要な取り組みは、家事援助や移動支援との回答が最も多く、福祉事業者と福祉実践者、それぞれの進むべき方向は合致していることがわかりました。また、7割近くの事業所が、事業所と地域関係者をつなぐ仕組みづくりを社協に求めており、社協が地域と事業所を結び付けていくネットワーカーとしての機能を十分に発揮しなければならないことを改めて確認しました。

社協では、それぞれの校区が日々の暮らしの支え合いに取り組もうとしているなか、その想いを形にして、最初の一歩を踏み出せるように支援するためには、「活動拠点の確保」、「運営体制づくり」、「担い手の発掘・育成」、「活動をサポートする協力体制の確立」、「地域福祉コーディネーターの配置」が必要であると考えました。また、それらの活動は全校区一斉に取り組みことは難しいので、進取的な意欲のある地域から協力体制を整備して、モデル事業から取り組むことにしました。

そこで最初に取り組んだのは、先ほど、住民座談会を通して生まれた福祉教育②で紹介した「移動支援サービスモデル事業」です。
高齢者の買物ニーズを満たすだけでなく、ショッピングセンターの売上貢献にもつながり、きずな活動への理解と協力の輪が広がっていきました。
モデル事業の評価では、継続を希望する高齢者が多く、買物の他にも交流を望む意見が多くありました。活動者の意見としては、活動は楽しいが頻繁になると負担になるため活動者の増員を望む声がありました。またモデル事業の報道を聞いて他校区の高齢者から利用の問い合わせが多かったことから、委員会では、モデル事業の成果を踏まえ、対象校区を拡大し本格実施する方向で検討に入ることになりました。

ショッピングセンターに引き続き対象校区を広げて継続したい意向を伝え、買物に来た高齢者等の交流スペースの確保について相談したところ、きずなの取り組みに共感していただき、空き店舗スペースを無償で提供してくれることになりました。こうして、念願であった活動拠点を確保できたことにより、高齢者の生活を応援する「地域拠点丸ごと支え合い事業」をスタートすることができたのであります。

(13)地域拠点丸ごと支え合い事業 ―幌別、幌別東、幌別西

丸ごと事業は、高齢者等の自立した生活を地域で応援する支え合い事業です。公的サービスの不足を補うための安上がりサービスではないため要介護認定等の有無は問いません。概ね75歳以上の高齢者等で頼れる親族がいない方であれば利用することができます。利用するには月額3千円の会費を負担して、月4回、ショッピングセンターでの買物と介護予防体操等による健康づくり、茶話会や福祉相談を受けることができます。利用中は運営スタッフが付き添っているため、重たい荷物も安心して買物することができます。月に1回昼食交流会が企画されており皆さん楽しみにしています。

運営スタッフは、担い手養成研修を受講した人やこの活動に興味・関心のある人であれば、誰でも登録して活動することができます。話し相手、体操やゲームの進行、買物の付き添い、送迎車両の運転など、自分の得意な部分で役割を見つけて活動しています。

活動を楽しく継続する仕組みの一つとして、丸ごと事業限定のボランティアポイント制度を導入しました。運営スタッフとして活動すると、活動1回につき1ポイントが付与され、貯まったポイントは1ポイントで500円のショッピングセンターの商品券に交換できます。毎月4ポイント、2千円まで交換できるので、最大年間2万4千円相当の商品券と交換できる仕組みとなっています。

私たちは、このボランティアポイントをショッピングセンターの商品券に交換することに協働の意義があると考えています。この事業は、地域住民・社協・協同組合の連携から生まれた取り組みですが、ショッピングセンターの善意の気持ちだけで活動拠点の無償提供を続けることは難しいと思っています。この仕組みによって地域の支え合い活動で生まれたお金を循環させることで、この活動拠点の維持・継続が実現可能になるのではないかと考えました。

手探りの中で丸ごと事業がスタートしたわけですが、取り組みが可視化されることによって他の校区や社会福祉法人から大きな関心が寄せられるようになりました。既に二つの校区から買物支援を検討したいとの意向が示され、地元町内会と連携して社協職員と共にヒアリング調査を始めると、地域の動きに触発されて社会福祉法人も協議の輪に入ってくるなど、地域の機運の少しずつ高まって来ているように感じます。

まだまだ続く険しい道のりではありますが、これからも市民と共に一歩一歩着実に福祉でまちづくりを進めていきたいと思います。

これで発表を終わります。
ご清聴ありがとうございました。

「住民主体」「行政参加」のまちづくりと「スマート自治体」「圏域連携」の自治体行政:「日本・ゼロ分のイチ村おこし運動」に関するメモ―寺谷篤志・他編著『創発的営み』を読む―

1996年6月に日本・ゼロ分のイチ村おこし運動の企画書と実施要領を策定し、京都の京阪ホテルで岡田憲夫先生と杉万俊夫先生の意見を聞いた。岡田先生は「これは議会が飛ぶ、夜明け前だ」、杉万先生は「ここまで強制しないと地域は動かないのか」と言われた。(寺谷篤志、2019年11月。「補遺(1)」参照)

(ゼロ分のイチ運動の「企画書」は)やや大げさに言えば、我が国の地域づくりにとって、記念碑的文書とも言える。(小田切徳美『農山村は消滅しない』岩波新書、2014年12月、60ページ)

(『創発的営み』は)智頭町という地域の「小さな記録」ではあるが、それを通じて日本社会の未来のあり方さえも展望する「大きな書」であることがわかる。(小田切徳美:下記『創発的営み』193ページ)

〇鳥取県智頭町(ちづちょう)は、鳥取県の東南に位置し、総面積の9割以上を山林が占め、人口6909人、高齢化率41.04%(2019年11月1日現在)のまちである。まちのキャッチコピーは、「みどりの風が吹く疎開のまち」である。「過疎のまち」でないことに注目したい。
〇智頭町では、一人の住民の発案によって、1988年5月に「智頭町活性化プロジェクト集団」(Chizu Creative Project Team、CCPT)が結成された。1996年8月に、住民主体・主導と行政参加・支援による「日本・ゼロ分のイチ村おこし運動」(早瀬集落。以下「ゼロイチ運動」)が始まった。その中心人物のひとりに、寺谷篤志(てらたに・あつし)がいた。その寺谷(敬称略)から先日、1冊の本のご恵贈を賜った。寺谷篤志・澤田廉路・平塚伸治編著、小田切徳美解題『地方創生へのしるべ―鳥取県智頭町発 創発的営み』(今井出版、2019年10月。以下[本書])がそれである。
〇筆者(阪野)の手もとにある智頭町のまちづくり運動に関する本は、6冊となった。

(1)寺谷篤志・澤田廉路・平塚伸治編著、小田切徳美解題『地方創生へのしるべ―鳥取県智頭町発 創発的営み』今井出版、2019年10月
(2)寺谷篤志著『定年後、京都で始めた第二の人生―小さな事起こしのすすめ―』岩波書店、2016年5月
(3)寺谷篤志・平塚伸治著、鹿野和彦編著『「地方創生」から「地域経営」へ―まちづくりに求められる思考のデザイン―』仕事と暮らしの研究所、2015年3月
(4)熊谷京子・藤原由貴・長谷莱生写真、西村早栄子文章『鳥取県智頭町 森のようちえん まるたんぼう~空と大地と太陽と~』NPO法人 森のようちえん まるたんぼう、2014年8月
(5)渡邉格著『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」―タルマーリー発、新しい働き方と暮らし―』講談社、2013年9月、文庫版・2017年3月
(6)岡田憲夫・杉万俊夫・平塚伸治・河原利和著『地域からの挑戦―鳥取県・智頭町の「くに」おこし』(岩波ブックレットNo.520)岩波書店、2000年10月

〇本書は、智頭町におけるまち(地域)づくりを主動・先導してきた5人のキーパーソンに焦点を当て、ゼロイチ運動の前史から現在までにおける取り組み(「創発的営み」)の実践記録である。本書に添付された寺谷の書簡によると、「心血を注いだまちづくりは、一体どんな意味を持っていたのか」。「社会規範を意識して取り組んだまちづくりやゼロ分のイチ運動は、人々にどんな影響を与えているのか。そこにはエマージング(emerging、「創発」)現象が起こっているように思いました。その様子を編集しています」。
〇筆者はかつて、寺谷から貴重な資料の提供を受けて、本ブログの「ディスカッションルーム」に(61)地域経営実践者としての寺谷篤志の挑戦、その記録:鳥取県智頭町地域経営講座「杉下村塾」を中心に―資料紹介―/2016年6月28日投稿、(62)鳥取県智頭町「杉下村塾」10年の歩み:河原利和のレポート―資料紹介―/2016年7月3日投稿、をアップしている。
〇本稿では、それらに加えて、ゼロイチ運動について再確認・再認識するために、本書における言説のひとつの要点をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

「創発的営み」
創発的営みは、ある一人の発意やつぶやき的アイデアが活発な議論を巻き起こし、具体的な事業アイデアに昇華する協働作業の実践である。創発的営みとは、智頭町の地域づくり全般から受け取った表現である。小さな動きの一歩こそ価値がある。(平塚:9ページ)

「体系的な挑戦」
ゼロイチ運動の計画づくりの要諦とした、「住民自治」と「地域経営」と「交流・情報」の3本柱が規範形成の必要条件となる。この3本柱は地域を元気にするための基本的な考え方のエッセンス(地域を元気にするための秘訣)である(図1参照)。
住民自治とは、住民が地域をよくするために事業計画を立て共働で事業を行い、自分たちで地域づくりを達成していく考え方である。そのために、住民独自による地域づくりの検討会等を組織して、予算を確保し、専門家や行政の知恵を引き出し、積極的に実行していく運動である。
地域経営とは、その地に住むすべての人々が、主体的に地域を治めることである。地域に内在する、人、モノ、こと、技術、文化、社会システムなど、あらゆる資源を総動員して、地域資源の価値を最大限に引出し、宝(財)や誇りとする。さらに、それらが地域内で持続的に循環して機能する考え方である。
交流・情報とは、地域から地域づくりのノウハウやアイデアなどを、積極的に他地域に情報を発信することである。それによって、初めて他者との関係が生まれ、交流も生まれてくる。地域には自立自営の意識が生まれてくる。交流は地域に新しい風を吹き込み、新たな価値を創造するエンジンとなっていく。つまり、地域は外に開かれていなければならない。(平塚:11~12ページ)

「夢追い人」
(ヒヤリングした5人のみなさんに共通点がある。)それはまず「行動力」である。合わせて「レスポンス(反応)の速さ」や立てた「計画に対する執念」は半端ではない。そのことが多くの障害を乗り越える原動力となって、プロジェクトを実現させている。煎じ詰めれば、強い信念のもと「第一歩を踏み出す勇気」と、「実行力」が結果となって現れている。つまり、ちょっとした思いつきを行動力と執念によって現実にさせている。ヒヤリングした方々は、時代の魁(さきがけ)としての思いが強く、言い換えれば、夢を実現する「夢追い人」の挑戦であった。
なぜ智頭町にこれらの人々が集まったのか。それは、おそらく熱いところには熱い人々が、執念のあるところには執念のある人々が、人財は人財の結合によって磁場を形成するのではなかろうか。これが自然の理のように思えた。(澤田:177~178ページ)

「奥深い特徴」
ゼロイチ運動は3つの奥深い特徴を持っている。
1つ目は、「内発性」の重視である。これは、以前の、工場誘致やリゾート開発などの外来型開発ではなく、地域自らが一歩踏み出すことを重視しており、その「一歩」に無限大(=1/0)の価値があると捉えている。いっけん、奇妙な「ゼロ分のイチ」というネーミングには、ブレのない思想性を感じることができる。
2つ目は、「総合性・多様性」の重視である。これは、以前の単品型・画一的な地域活性化から、福祉や環境等を含めた総合型、地域の実情を踏まえた多様性に富んだ取り組みへの転換を意識している。この運動が、誘導すべきモデルを作らず、地域からの手上げ方式をとったのは、先の内発性を重視すると同時に、この総合性を目指し、多様性を認めようとする企画者の意志を示している。
3つ目は、「革新性(イノベーション)」の重視である。これは、以前の「男社会」(参加者の多くが年長の男性戸主)を刷新する仕組みとして、ゼロイチ運動では、集落そのものではなく、同じ地理的範囲で「振興協議会」を設立することを前提としている。女性の積極的参画が当然である地域づくりにとって、必要な革新的なシステム・チェンジであろう。(小田切:183~184ページ)

「にぎやかな過疎」
最近の農山村では、①開かれた地域づくりに取り組む地域住民、②地域で自ら「しごと」を作ろうとする移住者、③何か地域に関われないかと動く関係人口、④これらの動きをサポートするNPOや大学、そして⑤SDGs(Sustainable Development Goals〈持続可能な開発目標〉)により地域貢献活動を再度活発化しはじめた企業(智頭町では今後の課題)などの多様・多彩なプレイヤーが緩やかなネットワークでつながり、なんとなくワイワイ・ガヤガヤとした雰囲気を作りだしている(「にぎやかな過疎」)。その結果、人口減少下でも、地域にいつも新しい動きがあり、人が人を呼ぶ、しごとがしごとを作るという現象が、ここに生まれている(「人口減少下での人材増」)。(小田切:186、187、189ページ)

