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「福祉教育」実践・研究への“熱い思い”

筆者(阪野)の教え子のひとりである T 先生から、「福祉のまちづくり条例にみる『福祉教育』条文(Ⅰ)(Ⅱ)」(2013年11月7日投稿)の拙文に対し、以下のようなメールをいただきました。

「福祉のまちづくり条例にみる『福祉教育』条文Ⅰ・Ⅱ」を拝読させていただきました。相変わらず “阪野先生節” 健在で、読者に対する警鐘は当方も痛感するところです。
行政や社協が好んで使う「協働」は、聞こえのよい言葉ですが、「上から」の、「協働」の強制にならないよう、慎重を期することが大切ですね。
教育委員会の廃止や道徳の教科化、最近の特定秘密保護法案などに関しても、多くの市民がもっと関心を持ち、大きな声をあげなければなりません。そのためには、市民の、市民による、市民のための「草の根」の教育・学習の機会や場が必要になります。そのひとつに先生がおっしゃる「市民福祉教育」があるのではないでしょうか。真実かつ公正で、欠落のない情報が適切に開示・提供されることが強く求められます。一方で、市民にはそうした情報を収集し、整理し、分析する「力」をつける必要があります。その「力」の育成が市民福祉教育に期待されるのではないでしょうか。
福祉教育の世界は、最近、戦略(strategy)なき戦術(tactics)に走り、対症療法的な精神主義や教育技術主義に陥っているようでもあります。現状を無自覚的・無批判的に受け入れ、体制に迎合し、あるいは取り込まれている論稿が気になります。また、データ主義のもとで解析技法に重点が置かれ、真にめざすべき福祉教育や共生社会への探究が希薄な学会発表にも出合います。
客観性・論理性・実証性に十二分に留意しながら、福祉教育やその実践と研究に “熱い思い” を込めて精進したいと思っています。

佐賀県鹿島市における福祉教育条例―資料紹介―

本稿で紹介する佐賀県鹿島市の「福祉教育条例」(「鹿島市福祉教育に関する条例」、1996年3月25日公布)について知る人は必ずしも多くないであろう。この条例はおそらく他に例のないものである。
福祉教育の条例化をめぐっては、とりわけボランティア論やボランティア学習論に依拠して福祉教育について論ずる場合、疑義を呈することもあろうかと思われる。ボランティア活動が生命とする自発性や主体性に対する侵害や、官製ボランティアの育成と強制・動員に繋がりかねない、というのがそのひとつの論拠であろう。
周知の通り、政府・行政がボランティアの育成・推進に本格的に取り組むのは、1970年代に入ってからである。1971年4月の社会教育審議会答申「急激な社会構造の変化に対処する社会教育のあり方について」、同年12月の中央社会福祉審議会答申「コミュニティ形成と社会福祉」を端緒とする。また、1990年代以降、多くの地方自治体では「福祉のまちづくり条例」の制定に取り組む。その先進的なものに神戸市と兵庫県の条例があるが、その条例から「福祉教育」に関する条文を紹介する。兵庫県の条例では、条文見出しと条文に「福祉教育」の文言があり、しかも独立条文として規定していることが注目される。

神戸市/神戸市民の福祉をまもる条例/1977年1月10日公布
(市民福祉の理解及び福祉活動のための条件整備)
第5条 市は、市民及び事業者が市民福祉に関する正しい理解を深め、又は福祉活動(市民福祉の向上のため、みずからすすんで自己の労力、知識、財産等の提供を行うことをいう。以下同じ。)を行うために必要な条件の整備に努めなければならない。
兵庫県/福祉のまちづくり条例/1992年10月9日公布
(福祉教育の推進)
第8条 県は、高齢者等に対する理解と思いやりのある児童を育成するための福祉教育を推進するものとする。

特定非営利活動促進法(NPO法)が施行されたのは1998年12月である。それ以来、認証を受けたNPО法人は増加を続けている。2013年7月末日現在で、認証法人は4万7,973法人、税制上の優遇措置を受ける認定法人は492法人を数えるに至っている。活動の種類については、2013年3月末日現在の調査(複数回答)によると、「第1号 保健・医療又は福祉の増進を図る活動」(58.1%)、「第2号 社会教育の推進を図る活動」(46.9%)、「第3号 まちづくりの推進を図る活動」(42.8%)が上位を占めている。いうまでもなく、NPO法人は、「新しい公共」の担い手として、市民の社会参加を促し、まちづくりの推進を図るところにその存在意義がある。
筆者(阪野)はかねてより、福祉教育を「福祉文化の創造や福祉によるまちづくりをめざして日常的な実践や運動に取り組む主体的・自律的な市民の育成を図るための教育活動」として捉えてきた。とりわけ、「福祉の(による)まちづくり」のための住民主体形成とそのプロセスを重視している。そこで、筆者は、上述の政策動向や関連法・条例の整備状況、そのもとでの市民・住民によるまちづくり活動の現状、さらには市民主権や市民自治が叫ばれる今日的状況などに鑑みて、福祉教育の条例化については条件つきで肯定的に考えたい。その条件のひとつは、条例化に際しての市民の主体的・自律的・能動的な参加(参集、参与、参画)と、条例の制定意義と条文の内容や考え方等についての熟慮と議論である。そして、その過程はそれ自体が福祉教育の実践そのものであり、そこにおいてその真価が問われる、と考えるべきであろう。
以下は、「鹿島市福祉教育に関する条例」の全文である。

佐賀県鹿島市/鹿島市福祉教育に関する条例/1996年3月25日公布
(目的)
第1条 この条例は、全ての市民が福祉に関する制度及び実情を正しく理解し、福祉意識を高めるとともに、市民自ら参加する福祉についての実践活動を行うことにより、福祉教育の推進を図り、もって福祉のまちづくりに寄与することを目的とする。
(市における福祉教育の推進)
第2条 市は、市民に対して生涯にわたる教育の場を通じて福祉教育の推進に努めるものとする。
(福祉団体等における福祉教育の推進)
第3条 市民福祉の向上を目的とする団体(以下「福祉団体」という。)及び福祉施設を経営する者は、その活動を通じて福祉教育を実施するよう努めるものとする。
2 福祉団体及び福祉施設を経営する者は、市及び教育委員会に対し、福祉教育に関する指導又は助言を求めることができる。
(市民の福祉教育への参加)
第4条 市民は、福祉の意義を理解し、福祉活動を実践するために、自主的に学習を行うとともに、福祉教育に積極的に参加するよう努めるものとする。
(学校における福祉教育)
第5条 教育委員会は、児童・生徒に対する福祉教育の充実推進を図るため、すべての小・中学校を福祉教育推進校に指定する。
2 福祉教育推進校は、児童・生徒に対し、計画的に福祉教育、活動の機会を設定し、福祉活動についての理解と関心を深めるよう努めるものとする。
(市民福祉推進委員会)
第6条 市は、福祉教育、活動について調査及び審議するため、市民福祉推進委員会を置くことができる。
(委任)
第7条 この条例の施行に関し必要な事項は、市長が別に定める。
附則
この条例は、平成8年4月1日から施行する。

以下は、鹿島市教育委員会による福祉教育の取り組みである。

鹿島市教育委員会の取組み
1 取組みの経過
(1)平成7年度
平成7年
10月  市長が、福祉教育実施について教育長と会談
12月18日  市長が、市内校長会で構想を説明
平成8年
1月11日  教育長が、市内校長会で実施要項を説明
1月13日  市長・教育長が、中学校PTA役員懇談会で説明
1月19日  教育次長が、総務委員会・民生委員研修会で協力依頼
1月25日  教育長が、県教委・福祉生活部・県社協へ報告・協議
1月30日~3月6日
市長・教育長・教育次長が、市内各小中学校で構想説明・協力依頼
2月7日~9日
教育次長が、各地区の民生児童委員協議会で協力依頼
3月5日     鹿島市福祉教育推進実践校連絡協議会を開催
3月14日  3月定例市議会において「鹿島市福祉教育に関する条例」可決成立
3月26日  教育長が、民生総務委員会で要旨説明・協力依頼(調査依頼)
桑原市長(桑原充彦、1990年5月~2010年5月:阪野)は、官と民が一体になって福祉のまちづくりの中で、特に福祉教育を重視した。鹿島市でも核家族化が進み、独居老人が多くなると同時に、祖父母と同居していない子供が増加してきた。そのような子供は、人間の情緒を育てる「生・老・病・死」に触れることもできない。そこで、お年寄りと接する機会を与えれば、その体験ができるのではないかと考え、教育委員会に提案した。教育長、市内校長会もこれに賛同した。
市長、教育長、教育次長は、市内教職員へ福祉教育の意義の説明とその啓発のために、1月から3月にかけて市内全小中学校を訪問した。また、教育委員会は、関係諸機関とも連携をとった。
平成8年3月14日には、3月定例市議会において「鹿島市福祉教育に関する条例」が可決成立し、正式に福祉教育の推進が決定された。

