「まちづくりと市民福祉教育」カテゴリーアーカイブ

自律教育と市民福祉教育

市民福祉教育は、住民一人ひとりがそれぞれの認識や判断、思考などに基づいて、住みなれた地域で自立・自律した生活を営むことができる福祉文化の創造や福祉の(による)まちづくりをめざして日常的な実践や運動に取り組む「市民」主体の形成・成長・発展を図るための教育活動である。市民福祉教育についてとりあえずこのように概念規定した場合、「自立」(independence)と「自律」(autonomy)、そして内容的には「共生」(symbiosis、cooperation)がひとつの鍵概念となる。それらのうちから、ここでは、岡田敬司(京都大学)の所説(『自律者の育成は可能か』ミネルヴァ書房、2011年、等)に依拠しながら、「自律」をめぐって若干述べることにする。
そのまえに、「共生」に関して一言すると、例えば庄司興吉(東京大学)は、共生(広義)という言葉・用語を社会科学的に概念化する場合には、共存(co-existence)、共有(sharing)、共生(symbiosis)、共感(sympathy)という4つのヴァージョンに分析して考える必要があると説いている(庄司興吉編著『共生社会の文化戦略』梓出版社、1999年、3~12ページ)。庄司がいうこの4つのヴァージョンに関しては、共存には理解、共有には固有、共生には自立、共感には傾聴がそれぞれその前提(必要)となることを付言しておきたい。そして、これらは、市民福祉教育の理論化や実践の展開を図る際の重要な用語のひとつでもある。
さて、「自律」について、『広辞苑』(第6版、岩波書店、2008年)は、「自分の行為を主体的に規制すること。外部からの支配や制御から脱して、自身の立てた規範に従って行動すること」、また『大辞林』(第3版、三省堂、2006年)では、「他からの支配や助力を受けず、自分の行動を自分の立てた規律に従って正しく規制すること」と説明している。
いうまでもなく、教育の基本的目標は自律的人間の育成にある。それは、教育基本法にいう「教育の目的」としての「人格の完成」を意味する(人間の自律=人格の完成)。そして、自律的人間こそが真に、地域・社会を担い、創造・改革することができる。
自律とは、自らの判断によって自らの行為を決定あるいはコントールすることである。その判断や行為決定を可能にするためには先ず、自分を取り巻く環境やそのもとに展開されている状況、直面している出来事や事柄、問題などについて認識、理解し、思考することが必要となる。また、自律は、自己判断に基づいて自分の行為を自分で規制・統制することから、他からの強制や拘束、妨害などを受けない、個人の自由意志の存在を前提とすることはいうまでもない。その自由意志は、他人の言動に影響されないだけでなく、自分の欲求にも影響されずに自分をコントロールする意志を含意する。こうした自律にこそ「人間の尊厳」を見いだすことができ、「自から」を「律する」ことができる点において人間は尊厳に値する存在であるといえる。
人が自ら思考・判断し、自律的に行動するためには、個々人の自由意志と個人の社会的責任に立脚した権利意識や自治意識をもって自覚的・能動的に学び続けることが肝要となる。こうした人間(「市民」)主体の形成は、教育が取り組むべき根本的かつ現代的課題である。それはまさに、市民福祉教育の課題でもある。
人間は個人として個々に存在すると同時に、社会的集団や組織の構成員としても存在している。「人間は社会的存在である」(アリストテレス)といわれ、和辻哲郎が『風土』(岩波書店、1935年)で主体的・具体的な人間存在は個人的かつ社会的な二重構造をもつと説く所以である。ここから、自律の意味は、自己判断・自己決定や自己統制による「個人的自律」だけでなく、社会的集団・組織における共同判断・共同決定や内部統制による「集団的自律」をも含むことになる。これは、社会的集団・組織や地域・社会の自治のあり方を問うものでもある。
集団的自律は、社会的集団・組織における合理的・統合的な集団行為について判断・決定するためのものである。しかし、それは、必ずしも個々の構成員にとって合理的な納得を得ることができるものであるとは限らない。集団的自律の名のもとに個人的自律が軽視・無視され、あるいは圧殺され、個人的自律と集団的自律の間に矛盾や対立、葛藤などが生ずる例は枚挙にいとまがない。この両者の調和を図り、相補的・相乗的関係を創り出すことに教育、したがってまた市民福祉教育の重要課題があるといえる。
ところで、自律の反対概念は「他律」(heteronomy)である。他律とは、自らの判断によって自らの行為を決定あるいはコントロールすることができない事態であり、外部の権力や権威に依存、服従することをいう。人は、一般的には、他律的存在から自律的存在へと成長・発達する。そのためには、時期や状況に応じて、他者によって権力的あるいは権威的に主導される教育としての他律教育が必要かつ重要となる。なお、ここでいう権力とは「非自発的な服従を引き出す力」、権威とは「自発的な服従を引き出す力」を意味する(岡田敬司『かかわりの教育学』(増補版)ミネルヴァ書房、2006年、246ページ)。
他律教育は、自律性を育成するための受動的・強制的な教育である。自律教育は、自律性を推進するための能動的・自発的なそれである。いずれにしろ、教育は、その根源においては他律的な営みであるが、他律教育とその基での自律教育の過程を通して、あるいは他律教育と自律教育の相互性(相互依存、相互補完、相互促進)のなかで、自律性の育成、獲得を図るのである。
市民福祉教育も時期や状況に応じて、他律教育や自律教育としてのその展開が必要となることは、これまたいうまでもない。
以上を要約するそのひとつとして最後に、西岡正子(佛教大学)の次の言説を紹介する。「自律のための教育は若年世代、壮年世代そして高齢世代と今を生きる全世代が、共に取り組み実現しなければならない課題である。それは取りも直さず、人間の尊厳に基づく教育であり、人間として生きるための教育である。すべての世代の幸せと豊かな社会の形成は自律の為の教育と密接不離の関係にある。われわれは自律のための教育の実現をもって初めて未来の創造に向かうことが出来るといえるのである」(南澤貞美編『自律のための教育』昭和堂、1991年11月、105ページ)。