〇ところで、総務省が、2017年10月、大臣主催の「自治体戦略2040構想研究会」(座長・清家篤。以下[研究会])を立ち上げている。そこでの検討内容は、(1)「2040年頃の自治体が抱える課題の整理」、(2)「住み働き、新たな価値を生み出す場である自治体の多様性を高める方策」、(3)「自治体の行政経営改革、圏域マネジメントのあり方」等(「運営要綱」)についてである。
〇研究会は、2018年4月、「第一次報告~人口減少下において満足度の高い人生と人間を尊重する社会をどう構築するか~」を公表した。そこではまず、「我が国は、少子化による急速な人口減少と高齢化という未曾有の危機に直面している」(2ページ)という。そして、自治体行政が2040年頃に抱える(1)「個別分野の課題」として、①子育て・教育、②医療・介護、③インフラ・公共施設,公共交通、④空間管理(空き家、空き地等)、治安・防災、⑤労働・産業・テクノロジー(ICT、ロボット、生命科学等)、(2)「自治体行政の課題」として①経営資源の変化、②圏域マネジメントと行政経営改革、等々について整理している。
〇そのうえで、報告書は、「2040年頃にかけて迫り来る我が国の内政上の危機とその対応」について、3つの柱に集約されるという。(1)「若者を吸収しながら老いていく東京圏と支え手を失う地方圏」、(2)「標準的な人生設計の消滅による雇用・教育の機能不全」、(3)「スポンジ化する都市と朽ち果てるインフラ」がそれである。そのなかで注目されるのは、「急速に人口減少が進み、特に小規模な自治体では人口の減少率が4~5割に迫る団体が数多く生じると見込まれる。そのような中では、個々の市町村が行政のフルセット主義を排し、圏域単位で、あるいは圏域を越えた都市・地方の自治体間で、有機的に連携することで都市機能等を維持確保する(中略)必要がある」。「都道府県・市町村の二層制を柔軟化し、それぞれの地域に応じた行政の共通基盤の構築を進めていくことも必要になる」(50ページ)という指摘である。なお、都市の「スポンジ化」とは、「都市の大きさは変わらずに、ランダムに小さな空き家、空き地が生じて都市全体が低密度化する状態」をいう。行政の「フルセット主義」とは、個々の市町村が全分野の施策・行政サービスを提供することをいう。
〇研究会は、2018年7月、「第二次報告」を公表した。そこでは、(1)「スマート自治体への転換」、(2)「公共私によるくらしの維持」、(3)「圏域マネジメントと二層制の柔軟化」、(4)「東京圏のプラットホーム」の4点をめぐって、「新たな自治体行政の基本的考え方」を提示する。そのうちの(3)については、「地方圏の9割以上の市町村では、今後、人口減少が見込まれている」なかで、①「圏域単位での行政のスタンダード化」、すなわち「個々の市町村が行政のフルセット主義と他の市町村との勝者なき競争から脱却し、圏域単位での行政をスタンダードにし、戦略的に圏域内の都市機能等を守り抜かなければならない」(35ページ)と指摘する。とともに、②「都道府県・市町村の二層制の柔軟化」、すなわち「都道府県・市町村の二層制を柔軟化し、それぞれの地域に応じ、都道府県と市町村の機能を結集した行政の共通基盤の構築を進めていくことが求められる」(36ページ)と指摘する。なお、「スマート自治体」とは、AIやロボットなどを活用し、自治体職員でなければできないより価値のある業務に注力する自治体のあり方をいう(「補遺(2)」参照)。
〇そして、報告書は、「圏域」について、「圏域単位で行政を進めることについて真正面から認める法律上の枠組みを設け、圏域の実体性を確立し、顕在化させ、中心都市のマネジメント力を高め、合意形成を容易にしていく方策が必要ではないか」(36ページ)という。「圏域の法制化」である。
〇以上を要するに、「2040年頃にかけて迫り来る我が国の内政上の危機」に対応するためには、隣接する自治体が連携・補完する「圏域」を法制化し、「圏域単位での行政のスタンダード化」を進めるための「地方行政体制」の見直しが必要となる、というのである。それは、国の地方自治への介入・統制の強化を進め、「地方自治の本旨」である「住民自治」と「団体自治」を破壊することにつながる恐れなしとしない。「自治の侵害と破壊」である。
〇別言すれば、「圏域」では、地方選挙(直接選挙)によって選ばれる首長と議員からなる「議会」をもたない。それゆえに、住民の具体的なニーズや意思が反映されず、責任が果たせず、国がその権限と財源によって政策遂行や行政事務を主導的・直接的におこなうことになる。それは、市町村の権限や財源を制限することにつながる。とりわけ「圏域」の中核都市以外の周辺市町村においては、その自治が弱体化・形骸化することになり、「住民主体・行政参加」のまちづくりは極めて困難になる。いつか見た光景であり、国家主義や全体主義への指向である。強く留意したい。
〇なお、ここで思い出すのは、日本創成会議・人口減少問題検討分科会(座長・増田寛也)が2014年5月におこなった「成長を続ける21世紀のために 「ストップ少子化・地方元気戦略」」(「増田レポート」)の提言である。そこでは、「2040年までに全国の市町村の半数が消滅する可能性がある」とされた。危機を過剰に煽って、「事を成す」というやり方(常套手段)である。2014年9月から推進されている「地方創生」施策を見ても分かるように、政府は、「迫り来る危機」を強調し、画一的な施策を「上から」地方に押し付けている。「圏域」構想においても然(しか)りである。「圏域」構想は、行財政の効率化をめざした「平成の大合併」(1999年7月~2010年3月)と似た要素や側面を持っており、地方(地域)の個性や独自性を奪い、その疲弊・衰退を深刻化させる可能性が高い。「隠れた合併」の促進である。
〇下の記事は、筆者が住む地元新聞が報じた2019年11月7日付け朝刊の1面準トップ記事である。「平成の大合併」についての実証的な検証・分析なくして、「圏域」構想はあり得ない。

〇なお、総務省が2018年9月に設置した「地方自治体における業務プロセス・システムの標準化及びAI・ロボティクスの活用に関する研究会(「スマート自治体研究会」)」(座長・國領二郎)が、2019年5月、「報告書~「Society 5.0時代の地方」を実現するスマート自治体への転換~」を公表した。総務省が2040年頃を見据えた「将来の地方自治体の姿」は、「スマート自治体」と「圏域連携」である。
〇「圏域連携」とは、複数の市町村で構成する行政組織「圏域」を新たな行政単位に位置づけるものである。そこでは、少子高齢化や労働力人口の減少、それによる地方財政のより一層の逼迫化を背景に、国が地方行政を主導的に管理・運営し、統制することになる。それは、それぞれの地域の生活実態に基づく基本的人権の保障や、参加型のボトムアップの(熟議)民主主義を危うくする。国や社会(財界)は、その地に住むすべての人々による、その地ならではの、泥臭いまちづくり(「創発的地域経営」)は「時代遅れ」、とでもいうのであろうか。「にぎやかな過疎」「人口減少下での人材増」の現実をどう見ているのか。問うてみたい。
〇「Society 5.0」とは、狩猟社会(Society 1.0)、農耕社会(Society 2.0)、工業社会(Society 3.0)、情報社会(Society 4.0)に続く新たな社会を指す。サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合させたシステムにより、経済発展と社会的課題の解決を両立する、人間中心の社会をいう(内閣府)。

補遺
(1)「集落版ゼロイチ運動」企画書(1996年6月)

(2)「圏域」構想―地方圏の圏域マネジメントと二層制の柔軟化―

「あなた自身があなたのまちです」―「シビックプライド」に関するワンポイントメモ―

「You Are Your City(あなた自身があなたのまちです)」(下記[1]164ページ)

〇10年ほど前から、地方自治体の営業活動(「売り込み」:牧瀬稔)を意味するシティプロモーション(和製英語)の劇的な進展が図られ、それとの関連や、公共空間デザインやまちづくりの現場などにおいて「シビックプライド(Civic Pride)」(株式会社読売広告社の登録商標)という言葉や概念が注目されている。
〇その背景には、少子高齢化や人口減少、経済の低成長などによって特徴づけられる「縮小社会」の到来、とりわけ地域経済の低迷と地方財政の逼迫化、地域コミュニティの担い手不足がある。とともに、地方分権化の推進による都市間競争の発生、より具体的には持続可能なまちづくりを進めるために必要な経営資源(ヒト・モノ・カネ)の確保・調達をめぐる地域間の競争の激化(「伊賀市シティプロモーション指針」)がある。そしてまた、社会事象として地域コミュニティの衰退や地方崩壊が進む反面、地域や地方に新たな生き方や働き方を求め、自らの存在価値を見出そうとする人々の価値観の転換、などがある。
〇筆者(阪野)の手もとに、「シビックブライト」に関する本が3冊ある。(1)伊藤香織(いとう かおり)・柴牟田伸子(しむた のぶこ)監修、シビックプライド研究会編『シビックプライド―都市のコミュニケーションをデザインする』(宣伝会議、2008年11月。以下[1])、(2)伊藤香織・柴牟田伸子監修、シビックプライド研究会編『シビックプライド2【国内編】―都市と市民のかかわりをデザインする』(宣伝会議、2015年9月。以下[2])、(3)牧瀬稔(まきせ みのる)・読売広告社 ひとまちみらい研究センター編著『シティプロモーションとシビックプライド事業の実践』(東京法令出版、2019年3月。以下[3])がそれである。
〇シビックプライドとは、「市民」(主体的・能動的で自律的な活動主体)が都市(地域)に対してもつ誇りや愛着のことである。それは、単なる「まち自慢」ではなく、また地域(地元)への親近感や情感的な郷土愛とも多少ニュアンスを異にする。つまり、シビックプライドは、自分自身が関わっている「この場所」(まち)をより良くしていこうとする、ある種の当事者意識に基づく自負心を意味する([1]164、[2]126、[3]50ページ)。その点において、例えば小学校社会科中学年の「地域学習」の推進や、行政や社協などによる「市民協働のまちづくり」「市民主体のまちづくり」への住民参加(参集、参与、参画)は、シビックプライドを醸成する重要な要因になる。ソーシャル・キャピタル論や共生社会論、そして「まちづくりと市民福祉教育」に通底するところでもある。
〇シビックプライドは、「この場所」を「知る」ことによって、「誇り」に気づき、「愛着」がわくことから始まる。その気づき(情報や気持ち)を対話型のコミュニケーションを通じて他者に伝え、「自分ごと」(「自分ごと化」)を「自分たちごと」(「みんなごと化」)にする。人と人がつながり、まちの多様なヒト・モノ・カネ・コト・情報などとの関係性をつくりだす。それは、時間や空間を超えて広がり深まる。そして、より良いまちづくりのアクション(行動)を起こす。さらに、その活動を評価、改善し、Plan(計画)・Do(実行)・Check(評価)・Action(改善)のPDCAサイクルを効率的に回しながら継続的に取り組む。
〇すなわち、シビックプライドは、「誇りの種を探す」「魅力を掘り起こす」ことから始まる。シビックプライドは、一人ひとりが抱くまちへの思いであり、それに基づくアクションである。そして、それらの連鎖や関係性を広め、共働化・継続化することによって、その思いやアクションは次代のシビックプライド(誇りや愛着の醸成・向上)になる。シビックプライドでまちは変わるのである。([2]136~139ページ)。
〇シティプロモーションとシビックプライド事業について、そのひとつの事例として「伊賀市シティプロモーショ指針」(2017年3月策定)の一部を紹介する。伊賀市は三重県の北西部に位置し、伊賀流忍者の里や松尾芭蕉の生誕地として知られる、人口約9万1,000人(2019年9月現在)のまちである。

〇筆者の手もとには[1][2][3]のほかに、木下大生(きのした だいせい)・鴻巣麻里香(こうのす まりか)編著『ソーシャルアクション! あなたが社会を変えよう!―はじめの一歩を踏み出すための入門書―』(ミネルヴァ書房、2019年9月。以下[4])がある。[4]には、「このままではいけない」(危機感をもつ、問題提起する)を「なら、こうしよう」(社会を変える行動、ソーシャルアクションを起こす)に変えた人々のリアルなストーリ(実践事例)が収録されている。[4]の編著者である鴻巣にあっては、ソーシャルアクションとは、「誰にとっても住みよい社会をつくるための行動」である。また、[4]のキーワードである「当事者」とは、「ある問題、あるいは困難が生じた時、その問題から直接影響を受ける関係者」である。「当事者力」とは、「『私は』で始まる語り(Narrative,ナラティブ。ライフストーリー)から生まれる力」、換言すれば、何かの困難の当事者である・あった経験によって芽生え、揺り動かされた感情や行動力、を言う。そして[4]は、「あなたのアクションは本の中にはありません。フィールドに出かけましょう」と、読者に訴える(「ちょっと長めのはじめに」ⅰ~ⅶページ)。
〇[4]のもうひとりの編著者である木下は、「ちょっと長めのおわりに」のなかで「『社会を変える』ことについての試論的総論」を論じている。木下の言説のひとつの要点をメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

社会を動かすのは最終的には「当事者力」である
「社会を変える」きっかけを作るのは必ずしも当事者とは限らないが、その後の行動・活動には必ず当事者が介入するべきである。
当事者不在のソーシャルアクションは、活動・行動している人の自己満足に終始してしまう可能性を孕(はら)み、場合によっては当事者をより窮地に追い込む状況を作り出さないとも限らない。変えられるべき社会的課題の被害を最も被っている当事者の意見を聞かなかったり、蔑(ないがし)ろにするべきではなく必ず何かしらの形で当事者の関わりを担保することが求められる。(220ページ)

社会を変えるには「変換力」を持つ人が必要である
「社会を変える」とは、①法律を作る・変える、②状況(状態)を変える、③慣習を変える、④人々の意識を変える、ことである。そのためには、①変えたいことの明確化・具体化(問題をカタチにする)、②状況についての具体的な語り(自分の状況を具体的に語れるようになる)、③目的の設定(何をめざすのかを明らかにする)、④仲間を作る(同じ仲間意識がある人とつながる)、⑤理解者を増やす(社会の人々に知ってもらう)ことが求められる。これらは、社会を変えようとする際に最低限必要とされる要素であり、「社会を変える」具体的なやり方・方法である。(211~212、223ページ)
社会を変えようとする場合に必要なのは、自分の何かしらの体験を、権利が侵害・抑圧され、生活に困難を来たしている当事者の経験や感情に「変換する力」を持つ人である。別言すれば、当事者(他者)の生きづらさや社会課題を緩和・解決するためにその問題状況を自分に引き付け、当事者に寄り添い、直接的あるいは間接的な行動・支援を起こす・行う人である。この「変換力」は「共感力」あるいは「権利意識」と言ってもよい。(219、230ページ)

「社会を変える」とは人のつながりを結びなおすことである。([4]帯)

原田正樹「2000年以降の福祉教育実践の展開―全社協の取り組みから紐解く―」

備考
(1)原田正樹「2000年以降の福祉教育実践の展開―全社協の取り組みから紐解く―」『ふくしと教育』通巻27号、大学図書出版、2019年8月、42~47ページ。
(2)「目次」『ふくしと教育』通巻27号、1ページ。

謝辞
本稿をアップするにあたっては、日本福祉大学副学長の原田正樹先生と大学図書出版社長の鈴木宣昭さん、編集部の奥西眞澄さん、藤原雄進さんには格別のご厚情とご高配を賜りました。ここに記して深く感謝の意を表します。

鳥居一頼「ステレオタイプ化された貧しい福祉意識からの脱却~授業『めだかのめぐ』で覚醒した藤女子大の学生たち~」

はじめに

1997年鳥取県米子市のある小学校で「道徳」の授業を参観した。「めだかのめぐ」〈注1〉という教材を通して、親切や思いやりといった福祉的なテーマを学ぶ内容であった。授業後、その学校の教員とともに「授業反省会」に臨んだ。
そのときに、「この教材は1年生の子どもたちには適切な教材ですか?」と質問され、答えようとした瞬間に、自分の福祉的な価値観が見事に百八十度覆されたような衝撃を受けたのである。
それ以降、機会あるごとにこの教材を取り上げ、子どもから高齢者まで様々な人を対象に授業を展開してきた。
それらの実践を糧に、藤女子大学の「ボランティア論」での授業「めだかのめぐ」を通して、覚醒した学生たちの福祉意識のありようを授業内容やそのノートから分析し、この教材の価値について明らかにしたい。
本稿では、第1章「教材めだかのめぐを学ぶということ」の中で、その教材を使った授業の具体的な展開を考察する。第2章「覚醒する学生たち」では、授業後学生が書いたノートを中心に、学生たちの意識の変容について分析する。第3章では「教材の価値と貧しい福祉観の是正」についての私論をまとめる。
福祉教育という世界のささやかな授業実践ではあるが、ステレオタイプ化され無意識のうちに刻まれた福祉的価値観を真逆の価値観に変える衝撃的な教材について紹介することで、学生たちが偏った人間観や福祉観に気づき自ら意識変容をはかるとともに、福祉教育の人間理解学習を進める基礎的な学習のひとつとして問題提起をしたいと考える。