(2)平成8年度
平成8年
4月15日  教育長が、市内校長会で実施要項を具体的に説明
5月7日    福祉教育実践校連絡協議会開催(ふれあい活動希望結果配布)
5月16日  教育長が、市PTA連合会総会で要旨説明・協力依頼
10月1日  福祉教育実践校連絡協議会開催(中間報告)
12月16日  教育長が、県教委主催の指導主事研修会で福祉教育について講演
平成9年
2月  庶務課次長が、各地区の民生児童委員協議会で希望調査依頼
平成8年度4月から、全小中学校において教育課程の中に福祉教育が位置付けられた。特に、中学校2年生では「ふれあい活動」という老人との日常的福祉実践活動が、民生委員の協力を得て開始された。1班6人程度でグループを作って独居老人や老人のみの世帯を週1回~月1回程度訪問し、話相手、肩もみ、草むしり、ごみ捨て、障子張り、網戸洗い、石運び等を行った。
初年度でいろいろな課題も出てきたが、交流、体験をとおして小中学生が学んだものには計り知れない大きな成果があった。老人からも多くの感謝のおたよりが届いた。

(3)平成9年度
平成9年
5月19日  福祉教育実践校連絡協議会開催(ふれあい活動希望結果配布)
12月1日  福祉教育実践校連絡協議会開催(中間報告)
平成10年
1月13日  福祉教育実践校連絡協議会開催(福祉教育の成果と課題)
1月16日  市報によって、福祉教育の啓発
1月26日  民生総務委員会において、中間報告及び協力依頼
1月27日  第1回福祉教育推進協議会開催
2月9日~12日
各地区の民生児童委員協議会で希望調査依頼
福祉教育が2年目を迎え、各小中学校ともに特色ある取組みが行われてきた。
「ふれあい活動」では、中学生と老人がごく普通にあいさつや声かけができるようになり、地域での温かい雰囲気ができてきたという民生委員からの報告もあった。また、この活動によって、将来の進路をヘルパー志望とする生徒の声もあった。一方、施設との交流も開始された。
しかし、課題も多く出てきた。まず、時間の問題である。生徒達の部活や塾等の都合と老人の都合が合わず、計画がうまくできない。また、ナイフ事件で「中学生は怖い」ので辞退したいということもでてきた。民生委員の方からは、多忙で負担が大きいという課題が出された。

(4)平成10年度
平成10年
4月27日  民生総務委員会において、再度協力依頼
5月26日  福祉教育中学校連絡協議会開催(ふれあい活動希望結果配布)
6月26日  民生総務委員会において、進捗状況報告
7月1日    老人クラブ理事会において、協力依頼
11月25日  民生総務委員会において、中間報告及び意見交換
11月30日  教育長が、東京での「スクールボランティアサミット」において講演
12月7日  老人クラブ理事会において、中間報告及び意見交換
12月9日  市社協と「ネットワーク活動」との連携を検討
平成11年
1月14日  福祉教育実践校連絡協議会開催(福祉教育の成果と課題)
1月16日  市報によって、福祉教育の啓発
1月26日  第2回福祉教育推進協議会開催
3年目を迎え、児童生徒に福祉の心が着実に育ってきた。中学生の殆どが老人との交流を希望し、自分の将来を考えたうえで、何か手助けをしたいと考えている。これは小学校1年から実施している小中一貫の福祉教育の大きな成果である。特に、自発的に近所の老人との交流を考え、生徒自身から「何か手伝うことはありませんか。」と働きかけた。
また、自分の家の祖父母への意識が変わってきた。つまり、近所の独居老人との交流を通して、自分の家の祖父母へ何かしてあげたい、話をしようと気づいてくれたということも出てきた。

2 これからの福祉教育
福祉教育が開始されて3年になるが、少しずつ児童生徒に福祉の心が育ってきたことが大きな成果である。また、地域の中でも、小さいながらも子供達と老人との温かい交流が生まれてきた。また、施設においても、受け入れの協力体制もでき、幅広い活動ができてきた。
これからは、ボランティアの本来の意義である自主性について、児童生徒の自発的、能動的な活動を重視する方向に進めていきたい。また、地域ぐるみの福祉教育の推進を目指したい。そのために、関係諸機関(社協、福祉事務所、区長会、民生児童委員会、老人クラブ連合会、PTA、子供クラブ等)との連携・協力を高めていきたい。
何十年かすれば、この福祉教育を鹿島市民は全員が経験したことになる。長期的視野に立った福祉のまちづくりを進めるうえでも、地道に継続的に進めていきたい。
(1)児童生徒の自発性を重視した福祉教育の推進
(2)広く多様な福祉教育の推進
(3)社協の「ネットワーク活動」及び関連機関との連携による「地域ぐるみの福祉教育」の推進
(4)中学校2年生の「ふれあい活動」の取組み
① 「ふれあい活動(グループ活動)」日常実践活動
② 「隣近所たすけあい活動(ネットワーク活動)」との連携
③ 施設との交流
④ 老人クラブとの交流
⑤ 近所のお年寄りとの交流
⑥ 「いきいきサロン」等 市社協の事業への参加
⑦ 「ふれあいキャンプ」への参加
⑧ 中学校への招待
(鹿島市教育委員会・鹿島市福祉教育推進実践校連絡協議会編『平成10年度 福祉教育推進報告書』鹿島市教育委員会、1999年3月、4~7ページ)

雑誌 『グラスルーツ』 で読む福祉教育論―資料紹介―

社団法人・日本青年奉仕協会(1967年11月創設~2009年7月解散)が発行した雑誌のひとつに『グラスルーツ』があった。1982年11月に創刊され、1989年3月の第38号をもって「休刊」となっている。創刊号の特集テーマは、「ルポルタージュ/アリスの国の不思議な世界」、最終号のそれは「ボランティアに未来はあるか」である。
『グラスルーツ』は阪野文庫中の「日本青年奉仕協会に関する資料」(全4巻)に収録(一部欠号あり。)されているが、そのいくつかの資料を整理する際に、創刊号から通読してみた。懐かしさとともに、その編集者や執筆者の熱い想いを読み取ることができ、頭が下がる思いがした。最終号の「今号で休刊するにあたって」という挨拶文には、次のような一節がある。「草の根」を意味する誌名や、毎号のメッセージ性の高い編集と多面的・多角的そして多層的な言説から多くを学んだ筆者(阪野)には、何か、また何故か心にしみる。「何事にも初めがあれば、必ず終わりがあります。私たちがものを見るという、そのものは初めと終わりのあいだにあります。私たち編集部もようやくものが見れる時点に立ちました。これまでの歩んだ道のりを振り返りながら、自己革新と自己反省のいたらなさを感じつつ、最終号を編集しています」(『グラスルーツ』第38号、日本青年奉仕協会、1989年3月、2~3ページ)。
『グラスルーツ』では毎号、「特集」が組まれていた。第11号(1984年7月)は「福祉教育特集/福祉教育は『善行』」か」、第12号(1984年9月)は「続・福祉教育特集/私の福祉教育論」、そして第22号(1986年9月)は「ボランティア活動は『歴』になりうるか?」というタイトルの特集である。以下に紹介する玉稿や秀逸な意見は、福祉教育やボランティア学習(「ボランタリズムの教育」:岡本)の「仕掛け人」や実践者・研究者としてすでにその名を馳せていた木谷宜弘、興梠寛、臼井孝、大橋謙策、それに岡本栄一の各先生のものである。僭越かつ恐縮ながら、「すでにその名を」と記したのは、5人のうちで最年長の木谷先生は当時55歳、最年少の興梠先生は36歳、大橋先生は41歳である。以下のいずれの言説も、切れ味鋭く、明解なメッセージが伝わってくる、と思うのは筆者だけであろうか。小気味よい気持ちすらする。
こんにち、福祉と教育はその動向が混沌とし、さらに混迷を深めていくかのようである。福祉教育も然りである。福祉教育の実践や研究にかつての小気味よさを感じることが少なくなっているのは、筆者だけであろうか。そこで、「日本福祉教育・ボランティア学習学会」が2014年10月に創設20周年を迎えるのを機に、いま一度原点に立ち返る必要があるのではないか。そんな想いから、以下に「資料紹介」するが、余計なコメントを一切付さないのは、ブログ読者各位もそれぞれの立場や考えに基づいて原点に立ち返ってみては、という意味である。現状はそれほど深刻である、と思っている。大橋先生と岡本先生の次の指摘は、こんにち、特に重く受け止め、深く心に刻まなければならないのではないか。「(福祉教育に関する:阪野)心情や哲学が超歴史的に語られ、それにもとづいて推進されることは非常に問題である。とりわけ、福祉教育を推進する立場にいる人々の歴史認識、社会認識が問われなければならない」(大橋、『グラスルーツ』第12号、13ページ)。「ボランティアやその活動の根本精神は、国家や体制、イデオロギーを超えたエネルギーだと思います。(ボランティア活動は:阪野)「歴」にこだわることもないし、「歴」なんかありえない。そんなセコいものじゃないんですよ。本当のボランティアというのは現体制を否定して、そこからにらまれるのですわ」(岡本、『グラスルーツ』第22号、4ページ)。

