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矢幅清司「高校における福祉教育」(2)(上智大学/「福祉科教育法」講義資料/平成24年6月19日実施)
矢幅清司「高校における福祉教育」(1)(上智大学/「福祉科教育法」講義資料/平成24年5月29日実施)
矢幅清司「教科『福祉』:福祉に関する学科の現状と課題(平成28年度)」―所管事項説明―
矢幅清司「福祉系高校のこれから」―最終講義資料―
矢幅清司「福祉科教育法『高校における福祉教育』」―講演資料―
ケア現場の虐待や暴力が問う「地域共生社会」:福祉教育のもうひとつの視点―渡邉琢を読む―
〇「相模原障害者施設殺傷事件」(2016年7月)の被告・植松聖は、「重度障害者は不幸を生む」「人生でやるべき事が見つかって、目の前が輝きだした」と嬉しそうに当時を思い出す。また、「(自分の考え方が)既に世の中に伝わっていると思う」と自信を見せる。そして、「事件を起こして良かったと思うのは、いろんな人が話を聞くために会いに来ること。ぼくもついに、ここまで来たんだ」と口元をゆがめて笑った、と報じられた(「虚栄/相模原事件面会記録(上)(下)」『岐阜新聞』2019年12月26日、27日朝刊)。
〇あの衝撃的な事件から3年半が経ったいま、障がい者や「障害(者)福祉」をめぐる社会的議論は深められず、社会の関心は薄れ、風化が確実に進んでいる。そんななかで、渡邉琢(わたなべ・たく)の『介助者たちは、どう生きていくのか―障害者の地域自立生活と介助という営み』(生活書院、2011年2月、以下[1])を再読し、新刊本の『障害者の傷、介助者の痛み』(青土社、2018年12月、以下[2])を読んだ。渡邉は、日本自立生活センター(JCIL、京都市)事務局員、NPO法人日本自立生活センター自立支援事業所介助コーディネーター、ピープルファースト京都(知的障害をもつ当事者の団体)支援者である([2]帯)。
〇[1]は、「障害者の地域生活に根ざした介助という営み、その歴史と現状をつぶさに見つめつつ、『介助で食っていくこと』をめざす問題群に当事者(介助者である渡邉)が正面から向き合った」([1]帯)本である。具体的には、「障害者介助に関わる介助者たちのこと、制度のこと、障害者介護保障運動の歴史のこと、労働運動との関係のこと、そして自立生活運動のさまざまなあり方のことなどを包括的に論じ、(中略)今でも色あせることのない充実した内容」([2]15ページ)である。「関東方面では『青本』と呼ばれ、運動や制度の歴史が簡潔にまとまったものとして、厚労省の役人も参考書にしている」([2]14ページ)とも言われる。
〇[2]は、「相模原障害者殺傷事件は社会に何を問いかけたのか。あらためて、いま障害のある人とない人がともに地域で生きていくために何ができるのか。障害者と介助者が互いに傷つきながらも手に手を取り合ってきた現場の歴史をたどりながら、介助と社会の未来に向けて」([2]帯)論考する。特筆すべきは、生々しいケア現場の視点から、介助者の障がい者に対する虐待・暴力だけでなく、障がい者の介助者に対する虐待・暴力があり、介助者も障がい害も加害者と被害者のどちらの立場にもなり得ると説く。そのなかで渡邉は、介助者と障がい者の信頼関係(相互理解と相互信頼)の回復と構築・深化を図ろうとする貪欲な姿勢と強い意志を示す。その際のキーワードは、「つながり」(他者とのつながり、社会とのつながり、自分自身とのつながり)であり、その「断絶からの回復」を強調する。そこでは、皮相浅薄な「地域共生社会」論はいとも簡単に打ち負かされる。
〇[1]と[2]のなかから、「市民福祉教育」に通底する、あるいはそれを論じる際に留意すべきであろう渡邉の論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。
障がい者介助の運動と労働
「介助」は2000年代に入って成立した新しい職業形態である。雇用の非正規化、フリーターの増加などが社会的に認知されはじめた時期とだいたいかぶっている。介助者は、多くの非正規労働者と同様に、その将来も不確定だし、現状も不安定である。けれども、今、この障害者介助を生業として、生活を組み立てている人が少なくない規模で存在する。([1]20、25ページ)
障害者介助には、運動という側面と、労働という側面の二つがある。これまでの障害者運動においても、その両者は互いに拮抗しあっていたように思われる。それは無償で自立生活を支えていた時代からそうであったように思う。運動が盛り上がっている時期は、支援者、介護者も大勢集まってくる。けれど、いったん盛り上がりが鎮(しず)まると、あるいは時代の流れが悪くなると、支援者たちはさーっと潮のようにひいていってしまう。すると残された者たちに介護の重労働がのしかかってくる。運動というよりも、介護の重荷ばかりが強調されるようになる。(中略)運動の裏側にはそうした介護の「シンドサ」というのがコインの裏側としてあったと思う。([1]43ページ)
地域自立生活保障と介助者・介護者研修
介助者・介護者に何らかの研修が必要だとしたら、それは、障害者の地域自立生活の保障のための研修だろう。現在のところ介護福祉士の講師陣には地域自立生活の保障に関わっている人はほとんどいない。研修課程の中にも地域自立生活のことはほとんど含まれていない。
私たちに必要なのは、現在地域生活が難しいとされる重度の知的障害者、身体障害者、難病者、精神障害者などが、いかに地域生活を実現・継続していけるか、についての研修だろう。
