「まちづくりと市民福祉教育」カテゴリーアーカイブ

富山県における福祉教育の取り組みの経緯と今後の方向性

富山県社会福祉協議会(以下、富山県社協)は、1977年度から始まる国庫補助事業としての「学童・生徒のボランティア活動普及事業」(富山県の事業名称は「児童・生徒のボランティア活動普及事業」)に先駆けて、1973年度に富山女子短期大学付属高校と清光女子高校(現・高岡龍谷高校)の2校を「福祉教育指定校」に指定し、福祉教育事業を開始した。1977年度から2013年度までに、富山県社協から児童・生徒のボランティア活動普及事業の「推進校」指定を受けた学校は、小学校327校、中学校133校、高等学校80校、特別支援学校15校、計555校(延べ数)を数えている。なお、この「推進校」指定事業は2013年度をもって廃止される。
こうした学校福祉教育の推進を図るために、富山県社協では、学校現場等での実践に有用な教材の開発と普及に積極的かつ計画的に取り組んできた。小学校5年生(『ともに生きる』1981年)や中学校1年生(『共に生きる』1987年)を対象にした「福祉読本」、5歳児を対象にした福祉絵本(『みんな、なかま』1990年)、小学校高学年生向けの福祉DVD(『ともに生きる』2006年)、小学校4年生向けのボランティア読本(『ボランティアの本』2010年)、などの作成・配布がそれである。そのうち、例えば福祉絵本(『みんな、なかま』)についていえば、配布はひとまず2010年度で終わるが、20年間で20万人以上の5歳児の手元に届けられている。
周知の通り、1990年代に入ると、学校福祉教育から地域福祉教育への移行・進展の必要性や重要性が指摘され、その実践を推進するための体制の整備やプログラムの開発、人材の養成などが進むことになる。その証左のひとつとして、全国社会福祉協議会(以下、全社協)が、1996年3月に『地域に広がる福祉教育活動事例集―福祉教育の考え方と実践方法・先進的事例に学ぶ―』と題する「福祉教育モデル事例集」を発行したことを挙げることができる。その後、全社協は、2004年9月に「社会福祉協議会における福祉教育推進検討委員会」(委員長・大橋謙策)を立ち上げ、2005年11月に『社会福祉協議会における福祉教育推進検討委員会報告書』を纏める。それをひとつの契機に、「地域を基盤とした福祉教育の展開」「福祉教育が地域福祉の根幹をつくる」という視点・視座に立って、(地域)福祉教育実践に関する研究会の報告書を矢継ぎ早に作成し、公表・提案する。『福祉教育の展開と地域福祉活動の推進』(福祉教育実践研究シリーズ①、2008年3月)、『学校・社協・地域がつながる福祉教育の展開をめざして』(福祉教育実践研究シリーズ②、2009年7月)、『住民主体による地域福祉推進のための「大人の学び」』(福祉教育実践研究シリーズ③、2010年11月)、『地域福祉は福祉教育ではじまり福祉教育でおわる』(福祉教育実践ガイド、2012年3月)、『社会的包摂にむけた福祉教育~共感を軸にした地域福祉の創造~』(2013年3月)、などがそれである。
併せて、全社協は、人材養成のあり方についての検討や研修・養成プログラム等の研究開発を進める。『これからの福祉教育実践と福祉学習サポーター・実践者への研修のあり方~福祉教育の質的向上をめざして』(2001年3月)、『「協働」による福祉のまちづくり推進のための人材養成のあり方研修プログラム』(2005年3月)がその報告書である。発行時期は前後するが、『ボランティア ア・ラ・カ・ル・ト―「障害理解」プログラムの手引き―』(1999年3月)も注目される。
これらは、福祉・教育を取り巻く社会・経済情勢や社会的背景についての分析・評価・検討に基づくものであることは多言を要しない。そうした社会・経済の潮流と福祉・教育の動向を踏まえて、富山県社協では、2007年度から新たに「福祉教育地域指定推進事業」に取り組むことになる。その実施要綱の概要は以下の通りである。ちなみに、2010年度に地域指定を受けた市町村社協は13か所、その年度の参加者は児童・生徒を中心に1,302名を数えている。2012年度のそれは、12か所、1,323名となっている。

福祉教育地域指定推進事業実施要綱
1 目的
学校に通う子ども達が地域社会の中で暮らしていくことの意味を理解し、他者との関りを学ぶ中で、市町村社会福祉協議会をはじめ、いきいきサロンや小規模作業所等地域の社会資源と学校と社会福祉協議会が体験学習の企画段階から積極的に協働し、学校に限らない地域に根ざした子どもたちのボランティア体験学習・活動を推進することを目的とする。
2 実施主体
市町村社会福祉協議会
3 事業の実施
市町村単位に原則として2年間指定し、市町村社会福祉協議会が本事業の活動計画を作成し、いきいきサロンや小規模作業所、地区社会福祉協議会等との協働を図りながら、福祉教育・ボランティア体験学習に関わる事業を新たに実施する。
4 助成対象事業
(1) 教員と子どもと地域住民による地域福祉活動実践
(2) 福祉教育連絡会やボランティア活動研究会の開催
(3) 各学校における体験学習や研究活動に対する個別的支援の実施
(4) 地域の伝統・文化活動のボランティア活動による継承
(5) そのた、本事業の目的に即した事業

地域指定を受けた市町村社協による本事業への自己評価(「事業の成果・今後の課題」)は様々である。2012年度のそれをみると、「事業の成果」としては次のようなものがある。「子どもたちの地域福祉への理解や参加を促し、地区社協と連携したプログラムを提供することができた」「種々の体験学習によって福祉教育への興味・関心につながった」「親子の交流も深まった」「学校と地域が連携し、円滑に事業が実施されている」「小学生に民謡を伝承することができ、三世代間の交流が深まった」「児童生徒がボランティア活動やノーマライゼーションに対する理解を深め、ボランティア活動への参加意欲が高まった」「地域で暮らす障害者、ボランティアの存在を身近に感じながら日々の生活を送るようになった」等々がそれである。
その反面、「今後の課題」も少なくない。「車椅子体験、手話体験、視覚障害者体験に偏った」「特定の施設・団体との連携にとどまっている」「長期休業中のイベントボランティアが中心になっている」「福祉教育に取り組む姿勢に地域差がある」「地域に定着してきた反面、事業の発展・拡大に伴い、参加者の負担も出てきた」等々である。
以上から、地域指定の福祉教育実践とはいえ、その取り組みは児童・生徒の体験活動、しかも一過性のイベントを中心に据えたものが多いことがうかがえる。また、その評価は、市町村社協福祉教育担当者の主観的で総括的、抽象的なものにとどまっているといわざるを得ない。福祉教育実践における評価(リフレクション、振り返り)は、様々な立場や局面、内容や方法などによって行われるであろうが、福祉「教育」である以上、妥当性と信頼性、それゆえの客観性が問われることはいうまでもない。今後は、“地元”における、“まちづくり”に向けた福祉教育の戦略的で継続的かつ計画的な取り組みと、それに対応した科学的で客観的かつ多面的な評価を行うための工夫や改善が求められよう。
そこで、富山県社協は、2012年12月、児童・生徒のボランティア活動普及事業を総活し、福祉教育地域指定推進事業の充実強化策について検討するために、「福祉教育推進検討委員会」を設置した。検討委員会では、6回の委員会でのさまざまな議論を踏まえて、2013年8月、「『福祉教育サポーター』養成確保事業要綱」の成案を得ている。
福祉教育サポーターについては、例えば、2005年11月の全社協報告(『社会福祉協議会における福祉教育推進検討委員会報告書』)では、次のように述べられている。「地域を基盤とした『質』の高い福祉教育を推進するには、地域において地域住民が地域の生活・福祉課題の当事者であることの気づきや、課題解決に向けての行動力を高めたり、自らの暮らしを主体的に築いていけるような『学び』の環境づくりを広げることが求められます。そのためには、地域において、そうした『学び』の環境づくりを促進するキーパーソンとなる人材養成や、福祉教育の取り組み意義を理解し支援するサポーターとなる人材養成、さらに福祉の専門職に対する働きかけや学習機会の提供などが不可欠といえます。福祉教育推進のためのサポーターづくりとは、地域において福祉教育推進の理解者や実践者,協働者を増やすことを意味します。」(53ページ)。
富山県社協の福祉教育推進検討委員会では、全社協のこうした考え方の提示や、2001年3月の全社協報告(『これからの福祉教育実践と福祉学習サポーター・実践者への研修のあり方』)などの資料提供が行われ、各委員が主体的・協同的に学習を進め、理解を深めた。併せて、埼玉県社協の「福祉教育・ボランティア学習推進員養成研修」や鳥取県社協の「福祉学習サポーター講座」、名古屋市社協の「福祉学習サポーター養成研修」や宇都宮市社協の「福祉共育サポーター養成講座」、あるいは神戸市(こうべ市民福祉振興協会)の「こうべUD大学」「こうべUDサポーター」や可児市(NPОなんでもサポートセンター岐阜)の「岐阜コミュニティ創造大学」「コミュニティ創造士」など、全国各地の福祉教育やまちづくりに関するサポーター養成確保事業について分析・評価し、議論を重ねた。それらを踏まえて作成されたのが「『福祉教育サポーター』養成確保事業要綱」である。 以下にその要綱を紹介する。

「福祉教育サポーター」養成確保事業要綱
1 趣旨
人は、生まれ育った地域(地元)が、また移り住んだ地域が、安全で、安心して、より豊かに暮らすことができる“まち”になることを願う。そうした願いをかなえるのは、他ならぬそこに住む、子どもから大人までの住民、一人ひとりである。
“まちづくり”は、一人ひとりの住民が、その地域(日々の生活圏域)に存在する多様な生活問題や福祉問題について関心と理解をもつことから始まる。そして、その関心を高め、理解を深めるためには、何よりも“学習”が不可欠となる。
まちづくりは、一人ではできない。仲間をつくり、その輪を広げ、行政や関係機関・団体などと連携することが必要となる。また、まちづくりは、一人ひとりの住民が、できることを、できるときに、できるところで、しかも焦らず、かまえず、足元を確かめながら取り組むことが大切である。
「地域福祉は福祉教育ではじまり、福祉教育でおわる」といわれる。「まちづくりは人づくり、人づくりは教育づくり」である、ともいわれる。それは、福祉によるまちづくりを進めるためには、「福祉教育」の推進を図ることが必要かつ重要であることを意味する。
福祉教育はこれまで、学校を中心に考えられ、取り組まれてきた。そして、今日、とりわけ2011年3月に発生した東日本大震災をひとつの契機に、住民同士がお互いに支えあう地域福祉のあり方が改めて問われている。それを受けて、全国各地で、子どもから大人まで生涯学習の視点に立って、学校だけでなく、地域ぐるみで、地域に根ざした福祉教育を組織的・計画的に推進していこうとする取り組みがなされている。
地域に根ざした福祉教育とは、一人ひとりの住民が、それぞれの地域に生きるために努力する姿や態度、行動そのものに、教育的な価値を見いだす教育活動をいう。それはまた、地域とそこでの生活に根ざすことを通して、より豊かな日々の暮らしとそれを可能にする新しい“まち”を創ることに、主体的・自律的に取り組む住民を育てることである。
富山県社協では、1973年度から「児童・生徒のボランティア活動普及事業」やそれにともなう「福祉副読本」「福祉絵本」「福祉DVD」などの作成に取り組み、学校における福祉教育の推進を図ってきた。そのうえに、2007年度からは、「学校に限らない地域に根ざした子どもたちのボランティア体験学習・活動を推進する」ことを目的に「福祉教育地域指定推進事業」に取り組んでいる。地域福祉の推進が図られ、子どもから大人までの住民参加の必要性や実践がますます重要視される今日、福祉教育地域指定推進事業の実施・協力体制の整備・充実を図ることが強く求められている。
「福祉教育サポーター」(仮称)制度は、以上のような考え方や現状認識のもとに、福祉によるまちづくりをめざして設置しようとするものである。
2 福祉教育サポーターとは
福祉教育サポーターとは、
① 福祉や教育、そしてまちづくりに関心のある多くの人が、
② 地元や職場での日々の生活や活動などで得た知識や経験を、
③ さらに確かで豊かなものにするために学習(研修)を行い、
④ それによって自分や自分たちの能力と地元の魅力を再発見し、
⑤ 求められる見識(判断力、考え方)と企画・実践力(福祉力、教育力)、そして意欲(情熱、向上心)を活かし、
⑥ 何よりも自信と誠意と信念をもって、
⑦ 行政をはじめ学校や社会福祉協議会(以下、社協)、社会福祉施設、公民館、NPО、自治会・町内会、企業などが行う、
地元ならではの、新しいまちづくりとそのための「福祉教育」の事業・活動を支援する人をいう。
3 福祉教育サポーター制度のねらい
高校生以上の地元住民をはじめ、ボランティアやボランティアサポーター、NPО職員、民生委員・児童委員、福祉推進委員、地域(福祉)活動者、とりわけ団塊世代や高齢者・障がい者などと、福祉や教育の関係機関・組織・団体・施設などが連携・協働して、福祉教育サポーター制度の取り組みを進める。それによって、地元での人材の発掘と活用、地元の人々によるまちづくりや福祉教育に関する事業・活動の活発化、その内容の高度化などが図られる。何よりも、地元の人々にとっては、まちづくりの活動や運動の機会の創出と、それに参加・参画することによって個人の自己実現と生きがいの創造を促す。また、地元にとっては、住民の地元への関心力や地元の自治力などの向上が促される。そして、それらを通して、福祉による新しいまちづくりのさらなる進展が期待される。
4 福祉教育サポーター制度の特徴
本制度の大きな特徴は以下の諸点である。
(1)福祉教育サポーターは、従来の福祉・教育実践者に限定するのではなく、まちづくりとそのための福祉教育の事業・活動に関心と意欲をもつ地元の人々に対する研修(学習)を通して、主体的・積極的に応募してもらう。
(2)福祉教育サポーターの養成は、県社協や関係機関・組織・団体・施設などと連携・協働しながら、市町村社協と地区社協が中心になって地元で取り組む。また、そのためのカリキュラムなどを共同開発する。
(3)福祉教育サポーターの計画的・継続的な研修と認証・登録を行うことによって、一定水準の資質と能力を備えた人材を確保する。将来的には、地域(県や市町村の区域)でリーダー的な役割を果たす「福祉教育アドバイザー」(仮称)の創設を考える。
(4)福祉教育サポーターは、地区社協に若干名配置し、活動の場は主として地元の小学校区とする。
(5)福祉教育サポーターは、コーディネートの知識と技能を習得・活用して、地元で、組織的かつ計画的なまちづくりとそのための福祉教育の事業・活動の推進を図る。
(6)市町村社協は、県社協等と連携しながら、「福祉教育サポーター設置検討委員会」(仮称)を設置し、福祉教育サポーターの養成・確保に取り組む。またその後、「福   祉教育サポーター連絡協議会」(仮称)を設置し、福祉教育サポーター相互の情報交換と知識・技能の習得と経験を重ね、共有し、資質の向上を図る。
(7)県社協は、市町村社協職員(コミュニティワーカー)に対する福祉教育研修を計画的・継続的に実施する。とともに、「福祉教育サポーター事業推進検討委員会」(仮称)を設置し、市町村社協の「福祉教育サポーター設置検討委員会」(仮称)や「福祉教育サポーター連絡協議会」(仮称)との連携・協働を進める。
5 福祉教育サポーターの主な活動
福祉教育サポーターの主な活動として、次のような取り組みが考えられる。
(1)まちづくりやそのための福祉教育に関する事業・活動の情報の収集・提供と、地元住民に対する普及・啓発
(2)福祉や教育の関係機関・組織・団体・施設などが連携・協働して事業・活動を展開する際の、キーパーソンとしての連絡・調整
(3)社協や社会福祉施設、公民館などが行う、福祉教育研修やボランティア・まちづくり講座などの企画・運営および学習相談
(4)学校の「総合的な学習の時間」や課外活動(部活動、学校行事等)などにおける福祉教育活動に関する、子どもや教師への補助や協力・支援
(5)子ども・青年や高齢者・障がい者などが社協や社会福祉施設、公民館などで行う学習、文化、スポーツ、レクリエーション活動の支援や、福祉文化の醸成活動の支援
(6)地元住民が抱える生活問題や福祉問題を解決するための活動や運動への参加や活動支援 
(7)地元に所在する多様な関係機関・組織・団体などが行うまちづくりや福祉教育関係行事などへの参加や協力・支援