今、なぜ福祉教育なのか/なぜ、福祉教育なのか
木谷宜弘・全国ボランティア活動振興センター所長

制度中心の学校教育の行詰り状態を打開する一策として福祉教育の有効性が認められつつある。(中略)
制度中心の学校教育の行詰りを予言したのは、下村湖人で今から四十五年前のことである。下村湖人は学校教育制度が充実すればするほど、児童、生徒の生命力を委縮させる結果を招くと警告している。今日の学校教育は残念ながら下村湖人の予言が的中したといえるほど荒廃している。
湖人は云う。今日の文化社会では、教育の制度化は必然のものであるからこれをさけることはできないが、その障碍を最少限にするため、人物中心の教育を行い、しかもその中に自然教育を導入すべきであると主張している。
湖人のいう自然教育とは、日々の生活の中で自然に行なわれる教育を指し、日常接するさまざまの人や自然環境とのふれあいを通じて自ら生きんとする意志を育てていくことだと述べている。
福祉教育の手法は湖人の云う自然教育に相当するもので、学校において福祉問題を学習素材として実践するということは、机上の知識吸収では得られない生身の人たちとの出合いとの共感の中で、人間が生きていくということはどういうことか、人間が人間らしく共に生きていく社会とはどんなものか、自己教育することであり、まさに下村湖人の主張と一致するものであるといえる。(『グラスルーツ』第11号、日本青年奉仕協会、1984年7月、4~5ページ)

「福祉教育」と「ボランティア学習」のちがい
興梠寛・日本青年奉仕協会事務局次長

『福祉教育』は“弱者救済”といった根強く残る古い福祉観にたいして、正面からこれを正し、人権と共存の営みの主体としての人間性を育む教育として意味づけられているだけでなく、さらにその教育実践をとおして、偏差値教育や管理化のなかにある学校教育に新しい風を吹き込もうとしている。
私たちはこれまで、さまざまな社会課題に対応すべき教育のあり方を論じてきた。人権教育、平和教育、環境教育、国際理解教育、そして福祉教育などがそれである。『ボランティア学習』は、そうした社会課題や教育テーマをより効果的にすすめていくための学習の方法であるといえる。さらには、ボランティア活動のもつ特性、すなわち自発性や自由意志、そして自治性や公共性といった、民主主義社会をささえる基本的な思想を育むことにつながっていく。(中略)
ボランティアとして社会体験をとおして学ぶ対象は、社会福祉、教育、自然環境、文化、生活改善、国際理解と協力、保健医療、人権、平和、都市計画や村づくり、メディアなどの生存をおびやかす諸問題である。そしてそのひとつひとつは、おのずと『ボランティア学習』の学習テーマをかたちづくっているといえる。『福祉教育』は、社会福祉を狭義にとらえた場合、社会課題のひとつの分野をテーマにしたものであるという解釈もできる。しかし、福祉を共存の論理として広く解釈すべきであり、福祉思想は、すべての社会課題の根本的なものであるべきだと思う。
『福祉教育』も『ボランティア学習』も、それらをおたがいに対立する概念として考えることはナンセンスである。ひとことで表現すれば、教育の目標と学習の方法といった違いであり、それらをとおして求めようとする世界は同じである。対立概念として論じあうことは、これに類する学者の学派争いに似ている。派閥争いは、政治家と学者で充分である。そんなものは、グラスルーツな活動家にとってどうでもいい問題ではないか。要は、教育にどんな未来を描くかである。そしてまた、それをどのような組織と方法ですすめていくのかである。ひとつだけいえることは、『福祉教育』も『ボランティア学習』も、“新しい制度化”をめざして、さらにそれを第二の学校教育にしてしまうことであってはならないことだ。教育専門家が混迷のなかにいるいま、外野席からの教育にたいするこのアプローチを、私たちは冷静にみまもっていこうではないか。(『グラスルーツ』第11号、日本青年奉仕協会、1984年7月、8ページ)

私の福祉教育論/福祉という視点で学校を見直す
臼井孝・神奈川県立上郷高校教諭

教育に新しい何かを吹きこまねばならない。ところが、教師には自信を持って導入できるものがないというところに、ボランティア活動というものがひとつの説得力を持って入ってきたのが福祉教育だと言えると思います。しかしそれが本当にプラスになるのか、その本質が何なのか明らかにならないうちは、すぐ導入しましょうということに警戒と抵抗があります。ひとつの教育観が絶対という旗印で学校教育を風靡するのは非常に危険ですからね。それぞれの現場で教師が子供たちに何を与えたらいいか話し合いの中から出てくるものが本物なのであって、それは福祉教育に限定されるものではないはずです。
現在の教育の行き詰まりの原因は、学歴社会の中での知識偏重という社会情勢に、学校がそのいきつく先を考えずに目先の要望に応えたためだと思います。そして非行問題など社会の変化が学校に迫っていて、それに応えなければいけない時です。私自身は十年余りの経験から、ボランティア活動が生徒たちの意識改革にかなり有効な学習方法だと自信を持っていますし、学校教育の中に融合させていく方向は間違っていないと思っています。(中略)私自身、福祉教育がすべてとは考えていません。教科学習80%、ホームルームやクラブ活動が10%、福祉教育も10%にすぎないと考えます。
子供たちが育つうえで何が必要かというと、自分に自信が持てるようになることです。それには自分が必要とされているという体験を積み重ねることです。それが感動を伴なう体験として、自他の関係が響き合った時、教育の決め手になるんですね。何をやっても無気力な子供たちに刺激を与える方法のひとつがボランティア活動だと思います。(『グラスルーツ』第12号、日本青年奉仕協会、1984年9月、10ページ)

私の福祉教育論/善意があっても誠意がない―歴史にみる福祉と教育の関係
大橋謙策・日本社会事業大学教授

福祉教育をすすめるにあたって、常におさえておかなければならない課題がいくつかある。その一つは、福祉教育がいまなぜ必要なのかという歴史性と社会性の認識である。そのことは、福祉教育を必要としている現在の生活や教育への鋭い分析がともなっていなければならない。それらの点がぬけおちて、心情や哲学が超歴史的に語られ、それにもとづいて推進されることは非常に問題である。とりわけ、福祉教育を推進する立場にいる人々の歴史認識、社会認識が問われなければならない。(中略)
今日の福祉教育は、戦後初期の福祉教育実践とは違っており、決して連続していない。今回のそれは、一九七〇年頃を境に大きく変容してきている社会福祉の新たな課題の中で、その必要性が関係者に認識されて推進されてきた。と同時に、それが、すぐれて教育の荒廃、子どもの発達の歪みを是正していく上で重要な方法であり、戦後教育の理念であった教育基本法の理念を達成する上で有効な方法たりうることが教育関係者に理解されはじめたからである。
このような背景をもつ福祉教育が、その必要性とされる背景を科学的に分析できる力を身につけることなく、ただともに生きることのみを強調するとすれば、それは結果的には歴史的、社会的存在である社会福祉や教育のあり方を誤らせることになる。なかでも、社会福祉にあっては、一九七五年以降福祉見直し論が展開され、その後の臨調行革路線の中で「自助努力」のみが強調されるきらいがある。それだけに戦前、井上友一が展開した施策(国の物質的負担を軽減し、国民の自助努力を強調する教化、風化政策)と福祉教育とが同じになることを危惧している。そうならないためには、国民一人一人が、子どもも含めてきちんとした歴史認識、社会認識をもった主体者として形成されねばならない。(『グラスルーツ』第12号、日本青年奉仕協会、1984年9月、13~14ページ)

ボランティア活動は「歴」になりうるか?/「歴」にこだわるようなセコいものじゃない
岡本栄一・大阪ボランティア協会事務局長

ボランティアやその活動の根本精神は、国家や体制、イデオロギーを超えたエネルギーだと思います。人権や命を守る、平和を守る、差別と闘う、というギリギリのところで連帯する一つの思想なんですね。だからもともと制度的な認知をきらう本質があって、そこから言うと「歴」にこだわることもないし、「歴」なんかありえない。そんなセコいものじゃないんですよ。本当のボランティアというのは現体制を否定して、そこからにらまれるのですわ。
ただボランティア活動は両義性をもっているとぼくは思ってます。愛とか正義の形をとって文化の中で生きていく光りの側面と、偽善暇つぶしというちょう笑を浴びる影の側面と。
ボランティア活動の精神がきちんと根づいていない、そして地域社会の解体やヨコ関係の希薄化していく状況の中では為政者側が作為的に光りの側面を取り上げて社会的に認知、言いかえれば「歴」を作ろうとする動きが特に出てくるんでしょう。また「歴」を欲しがるし「歴」にあやかりたい願いも一方にはあるわけで、それをいちがいに否定しないで冷やかに見ていくことも必要です。学校教育や人づくりにボランティア活動を利用しようというのも全体的なすう勢ですが、それならボランタリズムの教育を、といいたいですね。問題の当事者を教壇に立たせる。子供だけをボランティア活動に参加させるのではなく親も教師もナマの現場に立ちあうというように。いまはコピーのコピーを教えている現状で、これくらい空虚なものはないですからね。(『グラスルーツ』第22号、日本青年奉仕協会、1986年9月、4ページ)