あるいは、そのうち施設送りになりそうな障害者、高齢者がいかに地域で暮らし続けていけるか、それを学んでいくことが必要だろう。施設で研修して、施設でのケアを学び、そして施設を守るための研修だったら、それはいらない。([1]338ページ)
「つながり」をつくる
おそらく、自立生活運動は今分岐点に来ている。これまで自立生活、当事者主権ということで、運動が強く推進されてきたけど、現場では、むしろポスト自立の問題がテーマとなっている。施設や親元を出る、それは確かに自立である。けれど、その先に何が待っているのか、どのような人間関係、そして社会が待っているのか。現在、「無縁社会」、「孤立」が社会問題となっている時代である(さらに手のかかる患者などは病院から在宅への追い出しがはじまっている)。人とのつながりをいかにつくっていくかが新しい時代のテーマだろう。
自立は、「~出る」ということだけが至上の価値ではない。やはり「出てその先~」を求めて出るのである。その先の関係こそが自立の内実を決めていく。([1]414~415ページ)
支援とつながりの模索
入所施設にいる知的障害者たちとつながるということは、残念ながらぼくらもいまだにほとんどできていない。けれども、せめて入所施設に入らないための支援に尽力するということが、ぼくらにとっては目の前の課題である。施設関係者や施設入所者の家族は、ぜひ本人の地域生活の可能性を模索してほしい。地域が頼りないのなら、その地域を頼りあるものにする提言をしてほしい。そして地域生活支援に関わる人たちは、ぜひぎりぎりの状況にある当事者や家族が「入所施設しかない」と思うことがないよう、支援を模索していってほしい。それらはつながりを取り戻す模索であり、またつながりを断たないための模索でもある。([2]24ページ)
障がい者の被害と加害
「加害」とどう向き合い、どう対処していくかは、障害者の地域生活支援に取り組む上でとても重要なテーマだ。加害に及ぶから、あるいは加害に及びやすいから、自分たちの団体や地域から排除して、施設や精神病院にいってもらおうとするとすれば、それはあまりに安直だろう。少なくともそれは、インクルーシブ社会を目指す態度ではないと思う。そして、そういう拒絶的な態度こそが、さらにその人の攻撃性を強めることだって十分に考えられるのだ。
他者を排除しやすい社会は加害者を生みやすいし、当然同時に被害者を生みやすい。私たちがインクルーシブ社会、誰しも排除されない社会、誰しもが尊厳とつながりを奪われることのない社会というものを目指すのだとすれば、誰にも被害を被(こうむ)らせないことと、誰にも加害に及ばせないこととは同時に考えていかないといけないように思う。自分たちに危害を加えかねない人をも、インクルーシブ社会の包摂の対象と考えていく、一面で大変苦しく胆力(たんりょく。ものに恐れず臆せぬ気力)のいる作業でもある。([2]74~75ページ)
障がい者と介助者の痛み
街の中で、障害者が人から奇異な目で見られる、無視される、さまざまなところにアクセスできない、そういう環境に置かれて、毎日のように障害者自身が傷を負わざるをえないのがまだまだこの社会の現状だろう。その傷が、障害者の目の前にいる介助者にある程度転化していくのもある意味では受け止めざるをえない。この場合、障害者、介助者双方に傷を負わせているのは、この地域社会の責任だろう。長い目で見るならば、障害者に深い傷を負わせているこの社会の差別的なあり方こそ、改善されていかないといけないはずだ。だから、障害者としても目の前にいる介助者に都合よく痛みを転化し、留飲(りゅういん)を下げる(不平や不満を晴らして心を落ち着かせる)だけでは、決して深い傷の要因が取り除かれることはないだろうし、また介助者としても、単にキレやすいめんどくさい障害者と見るだけでも問題は解決されないだろう。([2]101ページ)
当事者同士による熟議
今もしそれぞれの生活が切り崩されており、それぞれなりのしんどさを抱えている時代状況なのだとしたら、そして、その中で相互のつながりを模索し、ともに生きていこうとするのだとしたら、「双方の関係のなかで詰めあっていく努力をして、それぞれの立場の違いを自覚した上で、双方がお互いの生活をみあっていくという関係が無いかぎり、お互いに認め合った関係」は成立しえないだろう。
当事者主体、当事者主権という主張が一方にあり、それによって自立生活運動等は進展してきた。その主張がある一定段階に達したとしたら、それぞれのニーズや立場の異なる当事者同士による相互の詰め合いの努力が今後不可欠となってくると思われる。それはおそらく「熟議デモクラシー」という言葉で指し示されている事態とも通底しているだろう。自立や自己決定は、当事者個人や当事者団体の主張に収斂(しゅうれん。一つに集約すること)されるものでもなく、次いで「熟議」を呼び起こしていくものだろう。([2]213ページ)
「共に生きる」可能性と希望
「殺すぞぉ!」「出てけぇ」は、障害のある人たちの生得的な攻撃性を示したものではなく、ある状況下におかれたら障害者、健常者関係なく、人間として普通の反応なのだ。([2]363ページ)
見えざる暴力の暴力性を認識しそれと対決しつつ、その暴力に苛(さいな)まれふりまわされている人々に手を差し伸べ、「共に生きる」姿勢を示し続けること、少なくともじっとそばに居続けること、あるいはその社会的暴力を察知しつつその暴力が発現しにくい環境をつくっていくこと、そのためにはきれいごとではすまされない人間のおぞましい側面とも向き合う忍耐や深い洞察が必要となるけれども、そうしたことが「共に生きる」社会をめざすうえで必要な態度なのであろう。
