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「共働」と課題解決の流れ

筆者(阪野)は先日、ある社協の職員研修会(学習会)に招かれ、(1)「極点社会」と地域アイデンティティ、(2)ソーシャル・キャピタルと「活動する市民」、(3)社協と役職員の今後のあり方、等々をめぐって学ぶ機会に恵まれました。社協職員の熱意に圧倒されるばかりでしたが、それゆえに筆者にとっては有意義な時間となりました。
席上、筆者の拙文「協働と共働」(2013年9月16日投稿)について、いま少し分かりやすく説述すべきである旨の意見をいただきました。そこで、誤解を恐れずに、以下のような作図を行いました。
図1 の「共働」については、行政と市民が、問題把握から課題解決に向けた「ネットワーク」「場」(「プラットホーム」)を創設し、そこにそれぞれが参画(登壇、登場)し、対等・協力の関係のもとで事に当たること(共同、協同)、と理解しています。その際の鍵概念は「相互作用」「相互補完」「相乗効果」です(上記の拙文参照)。
図2 は、共働の「プラットホーム」における「課題解決の流れ」をまとめたものです。現状把握・分析を前提に、問題認識・理解の広さ・深さ(問題の領域・深刻さ)は異なります。さらにそれによって、課題形成・解決の内容や方法も、行政の政策や施策としての対応から、市民による個別具体的な実践活動としての対応に至るまで、多様かつ多元的になります。

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茨城県における「子どもヘルパー」派遣事業 と 福祉教育―資料紹介―

少子化や核家族化が進展する中、高齢者と子どもが触れ合う機会が減少するとともに、地域における助け合いや連帯感が希薄化しており、高齢者の孤独化などが課題となっている。そこで、4年生以上の小学生を「子どもヘルパー」に任命し、高齢者宅などに訪問し、話し相手やお手伝いボランティア等を行い、高齢者の安否確認や子ども達のいたわりの心を育むことにより、地域全体で高齢者を支える意識を醸成する。(全国知事会「先進政策バンク」より)

茨城県では、2010(平成22)年度から2011(平成23)年度にかけて、「4年生以上の小学生を『子どもヘルパー』」に任命し、‥‥‥地域全体で高齢者を支える意識を醸成する」ことをめざして、「いばらき子どもヘルパー派遣事業」に取り組んだ。その活動内容を纏めた『いばらき子どもヘルパー派遣事業報告書』が、2013(平成25)年9月に茨城県(保健福祉部長寿福祉課)から刊行されている。
本稿は、その報告書などに基づいて、茨城県における取り組みと、県からモデル地域選定を受けたかすみがうら市による取り組みの概要を紹介するものである。
なお、同様の取り組みに、富山県高岡市の社会福祉協議会が1996(平成8)年度に創設した「ジュニア福祉活動員」育成事業や、熊本県阿蘇郡産山村の社会福祉協議会が2000(平成12)年度から継続的に実施している「子どもヘルパー」事業がある。前者は、地域の小学校6年生全員が「ジュニア福祉活動員」に任命され、地域の大人(福祉活動員、民生委員など)と一緒に一人暮らし高齢者等への友愛訪問活動を行うものである。後者は、小学校4年生以上から中学生を対象にした事業で、2014(平成26)年度2月現在、300人を超える「子どもヘルパー」が高齢者の生活支援活動を行ってきている。付記しておくことにする。

茨城県における「子どもヘルパー」派遣事業

2010(平成22)年度と2011(平成23)年度の、茨城県における当該事業の取り組みの概要は次の通りである。

1 背景
少子高齢社会を迎え、高齢者が安心し、いきいきと暮らせる地域づくりや高齢者の健康づくり ・生きがいづくりの重要性が高まっています。
また、近年、ひとり暮らし高齢者や高齢夫婦のみの世帯が増加しており、少子化や核家族化が進展する中、高齢者と子どもが触れ合う機会は減少しています。
高齢者と子どもが触れ合う機会を通して、高齢者を地域みんなで支え合う地域の絆づくりを推進することが求められています。
2 概要
モデル事業として県内の市町村社会福祉協議会を選定し、子どもヘルパーとして任命した4 年生以上の小学生が、ひとり暮らしの高齢者などの家庭を訪問し、話し相手やお手伝いボランティア等を行う事業です。
(1) 実施主体 ・期間
県内8 カ所のモデル地域を県が選定
期間/実施主体
平成22 年度~平成23 年度/石岡市社会福祉協議会、守谷市社会福祉協議会、小美玉市社会福祉協議会、利根町社会福祉協議会
平成23 年度/笠間市社会福祉協議会、かすみがうら市社会福祉協議会、城里町社会福祉協議会、河内町社会福祉協議会
(2) 活動エリア
原則小学校区~中学校区以内とし、市町村社会福祉協議会が選定
(3) 対象  
小学4年生~6年生 約30 名
(4) 子どもヘルパー活動内容
〇お手伝いボランティア
ひとり暮らし高齢者宅、昼間独居高齢者宅などを3~4 人で訪問し、話し相手や肩たたき、お掃除などのお手伝いを行います。
〇交流会 ・福祉施設訪問
初顔合わせとして、交流サロン等で交流会の開催や地域の高齢者施設等を訪問します。
〇お便り活動
年賀状や季節の絵手紙などを高齢者宅へ郵送します。
〇活動報告会の開催
(5) 実績
平成22年度
子どもヘルパー数 :113人、高齢者宅訪問 :10回、交流会等 :6回、施設訪問 :2回、お便り活動 :13回
平成23年度
子どもヘルパー数 :434人、高齢者宅訪問 :30回(284件)、交流会等 :28回、施設訪問 :8回、お便り活動 :23回
子どもヘルパーに、やる気と誇りを持って活動してもらうためにピンバッジを配布しました。
3 参考
〇平成23 年9 月、全国知事会において、先進政策バンクに登録されている2、325 件の先進的な政策の中から、本事業を含む27 件が頭脳センター専門委員会による評価 ・審査の結果、優秀政策(ベストプラクティス)に選定され、全国知事会長から表彰されたところです。本県では、初めての受賞になります。
〇平成22 年度から平成24 年度の3 年間のモデル事業として、1 団体2 年間の継続事業として開始しましたが、財源としていた安心子ども基金の終了に伴い、平成23 年度をもって茨城県の事業は終了しています。
しかし、4 団体が社会福祉協議会の独自財源や地域支援事業を活用し、平成24 年度も事業継続してくれたところであります。

かすみがうら市における「子どもヘルパー」派遣事業

茨城県の当該事業は、「安心子ども基金」(文部科学省補助金)の終了に伴い、2011(平成23)年度をもって終了した。そこで、以上の8カ所のモデル地域のうち、かすみがうら市では、2011(平成23)年度・県事業としての取り組みのあと、2012(平成24)年度・市事業、2013(平成25)年度・市社会福祉協議会事業、そして2014(平成26)年度はまた市事業として、当該事業を継続的に実施している。市の事業として実施されるに際しては、2012(平成24)年3月に「かすみがうら市子どもヘルパー派遣事業実施要項」を制定し、制度的・積極的な取り組みがなされていることが特筆される。
2011(平成23)年度から2013(平成25)年度までのかすみがうら市における当該事業の取り組みの概要と、2012(平成24)年度における「かすみがうら市子どもヘルパー派遣事業実施要項」は次の通りである。

かすみがうら市 ・市社会福祉協議会による取り組み
1 事業実施を希望した理由
最近の少子高齢化や核家族化の進行に伴い、家庭機能の低下や親子関係の希薄化、さらには、地域での子育て機能が低下している中、要保護児童数が増加しており、特に核家族化率の高い市街化区域の家庭教育については対処すべき課題が多くなっております。
こうした状況を踏まえ、学校と連携し地域の高齢者への理解とかかわりを深めることにより、いたわりや思いやりの心を育めればとの思いから、実施に至りました。
2 概要
1年目は、急な実施だったため、準備期間を設け、秋からスタートしました。モデル校の5学年児童から希望者を募り、主に土曜日に実施しましたが、スポーツ少年団等と重なってしまうことも多く、すべての課程に参加できない児童が出てしまい、残念だったとの感想もきかれました。
2年目は、モデル校の協力で、総合的学習の時間を利用させてもらうことができたため、5学年児童全員を対象に実施しました。1期を「第1クール」、2 ・3学期を「第2クール」と分け、それぞれ3つの内容をクラスごとにローテーションで実施しました。
〈平成23年度〉
指定校 :下稲吉東小学校5年生(希望者) 登録22名
第1回 ・10/29(土) 参加人数14名 
〇任命書公布
〇オリエンテーション 
①子どもヘルパー派遣事業について
②かすみがうら市の福祉について
〇学習会
①ヘルパー活動の目的や仕事について
②高齢者とのコミュニケーションについて
〇インスタントシニア体験
第2回 ・11/26日(土) 参加人数13名 
〇シルバーリハビリ体験について(体験)
〇交流会(ニュースポーツ《輪投げ》の実施)
第3回 ・12/5(月) 参加人数19名
〇絵手紙講習会
クリスマスカードの作成
作成したカードは前回交流会をした角来青葉会のみなさんにお配りしました。
第4回 ・2/4(土) 参加人数14名
〇ヘルパー訪問活動(中志筑地区)
高齢者のお宅を訪問し、肩たたき・掃除のお手伝い、千代紙工作をして交流しました。
第5回 ・3/3(土) 参加人数14名
〇活動感想文作成・活動報告の発表
〇修了証交付
〈平成24年度〉
指定校 :下稲吉東小学校5年生(全員:総合的な学習の時間を利用) 登録96名
第1回 ・6/14
〇任命式
※任命書交付
※あいさつ
※オリエンテーション
①子どもヘルパー派遣事業について
②かすみがうら市の福祉について
〇学習会
※講話
①ヘルパー活動の目的や仕事について
②ヘルパーということ、高齢者との接し方
第2回 ・6/22、第3回 ・7/6、第4回 ・7/13(第1クール)
テーマ :高齢者について知り、交流の手段を学ぶ
全体を3組〈クラス〉に分け、次の活動をローテーションで実施。
(1)インスタントシニア体験
年を重ねると体の動きや感覚はどうなるかを体験しました。
(2)絵手紙講習
お便り活動に役立てられる、絵手紙を習いました。
(3)調理実習
おじいちゃんおばあちゃんが子どもの頃は、どんなおやつを食べていたのかを知るため、調理実習をしました。〇すいとん、〇蒸しパン。
第5回 ・11/30、第6回 ・12/14、第7回 ・1/18(第2クール)
テーマ :高齢者との交流を図る
全体を3組(クラス)に分け、次の活動をローテーションで実施。
(4)交流会
角来青葉会老人クラブのみなさんを教室に招いて、交流会をしました。
(5)グランドゴルフ交流会
高齢者に人気のあるグランドゴルフを千代田グランドゴルフクラブの皆さんと一緒に楽しみました。
(6)訪問活動
ひとり暮らしやおじいちゃん、おばあちゃんだけで生活している方のおうちを訪問し、お手伝いやおしゃべりをしました。
〇お便り活動
お宅訪問や交流会で知り合ったおじいちゃん、おばあちゃんに絵手紙を描きました。
第8回 ・3/1
〇活動報告会
各自でこれまでの活動をふりかえり、まとめを行った後、全体会でクラスの代表者が感想を発表した。
〇修了式
※修了証授与
※あいさつ
〈平成25年度〉
指定校 :下稲吉東小学校5年生(全員 :総合的な学習の時間を利用) 登録98名
第1回 ・9/5
〇任命式
※任命書授与
※講話(お話し)
①わたしたちのまち「かすみがうら市」について
②ホームヘルパーの仕事と目的について
第2回 ・10/1、第3回 ・10/10、第4回 ・10/18(第1クール)
テーマ :高齢者 ・障がい者について理解し、交流の手段を学ぶ
全体を3組(クラス)に分け、次の活動をローテーションで実施。
(1)インスタントシニア体験
体験を通し高齢者について体験する。
(2)シルバーリハビリ体験
転倒防止の体験を学び、からだの機能について知る。
(3)手話体験
聴覚障がい者との交流の手段を学ぶ。
第5回 ・10/25、第6回 ・11/22、第7回 ・12/13(第2クール)
テーマ :高齢者との交流 ・救命入門コースを学ぶ
全体を3組(クラス)に分け、次の活動をローテーションで実施。
(4)救命入門コース
消防署員の方の協力でAED等の、いざという時に役立つ方法を学ぶ。
(5)グランド・ゴルフ交流会
高齢者に人気のグランド ・ゴルフを通してね交流を図る。
(6)訪問活動
ひとり暮らし ・おじいちゃんおばあちゃんだけで生活している方のお宅を訪問しねお掃除やお話し相手などを通して交流を図る。
第8回 ・12/20
〇活動報告会
〇修了証授与