臼井孝先生と全国ボランティア学習指導者連絡協議会―資料紹介―

1982年3月、文部省認可の社団法人・日本青年奉仕協会(JYVA)との連携・協働のもとに、「全国ボランティア学習指導者連絡協議会」が設立された。以下に、その設立の経緯と、代表者である臼井孝先生についての新聞記事を紹介する。阪野文庫に収録されている「日本青年奉仕協会に関する資料」を整理している際に見つけたものである。
周知の通り、全国レベルで「福祉教育」について最初に研究協議されたのは、1970年11月に東京で開催された「昭和45年全国社会福祉会議」の第3専門委員会(「社会福祉の理解を高めるために―教育と社会福祉―」)においてである。その後、1977年2月、厚生省社会局長・児童家庭局長から文部省初等中等局長に対して「福祉教育のあり方について(要望)」が提出された。それに次いで、1977年4月から、厚生省と全国社会福祉協議会は、国庫補助事業としての「学童・生徒のボランティア活動普及事業」(通称「社会福祉協力校」事業)を始める。
「福祉教育」と「ボランティア学習」の固有性と関連性、それぞれの実践と研究、そして1995年10月に設立された「日本福祉教育・ボランティア学習学会」と1998年6月に設立された「日本ボランティア学習協会」、等々について考える際のひとつの参考資料になれば幸いである。

全国ボランティア学習指導者連絡協議会設立の経緯
1981年12月12日
●「活動文化祭’81」の指導者懇談会などで意見として出された指導者の全国的な連絡組織設立の実現をめざして、東京近辺の4人指導者とJYVAスタッフとで第1回設立準備委員会を開催 ①設立に向けての基本的な考え方 ②設立準備作業の内容と日程を検討
1982年1月23日
●第2回設立準備委員会 ①活動文化祭’81の参加者・協力者を中心に、地域や活動分野のバランスを考えながら世話人を推せん ②第1回全国世話人委員会の日程を確認
2月中旬
●連絡協議会の規約、事業計画などのたたき台を作成
2月下旬
全国世話人の依頼を電話などではじめる
3月6日
●第3回設立準備委員会 ①規約および事業計画のたたき台をもとに検討 ②全国世話人の確認
3月12日
●全国世話人依頼の公文書を発送
3月20~21日
●第1回全国世話人委員会開催 ①事務局案の説明にもとづいて各プログラム、参加者の費用負担、運営方法などについて検討。②連絡協議会設立について、準備委員から出された規約などを検討して設立を承認。世話人幹事、事務局体制を決定
(JYVA教育研究部編『活動文化祭’82』社団法人日本青年奉仕協会、1983年3月、実施1~2ページ)

毎日新聞/1982年8月20日
ひと/十代にボランティアを/臼井孝(うすいたかし)
この夏、全国ボランティア学習指導者連絡協議会が発足した。ボランティアの指導者の、唯一の全国組織といってよい。臼井さんはその代表である。
荒れる十代―非行が社会問題になってきているが、ボランティアに関心を持つ十代も気速にふえてきているという。しかも、この二つは、互いに関係しあっている。
「突っぱっている少年に、ボランティア活動をやってみろとすすめる。熱心に打ちこんでリーダーになったりする」。身障者の施設に就職したケースもある。
「学校教育が知識を教えるだけではどうにもならないところにきています。自分をどう生かすか―生きる力を与えるのが教育である。そう考えると中学や高校でボランティア活動を体験するのはもっとも効果があります。」
ボランティアは奉仕ではない。自分自身の問題なんだという。自分をどう生かすか、それを発見する学習なんだと説く。協議会の大半は、全国の中、高校で生徒たちを指導している先生。自身も神奈川県立五領ケ台高校教諭。中学の先生をしているとき、脳性マヒの生徒が学力がありながら、身体の障害で高校に入れなかったのを知って関心を持った。いま、社会福祉人形劇クラブの顧問。
「進学が影響してくるのは事実です。しかし、ボランティアへのエネルギーは、勉強のエネルギーにもなる。実際、見事に両立させた生徒もいます」。臼井さんは、エネルギー無限論をいう。若いエネルギーは、出す機会が多いほど多く出てくる。
ボランティアに入ってくる少年たちに三つのタイプがある。「当たり前のことだと考える」層、「友だちに誘われた」層、そして「なにかやりたい」グループ。会では全国のグループの情報交換を行い、ニュースを発行する。四十九歳。(四方 洋)

教育家庭新聞/1982年9月4日
この人に聞く/全国ボランティア学習指導者連絡協議会/代表 臼井孝さん
初の全国連絡組織/若者のエネルギー吸収へ

日本にもボランティア活動が静かな高まりを見せようとしている。昨年夏、第一回の「十代のボランティア文化創造交流集会」を成功させた(社)日本青年奉仕協会に集う若者の熱意と第一回、そして今夏の第二回集会に参加した先生方の熱意が一つに解け合い、参加した先生方を中心に「全国ボランティア学習指導者連絡協議会」が発足。ボランティア指導者の全国的な連絡会が初めて誕生。
「地域でボランティア活動を地道に指導していたがマンネリに陥っていた先生、意欲的にあらゆることを吸収しようとしていた先生の間で、交流集会まで一年間分散していたのではもったいない、という気運が盛りあがったのです。全国のパイプ役として生の声を出し合い、互いに吸収できるものは吸収しあい、刺激を与えあおう、と」
公式には今年の第二回同集会でスタート。活動は①「ボランティア学習」と題する指導者のニュース紙の発行②若者が作った八ミリ、スライドなど活動記録作品の貸し出し③事例研究集の作成④地方に埋もれている活動の調査研究⑤指導者自身の研修。構成員は中学・高校の教師、地域のボランティア指導者、等。まだ、産声をあげたばかりだが、弾力的な活動をめざしている。
代表の臼井孝先生は神奈川県五領ケ台高校の理科の先生。生活指導部主任で社会福祉人形劇クラブの顧問。無気力、無感動などと言われる現代の青少年とボランティア活動についていう。
「自分の持っているエネルギーをどう生かして行けばよいかわからない生徒が多いんですよね。だから、本能におもむくままに、オートバイに乗ってみたり、シンナーを吸ったりする。ボランティア活動はこのエネルギーを発散できるもの。学校がチャンスを与えてやれば、それにより“目を輝かせる”生徒が必ずいる」
「老人ホームでは若者との一回限りではない、深い交流を求めています。参加した若者は初めて、『こういう世界があったのか』と、老人問題を真剣に考えるようになる。道に落ちている缶を拾うという空き缶公害追放運動でも、地域の人たちとの対話が生まれてくる」  
オートバイにしか生の発散方を見い出せなかったものが、ボランティア活動でいままでとは違った外の世界を知る。地域の人達との交流で高校生でも社会に貢献できる、という実感を持つ。実際に、学校から「どうしようもない」と烙印を押された生徒が立ち直った例もある。
しかし、一般の生徒の見る目は、とかく“えらいわねえ”“よくやるなあ”で、“してあげる”という意識が抜けきれない。教師でも「自分自身ができてもいないのに、他人様の手助けをするなどおこがましい」というとらえ方をするのが案外多い。しかし、臼井先生は言う。
「私の学校は新設校ですが、甲子園の地区予選で四回戦にまで進みます。するとお母さん方が『どうして、学校全体で応援に行かないのか』と言ってくる。しかし野球に情熱を燃やすのも、老人ホームで働くのも、空き缶を拾うのも、同じ一つの甲子園の道、なんです。ボランティア活動の本質は、その中で自分自身をどう生かすか、ということ。
多感な青年期に一度経験したことは、受験などでボランティア活動から離れてしまっても、必ず後になって生きてくる。高校時代にいろんな生き方があるんだ、と実感したこと、ぶつかり、泥をかぶってした経験は大きな肥やしとなる」
中学・高校生の非行化が社会問題化している。しかし、その中で、ともすれば、目立たない存在として見落とされがちだが、自分の生き方を真剣に考えている生徒たちも確実に増えているという。二度の交流集会に参加してみて、そう断言だけるという。自分なりに生きたい、と思う心は今も昔もかわりないだろう。自分の道を見い出しにくい現代、同連絡協議会の発足は教育の中に大きな一つの道を提示している。
連絡先は(社)日本青年奉仕協会(〒151東京都渋谷区代々木神園町三―一NYC内電03-460-0211) (良)
(JYVA教育研究部編『活動文化祭’82』社団法人日本青年奉仕協会、1983年3月、付録65、67ページ)

ガバナンスなき無挑戦型地域福祉

「社協ワーカーは、まちづくりの “偉大なるプロデューサー” 」の拙文に対し、遠くS市社協のY氏より、以下のようなメールが届きました。「ディスカッションルーム」がそれらしくなってきて、嬉しい限りです。

大変ご無沙汰しております。ディスカッションルームの原稿、拝読させていただきました。
先ず、「社協ワーカーは、まちづくりの “偉大なるプロデューサー” 」というタイトルに大変驚きました。さらに、「偉大なる」までつけていただいていることに、疑心暗鬼。こわごわ拝読させていただきました。
「社協や社協職員はこれまで、『黒子』という名のもとで、結果的には、地域や住民に『丸投げ』し、それを通して『管理』『監督』し、『調和』『同化』を促す側の立場に立っていたのではないか。それでは、地域や住民は変わるはずがない。」は、一面、ハットさせられました。
特に圧巻だったのが、「『民間団体の最高経営責任者であるという認識に欠ける会長』『充て職としての立場から一歩も踏み出せない役員』『天下りの期間を無難に過ごすことに汲々とする事務局長』『公務員然として定時勤務のデスクワークに励む事務職員』」です。社協ワーカーの端くれ? でありながら、正直胸がスカッとするのを覚えながら、スタンディングオベーション(大喝采)を……、次の言葉とともに! “ガバナンスなき無挑戦型地域福祉”