奪われた「つながり」を取り戻すことはもちろん安易なことではない。当事者、支援者双方ともに苦難の道を歩まないといけないだろう。その途上において深い断絶や絶望、激しい感情を感じることもしばしばあるだろう。(中略)私たちはひとりぼっちではない。つながりを取り戻す可能性は開かれているのだろう。([2]364ページ)
〇例によって唐突であるが、[1]と[2]から再確認・再認識したことについて、これまでとは異なる文体(文章のスタイル)で本稿を結ぶことにする。
「ふくし」の共働と共創
すべての住民が多様なかかわりのなかで/豊かに快適にそれぞれを生きる/その場が地域・社会であり/そのための労働や活動・運動が「ふくし」である。
福祉が福祉を閉じるとき/地域が福祉を拒むとき/「ふくし」は霧消する。
地域が地域を開くとき/地域が福祉を解するとき/「ふくし」を志向する。
福祉と地域が互いにつながるとき/地域と福祉が互いを包み込むとき/ひとつの土俵のうえで/相互理解に基づく相互支援と相互実現が図られ/「ふくし」が共創される。
「つながり」の熱意と誠意
障がい者に対する一方的な「思いやり」や「善意」の押し付けではなく/厳しい福祉現場で“働く”介助者の「つながり」への一途な願いや祈りに触れるとき/強い“熱意”と真の“誠意”があることを思い知らされる/そこには口当たりのよい言葉は不要である/そこに至難の「地域共生社会」への志向性を見る。
付記(2)
「ふくし」の意味することについて、原田正樹(日本福祉大学)は次のように述べている。「共生文化を創出していくことができる力のことを『共に生きる力』という。これが福祉教育の目標である。/そしてそのことを子ども達にもわかるように、福祉教育実践の先人たちは、福祉を『ふだんのくらしのしあわせ』として、メッセージを込めた。/『ふくし』の主体は、私自身である」(逗子市社協 福祉教育チーム企画・編集『みんなが「ともに生きる」福祉教育の12年~逗子での12年の実績を踏まえて~』逗子市社協、2015年8月、101ページ)。
筆者(阪野)が平仮名の「ふくし」(ふだんの・くらしの・しあわせ)という言葉を使い始めたのは、1990年代中頃から2000年前後にかけての時期であろうか。その直接的なきっかけは、茨城県社協主催の福祉教育セミナー(1994年2月、1998年1月、2000年1月、2001年1月)に参加したことにある。そこで学んだのは、「ふくし」=「普通の・暮らしの・幸せ」(=「ノーマライゼーション」)であった。
今年も、「ふくし」と「まちづくり」「市民福祉教育」について探究する “旅“ が続く。その歩みは、確実にスローダウンしているが‥‥‥。
「ボランティア拒否宣言」(1986年)再考:ボランティア活動は主体的・自律的で相互実現を図る活動である―資料紹介―
〇筆者(阪野)が住むS市では、2018年7月に豪雨による浸水被害が発生した。社協は早速に災害ボランティアセンターを立ち上げ、ボランティアの募集と被災者(被災地区)への支援活動を始めた。2週間で、「予想をはるかに超える」およそ6,500人のボランティアが活動に参加した。そんななか、活動現場での次のような“やりとり”や“思い”が耳朶(じだ)に触れる。「遠くからわざわざ来ているので、弁当くらい出したらどうだ」(すべて手弁当でお願いしています)。「あちこちの被災地での活動経験について、その話を聞いてくれ」(いまは床下の泥だし作業が最優先です)。「持参した道具が壊れたので弁償しろ」(自己責任・自己負担でお願いしたいのですが)。「今日のボランティアの数とその内訳について情報提供しろ」(スコップをもってきて作業に加わってもらいたいものだ)。災害ボランティア活動現場のひとつの実相である。
〇8月、行方不明の子どもを発見したことを契機に、「スーパーボランティア」(尾畑春夫)が世間の耳目を集めた。尾畑は「無償」のボランティア精神を貫いている。9月からは、2020年東京オリンピック・パラリンピックの大会運営を支える「大会ボランティア」(8万人)と「都市ボランティア」(3万人)の募集が始まった。「上から目線」で、「安易にボランティア=労働力を集めようとしている」という批判の声も聞こえる。筆者が購読する地元新聞の「社説」は、最近のボランティア事情について次のように説いている(9月27日)。「これまでのような奉仕活動にとどまらず、災害からの復興援助、イベントの運営補助などボランティアの活動範囲は広がりを見せており、活躍の機会が増えるとともに期待も増しつつある。ボランティアは、かつてのような裏方ではなく、主役を支える名脇役へ役割を変えつつある」。
〇日本社会では、民主主義が後退し、右傾化・全体主義化が進んでいる。また、「災害多発時代」や「無縁社会」「共生社会」「管理社会」などについて云々される。ボランティアに関しては、「動員」「派遣」「活用」「タダ働き」「有償」「感動体験」「やりがい詐欺」等々の言葉が躍っている。『戦争ボランティア』(高部正樹著、並木書店、1995年2月)や『ブラックボランティア』(本間龍著、株式会社KADOKAWA、2018年7月)というタイトルの本も出ている。そういうなかでいま、ボランティアや市民活動の新たな展開を図るために、「ボランティア」や「市民活動」についての本質的な議論が求められている。