「かすみがうら市子どもヘルパー派遣事業実施要項」
平成24年3月27日
訓令第11号
(目的)
第1条 この訓令は、小学校4年生から6年生までの児童をかすみがうら市子どもヘルパー(以下「子どもヘルパー」という。)に任命し、高齢者の家庭を訪問して、話し相手、お手伝いボランティア等をすることにより、児童と高齢者との世代間交流を通して高齢者を地域みんなで支え合うための地域のきずなづくりを推進することを目的とする。
(実施主体)
第2条 事業の実施主体は、本市とする。
2 事業は、市社会福祉協議会(以下「市社協」という。)へ委託することができるものとする。
(地域の指定)
第3条 事業の実施地域は、原則として小学校区区域を単位として指定する。
(実施期間)
第4条 事業の実施期間は、4月1日から翌年3月31日までの1年間とする。
(推進会議の設置)
第5条 事業の円滑な実施及びその成果、普及等の役割を担うため、推進会議を設置する。
2 推進会議は、次に掲げる者を構成員とする。
(1) 市内の学校関係者
(2) 福祉事業関係者
(3) 行政担当者
(4) 介護事業関係者
(5) その他事業の円滑な実施に関して必要な者
3 推進会議は、次に掲げる業務を行うものとする。
(1) 事業への助言及び評価
(2) 事業の取り組み状況等の関係機関等への情報発信
(3) その他事業の円滑な実施に関して必要な業務
(任命)
第6条 子どもヘルパーの対象者は、小学校4年生から6年生までの児童とする。
2 子どもヘルパーの任期は、1年間とする。
3 子どもヘルパーとして任命した児童には、市長が任命書(様式第1号)を交付する。
(事業の内容)
第7条 事業は、次の各号に掲げるとおりとし、その内容はそれぞれ当該各号に定めるところによる。
(1) 訪問活動の実施 概ね2人から4人の子供ヘルパーのチームで、必ず民生委員児童委員、市社協職員等が児童を引率して、地域の一人暮らし高齢者宅、高齢者のみの世帯、昼間独居高齢者宅等を訪問し、肩たたき、お掃除等のお手伝い、話し相手、昔遊び等を行う。
(2) お便り活動の実施 年賀状、クリスマスカード等のお便りを高齢者宅等へ送る。
(3) 任命式及び学習会の開催 子どもヘルパーの任命式を開催するとともに、子どもヘルパーの活動及び地域福祉に係る小学生向けの学習会を開催する。
(4) 交流会の開催 指定地域の高齢者等と子どもヘルパーとの初顔合わせとして、交流会を開催する。
(5) 活動報告会の開催 子どもヘルパーの1年間の活動の総括として、活動報告会を開催する。
2 前項第1号に規定する訪問活動の終了後に、当該活動の引率者は、活動実施報告書(様式第2号)を提出するものとする。
3 前項第1号に規定する訪問活動により訪問を受けた高齢者等は、謝礼金を負担しないものとする。
(委任)
第8条 この訓令に定めるもののほか、必要な事項は、市長が別に定める。
附 則
(施行期日)
1 この訓令は、平成24年4月1日から施行する。
(失効)
2 この訓令は、平成25年3月31日限り、その効力を失う。
様式第1号(第6条関係)

 以上の、茨城県とかすみがうら市における「子どもヘルパー」派遣事業に関して、若干の所見(所感)を述べることにする。
(1)当該事業のねらいは、小学校4年生から6年生までの子どもを「子どもヘルパー」に任命し、高齢者との交流活動を通して、高齢者に対する「いたわりの心」を育成することにある。その際、その底流をなす高齢者についての認識は、高齢者イコールいたわりの対象イコール弱者(社会的弱者)、というものであろうか。
いうまでもなく、高齢者の心身の状態をはじめICFの理念・モデルにいう「活動」や「参加」は多様であり、個々別々である。社会的排除に向き合い、社会的包摂に向けた福祉教育を推進するためには、高齢者は「支援や援助を必要とする弱者」であるという、ステレオタイプ化されたイメージの「老人神話」からの脱却をいかにして図るかが重要となる。福祉教育は、高齢者をはじめすべての地域住民のライフ(Life:生命、生活、生涯)の多様性と同一性、地域性と協働性について理解し認識することからはじまる。
(2)「子どもヘルパー」に「やる気と誇り」をもって活動してもらうために「ピンバッチ」(茨城県)の配付や「任命書」の公布が行われ、修了時には賞賛と激励のために「修了証」(かすみがうら市)が授与されている。子どもたちの活動への参加意欲を高め、次の活動に繋げるための工夫として評価できよう。
さらに当該事業を計画的・継続的に推進するためには、学校内や学校外の他機関との協働支援体制を整備・強化し、先ずは小学校における当該事業の定着化・伝統化を図ることが重要となる。加えて、中学校や高等学校での新たな取り組みを促すことが求められる。
(3)学校福祉教育においては、これまで、訪問・交流活動、収集・募金活動、清掃・美化活動の「3大体験活動」や、高齢や障害の疑似体験、手話や点字の学習、施設訪問(慰問)の「3大プログラム」などを中心にその実践活動が展開されてきた。しかもその際、その活動が観念的・精神的なものにとどまったり、活動そのものが目的化したりしがちであったといってよい。
「子どもヘルパー」の諸活動は、一面においては、これまでの福祉教育実践活動の枠内にとどまるものでもある。福祉教育(市民福祉教育)は福祉の(による)まちづくりの主体形成を図るための教育実践である。とすれば、地域診断 → 地域理解 → まちづくり学習 → まちづくり、というプロセスを経る活動を、「子どもヘルパー」の諸活動のなかに、あるいはその延長線上に組み込むことが肝要となる。
(4)「子どもヘルパー」の諸活動は、あくまでも子ども(小学生)を対象としたものである。それゆえに、教師や保護者、地域の一般住民への働きかけは必ずしも十分なものではない、といわざるを得ない。その結果、かすみがうら市においては2クールの一定期間の取り組みや、学校内の、しかも社会福祉協議会主導の福祉教育活動に矮小化される危険性なしとしない。
こんにち、学校を中心とした福祉教育(学校福祉教育)と地域を基盤とした福祉教育(地域福祉教育)を融合した「市民福祉教育」の推進が求められている。「子どもヘルパー」の諸活動を介して、教師や保護者をはじめ、民生委員、ボランティア、地域福祉関係者、地域組織・団体関係者、それに一般住民などがいかに連携・協働し、“ 地域ぐるみの福祉教育 ”を展開するかが問われることになる。
(5)学校における福祉教育は、福祉教育目標の達成が学校教育目標の実現に通じることから、「全教科全領域」で実施・展開すべきであるといわれてきた。また、周知のとおり、2002 (平成14)年度より、小・中学校で、「地域や学校、児童の実態等に応じて、横断的・総合的な学習や児童の興味・関心等に基づく学習など創意工夫を生かした教育活動を行うもの」(小学校学習指導要領)として、「総合的な学習の時間」がスタートした。それ以降、「総合的な学習の時間」を“ 活用 ”して、福祉教育実践が展開されることになる。かすみがうら市における「子どもヘルパー」の諸活動はまさにそれである。
「総合的な学習の時間」は、子どもたちが「自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てること」などをそのねらいとする。「全教科全領域」における福祉教育、「総合的な学習の時間」における福祉教育、その本来の趣旨やねらいに即した取り組みについて再考する必要がある。
(6)評価活動のともなわない教育活動はない。教育評価は、教育活動の過程や成果を種々の観察や資料に基づいて客観的に捉え、教育目標を達成するための改善に役立たせるための活動である。さらには、新たな教育活動を生み出すための活動でもある。福祉教育実践においては、「評価」(evaluation、assessment)や「ふりかえり」(reflection)が重要であるといわれてきたものの、実際には、かすみがうら市のように「感想文」の作成や「活動報告会」の開催にとどまりがちである。
福祉教育実践においては、自己・他者・社会の生活問題との ①出会い(把握、関与) → ②向き合い(対面、相関) → ③話し合い(討議、明確化) → ④分かち合い(共感、共有化)→ ⑤支え合い(連携、共働) → ⑥ふりかえり(評価、修正)、あるいは実践活動を通して ①学び → ②気づき → ③ふりかえり → ④変わり → ⑤(新しく)動く、というプロセスと各段階における評価活動が大切になる。その際、学校福祉教育の評価は、「関心・意欲・態度」「思考・判断」「技能・表現」「知識・理解」という観点別の評価を、それに適合するさまざまな評価技法を用いて適正に行うことが求められる。

