「大橋謙策の福祉教育論」カテゴリーアーカイブ

老爺心お節介情報/第75号(2025年9月8日)

「老爺心お節介情報」第75号

地域福祉研究者の皆様
社会福祉協議会関係者の皆様

お変わりありませんか。
「老爺心お節介情報」第75号を送ります。
ご笑覧下さい。

2025年9月8日   大橋 謙策

〇白露を過ぎたというのに、酷暑が続きます。それでも、虫の音が聞こえ、何となく秋の気配を感じるようになりました。
〇我が家の家庭菜園では、夏の作物に感謝し、畑を整地して、三浦大根の種まきをしました。また、今年はじめて、ヒガンバナ(りり)の球根を植えてみましたが、果たし咲くのかお彼岸頃が待ち遠しいです。
〇皆様には、酷暑を乗り越えて、元気にお過ごしでしょうか。
〇今号は、畏友阪野貢先生に請われて書いた『「そのときの出逢いが」――私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い』①を載せました。
〇編集してくれたあとの正式なものは、阪野貢先生のブログ「市民福祉教育研究所」の「大橋謙策の福祉教育論」の中に「第10巻 「そのときの出逢いが」――私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い」が掲載されていますので、それを参照してください。〔⇨市民福祉教育研究所。 ⇨「大橋謙策研究 第10巻」
〇今回は、日本社会事業大学に在学中の方々との出逢いを書いていますが、今後1970年代、1980年代、1990年代という具合に、年代ごとに私を育ててくれた方々との出逢いを徒然なるままに書いていきたいと思っています。
(2025年9月8日記)

『「そのときの出逢いが」――私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い』①

(はじめに)

〇本稿は、私の畏友阪野貢先生が主宰する「市民福祉教育研究所」が開設しているブログの中の「大橋謙策の福祉教育」というコーナーに、大橋謙策の地域福祉実践・研究を形成する上で影響を与えた「その人との出会い」を書いて欲しいとの要請を受けて書いている。
〇当初、その話を受けた時、そんな大それたものは書けないと受ける気はなかった。しかしながら、その話は何となく私の脳裏を去らず、ならば恩師と言える方々の多くを見送る「偲ぶ会」を幾度となく行ってきたので、その際に書いた弔辞や「送る言葉」を転載して貰えばいいかと考え直し、阪野貢先生の申し出を受けることにした。
〇しかし、いざ資料をまとめているうちに、弔辞や「送る言葉」だけでは、私の人生史の一部であり、大橋謙策の地域福祉実践・研究を形成する上で影響を与えてくれた方々、その方々の言葉、提供頂いた実践現場を反映したものにはならないと考え直し、書下ろしで阪野貢先生の期待に沿いたいと思い書き始めた。
〇本稿のタイトル「そのときの出逢いが」は栃木県足利市在住の書家、詩人である相田みつおの日めくりカレンダーから拝借したものである。
〇相田みつおは「そのときの出逢いがー出逢い、そして感動 人間を動かし 人間を変えてゆくものは むずかしい理論や理屈じゃないんだなあ 感動が人間を動かし 出逢いが人間をかえてゆくんだな・・・」と書いている。
〇まさに、本稿はその人との出逢いによって私が教えられ、私を育ててくれた方々とのエピソードを断片的ながらつれづれなるままに書いて阪野貢先生との約束の責を果たしたいと思っている。

(註1) 筆者と相田みつおとの出逢いは、1978~79年度に掛けて行われたと栃木県足利市の「地域福祉計画」づくりにおいて、当時足利市母子福祉会の高久富美会長から相田みつおの誌の日めくりカレンダーを頂いてからである。
足利市の地域福祉計画づくりは、栃木県が単独事業として打ち出した「コミュニティ政策」によるモデル事業を栃木県職員であった大友崇義氏(日本社会事業大学の先輩)がやってみないかと持ち込んでくれた調査研究で、当時の日本社会事業大学の若手教員である杉森創吉、京極高宣、佐藤久夫の若手研究者で「日本社会事業大学地域福祉計画研究会」を立ち上げて行ったものである。
(註2) 筆者の蔵書は、東北福祉大学大学院の「大橋文庫」に寄贈したこと、並びに書庫・書斎の資料も断捨離して、現在書斎には筆者が執筆した著書と論文しかない。したがって、本稿で取り上げる方々の氏名や所属等の確認ができない。誤った表記があるかもしれないが、あらかじめご承諾頂きたい。

Ⅰ 日本社会事業大学在学中の出逢い

〇筆者は、高校3年生の時に、青年期特有の「人生如何に生きるべきか」という“病”にとりつかれた。ただ、受験勉強する意味を見出せず、進学か就職かも含めて悩むことになる。
〇そんな折、読んだ島木健作著『生活の探求』、『続生活の探求』(角川文庫)に啓発され、日本社会事業大学への進学を考えた。高校の教師も日本社会事業大学という大学を知らず、我が家の家族、親類も苦労した我が家の生活を切り抜け、やっと末っ子の謙策を高校普通科、そして大学に行かせられると思っていたのが、よりよって世間的に通用する大学でなく、存在も名前も知らない大学への進学に落胆しながらも、「人生如何に生きるべきか」に悩んでいた謙策の進路を許容してくれた。まさに、日本社会事業大学への進学は、特別奨学金を頂いての奇人・変人扱いでの進学だった。
〇日本社会事業大学での社会福祉教育は、筆者が期待するような講義ではなく、落胆した。しかしながら、非常勤講師の方々の講義は私にとって有意義な講義であった。講義が詰まらない分、私は学内外の様々な活動に参加し、それがある意味、今日の私を形成させたといっても過言ではない。その一端を「その人との出逢い」ということで述べておきたい。

➀ 1963年4月8日だと記憶しているが、私は日本社会事業大学に入学した。その入学の当日が、朝日茂さんが起こした「人間裁判」の東京高等裁判所の公判の日であった。先輩の矢部広明さん、神原ヒロ子さんに誘われて、公判を傍聴した。
〇その折に、朝日訴訟中央対策員会事務局長長宏先生(当時、日本患者同盟会長、後に日本福祉大学教授)や児島美都子先生(当時、清瀬の病院ソーシャルワーカー、後に日本福祉大学教授)に出会う。両先生は、その後も日本社会事業大学の学生朝日訴訟を守る会の宿泊勉強会などにも参加してくれ、大変お世話になった。その朝日訴訟にかかわることで、神田の古本屋で「ジュリスト」、「判例時報」、「法律時報」等の参考になる判例が掲載されている雑誌を購入して読み、少しは法律への抵抗感が薄れた。
〇筆者が、朝日訴訟の最高裁判決(1967年5月24日、筆者は当時、東京大学大学院社会教育研究室の研究生)が出た後の集会で、生意気にも、これからの社会福祉は、憲法第25条に基づく“最低限度の生活保障”という社会的生存権を言い募るだけでいいのだろうか、それを基本にしつつも憲法第13条の幸福追求権も法源として考えるべきではないかと発言した。
〇予想したことではあったが、日本社会事業大学の小川政亮先生や弁護士からは憲法第13条は実定法を規定するものでなく、理念を謳っているので法源にはできないとお叱りを受けた。その際、長宏先生が、その考え方はとても大事なのではないか。もっと深めて欲しい旨の発言をして励ましてくれた。
〇筆者は、それに力を得て、1960年代から憲法第13条と憲法第25条を法源とした社会福祉のあり方を考究することになり、1970年前後にいくつかの論文でそれを提起した。社会福祉を「ソーシャルウエルフェア」と捉えるのではなく、「ウェルビーイング」と考える必要性を考えた。

➁ 日本社会事業大学1年の夏、先輩の板垣恵順さんに誘われて、神奈川県立中里学園(児童養護施設)のボランティア活動をすることになった。
〇その際、中里学園の時任園長が、私に女子部の顔写真付きのカードを寄越し、明日までに50人近くの女子部の子どもたちの名前を覚えなさい。それができないなら、明日からボランティア活動をしなくていいですと言われた。
〇時任園長は、社会福祉を学び、それを職業にしようとするならば、自分が関わる人の名前を覚えることが必要不可欠で、必須なことなのだと教えてくれた。
〇覚えるのに丸暗記したのでは覚えきれない。その児童のカードを見て、特徴的なことと名前とをリンクさせることで名前を思い起こすことができる。出身地とか、得意の分野とか、入所に至る経緯とかをリンクさせて覚えると、すぐ名前が出てこなくても話をしているうちにリンクした項目から名前を思い起こすことができた。
〇“よく大橋さんは人の名前を覚えるね”と言われることが多いが、それは時任園長のお陰である。社会福祉において、人間尊重というならば、その人の名前を覚えることが基本であるということを教えられた。

➂ 日本社会事業大学は大阪社会事業短期大学、日本福祉大学、東北福祉大学の社会福祉系大学4校で「社会福祉系大学学生ゼミナール」(?)というものを組織していて、毎年秋に交流セミナーを開催していた。
〇当時は、孝橋正一著『社会事業の基本問題』が一世を風靡していて、それを読まないものは社会福祉系大学の学生たる資格なしという勢いであった。私は、それを読んだが、どうもおかしいと感じた。貧困問題は単なる経済的貧困問題だけでなく、様々な生活のしづらさがあるのに、それをすべて資本主義のなせる業であるかのような論述は受け入れがたいものであった。
〇そんな状況の中、「社会福祉系大学学生ゼミナール」が大阪社会事業短期大学を当番校にして大阪の夕陽丘でおこなわれることになった。近くのお寺に寝泊まりしてのゼミナールであった。
〇その折、大阪社会事業短期大学の卒業生で、大阪市の職員であり、西成地区を担当している細川順正さんに、日本三大ドヤ街(山谷、横浜寿町、釜ヶ崎)の一つである釜ヶ崎を案内して頂けることになった。
〇細川さんは、これから私がご馳走する「火薬飯」を食べたら西成を案内してくれるという。「火薬飯」って何ですかと聞くと関東の五目飯のことだという。出された「火薬飯」は脂ぎった炒飯のようなもので、とても美味しいとは言えない代物であったが、西成を案内して欲しさに食べた。食べ終わると、細川さんは今あなたが食べた「火薬飯」は他の人たちが残した残飯を炒め直したもので、多くの西成の日雇労働者の常食だと説明してくれた。胃から戻しはしなかったが、決して気持ちいいものではなかった。細川さんは、その後大分大学の経済学部の教員に転出された。

➃ 奇人・変人扱いを受けて入学した日本社会事業大学ではあったが、社会福祉教育の講義は正直言って面白くなかった。救われたのは、非常勤の先生方の講義科目で、高校までとは違う“ものの見方、考え方”を教えられた。
〇大学2年の基礎ゼミで、小川利夫先生のゼミを選択した。テキストはカール・マルクスの『経済学・哲学草稿』であった。この本の輪読は、社会科学的思考というものがどういうものであるかということと、人間とは何か、人間性とは何か等いろいろ考える機会が与えられた。
〇3年時の専門ゼミでも小川利夫ゼミを専攻し、コンドルセ著、松島鈞訳『公教育の原理』(明治図書出版)を読んだ。コンドルセの思想を学ぶ中で、フランスの自由、平等、博愛の位置づけを考える機会となり、福祉教育の重要性に気が付く。
〇これ以降、小川利夫先生に師事し、研究者の道に進むが、小川利夫先生は面と向かってよくやったとは褒めてくれなかった。ただ、一度だけ褒めてくれたのは私が日本社会福祉学会の公選理事に選出された時、“おまえの社会教育と社会福祉の学際研究が認められた”と言ってくれた時だけである。
〇小川利夫先生の偲ぶ会の時(2007年10月28日)、北田耕也先生(小川利夫先生の東大教育学部時代の学友、明治大学教授、筆者が日本社会事業大学の学長に就任した時、宮原誠一研究室からはじめて学長が出たのは嬉しいとお祝いにお酒の角樽を届けてくれた)等から”小川さんはあなたを褒めていたし、自慢もしていたよ“と打ち明けられたが、小川利夫先生は私が日本社会事業大学の学長に選ばれた時、報告に行ったら、寝たきりの状態で、”お前のようなバカが学長になるとは世も末だ“と言われ、奥様がいろいろとりなしても、”バカはバカだ“と言い張られた。
〇そんなことがあっても、私の人生、研究者生活は小川利夫先生との出逢いがなければ今日の私は存在しない。
〇エピソードは沢山あるが、一つだけ紹介したい。1970年度に東京都教育庁の委託を受けて、三鷹市勤労青年学級を核とした青年調査が行われた。それを手伝ったこともあり、1971年版の『子ども白書』に400字原稿用紙15枚の原稿を書く機会が与えられた。テーマは「労働と教育」であったが、なんと6回も書き直しを命じられた。それまで三鷹市勤労青年学級の実践報告書である『青年学級の視点』には実践報告書を書いてきたけれども、公刊・販売される本への執筆は初めての機会で、論文を書く厳しさをいやというほど訓練された。
〇小川利夫先生からは、例え小論文でも必ず理論的課題を一つは提起しろ、単なる調査報告では駄目だと口を酸っぱくして鍛えられた。その予兆は、先の基礎ゼミで取り上げた『経済学・哲学草稿』に関して小論文を書けと言われた宿題を出した時、私が書いたものへの評価は“これは論文ではありません。作文です”という評価であった。
〇小川利夫先生の研究指導については、拙稿「『硯滴』に学ぶー不肖の弟子の戯言と思い」(『小川利夫社会教育論集第8巻 社会教育研究四十年―現代社会教育研究入門』(亜紀書房、1992年)を参照してください。

(註3) 小川利夫先生は、2007年7月21日に逝去された。享年81歳であった。後日開かれた小川利夫先生の偲ぶ会で述べた「お別れの辞」である。「小川利夫先生を偲ぶー強靭な理論とおおらかな人柄に思いを馳せて」所収「お別れの辞」
(註4) 『小川利夫語録』
(註5) 社会科学の学びということで、筆者が東大大学院の時代、小川利夫先生や後述の小川正美先生、大学院の黒沢先輩(後の長野大学教授)らと毎月「マルクス・エンゲルス全集」(大月書店)、「レーニン全集」(大月書店)の輪読会を筆者の下宿先である世田谷区烏山の8畳間でおこなった。近くの魚屋に大皿の刺身盛りを頼んでおいて、輪読会が終わると毎回酒盛りで談論風発の気炎をあげた。

➄ 日本社会事業大学在学中での出逢いで忘れられない先生がいる。都立大学の先生で、日本社会事業大学に非常勤で来られていた教育学の山住正巳先生(後の都立大学総長)である。
〇山住正巳先生は、小川利夫先生や堀尾輝久先生(後に東京大学教授)等の先生と交遊があり、飲み仲間であり、教育科学研究会の中核的メンバーであった。私は、小川ゼミで教育学にも関心を寄せていたので、当時、月刊雑誌『教育』(国土社)に連載されていた勝田守一先生(戦後教育学の3Mと呼ばれた一人。東大教育学部社会教育学の恩師の宮原誠一、東大教育学部教育行政学の宗像誠也、東大教育学部教育哲学の勝田守一の3人)の論文を輪読・研究する「日本社会事業大学教育科学研究会」を立ち上げ、学友と毎月勉強会をしていたが、なんと山住正巳先生は手当も交通費も出ないのに、その研究会に参加してくれ、指導してくれた。それどころか、時には自宅にまで呼んで頂いて、小児科医の奥様の手料理でもてなしてもしてくれた。
〇山住正巳先生には、東大大学院教育学研究科の勝田守一先生の教室に進学しろと勧められたが、地域づくりの実践に関する関心もあって、宮原誠一先生の門を叩くことになった。
〇人の出逢いとは面白いもので、恩師の宮原誠一先生の次男宮原伸二先生(東北大学医学部出身の医師で、秋田県象潟町、高知県西土佐村で地域包括ケアのさきがけの実践をされた医師)と1990年代後半に出会った。宮原伸二先生は、当時、岡山県の旭川荘の医師で、その後川崎医療福祉大学教授になるが、筆者も川崎医療大学大学院の非常勤講師をしたこともあって、意気投合し、岡山県医師会の包括ケア研究会とかで全国地域包括支援センター協議会の会長をされた青木医師も交えて、岡山でよく飲んだ。
〇山住正巳先生からは、都立大学に社会福祉学科が開設されるときにも来ないかと声を掛けて頂いたが、それも叶わなかった。
〇山住正巳先生は、筆者の最初の単著『地域福祉の展開と福祉教育』(1986年、全社協出版部)を上梓した際、恵贈させて頂いたが、その時に筆者が「まえがき」で、“本書は 学術論文というよりも実践的研究書という方が当たっているかもしれない”とやや卑下したものの言い方をした記述した部分に触れ、“空理空論的学術書”より、“実践的研究書”の方が大事で、教育学や社会福祉学の研究方法について心得違いをしているのではないかと厳しく諭された。この指摘は、私の研究方法、研究姿勢に大きな影響を与えた。

➅ 日本社会事業大学在学中の出逢いで忘れられない人物の一人が長野県下伊那郡阿智村の岡庭一雄さん(当時公民館主事、その後、村長になり、住民参加の手作りの村づくりを16年間務めた)である。
〇1966年2月に、小川利夫先生が講演する機会に同道させて頂き、阿智村教育委員会で日本社会事業大学の実習をさせて頂いた。その後、約2か月かけて、長野県下(喬木村、松川町、茅野市、中野市、須坂市、山之内町)の社会教育主事を訪ね、実習をさせて頂いた(この件は、「老爺心お節介情報」第68号に書いてあるので、参照)。
〇この実習で学んだことは①保健、医療、社会福祉、社会教育の連携が地域づくりには必要なシステムであること、②住民の意識変容は、“上から目線”での高邁な理論の学習ではなく、実際生活に即した文化的教養を高める(社会教育法第3条)ことが必要であり、重要であるということに気付きさせてもらったことである。
〇筆者は、阿智村で実習の後、喬木村教育委員会の社会教育主事の島田修一さん(後の東大教育学部助手、中央大学教授)の下で実習をさせて頂いた。島田修一さんがその後不当配転になり、社会教育主事を追われるが、その撤回を求めて闘争に入り、その支援のために喬木村にはよく通ったものである。
〇喬木村での実習の際には、同じ喬木村教育委員会の小原玄祐さんの曹洞宗・淵静寺に泊めて頂いた。奥様の小原道子さんには本当にお世話になった。
〇実習の時ではないが、東大大学院時代(月に1回程度の割合で、夜行列車に乗って、喬木村を訪ね、青年団や婦人会(当時)の学習会に参加していた)に淵静寺に泊まった際、戦前の華族であり,礼法小笠原流家元の小笠原忠統先生(当時、長野県立松本図書館長、後に相模原女子大学教授)と一緒になることがあった。何かの折に、私に座右の銘をあげようと小笠原先生と小原玄祐さんとが話をされ、「自未得度 先度他」という道元禅師の教えの「修証義」第4章に出てくる一節を「座右の銘」にして生きろと諭された。それ以来、私はこの語句を「座右の銘」としてきた。
〇小笠原忠統先生は手紙を巻紙でくれる先生、その後相模女子大学に来ないかと招聘を受けたが、その時には女子栄養大学に助手の採用が決まっていたので、お断りをした。

➆ 日本社会事業大学4年の時に、小川利夫先生の紹介で、三鷹市教育委員会の小川正美先生と出会うことになる。
〇小川利夫先生と小川正美先生との出会いは、東京学芸大学で行われていた「社会教育主事養成課程」での講師と受講生の関係が始まりであるが、お二人とも「三多摩社会教育研究会」に所属し、肝胆相照らす仲になる。
〇小川利夫先生は、日本社会事業大学の学生で生活困窮の学生にアルバイト的味合いも含めて、小川正美先生が担当している三鷹市勤労青年学級(前身は三鷹市青年実務学校)の講師補佐の名目で送り込んでいた。
〇筆者もその一環で、1966年度(学部4年生)から講師補佐になり、1967年度からは勤労青年学級の社会コース担当の講師に任命される。
〇1967年度の勤労青年学級の実践報告を『青年学級の視点』として出すので論文を書けと言われ書いた。自分が担当する「社会コース」の実践記録だけでなく、勤労青年学級のあり方、考え方についても書けといわれ、苦労しながら書いた。この作業を通じて、実践において講師なりの「実践仮説」が重要であるし、学習者理解が欠かせないことを訓練させてもらった(「老爺心お節介情報」第62号の「我が青春譜―東京都三鷹市勤労青年学級での10年間の学びと交流」を参照)。

➇ その他在学中で出逢った方々で忘れられない方は、三浦三郎先生と渡部剛士先生である。
〇学部4年の夏(1966年8月)、小川利夫先生に、“大橋君をよろしく”と一筆書いて押印した名刺を頂いて、山形県社会福祉協議会の渡部剛士先生(日本社会事業大学の卒業生、第2次世界大戦での特攻隊(?)の生き残りの方。山形県民謡「最上川舟歌」を朗朗と謡う人。後に事務局長、更には東北福祉大学教授)と三浦三郎先生(戦前の社会事業主事、東京の下町にあるセツルメントハウス興望館の主事、戦後秋田県社会福祉協議会の事務局長)を訪問した。
〇三浦三郎先生には、自宅に泊めて頂き、竿灯まつりまで見学させて頂いた。その後も、いろいろな機会に指導を賜った。
〇三浦三郎先生は、その後私が日本社会事業大学の教員となり、秋田県に招聘されるたびに、毎回最前列に陣取り、講演を聞いてくれ、終わると講評をして育ててくれた。
〇渡部剛士先生には、山形県田麦畑地区の実践や上山市中川地区の中川福祉村の実践を教えて頂いたり、全社協の「地域福祉計画」委員会の同じ委員として、市町村社協のあり方について教えて頂いた。
(2025年9月7日、白露の日に記す)

大橋謙策/大橋謙策研究 第10巻:「そのときの出逢いが」―私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い―

 


 

はじめに

〇本稿は、私の畏友阪野貢先生が主宰(顧問)する「市民福祉教育研究所」が開設しているブログの中の「大橋謙策の福祉教育論」というコーナーに、大橋謙策の地域福祉実践・研究を形成する上で影響を与えた「その人との出逢い」を書いて欲しいとの要請を受けて書いている。
〇当初、その話を受けた時、そんな大それたものは書けないと受ける気はなかった。しかしながら、その話は何となく私の脳裏を去らず、ならば恩師と言える方々の多くを見送る「偲ぶ会」を幾度となく行ってきたので、その際に書いた弔辞や「送る言葉」を転載して貰えばいいかと考え直し、阪野貢先生の申し出を受けることにした。
〇しかし、いざ資料をまとめているうちに、弔辞や「送る言葉」だけでは、私の人生史の一部であり、大橋謙策の地域福祉実践・研究を形成する上で影響を与えてくれた方々、その方々の言葉、提供頂いた実践現場を反映したものにはならないと考え直し、書下ろしで阪野貢先生の期待に沿いたいと思い書き始めた。
〇本稿のタイトル「そのときの出逢いが」は栃木県足利市在住の書家、詩人である相田みつおの日めくりカレンダーから拝借したものである。
〇相田みつおは「そのときの出逢いが――出逢い、そして感動 人間を動かし 人間を変えてゆくものは むずかしい理論や理屈じゃないんだなあ 感動が人間を動かし 出逢いが人間をかえてゆくんだな‥‥‥」と書いている。
〇まさに、本稿はその人との出逢いによって私が教えられ、私を育ててくれた方々とのエピソードを断片的ながらつれづれなるままに書いて阪野貢先生との約束の責を果たしたいと思っている。

(註1)
〇筆者と相田みつおとの出逢いは、1978~79年度に掛けて行われたと栃木県足利市の「地域福祉計画」づくりにおいて、当時足利市母子福祉会の高久富美会長から相田みつおの誌の日めくりカレンダーを頂いてからである。
〇足利市の地域福祉計画づくりは、栃木県が単独事業として打ち出した「コミュニティ政策」によるモデル事業を栃木県職員であった大友崇義氏(日本社会事業大学の先輩)がやってみないかと持ち込んでくれた調査研究で、当時の日本社会事業大学の若手教員である杉森創吉、京極高宣、佐藤久夫の若手研究者で「日本社会事業大学地域福祉計画研究会」を立ち上げて行ったものである。

(註2)
〇筆者の蔵書は、東北福祉大学大学院の「大橋文庫」に寄贈したこと、並びに書庫・書斎の資料も断捨離して、現在書斎には筆者が執筆した著書と論文しかない。したがって、本稿で取り上げる方々の氏名や所属等の確認ができない。誤った表記があるかもしれないが、あらかじめご承諾頂きたい。

Ⅰ 日本社会事業大学在学中の出逢い

〇筆者は、高校3年生の時に、青年期特有の「人生如何に生きるべきか」という“病”にとりつかれた。ただ、受験勉強する意味を見出せず、進学か就職かも含めて悩むことになる。
〇そんな折、読んだ島木健作著『生活の探求』、『続生活の探求』(角川文庫)に啓発され、日本社会事業大学への進学を考えた。高校の教師も日本社会事業大学という大学を知らず、我が家の家族、親類も苦労した我が家の生活を切り抜け、やっと末っ子の謙策を高校普通科、そして大学に行かせられると思っていたのが、よりによって世間的に通用する大学でなく、存在も名前も知らない大学への進学に落胆しながらも、「人生如何に生きるべきか」に悩んでいた謙策の進路を許容してくれた。まさに、日本社会事業大学への進学は、特別奨学金を頂いての奇人・変人扱いでの進学だった。
〇日本社会事業大学での社会福祉教育は、筆者が期待するような講義ではなく、落胆した。しかしながら、非常勤講師の方々の講義は私にとって有意義な講義であった。講義が詰まらない分、私は学内外の様々な活動に参加し、それがある意味、今日の私を形成させたといっても過言ではない。その一端を「その人との出逢い」ということで述べておきたい。

【1】
〇1963年4月8日だと記憶しているが、私は日本社会事業大学に入学した。その入学の当日が、朝日茂さんが起こした「人間裁判」の東京高等裁判所の公判の日であった。先輩の矢部広明さん、神原ヒロ子さんに誘われて、公判を傍聴した。
〇その折に、朝日訴訟中央対策員会事務局長長宏先生(当時、日本患者同盟会長、後に日本福祉大学教授)や児島美都子先生(当時、清瀬の病院ソーシャルワーカー、後に日本福祉大学教授)に出会う。両先生は、その後も日本社会事業大学の学生朝日訴訟を守る会の宿泊勉強会などにも参加してくれ、大変お世話になった。その朝日訴訟にかかわることで、神田の古本屋で「ジュリスト」、「判例時報」、「法律時報」等の参考になる判例が掲載されている雑誌を購入して読み、少しは法律への抵抗感が薄れた。
〇筆者が、朝日訴訟の最高裁判決(1967年5月24日、筆者は当時、東京大学大学院社会教育研究室の研究生)が出た後の集会で、生意気にも、これからの社会福祉は、憲法第25条に基づく“最低限度の生活保障”という社会的生存権を言い募るだけでいいのだろうか、それを基本にしつつも憲法第13条の幸福追求権も法源として考えるべきではないかと発言した。
〇予想したことではあったが、日本社会事業大学の小川政亮先生や弁護士からは憲法第13条は実定法を規定するものでなく、理念を謳っているので法源にはできないとお叱りを受けた。その際、長宏先生が、その考え方はとても大事なのではないか。もっと深めて欲しい旨の発言をして励ましてくれた。
〇筆者は、それに力を得て、1960年代から憲法第13条と憲法第25条を法源とした社会福祉のあり方を考究することになり、1970年前後にいくつかの論文でそれを提起した。社会福祉を「ソーシャルウエルフェア」と捉えるのではなく、「ウェルビーイング」と考える必要性を考えた。

【2】
〇日本社会事業大学1年の夏、先輩の板垣恵順さんに誘われて、神奈川県立中里学園(児童養護施設)のボランティア活動をすることになった。
〇その際、中里学園の時任園長が、私に女子部の顔写真付きのカードを寄越し、明日までに50人近くの女子部の子どもたちの名前を覚えなさい。それができないなら、明日からボランティア活動をしなくていいですと言われた。
〇時任園長は、社会福祉を学び、それを職業にしようとするならば、自分が関わる人の名前を覚えることが必要不可欠で、必須なことなのだと教えてくれた。
〇覚えるのに丸暗記したのでは覚えきれない。その児童のカードを見て、特徴的なことと名前とをリンクさせることで名前を思い起こすことができる。出身地とか、得意の分野とか、入所に至る経緯とかをリンクさせて覚えると、すぐ名前が出てこなくても話をしているうちにリンクした項目から名前を思い起こすことができた。
〇“よく大橋さんは人の名前を覚えるね”と言われることが多いが、それは時任園長のお陰である。社会福祉において、人間尊重というならば、その人の名前を覚えることが基本であるということを教えられた。

【3】
〇日本社会事業大学は大阪社会事業短期大学、日本福祉大学、東北福祉大学の社会福祉系大学4校で「社会福祉系大学学生ゼミナール」(?)というものを組織していて、毎年秋に交流セミナーを開催していた。
〇当時は、孝橋正一著『社会事業の基本問題』が一世を風靡していて、それを読まないものは社会福祉系大学の学生たる資格なしという勢いであった。私は、それを読んだが、どうもおかしいと感じた。貧困問題は単なる経済的貧困問題だけでなく、様々な生活のしづらさがあるのに、それをすべて資本主義のなせる業であるかのような論述は受け入れがたいものであった。
〇そんな状況の中、「社会福祉系大学学生ゼミナール」が大阪社会事業短期大学を当番校にして大阪の夕陽丘でおこなわれることになった。近くのお寺に寝泊まりしてのゼミナールであった。
〇その折、大阪社会事業短期大学の卒業生で、大阪市の職員であり、西成地区を担当している細川順正さんに、日本三大ドヤ街(山谷、横浜寿町、釜ヶ崎)の一つである釜ヶ崎を案内して頂けることになった。
〇細川さんは、これから私がご馳走する「火薬飯」を食べたら西成を案内してくれるという。「火薬飯」って何ですかと聞くと、関東の五目飯のことだという。出された「火薬飯」は脂ぎった炒飯のようなもので、とても美味しいとは言えない代物であったが、西成を案内して欲しさに食べた。食べ終わると、細川さんは今あなたが食べた「火薬飯」は他の人たちが残した残飯を炒め直したもので、多くの西成の日雇労働者の常食だと説明してくれた。胃から戻しはしなかったが、決して気持ちいいものではなかった。細川さんは、その後大分大学の経済学部の教員に転出された。