自己実現と市民福祉教育

「自己実現」(Self-actualization)は、福祉や教育の分野においては重要な用語のひとつである。しかし、その言葉は、今日においても抽象的な単なるスローガンとして使われることも多い。そもそも自己実現という用語は、アメリカの心理者であるA.H.マズロー(Abraham  H.Maslow)の自己実現理論や人間の「欲求の5階層説」が日本に紹介され、一般化したものである。マズローは、人間の「基本的欲求」を低次から高次へ、すなわち「生理的欲求」→「安全の欲求」→「所属と愛の欲求」→「承認の欲求」→「自己実現の欲求」の5階層に分類している。ここでは、マズローの欲求の5階層説は単純な固定的階層としてではなく、相対的優位性により欲求の階層が構成されていることに留意しておきたい。
小松一子(花園大学教授)によると、「自己実現」の項目が事典・辞典の類にはじめて記載されるのは、心理学関係では1976年、教育学関係では1977年、社会福祉学関係では1982年からである。また、『広辞苑』では、第5版(1998年)にはじめてその用語が採録され、第6版(2008年)のそれでは、「自分の中にひそむ可能性を自分で見つけ、十分に発揮していくこと。また、それへの欲求。マズロー(A.Maslow 1908-1970)は、人の欲求階層の最上位に置いて重視した。」と記述されている。
マズローは、「成長と認識」に関する論述のなかで、「至高経験(「最高の幸福と充実の瞬間」)においは、個人は最もいまここの存在であり、いろいろの意味からして、過去や未来から最も自由であり、経験に対して最も『開かれている』」(『完全なる人間』153ページ)と述べている。また、「創造性」に関する論述のなかで、「『現在のことで夢中になる』能力こそ、どのような創造性にとっても必要不可欠な条件であると思われる」(『人間性の最高価値』76ページ)と述べている。
要するに、マズローにあっては、「自己実現」においては「現在」に留意し、「現在」を強調することが必要かつ重要となるのである。ただし、「現在」は「過去」や「未来」から孤立しているわけではない。また、それは、単純に、過去→現在→未来、という直線的な時間の流れ(経過)のなかに位置づくものでもない。「過去」と「未来」は、「現在」との関係性において重視されるべきものである。仮に主従関係でいえば、「現在」が主で、「過去」と「未来」は従属的な位置にある、といえよう。
ところで、教育とは、子どもであれ大人であれ、現在の生(生きること、生きている状態)のあり方を、未来の、理想とするそのあり方に近づけるための人間的な営みである、といえる。かつて堀尾輝久(東京大学)は、『教育入門』(岩波新書、1989年)において次のように述べた。
発達の視点は、人間の価値を最終目的との関係で評価するのではなく、変化の過程自体に価値を認める人間観と結びつきます。子どもにとって、そして人間にとって、過去の集積としての現在は、将来の完成のための準備として意味があるのではありません。将来の準備のために現在を貧しくすることは、実はその将来をも貧しくします。未来は現在のうちに含まれ、現在は未来への選択によって方向づけられる、そして現在の充実こそが、明日の豊かさを約束するのであり、発達段階に応じた適切な学習と教育による現在の充実が、将来における可能性の開花を準備するのです。この意味で、現在の充実とは、子どもにとって、同時に未来への背のびを含んでいます。このような意味での教育とは、子どもにとって、いまだためされていないものへの挑戦であり、同時にこのことが、おとなたちの―そして既存の価値の―予測をこえた地平への発達を可能にするのです。(96ページ)
以上から、自己実現とは、“いま・ここ”を生きることに関わるのであり、堀尾がいう「現在の充実」はすなわち「自己実現」を意味する、といえよう。
周知の通り、教育の世界で「自己実現」をめざす教育が強調されるのは、学校教育においては、1989〈平成元〉年に改訂・告示され、小学校で1992〈平成4〉年度、中学校で1993〈平成5〉年度から実施された「学習指導要領」以降のことである。そこでは、知識や技能を中心にした旧来の学力観が見直され、「社会の変化に主体的に対応できる能力の育成」や「個性を生かす教育の充実」といった「新しい学力観」が提起され、教育評価についても「関心・意欲・態度」を重視する方向が打ち出された。
生涯学習においては、生涯学習審議会によって1992〈平成4〉年7月に行われた「今後の社会の動向に対応した生涯学習の振興方策について」の答申以降のことである。そこでは、「自己の生活を充実し、人間性を豊かなものとしていく」ための社会人に対するリカレント教育の推進や、「ボランティア活動そのものが自己開発、自己実現につながる生涯学習となる」という視点からのボランティア活動の支援・推進、などについて提起された。
人間は、子どもであれ大人であれ、「障がい」があろうがなかろうが、自分の個性や要求を発揮して、あるいは可能性を期待して主体的・積極的に社会とかかわり、自らを包み込む地域社会での日常的な社会生活(community life)を通して、自分の希望や願望を達成したり、豊かな社会の実現や文化の創造を図るために自律的・能動的に生きる存在、すなわち“いま・ここ”をよりよく生きる社会的・実存的存在である。こうした考え方は、社会的かつ自律的な「自己実現をめざす教育」や、社会的存在としての自己認識を基軸に市民性を育成するための「市民福祉教育」について考える際に、留意すべき人間観である。

批判的思考と市民福祉教育

市民福祉教育の具体的展開においては、問題発見・解決型学習が必要であり、その過程に参加(参集→参与→参画)することを通して実践的思考と批判的思考、そして科学的・論理的・合理的思考を育て、鍛えることが重要となる。なかでも、「批判的思考」(critical thinking)は創造的思考(creative thinking)の構成要素であり、必要条件となる。いずれにしろ、これらの思考に基づいてはじめて福祉文化の創造や福祉の(による)まちづくりの方向性を見いだすことが可能となる。
『批判的思考力を育む―学士力と社会人基礎力の基盤形成―』(楠見孝・子安増生・道田泰司編、有斐閣、2011年9月刊)と題する本がある。編者のひとりである楠見孝(京都大学)は、『書斎の窓』(2012年1・2月号、№611、有斐閣、2012年1月)で、本書の発刊によせて次のように解説している(59ページ)。

本書が主張したこと(の一つ目:阪野)は、日本の文化に根ざした批判的思考です。それは他者への配慮や協調的な理解や問題解決を志向した批判的思考です。すなわち、第一に、相手の立場に立って、相手の発言に耳を傾けること、第二に、相手を攻撃するためではなく、自分の理解を深め、自分の考えが正しいのかを吟味するために問いを出すこと、第三に、対立がある場合には、相手も自分も満足できるような解決策を見いだそうと努力することです。そして最終的には、自分の価値観や信念に基づいて行動することです。このように日本語の「批判的思考」に新たな豊かな意味を持たせたいというのが私たちの主張です。二つ目は、批判的思考における内省的思考の重視です。認知心理学の研究では、人の認知のバイアス(偏り)が数多く指摘されています。すなわち、相手を攻撃するのではなく、自分の認識にバイアスが生じうることに自覚的になり、バイアスが生じていないかを内省することが批判的思考の大事な側面だからです。私たちの目的は、家庭や学校や職場を批判的思考が出来る場にすることです。

楠見はまた、『同上書』で「批判的思考の態度」について次の6点を提唱し、その態度を備えることの必要性や重要性を説いている(11ページ)。 (1)熟慮的態度 : 情報を鵜呑みにせず、じっくり立ち止まって考える態度。 (2)探究心 :  さまざまな情報や知識、選択肢を求めようとする主体的な態度。 (3)開かれた心 :  自分の知っていることが有限であることを自覚し、異なる意見・価値観や文化の存在を理解し、それらに関心をもつ態度。 (4)客観性 : 主観にとらわれず客観的に公正にものごとを見ようとする態度。 (5)証拠の重視 : 信頼できる情報源を利用し、明確な証拠や理由を求め、それらに基づいた判断をおこなおうとする態度。 (6)論理的思考への自覚 : 論理的思考の重要性を認識し、自分自身が論理的な思考を自覚的に活用しようとする態度。すなわちこれである。
楠見は、「内省」(reflection)なかでも成人期の学習における、批判的思考に基づく「内省」について、次のように述べている(231ページ)。