付記
本稿の執筆に際しては、かすみがうら市社会福祉協議会のT女史のご高配を賜りました。記して厚くお礼を申し上げます。

問題解決学習と “はいまわる経験主義” ―資料紹介―

筆者(阪野)は先に、求めに応じて、東井義雄の「村を育てる学力」についての言説を不十分ながら紹介しました。2014年3月22日にアップした「今、改めて問われる『村を捨てる学力』と『村を育てる学力』―資料紹介―」がそれです。この拙稿に対して、あるブログ読者から、当時の時代背景と状況を考えるなかで今日的な状況と動向、そして課題を読み解く必要がある、という指摘をいただきました。同感するところです。
また、別の読者からは、無着成恭の『山びこ学校』(青銅社、1951年)などが懐かしく思い出されるとのことですが、当時の生活綴方教育と連携して展開された、初期社会科の「問題解決学習」に関する文部省の基本的な考え方等について、「資料紹介」をしてもらいたい旨の連絡を受けました。それに若干なりとも応えようと、本稿を草することにしました。
なお、「初期社会科」とは、『学習指導要領社会科編Ⅰ(試案)』(1947年5月)をはじめ、『学習指導要領社会科編Ⅱ(試案)』(1947年6月)、『小学校学習指導要領社会科編(試案)』(1951年7月)、『中学校・高等学校学習指導要領社会科編Ⅰ(試案)』(1951年12月)、『中学校・高等学校学習指導要領社会科編Ⅱ(試案)』(1952年10月)に示された「社会科」を中心とした、昭和20年代の社会科成立期のそれを意味します。

周知のとおり、戦後の新しい教科としての「社会科」は、青少年を「民主主義社会の建設にふさわしい社会人」に育てるための、学校教育における中核的な教科として設置されました。具体的には、1947年3月に発行された『学習指導要領一般編(試案)』によって教科の名称と授業時数が示され、同年5月の学校教育法施行規則の公布によって教科として成立します。その基本的な性格を示したものが、同年5月に発行された『学習指導要領社会科編Ⅰ(試案)』(1947年度版)です。授業が実際に開始されたのは1947年9月からですが、社会科の新設は、戦後教育改革のなかでも画期的な意義を有するものでした。
『学習指導要領社会科編Ⅰ(試案)』(1947年5月)は先ず、第1章「序論」の第1節「社会科とは」で、社会科の任務や基本的性格について次のように示しています。

「今度新しく設けられた社会科の任務は、青少年に社会生活を理解させ、その進展に力を致す態度や能力を養成することである。そして、そのために青少年の社会的経験を、今までよりも、もっと豊かにもっと深いものに発展させて行こうとすることがたいせつなのである。
社会生活を理解するには、その社会生活の中にあるいろいろな種類の、相互依存の関係を理解することが、最もたいせつである。そして、この相互依存の関係は、‥‥‥一、人と他の人との関係、二、人間と自然環境との関係、三、個人と社会制度や施設との関係、の三つ分けることができよう。‥‥‥
社会科においては、青少年が社会生活を営んで行くのに必要な、各種の能力や態度を養成する必要がある。‥‥‥それは‥‥‥現在の青少年の社会生活を進展させるためのものであって、教師にとっても生徒にとっても、具体的なよくわかるものであり、青少年の社会的経験を発展させることによって、おのずから獲得され養成されるものなのである。‥‥‥
社会科はいわゆる学問の系統によらず、青少年の現実生活の問題を中心として、青少年の社会的経験を広め、また深めようとするものである。‥‥‥
今後の教育、特に社会科は、民主主義社会の建設にふさわしい社会人を育て上げようとするのであるから、教師はわが国の伝統や国民生活の特質をよくわきまえていると同時に、民主主義社会とはいかなるものであるかということ、すなわち民主主義社会の基底に存する原理について十分な理解を持たなければならない。」(上田薫編集代表『社会科教育史資料1』東京法令出版、1974年、218~219ページ)。

続いて、第2節「社会科の目標」と第3節「社会科に関する青少年の発達」について説明し、それを踏まえて第4節では、「社会科の学習指導法」について次のように述べています。

「社会科は青少年が社会生活を理解し、その進展に協力するようになることを目指すものであり、そのために青少年の社会的経験を豊かにし、深くしようとするのであるから、その学習は青少年の生活における具体的な問題を中心とし、その解決に向かっての諸種の自発的活動を通じて行わなければならない。
青少年は社会生活に関する真実な知識理解を与えられなければならないが、これは自分たちでなんらかの行動をなし、社会との交渉を経験することによってのみ得られるのである。なすことによって学ぶという原則は、社会科においては特に、たいせつである。
一方社会科の目指している社会的態度とか、社会多的能力とかいうもの、すなわち生活のしかたとしての民主主義は、日々の生活の実践によってのみ理解され、体得されるものであるから、青少年の生活の問題を適確にとらえて、その解決のための活動を指導して行くことが、社会科の学習指導法の眼目でなければならない。」(上田薫編集代表『同上書』221ページ)。

以上を要すると、①社会科の任務・基本的性格は、「青少年に社会生活を理解させ、その進展に力を致す態度や能力を養成すること」にある。すなわち、社会科は、「社会生活の理解という知的側面とその進展に努める態度や能力という実践的側面を統一的に育成しようとするところにそのねらいがある」(小原友行『初期社会科授業論の展開』風間書房、1998年、35ページ)。②青少年の「社会生活に関する真実な知識理解」は、自分たちの「行動」や「経験」によってのみ得られる。そこから、社会科の学習(学習指導)は、「青少年の生活における具体的な問題を中心とし、その解決に向かっての諸種の自発的活動を通じて行わなければならない」。③「なすことによって学ぶ」(learnig by doing)という、青少年の社会的「経験」に基づいた「問題解決学習」が社会科の学習指導法においては最も重要な点(「眼目」)である、ということです。
なお、青少年の「自発的活動」に関しては、1947年3月の『学習指導要領一般編(試案)』のなかで次のように述べています。ここでは、青少年の自発的な学習が重視され、教師は青少年の背後に退くことになります。その結果、教師の指導性を後退させ、ひいては放任主義的な指導を生み出す、といった批判を受けることにもなります。

「児童がほんとうに学ぶには、自分でやり方の計画をたて、それをみずから試みて、それで理解するようにならなければならない。つまり、児童や青年が自分で考え、自分で試みて、一つの知識に達し、考え方に達し、技術に達しなくてはならない。このことは、学習の進められる中心の動きとして見のがしてはならないたいせつな点である。これまでの指導は、ともすると、この点を無視して、教師だけが活動して、児童や青年が自分で考え、試みるかどうかをかえりみないで、うわすべりでもなんでも、無理にもひっぱって行こうとし、そのために、かれらがほんとうには学ばないことが少なくなかった。われわれは、これからの学習指導において、この児童や青年が、みずからの活動によって学んで行くように注意することが特にたいせつである。」(文部省『学習指導要領一般編』日本書籍、1947年、25ページ)。

また、前述のうち、社会生活の理解とその進展のための態度・能力を統一的に育成するための社会科の目標に関して、1948年9月に発行された『小学校社会科学習指導要領補説』は次のように述べています。

「社会科の主要目標を一言でいえば、できるだけりっぱな公民的資質を発展させることであります。これをもう少し具体的にいうと、児童たちが、(一)自分たちの住んでいる世界に正しく適応できるように、(二)その世界の中で望ましい人間関係を実現していけるように、(三)自分たちの属する共同社会を進歩向上させ、文化の発展に寄与することができるように、児童たちにその住んでいる世界を理解させることであります。そして、そのような理解に達することは、結局社会的に目が開かれるということであるともいえましょう。‥‥‥
しかし、りっぱな公民的資質ということは、その目が社会的に開かれているということ以上のものを含んでいます。すなわちそのほかに、人々の幸福に対して積極的な熱意をもち、本質的な関心をもっていることが肝要です。それは政治的・社会的・経済的その他あらゆる不正に対して積極的に反ぱつする心です。人間性及び民主主義を信頼する心です。人類にはいろいろな問題を賢明な協力によって解決していく能力があるのだということを確信する心です。このような信念のみが公民的資質に推進力を与えるものです。
社会的に目が開かれていることは、民主社会を建設し維持するのに欠くことのできない条件です。しかし社会的に目のあいていること、社会的な関心をもっていることは、さらに、よい共同生活をするのに不可欠なさまざまの技能や習慣や態度と結合していなければなりません。すなわちその時々の事態に応じて適切に処理すること、建設的に協力すること、他人の権利を尊重すること、疑わしい意見や正しくない意見とたたかうことなど、総じて民主的社会の有為な公民として必要な数多くの特性を身につけていなくてはなりません。」(上田薫編集代表『同上書』461ページ)。

このように、社会科の主要目標は、「公民的資質」を発展させることにある。そのためには、「児童たちにその住んでいる世界を理解させること」、すなわち「児童たちが社会的に目を開くこと」「社会的な関心」をもつことが求められる。併せて、「人々の幸福に対して積極的な熱意をもち、本質的な関心」をもつこと、「よい共同生活をするのに不可欠なさまざまな技能や習慣や態度」を身につけることが肝要となる、ということです。いい換えれば、それらを統一的に育成しようとするところに、「民主的社会の有為な公民」の育成(市民的資質の育成)をめざす社会科の基本的なねらい(「社会科の目標」)がある、ということです。