【4】
〇奇人・変人扱いを受けて入学した日本社会事業大学ではあったが、社会福祉教育の講義は正直言って面白くなかった。救われたのは、非常勤の先生方の講義科目で、高校までとは違う“ものの見方、考え方”を教えられた。
〇大学2年の基礎ゼミで、小川利夫先生のゼミを選択した。テキストはカール・マルクスの『経済学・哲学草稿』であった。この本の輪読は、社会科学的思考というものがどういうものであるかということと、人間とは何か、人間性とは何か等いろいろ考える機会が与えられた。
〇3年時の専門ゼミでも小川利夫ゼミを専攻し、コンドルセ著、松島鈞訳『公教育の原理』(明治図書出版)を読んだ。コンドルセの思想を学ぶ中で、フランスの自由、平等、博愛の位置づけを考える機会となり、福祉教育の重要性に気が付く。
〇これ以降、小川利夫先生に師事し、研究者の道に進むが、小川利夫先生は面と向かってよくやったとは褒めてくれなかった。ただ、一度だけ褒めてくれたのは私が日本社会福祉学会の公選理事に選出された時、“おまえの社会教育と社会福祉の学際研究が認められた”と言ってくれた時だけである。
〇小川利夫先生の偲ぶ会の時(2007年10月28日)、北田耕也先生(小川利夫先生の東大教育学部時代の学友、明治大学教授。筆者が日本社会事業大学の学長に就任した時、宮原誠一研究室からはじめて学長が出たのは嬉しいと、お祝いにお酒の角樽を届けてくれた)等から”小川さんはあなたを褒めていたし、自慢もしていたよ“と打ち明けられたが、小川利夫先生は私が日本社会事業大学の学長に選ばれた時、報告に行ったら、寝たきりの状態で、”お前のようなバカが学長になるとは世も末だ“と言われ、奥様がいろいろとりなしても、”バカはバカだ“と言い張られた。
〇そんなことがあっても、私の人生、研究者生活は小川利夫先生との出逢いがなければ今日の私は存在しない。
〇エピソードは沢山あるが、一つだけ紹介したい。1970年度に東京都教育庁の委託を受けて、三鷹市勤労青年学級を核とした青年調査が行われた。それを手伝ったこともあり、1971年版の『子ども白書』に400字原稿用紙15枚の原稿を書く機会が与えられた。テーマは「労働と教育」であったが、なんと6回も書き直しを命じられた。それまで三鷹市勤労青年学級の実践報告書である『青年学級の視点』には実践報告書を書いてきたけれども、公刊・販売される本への執筆は初めての機会で、論文を書く厳しさをいやというほど訓練された。
〇小川利夫先生からは、例え小論文でも必ず理論的課題を一つは提起しろ、単なる調査報告では駄目だと口を酸っぱくして鍛えられた。その予兆は、先の基礎ゼミで取り上げた『経済学・哲学草稿』に関して小論文を書けと言われた宿題を出した時、私が書いたものへの評価は“これは論文ではありません。作文です”という評価であった。
〇小川利夫先生の研究指導については、拙稿「『硯滴』に学ぶー不肖の弟子の戯言と思い」(『小川利夫社会教育論集第8巻 社会教育研究四十年―現代社会教育研究入門』(亜紀書房、1992年)を参照してください。

(註3)
〇小川利夫先生は、2007年7月21日に逝去された。享年81歳であった。後日開かれた小川利夫先生の偲ぶ会で述べた「お別れの辞」である。「小川利夫先生を偲ぶ――強靭な理論とおおらかな人柄に思いを馳せて」所収「お別れの辞」

(註4)
「小川利夫語録」

(註5)
〇社会科学の学びということで、筆者が東大大学院の時代、小川利夫先生や後述の小川正美先生、大学院の黒沢先輩(後の長野大学教授)らと毎月「マルクス・エンゲルス全集」(大月書店)、「レーニン全集」(大月書店)の輪読会を筆者の下宿先である世田谷区烏山の8畳間でおこなった。近くの魚屋に大皿の刺身盛りを頼んでおいて、輪読会が終わると毎回酒盛りで談論風発の気炎をあげた

【5】
〇日本社会事業大学在学中での出逢いで忘れられない先生がいる。都立大学の先生で、日本社会事業大学に非常勤で来られていた教育学の山住正巳先生(後の都立大学総長)である。
〇山住正巳先生は、小川利夫先生や堀尾輝久先生(後に東京大学教授)等の先生と交遊があり、飲み仲間であり、教育科学研究会の中核的メンバーであった。私は、小川ゼミで教育学にも関心を寄せていたので、当時、月刊雑誌『教育』(国土社)に連載されていた勝田守一先生(戦後教育学の3Mと呼ばれた一人。東大教育学部社会教育学の恩師の宮原誠一、東大教育学部教育行政学の宗像誠也、東大教育学部教育哲学の勝田守一の3人)の論文を輪読・研究する「日本社会事業大学教育科学研究会」を立ち上げ、学友と毎月勉強会をしていたが、なんと山住正巳先生は手当も交通費も出ないのに、その研究会に参加してくれ、指導してくれた。それどころか、時には自宅にまで呼んで頂いて、小児科医の奥様の手料理でもてなしてもくれた。
〇山住正巳先生には、東大大学院教育学研究科の勝田守一先生の教室に進学しろと勧められたが、地域づくりの実践に関する関心もあって、宮原誠一先生の門を叩くことになった。
〇人の出逢いとは面白いもので、恩師の宮原誠一先生の次男宮原伸二先生(東北大学医学部出身の医師で、秋田県象潟町、高知県西土佐村で地域包括ケアのさきがけの実践をされた医師)と1990年代後半に出会った。宮原伸二先生は、当時、岡山県の旭川荘の医師で、その後川崎医療福祉大学教授になるが、筆者も川崎医療大学大学院の非常勤講師をしたこともあって、意気投合し、岡山県医師会の包括ケア研究会とかで全国地域包括支援センター協議会の会長をされた青木医師も交えて、岡山でよく飲んだ。
〇山住正巳先生からは、都立大学に社会福祉学科が開設されるときにも来ないかと声を掛けて頂いたが、それも叶わなかった。
〇山住正巳先生は、筆者の最初の単著『地域福祉の展開と福祉教育』(1986年、全社協出版部)を上梓した際、恵贈させて頂いたが、その時に筆者が「まえがき」で、“本書は 学術論文というよりも実践的研究書という方が当たっているかもしれない”とやや卑下したものの言い方をした記述部分に触れ、“空理空論的学術書”より、“実践的研究書”の方が大事で、教育学や社会福祉学の研究方法について心得違いをしているのではないかと厳しく諭された。この指摘は、私の研究方法、研究姿勢に大きな影響を与えた。

【6】
〇日本社会事業大学在学中の出逢いで忘れられない人物の一人が長野県下伊那郡阿智村の岡庭一雄さん(当時公民館主事、その後、村長になり、住民参加の手作りの村づくりを16年間務めた)である。
〇1966年2月に、小川利夫先生が講演する機会に同道させて頂き、阿智村教育委員会で日本社会事業大学の実習をさせて頂いた。その後、約2か月かけて、長野県下(喬木村、松川町、茅野市、中野市、須坂市、山之内町)の社会教育主事を訪ね、実習をさせて頂いた(この件は、「老爺心お節介情報」第68号に書いてあるので参照)。
〇この実習で学んだことは①保健、医療、社会福祉、社会教育の連携が地域づくりには必要なシステムであること、②住民の意識変容は、“上から目線”での高邁な理論の学習ではなく、実際生活に即した文化的教養を高める(社会教育法第3条)ことが必要であり、重要であるということに気付かせてもらったことである。
〇筆者は、阿智村で実習の後、喬木村教育委員会の社会教育主事の島田修一さん(後の東大教育学部助手、中央大学教授)の下で実習をさせて頂いた。島田修一さんがその後不当配転になり、社会教育主事を追われるが、その撤回を求めて闘争に入り、その支援のために喬木村にはよく通ったものである。
〇喬木村での実習の際には、同じ喬木村教育委員会の小原玄祐さんの曹洞宗・淵静寺に泊めて頂いた。奥様の小原道子さんには本当にお世話になった。
〇実習の時ではないが、東大大学院時代(月に1回程度の割合で、夜行列車に乗って、喬木村を訪ね、青年団や婦人会(当時)の学習会に参加していた)に淵静寺に泊まった際、戦前の華族であり,礼法小笠原流家元の小笠原忠統先生(当時、長野県立松本図書館長、後に相模原女子大学教授)と一緒になることがあった。何かの折に、私に座右の銘をあげようと小笠原先生と小原玄祐さんとが話をされ、「自未得度先度他」(じみとくどせんどた)という道元禅師の教えの「修証義」第4章に出てくる一節を「座右の銘」にして生きろと諭された。それ以来、私はこの語句を「座右の銘」としてきた。
〇小笠原忠統先生は手紙を巻紙でくれる先生で、その後相模女子大学に来ないかと招聘を受けたが、その時には女子栄養大学に助手の採用が決まっていたので、お断りをした。

【7】
〇日本社会事業大学4年の時に、小川利夫先生の紹介で、三鷹市教育委員会の小川正美先生と出会うことになる。
〇小川利夫先生と小川正美先生との出会いは、東京学芸大学で行われていた「社会教育主事養成課程」での講師と受講生の関係が始まりであるが、お二人とも「三多摩社会教育研究会」に所属し、肝胆相照らす仲になる。
〇小川利夫先生は、日本社会事業大学の学生で生活困窮の学生にアルバイト的味合いも含めて、小川正美先生が担当している三鷹市勤労青年学級(前身は三鷹市青年実務学校)の講師補佐の名目で送り込んでいた。
〇筆者もその一環で、1966年度(学部4年生)から講師補佐になり、1967年度からは勤労青年学級の社会コース担当の講師に任命される。
〇1967年度の勤労青年学級の実践報告を『青年学級の視点』として出すので論文を書けと言われ書いた。自分が担当する「社会コース」の実践記録だけでなく、勤労青年学級のあり方、考え方についても書けといわれ、苦労しながら書いた。この作業を通じて、実践において講師なりの「実践仮説」が重要であるし、学習者理解が欠かせないことを訓練させてもらった(「老爺心お節介情報」第62号の「我が青春譜―東京都三鷹市勤労青年学級での10年間の学びと交流」を参照)。

【8】
〇その他在学中で出逢った方々で忘れられない方は、三浦三郎先生と渡部剛士先生である。
〇学部4年の夏(1966年8月)、小川利夫先生に、“大橋君をよろしく”と一筆書いて押印した名刺を頂いて、山形県社会福祉協議会の渡部剛士先生(日本社会事業大学の卒業生、第2次世界大戦での特攻隊(?)の生き残りの方。山形県民謡「最上川舟歌」を朗朗と謡う人。後に事務局長、更には東北福祉大学教授)と三浦三郎先生(戦前の社会事業主事、東京の下町にあるセツルメントハウス興望館の主事、戦後秋田県社会福祉協議会の事務局長)を訪問した。
〇三浦三郎先生には、自宅に泊めて頂き、竿灯まつりまで見学させて頂いた。その後も、いろいろな機会に指導を賜った。また、その後私が日本社会事業大学の教員となり、秋田県に招聘されるたびに、毎回最前列に陣取り、講演を聞いてくれ、終わると講評をして育ててくれた。
〇渡部剛士先生には、山形県田麦畑地区の実践や上山市中川地区の中川福祉村の実践を教えて頂いたり、全社協の「地域福祉計画」委員会の同じ委員として、市町村社協のあり方について教えて頂いた。

(2025年9月7日、白露の日に記す)

 


 

大橋謙策研究 第10
「そのときの出逢いが」―私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い―

発 行:2025年9月7日
著 者:大橋謙策
発行者:田村禎章、三ツ石行宏
発行所:市民福祉教育研究所

 


大橋謙策/大橋ブックレット 第2号:日韓地域福祉学術交流30年―日韓国交60周年から平和共生の未来に向けて―

 

한일 지역복지 학술교류 30년

―- 한일 국교정상화 60주년과 평화공생의 미래를 향하여―

大橋謙策

시민복지교육연구소

 


 

【その1】

〇立秋が過ぎたというのに、いまだ酷暑が続きます。皆様にはお変わりなくお過ご
しでしょうか。
〇私の方は、7月は各地のCSW研修で東奔西走しましたが、8月に入り、お盆までのんびりと過ごせ、英気を養うことができました。毎日の家庭菜園、庭木への水やりをする他には、週2回ほど地域の囲碁クラブに出かけ、対局を楽しみました。
〇また、このところ筋力の衰えを実感していましたので、8月より近くの民間のスポーツジムNASの会員になり、機器を使って筋力トレーニングを始めました。80歳の筋力は、20歳代の半分だといわれていますので、“年寄りの冷や水”かもしれませんが、チャレンジしたいと思っています。通うのが楽しい日々になりました。
〇8月20日から22日まで、ソウル特別市社会福祉協議会の金玄勲会長(日本社会事業大学の学部、大学院での教え子)の招聘により、韓国・ソウル市を訪問することになりました。
〇当初は、拙著『地域福祉とは何か』を金玄勲さんがハングル語に翻訳してくれ、その出版記念会への招聘でしたが、20年振りくらいに日韓地域福祉学術交流をしようということになり、日本地域福祉研究所からも田中英樹副理事長や原田正樹日本福祉大学学長なども参加されることになりました。
〇学術交流としての訪韓は久しぶりなので、今回の訪問では、金成垣・金圓景・呉世雄編著『現代韓国の福祉事情』(法律文化社、5700円)を読んで、学習していきました。その本を読んでの私の韓国理解の概要を下記にまとめてみましたのでご参照ください。
〇今日は、終戦後80年の節目の日です。今、日本では「排外主義」の主張が高まっていますが、今年は「日韓国交正常化60周年」ですし、「村山談話」発出30周年です。
〇改めて、日本が戦前の軍国主義の時代に行った様々な蛮行に思いを致し、蹂躙された国の方々の辛い、悲しい思いに心を寄せ、二度とあのような蛮行の過ちを繰り返さないためにも国民レベルの平和友好交流を強めたいとしみじみと思いますし、誓いました。
(2025年8月15日、終戦の日に平和共生を祈念して)

Ⅰ 韓国の社会福祉の現状

〇筆者が韓国と学術交流していたのは、1990年代後半のアジア通貨危機の時代から2008年の韓国の介護保険である長期療養保険制導入時代である。
〇1990年代後半に、日本地域福祉研究所を中心に「韓日地域福祉実践研究セミナー」をソウル市、大邱市、釜山市、光州市などで開催してきた。
〇また、日本社会福祉学会会長、日本地域福祉学会会長時代の2000年初頭には学会の学術交流協定や日本介護保険制度に関わる学術交流をしてきた。
〇今回の訪韓は、学術交流としては久しぶりで、この20年間近い期間に韓国の福祉事情が大きく変化してきていることを『現代韓国の福祉事情』を読んで実感した。
〇『現代韓国の福祉事情』の編著者である、東大教授の金成垣先生の論文は大変参考になった。
〇金成垣先生の学説は、韓国の社会福祉・社会保障は、資本主義先進国で確立した従来の「福祉国家」体制ではなく、新しい「社会サービス国家」ともいえるもので、「社会保険でない制度」、「準普遍主義」に基づく政策が展開されているのだと指摘している。それを可能にさせているのが、「総合社会福祉館」、「老人福祉館」、「障害者福祉館」で、そこを拠点に地域福祉活動が展開されているのが特色だとも指摘している。
〇筆者は、日本地域福祉学会会長の時代(2000年代初頭)に「地域福祉実践・研究に関する日本と韓国の学術交流協定」を締結したが、相手の韓国の学会名は「韓国地域社会福祉学会」である。
〇韓国は、その当時、市町村の権限、役割も弱く、市町村社会福祉協議会の位置づけも法的にはない状態だった(韓国の市町村社会福祉協議会が法制化されたのは、確か2021年?)。
〇筆者は、地域福祉における日本との比較研究をする枠組の要は、「総合社会福祉館」等のセツルメント実践の流れである地域福祉施設が重要なのではないかと指摘してきた(ただし、「総合社会福祉館」の設置は人口10万人に1か所が目安)。
〇日本でも、近年の「地域共生社会政策」の中で、子ども、障害者、高齢者を問わず誰もが通い、集い、時には泊まれる全世代対応型の「小さな拠点」の設置の必要性がうたわれ、既に高知県などにおいて「ふれあいあったかセンター」の実践が、限界集落、人口減少地域で大きな成果を上げていることを考えると、韓国の「総合社会福祉館」や農村部の「マウル館」等と日本の「小さな拠点」施設との比較をしつつ、地域住民のインフォーマルケアをどう位置付けるかの比較研究をする必要性がある。
〇いずれにせよ、金成垣論文を読んで、日韓地域福祉比較研究の枠組みが大変明確になった。
〇ただ、金成垣先生は、従来の社会保障関係の学説である“現金給付とサービス給付は代替関係にある”という学説に囚われず、韓国では現金給付とサービス給付との関係は代替関係ではなく、補完関係にあると考え、新しい「社会サービス国家」という考え方を打ち出した。その在宅福祉サービス(韓国では在家老人福祉事業)を「総合社会福祉館」等で現物給付する形で提供しているのが特色だと指摘している。
〇金成垣先生の学説は、日本の在宅福祉サービスの開発、研究を牽引してきた三浦文夫先生がイギリスのティトマス等に学び、貨幣的ニーズでは対応できない非貨幣的ニーズの必要性が都市化、工業化、核家族化の中で生活ニーズとして登場してきており、その対応が必要であると論述してきたことや江口英一先生が1960年代の不安定就業層に対する地方自治体での福祉サービスの整備が必要であると論述した考え方との関りや整合性を改めて検討する必要があるのではないかとの感想を持った。
〇日本では、現在、1960年代末から指摘されてきている「新しい貧困」の問題がより深刻化し、生活のしづらさを抱えている家庭の生活技術能力や家政管理能力などへの支援の必要性が増大してきているし、かつ、「ひきこもり」と称される人が246万人にいると推計され、孤立・孤独問題が深刻化している。更には、一人暮らし高齢者、一人暮らし障害者の増大に伴うそれらの人々の身元保証問題、入退院支援、終末期支援、死後対応サービスの必要性が喫緊の大きな課題になってきている。
〇これらの問題も含めて、韓国の「社会サービス国家」論と日本の「地域共生社会政策」との比較研究が必要だと思った。
〇『現代韓国の福祉事情』に基づき、日本との比較の視点も入れて韓国の福祉事情の特色、特徴を述べるとすれば、以下の点を挙げることができる(概要で述べる内容は、『現代韓国の福祉事情』の中に書かれていることで、一つ一つ引用個所を明示するのは煩瑣になるので省略させて頂いた。ご了承頂きたい。なお、日本の記述は筆者の考えである)。

➀韓国は、人口が2022年時点で5169万2000人、2000年に高齢者人口比率が7%になり、高齢化社会になった。2017年には高齢者人口が14%を超え、高齢社会になっている。日本以上に速いスピード(日本は24年で到達)で高齢化が進んでいる。
子どもの合計特殊出生率は、OECD諸国の中で最低の0・78(2022年)で、日本の1・26よりはるかに低い。
韓国では、高学歴化における受験戦争の激化、ソウル一極集中における住宅難、不安定就業による生活の見通し不安等の要因が影響して少子化が改善されていない。

➁韓国では、就業形態別の雇用保険の加入率が、正規労働者で78・1%、非正規労働者で44・4(2019年)と低い。かつ、不安定就業層が多く、臨時雇用者の割合が2019年で24・4%、かつ自営業者の割合が24・9%と多く、「福祉国家体制」の下になる正規の常用雇用者による社会保険制度の成熟度が進んでいない。
韓国では、1999年に「国民皆保険・皆年金」体制が実現したが、2015年時点で、非正規労働者の年金加入率は37・0%、医療保険は43・9%、雇用保険は42・1%である。
日本では、高齢化社会に入った1970年前後に、急激な都市化、工業化、核家族化の中で、家族が高齢者を経済的に扶養できず、かつ年金も未だ成熟していていない時代であったこともあり、国が低所得層の高齢者に「老人福祉手当」を支給したことと同じように、韓国でも社会保険だけでカバーできない部分を国が税金によってサービスを現物給付する形態で賄っている。

➂日本の公的扶助制度である生活保護制度に該当するのが、現行の韓国では2000年10月に施行された「国民基礎生活保障制度」である。
韓国では2022年までは、「扶養義務者基準」が厳しく(扶養義務者の所得(年収1億ウオン以上)、および資産(保有不動産価格9億ウオン以上)があれば扶養義務基準を適用)、適用されていた。
他方、勤労能力のある貧困者には、多様な働く場としての自活事業が用意されているし、創業教育、機能訓練及び技術・経営指導等の創業支援、自活に必要な資産形成支援等が展開されている。
この自活事業の多様なプログラムは、韓国で2007年に制定された「社会的企業育成法」に基づき育成支援されている「社会的企業」、「協働組合」、「マウル企業」、「ソーシャルベンチャー企業」の取組とも関わっていて、「自活企業」だけでも2021年時点で997企業が経営されている。
日本では、生活困窮者などに対する支援で、“一般就労”支援が中心になっているが、韓国のように、新しいプログラムを開発しながらの支援は日本でも大いに参考にすべきである。
韓国では、このような状況もあり、社会福祉士養成カリキュラムに「プログラムの開発及び評価」、「社会福祉資料分析論」が取り入れられている。かつ、「総合社会福祉館」には、社会福祉士が義務設置化されていて、外部資金の獲得や地域資源の開発・連携に取り組んでいる。
筆者、コミュニティソーシャルワーク研修において、「問題解決プログラムの企画立案」や「地域福祉・地域包括ケア基本情報シート」の作成を取り入れているが、考え方は全く同じである。日本の社会福祉士の養成カリキュラムが“時代錯誤”なのである。

➃韓国では、「長期療養保険制度」がドイツ、日本に学び2008年7月から導入された。
しかしながら、日本で2006年に始められた介護予防事業は制度化されていない。
韓国の介護予防事業は、全国に357か所あり、300万人の会員を擁している「老人福祉会館」で展開されている。その活動を支える従事者が14000人配置されている。
日本では、1990年代に全国社会福祉協議会が主導して全国各地の市町村社会福祉協議会が「住民参加型福祉サロン」を創設し、活発な活動を展開していた。
しかしながら、2000年の介護保険制度の実施の際に、国民の理解を得るためか、福祉サロンに通う高齢者も介護保険制度のデイサービスを利用できるようにしたことにより、「住民参加型福祉サロン」は衰退していく。
ところが、介護保険財政が厳しくなると、2006年に介護予防事業制度を導入し、再度「住民参加型福祉サロン」を推奨させるようなシステムを作り出す。
韓国では、一貫して介護予防は老人福祉館で行われている。老人福祉館は、1989年にモデル事業として取り組み始められた。
老人福祉館の基本事業は、「生涯教育支援事業」、「趣味余暇支援事業」、「相談事業」、「情緒生活支援事業」、「健康生活支援事業」、「社会参加支援事業」、「危機および独居高齢者支援事業」、「脆弱老人保護連携網構築事業」の7つである。
選択事業としては、「敬老堂革新プログラム」、「高齢者住居改善事業」、「雇用および所得支援事業」、「家族機能支援および統合支援事業」、「地域資源の開発と連携、高齢者権益増進事業」の5つがある。
この老人福祉館は「地域食堂」の機能も持っており、安価な3000ウオン程度で利用でき、かつ生活困窮者には無料で昼食が支給されている。
老人福祉館の個人の利用料は3か月で2万ウオンから4万ウオン程度である。老人福祉館の運営費は、市区町村からの補助金の他、共同募金、協賛会費などで賄われている。

➄日本でも「離別によるひとり親世帯における非養育者の養育費不払い問題」は深刻で、母子家庭における養育費を支払っている非養育者の比率は28%と言われている。
韓国でも同じような問題を抱えており、2014年に「養育費履行確保法」が制定され、かつ2020年からはそれがより強化され、「行政制裁として、運転免許停止処分及び出国禁止、身元公開(氏名、年齢、職業、住所、養育費債務不履行期間、養育費債務額)」が規定され、かつ刑事罰まで法制化された。
日本でも、行政が代執行して養育費を支払わせる制度の確立が望まれている。

➅日本では、2023年5月に「孤独・孤立対策推進法」が制定され、孤独問題担当大臣を設置するほど孤立・孤独問題は深刻化している。
筆者が、孤立・孤独問題に関心を寄せたのは、旧自治省系の自治行政センターの依頼を受けて、「行政とボランティア活動との関係に関する調査研究」で、三浦文夫先生とヨーロッパ諸国を訪問した1982年である。
その際、スウエーデンを訪問したが、スウエーデンのソーシャルワーカーが日本の老人クラブの実践を学びたいと話をした。その理由が、スウエーデンではその当時、高齢者の孤立・孤独問題が深刻で、日本の老人クラブ活動に学びたいということであった。
当時の日本の老人クラブへの加入率は75%程度(現在は17%程度)あり、地域の老人たちがクラブ活動をすると同時に、地域の一人暮らし老人たちへの友愛訪問活動をしていることを参考にしたいという話であった。
その後、イギリスでは2018年に孤独担当大臣を設ける等、ヨーロッパ諸国での孤立・孤独問題は深刻化していった。
韓国では、2020年3月に「孤独死予防法」が制定された。これに先立つ対策として、2007年に「老人福祉法」が改正され、独居高齢者支援が法定化された。
2020年には、「老人個別型統合サービス」に統合整理され、安全支援、社会参加、生活教育、日常生活支援という「直接サービス」、生活用品支援、住居改善、健康支援等の「連携サービス」、孤立型グループ、抑うつ型グループへの「特化サービス」の業務が展開されるようになった。
「老人個別型統合サービス」の実施機関は2023年時点で全国681か所あり、その中で「特化サービス」を実施している機関は191か所である。
「老人個別型統合サービス」の実施機関には、専担社会福祉士と生活支援士が配置され、対象者選定とケアマネジメント及びソーシャルワーク機能を担当している。

➆韓国では、日本以上に少子化が進んでおり、労働力をカバーするために、日本以上に外国人労働者を受け入れている。2022年末現在で、韓国の在留外国人は224万59912人で、全人口の4・37%を占めている。
これらの在留外国人の生活支援のために、韓国では2007年に「在韓外国人処遇基本法」を制定している。また、2008年には「多文化家族支援法」を制定し、韓国の社会福祉事業による福祉的支援に法的根拠を持たせることになった。
「多文化家族支援法」では、多文化家族に対する理解促進、生活情報の提供および教育支援、家庭内暴力被害者に対する保護・支援、医療および健康管理のための支援、多言語によるサービス提供および「多文化家族向け総合情報コールセンター」の設置・運営、外国人支援を行っている民間団体への支援等が定められている。
これらの法律でいう「在韓外国人」とは、韓国の国籍を持たないもので、韓国に居住する目的で合法的に滞在している者、「結婚移民者」とは、韓国の国民と婚姻したことがある者または婚姻関係にある在韓外国人である。
一方、「多文化家族」とは、「結婚移民者または韓国の国籍を取得した者からなる家族」のことで、外国人夫婦のみの世帯、外国人労働者、留学生は含まれていない。しかし、近年では、多分化家族の定義を広く適用しているという。
韓国での在留外国人への政策は、日本でも学ばなければならない課題である。

➇韓国は、国連の世界デジタル政府ランキングで、1位、2位を競うレベルのデジタル化が進んでいて、日本の比ではない。
韓国のデジタル政府を推進する根拠法は、1995年制定の「情報化促進基本法」、2000年の「デジタル政府法」、2009年の「国家情報化基本法」によるところが大きい。
福祉業務に特化した情報システムとしては、2010年に「社会福祉統合電算網」によるところが大きい。
それは、社会保障基本法の中で、「社会保障の受給者の決定や給付管理などに関する情報を統合・連携して処理する情報システム」であり、それは保健福祉部(日本の厚生労働省に該当)の福祉事業の業務を電子処理する「幸福eウム」と各省庁の福祉事業業務の電子処理を支援する「凡政府」との2種類がある。
「幸福eウム」は、地方自治体福祉業務と連繋して、各種社会福祉サービスの給付や受給資格、受給履歴の情報を統合管理している。
この2つの情報管理により、国税庁や国民健康保険公団、国土交通部(日本の国土交通省に該当)等の公共機関の所得及び財産情報を活用して不正受給や死亡届の提出遅延、未提出による“受給の不正”を防止している。
また、この情報システムを活用して、申請主義のために、本来受給できるにもかかわらず申請できない人を発見・把握し、支援につなげられるようになった。
更には、2014年12月に「社会保障給付の利用、・提供及び受給権者の発掘に関する法律」が制定され、電気料金や水道料金の滞納等公共料金の滞納にも関わらず、社会福祉関係者がアウトリーチできていない世帯を発見・把握し、職員を家庭訪問させ、申請につなげられるようになった。
一般的に、ICT化は低所得者や低学歴の人の生活に及ぼす影響・効果は限定的で、ややもするとのその利活用から疎外されがちであるが、韓国では逆にそれらの人々へのアプローチの手段として活用できていることは注目に値する。
いまや、福祉サービスへの福祉アクセシビリティがぜい弱な人々を発見・把握するために活用する情報は、通信費滞納、金融債務滞納、健康保険料滞納等にまで広がり、44種類にも上っている。