〇その時宜にかなった本が刊行された。早瀬昇著『「参加の力」が創る共生社会―市民の共感・主体性をどう醸成するか―』(ミネルヴァ書房、2018年6月)がそれである。筆者は早瀬の「ボランティア」言説にすべて首肯するものではないが、この本では、市民による「自治と共生の社会」を構築するための基礎的知識や、市民参加(市民活動)の視点や考え方についてわかりやすく解説されている。そのなかで早瀬は、花田えくぼの詩「ボランティア拒否宣言」(おおさか・行動する障害者応援センターの機関誌『すたこらさん』1986年10月号)を紹介している。筆者がこの詩に最初に出会ったのは、岡本栄一「ボランティア活動の分水嶺」大阪ボランティア協会監修/小田兼三・松原一郎編『変革期の福祉とボランティア』(ミネルヴァ書房、1987年7月、251~252ページ)においてである。鋭く厳しい表現(「犬」)や言葉によるボランティア批判は、衝撃的であった。およそ30年前のことである。以下にその詩を記しておく(ルビは筆者)。
ボランティア拒否宣言/花田えくぼ
それを言ったらオシマイと言う前に
一体私に何が始まっていたと言うの
何時だってオシマイの向うにしかハジマリは無い
その向う側に私は車椅子を漕(こ)ぎ出すのだ
ボランティアこそ私の敵
私はボランティアの犬達を拒否する
ボランティアの犬達は 私を優しく自滅させる
ボランティアの犬達は 私を巧(たく)みに甘えさせる
ボランティアの犬達は アテにならぬものを頼らせる
ボランティアの犬達は 残された僅(わず)かな筋力を弱らせる
ボランティアの犬達は 私をアクセサリーにして街を歩く
ボランティアの犬達は 車椅子の蔭で出来上っている
ボランティアの犬達は 私をお優しい青年達の結婚式を飾る哀(あわ)れな道具にする
ボランティアの犬達は 私を夏休みの宿題にする
ボランティアの犬達は 彼等の子供達に観察日記を書かせる
ボランティアの犬達は 私の我がままと頑(かたく)なさを確かな権利であると主張させる
ボランティアの犬達は ごう慢と無知をかけがえのない個性であると信じ込ませる
ボランティアの犬達は 非常識と非協調をたくましい行動だと煽(あお)りたてる
ボランティアの犬達は 文化住宅に解放区を作り自立の旗を掲げてたむろする
ボランティアの犬達は 私と社会の間に溝を掘り幻想の中に孤立させる
私はその犬達に尻尾を振った
私は彼らの巧みな優しさに飼い慣らされ
汚い手で顎(あご)をさすられた
私は もう彼等をいい気持ちにさせて上げない
今度その手が伸びてきたら
私は きっとその手に噛(か)みついてやる
ごめんね
私の心のかわいそうな狼
少しの間 私はお前を忘れていた
誇り高い狼の顔で
オシマイの向こう側に
車椅子を漕ぎ出すのだ
〇この詩については、複数のヒトがその内容を読み解いている。ここでは、筆者の手もとにある論考のうちから、岡本栄一、筒井のり子、仁平典宏、鳥居一頼、そして早瀬昇の解釈(総括)を紹介しておくことにする。
岡本栄一
この詩はいろいろな解釈を私たちに迫る。「障害者の自立」の問題、「一人よがりの独善的なボランティア活動」、あるいは「活動の手段化」等々。
いずれにしても、ボランティア活動を先験的、アプリオリ(自明的:筆者)に「社会的善」であるとみなしている人達には大変ショッキングな詩であろう。車イスを押したなら、どんな押し方でも障害者は「ありがとう」というべきものだ、と考えている人達は、きっと「傲慢」な障害者の詩だと思うだろう。私はこんな詩を書かせたこれまでのボランティア活動の「あり方」を悲しいと思う。ここには健常者と障害者とを二つに分けたままで成立するボランティア活動の姿がある。そこではお互いが成長せず、また変わりもしない、といったことがある。ともあれ、私はボランティアの側だけで「自己回転」する活動が、どんなに罪が大きいか、この詩を読んでハッとさせられたことは事実である。(岡本栄一『前掲書』252~253ページ)
筒井のり子
「かわいそう」という言葉自体は、もちろん差別語ではないが、その使われ方、使う人の気持ちいかんで、きわめて差別的な響きをもってくる。優越感の裏返しの同情は、その受け手にとって屈辱である。
次の詩はある障害者団体の機関誌に投稿されたものだが、“優しさ”から出発した援助が、結果的に相手の自立を損なってしまうことを、鋭く告発している。
「何もできない人」「かわいそうな人」「常に誰かの助けが必要な人」という決めつけは、ボランティア活動の本質をゆがめる。
たしかに現在、彼らは援助を必要としている。しかし、「援助を受ける側」という固定的なとらえ方をすべきではない。(筒井のり子『ボランティア・コーディネーター―その理論と実際―』大阪ボランティア協会、1990年3月、52、54ページ)
仁平典宏
1970年代以降、「ボランティア」は障害者から、抑圧者として尖鋭な批判を突きつけられることになった。この中で〈犬〉の記号も反復される。次の詩は、障害者運動――親や周囲の「善意」によって障害者の可能性が縮減されていく事態に対する根底的な異議申し立て――の系譜に位置づくものである。「ボランティアの犬達は」と何度もくり返されるこの詩は、それが〈贈与〉の対価として何を奪うかを、雄弁に告発している。
無償の、愛情に満ちた〈贈与〉行為こそが、「障害者」を障害者役割にとどめ、その可能性を根こそぎ奪っていく――言うまでもなくこれは、障害者運動が提起した最も重要な論点の一つであった。同時にボランティア言説の歴史も、決してナイーブなものではなく、絶えずこのような否定的なまなざしとの緊張のもとにあった。その中で、ボランティア言説は展開し鍛えられ、それなりに首肯性をもつ答えも生み出されてきた。(仁平典宏『「ボランティア」の誕生と終焉―〈贈与のパラドックス〉の知識社会学―』名古屋大学出版会、2011年2月、32、34ページ)