周知のとおり、「問題解決学習」(learning of problem solving)は、アメリカの教育学者であるジョン・デューイ(John Dewey、 1859年~1952年)の児童中心主義や経験主義の教育思想に支えられた学習法です。この学習法については、社会科の設立当初から様々な批判がなされました。その点について、例えば、前述の小原は次のように整理しています。「①社会機能主義と相互依存主義に基づく日本の社会科は、すでに民主主義社会ができあがっていると仮定して、社会適応的な人間の育成を目指していること。②日本の現実や社会の歴史的課題を問題として取り上げていないこと。③子どもたちの興味・関心を中心にした、はいまわる経験主義に陥っており、科学的な社会認識や系統的な知識の育成が欠落していること」、がそれです「(小原『同上書』43ページ)。
教育現場や保護者からのこうした批判を受けて、文部省は、1955年12月『小学校学習指導要領社会科編(昭和30年度改訂版)』の発行、1958年10月『小学校・中学校学習指導要領』の全面改訂(高等学校は1960年10月)を経て、問題解決学習から系統学習へと政策転換を行います。とりわけ1958年改訂によって、経験主義に偏りすぎであったそれまでの戦後の新教育の潮流を改め、各教科のもつ系統性を重視し、基礎学力の充実が図られます。しかも、その改訂は、1947年からの「試案」ではなく、法的拘束力をもつ文部省「告示」として公示されました。
さて、その後、この「問題解決学習」に関するターム(用語)は、文部省の『学習指導要領』等からほとんど姿を消すことになります。ところが、およそ40年後の1996年7月、中央教育審議会から出された「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」の第1次答申のなかで、一人ひとりの個性を生かすための小・中学校における教育の改善策として、「問題解決的な学習や体験的な学習の一層の充実を図る」ことが示されます。それによって、「問題解決的な学習」という文言ですが、問題解決学習が息を吹き返すことになります。その背景は、初期社会科の時代とは大きく異なっています。すなわち、当時の学校現場では、とりわけ1980年代後半に受験戦争の過熱化や知識偏重・偏差値偏重教育の推進などに起因する「いじめ」(1980年代後半から)、「不登校」(1990年代から)、「学級崩壊」(1990年代後半から)等々の問題を抱え、学教教育は危機的状況を呈していました。
上述の中央教育審議会の第2次答申(1997年6月)などを受けて、1998年12月に、2002年度から完全実施された小・中学校の学習指導要領が改訂・告示されます(高等学校の学習指導要領は1999年3月に告示され、2003年度から学年進行で実施)。内容的には、①教育内容を7割程度に「厳選」し、「ゆとり」のある教育活動を展開するなかで基礎・基本の確実な定着を図る。②子どもに自ら学び、自ら考える「生きる力」を育成するために、「総合的な学習の時間」を創設し、各学校が創意工夫を生かした教育活動を展開する、というものでした。2002年度からの、いわゆる「ゆとり教育」の始まりであり、「ゆとり世代」の誕生です。
1998年の学習指導要領改訂の中核は「総合的な学習の時間」の新設です。そのねらいは、「(1)自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てること。(2)学び方やものの考え方を身に付け、問題の解決や探究活動に主体的、創造的に取り組む態度を育て、自己の生き方を考えることができるようにすること」に置かれました。さらに、そのねらいを踏まえ、「国際理解、情報、環境、福祉・健康などの横断的・総合的な課題、児童の興味・関心に基づく課題、地域や学校の特色に応じた課題」などについて、学校の実態に応じた学習活動を行うものとする、とされました。また、「自然体験やボランティア活動などの社会体験、観察・実験、見学や調査、発表や討論、ものづくりや生産活動など体験的な学習、問題解決的な学習を積極的に取り入れること」が求められ、「ボランティア活動」の文言が初めて学習指導要領に登場することになります。
その後、子どもたちの学力や学習意欲の低下などが叫ばれるなかで、文部科学省は、それがひとつの原因であるとされた「ゆとり」教育からの政策転換を図ります。小・中学校が2008年3月、高等学校が2009年3月にそれぞれ、「脱ゆとり」教育の学習指導要領に改訂され、小学校が2011年4月、中学校が2012年4月から完全実施、高等学校が2013年4月から学年進行で実施されています。この改訂によって、「生きる力」を育むための体験的な学習や問題解決的な学習が期待されながら、実際には「総合的な学習の時間」の授業時数が縮減され、その一方で教科学習の授業時数の増加が図られています。それは、子どもの生活経験を重視する「経験主義」の対極に位置し、系統的な知識や理解を重視する「系統主義」(教科主義)の立場に立った改訂であるといえます。
以上から解るように、学習指導要領の改訂の歴史を振り返ると、経験主義教育と系統主義教育という2つの潮流があり、これまで振り子のようにその間を揺れ動いてきたといえます。しかし、問題解決学習と系統学習は、個々の人間の成長・発達にとって、また社会の改革・発展にとって不可欠なものです。とすれば、両者の学習方法を対立的あるいは二者択一的に捉えるのではなく、その融合や止揚を図ることが具体的な教育実践において求められます。

筆者はかねてより、福祉教育(市民福祉教育)は、市民性(市民としての資質と能力)の育成と、まちづくりの主体形成を図るための教育活動である。福祉教育は、「総合的な学習の時間」に焦点化するのではなく、「全教科全領域」において展開すべきである。福祉教育の体験活動が「はいまわる経験主義」に陥らないためにも、社会福祉やまちづくりについての体系的・系統的な学習や、福祉教育が学習素材とする社会福祉問題についての歴史的・社会的な理解が必要かつ重要になる、などといってきました。以上に叙述した諸点との関わりで、再確認しておくことにします。

補遺
初期社会科における「問題解決学習」に大きな影響を与えたジョン・デューイの教育思想や理論のうちから、その中心的な概念である「経験」(experience)について若干ふれておきます。
先ず、『学習指導要領社会科編Ⅰ(試案)』(1947年5月)の説明文にある「なすことによって学ぶ」は、デューイの有名な言葉です。それは、何かをただ体験するだけではなく、その行為を「反省的に思考すること」(反省的思考:reflective thinking)があって初めて「なすことによって学ぶ」ことになる、ということです。
次に、デューイは、「教育とは、経験の意味を増加させ、その後の経験の進路を方向づける能力を高めるように経験を改造ないし再組織することである」(松野安男訳『民主主義と教育』(上)岩波書店、1975年、127ページ)と定義しますが、「経験」を2つの側面から捉えています。そのひとつが「連続性の原理」、いまひとつが「相互作用の原理」です。それぞれについてデューイは次のように述べています。

「経験の連続性の原理というものは、以前の過ぎ去った経験からなんらかのものを受け取り、その後にやってくる経験の質をなんらかの仕方で修正するという両方の経験すべてを意味するものである。」(市村尚久訳『経験と教育』講談社、2004年、47ページ)。

「個人が世界のなかで生きるという言明は、具体的には、個人が状況の連続のなかに生きていることを意味する。‥‥‥(それは、:筆者)相互作用が個人と対象物あるいは他の人との間で進行していることを意味する。‥‥‥経験は、常に、個人とそのときの個人の環境を構成するものとの間に生じる取引的な業務であるがゆえに存在するのである。‥‥‥環境とは、どのような状況のもとであっても、個人がもたされる経験を創造するうえでの個人的な要求、願望、目的、そして能力との相互作用がなされるための条件なのである。」(市村尚久訳『同上書』63~64ページ)。

すなわち、前者は、経験は過去・現在・未来と繋がるものであり、後者は、経験は環境との相互作用によって成立するものである、ということを意味しています。そして、デューイは、「連続性と相互作用という二つの原理は、相互に分離しているものではない。それらは離れていても、結びつくものである。それらはいわば、経験の縦の側面と横の側面である」(市村尚久訳『同上書』64~65ページ)と述べています。そこから、デューイにあっては、学校における教師の任務は、「連続性」と「相互作用」の二つの原理をもつ「経験から学ぶ」(learning from experience)課程を編成し、子どもの自発的な学習活動を促すことにある。そして、子どもが経験から学ぶ際に必要とされるのが「反省的思考」である、ということになります。

福祉教育実践とりわけ学校における福祉教育実践においては、これまで、体験のやりっぱなしで、体験活動さえすればいいとする体験活動至上主義に陥ることがありました。しかも、その活動は観念的・精神的なものにとどまりがちでした。上述の「経験」についての言説を福祉教育に即していえば、福祉教育実践では「リフレクション」(ふりかえり)の態度を育成することが大事である。また、福祉教育の実践活動(「経験」)は、タテ(時間軸、歴史的事象)とヨコ(空間軸、社会的事象)の複合的で重層的な関係性のなかで捉え、展開することが重要である、ということになるでしょうか。
なお、「ふりかえり」に関して、次のことを付記しておきます。福祉教育の「体験活動」は、事前・事中・事後の指導と評価を通して「学び」「気づき」「ふりかえり」、そして「変わり」、新しく「動く」ことが求められ、その循環過程を経て「体験学習」へと深化・変容する、というのがそれです。

“いつか来た道”を憂う―「戦時厚生事業」の再考を求めて―

憂うべき事態が進行している。例えば、(1)2004年6月に成立し、同年9月に施行された「国民保護法」(「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律」)の規定により、「有事」の際にボランティア活動等が「国民の協力等」の一環として奨励されていること。(2)2013年12月に成立、公布された「特定秘密保護法」(「特定秘密の保護に関する法律」)の規定により、「情報は民主主義の通貨である」(アメリカの社会運動家:ラルフ・ネーダー)、「情報公開がないと民主主義は成立しない」などといわれるなかで、国民の「知る権利」が著しく侵害されかねないこと。そして(3)2014年3月に文部科学大臣が直接、沖縄県の「教科用図書八重山採択地区協議会」(石垣市、竹富町、与那国町)が選定した育鵬社版の中学校公民教科書を採択していない竹富町教育委員会に対して、地方自治法(第245号の5第4項)に基づく「是正の要求」を出したこと、などがそれである。
(1)の国民保護法は、戦後初の「国民保護」と銘打った有事法制である。それは、一瞥する限り、武力攻撃や大規模テロなどの有事を前提にした「国民の保護」のための措置等について規定したものである。しかしその内実は、名称とは裏腹に、「国家の安全」の確保が優先され、また有事における国民の「協力」という名の「動員」や基本的人権の制限あるいは侵害が行われる危険性がある。「自主防災組織及びボランティア」の取り組みを前提とした「国民保護計画」が、既に全ての都道府県やほとんどの市町村で策定されていることを考えると、「国民の自発的な意思にゆだねられる」とされている「協力」が「強制」されることは火を見るより明らかである。「ボランティア」については、その官製的な活動の振興が図られることになり、ボランティアの基本的性格である自主性や主体性が無視あるいは否定されることになる。以下は、国民保護法第4条の規定である。

(国民の協力等)
第4条  国民は、この法律の規定により国民の保護のための措置の実施に関し協力を要請されたときは、必要な協力をするよう努めるものとする。
2  前項の協力は国民の自発的な意思にゆだねられるものであって、その要請に当たって強制にわたることがあってはならない。
3  国及び地方公共団体は、自主防災組織(災害対策基本法 (昭和三十六年法律第二百二十三号)第二条の二第二号 の自主防災組織をいう。以下同じ。)及びボランティアにより行われる国民の保護のための措置に資するための自発的な活動に対し、必要な支援を行うよう努めなければならない。