➈「マウル館」は、“地域社会の中心地として機能し、街の集まり、地域の市場、祭りなどの各種活動ができるように一定の設備を備えた建物で、一般的に多目的ホール、小さな会議室、演劇場、キッチン、トイレ、駐車場などの設備が含まれる”施設である。
「マウル館」(韓国語辞書では、マウルとは主に田舎でいくつもの家が集まって住むところと定義されている)は、1970年代のセマウル運動のセマウル会館として全国的に設置されていったが、現在は行政上の明確な管理主体がない状態である。
現在、「マウル館」は、全国に36792か所設置されており、自宅から「マウル館」まで10分以内の距離に設置されている村が95・5%である。距離的アクセシビリティはすこぶるいい。
「マウル館」は、1階建ての単独建物が多く、「敬労堂」と複合的に運営されているところが多い。
「マウル館」でも「地域食堂」としての機能を有しており、一日1回の食事提供が最も多く、69・3%、一日に2回の食事提供するところが22・3%である。
「マウル館」の運営は、里長(自治会長)が最も多く68%、老人会長が運営するところが24・1%である。
食事の提供に関わる経費は、住民たちが分担するが30・6%、「マウル運営資金の支援」が28・3%、「政府と自治体の支援金」が19・8%である。
農村地域の高齢化率は2020年時点で46・8%となっており、冬の期間、各自の自宅で暖房をつけるのには経費が掛かるが、「マウル館」に居ればそれも節約できることから、暖房施設のある「マウル館」の冬の期間における存在意義は大きい。
韓国の228自治体のうち、113の自治体が消滅危機にあるなかで、「マウル館」を拠点にしての地域づくりは、日本の限界集落との比較研究をする上で重要である。高知県の「ふれあいあったかセンター」がその比較研究する上で最適である。

➉「総合社会福祉館」は、韓国・社会福祉事業法第2条で「地域社会を基盤に一定の施設と専門人材を備え、地域住民の参加と協力を通じて地域社会の福祉問題を予防または解決するために総合的な福祉サービスを提供する施設」と規定されている。
「総合社会福祉館」は、2023年現在、全国に479か所設置されており、人口10万人当り1か所の目安で設置されている。
当初、「総合社会福祉館」は、低所得者が密集している永久賃貸住宅団地を中心に設置が進められたが、その後戸別の住宅面積が狭い住宅団地住民の生活福利のための共同の福利施設として住宅法が改正されて、設置、利用が少し変容していく。
「総合社会福祉館」は、「地域社会の特性や地域住民のニーズを踏まえた事業」、「官民の福祉サービスを連携した事例管理事業」、「地域の福祉共同体の活性化を目指した福祉関連の資源管理や住民教育」、「住民組織化等に関する事業」等が社会福祉事業法第34条の5に規定されている。
利用対象者は、社会福祉館の位置する地域のすべての地域住民となっているが、特に国民基礎生活保障の受給者や生活困窮者、障害者、高齢者、一人親家庭、多文化家庭、保護と教育が必要な幼児・児童・青少年、その他緊急支援が必要と認められるものが優先されると社会福祉事業法34条の5で規定されている。
全国の社会福祉館479巻のうち、社会福祉法人運営が約7割(338か所)、次いで財団法人、社団法人は都築、地方自治体の運営もある。
社会福祉館は、その建物の大きさにより「ガ型」、「ナ型」、「ダ型」に分けられている。
その運営費はおおむね年間予算が10~30億ウオンである。
社会福祉館の専門人財の配置は、「事例管理」、「サービス提供」、「地域組織化」、「行政及び管理」を実施しているかどうかと、その設置されている地域が「特別市」、「広域市」、「特例自治市・道・特例自治道」の違いによっても配置される人材数が異なる。
韓国の「総合社会福祉館」の源流は、1906年アメリカの宣教師・メソジスト教会の女子宣教師であったメリー・ノールズが始めた元山での隣保館運動で、その拠点が「班列房(バンヨルバン)」であった。その後、キリスト教関係者や大学関係者によって「社会福祉館」は作られていく。
「総合社会福祉館」としての制度化は、1983年に社会福祉事業法が改正され、社会福祉館への財政支援と地域住民の利用施設としての位置づけが規定されてからである。
韓国では、1998年に社会福祉士1級国家試験制度が実施され、今では社会福祉館の採用条件に社会福祉1級を条件としているところがほとんどである。

Ⅱ 韓国で2026年3月から実施される『医療·介護など地域ケアの統合支援に関する法律(ケア統合支援法)』の概要――韓国・崔太子さん提供資料

初出:老爺心お節介情報/第73号/2025年8月15日


 

【その2】

〇酷暑は相変わらずですが、蜩やつくつく法師など、秋の気配をもたらすセミの鳴き声が聞こえるようになったと思ったら、それもすぐに聞こえなくなり、本当に異常な気候です。二十四節季の「処暑」を過ぎました。秋が待ち遠しいですね。皆様にはお変わりなくお過ごしでしょうか。
〇「老爺心お節介情報」第73号でお伝えしましたように、8月20日から22日まで、韓国の関係者に招聘され、ソウル特別市社会福祉協議会、韓国社会福祉協議会を訪問したり、「日本の地域福祉の碩学たちに“地域統合ケア”の路を問う」という韓日地域福祉学術講演会に参加してきました。
〇1990年代後半から2010年頃までは、毎年の如く韓国を訪問していたのですが、今回は久しぶりの学術交流の訪問でした。
〇今回の訪韓では、韓国社会福祉協議会会長金聖二先生(元韓国社会福祉学会会長、筆者が日本社会福祉学会会長の時、日韓学術交流協定した際の韓国学会の会長)、ソウル特別市社会福祉協議会会長金玄勲さん(日本社会事業大学の学部、大学院の教え子)、韓国在家老人福祉協会会長の趙南範さん(1997年の第1回の韓国地域福祉実践研究セミナーの際からの協力・支援者)、そして日本社会事業大学の大学院で博士の学位を取得した崔太子さん(韓国で在宅福祉サービス事業所を経営している会社の社長)をはじめ、多くの方々にお世話になりました。この紙上を借りて、改めて心よりお礼を申し上げます。
〇元国立光州大学の教授で、韓国社会福祉学会の会長をされた李英哲名誉教授も光州から駆けつけてくれましたし、私が日本社会事業大学の大学院研究科長をしている際に学位授与した厳基郁さんも国立群山大学総長になっていて、忙しいのに駆けつけてくれました。
〇日本からは、日本地域福祉研究所副理事長の田中英樹先生、日本福祉大学の原田正樹学長、全社協地域福祉推進委員会委員長の越智和子さん、文京学院大学の中島修先生、大正大学神山裕美先生、立命館大学呉世雄先生等総勢10名が参加しました。
〇2000年頃に日本で流行っていた「団子3兄弟」という歌がありましたが、それに倣って、かつて三浦文夫、愼ソプチョン(元韓国・国立釜山大学教授、元韓国社会福祉学会会長)、大橋謙策を旧「団子3兄弟」、大橋謙策、金聖二、李英哲を新「団子3兄弟」と呼んで、交流を深めていたものでしたが、その時の交流が思いだされ、旧交を温めることができ、とても感激しました。
〇韓国に到着した8月20日には、ロッテ・シティホテル・マッポで歓迎晩さん会を盛大に挙行してくれました。日本、韓国合わせて25名ほどの参加で、料理も美味しく、日本から持参した純米酒4合瓶、4本を楽しく空けながら、旧交を温めることが出来ました。
〇8月21日の午前中は、金玄勲さんが会長しているソウル特別市社会福祉協議会を表敬訪問しました。
〇今年で、6年目の会長職ということでしたが、着実にソウル市社会福祉協議会の活動を変容・発展させていることが実感できました。
〇第一番目に特記することは、民間企業等からの寄付者を増やしていることです。企業と一緒にイベントしたりして、日本では考えられないほど企業の社会貢献活動を引き出し、生活困窮者などの支援していることです。旧態依然の業務をしていた人たちは耐え切れず退職し、現在は殆どが1級社会福祉士の資格を有している新進気鋭の職員たちで構成されているとのことです。
〇第2番目は、職員たちと毎月1冊の本を読んで、論議をしていることです。職員の企画力、発言力が格段に成長したと言っていました。
〇第3番目には、企業などが寄付をしやすいように、今求められているニーズに合わせて問題解決プログラムを1冊にまとめ、それを持参してプログラム実現の寄付のお願いをしに、企業への売り込みを行っていることです。
〇日本の社会福祉協議会のように、行政からの補助金を期待するのではなく、自分たちが開発したプログラムをもって、企業に売り込みに行くという姿勢は素晴らしいことで、日本でも社会福祉協議会が学ばなければならない活動、姿勢だと思いました。
〇8月21日の午後は、ロッテ・シティホテル・マッポの近くのガーデンホテルで講演会が行われました。
〇当初、150名程度と考えていた参加者が200名を超える盛況で、部屋が埋め尽くされていました。
〇講演会には、韓国式の花輪が15基ほど寄せられ、会場を彩ってくれました。国立群山大学総長の厳基郁さんも花輪を出してくれていました。
〇講演会終了後には、拙著を翻訳した韓国版の『地域福祉とは何か』のサイン会をしてくれということで、汚い私の字ではと思いましたが、私が座右の銘にしている言葉を添えて40名ほどの方にサインをしました。
〇その後の懇親会は、まるで金玄勲さんの韓国社会福祉協議会会長選挙の“総決起集会”のような様相の懇親会になりました。
〇韓国社会福祉協議会の会長選挙は、各種社会福祉団体の全国組織、市町村社会福祉協議会の代表、会長から推薦・承認された個人会員、企業の代表からなる150名ほどが投票権を有しているとのことでした。11月末に、ある会場に集まり、直接投票するとのことで、日本の社会福祉協議会の会長選出とは全く異なる様相で、ある意味羨ましい光景です。韓国政治体制が大統領制なので、このような選出の仕方も韓国では当たり前なのでしょうが、日本人にとってはとても馴染みがありません。しかし、この方法も社会福祉協議会の活性化という点では日本も学ばなければならないかもしれません。日本でも、戦後初期に、公民館館長を直接選挙で選んだという歴史的実践がありました。
(2025年8月29日記)

<韓国・ソウルでの韓日交流学術講演会>

8月21日に行われた韓国・ソウルでの韓日交流学術講演会「日本の地域福祉の碩学たちに“地域統合ケア”の路を問う」では、日本側から筆者と原田正樹日本福祉大学学長が講演し、コメンテーターを韓国の車興奉先生(元韓国保健福祉部長官、韓国で長期療養保険制度を導入する際の委員長で、日本にも当時3か月滞在し、日韓比較研究をされた)と韓国の地域社会福祉学会の会長であった大邱大学名誉教授の朴泰英先生、日本側からは日本医療大学の田中英樹先生がされた。
筆者は、拙著『地域福祉とは何か』に基づき、日本での地域福祉実践・研究の系譜とその考え方、システムなどを中心に話をした。原田正樹先生は、現在推進されている「地域共生社会政策」の重層的支援体制整備事業について話をされた。
筆者の講演の内容は、以下に掲載したとおりである。7月の初めに講演のレジュメを作成して韓国へ送ったあと、日本の地域包括ケアの歴史、現状について知りたいという韓国側の要請を受けて、別途「参考資料」を作成した。したがって、当日の講演は、講演のレジュメと後日送った参考資料とをミックスしたかたちで講演することになった。そのレジュメの分量は多いので、ここでは割愛し、韓国で話をした当日の内容の柱建てを以下に掲載しておきたい。
講演では「老爺心お節介情報」第73号で紹介した韓国の現状との比較も交えて話をした。

Ⅰ 「地域福祉」の概念――理念、目的

地域福祉とは、住民の身近な基礎自治体である区市町村を基盤に、在宅福祉サービスを整備し、障害者、子ども、高齢者を属性分野に分けず、全世代対応型で、地域での自立生活(労働的・経済的自立、精神的・文化的自立、身体的・健康的自立、家政管理的・生活技術的自立、社会関係的・人間関係的自立、政治的・契約的自立)を支援するという目的を具現化することである。
地域での自立生活支援においては、地域住民のエネルギーがプラスにもマイナスにも働くので、地域のヴァルネラビリティのある人に対する差別、偏見、蔑視を取り除き、排除しがちになる地域住民の社会福祉意識改革への取り組み(福祉教育)とそれらヴァルネラビリティのある人々を包含し、支援するという個別支援を通して地域を変えていくという住民参画型の福祉コミュニティづくり、ケアリングコミュニティづくりである(「ボランティア活動の構造図」参照)。

Ⅱ 日本の社会福祉界における「異端」から「正統」へ――「地域福祉」の歴史的位置

筆者の「地域福祉とは」何かは、日本でも「地域福祉」は永らく社会福祉学界、実践現場で“異端”、”亜流“扱いだったのが、今やそれが正統になり、国の政策の主流になっていること、また、日本では1990年まで実質的にソーシャルワーク機能を展開できておらず、漸く2000年代に入り、在宅福祉サービスが”主流化“する中で、ケアマネジメントを活用したソーシャルワーク機能が”認知“されるようになり、今ではコミュニティソーシャルワーク機能が政策的にも、実践的にも必須の要件になってきている。

①属性分野ごとの「社会福祉六法体制」(生活保護法、児童福祉法、身体障害者福祉法、精神薄弱者福祉法、老人福祉法、母子福祉法)下において、「地域福祉」は任意団体である市町村社会福祉協議会が行う「地域の福祉の向上」という意味で、戦争遺家族の支援、共同募金活動、身体障害者等の当事者団体のお世話、老人クラブのお世話等を行っていた時代で、「地域福祉」研究、実践は社会福祉学界では「異端」だった。

②演者は、そのような状況の中、1960年代以降「地域福祉と社会教育の学際研究・実践」を「異端」扱いされながら、市町村社会福祉協議会、市町村の公民館、社会教育を基盤に展開してきた。
その際、演者は市町村社会福祉協議会の職員や公民館・社会教育の職員と「バッテリー型研究」のスタイルを取って行ってきた。
「バッテリー型研究」とは、その市町村ごとに違う地域社会生活課題を分析し、その解決のあり方、システムを市町村社会福祉協議会の職員や公民館・社会教育の職員に提示して、協働してその問題解決や解決に必要なシステムを開発してきた。その上で、必要なら住民参加で市町村の「地域福祉計画」を策定するということを行ってきた。

③「地域福祉」実践・研究を取り巻く政策的環境が徐々に変わり、1984年には社会福祉事業法が改正され、市町村社会福祉協議会が法律上認知され、位置付けられた。また、1990年には、それまで社会福祉法制上位置づけがなかった在宅福祉サービスが法定化され、施設福祉サービスとは違う在宅福祉サービスの実 践・研究がしやすくなった。
在宅福祉サービスは、2000年の介護保険法、2005年の障害者総合支援法により、政策的にも、実践・研究的にも社会福祉政策のメインストリーム(主流化、正当化)になっていく。と同時に、「ソーシャルワーク」機能の重要性が重要視されるようになってくる。

④日本では、イギリスのベヴァリッジ報告(「社会保険及び関連サービスについて」)と日本国憲法第89条に基づき、戦後「福祉国家論」説がもてはやされ、社会保険も公衆衛生も対人援助の社会福祉もすべて国家が責任を取り、行うものとの考え方が強かったが、対人援助サービスとしての在宅福祉サービスが法定化されるに及んで、社会福祉は基本的に住民の身近な市町村が計画的に責任をもって行うべきという考え方が1990年の法律改正で明確になり、かつ介護保険制度の実施により、一層求められるようになった。

Ⅲ 「地域福祉」を具現化させる方法論としてのコミュニティソーシャルワーク

コミュニティソーシャルワークという用語と考え方は、イギリスで1982年に発表された「バークレイ報告」の中に登場する。その要旨は、住民とソーシャルワーカーとが協働して地方自治体の社会サービスを展開する方法である。
日本では、先に述べた1990年の「生活支援地域福祉事業(仮称)の基本的考え方について(中間報告)」(座長大橋謙策)においてはじめて厚生省の文書に登場する。
演者なりにコミュニティソーシャルワーク機能をまとめると以下の通りである。

ⅰ)地域にある潜在化しているニーズ(生活のしづらさ、生活問題を抱えている福祉サービスを必要としている人々)を発見し、その人や家族とつながる。

ⅱ)それらサービスを必要としている人々の問題を解決するために、生活問題の調査・分析・診断(アセスメント)を行い、その人々の思い、願い、意見を尊重して、「求めと必要と合意」(サービスを必要とする本人の求め、願いと専門職が必要と考えることを出し合ってのインフォームドコンセント)に基づき、問題解決方策を立案する。

ⅲ)その解決方策に基づき、活用できる福祉サービスを結び付け、利用・実施するケアプラン(サービス利用計画)をつくるケアマネジメントを行う。

ⅳ)もし、問題解決に必要なサービスが不足している場合、あるいはサービスがない場合には、新しいサービスを開発するプログラムを作る。

ⅴ)その上で、制度的サービス(フォーマルサービス)と近隣住民が有している非制度的助け合い・支え合い活動(インフォーマルケアが十分ない時にはその活動の育成・活性化を図ることも含める)の両者を有機的に結び付け、両者の協働によって、福祉サービスを必要としている人々の地域での自立生活支援を支えるための継続的対人援助活動を展開する。

Ⅳ 「地域福祉」を展開するシステムと圏域の重層化、機能の重層化の必要性

「地域福祉」を展開するシステムは、厚生労働省により定式化された行政組織が示されているわけではない。今や、中央集権的行政ではなく、地方分権、地方主権行政の時代である。演者が、日本の各市町村で社会実証的に取り組んできたシステム、考え方は以下の通りであり、厚生労働省もほぼ同じ考え方で、現在重層的支援体制整備事業を進めている。

ⅰ)「地域福祉」は、原則市町村を基盤に展開する。市町村は、住民参加の機関である「地域保健福祉審議会」を設置し、市町村の「地域福祉計画」を策定する。

ⅱ)市町村といっても、住民の生活は交通の便、地形、商店等の生活圏域が異なる。まして、合併した市町村では地域社会生活課題は大きく異なる。
したがって、「地域福祉」を展開するに当たっては、市町村を第1層、第2層、第3層という具合に圏域を重層化させることが重要である。と同時に、各層で求められる機能も層毎に異なる。
「地域福祉」の展開には、「圏域の重層化」と「機能の重層化」がポイントである。
第1層は市町村圏域で、「地域保健福祉審議会」の運営や「地域福祉計画」づくり、全体の調整機能が求められる。
第2層は、一般的に在宅福祉サービス地区と呼ばれるもので、中学校区(人口 2万弱)レベルが考えられる。日本の介護保険制度では、この中学校区レベルに地域包括支援センターを配置している。
演者は、在宅福祉サービス地区という考え方をデンマークの生活支援法、スウエーデンの社会サービスに学び、市町村を在宅福祉サービス地区に分けて、在宅福祉サービスの整備並びに提供するシステムを1980年代末に提唱する。
第2層には在宅福祉サービスに関わる専門職や施設福祉サービスを担っている専門職も多く存在しているので、個別支援における専門多機関、専門多職種連携などは第2層で展開される。
第2層では、属性分野ごとの相談窓口ではなく、全世代対応型の総合相談窓口を設置し、包括的相談体制を整備する必要がある。全国の中学校区ごとに設置されている地域包括支援センターが約5500か所あるので、ここが総合相談窓口になれば、住民の福祉アクセシビリティはとても良く機能する。
第3層は、一般的に小学校区レベル(人口約1万人)とし、福祉サービスを必要としている人を発見し、支える地域(層)である。
日本では、このレベルの地区(地域)に校区社会福祉協議会が設立されているし、この地区レベルに民生児童委員協議会が設定されている。
一般的に住民の“地域”認識は、この小学校区レベルの地域をイメージしている。
この3層において、民生・児童委員や町内会、自治会の役員、校区社会福祉協議会の役員たちがインフォーマルケアを担ってくれている。したがって、コミュニティソーシャルワーク機能でいうフォーマルケアとインフォーマルケアとの両者の有機的協働は、この第3層で展開される。
第3層では、社会福祉協議会の職員などによるヴァルネラビリティのある人々に積極的にアウトリーチして発見、つながる活動が期待されている。

Ⅴ 「地域福祉」推進における住民参加及び住民の主体形成とインフォーマルケア

「地域福祉」とは、福祉サービスを必要としている人も含めて地域での自立生活支援を目的にするので、病院の入院患者や入所型施設の利用者とは異なり、日常面での多様な近隣関係が良好でないとうまくいかない。ゴミ出しの問題、安否確認、避難行動支援等行政の力だけでは対応できない。どうしても近隣住民の協力がなければできない。まして、工業化、都市化した状況の中では、農業生産を中心とした産業構造時代のように家族に頼ることはできない時代である。
そのような中、福祉サービスを必要としている人を支える住民なのか、排除、蔑視する住民なのかが問われる。
今、限界集落、人口減少、超高齢化社会の中で求められる住民像は、「地域に生れただけでなく、生まれた地域を愛し、共に地域を豊かにしようとボランティア精神旺盛な『選択的土着民』」の養成、形成である。
従来は、この機能に深く関わってきた行政は社会教育行政、公民館であった。現在では内閣府、総務省も「まちづくり協議会」の設置を提唱せざるを得ない状況である。
市町村社会福祉協議会は、福祉サービスを必要としている人への個別支援と同時に、それらの支援が地域で支えられるような地域づくりをすることも同時に求められている(「ボランティア活動の構造図」参照)
これら、地域における住民による支援を求めれば求めるほど、住民には権利としての行政への住民参加の権限を担保する必要がある。「地域保健福祉審議会」はその一例である。

Ⅵ 地域包括(トータル)ケアシステムに関わる歴史的ベクトル

①1994年設置の岩手県遠野市「健康福祉の里」(国保診療所併設)と県立遠野病院との連携システムによる地域福祉実践のベクトルー1993年遠野市ハートフルプラン策定(『21世紀型トータルケアシステムの創造』2002年、万葉舎参照)

②2000年実施の長野県茅野市における保健・医療・福祉の複合型拠点及び日常生活圏域毎のシステムによる地域福祉実践からのベクトルー診療所を核とした通所型・訪問型サービスとインフォーマルケアとの有機化、病診連携を踏まえた診療所の併設をシステム化した保健福祉サービスセンターの創設(『福祉21ビーナスプランの挑戦』中央法規、2003年参照)

③『地域包括ケア研究会ー2025年問題』(座長田中滋、2013年)の問題提起による政策ベクトルー在宅医療連携診療所、医療と介護の連続的改革

# 生活圏域でのケアの一体的提供とその社会資源(インフォーマルを含めて)整備を地域包括支援センターを中心に構築するーー①持続的な介護サービスの充実と基盤整備、②介護と医療の連携強化、③サービス付き高齢者住宅の整備、④認知症ケアの体系的な推進、⑤介護人材の確保とキャリアアップシステムの構築、⑥地域における高齢者の孤立等への対応、⑦低所得高齢者への配慮ある展開等

Ⅶ 地域包括支援センターのモデル――長野県茅野市における地域トータルケアシステムの拠点としての保健福祉サービスセンターの設置(『福祉21ビーナスプランの挑戦』中央法規、2003年参照)

①茅野市福祉担当行政アドバイザーとして、地域福祉計画において提案・2000年より実施――人口5万7千人で、八ヶ岳山麓の広範囲の市域を4つの在宅福祉サービス地区(小学校区9地区、中学校区4地区、行政区10区)に分け、その各々に保健福祉サービスセンターを設置し、市役所内にいた福祉事務所の職員、保健課の保健師を再編成して配属。それに加えて市社会福祉協議会の職員も配属――1982年スウェーデン「社会サービス法」を参考。

②保健福祉サービスセンターには、内科クリニック、高齢者デイサービス、訪問看護、訪問介護、地域交流センターを併設。内科クリニックと諏訪中央病院との病診連携、「かかりつけ医」制度の促進。サービス供給組織は、JAや社会福祉協議会等多様。

③保健福祉サービスセンターは、子ども、障害者、高齢者の全世代に対応するワ     ンストップサービスを展開。基本的には、行政職員(ソーシャルワーカー)、保  健師、社会福祉協議会職員(ソーシャルワーカー)が3人1組でチームアプローチをする。設置1年後からは、保健福祉センターには社会福祉協議会職員を各1名増員。

④各センターへ社会福祉協議会職員(ソーシャルワーカー)を配属したのは、地域住民の福祉教育の促進、アウトリーチ型問題発見、ニーズキャッチの向上、住民のインフォーマルケア力の向上と活用の促進を図るため(年間280日地域を訪問)。

Ⅷ 社会生活モデルに基づく地域生活支援――医学モデル、入所モデルと違う

①地域生活支援では家族が果たしてきた機能、入所型施設が提供してきた機能を地域において本人の求めと専門職が必要とした判断とを踏まえた両者の合意による支援方針の決定とケアマネジメント及びサービス提供が必要

②その際に必要なアセスメントは、入所型施設でのADLを重視したアセスメント、疾病・治療における医学モデルのアセスメントではなく、社会生活モデルに基づくアセスメントが求められる
(アセスメントの大項目===生い立ち、願い等のナラティブ、労働的・経済的自立、精神的・文化的自立、身体的・健康的自立、生活技術的・家政管理的自立、社会関係的・人間関係的自立、政治的・契約的自立、住居、ソーシャルサポートネットワーク)

# イギリスでは、2016年に社会的処方(SOCIAL PRESCRIBING)という考え方が、NHSのプライマリケア領域で提唱され、全国ネットワークが結成された

Ⅸ 障害者・高齢者のための“福祉のまちづくり”から「福祉でまちづくり」及び「福祉はまちづくり」への転換

①農業の第6次産業化のみならず、障農連携・農福連携、あるいは契約栽培に基づく施設経営社会福祉法人の地産・地消経済による農業の第8次化の振興

②施設経営社会福祉法人の地域貢献と施設機能の社会化、地域化

Ⅹ 地域住民の孤立化,ソーシャルサポートネットワークの脆弱化と触媒としてのコミュニティソーシャルワーク機能

①1960年代末からの「新しい貧困」の登場と地域住民の孤立化,ソーシャルサポートネットワークの脆弱化

②1970年頃の子ども・青年の発達の歪み(人間関係・社会関係の希薄化、成就感・達成感の喪失、生活技術能力の脆弱化、帰属意識・準拠意識の希薄化、自己表現能力の脆弱化)の指摘と「生きる力」

③都市化、工業化における「家庭の孤立化」とショックアブソーバー機能の脆弱化

④都市化による「遊び場」の喪失と家屋構造の変容に伴う「中間空間」(縁側・土間・上がり框)の喪失による社会関係の希薄化

⑤「街づくり」、コミュニティデザインにおける交流機能、居場所づくりの“復活”

⑥住民活動の触媒、社会開発の触媒(物質の安定、物質の活性化、新しい物質の創造機能)としてのコミュニティソーシャルワーク機能

Ⅺ 地域包括ケアの考え方と地域共生社会への発展

①地域包括ケアの要件

ⅰ)個別ケアにおける医療・保健・介護・福祉の専門多職種連携による包括ケア

ⅱ)多問題家族・複合家族への世帯単位支援の包括ケア

ⅲ)制度化されたフォーマルケアと住民によるインフォーマルなソーシャルサポートネットワークとを有機化して、提供する包括ケア

ⅳ)単身高齢者・単身障害者等への「最期まで看取る」地域社会生活支援の包括ケア

ⅴ)福祉機器等の合理的・効率的ケアの提供による住民のQOL(生活の質)を高める包括ケア

Ⅻ 地域自立生活支援におけるICFの視点でケアマネジメントを手段として活用したソーシャルワークの展開

①価値・目的、ナラティブ(本人の生育史、願い、思い)に照らしたアセスメントの視点と枠組みとICF――福祉用具の活用とフィティング及び自立支援計画の立案

②アマネジメントにおけるサービスを必要としている人(ヴァルネラビリティ、利用しようと考えている人)へのエンパワーメントアプローチ

③ソーシャルワークにおけるニーズ対応型新しいサービス開発機能とケアマネジメント

④ソーシャルワークにおえる社会改善、ソーシャルアクション機能とケアマネジメント

⑤ケアマネジメントにおけるサービスプランニングと直接的対人援助としての伴走型ソーシャルワーク実践

*   *   *

〔レジュメ〕

〔参考資料〕

初出:老爺心お節介情報/第74号/2025年8月29日


 

大橋ブックレット 第2号
日韓地域福祉学術交流30年―日韓国交60周年から平和共生の未来に向けて―

発 行:2025年9月1日
著 者:大橋謙策
発行者:田村禎章、三ツ石行宏
発行所:市民福祉教育研究所

 


 

老爺心お節介情報/第74号(2025年8月29日)