第1章 教材「めだかのめぐ」を学ぶということ〈注2〉

1 85文字の世界

そもそも、潜在意識の中にある自分と違った存在に対する蔑視感や排除感は、どこから生まれくるのか。自分と違うものに対する不安感や恐怖感を抱きながら、社会というより「世間」という不文律な統制力によってあらがうことをあきらめ、周りの集団との同質化を求められた結果として、排除・排斥感をその内に育ててきたのではないか。
「見慣れない」「出会わない」「知らない」という「無知」からくる偏見と差別感が染みついた「無恥」を無意識に身に付けていったのではないかと考える。
この授業は、このような「無知」による「無恥」をいかに是正し、自己認識した上で学生個々の意識変容を促すことを目的に、福祉の視点から実践を続けてきたものである。
さて、授業の課題は、冒頭の「めだかのめぐは ちいさいときに ざりがにに しっぽをかじられました。それで ほかのめだかのようには うまくおよげません。がっこうに はいるまえは そのことを とてもしんぱいしていました。」という、たった85文字の文章である。
質問は、大きく5つである。
授業は「めぐはどんな心配をしたの?」という最初の質問から始まる。「上手く泳げないことで、どんな心配をしたのか?」というだけの質問である。
学生たちの答えは、「上手に泳げない、みんなとカタチが違う、そのことが原因でいっしょに遊べない、みんなに笑われる、みんなに仲間はずれにされる、バカにされる、いじめられる」というものであった。
質問を続ける。「そんなめぐに、あなたならどうしますか?」
「一緒に遊んであげる、困っていたら手助けしてあげる、仲良くする、意地悪した子がいたら怒ってあげる、友だちになってあげる」など、優しさに満ちた答えが返ってくる。それが「優しさや思いやり、親切という心」であるという、道徳的価値観を教えていく授業の導入部分となるのである。
札幌、名古屋、大阪〈注3〉の大学で同じ授業を行ったが、異口同音の回答が戻ってくる。それも小学1年生と全く変わらぬ回答である。なぜそのような事態が、起っているのであろうか?
そこで、「何かおかしいことに気づきませんか?」と3つ目の質問する。すると、戸惑ったような表情を見せるが、ほとんど無回答である。今までの流れが当たり前であり疑問を挟む余地はないという思い込みの強さが、ここに表出される。
沈黙も想定内、学生たちとの授業は続く。「ところで、あなたが小学校に入学するときには、どんな心配をしたでしょうか?」と、4つめの質問を投げかける。
「早起きできるかな、友だちできるかな、給食を残さず食べられるかな、勉強むずかしいのかな、先生こわくないかな、学校まで歩いていくの大変だな」
学生たちは、予想だしなかった質問に答えながら、なにかが違うといった漠然とした疑問に困惑している表情を浮かべてくる。
誰もがみんなささやかな不安を持って、1年生になったのではないか。泳げない、姿形がみんなと違うというめぐのような障がいのある子は、障がいのない子とは全く別の「不安」を持っているという「ここ」の心理は、いったいどこから生まれてきたものなのであろうか? そこに、気づきだしたのである。

2 当たり前という思い込みの怖さ

米子市の小学校で、初めてこの授業を参観したときには、その授業の展開になんの違和感もなく当たり前であると受け止めていた。しかし、放課後「授業反省会」に臨んで、授業後のふりかえりをした折りに、突然ハンマーで殴られたような衝撃が走った。
「おかしい、変だ、間違っている!」。それは、24年間ボランティア学習や福祉教育の実践者として、さも知ったかぶりをして進めてきた自己への強烈な批判と無恥への自戒の念であった。
めぐとのギャップを見ていこう。
学生たちは、自分が入学を前に、バカにされたり、いじわるされたり、笑われたり、仲間はずれにされるとは、だれも思っていない。ところが めぐはそんな心配をしていると、なぜ想像するのだろうか? その根っこには、一体何があるのだろうか?
意識変革を迫る5つ目の重要な質問である。「そう考えているのは、誰ですか?」
学生たちは、沈黙のまま自分の胸を指差す。めぐではなく、「わたしたち!」「世間様!」である。
なんの思い入れもなく、周りがそう思い信じていることに付和雷同することを「おかしい」と感じるところから、学生自身の見識を疑ってみてほしい。これはそのひとつのきっかけといえるのではないか。
正当だと信じて疑わない社会や世間。そして親世代や幼児教育を担う者たちが、その価値観を善とした中で育てられ、無意識のうちに感化された幼子たちの心。学生も障がいのある子への「憐憫の情」という道徳的価値観を身につけて成長してきた結果として、それを是正する機会もなく、「優しさや思いやり」という倫理性へと高めてきたと考えられよう。そこに「思い上がり」は自覚されていない。
ここに、日本の国の福祉の精神的貧困性の根幹を見ることができるのではないか。換言すれば、求める共生共存の福祉社会を実現する妨げとなる希薄な人権意識の源ともなっているのである。障がい者への暗黙の了解のうちにある差別意識である。
これが、社会的な通念として無批判に受容させ無条件に感化していく地域社会、世間様の怖さである。防ぎようのないバリアフリー状態で浸透する差別と蔑視、そして偏見という不変な精神風土の問題とも言えよう。障がい者差別や人権侵害を無意識に冒し続けてきた結果と考えても過言ではない。
ただしここでは、同情や哀れみの感情をすべて否定するものではない。相手を気遣う感情として粗末にしてはならない心の働きであり、誰しもいてもたってもいられないほどの哀れみや悲しみを抱く惻隠の情は持っているからこそ、人でいられる。しかし、一方的に弱者の立場に追いやる強者の論理を押しつけ、平然として福祉社会を標榜するこの有り様を許してはならないのである。
偏見を持つことの怖さを、G.W.オルポートは、次のように指摘している。
「偏見とは、十分な証拠なしに、他人のことを悪く考えることである。偏見とは、ある集団に属している人が、たんにその集団に属しているからとか、それゆえにまた、その集団の持っている嫌な特質を持っていると思われるとかという理由だけで、その人に対して向けられる嫌悪の態度、ないしは敵意ある態度である。予断は新しい知識が表れても、それが改められない場合のみ偏見となる。偏見の持つ効果は、必ずしも偏見の対象自体のせいではなく、ある種の不利な立場に当人を陥れてしまう点にある」(『偏見の真理』)
偏見によって相手を不利な立場に陥れることを、日常的に繰り返している事実に気づくことであろう。ほとんどは自己の評価を正当化しているために、その愚弄に気づき改善しようという自覚認識までには発展しえない。
「根本そのものが間違っている。今まで意識していなかった不条理や蔑視感、差別感があるということ。私が最初に思考したことから意識が覚醒されていったのは、勝手にめぐをいじめる人がいると思い込み、それが当たり前だと思って、その間違えを教わらなかったことだ」と、受講した学生〈注4〉は苦渋する。
フランスの思想家ルソーは、「理性、判断力はゆっくりと歩いてくるが、偏見は群れをなして走ってくる」(『エミール』)と指摘し、「偏見に染まるのは早く、こびりついたら容易には消えない」〈注5〉と論じる。
そもそも「しっぽをかじられた」ことが原因で「うまくおよげない」結果、みんなと同じことが出来ないことを「とてもしんぱい」という教材の文脈からして、このような偏見と悪意に満ちた答えを暗黙のうちに誘導しているといっても間違えではない。
それは、まさにそのような認識を「正しい」ことであると教化するなにものでもない。
それゆえに、今までの当たり前だという固定観念が、ここで打ち砕かれて「覚醒」のハンマーの音を聞くのである。

3 車いすとメガネ

なぜ、多くの学生はそのような勝手な想像をしてしまったのかを究明する。
授業は、本論を捕捉・深化するために、「めだかのめぐ」を「人間」に例える。
人間に例えると、泳げないということは歩けない、歩けないから車いすを「利用」する。この「利用」という表現がキーポイントとなる。
学生たちの当初の認識は、「鳥居さんは車いすの人」「車いすの人は歩けないから可哀想な人」「だから鳥居さんは可哀想な人」という三段論法で説明がつく。そこに、働く障がいのある人への憐憫の情は否定しないが、歩けないというだけで一方的に弱者にする強者の論理がここにあることに気づいてほしいのである。
そこで、足が不自由なので車いすを利用する。車いすは「歩くための道具」であるが、差別の象徴ともなっている。
「ところで、学生の中に目が悪くてメガネやコンタクトを使っている人は?」と挙手を促しながら、メガネをかけた学生を指名し、「そのメガネを外して、私を見てください。どのように見えますか?」「ぼやけてはっきり見えません」「それではもう一度かけてください。今度はどうですか?」「はっきり見えます」「あなたは、目に障がいがありますね。障がい者と言われたことはありませんか?」驚いた様子で「ありません」と答える。
教室の机に車いすに見立てた椅子を乗せながら、「私は、目が悪いのでメガネがないと車を運転することができません。運転の条件に眼鏡使用と明記されています。運転できないと生活に支障をきたします。私は障がい者です。しかし、メガネをかけた人が全て障がい者であると誰も言われたことはないでしょう。確かに、見慣れていることで違和感なく受け入れられていることも、車いすのとの違いです。でも、どちらもその人が生きていく上で必要な道具です。道具は“幸せになる”ためのものであり、決して不幸になるためのものであってはいけない。最悪な道具は不幸を生むものであり、人を殺戮する兵器、核兵器はその最たる物ではありませんか!」と語りかける。
そして、おもむろに椅子の上にメガネを置いて、「どちらも人を幸せにする道具でなければならないのでは?」と問いかけるのである。
この問答で、学生は「車いすとメガネ」の違いを思考し、自問自答する。
「この話に衝撃を受けた。メガネをかけている人に対して障がいを負っていると感じたことはない。それが私の今までの当たり前。でもそれは正しいことではないということに気づかされた。今までの当たり前が覆された」と、ノートした学生〈注6〉もいた。
車いすは、自力歩行が困難な人が利用する道具であるが、その単なる道具がメガネとは違って「差別の象徴」として負の役割を果たしているとすれば、由々しき事態である。だからこそ、授業にこの話を組み込むことで、学生は様々な葛藤を経て意識の変化が生まれてくるのである。85文字の世界をここでまた別の視点から広げ深めていくのである。
「車いすとメガネ」に関わる学生の意識の変容については、第3章の分析に譲りたい。