以上の「要綱」はあくまでも、「福祉教育サポーター」養成確保事業の指針を大綱的に定めたものである。富山県社協においては、今後、この事業を具体的に実施するに当たって、細目的な部分を「要領」として定める作業が必要となる。また、「福祉教育推進検討委員会」を発展的に解消し、2014年度に「福祉教育サポーター事業推進検討委員会」(仮称)を設置する。とともに、3か所の市町村社協を3年間モデル地区に指定し、連携・協働して福祉教育サポーター養成カリキュラムの研究開発などに取り組むことが予定されている。そのうえで、モデル事業の検証と評価を行い、2017年度から「福祉教育サポーター」養成確保事業が本格実施されることになる。
富山県社協が立案した「福祉教育サポーター」制度に類する取り組みは、既に全国各地で実施されている。しかし、サポーターを養成確保したものの、住民や活動現場(学校や社会福祉施設等)にあまり周知されていない、そのために活動の機会や場所が少ない、その結果サポーターの数も増えないといった悪循環を抱え、制度の衰退やさらには廃止に至る事例がみられる。同じ轍を踏まないためにも、富山県社協では、事業の本格実施に向けてどういう点に留意すべきであろうか。そのいくつかを指摘しておくことにする。
(1)福祉教育サポーター制度は、サポーターを属人的に捉えるのではなく、個々の地元住民の属性や地元との関係性などに留意しながら、サポーターとしての機能や役割、活動のプロセスを重視する制度である。
(2)福祉教育サポーター制度の普及・拡大を図るめには、制度の周知度や認知度を高めるとともに、地元のニーズとサポーターの適確なマッチングを図るための仕組みをつくることによって、活発な活動(活用)を促すことが重要となる。
(3)福祉教育サポーター活動の持続的発展を可能にするためには、定期的・計画的な研修を行うことによってサポーターの資質の向上を図るとともに、サポーター同士だけでなく、地元での人的ネットワークの拡大と連携強化を図ることが必要となる。
(4)福祉教育サポーター制度における養成カリキュラムは、「まち学習」(地元が抱える地域課題の発見と理解・診断)から「まちづくり学習」(協働による課題解決策と具体的活動の検討・協議)へ、という流れによって構成される。
(5)福祉教育サポーターには、福祉教育実践に関するプランナー、コーディネーター、そしてファシリテーターとしての知識と技能が求められるが、そこから、サポーターの養成研修では、講義のほか、ワークショップやフィールドワークなどを重視した参加体験型の学習法を取り入れることが肝要となる。
(6)福祉教育サポーターの「認証・登録」制度の導入は、サポーターに強いインセンティブ(奨励、刺激)を与えて活動の活発化を促すとともに、サポーターの一定の水準を保証することになり、サポーターの活用(活動)促進が期待される。
(7)福祉教育サポーター制度を充実・発展させるためには、福祉教育サポーターの活動の効果・成果を適正に検証・評価し、それを活かしてその後のサポーターの活動の内容や方法、活用のあり方などについて検討することが必要かつ重要となる。
(8)福祉教育サポーター制度の効果的な実施・展開を可能にするためには、市町村社協の役職員に対する福祉教育(事業)研修の充実、オール社協による福祉教育推進事業の取り組みの強化、そして何よりも「福祉教育地域指定推進事業」の充実・改善が求められる。

自治基本条例と市民福祉教育(第1報)

自由民主党の政務調査会が2011年9月に、「チョット待て!!“自治基本条例”~つくるべきかどうか、もう一度考えよう~」という政策パンフレットを出している。それは実に面白いものである。その意味は、人々を信じさせる強いメッセージ性もなく、それ以上に何の理屈もロジックもない、という点においてである。そこでは、多くの人々を信じさせたいという一念で、空虚な言葉が無意味に書き連ねられているだけ、といわざるを得ない。まるで、伝統的な暮らしや文化を過度に重んじる環境のなかで育った“やんちゃ坊主”が、周りのことも考えられずに駄々をこねているようなものである。等閑視してよい代物であるとはいえ、なぜ駄々をこねるのかを考え、その気持ち(内容)を理解することも必要であろう。
周知の通り、自治基本条例は、北海道の「ニセコ町まちづくり基本条例」(2000年12月制定、2001年4月施行、2005年12月第1次改正、2010年3月第2次改正)を嚆矢とし、2013年4月現在、273の市区町村で制定されている。2013年1月現在の全国の市区町村数は1742(東京23区を除くと1719市町村)であるから、およそ16パーセントの地方自治体で制定されていることになる。今後もその数は増えていくものと推測されるが、その背景には地方分権改革の進展がある。また、そうしたなかで、「新しい公共」の創出や「新たな支え合い」の強化が叫ばれ、行政への住民(市民)参加や行政と住民(市民)との協働によるまちづくりの推進が図られていることも、背景のひとつと考えられる。
地方分権改革に関していえば、1993年6月の衆参両議院で採択された「地方分権の推進に関する決議」などを契機として、1995年5月に地方分権推進法(1995年7月施行)が制定された。以後、1999年7月の地方分権一括法(2000年4月施行)や2006年12月の地方分権改革推進法(2007年4月施行)などによって、政府・自民党は、1990年代以降、総合的・計画的な地方分権改革を積極的に推し進めることになる。なかでも、地方分権一括法は、475本の関連法を改正または廃止するもので、この改正によって機関委任事務制度の廃止や、国の地方自治体に対する関与(統制)の見直し、地方自治体への権限の移譲などが図られた。それによって、国と地方自治体の関係は、上下・主従の関係から対等・協力の関係へと変わることになる。要するに、地方分権一括法は、地方自治体に対して、地方分権のための法的根拠・保障を与えたものである、といえる。そして、地方分権の推進に対応すべく、行財政基盤の強化や自治の効率化を目標に、1999年から政府主導で推進されたのがいわゆる「平成の大合併」である。
以上のことを、地方自治体(とくに市町村)のサイドに立って平易に要約すれば、地方自治体は、国(中央政府)から独立した地方政府として、地域のことは地域で決めるという「自己決定・自己責任」の考え方に立って、主体的・自律的な自治体運営(「団体自治」)を図る必要性と重要性が増大した、ということである。また、1993年の国会決議に始まるこれまでの地方分権改革は、地方自治体の権限の拡大、しかも形式的なそれに偏りがちであり、地方自治のもうひとつの要素である「住民自治」(地方自治は、その地方自治体の住民の意思と責任に基づいて行われるべきであるということ)をどのように実現し、その強化を図るかが、2000年代に入って問われるようになった、ということである。これは、国による縦割り・全国画一行政が破綻するとともに、国民愚民観や自治体蔑視意識の変革、いいかえれば住民(市民)や自治体職員の自治意識の拡大が求められることを意味する。さらには、社会、経済、政治、文化などのあらゆる側面でグローバル化が急速に進むなかで、世界に開かれた地域社会の創造や地方自治の展開が欠かせないことになる。こうしたところに、その地域独自の住民自治の仕組みについて定めた自治基本条例制定のひとつの根拠がある。そして、前述のように、北海道ニセコ町の条例がその最初であった、ということである。なお、「自治基本条例」という名称の条例は、東京都杉並区のそれ(2002年12月制定、2003年5月施行)が最初で、その後は「まちづくり条例」よりはむしろ「自治基本条例」の方が多数となっている。
ここで、自己決定・自己責任の考え方に関して加筆しておきたい。そのひとつは、自己決定は、その結果の影響を受ける者が決定を下すべきである。自己決定は最大限、尊重されなければならない。自己決定には自己責任が伴う。ただし、自己責任には限界がある。また、責任を強く求めたり、責任を回避あるいは転嫁することは許されない、ということである。いまひとつは、すべての住民(市民)に自己決定の要求や能力が備わっているわけではない。また、住民(市民)は、すべての問題に対して正しい認識や判断ができ、それに基づく行動がとれるわけではない、ということである。このように考えたときにまず求められるのは、実践や運動としてであれ、制度としてであれ、住民(市民)の「参加」(参集、参与、参画)と「協働」(共働)、それに「学習」(教育)である。そして、それらのための仕掛けと仕組みである。自治基本条例とその制定に関して留意すべき点である。
さて、冒頭に記した自民党のパンフレットは、「自治基本条例の制定そのものに、問題があるわけではありません」としている。それもそのはずである。地方分権改革に積極的に取り組んできたのは、ほかならぬ自民党政府だからである。しかし、パンフレットの表紙では、「注意! 自治基本条例によって、○住民生活に本当に役立つか、○住民間の対立をかえってあおることはないか、○地方行政の仕事を妨げ、議会の否定にならないか、○特定団体に地方行政をコントロールされることはないかなど、注意しなければならない点が多数あります」と記している。一見穏やかないい回しであるが、「本来のあるべき姿とは異なる偏った自治基本条例が増えてきている」として、本文では、自治基本条例の制定をめぐっていくつかの点について批判している。その主な論点は次の3点であろうか。(1) 国→都道府県→市区町村という上下方向(上意下達)に、国が地方自治体を支配・統制する国家統治の考えと、主権には憲法が規定する国民主権と国際社会における国家主権しか存在しないという考えに基づく批判、(2) 外国籍住民や子どもなども意見を表明し、まちづくりに参加する権利が認められることは、過度な権利主張を招き、とりわけ外国籍住民については地方参政権の付与に繋がるのではないかという警戒心、(3) 条例の構成や内容がパターン化しており、それは「国家の概念を否定し、個人やグループの存在と発言に重きを置く」特定の考え方(「イデオロギー」)に基づいた「組織的な動き」によるのではないかという疑心暗鬼。すなわちこれである。(1) については「分権型社会」や「シティズンシップ」、(2) については「意見表明権」や「ソーシャルインクルージョン」、(3) については「直接民主主義」や「熟議と参加のデモクラシー」等々の言葉を思い起こすだけで、反論するには十分である。要するに、パンフレットの内容は「不審」と「不信」(2つの「フシン」)に基づく何ものでもない、と断ぜざるを得ない。
なお、(3) について加筆すると、パンフレットの記述内容は、要するに松下圭一(法政大学名誉教授)の、国家統治を批判する「市民自治」の政治学に異を唱える立場からのものである。すなわち、そこでは、多くの自治基本条例は「市民」中心の「補完性の原理」と「複数(政府)信託論」が反映されており、「国家の否定が根底にある」とする。いうまでもなく、市区町村は都道府県や国の下請け機関ではなく、地方と国の関係は補完性の原理(principle of subsidiarity)に基づくものである。また、議員内閣制と二元代表制という仕組みの違いはあるものの、市民(国民)は国政への信託(the trust of citizen on the government)だけでなく、都道府県や市区町村(首長と議会)に対しても信託(選挙と納税)を行っている。さらに、阪神淡路大震災(1995年1月)を契機に、ボランティアやNPОなどの市民活動が広がりを見せ、地域の課題は住民自らが解決していこうとする意識(地域やまちづくりへの関心、自治意識)が高まっている。それは、東日本大震災(2011年3月)に際して、より顕著になっている。こうしたことだけを考えてみても、パンフレットの内容は、理論的でもまた現実的でもなく、説得力のある論拠が欠けているといわざるを得ない。自治基本条例の動向や内容に批判的見解を展開するパンフレットが発行された後も、例えば2012年4月から2013年4月までの間に、32の市町で自治基本条例が制定・施行されていることはその証左である。
ところで、筆者(阪野)は、昨年の12月から、S市の自治基本条例策定審議会の委員(公募委員)として策定のための審議に参加している。審議会は、公募委員が17名、公共的団体等の推薦による委員が10名、そして学識経験者が3名、計30名の委員で構成されている。これまで、グループ討議を中心にした審議会が5回開催され、筆者はそこから多くの気づきと学びを得ている。まさに、審議への参加の過程が学びの過程である。それらを踏まえた、現段階におけるとりあえずの条例私案の一部を、以下に記すことにする。
なお、審議会ではまだそこまで至っていないが、S市の総合計画と自治基本条例との相互関連性について十分に討議する必要がある。“車の両輪の関係”にある総合計画と自治基本条例が相俟ってはじめて、S市独自の住民自治の仕組みが創設されるのである。留意しておきたい。