「老爺心お節介情報」第74号

地域福祉研究者の皆様
社会福祉協議会関係者の皆様

未だ暑いですね。
今号は、8月20日~22日の韓国訪問の報告です。
皆様、ご自愛の上、ご活躍下さい。

2025年8月29日  大橋 謙策

〇酷暑は相変わらずですが、蜩やつくつく法師など、秋の気配をもたらすセミの鳴き声が聞こえるようになったと思ったら、それもすぐに聞こえなくなり、本当に異常な気候です。二十四節季の「処暑」を過ぎました。秋が待ち遠しいですね。皆様にはお変わりなくお過ごしでしょうか。
〇「老爺心お節介情報」第73号でお伝えしましたように、8月20日から22日まで、韓国の関係者に招聘され、ソウル特別市社会福祉協議会、韓国社会福祉協議会を訪問したり、「日本の地域福祉の碩学たちに“地域統合ケア”の路を問う」という韓日地域福祉学術講演会に参加してきました。
〇1990年代後半から2010年頃までは、毎年の如く韓国を訪問していたのですが、今回は久しぶりの学術交流の訪問でした。
〇今回の訪韓では、韓国社会福祉協議会会長金聖二先生(元韓国社会福祉学会会長、筆者が日本社会福祉学会会長の時、日韓学術交流協定した際の韓国学会の会長)、ソウル特別市社会福祉協議会会長金玄勲さん(日本社会事業大学の学部、大学院の教え子)、韓国在家老人福祉協会会長の趙南範さん(1997年の第1回の韓国地域福祉実践研究セミナーの際からの協力・支援者)、そして日本社会事業大学の大学院で博士の学位を取得した崔太子さん(韓国で在宅福祉サービス事業所を経営している会社の社長)をはじめ、多くの方々にお世話になりました。この紙上を借りて、改めて心よりお礼を申し上げます。
〇元国立光州大学の教授で、韓国社会福祉学会の会長をされた李英哲名誉教授も光州から駆けつけてくれましたし、私が日本社会事業大学の大学院研究科長をしている際に学位授与した厳基郁さんも国立群山大学総長になっていて、忙しいのに駆けつけてくれました。
〇日本からは、日本地域福祉研究所副理事長の田中英樹先生、日本福祉大学の原田正樹学長、全社協地域福祉推進委員会委員長の越智和子さん、文京学院大学の中島修先生、大正大学神山裕美先生、立命館大学呉世雄先生等総勢10名が参加しました。
〇2000年頃に日本で流行っていた「団子3兄弟」という歌がありましたが、それに倣って、かつて三浦文夫、愼ソプチョン(元韓国・国立釜山大学教授、元韓国社会福祉学会会長)、大橋謙策を旧「団子3兄弟」、大橋謙策、金聖二、李英哲を新「団子3兄弟」と呼んで、交流を深めていたものでしたが、その時の交流が思いだされ、旧交を温めることができ、とても感激しました。
〇韓国に到着した8月20日には、ロッテ・シティホテル・マッポで歓迎晩さん会を盛大に挙行してくれました。日本、韓国合わせて25名ほどの参加で、料理も美味しく、日本から持参した純米酒4合瓶、4本を楽しく空けながら、旧交を温めることが出来ました。
〇8月21日の午前中は、金玄勲さんが会長しているソウル特別市社会福祉協議会を表敬訪問しました。
〇今年で、6年目の会長職ということでしたが、着実にソウル市社会福祉協議会の活動を変容・発展させていることが実感できました。
〇第一番目に特記することは、民間企業等からの寄付者を増やしていることです。企業と一緒にイベントしたりして、日本では考えられないほど企業の社会貢献活動を引き出し、生活困窮者などの支援していることです。旧態依然の業務をしていた人たちは耐え切れず退職し、現在は殆どが1級社会福祉士の資格を有している新進気鋭の職員たちで構成されているとのことです。
〇第2番目は、職員たちと毎月1冊の本を読んで、論議をしていることです。職員の企画力、発言力が格段に成長したと言っていました。
〇第3番目には、企業などが寄付をしやすいように、今求められているニーズに合わせて問題解決プログラムを1冊にまとめ、それを持参してプログラム実現の寄付のお願いをしに、企業への売り込みを行っていることです。
〇日本の社会福祉協議会のように、行政からの補助金を期待するのではなく、自分たちが開発したプログラムをもって、企業に売り込みに行くという姿勢は素晴らしいことで、日本でも社会福祉協議会が学ばなければならない活動、姿勢だと思いました。
〇8月21日の午後は、ロッテ・シティホテル・マッポの近くのガーデンホテルで講演会が行われました。
〇当初、150名程度と考えていた参加者が200名を超える盛況で、部屋が埋め尽くされていました。
〇講演会には、韓国式の花輪が15基ほど寄せられ、会場を彩ってくれました。国立群山大学総長の厳基郁さんも花輪を出してくれていました。
〇講演会終了後には、拙著を翻訳した韓国版の『地域福祉とは何か』のサイン会をしてくれということで、汚い私の字ではと思いましたが、私が座右の銘にしている言葉を添えて40名ほどの方にサインをしました。
〇その後の懇親会は、まるで金玄勲さんの韓国社会福祉協議会会長選挙の“総決起集会”のような様相の懇親会になりました。
〇韓国社会福祉協議会の会長選挙は、各種社会福祉団体の全国組織、市町村社会福祉協議会の代表、会長から推薦・承認された個人会員、企業の代表からなる150名ほどが投票権を有しているとのことでした。11月末に、ある会場に集まり、直接投票するとのことで、日本の社会福祉協議会の会長選出とは全く異なる様相で、ある意味羨ましい光景です。韓国政治体制が大統領制なので、このような選出の仕方も韓国では当たり前なのでしょうが、日本人にとってはとても馴染みがありません。しかし、この方法も社会福祉協議会の活性化という点では日本も学ばなければならないかもしれません。日本でも、戦後初期に、公民館館長を直接選挙で選んだという歴史的実践がありました。
(2025年8月29日記)

<韓国・ソウルでの韓日交流学術講演会>

8月21日に行われた韓国・ソウルでの韓日交流学術講演会「日本の地域福祉の碩学たちに“地域統合ケア”の路を問う」では、日本側から筆者と原田正樹日本福祉大学学長が講演し、コメンテーターを韓国の車興奉先生(元韓国保健福祉部長官、韓国で長期療養保険制度を導入する際の委員長で、日本にも当時3か月滞在し、日韓比較研究をされた)と韓国の地域社会福祉学会の会長であった大邱大学名誉教授の朴泰英先生、日本側からは日本医療大学の田中英樹先生がされた。
筆者は、拙著『地域福祉とは何か』に基づき、日本での地域福祉実践・研究の系譜とその考え方、システムなどを中心に話をした。原田正樹先生は、現在推進されている「地域共生社会政策」の重層的支援体制整備事業について話をされた。
筆者の講演の内容は、以下に掲載したとおりである。7月の初めに講演のレジュメを作成して韓国へ送ったあと、日本の地域包括ケアの歴史、現状について知りたいという韓国側の要請を受けて、別途「参考資料」を作成した。したがって、当日の講演は、講演のレジュメと後日送った参考資料とをミックスしたかたちで講演することになった。そのレジュメの分量は多いので、ここでは割愛し、韓国で話をした当日の内容の柱建てを以下に掲載しておきたい。
講演では「老爺心お節介情報」第73号で紹介した韓国の現状との比較も交えて話をした。

Ⅰ 「地域福祉」の概念――理念、目的

地域福祉とは、住民の身近な基礎自治体である区市町村を基盤に、在宅福祉サービスを整備し、障害者、子ども、高齢者を属性分野に分けず、全世代対応型で、地域での自立生活(労働的・経済的自立、精神的・文化的自立、身体的・健康的自立、家政管理的・生活技術的自立、社会関係的・人間関係的自立、政治的・契約的自立)を支援するという目的を具現化することである。
地域での自立生活支援においては、地域住民のエネルギーがプラスにもマイナスにも働くので、地域のヴァルネラビリティのある人に対する差別、偏見、蔑視を取り除き、排除しがちになる地域住民の社会福祉意識改革への取り組み(福祉教育)とそれらヴァルネラビリティのある人々を包含し、支援するという個別支援を通して地域を変えていくという住民参画型の福祉コミュニティづくり、ケアリングコミュニティづくりである(「ボランティア活動の構造図」参照)。

Ⅱ 日本の社会福祉界における「異端」から「正統」へ――「地域福祉」の歴史的位置

筆者の「地域福祉とは」何かは、日本でも「地域福祉」は永らく社会福祉学界、実践現場で“異端”、”亜流“扱いだったのが、今やそれが正統になり、国の政策の主流になっていること、また、日本では1990年まで実質的にソーシャルワーク機能を展開できておらず、漸く2000年代に入り、在宅福祉サービスが”主流化“する中で、ケアマネジメントを活用したソーシャルワーク機能が”認知“されるようになり、今ではコミュニティソーシャルワーク機能が政策的にも、実践的にも必須の要件になってきている。

①属性分野ごとの「社会福祉六法体制」(生活保護法、児童福祉法、身体障害者福祉法、精神薄弱者福祉法、老人福祉法、母子福祉法)下において、「地域福祉」は任意団体である市町村社会福祉協議会が行う「地域の福祉の向上」という意味で、戦争遺家族の支援、共同募金活動、身体障害者等の当事者団体のお世話、老人クラブのお世話等を行っていた時代で、「地域福祉」研究、実践は社会福祉学界では「異端」だった。

②演者は、そのような状況の中、1960年代以降「地域福祉と社会教育の学際研究・実践」を「異端」扱いされながら、市町村社会福祉協議会、市町村の公民館、社会教育を基盤に展開してきた。
その際、演者は市町村社会福祉協議会の職員や公民館・社会教育の職員と「バッテリー型研究」のスタイルを取って行ってきた。
「バッテリー型研究」とは、その市町村ごとに違う地域社会生活課題を分析し、その解決のあり方、システムを市町村社会福祉協議会の職員や公民館・社会教育の職員に提示して、協働してその問題解決や解決に必要なシステムを開発してきた。その上で、必要なら住民参加で市町村の「地域福祉計画」を策定するということを行ってきた。

③「地域福祉」実践・研究を取り巻く政策的環境が徐々に変わり、1984年には社会福祉事業法が改正され、市町村社会福祉協議会が法律上認知され、位置付けられた。また、1990年には、それまで社会福祉法制上位置づけがなかった在宅福祉サービスが法定化され、施設福祉サービスとは違う在宅福祉サービスの実 践・研究がしやすくなった。
在宅福祉サービスは、2000年の介護保険法、2005年の障害者総合支援法により、政策的にも、実践・研究的にも社会福祉政策のメインストリーム(主流化、正当化)になっていく。と同時に、「ソーシャルワーク」機能の重要性が重要視されるようになってくる。

④日本では、イギリスのベヴァリッジ報告(「社会保険及び関連サービスについて」)と日本国憲法第89条に基づき、戦後「福祉国家論」説がもてはやされ、社会保険も公衆衛生も対人援助の社会福祉もすべて国家が責任を取り、行うものとの考え方が強かったが、対人援助サービスとしての在宅福祉サービスが法定化されるに及んで、社会福祉は基本的に住民の身近な市町村が計画的に責任をもって行うべきという考え方が1990年の法律改正で明確になり、かつ介護保険制度の実施により、一層求められるようになった。

Ⅲ 「地域福祉」を具現化させる方法論としてのコミュニティソーシャルワーク

コミュニティソーシャルワークという用語と考え方は、イギリスで1982年に発表された「バークレイ報告」の中に登場する。その要旨は、住民とソーシャルワーカーとが協働して地方自治体の社会サービスを展開する方法である。
日本では、先に述べた1990年の「生活支援地域福祉事業(仮称)の基本的考え方について(中間報告)」(座長大橋謙策)においてはじめて厚生省の文書に登場する。
演者なりにコミュニティソーシャルワーク機能をまとめると以下の通りである。

ⅰ)地域にある潜在化しているニーズ(生活のしづらさ、生活問題を抱えている福祉サービスを必要としている人々)を発見し、その人や家族とつながる。

ⅱ)それらサービスを必要としている人々の問題を解決するために、生活問題の調査・分析・診断(アセスメント)を行い、その人々の思い、願い、意見を尊重して、「求めと必要と合意」(サービスを必要とする本人の求め、願いと専門職が必要と考えることを出し合ってのインフォームドコンセント)に基づき、問題解決方策を立案する。

ⅲ)その解決方策に基づき、活用できる福祉サービスを結び付け、利用・実施するケアプラン(サービス利用計画)をつくるケアマネジメントを行う。

ⅳ)もし、問題解決に必要なサービスが不足している場合、あるいはサービスがない場合には、新しいサービスを開発するプログラムを作る。

ⅴ)その上で、制度的サービス(フォーマルサービス)と近隣住民が有している非制度的助け合い・支え合い活動(インフォーマルケアが十分ない時にはその活動の育成・活性化を図ることも含める)の両者を有機的に結び付け、両者の協働によって、福祉サービスを必要としている人々の地域での自立生活支援を支えるための継続的対人援助活動を展開する。

Ⅳ 「地域福祉」を展開するシステムと圏域の重層化、機能の重層化の必要性

「地域福祉」を展開するシステムは、厚生労働省により定式化された行政組織が示されているわけではない。今や、中央集権的行政ではなく、地方分権、地方主権行政の時代である。演者が、日本の各市町村で社会実証的に取り組んできたシステム、考え方は以下の通りであり、厚生労働省もほぼ同じ考え方で、現在重層的支援体制整備事業を進めている。

ⅰ)「地域福祉」は、原則市町村を基盤に展開する。市町村は、住民参加の機関である「地域保健福祉審議会」を設置し、市町村の「地域福祉計画」を策定する。

ⅱ)市町村といっても、住民の生活は交通の便、地形、商店等の生活圏域が異なる。まして、合併した市町村では地域社会生活課題は大きく異なる。
したがって、「地域福祉」を展開するに当たっては、市町村を第1層、第2層、第3層という具合に圏域を重層化させることが重要である。と同時に、各層で求められる機能も層毎に異なる。
「地域福祉」の展開には、「圏域の重層化」と「機能の重層化」がポイントである。
第1層は市町村圏域で、「地域保健福祉審議会」の運営や「地域福祉計画」づくり、全体の調整機能が求められる。
第2層は、一般的に在宅福祉サービス地区と呼ばれるもので、中学校区(人口 2万弱)レベルが考えられる。日本の介護保険制度では、この中学校区レベルに地域包括支援センターを配置している。
演者は、在宅福祉サービス地区という考え方をデンマークの生活支援法、スウエーデンの社会サービスに学び、市町村を在宅福祉サービス地区に分けて、在宅福祉サービスの整備並びに提供するシステムを1980年代末に提唱する。
第2層には在宅福祉サービスに関わる専門職や施設福祉サービスを担っている専門職も多く存在しているので、個別支援における専門多機関、専門多職種連携などは第2層で展開される。
第2層では、属性分野ごとの相談窓口ではなく、全世代対応型の総合相談窓口を設置し、包括的相談体制を整備する必要がある。全国の中学校区ごとに設置されている地域包括支援センターが約5500か所あるので、ここが総合相談窓口になれば、住民の福祉アクセシビリティはとても良く機能する。
第3層は、一般的に小学校区レベル(人口約1万人)とし、福祉サービスを必要としている人を発見し、支える地域(層)である。
日本では、このレベルの地区(地域)に校区社会福祉協議会が設立されているし、この地区レベルに民生児童委員協議会が設定されている。
一般的に住民の“地域”認識は、この小学校区レベルの地域をイメージしている。
この3層において、民生・児童委員や町内会、自治会の役員、校区社会福祉協議会の役員たちがインフォーマルケアを担ってくれている。したがって、コミュニティソーシャルワーク機能でいうフォーマルケアとインフォーマルケアとの両者の有機的協働は、この第3層で展開される。
第3層では、社会福祉協議会の職員などによるヴァルネラビリティのある人々に積極的にアウトリーチして発見、つながる活動が期待されている。

Ⅴ 「地域福祉」推進における住民参加及び住民の主体形成とインフォーマルケア

「地域福祉」とは、福祉サービスを必要としている人も含めて地域での自立生活支援を目的にするので、病院の入院患者や入所型施設の利用者とは異なり、日常面での多様な近隣関係が良好でないとうまくいかない。ゴミ出しの問題、安否確認、避難行動支援等行政の力だけでは対応できない。どうしても近隣住民の協力がなければできない。まして、工業化、都市化した状況の中では、農業生産を中心とした産業構造時代のように家族に頼ることはできない時代である。
そのような中、福祉サービスを必要としている人を支える住民なのか、排除、蔑視する住民なのかが問われる。
今、限界集落、人口減少、超高齢化社会の中で求められる住民像は、「地域に生れただけでなく、生まれた地域を愛し、共に地域を豊かにしようとボランティア精神旺盛な『選択的土着民』」の養成、形成である。
従来は、この機能に深く関わってきた行政は社会教育行政、公民館であった。現在では内閣府、総務省も「まちづくり協議会」の設置を提唱せざるを得ない状況である。
市町村社会福祉協議会は、福祉サービスを必要としている人への個別支援と同時に、それらの支援が地域で支えられるような地域づくりをすることも同時に求められている(「ボランティア活動の構造図」参照)
これら、地域における住民による支援を求めれば求めるほど、住民には権利としての行政への住民参加の権限を担保する必要がある。「地域保健福祉審議会」はその一例である。

Ⅵ 地域包括(トータル)ケアシステムに関わる歴史的ベクトル

①1994年設置の岩手県遠野市「健康福祉の里」(国保診療所併設)と県立遠野病院との連携システムによる地域福祉実践のベクトルー1993年遠野市ハートフルプラン策定(『21世紀型トータルケアシステムの創造』2002年、万葉舎参照)

②2000年実施の長野県茅野市における保健・医療・福祉の複合型拠点及び日常生活圏域毎のシステムによる地域福祉実践からのベクトルー診療所を核とした通所型・訪問型サービスとインフォーマルケアとの有機化、病診連携を踏まえた診療所の併設をシステム化した保健福祉サービスセンターの創設(『福祉21ビーナスプランの挑戦』中央法規、2003年参照)

③『地域包括ケア研究会ー2025年問題』(座長田中滋、2013年)の問題提起による政策ベクトルー在宅医療連携診療所、医療と介護の連続的改革

# 生活圏域でのケアの一体的提供とその社会資源(インフォーマルを含めて)整備を地域包括支援センターを中心に構築するーー①持続的な介護サービスの充実と基盤整備、②介護と医療の連携強化、③サービス付き高齢者住宅の整備、④認知症ケアの体系的な推進、⑤介護人材の確保とキャリアアップシステムの構築、⑥地域における高齢者の孤立等への対応、⑦低所得高齢者への配慮ある展開等

Ⅶ 地域包括支援センターのモデル――長野県茅野市における地域トータルケアシステムの拠点としての保健福祉サービスセンターの設置(『福祉21ビーナスプランの挑戦』中央法規、2003年参照)

①茅野市福祉担当行政アドバイザーとして、地域福祉計画において提案・2000年より実施――人口5万7千人で、八ヶ岳山麓の広範囲の市域を4つの在宅福祉サービス地区(小学校区9地区、中学校区4地区、行政区10区)に分け、その各々に保健福祉サービスセンターを設置し、市役所内にいた福祉事務所の職員、保健課の保健師を再編成して配属。それに加えて市社会福祉協議会の職員も配属――1982年スウェーデン「社会サービス法」を参考。

②保健福祉サービスセンターには、内科クリニック、高齢者デイサービス、訪問看護、訪問介護、地域交流センターを併設。内科クリニックと諏訪中央病院との病診連携、「かかりつけ医」制度の促進。サービス供給組織は、JAや社会福祉協議会等多様。

③保健福祉サービスセンターは、子ども、障害者、高齢者の全世代に対応するワ     ンストップサービスを展開。基本的には、行政職員(ソーシャルワーカー)、保  健師、社会福祉協議会職員(ソーシャルワーカー)が3人1組でチームアプローチをする。設置1年後からは、保健福祉センターには社会福祉協議会職員を各1名増員。

④各センターへ社会福祉協議会職員(ソーシャルワーカー)を配属したのは、地域住民の福祉教育の促進、アウトリーチ型問題発見、ニーズキャッチの向上、住民のインフォーマルケア力の向上と活用の促進を図るため(年間280日地域を訪問)。

Ⅷ 社会生活モデルに基づく地域生活支援――医学モデル、入所モデルと違う

①地域生活支援では家族が果たしてきた機能、入所型施設が提供してきた機能を地域において本人の求めと専門職が必要とした判断とを踏まえた両者の合意による支援方針の決定とケアマネジメント及びサービス提供が必要

②その際に必要なアセスメントは、入所型施設でのADLを重視したアセスメント、疾病・治療における医学モデルのアセスメントではなく、社会生活モデルに基づくアセスメントが求められる
(アセスメントの大項目===生い立ち、願い等のナラティブ、労働的・経済的自立、精神的・文化的自立、身体的・健康的自立、生活技術的・家政管理的自立、社会関係的・人間関係的自立、政治的・契約的自立、住居、ソーシャルサポートネットワーク)

# イギリスでは、2016年に社会的処方(SOCIAL PRESCRIBING)という考え方が、NHSのプライマリケア領域で提唱され、全国ネットワークが結成された

Ⅸ 障害者・高齢者のための“福祉のまちづくり”から「福祉でまちづくり」及び「福祉はまちづくり」への転換

①農業の第6次産業化のみならず、障農連携・農福連携、あるいは契約栽培に基づく施設経営社会福祉法人の地産・地消経済による農業の第8次化の振興

②施設経営社会福祉法人の地域貢献と施設機能の社会化、地域化

Ⅹ 地域住民の孤立化,ソーシャルサポートネットワークの脆弱化と触媒としてのコミュニティソーシャルワーク機能

①1960年代末からの「新しい貧困」の登場と地域住民の孤立化,ソーシャルサポートネットワークの脆弱化

②1970年頃の子ども・青年の発達の歪み(人間関係・社会関係の希薄化、成就感・達成感の喪失、生活技術能力の脆弱化、帰属意識・準拠意識の希薄化、自己表現能力の脆弱化)の指摘と「生きる力」

③都市化、工業化における「家庭の孤立化」とショックアブソーバー機能の脆弱化

④都市化による「遊び場」の喪失と家屋構造の変容に伴う「中間空間」(縁側・土間・上がり框)の喪失による社会関係の希薄化

⑤「街づくり」、コミュニティデザインにおける交流機能、居場所づくりの“復活”

⑥住民活動の触媒、社会開発の触媒(物質の安定、物質の活性化、新しい物質の創造機能)としてのコミュニティソーシャルワーク機能

Ⅺ 地域包括ケアの考え方と地域共生社会への発展

①地域包括ケアの要件

ⅰ)個別ケアにおける医療・保健・介護・福祉の専門多職種連携による包括ケア

ⅱ)多問題家族・複合家族への世帯単位支援の包括ケア

ⅲ)制度化されたフォーマルケアと住民によるインフォーマルなソーシャルサポートネットワークとを有機化して、提供する包括ケア

ⅳ)単身高齢者・単身障害者等への「最期まで看取る」地域社会生活支援の包括ケア

ⅴ)福祉機器等の合理的・効率的ケアの提供による住民のQOL(生活の質)を高める包括ケア

Ⅻ 地域自立生活支援におけるICFの視点でケアマネジメントを手段として活用したソーシャルワークの展開

①価値・目的、ナラティブ(本人の生育史、願い、思い)に照らしたアセスメントの視点と枠組みとICF――福祉用具の活用とフィティング及び自立支援計画の立案

②アマネジメントにおけるサービスを必要としている人(ヴァルネラビリティ、利用しようと考えている人)へのエンパワーメントアプローチ

③ソーシャルワークにおけるニーズ対応型新しいサービス開発機能とケアマネジメント

④ソーシャルワークにおえる社会改善、ソーシャルアクション機能とケアマネジメント

⑤ケアマネジメントにおけるサービスプランニングと直接的対人援助としての伴走型ソーシャルワーク実践

老爺心お節介情報/第73号(2025年8月15日)

「老爺心お節介情報」第73号

地域福祉研究者の皆様
社会福祉協議会関係者の皆様

暑い日がまた戻ってきましたが、皆様お変わりありませんか。
「老爺心お節介情報」第73号をお届けします。ご活用ください。

2025年8月15日  大橋 謙策

〇立秋が過ぎたというのに、いまだ酷暑が続きます。皆様にはお変わりなくお過ごしでしょうか。
〇私の方は、7月は各地のCSW研修で東奔西走しましたが、8月に入り、お盆までのんびりと過ごせ、英気を養うことができました。毎日の家庭菜園、庭木への水やりをする他には、週2回ほど地域の囲碁クラブに出かけ、対局を楽しみました。
〇また、このところ筋力の衰えを実感していましたので、8月より近くの民間のスポーツジムNASの会員になり、機器を使って筋力トレーニングを始めました。80歳の筋力は、20歳代の半分だといわれていますので、“年寄りの冷や水”かもしれませんが、チャレンジしたいと思っています。通うのが楽しい日々になりました。
〇8月20日から22日まで、ソウル特別市社会福祉協議会の金玄勲会長(日本社会事業大学の学部、大学院での教え子)の招聘により、韓国・ソウル市を訪問することになりました。
〇当初は、拙著『地域福祉とは何か』を金玄勲さんがハングル語に翻訳してくれ、その出版記念会への招聘でしたが、20年振りくらいに日韓地域福祉学術交流をしようということになり、日本地域福祉研究所からも田中英樹副理事長や原田正樹日本福祉大学学長なども参加されることになりました。
〇学術交流としての訪韓は久しぶりなので、今回の訪問では、金成垣・金圓景・呉世雄編著『現代韓国の福祉事情』(法律文化社、5700円)を読んで、学習していきました。その本を読んでの私の韓国理解の概要を下記にまとめてみましたのでご参照ください。
〇今日は、終戦後80年の節目の日です。今、日本では「排外主義」の主張が高まっていますが、今年は「日韓国交正常化50周年」ですし、「村山談話」発出30周年です。
〇改めて、日本が戦前の軍国主義の時代に行った様々な蛮行に思いを致し、蹂躙された国の方々の辛い、悲しい思いに心を寄せ、二度とあのような蛮行の過ちを繰り返さないためにも国民レベルの平和友好交流を強めたいとしみじみと思いますし、誓いました。
(2025年8月15日、終戦の日に平和共生を祈念して)

Ⅰ 韓国の社会福祉の現状

〇筆者が韓国と学術交流していたのは、1990年代後半のアジア通貨危機の時代から2008年の韓国の介護保険である長期療養保険制導入時代である。
〇1990年代後半に、日本地域福祉研究所を中心に「韓日地域福祉実践研究セミナー」をソウル市、大邱市、釜山市、光州市などで開催してきた。
〇また、日本社会福祉学会会長、日本地域福祉学会会長時代の2000年初頭には学会の学術交流協定や日本介護保険制度に関わる学術交流をしてきた。
〇今回の訪韓は、学術交流としては久しぶりで、この20年間近い期間に韓国の福祉事情が大きく変化してきていることを『現代韓国の福祉事情』を読んで実感した。
〇『現代韓国の福祉事情』の編著者である、東大教授の金成垣先生の論文は大変参考になった。
〇金成垣先生の学説は、韓国の社会福祉・社会保障は、資本主義先進国で確立した従来の「福祉国家」体制ではなく、新しい「社会サービス国家」ともいえるもので、「社会保険でない制度」、「準普遍主義」に基づく政策が展開されているのだと指摘している。それを可能にさせているのが、「総合社会福祉館」、「老人福祉館」、「障害者福祉館」で、そこを拠点に地域福祉活動が展開されているのが特色だとも指摘している。
〇筆者は、日本地域福祉学会会長の時代(2000年代初頭)に「地域福祉実践・研究に関する日本と韓国の学術交流協定」を締結したが、相手の韓国の学会名は「韓国地域社会福祉学会」である。
〇韓国は、その当時、市町村の権限、役割も弱く、市町村社会福祉協議会の位置づけも法的にはない状態だった(韓国の市町村社会福祉協議会が法制化されたのは、確か2021年?)。
〇筆者は、地域福祉における日本との比較研究をする枠組の要は、「総合社会福祉館」等のセツルメント実践の流れである地域福祉施設が重要なのではないかと指摘してきた(ただし、「総合社会福祉館」の設置は人口10万人に1か所が目安)。
〇日本でも、近年の「地域共生社会政策」の中で、子ども、障害者、高齢者を問わず誰もが通い、集い、時には泊まれる全世代対応型の「小さな拠点」の設置の必要性がうたわれ、既に高知県などにおいて「ふれあいあったかセンター」の実践が、限界集落、人口減少地域で大きな成果を上げていることを考えると、韓国の「総合社会福祉館」や農村部の「マウル館」等と日本の「小さな拠点」施設との比較をしつつ、地域住民のインフォーマルケアをどう位置付けるかの比較研究をする必要性がある。
〇いずれにせよ、金成垣論文を読んで、日韓地域福祉比較研究の枠組みが大変明確になった。
〇ただ、金成垣先生は、従来の社会保障関係の学説である“現金給付とサービス給付は代替関係にある”という学説に囚われず、韓国では現金給付とサービス給付との関係は代替関係ではなく、補完関係にあると考え、新しい「社会サービス国家」という考え方を打ち出した。その在宅福祉サービス(韓国では在家老人福祉事業)を「総合社会福祉館」等で現物給付する形で提供しているのが特色だと指摘している。
〇金成垣先生の学説は、日本の在宅福祉サービスの開発、研究を牽引してきた三浦文夫先生がイギリスのティトマス等に学び、貨幣的ニーズでは対応できない非貨幣的ニーズの必要性が都市化、工業化、核家族化の中で生活ニーズとして登場してきており、その対応が必要であると論述してきたことや江口英一先生が1960年代の不安定就業層に対する地方自治体での福祉サービスの整備が必要であると論述した考え方との関りや整合性を改めて検討する必要があるのではないかとの感想を持った。
〇日本では、現在、1960年代末から指摘されてきている「新しい貧困」の問題がより深刻化し、生活のしづらさを抱えている家庭の生活技術能力や家政管理能力などへの支援の必要性が増大してきているし、かつ、「ひきこもり」と称される人が246万人にいると推計され、孤立・孤独問題が深刻化している。更には、一人暮らし高齢者、一人暮らし障害者の増大に伴うそれらの人々の身元保証問題、入退院支援、終末期支援、死後対応サービスの必要性が喫緊の大きな課題になってきている。
〇これらの問題も含めて、韓国の「社会サービス国家」論と日本の「地域共生社会政策」との比較研究が必要だと思った。
〇『現代韓国の福祉事情』に基づき、日本との比較の視点も入れて韓国の福祉事情の特色、特徴を述べるとすれば、以下の点を挙げることができる(概要で述べる内容は、『現代韓国の福祉事情』の中に書かれていることで、一つ一つ引用個所を明示するのは煩瑣になるので省略させて頂いた。ご了承頂きたい。なお、日本の記述は筆者の考えである)。

➀韓国は、人口が2022年時点で5169万2000人、2000年に高齢者人口比率が7%になり、高齢化社会になった。2017年には高齢者人口が14%を超え、高齢社会になっている。日本以上に速いスピード(日本は24年で到達)で高齢化が進んでいる。
子どもの合計特殊出生率は、OECD諸国の中で最低の0・78(2022年)で、日本の1・26よりはるかに低い。
韓国では、高学歴化における受験戦争の激化、ソウル一極集中における住宅難、不安定就業による生活の見通し不安等の要因が影響して少子化が改善されていない。

➁韓国では、就業形態別の雇用保険の加入率が、正規労働者で78・1%、非正規労働者で44・4(2019年)と低い。かつ、不安定就業層が多く、臨時雇用者の割合が2019年で24・4%、かつ自営業者の割合が24・9%と多く、「福祉国家体制」の下になる正規の常用雇用者による社会保険制度の成熟度が進んでいない。
韓国では、1999年に「国民皆保険・皆年金」体制が実現したが、2015年時点で、非正規労働者の年金加入率は37・0%、医療保険は43・9%、雇用保険は42・1%である。
日本では、高齢化社会に入った1970年前後に、急激な都市化、工業化、核家族化の中で、家族が高齢者を経済的に扶養できず、かつ年金も未だ成熟していていない時代であったこともあり、国が低所得層の高齢者に「老人福祉手当」を支給したことと同じように、韓国でも社会保険だけでカバーできない部分を国が税金によってサービスを現物給付する形態で賄っている。