成人は、仕事における複雑で変化する状況に対応し、内省しながら柔軟に対応をする内省的実践(リフレクティブ・プラクティス:reflective practice)が必要である。内省的実践とは、実践を進めながら、意識的・体系的に状況や経験を振り返り、行動を適切に調整して、批判的洞察を深めることである。さらに、内省を伴うよく考えられた練習は熟達化を促進する。内省には、振り返り的省察として、体験を解釈して深い洞察を得ることと、見通し的省察として、のちの実践の可能性について考えを深めることがある。
職場において知識やスキルは、個人の力だけで獲得されるものではなく、先輩・同僚など周囲の人との相互関係を築くなかで獲得され、その関係の編み目のなかで発揮されるものである。したがって、批判的思考を実践するには、職場が批判的なコミュニティであることが重要である。批判的なコミュニティとは内省に基づく質問、証拠に基づく議論、そして反論が奨励される社会(共同体)のことをさす(下線は阪野)。

以上の説述は、子どもから大人まで、そして福祉サービスの必要者や利用者などを含めたすべての地域住民に対する市民福祉教育についても通ずるものである。福祉教育の体験学習には、内省すなわち「振り返り的省察」と「見通し的省察」が必要かつ重要となる。筆者(阪野)はかねてより、福祉教育の体験学習に関して、「学び」→「気づき」→「ふりかえり」→「変わり」→「動く」という循環過程を通して、その深化・変容を図る必要性や重要性について指摘してきた。思い起こしたい。また、豊かで確かな市民福祉教育を推進するためには、地域コミュニティにおいて問題発見・解決型学習を進めるなかで懐疑的・批判的思考をよしとして受け入れ、その育成や発揮を支える環境醸成や条件整備を図ることが肝要となる。とりわけ学校における市民福祉教育については、従来から、ある一面では古くて狭い「福祉」や「福祉観」を「詰め込み」「刷り込む」教育(学習)に偏っていることを抜本的に改革・改善する必要がある。この点についても留意したい。