1 前文
S市は、日本の○○○に位置し、豊かな自然や積み重ねられた歴史、育まれてきた文化など貴重な地域資源にあふれた、○○○のまちとして発展してきました。
わたしたちは、先人から受け継いだこのまちを次世代に引き継ぐとともに、安全・安心で、より豊かな地域生活を営むことができる持続可能な、しかも世界に開かれたまちを自らの手で創りあげます。
そのためには、年齢や性別、国籍などの違いを問わず、すべての市民一人ひとりの人権を尊 重し、人のつながりと地域の絆を大切にする必要があ ります。また、すべての市民一人ひとりが市政に関心を持ち、まちづくりについての理解を深め、関心を高めるとともに、その取り組みに主体的・積極的に参画することが求められます。それによってはじめて、市民が国際社会と直接向き合い、次世代につなげる「日本一しあわせなまちS市」づくりが可能となります。
わたしたちは、地方自治の本旨にのっとり、S市の自治の基本理念や原則、しくみなどを明らかにし、市民主権と市民自治の実現とその進展をめざすS市の最高規範として、この条例を定めます。
2 総則
(1)目的
この条例は、S市のまちづくりに関する基本的な理念並びに市民、議会及び行政の役割を明らかにすることにより、安全・安心で、豊かな地域生活を営むことができるまちを協働して創りあげ、市民主権の自治を実現することを目的とします。
(2)定義
④まちづくり 安全・安心で、豊かな地域生活を営むことができるように、市民、議会及び行政が取り組む一連の持続的な活動をいいます。
⑤協働 市民、議会及び行政が互いに尊重し、対等・平等な関係で協力及び連携することをいいます。
⑥自治 共生と協働の考え方のもとに市民自らが意思決定し、行動することをいいます。
(3)条例の位置付け
①市民、議会及び行政は、この条例は市の最高規範であることを認識し、この条例を誠実に遵守します。
②議会と行政は、他の条例、規則、計画等の制定及び改廃等にあたっては、この条例の趣旨を最大限に尊重するとともに、整合を図ります。
3 基本原則
市民、議会及び行政は、次の基本原則に従い、まちづくりを推進します。
①市民一人ひとりの基本的人権を最大限に尊重します。
②市民の価値観や生活観の違いを認め合い、対等な関係を築きます。
③相互に情報を積極的に提供し、十分な説明責任を果たし、共有します。
④主体的・自律的な意思と相互理解のもとに参画し、協働します。
⑤家庭・学校・地域の連携による教育力の向上を図ります。
⑥地域の豊かな自然や歴史、文化などの特性を活かします。
⑦平和と安全、そして福祉の新しい文化を創造します。
4 市民の権利と責務等
(1)市民の権利
①市民は、安全・安心で、豊かな地域生活を営む権利を有します。
②市民は、まちづくりに参画する権利を有します。
③市民は、議会及び行政が保有する情報を取得する権利を有します。
④市民は、生涯にわたり学習する権利を有します。
(2)市民の責務
市民は、まちづくりの担い手であることを自覚し、主体的・自律的な活動に取り組む責務を有します。ただし、市民は、活動に取り組まなかったことを理由として不利益を受けることはありません。
(3)事業者の役割
事業者は、社会的責任を自覚し、地域社会の発展に貢献します。
(4)子ども・青年の権利
①子ども・青年は、自分の意見を表明する権利を有します。
②子ども・青年は、まちづくりに参画する権利を有します。
③市民、議会及び行政は、子ども・青年を地域社会の一員として尊重し、その有する権利の実現と擁護を図ります。
○  市民活動センター
市は、市民が主体的・自律的に、協働して取り組むまちづくりを推進するために、市民活動センターの組織と機能及び活動内容等の整備充実を図ります。
市民活動センターでは、まちづくりに関係する市民や機関・組織・団体等との連携を図り、まちづくりのための、課題に応じたさまざまなプラットホームを形成します。
プラットホームでは、地域の課題についての相互学習や情報の共有、それに解決策・役割分担についての協議などを行い、課題解決を促します。

以上の私案で強調したい点のひとつは、住民(市民)の生涯にわたる学習権を主軸に据え、それを保障するための条件整備に関する内容をも含んだ条例にすべきである、ということである。それは、「まちづくりは人づくり、人づくりは教育づくり」という考えに基づいている。そして、まちづくりの主体形成とそれに基づく課題解決のための重要な拠点のひとつに、「市民活動センター」を位置づけるべきである、ということである。
ところで、これまでに制定された自治基本条例で、住民自治の理念を実質化するための「学習」(市民 (性) 教育、市民福祉教育)について明確に規定したものは、決して多くはない。そういうなかで、例えが次のような規定がある。

伊丹市まちづくり基本条例(2003年10月施行)
(情報の共有)
第6条 市は、市民の知る権利を尊重しなければならない。
(学習の機会の提供その他の支援)
第11条 市は、市民がまちづくりに関し理解を深めるために必要な学習の機会を設けるよう努めるものとする。
岐阜市住民自治基本条例(2007年4月施行)
(市民の権利及び役割)
第6条 市民は、市政に関して知る権利を有するとともに、広くまちづくりに参画する権利を有する。
2 市民は、自らまちづくりに関して学ぶ権利を有する。
新宿区自治基本条例(2011年4月施行)
(区民の権利)
第5条 区民は、区政に関する情報を知る権利を有する。
4 区民は、区の自治の担い手として、生涯にわたり学ぶ権利を有する。
丹波市自治基本条例(2012年4月施行)
(市民の権利)
第5条 市民は、年齢、性別、国籍、障がいのあるなし等にかかわらず一人ひとりが人間として尊重され、また、自治体における主権者として平等に市の施策や地域の自治活動、まちづくりに参加・参画する権利を持っています。
3 市民は、市政に関する情報を知り、これを得る権利を持っています。
4 市民は、自ら主体性を保ち豊かな生活と地域社会へ寄与するために、生涯にわたり学ぶ権利を持っています。

これらの規定からいえることは、学習権の保障には情報の提供と共有が必要である。市民主権・市民自治のまちづくりは、それに参加することのできる条件整備が図られ、参加の機会と手段が豊かであることによってのみ可能である、ということである。
自治基本条例の制定は、市民主権・市民自治を実現するための始めの一歩であり、条例の制定がその終わりではない。すべての住民(市民)が、条例により一層の理解と関心を深め、その必要に応じて改正し、より確かで豊かな条例にしていく。そのためには主体的・自律的な学習(市民 (性) 教育、市民福祉教育)が不可欠となる。いずれにしろ、自治基本条例を活かし、より内実の濃い住民自治の実現を図ることができるか否かは、一に住民(市民)のそれに対する理解と関心、そして参加にかかっているのである。ここで、この点を強調しておきたい。
最後に、「市民主権」について規定する、2、3の自治基本条例を紹介しておくことにする。「市政の主権者」「まちづくりの主体」など、その表現(用語)はまちまちである。

善通寺市自治基本条例(2005年10月施行)
前文
……地方分権時代を迎えた今こそ、市民主権という地方自治の原点に立ち返り、平等に情報を持ち合い、市政に参画することができる仕組みを設けることが必要です。市民、市、市議会はともに力を合わせて明日の善通寺を創造し、この仕組みを次世代に引き継いでいくこととします。……
平塚市自治基本条例(2006年10月施行)
(自治の基本理念)
第4条 市民は、まちづくりの主体です。
2 市政は、主権を有する市民の信託によるもので、議会及び市長はその信託にこたえます。
3 市は、国及び他の自治体と対等な立場で連携し、協力して共通する課題及び広域的な課題の解決を図ります。
多治見市市政基本条例(2007年2月施行)
(市民主権)
第2条 より良い地域社会の形成の主体は、市民です。
2 市民は、市政の主権者であり、より良い地域社会の形成の一部を市に信託します。
3 市民は、市政の主権者として、市の政策を定める権利があり、その利益は、市民が享受します。

参考文献
(1) 松下圭一『市民自治の憲法理論』(岩波新書)岩波書店、1975年。
(2) 松下圭一『日本の自治・分権』(岩波新書)岩波書店、1996年。
(3) 岡崎晴輝「市民自治と自己決定の理念」『政治研究』第52号、九州大学、2005年、1~23ページ。
(4) 中北浩爾「松下圭一と市民主義の成立」『立教法学』第86号、立教大学、2012年、94~108ページ。

付記
本拙稿は当初、「自治基本条例と市民福祉教育―駄々をこねる、やんちゃ坊主の2つの“フシン”―」というタイトルで「雑感」にアッフしようと書き始めましたが、引用の関係でやや長文になったことから、このカテゴリーにアップしました。

市民主権・市民自治と市民福祉教育

1995〈平成7〉年7月施行の地方分権推進法や2000〈平成12〉年4月施行の地方分権一括法などによって、地方分権改革が推進されている。それは、明治維新、戦後改革に次ぐ「第3の改革」ともいわれる。2011〈平成23〉年5月と8月、2013〈平成25〉年6月には、「地域の自主性及び自立性を高めるための改革の推進を図るための関係法律の整備に関する法律」(第1次一括法、第2次一括法、第3次一括法)が公布・施行された。こうした地方分権改革は、国から独立した地方公共団体が自らの権限と責任において、自主的・自発的な地方行政を行う「団体自治」の強化を求める。とともに、地域主権や住民(市民)主権の確立のもとで、住民(市民)主導・優位のまちづくりをめざす「住民自治」(「市民自治」)の推進を必要不可欠とする。
本論に先立ちここで、上述のうちから、ひとまず次の文言をめぐって若干のコメントを付しておきたい。「主権」とは、他に譲ることのできない、また他から侵されることのない最高の自己決定権。「住民」(residents)とは、県民や市・町・村民など、一定の行政区域に住んでいる人。「市民」(citizen)とは、市民社会や公共性などについての理解と関心のもとに、まちづくりへの主体的参加と協働を進めることができる人。「住民」は、生涯にわたる教育・学習によって、また相互交流や実践活動などを通して「市民」へと自己変革、自己変容する。「市民主権」「市民自治」は、単なる理想概念ではなく、未だ不完全であるが、未来に向かって実現せんとする規範概念。すなわちこれである。
さて、こんにち、国家統治から住民自治へ、ローカル・ガバメント(local government)からコミュニティ・ガバナンス(community governance)、ネイバーフッド・ガバナンス(neighborhood governance)への転換の必要性が指摘され、そのあり方が問われている。国家と国民、自治体(地方政府)と住民の関係は、これまでもっぱら、「支配者」対「被支配者」、「統治者」対「被統治者」という支配的・権力的関係、すなわち「上下の関係」にあった。1990年代以降、地方分権や地域主権が叫ばれ、その改革が推進されるなかで、時代状況は支配からの解放、権力かの自由、すなわち「対等・協力の関係」を求めている。まちづくりの主役である住民が地方政府や行政の運営に参加(参集、参与、参画)する、住民主導・住民優位の自治関係を形成する必要がある。自治体のあり方を決めるのは主権者としての住民一人ひとりであるという住民主権に基づいて、住民自治を充実、発展させていかなければならない。そして、地域社会の持続可能性を確保し、すべての住民にとって安全・安心で、豊かな地域社会の維持・再生を図らなければならない。いま、そうした状況と時期にある。
主権者としての「住民」を名実ともに住民自治の主体として位置づけ、「市民」へと形成、変容させるためには、自治体と住民との支配的・権力的関係を解放する。とともに、住民自らが、単なる行政サービスの顧客や、政治や行政の観客(「観客民主主義」)としてしか関与してこなかったという、これまでの意識の変革や状況からの脱却を図る必要がある。換言すれば、主権者としての住民が、その権利を能動的・積極的に行使することができる仕掛けと仕組みを創造、構築するとともに、一人ひとりの住民が、まちづくりへの参加について自発的・内発的に、主体的・能動的・自律的に意思決定し、行動することが肝要となる。
住民自治とは、平易にいいかえれば、「住民自らが考え、意思決定し、行動すること」である。その際、ある一定の地域を自分(自分たち)の「こと」や「もの」としてのみ考えることは、異質者や外部者を排除する排他主義を生み出す。共生や協働のない自治は、個人主義や利己主義を加速させ、社会的孤立を生む。留意すべき点である。
自治体(地方政府)の意思決定の主体は住民である。住民は、地域のありようを決定する主権者であり、主役である。また、自治体の政策立案・決定・実施は、自治体の首長や議員、行政職員などにその全てが委ねられがちであるが、それらには信託されている限りにおいてその役割や機能を果たすことが求められる。とりわけ、その地域なかでも近隣地域における個別具体的な諸問題や矛盾については、その解決や克服に向けて住民自らが主体的・積極的に、単独であるいは協働して政策を立案・決定し、実施することが必要かつ重要となる。そして、住民には、その自らの決定や行動を自由に実行することができるとともに、その結果については自己責任を負うことが求められる。自己責任の伴わない自治は、身勝手な利己主義や自己中心主義に陥る。これが「住民主権」や「住民自治」(「近隣自治」)の本義である。
ところで、地域の諸問題や矛盾について主体的・能動的・自律的に議論し、決定することができる住民(「市民」)は、果たしてどれほどいるのか。いわれるように、政治や行政、地域が抱える諸問題や矛盾、まちづくりなどに無知、無関心の住民は決して少なくない。その無知、無関心が、権利意識や役割(責務)意識の自覚を妨げている。とはいえ、そうした無知、無関心は必ずしも固定的・不変的なものではない。一人ひとりの住民は、生涯にわたる教育・学習によって意識変革や態度・行動の変容、自治意識や公共心の覚醒や醸成を期待することができる存在である。それも地域(近隣地域)における集団的実践としての参加と討議を通じて可能となる。参加デモクラシーと討議デモクラシーが要請され、その実質化が求められるところである。具体的には、民主的な参加と討議の“場づくり”からはじまり、住民自治のための住民の“意識づくり”、住民自治の推進に取り組むリーダー等の育成に向けた“人づくり”、そしてそれらを実現するための “仕掛けづくり”と“仕組みづくり”などが必要となる。
いうまでもなく、住民自治や近隣自治は、それ自体が目的ではない。それは、すべての住民にとって安全・安心で、豊かな地域社会の維持・再生を図るための手段である。住民自治や近隣自治の推進を図るに際して、手段の自己目的化に陥ることのないよう留意する必要がある。また、住民自治や近隣自治を実現するためには、希薄化した住民間の関係性を再生し、低下した住民間の連帯感や協働意識の醸成・向上を図る。とともに、近隣住民が抱える日常的な地域生活上の諸問題や矛盾に対する理解と関心、それらを解決するための具体的な実践活動や社会運動(市民運動)への主体的・能動的・自律的な参加を通して、地域社会の一員としての当事者(場合によっては、私事として受けとめる当事者性)意識や自治意識の醸成・向上を促す。これらが必要かつ重要となる。
なお、自治意識とは、地方自治や住民自治・近隣自治に関する知識や、自治運営についての関心や意見などをいう。それは、住民の地域・近隣に対する自覚と意識、日常的な地域生活上の必要と要求に支えられるものである。したがって、単なる知的理解だけでなく、具体的な実践や運動(「体験学習」)によって、その醸成・向上が図られることになる。その際、行政の透明性の確保と説明責任の遂行、行政からの住民に対する積極的な情報提供と住民との共有などが必要不可欠となる。
以上の諸点を福祉教育に関していうとすれば、「市民福祉教育」のあり方が問われるとともに、市民福祉教育を具体的に実践・展開する「場」や「機関」「組織」が求められることになる。そのひとつは、従来からの学校や社協、福祉施設、それに公民館などであるが、ここでは「市民活動センター」に注目しておきたい。その際の市民活動センターは、行政主導の市民活動「支援」センターではなく、行政や社協、NPO等の民間組織・団体などによって共同設置され、行政、社協、NPО、住民(市民)などによって共同運営されることが望ましい。そして、そこに、ひとつのプラットホームとして、「市民自治」「まちづくり」「福祉教育」などをキーワードにした「市民福祉教育推進プラットホーム」を形成し、福祉の(による)まちづくりのための市民活動・運動や協働活動の推進を図ることが期待される。そのプラットホーム(「横割りのゆるやかなネットワーク」)を開設・管理・運営するのは、行政、社協、学校、PTA、福祉施設、公民館、自治会・町内会、民生委員・児童委員、NPО・ボランティア団体、保健所、医師会、商工会議所・商工会などになろう。
最後に、イギリスの政治学者であるジェームズ・ブライス(James Bryce)が、その著『近代民主政治』(Modern Democracies,1921年)のなかでいった「地方自治は民主主義の学校である」ということばを思い起こしておきたい。地域の諸問題や矛盾に向き合い、地方自治の実践を展開するなかで民主主義を学ぶことができ、民主主義が育まれる、といった意味である。同様に、「福祉の(による)まちづくりは民主主義の学校である」ともいえようか。その点において、市民福祉教育は、真の自治と民主主義を確立するための教育活動である。
(小滝敏之『住民自治の視点と道程』公人社、2006年。小滝敏之『市民社会と近隣自治』公人社、2007年、等参照)