➂日本の公的扶助制度である生活保護制度に該当するのが、現行の韓国では2000年10月に施行された「国民基礎生活保障制度」である。
韓国では2022年までは、「扶養義務者基準」が厳しく(扶養義務者の所得(年収1億ウオン以上)、および資産(保有不動産価格9億ウオン以上)があれば扶養義務基準を適用)、適用されていた。
他方、勤労能力のある貧困者には、多様な働く場としての自活事業が用意されているし、創業教育、機能訓練及び技術・経営指導等の創業支援、自活に必要な資産形成支援等が展開されている。
この自活事業の多様なプログラムは、韓国で2007年に制定された「社会的企業育成法」に基づき育成支援されている「社会的企業」、「協働組合」、「マウル企業」、「ソーシャルベンチャー企業」の取組とも関わっていて、「自活企業」だけでも2021年時点で997企業が経営されている。
日本では、生活困窮者などに対する支援で、“一般就労”支援が中心になっているが、韓国のように、新しいプログラムを開発しながらの支援は日本でも大いに参考にすべきである。
韓国では、このような状況もあり、社会福祉士養成カリキュラムに「プログラムの開発及び評価」、「社会福祉資料分析論」が取り入れられている。かつ、「総合社会福祉館」には、社会福祉士が義務設置化されていて、外部資金の獲得や地域資源の開発・連携に取り組んでいる。
筆者、コミュニティソーシャルワーク研修において、「問題解決プログラムの企画立案」や「地域福祉・地域包括ケア基本情報シート」の作成を取り入れているが、考え方は全く同じである。日本の社会福祉士の養成カリキュラムが“時代錯誤”なのである。

➃韓国では、「長期療養保険制度」がドイツ、日本に学び2008年7月から導入された。
しかしながら、日本で2006年に始められた介護予防事業は制度化されていない。
韓国の介護予防事業は、全国に357か所あり、300万人の会員を擁している「老人福祉会館」で展開されている。その活動を支える従事者が14000人配置されている。
日本では、1990年代に全国社会福祉協議会が主導して全国各地の市町村社会福祉協議会が「住民参加型福祉サロン」を創設し、活発な活動を展開していた。
しかしながら、2000年の介護保険制度の実施の際に、国民の理解を得るためか、福祉サロンに通う高齢者も介護保険制度のデイサービスを利用できるようにしたことにより、「住民参加型福祉サロン」は衰退していく。
ところが、介護保険財政が厳しくなると、2006年に介護予防事業制度を導入し、再度「住民参加型福祉サロン」を推奨させるようなシステムを作り出す。
韓国では、一貫して介護予防は老人福祉館で行われている。老人福祉館は、1989年にモデル事業として取り組み始められた。
老人福祉館の基本事業は、「生涯教育支援事業」、「趣味余暇支援事業」、「相談事業」、「情緒生活支援事業」、「健康生活支援事業」、「社会参加支援事業」、「危機および独居高齢者支援事業」、「脆弱老人保護連携網構築事業」の7つである。
選択事業としては、「敬老堂革新プログラム」、「高齢者住居改善事業」、「雇用および所得支援事業」、「家族機能支援および統合支援事業」、「地域資源の開発と連携、高齢者権益増進事業」の5つがある。
この老人福祉館は「地域食堂」の機能も持っており、安価な3000ウオン程度で利用でき、かつ生活困窮者には無料で昼食が支給されている。
老人福祉館の個人の利用料は3か月で2万ウオンから4万ウオン程度である。老人福祉館の運営費は、市区町村からの補助金の他、共同募金、協賛会費などで賄われている。

➄日本でも「離別によるひとり親世帯における非養育者の養育費不払い問題」は深刻で、母子家庭における養育費を支払っている非養育者の比率は28%と言われている。
韓国でも同じような問題を抱えており、2014年に「養育費履行確保法」が制定され、かつ2020年からはそれがより強化され、「行政制裁として、運転免許停止処分及び出国禁止、身元公開(氏名、年齢、職業、住所、養育費債務不履行期間、養育費債務額)」が規定され、かつ刑事罰まで法制化された。
日本でも、行政が代執行して養育費を支払わせる制度の確立が望まれている。

➅日本では、2023年5月に「孤独・孤立対策推進法」が制定され、孤独問題担当大臣を設置するほど孤立・孤独問題は深刻化している。
筆者が、孤立・孤独問題に関心を寄せたのは、旧自治省系の自治行政センターの依頼を受けて、「行政とボランティア活動との関係に関する調査研究」で、三浦文夫先生とヨーロッパ諸国を訪問した1982年である。
その際、スウエーデンを訪問したが、スウエーデンのソーシャルワーカーが日本の老人クラブの実践を学びたいと話をした。その理由が、スウエーデンではその当時、高齢者の孤立・孤独問題が深刻で、日本の老人クラブ活動に学びたいということであった。
当時の日本の老人クラブへの加入率は75%程度(現在は17%程度)あり、地域の老人たちがクラブ活動をすると同時に、地域の一人暮らし老人たちへの友愛訪問活動をしていることを参考にしたいという話であった。
その後、イギリスでは2018年に孤独担当大臣を設ける等、ヨーロッパ諸国での孤立・孤独問題は深刻化していった。
韓国では、2020年3月に「孤独死予防法」が制定された。これに先立つ対策として、2007年に「老人福祉法」が改正され、独居高齢者支援が法定化された。
2020年には、「老人個別型統合サービス」に統合整理され、安全支援、社会参加、生活教育、日常生活支援という「直接サービス」、生活用品支援、住居改善、健康支援等の「連携サービス」、孤立型グループ、抑うつ型グループへの「特化サービス」の業務が展開されるようになった。
「老人個別型統合サービス」の実施機関は2023年時点で全国681か所あり、その中で「特化サービス」を実施している機関は191か所である。
「老人個別型統合サービス」の実施機関には、専担社会福祉士と生活支援士が配置され、対象者選定とケアマネジメント及びソーシャルワーク機能を担当している。

➆韓国では、日本以上に少子化が進んでおり、労働力をカバーするために、日本以上に外国人労働者を受け入れている。2022年末現在で、韓国の在留外国人は224万59912人で、全人口の4・37%を占めている。
これらの在留外国人の生活支援のために、韓国では2007年に「在韓外国人処遇基本法」を制定している。また、2008年には「多文化家族支援法」を制定し、韓国の社会福祉事業による福祉的支援に法的根拠を持たせることになった。
「多文化家族支援法」では、多文化家族に対する理解促進、生活情報の提供および教育支援、家庭内暴力被害者に対する保護・支援、医療および健康管理のための支援、多言語によるサービス提供および「多文化家族向け総合情報コールセンター」の設置・運営、外国人支援を行っている民間団体への支援等が定められている。
これらの法律でいう「在韓外国人」とは、韓国の国籍を持たないもので、韓国に居住する目的で合法的に滞在している者、「結婚移民者」とは、韓国の国民と婚姻したことがある者または婚姻関係にある在韓外国人である。
一方、「多文化家族」とは、「結婚移民者または韓国の国籍を取得した者からなる家族」のことで、外国人夫婦のみの世帯、外国人労働者、留学生は含まれていない。しかし、近年では、多分化家族の定義を広く適用しているという。
韓国での在留外国人への政策は、日本でも学ばなければならない課題である。

➇韓国は、国連の世界デジタル政府ランキングで、1位、2位を競うレベルのデジタル化が進んでいて、日本の比ではない。
韓国のデジタル政府を推進する根拠法は、1995年制定の「情報化促進基本法」、2000年の「デジタル政府法」、2009年の「国家情報化基本法」によるところが大きい。
福祉業務に特化した情報システムとしては、2010年に「社会福祉統合電算網」によるところが大きい。
それは、社会保障基本法の中で、「社会保障の受給者の決定や給付管理などに関する情報を統合・連携して処理する情報システム」であり、それは保健福祉部(日本の厚生労働省に該当)の福祉事業の業務を電子処理する「幸福eウム」と各省庁の福祉事業業務の電子処理を支援する「凡政府」との2種類がある。
「幸福eウム」は、地方自治体福祉業務と連繋して、各種社会福祉サービスの給付や受給資格、受給履歴の情報を統合管理している。
この2つの情報管理により、国税庁や国民健康保険公団、国土交通部(日本の国土交通省に該当)等の公共機関の所得及び財産情報を活用して不正受給や死亡届の提出遅延、未提出による“受給の不正”を防止している。
また、この情報システムを活用して、申請主義のために、本来受給できるにもかかわらず申請できない人を発見・把握し、支援につなげられるようになった。
更には、2014年12月に「社会保障給付の利用、・提供及び受給権者の発掘に関する法律」が制定され、電気料金や水道料金の滞納等公共料金の滞納にも関わらず、社会福祉関係者がアウトリーチできていない世帯を発見・把握し、職員を家庭訪問させ、申請につなげられるようになった。
一般的に、ICT化は低所得者や低学歴の人の生活に及ぼす影響・効果は限定的で、ややもするとのその利活用から疎外されがちであるが、韓国では逆にそれらの人々へのアプローチの手段として活用できていることは注目に値する。
いまや、福祉サービスへの福祉アクセシビリティがぜい弱な人々を発見・把握するために活用する情報は、通信費滞納、金融債務滞納、健康保険料滞納等にまで広がり、44種類にも上っている。

➈「マウル館」は、“地域社会の中心地として機能し、街の集まり、地域の市場、祭りなどの各種活動ができるように一定の設備を備えた建物で、一般的に多目的ホール、小さな会議室、演劇場、キッチン、トイレ、駐車場などの設備が含まれる”施設である。
「マウル館」(韓国語辞書では、マウルとは主に田舎でいくつもの家が集まって住むところと定義されている)は、1970年代のセマウル運動のセマウル会館として全国的に設置されていったが、現在は行政上の明確な管理主体がない状態である。
現在、「マウル館」は、全国に36792か所設置されており、自宅から「マウル館」まで10分以内の距離に設置されている村が95・5%である。距離的アクセシビリティはすこぶるいい。
「マウル館」は、1階建ての単独建物が多く、「敬労堂」と複合的に運営されているところが多い。
「マウル館」でも「地域食堂」としての機能を有しており、一日1回の食事提供が最も多く、69・3%、一日に2回の食事提供するところが22・3%である。
「マウル館」の運営は、里長(自治会長)が最も多く68%、老人会長が運営するところが24・1%である。
食事の提供に関わる経費は、住民たちが分担するが30・6%、「マウル運営資金の支援」が28・3%、「政府と自治体の支援金」が19・8%である。
農村地域の高齢化率は2020年時点で46・8%となっており、冬の期間、各自の自宅で暖房をつけるのには経費が掛かるが、「マウル館」に居ればそれも節約できることから、暖房施設のある「マウル館」の冬の期間における存在意義は大きい。
韓国の228自治体のうち、113の自治体が消滅危機にあるなかで、「マウル館」を拠点にしての地域づくりは、日本の限界集落との比較研究をする上で重要である。高知県の「ふれあいあったかセンター」がその比較研究する上で最適である。

➉「総合社会福祉館」は、韓国・社会福祉事業法第2条で「地域社会を基盤に一定の施設と専門人材を備え、地域住民の参加と協力を通じて地域社会の福祉問題を予防または解決するために総合的な福祉サービスを提供する施設」と規定されている。
「総合社会福祉館」は、2023年現在、全国に479か所設置されており、人口10万人当り1か所の目安で設置されている。
当初、「総合社会福祉館」は、低所得者が密集している永久賃貸住宅団地を中心に設置が進められたが、その後戸別の住宅面積が狭い住宅団地住民の生活福利のための共同の福利施設として住宅法が改正されて、設置、利用が少し変容していく。
「総合社会福祉館」は、「地域社会の特性や地域住民のニーズを踏まえた事業」、「官民の福祉サービスを連携した事例管理事業」、「地域の福祉共同体の活性化を目指した福祉関連の資源管理や住民教育」、「住民組織化等に関する事業」等が社会福祉事業法第34条の5に規定されている。
利用対象者は、社会福祉館の位置する地域のすべての地域住民となっているが、特に国民基礎生活保障の受給者や生活困窮者、障害者、高齢者、一人親家庭、多文化家庭、保護と教育が必要な幼児・児童・青少年、その他緊急支援が必要と認められるものが優先されると社会福祉事業法34条の5で規定されている。
全国の社会福祉館479巻のうち、社会福祉法人運営が約7割(338か所)、次いで財団法人、社団法人は都築、地方自治体の運営もある。
社会福祉館は、その建物の大きさにより「ガ型」、「ナ型」、「ダ型」に分けられている。
その運営費はおおむね年間予算が10~30億ウオンである。
社会福祉館の専門人財の配置は、「事例管理」、「サービス提供」、「地域組織化」、「行政及び管理」を実施しているかどうかと、その設置されている地域が「特別市」、「広域市」、「特例自治市・道・特例自治道」の違いによっても配置される人材数が異なる。
韓国の「総合社会福祉館」の源流は、1906年アメリカの宣教師・メソジスト教会の女子宣教師であったメリー・ノールズが始めた元山での隣保館運動で、その拠点が「班列房(バンヨルバン)」であった。その後、キリスト教関係者や大学関係者によって「社会福祉館」は作られていく。
「総合社会福祉館」としての制度化は、1983年に社会福祉事業法が改正され、社会福祉館への財政支援と地域住民の利用施設としての位置づけが規定されてからである。
韓国では、1998年に社会福祉士1級国家試験制度が実施され、今では社会福祉館の採用条件に社会福祉1級を条件としているところがほとんどである。

Ⅱ 韓国で2026年3月から実施される『医療·介護など地域ケアの統合支援に関する法律(ケア統合支援法)』の概要――韓国・崔太子さん提供資料

老爺心お節介情報/第72号(2025年7月15日)

「老爺心お節介情報」第72号

地域福祉研究者の皆様
社会福祉協議会関係者の皆様

お変わりありませんか。
「老爺心お節介情報」第72号を送ります。
皆様ご自愛ください。

2025年7月15日   大橋 謙策

〇6月末から酷暑が続き、この夏が思いやられると思っていたところ、梅雨の戻りかと思える気候になり、体調管理が難しいこの頃ですが、皆様にはお変わりなくお過ごしでしょうか。
〇7月12日~13日に、高知県黒潮町で第22回四国地域福祉実践セミナー(こんぴらセミナーから通算すると28回目)が開催されました。現地の会場参加者が約400名、オンライン参加者が約100名で、盛会裡に行われました。お馴染みの地域福祉俳句にも投句しました。

黒潮の 藁焼きカツオ 半夏生  兼喬

〇今回の黒潮町での第22回地域福祉実践セミナーで学びたいと思っていた点は、大きく3つありました。
〇第1点は、南海トラフ地震で黒潮町には34メートルの津波が押し寄せるという予測で、その防災政策がどうなっているかという点、第2点目は、黒潮町は人口約9800人の町で、厚生労働省の地域共生政策の一つのモデルとされた全世代対応型の、かつ集い、通い、時には泊まることもできる「小さな拠点」が6つもあり、その実践がどうなっているかということでした。 第3点目は、人口減少、趙高齢化社会、限界集落が進むなかで、子ども・青年が地域にどう関わっているのか、その一環としての子ども民生委員活動の状況を知りたいと考えたことです。
〇2日間に亘る素晴らしい四国地域福祉実践セミナーを開催してくれました黒潮町社会福祉協議会坂本あや会長はじめ黒潮町社会福祉協議会の職員の皆様、また物心両面でセミナーを支えてくれた大西勝也町長はじめ黒潮町の役場の職員の皆様、更には共催団体としてこちらも物心両目に亘って支えてくれた高知県社会福祉協議会の白石研二局長をはじめとした職員の皆様や後援してくださった近隣市町村の社会福祉協議会関係者に対し、心より感謝とお礼を申し上げる次第です。
(2025年7月15日記)

Ⅰ 住民主体の居場所づくり・ふれあいあったかセンターの実践

〇高知県には「ふれあいあったかセンター」が現在55か所ある。この「ふれあいあったかセンター」は、富山県の共生型デイサービスをモデルに、高知型に再編したという。
〇四国地域福祉実践セミナーで、過去に津野町の床鍋地区の廃校の小学校を活用した集い、通い、泊まれる機能をもったセンターの実践や四万十市の大宮地区でのJA撤退後のガソリンスタンド経営、ATMの設置運営の事業などの実践が報告されていたので、筆者は集落活性化事業(集落活性化センター)と「ふれあいあったかセンター」の機能とを同じものと考え、記憶していたようである。確かに当初は、その両者は一体的に考えられ、推進される予定であったが、「ふれあいあったかセンター」の設置が先行し、結果的に各々が別の形態で運営される羽目になった面があるといわれ、納得した。
〇今回のセミナーでは、黒潮町の6か所の「ふれあいあったかセンター」のうち、4か所を運営しているNPO法人しいのみの実践(残りの2か所は黒潮町社会福祉協議会が運営)と佐川町のNPO法人とかの元気村が運営している「ふれあいあったかセンター」の実践が大変参考になった。
〇NPO法人しいのみの実践は、2014年2月6日から開始されている。その実践の信条は①子どもから高齢者、障害者、誰でもオッケー、②365日いつでも地域づくり、人づくりオッケー、③集い、移送支援、買い物代行、子ども食堂、地域食堂、居場所づくり、地域のお祭りの手伝い、歌謡ショーの企画、男の料理教室、手芸などの趣味活動支援、認知症カフェ等地域の中の必要なことが何でもできる素敵な仕組みを掲げている。
〇発表されたNPO法人事務局長の濱村美香さんは、実践の「まとめ」として、ⅰ)「ふれあいあったかセンター」事業の活動は、すべて「人づくり」、「地域づくり」につながっている、ⅱ)“一人の人も取りこぼさない”を守りぬくためには、決まりや制度だけでは限界がある。だから地域が大事。ⅲ)災害時には必ず役に立つつながりができている、ⅳ)取り組んでみて、自分自身が一番つくられた等を挙げていた。
〇NPO法人とかの元気村が運営している「ふれあいあったかセンター」は、黒潮町と同じ2014年から運営開始されている。
〇高知県には、34市町村があるが、2024年度段階で、高知市、香南市、梼原町の3市町にはなく、あとの市町村にはすべて設置されていて現在55か所になっている。個所数は、55か所であるが、各々の「ふれあいあったかセンター」が小地域にブランチを設置しているので、実際の個所数はもっと多いという。
〇現在の「ふれあいあったかセンター」の運営は1か所、ほぼ1500万円の補助で運営されており、その運営費は高知県と設置市町村とが50%づつ支出してくれている。
〇佐川町の人口は、約11000人で高齢化率は41・9%である。佐川町は5つの地区からなりたっていて、「とがの(斗賀野)」地区は、人口2965人で、高齢化率41・2%である。
〇NPO法人とかの元気村は、地区内にあった35団体が協議を重ね、2005年に一つにまとまり、NPO法人とかの元気村をつくった。2017年には、集落活動センターあおぞらが設立され、地域の課題、ニーズに応じて様々な活動に総合的に取り組む地域づくりの拠点になっている。
〇NPO法人とかの元気村が運営している「ふれあいあったかセンター」は、そのような地域住民の地域づくりの流れの一環として、地域住民たちが斗賀野地区にも「ふれあいあったかセンター」が必要ではないかという住民の要望、主体的取り組みの中で設置されたという。
〇佐川町には、5つの地区に各々「ふれあいあったかセンター」が設置されている。
〇「とがのふれあいあったかセンター」は、センターの必須事業として求められている①全世代対応型の集い、②見守り等必要な方への訪問、③生活の困りごとへの生活支援、④日常生活の困りごとの相談、⑤保健・医療・介護などの専門機関へのつなぎの機能の他に、「とがのふれあいあったかセンター」独自の取組としてⅰ)一時的ショートステイ、ⅱ)拠点への送迎の他に、買い物支援や外出支援、ⅲ)保健や医療のミニ講座や地域の文化活動を行っている人を招いての生涯学習、Ⅳ)小学校、幼稚園、保育園などとの交流活動を行っている。
〇生活支援サービスでは、「あったかお助け隊」と呼ばれるボランティアスタッフが約40人登録されていて、有料ではあるが窓ふき、換気扇の掃除、草刈り等もする。それらのニーズを把握するために、民生委員を中心に“あったか利用者独居・高齢者世帯、障害者へのニーズ調査”を訪問で行い、必要に応じていろいろな機関へつないでいる。これらの活動には、子どもや学生も参加しているという。また、高知大学とも連携して、学生たちが参加しているという。2024年度には、「あったかお助け隊」活動に93人が参加してくれた。
〇「とがのふれあいあったかセンター」の目指す姿は、「ともに支えあいながら誰もが排除されることなく、安心して自分らしく暮らせる地域づくり」、「一人ひとりが、住み慣れた大好きなこの地域で、生きがいややりがいを感じ、つながり支え合いながら暮らせる地域づくりを目指します」である。今まさに求められている「地域共生社会」の構築に向けた実践は素晴らしいものであった。
〇高知県の「ふれあいあったかセンター」の実践は、本当に素晴らしいもので、全国の人口減少地域、超高齢化社会地域、限界集落の関係者に是非学んで欲しいと思った。黒潮町の大西勝也町長が“黒潮町の福祉を日本一にする”と言う発言が納得できる実践、町政が黒潮町で実感できた。
〇今、全国の市町村、地区集落で、地域づくりの担い手がおらず、自治会活動も停滞し、まさに“限界集落”という集落機能が崩壊寸前になってきている。
〇そのような中、総務省は「地域づくり協議会」の政策を打ち出し、自然発生的に成立してきた町内会や自治会機能を再編成しようとしている。
〇黒潮町のセミナーの前日、筆者は香川県丸亀市社会福祉協議会に招聘されて、丸亀市飯山南コミュニティセンター協議会の実践を見聞きすることができた。
〇丸亀市社会福祉協議会は、4年前から市民向けに社会福祉協議会の活動報告会を開催しており、その講師、アドバイザーを筆者が務めてきた。それは、丸亀市社会福祉協議会の業務を理事会、評議員会で承認されればいいというものではなく、住民から会費を頂いているのだから、住民の皆様に直接社会福祉協議会活動を報告し、理解、評価して頂き機会として4年前に始められた。
〇他方、丸亀市社会福祉協議会は、地域福祉担当職員と訪問介護等介護担当職員で「地域担当制」を敷いて、市内17地区(地域包括支援センターは市直営で5か所)毎に活動を展開している。各地区担当職員は、各地区の民生委員協議会の会合やコミュニティセンターの会合、行事に参加し、潜在化しがちな住民のニーズを発見したり、関係者とともに相談や支援の活動を展開している。
〇そのような関わりもあり、この7月11日に飯山南コミュニティセンター協議会の活動と丸亀市社会福祉協議会の飯山南地区担当職員の活動報告が行われた。
〇飯山南コミュニティセンター協議会は、総務省の「地域づくり協議会」の活動であるが、高知県黒潮町や佐川町の「ふれあいあったかセンター」と同じ様な活動を展開している。
〇飯山南地区は、人口約6000人弱である。この地区には、大化の改新で作られた口分田の条里制がきれいに残っている地域である。水害ハザートマップのために空撮された写真には物の見事に一辺110m(1丁)の四角い条理が映し出されている。この地域には、飛鳥時代か奈良時代初期に作られたという「法勲寺」後もあり、歴史を感じさせる地域である。
〇飯山南コミュニティ協議会には、総務環境美化部、ふれあい交流部、防災部、福祉部、文化育成部、健康スポーツ部、実行委員会(法の郷ふれあいまつり、広報委員会)が設置されている。職員は非常勤も含めて4名が勤務している。人件費補助は、人口割によって違うが、コミュニティセンターの指定管理料として、2025年度は市から年間約1600万円が支給され、そのほとんどが人件費として支出されている。
〇飯山南コミュニティ協議会の活動は、現在「法の郷第4次まちづくり計画―みんなで育てる住みよいまち法の郷―」に基づき運営されている。活動費の予算規模は市からの補助金約370万円を含めた年570万円ほどで運営されている
〇飯山南コミュニティセンターは、「予約なしで、いつでもおしゃべりができる居場所づくり」、「セルフコーヒーメーカーで挽きたてのコーヒーが飲める」をモットーに、地域食堂、絵本の読み聞かせをしているライブラリー、高齢者等移動手段支援事業、避難行動要支援者避難訓練等の活動を展開している。更には、30分500円の有料ではあるが草抜き、ゴミ出し、散髪、ちょっとした大工仕事等の住民参加型の生活支援サービスをしているし、その他、農繁期の忙しい時の農村食堂や夏休み子ども学習支援食堂などのユニークな活動もしている。
〇飯山南コミュニティ講義会の広報誌は、全国公民館報コンクールで金賞、特別賞を受賞するなど高い評価を得ている広報誌であるが、モットーは“現在の地域課題を提起し、知ってもらう”で、自治会未加入世帯にも情報発信をしている。
〇黒潮町、佐川町、飯山南コミュニティ協議会の実践を見聞きして、筆者は戦後初期の公民館活動を思い浮かべた。
〇戦後初期に、文部省公民課長、社会教育課長を歴任し、文部次官通牒「公民館の設置運営について」(昭和21年7月5日、発社第122号、各地方長官あて)について深く関わり、かつ1946年に『公民館の建設ー新しい町村の文化施設』を上梓している寺中作雄が考えた公民館は社会教育の機関であり、社交娯楽の機関であり、自治振興の機関であり、産業振興の機関であり、青年養成機関であるといった多面的な機能を持った文化施設である。
〇寺中作雄が考えた公民館の事業は町村の特殊性や町村民の要望に応じて決定される事で、必ずしも画一的にすべきものではないが、一応の形態としては,教養部、図書部、産業部、集会部が考えられ、其の他必要に応じて、体育部や社会事業部や保健部等の設置が考えられるとしている。
〇また、公民館の維持に関わる経費は、一般町村費及び寄付金によるものを原則としているが、公民館維持会を設立して、公民館に積極的な熱意を持った篤志家の支持を得る事も一法であり、その際には町村の一般会計とは切り離して、特別会計にすることが必要であるとも述べている。
〇更には、公民館の組織運営は最も自治的な機関であり、全町村民から選ばれる公民館委員会によって全町村民の参加と支持によって為される。・・町村自体が自治体であり、公選町村長によって運営されるものであるが、其の自治行政が法規に制約されて不円滑不活発に陥りがちな現在、公民館は或る程度法規の制約からも自由に、官憲の監督からも解放されて、純粋に自治的に運営されることによって、町村民に対し「真の自治とは何ぞや」との観念を正しく誘導し、町村自治に新しい血を通わしめ、爽快な涼風を吹き送る役目を担当するものである“と、一種の”自治的な原始社会“ともいえるコミューンのような思想、哲学を掲げている。
〇ところで、文部次官通牒「公民館の設置運営について」は昭和21年7月5日に発出されているが、同じ昭和21年12月18日付で「公民館経営と生活保護法施行の保護施設との関連について」が各地方局長あてに、文部省社会教育局長、厚生省社会局長の連名で発出されている。
〇その通知では、公民館で宿所を提供する事業や託児事業、授産事業を行うことができるし、その際の費用は生活保護法に基づき国が費用の10分の8、都道府県が10分の1を負担するとも述べている。
〇また、公民館運営委員と民生委員とは協力して社会事業と社会教育との緊密な関連を図るよう配慮することが明記されている。

註1 『社会教育法解説』及び『公民館の建設』は、1995年に国土社から現代教育101選の一つとして、寺中作雄著『社会教育法解説 公民館の建設』として復刻されている。
註2 大阪府の方面委員制度を大阪府の林市蔵知事とともに1918年に創設した小河滋次郎は“救貧は教育であり、対象者の自信、自助、自尊の精神を傷つけざるとともに、彼らの市民として、公民として、国民の一人としての人格を尊重保全し、救済の必要なからしむべく、一日も早く自ら其の運命を回転向上するに至らしめんことを努むる”のが、救貧事業の使命であり、本領であると述べている。(『社会事業研究』第10巻8号、大正11(1922)年)
註3 大阪府の副知事、知事を務めた中川和雄は、1926年京都市生まれ、東京大学法学部卒業後、厚生省に入省し、社会福祉事業法の制定に関わる。その後、1957年に大阪府に出向し、1983年副知事、1991年~95年に知事を務める。中川和雄は、戦前の社会事業には精神性と物質性の両側面があったが、戦後GHQの指示もあり、社会事業の精神性は文部省に移管され、厚生省は物質的支援のみに限定させられたと筆者に話をしてくれた。
物質的援助は、生活困窮者及び生活のしづらさを抱えている人の生活技術能力や家政管理能力などの自活能力が高い時には有効であるが、様々な社会生活上のぜい弱性を抱えている人(ヴァルネラビリティを有する人)には、物質的援助だけでは問題解決につながらない。今日の生活困窮者自立生活支援法に基づく伴走型の生活支援の必要性はまさにそのことを示している。
しかしながら、公民館は1949年に制定された社会教育法により、社会教育機関としての位置に矮小化されていく。
戦前の雑誌「社会事業」等で論陣を張った牧賢一(西窓セツルメントの主事も歴任)は、戦後の全国社会福祉協議会で事務局長、常務理事などを務めるが、その牧賢一が昭和28(1953)年に著した『社会福祉協議会読本』(中央法規出版)の中で、「公民館の目的は教育活動であり、それは個人の人格の完成とその能力の育成である。しかるに、社会福祉協議会は「地域社会の完成」を目的とする。しかし、協議会と公民館とは、いろいろ違う点があるけれども、その目的及び活動において切り離すことができない密接な関連を持っている」と述べ、なぜなら、本来公民館の仕事は社会事業の領域で長い歴史をもっているセツルメント事業(隣保事業)から変形したものである。そのセツルメント事業が終戦後経費の関係で非常に不振な状態におちいったときに、文部省が公民館という形で法的裏付けをもって打ち出したので、これが社会事業ではなく社会教育事業ということになったわけである。
したがって、「公民館が社会福祉協議会がやろうとしていることまで含めて、申し分のない活動をしているなら、そこに重ねて協議会をつくることは不要である」が、実際の公民館があるべき姿になっていないので、自分たちは社会福祉協議会を作ったとしている。
同じような論説は、『公民館日報第38号』(昭和26年10月)にも掲載されている。そこでは、「最近、社会福祉協議会が町村に設置されることになって、人の面や、仕事の面で公民館とかち合うことになって困るという事情を福祉協議会の側からも、公民館の側からも訴えてきている。・・・要はその地域が明るく住みよくなればいいわけで、それがどのような形で行われようと問題ではないと思う。・・・社会教育ということは、結局我々が営む社会生活を改善し、進歩させるための機能ということができる。・・社会改良のための諸条件である政治や産業等と結びつきながら、これらを教材として人間の形成を通じて社会形成を行うところに社会教育の仕事がある」と述べている。