ソーシャル・キャピタルと市民福祉教育

わが国はいま、それまでの「国家と企業の時代から、地域と市民の時代へ」という激動の時代(ステージ)にある。具体的には、1980年代以降の「大きな政府から小さな政府へ」「ガバメントからガバナンスへ」という趨勢のなかで、1990年代以降、地方分権の推進に関する国会決議(1993〈平成5〉年6月)に基づく地方分権改革、それに続く民主党政権(2009〈平成21〉年9月~)下における地域主権改革の推進が図られている。とともに、「旧来のボランティア活動から、『新しい公共』を支えるNPOやボランティアなどの市民活動へ」という動きが活発化している。それは、1995〈平成7〉年の阪神・淡路大震災と「ボランティア元年」、1998〈平成10〉年の特定非営利活動促進法、そして2011〈平成23〉年の東日本大震災と「コミュニティ再生元年」(牧里毎治)などがひとつのきっかけになっていることは周知の通りである。そういうなかで、わが国では、2000年代に入ってソーシャル・キャピタル(social capital、社会関係資本。以下、「SC」と略す)についての研究が盛んに行われるようになっている。ちなみに、世界では、SCについての研究は、1990年代後半頃から急速に多方面で注目を集めるようになる。
SCの研究については、アメリカの政治学者ロバート・D・パットナム(Robert D.Putnam)のそれがよく知られている。パットナムは、1993年に出版した『哲学する民主主義』(河田潤一訳、NTT出版、2001年。原題 Making Democracy Work )において、SCを次のように定義した。「調整された諸活動を活発にすることによって社会の効率性を改善できる、信頼、規範、ネットワークといった社会組織の特徴」(河田訳、206~207ページ)、がそれである。要するに、SCは、人々の協調行動を活発にすることによって、社会の効率を高める働きをする社会的な関係をいう。そして、その内実・構成要素は「信頼」「規範」「ネットワーク」の3つである。そして、パットナムはいう。「信頼、規範、ネットワークのような社会資本の一つの特色は、普通は私的財である通常資本とは違い、普通は公共財である点である」(211ページ)。
「信頼」(trust)は、自発的な協調行動を生み出す源であり、SCの本質的な要素であるとされる。その信頼は、自分が個人的に知っている範囲の人々に対する信頼と、知らない人を含む一般的な人々に対する信頼とでは、信頼の性質は大きく異なる。パットナムが重視するのは、前者のパーソナルな信頼(personal trust)ではなく、後者の一般的信頼(generalized trust)である。小規模で緊密に結びついた前近代的なコミュニティにおいてはパーソナルな信頼だけでも足りるが、大規模で複雑化した現代社会においては、あまりよく知らない人同士の相互作用が圧倒的に多くなるため、知らない人を含んだ薄い信頼すなわち「一般的信頼」の方がより広い協調行動を促進することにつながり、SCの形成に役立つとしている。
「規範」(norm)は、「~べきである」と表現することのできるもので、法規範や、道徳や倫理、ルールや慣習などの社会規範がその典型である。パットナムは、さまざまな規範のなかでも、「互酬性の規範」(norms of reciprocity)を特に重視している。互酬性とは、相互依存的な利益の交換を意味するが、それは、「均衡のとれた互酬性」(同等価値の利益を同時に交換することを示す)と「一般化された互酬性」(現時点では一方的な、あるいは不均衡を欠く交換でも、将来的にはいま与えられた利益は均衡のとれた交換になるという相互期待を基にした交換の持続的な関係のことを示す)に分類される。パットナムが重視するのは、前者の均衡のとれた互酬性ではなく、後者の一般化された互酬性である。一般化された互酬性は、短期的には相手の利益になるようにという愛他主義に基づき、長期的には当事者全員の効用を高めるだろうという利己心に基づいており、利己心と連帯の調和に役立つとされる。
「ネットワーク」(network)には、職場内の上司と部下の関係などの「垂直的なネットワーク」と、合唱団や協同組合などの「水平的なネットワーク」がある。パットナムは、水平的かつ多様な人々を含むネットワークこそがSCを構成すると考える。そして、家族や親族を超えた幅広い「弱い紐帯」を重視し、そのなかでも特に「直接顔を合わせるネットワーク」が重要であるとする。
以上のように、パットナムが重視するSCの内実・構成要素は、「一般的信頼」、「一般化された互酬性の規範」、「水平性と多様性のある市民社会のネットワーク」、この3つである。また、パットナムは、「ネットワーク」が「信頼」や「互酬性の規範」を生み、「互酬性の規範」や「ネットワーク」から社会的な「信頼」が生まれるというように、互いに他者を増加・強化させる関係にあることも指摘する。
パットナムの言説から筆者(阪野)は、SCを、人々の協調行動を活発にするネットワーク(社会的つながり)と、そこから生まれる互酬性の規範(お互いさまの支え合い)一般的な人々に対する信頼感である、と理解したい。SCが多く蓄積されている地域・社会では豊かなネットワークのもとに人々の協調行動が起こりやすく、人々は互いに信頼しあい、互いに支え合って、地域・社会の発展を促す、という論理である。いろいろな人々同士が社会的に、豊かにつながり(ネットワーク)、それに基づいて互いに信頼しあい(信頼)、“お互いさま”という想いから互いに支え合うこと(互酬性の規範)によって地域・社会の諸問題が解決され、より良い統治が進み、豊かな地域・社会が創り出されるのである。
わが国のSC研究において注目すべき論者のひとりに坂本治也(さかもとはるや、関西大学)がいる。氏の近著『ソーシャル・キャピタルと活動する市民―新時代日本の市民政治―』(有斐閣、2010年)から、重要な言説の一部を以下に紹介する。
本書ではとくに断りがないかぎり、ソーシャル・キャピタルを「人々の間の自発的協調関係の成立をより促進する、市民社会の水平的ネットワーク、一般的信頼、一般化された互酬性の規範」の意味で用いることにする(63ページ)。
本書は、パットナムの分析枠組みを援用しながら、日本の地方政府の統治パフォーマンス(performance 遂行能力:阪野)とソーシャル・キャピタルの関係を、…(中略)…計量分析を通じて明らかにすることを試みた。分析の結果、都道府県と市区いずれのレベルにおいても、ソーシャル・キャピタルが統治パフォーマンスを高める効果は確認されなかった(215ページ)。
ソーシャル・キャピタルの統治パフォーマンスを高める効果というのは、従来想定されていたほど強くもなければ重要でもない可能性がある。このことは既存のソーシャル・キャピタル論に対する重大な問題提起として一定の意義があろう(219ページ)。
統治パフォーマンスに有意なプラスの影響を与える唯一の媒介変数は、「活動する市民」が果たす「政治エリート(首長と議会議員:阪野)に対する適切な支持・批判・要求・監視の機能」であるシビック・パワーであることが確認された。そしてシビック・パワーは、一般市民ではなく、「自らが定義する特定の『公益』の増進をめざし、異議申し立て、政治エリートの監視、啓発活動、公論喚起などの手段を通じて、政治機構の外側から政策過程に何らかの影響を与えようとする組織化された市民団体などで活動する運動家・活動家」である市民エリートによって担われていることが明らかとなった(215ページ)。
本書は市民や市民社会組織が果たす「政治エリートに対する適切な支持・批判・要求・監視の機能」であるシビック・パワーの重要性を説くものであった。つまり、政府の統治パフォーマンスを高め、より良き統治を実現するためには、「協調する市民」や「協働する市民」に加えて、政府を監視・批判する「活動する市民」の存在が必要不可欠なのである
近年の日本ではソーシャル・キャピタル論や協働論が大きな注目を集める中で、「協調する市民」や「協働する市民」の重要性ばかりに研究関心が集中するあまり、「活動する市民」の重要性は…(中略)…等閑に付されるか、場合によっては円滑な政策立案・実施を阻害するものとして否定的に描かれることが多い。…(中略)…本書の知見は往々にして見過ごされがちであった「活動する市民」の重要性に光を当てるものとして、一定の価値を有するといえよう(219~220ページ。下線は阪野)。
筆者(坂本)は、より良き統治を実現するうえで、「活動する市民」の存在だけが重要だと主張したいわけではない。「協調する市民」や「協働する市民」の存在も同じように重要であると考えている。…(中略)…筆者が「活動する市民」の重要性を強調するのは、あくまでそれが現状では看過され過ぎていると考えるためであり、政府を監視・批判する市民が際限なく増加していくことが望ましいと考えているわけではない。いい換えれば、「活動する市民」の存在は、より良く統治の必要条件ではあるものの、十分条件ではないのである(221ページ)。
すなわちこれである。また、坂本は『同上書』で、政治エリート(地方政府の政治エリートは首長と地方議会議員である)に対して「批判的(critical)かつ活動的(active)な態度・行動を有する市民」を「活動する市民」と呼ぶ(131ページ)。そして、「活動する市民」が果たす「政治エリートに対する適切な支持、批判、要求、監視の機能」のことを「シビック・パワー(civic power)」と呼ぶ(136ページ)。換言すれば、政治エリートに対して適切な支持、批判、要求、監視を行う市民の力をシビック・パワー(坂本の造語)と呼ぶのである。さらに、坂本にあっては、「政治エリートに対する適切な支持、批判、要求、監視の機能」を担う存在として、「一般市民(ordinary citizen)」と「市民エリート(civic elite)」の2通りが考えられる(136ページ)。市民エリートは、一般市民のなかの一部であるが、具体的には市民運動、オンブズマン運動、住民運動、消費者運動、環境運動、女性運動などの諸組織・団体に属する運動家・活動家を念頭に置いている(137ページ)。
以上を要するに、SC論の中心には、人々の「個人的つながり」、あるいは「社会的ネットワーク」は価値のある財産(「公共財」)である、という前提が据えられている。これは、イギリスのことわざである「(大切なのは)何を知っているかでなく、誰を知っているかだ」(It is not what you know but who you know )に通ずるものでもある、といえよう。
さて、SCと市民福祉教育の関係について論ずる場合、先ずは、SCの形成にとって市民福祉教育はどのような役割を果たすのか、市民福祉教育の展開にとってSCはどのような意味をもつのか、ということが問われよう。
SCの醸成・蓄積・向上によって人々のつながりや社会的ネットワークが豊かに構築されるところでは、人々の、福祉の(による)まちづくりやそのための市民福祉教育への関心や理解、参加はその度合いを高める。また、福祉の(による)まちづくりや市民福祉教育への関わりが高い人々は、パーソナルネットワーク(個人を中心とした他者とのネットワーク)や社会的ネットワークとの親和性や価値を高め、SCの蓄積・向上を促すことになる。
この点に関して、坂本のいう「一般市民」に対するそれとともに、「市民エリート」の育成・確保、すなわち「シビック・パワー」の育成・向上を図るための市民福祉教育のあり方が問われることに留意したい。
地域に根ざした、地域ぐるみの豊かな市民福祉教育の実践はSCを形成する。豊かなSCの蓄積は、より豊かな市民福祉教育の推進につながる。換言すれば、SCは市民福祉教育を推進するためのひとつの資源であり、またSCを醸成するプロセスは市民福祉教育の推進のプロセスの一部でもある、といえよう。その点において、市民福祉教育の進展の度合いは、SCのひとつの指標になり得るといってよい。
SCと市民福祉教育の関係は相乗的に互いを促進しあう関係(好循環関係)になり得るが、場合によってはその関係性がマイナスに機能することもある。例えば、前近代的な小地域において、人々の旧来のつながりが強いところでは、福祉の(による)まちづくりやそのための市民福祉教育の関心や理解、参加は抑制される。情報提供や意見交換、社会参加活動が普段のインフォーマルな関係のなかで事象的にはスムーズに行われるがゆえに、それがかえって計画的な福祉の(による)まちづくり施策の推進や系統的な市民福祉教育の展開などについての認識や理解を鈍らせることになるのである。
SCは、それ自体の醸成・蓄積を図るための取り組みのなかから形成されるものではない。それは、人々が抱える生活問題やその重要な一部分である社会福祉問題の解決を図り、福祉の(による)まちづくりを進める取り組みを通して、統治パフォーマンス(遂行能力)を高め、より良き統治を実現するその過程のなかから生まれるものである。

