「まちづくりと市民福祉教育」カテゴリーアーカイブ

福祉の心と市民福祉教育

市民福祉教育に関するキーワードのひとつに、「福祉の心」「思いやりの心」がある。
谷川和昭(関西福祉大学)は、「福祉の心という言葉が使われるようになったのは1970年代に入ってからである」が、未だ「福祉の心とは何であるかが不明瞭であり、学問的には未確立」である。「福祉の心の構造」を明らかにする必要がある、という(谷川和昭「福祉人材養成と福祉の心」『社会事業研究』第48号、日本社会事業大学社会福祉学会、2009年、153~157ページ)。
谷川は、「福祉の心」について論述するなかで、辞典に書かれた「福祉の心」の定義として次の3点を挙げている。
阿部志郎:「社会的条件に恵まれないマイノリティの人々と、人格的にふれあい、自己も他者も、すなわち、相互に変革される温かい人間的態度と、福祉問題を生み出す社会に福祉の本質を問い、福祉社会を創造していく共同の社会的努力を育てる豊かな人間の意志と情念を指している。」(京極高宣監修『現代福祉学レキシコン』雄山閣出版、1993年、128ページ)。
京極高宣:「社会的条件に恵まれない人々(クライエント)やその周辺の人々と人格的にふれあい、思いやりの態度をもってそれらの人々と共に生きようという社会連帯の意志と情念をいう。」(京極高宣『社会福祉学小辞典』ミネルヴァ書房、2000年、144ページ)。
阪野貢:「個人の尊厳と人権の尊重を前提にした思いやり、優しさ、いたわり等の豊かな人間性のもとに培われた福祉意識。」(硯川眞旬監修『国民福祉辞典』金芳堂、2003年、355ページ)。
そして、谷川自身は、福祉臨床(対人援助の実践)との関わりで、「福祉の心」とは「他者の問題を冷たく他人事として見過ごさないで、自分の問題として捉える態度であり、しかも個人的な心情を抑えて、社会のあらゆる資源を活用しながら、危機状態にある人の人生の再建のために力を貸していこうとする姿勢である。」(秋山博介・ほか編『臨床に必要な社会福祉援助技術演習』弘文堂、2007年、188ページ)と定義づけている。
なお、「思いやり」という言葉について付言すれば、『広辞苑』(第6版、岩波書店、2008年)では、「自分の身に比べて人の身について思うこと。相手の立場や気持を理解しようとする心。同情。」と記されている。また、『大辞林』(第3版、三省堂、2006年)では「その人の身になって考えること。察して気遣うこと。同情。」、『大辞泉』(第1版、小学館、1995年)では「他人の身の上や心情に心を配ること。また、その気持ち。同情。」となっている。

さて、以下に、「『福祉の心』の育成と福祉教育」と題する筆者(阪野)のかつての拙稿に若干の加筆・訂正を施したものを記述する。基本的な考え方は、今日においても何ら変わってはいない(阪野貢『福祉教育の創造―視点と論点―』相川書房、1989年、32~34ページ)。

「福祉の心」という言葉が登場し、頻繁に使われるようになるのは、高度経済成長のひずみが露呈し、日本経済がいわゆる低成長時代に突入してからのことに属する。年代的には昭和50年前後以降のことである。しかも、その言葉は、実にいろいろな意味で使われる。例えば、社会福祉の改革を押し進めるための手段として、住民の福祉意識やボランタリズムをあらわすものとして、あるいは金(かね)や物(もの)の福祉に代わって心の福祉を説く際に、「福祉の心」という言葉が使われる。
福祉教育の領域においては、人間の倫理的・道徳的な生き方との関わりで「福祉の心」という言葉が使われることが多い。しかし、その際、「福祉の心」を精神主義的・道徳主義的に過度に強調することは、福祉教育についての考え方やその実践・運動を歪めることにもなる。福祉教育は、観念的な「福祉の心」教育でもなければ、第2の「道徳」教育でもない。必要かつ重要なのは、「福祉の心」そのものの構造的究明と、「福祉の心」が不足あるいは欠如し、いまその育成が強調される社会的・経済的・政治的・文化的背景についての理解、それに「福祉の心」の育成・高揚方策についての具体的検討である。
福祉教育は、「福祉の心」すなわち「自立」と「連帯」の精神を支える心を育成し、自立と連帯の地域づくりすなわち福祉の(による)まちづくりをめざす教育実践である。
ここでいう「自立」(自立心、自立行動)とは、一面では、(1)人間の成長発達・社会化の過程を意味する。他面では、(2)一人ひとりが、生活のあらゆる側面において生き生きと・快適に・充実感をもってその人らしく主体的・能動的・自律的に生きぬく努力をすること、すなわち“自分を生きぬく”努力をすることを意味する。前者の自立(1)の過程は、一般的には、身体的自立→生活身辺的自立→精神的自立→職業的自立→経済的自立→政治的自立→社会的自立という段階を経る。子どもの自立の発達にとっては、青年期の前期(中学生)から中期(高校生)にかけての時期が重要である。この時期、子どもは、自我を発見し、自己をみつめも、内省し、人生観や社会観を形成し、精神的自立を促すのである。後者の自立(2)は、自己を知り、自己を磨き、自己を育て、そして自己を創りあげていく努力をすることを意味する。すなわち“自己実現”“自己創造”“自己超越”に向けての自立である。それによって、他人に共感し、他人を思いやり、他人と助け合い、人と人との連帯を強めることになる。
福祉教育でいう自立は、前者(1)の個人の生涯にわたる自立、時系列的な垂直的次元(タテ)における自立と、後者(2)の個人の生活全体にわたる自立、日常生活領域での横の広がり・水平的次元(ヨコ)におけるそれとの統合としてとらえることが大切である。
「福祉の心」を支えるもうひとつの要素は「連帯」である。連帯の中核的・本質的部分をなすものは、「思いやり」(思いやりの心、思いやり行動)である。思いやりは、上述の『広辞苑』等が記すように、同情共感の行為であり、それは“愛”に通じるものである。また、人間の基本的で普遍的な感情であり、人間だけがもつ独特の感情的体験(「人間的体験」E.フロム、作田啓一・ほか訳『希望の革命』紀伊国屋書店、1969年)であるともいわれる。
思いやりの心とは、外的な物質的・社会的報酬を期待することなく、また自己の犠牲や損失をも顧みず、他人の利益や福祉のために自発的に行動する心をいう。思いやりの心を刺激・覚醒し、思いやり行動を喚起し、その方向や内容を規定する要因として、「認知」、「共感」、それに「受容」を考えることができる。認知とは、他人の思考や感情の状態を正しくとらえ、知ることである。共感とは、他人の気持ちをくみとること、つまり他人の喜びや悲しみといった感情の状態を自己のものとして経験することである。受容とは、他人の思考や態度・行動など、いいかえれば他人のあるがままの姿をそのままに認め、受け入れることである。
思いやり行動には、養護、協力、協同、奉仕、分与、寄付、援助、救助、犠牲など、さまざまなタイプの行動がある。また、車内で席を譲るといったものから血液や臓器の一部を寄付するといったものまで、いくつかのレベルがある。こうした思いやり行動は、学習されるものである。また、その行動を行う本人に満足感や充実感、快感を与え、それがさらに次の思いやり行動を動機づけ、方向づけることになる。
「自立」と「連帯」はともに、基本的人権や自他の人格を尊重することを基盤とする心情であり、態度・行動である。また、両者は、環境との相互作用のなかで学習されるものであり、「自立なくして連帯はなく、連帯なくして自立はない」という関係にある。しかし、最近、連帯に比して自立が社会的に強要され、自立についての個人的責任が過度に強調される傾向にある。それは、個人主義的な考えを重視することになり、一面では他者への無関心を醸成するとともに、社会的責任をどこかに押しやることにもなる。自立は、権利意識や社会的連帯、公的責任に支えられたものでないと偏狭な個人主義へと陥ることになる。 要するに、自立のない連帯は、仲間同士の単なる「慰安」にとどまる。連帯のない自立は、仲間や地域からの「孤立」を産む。それはまた利己主義に繋がる。留意すべき点である。
福祉教育は、歴史的・社会的存在である地域の社会福祉問題を素材として体験的に学習する。福祉教育は、とりわけ社会福祉問題をその日常生活において個別具体的に抱える高齢者や障がい者などとの交流・援助活動などを通して、「福祉の心」の育成を図るところにひとつの特色をもつ教育実践である。最近、時として、福祉教育が内包する権利性や社会性、それに歴史性などが軽視あるいは無視されることがあり、精神主義への偏向が促進されてきている。すなわち、人間の生き方という道徳面に力点がおかれ、福祉文化の創造や福祉の(による)まちづくりを推進する主体的・能動的・自律的な住民・市民の育成を図るのではなく、社会や国家に尽くす従順で御しやすい人間づくり(主体形成)が福祉教育の名のもとで進められてもいる。福祉教育の生活道徳化、社会道徳化、公民道徳化である。いま、福祉教育の空洞化を阻止するためにも、また筆者がいう市民福祉教育を構築し、その推進を図るためにも、福祉教育の原点を再確認するなかで「福祉の心の構造」(谷川)について科学的・理論的・実証的に考究することが強く求められよう。
なお、福祉教育実践における障害の疑似体験や高齢者などとの交流・援助活動は、その展開の仕方によっては「思いやりの心」の育成ではなく、上から下への一方向的な「思い上がりの心」を抱かせることにもなる。最後にあえて付記しておきたい。

福祉教育サポーターと市民福祉教育

学校における福祉教育実践のプログラムとしてしばしば採りあげられるものに、「障害」の疑似体験や「障がい者」との交流活動がある。
前者については、車椅子やアイマスクなどが使われる。その際、障害理解にとどまらず、障がい者理解や障がい者の生活理解、さらには障がい者もその構成員である地域社会についての理解をすすめる。そして、それを通して人間を全人的にとらえ、人間の尊厳すなわち個々の人間の「実存」(よりよく生きる存在)に価値を見いだす。こうしたプログラムが準備されることは必ずしも多くない。
後者のひとつに、「あきらかにその姿や言動が自分たちとは違う障がい害」「障害を乗り越えて、いきいきと暮らす障がい者」との交流がある。そもそも「違う」こと(異質)はいけないのか、また障害は「乗り越え」(克服)なければならないのか。乗り越えなければならないバリアフルな考え方をもち、そうした社会や文化をつくっているのは誰か。こうした点を追究するプログラムは必ずしも多くない。
また、交流に際して、いまなおWHO(世界保健機関)のICIDH(国際障害分類、1980年)の考え方に基づいて障害や障がい者を捉えがちである。機能障害(Impairment)→能力障害(Disability)→社会的不利(Handicap)、がそれである。それに変わって、ICF(国際生活機能分類、2001年)の考え方に基づいて、個々の障がい者の生活にかかわる環境因子(Environmental Factors)や個人因子(Personal Factors)を重視する。そして、「何ができないか」よりも「何ができるか」というポジティブな側面に注目して、障がい者がいかに「活動」(Activities)、「参加」(Participation)しているかを考える。こうした福祉教育実践プログラムは、いまだ十分に開発・実施されているとはいえない。
福祉教育に関するキーワードのひとつである「共生」は、異質と同一、挫折と克服、受動と能動、そしていわれるように依存と自立、他律と自律、分離と統合、排除と包摂など、それぞれの相互関連性において成立する、といってよい。
学校福祉教育、しかも筆者(阪野)がいう市民福祉教育の一環としてのそれを実践する際に、障がい者をその客体や教材として位置づけることは許されない。市民福祉教育のねらいを達成するためには、障がい者をいわゆる「福祉教育サポーター」として位置づけ、ときには障がい者自身がプランナーやコーディネーター、ファシリテーターとしての機能や役割を果たすことができるプログラムが求められる。本稿では、福祉教育サポーターとしての障がい者のあり方をめぐって、以下の諸点を指摘しておくことにする。