自己教育力と市民福祉教育

市民福祉教育は、福祉文化の創造や福祉の(による)まちづくりをめざして日常的な実践や運動に取り組む主体的・自律的な住民(市民)の育成を図るための教育活動である。市民福祉教育のこのような規定は、内実的には、子どもから大人まで、教育の全領域において、また生涯学習とのかかわりで「自己教育力」(self-directed learning、self-educational ability)の育成を必要とする。
自己教育力という言葉(概念)は、社会教育における基本的な概念のひとつである「自己教育」と同様に、多義的で、その解釈は多様であ。たとえば、稲川三郎は、その著『自己教育力を育てる指導の実際』(黎明書房、1985年)で、自己教育力とは、「字義的に解釈すれば、『自分が』『自分を』『教育する』『力』ということになる。あるいは、『自分で』『自分を』『教育することのできる』『力』ということになる。と言うと、『自分が自分を』『自分で自分を』というのであるから、同じひとりの自分の中に、『教育する自分』と、『教育される自分』とが、なければならないということになる」(70ページ)と述べている。稲川によるこの部分の説述については、平易で分かりやすいとはいえ、その本質すなわちその性格や内容などについて理解するには不十分であるといわざるを得ない。
ところで、学校教育の改善策のひとつとして自己教育力の育成を最初に提唱(政策提言)したのは、1980年代の中央教育審議会である。具体的には、第13期中央教育審議会に設置された「教育内容等小委員会」が、1983年11月にそれまでの審議結果を取りまとめた「審議経過報告」においてである。そこでは、「自己教育力とは、主体的に学ぶ意志、態度、能力などをいう」として、次の3点について説いている。(1)「自己教育力とは、まずもって、学習への意欲である。児童生徒に学習への動機を与え、学ぶことの楽しさや達成の喜びを体得させることが大切である」。(2)「自己教育力は、さらに学習の仕方の習得である。今後の社会の変化を考えると、将来の日常生活や職業生活において、何をどのように学ぶかという学習の仕方についての能力を身に付けることが大切である」。(3)「自己教育力は、これからの変化の激しい社会における生き方の問題にかかわるものである。特に中等教育の段階では、自己を生涯にわたって教育し続ける意志を形成することが求められている」(『文部時報』第1279号、ぎょうせい、1983年、32~33ページ)。すなわち、自己教育力は、(1)学習への意欲、(2)学習の仕方の習得、(3)生き方の探求(生涯にわたる自己教育の意志の形成)、の3つの構成要素からなる、というのである。
なお、この「『自己教育力』の育成」等の「報告」は、「答申」でないがゆえに、学習指導要領の改訂にはつながらなかった。また、自己教育力という言葉に関しては、教育内容等小委員会の報告が出される10年以上も前、1971年4月の社会教育審議会答申(「急激な社会構造の変化に対処する社会教育のあり方について」)のなかで、社会教育の基礎は「自発的な学習意欲」にあることが力説されている。中央教育審議会は、1981年6月に「生涯教育について」の答申を出すが、そこでは、「今日、変化の激しい社会にあって、人々は、自己の充実・啓発や生活の向上のため、適切かつ豊かな学習の機会を求めている。これらの学習は、各人が自発的意思に基づいて行うことを基本とするものであり、必要に応じ、自己に適した手段・方法は、これを自ら選んで、生涯を通じて行うものである。その意味では、これを生涯学習と呼ぶのがふさわしい」とされた。この点を付記しておく。
第13期の中央教育審議会教育内容等小委員会報告以降、自己教育力について述べているものに、1984年9月に内閣総理大臣(中曽根康弘)の諮問機関として設置された臨時教育審議会の答申がある。たとえば、1986年4月の第2次答申では、「初等中等教育の改革」に関する「教育内容の改善の基本方向」について、「初等中等教育においては、生涯にわたる人間形成の基礎を培うために必要な基礎的・基本的な内容の修得の徹底を図るとともに、社会の変化や発展のなかで自らが主体的に学ぶ意志、態度、能力等の自己教育力の育成を図る」と述べ、具体的には「創造力・思考力・判断力・表現力の育成」(『教育改革に関する答申(第一次~第四次)』大蔵省印刷局、1988年、87ページ)を重視している。また、同答申では、「これからの学習は、学校教育の自己完結的な考え方を脱却するとともに、学校教育においては自己教育力の育成を図り、その基盤の上に各人の自発的意思に基づき、必要に応じて、自己に適した手段・方法を自らの責任において自由に選択し、生涯を通じて行われるべきものである」(67ページ)。そのためには、「生涯学習を可能にし、促進し得るような社会の制度と慣行を生み出す学習社会の建設」(65ページ)をめざした、「生涯学習体系への移行」による「21世紀のための教育体系の再編成」が必要である、としている。
その後、第15期中央教育審議会が、1996年7月、「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」の第1次答申において、「ゆとり」のなかで「生きる力」を育むことを重視する、と提言した。その点に関して次のように述べている。「これからの子供たちに必要となるのは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性であると考えた。たくましく生きるための健康や体力が不可欠であることは言うまでもない。我々は、こうした資質や能力を、変化の激しいこれからの社会を『生きる力』と称することとし、これらをバランスよくはぐくんでいくことが重要であると考えた」。
次いで、2003年10月には、第2期中央教育審議会によって、「初等中等教育における当面の教育課程及び指導の充実・改善方策について」答申がなされた。そこでは、「生きる力」を知の側面から捉えた「確かな学力」の育成を進めるべきであることの考え方が示された。そして、「子どもたちに求められる学力としての『確かな学力』とは,知識や技能はもちろんのこと,これに加えて,学ぶ意欲や,自分で課題を見付け,自ら学び,主体的に判断し,行動し,よりよく問題を解決する資質や能力等までを含めたものであり,これを個性を生かす教育の中ではぐくむことが肝要である」と述べている。
「自己教育力」は、およそ以上のような答申や報告に基づく教育施策の歴史的変遷のなかで、今日の学校教育におけるひとつの鍵概念である「生きる力」や「確かな学力」などに包含される重要な能力として位置づけられている、といえよう。なお、発表(発行)の時期は前後するが、ここで、当時日本教育新聞編集局長であった有園格の次の論説に留意しておきたい。「自己教育力のとらえ方、考え方にはさまざまな解釈、論理の展開がみられる。しかしこれは自己教育力を人間の基本的な諸能力、価値志向、生き方の探究などを包括した統合概念として位置づけてきたからである。だからといって統合概念としての自己教育力の位置づけが間違っているとはいえないし、むしろ人間の問題を統合的にとらえる教育観および教育実践の目を育てることに役立つものと考える」(「教育改革論議と自己教育力」北尾倫彦編集『自己教育力を考える』(別冊指導と評価2)日本図書文化協会/図書文化社、1987年、18ページ)。
ここで、自己教育(力)に関するひとつの言説を紹介しておくことにする。今日おいてもしばしば引用あるいは援用される、梶田叡一のそれである。
梶田は、その著『自己教育への教育』(明治図書、1985年)で、「教師によって、またその学校での教育によって、教えられ育まれてきたものを土台として、自分自身でさらに学び、成長し続けることができるかどうかということ」、すなわち「自己教育の力を育てるということは、学校教育の持つ本質的な使命である。いや、教育という営みの全てが持つ本質的な使命と言ってもよい」(11ページ)。「自己教育とは、結局のところ、その人の生き方の問題にほかならない。(中略)自らの接するところ体験するところのすべてを、自己の認識の拡大深化のための糧とし、自己成長のためのきっかけとする、というのが自己教育である」(49、52ページ)と説いている。そして、自己教育への構えや意欲、そのための技能(「自己教育の構えと力」)を意味する「自己教育性」は、次の4つの側面が特に重要な意義をもつと考える。(1)成長・発達への志向、(2)自己の対象化と統制(コントロール)、(3)学習の技能と基盤、(4)自信・プライド・安定性、がそれである。それぞれについて、梶田は、(1)は、自分なりの「ねがい」(長期的な目標)と「ねらい」(当面の目標や課題)、そして「やる気」(達成と向上の意欲)をもって、自己の成長・発達をめざす力、(2)は、自分自身の現状や課題、可能性などについて認識、評価し、自分自身をコントロールして一定の方向へ向けていく力、(3)は、基礎的・基本的な学力(知識、理解、技能)と、それに基づく学び方の能力(知識、技能)、(4)は、以上の3つの側面を支える、自分なりの自信とプライド、そしてそれに支えられた心理的な安定性、であると述べ、自己教育力はこうした4つの側面から構成されるとしている(36~53ページ)。
以上から、ここで、論拠が不十分であることは承知のうえで、市民福祉教育のひとつの鍵概念となる自己教育力についての管見を述べておくことにする。
その要点は、自己教育力は学習への意欲の形成や学習の仕方の習得などとして狭く捉えるべきではない。自己教育力は、学校教育においてのみ育成されるものではない。それは、稲川がいう「自分が自分を」「自分で自分を」教育する力だけではなく、他者や、自分を取り巻く社会的状況や文化的環境、自分のライフステージやライフスタイルなどによって影響される。すなわち、自己教育力は、生涯にわたって自発的に学ぶ意欲(欲求と意志)や姿勢をもって、地域・社会の新たな変化や問題状況に主体的かつ積極的に対応し、自分ひとりであるいは他者と協働しながら、課題解決を自律的・能動的に図るために必要な能力である。それは、自らの生き方について、自省しながら是正・改善し、よりよい生き方を創造していく能力でもある。そういう点において、自己教育力は、「自己学習」「自己形成」「自己啓発」「自己統制」「自己陶冶」「自己実現」等々の概念を統合したものである。そしてそれは、福祉の(による)まちづくりにつながり、またつなげなければならない重要な概念である、といえよう。市民福祉教育は、こうした自己教育力をいかに育成し、その伸長を図るかが問われるのである。
なお、自己教育力に似た言葉に「自己学習力」がある。それは、知識や情報などを対象に、単に自分でそれらを学び、身につれる力を意味する。自己学習力は、自己教育力とは異なり、自らの「生き方」の問題やよりよい価値の創造を含まない言葉(概念)である。付記しておく。