鳥居一頼
この詩は、たしかに衝撃が強いメッセージである。デフォルメ(歪曲:筆者)された表現であるが、そこに潜むボランティアの問題の核心を鋭く突いていることは、間違いない。このくらい痛烈に批判しない限り、お互いに覚醒はできないかもしれない。彼女のボランティア批判は、そこに安住した自身への憤りと悔悟(かいご:筆者)でもあり、その批判の矢は“自らに”放ったものでもあるといえよう。
その批判を裏読みすると、そこにボランティアの本質が見えてくる。逆説的に見るとボランティアとの信頼関係をどのように構築するのか、その関わり方を見事に表現しているのである。
もう一つ、ケアのあり方について問題を提起している。(中略)
この「ボランティア拒否宣言」は、まさに地域包括ケアが本格化する「ケア時代」に生きる多くの高齢者や闘病者の意思表明や自己選択・決定にかかる問題をも包含していることに気づかされる。花田の「頑固に意志を通す」生き方を考え真摯に受け止めなければ、障がい者や高齢者、そして闘病者にも、自己喪失の道を彷徨する悲劇となるであろう。(鳥居一頼「詩『ボランティア拒否宣言』に学ぶ“自立”と歪んだボランティア観~覚醒と受容そして意識変革を促す教材としての価値を探る~」『人間生活学研究』第22号、藤女子大学人間生活学部人間生活学科、2015年3月、103ページ)
早瀬昇
詩で使われている表現は激しいものではあるものの、ここで書かれているのは不信感から来るボランティアの拒否ではなく、逆にボランティアへの期待を込めた一種のラブレターだとも考えられます。というのも、この詩が掲載されたのは、障害者とボランティアが「障害の有無に関わらず、共に」より良い社会づくりを目指している団体の機関紙だからです。
とはいえ、この詩で私たちに届けようとしたボランティアへの問題提起には、真摯に応えなければなりません。ボランティアとボランティアが応援する相手との協働関係については、(中略)両者が共に生きる「共生」の関係づくりが重要になります。(早瀬昇『前掲書』93ページ)
〇いずれにしろ、この詩が発表された1980年代半ば以降は、1981年の「国際障害者年」、1983年から1992年までの「国連・障害者の10年」の取り組みや「障害者生活圏拡大運動」とともに、「障害者自立生活運動」が展開された時期である。「優生思想」「自立と自己決定」「障害文化」などについて激しく議論された。「青い芝の会」(横塚晃一、横田弘)や「札幌いちご会」(小山内美智子、沢口京子)などによる社会的差別・偏見に対する糾弾闘争が思い出される。それにしても、横塚晃一の『母よ! 殺すな』(すずさわ書店、1975年2月)はあまりにもインパクトの強い本であった。
〇そしていま、この詩の主語(「主役」)を「政府や行政」、「ボランティアの犬達」を「ボランティアの私達」に置き換えると、例えば、「国や行政は、ボランティアの私達をアテにならないものに頼らせ、巧みに甘えさせ、優しく自滅させる」などとなろうか。そこにあるのは政府・行政主導の「地域共生社会」「地方創生」「一億総活躍社会」の実現や、ボランティアによる国民保護活動の展開(「国民保護法」)にむけた「篭絡」(ろうらく。巧みにいいくるめて人を自由に操ること)である。気がつくと、恣意的に解釈されている「積極的平和」のために「戦争ボランティア」が動員・派遣される、ということが一番怖い。
〇筆者は、ボランティア活動については大まかには、「人権意識や正義感覚に基づく主体的・自律的な住民による・住民のための市民活動」である。「主体的」とは「他のものによって導かれるのでなく、自己の純粋な立場において行うさま」であり、「自律的」とは「外部からの支配や制御から脱して、自身の立てた規範に従って行動すること」をいう(『広辞苑』第7版)。すなわち、市民活動は、「言われなくてもするけれど、言われてもしない」(早瀬『前掲書』231ページ)活動である。ボランティア活動は、原則的に「無償」であり、「有償ボランティア」という言葉は矛盾した使用法である。「市民活動」は、(無償の)ボランティア活動と非営利・有償活動の両者を包含するものである。そして、ボランティア活動は、「ボランティアのいない地域・社会」づくりをめさず活動であり、そこにあるのは主体的権利と社会的責務としての市民活動である、と考えている。
〇なお、ボランティアの基本的な「原則」や「性格」、「最も重要な要件」や「一番の核にある要素」は「自発性」であるといわれる。『広辞苑』によると、「自発性」は「他からの教示や影響によるのでなく、内部の原因・力によって思考・行為がなされること」、「自発的」は「自分から進んでするさま」である。類似用語の「自主性」は「他者に依存せず、自分で行動することができる性質」、「自主的」は「他からの干渉などを受けないで、自分で決定して事を行うさま」をいう。
〇ここで、高島巌の「ボランティアは活動ではない。生活なのだ」「ボランティアは人間にだけあたえられた楽しき権利なのである」、木谷宜弘の「ボランティアは自由である。だから楽しい」「共生から共働、そして共創の社会づくりへ」という言葉が思い起こされる。
補遺
① 鳥居一頼の「『ボランティア拒否宣言』(花田えくぼ)を読み解く」について、鳥居の「解釈」の部分(「学生の意見をまとめた」部分もある)を紹介しておくことにする(「前掲論文」95~103ページ)。