社協ワーカーは、まちづくりの “偉大なるプロデューサー”

ブログ読者(N氏)から、雑感(6)―「ウチ」「ソト」と社会的包摂―(2013年6月10日投稿)の拙文に対し、以下のようなメールをいただきました。

雑感(6)の最終段落において「社協の黒子論」に対しての批評がありました。確かに、住民主体との言葉を借りて“住民への丸投げ”をしてしまっているような姿勢であれば批判をいただいても当然であるとは考えますが、全ての社協がそうであるとは思いたくありません。これからの時代において、社協はもっともっと存在感を発揮しながら、表舞台に登場できる、言い換えれば「主演」となっていかなければならないことは、世の中の社協マンは認識しているのではないでしょうか?社協は単なる「黒子」で満足しているのではないと理解しています。たとえ「黒子」と称していても、顔も出せない・・・声も出せない・・・黒子でなく、舞台上で脚光を浴びている主役から期待され・・・頼りにされる・・・、主役を引き立たせることができる“助演”的な気持ちをもっている黒子であると考えています。一“黒子”としてその存在感が確立され、どの舞台からも声がかかり、・・・黒子としてご飯が食べていけるような「ザ・黒子」って・・・何~か憧れませんか?
私たちT市社協マンは、従前から「市民から頼りにしていただける偉大なる黒子であれ!」を合言葉としてきましたが、“偉大なるプロデューサー(演出家)”に格上げしていくことを考えてみます。

N氏がいう「雑感(6)の最終段落」とは次の一節です。
「叱責を受ける覚悟であえていえば、社協や社協職員はこれまで、コミュニティワークやコミュニティソーシャルワーカーとしてではなく、「黒子」という名のもとで、結果的には、地域や住民に「丸投げ」し、それを通して「管理」「監督」し、「調和」「同化」を促す側の立場に立っていたのではないか。それでは、地域や住民は変わるはずがない。「無縁社会」では当然のことながら、逆に血縁や地縁、そして序列の人間関係(風土)を今も残している地域においてもまた、それ故に然りである。」
筆者(阪野)のこの管見に対するN氏からのメール(言説)は、実は筆者が心ひそかに期待していたものです。「社協マン」は、「ザ・黒子」から「偉大なるプロデューサー(演出家)」に格上げしていく必要がある、という指摘は強く同意するところです。ただ、「民間団体の最高経営責任者であるという認識に欠ける会長」「充て職としての立場から一歩も踏み出せない役員」「天下りの期間を無難に過ごすことに汲々とする事務局長」「公務員然として定時勤務のデスクワークに励む事務職員」等々を抱える社協がないとは言い切れないのもひとつの事実ではないでしょうか。こうした会長から職員までのオールキャストが登場する社協は存在しない、としてもです。
ここで、コミュニティソーシャルワーカーの実態把握の調査結果を纏めた『コミュニティソーシャルワーカー(地域福祉コーディネーター)調査研究事業報告書』(野村総合研究所、2013年3月)から、いささか長きにわたりますが、以下にその一文を引用しておくことにします。その叙述からは次のようなことを理解したいと思います。今日、コミュニティソーシャルワーカー(地域福祉コーディネーター)の役割が重視され、その配置の必要性が増していることは、単なる社協「職員」は論外として、真の社協「ワーカー」のあり方が厳しく問われている。また、「コミュニティソーシャルワーカー(地域福祉コーディネーター)配置の前提として、民生委員・校区ボランティア等をはじめとした生活圏域における住民の地域福祉力が基盤として存在することが必要である」と述べられているように、住民の「地域福祉力」の育成・向上を図るための地域福祉教育(「市民福祉教育」)の推進が必要かつ重要となる。そして何よりも、社協と社協ワーカーには「自律」(autonomy)、「変革」(change)、「創造」(creation)と、そのためのあるいはそれに基づく「共働」(coaction)が求められる、などがそれです。なお、「自律」「変革」「創造」そして「共働」は、一面では、N氏がいう、常に新しいものを生み出す、個性豊かな「演出」(production)に通じるといえるのではないでしょうか。

本調査研究においては、コミュニティソーシャルワーカー(地域福祉コーディネーター)の役割を、「個別支援」「地域支援」「仕組みづくり」の3つの活動に分けて把握した。全ての活動がコミュニティソーシャルワーカー(地域福祉コーディネーター)の業務であるという認識はあるものの、実態としては「仕組みづくり」について十分に対応できていないという結果が、ヒアリングからもアンケートからも挙がっている。また、配置の効果が大きいと感じる活動としては、地域支援に関わる項目が上位であった。
これらの結果は、現在、コミュニティソーシャルワーカー(地域福祉コーディネーター)を担う人の多くが社会福祉協議会に所属し、コミュニティワーカーとして地域支援を中心に活動してきたという歴史があるためだと考えられる。
個別支援、地域支援の両方の役割を果たしながら、既存の制度にはつながらない問題を明確にし、課題化し、解決につながる仕組みを構築していくところこそが、既存の社協ワーカー、地域包括支援センター職員の枠組みを越えた、コミュニティソーシャルワーカー(地域福祉コーディネーター)ならではの役割と言える。(109ページ)
おおむね中学校区ごとにコミュニティソーシャルワーカー(地域福祉コーディネーター)を配置することが基本であると考える。
コミュニティソーシャルワーカー(地域福祉コーディネーター)配置の前提として、民生委員・校区ボランティア等をはじめとした生活圏域における住民の地域福祉力が基盤として存在することが必要である。住民主体の小地域活動を組織だった活動に昇華させ、コミュニティソーシャルワーカー(地域福祉コーディネーター)の活動との連携体制をあわせて構築することが重要である。
現時点では、コミュニティソーシャルワーカー(地域福祉コーディネーター)を社協職員が兼任で担っている場合が大半であるが、本来的には所属機関は問わない専門職である。ただし、「仕組みづくり」までを実施していくことを考えると、行政との連携がとりやすい(行政計画に反映しやすい)体制が必要であろう。(111ページ)

追記
コミュニティソーシャルワーカー(地域福祉コーディネーター)の活動については、筆者はとりあえず次のように考えています。
(1)個別支援:地域・住民と一緒に個人の生活課題を解決し、その暮らしを支える
(2)集団支援:地域・住民のネットワークを形成し、集団・組織の活動を支える
(3)地域支援:地域・住民の参加と協働(共働)による地域づくりを支える
(4)仕組みづくり:新しい問題が生じた場合の、課題解決の仕組みと仕掛けを創る

神奈川県における福祉教育の草の根活動―資料紹介―

第二次世界大戦後、学校における福祉教育は、1950(昭和25)年度から始まる神奈川県の「社会事業教育実施校」事業を嚆矢とする。神奈川県におけるこの福祉教育事業は、1951(昭和26)年度に「社会福祉事業研究普及校」、1967(昭和42)年度に「社会福祉研究普及校」と名称を変え、また制度の変更を重ねながら、1998(平成10)年度に新規指定が中止されるまでおよそ50年間継続実施された。
神奈川県では、1981(昭和56)年6月、長洲一二知事によって、「騒然たる教育論議」を交わして全県民の草の根レベルの教育運動を展開することが提唱された。その背景には、受験競争の過熱化や知識偏重教育の推進、いじめや校内暴力の頻発、不登校(「登校拒否」)の増加など、学校教育の危機的状況があった。また、長洲知事提唱のひとつの直接的契機になったといわれる事件(「金属バット両親殺害事件」)が前年の11月に川崎市で起こっている。長洲知事は、1981年6月の「『豊かな社会』の人間と教育―今こそ教育に県民の英知を―」に続いて、1983(昭和58)年11月に「“ふれあい教育”運動―教育論議を第二段階へ―」、1990(平成2)年9月に「個性・共生・共育―ふれあい教育を前進させよう―」という教育アピールをそれぞれ出す。以後、「ふれあい教育」の理念は神奈川県の教育のひとつの基調をなすことになる。
こうした長洲知事の「騒然たる教育論議」提唱を受けて、神奈川県教育委員会は、児童・生徒の基礎的な生活体験の不足を補うために、1984(昭和59)年度から、「人とのふれあい」「自然とのふれあい」による体験活動を重視した「ふれあい教育」運動をスタートさせた。それにともなって、神奈川県は、福祉教育の充実・強化を期して、1985(昭和60)年度に社会福祉研究普及校事業の実施主体を従来の県民生部から県教育委員会に移管する。そして、1986(昭和61)年度からは、「人」との「ふれあい教育」の一環として福祉教育が実施・展開されることになる。
以下に紹介する資料は、「ふれあい教育」が強調される以前から福祉教育やボランティア体験活動に注目し、草の根の福祉教育実践に、自主的・組織的に取り組んできた学校現場の教師によるものである。現場教師を中心にした活動や運動は、全国各地で展開されてきたのであろうが、その個別具体的な紹介や報告は必ずしも多くない。また、その活動や運動を歴史的に整理し、その全体的な構造を明らかにしていくという理論的な取り組みも、これまでほとんどなされてこなかったといっても過言ではない。今回の、わずか1点の資料が、全国の現場教師による草の根の(学校)福祉教育実践の内実に迫り、(学校)福祉教育の新たな理論的・実証的研究を促すひとつの契機になれば幸いである。なお、「神奈川のふれあい教育推進連絡協議会」の活動は今日も続けられており、30年を迎えようとしている。