(1)学校における福祉教育の指導者はあくまでも教師である。福祉教育サポーターとしての障がい者(以下、「社会人講師」と同じようなニュアンスで「障がい者講師」という。)は、教師との連携・共働のもとに直接的・間接的に子どもを指導・助言・援助する。また、ときには子どもと教師の間にあって意思の疎通を図ったり、子どもの理解や関心の程度に応じて個別的に対応するなどして、教育効果を高める役割を果たすことが期待される。
(2)障がい者講師による福祉教育実践は、障害や障がい者に対する理解と関心を広め、深めることにとどまるものではない。子どもや教師が、それを通して地域社会に関する関心と愛着をもち、障がい者らとともに偏見や差別のない福祉文化の創造や福祉の(による)まちづくりのための実践や運動に参加するのを促すものでなければならない。
(3)障がい者講師が自己の経験や知識・能力などを活かして子どもの指導・助言・援助にあたることは、自己の経験や知識をさらに豊かなものにする。とともに、生きがいの創造や社会参加・地域貢献の促進を図ることになる。すなわち、障がい者講師による福祉教育実践活動は、それ自体がそのまま自己表現や自己実現、さらには社会還元の活動でもある。
(4)障がい者講師による福祉教育実践活動が、豊かなあるいは特異な「社会経験」や、得意分野のある意味では専門的で個別的な「知識や情報」を単に子どもに伝えるだけでは、福祉教育の進展にはつながらない。障がい者講師には、福祉教育の意義と必要性についての基礎的理解をはじめ、子どもの学習関心や意欲・能力などを発展させるための指導者としての資質や基礎能力などの育成・向上を図ることが必要不可欠となる。
(5)障がい者講師を、豊かな経験や個別専門的な知識・技能を有する特定の者に限定することは、指導の「地域性」(地域性を活かした指導)の定着を困難にする。とともに、ときには「障害」「障がい者」「障がい者の生活」理解を差別的・慈善的なものにし、障がい者に対する偏見や差別を助長することにもなる。特筆すべき個別的な経験も知識・技能ももたない、その地域に暮らすいわゆる一般の障がい者をも視野に入れ、指導者としての確保と養成・研修を図ることが肝要となる。それによって、地域に根づいた、その地域ならではの確かな福祉観を体得することができる福祉教育実践の展開が可能となる。
(6)福祉教育実践を計画的・組織的・継続的に展開するためには、障がい者講師の組織化を図ることが必要となる。障がい者講師集団の結成は、障がい者同士の仲間意識や連帯感を生み、福祉文化の創造や福祉の(による)まちづくりへの連携・共働活動を促すことにもなる。また、障がい者講師の教育活動は、その障がい者講師が所属し、日頃活動する障がい者団体・グループの事業・活動との関連において展開されることが肝要となる。それによって、その教育活動がそれだけにとどまるのではなく、それを通して障がい者団体・グループの事業・活動の活性化を促すことが期待される。
(7)障がい者講師の指導者としての質・量の確保と有効活用を図るためには、人材の発掘、養成・研修、活用、そして評価という一連のプロセスが統一的・総合的に推進されなければならない。しかも、人材の発掘から活用を総合的に進めるためには、人材バンクの設置が必要かつ重要となる。また、評価を通して人材登録を行い、一定の研修を義務づけることによって、豊かな福祉教育実践の展開を促すことになる。そうした役割は、当面、社会福祉協議会や「市民活動センター」に期待されようか。

“確か”で“豊か”な市民福祉教育の推進を図るためには、本稿で採りあげた「福祉教育サポーター」の制度化が求められる。その際には、国や大学・民間団体等で取り組まれている「教育サポーター」制度がひとつの参考になろう。それに関する調査研究のひとつに、文部科学省の委託を受けて日本システム開発研究所が実施した「団塊世代等社会参加促進のための調査研究」がある。その『報告書』(2008年3月)では、教育サポーター制度を「学校や社会教育施設など教育関係機関において講師や指導者として、あるいは施設職員の補助として他者の教育活動を支援する人材を登録・派遣する制度」と定義づけている。また、神戸市では、2007〈平成19〉年度からユニバーサル社会の実現に向けて、「こうべUD大学」を開講し、「こうべUDサポーター」の養成を図っている。岐阜県可児市にあるNPO法人「NPOなんでもサポートセンター岐阜」では、2011〈平成23〉年5月に「岐阜コミュニティ創造大学」を設立し、「地域再生のため、新しい公共を担うリーダー」たり得る「コミュニティ創造士」(Community Creative Planner=CCP)の養成に取り組んでいる。これらも参考になろう。

「協同実践」と市民福祉教育

「地域福祉は、福祉教育ではじまり、福祉教育でおわる」といわれる。
その「福祉教育」について、2004〈平成16〉年9月に全社協に設けられた「社会福祉協議会における福祉教育推進検討委員会」(委員長・大橋謙策)の『報告書』(2005〈平成17〉年11月発行)は、「地域福祉を推進するための福祉教育とは、平和と人権を基盤にした市民社会の担い手として、社会福祉について協同で学びあい、地域における共生の文化を創造する総合的な活動である」と定義している。この定義におけるキーワードのひとつは、「協同で学びあう」ことと「共生の文化」であろう。
『報告書』は、「協同で学びあう」とは、「一方的に誰かが誰かに教えるのではありません。さまざまな立場の住民が、お互いに議論し、研鑽しあうなかで、相互に気づきあうことが重要です。そのためにはフォーマルな学びの場だけではなく、たとえば日常の活動のなかにある学び(インフォーマルな側面)が大切にされる必要があります。つまり地域福祉を推進する福祉教育とは、地域のなかで教える場をつくることだけではなく、学ぶ活動を豊かにしていくことです。このことを意図した福祉教育の実践方法を『協同実践』といいます」(『報告書』、8ページ)。「共生の文化」とは、「一人ひとりのいのち(存在)が大切にされ、お互いがそれぞれの違いと存在を認めあい、何人も排除されることなく、豊かに共に生きていくことができる地域社会を創造することに価値をおき、重視する文化のこと」(『報告書』、9ページ)、と説いている。
ここで、『報告書』がいう「学びの場」に関して、P・H・クームス(P.H.Coombs)がWorld Educational Crisis,1968(『世界の教育危機』)において、教育の形態を大きく次の3つに分けていることを確認しておくことにする。①定型教育(formal):制度化された学校において、構造化されたカリキュラムに基づいて教師と生徒の関係によって展開される教育活動。学校型教育。②不定型教育(non-formal):定型教育(学校型教育=学校の教育課程として行われる教育活動)の外部において、一定の学習者に対して、ある学習目的を達成するために意図的・組織的に行われる教育活動。日本の「社会教育」に極めて類似した概念である。③非定型教育(informal):日常的な生活経験(体験)や環境によって、知識や技能などを習得する無意図的・非組織的な教育。家庭・職場・遊び場等での学びや、テレビの視聴による学びなどがそれである。福祉教育とりわけ筆者(阪野)がいう市民福祉教育は、この3つの形態の教育・学習のすべてを包摂する総合的、統一的な展開が図られなければならないことはいうまでもない。また、「共生の文化」について『報告書』は、「一人ひとりのいのち(存在)が大切にされ、お互いがそれぞれの違いと存在を認めあい、‥‥‥」(下線は阪野)と述べる。「共生の文化」は、そうした「存在」にとどまらず、一人ひとりが、そしてお互いが自分のいのちを、いま、“よりよく生きる”という「実存」を含意する、と理解したい。そうした実存を否定、排除しないのが「共生の文化」である。
さて、本稿では、福祉教育の推進方法のひとつとされる「協同実践」(cooperation)について考える。
そこで先ず、用語について述べることにする。『広辞苑』(第6版、岩波書店、2008年)をみると、「協同」とは「ともに心と力をあわせ、助けあって仕事をすること。協心」とある。類似・関連する言葉に「共同」「協働」「共働」などがある。「共同」とは「二人以上の者が力を合わせること。『協同』と同義に用いることがある。二人以上の者が同一の資格でかかわること」、「協働」とは「協力して働くこと」、さらに「共働」については「相互作用に同じ」とし、「相互作用」とは「互いに働きかけること。二個または二個以上の事物・現象が相互に作用しあって原因となり結果となること。交互作用」と説明されている。いずれにしろ、協同は、2人以上の者が心をあわせ、助け合いながらことを行う場合に用いられる言葉であるといえよう。
ここで、「協働」という言葉について付言しておくことにする。「協働」は、アメリカのインディアナ大学の政治学者であるヴィンセント・オストロム(Vincent Ostrom)が1977年に刊行した著作―Comparing Urban Service Delivery Systems(『都市サービスの配達システムの比較』)のなかで、「地域住民と自治体職員とが共同して自治体政府の役割を果たすこと」を意味する言葉としてcoproduction(co「共に」、production「つくる」)という造語を用いたことを起源とする、といわれている。日本で最初にcoproduction理論が紹介されたのは、1985〈昭和60〉年12月の荒木昭次郎の論文(「公的サービスの協同生産理論モデル―その実際的適用への批判的分析と評価―」『季刊行政管理研究』第32号、行政管理研究センター、1985年、30~41ページ)においてである、といわれる。荒木は、そのなかで、「公と私のパートナーシップ」に関して「市民と市職員との協働的活動」という言葉を使っている。次いで、荒木は、1990〈平成2〉年10月、『参加と協働―新しい市民=行政関係の創造―』(ぎょうせい)を出版し、コプロダクション理論について論述する。
「協働」に関する英語は、こんにち、coproductionとは違ったcooperationやcollaboration、あるいはpartnershipなどといった言葉が用いられている。その訳語としてあてられる日本語もまちまちである。また、行政と市民の連携・「協働」が叫ばれるなかで、「行政活動を市民が補完・代替する」こと、「市民活動を行政が補完・代替する」ことが問われている。とともに、一面では「協働」という名のもとで行政の「下請け化」が進行しているともいわれる。留意しておきたい点である。
ところで、福祉教育に関して「協同実践」という言葉・概念を最初に使ったのは原田正樹である。原田は、最近の論稿で、協同実践について次のように解説している。「福祉教育に関する一連の実践を担当者個人が担うのではなく、プロセスそのものを、複数の人間が互いにかかわり合いながら進めていくという実践方法である。(中略)さまざまな立場のメンバーがかかわりながら実践をつくり上げていくのである。実は、この異なったスタッフ同士で企画をすることから、すでにスタッフ間の『学び』が始まる。この学び合いを大切にしながら進められるプログラムでは、参加者相互の学びが大切にされる。この双方向的な『学び合う関係性』を大切にした実践の方法が『協同実践』の特徴である」(岩間伸之・原田正樹『地域福祉援助をつかむ』有斐閣、2012年、199~200ページ)。
要するに、福祉教育でいう協同実践とは、複数の人間(住民、市民)が地域の社会福祉問題について共有化・共通認識し、それぞれの立場の違いを大切にしながら、問題解決に向けての、双方向的な「学び合う関係性」「学びの関係づくり」(原田)を大切にした実践方法である、と理解できよう。しかし、協同実践の構造や性質をはじめ協同実践が生みだす効果やそれを成功させるための方法や条件などについては、これまで必ずしも理論的かつ具体的に言及・議論されてきたとはいえない。協同実践の方法やその研究をめぐっては、たとえば次のような疑問や課題が残る。