Ⅱ 潮町の防災教育と避難タワーでの取り組み

〇南海トラフ地震で、34・4mの津波(最大震度7、沿岸に津波が到達する時間2分)という内閣府の発表が2012年3月31日に出されたことを踏まえ黒潮町では、防災教育、防災活動が活発である。
〇黒潮町では、地域担当する職員と住民によるワークショップや避難道の点検、避難訓練等を行っている。避難行動要支援者等には、自力避難の可否、避難先への到達所要時間、避難方法、自宅の耐震性や家具転倒防止策の状況、連絡先などを記入してもらい、それを基に町、社会福祉協議会、ふれあいあったかセンターが災害時要配慮者への支援体制と其の調整を行っている。地域調整会議では、①顔の見える関係づくり、②福祉専門職の参加、③地域全体の避難ルールと整合性を持たせるために、地区防災計画との整合性を重視している。そのようなことを踏まえて、視覚障害者の「お試し避難訓練」や在宅医療機器使用者の避難訓練、高校生と行う地区避難訓練等行っている。高校生と行う避難訓練では、「逃げトレ」アプリを使用し、各地点の津波到達時間をシュミレーションしている。この高校生と行う地区避難訓練は、普段避難訓練に消極的な人たちを誘い出すのに成功している。宮崎県日向沖の地震の際の「南海トラフ地震に関する臨時情報」が出されて以降、車いすの障害者も避難タワーに車いすで上る訓練をしたり、福祉避難所「高齢者生活支援センターこぶし」の開設を要請し、事前の「おためし避難」が重要だということも認識できた。
〇防災教育と福祉教育を兼ねて、小学生には通学路などの危険個所の発見や地域で暮らす人を知ろうということで「まち歩きと危険個所の発見」のプログラム、中学生には自宅までの津波到達予想時間の視えるかをしてお知らせするプログラムをもって高齢者宅を訪問するプログラム、高校生は避難所での要配慮者への対応訓練、避難所開設運営訓練などを行った。
〇黒潮町には、6つの津波避難タワーが設置されている。その中で、最後に設置され、最も高い津波避難タワーが黒潮町の浜地区(合併前の佐賀町浜地区)の避難タワーで、18mの津波が想定されている地区である。この浜地区には、浜地区を囲む高台に避難場所が5か所設置されているが、この避難タワーは町中に設置されている。この避難タワーには、230人の避難者が想定されており、それら避難者のために必要な様々な災害用備品が備蓄されている。マット、テント、充電器、水、簡易トイレ、紙パンツ等住民の知恵、要望で準備されたもので、そのすべてが行政の補助金で購入、用意されたものではなく、河内香自主防災会長をはじめとした地域住民の努力で準備されたものも多い。
〇この避難タワーを上るのには階段とスロープを使って上ることになっている。津波の大きな衝撃にも耐えるようこのタワーを守るための衝撃防止の柱も備えられているし、屋上にはヘリコプターがホバリングしながら緊急搬送できる設備も備えられている。
〇自主防災会の河内香会長たちは、「防災かかりがま士の会」という、積極的にお節介をして防災を進め、避難活動を誘導する会を作り活動している。
〇黒潮町は、多様な防災プログラム(防災学習プログラム、防災缶詰プログラム、地域防災実感プログラム、佐賀地区津波避難タワー見学会、宿泊型夜間避難訓練プログラム)を開発し、町内外の人への防災教育を展開している。
〇今回のセミナーでは、この他、今治市の山林火災への取組も報告された。

Ⅲ 子ども民生委員活動と福祉教育

〇筆者は、1980年代に福祉教育が必要とされる背景、要因の第1に“子ども・青年の発達の歪み”を挙げている。
〇イギリスでは、アレック・ディクソンによるコミュニティボランティア協会が1962年に創設され、青少年のボランティア活動を推奨をしている。その背景には、1963年に出されたイギリス中央教育審議会の答申「HALF OUR FUTURE」と題する報告書がだされ、未来を担う若者、青年の半分の成長がゆがんでいるというショッキングなレポートがあった。アレック・ディクソンは、若者、青年の発達を取り戻すために、コミュニティに入り、高齢者等を訪問し、何かお手伝いすることがあるかどうかのニーズ調査を行い、それに応じるボランティア活動をすることが必要であると訴えた。
〇日本の福祉教育は、1970年前後に第2の波を迎えるが、それは1970年に日本がの高齢化社会になったことを踏まえたもので、その対策的意味合いもあって、その必要性が説かれた。
〇しかしながら、筆者は日本でもイギリスと同じような子ども・青年の発達の歪みが指摘され始めていた時期なので、子ども・青年の発達を保証する機会として福祉教育の推進をするべきであると提唱してきた(1978年には久徳重盛が『人間形成障害病』を上梓。筆者は1970年に青年の中に「まあね族」と「べつに族」が登場し、社会関係、人間関係が希薄化、あるいは持てない青年が登場してきている問題を指摘)。
〇子ども民生委員活動は、戦後、徳島県民生委員連盟の常務理事をしていた平岡國市が西祖谷山村で実践したのが発祥とされている。
〇現在は、日開野博先生によれば、天草市社会福祉協議会、倉敷市社会福祉協議会、土佐清水市社会福祉協議会、徳島県石井町で行われており、かつ徳島県民生児童委員協議会が毎年県内の3~5所を指定し、補助金を5万円ほど出して活動を鵜維新しているとのことです。
〇今回のセミナーでは、土佐清水市の子ども民生員活動が報告された。
〇土佐清水市は、2012年に人口が15961人であったのが、2025年には11418人となり、4543人の人口減少であった。高齢化率は逆に39・3%だったものが52・2%となり、15歳未満の子どもの数は1440人だったのが、672人に減少している。したがって、小学校数も8校から3校(2026度には2校)になる。中学校は5校だったのが1校になった。このような状況の中、一人暮らし高齢者は2421人に増大している。
〇土佐清水市社会福祉協議会では、行政と協働して、地域福祉計画づくりで市内8~10か所で住民座談会を開催、区長、民生委員児童委員、地域福祉協力員等との小地域での情報交換会を市内50地区で開催、地域住民支え合い事業を旧中学校区(市内5地区)で年間4~5回を目途に実施するなど、地域住民のニーズ把握に努めてきた。
〇子ども民生員活動は、“高齢者とふれあいたい”、“民生委員の仕事を知ってほしい”という小学校の校長や主任児童委員の発案で始められた。
〇子ども民生委員活動を始めるに当たっては、社会福祉協議会職員や民生児童委員が先生になり、福祉について学び、その後小学校管内の地区民生児童委員から小学校の児童への委嘱がおこなわれ、「子ども民生委員証」が手渡しで交付される。
〇土佐清水市子ども民生委員は、民生児童委員信条と同じように信条を持っている。信条は、①わたしたちは、地域の人に、笑顔で明るく、心をこめて元気よくあいさつします、②わたしたちは、地域の民生委員、児童委員の皆さんと協力して、地域の人たちとすすんで交流します、③わたしたちは、地域の人たちや友だちに愛情をもって接します、④わたしたちは、ありがとうの感謝の気持ちを忘れず、地域を大切にしますの4か条からなっている。
〇子ども民生委員は、この信条に基づき、高齢者宅を訪問したり、生き生きサロンを訪問して楽器演奏や歌の披露、レクリエーションなどを行ったり、会食をともにしている。その他、子ども目線での防災マップを作製したりもしている。
〇このような活動を通して、子ども目線で、地域で気づいたことを大人や地域に発信したりしている。他方、高齢者宅を訪問した際などに会話が続かない自分を自己覚知したり、相手の目を見て話すことの必要性を確認したり、話題や話し方の工夫をする必要性に気がつくなど自分自身の成長につながることを実感している。これこそ、子ども・青年の成長に必要な福祉教育の成果であり、高齢者等から「ありがとう」との言葉をもらって自己肯定感の高揚につながる実践となっている。
(2025年7月15日記)

 

老爺心お節介情報/第71号(2025年6月24日)

「老爺心お節介情報」第71号

地域福祉研究者の皆様
社会福祉協議会関係者の皆様

皆さまお変わりなくお過ごしでしょうか。
「老爺心お節介情報」第71号を送ります。ご笑覧下さい。
6月28日~29日の日本地域福祉学会武庫川大学大会に参加します。
皆様とお会いできるといいですね。
くれぐれもご自愛の上、ご活躍下さい。

2025年6月24日   大橋 謙策

〇皆さんお変わりなくお過ごしでしょうか。
〇我が家の庭は、植木が繁茂しはじめ、私が出来るところは剪定をしていますが、手に負えないところは“庭師”に入ってもらうことにしています。我が家が頼んでいる“庭師”は、京都の庭園づくりなどで修業した人で、我が家の庭を落葉樹と石畳と石灯篭、蹲、竹垣で、ちょっとした京都風庭園に衣替えしてくれました。書斎に座り、コーヒーを飲みながら庭を眺めるのはちょっとした至福の時です。“庭師”は、樹木の性質をよく知っていて、剪定もただ刈り込めばいいというものではないこと等、まるで“樹木と会話”しているが如く、剪定を進める姿は、やはりその道のプロだと感嘆しながら作業を垣間見ています。
〇4月、5月に行った家の中の断捨離も一段落しました。だいぶすっきりして、また新たな気持ちで生活が出来そうです。ちょっと前までは捨てられなかったものが、80歳を過ぎてからは、惜しげもなく捨てられる心境に我ながら驚いています。それだけ先行きを感じるのでしょうか。
〇5月、6月は各種団体の理事会、評議員会の季節です。私も“終活”に向けて、後任に譲れるところはお願いしています。その一環ではありませんが、3年前から後任を探していた(公財)テクノエイド協会の理事長職の後任がようやく見つかり、各種手続きも終わり、5月27日の理事会、6月20日の評議員会の議決を経て、6月20日付けで退任しました。2011年7月から2025年6月までの14年間務めさせて頂きました。
〇(公財)テクノエイド協会の理事長職は、1986年の(公財)テクノエイド協会創設時以来、厚生省の元局長クラスのポストでしたが、私が就任した2011年は、当時の民主党政権下において、いわゆる“事業仕分け”が行われ、かつ公益法人改革が進み、“瓢箪から駒”の類で私が理事長に選ばれました。
〇就任当時、畏友の白沢正和さんに“大橋さん、(公財)テクノエイド協会理事長職は黒塗り車付き、秘書付き、高給取りのポスト”ですかと尋ねられたが、残念ながらそのような恩典はなく、非常勤の、出勤ごとの日当が支払われるポストでした。日本社会事業大学の清瀬移転でお世話になった旧厚生省社会局の旧知の人からの依頼でもあり、就任しました。
〇一方で、(公財)テクノエイド協会の理事長職に就くことに、ある意味、とてもいいチャンスを与えて頂いたと喜びました。それというのも、WHO(世界保健機構)のICF(国際生活機能分類)を日本語版に訳するワーキンググループの仕事を仰せつかったこともあり、かつ1960年代から救貧的福祉サービスの提供でなく、福祉サービスを必要としている人々の自己実現、幸福追求を図ることが社会福祉の目的であると考えてきた私にとって、福祉機器の利活用を促進するという(公財)テクノエイド協会の業務は、社会福祉界と福祉機器の開発、普及を図る関係者との“橋渡し”ができ、日本の社会福祉の考え方の改革に少しは貢献できるという思いと願いがあったからです。
(2025年6月24日記)

Ⅰ ICFの視点でケアマネジメントの方法を活用したソーシャルワーク

〇WHOのICFの考えを厚生労働省が翻訳し、日本での普及促進を図ろうとした2000年代初頭に、畏友白澤政和さんと、これからの社会福祉研究、実践は「ICFの視点でケアマネジメントの方法を活用したソーシャルワーク」という考え方で進めなければならないと話し合ったことがある。
〇ICFの視点でケアマネジメントの方法を活用したソーシャルワークの考え方については、拙著『地域福祉とは何かの』の第1編第2部「地域での自立生活を支えるICFの視点に基づくケアマネジメント及び福祉機器活用によるソーシャルケア(ソーシャルワーク・ケアワーク)」に詳しく述べてありますのでご参照ください。
〇なお、私が理事長就任後初めての“福祉用具とICFとソーシャルワーク”とのテーマで講演をしたのが2012年11月であるが、そのレジュメを記録として再掲しておく。



Ⅱ 本の紹介

➀郷 仙太郎著『小説 後藤新平』学陽書房、1997年
〇本書の著者である「郷信太郎」は、ペンネームで、本名は東京都副知事を務められた青山佾氏である(青山佾氏は、東京都23区の公選区長として中野区の革新区政を促進された青山良道氏のご子息である)。

#1960年代から、東京都では23区の区長公選の運動が活発になり、口調は公選となった。時を同じくして、中野区を中心の教育委員会の教育委員の公選を求める運動も活発になっていた。
他方、1989年に公表された「人間性の回復の場――コミュニティ構想」では、麗しきコミュニティ作りが言われるようになり、岡村重夫先生も田端輝美先生も、奥田道大コミュニティ理論を援用して地域福祉論を展開していたが、私は「コミュニティ構想」は「自治権」亡き、住民参加で非常に危険だろ継承する論文をかいた。当時、経済同友会は「1970年代の社会問題対策思案」をだしていて、その中で、祷民活動を誘導、水路づけるのはソーシャルワーカーであると述べており、そのことへも反論した論文
きれいごとではなく、「住民自治」とは何を基盤に、どのような権限が住民にあるのかをきちんと整理した上で使わなければならない。

〇青山佾氏は、東京都の管理職でありながら、『上杉鷹山』などの本を執筆した故童門冬二に倣ったのかは知らないが、青山佾氏も東京都政策報道室長時代にこの本を書いた。
〇私はその当時、東京都福祉局、衛生局の仕事を多く手掛けていた縁で青山氏から恵贈された。恵贈された際にすぐ読んだものの、そのまま2階の納戸の書棚に収めままであった。4月、5月の断捨離の際に、この本を見つけ改めて読み直した。
〇というのも、戦前の社会事業研究の上で忘れてはならない人物の一人が後藤新平で、医師として公衆衛生に博識を持っており、その視点で台湾総督府の民生長官や東京市長、内務大臣を歴任し、公衆衛生、都市計画を推進した人物だからである。
〇戦前の社会事業は、社会政策がいまだ未分化であったせいもあるが、貧困をもたらす要因として、ベヴァリッジの5つの巨人悪ではないが、上下水道の整備や保健衛生はとても重要な分野として認識されていた。長谷川良信が『社会事業とは何ぞや』で整理しているように、生活困窮と公衆衛生、都市計画(住宅政策)などとは密接なかかわりがあり、重要な政策課題であった。後藤新平は、100年前の関東大震災からの復旧、復興にも大きな力を発揮している。
〇時代は変わり、社会政策は体系化されてきたものの、その縦割り行政の弊害が明らかになり、改めて“大所高所”からの住民の生活の向上に向けた取り組みの必要性が、とりわけ人口減少、労働力不足、超高齢化社会の進展の中で問われている。
〇過疎地の人口減少、超高齢化で呻吟している地方自治体にあっては、改めて後藤新平が志したような「福祉はまちづくり」の哲学が求められているのではないか。再読しての感想である。

②菊池新一著『遠野カッパの独り言』無明舎出版、2025年6月
〇著者の菊池新一氏は、遠野市が1990年に老人保健福祉計画を策定するときからの畏友である。
〇菊池新一氏(当時、遠野市係長)が、遠野市の老人保健福祉計画の策定アドバイザーを依頼に来た時、私は生意気にも、お飾りの、アリバイ作りのアドバイザーなら引き受けないといった。というのも、私の地域福祉研究・実践の研究スタイルは{バッテリー型の研究方法}だったので、その地域の地域づくりに責任をもって、長くかかわらないと地域づくりはできず、ありきたりの形での形式的な各種委員やアドバイザーをやりたくないと思っていたからである。
〇遠野市は、1991年3月に老人保健福祉計画ではなく、地域福祉計画の老人保健福祉編として「遠野ハートフルプラン」を策定した(遠野市の地域福祉計画づくりは『21世紀型トータルケアシステムの創造―遠野ハートフルプランの展開』万葉舎、2002年9月に詳しいので参照)。
〇遠野市の計画づくりでは、計画づくりのプロセスゴールの一つである住民座談会を68か所で行った。また、リレーションシップゴールとして市議会議員研修を3回行った。市議会議員の調査研究の一環としての研修で、はじめて「福祉のまちづくり」ではなく、「福祉でまちづくり」の必要性を提唱した。
〇『遠野カッパの独り言』には、そんなこともエピソードとして紹介されている。
〇『遠野カッパの独り言』は、菊池新一氏の遠野市役所時代とその後の認定特定非営利法人遠野山・里・暮らしネットワークの活動が紹介されている。菊池新一氏のアイデア溢れる地域づくりの実践にはただただ敬服するばかりである。これこそ地域づくりの醍醐味、楽しさだとおもえると同時に、このような構想、実践が全国各地で必要とされていることを実感する。
〇ここ、数年、長野県の人口減少、超高齢化の小規模市町村の地域福祉のあり方について考える機会が長野県社会福祉協議会から与えられているが、長野県社会福祉協議会の職員たちにとって、この本は必読の書であると思った。
〇それにしても、このような素晴らしい活動、実践を展開できる人に、1990年時に大変失礼な言い方をしたものであると反省をしている。それらの経緯は、本書で「O先生」として紹介されている。
〇本書を読んで、菊池新一氏の考え方、発想は私と非常によく似ていると思った。また、菊池新一氏はコミュニティデザイナーを標榜している山崎亮氏ともよく似ていると感じた。

➂藤原正範著『罪を犯した人々を支えるー刑事司法と福祉のはざまで』岩波新書、2024年4月
〇日本福祉大学は、1980年代から「司法福祉」を大切にしてきた大学で、山口幸雄先生、加藤幸雄先生等家庭裁判所の調査官だった方々が教員として採用されてきた。本書の著者である藤原正範氏も同じ系列の教員である。
〇藤原正範氏は、日本福祉大学ソーシャルインクルージョン研究センターの研究者たちと日本学術振興会の科学研究費に採択されたテーマで協働研究を進め、その研究成果をこの本で取り上げている。その内容は、実際の公判を傍聴しながら、司法福祉について論究している内容である。
〇本書を読んで考えさせられたことは、「更生とは、裁判の結果送り込まれる刑事施設で自分を見つめ直し人間性を回復することだという言説はフィクションである。人の立ち直りは自分自身を大切にしたいと思うことが出発点である。刑事司法手続きの中に、人を大切にする気持ちを育む機能は内包されていない」(P77)、「私は、犯罪を生み出すのは社会であり、社会の傷として犯罪が生み出されると考えている。この考え方に反発する人は多い。犯罪の責任は本人にある。第一に、本人に責任を負わせる。それができないならば家族が責任を持つべきである。そんな考えが社会にまん延している。私は、こんなふうに思うのだ。罪を犯すのは、そこに至るまでの人生の中でさまざまな事情からうまく生きることができなかった人たちである。そのさまざまな事情の中にある社会の責任は決して小さなものではない」(P203)、「刑事裁判への社会福祉士の関与について、バラ色のイメージを大きく振り撒くことは慎みたい。その活動で罪を犯した人々の地域社会への移行や定着が以前より円滑になるとは思うが、その結果、犯罪者は立ち直れるのか、犯罪被害者は救われるのか、犯罪のために生じた社会の傷を癒すことができるのか、ひいては犯罪の少ない社会に近づくことができるのかと問われると、犯罪はそんなに柔に解決できる社会問題ではないと答えるしかないだろう」(P204)という論述である。
(2025年6月24日記)

老爺心お節介情報/第70号(2025年5月10日)

「老爺心お節介情報」第70号

地域福祉研究者の皆様
社会福祉協議会関係者の皆様

お変わりありませんか。
「老爺心お節介情報」第70号を送ります。
ご活用ください。

2025年5月10日  大橋 謙策

〇皆さんお変わりありませんか。
〇季節の移ろいは早いものですね。我が家の庭に咲く花も、今は、てっせん、三寸あやめ、シャリンバイ、アッツ桜、スズラン、二人静が咲いています。庭の小さな畑では、早くもさやえんどうの収穫ができるようになりました。
〇このゴールデンウィークは、娘夫妻に手伝ってもらいながら、“老い支度”の断捨離をしました。過日から行っていた私の書斎に続いて、妻の居室の断捨離、物置の断捨離と、今更ながらよくぞ品物が詰まっているものだと感心してしまいました。出てくる子どもや孫のおもちゃ、品物、写真に目を留めては思い出話が続き、作業は捗りません。それでも“老い支度”への覚悟は妻共々意識でき、断捨離の必要性を自覚しました。
〇断捨離にともない、自分の“実際生活に必要な文化的教養”の低さに我ながら愕然としています。今まで、家事全般を妻に任せていた生活でしたので、“スーパーでの買い物の仕方”“消火器の処分のしかた”、“燃えないゴミの分別基準”、“お風呂場のカビの落とし方”、“詰まった台所の水道の対応策”等々、細々とした知識と技術のなさに情けなくなっています。〇各地の社会福祉協議会の実践の中で、“ごみ屋敷”問題が出てきますが、年老いた一人暮らしでは本当に対応が大変だということを実感する日々です。
〇今号の「老爺心お節介情報」は、この間に読んだ本の書評ではなく、本を読んでの随想を書かせて頂きました。
(2025年5月10日記)

<本を読んでの随想>

① 『過疎地域の福祉革命』(安田由加里著、幻冬舎、2024年12月、900円)

〇長野県社会福祉協議会が主催している「人口減少、超高齢化社会、限界集落の小規模市町村における地域福祉実践のあり方」について、ここ2~3年考える機会が与えられている。そのテーマにピッタリの本『過疎地域の福祉革命』が刊行された。
〇この本は、兵庫県赤穂郡上郡町という全国743あるという「消滅市町村」の一つであり、かつ総務省が過疎地として指定している885市町村の一つである町での実践の取組である。上郡町は人口約1万3000人弱で、高齢化率は40%を超えている。
〇上記の長野県の人口2000人以下の市町村に比べ、人口もまだ多く、地域資源もまだそれなりにある地域での実践であるが、何としても本のタイトルに魅せられた。
〇実践の内容は、町外からの移住者である著者(看護師)が5年前に訪問看護事業所を立ち上げ、共感する介護支援専門員、理学療法士、作業療法士、言語聴覚士等リハ職、看護職、介護職が連携して地域での自立生活を支援している実践である。
〇5年前に立ち上げた事業所は、現在職員が30人規模に成長している。この事業所が取り組んだ介護予防の取組が功をなして、上郡町の介護費が2000万円削減できたという。
〇以前照会した福山市の鞆の浦地区の実践と同じように、民間事業所が柔軟な取り組みを行い、住民のニーズに応え、住民が主体的に地域課題に気づき、解決に取り組む実践は素晴らしいものである。
〇ただ、筆者としては“福祉革命”というタイトルから、新たなシステムが構築されたのかと期待していたが、それは残念ながらなかった。
〇筆者は、過疎地の地域福祉は、看護小規模多機能施設を中核として、訪問看護、訪問介護、訪問リハビリ、在宅医療診療所の医師などの専門職が連携して対応できれば、かなりの過疎地でも地域自立生活支援が可能になると提言してきた。
〇また、過疎地では、住民の年金受給額の総額と保健・医療・福祉・介護サービスに従事している人の給与の総額を合算させてみると大変な規模になっていて、それらが事実上その地域の経済を支えていることにもっと着目して、「福祉はまちづくり」という哲学で、地方自治体経営を推進していくことが重要であると提言してきた。
〇そんなことも含めて考えてきた私とって、本のタイトルにある“福祉革命”がもっと論じられているのかと思ったが、残念ながら、内容はそうではなかった。

② 『地域社会におけるウエルビーイングの構築―社会教育と福祉の対話』(松田武雄著、福村出版、2023年、3900円)

〇筆者は、「社会教育と地域福祉の学際的研究」を60年間行ってきたので、この本のタイトルに魅せられて購入し、読んだ。
〇著者の松田武雄先生は、名古屋大学教育学部出身で、筆者と同じ小川利夫先生を恩師として仰いでいる。したがって、筆者と同じように「社会教育と社会福祉の学際研究」に関心を寄せ、研究されることは不思議ではない。しかしながら、松田武雄先生のお名前および勤務先はそれなりに存じ上げていたが、著書を読むのは初めてである。それというのも、松田武雄先生は、筆者より10歳くらい若く、日本社会教育学会で久しく交わる機会もなかったからであるし、松田武雄先生の若いころの研究は、日本における社会教育成立史研究だったということもあるのかもしれない。
〇筆者は、拙著『地域福祉とは何か』のなかで、“他方、社会教育学会、社会教育政策においては、東京大学や名古屋大学の社会教育関係講座の主任教授の方々が社会教育と地域福祉と題する著作を上梓する状況であり、かつ文部科学省も「地域学校協働事業」を政策の重要な柱にする状況である”」ののべ、例えばとして松田武雄先生の『社会教育と福祉と地域づくりをつなぐ』(大学教育出版、2019年)を紹介している(拙著『地域福祉とは何か』はじめにP4参照)。
〇ところで、著者と筆者の共通の恩師である小川利夫先生が「教育と社会教育の関係」、「教育と福祉の谷間」の問題について体系的に研究したのが、この分野の研究としては実質的に嚆矢である。
〇小川利夫先生は、「教育と福祉の関り」の「今後の課題」として3点挙げている(①いわゆる児童保護をめぐる問題、いいかえるなら教育における国民的最低限保障をめぐる問題、②セツルメントをめぐる問題、いいかえるなら働く国民大衆の生活と教育に関わる問題、③いわゆるコミュニティ・オーガニゼションをめぐる問題、いいかえるなら井上友一にその一つの「原型」がみられる「自治民育」の歴史的、今日的課題(小川利夫著『社会教育研究40年』P110、小川利夫社会教育論集第8巻、亜紀書房、1992年2月)。しかしながら、小川利夫先生は①の問題に研究を焦点化させていく。
〇筆者の「教育と社会福祉」の学際的研究は、1960年代では夜間中学生やへき地教育、あるいは児童養護施設の児童の教育、さらには生活困窮者世帯の教育扶助と教育補助問題などについて行っていた。
〇しかしながら、恩師が研究課題に挙げていながら未だ手つかずの分野に取り組み恩師との研究の違いを出すことと、江口英一先生の低所得階層の生活保護世帯への転落を防ぐためには、地方自治体ごとに対人福祉サービスを整備する必要性があるという指摘や、岡村重夫先生の“新しい社会福祉の考え方としての地域福祉”という論説に影響を受けて、“社会教育と地域福祉の学際的研究”を研究課題とすることにした。
〇その成人を中心にした「教育と福祉」、地域を基盤としている「社会教育と地域福祉」の学際的研究の課題として、①地域福祉の主体形成と社会教育、②ノーマライゼーション思想の具現化に関わる福祉教育と社会教育、③高齢者のいきがい、健康増進、社会参加促進と社会教育、④退職前労働者における老後生活設計イメージ作りと社会教育、⑤外国人の福祉と社会教育、⑥国際ボランティア活動のすすめと社会教育、⑦貧困の世代継承と社会教育、⑨コミュニティワークの方法と社会教育を挙げた(拙稿「『硯滴』に学ぶー不肖の弟子の戯言と思い」小川利夫著『社会教育研究40年』所収、亜紀書房、1992年)。
〇松田武雄先生は、小川利夫先生が日本社会事業大学の教員になって、間もない1962年に執筆した「わが国社会事業理論における社会教育観の系譜――その『位置づけ』に関する考察」(日本社会事業大学紀要『社会事業の諸問題』第10集、後の1989年に上梓した『教育福祉問題の基本問題』に収録、改題して「歴史的課題としての社会福祉教育論」、筆者は日本社会事業大学紀要『社会事業の諸問題』第10集を読んで、この論文に触発されて研究者の道を志す)の改題後の『教育福祉問題の基本問題』の中の章のタイトルとして使われた「社会福祉教育」という用語を使用して、そこに従来の「福祉教育論」とは違う視点、領域を見出そうとされている。
〇小川利夫先生は、「心のリハビリ通信」第6号(1998年)の中でも、“私は、日社大時代いらい、社会福祉教育的な考察を手掛けてきたのは”と述べ、ある意味“気軽に”「社会福祉教育」という用語を使用している。