福祉の心と市民福祉教育

市民福祉教育に関するキーワードのひとつに、「福祉の心」「思いやりの心」がある。
谷川和昭(関西福祉大学)は、「福祉の心という言葉が使われるようになったのは1970年代に入ってからである」が、未だ「福祉の心とは何であるかが不明瞭であり、学問的には未確立」である。「福祉の心の構造」を明らかにする必要がある、という(谷川和昭「福祉人材養成と福祉の心」『社会事業研究』第48号、日本社会事業大学社会福祉学会、2009年、153~157ページ)。
谷川は、「福祉の心」について論述するなかで、辞典に書かれた「福祉の心」の定義として次の3点を挙げている。
阿部志郎:「社会的条件に恵まれないマイノリティの人々と、人格的にふれあい、自己も他者も、すなわち、相互に変革される温かい人間的態度と、福祉問題を生み出す社会に福祉の本質を問い、福祉社会を創造していく共同の社会的努力を育てる豊かな人間の意志と情念を指している。」(京極高宣監修『現代福祉学レキシコン』雄山閣出版、1993年、128ページ)。
京極高宣:「社会的条件に恵まれない人々(クライエント)やその周辺の人々と人格的にふれあい、思いやりの態度をもってそれらの人々と共に生きようという社会連帯の意志と情念をいう。」(京極高宣『社会福祉学小辞典』ミネルヴァ書房、2000年、144ページ)。
阪野貢:「個人の尊厳と人権の尊重を前提にした思いやり、優しさ、いたわり等の豊かな人間性のもとに培われた福祉意識。」(硯川眞旬監修『国民福祉辞典』金芳堂、2003年、355ページ)。
そして、谷川自身は、福祉臨床(対人援助の実践)との関わりで、「福祉の心」とは「他者の問題を冷たく他人事として見過ごさないで、自分の問題として捉える態度であり、しかも個人的な心情を抑えて、社会のあらゆる資源を活用しながら、危機状態にある人の人生の再建のために力を貸していこうとする姿勢である。」(秋山博介・ほか編『臨床に必要な社会福祉援助技術演習』弘文堂、2007年、188ページ)と定義づけている。
なお、「思いやり」という言葉について付言すれば、『広辞苑』(第6版、岩波書店、2008年)では、「自分の身に比べて人の身について思うこと。相手の立場や気持を理解しようとする心。同情。」と記されている。また、『大辞林』(第3版、三省堂、2006年)では「その人の身になって考えること。察して気遣うこと。同情。」、『大辞泉』(第1版、小学館、1995年)では「他人の身の上や心情に心を配ること。また、その気持ち。同情。」となっている。

さて、以下に、「『福祉の心』の育成と福祉教育」と題する筆者(阪野)のかつての拙稿に若干の加筆・訂正を施したものを記述する。基本的な考え方は、今日においても何ら変わってはいない(阪野貢『福祉教育の創造―視点と論点―』相川書房、1989年、32~34ページ)。

「福祉の心」という言葉が登場し、頻繁に使われるようになるのは、高度経済成長のひずみが露呈し、日本経済がいわゆる低成長時代に突入してからのことに属する。年代的には昭和50年前後以降のことである。しかも、その言葉は、実にいろいろな意味で使われる。例えば、社会福祉の改革を押し進めるための手段として、住民の福祉意識やボランタリズムをあらわすものとして、あるいは金(かね)や物(もの)の福祉に代わって心の福祉を説く際に、「福祉の心」という言葉が使われる。
福祉教育の領域においては、人間の倫理的・道徳的な生き方との関わりで「福祉の心」という言葉が使われることが多い。しかし、その際、「福祉の心」を精神主義的・道徳主義的に過度に強調することは、福祉教育についての考え方やその実践・運動を歪めることにもなる。福祉教育は、観念的な「福祉の心」教育でもなければ、第2の「道徳」教育でもない。必要かつ重要なのは、「福祉の心」そのものの構造的究明と、「福祉の心」が不足あるいは欠如し、いまその育成が強調される社会的・経済的・政治的・文化的背景についての理解、それに「福祉の心」の育成・高揚方策についての具体的検討である。
福祉教育は、「福祉の心」すなわち「自立」と「連帯」の精神を支える心を育成し、自立と連帯の地域づくりすなわち福祉の(による)まちづくりをめざす教育実践である。
ここでいう「自立」(自立心、自立行動)とは、一面では、(1)人間の成長発達・社会化の過程を意味する。他面では、(2)一人ひとりが、生活のあらゆる側面において生き生きと・快適に・充実感をもってその人らしく主体的・能動的・自律的に生きぬく努力をすること、すなわち“自分を生きぬく”努力をすることを意味する。前者の自立(1)の過程は、一般的には、身体的自立→生活身辺的自立→精神的自立→職業的自立→経済的自立→政治的自立→社会的自立という段階を経る。子どもの自立の発達にとっては、青年期の前期(中学生)から中期(高校生)にかけての時期が重要である。この時期、子どもは、自我を発見し、自己をみつめも、内省し、人生観や社会観を形成し、精神的自立を促すのである。後者の自立(2)は、自己を知り、自己を磨き、自己を育て、そして自己を創りあげていく努力をすることを意味する。すなわち“自己実現”“自己創造”“自己超越”に向けての自立である。それによって、他人に共感し、他人を思いやり、他人と助け合い、人と人との連帯を強めることになる。
福祉教育でいう自立は、前者(1)の個人の生涯にわたる自立、時系列的な垂直的次元(タテ)における自立と、後者(2)の個人の生活全体にわたる自立、日常生活領域での横の広がり・水平的次元(ヨコ)におけるそれとの統合としてとらえることが大切である。
「福祉の心」を支えるもうひとつの要素は「連帯」である。連帯の中核的・本質的部分をなすものは、「思いやり」(思いやりの心、思いやり行動)である。思いやりは、上述の『広辞苑』等が記すように、同情共感の行為であり、それは“愛”に通じるものである。また、人間の基本的で普遍的な感情であり、人間だけがもつ独特の感情的体験(「人間的体験」E.フロム、作田啓一・ほか訳『希望の革命』紀伊国屋書店、1969年)であるともいわれる。
思いやりの心とは、外的な物質的・社会的報酬を期待することなく、また自己の犠牲や損失をも顧みず、他人の利益や福祉のために自発的に行動する心をいう。思いやりの心を刺激・覚醒し、思いやり行動を喚起し、その方向や内容を規定する要因として、「認知」、「共感」、それに「受容」を考えることができる。認知とは、他人の思考や感情の状態を正しくとらえ、知ることである。共感とは、他人の気持ちをくみとること、つまり他人の喜びや悲しみといった感情の状態を自己のものとして経験することである。受容とは、他人の思考や態度・行動など、いいかえれば他人のあるがままの姿をそのままに認め、受け入れることである。
思いやり行動には、養護、協力、協同、奉仕、分与、寄付、援助、救助、犠牲など、さまざまなタイプの行動がある。また、車内で席を譲るといったものから血液や臓器の一部を寄付するといったものまで、いくつかのレベルがある。こうした思いやり行動は、学習されるものである。また、その行動を行う本人に満足感や充実感、快感を与え、それがさらに次の思いやり行動を動機づけ、方向づけることになる。
「自立」と「連帯」はともに、基本的人権や自他の人格を尊重することを基盤とする心情であり、態度・行動である。また、両者は、環境との相互作用のなかで学習されるものであり、「自立なくして連帯はなく、連帯なくして自立はない」という関係にある。しかし、最近、連帯に比して自立が社会的に強要され、自立についての個人的責任が過度に強調される傾向にある。それは、個人主義的な考えを重視することになり、一面では他者への無関心を醸成するとともに、社会的責任をどこかに押しやることにもなる。自立は、権利意識や社会的連帯、公的責任に支えられたものでないと偏狭な個人主義へと陥ることになる。 要するに、自立のない連帯は、仲間同士の単なる「慰安」にとどまる。連帯のない自立は、仲間や地域からの「孤立」を産む。それはまた利己主義に繋がる。留意すべき点である。
福祉教育は、歴史的・社会的存在である地域の社会福祉問題を素材として体験的に学習する。福祉教育は、とりわけ社会福祉問題をその日常生活において個別具体的に抱える高齢者や障がい者などとの交流・援助活動などを通して、「福祉の心」の育成を図るところにひとつの特色をもつ教育実践である。最近、時として、福祉教育が内包する権利性や社会性、それに歴史性などが軽視あるいは無視されることがあり、精神主義への偏向が促進されてきている。すなわち、人間の生き方という道徳面に力点がおかれ、福祉文化の創造や福祉の(による)まちづくりを推進する主体的・能動的・自律的な住民・市民の育成を図るのではなく、社会や国家に尽くす従順で御しやすい人間づくり(主体形成)が福祉教育の名のもとで進められてもいる。福祉教育の生活道徳化、社会道徳化、公民道徳化である。いま、福祉教育の空洞化を阻止するためにも、また筆者がいう市民福祉教育を構築し、その推進を図るためにも、福祉教育の原点を再確認するなかで「福祉の心の構造」(谷川)について科学的・理論的・実証的に考究することが強く求められよう。
なお、福祉教育実践における障害の疑似体験や高齢者などとの交流・援助活動は、その展開の仕方によっては「思いやりの心」の育成ではなく、上から下への一方向的な「思い上がりの心」を抱かせることにもなる。最後にあえて付記しておきたい。

福祉教育サポーターと市民福祉教育

学校における福祉教育実践のプログラムとしてしばしば採りあげられるものに、「障害」の疑似体験や「障がい者」との交流活動がある。
前者については、車椅子やアイマスクなどが使われる。その際、障害理解にとどまらず、障がい者理解や障がい者の生活理解、さらには障がい者もその構成員である地域社会についての理解をすすめる。そして、それを通して人間を全人的にとらえ、人間の尊厳すなわち個々の人間の「実存」(よりよく生きる存在)に価値を見いだす。こうしたプログラムが準備されることは必ずしも多くない。
後者のひとつに、「あきらかにその姿や言動が自分たちとは違う障がい害」「障害を乗り越えて、いきいきと暮らす障がい者」との交流がある。そもそも「違う」こと(異質)はいけないのか、また障害は「乗り越え」(克服)なければならないのか。乗り越えなければならないバリアフルな考え方をもち、そうした社会や文化をつくっているのは誰か。こうした点を追究するプログラムは必ずしも多くない。
また、交流に際して、いまなおWHO(世界保健機関)のICIDH(国際障害分類、1980年)の考え方に基づいて障害や障がい者を捉えがちである。機能障害(Impairment)→能力障害(Disability)→社会的不利(Handicap)、がそれである。それに変わって、ICF(国際生活機能分類、2001年)の考え方に基づいて、個々の障がい者の生活にかかわる環境因子(Environmental Factors)や個人因子(Personal Factors)を重視する。そして、「何ができないか」よりも「何ができるか」というポジティブな側面に注目して、障がい者がいかに「活動」(Activities)、「参加」(Participation)しているかを考える。こうした福祉教育実践プログラムは、いまだ十分に開発・実施されているとはいえない。
福祉教育に関するキーワードのひとつである「共生」は、異質と同一、挫折と克服、受動と能動、そしていわれるように依存と自立、他律と自律、分離と統合、排除と包摂など、それぞれの相互関連性において成立する、といってよい。
学校福祉教育、しかも筆者(阪野)がいう市民福祉教育の一環としてのそれを実践する際に、障がい者をその客体や教材として位置づけることは許されない。市民福祉教育のねらいを達成するためには、障がい者をいわゆる「福祉教育サポーター」として位置づけ、ときには障がい者自身がプランナーやコーディネーター、ファシリテーターとしての機能や役割を果たすことができるプログラムが求められる。本稿では、福祉教育サポーターとしての障がい者のあり方をめぐって、以下の諸点を指摘しておくことにする。

(1)学校における福祉教育の指導者はあくまでも教師である。福祉教育サポーターとしての障がい者(以下、「社会人講師」と同じようなニュアンスで「障がい者講師」という。)は、教師との連携・共働のもとに直接的・間接的に子どもを指導・助言・援助する。また、ときには子どもと教師の間にあって意思の疎通を図ったり、子どもの理解や関心の程度に応じて個別的に対応するなどして、教育効果を高める役割を果たすことが期待される。
(2)障がい者講師による福祉教育実践は、障害や障がい者に対する理解と関心を広め、深めることにとどまるものではない。子どもや教師が、それを通して地域社会に関する関心と愛着をもち、障がい者らとともに偏見や差別のない福祉文化の創造や福祉の(による)まちづくりのための実践や運動に参加するのを促すものでなければならない。
(3)障がい者講師が自己の経験や知識・能力などを活かして子どもの指導・助言・援助にあたることは、自己の経験や知識をさらに豊かなものにする。とともに、生きがいの創造や社会参加・地域貢献の促進を図ることになる。すなわち、障がい者講師による福祉教育実践活動は、それ自体がそのまま自己表現や自己実現、さらには社会還元の活動でもある。
(4)障がい者講師による福祉教育実践活動が、豊かなあるいは特異な「社会経験」や、得意分野のある意味では専門的で個別的な「知識や情報」を単に子どもに伝えるだけでは、福祉教育の進展にはつながらない。障がい者講師には、福祉教育の意義と必要性についての基礎的理解をはじめ、子どもの学習関心や意欲・能力などを発展させるための指導者としての資質や基礎能力などの育成・向上を図ることが必要不可欠となる。
(5)障がい者講師を、豊かな経験や個別専門的な知識・技能を有する特定の者に限定することは、指導の「地域性」(地域性を活かした指導)の定着を困難にする。とともに、ときには「障害」「障がい者」「障がい者の生活」理解を差別的・慈善的なものにし、障がい者に対する偏見や差別を助長することにもなる。特筆すべき個別的な経験も知識・技能ももたない、その地域に暮らすいわゆる一般の障がい者をも視野に入れ、指導者としての確保と養成・研修を図ることが肝要となる。それによって、地域に根づいた、その地域ならではの確かな福祉観を体得することができる福祉教育実践の展開が可能となる。
(6)福祉教育実践を計画的・組織的・継続的に展開するためには、障がい者講師の組織化を図ることが必要となる。障がい者講師集団の結成は、障がい者同士の仲間意識や連帯感を生み、福祉文化の創造や福祉の(による)まちづくりへの連携・共働活動を促すことにもなる。また、障がい者講師の教育活動は、その障がい者講師が所属し、日頃活動する障がい者団体・グループの事業・活動との関連において展開されることが肝要となる。それによって、その教育活動がそれだけにとどまるのではなく、それを通して障がい者団体・グループの事業・活動の活性化を促すことが期待される。
(7)障がい者講師の指導者としての質・量の確保と有効活用を図るためには、人材の発掘、養成・研修、活用、そして評価という一連のプロセスが統一的・総合的に推進されなければならない。しかも、人材の発掘から活用を総合的に進めるためには、人材バンクの設置が必要かつ重要となる。また、評価を通して人材登録を行い、一定の研修を義務づけることによって、豊かな福祉教育実践の展開を促すことになる。そうした役割は、当面、社会福祉協議会や「市民活動センター」に期待されようか。