神奈川のふれあい教育推進連絡協議会 発会式しおり 昭和59年7月28日

神奈川のふれあい教育推進連絡協議会
1. 経過報告
昭和48年度~昭和55年度     連絡協議会への構想
昭和56年度~昭和57年度     具体化への構想
昭和58年度~     実現への準備
昭和59年3月27日     第1回準備会
〃  4月27日      第2回 〃
〃  5月17日      第3回 〃
〃  6月21日      総会準備会
〃  7月28日      発会式
2. 事業計画案(追跡調査とプログラム)     月/内容
7月  神奈川ふれあい教育推進連絡協議会発会式
事業計画作成
8月  追跡調査要項作成と調査
実践要項作成(プログラム)
資料
9月  ふれあい育連
11月   ふれあい育連(研修会)
1月  ふれあい育連(60年度事業計画作成)
3月  ふれあい育連(     〃    )
3. 分科会      分科会名/学校別/委員名
実践要項作成
小学校     石井
中学校     新井 川名 上野
高等学校     安永 久保 森 野中 星野 三浦 遠藤 太田 重田
追跡調査要項作成と調査
小学校     細川
中学校     新井 伊藤 小川
高等学校     中野 臼井 鈴木 伊東 秋本 近藤 田中 小林
資料
小学校     石黒
中学校     矢野
高等学校     菊田 渡辺 久永 渡辺 細川 杉本
社協     大森

“願い”
全国に先がけて昭和25年から社会福祉研究普及校の指定制度を実施して来た神奈川の動向は全国から注目されています。しかしながら高齢化社会・環境問題・技術革新・核家族・情報化社会・平和の問題など急激な社会情勢の変容によって学校教育は大きな曲り角に来ています。
どう生きるかを見失っている児童・生徒に何を与えて行ったらよいのか。
教育現場で問いつめられるこの大きな課題に対し真正面から取り組んでみようとの自主的な意志を持った人達の活力がこのふれあい育連を誕生させた。
人として必要とされていることを自覚できる行動体験を通して自己や他人の確かな「生」を掴みとらせたい。こんな願いを秘めながらこの会を大切に育てて行きたい。

神奈川のふれあい教育推進連絡協議会要綱(案)
第1条 本会の名称を、神奈川のふれあい教育推進連絡協議会(略称:ふれあい育連)とする。
第2条 本会の事務局を当面、神奈川県社会福祉研修情報センターにおく
第3条 本会は次の事業を行うことを目的とする。
(1)ふれあい教育(人とのふれあい)(自然とのふれあい)活動の情報交換と発掘
(2)社会福祉研究普及活動のその後の追跡調査
(3)指定校又はこの活動に関心をもつ学校、団体への資料提供
(4)ふれあい教育活動に関する指導者の研修活動
①県内交流研修
②県外交流研修
③海外交流研修
(5)社会福祉活動に関する諸団体との交流及び連携
(6)指定校制度を含めた福祉教育の過去・現状分析及び福祉教育の将来への展望
(7)自然とのふれあい教育活動に関する諸団体との交流と連携及びその推進と 将来への展望
(8)青少年のふれあい学習の推進及び実践要項作成
(例)活動文化祭、ワークキャンプ、フィールドワーク、施設訪問と交流、福祉 技術(手話や点字など)の習得と実践
(9)その他本会の目標達成のために必要な活動を行う
第4条 本会の会員はふれあい教育活動に携わるか又はそれに関心をもつものからなり、必要により分科会をもつ。
(1)幼稚園、小学校、中学校、高等学校、大学などの職員
(2)地域のふれあい教育活動を行う個人又は団体の職員
(3)社会福祉施設の職員
(4)自然とのふれあい教育に関わる諸施設の職員
第5条 本会には次の役員をおく。
会長1名
副会長若干名 小学校 中学校 高等学校
会計2名
会計監査2名
事務局数名
顧問数名
任期は2年とする。
第6条 総会は年1回とし各役員の改選は任期満了後の総会において行う。
第7条 本会の経費は会費、補助金、寄附金及びその他の収入をもってあてる。
会費年2000円とする
第8条 本会の会計年度は毎年4月1日に始まり翌年3月31日をもって終了する。
決算報告は年度始めの総会において行う。
付則 この要綱は昭和59年7月28日より実施する。
当面の事務局
〒221 神奈川県社会福祉協議会
社会福祉研修情報センター  臼井 孝
横浜市神奈川区沢渡4-2
TEL045-311-1421

補記(1)
かながわNPО情報サイト「KaNaPiOステーション」に、「神奈川のふれあい教育推進連絡協議会」が登録されている(2013年10月7日現在)。そこにアップされている基本情報の一部は次の通りである(最終更新年月日 2009/5/5)。
主たる活動分野>詳細/子どもの健全育成を図る活動>青少年活動・育成活動
設立年月日/1980/1/1
会員数/20人
会費の有無/あり2000(円/年)
会報の有無/なし
活動目的/青少年のボランティアの育成。少しずつですが、体験した、中・高校生が育っている。ボランティア活動をなるべく早く体験させ、学校では、体験できない諸活動を通して、普段意識していない現代の諸課題に対して考えたりできる人間あるいは行動できる人間を目指したい。
活動内容/毎年夏に県内の小・中・高校生を集め、研修会を実施。(研修会:数カ所のフィールドワークを用意し、参加者が選択し、体験活動を行う。今、自分達のまわりにある諸問題について話し合う。これら、研修会を組織する。)
PR/細々ながら、20年近くになろうとしています。今私達の活動がやがては小・中・高の総合学習に入っていくと思います。体験が少ないという青少年に価値ある体験活動を提供していると考えています。

補記(2)
神奈川県の「ふれあい教育」運動に関して、 神奈川県教育問題懇話会事務局編『新しい段階をむかえた「ふれあい教育」運動』神奈川県教育問題懇話会事務局、1986年11月 が「阪野文庫」中の「神奈川県における福祉教育に関する資料」第3巻に収録されている。
また、神奈川県では、1976(昭和51)年10月に長洲一二知事が県民に対して発したメッセージ「一燈をもちよろう」に基づいて「ともしび運動」(「障害者の自立促進を」「おとしよりに生きがいを」「連帯感にあふれた地域社会づくり」)が展開された。この福祉コミュニティづくり(自立と連帯のまちづくり)運動に関して、 ともしび運動促進研究会編『ともしび運動促進研究会中間報告―ともしび運動の発展をめざして―』ともしび運動をすすめる県民会議、1983年3月(2版) が「阪野文庫」中の「神奈川県における福祉教育に関する資料」第3巻に収録されている。

付記
「神奈川のふれあい教育推進連絡協議会 発会式しおり」の記載内容と「ふれあい育連」の現在の活動状況等について確認するために、臼井孝先生に電話し、10数年ぶりに話すことができた。また、その際、本ブログへのアップをご快諾いただいた。感謝である。臼井先生は現在も、「日本ボランティア学習協会」理事や「かながわ県民活動サポートセンター」協議会委員などの要職を務められている。ただただ頭が下がる。

協働と共働

本ブログのカテゴリー “ディスカッションルーム” にアップした 「福祉によるまちづくり、協働と共働、市民福祉教育」 の拙文中の概念図に関して、A県T市社協の職員(コミュニティソーシャルワーカー)から貴重なご意見と氏が作成した概念図をいただきました。その概念図を筆者(阪野)なりに加筆・修正したものを下に記します。
問題は、「協働」と「共働」、「狭義の協働」と「広義の協働」の違いや相互関係をどのように捉えるかというところにありそうです。筆者は、下記の概念図に基づいていえば、「共働」は行政と市民と社協が、新しい「場」(ステージ、プラットホーム)を創設し、そこにそれぞれが参画(登壇、登場)して、対等・協力の関係のもとで、共有化した目標を達成するために事にあたること(共同、協同)、と理解しています。その際の鍵概念となるのが、「相互作用」と「相互補完」、そして「相乗効果」です。

弘子ちゃん

市民福祉教育の定義と概念図

市民福祉教育の定義
市民福祉教育とは、福祉文化の創造や福祉によるまちづくりをめざして日常的な実践や運動に取り組む主体的・自律的な市民の育成を図るための教育活動であり、その内容は、人間の尊厳と自由・平等・友愛の原理に立って、平和・民主主義・人権と、自立・共生・自治の思想のもとに構成され、その実践では、歴史的・社会的存在としての地域の社会福祉問題を素材にし、課題解決のための体験学習と共働活動を方法上の特質とする。(2013年9月1日一部修正)

市民福祉教育の概念図
市民福祉教育の概念図を示すと以下の通りである。(2013年9月1日一部加筆修正)
概念図中の上段の「地域コミュニティ組織」とは、地域に存在する、地域社会(地域福祉)の持続的発展のための組織を意味し、地縁型(地区別、属性別)とテーマ型、あるいは機能的集団型(アソシエーション)などに分類される。自治会・町内会、老人クラブ、民生委員・児童委員、NPO、福祉施設、企業などがそれである。「教育機関・団体」とは学校、公民館、図書館、PTA、民間教育団体などである。