4 ボタンの掛け違い

障がいのある人との関係を、蔑視や偏見により見下した差別を前提とした関係図式では、「互いに対等である」という関係性を見い出すことは、はなはだ困難である。
「差別という言葉では、議論も対話も前に進まない。言われる側は口を閉ざし、気持ちのギャップが生まれる。それに代わる言葉をどう生み出すか」と語った高良倉吉〈注7〉は、沖縄の基地の過重負担問題に対し、日本政府の仕打ちを「差別」という表現に否定的な見解を述べている。
差別意識だけを強調していては、差別する側との議論も対話も進まないという指摘に、この授業の求めるところは何かを強く問われたのである。単に眠っていた差別意識を目覚めさせることではない。それを否定する自己変革力をどのようなベクトルに導いていくのかが、大学教育の目的でもある。
ボランティア論の授業が、「自己実現と共生社会の実現」を狙いとするなら、「差別について議論する」ことが出来ることと、その先にある福祉社会の共生意識の醸成について論じ続けなければならないのである。
だからこそ、薄っぺらな「共生感」を唱えてきた学校教育に対し問題を提起しなければ、先の学生のように「教わらなかった」ことが自分の無恥を知り苦渋するのである。「共生共存の福祉社会を」といった文言も絵空事のように虚しく響く。「共生」という言葉ひとつ取り上げても「共に生きる」といった程度のレベルで解釈され、理念も空洞化しているのが実態であろう。
そこで、「共生の状態」〈注8〉について、田村太郎の論に委ねたい。
「同じ社会に存在し生活をしながら、同じ権利やチャンスがない状態は、共生とはいえない。基本的な権利の保障や不公平の是正が共生への第一歩であり、それぞれのちがいを大切にしながら、生き続けてことができる社会かどうかが、共生を実現する重要な視点」であり、その視点は、「①『あってはならないちがい』の解消(基本的人権の保障、機会の均等、自由権の保障など)。②『なくてはならないちがい』の保障(少数者への権利の保障、多様なあり方生き方の尊重)。③『ちがいを越えた協働』の実現(多数者の意識や態度変化、社会全体の変革)」。この3つの視点にさらに「地域、社会、世界全体が、互いの違いを乗り越えて共に日々の暮らしの幸せを保障し平和な社会の創造を協働する」ことで、はじめて「共生」が実現された状態といえると論じる。
上記の3つの視点から考えて、「非共生社会」とはどのような状況にあるのか。
国民の人権を時の権力から守るための日本国憲法が、政権政党により憲法改正を求められている。2013年5月3日の憲法記念日を前に、朝日新聞の行った世論調査の結果〈注9〉、改憲の提案に必要な憲法第96条の改定は、反対54%、賛成38%であった。また、第9条についても、「変えない方がよい」が52%で、「変える方がよい」の39%よりも上回った。しかし、この数は侮れない。平和憲法として国際的に評価されている「戦争放棄」についても、過半数を数%上回るだけの「変えない」という意見であり、厳しい事態であることを如実に示している。そのような歴史的な判断を求められる時代を引き継ぎ、厳しい内外の社会情勢の中で生きなければならないのが、学生たちであり若い世代であることは否定できない事実である。
そこで、この授業の根底の理念でもある、憲法第13条を確認する。
「すべての国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉〈注10〉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」。これは、社会福祉を国家が保障する根拠ともいえる条文である。幸福追求権とも呼ばれるが、福祉を学ぶ者として心にしっかり留めておいてほしいのである。
その上で、憲法問題や政治問題に関心を持ちながら、現代の経済や教育、福祉や医療など日本社会の課題を具体的に考察することが、一人ひとりに求められているのである。人権保障ひとつ取り上げても、沖縄の米軍基地移設問題、ハンセン病問題〈注11〉、学校でのいじめ・体罰問題など、未解決な課題が数多く見えてくる。経済的な貧困の問題は、すでに子どもから教育を受ける均等な機会を奪い、その格差を親が認知せざるを得ない状況にある。教育福祉の問題である。雇用状況〈注12〉の厳しい現状での失業や疾病などによる経済的な破綻は、社会福祉問題に直結することからも、高齢化の問題ばかりではなく課題が山積する未成熟な福祉社会であると認識されよう。
「共生社会」を実現することは、確かに困難なことである。しかし、その理念を学校教育をはじめ市民教育の機会や社会的な活動の場で、いかに啓発してきたのか。時の政治権力により正当化された人権侵害の歴史を踏まえてなお障がい者にとどまらず、社会的弱者と社会の隅に追いやられた人たちの人間としての尊厳をいかに保障するのか。法律や制度、政策だけでは解決できぬ倫理性の問題だけに、人間と関わり合う多くの体験学習を構築しない限り、希薄な言葉の解釈だけで済まされよう。そのような空虚な言葉遊びの教育は、もう止めなければならない。
そのためにも、「めだかのめぐ」の授業で指摘された学生たちの「ボタンの掛け違い」は、強く自省されなければならない。一方的に相手を弱者の立場に追いやり、かわいそうという同情憐憫の情を身勝手に膨らませ、蔑視する心からうまれる「善意」にどんな意味があるのか、自問自答する機会を与えなければならない所以である。
「かわいそうなめぐ」に対して、「助けてあげる、遊んであげる」という傲慢さを「よし」とする強者の論理をいかに是正するのか。その上で、社会・世間や教育の欺瞞をいかにあばくのかが課題となる。障がいのある相手に対する自身の心の構え方の間違いに、鋭く切り込まなければ、同質化を求める日本の社会・世間の根深い体質や異質なものを排斥排除してきた社会・世間の悪しき常識を変えることはできない。
めぐのように一方的に弱者の側に身を置かされることで、その人の尊厳やプライドが喪失する。障がい者だけではなく高齢者も同様である。「一方的に助けられる存在」として、人は存在できるであろうか? その正否が問われる教材といえよう。
阿部志郎〈注13〉の言葉が、心に沁みる。
「福祉の世界に入ると、自分自身のよって立つよりどころを求めずにはいられない厳しさに直面させられる。ときに、苦しみ、疑い、そして悩む。それに耐え、それを克服し、そこに使命(いのちを使うこと)を見出す心情的な過程、読み、聞き、ふれあい、学ぶ態度、自分を納得させ方向づける理想がだれにもあるものである。それを哲学と呼んで差し支えないのではないか」
立つべきよりどころが間違っていたなら、取り返しがつかない。厳しさを味わうこともなく、使命感すら抱くこともなく、福祉の世界に関わることは許されることであろうか?
「福祉の構造を貫く普遍的社会的な理念のみが福祉の哲学ではない。人とともに生きる場で、自分に出会うという経験から形成される哲学が大切なのだ。真実の出会いは、心の中に対話(ダイアローグとは真理をわかち合うの意)を育てる。出会いは、尊敬というより畏敬の想いを温め、あふれるばかりの喜びへと導いてくれる。だからこそ邂逅にふさわしい感動を伴うのだろう。福祉とは戦いでもある」と続く。
教材もまた「真実の出会い」を創造するのである。邂逅はひととの関わりだけではなく、学生たちの柔らかな感性に響く痛みを分かち合う想像力を喚起したエピソードからも、その自己変容の感動を受容することが可能となるのである。
さらに「福祉とは戦いでもある」という一文は、自己葛藤だけではなく、社会の福祉への認識をも変えていく長い道程なのかもしれない。心しておきたい。
さて、この「ボタンの掛け違い」をどう是正するのか?
そこで、授業では「人との向き合い方〈注14〉」を考えてもらう。
学生に協力してもらい、車いすユーザーの役を担ってもらう。「彼女は、車いすを利用している足の不自由な方です。私たちの目は車いすに注目してしまうことで、大きな間違いを冒してきました」。学生を立たせて、車いすを私との間に置き、「車いすを通してあなたを見ることで“車いすの○○さん”と呼ばれてきました」。そこで、この車いすを一度取り除いて、学生の後ろに隠してしまい、私と学生が向き合う設定にする。学生にいくつか質問しながら、「あなたには、いろいろな人間的な魅力があるでしょう。もちろん苦手なこともきっとあるはずです。その一つがみんなとは違って足に障がいがあるため歩くことができない。だからといって、何もできなくなったわけではない。歩くのが不自由だから、車いすを利用するだけのことですよね」
車いすを介在させて相手を見るのではなく、車いすを排除してあくまでも相手と向き合うことができるかどうかが、「ボタンの掛け違い」を正す適切な方法であり、意識的にそうすることによって、お互いの理解は深まるのである。車いすのイメージを払拭して、相手を丸ごと受け止められるのか、そのとき足が不自由なことは、単なるその人の一部の苦手な行動でしかなくなるのである。「苦手意識」は人間誰しもあることを承知している。
そこに優劣をつけて、「できるか、できないか」で全人的に評価する愚弄を排斥しなければならない。それは、対等性を実現する有効な手立てとして活用できるだろう。
換言すれば〈注15〉、「車いすを外す」という意識が、今までの車いすというフィルターを通してしか人を見ようとしなかった自己の行為の過ちに気づき出す。その人なりを自分の中に引き受けて理解していく過程こそ、人間理解の本質ではないか。ここに「福祉の根幹」がある。そこにしっかりと根付いた授業こそが求められるのである。
その中で、その人は足が不自由だから「車いすを利用する」という認識こそが、障がいの悲しみと差別・蔑視のシンボルを静かに葬ることになる。車いすは、その瞬間に主役の座から降ろされて、その人の陰に隠れ、「車いすの○○さん」という呼称も廃棄される。主役は人間そのものである。
「鳥居さん、障がい者って誰? 確かに歩けないよ。車いすにも乗ってよ。歩けないから車いすを足替わりにして、俺は自分の行きたいところに自由に出かけることも出来る。どこがみんなと違うんだい。歩けるか歩けないかの話で障がい者というレッテルを貼らなければならない理由ってなんだい? 俺は、障がい者である前に人間なんだ」と、電動車いすを利用する友人のゴリさんが、小学生を前にした私との対談で語った。
相手としっかりと向き合うことは、障がいがあろうがなかろうが関係はない。「俺は障がい者である前に人間なんだ」という言葉の重さを、授業の中で具体的に展開しなければ、障がいのある彼らの置かれている状況は、いつまでも変わらないし、大事なメッセージを伝えることもできない。安易に「福祉の学習」をしてきたツケが、若い世代の未来に肩代わりされ支払われていくことに、この授業を通して感じて欲しいのである。
車いすは単なる道具である。それは足の不自由な人たちにとっては、制限された行動から自ら解放するための道具であり、幸せを実現するものである。車いすに着せられた濡れ衣を晴らすことができれば、道具としての価値も再評価されるだろう。車いすには罪はない。それを、「教材」としてどのように活用するのか、そこに指導する側の「福祉力」が問われているのである。
難しい論理を振りかざすのではない。対等性の前提について誰もが共感的に理解できる「人間同士の対話」の中に、差別意識を一掃する価値を見い出すことができるのである。
次に、「相手の意思を確かめる」ことである。ここから始めなければ、全ては詭弁となる。「違う」ことを前提に、人は互いに分かり合い、共に幸せに生きるために、「知力」と「感性」、そして「行動力」を、人との関わりの中で育てなくてはならない。丸ごとその人を受け止めること当たり前にするために、体験的な学びを積み上げなければ、当たり前に行動することはできない。
人はだれもその人生を豊かに幸せに生きたいと渇望する。それが「当たり前」であり、障がいの有無で決定するものではない。誰もが一人では生きられぬゆえに、共に生きるそのときに対等な関わり方を体験的に学ばなければ身に付かないと考えるのである。
授業のまとめに、上士幌町〈注16〉で全町の5.6年生を集めて「めだかのめぐ」の授業をした際のエピソードを紹介した。いつものように、めぐの気持ちについて問いかけると、男の子が「うちのクラスに弟が3年生だけど車いすで通っている子のお姉ちゃんがいるから、そのお姉ちゃんに聞くといいよ」と助言され、5年生のお姉ちゃんに尋ねてみた。「君の弟は入学する時に、どんな心配をしていたの?」。彼女は静かに答えた。「弟に聞いてきださい」。心が震え、二の句が継げなかった。その人の意思を尊重することを、見事に小学5年生に学んだ瞬間だった。子どもは、時に師となり、心のあるべき道をさりげなく照らす。
学生たちには、それ以上何も言わずに、今日の学習のふりかえりをノートに書くよう指示をして、授業を終えた。
授業を受けた学生〈注17〉が、私の伝えたいことをしっかりと受け止めてくれた。
「…私の中の当たり前が、世間の作りあげた偏見であったことに気づかされたエピソードであった。めぐの体には不備がある。それゆえに考えられる心配事は何かと問われたときにいじめられるのではないかと心配した。そこに何故そう考えるのかという切り返しは強烈かつ新鮮だった。違いを認知することが悪なのではなく、共生を拒否することが悪なのではないか。障がい者と一緒に生きていく上で重要なことである。…ボランティア学習が何故必要なのか、それは『福祉の学習』である。
福祉とは『幸せやゆたかさ』を示す言葉であり、すなわち幸福の学習である。幸福の追求は、人生を考えることに近い行為であり、この学習の根幹は、人間理解の本質にあり、それは自分なりに人間を自分の中に受け入れ理解していく過程である。その学習が必要な理由は、人を思いやる心や判断力を育て、人間らしく生きることを助けるからではないか」
次章で、めぐとの出会いで「ボタンの掛け違い」に気づき覚醒していく藤女子大を中心に学生たちの意識変容の状況を分析する。

第2章 覚醒する学生たち

1 研究対象

研究対象は、2011年度より3カ年の「ボランティア論」を受講した藤女子大の学生である。2011年41名、2012年30名、2013年43名の計114名が、授業終了後に提出したノートを分析する。
ノートの内容を、①めぐへの接し方(差別意識を認知する言動)、②自己の意識変容(覚醒)、③これからの態度決定(課題との向き合い方)、④社会への発信(問題提起)の4つの視点から分類した。個々の文章表現が様々なために、統計学的な処理はできないことを予め断っておく。年度別の学生の思考傾向は、概略把握できるのではないかと考える。
また、参考として、大阪教育大で2008年度「発達教育学演習」を担当したが、授業で取り上げた様々な事例等について、個々が率直に感じ考えたことをその都度ノートさせた。そして、講義テーマごとにノートをまとめ記録とし、その集積された全体の記録の中から、個々に関心のあるテーマについて受講した学生の意向について分析するよう、小論文〈注18〉を課題として与え学期末の評価とした。そこで提出された「めだかのめぐ」に関するいくつかの小論文を取り上げ参考として紹介する。

2 藤女子大学の学生の意識変容について

(1)2011年度
① めぐへの接し方(差別意識を認知する言動)
・容姿の違いや泳げないことで、からかわれたり、いじめられたり、仲間はずれにされるという意見が半数以上ある。そのことで、優しくしてあげることは正当であり正解であると信じている。弱い立場の人を助けたり手伝うのは当たり前であるという感覚を多くが持つ。
・「今まで生きてきた経験上、他人との違いが怖かった」との告白には、同質化を求めてきた社会の感化力を見る。
・上から目線で哀れみの目で見ることや、車いすの人など少数派(マイノリティー)が奇異の目で見られるのが普通であるところに、見慣れない者やマイノリティに対する差別意識の一端を見る。
・劣っていることで社会的地位が低いという認識や、障がいを負うことは悪いことであり、瞬間時に同情し親切にするといった勝手な思い込みも指摘された。
・小さい頃から困った人は助けてあげようと教わってきたが、いつの間にかその困った人が障いを持つ人という意識に変わっていったというのは、学校教育の総合的学習の時間などで福祉を取り上げた時に、特定の人への関心度を高めてきた成果(結果)であるのかもしれない。この学年の学生は、すでに「ゆとり教育」を受けてきた世代である。
・幼稚園時代に障がい児を受け入れ一緒に生活した経験から、「少しみんなと違う」という思いが「嫌だ」という感情を抱いたことや、手足の不自由な子が特別扱いされいまいち輪になじめない光景を思い出したことで、負のイメージを抱いたことは、幼児期の障がい児との関わり方に課題を残している証左ではないか。
・体の弱い子や不自由な子には優しくしようと学校でそう習い、身体に染みついていたという学生は、そうすることに何の心理的抵抗がないことが伺える。多くは、このような意識を学校教育の中で、「いいこと」として育てられてきたことは否定できない。問題はどのような倫理感の下に育てられたかにある。それをここでは、問題視しているのである
・たくさん不安はあっても、いざ学校に行くときっと優しい仲間ができて助けてくれるというポジティブな捉え方もあった。

② 自己の意識変容(いかに覚醒したか)
・今までの価値観が否定され意識が変化するバリエーションは、個々多様であった。それは個々の生育環境や生活体験などから生起されるもので、「価値観が変わる」という点で共通することである。
・いじめられているとは、私たちが感じることで、そこに薄っぺらな同情や当たり前の生活ができないといった相手への思い込みからの偏見や勝手な決めつけ、見た目の違いなど、一方的な見方や捉え方による自己判断に気づき、ハッとしたり恥じたりしたした瞬間に意識の変化が起こっている。
・善意の行動であっても、気づかないところで差別であったり、独りよがりのエゴや特にボランティアは悪ではないが自己満足に代わることもあると気づいたという。
・障がいという先入観に囚われ本質を見失っていることに驚きを持った学生は、その本質が何であるかを掴んだのではないか。
・それが普通という感覚が多数派であること、少数派の障がい者は奇異な目で見られることはしばしばあること、これらが世間の認識であり、それを親や教師に教えられたことへの怖さを抱いている。
・「福祉を学び始めて、自然とハンディのある子に手を貸すことや親切にすることが当たり前だと思うようになり、それが正解だと思い込んでいた。この授業を通して見方を変えれば車いすはメガネと同じ道具にも関わらず、その道具を使うことでハンディがあり可哀想だという勝手な考えが恥ずかしい」と訴え、福祉を学んでいながら間違った考えを持ったことに気づいたことで、福祉と向き合っていこうとする意思を読み取った。
・車いすとメガネの道具としての比較について41人中17人が関心を示していた。しかし、初めて視力障がいがあることで自分が「障がい者」であることを認識した。それで、考え方の視野が広がり今までの考え方や捉え方の貧しさに気づいたり、そのことから人は何らかの障がいを抱えている事実を知ることで、意識が変わっていった。そのことから、人には不備のあることを、「身近な障がい」というレベルで、いかに認知させることができるかが、重要なターニングポイントとなったことを伺わせた。
・衝撃を受けたと書いた学生は、「最初は単純にみんなと異なるめぐには、優しく気を配ってあげるべきと考えていた。そう考えること自体が相手を低く見ていて優しくする以前に平等ではない考え方を持って接してることを知って衝撃を受けた」という。平等という表現であるが「対等」という相手との向き合い方の課題に気づきだしているのではないか。
・他と違うことは個性であり、いじめられる理由にはならないという気づきや、障がいがあるからといって特別な感情は不要であるという気づきも生まれている。
・一方で特別衝撃的なことではない。当たり前のことを当たり前のこととして受け止めた感覚だったという学生もいる。そのことを確認するきっかけであったことが必要であり、それ以上に、「世間に作られた常識」という点で、肯定の気持ちがある反面否定的な疑問を抱いているが、その指摘は鋭い。「“かわいそう”という言葉の意図や“思いやり”の根幹が、本当に社会に植え付けられてきた思想に基づく意思の元に発せられたものなのか、私には判断することは出来ない。そもそも社会に植え付けられた思想とは何か? 押しつけがましい善意の考え方のことだろうか?」(M.Sのノートを引用)。学生がこの疑問を自己課題として取り組むスタートラインを示唆している。そうすれば、大学での他の社会福祉などの講義もおもしろく感じるのではないか。