(2)の特定秘密保護法は、戦後初の包括的な秘密保全法制である。それは、主として次のような条項によって構成・規定されている。①行政機関の長(大臣や官僚など)は、「その漏えいが我が国の安全保障に著しい支障を与えるおそれがあるため、特に秘匿することが必要であるもの」(第3条)を「特定秘密」として指定する。②行政機関の長は、「特定秘密」を扱うことが想定される行政機関の職員や行政機関との契約事業者(民間人)に対して、家族の状況や犯罪・懲戒歴、精神疾患、飲酒についての節度などについて「適正評価」(セキュリティ・クリアランス)を実施する。それは、「その者が特定秘密の取扱いの業務を行った場合にこれを漏らすおそれがないことについての評価」(第12条)をいう。③「特定秘密の取扱いの業務に従事する者がその業務により知得した特定秘密を漏らしたとき」(第23条)は、厳しい懲役および罰金に処する、ことなどがそれである。
その内容については、日本弁護士連合会(『秘密保護法とは何か?~その危険性と問題点~』2014年3月)をはじめ多くの機関や団体などによってさまざまな問題点が指摘されている。①特定秘密の範囲が不明確で曖昧であり、過度に広範囲に及んでいる。②国民のプライバシーが侵害され、広範囲の個人情報が収集・管理されかねない。③処罰の範囲が広いために取材・報道の自由が阻害され、国民の「知る権利」が侵害される恐れがある、などがそれである。これらを要すると、特定秘密保護法は国家権力による「監視社会化」(「管理社会化」)を進めるものである、といわざるを得ない。
(3)の文部科学大臣による市町村教育委員会(竹富町教育委員会)への初の教科書是正要求は、教科用図書八重山採択地区協議会が、石垣市の(保守系)首長や教育長の主導により、不透明で、不適切かつ強引な手法によって教科書の採択を答申したことを発端とする。
この是正要求は、元をただせば、「教科書無償措置法」(「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律」)と「地方教育行政法」(「地方教育行政の組織及び運営に関する法律)」の二つの関連法における規定が矛盾していることによるものである。前者はその第13条第4項で、同じ採択地区内の市町村の教育委員会は、協議して同一の教科書を採択しなければならないと定めている。その一方で、後者はその第23条第1項第6号において、市町村の教育委員会に教科書の採択権があることを認めている。こうした法律の矛盾点が是正されず、これまで放置されてきたことに問題があることはいうまでもない。
周知の通り、「是正要求」は、法的には前述の地方自治法第245条の5第4項の要件を満たすことが求められる。「市町村の事務の処理が法令の規定に違反していると認める場合、又は著しく適正を欠き、かつ、明らかに公益を害していると認める場合において、緊急を要するときその他特に必要があると認めるとき」がそれである。竹富町においては、これらの事態は生じていない、といわれる。また、国の関与は、同法第245条の3第1項の規定に沿うものでなければならない。すなわち、「その目的を達成するために必要な最小限度のものとするとともに、普通地方公共団体の自主性及び自立性に配慮しなければならない」ことになっている。
いわれるように、民主主義教育を推進するためには、教育行政への政治的介入の排除、教育内容の中立性や公正性の確保、教育現場の自主性や自律性の尊重、教育における地方・住民自治と住民参加の保障、などが要請される。
以上の諸点を考え合わせると、今回の是正要求は、一面的な解釈と強権的な振る舞いに基づく、説得力に欠けるものであり、政府の違法行為である。竹富町教育委員会には何ら違法性はない、といえよう。
ここで、育鵬社の中学校公民教科書から、「平和主義」と「公共の福祉」に関する記述を紹介する。

「平和主義」
第二次世界大戦に敗れた日本は、連合国軍によって武装解除され、軍事占領されました。連合国軍は日本に非武装化を強く求め、その趣旨を日本国憲法にも反映させることを要求しました。
このため、国家として国際紛争を解決する手段としての戦争(侵略戦争)を放棄し、戦力を保持しないこと、国の交戦権を認めないことなどを憲法に定め、徹底した平和主義を基本原理とすることにしました。戦後日本が第二次世界大戦によるはかりしれない被害から出発したこともあり、この平和主義は国民にむかえ入れられました。(48ページ) 

「公共の福祉による制限」
憲法は、国民にさまざまな権利や自由を保障していますが、これは私たちに好き勝手なことをするのを許したものではありません。
憲法は、権利の主張、自由の追求が他人への迷惑や、過剰な私利私欲の追求に陥らないように、また社会の秩序を混乱させたり社会全体の利益をそこなわないように戒めています。
憲法に保障された権利と自由は、「国民の不断の努力」(12条)に支えられて行使されなくてはなりません。憲法では、国民はこれらの権利を濫用してはならず、「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任」があると定めています(12条)。(46~47ページ)

以上から、育鵬社版の中学校公民教科書では、「平和主義」について、連合国軍によって押し付けられたものであるといういわゆる「押し付け憲法論」に基づく記述になっているといえる。それは、国家主義的立場に立って、「一面的に過ぎる特異な見解のみを強調している」と指摘されるところでもある。また、「公共の福祉」に関しては、それによる人権の制限やルール・義務を強調した記述になっているといえる。この点に関して、例えば東京書籍版の中学校公民教科書では、次のように記述されている。「何が『公共の福祉』」にあたるのかを政府が一方的に判断して、人々の自由な人権の行使を制限することがあってはなりません。人権が『公共の福祉』によって制限されるといっても、その人権の制限が具体的にどのような公共の利益のためなのか、考えていく必要があります」(53ページ)。特定の歴史観や国家観に偏らないバランスのとれた記述であるといえよう。
このようなことから、育鵬社版の公民教科書は、教科書としての公正性や中立性、適格性に欠けるものであり、政治的手段のひとつとして作成された政治的教科書である。それはまた、教科書検定の公正性や信頼性を厳しく問うことにもなる、などといわざるを得ない(自由法曹団『法律家による「つくる会」系公民教科書(育鵬社・自由社)の検証』2011年、等参照)。
しかし、こうした内容の育鵬社版教科書の採択状況をみると、それは増加傾向にある。民間会社(株式会社学習)による「平成24年度教科書採択一覧表」(中学校:2012年度~2015年度)をみると、全国603の教科書採択地区のうち27地区(4.5%)で育鵬社版公民教科書が採択されている。占有率が最も高いのは東京書籍の323地区、53.6%である。ちなみに、その一覧表では、沖縄県八重山地区(石垣市・八重山郡)は「未決定」と表示されている。
いずれにしろ、文部科学省の竹富町教育委員会に対する教科書是正要求は、育鵬社版公民教科書の採択を強要するものである。国家権力による特定教科書の押しつけは、地域の多様性や学校現場の教師や子どもの自主性を無視したものである。とともに、戦前の国定教科書への回帰を促すものでもある。それは、戦後民主教育の形骸化と破壊に繋がる。育鵬社版公民教科書の採択率(シェア)が伸びていることに併せて、強く認識することが求められるところである。

憂うべき事態が進行している。それは、政府による国家主義的な政策の、強圧的な取り組みに見ることができ、日本国憲法の3大基本原理といわれる「国民主権」(民主主義)、「基本的人権の尊重」(人権保障)、「平和主義」(戦争放棄)の侵害や形骸化に繋がるものである。それについて、「国家主義の復権」や「戦前への回帰」と断ずることはひとまず置くとしても、福祉・教育関係者は大いに関心をもち、発言し、行動しなければならない事態である。

ところで、唐突ではあるが、以上の叙述は、今日的な「憂うべき事態」を「戦時厚生事業」との相関のなかで考えてみたいという筆者(阪野)の漠然としたひとつの思いに基づくものである。
筆者は、古川孝順の「研究者世代論」によると第3世代の最末期に属するのであろうが、当時の学部学生にとっての必読書の一冊は孝橋正一の『全訂・社会事業の基本問題』(ミネルヴァ書房、1962年)であった。周知の通り、孝橋は、マルクス主義(史的唯物論)に立って「社会事業」を資本主義国家による政策として捉えるいわゆる「孝橋理論」を形成し、当時の社会福祉研究を先導したひとりである。孝橋は、その著作のなかで、「世界恐慌・戦時態勢と社会事業」に関して次のように説述している。「1931年の満州事変、1937年の支那事変、そして1941年の第二次世界大戦への突入から敗戦までの過程において、‥‥‥社会事業はファッシズムの侍女として自分自身を位置づけていった。‥‥‥社会事業は厚生事業として、その活動のあらゆる領域で戦時生産力の拡充のために協力し、また戦時態勢と戦争のもたらす被害の後始末にまわった」(290~291ページ)。
社会事業は「ファッシズムの侍女」であり、「戦時態勢と戦争のもたらす被害の後始末にまわった」という孝橋の指摘は、小倉襄二の次のような叙述によって、より明確になる。「戦時厚生政策(戦時厚生事業:筆者)を解明するキイ・ワードは〈統制〉に在る。‥‥‥明治以降、マイナーで体制の日陰に位置を保持して恒に公的救助義務主義を回避しつづけた官治の権力の対極にあった救済―社会事業領域が日本ファシズム体制下の一連の〈統制〉によって天皇赤子論、国体論や大政翼賛の総動員体制のなかに編入、強制されることによって或る種の確たる地歩と、“陽の当る場所”、戦時体制にとって重要な一分肢としての機能を付与されることになった」。「戦時厚生政策はわが国のファシズムの“産物”であった。日本ファシズムは戦時厚生政策の前提である」(小倉襄二『右翼と福祉』法律文化社、2007年、7~8、82ページ)。
なお、ここで、「厚生事業」の理論的指導者であった、同志社大学の竹中勝男の一文(「社会事業に於ける厚生の原理:国民厚生事業序説」『厚生学年報』第1輯、同志社大学厚生学研究室、1942年7月)を紹介(転載)しておくことにする。「戦時厚生事業」は「客観的に外部から社会事業に要請した結果である」という、その論理が展開されている。ちなみに、同志社大学の文学部に「厚生学専攻」が設けられたのは1941年4月からであり、その後、「時代の脚光を背負った領域として厚生学科として残る」ことになる(上野直蔵『同志社百年史』(通史編二)同志社、1979年、1531ページ)。