“確か”で“豊か”な市民福祉教育の推進を図るためには、本稿で採りあげた「福祉教育サポーター」の制度化が求められる。その際には、国や大学・民間団体等で取り組まれている「教育サポーター」制度がひとつの参考になろう。それに関する調査研究のひとつに、文部科学省の委託を受けて日本システム開発研究所が実施した「団塊世代等社会参加促進のための調査研究」がある。その『報告書』(2008年3月)では、教育サポーター制度を「学校や社会教育施設など教育関係機関において講師や指導者として、あるいは施設職員の補助として他者の教育活動を支援する人材を登録・派遣する制度」と定義づけている。また、神戸市では、2007〈平成19〉年度からユニバーサル社会の実現に向けて、「こうべUD大学」を開講し、「こうべUDサポーター」の養成を図っている。岐阜県可児市にあるNPO法人「NPOなんでもサポートセンター岐阜」では、2011〈平成23〉年5月に「岐阜コミュニティ創造大学」を設立し、「地域再生のため、新しい公共を担うリーダー」たり得る「コミュニティ創造士」(Community Creative Planner=CCP)の養成に取り組んでいる。これらも参考になろう。

「協同実践」と市民福祉教育

「地域福祉は、福祉教育ではじまり、福祉教育でおわる」といわれる。
その「福祉教育」について、2004〈平成16〉年9月に全社協に設けられた「社会福祉協議会における福祉教育推進検討委員会」(委員長・大橋謙策)の『報告書』(2005〈平成17〉年11月発行)は、「地域福祉を推進するための福祉教育とは、平和と人権を基盤にした市民社会の担い手として、社会福祉について協同で学びあい、地域における共生の文化を創造する総合的な活動である」と定義している。この定義におけるキーワードのひとつは、「協同で学びあう」ことと「共生の文化」であろう。
『報告書』は、「協同で学びあう」とは、「一方的に誰かが誰かに教えるのではありません。さまざまな立場の住民が、お互いに議論し、研鑽しあうなかで、相互に気づきあうことが重要です。そのためにはフォーマルな学びの場だけではなく、たとえば日常の活動のなかにある学び(インフォーマルな側面)が大切にされる必要があります。つまり地域福祉を推進する福祉教育とは、地域のなかで教える場をつくることだけではなく、学ぶ活動を豊かにしていくことです。このことを意図した福祉教育の実践方法を『協同実践』といいます」(『報告書』、8ページ)。「共生の文化」とは、「一人ひとりのいのち(存在)が大切にされ、お互いがそれぞれの違いと存在を認めあい、何人も排除されることなく、豊かに共に生きていくことができる地域社会を創造することに価値をおき、重視する文化のこと」(『報告書』、9ページ)、と説いている。
ここで、『報告書』がいう「学びの場」に関して、P・H・クームス(P.H.Coombs)がWorld Educational Crisis,1968(『世界の教育危機』)において、教育の形態を大きく次の3つに分けていることを確認しておくことにする。①定型教育(formal):制度化された学校において、構造化されたカリキュラムに基づいて教師と生徒の関係によって展開される教育活動。学校型教育。②不定型教育(non-formal):定型教育(学校型教育=学校の教育課程として行われる教育活動)の外部において、一定の学習者に対して、ある学習目的を達成するために意図的・組織的に行われる教育活動。日本の「社会教育」に極めて類似した概念である。③非定型教育(informal):日常的な生活経験(体験)や環境によって、知識や技能などを習得する無意図的・非組織的な教育。家庭・職場・遊び場等での学びや、テレビの視聴による学びなどがそれである。福祉教育とりわけ筆者(阪野)がいう市民福祉教育は、この3つの形態の教育・学習のすべてを包摂する総合的、統一的な展開が図られなければならないことはいうまでもない。また、「共生の文化」について『報告書』は、「一人ひとりのいのち(存在)が大切にされ、お互いがそれぞれの違いと存在を認めあい、‥‥‥」(下線は阪野)と述べる。「共生の文化」は、そうした「存在」にとどまらず、一人ひとりが、そしてお互いが自分のいのちを、いま、“よりよく生きる”という「実存」を含意する、と理解したい。そうした実存を否定、排除しないのが「共生の文化」である。
さて、本稿では、福祉教育の推進方法のひとつとされる「協同実践」(cooperation)について考える。
そこで先ず、用語について述べることにする。『広辞苑』(第6版、岩波書店、2008年)をみると、「協同」とは「ともに心と力をあわせ、助けあって仕事をすること。協心」とある。類似・関連する言葉に「共同」「協働」「共働」などがある。「共同」とは「二人以上の者が力を合わせること。『協同』と同義に用いることがある。二人以上の者が同一の資格でかかわること」、「協働」とは「協力して働くこと」、さらに「共働」については「相互作用に同じ」とし、「相互作用」とは「互いに働きかけること。二個または二個以上の事物・現象が相互に作用しあって原因となり結果となること。交互作用」と説明されている。いずれにしろ、協同は、2人以上の者が心をあわせ、助け合いながらことを行う場合に用いられる言葉であるといえよう。
ここで、「協働」という言葉について付言しておくことにする。「協働」は、アメリカのインディアナ大学の政治学者であるヴィンセント・オストロム(Vincent Ostrom)が1977年に刊行した著作―Comparing Urban Service Delivery Systems(『都市サービスの配達システムの比較』)のなかで、「地域住民と自治体職員とが共同して自治体政府の役割を果たすこと」を意味する言葉としてcoproduction(co「共に」、production「つくる」)という造語を用いたことを起源とする、といわれている。日本で最初にcoproduction理論が紹介されたのは、1985〈昭和60〉年12月の荒木昭次郎の論文(「公的サービスの協同生産理論モデル―その実際的適用への批判的分析と評価―」『季刊行政管理研究』第32号、行政管理研究センター、1985年、30~41ページ)においてである、といわれる。荒木は、そのなかで、「公と私のパートナーシップ」に関して「市民と市職員との協働的活動」という言葉を使っている。次いで、荒木は、1990〈平成2〉年10月、『参加と協働―新しい市民=行政関係の創造―』(ぎょうせい)を出版し、コプロダクション理論について論述する。
「協働」に関する英語は、こんにち、coproductionとは違ったcooperationやcollaboration、あるいはpartnershipなどといった言葉が用いられている。その訳語としてあてられる日本語もまちまちである。また、行政と市民の連携・「協働」が叫ばれるなかで、「行政活動を市民が補完・代替する」こと、「市民活動を行政が補完・代替する」ことが問われている。とともに、一面では「協働」という名のもとで行政の「下請け化」が進行しているともいわれる。留意しておきたい点である。
ところで、福祉教育に関して「協同実践」という言葉・概念を最初に使ったのは原田正樹である。原田は、最近の論稿で、協同実践について次のように解説している。「福祉教育に関する一連の実践を担当者個人が担うのではなく、プロセスそのものを、複数の人間が互いにかかわり合いながら進めていくという実践方法である。(中略)さまざまな立場のメンバーがかかわりながら実践をつくり上げていくのである。実は、この異なったスタッフ同士で企画をすることから、すでにスタッフ間の『学び』が始まる。この学び合いを大切にしながら進められるプログラムでは、参加者相互の学びが大切にされる。この双方向的な『学び合う関係性』を大切にした実践の方法が『協同実践』の特徴である」(岩間伸之・原田正樹『地域福祉援助をつかむ』有斐閣、2012年、199~200ページ)。
要するに、福祉教育でいう協同実践とは、複数の人間(住民、市民)が地域の社会福祉問題について共有化・共通認識し、それぞれの立場の違いを大切にしながら、問題解決に向けての、双方向的な「学び合う関係性」「学びの関係づくり」(原田)を大切にした実践方法である、と理解できよう。しかし、協同実践の構造や性質をはじめ協同実践が生みだす効果やそれを成功させるための方法や条件などについては、これまで必ずしも理論的かつ具体的に言及・議論されてきたとはいえない。協同実践の方法やその研究をめぐっては、たとえば次のような疑問や課題が残る。

(1)協同実践の展開によってグループのメンバー間により親密な人間関係が形成され、 より高いレベルの積極的・主体的な活動が新たに生みだされたことをもって協同実践に特有の効果とみなすのか。
(2)協同実践ではグループの大きさやメンバーの多様性はどの程度が効果的なのか。
(3)協同実践の効果は一時的なグループにおいては現れにくいであろうが、効果を生むためのグループの継続性や凝集性についてはどう考えるか。
(4)協同実践にはさまざまな協同のレベル(同調、協調など)が存在するであろうが、それぞれのレベルに対応した相互活動はどうあるべきか。
(5)協同実践では個々のメンバーが強い主体性をもつことを認めないのか。あるいはどの範囲や程度までメンバー個々人の主体的活動を認めるのか。
(6)協同実践の展開過程におけるメンバー間の相互作用のダイナ ミックスについてどう考えるか。
(7)協同実践において生起するであろう離合集散についてどう考え、対応するか。
(8)協同実践に必要な専門的技能(対人技能、集団技能など)とは何か。メンバーはその技能をどのように習得するか。
(9)協同実践には複数の人間がかかわり、またそれゆえに意見の調整などに多くの時間と労力を要する傾向にあることを考えると、必ずしも単独実践に比べて協同実践が効果的な実践方法であるとはいいきれない。問題の種類や内容によっては単独実践の方が効果的な場合もある。この点についてはどう考えるか。
(10)協同実践であっても、実践そのものは基本的には一人ひとりの人間のなかで営まれる。そこから、協同実践のあり方について検討する際には、一人ひとりの実践(個別性)といろいろな人たちとの実践(協同性、共同性)、そしていろいろな内容や方法の実践(多様性)という視点が必要かつ重要となる。実践の協同(共同)性を強調するあまり、その個別性とそれに基づく多様性を軽視することがあってはならない。この点についてはどう考えるか。

周知のように、教育界では、ノーマライゼーション理念の浸透を背景に、インクルーシブ教育の推進やそのためのシステムの構築の必要性が指摘され、「協同学習」という教授法・指導方法の理論や技法についての研究が重視されている。たとえば、アメリカでは19世紀から協同学習の活用が図られているが、日本では、2004〈平成16〉年5月に「日本協同教育学会」が設立され、「互恵的な信頼関係を基盤とした協同に基づく教育・学習環境の創造・実践・普及を通し、民主社会の健全な発展に寄与する」ための実践・研究が行われている。
協同実践に類似・関連する用語・概念である協同学習について、以下に2つの言説の一部を紹介する。
ひとつは、デイヴィッド・W・ジョンソン(D.W.Johnson)、ロジャー・T・ジョンソン(R.T.Johnson)、イデッス・ジョンソン・ホルベック(E.J.Holubec)の言説である。D・W・ジョンソンらによると、「協同学習とは、スモール・グループを活用した教育方法であり、そこでは生徒たちは一緒に取り組むことによって自分の学習と互いの学習を最大に高めようとする」ものである。「協同学習の場面では、生徒たちの目標達成のしかたは相互協力関係になっている。すなわち、生徒たちはグループの他の生徒も一緒に目標を達成した時だけ、自分たちの目標に到達できたと考えるようになっている」。「競争学習と個別学習は、それらが適切なものである限りは協同学習を補完してくれる」のであり、「3つの学習事態のうち協同学習がもっとも重要である」(D・W・ジョンソンほか、杉江修治ほか訳『学習の輪―アメリカの協同学習入門―』二瓶社、1998年、18~20ページ)。
そして、D・W・ジョンソンらは、「協同学習」と「旧来のグループ学習」のそれぞれがもつグループの特徴の違いを次のようにまとめている。協同学習グループは、①相互協力関係がある、②個人の責任がある、③メンバーは異質で編成、④リーダーシップの分担をする、⑤相互信頼関係あり、⑥課題と人間関係が強調される、⑦社会的技能が直接教えられる、⑧教師はグループを観察、調整する、⑨グループ改善手続きがとられる。旧来の学習グループは、①協力関係なし、②個人の責任なし、③メンバーは等質で編成、④リーダーは指名された一人だけ、⑤自己に対する信頼のみ、⑥課題のみ強調される、⑦社会的技能は軽く扱うか無視する、⑧教師はグループを無視する、⑨グループ改善手続きはない(32ページ)。すなわちこれである。
いまひとつは、関田一彦・安永悟の言説である。関田らは、「協同学習とは協力して学び合うことで、学ぶ内容の理解・習得を目指すと共に、協同の意義に気づき、協同の技能を磨き、協同の価値を学ぶ(内化する)ことが意図される教育活動」である、とする。そして、次の条件を満たす(または、満たそうと意図される)グループ学習を共同学習と定義したいとして、4項目(条件)を指摘する(関田一彦・安永悟「協同学習の定義と関連用語の整理」『協同と教育』第1号、日本協同教育学会、2005年、13~14ページ)。

(1)互恵的相互依存関係の成立
クラスやグループで学習に取り組む際、その構成員すべての成長(新たな知識の獲得や技能の伸長など)が目標とされ、その目標達成には構成員すべての相互協力が不可欠なことが了解されている。
(2)二重の個人責任の明確化
学習者個人の学習目標のみならず、グループ全体の学習目標を達成するために必要な条件(各自が負うべき責任)をすべての構成員が承知し、その取り組みの検証が可能になっている。
(3)促進的相互交流の保障と顕在化
学習目標を達成するために構成員相互の協力(役割分担や助け合い、学習資源や情報の共有、共感や受容など情緒的支援)が奨励され、実際に協力が行われている。
(4)「協同」の体験的理解の促進
協同の価値・効用の理解・内化を促進する教師からの意図的な働きかけがある。たとえば、グループ活動の終わりに、生徒たちにグループで取り組むメリットを確認させるような振り返りの機会を与えるのである。