② 早瀬昇の「『ボランティア拒否宣言』から学ぶ」について、上記の本文で引用した部分と一部重複するが、紹介しておくことにする(『前掲書』91~93ページ)。
あの頃の福祉教育、その記憶と記録(10):東京都における「福祉教育研究」等―資料紹介―
〇1970・80年代の東京都における「福祉教育研究」(報告書)で注目されるものに、東京都社協の「福祉教育研究委員会」(委員長・一番ヶ瀬康子、1970年度~1973年度)がまとめた『社会福祉の理解を高めるために』と、「福祉教育推進研究委員会」(委員長・大橋謙策、1985年3月~1987年12月)がまとめた『学校における福祉教育を考える―都内中学校・高校の実践をとおして―』がある。ともに総合的かつ実践的な検討が行われ、福祉教育の必要性と重要性が提起されるとともに、福祉教育実践の理論的先鞭がつけられた。
〇前者は、1970年11月に東京で開催された「昭和45年全国社会福祉会議」の第3専門委員会において「社会福祉の理解を高めるために―教育と社会福祉―」というテーマのもとに、福祉教育について研究協議されたことを契機にするものである。報告書は3部からなり、1971年3月、1972年7月、1974年3月にそれぞれ刊行された。そこでは、住民の社会福祉への認識を高めるためには、住民自身による主権者・生活者としての問題発見、生活経験学習が必要であり、福祉教育を住民の自主的学習権として捉えている。
〇初年度の報告書『社会福祉の理解を高めるために―福祉と教育―』(1971年3月)では、社会福祉の理解を高めるための「社会福祉教育」を、民主的「市民教育」として捉え、「生活権保障を実質化するための教育」として性格づけている。そして、福祉教育を展開するうえでの要点や課題について言及している。以下は、しばしば引用される一節である(3~5ページ。一部抜き書き)。それは、福祉教育実践の視点や「構成要件」を示している。
〇後者は、「福祉教育研究委員会」の研究の流れに続くものであるが、1977年度から始まる「児童・生徒のボランティア活動普及事業」(国の名称は「学童・生徒のボランティア活動普及事業」)の取り組みを踏まえたものである。内容的には大きく4部からなっている。第1は、福祉教育実践研究の視点で福祉教育の必要性を学校教育と社会福祉の立場から説き、福祉教育の基本的な考え方について述べている。第2は、学校教育現場における福祉教育実践を活動形態別にまとめ、福祉教育の進め方について述べている。第3は、学校における福祉教育を進めるうえで、社会福祉施設・家庭・社協に求められる条件整備や役割について述べている。そして第4は、それらの点を踏まえて、今後の福祉教育推進上の留意点や課題などについて述べ、提言を行っている(8ページ)。
〇ここでは、委員会での議論をふまえてまとめられた「福祉教育の概念」と、福祉教育実践の「構成要件」についての記述を紹介しておくことにする(31~32ページ)。
〇なお、東京都社協は、上記の報告書の刊行後、広報誌『福祉広報』(第189号、1984年8月。第352年、1988年3月)に福祉教育研究委員会(一番ヶ瀬)での研究の経緯や内容の概要について、また福祉教育推進研究委員会(大橋)に参加した現場教員らによる座談会の様子を報じている。参考に供しておく。
〇東京都教育庁指導部は、『福祉教育指導資料』を1983年3月と1986年3月に作成・配布した。前者は、「福祉教育の基本的な考え方を示すとともに、各学校種別ごとに学習指導要領に基づいて指導内容とその扱い方の例等」(1ページ)を中心に編集されている。後者(「第2集」)では、「福祉教育の内容を更に具体的にするため、各校種別の各教科・領域における実践事例を示すとともに、東京都社会福祉協議会の『児童・生徒のボランティア活動普及事業』協力校の実践事例及び関連資料」(「はじめに」)をまとめている。
〇本稿では、東京都社協の『研究報告書』と東京都教育庁指導部の『指導資料』の一部を紹介することにする。なお、私事にわたるが、筆者(阪野)は1985年7月から1995年7月の期間、東京都社協「社会福祉協議会職員研修」(「福祉教育」)の講師を務めさせていただいた。東京ボランティアセンター(現・東京ボランティア・市民活動センター)の初代所長・吉澤英子先生や2代目所長・山崎美貴子先生先生、福祉教育担当であった森本佳樹さんなどには格別のご指導とご厚情を賜った。感謝である。吉澤先生には、全国児童館連合会(現・児童健全育成推進財団)でもお世話になった。
(1)東京都社協・福祉教育研究委員会『社会福祉の理解を高めるために―福祉と教育―』(福祉教育研究委員会報告)1971年3月、「まえがき」「委員名簿」「目次」、1、3~7ページ(抜粋)
(2)東京都社協・福祉教育研究委員会『社会福祉の理解を高めるために―住民の社会福祉問題の認識に関する調査報告―』(福祉教育研究委員会報告)1972年7月、「まえがき」「委員名簿」「もくじ」「はじめに」(抜粋)
(3)東京都社協・福祉教育研究委員会『社会福祉の理解を高めるために―社会福祉の学習と実践について―』(福祉教育研究委員会報告)1974年3月、「まえがき」「目次」、1ページ(抜粋)
(4)東京都社協『福祉広報』第189号、1974年8月、1~4ページ(抜粋)
(5)東京都教育庁指導部『福祉教育指導資料』1983年3月、「はじめに」「目次」、3~5ページ(抜粋)
(6)東京都教育庁指導部『福祉教育指導資料』(第2集)1987年3月、「はじめに」「目次」、3~5、28、50、70、72ページ(抜粋)