「社会事業が『厚生』といふ問題を採り上げるやうになつたことは、決して社会事業の本来的内部機構的な発展の結果からでなく、戦時国防国家建設の目的遂行が、客観的に外部から社会事業に要請した結果であると言はねばならない。換言すれば、それは社会事業がその組織化体系化の理論的発展が要求した必然な問題であつたのでもなく、高度国防国家体制の進展に応じて、軍事的、経済的産業的充実整備がそれ自からの進行過程に於て、国民の人口資源、体位保健状態に於て、それらの基底となつている庶民生活の地盤に於て全く新らしい角度と認識目的に立つて採り上げるに至つた課題であつた。換言すれば、それは『要救護性』の戦時的認識であり、それの全体主義的理念に立つた把握であり、その歴史的特殊性を止揚してそれを国民階層一般への相対化に於て変容し、要救護性の庶民的拡がりとそれへの国家的保護対策の確立を前提として把握された『国民的要保護性』であると言ふ事が出来る」(小倉『同上書』、124ページ)。

今日的な「憂うべき事態」について、主権を有する国民の主体的・自律的な意思に基づいた、真の「是正」を図るための方策は何か。いま求められるのは、「戦争責任」や「戦争協力」についての浅薄な議論ではない。「戦時厚生事業についての研究が困難(であり:筆者)、関心をもつ研究者が少ない」(小倉『同上書』、77ページ)といわれるなかで、戦時厚生事業の政策や理論・思想について科学的・体系的に再考することではないか。その際、国家主義を主張するファシズムが忌避したのは、「民主主義」であり、「人権」や「人間の尊厳」などであったことを再認する必要がある。そして何よりも、「憂うべき事態」が強権的に作り出される時流に迎合しない、「批判と抵抗」の姿勢が求められる。本稿で筆者がいいたいのはこれらの点である。「戦時厚生事業」と同じような轍を踏まないためにも。

今、改めて問われる「村を捨てる学力」と「村を育てる学力」―資料紹介―

筆者(阪野)は先日、G市社協主催の「福祉教育講演会」に招かれ、「福祉によるまちづくりと市民福祉教育―地域福祉は福祉教育ではじまり、福祉教育でおわる―」という「演題」のもとに、「市民福祉教育」の基礎的・基本的事項をめぐってレクチャーする機会に恵まれました。例によって、演題とともにレクチャーの中身も特段目新しいものではありませんでしたが、筆者にとって講演会は、学校の先生方や社協の役職員、民生委員、ボランティアなどの皆さんから新たな学びや気づきを得ることができ、有意義なものとなりました。
レクチャーの導入部分では、「雑感」(2014年3月1日)にアップした拙文――「『地元』への思い、それぞれ」の一部を紹介しました。その際、「地域福祉活動計画」「住民懇談会」「中学生」「教師」「地元」「総合的な学習」、そして「村を育てる学力」という事項(用語)に留意しながら、「まちづくり」「まちづくり学習」「市民性形成」などに関する卑見の若干を開陳しました。
レクチャー後に、参加者の一人から、「村を育てる学力」についてもう少し紹介してもらいたい旨の申し出を受けました。G市は、県内でも代表的な中山間地域で、多くの限界集落を抱えています。本格的な超少子高齢人口減少社会を迎え、G市では、それに対応する安全・安心で持続可能(サスティナブル)な地域生活の実現やそのための「まちづくり」が強く求められています。そういうなかで、その質問者は、「村を育てる学力」の対極にある「村を捨てる学力」にも関心をお持ちのようでした。
いうまでもなく、「村を捨てる学力」と「村を育てる学力」の出典は、東井義雄(1912年~1991年)の『村を育てる学力』(明治図書、1957年)です。東井は、1950年代に「村」と「学力」の問題に焦点をあて、「生活綴方教育」の実践者(「綴方教師」)として高い評価を受けた一人です。
当時の綴方教師たちの関心は、おしなべて(1)「子どもたちの貧困からの脱出」と(2)「戦後日本の新しい政治的および道徳的価値の形成、浸透、定着」にあったといわれます(奥平康照「戦後生活綴方教育全盛の時代―1950年代前半の子どもの生活と戦後教育実践―」『和光大学現代人間学部紀要』第1号、2008年、8ページ)。(1)に関しては、1954年12月に高度経済成長が始まったばかりで、子どもを取り巻く経済的状況は劣悪であり、「貧困からの脱出」は学校教育における最も重要な基本的課題でした。(2)に関しては、伝統的な村落共同体的社会組織や社会関係が残る「家」や「村」(地域)では、家父長的ないしは封建的な伝統や因習からの解放が大きな課題になっていました。
東井は、以上の点をめぐって、また「『生き方』の教育だといわれて来た」り、「生活教育と結びつけられて考えられて来た」(180ページ)「綴り方」の教育について、その著書のなかで次のように述べています。

「『村を育てる学力』を志向するにしても、単に、村の子どもの学力のおくれを打開するにしても、問題は、村の子どもの生活の狭さと、主体性の貧困をどうするかに、まとまってくるようである。
さて、村の子どもたちの生活の狭さと、主体性の貧困は、何によって救えばいいのであろうか。この問題を考える時、私は『作文的方法』に対して注目せずにはおれない。
生活を耕やすということは、……子どもの一人一人が、まず、自分の内面的な意識活動や、それに関連して行われる生活行動に対して、自分の方から注目し、その生命活動の一ひら一ひらを大じにしようという心構えになってくれることが先決問題である。ところが、このためには、作文、ないし綴り方をとり入れることが、まことに都合よく、また、効果的なのでる。」(179~180ページ)

次に、「村を育てる学力」に関する東井の言説について、注目すべきところを多少長きにわたりますが、そのまま紹介することにします。

「進学指導・就職指導によって、たしかに村の子どもの学力は伸びるだろう。農村人口の都市へ移行も必然的な動向であろう。
しかし、村の子どもが、村には見切りをつけて、都市の空に希望を描いて学ぶ、というのでは、あまりにみじめすぎる、と思うのだ。そういう学習も成り立つではあろうが、それによって育てられる学力は、出発点からして『村を捨てる学力』になってしまうではないか。」(38ページ)

「ただ私は、何とかして、学習の基盤に、この国土や社会に対する『愛』を据えつけておきたいと思うのだ。『村を捨てる学力』ではなく『村を育てる学力』が育てたいのだ。みじめな村をさえも見捨てず、愛し、育て得るような、主体性をもった学力なら、進学や就職だってのり越えるだろうし、たとえ失敗したところで、一生をだいなしにするような生き方はしないだろうし、村におれば村で、町におれば町で、その生れがいを発揮してくれるにちがいない、と思うのだ。」(38~39ページ)

「『愛』とは何か。『わたしのもの』……、『自分のこと』という意識のことだ。私はそう思う。
主体的な『愛』は、ものを、自分のものとしてかわいがり、育て、しらべていく、行動的な学習を通してのみ、育て得るものだと私は信じている。」(50~51ページ)

「……『村を捨てる』立場から育てられた『主体性』が、『村を捨てる学力』を形成していくことは必然だが、……
この行き方に欠除しているものは『土』への『愛』である。『村』は、愛することもできないほど、暗く、貧しい。しかし、それがそうであればあるほど、それは、何とかせねばならぬ。『愛』が注がれねばならぬ。このような村をも愛することができるなら、この貧しい『国土』をも愛してくれるだろう。そして、そのことの中に、『生きがい』を見つけてくれるようにもなるだろう。たとい、村を出ていくことになっても、行ったところで、生きがいを切りひらいていってくれるだろう。
そして、そのような立場からの学習が、私は可能だと思う。客観的、普遍的な学問の価値が、そのような立場から消化されたら、どんなにすばらしいことだろう。」(173~174ページ)

要するに、「作文的方法」すなわち「綴り方」の方法に基づいて「生活を耕やす」ことによって、子どもたちは、自分たちの生活に目を向け、いわゆる「我が事化」し、生活についての自分の「感じ方、思い方、考え方、行い方」(180ページ)に注目するようになる。そして、それを通して生活を改善していく力、「村の停滞性を突き破っていき、新しい生産様式をきり拓いて行くような、そういう学力」(32ページ)、すなわち「村を育てる学力」を形成していく。東井はこうように考えていたといえます。
その際、東井の教育実践は、学校内部に留まらず、「村」(地域)の歴史的社会的状況との繋がりを重視するとともに、「村」全体が育っていく必要性を説いています。改めて指摘しておきたいところです。この点に関して、東井は次のように述べています。

「『生活』には、明らかに地域性がある。村の子には村の子の『生活』があり、『生活の論理』(「感じ方・思い方・考え方・行ない方のすじ道」:東井)がある。価値がどのように普遍妥当なものであっても、それが子どもの生活に消化された時、地域のにおいを持ってくるのは当然である。」(171ページ)

(村の現実が、教育によって育てられた、農業や農村の生活に対する「批判の目」に堪えられないなら)、「批判に堪えるような村を築きあげようとする、積極的、建設的、生産的、意欲的な人間を育て、そのように身構えさせる役割を、教育は背負うべきだ。」(34ページ)

「市民福祉教育」は、福祉による“まちづくり”のための主体形成を図る教育活動です。東井の「村を育てる学力」に関する所説や言説は、市民福祉教育に通じるところがあります。いささか唐突ではありますが、付記しておきます。それにしても、戦前に教師として「あやまった時期をもつ」(3ページ:国分一太郎)とはいえ、東井の「子ども」「村」、そして「教育」に対する「熱い胸と冷たい頭」にはただ敬服するのみです。筆者もそうありたいと願いつつ……。

“車椅子”のつぶやき

ブログ読者 (K氏) からメールをいただきました。意味深長なものであり、アップすることにしました。ご感想やご意見等をいただければK氏にもお伝えしたいと思っています。

私は車椅子です。

私を利用してくれるのはKさんです。
Kさんは、地元地域 (ホーム) で、仲間とともに偏見や差別と闘っています。
また、Kさんは、学校などで、
自分の障害や家族生活などについて話をすることがあります。
そのときのKさんは輝いているように見えます。

Kさんと外出すると、いまだに、私は多くの人びとの注目を浴びます。
後ろで、私を押してくれる人がいるときも、視線はその人に注がれます。
私を利用して移動するのはKさんです。Kさんが主役です。
主客が転倒しているように思えてなりません。

私には、 「ボランティア」 という古い友人がいます。
その友人は、最近、地震や水害などの自然災害が起こったとき、
“動員” や “派遣” という形で、大活躍しています。
その友人の性格が分からなくなってきています。

先日、私は、背の高い、美しい仲間と出会いました。
彼女は、遠方各地 (アウェイ) で講演活動をしている人といつも一緒だそうです。
タレントのようなその人の話は、「人生の応援歌」でした。
逆に、Kさんらの生き方が心配になってきます。