(1)協同実践の展開によってグループのメンバー間により親密な人間関係が形成され、 より高いレベルの積極的・主体的な活動が新たに生みだされたことをもって協同実践に特有の効果とみなすのか。
(2)協同実践ではグループの大きさやメンバーの多様性はどの程度が効果的なのか。
(3)協同実践の効果は一時的なグループにおいては現れにくいであろうが、効果を生むためのグループの継続性や凝集性についてはどう考えるか。
(4)協同実践にはさまざまな協同のレベル(同調、協調など)が存在するであろうが、それぞれのレベルに対応した相互活動はどうあるべきか。
(5)協同実践では個々のメンバーが強い主体性をもつことを認めないのか。あるいはどの範囲や程度までメンバー個々人の主体的活動を認めるのか。
(6)協同実践の展開過程におけるメンバー間の相互作用のダイナ ミックスについてどう考えるか。
(7)協同実践において生起するであろう離合集散についてどう考え、対応するか。
(8)協同実践に必要な専門的技能(対人技能、集団技能など)とは何か。メンバーはその技能をどのように習得するか。
(9)協同実践には複数の人間がかかわり、またそれゆえに意見の調整などに多くの時間と労力を要する傾向にあることを考えると、必ずしも単独実践に比べて協同実践が効果的な実践方法であるとはいいきれない。問題の種類や内容によっては単独実践の方が効果的な場合もある。この点についてはどう考えるか。
(10)協同実践であっても、実践そのものは基本的には一人ひとりの人間のなかで営まれる。そこから、協同実践のあり方について検討する際には、一人ひとりの実践(個別性)といろいろな人たちとの実践(協同性、共同性)、そしていろいろな内容や方法の実践(多様性)という視点が必要かつ重要となる。実践の協同(共同)性を強調するあまり、その個別性とそれに基づく多様性を軽視することがあってはならない。この点についてはどう考えるか。

周知のように、教育界では、ノーマライゼーション理念の浸透を背景に、インクルーシブ教育の推進やそのためのシステムの構築の必要性が指摘され、「協同学習」という教授法・指導方法の理論や技法についての研究が重視されている。たとえば、アメリカでは19世紀から協同学習の活用が図られているが、日本では、2004〈平成16〉年5月に「日本協同教育学会」が設立され、「互恵的な信頼関係を基盤とした協同に基づく教育・学習環境の創造・実践・普及を通し、民主社会の健全な発展に寄与する」ための実践・研究が行われている。
協同実践に類似・関連する用語・概念である協同学習について、以下に2つの言説の一部を紹介する。
ひとつは、デイヴィッド・W・ジョンソン(D.W.Johnson)、ロジャー・T・ジョンソン(R.T.Johnson)、イデッス・ジョンソン・ホルベック(E.J.Holubec)の言説である。D・W・ジョンソンらによると、「協同学習とは、スモール・グループを活用した教育方法であり、そこでは生徒たちは一緒に取り組むことによって自分の学習と互いの学習を最大に高めようとする」ものである。「協同学習の場面では、生徒たちの目標達成のしかたは相互協力関係になっている。すなわち、生徒たちはグループの他の生徒も一緒に目標を達成した時だけ、自分たちの目標に到達できたと考えるようになっている」。「競争学習と個別学習は、それらが適切なものである限りは協同学習を補完してくれる」のであり、「3つの学習事態のうち協同学習がもっとも重要である」(D・W・ジョンソンほか、杉江修治ほか訳『学習の輪―アメリカの協同学習入門―』二瓶社、1998年、18~20ページ)。
そして、D・W・ジョンソンらは、「協同学習」と「旧来のグループ学習」のそれぞれがもつグループの特徴の違いを次のようにまとめている。協同学習グループは、①相互協力関係がある、②個人の責任がある、③メンバーは異質で編成、④リーダーシップの分担をする、⑤相互信頼関係あり、⑥課題と人間関係が強調される、⑦社会的技能が直接教えられる、⑧教師はグループを観察、調整する、⑨グループ改善手続きがとられる。旧来の学習グループは、①協力関係なし、②個人の責任なし、③メンバーは等質で編成、④リーダーは指名された一人だけ、⑤自己に対する信頼のみ、⑥課題のみ強調される、⑦社会的技能は軽く扱うか無視する、⑧教師はグループを無視する、⑨グループ改善手続きはない(32ページ)。すなわちこれである。
いまひとつは、関田一彦・安永悟の言説である。関田らは、「協同学習とは協力して学び合うことで、学ぶ内容の理解・習得を目指すと共に、協同の意義に気づき、協同の技能を磨き、協同の価値を学ぶ(内化する)ことが意図される教育活動」である、とする。そして、次の条件を満たす(または、満たそうと意図される)グループ学習を共同学習と定義したいとして、4項目(条件)を指摘する(関田一彦・安永悟「協同学習の定義と関連用語の整理」『協同と教育』第1号、日本協同教育学会、2005年、13~14ページ)。

(1)互恵的相互依存関係の成立
クラスやグループで学習に取り組む際、その構成員すべての成長(新たな知識の獲得や技能の伸長など)が目標とされ、その目標達成には構成員すべての相互協力が不可欠なことが了解されている。
(2)二重の個人責任の明確化
学習者個人の学習目標のみならず、グループ全体の学習目標を達成するために必要な条件(各自が負うべき責任)をすべての構成員が承知し、その取り組みの検証が可能になっている。
(3)促進的相互交流の保障と顕在化
学習目標を達成するために構成員相互の協力(役割分担や助け合い、学習資源や情報の共有、共感や受容など情緒的支援)が奨励され、実際に協力が行われている。
(4)「協同」の体験的理解の促進
協同の価値・効用の理解・内化を促進する教師からの意図的な働きかけがある。たとえば、グループ活動の終わりに、生徒たちにグループで取り組むメリットを確認させるような振り返りの機会を与えるのである。

ところで、筆者(阪野)はこれまで、原田がいう「協同実践」に替えて、「共働活動」(coaction)という用語を使ってきた。そして、それは、グループのメンバーによって共有化された目標のもとで、各メンバーが主体的・自律的に参加して行う協同(共同)活動を意味する。その本質は、メンバー間の対等で平等な人間関係と、一体的・組織的かつ柔軟な活動を展開するための相互依存・補完・協力の相互作用にある。要するに、共働活動とは、多様な個人や集団が共生関係を形成し、多面的な相互作用によって社会的統合や融合を達成していく過程で展開される協同(共同)活動をいう、と述べてきた。しかし、この説述は必ずしも、説得的で、明確であるとはいえない。前述の「協同実践」に関する疑問や課題、D・W・ジョンソンや関田一彦らの言説などについて考察するなかで、共働活動の内容や特徴について検討することが求められる。それは、市民福祉教育の理論と実践の展開と発展・深化を促すことになろう。

まちづくり学習と市民福祉教育

教育分野では、学校における環境教育の推進を図るために、文部省(現・文部科学省)によって教師向けの『環境教育指導資料』が、1991〈平成3〉年6月に中学校・高等学校編、1992〈平成4〉年7月に小学校編がそれぞれ作成・発行された。これによって、従来からの自然保護教育や公害教育が環境教育に転換することになった。1998〈平成10〉年12月に学習指導要領が改訂・告示され、2002〈平成14〉年4月から小・中学校に「総合的な学習の時間」が導入された(高等学校は2003〈平成15〉年度から導入)。そのなかで、横断的・総合的な課題としての「国際理解、情報、環境、福祉・健康」などに関連して、「まち」や「まちづくり」が教材として多く採りあげられることになった。
建築・都市計画や福祉分野では、1992〈平成4〉年6月に都市計画法が改正され、市民参加のもとに市町村が策定する「市町村の都市計画に関する基本的な方針」(「都市計画マスタープラン」)が制度化された。1998〈平成10〉年12月に特定非営利活動促進法(NPO法)が施行され、それを契機に市民の社会貢献意識が高まり、市民参加・主体のまちづくりが促進された。2000〈平成12〉年6月には社会福祉事業法が社会福祉法に改称・改正され、住民参加による地域福祉計画の策定について規定された。
以上のような制度改革に加えて、とりわけ2000年代以降には、規制緩和や財政再建(財政削減)などの行財政構造改革が推進されるなかで、まちづくりにおける住民・市民参加の必要性や重要性がより一層強調されることになった。
こうしたなかで、いま、多くの住民がまちづくりに主体的・積極的に取り組む意識や意欲を喚起し、まちづくりに必要な知識や方法(技術)を獲得するための仕掛けや仕組みが求められている。ここにひとつの教育実践、教育分野・領域として存立するのが「まちづくり学習」である。
福祉の(による)まちづくりの実践・運動主体の形成を図る市民福祉教育にあっては、「まちづくり学習」の実践や研究と通ずる点が多く、その知見を援用したり、言説を分析し応用・活用することができよう。平易にいえば、「市民福祉教育」の研究を行う際には、固有の視点や一定の秩序による取捨選択が必要であることはいうまでもないが、「まちづくり学習」の理論や方法は「使える」のである。
「まちづくり学習」に関しては、ひとまず日本建築学会が2004〈平成16〉年4月から2007〈平成19〉年9月にかけて刊行した『まちづくり教科書』全10巻が参考になる。以下では、「まちづくりの定義と10の原則」(佐藤滋)についてのみ紹介する(日本建築学会編『まちづくりの方法』(まちづくり教科書 第1巻)丸善株式会社、2004年、3~4ページ)。