(7)東京都社協『学校における福祉教育を考える―都内中学校・高校の実践をとおして―』(福祉教育推進研究委員会報告書)1988年3月、「あいさつ」「もくじ」「はじめに」「委員名簿」、17~36、113~119、165~168ページ(抜粋)
(8)東京都社協『福祉広報』第352号、1988年3月、2~7ページ(抜粋)
〇「あの頃の福祉教育、その記憶と記録」は、ブログ読者のご意見やご要望もあって、10回を重ねた。1970年代から1980年代(一部1990年代)にかけての福祉教育は、組織化や制度化の道程にあり、理論化や体系化も緒についたばかりであった。しかし、そこには、福祉や教育が抱える多様で複雑な課題を解決するために、強い熱意と信念をもった実践家や研究者が互いの実践や研究から学び合い、新しい福祉教育を創り出す“喜び”と“楽しさ”、そして何よりも“輝き”があった。
〇日本社会はいま、政治や行政、福祉や教育などの多くの局面において、「劣化」や「瓦解」が進んでいる。「地域共生社会」について云々(うんぬん)するどころではない。2018年8月、中央省庁や地方自治体、さらには裁判所などによる障がい者雇用の水増しの実態が白日のもとにさらされた。それは、「障がい者の存在を否定すること」につながり、「一億総活躍社会」「働き方改革」「女性の社会進出」そして「我が事・丸ごとの地域共生社会づくり」などもすべて画餅に帰す事態である。なお、障がい者雇用制度では、特定子会社の雇用を親会社の雇用とみなし、障がい者を特殊な職場環境に追いやることができる。それは、ノーマライゼーションの理念に反するものでしかない。
〇2年前の2016年7月、日本中を震撼させた相模原市の障がい者施設殺傷事件が起こった。障がい者の雇用問題にしろ施設殺傷事件にしろ、これらはヒトが「よりよく生きる」(ための福祉と教育)以前の、「ただ生きる」(ための福祉と教育)の意味を問うている。日本社会では、高尚な理念の空転(「言葉のお守り的使用」:鶴見俊輔)が続き、偏見・差別・抑圧は何ら解消されていない。むしろ、新たな偏見や差別が顕在化してきている。一言でいえば、「日本社会が危ない」(破局的事態)。
〇そうしたなかで、今回の連載は、あの頃の高揚感を思い出し、豊かで快適な地域・社会づくりの担い手を育成する「福祉教育」(「市民福祉教育」)の原点に立ち返り、その基礎・基本について再確認や再認識することの必要性や重要性を痛感していることによる。それは「歴史に学ぶ」ことを意味する。そしてその底流には、稚拙ながらも、筆者の「市民福祉教育は福祉と教育の根幹をつくる」という思いや考えがある。
付記
国レベルの動きに関する資料を紹介しておきたい。
資料1は、全社協「要望書(案) 『福祉教育』を学習指導要領に位置づけて下さい」(1984年5月15日)である。文部省への提出が予定されていたが、結果的には提出されなかった。資料2は、厚生省社会局「福祉教育のあり方について(要望)」(1984年5月31日)である。自民党内の「教育問題連絡協議会」に提出された。資料3は、全社協(会長・灘尾弘吉)から臨時教育審議会(会長・岡本道雄)に提出された「教育改革に関する提案について」である。それを報じた福祉新聞の「社説」が資料4である。
なお、時期が前後するが、周知の通り1977年2月17日、厚生省社会局長・児童家庭局長名で文部省初等中等局長に宛てて「福祉教育のあり方について(要望)」が提出された。
その全文は、本ブログの「ディスカッションルーム」(78)「あの頃の福祉教育、その記憶と記録(9):栃木県社会福祉教育センターによる「社会福祉教育」―資料紹介―/2018年8月20日」で紹介している。参照願いたい。
資料1 全社協/要望書(案) 「福祉教育」を学習指導要領に位置づけて下さい/1984年5月15日
資料2 厚生省社会局/福祉教育のあり方について(要望)/1984年5月31日
あの頃の福祉教育:その記憶と記録(9):栃木県社会福祉教育センターによる「社会福祉教育」―資料紹介―
〇1970年代後半以降、「社会福祉教育」に積極的・政策的に取り組んだ地方自治体のひとつは栃木県である。
〇その経緯を概観すると、栃木県は、1976年11月、民生部長の臨時の私的諮問機関として、栃木県における福祉教育のあり方について検討する「栃木県福祉教育懇談会」(座長・仲村優一)を設置した。懇談会は、1976年11月と翌年2月の2回開催され、民生部が既にまとめていた「福祉教育機関設置にかかる中間報告」(民生部の内部資料)について検討・協議した。その結果を、1977年2月に、「栃木県福祉教育機関設置構想にかかる栃木県福祉教育懇談会の意見の提出について」(意見書)と題して意見具申した。それを受けて、1977年4月、栃木県知事が栃木県社会福祉審議会に対して、「新長期総合計画」(1975年6月策定)に基づく「栃木県社会福祉教育機関設置にかかわる総合基本構想について」諮問した。栃木県社会福祉審議会は、「総会」(2回)、「分科会」(5回)、「実態調査」(1回)、「起草委員会」(2回)を開催して、審議を進めた。その結果を、1978年1月に、「栃木県社会福祉教育機関設置にかかわる総合基本構想について」と題して答申を行った。それに基づいて、1978年4月、「栃木県社会福祉教育センター」(民生部厚生課福祉教育班の名称変更)を発足させた。