「新しい公共」と市民福祉教育

市民福祉教育の実践と研究において、「市民性」と同じほどに、地域社会に形成・創出される「公共性」についての議論は重要である。
今日、「公」が「官」(=政府・行政)によって独占されてきた社会構造が大きく揺らぎ、公共性の意味の転換過程が進行している。具体的には、1980年代以降、新自由主義的な行政改革が推進されるなかで、「新しい公共」をめぐる議論が活発化してきた。ここ10年の動向を一瞥するだけでも、たとえば次のような報告などが注目される。
2000〈平成12〉年12月、厚生省に設置された「社会的な援護を要する人々に対する社会福祉のあり方に関する検討会」が『報告書』を公表した。そこでは、近年における社会経済環境の変化にともなって、「心身の障害・不安」「社会的排除や摩擦」「社会的孤立や孤独」といった問題が重複・複合化し、「新たな福祉課題」への対応が求められている。そうした現状を踏まえて、「社会福祉協議会、自治会、NPO、生協・農協、ボランティアなど地域社会における様々な制度、機関・団体の連携・つながりを築くことによって、新たな『公』を創造していくことが望まれよう」、と論じられた。
2004〈平成16〉年5月に発行された『国民生活白書(平成16年版)』は、「人のつながりが変える暮らしと地域―新しい『公共』への道」というタイトルのもとに、地域における住民の活動に焦点をあて、その意義について考察するとともに、地域の活動の受け皿となる組織・団体の状況や、行政やNPO、企業等との連携・協働のあり方などについて報告した。
2005〈平成17〉年3月、総務省に設置された「分権型社会に対応した地方行政組織運営の刷新に関する研究会」が『分権型社会における自治体経営の刷新戦略―新しい公共空間の形成を目指して―』を報告した。そこでは、「人が生き生きとして地域社会に関わり、また、自治体運営を持続可能にしていくためには、もはや公共を行政のみによって担うという考え方から脱しなければならない」。「地域の様々な主体が自治体と協働して公共を担う『新しい公共空間』の形成こそが、これからの自治体運営の基本理念となるのではないか」、と説いた。
2008〈平成20〉年3月、厚生労働省社会・援護局長のもとに設けられた「これからの地域福祉のあり方に関する研究会」が『地域における「新たな支え合い」を求めて―住民と行政の協働による新しい福祉―』を報告した。そこでは、「地域における多様なニーズへの的確な対応を図る上で、成熟した社会における自立した個人が主体的に関わり、支え合う、『新たな支え合い』(共助)の拡大、強化が求められている」。「ボランティアやNPO、住民団体など多様な民間主体が担い手となり、地域の生活課題を解決したり、地域福祉計画策定に参加したりすることは、地域に『新たな公』を創出するものといえる」、とした。
2010〈平成22〉年6月、内閣総理大臣によって設置・開催された「新しい公共」円卓会議が「新しい公共」宣言を行った。そこでは、「新しい公共」とは、「支え合いと活気のある社会」を作るための当事者たちの「協働の場」である。「『国民、市民団体や地域組織』、『企業やその他の事業体』、『政府』等が、一定のルールとそれぞれの役割をもって当事者として参加し、協働する」ことが期待される。「新しい公共」の主役は国民である。国民自身が、「当事者として、自分たちこそが幸福な社会を作る主役であるという気概を新たにし」、「一人ひとりが、人の役に立ちたいという気持ちで、小さな一歩を踏み出す」ことこそが「新しい公共」の基本である、とされた。
こうした政策的な提唱・提言や宣言などを受けて、今日、国や地方自治体の行政改革と財政再建が焦眉の課題とされるなかで、「新しい公共」の創出や「新たな支え合い」の強化が叫ばれ、住民(市民)やボランティア、NPO、地域組織・団体などと行政の「協働」が推進されている。しかし、上述のそれらは、またそれに基づく取り組みの多くは、自治体主導・自治体優位の、「上から」の「新しい公共」であるといわざるを得ない。真に求められるのは、主体的・能動的・自律的な住民による住民主導・住民優位の、「下から」の「新しい公共」である。それは、「新しい公共」の創出にとって、新しい「私」の育成(住民の主体形成)が大きな課題となることを意味する。ここで、次の言説に留意しておきたい。「阪神・淡路大震災が一気に開いて見せた市民ボランティアの力は、日本の潜在力をあらためて再認識させるとともに、既成の日本人観を完全に覆した。行政と市民の関係が逆転し、行政による公共の独占がいかに虚構であるかも明らかになった」(林泰義)。
公共性は、教育とともに、福祉においても極めて基本的な概念でありながら、これまで必ずしも十分に議論されてきたとはいえない。教育の世界では、教育の私事化(個人や企業の利益追求のための教育)の進行のもとで、子どもの学習権保障などを媒介にしながら、教育の公共性をめぐる論争が広範に展開されている。それに比して、福祉の世界では、公助・共助・自助について、その理論検証がなされないままに議論が提唱・展開され、一面ではその連携・協働による福祉のまちづくりのあり方や方向性を単に指摘するにとどまっている、といわざるを得ない。
公共性はまた、豊穣かつ多義的な概念であり、その定義は難しい。それゆえにか、「新しい公共」をめぐっては、公・私の二分論をはじめ、公・共・私の三分論、官・公・私・民の四分論、あるいは共を公と私の中間・隙間として捉える中間論・隙間論や、公と私は共同性のうえに成り立っているという共同性根底論(田中重好)等々、議論は多様である。
いうまでもなく、住民の日常的な地域生活は、私的であるとともに、集合的であり、共同的である。田中の言説によれば、現代では、その集合性と共同性は2つの方向に向かって乖離してきた。現代都市に代表される「共同性なき集合性」と、近代国民国家に代表される「集合性なき共同性」がそれである。こうした集合性と共同性の乖離、とりわけ「共同性なき集合性」は、都市に限らず農村地域社会においても拡大している。平易にいえば、かつては伝統的・強制的な「向こう三軒両隣」のつながりや支え合いがあった。それが、今日では、「隣は何をする人ぞ」といわれるほどに、住民の地域帰属意識の希薄化や共同性の衰退が深刻なものとなっている。そういうなかで、いま改めて求められるのは、自治的・自律的な新しい「向こう三軒両隣」の集合性と共同性である。
田中はいう。地域社会における「共同性が形成されるためには、潜在的な共同性が自覚され、さらにそれが一定の目的を持った共同性へと鋳直されることが必要となる。その時初めて、地域の共同課題の解決へと人々は動き出すことになり、その最終的な『共同の解決策』をささえるものとして公共性を作りだすことになる」。現代日本社会は、「地域社会のなかから公共性が生み出される可能性を獲得した」。「それを具体的に進めるためには、地域社会内部で公共性を創造する仕組みを自らつくり出すことが必要である」。
それぞれの地域において、地域独自の「小さな公」(林)や「地域的公共性」(田中)を形成・創造するのは、そこに暮らす生活主体・権利主体としての、自立的・自律的な住民(市民)である。福祉のまちづくりは、典型的な新しい「小さな公」「地域的公共性」を創りだすことであり、その担い手の育成・確保がいま、喫緊の課題となっている。その課題解決のためには、まずは住民による、草の根の参加デモクラシーと討議デモクラシーの創出・強化が肝要となる。また、行政(地方自治体)や専門家、NPO等の相互連携による包括的な基盤整備や具体的支援が必要となる。そして、福祉のまちづくりを推進するための行政による財源保障や、住民の寄付文化の創造・定着も重要となる。
なお、ここでいう住民には、子どもをはじめ、高齢者や障がい者、外国籍住民などの社会的弱者や福祉サービス利用者が含まれることはいうまでもない。福祉サービスの利用者やその家族、支援者などによって集合性と共同性が創りあげられ、そこから「小さな公」「地域的公共性」が生みだされるとき、福祉のまちづくりはその力量を高めることになる。
以上は、地域住民はもちろんのこと、自治体やNPOの職員、専門家などを対象にした市民福祉教育が存立し、そのあり方が問われるところである。
(阪野貢『市民福祉教育をめぐる断章』大学図書出版、2011年、82~87ページ)