日常生活上の “葛藤” や “ゆらぎ” に福祉教育の本質を見出したい

昨年12月28日にアップした「よんださんの子」をめぐって、複数のブログ読者から貴重なご感想やご意見等をいただきました。そのうちのSさんとは、「ディスカッションルーム」上で、N氏の散文とそれに対する筆者(阪野)のコメントをめぐって、若干の意見交換を行いました。その際、筆者は、「厳しい差別の現実に向き合わない福祉教育」「ICFの理念に酔っている福祉教育」等の、やや自虐的なフレーズをSさんに投げかけています。それらを踏まえて、筆者は、「よんださんの子」の原稿に、新たに 「 『偏見』や『差別』の現実を軽視した『共生』と『福祉教育』への想い 」 というサブタイトルを付けることにしました。
以下に、Sさんのご感想をアップさせていただきます。議論が深まることを期待します。

私が福祉教育の実践をしていて感じるのは、子どもたちに伝えられるのはどうしても「かたち」だけにとどまりがちである、ということでしょうか。
「差別」に関しても、おっしゃるように「共に生きる」が優先され、「上辺」だけというか、「かたち」だけになりがちです。
私のつたない経験談で申し訳ないのですが、私が中学・高校生の折、筋ジストロフィーの双子が同じ学校に通っておりました。二人とも車いす生活でしたが、そのころの学校にはエレベーターなどあるはずもなく、3階まである校舎を、移動教室があるたびに、「人力」で上へ下へと移動していました。その人力として活躍したのは、双子の同級生たちであり、他学年の生徒たちでした。
いまでは安全面からそのようなことは考えられないと思いますが、彼ら双子の周りにはいつも人がいて、みんなで助け合うことが当たり前になっていたのです。助け合うことは、生徒たちのごくごく自然な心情であり、態度であり、行動でした。
高校生のときに、双子のひとりは本当に残念ながら他界されました。もうひとりの子は、国立大学を卒業したと聞いております。私自身、彼らの生き方から実に多くを学ぶことができました。そこには、「福祉」や「価値観」について、学校や教師からの一方的な押しつけなどありませんでした。
日常の暮らしのなかで、相手の気持ちを考えたり、自分の行動を見つめ直したりする。一般的には間違いであったり、悪い感情として捉えられたりするような気持ちのやり取りや「葛藤」を経験する。こうした「ゆらぎ」があってこそ、いろいろなコトや面についての新たな“気づき”や考え方の“軸”が得られ、自分らしく、豊かに「生きる」ことができるようになるのではないか。このあたりに、福祉教育のめざすべきものがありそうだと思っています。
日常のなかでそういった経験ができた私は、ある意味「しあわせもの」だったかもしれません。
子どもたちを対象とした「福祉」の体系的な学習は、福祉教育を推進する側からするとやりやすいのですが、限られた時間のなかでは福祉教育の本質には近づけないということも理解できます。福祉教育にのめり込むほどに、福祉教育についての認識と実践に関して、矛盾やジレンマ、もどかしさを感じています。

蛇足ながら、筆者から一言。
人や社会の思考と行動には、冷たさと温かさ、弱さと強さ、狭さと広さ、などが同居しています。それらとどのように向き合い、それらをどのような角度で掘り下げ、そしてそれらをいかに鋭くあぶり出すか。それによってはじめて、Sさんのいう福祉教育の「本質」に迫る“糸口”を見出すことができるのではないでしょうか。

よんださんの子―「偏見」や「差別」の現実を軽視した「共生」と「福祉教育」への想い―

「よんださんの子」
私が言われてきたことばである。地域の大人から、ことあるごとに言われてきた。
私には2歳うえの兄がいる。彼は、小学校の成績はいつもトップクラスだった。
その小学校では、学期ごとに、「級長」という名のクラスの代表が生徒の選挙によって選ばれた。彼はいつも1学期の級長を務めた。級長になると、それを記す胸章と腕章をつけて自慢げに登下校した。
その様子をみて、何よりも誇りに思ったのは、家のことについて何も知らされず、若くして嫁いできた母であったろう。
兄はまた、児童会の会長も務め、運動会の入場式では全校生徒の先頭を意気揚々と、国旗を持って行進した。また、学芸会の開会式では、大勢の父兄に向かって挨拶もした。
親にとっては自慢の長男であった。か細いながらも、はっきりとものを言う子どもであった。それ故に、親は大いに期待をし、また当然のことながら彼を溺愛した。
「あそこの兄ちゃんは、いつも級長になるなあ。児童会の会長だって。そりゃそうさ。あの母さんは教育熱心で、学校の先生に砂糖一斤、付け届けしているんだから――」。根も葉もないことがその都度、近所では囁かれていたと言う。
当時、家は、赤貧洗うが如し、の状態に近かった。親は、夜遅くまで月灯りの下で野良仕事をし、狭い土間で夜なべ仕事をしていた。それなりの人で賑わう地元の秋祭りの日は、家のカレンダーにはなかった。冬になると、親の手はひびとあかぎれで覆われ、思わず目をそむけたくなるほどであった。
そんな暮らしのなかで、付け届けができる余裕などあるはずもなかった。
親は、兄のために、近くにある大学の学生を無償で、8畳ほどの離れに下宿させ、勉強をみてもらうことにした。熱心な家庭教師であった。私には、ほとんどその機会や場は与えられなかった。
父は明治生まれ、母は大正生まれの百姓である。また、「父兄」を重んじる土地柄であり、時代でもあったといえば、それまでのことである。
いつごろからか、私は吃り始めた。それからというもの、私にとって学校は、あたかも拷問を受けるかのような場と化した。とりわけ国語の時間は、拷問のそのときであった。拷問の器具は国語の教科書一冊。しかも文章のひとつの段落であった。それで事足りた。
起立して朗読する順番が回ってくるとき、私の心臓は破裂しそうになった。朗読はわずか数分のものであったろうが、私には長い時間に思えてならなかった。その間は、教室に笑いの渦が広がった。教師もその渦のなかにつつまれ、ひとこともなく教卓のそばに立つだけだった。
数時間の拷問を受けたあと、汗だくになって着席しても、胸の鼓動はおさまらなかった。それは下校する時間になるころまで続いた。
こうした拷問は、小学校、中学校、そして高校まで続いた。教師の薄ら笑いとともに、である。
「今日は国語の時間がない」という日は、気弱な子どもではあったが、それなりに学校は楽しいものでもあった。
病気のとき以外、学校を休むことは許されなかった。それは母の強い想いであったろう。そこに、屋号でもない、特別の名称で呼ばれる家の「嫁さん」として、どんな想いがあったかどうかは、私は知らない。
兄と私は、ある高校への入学をめざして、私立の中学校に通った。そのための学費を親がどのように工面したのか、これも私は知らない。ただ、当時、学生服が木綿から合成繊維に代わる時代であったが、兄はクラスでただ一人、3年間、安い木綿の制服を着て通した。
兄のあとを追うように、私も同じ高校に入学した。
その高校に通う電車の途中駅から、学校帰りの知的障がいの子どもたちが乗り込んでくることがしばしばあった。彼らの言動には不可解なところもあった。大学進学を考え始めた3年生になりたてのころからだろうか。その言動や彼らが通う学校のことが気にかかるようになっていた。
彼らのことが不思議に思えたのである。別世界のことのようでもあり、何よりも楽しげであった。
そこで、私は、親の反対を押し切って、「福祉」と「教育」を学べる東京の大学を受験し、入学することになった。父と私の間には、幾度となく「勘当」ということばが激しく行き交った。
そのせいでもなかろうが、「お宅の次男はどこの大学にいったのかねー」という知人の問いに対して、父の応えはいつも決まっていた。「東京『の』大学だ」。「の」の字が必ず入っていた。
親にとっては、また私にとっても、「知的障がい」や「福祉」は分からないものであり、未知の世界であった。
ただ、私は、小学校以来の拷問からいっときも早く逃れたい。私のことを誰も知らないところに、また私に優しく接してくれるであろう福祉という世界に身を隠したい。その一念であった。それはまた、言うまでもなく、人一倍の劣等感によるものであった。
大学生活の4年間は、私にとっては実に楽しいものであった。学費を稼ぐための、1年365日のアルバイトも楽しかった。バイト先では、ろくに仕事もせずに、バイト代の賃上げ要求の先頭に立った。70年安保を前に、学生運動が激しさを増すときである。
仕事を終えて、東中野の四畳半の下宿に帰り着くのは、いつも夜中の11時ころだった。それから、閉店間際の銭湯の熱い湯に身を沈めた。至福のひとときであった。
大学の授業が休講になったときなどは、歌舞伎町の映画館にも通った。アンパンを食べながら、3本立ての映画を観て、バイト先に急いだこともあった。
「福祉」の「ふ」も分からない私は、その後敬愛の念を深め、強く影響を受けることになる教授たちの講義を聴いた。2年生のころからか、ほんの少しずつではあったが、福祉や世間とやらについて解かり始めてきた。いや、解ろうと努めるようになった。
そこには、大学の数少ない友達だけではなく、社会の底辺に澱みながらも、必死に生きようとする人たちやその暮らしとの邂逅があった。
私にとっては拷問の場でしかなかった学校、それも大学という学校で、学ぶことの意味や楽しさを味わうことができたのが、何よりであった。
大学の図書館に通い詰めるようになったのも、そのころからである。ときには国立国会図書館まで足を運んだ。新宿の紀伊国屋や渋谷の大盛堂へも歩いて通った。神田の古本屋めぐりも好きだった。
図書館や本屋への帰りに、その近くの喫茶店で飲む安いコーヒーは、足の疲れを取ってくれた。心の乱れを静めてくれた。格別の癒しであった。
こうした東京での生活が、私を大きく変えた。そのひとつは、何故か、吃音から解放され、話すことが自由になった。また、あれほど激しく嫌ってきた学校や教員に、多少なりとも興味を持つようになった。
そしてまた、得体のしれない権力や圧力に対しては、多少なりとも、ときには厳しくそれに対峙する心情を持つようにもなった。あの気弱な、強い無力感と劣等感にさいなまれていた私は、その影を潜めることになっていった。
その後、私は、大学紛争で卒業式もないまま、田舎教師になった。
教員時代の生活はまた、結婚をはさんで、波瀾万丈そのものでもあった。東京に戻っての結婚生活は、四畳半の安アパートで、底辺から這い上がることから始まった。しかし、ほどなくして、幸運にも私は二人の恩師に出会い、懇篤な指導を受けるようになった。それは、その後の私の教育のみならず、人生そのものを決定づけることになった。30歳前後のころである。
勤務した学校は私立ばかりで、3校変わった。3校とも、多くの教職員に惜しまれて辞めることはなかった。その理由のひとつは、権力に対峙した結果である。ただ、再び田舎に舞い戻って勤めた3校目の学校では、多くの卒業生が定年退職を祝ってくれた。それは教師冥利につきるものであった。
いま、私は、40年余の教員生活を終え、晴耕雨読の暮らし方ではない、第二の人生の過ごし方を模索している。
妻は、「あなたは人の3倍は働いたわね」と言う。それは、必ずしも褒め言葉でないことは承知している。たとえ人の3倍働いたとしても、それは貧乏が怖かったからに他ならない。
妻は言う。「あなたは文句ばかり言ってきたわね」。それは断じて違う。身勝手な権力者に対するささやかな抵抗であったのである。ただ、その抵抗は徒労に帰すことが大抵であった。また、権力者にすり寄る人に対しては、ときに冷ややかな目で見ることがあった。それは、私の悪賢い偽善者の目であったかも知れない。
そして、いま何故か、晴耕雨読を良しとしないとは言うものの、島崎藤村の文学の世界をまた彷徨っている。今日、『破戒』を読み終えた。
主人公の瀬川丑松と、何故か猪子蓮太郎の名前は、うっすらとではあったが覚えていた。