ところで、筆者(阪野)はこれまで、原田がいう「協同実践」に替えて、「共働活動」(coaction)という用語を使ってきた。そして、それは、グループのメンバーによって共有化された目標のもとで、各メンバーが主体的・自律的に参加して行う協同(共同)活動を意味する。その本質は、メンバー間の対等で平等な人間関係と、一体的・組織的かつ柔軟な活動を展開するための相互依存・補完・協力の相互作用にある。要するに、共働活動とは、多様な個人や集団が共生関係を形成し、多面的な相互作用によって社会的統合や融合を達成していく過程で展開される協同(共同)活動をいう、と述べてきた。しかし、この説述は必ずしも、説得的で、明確であるとはいえない。前述の「協同実践」に関する疑問や課題、D・W・ジョンソンや関田一彦らの言説などについて考察するなかで、共働活動の内容や特徴について検討することが求められる。それは、市民福祉教育の理論と実践の展開と発展・深化を促すことになろう。

まちづくり学習と市民福祉教育

教育分野では、学校における環境教育の推進を図るために、文部省(現・文部科学省)によって教師向けの『環境教育指導資料』が、1991〈平成3〉年6月に中学校・高等学校編、1992〈平成4〉年7月に小学校編がそれぞれ作成・発行された。これによって、従来からの自然保護教育や公害教育が環境教育に転換することになった。1998〈平成10〉年12月に学習指導要領が改訂・告示され、2002〈平成14〉年4月から小・中学校に「総合的な学習の時間」が導入された(高等学校は2003〈平成15〉年度から導入)。そのなかで、横断的・総合的な課題としての「国際理解、情報、環境、福祉・健康」などに関連して、「まち」や「まちづくり」が教材として多く採りあげられることになった。
建築・都市計画や福祉分野では、1992〈平成4〉年6月に都市計画法が改正され、市民参加のもとに市町村が策定する「市町村の都市計画に関する基本的な方針」(「都市計画マスタープラン」)が制度化された。1998〈平成10〉年12月に特定非営利活動促進法(NPO法)が施行され、それを契機に市民の社会貢献意識が高まり、市民参加・主体のまちづくりが促進された。2000〈平成12〉年6月には社会福祉事業法が社会福祉法に改称・改正され、住民参加による地域福祉計画の策定について規定された。
以上のような制度改革に加えて、とりわけ2000年代以降には、規制緩和や財政再建(財政削減)などの行財政構造改革が推進されるなかで、まちづくりにおける住民・市民参加の必要性や重要性がより一層強調されることになった。
こうしたなかで、いま、多くの住民がまちづくりに主体的・積極的に取り組む意識や意欲を喚起し、まちづくりに必要な知識や方法(技術)を獲得するための仕掛けや仕組みが求められている。ここにひとつの教育実践、教育分野・領域として存立するのが「まちづくり学習」である。
福祉の(による)まちづくりの実践・運動主体の形成を図る市民福祉教育にあっては、「まちづくり学習」の実践や研究と通ずる点が多く、その知見を援用したり、言説を分析し応用・活用することができよう。平易にいえば、「市民福祉教育」の研究を行う際には、固有の視点や一定の秩序による取捨選択が必要であることはいうまでもないが、「まちづくり学習」の理論や方法は「使える」のである。
「まちづくり学習」に関しては、ひとまず日本建築学会が2004〈平成16〉年4月から2007〈平成19〉年9月にかけて刊行した『まちづくり教科書』全10巻が参考になる。以下では、「まちづくりの定義と10の原則」(佐藤滋)についてのみ紹介する(日本建築学会編『まちづくりの方法』(まちづくり教科書 第1巻)丸善株式会社、2004年、3~4ページ)。

「まちづくりの定義」
まちづくりとは、地域社会に存在する資源を基礎として、多様な主 体が連携・協力して、身近な居住環境を漸進的に改善し、まちの活力と 魅力を高め、「生活の質の向上」 を 実現するための一連の持続的な活動である。
「まちづくりの10原則」
(1)公共の福祉の原則
居住環境や町並み景観、地域経済、教育・文化など、地域社会の 公共の福祉に関わる事項を維持向上させ、安全性、快適性、保健・衛生などの基礎的な生活の場の条件、文化的な生活のための条件を整え、公共の福祉を実現する。
(2)地域性の原則
それぞれの場に存在する多様な(社会的、物的、文化的、自然的、歴史的な)地域資源とその潜在力を生かし、固有の地域性に立脚して進められる。
(3)ボトムアップの原則
公権力の行使としての都市計画や巨大資本による都市開発とは異なり、地域社会の住民と市民の発想を元に、地域社会における下からの活動の積み上げにより、その資源を保全し、地域社会を持続的に改善し、発展向上させる。
(4)場所の文脈の原則
歴史・文化の集積としての「場所の文脈」に対する共通理解の元で、社会・空間をその延長としてデザインし維持運営する。ここで言う場所の文脈とは、歴史的に積み重ねられた行為がそれぞれの場所に集積され生活を支える基盤となっているもので、それぞれのまちの社会と空間を支える基本であるとの認識である。
(5)多主体による協働の原則
個人やそれぞれの組織が自立しつつ、補完し合い、連携・協働して、活動する。このことは、一つのまちづくり活動の内部においても、さまざまなまちづくりが連携する場面においても、共通である。
(6)持続可能性、地域内循環の原則
持続可能な社会と環境を目指して、一挙に特定の目的を達成するのではなく、時間をかけた漸進的な過程を経ながら地域社会を構成する多様な主体の参加を得て持続的に進められる。そして、資源や財産、そして人材が地域内に循環し、持続可能な地域社会を維持しながら運営される。
(7)相互編集の原則
目標とする将来像が事前確定的ではなく、個々のまちづくり活動の成果が相互作用の過程を経ながら整合的に組み立てられ、徐々に「まち」の全体を形づくる。このプロセスを相互編集、相互デザインと呼ぶ。地域の内から、そしてボトムアップで全体を編集するのであり、それを導くのが目標空間イメージの共有とその持続を支える仕組みと技術である。
(8)個の啓発と創発性の原則
住民一人一人、個々のまちづくり組織の個性と発想が生かされ、個の自立と創発性により、それぞれが高め合いながら地域が運営されまちづくりが進められる。
(9)環境共生の原則
自然、生態学的環境の仕組みに適合し、物的環境を維持発展させる。そして、個々のまちづくりの活動の集積が広域的な生活圏、例えば河川の流域圏などの都市と農山漁村の複合環境体を維持向上させ、さらにそれらの集積である地球環境システムの維持に貢献する。
(10)グローカルの原則
地域性に立脚しながらも、常に地球的な視野で構想し、さまざまなネットワークに自らを位置づけ、活動する。まちづくりも、地域という境界を越えボーダレスな情報や知恵の交換が進められ、まちづくりの境界を越えて相互編集される。21世紀のグローバル社会の中では、地域性の原則を維持し、しかし地域に閉じこもるのではなく、拓かれた活動としてのまちづくりが展開されている。グローバルで、かつローカルな視点と行動が求められているのである。

ところで、「まちづくり学習」の一環としての市民福祉教育、とりわけ学校教育におけるそれについて考える場合、竹内裕一(千葉大学教育学部)の論稿「まちづくり学習において地域問題を教材化することの意義」(『千葉大学教育学部研究紀要』第52巻、2004年2月、57~67ページ。)が参考になる。
竹内は、その論稿において、まちづくり学習を学校教育の場で実践する際には積極的に地域問題を教材化する必要があることを提唱する。そして、①地域問題を地域の人びとともに学ぶ、②地域問題を日常的・個別的問題と社会問題を媒介する教材として位置づける、③地域問題を一般化・相対化する視点を導入する、という3点にわたる教材化の視点を提示している(59~60ページ)。
竹内はまた、次のようにまちづくり学習を概念規定するとともに、体験学習の重要性を指摘する(57ページ)。

「まちづくり学習は、さまざまな体験を通して子どもたちが自分たちの生活する地域を知り、地域の良さや問題点を見いだし、地域の形成者の一人として主体的にまちづくりにかかわっていこうとする態度を培うことを目指す学習である。
まちづくり学習では、身近な環境との親交を深め、それへの愛情をふくらませ、自ら変容していくために、子どもたちが楽しみながらさまざまな「まち体験」を積み重ねていくことを重視する。そのため、学習過程が重要視され、「体験重視型」学習(AOL: Action Oriented Learning)の学習形態をとる。(中略)「体験重視型」学習とは、楽しさを基軸としながら、人ともの、参加者同士、参加者と地域住民、参加者と地域の「かかわり」を創出し、地域に生起する問題の構造と本質を明らかにし、変革していく態度を養うことができる仕掛けなのである。」

加えて竹内は、まちづくの学習が抱える問題点として、次の4点を指摘している。そして、子どもたちを中心にしたまちづくり学習を構想しようとする場合は、以下の第3と第4の問題点が重要である、という(57ページ)。

第1は、楽しく体験することを重視する余り、ゲーム的要素が強くなりすぎ、学習内容が浅薄なものになってしまう危険性がある。
第2は、学習過程をゲーム仕立てにするために、実際の現実を抽象化モデル化し過ぎてしまい、正確な事実認識に基づいた学習が展開されにくい。
第3は、「体験重視型」学習だけでは、地域に生起する厳しい意見対立を伴うような地域問題に対して、有効な解決策を導き出し得ない。
第4は、まちづくり学習の場が主に「学校外」であったため、どうしても参加者が限られてしまう。

市民福祉教育は、地域の社会福祉問題を学習素材とし、体験学習の学習形態を採ることにひとつの特色を見いだすことができる。したがって、学校における福祉教育に限っていえば、それは本来的に学校内で自己完結するものではない。教育・学習活動の軸足は、「20坪の教室」ではなく、学校が所在する地域に置くことが強く求められる。とともに、社会福祉問題については、現代社会の仕組みや運動法則などによって必然的に生ずる「社会問題」、その重要な一部である「生活問題」、また地域社会レベルの問題として捉えられる(捉える必要がある)「地域問題」等々の諸問題とのかかわりにおいて実証的に把握し、追究することが必要かつ重要となる。そこではじめて、地域で暮らす高齢者や障がい者などが抱える個別具体的な、厳しく深刻な生活問題や福祉問題の実態を認識、理解し、その本質に迫ることになる。福祉教育実践(論)においてはあいかわらず、その活動は理念なきハウツーに偏り、アイスブレイク的なゲーム仕立ての疑似体験が多い。学校の体育館で跳び箱やマットをバリアにして、アイマスクや車椅子などを使って行う単なる体験活動はその最たるものである。要するに、福祉教育実践の実際は、竹内の指摘と同じような限界や問題点、課題などを抱えているといわざるをえない。
「まちづくり学習」の一環としての市民福祉教育のあり方について考えるとき、以上のような現状認識とその問題点や課題を解決するための具体的方策について追究することが求められる。