地域コミュニティと「多元参加型コミュニティ」
今日、旧来の地域コミュニティの機能停滞や、新・旧の地域コミュニティの遊離や対立がみられる。地域の生活問題や福祉問題を自己解決する能力を備えた地域コミュニティの創造・再興が求められなかで、定型的な活動が主になりがちな地縁型コミュニティと地域との関係が希薄になりがちなテーマ型コミュニティの連携・協働のあり方が問われている。
そこで、「協働」や「共働」について考えるためのひとつの素材として、国民生活審議会総合企画部会が2005年7月に報告した「コミュニティ再興と市民活動の展開」のなかから、その言説の一部を項目的に整理し、提示しておくことにする。
「コミュニティ」(6ページ)
自主性と責任を自覚した人々が、問題意識を共有するもの同士で自発的に結びつき、ニーズや課題に能動的に対応する人と人とのつながりの総体。
「エリア型コミュニティ」(7ページ)
自治会・町内会といった地縁型団体による取組みを核として、同じ生活圏域に居住する住民の間でつくられるコミュニティ。
「テーマ型コミュニティ」(8ページ)
市民活動団体を中心にして、必ずしも地理的な境界にとらわれず、特定のテーマの下に有志が集まって形成されるコミュニティ。
「コミュニティ再興の条件」(9~10ページ)
①多様性と包容力
個人の自由な生活様式を前提として、幅広い世代や多様な価値観を持つ人々の参加を受け入れ る大きな包容力。
②自立性
地域の問題を市民自らの問題と受け止め、行政任せではなく、自立的に取り組む姿勢。
③開放性
コミュニティの参加者が開放的になって、コミュニティ外との積極的な対話や交流を図ること。
「多元参加型コミュニティ」(10ページ)
以上のような3つの条件を満たすコミュニティ。
地域的に区分されたコミュニティを基盤としながら、従来のエリア型コミュニティとテーマ型コミュニティが必要に応じて補完的・複層的に融合することで、多様な個人の参加や多くの団体の協働を促すコミュニティ。

ライフと教育
概念図中の下段の表示に関して次の拙文を再掲しておくことにする。

「人間は教育されなければならない唯一の被造物である」「人間は教育によってはじめて人間になることができる」。この、ドイツの哲学者カント(I.Kant)のことばを引くまでもなく、人間は本質的に教育を必要とする動物である。教育は、一般的・基本的には、次の3つの視点から捉えることができる。
(1)教育は、人間の「生命」すなわち「生きる力」の育成と向上を図るための活動である。その際の生きる力とは、社会的存在としての自分を、豊かな人間性と他者との相互行為のもとに主体的・自律的に築きあげていくための資質や能力のことをいう。この点に関して、「生きる力の核」としての「社会力」について説く門脇厚司の見解に留意したい。 社会力とは「社会を作り、作った社会を運営しつつ、その社会を絶えず作り変えていくために必要な資質や能力」、すなわち「人と人がつながる力」「社会を作っていく力」である(『子どもの社会力』1999〈平成11〉年)。
(2)人間が生まれ、生命を終えるまで生き続けること、それは生活することである。教育は、この日常の「生活」における実際的で具体的な「活動」すなわち生活経験を通して、またそれとの関連において現実社会について学ぶための活動である。その生活経験の過程で、知識や技能が獲得され、また活用されることになる。この点に関して、アメリカのジョン・デューイ(J.Dewey)は、「教育とは、経験の意味を増加させ、その後の経験の進路を方向づける能力を高めるように経験を改造ないし再組織することである」(『民主主義と教育』1916年)と述べている。また、デューイの教育論をベースに成人教育論を展開したエデュアード・リンデマン(E.C.Lindeman)は「教育は生活である」(『成人教育の意味』1926年)と説いている。
(3)教育は、人間の「生涯」にわたる社会「参加」に基づく成長・発達のための活動である。この点に関しては、フランスのポール・ラングラン(P.Lengrand)が、1965年12月に開催されたユネスコの第3回成人教育推進国際委員会で提案した「生涯教育」(「生涯学習」)の理念や、教育の使命は生活への準備としてのものから生涯にわたって継続するものへと変化すべきである、という指摘が思い起こされる。
要するに、「生命」「生活」「生涯」すなわちライフ(Life)は、人間の成長・発達の過程であり、それはまた教育の過程であるといえる。(『市民福祉教育の探究』みらい、2009年、ⅱ~ⅲページ)

注 2019年8月、一部改訂

福祉によるまちづくり、協働と共働、市民福祉教育

福祉の世界では、「参加から協働へ」ともいわれ、「協働」(coproduction、collaboration)という用語(ターム)が使用、強調されるようになって久しい。また、その概念は、地方自治(「新しい公共と公私協働」等)やまちづくり(「参画と協働によるまちづくり」等)の分野で多用されてきた。
例えば、横浜市は、他に先駆けて協働の概念を導入した自治体として有名である。横浜市では、1999年3月に「市民活動推進検討委員会」(委員長・堀田力)が報告した「横浜市における市民活動との協働に関する基本方針」(「横浜コード」)を基本的理念として、諸施策・事業を協働の視点のもとに推進してきている。その「横浜コード」では、行政が市民活動と協働するに当たっての6原則を提示している。(1)対等の原則(市民活動と行政は対等の立場にたつこと)、(2)自主性尊重の原則(市民活動が自主的に行われることを尊重すること)、(3)自立化の原則(市民活動が自立化する方向で協働をすすめること)、(4)相互理解の原則(市民活動と行政がそれぞれの長所、短所や立場を理解しあうこと)、 (5)目的共有の原則(協働に関して市民活動と行政がその活動の全体または一部について目的を共有すること)、(6)公開の原則(市民活動と行政の関係が公開されていること)、がそれである。また、2004年7月に策定された「協働推進の基本指針」では、「協働」を「公共的サービスを担う異なる主体が、地域課題や社会的な課題を解決するために、相乗効果をあげながら、新たな仕組みや事業を創りだしたり、取り組むこと」と定義づけている。
全社協が、2005年3月、『「協働」による福祉のまちづくり推進のための人材養成のあり方・研修プログラム』と題する報告書を纏めている。そのなかで、山口稔(関東学院大学)は、「協働活動とは何か」について次のように説述している。多少長くなるが、以下に述べる「市民福祉教育」との関わりがあることから、その一文をあえて紹介する。「①コミュニティワークにおける協働活動とは、住民、住民組織、NPO、福祉団体、施設・機関・組織、行政など、地域福祉にかかわる複数の主体が、それぞれの情報・経験・知識・技術などあらゆる資源をもちより交換しあい、対話と信頼、合意形成、自主性・主体性の尊重、対等な立場をもって具体的な問題解決活動に取り組むとともに主体形成を図る非制度的な協力関係をもつ活動である。②協働関係を築くに当たっては、行政のみならず、住民も含め、あらゆる主体に責任が伴うということが忘れられがちである。住民を取り上げるならば、行政依存体質ではない、自己の確立と主体的参画が求められる。すなわち、住民の協働活動の主体としての力量を高めることは、対等な協働関係にとって必須条件である。③対等な関係が成立するためには、各主体がそれぞれのもつ特質を最大限に生かしながら自立性、主体性をもつ必要がある。」(37ページ)。すなわちこれである。
なお、一種の流行語のように「協働」という用語を多用するのは行政や社協であるが、政治的な意味(概念)や政治参加の局面では、行政と市民が対等な立場で「協働」することは考えられない。行政参加の局面においては、「協働」は実態として存在している。ただし、両者の前提に「信託」の概念やシステムがあることに留意したい。行政がいう「協働」には、こうした点についての認識が希薄であったり、無自覚であることが多い。そこで、市民には、「信託」とそれに加えて「オンブズマン」「リコール」などについの認識や自覚が求められる。併せて留意しておきたい。
「協働」に類似・関連する用語に「共働」(coaction)がある。この用語を使用する自治体は多くはないが、例えば、福岡市では、2008年度に、「共働事業提案制度」を設けている。その目的は、市民の発想を活かした提案を募集し、NPOと市の「共働」による相乗効果を発揮することで市民に対するきめの細かいサービスを提供するとともに、地域課題の効果的・効率的な解決や都市活力の向上を図ることにある。この制度がめざす「共働」とは、「事業の企画段階から、NPOと市が対等な立場で、意思の疎通を図りながら意見を出し合い、適切なパートナーシップに基づき事業に取り組むこと」である。
また、「共働のまちづくり」を進める福岡県の古賀市では、『第4次古賀市総合振興計画(2012~2021)』(2012年6月)で、「共働」について次のように解説している。「『キョウドウ』とは、さまざまな主体が共通の目標に向かって、対等な立場で、相互に補完しあい、相乗効果をあげながら、社会的課題の解決にあたること。『キョウドウ』の表記方法には、『協働』や『共働』などがあるが、古賀市ではどちらかがどちらかに追従する関係ではなく、お互い対等の立場で『ともに』取り組んでいくという意味を込め、『共働』と表記している。」(7ページ)、というのがそれである。さらに、同県の宇美町は、2013年7月、「宇美町共働のまちづくり推進のための指針」を策定するが、「共働」には次のような意味が込められているとしている。「町民等と行政は、暮らしやすい町を築いていくためにパートナーシップを確立し、それぞれの責務と役割を認識しあい、認め合い、尊重しあい、対等な立場で、共に考え、共に協力し、共に行動していくまちづくりの実現を目指す」(3ページ)、がそれである。そして、「横浜コード」と同じく、(1)共有の原則(活動に必要な情報を共有すること)、(2)相互理解の原則(お互いの共通性や違い・特性を理解して協力し合い、相乗効果を生むように努めること)、(3)自主・自立の原則(役割分担や責任を明確化するとともに、自主性を尊重し、お互いに独自性、専門性を高めること)、(4)対等の原則(対等な横の関係で、成果を拡充し、相互に補完し合うこと)、(5)公開の原則(取り組みについて積極的に情報公開していくこと)を「共働の原則」とし共通認識することによって、よりよいパートナーシップを築くことができる、としている(11ページ)。
豊田市では、「共働によるまちづくり」「共働社会」の実現をめざして諸施策・事業に取り組んでいる。豊田市は、2005年10月に「豊田市まちづくり基本条例」を制定するが、その第2章「まちづくりの基本的な原則」第5条「共働によるまちづくり」で、「市民及び市は、共通の目的を実現するために、互いの立場を尊重し、対等な関係に立って、共にまちづくりを推進することに努めるものとします。」と定めている。豊田市総合企画部の手になる「豊田市まちづくり条例の考え方」(2005年10月)によると、「共働によるまちづくり」は、「市民及び市が、共通の目的を実現するために、それぞれの役割と責任の下、対等な関係に立って、相互の立場を尊重し、共に働く・行動すること」(7ページ)を意味するものである。また、「条例の考え方」では、諸事業・活動を A:行政が専属的に行う分野、B:行政活動に市民が参入する分野、C:市民と行政が一緒に活動する分野、D:市民活動に行政が連携する分野、E:市民が専属的に行う分野、の5つの分野に分けている。そのうえで、B、C、D の分野の活動を「協働の活動」とし、A+B+C+D+E によって「共働によるまちづくり」をめざす、と説いている(8ページ)。なお、直近の2013年3月に策定された『第2期豊田市市民活動促進計画』(2013年度~2017年度)をみると、「共働」について次のように説明されている。「市民と行政が共に考え、共に行動することでよりよいまちを目指すこと。市民と行政が協力・連携すること(通常これを「協働」といいます。)のほか、共通する目的に対して、市民が専属的に行う分野や、行政が専属的に行う分野をそれぞれの判断で、それぞれに活動することも含まれます。」(2ページ)。
以上の「定義づけ」や「解説」について、その構成要素を分析すると、共通するいくつかの基本的要素を見いだすことができる。その言葉を整理あるいは換言するとすれば、「対等な立場」「相互理解」「共通の目標」「連携・協力」「情報公開」「相互補完」「相乗効果」などがそれである。現状では、「協働」とりわけ「共働」の概念は観念的・多義的で、曖昧なものに留まっており、理論的にも実践的にもその問題点の明確な整理と広く深い検討が求められるといわざるを得ない。
ところで、筆者(阪野)はこれまで、「市民福祉教育」や福祉教育でいう「協同実践」などとの関わりで、「共働」「共働活動」という用語を使ってきた。次のような一文がそれである。いささか長きにわたるが、再掲する。