「四足(しそく)? 穢多のことを四足と言うかねえ」
「言わあね。四足と言って解らなければ、『よつあし』と言ったら解るだろう」
「むむ――『よつあし』か」

「よんださんの子」それは「四ださんの子」のことである。私はそう思っている。
いまになっては、それが「わたし」の豊かな人生を創ったとも思える。

初めて、遠くにお住いのN氏から、以上のようなメール(散文)が届きました。余計なことばやコメントは一切要らないようです。
ただ、これまでの「福祉教育」は、「同和教育」や「特殊教育」と真正面から向き合ってきたか。同和教育や特殊教育の本質やあり方を厳しく追求してきたか。そう問えば、「否」といわざるを得ないことを痛感します。
今日、同和教育は「人権教育」、特殊教育は「特別支援教育」へとその名称を変えています。しかし、人権教育の内実は、「差別の現実から学ぶ」という同和教育の理念を希薄化させ、「共に生きる」という美辞麗句のもとで、人権やその問題の一般化・抽象化を促すことになっていないか。特別支援教育のそれは、理念としてインクルージョンを指向しながらも、障害のある子どもたちに、その持てる力を発揮することを過大に求め、自己選択や自己責任に基づく「自立」を強制していないか。
さらに付け加えれば、福祉教育は、ICFの理念・モデルを重視した実践が広がってはいるが、「活動」や「参加」などの生活機能が可能になる仕組みづくりやまちづくりについて、十分に関心を払い、それに取り組んできたとはいえないのではないか。
こうした警鐘を鳴らす意見があることを、先ず真摯に受け止める必要がありそうです。また、唐突ですが、福祉的あるいは教育的ニーズの「個別性」や「多様性」ということばが、通常の、本来的な福祉や教育から一部の人たちを排除し、特定の領域に追いやり、階層化を生み出しているのではないか。これまた気にかかるところです。
「福祉教育は、福祉課題を教材として用い、年齢や教育する現場(小学校、中学校、高等学校、大学)や地域、職場などにおいて、それぞれの教育目的をもって体系的に実施するものです」。「福祉教育は福祉課題が素材であるだけに、カリキュラムとしてはより制度化しやすい体質をもっているということができます。しかし同時に知識や技術の伝達に陥りやすいことも意味します」(『NHK社会福祉セミナー』2013年12月)と述べられます。
その通りでしょう。しかし、こうした指摘だけでは、福祉教育の本質や、「教育」や「学校」をめぐる今日的な状況に鋭く切り込むには、“弱さ”や“危うさ”を感じざるを得ません。
いまこそ、いろいろな意味で、またさまざまな場面で、「寝た子を起こすな」ではなく、「寝た子を正しく起こす」。そのための「福祉教育」とそのあり方が厳しく問われている。それを深く問うことなくしては教育も学校も語れない。このように思うのは筆者(阪野)だけでしょうか。

参加型地域ふくし懇談会における懇談内容と項目

地域福祉計画や地域福祉活動計画の策定に際して、各界各層の住民の参加(参集、参与、参画)による「懇談会」の開催は欠かせません。また、懇談会のありようが計画内容の妥当性や具体性、地域性、それに計画の実現性などを決するといっても過言ではありません。しかし、これまでの懇談会は、一部を除いて、その多くは一方的な情報提供や、形式的で形骸化したものにとどまりがちであったといわざるを得ません。その原因のひとつは、参加者の発言(開陳)や対話(協議)を促し、論点の整理や課題の明確化、相互理解や合意形成などを図るためる方法・手法が必ずしも十分に検討・準備されず、また有効に活用されてこなかったことにあります。いまひとつは、懇談会における情報提供・交換や協議の過程そのものが、問題の学習や課題解決に向けた主体形成の場であること、すなわち「福祉教育」の実践であるということがいわれるほどには留意されてこなかったことによると思われます。
今回、ブログ読者から、懇談会を開催するにあたって、参加住民が自分の発言や対話の内容をより明確に認識・理解するとともに、参加者が互いに共感し、共有化するための “アイディア”  を求められました。そこで、取り急ぎ、以下のような「参加型地域ふくし懇談会における懇談内容と項目」(マトリックス)を考えてみました。
懇談会の名称を「参加型」としたのは、参加者全員が忌憚なく語りあうことができる懇談会であること。そして、参加には「参集」(いあわす)、「参与」(かかわる)、「参画」(にないあう)の3つの段階を考えることができますが、最終的には「参画」をめざすとしても、いずれの段階の参加も認めあうことを意味します。また、「地域ふくし」は、地域(地元)に暮らすすべての住民の だんの らしの あわせ についてみんなで考えあい、ともに汗を流すことを意図しています。
懇談会のテーマは、おおよそ次の4つです。懇談会では(1)のテーマから順に語りあい、1回の懇談会の時間は全体で90分から120分程度、子どもや高齢者、障がい者、外国籍住民などを含めた多くの住民が参加できる工夫や、可能な限り開催の回数を重ねるなど、意図的で計画的・継続的な取り組みが求められます。
(1)私が住んでいる「まち」の安全・安心なところ、自慢できるところ。
(2)普段の暮らしのなかで、私にとっての心配ごと、悩みごと、困りごと。
(3)私が住んでいる「まち」が、こんな「まち」になったらいいな。
(4)(3)を実現するために、私ができること、私たちがしなければならないこと。
また、次のような「行」(圏域、機関・施設・団体)と「列」(属性)からなるマトリックスを作成してみました。このマトリックスのねらいは、自分や他の参加住民の発言や対話の内容が、行と列が交差するどの「セル」に位置するかを明らかにすることにあります。それによって、発言や対話の内容の明瞭化や共有化が促され、それを通して自分や自分たちが抱える地域の問題を明確化し、共有化していくことになります。さらには、課題解決の着眼点や着想が導き出されことが期待されます。こうした一助になれは幸いです。
なお、「行」の「圏域」は、隣近所の圏域/組・班の圏域/自治会・町内会の圏域/小学校区の圏域/中学校区の圏域/市町村支所の圏域/隣接支所の圏域/市町村の圏域/隣接市町村の圏域/県域、です。「機関・施設・団体」は、組・班/自治会・町内会/小学校/中学校/公民館等/NPО・ボランティア/市民活動センター/地区社協/市町村社協/市町村支所/市町村/隣接市町村/県・国/その他、です。
「列」の「属性」は、自分/家族/親戚/地域住民(子ども/高齢者/障がい者/子育て世帯/ひとり親家庭/地元定住者/移住者/移住定住者/外国籍住民/その他)、です。
ここで、一例を示しておきます。
「高齢者や障がい者などの災害弱者に対する災害時の援護に関して、すでに自治会長や民生委員・児童委員などとのあいだで情報を共有しています」という発言は、[A]、[(1)A](括弧内の数字は、懇談会のテーマ(1)から(4)を表示します。) のセルに位置づきます(記入します)。
「隣に外国人が引っ越してきました。よそ者扱いはしたくないのですが、考え方や生活習慣などについてよく分からないので、どのように付きあったらいいのか困っています」という発言は、[B]、[(2)B]のセルに位置づきます。
「まち全体を総合的にバリアフリー化し、お年寄りや障がいのある方など、だれもが気軽に行き来し、明るく、楽しいまちづくりを進めてほしいと思います」という発言は、[C]、[(3)C]のセルに位置づきます。
「最近、お隣のご主人がお亡くなりになり、奥様は一人暮らになりました。これまであまりお付きあいはなかったのですが、これからは毎日、ご挨拶をしようと思っています」という発言は、[D]、[(4)D]のセルに位置づきます。
「学校での “いじめ” があとを絶ちません。地域の大人たちが、学校や先生方と協力して、その解決や未然防止を図るための仕組みづくりに、積極的に取り組む必要があるのではないでしょうか」という発言は、[E]、[(4)E]のセルに位置づきます。

オリジナル12月17日

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また、「私たちの自治会では、班の活動として、班に在住の高齢者が中心になって、小学生の登下校時に交差点に立ち、子どもたちの安全確保を図っています」という発言は、3次元のマトリックスでは[F]のセルに位置づきます。

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「絆」(きずな)という束縛

新しいブログ読者から、次のようなメールをいただきました。「絆」について広く、深く考えたいものです。

私どものホームページをご覧いただき、お褒めの言葉、ありがとうございました。
阪野さんのブログを拝見させていただきました。
「障害は個性ではない」(「雑感」10)。 私も同じ思いです。
また、その節、阪野さんがいわれていた “絆” の捉え方についても、まったく同感です。
「絆」はいい意味だけで使われますが、おっしゃるように「縛る」 という意味があり、絆が強ければ強いほど 「縛る力」 も強い訳です。
特に親と子の絆が強い障害者は、この絆の縛る力に苦しんできましたし、今も苦しんでいます。もっと厄介なのは、縛られていることに気づかせてもらえない方たちが多くいることです。
私たちは「青い芝」のような運動には遠く及びませんが、少しでも障害者が自由になり、社会に関われるようにと活動をしています。
そして、自由になった障害者が社会に関わることで、健常者の方ももっと自由に、もっと楽な「活き方」を見つけてもらえたらと思っています。