パターナリズムと市民福祉教育

社会福祉の分野においては、支援(その主体は利用者)や援助、保護(その主体は援助・保護者)が、ある一面では、サービス利用者の家族をはじめ行政や専門家などによる干渉や介入、管理や支配、あるいは分離・分断・隔離などを促進してきた。管理や支配とはいわないまでも、干渉や介入を支援や援助として捉えてきた社会福祉においては、パターナリズムの問題が社会福祉そのものの価値や倫理を根源的に問う重要な課題となる。
福祉教育においてはこれまで、その対象はいわゆる「健常児」といわれる子どもや、地域活動やボランティア活動への関心と理解、参加を期待するいわゆる「一般」の大人であり、高齢者や障がい者などを客体として位置づけるなかでその推進が図られてきたといってよい。そこでは、高齢者や障がい者などの福祉サービス利用者やその家族の自律や自己決定を推進するための福祉教育が、軽視あるいは無視されてきたともいえる。福祉サービス利用者の人間の尊厳と権利が保障され、自律と自己決定が尊重されることによって、はじめてサービスの充実・高度化が促される。そのためにもサービス利用者やその家族に対する福祉教育が必要かつ重要となるのである。
ここで、次の点について留意しておきたい。福祉サービス利用者やその家族が提供される・されたそのサービスについて「苦情」(不平、不満)をいう場合、その処理・解決・対応がいかなるものであっても、またその再発防止策や未然防止策(リスクマネジメント)が採られたとしても、それが貴重な情報提供としてではなくあくまでも「苦情」として認識・理解される限り、サービスの質的向上や研究開発にはおのずと限界が生ずる。すなわちこれである。
さて、パターナリズム(paternalism)の原義は、pater=father=おやじ(父)が子どもに対して、「あなた(本人)のため」という根拠・理由によって介入・干渉あるいは支配することである。したがってそれは、一面では、支配関係が存在することによって成立するといえる。
パターナリズムは、「その人のため」という理由が必須の要素である。パターナリズムは、「その人のため」になされる行為である。介入・干渉には、直接的・間接的、強制的・非強制的、介入・干渉者の権限の有無、被介入・干渉者が同意する場合と拒否する場合、等々が考えられるが、パターナリズムでいう介入・干渉は、あくまでも介入・干渉される「その人のため」に、その人に関することについて、のそれである。
花岡明正(新潟工科大学)は、パターナリズムを「強いパターナリズム」と「弱いパターナリズム」に区別して、次のように定義している。「干渉(あるいは介入)される本人に判断能力がない、あるいは十分な判断能力がない場合に、干渉(介入)することを『弱いパターナリズム』という。本人に十分な判断能力がある場合でも、干渉(介入)することを『強いパターナリズム』という」。この定義では、「判断能力」とそれに関わる情報提供や注意喚起などをめぐってどう考えるか、判断能力の有無を判断・確定する基準をどう設定するか、等々が問われることになる。「パターナリズムが正当化できるか否かの議論では、この区分の意味は大きい」。
花岡の言説から、「パターナリズムの種類」については、ひとまず次のように整理することもできる。(1)積極的パターナリズムと消極的パターナリズム: 被干渉・介入者の福祉等を増大させることを理由に行う干渉・介入。被干渉・介入者の福祉等の減少を阻止・防止するために行う干渉・介入。(2)強制的パターナリズムと非強制的パターナリズム: 被干渉・介入者の自由等への干渉・介入を強く行う干渉・介入。被干渉・介入者の自由等への干渉・介入=強制を表面的には行わない干渉・介入。(3)身体的・物質的パターナリズムと精神的・道徳的パターナリズム: 被干渉・介入者におよぶ害が身体的・物質的なもので、それに対する干渉・介入。被干渉・介入者におよぶ害が精神的・道徳的なもので、それに対する干渉・介入。(4)能動的パターナリズムと受動的パターナリズム: 被干渉・介入者の福祉等を保護するために被干渉・介入者に何らかの行為を「行わせる」ための干渉・介入。被干渉・介入者の福祉等を保護するために被干渉・介入者に何らかの行為を「止めさせる」ための干渉・介入、などがそれである(花岡明正「パターナリズムとは何か」澤登俊雄編著『現代社会とパターナリズム』ゆみる出版、1997年、34~40ページ)。
パターナリズムが一般的に不当なものとして非難される理由は、それが個人の自律や自己決定を侵害するからである。親が子どもの成長発達のために行う支援や保護はパターナリズムの典型である。教育の営みのなかにもパターナリズムの問題が存する。いや、こんにちの教育のある部分は、パターナリズムそのものによって成り立っており、教育におけるパターナリズムは至極当然のこととして受け入れられてもいる。学校現場は子どもが主体・主役の場であるはずが、実際には教師が主人公の場になっており、また子どもの声は親・保護者によって代弁されることがしばしばである。こうしたことは、福祉や介護の分野における営みにも該当する。
個人の自律は尊重されなければならない。しかし、自律能力の育成(生成)や衰退、あるいは欠落などのレベルと内容は個々人によって異なり、多様である。それゆえに本人が被るであろう不快や不利益、本人に生ずるであろう悲惨な事態を避けるためには、本人への干渉や介入が必要となる。自律の尊重には、常にこうした矛盾した、逆説的な(paradoxical)問題が生ずることになる。例えば、年金や介護保険の保険料を納入させていることはその一例である。すなわち、本人の将来の生活の安定のために年金を積み立てさせる。要介護状態になった時のことを想定して介護保険料を納入させるのである。
パターナリズムの問題の中核は、本人の意思を尊重しようとすれば、本人の利益(例えば、生命・健康・安全等)が害されるというディレンマが含まれている、ということである。このディレンマの解決が、パターナリズムの「正当化」「正当化基準」「正当化要件」の問題である。
個人(本人)の利益や便益は誰が決めるのか。行政や専門家などが「本人のため」、「本人にとって最善のもの」であるといっても、本人ではない他者が決めた場合、その利益や便益は本人のものではない。その利益や便益の中身(内容)がいかに公正に、専門的に決められたとしても、また利益や便益についての選択が正当なもの、合理的なものとして本人に提示されたとしても、それは「個人の尊重」「自律の尊重」にはつながらない。
こうしたことから、中村直美(熊本大学)がいうように、「自律の領域への干渉・介入は、干渉・介入を受ける個人の自律の実現・補完のためにのみ正当化され(得)る」のである。中村はいう。「自律を尊重するが故にパターナリズムを否認するのではなく、自律を尊重するが故に(ある種の)パターナリズム(よきパターナリズム)を是認することが可能となるのである。あしきパターナリズムは、まさに自律を尊重しないパターナリズムとして、正当化されない」。「自律を尊重することは、その人のその人らしさを尊重することすなわち個人の尊重の実質、その中核を構成するものと考えられるのである」。すなわち、個人の尊重とは、“自分らしく”“自分を”生きることをいう。個人の自律を実現・補完するためのパターナリズム(よきパターナリズム)は、この個人の尊重に通ずるのである。要するに、福祉や教育の世界に浸透・通用しやすいパターナリズムについての考え方は、「自律を尊重するパターナリズム」のそれである、といえよう(中村直美「ケア、正義、自律とパターナリズム」中山將・高橋隆雄編著『ケア論の射程』九州大学出版会、2001年、90~116ページ)。
なお、学識経験者といわれる人が、福祉の(による)まちづくりを進めるために当該地域に関心をもったり、注意を向けたり、心にかけたり、心配したりするという意味において、その地域や住民(一般住民、特定の個人)に関わる段階では通常いわれるパターナリズムの問題は生じない。その地域や住民に関わることによって、その地域や住民の自由や自律、自己決定が侵害されたり、侵害の危険がある、つまり何らかの介入や干渉がある場合にパターナリズムの問題が生ずる(「あしきパターナリズム」)。臨床性や臨地性の高い「実践的研究」を行う学識経験者においては、十分に留意すべき点のひとつである。あえて付言しておきたい。

社会力と市民福祉教育

福祉や教育の世界において、「生きる力」をはじめ「社会力」「地域力」「福祉力」「教育力」などの言葉・用語が多用されている。それは、その表現が端的であるがゆえに、多くの人びとに受け入れられやすいからであろう。しかし、その内実については、必ずしも構造的・体系的かつ実践的に十分に明らかにされているわけではない。「○○力」の用語については、響きのよい、単なるスローガンとしてのそれにとどめないためにも、その概念のより一層の深化と総合化、科学化と体系化を図るとともに、その「力」を育成し向上させるための具体的な実践プログラムの研究・開発を進めることが求められる。
「生きる力」は文部科学省が好んで使う言葉である。それは、1996〈平成8〉年7月の第15期中央教育審議会答申(第1次)―「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」で提唱されたものである。そこでは、生きる力は、(1)確かな学力―知識・技能に加え、自分で課題を見つけ、自ら学び、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力、(2)豊かな人間性―自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、(3)健康・体力―たくましく生きるための健康や体力、などからなるとされた。また、その答申を受けて、小・中・高等学校に「総合的な学習の時間」が新設された(小・中学校は2002〈平成14〉年度、高等学校は2003〈平成15〉年度から実施)。しかし、その後、いわゆる「ゆとり教育」が子どもたちの学力の低下や学習の階層分化などを引き起こしたとして政策転換が余儀なくされ、授業時間数・学習内容の増加や道徳教育の推進などが図られ、それに反して「総合的な学習の時間」についは授業時間数が削減された。
ここで取りあげる「社会力」(social competence)は、門脇厚司(かどわき あつし、教育社会学者)が提唱する言葉(造語)である。門脇によると、社会力とは「社会を作り、作った社会を運営しつつ、その社会を絶えず作り変えていくために必要な資質や能力」のことをいう(『子どもの社会力』岩波書店、1999年、61ページ)。その社会力の基盤になる能力は、①「他者を認識する能力」と②「他者への共感能力ないし感情移入能力」の2つである。①の他者認識能力とは、「社会生活をともにしている人たちがそれぞれどんな社会的位置を占めて行動しているかが分かる」とともに、「相手の立場に立って、あるいは相手の身になって、ものごとを見たり考えたりすることができる」ということである。②の他者への共感能力(感情移入能力)とは、「相手の立場や相手がおかれている状況についての理解があり、また相手がそのような立場と状況にあって、何を考え何を欲しているかも分かっている、それゆえに、その相手に対して同情的かつ好意的な感情を寄せることができることをいう。『思いやり』という言葉があるが、まさに相手に対して好意的な『思い』を『遣〈や〉る(送る)』ことといってもいい。」(『子どもの社会力』65~67ページ)。そして、門脇は、文部科学省が唱える「生きる力」には社会力が含まれており、「社会力は『生きる力』の核である。」「社会力は学力である。」「社会の現状に関心を持ち、社会の運営にかかわり、社会をよりよくする営みにもコミットしようという態度が身についてさえいれば、結果として、基礎的な学力も高くなるし、そういう結果になるのは理にかなっている。」とする(『社会力がよくわかる本』学事出版、2005年、220~231ページ)。
また門脇は、こんにち、「非社会化」「社会化不全」現象が一層強まり、かつ地域的にも年齢的にも広まりをみせているなかで、共に生きることを是とし核とする共生社会―「互恵的協働社会」(「社会を構成する誰もが、一人ひとりの能力の多寡にかかわらず、お互いに自分の能力を他の人たちのために役立て活用することで成果をあげ、成果を分かち合うことで互いに感謝し感謝されることを喜びにして生きていける社会」)の実現を図る必要がある。それは、「人が人とつながり、社会をつくる力」である社会力を育てることで十分可能である、とする(『社会力を育てる』岩波書店、2010年、208ページ。下線は阪野)。
ここで、門脇がいう「互恵的協働社会」について一言すると、それは抽象的、観念的に過ぎて具体性に欠け、体系性や科学性に限界や問題がないとはいえない。とともに、その社会を創造し、運営、変革するための条件や方策・方法等についての言及も必ずしも十分ではない。そこにあるのは、「協働の精神」を育成するための教育の必要性をめぐる言説のみである、ともいえる。社会力の形成は、主体的・能動的・自律的な子どもから大人までの住民による、住民主導の、「下から」のものでなければならない。従来型の行政主導の、「上から」のものにでもなれば、集団主義的・全体主義的教育に偏向する危険性が全くないとはいえない。留意しておきたい。
さて、門脇にあっては、「社会力が欠けているのは何も若い世代だけではなく、先行世代である大人たち自身が相当に社会力を欠いているのが現状である」(『子どもの社会力』64ページ)。低下・衰弱した子どもや若者の社会力を形成・育成するためには、子どもや若者が他者、とりわけ大人とかかわり、継続的に「相互行為」(interaction)することが必要かつ重要となる。「他人(ひと)との交わりが人間(ひと)を育てる」のである。併せて、「大人こそ子どもの友だち」「大人の愛情が社会力の温床」「大人の適切な応答が不可欠」であり、そうでなければならないのである(『社会力がよくわかる本』109~153ページ)。端的にいえば、「社会の成員が互いに他者に関心と愛着と信頼感をもつ」ことである(『子どもの社会力』70ページ)。なお、門脇のいう相互行為とは、「互いに、相手から働きかけられたその内容に影響されて行為を返し、次に相手が自分に返してくる行為に影響を与える意図をもって相手に行為を返す、という行為の取り交わし」のことである(『社会力を育てる』115ページ)。相互行為は、社会力とともに門脇の言説の重要なキー概念である。
さらに門脇は、まちづくりと社会力に関して次のように述べている。「近い将来、地方主権が現実になるということは、地域の福祉(well-being)が向上し、住みよいまちになるかどうかは、他でもない、住民自身の自覚と責任にかかるということです。そのとき、真っ先に問われるのは住民一人ひとりがどれだけ社会力を身につけているかになるはずです。言葉を替えれば、住民がどけだけしっかりと人的ネットワークを築き、そして地域のために知恵や口を出すと同時に、そこでともに生きる人びとのために自ら汗を流し(労力を提供し)、金を出すか(身銭を切るか)にかかるということです」(『社会力を育てる』229ページ)。この点に関して門脇は、多少具体的に、「社会の今後のあり方を根本的に考え直し、社会の改革に取り組む」ためには、次のようなことが求められるという。それは、「人間や社会への強い関心であり、社会の仕組みを解剖する能力であり、あるべき社会を考えデザインする構想力であり、何よりそうした社会を作り運営していく能力と意欲である」(『子どもの社会力』71ページ。下線は阪野)。こうした能力や構えが、「社会力」である。
なお、門脇は、社会力と市民性(citizenship)に関して、社会力の行き着くところはシティズンシップ(市民としての資質と能力)であるとして、次のように述べている。「社会を構成している人間として、その運営に積極的に関わっていくということが『社会力があること』だとしたら、まさにシティズンシップがあるということだと言ってもいい。」(『〈大人〉の条件』岩波書店、2001年、181ページ)。
以上を要するに、門脇は、『子どもの社会力』(岩波新書、1999年12月)以来、「社会力」に関する著作を矢継ぎ早に刊行して地域や学校で社会力を育てる必要性や重要性を説き、「『社会をつくり、社会を変えていく力』こそ真の学力である」という学力観に立って、「産業社会に役立つ人間を育てる教育から脱却して、個々の人びとの善き生と社会の健全な発展を両立させる教育へと一刻も早く、教育の目標を転換しなければならない」とするのである(『社会力を育てる』158、171ページ)。 
ここで、この点に関して、木原勝彬(きはらかつあきら、ローカル・ガバナンス研究所)の「住民自治力・市民社会力の強化による地域再生」をめぐる次の言説を紹介しておきたい。
第2期地方分権改革(2007〈平成19〉年度~)の目標は、「国から地方への本格的な権限と税財源移譲による充実した地方自治の確立であり、住民自治力・市民社会力に支えられた市民主権型自治体の構築にあるのではないだろうか。ここでいう住民自治力とは、地域の課題解決力、地域に必要な公共サービスの供給力、地域の意思形成・決定力、地域の軌範(「規範」―阪野)形成力、関係主体との協働力で構成される地域住民の『自律と自己統治』力である。また、市民社会力とは、公共セクター・市場セクターから独立する、市民活動、コミュニティ活動、NPO活動などの市民的公共圏を担う市民セクターとしての力量で、上記の住民自治力を基盤に政策形成力、連帯力、対抗力で構成される。連帯力とは、市民セクターを構成する多様な活動団体間の共感・協力・連携力であり、社会の結束力でもある。対抗力とは、公共セクター・市場セクターへの異議申し立て、アドボカシーなどによる批判力である。地方分権時代の自治体像である市民主権型自治体の構築は、民主主義の理想である『市民による、市民のための、市民の政府』の実現にあり、市民・NPO・コミュニティ組織等が、政治的意思決定、政策形成、公共サービスの供給、行政評価などに、主権者の責務として直接的に関与する市民統治型自治体の創造にある。」(木原勝彬「市民主権型自治体への道―住民自治力・市民社会力の強化による地域再生―」コミュニティ政策学会編集委員会編『コミュニティ政策』第5号、東信堂、2007年、3ページ。下線は阪野)。
門脇のいう「社会力」の育成や「互恵的協働社会」の創造、木原のいう「住民自治力・市民社会力」の強化や「市民主権型自治体」の構築をより確かで、豊かなものにするためには、個々の住民(個人的実践主体)の主体形成のみならず、それを集団的実践主体や運動主体へと育成・向上させることが求められ、そのあり方が厳しく問われる。それはまさに、市民福祉教育に課せられた大きな課題である。そしてそれは、子どもから大人まで、社会から孤立したり社会的に排除されている人びとを含めたすべての地域住民がかかわることを必要とする福祉の(による)まちづくり、換言すれば「誰も排除しない、されないまちづくり」が要請されていることによる。