福祉教育でいう協同実践は、これまで、ややもすると形式的で活動至上主義に陥り、そこでの人間関係はとりわけ地域における福祉教育実践においては権威主義的な上下関係(「ピラミッド型」)になりがちであったといってよい。またそれは、実践の基盤になる共通の土俵づくりがないまま、あるいは不十分なまま、実際には既存のそれぞれの土俵でのひとり相撲に終わってしまい、理念だけが空転しているようでもある。共働活動は、メンバー間の対等で平等な人間関係と、市民としての個々のメンバーの主体的・自律的な参加に基づく一体的・組織的かつ柔軟な活動を展開するための相互作用を強調するところに協同実践との違いがある(『市民福祉教育の探究』みらい、2009年、80~81ページ)。

「参加と協働」は響きのよい言葉である。しかし、そこには、いくつかの問題点や限界が見いだされる。たとえば、参加が提唱される一方で、住民の責任や責務が強調されている。住民の政策形成過程への参加の重要性が指摘されながら、現実的には行政サービスの担い手としての参加に偏っている。また、協働は、相変わらず行政主導・行政優位のそれにとどまっている(『市民福祉教育をめぐる断章』大学図書出版、2011年、3ページ)。

市民と行政が「パートナーシップ」以上の高いレベルの市民参加を実現するためには、市民にも行政にも、対等な立場で、実質的・実効的な「参加と協働」をいかに展開するかが問われることになる。その際にまず求められるのは、行政においては「お上」意識の変革や行政組織の改革である。市民においては、能動的で理性的・自律的な生活主体や権利主体、自治主体として、個人的責任だけでなく社会的責任を負うべき存在として自らを形成することである。ここに、教育的営為や学習活動的要素が必要とされ、「市民福祉教育」が存立する(『同上書』、4~5ページ)。

シティズンシップ教育は、国家や社会にとって都合のよい、無批判・無抵抗の体制依存的市民を育成するものではない。それは、市民「参加」という名の「動員」や、行政の「下請け」化、「補完」化を促すものではない。また、官製的なボランティア・市民活動の振興、いわんや奉仕活動の義務化の推進を図るものではない。それは、市民一人ひとりが個人としての権利と義務を行使し、主体的・自律的な個人が自分の意思決定に基づいて社会的・政治的・経済的分野で能動的・積極的に行動する、時には多数派の決定に対する市民的不服従や良心的拒否を許容する成熟した市民社会の形成を志向する教育である。そのために必要となる能力が意識、知識、スキルである。
こうしたシティズンシップ教育、すなわち市民的資質・能力の育成は、福祉文化の創造や福祉のまちづくりの主体形成を図る市民福祉教育とかさなり合い、参考にすべき点が多い。シティズンシップ教育の一環としての市民福祉教育の展開のあり方や方向性について追究する必要がある。それは、福祉教育の実践と研究にとって喫緊の課題である(『同上書』48~49ページ)。

今日、国や地方自治体の行政改革と財政再建が焦眉の課題とされるなかで、「新しい公共」の創出や「新たな支え合い」の強化が叫ばれ、住民(市民)やボランティア、NPO、地域組織・団体などと行政の「協働」が推進されている。しかし、その取り組みの多くは、自治体主導・自治体優位の、「上から」の「新しい公共」であるといわざるを得ない。真に求められるのは、主体的・能動的・自律的な住民による住民主導・住民優位の、「下から」の「新しい公共」である。それは、「新しい公共」の創出にとって、新しい「私」の育成(住民の主体形成)が大きな課題となることを意味する(『同上書』84ページ)。

筆者はこれまで、協同実践に替わる用語として「共働活動」(coaction)を使ってきた。それは、グループのメンバーによって共有化された目標のもとで、各メンバーが主体的・自律的に参加して行う協同(共同)活動を意味する。その本質は、メンバー間の対等で平等な人間関係と、一体的・組織的かつ柔軟な活動を展開するための相互依存・補完・協力の相互作用にある。要するに、共働活動とは、多様な個人や集団が共生関係を形成し、多面的な相互作用によって社会的統合や融合を達成していく過程で展開される協同(共同)活動をいう。
市民福祉教育においては、こうした共働活動(体験学習)が重視される。そこでは、目標達成のためのアセスメント能力やプランニング能力、コーディネート能力、メンバーシップやリーダーシップ、それに共感的・共生的な生活理解・支援能力などの諸能力の育成と、その過程での「平和・民主主義・人権と、自立・共生・自治」などの価値観の形成が重要な課題となるのである(『同上書』68ページ)。

以上の叙述から、本稿のテーマである「福祉によるまちづくり、協働と共働、市民福祉教育」に関する概念図を作成するとすれば、以下のようになろうか。本稿の真のねらいはこの概念図の表示にある。
概念図中の行政「自主的・革新的自治体職員」に関しては、行政職員は「地方公務員」から「自治体職員」へと自己変革を図る必要がある。市民「主体的・自律的市民」に関しては、そこに暮らす生活者としての「住民」「地域住民」への啓発・教育を通して、「福祉によるまちづくり」に主体的・能動的・自律的に参画する「市民」(citizen)を育成する必要がある。ここに市民福祉教育が存立する、という意味である。
また、社協「コミュニティソーシャルワーカー」に関しては、ひとまず、次の言説を援用することにしたい。既存の社協職員(社協ワーカー)の枠組みを越えた、コミュニティソーシャルワーカー(地域福祉コーディネーター)ならではの役割は、「個別支援」と「地域支援」の両方の役割を果たしながら、既存の制度にはつながらない問題を明確にし、課題化し、その解決につながる仕組みを構築していくところ(「仕組みづくり」)にある、というのがそれである(『コミュニティソーシャルワーカー(地域福祉コーディネーター)調査研究事業報告書』野村総合研究所、2013年3月、109ページ)。
そして、この概念図の鍵概念が「共働」であることは言を俟たない。それとの関わりでとりわけ強調したいのは、日常的な地域生活において、明確で具体的な「市民活動目標」を掲げ、「市民主権・市民自治」の実現を通して「福祉によるまちづくり」をめざす「主体的・自律的市民」の姿(実像)である。併せて、そのための「市民福祉教育」である。

共働の概念図/8月26日