「まちづくりの定義」
まちづくりとは、地域社会に存在する資源を基礎として、多様な主 体が連携・協力して、身近な居住環境を漸進的に改善し、まちの活力と 魅力を高め、「生活の質の向上」 を 実現するための一連の持続的な活動である。
「まちづくりの10原則」
(1)公共の福祉の原則
居住環境や町並み景観、地域経済、教育・文化など、地域社会の 公共の福祉に関わる事項を維持向上させ、安全性、快適性、保健・衛生などの基礎的な生活の場の条件、文化的な生活のための条件を整え、公共の福祉を実現する。
(2)地域性の原則
それぞれの場に存在する多様な(社会的、物的、文化的、自然的、歴史的な)地域資源とその潜在力を生かし、固有の地域性に立脚して進められる。
(3)ボトムアップの原則
公権力の行使としての都市計画や巨大資本による都市開発とは異なり、地域社会の住民と市民の発想を元に、地域社会における下からの活動の積み上げにより、その資源を保全し、地域社会を持続的に改善し、発展向上させる。
(4)場所の文脈の原則
歴史・文化の集積としての「場所の文脈」に対する共通理解の元で、社会・空間をその延長としてデザインし維持運営する。ここで言う場所の文脈とは、歴史的に積み重ねられた行為がそれぞれの場所に集積され生活を支える基盤となっているもので、それぞれのまちの社会と空間を支える基本であるとの認識である。
(5)多主体による協働の原則
個人やそれぞれの組織が自立しつつ、補完し合い、連携・協働して、活動する。このことは、一つのまちづくり活動の内部においても、さまざまなまちづくりが連携する場面においても、共通である。
(6)持続可能性、地域内循環の原則
持続可能な社会と環境を目指して、一挙に特定の目的を達成するのではなく、時間をかけた漸進的な過程を経ながら地域社会を構成する多様な主体の参加を得て持続的に進められる。そして、資源や財産、そして人材が地域内に循環し、持続可能な地域社会を維持しながら運営される。
(7)相互編集の原則
目標とする将来像が事前確定的ではなく、個々のまちづくり活動の成果が相互作用の過程を経ながら整合的に組み立てられ、徐々に「まち」の全体を形づくる。このプロセスを相互編集、相互デザインと呼ぶ。地域の内から、そしてボトムアップで全体を編集するのであり、それを導くのが目標空間イメージの共有とその持続を支える仕組みと技術である。
(8)個の啓発と創発性の原則
住民一人一人、個々のまちづくり組織の個性と発想が生かされ、個の自立と創発性により、それぞれが高め合いながら地域が運営されまちづくりが進められる。
(9)環境共生の原則
自然、生態学的環境の仕組みに適合し、物的環境を維持発展させる。そして、個々のまちづくりの活動の集積が広域的な生活圏、例えば河川の流域圏などの都市と農山漁村の複合環境体を維持向上させ、さらにそれらの集積である地球環境システムの維持に貢献する。
(10)グローカルの原則
地域性に立脚しながらも、常に地球的な視野で構想し、さまざまなネットワークに自らを位置づけ、活動する。まちづくりも、地域という境界を越えボーダレスな情報や知恵の交換が進められ、まちづくりの境界を越えて相互編集される。21世紀のグローバル社会の中では、地域性の原則を維持し、しかし地域に閉じこもるのではなく、拓かれた活動としてのまちづくりが展開されている。グローバルで、かつローカルな視点と行動が求められているのである。

ところで、「まちづくり学習」の一環としての市民福祉教育、とりわけ学校教育におけるそれについて考える場合、竹内裕一(千葉大学教育学部)の論稿「まちづくり学習において地域問題を教材化することの意義」(『千葉大学教育学部研究紀要』第52巻、2004年2月、57~67ページ。)が参考になる。
竹内は、その論稿において、まちづくり学習を学校教育の場で実践する際には積極的に地域問題を教材化する必要があることを提唱する。そして、①地域問題を地域の人びとともに学ぶ、②地域問題を日常的・個別的問題と社会問題を媒介する教材として位置づける、③地域問題を一般化・相対化する視点を導入する、という3点にわたる教材化の視点を提示している(59~60ページ)。
竹内はまた、次のようにまちづくり学習を概念規定するとともに、体験学習の重要性を指摘する(57ページ)。

「まちづくり学習は、さまざまな体験を通して子どもたちが自分たちの生活する地域を知り、地域の良さや問題点を見いだし、地域の形成者の一人として主体的にまちづくりにかかわっていこうとする態度を培うことを目指す学習である。
まちづくり学習では、身近な環境との親交を深め、それへの愛情をふくらませ、自ら変容していくために、子どもたちが楽しみながらさまざまな「まち体験」を積み重ねていくことを重視する。そのため、学習過程が重要視され、「体験重視型」学習(AOL: Action Oriented Learning)の学習形態をとる。(中略)「体験重視型」学習とは、楽しさを基軸としながら、人ともの、参加者同士、参加者と地域住民、参加者と地域の「かかわり」を創出し、地域に生起する問題の構造と本質を明らかにし、変革していく態度を養うことができる仕掛けなのである。」

加えて竹内は、まちづくの学習が抱える問題点として、次の4点を指摘している。そして、子どもたちを中心にしたまちづくり学習を構想しようとする場合は、以下の第3と第4の問題点が重要である、という(57ページ)。

第1は、楽しく体験することを重視する余り、ゲーム的要素が強くなりすぎ、学習内容が浅薄なものになってしまう危険性がある。
第2は、学習過程をゲーム仕立てにするために、実際の現実を抽象化モデル化し過ぎてしまい、正確な事実認識に基づいた学習が展開されにくい。
第3は、「体験重視型」学習だけでは、地域に生起する厳しい意見対立を伴うような地域問題に対して、有効な解決策を導き出し得ない。
第4は、まちづくり学習の場が主に「学校外」であったため、どうしても参加者が限られてしまう。

市民福祉教育は、地域の社会福祉問題を学習素材とし、体験学習の学習形態を採ることにひとつの特色を見いだすことができる。したがって、学校における福祉教育に限っていえば、それは本来的に学校内で自己完結するものではない。教育・学習活動の軸足は、「20坪の教室」ではなく、学校が所在する地域に置くことが強く求められる。とともに、社会福祉問題については、現代社会の仕組みや運動法則などによって必然的に生ずる「社会問題」、その重要な一部である「生活問題」、また地域社会レベルの問題として捉えられる(捉える必要がある)「地域問題」等々の諸問題とのかかわりにおいて実証的に把握し、追究することが必要かつ重要となる。そこではじめて、地域で暮らす高齢者や障がい者などが抱える個別具体的な、厳しく深刻な生活問題や福祉問題の実態を認識、理解し、その本質に迫ることになる。福祉教育実践(論)においてはあいかわらず、その活動は理念なきハウツーに偏り、アイスブレイク的なゲーム仕立ての疑似体験が多い。学校の体育館で跳び箱やマットをバリアにして、アイマスクや車椅子などを使って行う単なる体験活動はその最たるものである。要するに、福祉教育実践の実際は、竹内の指摘と同じような限界や問題点、課題などを抱えているといわざるをえない。
「まちづくり学習」の一環としての市民福祉教育のあり方について考えるとき、以上のような現状認識とその問題点や課題を解決するための具体的方策について追究することが求められる。