〇松田武雄先生は、「教育と福祉の関り」、「社会教育と福祉の関り」について以下のように論述している。

① 学校教育と社会教育が合わせて福祉とつながり、総称して教育福祉論ということができるのであり、大人も含めた幅広い学習権、社会権の実現を目指すことができる(同書P25)
② 社会教育と地域福祉を統合した社会教育福祉は、学校教育以上に福祉的性格の強い地域づくりへと展開している(同書P26)
たとえば、島根県松江市では、地区公民館の中に地区社会福祉協議会が設置され、社会教育活動と地域福祉活動とが一体となった住民主体の活動が行われている(同書P26)
③ 教育福祉論はもともと学校教育と福祉の「谷間」の問題として提起されたが、社会教育と福祉が結びつくことによって、社会教育福祉として地域づくりへと展開していく(同書P26)
④ 地域におい社会教育福祉を構想する際には、かつてのような行政依存ではなく、住民自治によるコミュニティ・ガバナンスの構築がその基盤となる。したがって、コミュニティ・ガバナンスを視野に入れ、社会教育と福祉とを統合した社会教育福祉という領域を構想して、現代のリスク社会、貧困社会に抗することができるような社会教育(社会教育福祉)のシステムを構築することがどのように可能なのか、という課題が登場する(同書P37)
⑤ ちなみに私は、社会教育福祉を「コミュニティにおける社会教育と福祉の融合も
しくは統合」と説明している。「融合」は社会教育福祉を機能論的に把握しようとしたものであり、「統合」はそれを構造的に把握しようとしたものである(同書P68)
⑥ 福祉の視点からすると、社会教育の目的は、学習・文化・地域活動を中心とする人間活動を通した福祉(well-being=福祉)の実現であるということもできよう。個人とコミュニティ・地域社会に福祉を実現していくために、学習・文化活動と地域活動を通した自律的な自己形成がおこなわれ、かつ個人および集団によるそのような活動に狭義の福祉活動が関わっているのであり、これらを統合して社会教育(社会教育福祉)と考えたい(同書P87)

〇筆者がこの本を読んで物足りなさを感じた点は以下の通りである。

〇ⅰ)著者は、「社会福祉」ではなく、「福祉」との対話と表題で掲げているが、その「福祉」は広井良典さんの福祉の捉え方を引用して、well―being=福祉という意味合いで使っている。それでいて、社会教育の目的もwell―being=福祉であると言っているのでは、本のタイトルの「社会教育と福祉の対話」という意味が明らかにならない。
〇筆者自身、「社会福祉」を憲法第25条から説き起こすのではなく、憲法第13条も法源として位置づける必要があり、かつ社会福祉の目的は福祉サービス利用者の“最低限度の生活保障”ではなく、幸福追求、自己実現を図ることであると1970年代から述べているので、著者が「福祉」をwell―beingと考えることには異論はない。
〇しかしながら、著者は上記の⑥のところで、「狭義の福祉活動」という“古めかしい”用語の使い方をしていることには疑問を感じる。
〇社会福祉学界では、“広義の福祉と狭義の福祉”、“社会福祉と福祉”という用語を巡って歴史的に論争してきたことを考えると、著者の社会福祉認識は浅すぎて、自分の都合の良い使い方をしているといわざるを得ない。(医療・保健・介護・福祉の連携などという場合には、「社会福祉」を短く、省略して「福祉」という言い方はされる。筆者も、このような場合にはそういう使い方をしているが、基本的には『社会福祉』と「福祉」とは使い分けている)。
〇ⅱ)もう一つの点は、地域づくりを念頭においていながら、本の著者が使う「福祉」という用語、論述の中に「地域福祉」の考え方やそれとの関りがほとんど出てこない。
〇今や、社会福祉政策においても、社会福祉実践においても「地域福祉」が主流になっている状況の中で、“大人”を中心にした「社会教育福祉」と言っておきながら「地域福祉」との関りがほとんど論述されていないのはなぜなのだろうか
〇ⅲ)社会教育福祉の例として、島根県松江市の事例(上記の②)を度々挙げているが、この松江市のシステムは、筆者が1990年ころから、松江市社会福祉協議会からの招聘を受け、3~4年間、校区毎の地域づくり、公民館連絡協議会との連携、松江市の地域福祉計画及び地域福祉活動計画づくりなどにおいて社会福祉協議会並びに行政に提言し、システム化されたもので、そうした経緯をこの本の著者は学んでいないのではないか(筆者は、松江市との「関係人口」を継続するのが難しくなり、同志社大学の上野谷加代子先生に松江市との「関係人口」による支援を引き継いで頂いた。この間の活動の成果は『松江市の地域福祉計画―住民の主体形成とコミュニティソーシャルワークの展開』(上野谷加代子・杉崎千洋・松端克文編著、ミネルヴァ書房、2006年9月)に詳しいので参照されたい。筆者も第1章「21世紀型社会システムづくりと地域福祉―福祉文化と地域福祉計画」という拙
稿を掲載している)。
〇松江市の公民館は、戦後の早い時期に文部省で主任社会教育までされた藤原英夫先生(島根県職員から文部省へ転籍。のちに甲南女子大学学長。島根県出身、松江市在住)の影響もあって、松江市では小学校区ごとに公立公民館が設置されていた。その公民館には既に保健師が配置されていた。一方、公民館には地区社会福祉協議会の事務局も置かれていた(昭和30年代後半から50年代後半にかけて設置)。
〇筆者は、長野県下伊那地域での実習体験から、この公民館にある地区社会福祉協議会の機能を活性化し、コミュニティソーシャルワーク機能を発揮できるようにした保健、社会教育、社会福祉が連携して地域づくりを進めた方がいいと判断し、公民館連絡協議会や行政にも働きかけてきた。その結果、1997年度より、各公民館に地域保健福祉推進員が配置され、かつ公民館長が地区社会福祉協議会の会長を兼ねることで、住民の主体形成とコミュニティソーシャルワーク機能とが一体的に行われるようになった。
〇松江市のこのような保健・福祉・教育を小学校区毎に一体的に展開する松江市のシステムは松江市の「関係人口」と地域とが一緒に作り上げたものである。
〇この本の著者はアクションリサーチの重要性を指摘しているが、そうだとすれば地域の現象、事象を皮相的に紹介するのではなく、アクションリサーチとしての「関係人口」と地域との関りをもっと本質的に深める考察をして欲しかった。
〇筆者のように「バッテリー型研究」方法で、各地のシステムづくりをしてきたものには、著者のこのような記述、研究方法には疑問が残る。ただし、著者は、沖縄県や長野県松本市では、地域との「関係人口」としてのつながりをもって活動していることは評価したい。

(備考)
「老爺心お節介情報」は、阪野貢先生のブログ(「阪野貢 市民福祉教育研究所」で検索)に第1号から収録されていますので、関心のある方は検索してください。 この「老爺心お節介情報」はご自由にご活用頂いて結構です。

阪野貢先生のブログには、「大橋謙策の福祉教育論」というコーナーがあり、その「アーカイブ(1)・著書」の中に、阪野貢先生が編集された「大橋謙策の電子書籍」があります。ご参照ください。

第1巻「四国お遍路紀行・熊野古道紀行―歩き来て自然と生きる意味を知る―」
第2巻「老爺心お節介情報―お変わりなくお過ごしでしょうか―」
第3巻「地域福祉と福祉教育―鼎談と講演―」
第4巻「異端から正統へ・50年の闘い―「バッテリー型研究」方法の体系化―」
第5巻「研修・講演録―地域福祉の過去から未来へ―」
第6巻「経歴と研究業績―地域福祉実践・研究の系譜―」
第7巻「福祉でまちづくり―支え合う地域福祉実践―」
第8巻「大橋謙策若き日の論考―地域福祉論の「原点」を探る―」
別  巻「地域包括ケア・介護・CSW・潮流と展望―理論と実践―」
ブックレット「社会福祉従事者の社会福祉観と虐待問題」

大橋謙策/大橋ブックレット 創刊号:社会福祉従事者の社会福祉観と虐待問題

 


 

はじめに

〇日本社会事業大学同窓会北海道支部より、「北海道において保育所、高齢者福祉施設、障害者福祉施設等で虐待問題が起きている。ついては、同窓会支部の機関紙である『アガペ』において、『社会福祉と人権』というテーマで特集を組み、取り組みたい」ので、私にも「社会福祉と人権―社会福祉の今後―」と題して寄稿してほしい、との要請があった。
とても大事な課題であり、私なりに思うところを書かせて頂きたいと思った。しかしながら、大学教員退任後、社会福祉に関わる事象、事案、研究を網羅的に、かつ継続的にウオッチングしていないので、十分ご期待に沿えるかわからないが、本稿を書かせていただいている。そういう意味では、学術論文というより、エッセイ風な論考と捉えて頂きたい。
〇社会福祉実践現場などにおける虐待の問題は、法的には、①身体的虐待、②性的虐待、 ③経済的虐待、④ネグレクト、⑤心理的虐待に分類される。その虐待は現象的には職員一人一人の資質の問題として捉えられる。しかしながら、その背景にある社会構造としては、ケアの考え方、日本人の人権感覚、社会福祉従事者の人権感覚、社会福祉法人の経営・運営の在り方等、その背景と構造の分析は単純ではない。
〇筆者としては、それらの背景も含めて、以下のように論稿を構成したいと思っている。1回の寄稿では終わらないので、その旨ご了承頂きたい。

① 日本国民の文化と福祉文化――私が50年間闘ってきた「社会福祉通説」の問題
② 憲法第25条に基づくケア観と憲法第13条に基づくケア観の相違
③ 福祉サービスを必要としている人の「社会生活モデル」に基づくアセスメントと医学モデルに基づくアセスメント
④ 福祉サービスを必要としている人のナラティブ(物語)を基底とした「求めと必要と合意」に基づく支援方針の作成(ICFの視点と福祉機器の利活用)
⑤ 入所型施設の運営・経営理念、方針と提供されるサービス
⑥ 勤務先の“劣悪な労働環境”とキャリアパス等の職員資質向上の取り組み

Ⅰ 日本国民の文化と福祉文化――筆者が50年間闘ってきた「社会福祉通説」の問題

〇筆者は、高校時代に島木健作の『生活の探求』を読んで、日本社会事業大学への進学を決めた。高校の教師や親類縁者からは、なぜ日本社会事業大学のようなところを選択するのかと“奇人・変人”扱いであった。
〇そのような環境の下での日本社会事業大学での学習であったが、授業内容は必ずしも筆者が望んでいたこととは違っていた。その大きな要因が、アメリカからの“直輸入”的社会福祉方法論を“金科玉条”のごとく位置づけることと、「福祉六法」に基づくサービスの提供であった。
〇その当時の社会福祉方法論は、アメリカで1930年代に確立した考え方であり、WASP(ホワイト、アングロサクソン、プロテスタント)の文化を基底として成立してきた考え方、方法論であり、精神医学、心理学にかなり影響された考え方であった。
〇そのような中、筆者は日本の文化、風土に即した社会福祉の考え方、方法論があるのではないかと考え呻吟する。
〇当時、一番ケ瀬康子先生が「福祉文化」という用語を使用していくつか論文を書いており、自分の研究の方向もその方向ではないかと考え、“文化論”について研究したが、奥が深く、かつ掴まえ所がなく、その研究を中断した。

註1:一番ケ瀬康子先生は、1989年に「福祉文化学会」を創立している。
註2:筆者は、2005年に「わが国におけるソーシャルワークの理論化を求めて」(『ソーシャルワーク研究』31巻第1号)を書き、中根千枝の「タテ社会論」、
阿部謹也の「世間体文化論」等を援用して、日本のソーシャルワークの理論化を論証した。

〇この日本文化は根が深く、簡単に因果関係を証明できないので、研究は中断したが、常に頭にこびりついて離れない。
〇日本では、子育てする際の文化として、“禁止と命令”によって、枠にはめようとする文化がある。常に、集団的価値観が尊重され、同調志向が強く、“逸脱”したものを排除、蔑視する傾向が強い。これは、学校教育における画一的教育方法であるベル・ランカスター方式の影響でもある。是非、『6か国転校生―ナージャの発見』(集英社)を読んでほしい。
〇そのような中、筆者は、戦前の社会事業理論における精神性と物質性に関する研究を行い、そのあり方を問うことが日本の社会福祉実践、研究を変えることになると確信していく。
〇結果として、筆者は地域福祉と社会教育の連携、学際研究に関心を寄せるようになり、その実践のフィールドを公民館や社会福祉協議会に求めていくことになる。
〇ところで、筆者は自分自身としては社会福祉の研究者であり、それを岡村重夫が提唱した “社会福祉の新しい考え方としての地域福祉“(岡村重夫説・1970年)という考え方に依拠して展開しようと考えていたが、そのような筆者の研究姿勢は、多くの社会福祉学研究者には理解されず、日本社会事業大学の教員からも、”大橋謙策は社会福祉研究のプロパーではない“という批判、評価を受けた。また、日本社会事業大学の清瀬移転に際し、大学院創設の文部省への申請書を審査した某有名大学の某教授も”あなたの論文は社会福祉の論文ではない“という評価を下した。
〇そのような中、筆者は、従来の社会福祉通説とは異なる新しい社会福祉実践、社会福祉学研究を求めて、社会福祉学界への抵抗の地域福祉研究50年を送ることになる。
〇その既存の社会福祉通説への批判と新たな社会福祉実践、社会福祉研究の論題は以下の通りであった。

ⅰ) 大河内一男の労働経済学(「我が国における社会事業の現状と将来について」昭和13年論文)を基盤とする社会福祉研究への批判
ⅱ) 社会権的生存権保障としての憲法第25条の「ウエルフェアー」から、憲法第13条に基づく幸福追求、自己実現支援の「ウエルビーイング」への転換(1973年論文)――障害者の学習・文化・スポーツの保障、「快・不快」を基底としたケア観、
ⅲ) 属性分野で細分化された福祉サービス、福祉行政の再編成と地域自立生活支援
ⅳ) 社会福祉施設中心主義と施設の社会化、地域化論(「施設の社会化と福祉実践」(日本社会福祉学会紀要『社会福祉学』第19号所収、1978年論文)
ⅴ)社会福祉の国家責任論オンリーではなく、社会保険の国家責任論と対人福祉サービスの市町村責任論との分離
ⅵ) 社会福祉の行政責任論ではなく、経済的給付、システムづくりにおける行政責任と地域自立生活支援における住民との協働による対人援助――べヴァリッジの第3レポートの位置、1601年「Statute Charitable Uses」研究、憲法第89条の桎梏からの脱却、2008年「地域における「新たな支えあい」を求めて」(厚労省研究会報告書―2016年地域共生社会政策の前史になる報告書)
ⅶ)社会事業における精神性と物質性――戦後の社会福祉は物質的対応で解決できると考えてきたことの誤謬――「救済の精神は精神の救済」(小河滋次郎、戦前方面委員の理念)

〇筆者は、1984年に書いた論文で、社会福祉研究者、社会教育研究者は“出されてきた政策には敏感であるが、政策を出さざるを得ない背景には鈍感である“と述べ、住民のニーズに即応したサービスの提供、地域づくりの必要性を説いている。
〇それは、対人援助として社会福祉を提供する際に、かつ地域づくりを展開する際における住民参加と住民のニーズを基点に考えるということである。
〇従来の社会福祉行政には、住民参加の規定もなければ、住民の相談、ニーズを「社会福祉六法体制」の基準に該当するかどうかで判定することや、措置行政の枠組みの中でサービスを提供すれば良いという考え方に対する批判でもあった。
〇そのような中、1970年代に、なぜ市町村社会福祉行政は計画行政でないのか、また、地方自治体の社会福祉施設整備計画がないのかを問い、市町村ごとに社会福祉計画を立案する必要性を説いた。
〇1980年には「ボランティア活動の構造」という図を示し、一般的隣近所の紐帯を強める地域づくり活動、地域にいる福祉サービス利用者を支える地域づくり、それらを社会福祉計画策定により解決していくという「自立と連帯に基づく社会・地域づくりのボランティア活動の構造」という図を作成した。
〇児童福祉法には市町村に児童福祉審議会を設置することが「できる」規定があり、かつ、民生委員法第24条に規定される意見具申権という規定、考え方を基に、当時、いくつかの自治体において、住民参加を保証する「社会福祉審議会」、「地域福祉審議会」の設置を求める提案をしている。

註3:東京都狛江市は、住民参加を規定した「市民福祉委員会」を条例で1994年に設置している。同じ頃、東京都目黒区でも「地域保健福祉審議会」が設置された。筆者の地元の稲城市では1980年代初めに「社会福祉委員会」を設置するが行政による要綱設置であった。東京都豊島区でも要綱設置であった。

〇このような住民参加による、住民のニーズに対応したサービスの提供という考え方が、多くの社会福祉行政、社会福祉従事者に共有されていれば、少なくとも“虐待”が起きる社会的背景、構造は違ってくる。
〇しかしながら、現実は、そのような住民のニーズに応えて、住民参加で社会福祉施設が作られたわけでなく、かつ、その社会福祉施設は措置行政によって、長らくサービス利用者を“収容保護する”という構造のなかで、“閉ざされた空間”に置いて福祉サービスが提供されるという構造の中で“虐待”事案として発生する。
〇社会福祉施設が、1978年に書いた論文のように、地域に開かれ、地域住民の共同利用施設として位置づけられ、運営、経営されているならば、“虐待”という事案は少しは防げるのではないだろうか。

Ⅱ 憲法第13条及び「快・不快」を基底としたケア観と「社会福祉観の貧困」、「人間観の貧困」「貧困観の貧困」「生活観の貧困」

〇筆者は、日本社会事業大学の講義で、よく「社会福祉観の貧困」「人間観の貧困」「貧困観の貧困」「生活観の貧困」という用語を使用して講義をしてきた。
〇それは、社会福祉を志している学生が陥り易い社会福祉観を問い直す作業過程として、その用語を使ってきた。
〇筆者は、社会福祉を憲法第25条からだけ説き起こすのではなく、それとともに憲法第13条からも説き起こすべきだと1960年代末から言ってきたし、論文にも書いてきた。
〇憲法第25条の社会権的生存権の規定は、人類が歴史的に獲得してきた権利であり、国民のセーフティネット機能として重要であることは重々分かったうえで、それだけだと提供される社会福祉サービスがちまちました“最低限度の生活保障”の域を出ないことになるし、その反動として、社会福祉サービスを提供する側のパターナリズムが避けられないと考えてきたからである。
〇それらのことを実感する機会はいくつもあるが、その一つは1970年に女子栄養大学に助手として採用され、勤務し始めて改めて痛感したし、同じく1970年から始めた聖心女子大学の非常勤講師の勤務からも痛感させられた。
〇女子栄養大学では、昼食を大学の食堂で摂るのだけれど、その食堂はキャフェテリア方式で、自分の好み、自分の懐具合、自分が食べたい分量を自分で考えるという“主体性”が常に求められる。
〇当時の社会福祉施設の食事は盛っ切りで、自分(福祉サービス利用者)の主体的選択の余地はなく、かつ食器も割れない食器で供されていた。日常生活における食事の持つ意味、食事に伴う生活文化などを女子栄養大学でいろいろ教わった。
〇当時、島根県出雲市の長浜和光園がバイキング方式の食事を提供し始めていて、社会福祉施設における食事に関わる問題の重要性を随分と学ばせてもらった。食事を通して学ぶ食文化、食事の場における会話、食事を作る生活技術など日常生活における食事の持つ意味は大きい。女子栄養大学では、当時核家族化が進む中での“子どもの孤食”の問題が大きく取り上げられていた。
〇筆者は、当時の女子栄養大学で社会福祉の科目を受講している学生に、夏休みの宿題として、社会福祉施設を訪問し、その施設の食事の実態を分析するレポート課題を出した。そのレポートに書かれた当時の分析と今日とを比較出来たらとても良かったと思うのだけれど、そのレポートは女子栄養大学を退職した際に、廃棄処分してしまったことが残念である。
〇他方、聖心女子大学でも社会福祉の科目を教えていたが、同じように夏休みの宿題として、社会福祉施設を訪問してボランティア活動を行い、学生なりの社会福祉施設の評価を求めるレポートを課した。その際、学生から質問があった。訪ねる社会福祉施設は日本の社会福祉施設でなければ駄目かという質問である。その学生は、夏休みに入ると同時に、父母がいる海外へ行くという。その海外の社会福祉施設の訪問記でもいいのかという質問であった。そのような境遇の学生が数人いた。日本と海外の社会福祉施設との比較が図らずも行うことができた。社会福祉施設を取り巻く福祉文化の違いを期せずして学生同士で論議できたことはおもしろかった。
〇1992年、筆者は日本社会事業大学の長期在外研究が認められ、イギリスに半年間滞在した。それも、筆者はロンドン大学などへの派遣ではなく、自由にさせて頂いた。
〇筆者は、ロンドンのケンジントン&チェルシー区に滞在し、区内にあるホスピスやボランティアセンターなどに出入りさせてもらった。ホスピスでは、余命いくばくもない人々が、私が訪問する度に、私に向かって“エンジョイしているか”と尋ねられる日々であった。そのホスピスでは、余命いくばくもないのに、ドリンキングパーティもあり、かつ犬のボランティアも登録されていて連れてこられたり、浴室にはカラフルな壁画が描かれていたりという福祉文化の違いを様々な形で私に問いかけてきた。
〇筆者は、憲法第13条に基づく社会福祉観を考える場合、生活上の様々な事象に対し「快・不快」を基底として、生活を楽しむ、生活を再創造するというリクリエーションが大切ではないかと考え、1980年代後半に、日本社会事業大学の故垣内芳子先生や日本レクリエーション協会の園田碩哉さん、千葉和夫さん(のちに日本社会事業大学の教員)、淑徳短期大学の木谷宜弘先生(元全社協ボランティア活動振興センター長)等と“社会福祉における文化の問題、レクリエーションの位置”について研究を行った。社会福祉施設の食事、社会福祉施設のインテリア、社会福祉施設職員のユニフォーム、行動規範などについて調査研究を行った。その結果は、1989年4月に『福祉レクリエーションの実践』(ぎょうせい)として上梓された。その『福祉レクリエーションの実践』には、筆者が日本社会事業大学研究紀要第34集に寄稿した「社会福祉思想・法理念にみるレクリエーションの位置」と題する論文が収録されている。
〇その論文では、ⅰ)社会福祉とレクリエーション、ⅱ)レクリエーションの捉え方の視角、ⅲ)西洋の社会福祉思想とレクリエーション及び娯楽、ⅳ)日本における社会福祉思想にみるレクリエーション及び娯楽、ⅴ)社会福祉六法の目的と生活観、ⅵ)施設最低基準にみる生活観、ⅶ)在宅生活自立援助ネットワークの構成要件、ⅷ)在宅福祉サービスの供給方法と施設整備の在り方について論述している。
〇この論文では、権田保之助の社会事業や娯楽の捉え方を踏まえつつ、如何に社会福祉法の目的が狭隘であるかを論述した。と同時に、入所型社会福祉施設のサービスを分解して、地域で住民の必要と求めに応じてサービスパッケージをすれば、社会福祉施設の位置と役割が変わることを指摘している(当時はケアマネジメントという用語は使われてなく、筆者は必要なサービスをパッケージして提供するという意味でサービスパッケージという用語を使用していた)。
〇1996年に総理府の社会保障審議会が社会保障の捉え方を見直し、事実上福祉サービスを必要としている人のその人らしさを支えるサービスに転換させる勧告を出す。憲法第25条に基づく“最低限度の生活保障”への偏りを反省し、事実上憲法第13条を法源とする社会保障、社会福祉への転換が求められた。
〇しかしながら、相も変わらず社会福祉分野では、“上から目線のサービスを提供してあげる”という考え方や姿勢が蔓延っているし、生活を楽しく、明るく、楽しむ自立生活支援にはなっていない。
〇社会福祉分野では、故一番ケ瀬康子先生等が「福祉文化学会」を設立し、社会福祉サービスの考え方や社会福祉における文化性について研究を推進してきたが、その研究枠組みは必ずしも私の先の論文の枠組みとは同じではない。
〇他方、1970年代から播磨靖男さんたちのわたぼうしコンサートを始めとして、社会福祉の枠にとらわれない障害者文化の向上に貢献する実践があるが、それらがどれだけ社会福祉分野に影響を与えて、社会福祉の質を変えたかは定かでない。
〇個々人の福祉サービスを必要としている人の「快・不快」を基にしたケアの提供を考えたならば、従来の入所型社会福祉施設で行ってきたケアが、いかにケアする側の論理、都合で提供されているかが分かるであろう。
〇日本人の文化と社会福祉との関りについては、本連載第1回でも書いたが、社会福祉関係者もケア提供者も、福祉サービスを必要としている人を「枠組み」に当てはめ、その「枠組み」の中の人間は同じだという“錯覚”にも似た“思い入れ”で対応し、「枠組み」の中の人、一人ひとりを丁寧に見て、その人の“思い”や“願い”をきちんとアセスメントしようとしない「文化」を持っている。
〇障害者といっても、障害の状態、障害の種類によっては全然違うし、障害者の中の発達障害者を見ても、その行動様式、“こだわり”は全部違うといってよい。なのに、それらの人々を一括りにして対応しようとするケア観が蔓延っている。
〇人間を見るのに、「枠組み」からのみ見たり、レッテルを貼ってみる人間観を変え、一人ひとり異なる存在であり、その異なる存在を受容し、関係性を豊かに持てるようにしていかないとケアの現場だけで問題を解決できると思うのは誤りだとさえいえる。
〇虐待の背景、深層心理には、日本人が陥っているその人のおかれている属性や枠組みから人間を捉える抜きがたい文化がある。
〇このような日本人が“身に着けている文化”を払しょくし、新しい人間観の基でのケア観を構築していくことが“急げば回れ”の諺ではないが重要である。そのため、小さい時からの、多分化を学び、一人一人のナラティブを尊重する福祉教育の実践の推進が求められている。

Ⅲ 情感的ケア観からアセスメントに基づく科学的ケア観への転換―「求めと必要と合意」に基づく支援

〇日本の医療の発展の要因の一つは、症状、病変の事象から、それがどこに起因するのかを診断する検査技術の発展が大きく貢献してきたと筆者は考えている。かつては、脈を取ったり、へらで舌の状態を観察したり、聴診器で心臓の鼓動や呼吸を確認するといった診断法が、今ではレントゲン、尿検査、血液検査、MRI、CTスキャナーといった検査機器の開発により、症状、病変の診断は特段に向上してきている。それらの検査を担う検査技師の養成、資格まで確立してきている。
〇かつて、巷で言い交された“あのやぶ医者は!”といった言葉は今日では死語になっている。
〇それに比して、社会福祉分野では、長らく中央集権的機関委任事務体制のもとで、サービス利用者が行政により認定され、その人たちが行政の委任を受けた措置施設で生活を送ることを前提に、その人のADL(日常自立生活能力)が低くければ、それを補完する“世話”として三大介護と呼ばれる排せつ介助支援、食事摂取支援、入浴介助支援が展開されてきた。
〇そこでは、措置されたサービスを必要としている人の生活を向上させるために、何をするべきか、何に気を付けるべきかの診断という発想は事実上なかったといっても過言ではない。
〇1971年の「社会福祉施設緊急整備計画」の中では、それら福祉サービスを必要としている人々を施設に“収容保護”し、いわゆる“最低限度の生活を保障すればいい”という考えで貫かれていたといっても過言ではないであろう。
〇1971年以降の「入所型社会福祉施設中心の時代」においては、ある意味、措置された福祉サービスを必要としている人の生活を“丸ごと抱え込んで支援する”という発想のもとに、その利用者の個々の差異には着目せず、同じ生活リズムで、集団的に生活を“させる”というケアを提供する職員側の立場、視点からの対応の仕方で済まされてきた。
〇しかしながら、1990年の社会福祉八法改正“により、在宅福祉サービスが法定化され、かつ地方分権の下で中央集権的機関委任事務体制の改革が求められるようになると、状況は変わる。
〇在宅福祉サービスを利用している人は、一人ひとり生活環境も違うし、行動様式も異なるし、同一空間で集団生活をしているわけではない。それだけに、在宅福祉サービスを利用している人の支援には個々人の生活状況や本人の希望を尊重したサービスの提供が求められるようになる。
〇筆者は、1987年に書いた論文「社会福祉思想・法理念におけるレクリエーションの位置」(日本社会事業大学研究紀要第34集所収、1988年刊)において、入所型施設で提供しているサービスの分節化と構造化の必要性を提起した。それは福祉サービスを必要としている人の状況に応じて分節化させたサービスの中から必要なものを選択し、パッケージ化(当時、ケアマネジメントという用語はなかった)させれば画一的なサービス提供にもならず、かつ在宅福祉サービスの個々人の状況に対応できるということを提起した。

註1: 拙著『地域福祉とは何か――哲学・理念・システムとコミュニティソーシャルワーク』(中央法規出版、2022年4月刊、P32参照)