福祉のまちづくり運動と市民福祉教育

今日、段階的発展論に立って、「地方分権から地域主権へ」「ガバメントからガバナンスへ」「運動から活動へ」「住民主体形成から市民性育成へ」などといわれる。その当否や評価はともかくとして、そういうなかで、福祉のまちづくりをめざして日常的な実践や運動(市民運動)に取り組む「市民」の育成を図る福祉教育(市民福祉教育)は、まさに新しい局面を迎えている。
日本における市民運動は、周知の通り、高度経済成長期における公害の続発や過疎・過密現象の激化、生活環境の悪化などの社会的状況のもとで、1960年代から1970年代にかけて全国的規模で展開された公害反対運動や消費者運動などを契機に一般化した。それらは、住民・生活者のいのちや暮らしを守るための運動(「生活防衛運動」)であった。その後、1973〈昭和48〉年10月にはじまる第一次オイルショックを機に、政治・経済・社会の抑制的風潮や総保守化傾向が進むなかで、市民運動は変質、低迷した。そして1985〈昭和60〉年前後には、環境保護や反核・平和、女性解放、差別撤廃などに関する運動、すなわちイデオロギー対立が希薄化した、階級的視点に立たない「新しい社会運動」が展開された。とともに、それまでタテ割で展開されていた市民運動は、ヨコに連携(ネットワーキング)することによってより効果的な問題解決を促した。さらに1990年代になると、ボランティアに対して新しい意義づけがなされ、活動振興のための条件整備が図られた。こうした歴史的経緯を背景に、1998〈平成10〉年3月、特定非営利活動促進法(NPO法)が成立する。
NPO法によって、市民活動の制度化が図られ、市民活動団体は活動領域の拡大や社会的認知が促されるとともに、一定の身分保障を得ることになった。その反面、市民活動が本来的にもつ運動性や批判性が低下あるいは喪失し、活動の穏健化、体制内化が進んだとも評される。また、NPO法成立後、国や地方自治体の財政危機を背景に、住民参加や行政との協働という名のもとで行政の下請け化、補完化が生じていると指摘される。
ところで、市民運動は多面的で幅の広い概念であり、運動の実態も多種多様である。今日の市民運動は確かに、従来の「抵抗・告発」型から「参加・自治」型に変質してきている。しかし、行政との関係において、一定の距離を保ち、厳しい緊張関係をはらみながら「参加と協働」を模索する市民運動がある。高齢者や障がい者、外国籍住民などの社会的弱者に対する偏見・差別や抑圧、生命や生活の危機などの「焦眉の問題」を直接的に採りあげ、福祉制度の改革に積極的に関与・参画する市民運動もある。
そういうなかで、ミッションの達成をより確かにする市民運動を展開するために、市民福祉教育はどうあるべきか。その方向性やあり方を考えるに際しては、さしあたっては、市民運動の主体形成をめぐる次のような諸点に留意する必要があろう。
(1)市民運動は通常、自らの、あるいは他者の尊厳や生命・生活が脅かされるときに、多くの市民が集合し、集合行為として展開される。その際、その運動は、必ずしも環境や立場を同じにする人びとが集まって展開されるものではない。運動に参加する人びと(運動主体)は多様であり、運動の目的も直接的に自らの利益や地位向上などのための利己的なものではない。運動主体の多くは、利己主義を超える人間観や社会観をもっており、社会的な事象や出来事に積極的に関与し、自己決定し、共通認識のもとに連帯して行動する自発的で能動的かつ自律的な個人である。また、その個々人は、運動展開の過程で他者理解を深め、自己を再発見し、自己変容・変革を促す。それを通して、他者との相互連携がより深化・発展するのである。
(2)市民運動は、障がい者・女性・人種等に対する差別撤廃運動をはじめ、環境権を根拠にした環境保護運動や知る権利の確立を求める情報公開運動などのように、侵害された権利や新たに主張される権利をめぐって展開される場合がある。権利は、権力=支配層や強者に対抗する際の理論的概念であり、武器である。その「権利」運動としての市民運動は、政策や制度の枠組みを強化したり、修正・改革するひとつの契機になる可能性を有している。運動主体の人権感覚や権利意識、対抗意識が問われることになる。
(3)市民運動は、個々人が自己や他者あるいは地域・社会が抱える生活問題の実態や関係性を客観的・批判的に認識・理解することからはじまる。それに基づいて、市民運動は、一般的には、①問題・状況の認識・理解→②知識・情報の収集・分析と理解・判断→③活動(運動)課題の明確化→④意見集約と意思決定→⑤実践活動の展開→⑥評価・見直し、という問題解決のプロセスを経る。これを、運動主体のサイドに立って平易にいいかえれば、自己・他者・社会の生活問題との①出会い(把握、関与)→②向き合い(対面、相関)→③話し合い(討議、明確化)→④分かち合い(共感、共有化)→⑤支え合い(連携、共働)→⑥振り返り(評価、修正)、ということになろう。
(4)市民運動の展開を確かなものにするためには、まず、運動のミッションの達成はもちろんのこと、運動団体(活動組織)としての内部の規律(ルール)と、組織のまとまりの維持・存続に優れたリーダーシップを発揮するリーダーの存在が必要不可欠となる。そのあり様は、運動(活動)そのものが地縁型か広域的なテーマ型か、リーダーが旧来のタテ型かファシリテーター(黒衣、演出家)型か、あるいは複数のリーダーによるリーダーシップ(分散型リーダーシップ)の発揮なのか、等々によって多様となる。そして、そのリーダーは、集合行為にアイデンティティを有しながら、ときには運動の組織的行動にしばられることなく能動的・自律的に行動するフォロワーによって支えられる必要がある。
(5)市民運動は、多くの場合、取り組む問題や事項を特定化、限定化しがちである。そこでは、その問題や事項を社会や政治、経済、文化などとのかかわりで総体的に捉えるという視点が軽視されたり、欠落する可能性がある。それは市民運動が抱えるひとつの弱点でもある。市民運動は常に、問題領域を拡大、開放し、参加者に広く扉を開けておくことが求められる。また、その際、フリー・ライダー(ただ乗りする人)や「何もしない派」、若年層などをいかにして引きつけ、意識変革と態度変容を促し、まずは「それなりの」(adequate)運動主体(「それなりの市民」篠原一)に育てるかが課題となる。
以上を要するに、市民運動は、人々に共通する焦眉の生活問題から生ずる。それは、建設的な批判と豊かな創造という視点・視座のもとに、具体的な運動(活動)展開を通して歴史的・社会的問題としての生活問題を解決することを第一義とする。そして、その問題解決の道筋を探り、問題解決をより確かなものにし、その成果(行動と結果)を実効あるものにするためには、市民運動は次のような属性をいかに保持するかが問われることになる。すなわち、運動そのものがもつミッション性や思想性、公共性や政治性、批判性や革新性をはじめ、運動を通して醸成される集合的アイデンティティ(われわれ意識)、その基で社会変革の実現をめざす取り組みの組織性、他の地域や運動との交流・連帯を視野に入れた開放性や普遍性、それに運動を展開するうえでの計画性や継続性、などがそれである。これらは、運動主体の育成を図る市民福祉教育の内容や方法などを規定することになる。
今日、構造的な財政危機の深刻化とそれに基づく行政のスリム化などを背景に、地方自治体の側から市民活動に秋波が送られている。しかし、自治体はいまだ、「お上」意識から抜けきれていない。住民も一般「大衆」から脱しきれておらず、「市民」に育ってはいない。市民活動に参加する市民は、行政と親和的な関係にある一部のものに限られ、市民運動にもある種の軽さがあり、自分にとって面倒や不利益にならない範囲での個別的・限定的な取り組みにとどまっていることもしばしばである。しかし、こうした歴史的・社会的な状況や「長いものには巻かれろ」という精神的風土を、必ずしも否定的・悲観的に捉えることはない。それを積極的・前向きに捉え、だからこそ今まさに、住民・市民自らが市民運動やそのための市民福祉教育を自治的に受けとめ、その明日を展望し、新たに切り開くことが強く求められるのである。
いずれにしろ、市民運動は、その運動を生起させる社会構造や社会変動の矛盾や非合理の反映であり、「時代と社会を映し出す鏡」である。市民運動は、単なる異議申し立てや抵抗ではなく、また行政の補完化を促すものでもない。それは、市民が新たな秩序やそれを支える新たなパラダイムを提示あるいは構築するためのものであり、「豊かな社会を創り出す原動力」である。そして、市民運動の展開は、民主主義の定着・発展の過程や方法、度合いなどを問い直すことになり、「民主主義の成熟度を示すバロメーター」である。これらは、集団的・組織的活動としての市民運動の主体形成にかかわる市民福祉教育のあり方が厳しく問われるところでもある。
(阪野貢『市民福祉教育をめぐる断章』大学図書出版、2011年、76~81ページ)