〇栃木県における「社会福祉教育」の取り組みは、教育行政(県教育委員会)ではなく一般行政(県民生部)によるものであったこと、地域福祉を推進する重要な方策のひとつとして「社会福祉教育」を位置づけたこと、社会福祉教育の専門機関として「栃木県社会福祉教育センター」を設置したこと、同センターでは「福祉教育」「社会福祉専門教育」「研究調査」「福祉情報」(1979年4月から新たに「老人福祉大学校」の運営が加えられた)を包含した総合的な事業・活動の展開が図られたこと、などを特色とした。
〇本稿では、筆者(阪野)の手もとにある「栃木県社会福祉教育センター」と「社会福祉教育」に関する資料のうちから、その一部を紹介することにする。① 栃木県社会福祉審議会『栃木県社会福祉教育設置にかかわる総合基本構想について』(答申)1978年1月、② 栃木県社会福祉教育センター『昭和53年度 業務概要』1978年4月、③栃木県社会福祉教育センター『昭和54年度 業務概要』1979年4月、④牧恒男「行政職員・教職員の研修における福祉教育の取り組み―栃木県の取り組みから―」1983年9月、⑤栃木県教育委員会高校教育課『「福祉に関する教育」の手引』(教育課程研究資料第41集)1982年2月、⑥栃木県教育委員会高校教育課『昭和58年度 県立学校における指導の指針』1983年1月、⑦栃木県教育委員会・栃木県社会福祉教育センター『小・中学校 福祉教育の手引』(福祉教育シリーズ第10集)1984年3月、がそれである。なお、⑥については、1980年度の『県立学校における指導の指針』から、その1項目に「福祉に関する教育」が付け加えられている(大橋謙策・他『福祉教育の理論と展開』(シリーズ福祉教育1)光生館、1987年9月、92ページ)。
〇以上の資料のほか、筆者の手もとには広報紙の「ミニ福祉ニュース」(月刊)と「福祉のひろば」(季刊)、福祉教育副読本の『福祉を考える(福祉教育シリーズ)』(年刊)がある。それらは、栃木県社会福祉教育センターの初代所長の三村和男さんや福祉教育担当の牧恒男さんなどからご恵贈賜ったものである。懐かしく思い出される。
(1)栃木県社会福祉審議会『栃木県社会福祉教育機関設置にかかわる総合基本構想について』(答申)1978年1月、「答申書(かがみ)」「目次」、1~36ページ(抜粋)
(2)栃木県社会福祉教育センター『昭和53年度 業務概要』1978年4月、全文
(3)栃木県社会福祉教育センター『昭和54年度 業務概要』1979年4月、「はじめに」「目次」、1~17ページ(抜粋)
(4)牧恒男「Ⅲ 行政職員・教職員の研修における福祉教育の取り組み―第1章 栃木県の取り組みから―」『学校外における福祉教育のあり方と推進』(福祉教育研究委員会中間報告)全社協・全国ボランティア活動振興センター、1983年9月、「目次」、75~92ページ(全文)
(5)栃木県教育委員会高校教育課『「福祉に関する教育」の手引』(教育課程研究資料第41集)1982年2月、「まえがき」「本書の利用に当たって」「目次」、1~6ページ(抜粋)
(6)栃木県教育委員会高校教育課『昭和58年度 県立学校における指導の指針』1983年1月、「まえがき」「目次」、34ページ(抜粋)
(7)栃木県教育委員会・栃木県社会福祉教育センター『小・中学校 福祉教育の手引』(福祉教育シリーズ第10集)1984年3月、「序にかえて」「豊かな人間的交流の体験を」「本書の利用にあたって」「目次」、6~12ページ(抜粋)
〇「栃木県社会福祉教育センター」は、「民生部」内の「厚生課」と「障害福祉課」「老人福祉課」「児童家庭課」の組織と業務の一部を分野横断的に統合化し、「社会福祉教育」の一元化・強化を狙ったものであり、厚生課を主管課とする出先機関であった。しかし、それは、民生(福祉)行政と教育行政が連携・協働(共働)し、縦割り行政の弊害を打破するには不十分なものであったと言わざるをえない。すなわち、「社会福祉教育」は福祉行政から提唱されたものであり、「福祉教育」が学習指導要領に明記されていないことなどにより、教育行政にあっては主体的・積極的ではなかったのである。
〇そうしたなかで、厚生省は、1977年2月、社会局長・児童家庭局長名で文部省初等中等局長に宛てて「福祉教育のあり方について(要望)」を提出した。以下はその全文である。周知の通り、1977年4月から、厚生省と全社協による国庫補助事業としての「学童・生徒のボランティア活動普及事業」(通称「社会福祉協力校」事業)が始まる。
付記
〇当時、筆者は、地域の福祉教育実践現場における「ネットワーク組織としての福祉教育推進協議会」について拙い考えをめぐらしていた。蛇足ながら、その拙稿の一部を付記しておくことにする。汗顔の至りであるが、筆者の「あの頃の福祉教育」である(阪野貢『福祉のまちづくりと福祉教育』文化書房博文社、1995年5月、167~170ページ)。
〇「速く」「強く」「遠く」「広く」そして「手際よく」、ひたすら成長をめざしてきたグローバリゼーションの時代は終焉しつつある、と言われる。「成長から定常へ」「グローバリズムからローカリズムへ」である。その足もと(筆者が属するひとつの世界)では、社会福祉や教育をめぐる政治と行政の退廃や劣化、コミュニティサービス(地域貢献活動)をはじめサービスラーニングやアクティブ・ラーニング(教育手法)などの「カタカナ」言葉への無批判的な模倣や盲従、などが進んでいる。こうした動きのなかで、福祉教育の「有用性」や「固有性」「自律性」とは何かが改めて問われるほどに(問うべきほどに)、今日の「福祉教育」を取り巻く環境は極めて厳しくなっており、危機意識を感じている。筆者の「いまの福祉教育」についての認識である。福祉教育が輝いていたのは「今は昔(むかし)」のことであろうか。