③ これからの態度決定(自己課題との向き合い方)
・「私は、最初確かにメグは可哀相であり、どこかメグを否定するように捉えていた。しかし、その一方でメグがメグの今の姿であることは、今後も変化せず仕方のないことであるから、どこかでみんなと一緒に続けることは不可能であることを理解しなければならないのではないかと考えた。先生の考えを聞いているうちに、『では果たして自分が完璧に完成された人間なのか』という疑問が浮かび上った。この大学で学んできた様々な分野を参考に考えたら、自分のメグに対する印象や考え方が明らかに間違っているのではないかと思うようになった。
メグにとってはメグ自身の今の姿的に完成された姿であり、何一つ間違いなどない。ただ私が大多数と違う何か=否定すべきところ、可哀相なところという間違った認識を持っているがために生まれてしまった考えに過ぎないのだ。
このことにより、私は“人は人、自分は自分”という個性を大切にするべきであると共に相手への理解を深めることが大切ではないかということを学んだ」(Y.Hのノートより引用)。学生自身の問題に留まらず、大学人として、どのようにこの重要な疑問と向き合うべきか、本質的な課題を投げかけられている。
・形や見え方が違っても、同じ人間ではないか。そこに差別や偏見があること自体おかしい。直したいという、率直な意見である。
・同じ目線で、みんなと同じように接する、自分の価値観を押しつけない、個性として見る。価値観の押しつけは、そこに力の上下関係があることに起因する。その上下関係を成立させる要因は何かを明らかにすることが、これからの人との関わり方から学ばなければならない。「スクールカースト」という問題もないがしろには出来ない。
・違いから可哀想と上から目線で見る哀れみを是正する、
・どのようにサポートできるのか、何を必要としているのかを考える。
・相手がどう思っているのかを直接聞く。その人が望んでいることで、幸せに導くのが福祉である。
・「優しくするのは間違えではない」「自分をいい人だと思いたくて行動するのは違う」「心苦しくても状況を判断して支援するのがボランティア、ボランティアは公平だけでなく、必要に応じて行動する」「ボランティアすることで喜びや幸せを多く感じてもらえるのではないか」「互いに理解したり仲良くするために考えることもボランティアではないか」と、現在しているボランティア活動のあり方に言及する。
・相手への理解を深めることが大切である。めぐを理解するだけではなくめぐ自身も理解することも重要である。他方、自分から見た一方的な相手ではなく、相手から見た自分をしっかり認知することで対等性が担保されることを指摘している。
・人間をいかに理解するのか、ここにボランティア学習の重要な学習視点〈注19〉がある。「人間理解学習」そのものである。
・しかし、一方で今までの価値観を否定されたことで、これからどうしていいかわからない、深い問題でありその意識を変えるのは難しい、差別した一人としてどのような福祉を求めるのか、一生間違って福祉を考えていたのでは、と悩み始めていることは、良き前兆である。悩むゆえに、解決の糸口を見つけようとあがき始める。他人ではなく「自分自身がどうか」を考えることから始めることしかない。

④ 社会への発信(問題提起)
・ボランティアの活動は良とし、萎縮させてはいけない。
・車いすの人は希な人だからといって特別扱いにしない。
・障がいを認知し共生共存を拒まない。ここで誰を拒まないのか。拒まれる理由は何か。拒むという一方的な拒絶反応を起こす態度は容認されるのか。「拒まない」という言葉一つからも、多くの疑問が生まれる。
・手を貸す前に正しいか否かを考える。ここでは、正しいという「基準」は何か明らかにできるかどうかが問題である。
・世間の偏見をなくすのは困難であり、この問題の根は「良心からの発露」だから、否定することが難しい。としているが、そもそも「良心」は肯定できる「善」なのかどうかから、疑っていくことで、ボタンの掛け違いそのものに気づくのではないか。
・哀れな子と見る社会を変える。そのためにどんな言動を取るべきなのかを考えなければ、意識が芽生えても萎えてしまう。
・個々の問題意識から、社会への関心を高め広めることが学習の発展性を意味する。「私が車いすを周りと違い特別視してしまうのは、過ごしてきた社会で車いすの駐車場、バスの中の車いす専用席などを見てきたために、無意識に植え付けられたものだと思った。これらが直接偏見を生むわけではないが、自分たちとは違うんだということを嫌でも認知させる社会にも改善の必要があるのではないか」(A.K)
この発想は今までなかった。私の中の当たり前が崩壊した。
・「障がいを持つ人は、その障がいと向き合い共に生きるのだから、周りの私たちはその障がいを持つ人たちと共に生きることを当たり前にしなければいけない。障がいは悪いことではなく、その人の持つ個性であることに気づき、互いが住みよい社会を形成していけたら良いのではないか」(E.N)当たり前にするための「行動」が何も示されていないが、まずは「関心」から始まる。

(2) 2012年度
① めぐへの接し方(差別意識を認知する言動)
・姿形が違うことで、じろじろ見られいじめに遭う、友だちができない、仲間はずれにされる、笑われる、からかわれる、同じように動けない、クラスからうくなどと、7割近くがマイナスに感じている。
・見た目や第一印象で差別したり、人の気持ちを理解できると勘違いしたり、可哀想と同情したり、他人に迷惑をかける存在だと考えている。
・自身が仲間はずれにされた経験から、どうしても他の人と違ったり劣ったりすることがあると「人からよく思われないのではないか、仲間はずれにされて孤独になるのではないか」という気持ちが起こる。だから、常に人の視線や評判を気にかけ、そこから抜けきれずにいるという。世間の目を気にする心理と同様である。ここでは、みんなと同じでないと不安であるという意識から「みんなと違うめぐ」を見る立場に立つ。そこに差別化の土壌があり、同質化を無意識に求めてきた日本社会(世間)の一面を露呈している。

② 自己の意識変容(いかに覚醒したか)
・上から目線で「~してあげる」と見下していた。してあげる立場なのかと疑問を抱いた。
・当たり前、正しいと考えていたことが全て打ち砕かれた。そう考えていたことに、ゾワッとした。慣れや思い込みが間違えであった。「“他とは違う”“障がいがある”というだけで、その人たちの気持ちまでひとくくりにしてしまうことが当たり前になっていることに気づき、またそれは違うのではないか」(M.K)の指摘は鋭い。
・めぐは何も悪くないのに恐れるのは理不尽である。弱者扱いする自分がおかしい。 いじめられる要因はないのだから、堂々としていい。非難する人は愚かだ。
・相手への勝手な思い込みに罪があった。
・善という行為に差別意識があり根本的な問題があったことや無意識に障がい者に対し差別偏見を持ち決めつけたことに、いたたまらなさを感じている。
・ショックを受けた! 思い知らされた! しっぽがないというオプションがついただけで、全く別の回答をしたことに気づかなかったことに衝撃を受けた。
・授業を受けなければ、差別偏見を無意識に持ち続けた。
・大半がまともに泳ぐことに注目して、そこから勝手な想像でその子を決めつけてしまったとの指摘は、苦手である一面を強調することで、一方的に「出来ない子」のレッテルを貼ることの理不尽さに気づきだしててる。
・S.Hは「見た目や第一印象で判断、差別、区別してきた私たち。“自分が基本”どこかでみんなそう思っているから、そういう現象が起きたのだろう。少し人と違う。それはその人の個性であって、それを非難する私たちはすごく恥ずかしい」と記す。I.Mは「障がいを持つ人を哀れむことが正しい、まっとうな考えだと思っていたことに気づいた。無意識に差別をしていた。その上、そのことに満足さえしていた。自分がとても恥ずかしい。恥ずかしいというよりも悲しくなった。今まで普通に生活してきただけで、このような考えを持ってしまったことに悲しくなった。人とのことを考えて思いやっているつもりで傷つけていたのかと思うと胸が痛い」二人とも、いたたまれない恥辱と悔いを書き記す。
・N.Tは「人のことを見かけで決めつけて差別している人の心に問題があるのであって、そういう心を持った人こそ見かけではわからない心の障がいを持っているのだ」と鋭く切り込む。

③ これからの態度決定(自己課題との向き合い方)
・障がいに注目するのは苦手を知って接することであり、その人自身と向き合うことである。一人ひとりが障がいをもち、性格や個性として捉える。また、欠点に注目するのではなく、ひとりの人間として受け止め見ること、同じ感情と気持ちを共有できること、など、従来差別や先入観で囚われてきた障がい者への心構えに大きな変化が生起している。対等性をどうお互いに作っていくのかが、実践場面での課題となる。その上で、違いを理解できない人こそ障がいがあることも心に留めておきたい。
・困っていれば手を差しのべるのが当たり前であるが、その前に同等に接しているかどうかが問われる。違いを超えた助け合いが可能となり、さらに、「福祉とは、してあげることではなく、尊重すること」という貴重な指摘もある。
・それらを受けて、今の気づきをどう生かすのかが大事であり、自分を変えたい。そこで、人や物事の本質を見極めるために「当たり前のトレーニング」を授業で学びたいという目標が明確になった。
・小学1年生の回答にあった「待っててあげる」という気持ちは、見過ごしてはならないと主張する。見守るという大事な視点を、普段忘れがちになるがたわいないことのように見えて、実はその人に関心を持ち続ける意思を表示しているのである。マザーテレサは、「愛の反対は憎しみではなく無関心である」と語ったが、福祉や教育は人への関心を持ち続けて、お互いに育ち合う関係に他ならない。
・当たり前は、私たちの思う「普通」がみんなと同じことだと、それがそれが当たり前になっていて根本的に間違っているとの指摘もあり、「普通」という定義がそもそもがはっきりしないと問題提起する。この曖昧な「普通」という言葉をいかに頻繁に使い、それぞれの受け止め方で勝手に解釈し納得していることか。「普通」という言葉が幅をきかせていることに、懐疑的になることは重要である。曖昧さを正すことで、論争の核心が明らかになるからである。
・「心のバリア」について、自己保身から周りに同調することによって生まれた弱い心であるが、それを根本から考え見つめ直すことはひとりでは難しいと記す。
・同じ目線や同じ視野に立つことの難しさも当然の指摘ではあるが、M.Hは「もう開き直って、障がいによって困難なことも、“障がいがあってもここまでできた”というポジティブな強い心が芽生えそうだ」と、めぐにエールを贈る。障がい者を理解しようとする疑似体験学習の落とし穴は、いつも「大変だな、心配だな、不安!」というレベルで終えて、さも“わかったふり”をするところにある。それが薄っぺらな疑似体験学習の正体である。そこから一歩先に進むと、彼らは「その状態で生き抜いている」という事実に、しっかり向き合わせなければならない。そこから障がいにめげず「人が生きる」ことの強さを感動と共感をもって学ぶことができるのである。

④ 社会への発信(問題提起)
・「この差別意識や残酷さを多くの人に知ってもらいたい。その子(めぐ)の可能性や自由を押しつぶしてしまうことのないよう」。そのためのメッセンジャーが若い君たちである。だから、さまざまなところでさまざまな人を対象に授業を続けてきたのである。まずは、事実を正確に受け止めることから始めよう。
・障がい者への差別をなくすのは難しく、人それぞれだから考えを変えることも難しいが、それでもなお世間の当たり前を疑ってみて考え直すことが重要であり、障がいという言葉すら間違えではないかと指摘するところに、一歩踏み出す力強さを感じる。
・ボランティアする上で、相手の気持ちを確認すること、個性・アイデンティティを見いだすこと、対等な関係づくりはなくてはならない意識であり、真心から本当に必要としていることを理解し手を差しのべることであるとし、ボランティアの本質を突く。
・共生は、一人ひとりの個性を認め、誰もが幸せになってこそ成り立つという。「幸せのカタチ」は人それぞれであるが、K.Uは「周りと違うことで不安を抱くかもしれないが、周囲の意識や地域が正しく道徳的だったら、めぐは絶対にひとりにはならない」という鋭い指摘は、「ひとりにならない、してはいけない」という関係づくりを、今まさに地域社会が求めているところである。

(3) 2013年度
① めぐへの接し方(差別意識を認知する言動)
・いじめられる、なじめるだろうか、友だちできるだろうか、馬鹿にされる、笑われる、かわいそう、みんなと同じことができるか、で半数以上を占める。
・差別感、偏見を思っていて、勝手な想像をしていた。
・「誰に教わったわけでもなく、ただこの社会で生きてきた中で出来た感覚、考えだと思っていた」その感覚や考えを、一度さらけ出す機会であったかと考える。
・「外見が違う・泳ぐことが出来ない」=「偏見される・怖い」と思っているに違いないと思った。だからこそ、「困っている時に手を差しのべよう、いつも見ていてあげよう」という固定観念が生まれていたという。この固定観念は、多くの人にある。
・統合保育をしていた幼稚園の時からの体験で、「いつからか自分と何か違う人(障がいや持病のある方)に対し、『優しくしなきゃ』『困っているときは助けてあげなきゃ』と上から目線で、相手の対して偏見を持つようになっていた。きっかけは特にないが、そう思わないと、今度は他の人たちから(健常者?)から私が変な目で見られるのではないかと思うようになったのだ」という点では、障がい児と関わってきた経験でも、どこかで優位性を保持してきた事実が指摘されている。そのきっかけが他者の視線を意識し、空気を読むことで自己保身を身につけていくことにあったのであろう。それも成長過程の一つである。幼児期から障がい児と関わってきたからといって、一概に対等性を身につけたとは言い切れない事例でもある。

② 自己の意識変容(いかに覚醒したか)
・障がいのある人がいじめや差別を受ける存在であると、心のどこかで自分が思っていたのだと感じ悲しくなった。この悲しさこそ自身にしっかり向けていかなければならない。
・不条理、蔑視感、差別意識に気づいた時に、覚醒した。本当の心配は当人でなければわからないという当たり前のことに気づいたときに覚醒した。ここでの覚醒のあり方は、個々の受けるインパクトの違いで様々であるが、「目が覚める」という感覚は、普段あまり体験しないものではないか。忘れてはならないインパクトであってほしい。
・一方的に相手に対して、社会的に弱い立場なのだから、その上に立つ私が助けてあげなければという負の面でしか見ていなかったことに気づき、完全に誤っていたとするのは、“負の面”を誇張することで差別意識を助長していることに気づいたのである。
・当事者でもないのに不安がると信じて疑わなかったが、その認識がおかしいと指摘されるまで、どこが間違っていたのか本当に気づかなかった、自分の考え方の間違えにショック、偏見意識にショック、何かおかしなことでは?で思わずハッとしたという心の動揺を、複数の学生が素直に打ち明けている。
・基準や価値観が自分中心で、それが当たり前の感覚となる。批判をされない限り、いや批判されてもなお間違えだと納得しない限りは、人は頑なに自分を守る。しかし、その当たり前感を揺さぶることが、授業でもある。
・助けてあげるという上からの目線でいたことや、自分勝手に可哀想と同情したり、思いやりが偽善的で浅はかだったとふりかえる。そこから、自己と向き合うことを始めなければならない。そのために「向き合う勇気と自信が欲しい」というE.Oの欲求は、114人中ただひとり表意したものであり、ここに自己変容を可能にする大きなヒントがあり、強い説得力を持つ。
・A.Bは、「障がいがあろうがなかろうが、その不安は変わらないということを、どうして考えられなかったのか、それが根本的な差別ではないかと、すごく納得した。…今まで考えたことのない角度からの視点だったので、100%納得とはいかないが、これからの授業を通して自分の考えをはっきりさせていきたい」と抱負を語る。頼もしい限りである。授業へのモチベーションが、学生により維持されるのである。
・差別や偏見の意識を自力で気づきのは難しい。だからこそ、心底考えるきっかけをつくる授業が求められるのである。
・114人の学生の中でひとりだけ次のように記述した。「体の不自由な方たちに関して、あまり可哀想という思いはない、いくらその人が普通の人より手助けが必要だから少し違うという意見も、人の手助けなしには生きていくことが出来ないからだ。でも、生きていく中でみんなが同じ生活をしていくのは不可能である。もし、自分自身に置き換えたとき、今足が動かせなくなったら、少なからず今までとは違う対応を取られることは確かである。しかし私は、差別を受けない限り、可哀想と思われても、みんながいつも以上に優しくしてくれて、以前と全く違う対応をされても、それが嫌だとは感じないと思う。人とは違うと思われても、むしろそれが人から受ける優しさに感じる」。“差別を受けない限り”という前提の下での人との関わり方を肯定している。優しくしてくれるという“与えられる一方のサービス”にはどのような心理的な苦痛を伴うものであるのか、また前提が崩れた時にはどう対処するのか、そもそも前提が現実に存在するのか、これからの授業の中で明らかにしたい。
・家庭教育の一面を語ってくれたY.Hは「小さい頃から母親に、“障がいがあるからかわいそう”とか“いじめてやろう”“仲間はずれにしよう”という思いがあるのは、根本から間違っている。そう言う子もいるのだということを頭に入れて、普通に接しなさい、と口うるさく言われた。改めて言葉で言うのは簡単だけれども、実際に心から思っているのか、そのことが行動で表されているのかが、疑問に思った」
という。心に思うことと行動の一致は難しい課題だが、そう意識することが自分をよりよく成長させるエネルギーともなる。
・ボランティアについて触れた中で、「今まで考えていたボランティアという意識が180度ひっくり返ったような気がする」、「ボランティアは“~してあげる”といった行為だと思っていた自分が情けない」と自省する。
・さらに、大学での介護実習体験を重ねてきたにも関わらず、差別や偏見を前提にした実習を繰り返してきたのではと考えると恥ずかしいと自省する。介護実習の指導のあり方や内容にも一石を投じている。