パターナリズムと市民福祉教育

社会福祉の分野においては、支援(その主体は利用者)や援助、保護(その主体は援助・保護者)が、ある一面では、サービス利用者の家族をはじめ行政や専門家などによる干渉や介入、管理や支配、あるいは分離・分断・隔離などを促進してきた。管理や支配とはいわないまでも、干渉や介入を支援や援助として捉えてきた社会福祉においては、パターナリズムの問題が社会福祉そのものの価値や倫理を根源的に問う重要な課題となる。
福祉教育においてはこれまで、その対象はいわゆる「健常児」といわれる子どもや、地域活動やボランティア活動への関心と理解、参加を期待するいわゆる「一般」の大人であり、高齢者や障がい者などを客体として位置づけるなかでその推進が図られてきたといってよい。そこでは、高齢者や障がい者などの福祉サービス利用者やその家族の自律や自己決定を推進するための福祉教育が、軽視あるいは無視されてきたともいえる。福祉サービス利用者の人間の尊厳と権利が保障され、自律と自己決定が尊重されることによって、はじめてサービスの充実・高度化が促される。そのためにもサービス利用者やその家族に対する福祉教育が必要かつ重要となるのである。
ここで、次の点について留意しておきたい。福祉サービス利用者やその家族が提供される・されたそのサービスについて「苦情」(不平、不満)をいう場合、その処理・解決・対応がいかなるものであっても、またその再発防止策や未然防止策(リスクマネジメント)が採られたとしても、それが貴重な情報提供としてではなくあくまでも「苦情」として認識・理解される限り、サービスの質的向上や研究開発にはおのずと限界が生ずる。すなわちこれである。
さて、パターナリズム(paternalism)の原義は、pater=father=おやじ(父)が子どもに対して、「あなた(本人)のため」という根拠・理由によって介入・干渉あるいは支配することである。したがってそれは、一面では、支配関係が存在することによって成立するといえる。
パターナリズムは、「その人のため」という理由が必須の要素である。パターナリズムは、「その人のため」になされる行為である。介入・干渉には、直接的・間接的、強制的・非強制的、介入・干渉者の権限の有無、被介入・干渉者が同意する場合と拒否する場合、等々が考えられるが、パターナリズムでいう介入・干渉は、あくまでも介入・干渉される「その人のため」に、その人に関することについて、のそれである。
花岡明正(新潟工科大学)は、パターナリズムを「強いパターナリズム」と「弱いパターナリズム」に区別して、次のように定義している。「干渉(あるいは介入)される本人に判断能力がない、あるいは十分な判断能力がない場合に、干渉(介入)することを『弱いパターナリズム』という。本人に十分な判断能力がある場合でも、干渉(介入)することを『強いパターナリズム』という」。この定義では、「判断能力」とそれに関わる情報提供や注意喚起などをめぐってどう考えるか、判断能力の有無を判断・確定する基準をどう設定するか、等々が問われることになる。「パターナリズムが正当化できるか否かの議論では、この区分の意味は大きい」。
花岡の言説から、「パターナリズムの種類」については、ひとまず次のように整理することもできる。(1)積極的パターナリズムと消極的パターナリズム: 被干渉・介入者の福祉等を増大させることを理由に行う干渉・介入。被干渉・介入者の福祉等の減少を阻止・防止するために行う干渉・介入。(2)強制的パターナリズムと非強制的パターナリズム: 被干渉・介入者の自由等への干渉・介入を強く行う干渉・介入。被干渉・介入者の自由等への干渉・介入=強制を表面的には行わない干渉・介入。(3)身体的・物質的パターナリズムと精神的・道徳的パターナリズム: 被干渉・介入者におよぶ害が身体的・物質的なもので、それに対する干渉・介入。被干渉・介入者におよぶ害が精神的・道徳的なもので、それに対する干渉・介入。(4)能動的パターナリズムと受動的パターナリズム: 被干渉・介入者の福祉等を保護するために被干渉・介入者に何らかの行為を「行わせる」ための干渉・介入。被干渉・介入者の福祉等を保護するために被干渉・介入者に何らかの行為を「止めさせる」ための干渉・介入、などがそれである(花岡明正「パターナリズムとは何か」澤登俊雄編著『現代社会とパターナリズム』ゆみる出版、1997年、34~40ページ)。
パターナリズムが一般的に不当なものとして非難される理由は、それが個人の自律や自己決定を侵害するからである。親が子どもの成長発達のために行う支援や保護はパターナリズムの典型である。教育の営みのなかにもパターナリズムの問題が存する。いや、こんにちの教育のある部分は、パターナリズムそのものによって成り立っており、教育におけるパターナリズムは至極当然のこととして受け入れられてもいる。学校現場は子どもが主体・主役の場であるはずが、実際には教師が主人公の場になっており、また子どもの声は親・保護者によって代弁されることがしばしばである。こうしたことは、福祉や介護の分野における営みにも該当する。
個人の自律は尊重されなければならない。しかし、自律能力の育成(生成)や衰退、あるいは欠落などのレベルと内容は個々人によって異なり、多様である。それゆえに本人が被るであろう不快や不利益、本人に生ずるであろう悲惨な事態を避けるためには、本人への干渉や介入が必要となる。自律の尊重には、常にこうした矛盾した、逆説的な(paradoxical)問題が生ずることになる。例えば、年金や介護保険の保険料を納入させていることはその一例である。すなわち、本人の将来の生活の安定のために年金を積み立てさせる。要介護状態になった時のことを想定して介護保険料を納入させるのである。
パターナリズムの問題の中核は、本人の意思を尊重しようとすれば、本人の利益(例えば、生命・健康・安全等)が害されるというディレンマが含まれている、ということである。このディレンマの解決が、パターナリズムの「正当化」「正当化基準」「正当化要件」の問題である。
個人(本人)の利益や便益は誰が決めるのか。行政や専門家などが「本人のため」、「本人にとって最善のもの」であるといっても、本人ではない他者が決めた場合、その利益や便益は本人のものではない。その利益や便益の中身(内容)がいかに公正に、専門的に決められたとしても、また利益や便益についての選択が正当なもの、合理的なものとして本人に提示されたとしても、それは「個人の尊重」「自律の尊重」にはつながらない。
こうしたことから、中村直美(熊本大学)がいうように、「自律の領域への干渉・介入は、干渉・介入を受ける個人の自律の実現・補完のためにのみ正当化され(得)る」のである。中村はいう。「自律を尊重するが故にパターナリズムを否認するのではなく、自律を尊重するが故に(ある種の)パターナリズム(よきパターナリズム)を是認することが可能となるのである。あしきパターナリズムは、まさに自律を尊重しないパターナリズムとして、正当化されない」。「自律を尊重することは、その人のその人らしさを尊重することすなわち個人の尊重の実質、その中核を構成するものと考えられるのである」。すなわち、個人の尊重とは、“自分らしく”“自分を”生きることをいう。個人の自律を実現・補完するためのパターナリズム(よきパターナリズム)は、この個人の尊重に通ずるのである。要するに、福祉や教育の世界に浸透・通用しやすいパターナリズムについての考え方は、「自律を尊重するパターナリズム」のそれである、といえよう(中村直美「ケア、正義、自律とパターナリズム」中山將・高橋隆雄編著『ケア論の射程』九州大学出版会、2001年、90~116ページ)。
なお、学識経験者といわれる人が、福祉の(による)まちづくりを進めるために当該地域に関心をもったり、注意を向けたり、心にかけたり、心配したりするという意味において、その地域や住民(一般住民、特定の個人)に関わる段階では通常いわれるパターナリズムの問題は生じない。その地域や住民に関わることによって、その地域や住民の自由や自律、自己決定が侵害されたり、侵害の危険がある、つまり何らかの介入や干渉がある場合にパターナリズムの問題が生ずる(「あしきパターナリズム」)。臨床性や臨地性の高い「実践的研究」を行う学識経験者においては、十分に留意すべき点のひとつである。あえて付言しておきたい。

社会力と市民福祉教育

福祉や教育の世界において、「生きる力」をはじめ「社会力」「地域力」「福祉力」「教育力」などの言葉・用語が多用されている。それは、その表現が端的であるがゆえに、多くの人びとに受け入れられやすいからであろう。しかし、その内実については、必ずしも構造的・体系的かつ実践的に十分に明らかにされているわけではない。「○○力」の用語については、響きのよい、単なるスローガンとしてのそれにとどめないためにも、その概念のより一層の深化と総合化、科学化と体系化を図るとともに、その「力」を育成し向上させるための具体的な実践プログラムの研究・開発を進めることが求められる。
「生きる力」は文部科学省が好んで使う言葉である。それは、1996〈平成8〉年7月の第15期中央教育審議会答申(第1次)―「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」で提唱されたものである。そこでは、生きる力は、(1)確かな学力―知識・技能に加え、自分で課題を見つけ、自ら学び、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力、(2)豊かな人間性―自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、(3)健康・体力―たくましく生きるための健康や体力、などからなるとされた。また、その答申を受けて、小・中・高等学校に「総合的な学習の時間」が新設された(小・中学校は2002〈平成14〉年度、高等学校は2003〈平成15〉年度から実施)。しかし、その後、いわゆる「ゆとり教育」が子どもたちの学力の低下や学習の階層分化などを引き起こしたとして政策転換が余儀なくされ、授業時間数・学習内容の増加や道徳教育の推進などが図られ、それに反して「総合的な学習の時間」についは授業時間数が削減された。
ここで取りあげる「社会力」(social competence)は、門脇厚司(かどわき あつし、教育社会学者)が提唱する言葉(造語)である。門脇によると、社会力とは「社会を作り、作った社会を運営しつつ、その社会を絶えず作り変えていくために必要な資質や能力」のことをいう(『子どもの社会力』岩波書店、1999年、61ページ)。その社会力の基盤になる能力は、①「他者を認識する能力」と②「他者への共感能力ないし感情移入能力」の2つである。①の他者認識能力とは、「社会生活をともにしている人たちがそれぞれどんな社会的位置を占めて行動しているかが分かる」とともに、「相手の立場に立って、あるいは相手の身になって、ものごとを見たり考えたりすることができる」ということである。②の他者への共感能力(感情移入能力)とは、「相手の立場や相手がおかれている状況についての理解があり、また相手がそのような立場と状況にあって、何を考え何を欲しているかも分かっている、それゆえに、その相手に対して同情的かつ好意的な感情を寄せることができることをいう。『思いやり』という言葉があるが、まさに相手に対して好意的な『思い』を『遣〈や〉る(送る)』ことといってもいい。」(『子どもの社会力』65~67ページ)。そして、門脇は、文部科学省が唱える「生きる力」には社会力が含まれており、「社会力は『生きる力』の核である。」「社会力は学力である。」「社会の現状に関心を持ち、社会の運営にかかわり、社会をよりよくする営みにもコミットしようという態度が身についてさえいれば、結果として、基礎的な学力も高くなるし、そういう結果になるのは理にかなっている。」とする(『社会力がよくわかる本』学事出版、2005年、220~231ページ)。
また門脇は、こんにち、「非社会化」「社会化不全」現象が一層強まり、かつ地域的にも年齢的にも広まりをみせているなかで、共に生きることを是とし核とする共生社会―「互恵的協働社会」(「社会を構成する誰もが、一人ひとりの能力の多寡にかかわらず、お互いに自分の能力を他の人たちのために役立て活用することで成果をあげ、成果を分かち合うことで互いに感謝し感謝されることを喜びにして生きていける社会」)の実現を図る必要がある。それは、「人が人とつながり、社会をつくる力」である社会力を育てることで十分可能である、とする(『社会力を育てる』岩波書店、2010年、208ページ。下線は阪野)。
ここで、門脇がいう「互恵的協働社会」について一言すると、それは抽象的、観念的に過ぎて具体性に欠け、体系性や科学性に限界や問題がないとはいえない。とともに、その社会を創造し、運営、変革するための条件や方策・方法等についての言及も必ずしも十分ではない。そこにあるのは、「協働の精神」を育成するための教育の必要性をめぐる言説のみである、ともいえる。社会力の形成は、主体的・能動的・自律的な子どもから大人までの住民による、住民主導の、「下から」のものでなければならない。従来型の行政主導の、「上から」のものにでもなれば、集団主義的・全体主義的教育に偏向する危険性が全くないとはいえない。留意しておきたい。
さて、門脇にあっては、「社会力が欠けているのは何も若い世代だけではなく、先行世代である大人たち自身が相当に社会力を欠いているのが現状である」(『子どもの社会力』64ページ)。低下・衰弱した子どもや若者の社会力を形成・育成するためには、子どもや若者が他者、とりわけ大人とかかわり、継続的に「相互行為」(interaction)することが必要かつ重要となる。「他人(ひと)との交わりが人間(ひと)を育てる」のである。併せて、「大人こそ子どもの友だち」「大人の愛情が社会力の温床」「大人の適切な応答が不可欠」であり、そうでなければならないのである(『社会力がよくわかる本』109~153ページ)。端的にいえば、「社会の成員が互いに他者に関心と愛着と信頼感をもつ」ことである(『子どもの社会力』70ページ)。なお、門脇のいう相互行為とは、「互いに、相手から働きかけられたその内容に影響されて行為を返し、次に相手が自分に返してくる行為に影響を与える意図をもって相手に行為を返す、という行為の取り交わし」のことである(『社会力を育てる』115ページ)。相互行為は、社会力とともに門脇の言説の重要なキー概念である。
さらに門脇は、まちづくりと社会力に関して次のように述べている。「近い将来、地方主権が現実になるということは、地域の福祉(well-being)が向上し、住みよいまちになるかどうかは、他でもない、住民自身の自覚と責任にかかるということです。そのとき、真っ先に問われるのは住民一人ひとりがどれだけ社会力を身につけているかになるはずです。言葉を替えれば、住民がどけだけしっかりと人的ネットワークを築き、そして地域のために知恵や口を出すと同時に、そこでともに生きる人びとのために自ら汗を流し(労力を提供し)、金を出すか(身銭を切るか)にかかるということです」(『社会力を育てる』229ページ)。この点に関して門脇は、多少具体的に、「社会の今後のあり方を根本的に考え直し、社会の改革に取り組む」ためには、次のようなことが求められるという。それは、「人間や社会への強い関心であり、社会の仕組みを解剖する能力であり、あるべき社会を考えデザインする構想力であり、何よりそうした社会を作り運営していく能力と意欲である」(『子どもの社会力』71ページ。下線は阪野)。こうした能力や構えが、「社会力」である。
なお、門脇は、社会力と市民性(citizenship)に関して、社会力の行き着くところはシティズンシップ(市民としての資質と能力)であるとして、次のように述べている。「社会を構成している人間として、その運営に積極的に関わっていくということが『社会力があること』だとしたら、まさにシティズンシップがあるということだと言ってもいい。」(『〈大人〉の条件』岩波書店、2001年、181ページ)。
以上を要するに、門脇は、『子どもの社会力』(岩波新書、1999年12月)以来、「社会力」に関する著作を矢継ぎ早に刊行して地域や学校で社会力を育てる必要性や重要性を説き、「『社会をつくり、社会を変えていく力』こそ真の学力である」という学力観に立って、「産業社会に役立つ人間を育てる教育から脱却して、個々の人びとの善き生と社会の健全な発展を両立させる教育へと一刻も早く、教育の目標を転換しなければならない」とするのである(『社会力を育てる』158、171ページ)。 
ここで、この点に関して、木原勝彬(きはらかつあきら、ローカル・ガバナンス研究所)の「住民自治力・市民社会力の強化による地域再生」をめぐる次の言説を紹介しておきたい。
第2期地方分権改革(2007〈平成19〉年度~)の目標は、「国から地方への本格的な権限と税財源移譲による充実した地方自治の確立であり、住民自治力・市民社会力に支えられた市民主権型自治体の構築にあるのではないだろうか。ここでいう住民自治力とは、地域の課題解決力、地域に必要な公共サービスの供給力、地域の意思形成・決定力、地域の軌範(「規範」―阪野)形成力、関係主体との協働力で構成される地域住民の『自律と自己統治』力である。また、市民社会力とは、公共セクター・市場セクターから独立する、市民活動、コミュニティ活動、NPO活動などの市民的公共圏を担う市民セクターとしての力量で、上記の住民自治力を基盤に政策形成力、連帯力、対抗力で構成される。連帯力とは、市民セクターを構成する多様な活動団体間の共感・協力・連携力であり、社会の結束力でもある。対抗力とは、公共セクター・市場セクターへの異議申し立て、アドボカシーなどによる批判力である。地方分権時代の自治体像である市民主権型自治体の構築は、民主主義の理想である『市民による、市民のための、市民の政府』の実現にあり、市民・NPO・コミュニティ組織等が、政治的意思決定、政策形成、公共サービスの供給、行政評価などに、主権者の責務として直接的に関与する市民統治型自治体の創造にある。」(木原勝彬「市民主権型自治体への道―住民自治力・市民社会力の強化による地域再生―」コミュニティ政策学会編集委員会編『コミュニティ政策』第5号、東信堂、2007年、3ページ。下線は阪野)。
門脇のいう「社会力」の育成や「互恵的協働社会」の創造、木原のいう「住民自治力・市民社会力」の強化や「市民主権型自治体」の構築をより確かで、豊かなものにするためには、個々の住民(個人的実践主体)の主体形成のみならず、それを集団的実践主体や運動主体へと育成・向上させることが求められ、そのあり方が厳しく問われる。それはまさに、市民福祉教育に課せられた大きな課題である。そしてそれは、子どもから大人まで、社会から孤立したり社会的に排除されている人びとを含めたすべての地域住民がかかわることを必要とする福祉の(による)まちづくり、換言すれば「誰も排除しない、されないまちづくり」が要請されていることによる。