「地域に根ざした」福祉教育実践と市民福祉教育

今日、「地域に根ざした」「地域ぐるみの」福祉教育実践のあり方が問われている。
(1)学校福祉教育はこれまで、子どもの「健全育成」と称して、あるいは子どもの非行対策をはじめ、生活や発達の歪みの是正策、高齢(化)社会を担う主体形成の方策、そして「生きる力」の育成策などの一環として取り組まれてきた。すなわち、それは、健全育成のスローガンのもとで、子どもの「教育」よりは、子どもを取り巻くその時々の社会的・教育的問題状況への「対策」にウエイトを置くものであったといってもよい。本来、人間形成を図る「教育」と問題解決に向けた「対策」は異なる。この混同を整理しないまま学校福祉教育の推進が図られてきた結果、学校教育や子ども・教師・保護者などにおいて福祉教育への取り組みに定見を欠いてきたことを認めざるを得ない。
尾木直樹は、思春期の子どもたちの今日的な危機的状況を解明するなかで、「子ども市民」の育成の必要性を説いている。尾木はいう。「子どもを社会の一員として“学校づくり”や“街づくり”などあらゆる領域に積極的に参画させることが重要である。」「大人の側こそ『子ども市民』(一人の「市民」としての子ども)を育て、子どもとのパートナーシップで、平和な未来を切り拓く視点が求められている。」「子どもたちが大人とパートナーシップの精神を持った参画が広がることによって、子どもたちの自己肯定感が高まり、自己責任感も形成されることになる。」
こうした尾木の言説によれば、今後、学校福祉教育それも市民福祉教育においては、これまでの「対策」だけでなく、しかもこれまでの「健全育成」を超える「子ども市民」の育成(「市民性育成」)に重点を置いた「教育」としての取り組みが求められる。市民福祉教育が存立するところである。
(2)地域における教育実践は、子どもから大人までのすべての住民による、住民のための日常的で創造的、個性的で具体的、そうであるがゆえに多様で多岐にわたる活動である。地域における福祉教育実践に関していえば、これまで、「地域に根ざした教育」「地域を基盤とした教育」といういい方がされてきた。しかし、それらの意味内容については必ずしも明確に規定されてきたわけではなく、ひとつのスローガンにとどまりがちであったといってよい。それは、地域における教育実践は、その内容や構造が拡大・深化し、地域性や多様性が豊かになるほどに、その把握や理論化が難しくなることに起因しているといえよう。
地域に根ざした教育実践とは、一人ひとりの住民がそれぞれの地域に生きるために努力する姿や態度、行動に教育的価値を見いだす活動である。とともに、地域とそこでの生活に根ざすことを通して豊かな地域や生活を創造し、また変革する住民主体形成を図るための取り組みである。その意味において、地域に根ざした豊かな福祉教育実践を展開するためにはまず、住民の個別具体的な地域・生活実態や地域・生活課題を、その地域の歴史や伝統、特性、さらには社会的・経済的・政治的・文化的状況などとのかかわりで理解することからはじまる。市民福祉教育の実践展開とその理論化を図るに際して、住民が暮らす「地域」理解(診断)と日々の「生活」理解が問われるところである。いうまでもなく、その理解(診断)は客観的で科学的、専門的なものでなければならず、それが市民福祉教育の内容や方法を決めることになる。
(3)福祉教育とりわけ地域福祉教育の実践展開においては、これまで、住民主体による、「地域ぐるみ」の取り組みの必要性や重要性が指摘されてきた。この点を敷衍すると、住民自治や地域振興を志向する教育活動としての市民福祉教育の推進を図るためには、住民の「参加」と「討議」に基づく自己決定と、自立と共生の意思形成が肝要となる。すなわち、福祉のまちづくりへの住民の主体的・自律的・能動的な参加を保証する参加デモクラシーと、地域の生活課題や福祉課題を理解し解決するために、住民が十分な時間をかけて討議する討議デモクラシーを創出・強化する必要がある。そして、そこには、各界各層の多様な地域住民が参画する住民主体のプラットホームを形成することが求められる。
なお、討議デモクラシーに関して付言すれば、篠原一はその原則として次の3点をあげている。①十分な討議ができるように、正確で公平な情報提供や意見の提示が行われること。②討議を効果的に行うために小規模なグループで、できればグループ構成も固定せず流動的であること。③討議による意見の変更は望ましいことであり、頭数を数えるためだけの議論になってはならないこと。
地域における参加と討議を通じたデモクラシーの実質化とそのためのプラットホームの形成は、ガバメントからガバナンスへの展開が叫ばれる今日、市民福祉教育をめぐる喫緊の課題でもある。その際、市民福祉教育が依って立つ基本的視点は、「共に生きる」という響きのよい単なるスローガンではなく、その背後にあって、厳しい生活を強いられている地域住民が抱える生活課題や福祉課題に対する科学的洞察と客観的批判、そして社会的抵抗である。そこではじめて、住民の自治意識や「共に生きる力」を醸成・獲得することができるのである。
(阪野貢『市民福祉教育をめぐる断章』大学図書出版、2011年、56~59ページ)