③ これからの態度決定(自己課題との向き合い方)
・同じ立場の人として捉えることや、本人の意思を聞き取ることが大事な関わり方であり、意思確認もせずに勝手な振る舞いは不能であること、また、カタチに囚われず中身を判断していくことが正しい考え方であると指摘された。対等性をいかに実現できるかどうかのターニングポイントである。
・その一方で、相手の立場になって考えることは複雑で難しい、相手の不安を理解することは難しい、無条件に教えられた思いやりの過ちに気づくのは困難、具体的にどうすればいいのかわからない、相手から見た自分の優しさに不安を覚えるという意見もある。この授業だけで解決できる問題ではないことを百も承知で、困難だからと放置することはできない以上、今後この課題と向き合って共に授業を創らなければならないのである。
・その関わり合い方である。「どんな人とでも通じ合える人間になりたい。偏見をなくして気持ちを伝え合いたい。同じ目線で考え障がいも個性ではないか。同じ人間はいない、個性と考える。一人ひとり“違う”ということを忘れてはならない。相手を拒否することなく共生すること。差がない優しさが大切である。心の中に埋めている勘違いが人を傷つける」。“やさしさを本物にする”試練が始まる。
・自分を変えたいとする意見には、これからの14回の講義の中で変えたい、相手も人間、違うというだけで哀れむのは改めたい、いじめられていることを前提に手伝うという思いを変えたいとしている。
・「私は、あまり人を見て哀れや障がいのある人などという感想は抱かない性質だが、周りの人がそう言ったら、そうなんだね、と否定はしない。そのような態度が偏見等の助長をしているのならすぐに止めたい」。この決意こそが差別や偏見を是正するひとりでも出来る第一歩ではないか。
・ボランティアに積極的に参加したいと、意思表示する。
・M.Mが「今まで普通に思えたことに、何も疑問を持たずに生きていたら、このボランティア論を受けていても、何も意味がない」という意見に、これからの授業に対しての大きな励ましをもらった。
・「現実には車いすの人がいようともあまり気にかけない.薄情だと自分で思っていたしただ無関心だけかもしれないが、そういった気にかけすぎない=特別扱いを必要以上にいなくてもよいのかもしれない」という指摘から、醒めた目で見ることも、時に必要不可欠ではないか。

④ 社会への発信(問題提起)
・気持ちよく過ごしていける社会が必要。個性を尊重し共感し合えたら素晴らしい社会になる。見方を変えるだけで考え方も変わっていく。それでは、そのような社会をどのように形成するのか、若い世代に「福祉の世界」へ強い関心を持ってもらうことが肝心である。
・「無意識な差別は、日本人誰もが持つものであり、深く人権侵害とも繋がる考えでもある」と指摘する。人権そのものについて考えるきっかけになったことは、重要である。
・2011年度、2012年度に比べて、社会的な発信が人数の割には少ない。授業の中で、「共生」について十分に触れていなかったことも、その原因であろう。今後の授業で補填が必要となる。「自分と社会との関わり」について考える機会を十分に創っていきたい。

3 大阪教育大学の学生の小論文から

2008年前期の授業を取り上げ、受講した「人間科学専攻発達人間福祉学コース」の学生自身が分析した3つの小論文を考察する。

(1) 「めだかのめぐ」から学ぶ 高橋 沙織
高橋は、受講者の意見を3つに大別する。①めぐ(障がい者)がいじめられる、かわいそうだと勝手に思い込んでいたという自身のボタンの掛け違いについて振り返ったもの、②障がい者の偏見を助長、美化してしまう道徳教育の貧しさ、③長い時間をかけてこうした偏見は築かれてきたものであるから、思い込みを捨てたり視点を変えることは難しく、時間がかかる。その上で、「ボタンの掛け違い」を道徳教育のあり方から考え、さらに「共生」について言及する。
ボタンの掛け違いの原因は、障がい者は差別されるものだと無意識下の中で、哀れみの感情を持つことは障がい者を見下していることであると考える。そこで、障がい者の認知について、手が「ない」、足が「ない」、話せ「ない」といった、自分と比べ相手に「ないもの、できないもの」に注目しがちであり、「できること」への可能性に目が向きにくくなるという指摘は妥当である。
そこで、「できないこと」だけではなく「できること」にも目を向け、障がい者への考え方を変え、対等な立場に立つことができれば、ボタンの掛け違いを直せるとする。では、「対等な立場に立つ」とはどういうことか?
そこで高橋は、玉井真理子の『障害児もいる家族物語』から、聴覚障がい者と手話のできない健常者とのコミュニケーション障害について、健常者が「手話障がい者」であるという玉井の考え方を受けて、「対等」な立場に立ったものであり、「ボタンの掛け違い」を直す上で大切であると考える。
「聴覚障がい者は確かに聞こえ『ない』が、手話が『できる』のであり、手話ができない健常者は聞くことが『できる』が、手話が『できない』のである。健常者が手話を『できない』ことを棚にあげて、…『耳が聞こえなくて気の毒だ』と考えることはあっても自身が『手話ができなくて気の毒』であることには目を向けない。それが、『見下し』であり、『傲慢さ』であり、ボタンの掛け違いにつながるのだ。健常者にできて障がい者にできないことがある一方で、逆に障がい者にはできるけど、健常者にできないことにもっと目を向けることが『対等』な立場に立つことである」する。
聴覚障がい者とのコミュニケーションを取る手立てとして「手話」があり、一方的に手話を障がい者に押しつけてきた功罪を認めざるを得ない。「手話障がい者」という認識は誰も持ってはいないだろう。そこに、対等性を見い出す高橋の視点は興味深い。
次に、道徳教育の貧しさについて、教師自身の「ボタンの掛け違い」を指摘する。単なる知識であれば、間違えを修正することは可能であるが、一度身についた道徳性を変えるのは、時間がかかり難しいとする。問題は、「間違え」を自覚していないことである。多くの学生の回答の中でも、なぜ差別意識を無意識に持ってたのかと自問するが、おかしくないかという疑問が投げかけられない限り、人は自分の「基準と価値観」で生きていくのである。教育の改革が難しいのは、教員が個々様々な「基準と価値観」をもって子どもに関わっているからであり、「道徳の教科化〈注20〉」が進められようとしているのも、そこに指導内容の統一性や指導力の強化、それによるお仕着せの倫理観の確立を国家統制していくのものであるという危機意識を、学校教育を担う者たちは強くもってほしいと願うばかりだ。道徳教育の貧しさは、そこに人間としての教師自身が問われることからの逃避の結果でもある。特に「道徳の授業」は教科書がないだけに教員の裁量に委ねられてきたことも、今回の「教科化」の布石となったと考える。「愛国心」教育がまた声高に叫ばれる。
「めだかのめぐ」が道徳の副教材であったことを想起すれば、85文字の世界にこれだけの道徳的に価値観のある教材はない。その文字面だけを読んで理解を促すような授業に、「NO!」を突きつけたのである。いかに「教材研究」をするのかが、教育の専門職としての教員の基本的な仕事であり資質が問われるところである。「忙しい」という言い訳では済まされない日々の研鑽をおろそかにしてはいないか、自省すべきである。そうしなければ、子どもの心の育ちに強い影響を与える教員であることに、耐えられないであろう。教育者としての、「良心」が問われる事態であるといっても過言ではない。
最後に、高橋は「共生」について、「当たり前」のことと論じる。
「お互いに助けたり、助けられたり、何かを教えたり、教えられたりしている部分は、必ずある。『できること、できないこと』は誰でも持っていて、どの人が優れていて、劣っているかの区別もないはずである。『共生』している中で助け合っているという当たり前のことに『気づいていく』ことがこれからの社会に求められることである」と結ぶ。「共生のあり方」については、まだまだ熟慮しなければならない。これまでの「当たり前」そのものを疑うことから「気づき」が生まれ、「共生感に基づく新たな当たり前」をいかに構築していくのかが、それを学びとった者たちの社会的責務であることを引き受けてほしいと、切望する。

(2) 「めだかのめぐ」は教室にいる?~インクルージブ教育〈注21〉への課題  松岡茉莉子
松岡の切り口は、ユニークである。
「めだかのめぐ」を通して、多くの学生が現代社会の「マイノリティ」に対する在り様に疑問を感じていると推察し、めぐの存在は、自らの差別性や、また次世代へその差別観を齎(もたら)す危険性を示唆していると論じる。さらに、社会的マイノリティの存在を認め、自らと同じ社会で生きることの必要性があると示唆する。
そこで、「教育現場でめぐのような子どもたちが果たしているのだろうか?」と疑問を投げかける。
「障がいのある子どもたちの多くは、特別支援学校に入学・進学するといった傾向が今でも多く見られる。これは同年代の子どもたちに対し、発達に著しく障がいがあるため、通常の小学校では対応が困難だとされるからと言われている。このことによって、子どもたちと周囲との関わりのネットワークの中において、めぐのような社会的マイノリティの立場にある子どもたちは、自動的に排除されている」という指摘は、めぐを著しい発達障がいを負っている子という前提での論である。しかし、めぐは身体障がいであり普通学校で学ぶことは可能である。
ただ、社会的マイノリティである障がいの重い子どもたちの置かれている状況は、松岡が指摘している現実を否定できない。支援学校から家庭のある地域に戻ってきても、遊ぶ相手がいない。同じ学校に通わないことで地域で暮らす子どもたちとの関係性も薄い。そこで、札幌の燕信子は脳性マヒの息子が地域で孤立しないために、市内に共同学童保育所「翼クラブ」を、全国に先駆けて作ったのである。
「鳥居さん、この子はよだれをすぐに垂らすんです。親が口を酸っぱくしてすぐにすすりなさいと注意するんですが、なかなか出来ないんですね。ところが翼クラブで子どもたちと遊んでいて、『よだれたらして、きったないな-!』と嫌な顔で言われると、“すする”んです。これって、この子にも他の子と関わっていく中で、こうしなければならないっていう『社会性』が育ってきている証ですよね。小さな発達の兆候だけれども、親にはそのことがとても嬉しいんですよ。翼クラブをつくったことが報われた瞬間でした」と、15年も昔に語ってくれたことを印象深く思い出す。
「学校という子どもが最初に接する大きな社会で、めぐのような子どもがいないこと、このことがめぐのような子どもたちに対する思い込みやイメージを増長させる原因である」と論じるが、現実は特別支援学級に通級しない発達障がいのある子どもが普通教室にいる。そこでの子どもたち同士の関わり合い方も重要だが、それ以上に子どもを取り巻く保護者の理解と協力を得ることが大きな課題となっているのである。
松岡は、「教育現場はひとつの社会である。マイノリティの存在も包括し、他者との関わりを重視していかなければならない。そのため、インクルージヴの視点をもった現場づくりが必要になってくる」と指摘する。
その概念として、インクルージョン〈注22〉(inclusion)を理解しておかなければならない。「貧困や失業に陥った人々、障がいを有する人々、ホームレス状態にある人々を社会的に排除するのではなく、地域社会への参加と参画を促し社会に統合する」とし、ここでいう統合を「社会秩序の維持を意味するintegrationではなく、社会の中に包み込むこと(inclusion)を指す」のであるが、「社会」を「学校」に置き換えることで、インクルージヴ教育が見えてくるであろう。
特別な配慮ではなく、「めぐの存在が思い込みやイメージによるものだけでなく、ありのままのめぐに触れ、関わることが何より大切ではないか。社会では様々な立場の人間がいる。個人の発達過程において、他者の影響力は多くの割合を占める。学校というのは、そのことを学ぶ場である。学校という小さな社会がインクルージヴ化されることによって、教材『めだかのめぐ』の必要性もなくなる」と松岡は考える。
排除された世界で生きてきたマイノリティの人たちを、社会が受け入れる環境を創るためには、「学校やその教育」が果たすべき役割が大きい。そのような理念を学校が実現しようという意思と、さらには指導者である教員自らが具体的にいかに実践するかにかかっている。学校経営や学年・学級経営の中にしっかりと位置づけしなければならない。
私の小さな実践〈注23〉ではあるが、インクルージヴ教育を実現していたのである。特殊学級〈注24〉が設置されていた小学校に勤務していた1989年当時に、5年生44人のクラスを担任した。そこに特殊学級に在籍する知的障がいのある子を、クラスの真ん中に座ってもらい、学級経営をスタートさせた。「ありえない」取り組みに、同級生も保護者も驚いた。非難の声は校長、教頭が壁になって防いでくれた。信頼を得るには、子どもたちの心の変容しかなかった。2年間生活を共にしたある子どもは、卒業の時にこう書き記した。
「私たちのクラスには、とても大切な友だちがいる。かしわ学級(特殊学級)にいるときには、障がいをもっていることで差別していた。それは、心のどこかに穴があいているのだと思った。本当は差別なんかしたくないと思っていても、その穴に落ちてしまうと、どうしても差別してしまう。5年生になって、Iちゃんをクラスで面倒を見ることになった。最初はすごく嫌だった。なんで私たちがそんなことをしなきゃいけないのと何度も思った。でも一緒に生活していくと、どんな人なのかも、どんなに優しい子なのかも、よくわかってきた。元気で優しいIちゃんが笑ってくれると、自分も笑いたくなる。少し知恵遅れだからといって、無視したり悪口を言っている自分が馬鹿らしくなってきた。このクラスにIちゃんが来たことによって、みんなの心が変わった。今まで以上に優しく素直な人間になったと思う」
「共に生活する」ことで、子どもたちは自分の差別や蔑視という心の穴に気づき、その穴を埋める努力を、力まず、時間をかけて行う。その子の存在の重さを、一人ひとりが感じ始めていった時に、その子が生きることで、周りの子どもたちも生きてくるのである。
学校は、めぐを含めた子どもたちと、そして子ども同士、さらには保護者に対しての「市民教育としての福祉教育」の現場であるという認識と責任は、いまだ全うされていない。福祉教育そのものが不十分な現状では、「めだかのめぐ」を必然的に学ばなければならない事態は、まだまだ続くのである。
松岡が共生について論じるところは、私の実践とオーバーラップする。「共生とは、同じ地域コミュニティでさまざまな立場の人間が交わり、関わっていくことである。関わりがあってはじめて、それぞれの個性を認識し、同時に自らと他者の違いに納得できる。他者との相違を認め、子どもたちは成長していく」ことを、まさに実現したのである。
いかに様々な人と関わらせるのか、まさに「人とのかかわりの学習」を学校でも地域でも体験的に学ぶ機会を用意しなければならない。それは障がいの有無を考慮しない、「誰もが学ぶ」機会を保障しなければならないのである。ここにインクルージブ教育の意義を見出すことができるであろう。
子どもの福祉の実現の内実を考えると、文化的社会に生きるための能力や技術を身につけることとしての「育ちの保障」、そして子ども一人ひとりが生きる歓びを十分に経験できる「幸福の保障」という2つの要件が示されが、その要件を満たすために重要なことは「他者とや出来事との豊かな関係(つながり)という契機を、恐らくは欠かすことができない。子どもは他者や社会との善い関係が保障されてこそ、ゆくゆく育ちや幸福を経験することができる」と加藤悦雄〈注25〉は、「社会から排除される子どもとソーシャル・インクルージョンの構想」の中で論じる。
さらに、松岡は「大人もまた、子どものインクルージヴ・ネットワークの一端を担っている。その大人たちは、自らの差別性を顧みながら、めぐの存在を想像だけでない実像のあるものとして捉えなければならない。本物の共生とは、違いをお互いが認め合い、その違いもまた当たり前であると認識できる社会である」と結ぶが、この主張を補強しよう。
加藤悦雄〈注26〉は、子どものソーシャル・インクルージョンには2つの要件を必要とするという。「ひとつは子どもが社会関係(他者との邂逅)を経験する『場面』を創り出すこと(=環境的要件)であり、今ひとつは子ども自身が社会関係を取り結ぶ『力』を高めていくこと(=主体的要件)である。…2つの要件は相互に関わり合い、循環していく関係にある。なぜなら子どもは良好な社会関係を経験できる場面を保障されることで、表現し対話する力など社会関係を取り結ぶ力を身につけ、その力を用いてさらに新しく他者や社会と出会い関係を築いていくからである」と論じる。『場面』と『力』を実現するところが地域であり学校であるとすれば、そこで「めぐの存在を実像」として捉えていくことができるかどうか、子どもとの向き合う大人としての真価が問われているのである。翻って子ども自身が「自ら育つ力」が試されていくのである。