自律教育と市民福祉教育

市民福祉教育は、住民一人ひとりがそれぞれの認識や判断、思考などに基づいて、住みなれた地域で自立・自律した生活を営むことができる福祉文化の創造や福祉の(による)まちづくりをめざして日常的な実践や運動に取り組む「市民」主体の形成・成長・発展を図るための教育活動である。市民福祉教育についてとりあえずこのように概念規定した場合、「自立」(independence)と「自律」(autonomy)、そして内容的には「共生」(symbiosis、cooperation)がひとつの鍵概念となる。それらのうちから、ここでは、岡田敬司(京都大学)の所説(『自律者の育成は可能か』ミネルヴァ書房、2011年、等)に依拠しながら、「自律」をめぐって若干述べることにする。
そのまえに、「共生」に関して一言すると、例えば庄司興吉(東京大学)は、共生(広義)という言葉・用語を社会科学的に概念化する場合には、共存(co-existence)、共有(sharing)、共生(symbiosis)、共感(sympathy)という4つのヴァージョンに分析して考える必要があると説いている(庄司興吉編著『共生社会の文化戦略』梓出版社、1999年、3~12ページ)。庄司がいうこの4つのヴァージョンに関しては、共存には理解、共有には固有、共生には自立、共感には傾聴がそれぞれその前提(必要)となることを付言しておきたい。そして、これらは、市民福祉教育の理論化や実践の展開を図る際の重要な用語のひとつでもある。
さて、「自律」について、『広辞苑』(第6版、岩波書店、2008年)は、「自分の行為を主体的に規制すること。外部からの支配や制御から脱して、自身の立てた規範に従って行動すること」、また『大辞林』(第3版、三省堂、2006年)では、「他からの支配や助力を受けず、自分の行動を自分の立てた規律に従って正しく規制すること」と説明している。
いうまでもなく、教育の基本的目標は自律的人間の育成にある。それは、教育基本法にいう「教育の目的」としての「人格の完成」を意味する(人間の自律=人格の完成)。そして、自律的人間こそが真に、地域・社会を担い、創造・改革することができる。
自律とは、自らの判断によって自らの行為を決定あるいはコントールすることである。その判断や行為決定を可能にするためには先ず、自分を取り巻く環境やそのもとに展開されている状況、直面している出来事や事柄、問題などについて認識、理解し、思考することが必要となる。また、自律は、自己判断に基づいて自分の行為を自分で規制・統制することから、他からの強制や拘束、妨害などを受けない、個人の自由意志の存在を前提とすることはいうまでもない。その自由意志は、他人の言動に影響されないだけでなく、自分の欲求にも影響されずに自分をコントロールする意志を含意する。こうした自律にこそ「人間の尊厳」を見いだすことができ、「自から」を「律する」ことができる点において人間は尊厳に値する存在であるといえる。
人が自ら思考・判断し、自律的に行動するためには、個々人の自由意志と個人の社会的責任に立脚した権利意識や自治意識をもって自覚的・能動的に学び続けることが肝要となる。こうした人間(「市民」)主体の形成は、教育が取り組むべき根本的かつ現代的課題である。それはまさに、市民福祉教育の課題でもある。
人間は個人として個々に存在すると同時に、社会的集団や組織の構成員としても存在している。「人間は社会的存在である」(アリストテレス)といわれ、和辻哲郎が『風土』(岩波書店、1935年)で主体的・具体的な人間存在は個人的かつ社会的な二重構造をもつと説く所以である。ここから、自律の意味は、自己判断・自己決定や自己統制による「個人的自律」だけでなく、社会的集団・組織における共同判断・共同決定や内部統制による「集団的自律」をも含むことになる。これは、社会的集団・組織や地域・社会の自治のあり方を問うものでもある。
集団的自律は、社会的集団・組織における合理的・統合的な集団行為について判断・決定するためのものである。しかし、それは、必ずしも個々の構成員にとって合理的な納得を得ることができるものであるとは限らない。集団的自律の名のもとに個人的自律が軽視・無視され、あるいは圧殺され、個人的自律と集団的自律の間に矛盾や対立、葛藤などが生ずる例は枚挙にいとまがない。この両者の調和を図り、相補的・相乗的関係を創り出すことに教育、したがってまた市民福祉教育の重要課題があるといえる。
ところで、自律の反対概念は「他律」(heteronomy)である。他律とは、自らの判断によって自らの行為を決定あるいはコントロールすることができない事態であり、外部の権力や権威に依存、服従することをいう。人は、一般的には、他律的存在から自律的存在へと成長・発達する。そのためには、時期や状況に応じて、他者によって権力的あるいは権威的に主導される教育としての他律教育が必要かつ重要となる。なお、ここでいう権力とは「非自発的な服従を引き出す力」、権威とは「自発的な服従を引き出す力」を意味する(岡田敬司『かかわりの教育学』(増補版)ミネルヴァ書房、2006年、246ページ)。
他律教育は、自律性を育成するための受動的・強制的な教育である。自律教育は、自律性を推進するための能動的・自発的なそれである。いずれにしろ、教育は、その根源においては他律的な営みであるが、他律教育とその基での自律教育の過程を通して、あるいは他律教育と自律教育の相互性(相互依存、相互補完、相互促進)のなかで、自律性の育成、獲得を図るのである。
市民福祉教育も時期や状況に応じて、他律教育や自律教育としてのその展開が必要となることは、これまたいうまでもない。
以上を要約するそのひとつとして最後に、西岡正子(佛教大学)の次の言説を紹介する。「自律のための教育は若年世代、壮年世代そして高齢世代と今を生きる全世代が、共に取り組み実現しなければならない課題である。それは取りも直さず、人間の尊厳に基づく教育であり、人間として生きるための教育である。すべての世代の幸せと豊かな社会の形成は自律の為の教育と密接不離の関係にある。われわれは自律のための教育の実現をもって初めて未来の創造に向かうことが出来るといえるのである」(南澤貞美編『自律のための教育』昭和堂、1991年11月、105ページ)。