シティズンシップ教育と市民福祉教育

今日、市民性(市民としての資質と能力)を育成するための教育(シティズンシップ教育、市民性教育、市民性形成)は、2006〈平成18〉年度に東京都品川区の小・中学校に一貫教育カリキュラムとして導入された「市民科」をはじめ、全国のあちこちで注目すべき取り組みがなされている。その実践動向を一瞥すると、そこで使用される市民性という用語は多義的であり、その意味するところは多様なものとなっている。
2006〈平成18〉年3月、経済産業省が『シティズンシップ教育と経済社会での人々の活躍についての研究会報告書』(以下、報告書)を出している。報告書では、わが国におけるシティズンシップ教育の全体的な枠組みとその普及に向けた具体的なプログラム内容が提示されているが、市民性については次のように定義している。すなわち、シティズンシップとは、「多様な価値観や文化で構成される社会において、個人が自己を守り、自己実現を図るとともに、よりよい社会の実現に寄与するという目的のために、社会の意思決定や運営の過程において、個人としての権利と義務を行使し、多様な関係者と積極的に(アクティブに)関わろうとする資質」をいう。そのうえで、その報告書の概要をまとめた『シティズンシップ教育宣言』(パンフレット)においては、シティズンシップ教育とは「市民一人ひとりが、社会の一員として、地域や社会での課題を見つけ、その解決やサービス提供に関する企画・検討、決定、実施、評価の過程に関わることによって、急速に変革する社会の中でも、自分を守ると同時に他者との適切な関係を築き、職に就いて豊かな生活を送り、個性を発揮し、自己実現を行い、さらによりよい社会づくりに関わるために必要な能力を身につけること」を目的にした教育である、とされている。
また、報告書は、シティズンシップが発揮される分野として、次の3つの活動分野を想定している。(1)「公的・共同的な活動」(市民の多様なニーズや社会的な課題へ対応するために、市民一人ひとりが自分たちの意思に基づいて、関係者と協力して取り組む活動)、(2)「政治活動」(司法・立法過程や政策決定過程等に積極的に関与・参画し、政策に自分たちの意思を反映しようとする活動)、(3)「経済活動」(社会が必要とする商品やサービスの生産・提供に参加したり、アクティブな消費者として、社会全体にとってプラスと考えられる消費・生活行動を実現する活動)、がそれである。そして、シティズンシップを発揮するために必要な能力を「意識」「知識」「スキル」の3つに分類して示している。
シティズンシップ教育は、国家や社会にとって都合のよい、無批判・無抵抗の体制依存的市民を育成するものではない。それは、市民「参加」という名の「動員」や、行政の「下請け」化、「補完」化を促すものではない。また、官製的なボランティア・市民活動の振興、いわんや奉仕活動の義務化の推進を図るものではない。それは、市民一人ひとりが個人としての権利と義務を行使し、主体的・自律的な個人が自分の意思決定に基づいて社会的・政治的・経済的分野で能動的・積極的に行動する、時には多数派の決定に対する市民的不服従や良心的拒否を許容する成熟した市民社会の形成を志向する教育である。そのために必要となる能力が意識、知識、スキルである。
こうしたシティズンシップ教育、すなわち市民的資質・能力の育成は、福祉文化の創造や福祉のまちづくりの主体形成を図る市民福祉教育とかさなり合い、参考にすべき点が多い。シティズンシップ教育の一環としての市民福祉教育の展開のあり方や方向性について追究する必要がある。それは、福祉教育の実践と研究にとって喫緊の課題である。
市民福祉教育とりわけ学校福祉教育においては、これまで、訪問・交流活動、収集・募金活動、清掃・美化活動の「3大体験活動」や、高齢や障がいの疑似体験、手話や点字の学習、施設訪問(慰問)の「3大プログラム」などを中心にその実践活動が展開されてきた。しかもその際、その活動が観念的・精神的なものにとどまったり、活動そのものが目的化したり、さらには福祉教育の目的やねらいから遊離した福祉教育活動のゲーム化が進み、アイスブレイクどまりの実践活動の展開がしばしばみられるといってもよい。厳しい生活を強いられている地域住民が抱える社会福祉問題を素材にし、その解決に向けた実践活動を展開する市民福祉教育にとって、最も自戒すべきところである。3大体験活動や3大プログラムを止揚した、市民性育成のための新たなプログラム開発が強く求められる。その際、重要になるのは、民主的な参加と徹底した討議に基づくとともに、子ども・青年の発達段階に応じた系統的・計画的・継続的な市民性育成のためのそれである。
(阪野貢『市民福祉教育をめぐる断章』大学図書出版、2011年、47~50ページ)