(3) めだかのめぐに学ぶ  吉田 紗代
吉田は、「福祉教育が孕んでいる問題の根本が示され、今まで学んできた福祉が見事に打ち砕かれるという経験をする。道徳教育や福祉教育が、健常者の立場から上からの目線で語られていることに気づかされる。この授業を受けた多くの人にとって衝撃的な体験だったようだ。さらに、それまで抱いていた福祉に対する違和感の正体がつかめたようにも感じた」と、自身の受けた衝撃を語る。
「主人公はめぐではない。健常者が勝手に解釈して、『~してあげる』という傲慢な考え方を育てることが、知らず知らずのうちに目的になってしまっている」という吉田の指摘は新鮮だ。しかし、どうすればその意識を変えることができるのか、という方法を見出すまでには至らず、気づきだけで終わってしまっていたと、自らの思考の弱点を突く。
それは、「道徳的に『良い』答えが期待できる問いを提示するという、教育によるコントロールや押しつけが存在していることに気づいたことで、確かに一歩前進したが、その時はその気づきに対しての驚きがいっぱいで、そこから先のことを考えることができずにいた」という。そこで、吉田はその先を考えたいと、健常者が上に立つ社会について考察し、それを少しでも変えていくにはどうすれば良いのかを検討している。
なぜ健常者は上になるのか?
一つには、障がい者は健常者と比べて、「みんなができる」ことが簡単にはできないという身体的機能・知的能力などの問題はある。しかし、一時的に人の助けを直接的に必要とするのは、日常生活ではごく自然なことである。「障がい者は、その助けられる側にまわる回数が多いだけなのである。その頻度・程度の違いで、いつも人の手を借りなければならないという点でかわいそうであると見なされると同時に、一人で多くのことができる健常者より下の立場になってしまう」という、吉田の「回数」に着目した論点は、評価できる。
さらに「障がいを持つということはマイナスなのではなく、障がい者にとってはそこがスタート地点なのだから、できないことがあるのなら手を差し伸べるというスタンスは少しも変わらない」というところで「スタート地点」という発想やスタンスの考え方は妥当である。
二つに、障がい者が少数者であるというマイノリティの問題をあげる。「ただ単に数の上の優位性で、健常者は押しつけが可能になる」と述べ、迫害は少数者に対して起こりやすいと指摘する。いじめも同様であるとする。少数者は、多数者から見ると異質な存在であり、異質なものに対して、人は多少の恐怖心を抱くことについては、授業の中でも取り上げたことである。
「自分と違う、みんなと違うという存在は、未知である状況が不安や恐怖を増幅させ、数の利を使ってそれを押さえ込もうとする行動の結果が、迫害や排除となる」という差別の過程の整理は理解しやすい。
では、その意識をどのように変えるのか?
「福祉はマイノリティを重んずるところから始まる。これが福祉のアイデンティティである。“ひとり”の尊厳を守り、その人が自立的に生き、社会の中で人生を充実できるように援助するのが、社会福祉の実践である。援助には、社会に背を向けて“ひとり”を守るのではなく、マイノリティとマジョリティが共に力を合わせて、連携できる社会の追究を目指す姿勢をかかせない」と、阿部志郎〈注27〉は論ずる。
吉田は、「福祉は共生」を目指すと言う。意識の格差を埋めるには、『違い』に着目するのではなく、『同じ』ことを見つければ良いと提案する。“めぐ”も、みんなと同じように期待と不安を胸に秘めているはずだということが、障がいに囚われていなければ簡単に思いつくことができたと考えている。「違いを見るのではなく、その人自身を良く知った上で共通点を探せば良いのだ。その後、さらに違いを認めていくことで、誰かが上で誰かが下だという考えは起こりにくくなる」
「お互いを良く知らなければ、分かり合うことは不可能である。それには、社会の分離ではなく、共生にどれだけ貢献できるかが決め手になる。人々の意識の変化と制度上の変化が同時にその効力を発揮したときに、それは実現する」のは、障がいのある人を社会の中で排斥・排除し孤立させてはならないという意思を、社会を構成する“誰もが”主体的に表示することが求められる。それは同時に、教育制度や教育内容にも必然的に連動することになる。
「人々の意識の変化に影響を与える福祉教育にあたっては、“めだかのめぐ”のように誰かを特別扱いするのではなく、様々な人がいる集団を舞台にして、それぞれがそれぞれの足りないところを補うようなストーリーを創作し、子どもたちたちに訴えかけるべきだろう」と、ユニークな提案をして結ぶ。
福祉教育が“福祉”に特化した教育活動ではなく、「人間としての生き方やあり方」を学ぶ「全人教育」であることを肝に銘じ、若い世代の意識を覚醒させるために、“めだかのめぐ”には、もうしばらくヒロインとしての地位を保持してもらうこととする。

第3章 教材の価値と貧しい福祉観の是正

1 教材としての価値

「めだかのめぐ」や、その授業過程で利用したいくつかのエピソードの教材としての価値について確かめたい。
導入の「めだかのめぐ」は、平易な文章で小学生1年生にも理解可能な内容ではあるが、それは、その後の学習を深化させるために、適切な教材である否かは、知的好奇心と知的渇望を満たすに足るものであるか否かが基準となる。なぜならそれは、授業方法を通して大学教育の質的な価値を問われるからに他ならない。
そこで、その教材としての価値と授業方法の評価を、次の視点でチェックする。

① 興味関心を惹いたか。
単純なエピソードであり、人間ではなく「めだか」が主人公であったことで、心理的な抵抗感も少なく、絵本の世界に入るように“めぐ”に自身の気持ちを投影させることができたのではないか。
また、場面の転換でいろいろなエピソードを挿入し、心理的葛藤の場面を創ることで、自身の内面と素直に向き合ったことは、今まで味わったことのない「意識の変容の過程」を短時間に体験的に認識したのではないか。
そして、質問内容をわかりやすくしたことにより、思考を深めたことも、興味関心を惹き続けたのではないかと、学習態度やノートで判断される。
さらに、授業後の態度形成についての言及も、学習への意欲化やテーマの継続化が提起されていることから、福祉への興味関心の度合いを高めていたと考える。
その意味でも、教材は学生の拒絶反応を押さえた「適度な刺激」をいかに与えるかが重要であり、「我が身の問題」として考えるステージにどう招き入れるかが、授業を構成する魅力となる。

② 学習のねらいが達成できたか。
「障がいのある者への無意識的な差別や蔑視感・偏見への気づきと、共生を実現するための自己の福祉的な意識変革」という学習のねらいを達成するために、平易な教材を利用することにより、課題への取り組みが主体化されたのではないか。そこでは、課題(質問)に積極的に関わり、追求する態度が維持されていたと判断される。
さらに、自身の思考の狭義さを知ることで、広げ深めることに学ぶ喜びを見出していることも、学習態度の形成としてのねらいを十分達成したのではないかと考える。

③ 困難やつまずきを生じても、それを乗り越えていく耐性を育てているか。
質問は単純であっても、その中身は深く自ずと回答も自らの内面にしかない。正しい答えを求めているのではなく、自身の中にある「解」を求めていくのである。それは自身の人間性や倫理観を直接問われているのであり、自己葛藤を余儀なくされる。そのプレッシャーに耐えて乗り越えていくことができる、授業内容の構成になっていたか否かが問われている。短い文章表現であっても、ノートにはその葛藤の軌跡が残されている。

④ 共感的理解にまで至っているか。
福祉に関わる学習内容は、共感的理解に達してはじめて、「わかり合える」段階に高めることができる。この授業は、専門的知識を学ぶ講義ではなく、「めぐ」への心理的投影を行うことで、人間としての共感性に自ら気づく学習である。そうでなければ、授業は成立不能である。
その真意を正しく伝えられたか否かが、教材の価値を決定する。

⑤ 満足感や充足感を与えられるか。
厳しく自己の価値観や人間観と率直に向き合う授業であり、「自己否定」するところから、新たな自分を見出し「自己肯定感情」を取り戻すために、「もがく」時間となる。初めての体験は、そこに精神的な満足感と充足感をもたらしていたと判断する。

⑥ 自分の想いを、熱意と誠意をもって学生に伝え、学習と向き合っているか。
指導者自身の自戒である。同じ授業を何度も繰り返しても、授業は生ものであり、学生の反応も様々である。特に、ボランティア論の講義の早い時期に実施するため、学生の実態をよく分からないまま、授業に入らざるを得ない。
さらにこの授業は、その後の講義への興味関心を促す重要なプロローグの役目を果たす。その意味でも、「いつも真剣勝負を挑む」覚悟で、学生と向き合う。その評価は、ノートに記載されている。
ただ、授業には万全の準備と緊張感をもって臨んでいるのか。体裁を取り繕い、思慮の浅い言葉で逃げていないか。自戒の根は、ここにあることを心して臨む。

⑦ 学生とのコミュニケーションが成立しているか。
学生は、質問に丁寧に答える態度で、現段階でのコミュニケーションらしき状態はある。前時のノートを評価し返却する際に、心にかかる学生のノートを印刷して配布したり紹介することで、全体評価をすると同時に、「ノートに書かれたことを粗末にしない」という意思を態度として示す。
特に非常勤講師には、その講義時間でしか学生との関わりがないだけに、授業中のコミュニケーションを成立させるためには、信頼関係の醸成が必要不可欠である。

⑧ 自らの「福祉観やボランティア観」を再確認できたか。
「ボランティア論」の学習である以上、そこに「福祉とはなにか?」「ボランティアとは何か?」という課題を意識させることが、必須条件である。この授業を通して、自らの福祉観やボランティア観を確認し、意識の変容に迫られたとの記載がある。
そもそも、それは「人間とは何か?」「なぜ生きるのか?」という根源的な問いかけが、生きる哲学として発せられなければならない。そこに、大学教育の全人教育の目的があるのではないか。「ボランティア論」を通して一貫して求める「人として生きることへの確かめ」である。

2 分析から見えてきたこと

藤女子大学における2011年度より3カ年の授業で、受講生から見えてきた分析内容を考察する。それは、「向き合う勇気と自信」をいかに育むのかが、学生から提起された課題でもある。
また、「ひとりにならない、してはいけない」という思いの熱さが、これからの社会福祉を支持する市民としての意思と態度であることを、これを契機に学び続けてほしい。
そして、障がい者などが地域社会で普通の生活を営むことを当然とするノーマライゼーションの理念を具現化したバリアフリーやユニバーサルデザインを推奨してきた者にとって、「車いすマーク」の影響について指摘は、衝撃であった。その功罪を解き明かすことを、課題として学生から与えられたのである。

① 自分の言動がどのような背景を持って生まれてきたのかを考えることは重要である。 家庭教育での親の躾、保育所・学校での道徳教育や特別活動や総合的学習の時間での、障がい児との統合学習や交流学習活動などの体験値、また地域(世間)での様々な人との関わりなど、自分の生育環境や生活体験、学習体験、そして交友関係などに起因した現在の言動を考えることで、自己評価を通して新しい価値観を作り直すという作業が始まる。そのことを考える「きっかけ」を与えられたのではないか。

② 低年齢から分け隔てなく多様な人と関わることは、その人間性の発達に必要不可欠である。「関わり」の重要性は否定しないが、「関わり方」による個々人の心理的変化は、特に思春期における友人関係の中で、「障がいのある人への意識の変化」として顕在化することに注目したい。
障がい児や病弱児と一緒に生活した体験が、決して正しい理解に繋がらず、負のイメージを抱いていること、友だちとの関係を友好にするために、その意向に同調すること、障がい者への対応を周りがどのように見るかを意識することによる態度の変化、親から躾されてきたにも関わらず、心と行為のギャップに疑問を持ってきたことなど、思春期の成長過程の中での意識の変化を見逃してはならない。
この問題が起こる原因のひとつとして、「対等性」を育てることの難しさを提起している。

③ 固定観念に縛られていた自身の差別感や蔑視感に気づき、「恥ずかしい」というを観念を多くの学生が持っている。この「恥」という観念を、自らの倫理観や行動規範の一つとして据えることで、意識の変容は確かなものとなる。その「恥をかく」体験を一過性にすることなく、その度合いが高いほど、その恥意識をこえて人は成長することを確信する。その兆候が、「こうする、こうしたい」というポジティブな意思表示に他ならない。

④ 「衝撃」「ショック」「思い知る」「180度ひくり変える」など、急激な意識の変化に戸惑いや不安を感じながらも、しっかりと受け止めることで、自己肯定への段階に挑む。「恥意識」もその一つである。その変化の要因について、多くの学生は今までの生活体験のあり方をふりかえっているが、本大学での福祉の講義や福祉施設での実習、そしてボランティア活動における行動規範にも触れていることに、注目したい。学生の個々の問題に留まらず、大学としての指導指針にも影響を与えることになる。

⑤ 授業は、“自己との対話”である。ものの見方や感じ方、考え方が広がったという指摘も、次の授業へ臨む態度決定を促す。授業内容を共感的に理解し、心の動揺と葛藤の結果、自己の意識変容を獲得した上で、次回からの授業へのモチベーションを高め期待感を持つことは、ポジティブに「学ぶ姿勢」を、その内に育てることに他ならない。