自己実現と市民福祉教育

「自己実現」(Self-actualization)は、福祉や教育の分野においては重要な用語のひとつである。しかし、その言葉は、今日においても抽象的な単なるスローガンとして使われることも多い。そもそも自己実現という用語は、アメリカの心理者であるA.H.マズロー(Abraham  H.Maslow)の自己実現理論や人間の「欲求の5階層説」が日本に紹介され、一般化したものである。マズローは、人間の「基本的欲求」を低次から高次へ、すなわち「生理的欲求」→「安全の欲求」→「所属と愛の欲求」→「承認の欲求」→「自己実現の欲求」の5階層に分類している。ここでは、マズローの欲求の5階層説は単純な固定的階層としてではなく、相対的優位性により欲求の階層が構成されていることに留意しておきたい。
小松一子(花園大学教授)によると、「自己実現」の項目が事典・辞典の類にはじめて記載されるのは、心理学関係では1976年、教育学関係では1977年、社会福祉学関係では1982年からである。また、『広辞苑』では、第5版(1998年)にはじめてその用語が採録され、第6版(2008年)のそれでは、「自分の中にひそむ可能性を自分で見つけ、十分に発揮していくこと。また、それへの欲求。マズロー(A.Maslow 1908-1970)は、人の欲求階層の最上位に置いて重視した。」と記述されている。
マズローは、「成長と認識」に関する論述のなかで、「至高経験(「最高の幸福と充実の瞬間」)においは、個人は最もいまここの存在であり、いろいろの意味からして、過去や未来から最も自由であり、経験に対して最も『開かれている』」(『完全なる人間』153ページ)と述べている。また、「創造性」に関する論述のなかで、「『現在のことで夢中になる』能力こそ、どのような創造性にとっても必要不可欠な条件であると思われる」(『人間性の最高価値』76ページ)と述べている。
要するに、マズローにあっては、「自己実現」においては「現在」に留意し、「現在」を強調することが必要かつ重要となるのである。ただし、「現在」は「過去」や「未来」から孤立しているわけではない。また、それは、単純に、過去→現在→未来、という直線的な時間の流れ(経過)のなかに位置づくものでもない。「過去」と「未来」は、「現在」との関係性において重視されるべきものである。仮に主従関係でいえば、「現在」が主で、「過去」と「未来」は従属的な位置にある、といえよう。
ところで、教育とは、子どもであれ大人であれ、現在の生(生きること、生きている状態)のあり方を、未来の、理想とするそのあり方に近づけるための人間的な営みである、といえる。かつて堀尾輝久(東京大学)は、『教育入門』(岩波新書、1989年)において次のように述べた。
発達の視点は、人間の価値を最終目的との関係で評価するのではなく、変化の過程自体に価値を認める人間観と結びつきます。子どもにとって、そして人間にとって、過去の集積としての現在は、将来の完成のための準備として意味があるのではありません。将来の準備のために現在を貧しくすることは、実はその将来をも貧しくします。未来は現在のうちに含まれ、現在は未来への選択によって方向づけられる、そして現在の充実こそが、明日の豊かさを約束するのであり、発達段階に応じた適切な学習と教育による現在の充実が、将来における可能性の開花を準備するのです。この意味で、現在の充実とは、子どもにとって、同時に未来への背のびを含んでいます。このような意味での教育とは、子どもにとって、いまだためされていないものへの挑戦であり、同時にこのことが、おとなたちの―そして既存の価値の―予測をこえた地平への発達を可能にするのです。(96ページ)
以上から、自己実現とは、“いま・ここ”を生きることに関わるのであり、堀尾がいう「現在の充実」はすなわち「自己実現」を意味する、といえよう。
周知の通り、教育の世界で「自己実現」をめざす教育が強調されるのは、学校教育においては、1989〈平成元〉年に改訂・告示され、小学校で1992〈平成4〉年度、中学校で1993〈平成5〉年度から実施された「学習指導要領」以降のことである。そこでは、知識や技能を中心にした旧来の学力観が見直され、「社会の変化に主体的に対応できる能力の育成」や「個性を生かす教育の充実」といった「新しい学力観」が提起され、教育評価についても「関心・意欲・態度」を重視する方向が打ち出された。
生涯学習においては、生涯学習審議会によって1992〈平成4〉年7月に行われた「今後の社会の動向に対応した生涯学習の振興方策について」の答申以降のことである。そこでは、「自己の生活を充実し、人間性を豊かなものとしていく」ための社会人に対するリカレント教育の推進や、「ボランティア活動そのものが自己開発、自己実現につながる生涯学習となる」という視点からのボランティア活動の支援・推進、などについて提起された。
人間は、子どもであれ大人であれ、「障がい」があろうがなかろうが、自分の個性や要求を発揮して、あるいは可能性を期待して主体的・積極的に社会とかかわり、自らを包み込む地域社会での日常的な社会生活(community life)を通して、自分の希望や願望を達成したり、豊かな社会の実現や文化の創造を図るために自律的・能動的に生きる存在、すなわち“いま・ここ”をよりよく生きる社会的・実存的存在である。こうした考え方は、社会的かつ自律的な「自己実現をめざす教育」や、社会的存在としての自己認識を基軸に市民性を育成するための「市民福祉教育」について考える際に、留意すべき人間観である。

批判的思考と市民福祉教育

市民福祉教育の具体的展開においては、問題発見・解決型学習が必要であり、その過程に参加(参集→参与→参画)することを通して実践的思考と批判的思考、そして科学的・論理的・合理的思考を育て、鍛えることが重要となる。なかでも、「批判的思考」(critical thinking)は創造的思考(creative thinking)の構成要素であり、必要条件となる。いずれにしろ、これらの思考に基づいてはじめて福祉文化の創造や福祉の(による)まちづくりの方向性を見いだすことが可能となる。
『批判的思考力を育む―学士力と社会人基礎力の基盤形成―』(楠見孝・子安増生・道田泰司編、有斐閣、2011年9月刊)と題する本がある。編者のひとりである楠見孝(京都大学)は、『書斎の窓』(2012年1・2月号、№611、有斐閣、2012年1月)で、本書の発刊によせて次のように解説している(59ページ)。

本書が主張したこと(の一つ目:阪野)は、日本の文化に根ざした批判的思考です。それは他者への配慮や協調的な理解や問題解決を志向した批判的思考です。すなわち、第一に、相手の立場に立って、相手の発言に耳を傾けること、第二に、相手を攻撃するためではなく、自分の理解を深め、自分の考えが正しいのかを吟味するために問いを出すこと、第三に、対立がある場合には、相手も自分も満足できるような解決策を見いだそうと努力することです。そして最終的には、自分の価値観や信念に基づいて行動することです。このように日本語の「批判的思考」に新たな豊かな意味を持たせたいというのが私たちの主張です。二つ目は、批判的思考における内省的思考の重視です。認知心理学の研究では、人の認知のバイアス(偏り)が数多く指摘されています。すなわち、相手を攻撃するのではなく、自分の認識にバイアスが生じうることに自覚的になり、バイアスが生じていないかを内省することが批判的思考の大事な側面だからです。私たちの目的は、家庭や学校や職場を批判的思考が出来る場にすることです。

楠見はまた、『同上書』で「批判的思考の態度」について次の6点を提唱し、その態度を備えることの必要性や重要性を説いている(11ページ)。 (1)熟慮的態度 : 情報を鵜呑みにせず、じっくり立ち止まって考える態度。 (2)探究心 :  さまざまな情報や知識、選択肢を求めようとする主体的な態度。 (3)開かれた心 :  自分の知っていることが有限であることを自覚し、異なる意見・価値観や文化の存在を理解し、それらに関心をもつ態度。 (4)客観性 : 主観にとらわれず客観的に公正にものごとを見ようとする態度。 (5)証拠の重視 : 信頼できる情報源を利用し、明確な証拠や理由を求め、それらに基づいた判断をおこなおうとする態度。 (6)論理的思考への自覚 : 論理的思考の重要性を認識し、自分自身が論理的な思考を自覚的に活用しようとする態度。すなわちこれである。
楠見は、「内省」(reflection)なかでも成人期の学習における、批判的思考に基づく「内省」について、次のように述べている(231ページ)。

成人は、仕事における複雑で変化する状況に対応し、内省しながら柔軟に対応をする内省的実践(リフレクティブ・プラクティス:reflective practice)が必要である。内省的実践とは、実践を進めながら、意識的・体系的に状況や経験を振り返り、行動を適切に調整して、批判的洞察を深めることである。さらに、内省を伴うよく考えられた練習は熟達化を促進する。内省には、振り返り的省察として、体験を解釈して深い洞察を得ることと、見通し的省察として、のちの実践の可能性について考えを深めることがある。
職場において知識やスキルは、個人の力だけで獲得されるものではなく、先輩・同僚など周囲の人との相互関係を築くなかで獲得され、その関係の編み目のなかで発揮されるものである。したがって、批判的思考を実践するには、職場が批判的なコミュニティであることが重要である。批判的なコミュニティとは内省に基づく質問、証拠に基づく議論、そして反論が奨励される社会(共同体)のことをさす(下線は阪野)。

以上の説述は、子どもから大人まで、そして福祉サービスの必要者や利用者などを含めたすべての地域住民に対する市民福祉教育についても通ずるものである。福祉教育の体験学習には、内省すなわち「振り返り的省察」と「見通し的省察」が必要かつ重要となる。筆者(阪野)はかねてより、福祉教育の体験学習に関して、「学び」→「気づき」→「ふりかえり」→「変わり」→「動く」という循環過程を通して、その深化・変容を図る必要性や重要性について指摘してきた。思い起こしたい。また、豊かで確かな市民福祉教育を推進するためには、地域コミュニティにおいて問題発見・解決型学習を進めるなかで懐疑的・批判的思考をよしとして受け入れ、その育成や発揮を支える環境醸成や条件整備を図ることが肝要となる。とりわけ学校における市民福祉教育については、従来から、ある一面では古くて狭い「福祉」や「福祉観」を「詰め込み」「刷り込む」教育(学習)に偏っていることを抜本的に改革・改善する必要がある。この点についても留意したい。