⑥ この学習で触発された問題意識を高めるためには、他の科目(講義)においても、学習に対する自己目的を明確にして臨むことや、人や社会の問題や動向に興味関心を募らせて臨むことが求められる。

⑦ ボランティアの本質を捉えたり、ボランティアのあり方を言及する点では、今後の「ボランティア論」への学習意欲と関心を喚起することができた。

⑧ 今後どのように福祉意識を高め、生活行動を取ることが、自らの生き方としてふさわしいのかという「生きる課題」として転換されなければ、単なる知識注入論で終始する。ボランティア論が、単に知識を習得するに留まらず、いかに「自己葛藤」を生じさせて自分と向き合うことや、「どう生きるのか?」を常に問われる学習であることを、共に追求したい。

⑨ 「メガネと車いす」の比較で影響を受けたと記述したのは、2011年度が41.5%、2012年度が36.7%の割合を示していることから、効果的な事例であったと評価される。
しかし、2013年は9.3%と急落している。ただ記載がなかったという点だけで、全く影響がなかったと結論づけるのは早急であろう。

⑩ ノートを点検したところ、漢字の誤字やひらがな表記が目立つこと、語彙が少ないこと、表現が稚拙であること、論理的な構成が不足していることなどが伺える。携帯電話の辞書検索を利用することも改善のひとつとして考慮したい。
また、初年時教育で基本的な小論文指導は欠かせないのではないか。いい資質を持った学生も多くいることから、本大学で学生の文章表現力をいかに高めていくのか、重要な課題である。

⑪ ボランティア活動論は、「ボランティア学習〈注28〉」の考え方に立って展開している。それは、ボランティア活動を通して、様々な社会生活の課題に関わり、社会や人にとって有益な役割や活動を担うことで、学習者の自発性・自主性を育み、無償性を尊び、公共性を身につけながら、よりよき社会人としての全人的な成長発達を促す社会体験学習である。
換言すると、「共生と共存を学ぶ」ための学習である。真実性をおびたエピソードから、“さもさもらしいおこがましさ”を負の心と知り、自らをふりかえり成長するチャンスが、若い世代のボランティア学習の世界にあることを確信する。そのためにも、エピソードを伝える側のボランティア観を今一度「ボランティア論」の授業を通して確認しなければならない。
せめて、一方的に弱者に“してあげる”という“奉仕観〈注29〉”を若い世代に教え込もうとする愚陋は、もう終わりにしなければならない。
エピソードと向き合うのは、常に自分自身であることを強く自覚させられるからこそ、「ボランティア論」は興味を惹かれる「おもしろい学びの世界」となる。

3 貧しい福祉観の是正を求めて

2013年4月19日、大阪地方裁判所は、勝訴の判決〈注30〉を下す。枚方市在住の足の不自由な女性(73歳)が、自家用車を所有している理由で生活保護を打ち切られ、法廷で争った。「車を使うことは自立を助ける」と認め、市に賠償を命じた。
生まれつき股関節に障がいがあり、手術も受けたが筋肉が弱くよく転ぶ。座席を改良した車は通院にも買い物にも欠かせなかったという。
判決後「これでもう人の目を気にして暮らさなくてもいい」と思ったが、ネット掲示板で非難される。身近にも陰口をたたく人はいたが、裁判で勝ってもそうなのか。「私の痛みや苦労なんて、全然知らんのでしょう。もっと見るからに痛そうにしていたら、いいんですか」
セーフティネットである生活保護費の不正受給問題として、枚方市は訴訟を起こしたが、市の判断は、一律に受給者の自家用車の所有を認めないという原則論であった。阿部志郎は「制度は人間を無差別平等に取り扱う」と指摘する。しかし、判決が、「自立のための所有」を認めたことは、個々の身体的状況を考慮して適用するという「判断基準」を示した画期的なものではないか。
憲法第13条の条文を具体的に尊重した判例となったと評価するが、それでもなお世間の風当たりの強さを感じて、身を縮めて生きなければならないところに、福祉の貧しさの一端を知ることができる。「批判する側も、いつかは泣きを見るかもしれない」という受給者の声も、ネットという匿名の世界で憂さ晴らしをしている者たちや世間で陰口をたたく者たちには無視されるだろう。精神的なストレスはまだ解消されぬと想像する。
さて、この事例は、「生活保護受給者の車の所有は、自立を助ける」という一点だけでも、「自立とはなにか」を考える機会が、社会福祉を学ぶ者たちには与えられたのである。
この「自立」こそが、人間の尊厳を護る重要な概念であることを、学ばなくてはならない。
その上で、日本社会の福祉意識の貧しさの現況を知り、そこから「人間として生まれ幸せに生きる」ことの困難性とその原因を探求し、解決の方策を考えることが、大学で学ぶ「実践的福祉」ではないかと考える。
この授業は、個々の様々な経験や環境の中で、様々な人と関わって成長してきた学生の心の深層に入り込み、自問自答を繰り返すことで、自らをさらけ出し、今までの自分の価値観や人生観、人間観を覆す苦しみを味わうものであった。
また、この授業は、差別・偏見・蔑視・排斥・排除、そして高慢・傲慢な態度をいかに是正するのかが、個人に対しても社会及び世間に対して、「人権擁護の問題」として提起されたかと考える。そこには、「個々の幸せをいかに実現するのか」が常に問われていることに「気づかせる授業」としての役割があったことを意味する。
さらに、この授業は、教材として「めだかのめぐ」を取り上げたが、道徳の授業を指導する際に、十分な教材研究をすることなく、教科書会社の提供している教材の解釈や指導計画を丸ごと飲み込み、授業を連綿と続けてきている学校教育の現状に、「NO!」を突きつけたのである。子どもたちの思考を規定し、当たり前の回答として無批判に受け止めて、「差別意識」を助長させてきたことに気づくことなく、指導者は過ちを繰り返してきた事実を認めなければならない。公教育の「道徳」という授業の副教材として使用してきたことは、「知らなかった」では済まされない問題であり、福祉の根本的な理念である人権が損なわれていく事実に無頓着であることは、決して許されることではない。
このような無分別な授業は、人為的に生起した事態であるがゆえに、正しい認識を持つことで回避できる。
福祉を学ぶことは、自己の価値を計る“ものさし”を固定化するのではなく、ものさし自体が“違う”と思った瞬間から、“変える勇気”を持つことではないか。学生の意識の変化は、この“ものさし”を変えたところに起因する。
何を持って「貧しい福祉観」と認識するのか、その価値判断は学生個々に委ねられる。しかし、自らの人間性を高め、「やさしさ」を強さに変えるための試練を、今から始めなければならない。それが福祉を学ぶ者たちの挑戦である。福祉は戦いである。
リクルート創業者の江副浩正は、「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変える」と語ったが、機会は与えられるだけではなく創り出すことの重要性を指摘している。
学生の信託に応えるべく、主体的に課題に取り組む授業を創る責任を課せられたことからも、「めだかのめぐ」を起点に、その発展としてボランティア論で取り上げる「ボランティア拒否論」について、学生と共に論究したい。
私は、私に影響を与えてきた関わりの深い人たちの意思を受け継ぎ、その関わりからお互いに築いてきた“福祉と人”のあり方を、次世代へと引き継ぐために、使命感を与えられて生かされているという思いから、この研究ノートを書き記した。
福祉やボランティアの授業は、それを具現化する「共育〈注31〉の営み」に他ならない。
井上ひさしの言葉である「むずかしいことをやさしく やさしいことをふかく ふかいことをおもしろく」こそが、私の授業の真骨頂である。
そこで、「真実」を学び得た学生が、身近な人たちや社会に対して、次の時代そして世代への“メッセンジャー”として生きることを夢見たい。それこそ、私が授業を続ける価値であることを信じて疑わない。

〈注釈、引用・参考文献〉
※ 鳥居一頼 : 藤女子大学非常勤講師・愛知淑徳大学非常勤講師
〈1〉出典:学習研究社、小学1年の道徳の副読本のなかの1編
〈2〉「めだかのめぐ」の授業について、拙著「福祉教育のキーワードと指導のポイント」(大阪ボランティア協会刊1996年p89~97)、「子どもと学ぶボランティア」(大阪ボランティア協会刊2008年p43~46)、「地域にあったか福祉の種を蒔こう!」(佐賀市社会福祉協議会ホームページ2013年2月掲載論文p1~4)で取り上げた。
〈3〉札幌は藤女子大、北海道医療大、名古屋は愛知淑徳大、大阪は大阪教育大、聖トマス大である。
〈4〉藤女子大2013年前期ボランティア論受講生E.Sのノートから引用
〈5〉朝日新聞「天声人語」2012年9月14日
〈6〉藤女子大2013年前期ボランティア論受講生H.Aのノートから引用
〈7〉沖縄県副知事高良倉吉が朝日新聞の「インタビュー」で語った「沖縄の覚悟」から引用(2013年4月26日朝刊)
〈8〉「ボランティアNPO用語事典」(大阪ボランティア協会編集 中央法規2004年刊)p24~25の田村太郎から引用した。
〈9〉朝日新聞2013年5月2日(木)朝刊に掲載された。第9条を変え「国防軍」を設けることについて、反対が62%、賛成が31%であった。女性の61%は第9条維持。
〈10〉公共の福祉とは、社会に暮らすすべての人々が公平に受け、「それゆえに皆のはたらきや配慮で大きさを増していくべき全体の幸福(「日本国憲法」自由国民社2002年刊p19参照)
〈11〉ハンセン病元患者への人権問題は、2013年4月16日に「ボランティア論」第2講の授業で取り上げた。授業は、「ハンセン病問題を授業化する~おまえ、もう学校に来るな!」(「ボランティア北海道はまなすの里」2013年刊予定)の中のひとつ「おまえ、もう学校に来るな!」をロールプレーイングを使って展開した。
〈12〉雇用状況について、文部科学省の「平成24年度学校基本調査」によると、24年度大学卒業者で「進学も就職もしていない」進路未決定者は86,566人、非正規雇用やアルバイトを含めた「安定的な雇用についていない卒業生」は卒業者全体の22.9%にものぼる。
〈13〉「福祉の哲学」p19引用 阿部志郎著 1997年 誠信書房刊
〈14〉前掲「子どもと学ぶボランティア」の「第2章ボランティア授業の7つの扉 6車いす濡れ衣を晴らす」(p102~113)に詳しい。
〈15〉前掲「子どもと学ぶボランティア」の「第2章ボランティア授業の7つの扉 6「車いすの濡れ衣を晴らす」(p112~113)から引用する。
〈16〉十勝管内上士幌町で町社会福祉協議会が主催する町内の小学5・6年を一堂に集めた、「ボランティア活動実践交流会」が22年間22回実施されている。1回目から講師として参加し19回福祉の授業を担当してきた。現在も継続中で全国的にも希有な事業である。
〈17〉聖トマス大学1年中山佳百里「ボランティア学習論レポート」(2009年1月)から抜粋した。
〈18〉小論文は、29人の受講生のうち、講義テーマの「こころを傷つける言葉」「善魔とは何か」「どちらがボランティア?」などから学生が自主的に選択し、「めだかのめぐ」は5本選択された。
〈19〉ボランティア学習には4つの学習がある。1は「人間理解学習」、2に「体験学習」3に「自己発見学習」、4に「イメージ学習」である。前掲拙書「福祉教育のキーワードと指導のポイント」p104~105に詳しい。
〈20〉文部科学省は2013年4月4日、道徳の教科化について検討する「道徳教育の充実に関する懇談会」の初会合を開く。下村博文文科相は「道徳教育は子供たちの豊かな人間性を育む上で不可欠だ」と強調。委員から「学校現場では道徳の時間への関心は低く、改善には教科化が必要だ」「教科化に反対の人も多い。現場の教員にそっぽを向かれるものにしてはならない」と意見が出た。政府の教育再生実行会議がいじめ対策の提言に道徳の教科化を盛り込んだことを受けて設置された。
〈21〉インクルージブ教育(inclusive education)とは、障がいの有無によらず、誰もが地域の学校で学べる教育。国連の障害者権利条約の批准に向けて国内の法整備が進む中、2011年7月に成立した改正障害者基本法でインクルーシブ教育の理念が盛り込まれた。
〈22〉インクルージョンについて、「ソーシャル・インクルージョンの社会福祉」(岡田恭一・西村昌記編著ミネルヴァ書房2008年刊)pⅱより引用した。
〈23〉当時在職していた北海道早来町(現安平町)早来小学校での実践であり、拙著「ちょうどよい目の高さでの福祉教育」(大阪ボランティア協会1993年刊)p35~37に詳しい。
〈24〉特殊学級とは、学校・中学校・高等学校において、心身に障害のある児童・生徒のために特別に設けられた学級。平成19年(2007)学校教育法改正に伴い、特別支援学級に名称を変更。
〈25〉前掲「ソーシャル・インクルージョンの社会福祉」p113より引用した。
〈26〉前掲「ソーシャル・インクルージョンの社会福祉」p137~138より引用した。
〈27〉前述「福祉の哲学」の「はじめに」より引用する
〈28〉前掲「福祉教育のキーワードと指導のポイント」P3~4に詳しい。
〈29〉前掲「子どもと学ぶボランティア」の「第3章地域で社会でボランティアの学びをコーディネートする 4ボランティアと奉仕の違い」p167~172に詳しい。
〈30〉朝日新聞2013年5月1日付け朝刊特集「みる・きく・はなすはいま」の「敵がいる4」より事例を引用する。
〈31〉前掲「子どもと学ぶボランティア」の「第1章こっちょのボランティア授業論」p6「子どもに育てられ、人の道を示唆(しめ)され、生きることの喜びを共育という」

備考
(1)鳥居一頼「ステレオタイプ化された貧しい福祉意識からの脱却~授業『めだかのめぐ』で覚醒した藤女子大の学生たち~」『人間生活学研究(藤女子大学人間生活学部紀要)』第20号、藤女子大学、2013年3月、63~96ページ。
(2)文・編集委員会/絵・山本省三「めだかの めぐ」『みんなのどうとく 1 ねん』(2017年3月検定済)学研教育みらい、2019年3月、28~29ページ。

大橋謙策「日本における地域共生社会政策とコミュニティソーシャルワーク機能」

謝辞
本稿は、大橋謙策先生から2018年11月4日付けでご恵贈を賜った『大橋謙策主要論文集(2013年~2018年)』(大橋ゼミ45周年ホームカミングデー実行委員会、2018年10月27日)と『日本社会事業大学/東北福祉大学大学院 大橋ゼミ45年の歩み』(大橋ゼミ45周年ホームカミングデー実行委員会、2018年10月27日)に収録されている玉稿です。前者には論考の最後に4点の「図」が表示されていますが、本ブログの [まちづくりと市民福祉教育](28)大橋謙策「地域共生社会づくりとコミュニティソーシャルワーク」/2018年9月25日投稿 に表示されているものと同一ですので割愛しました。そちらをご参照下さい。
筆者(阪野)は「大橋ゼミ」生ではありませんが、こうした貴重な資料をその都度ご恵贈いただいています。そのことに深く感謝するとともに、本ブログへのアップをご快諾いただいた大橋謙策先生に衷心より厚くお礼申し上げます。