ソーシャル・キャピタルと市民福祉教育

わが国はいま、それまでの「国家と企業の時代から、地域と市民の時代へ」という激動の時代(ステージ)にある。具体的には、1980年代以降の「大きな政府から小さな政府へ」「ガバメントからガバナンスへ」という趨勢のなかで、1990年代以降、地方分権の推進に関する国会決議(1993〈平成5〉年6月)に基づく地方分権改革、それに続く民主党政権(2009〈平成21〉年9月~)下における地域主権改革の推進が図られている。とともに、「旧来のボランティア活動から、『新しい公共』を支えるNPOやボランティアなどの市民活動へ」という動きが活発化している。それは、1995〈平成7〉年の阪神・淡路大震災と「ボランティア元年」、1998〈平成10〉年の特定非営利活動促進法、そして2011〈平成23〉年の東日本大震災と「コミュニティ再生元年」(牧里毎治)などがひとつのきっかけになっていることは周知の通りである。そういうなかで、わが国では、2000年代に入ってソーシャル・キャピタル(social capital、社会関係資本。以下、「SC」と略す)についての研究が盛んに行われるようになっている。ちなみに、世界では、SCについての研究は、1990年代後半頃から急速に多方面で注目を集めるようになる。
SCの研究については、アメリカの政治学者ロバート・D・パットナム(Robert D.Putnam)のそれがよく知られている。パットナムは、1993年に出版した『哲学する民主主義』(河田潤一訳、NTT出版、2001年。原題 Making Democracy Work )において、SCを次のように定義した。「調整された諸活動を活発にすることによって社会の効率性を改善できる、信頼、規範、ネットワークといった社会組織の特徴」(河田訳、206~207ページ)、がそれである。要するに、SCは、人々の協調行動を活発にすることによって、社会の効率を高める働きをする社会的な関係をいう。そして、その内実・構成要素は「信頼」「規範」「ネットワーク」の3つである。そして、パットナムはいう。「信頼、規範、ネットワークのような社会資本の一つの特色は、普通は私的財である通常資本とは違い、普通は公共財である点である」(211ページ)。
「信頼」(trust)は、自発的な協調行動を生み出す源であり、SCの本質的な要素であるとされる。その信頼は、自分が個人的に知っている範囲の人々に対する信頼と、知らない人を含む一般的な人々に対する信頼とでは、信頼の性質は大きく異なる。パットナムが重視するのは、前者のパーソナルな信頼(personal trust)ではなく、後者の一般的信頼(generalized trust)である。小規模で緊密に結びついた前近代的なコミュニティにおいてはパーソナルな信頼だけでも足りるが、大規模で複雑化した現代社会においては、あまりよく知らない人同士の相互作用が圧倒的に多くなるため、知らない人を含んだ薄い信頼すなわち「一般的信頼」の方がより広い協調行動を促進することにつながり、SCの形成に役立つとしている。
「規範」(norm)は、「~べきである」と表現することのできるもので、法規範や、道徳や倫理、ルールや慣習などの社会規範がその典型である。パットナムは、さまざまな規範のなかでも、「互酬性の規範」(norms of reciprocity)を特に重視している。互酬性とは、相互依存的な利益の交換を意味するが、それは、「均衡のとれた互酬性」(同等価値の利益を同時に交換することを示す)と「一般化された互酬性」(現時点では一方的な、あるいは不均衡を欠く交換でも、将来的にはいま与えられた利益は均衡のとれた交換になるという相互期待を基にした交換の持続的な関係のことを示す)に分類される。パットナムが重視するのは、前者の均衡のとれた互酬性ではなく、後者の一般化された互酬性である。一般化された互酬性は、短期的には相手の利益になるようにという愛他主義に基づき、長期的には当事者全員の効用を高めるだろうという利己心に基づいており、利己心と連帯の調和に役立つとされる。
「ネットワーク」(network)には、職場内の上司と部下の関係などの「垂直的なネットワーク」と、合唱団や協同組合などの「水平的なネットワーク」がある。パットナムは、水平的かつ多様な人々を含むネットワークこそがSCを構成すると考える。そして、家族や親族を超えた幅広い「弱い紐帯」を重視し、そのなかでも特に「直接顔を合わせるネットワーク」が重要であるとする。
以上のように、パットナムが重視するSCの内実・構成要素は、「一般的信頼」、「一般化された互酬性の規範」、「水平性と多様性のある市民社会のネットワーク」、この3つである。また、パットナムは、「ネットワーク」が「信頼」や「互酬性の規範」を生み、「互酬性の規範」や「ネットワーク」から社会的な「信頼」が生まれるというように、互いに他者を増加・強化させる関係にあることも指摘する。
パットナムの言説から筆者(阪野)は、SCを、人々の協調行動を活発にするネットワーク(社会的つながり)と、そこから生まれる互酬性の規範(お互いさまの支え合い)一般的な人々に対する信頼感である、と理解したい。SCが多く蓄積されている地域・社会では豊かなネットワークのもとに人々の協調行動が起こりやすく、人々は互いに信頼しあい、互いに支え合って、地域・社会の発展を促す、という論理である。いろいろな人々同士が社会的に、豊かにつながり(ネットワーク)、それに基づいて互いに信頼しあい(信頼)、“お互いさま”という想いから互いに支え合うこと(互酬性の規範)によって地域・社会の諸問題が解決され、より良い統治が進み、豊かな地域・社会が創り出されるのである。
わが国のSC研究において注目すべき論者のひとりに坂本治也(さかもとはるや、関西大学)がいる。氏の近著『ソーシャル・キャピタルと活動する市民―新時代日本の市民政治―』(有斐閣、2010年)から、重要な言説の一部を以下に紹介する。
本書ではとくに断りがないかぎり、ソーシャル・キャピタルを「人々の間の自発的協調関係の成立をより促進する、市民社会の水平的ネットワーク、一般的信頼、一般化された互酬性の規範」の意味で用いることにする(63ページ)。
本書は、パットナムの分析枠組みを援用しながら、日本の地方政府の統治パフォーマンス(performance 遂行能力:阪野)とソーシャル・キャピタルの関係を、…(中略)…計量分析を通じて明らかにすることを試みた。分析の結果、都道府県と市区いずれのレベルにおいても、ソーシャル・キャピタルが統治パフォーマンスを高める効果は確認されなかった(215ページ)。
ソーシャル・キャピタルの統治パフォーマンスを高める効果というのは、従来想定されていたほど強くもなければ重要でもない可能性がある。このことは既存のソーシャル・キャピタル論に対する重大な問題提起として一定の意義があろう(219ページ)。
統治パフォーマンスに有意なプラスの影響を与える唯一の媒介変数は、「活動する市民」が果たす「政治エリート(首長と議会議員:阪野)に対する適切な支持・批判・要求・監視の機能」であるシビック・パワーであることが確認された。そしてシビック・パワーは、一般市民ではなく、「自らが定義する特定の『公益』の増進をめざし、異議申し立て、政治エリートの監視、啓発活動、公論喚起などの手段を通じて、政治機構の外側から政策過程に何らかの影響を与えようとする組織化された市民団体などで活動する運動家・活動家」である市民エリートによって担われていることが明らかとなった(215ページ)。
本書は市民や市民社会組織が果たす「政治エリートに対する適切な支持・批判・要求・監視の機能」であるシビック・パワーの重要性を説くものであった。つまり、政府の統治パフォーマンスを高め、より良き統治を実現するためには、「協調する市民」や「協働する市民」に加えて、政府を監視・批判する「活動する市民」の存在が必要不可欠なのである
近年の日本ではソーシャル・キャピタル論や協働論が大きな注目を集める中で、「協調する市民」や「協働する市民」の重要性ばかりに研究関心が集中するあまり、「活動する市民」の重要性は…(中略)…等閑に付されるか、場合によっては円滑な政策立案・実施を阻害するものとして否定的に描かれることが多い。…(中略)…本書の知見は往々にして見過ごされがちであった「活動する市民」の重要性に光を当てるものとして、一定の価値を有するといえよう(219~220ページ。下線は阪野)。
筆者(坂本)は、より良き統治を実現するうえで、「活動する市民」の存在だけが重要だと主張したいわけではない。「協調する市民」や「協働する市民」の存在も同じように重要であると考えている。…(中略)…筆者が「活動する市民」の重要性を強調するのは、あくまでそれが現状では看過され過ぎていると考えるためであり、政府を監視・批判する市民が際限なく増加していくことが望ましいと考えているわけではない。いい換えれば、「活動する市民」の存在は、より良く統治の必要条件ではあるものの、十分条件ではないのである(221ページ)。
すなわちこれである。また、坂本は『同上書』で、政治エリート(地方政府の政治エリートは首長と地方議会議員である)に対して「批判的(critical)かつ活動的(active)な態度・行動を有する市民」を「活動する市民」と呼ぶ(131ページ)。そして、「活動する市民」が果たす「政治エリートに対する適切な支持、批判、要求、監視の機能」のことを「シビック・パワー(civic power)」と呼ぶ(136ページ)。換言すれば、政治エリートに対して適切な支持、批判、要求、監視を行う市民の力をシビック・パワー(坂本の造語)と呼ぶのである。さらに、坂本にあっては、「政治エリートに対する適切な支持、批判、要求、監視の機能」を担う存在として、「一般市民(ordinary citizen)」と「市民エリート(civic elite)」の2通りが考えられる(136ページ)。市民エリートは、一般市民のなかの一部であるが、具体的には市民運動、オンブズマン運動、住民運動、消費者運動、環境運動、女性運動などの諸組織・団体に属する運動家・活動家を念頭に置いている(137ページ)。
以上を要するに、SC論の中心には、人々の「個人的つながり」、あるいは「社会的ネットワーク」は価値のある財産(「公共財」)である、という前提が据えられている。これは、イギリスのことわざである「(大切なのは)何を知っているかでなく、誰を知っているかだ」(It is not what you know but who you know )に通ずるものでもある、といえよう。
さて、SCと市民福祉教育の関係について論ずる場合、先ずは、SCの形成にとって市民福祉教育はどのような役割を果たすのか、市民福祉教育の展開にとってSCはどのような意味をもつのか、ということが問われよう。
SCの醸成・蓄積・向上によって人々のつながりや社会的ネットワークが豊かに構築されるところでは、人々の、福祉の(による)まちづくりやそのための市民福祉教育への関心や理解、参加はその度合いを高める。また、福祉の(による)まちづくりや市民福祉教育への関わりが高い人々は、パーソナルネットワーク(個人を中心とした他者とのネットワーク)や社会的ネットワークとの親和性や価値を高め、SCの蓄積・向上を促すことになる。
この点に関して、坂本のいう「一般市民」に対するそれとともに、「市民エリート」の育成・確保、すなわち「シビック・パワー」の育成・向上を図るための市民福祉教育のあり方が問われることに留意したい。
地域に根ざした、地域ぐるみの豊かな市民福祉教育の実践はSCを形成する。豊かなSCの蓄積は、より豊かな市民福祉教育の推進につながる。換言すれば、SCは市民福祉教育を推進するためのひとつの資源であり、またSCを醸成するプロセスは市民福祉教育の推進のプロセスの一部でもある、といえよう。その点において、市民福祉教育の進展の度合いは、SCのひとつの指標になり得るといってよい。
SCと市民福祉教育の関係は相乗的に互いを促進しあう関係(好循環関係)になり得るが、場合によってはその関係性がマイナスに機能することもある。例えば、前近代的な小地域において、人々の旧来のつながりが強いところでは、福祉の(による)まちづくりやそのための市民福祉教育の関心や理解、参加は抑制される。情報提供や意見交換、社会参加活動が普段のインフォーマルな関係のなかで事象的にはスムーズに行われるがゆえに、それがかえって計画的な福祉の(による)まちづくり施策の推進や系統的な市民福祉教育の展開などについての認識や理解を鈍らせることになるのである。
SCは、それ自体の醸成・蓄積を図るための取り組みのなかから形成されるものではない。それは、人々が抱える生活問題やその重要な一部分である社会福祉問題の解決を図り、福祉の(による)まちづくりを進める取り組みを通して、統治パフォーマンス(遂行能力)を高め、より良き統治を実現するその過程のなかから生まれるものである。