〇このことを進めるためには、福祉サービスを必要としている人は何を望んでいるのかその人の希望、願い、思いをきちんと受け止めなければならないし、同時に福祉サービスを必要としている人にケア・支援を行う専門職が、その人にはどういうサービスが必要であるかを診断したうえで支援する必要があることも提起した。
〇筆者の言い方で言えば、福祉サービスを必要としている人の求め、希望と専門職が生活支援上必要と考えることを出し合い、両者の合意で在宅福祉サービスの提供を考えていくという「求めと必要と合意」に基づく支援のあり方である。
〇ところで、福祉サービスを必要としている人々への支援において、よほど気を付けないと無意識のうちに“上から目線”の世話をしてあげるというパターナリズムになりがちになる。
〇福祉サービスを必要としている人はさまざまな心身機能の障害や生活上の機能障害において要介護、要支援の状態に陥っているので、ついつい福祉サービス従事者はその機能障害を改善、補完するために“いいことをしてあげる”という意識になりがちである。それは、一見“善意”に満ちた行為として考えられがちであるが、福祉サービスを必要としている人の意思や主体性を尊重しての“誠意”ある行為といえるのであろうか。
〇また、福祉サービスを必要としている人で家族と同居している場合には、福祉サービスを必要としている人本人の意思よりも、同居している家族が家族自身の“思い”、“願い”を福祉サービス従事者に話され、その家族の希望が優先され、ややもすると福祉サービスを必要としている本人の意向や意思は無視されがちになる。
〇ましてや、福祉サービスを必要としている人は、日常的に同居している家族に普段から迷惑をかけているからという“負い目”もあり、家族に遠慮して、自分の意向、意思を表明しない場合が多々ある。
〇日本の戦後の社会保障・社会福祉制度設計は、家族がおり、家族が“助け合う”ことを当たり前のように前提として設計されてきたために、福祉サービスを必要としている人本人の意思や希望は家族の前では搔き消されてしまいがちであった。
〇イギリスのブラッドショウは1970年代に、住民の抱える生活上のニーズを4つに類型化(①本人から表明されたニーズ、②住民は生活上の不安や不満、生活のしづらさを抱えているが表明されていないニーズ、③住民自身は気が付いていないし、表明もしていないが専門職が気づき、必要だと考えられるニーズ、④社会的にすでにニーズとして把握され、対応策が考えられているニーズ)した。
〇この類型化されたニーズにおいて、日本の社会福祉分野において気を付けなければならないニーズ把握の問題は、②の住民が生活上様々なニーズがあるにも関わらず気が付いていないか、自覚しておらず、表明されていないニーズである。
〇日本の“世間体の文化”、“忖度の文化”、”もの言わぬ文化”に馴染んで生活してきた国民は、自らの意思を表明することや自らの希望や願いを表明することに多くの人が躊躇してしまう。したがって、本人が自分の意見や気持ちを表明しないのだからニーズがないのだろうと解釈するととんでもない間違いを起こすことにもなりかねない。それらのニーズは潜在化しがちで、対応が遅れることになる。
〇一方、専門職が気づき、必要と判断するニーズにおいても、社会生活モデルに基づくアセスメントやナラティブに基づく支援方針の立案が的確に行われていればいいが、上記したようなパターナリズムでのアプローチをしている場合には専門職の判断が必ずしも妥当であると言えない場合が生じてくる。
〇イギリスでは、1990年の法律により、福祉サービスを提供する際には、その援助方針やケアプラン及び日常生活のスケジュール等を事前に本人に提示し、本人の理解を踏まえて提供することが求められるようになったが、2005年の「意思決定能力法」ではよりその考え方を重視するように法定化された。
〇日本の民法の成年後見制度や社会福祉法の日常生活自立支援事業が福祉サービスを必要としている人が自ら意思決定できないことを判定するということを前提にして制度設計されているのと違い、イギリスの「意思決定能力法」は日本と逆の立場を取っている。
〇「意思決定能力法」は①知的障害者、精神障害者、認知症を有する高齢者、高次脳機能障害を負った人々を問わず、すべての人には判断能力があるとする「判断能力存在の推定」原則を出発としており、②この法律は他者の意思決定に関与する人々の権限について定める法律ではなく、意思決定に困難を有する人々の支援のされ方について定める法律であるとしている。その上で、③「意思決定」とは、(イ)自分の置かれた状況を客観的に認識して意思決定を行う必要性を理解し、(ロ)そうした状況に関連する情報を理解、保持、比較、活用して 、(ハ)何をどうしたいか、どうすべきかについて、自分の意思を決めることを意味する。したがって、結果としての「決定」ではなく、「決定するという行為」そのものが着目される。意思決定を他者の支援を借りながら「支援された意思決定」の概念であるとしている。
〇日本だと、“安易に”、あの人は判断能力がないから、脆弱だから“その意思を代行してあげる”ということになりかねない。言語表現能力や他の意思表明方法を十分に駆使できない障害児・者の方でも、自分の気持ちの良い状態には〟“快”の表情を示すし、気持ち悪ければ“不快”の表現ができる。福祉サービス従事者は安易に“意思決定の代行”をするのではなく、常に福祉サービスを必要としている人本人の意思、求めていることを把握することに努める必要がある。
〇その上で、本人が自覚できていない人、食わず嫌いでサービス利用の意向を持てていない人に対し、専門職としてはニーズを科学的に分析・診断・評価し、必要と判断したサービスを説明し、その上で、両者の考え方、プランのあり方を出し合って、両者の合意に基づいて援助方針、ケアプランを作成することが求められている。

註2:菅冨美枝「自己決定を支援する法制度・支援者を支援する法制度――イギリス2005年意思決定能力法からの示唆―」法政大学大原社会問題研究所雑誌No822、2010年8月所収)参照

Ⅳ ナラティブ(人生の物語)を大切にした支援―福祉サービスを必要としている人のアセスメントを「医学モデル」から「社会生活モデル」へー

〇筆者は、1970年頃から、社会福祉学研究、社会福祉実践において労働経済学を理論的支柱にした経済的貧困に対する金銭給付と憲法第25条に基づく最低限度の生活保障の考え方では国民が抱える生活問題の解決ができず、新たな社会福祉の考え方が必要であると考え、提唱してきた。
〇筆者が考える社会福祉とは、その人が願うその人らしさの自立生活が何らかの事由によって阻害、停滞、不足、欠損している状況に対して関わり、その阻害、停滞、不足、欠損の要因を除去し、その人の幸福追求、自己実現を図れるように対人援助することだと考えた。
〇その場合の“自立生活”とは、古来から“人間とは何か?”と問われてきた課題を基に6つの要件(ⅰ)労働的・経済的自立、ⅱ)精神的・文化的自立、ⅲ)身体的・健康的自立、ⅳ)生活技術的・家政管理的自立、ⅴ)社会関係的・人間関係的自立、ⅵ)政治的・契約的自立)があると考えた。
〇と同時に、それらの6つの「自立生活」の要件の根底ともいえる、その人の生きる意欲、生きる希望を尊重し、その人に寄り添いながら、その人が望むナラティブ(人生の物語)を一緒に紡ぐ支援だと考えてきた。
〇戦前の生活困窮者を支援する用語に「社会事業」という用語がある。この「社会事業」には、積極的側面と消極的側面とがあるといわれており、その両者を統合的に提供することの重要性が指摘されていた。積極的側面とは、その人の生きる意欲、希望を引き出し支えることで、消極的側面は生活の困窮を軽減するための物質的援助のことを指していた。消極的側面は、気を付けないと“人間をスポイルする”危険性があることも懸念されていた。
〇現在の民生委員制度の原型である大阪府の方面委員制度を1918年に大阪で創設した小河滋次郎は、“その人を救済する精神は、その人の精神を救済することである“として、「社会事業」における積極的側面を重視した。しかしながら、戦後の生活困窮者を支援する「社会福祉」は積極的側面を実質的に“忘却”してしまい、物質的援助をすれば問題解決ができると考えてきた。
〇憲法第25条の最低限度の生活保障では消極的側面の対応でよかったのかもしれないが、憲法第13条に基づく幸福追求の支援ということでは、高齢者のケアであれ、障害者のケアであれ、生活困窮者の支援であれ、その人が送りたい“人生”、その人が願う希望をいかに聞き出し、その人の生きる意欲、生きる希望を支え、伴走的に支援していくことが求められる。
〇従来の社会福祉学研究や社会福祉実践では、「療育」、「家族療法」、「機能回復訓練」などの用語が使われており、その人らしさの生活を尊重し、支援するということよりも、ややもすると専門職的立場からのパターナリズム的に“治療・療”し、“問題解決”を図るという目線に陥りがちであった。
〇また 従来の社会福祉学や社会福祉実践では、よくアブラハム・マズローの「欲求階梯説」が使われが、この考え方も気を付けないといけない。
〇アブラハム・マズローがいう生理的欲求、安全の欲求、愛情と所属の欲求、自尊と承認の欲求、自己実現の欲求の6つの欲求の項目の意味は重要であるが、それらの項目において、下位の欲求が満たされたら上位の欲求が生じるという“欲求階梯説”はどうみてもおかしい。人間には、自ら身体的自立がままならず、他人のケアを必要としている人であっても、当然その人が願うナラティブ(人生の物語)があり、それを自己実現したいはずである。
〇その際、福祉サービスを必要としている人自らが自分の希望、欲求を表出できるとは限らない。福祉サービスを必要としている人の中には、さまざまなヴァルネラビリティ(社会生活上のさまざまな脆弱性)を抱えている人がおり、自らの願いや希望を表出できない人がいる。更には、障害を持って生まれてきたことで、多様な社会体験の機会に恵まれず、一種の“食わず嫌い”の状況で、何を望んだらいいのかも分からない人という生活上の“第2次障害”ともいえる状況に陥っている人もいる。このような人々の場合には、その人の“意思を形成する”ことに関わる支援も必要になってくる。
〇日本の社会福祉関係者の中には、1981年に世界保健機関で制定されたICIDH(国際障害分類)に基づくアセスメントを無意識に、いまだ利活用している人がいる。
〇ICIDHは、その人の心身機能に障害があるかどうかを診断し、その人の心身機能の障害がその人の能力不全をもたらし、ひいてはそのことがその人の社会生活上において不利をもたらすというImpairment――Disability――Handicapの関係を直線的に描くもので、心身機能の不全を診断することを基底とする「医学モデル」と呼ばれるものである。
〇この「医学モデル」は、ある意味わかりやすい構造になっているので、今でも多くの社会福祉関係の底層の心理として位置づいてしまっているが、これによる支援は機能障害を直すか、直せないまでもそれを補完するというレベルの支援になってしまう。
〇WHOは2001年にICF(国際生活機能分類)を発出し、ICIDHからICFへの転換を求めた。
〇ICFは、福祉サービスを必要としている人の生活環境を変えれば、従来のICIDHでは機能障害によりできないと思われていたことができるかもしれないので、その福祉サービスを必要としている人の“最低限度の生活保障”という考え方でなく、福祉サービスを必要としている人の生活環境を変えて、その人の自己実現を図る支援への転換を求めたものである。
〇ICFの考え方と昨今の急速な福祉機器の開発により、福祉現場は急速に変わらざるを得ない。介護ロボットや障害者のコミュニケーションを保障する福祉機器の導入如何では、従来の障害児・者、高齢者などの福祉サービスを必要としている人への支援のあり方は全く違うものになってしまう。
〇このような背景も踏まえて、筆者は従来の「医学モデル」に基づく診断(アセスメント)ではなく、社会生活上に必要な機能があるかないかを基に診断する「社会生活モデル」に基づくアセスメントの必要性を提起している。
〇「社会生活モデルに基づくアセスメントシート」の図の表頭の大項目に基づきアセスメントを行うことが、ケアの科学化には必須である。
〇今日のように、福祉機器の開発やICT、IoTが急速に進展している状況の下では、福祉サービスを必要としている本人は福祉機器を使ったら自分の生活がどのように変容するのかのイマジネーション(想像性)をもてない人がいる。そのような人々に対し、イマジネーションがもてるようにし、新たな人生を作り出すクリエーション(創造性)機能も重要な支援となる。
〇従来の社会福祉実践は、福祉サービスを必要としている人の「できないことに着目し、できないことを補完・補填する目的で、してあげるケア観」に陥りがちであった。幸福追求、自己実現を図るケア観に立つと、福祉サービスを必要とする人の「できることを発見し、それを励ますケア観」が重要になる。
〇今の社会福祉実践には、その人の生育歴におけるナラティブ(narrative:身の上話、経験などに関する物語)に着目し、その人が望む人生を創り上げることに寄り添い、支援することが求められている。

〇今まで3回に亘り、「虐待問題」が起きる根源的背景として、あるいは深層心理として持っている日本国民が有している文化的要因と社会福祉観、人間観について論述したうえで、ケア観の検討並びに画一的ケア観から個別支援におけるアセスメントとそれに基づくケアの必要性について述べてきた。
〇今回は、それらを踏まえて、虐待の定義、現状について整理した上で、今後の「虐待問題」の検討すべき課題を提示したい。

Ⅴ 虐待防止の法的定義と類型及び現状

〇虐待の問題は、子ども分野、障害者分野、高齢者分野において、共通する部分もあれば、異なる部分もあるので、虐待の法的定義とその類型及び状況については分野ごとに整理することとしたい。

① 高齢者分野における法的定義と虐待の類型及び現状
〇高齢者分野における虐待に関する法律は、2005年に制定された「高齢者虐待の防止、高齢者の養護者に対する支援などに関する法律」(以下「高齢者虐待防止法」という)がある。
〇その法律では、高齢者虐待の類型及び養護の定義を以下のように定めている。

ⅰ 虐待の種類  身体的虐待、介護・世話の放棄・放任、心理的虐待、性的虐
待、経済的虐待
ⅱ)高齢者とは65歳以上の者をいう
ⅲ 「養護者」とは、高齢者を現に養護する者であって養介護施設従事者等以外
の者をいう
ⅳ)養介護施設従事者とは、介護保険法、老人福祉法等における業務に従事する者

〇高齢者虐待の状況は、厚生労働省が公表した令和4年度(2021年度)の「高齢者虐待の防止、高齢者の養護者に対する支援等に関する法律に基づく対応状況などに関する調査結果」を基にした。ここでは、気になる項目を中心に抜粋しているので、詳しくはその調査を参照願いたい。
〇養介護施設従事者等による高齢者虐待の相談・通報件数と虐待件数の推移ば、2022年度において相談件数は2795件(虐待と判断された件数は856件)で、前年度比16・9%の増となっている。
〇「高齢者虐待防止法」が制定された翌年の通報件数が273件(虐待と判断された件数54件)であったことを考えるとその増加件数は約10倍で、高齢化率の増加を考えたとしても、かつ「高齢者虐待防止法」の周知度が高まったとしても大幅な伸びとなっている。
〇他方、養護者による虐待についてみると、2022年度の通報件数は38291件(虐待と判断された件数16669件)で、前年度比5・3%の増となっている。
〇「高齢者虐待防止法」が制定された翌年の通報件数が18390件(虐待と判断された件数12569件)と比較しても増大している。
〇ただし、養介護施設従事者等による高齢者虐待の相談・通報件数と虐待件数の増大が約10倍なのに対し、養護者による虐待の通報件数では約2倍(虐待と判断された件数では約1・3倍)なので、如何に養介護施設従事者等による高齢者虐待が増大していることが見て取れる。
〇虐待が起きた養介護施設の種類別では、「特別養護老人ホーム」が最も多く、274件(32・0%)、次いで「有料老人ホーム」が221件(25・8%)、「認知症対応型共同生活介護(グループホーム)」が102件(11・9%)、「介護老人保健施設」が90件(10・5%)となっている。
〇虐待の内容は、養介護施設従事者によるものでは、「身体的虐待」が810人(57・6%)、次いで「心理的虐待」が464人(33・0%)、「介護等放棄」が326人(23・2%)であった。
〇虐待を受けた高齢者像では、認知症高齢者で身体的虐待を受けている人が多い。
〇養護者による虐待では、虐待の発生要因(複数回答)としては「認知症の症状」が9430件(56・6%)、虐待者の「介護疲れ・介護ストレス」が9038件(54・%)、「理解力の不足や低下」が7983件(47・9%)、「知識や情報の不足」が7949件(47・7%)、「精神状態が安定していない」が7840件(47・0%)、「被虐待者との虐待発生までの人間関係」が7748件(46・5%)であった。
〇養護者の虐待の内容(複数回答)は、「身体的虐待」が11167人(65・3%)、次いで「心理的虐待」が6660人(39・0%)、「介護等放棄」が3370人(19・7%)、「経済的虐待」が2540人(14・9%)であった。
〇被虐待高齢者の「認知症の程度」と「虐待種別」との関係では、被虐待高齢者に重度の認知症がある場合には「介護等放棄」、「経済的虐待」をうける割合が高く、軽度の認知症の場合には「身体的虐待」、「心理的虐待」が高い傾向がみられた。

②  障害者分野における法的定義と虐待の類型及び現状
〇障害者分野における虐待に関する法律は、2011年に制定された「障害者虐待の防止、障害者の養護者に対する支援等に関する法律」(以下「障害者虐待防止法」という)がある。
〇と同時に、国連が制定した「障害者権利条約」(2008年発効)を日本政府が2014年に批准したことを受けて、2011年に障害者基本法が改正され、「障害に基づくあらゆる形態の差別の禁止」が盛り込まれたことを受けて、その規定を具現化する「障害者差別解消法」が制定されていることも併行的に考えなければならない。
〇「障害者虐待防止法」では、障害者虐待の類型及び養護の定義を以下のように定めている。

ⅰ)「障害者」とは、身体・知的・精神障害その他の心身機能の障害がある者であ
って、障害及び社会的障壁により継続的に日常生活・社会生活に相当な制限を
受ける状態にあるものをいう。
ⅱ)「障害者虐待」とは、ⅰ)養護者による障害者虐待、ⅱ)障害者福祉施設従事者等による障害者虐待、ⅲ)使用者による障害者虐待をいう。
ⅲ)障害者虐待の類型は、イ)身体的虐待、ロ)放棄・放置、ハ)心理的虐待、
ニ)性的虐待、ホ)経済的虐待の5つとしている。

〇障害者虐待の現状については2024年3月5日に行われた第140回の社会保障審議会障害者部会に報告された「障害者虐待事例への対応状況調査結果等について」に基づき明らかにしたい。
〇2022年度の養護者による障害者虐待の相談・通報件数は8650件で、2021年度より約1300件増加している。
〇「障害者虐待防止法」は2011年に成立しているが、その翌年の2012年度の相談・通報件数が3260件なので、約10年間で約2・6倍に増加している。
〇相談・通報件数のうち、虐待と判断された件数は2022年度で2123件、これも2012年度に比べると1・6倍になっている。
〇相談・通報者は、警察が51%、本人13%、施設・事業所の職員が11%、相談支援専門員が11%である。
〇虐待行為の類型では、身体的虐待が69%、心理的虐待が32%、経済的虐待が17%、放棄・放置が11%、性的虐待が3%である。
〇障害者福祉施設従事者等による障害者虐待は、2022年度が4104件で、前年度より1・28倍増加している。
〇そのうち、虐待判断件数は956件で、前年度比1・37倍である。
〇相談・通報者は、当該施設・事業所その他の職員が16%、設置者・管理者が15%、本人が16%、家族・親族が11%となっている。
〇虐待行為の類型は、身体的虐待52%、心理的虐待46%、性的虐待14%、放棄・放置が10%、経済的虐待が5%である。
〇被虐待者の障害種別では、知的障害が73%、身体障害が21%、精神障害が16%で、行動障害を伴うものでは34%になっている。
〇障害者分野の虐待問題では、他の高齢者や児童とは異なる“障害者を雇用している使用者”による虐待問題がある。
〇障害者虐待との通報・届け出があった事業所は、厚生労働省雇用環境・均等局総務課労働紛争処理業務室の調査報告によれば、2021年度で1230件(都道府県からの報告197件、労働局などへの相談880件、その他労働局等の発見153件)であった。
〇通報・届出の対象となった障害者数は1431人であり、障害種別では、精神障害が37・8%、知的障害が32・3%、身体障害が19・1%、発達障害が7・1%となっている。
〇虐待行為の類型では、経済的虐待が47・5%、心理的虐待が37・8%、身体的虐待が8・3%、放置等による虐待が4・4%、性的虐待が1・9%となっている。
〇虐待の相談・通報があった件数のうち、虐待と認められた障害者数は、2021年度502人であった。
〇就労形態別では、パート等が46・4%、正社員32・9%、期間契約社員3・8%などとなっている。
〇障害者虐待を行った使用者の内訳では、事業主85・8%、所属の上司12・2%となっている。
〇虐待が認められた事業所の業種では、製造業25・5%、医療・福祉が22・7%、卸売業・小売業が11・2%、宿泊業・飲食サービス業が6・6%、建設業が5・9%となっている。
〇事業所の規模別では、5~29人規模の事業所が49・2%、30~49人規模が16・8%、5人未満が13.5%で、50~99人規模で6・9%、100~299人規模で3・8%となっている

③  児童分野における法的定義と虐待の類型及び現状
〇児童分野における虐待に関する法律は、2000年に制定された「児童虐待の防止等に関する法律」(以下「児童虐待防止法」という)がある。
〇児童分野における虐待については、1933年に「旧児童虐待防止法」が制定されていたが、これは戦後1947年に児童福祉法が制定されたことに伴い廃止されている。しかしながら、1990年代に入り、急速に児童虐待が増加したことに伴い、新しく「児童虐待防止法が」が制定されることになった。
〇「児童虐待防止法」では、児童の虐待の定義及び類型について以下のように定めている。

ⅰ)児童虐待の定義――「児童虐待」とは、保護者(親権を行う者、未成年後見人その他の者で、児童を現に監護するもの
ⅱ)児童虐待の類型――身体的虐待、性的虐待、保護者としての監護の放棄・放任、心理的虐待

〇令和4年度(2022年度)中に、全国232か所の児童相談所が児童虐待相談として対応した件数は219170件だった。
〇筆者が日本社会事業大学の在外研究制度で、長期にイギリスに滞在したのは1992年であったが、当時イギリスの虐待件数は1990年当時約36000件だった。
〇しかしながら、イギリスの児童虐待の状況から考えて、日本でも家族形態の変容、地域における児童健全育成力の低下等から、急速に児童問題が深刻化し、児童虐待が増えると考え、筆者は全社協の全国民生児童委員協議会の企画委員会の委員長として、民生委員が児童委員を兼ねるだけでは対応できないと考えて、児童問題を主管、主務とする児童委員制度を創設すべきとの提案をした。その提案は厚生省に受け入れられ、1994年度から「主任児童委員制度」が始まる。
〇と同時に、筆者は東京都児童福祉審議会の専門部会長として、当時東京都にある12か所の児童相談所とは別に、都内各区市町村に最低1か所の「子ども家庭支援センター」を設置し、保健師、保育士、社会福祉士を配置して、子ども・家庭への相談支援を行うこと、しかもそれはアウトリーチ型の地域組織化を想定して行うことなどの提案をし、専門部会で承認され、東京都に建議した。その建議は受け入れられ、東京都全区市町村に58か所の「子ども家庭支援センター」が設置された。
〇この二つの提案は、イギリスでの在外研究制度の成果であり、日本でも急速に児童虐待への対応を図るべきとの提案であったが、当時の児童福祉研究者や児童福祉行政の関係者たちの反応は、従来の児童相談所体制でいいとする反応であった。
〇児童虐待は、筆者の想定した通り、1990年度には1101件で、その後2000年度には17725件、2010年度には56384件、2020年度では205044件と急増している。
〇2022年度の児童虐待の219170件の内容別件数は、「身体的虐待」が51679件(23・6%)、「ネグレクト」が35556件(16・2%)、「性的虐待」が2451件(1・1%)、「心理的虐待」が129484件(59・1%)となっている。
〇児童相談所に寄せられた虐待相談の相談経路は、2022年度では警察等が最も多く、112965件(51・5%)、次いで近隣・知人が24174件(11・0%)、家族・親戚が18436件(8・4%)、学校が14987件(6・8%)となっている。
〇児童虐待による死亡事件も2022年度では45件、51人が亡くなっている。子どもを巻き込んだ心中事件も37件、47人が亡くなっている。
〇虐待を行っている人の類型では、実母が38224件(57・3%)、実父が19311件(29・0%)、実父以外の父が4140件(6・2%)となっている。
〇虐待を受けた子どもの年齢別では、小学生が最も多く、23488件(35・2%)、次いで3歳~学齢前が16505件(24・7%)、0歳~3歳未満12503件(18・8%)、中学生9404件(14・1%)となっている。
〇児童分野における虐待発生の要因として、厚生労働省はⅰ)子どもの状況――発達・発育、健康状態・身体状況、情緒の安定性、問題行動、基本的な生活習慣、関係性、ⅱ)養育者の状況――健康状態等、性格的傾向、日常的世話の状況、養育能力等、子どもへの思い・態度、問題認識・問題対処能力、ⅲ)養育環境――夫婦・家族関係、家族形態の変化を挙げている。

Ⅵ 虐待の現状から抽出して論議すべき課題

〇このように「虐待問題」と一言で言っても、高齢者分野、障害者分野、児童分野といった多岐に亘っており、それを総括りして論議することは困難である。
〇強いて言えば、日本の「家」意識、画一的集団生活からの“逸脱者”への罰の意識、上意下達の命令体質がもたらす“複合的表出”の結果としての「虐待」と言えるのではないか。
〇とりわけ、日本の戦後の社会保障、社会福祉は、戦前の「家」制度の名残をとどめており、家族の扶養、家族の介護を家族間の情愛の感情、親密圏域の自然発生的ケア観を前提として構築されている。
〇社会福祉従事者もその呪縛から解放されておらず、家族を前提としたケア方針の立案をしがちであり、福祉サービス利用者を一個の独立した個人として捉え、その個人の幸福追求、自己実現を支援する役割を社会福祉関係者が担うという崇高な理念、人間像を描けないままに業務に従事していること、それらの職員を雇用する社会福祉法人などの組織自体も上記の理念を明確に持たないままの経営、運営に陥っているのではないかと思っている。
〇上記した虐待の現状について、再度まとめるとともに、今後検討する論議すべき課題との関係で、重要だと思われることを再掲しておきたい。

① 養介護施設従事者等による高齢者虐待の相談・通報件数と虐待件数の増大が約10倍なのに対し、養護者による虐待の通報件数では約2倍(虐待と判断された件数では約1・3倍)なので、如何に養介護施設従事者等による高齢者虐待が増大していることが見て取れる。
② 虐待を受けた高齢者像では、認知症高齢者で身体的虐待を受けている人が多い。
③ 高齢者の養護者による虐待では、虐待の発生要因(複数回答)としては「認知症の症状」が9430件(56・6%)、虐待者の「介護疲れ・介護ストレス」が9038件(54・“%)、「理解力の不足や低下」が7983件(47・9%)、「知識や情報の不足」が7949件(47・7%)、「精神状態が安定していない」が7840件(47・0%)、「被虐待者との虐待発生までの人間関係」が7748件(46・5%)であった。
④  2022年度の養護者による障害者虐待の相談・通報件数は8650件で、2021年度より約1300件増加している。「障害者虐待防止法」は2011年に成立しているが、その翌年の2012年度の相談・通報件数が3260件なので、約10年間で約2・6倍に増加している。
⑤ 被虐待者の障害種別では、知的障害が73%、身体障害が21%、精神障害が16%で、行動障害を伴うものでは34%になっている。
⑥ 障害者分野の虐待問題では、他の高齢者や児童とは異なる“障害者を雇用している使用者”による虐待問題がある。
就労形態別では、パート等が46・4%、正社員32・9%、期間契約社員3・8%などとなっている。
事業所の規模別では、5~29人規模の事業所が49・2%、30~49人規模が16・8%、5人未満が13.5%で、50~99人規模で6・9%、100~299人規模で3・8%となっている
⑦ 児童虐待による死亡事件も2022年度では45件、51人が亡くなっている。子どもを巻き込んだ心中事件も37件、47人が亡くなっている。
虐待を行っている人の類型では、実母が38224件(57・3%)、実父が19
311件(29・0%)、実父以外の父が4140件(6・2%)となっている。
日本では、いまだ「子どもの発見」が不十分で、子どもは親の付属物として捉え、
子どもを親の意向に従わせる「命令と禁止」での子育てが払しょくできていない。

〇これらの「虐待の現状」から考えて、検討すべき課題は以下の通りである。

ⅰ)家族による親密圏域のケアを当たり前の前提として、公共圏域のケアの整備が十分でない問題。
この問題の中には、相談できる「福祉アクセシビリティ」の問題や介護支援専門員、障害者相談支援員のケア観の問題がある。
また、ケアをしている家族の社会福祉制度を活用する受援力、地域福祉サービス利用主体の形成が不十分の問題もある。
ⅱ)養介護者が集積している社会福祉法人などのサービス供給組織の経営理念、運営方針等にケアのあり方、サービス利用者の尊厳の保持が具体的に明記され、それが常に研修等を通じて確認できているかどうかの問題―社会福祉現場に関わる動機、モチベーションとその内省、外化の機会の有無とアンガーマネジメントの研修。
ⅲ)機関委任事務体制下では行政による措置施設職員の研修がおこなわれていたが、2000年以降は、社会福祉職員の研修は行政的には対応できておらず、個々のサービス供給組織により行われている。
しかも、メンター制度やOJTの機能はほとんどなく、入職後から独任官的に職務を任せられ、体系的な研修を通して、自らの実践を振り返り、検証する機会を持てていない。
とりわけ小規模のサービス供給事業組織がそうである。
ⅳ)上記ⅱ)の問題とも関わるが、従事者が安心してケアに従事できるかどうか、職場環境の整備との関係の問題と同時に、きちんとしたケア観を有している人を採用し、キャリアップについて見通しがもてる人事政策があるかどうかの問題。
ⅴ)日常的に地域で障害者等とふれあい、その人の人格を尊重する機会である福祉教育の実践が地域、学校において行われているかの問題―人間の理解は頭での言語能力での理解だけでなく、福祉サービスを必要としている人との切り結びが重要。

〇虐待が起きている現場の状況は様々であり、その「違い」を捨象して、共通の統一的見解を示すことは容易ではない。
〇しかも、今までも述べてきたように、日本人が有している国民的文化がもたらす人権感覚の低さ、多様性を認める認識の低さ等の、国民の深層心理、底流にある意識との関りを抜きにして語れない部分が多分にあるが、ここではそれを踏まえた上で、今後虐待問題を検討するに際しての課題について論述しておきたい。
〇筆者は、連載の第4回の最後において、下記のような問題があることを指摘した。
〇それは、以下の通りである。最終回の今号では、これらについて論述したい。

ⅰ)家族による親密圏域のケアを当たり前の前提として、公共圏域のケアの整備が十分でない問題。
この問題の中には、相談できる「福祉アクセシビリティ」の問題や介護支援専門員、障害者相談支援員のケア観の問題がある。
また、ケアをしている家族の社会福祉制度を活用する受援力、地域福祉サービス利用主体の形成が不十分という問題もある。
ⅱ)養介護者が集積している社会福祉法人などのサービス供給組織の経営理念、運営方針等においてケアのあり方、サービス利用者の尊厳の保持が具体的に明記され、それが常に研修等を通じて確認できているかどうかの問題―社会福祉現場に関わる動機、モチベーションとその内省、外化の機会の有無とアンガーマネジメントの研修。
ⅲ)機関委任事務体制下では行政による措置施設職員の研修がおこなわれていたが、2000年以降は、社会福祉職員の研修は行政的には対応できておらず、個々のサービス供給組織により行われている。
しかも、メンター制度やOJTの機能はほとんどなく、入職後から独任官的に職務を任せられ、体系的な研修を通して、自らの実践を振り返り、検証する機会を持てていない。とりわけ小規模のサービス供給事業組織がそうである。
ⅳ)上記ⅱ)の問題とも関わるが、従事者が安心してケアに従事できるかどうか、職場環境の整備との関係の問題と同時に、きちんとしたケア観を有している人を採用し、キャリアアップについて見通しがもてる人事政策があるかどうかの問題。
ⅴ)日常的に地域で障害者等とふれあい、その人の人格を尊重する機会である福祉教育の実践が地域、学校において行われているかの問題―人間の理解は頭での言語能力での理解だけでなく、福祉サービスを必要としている人との切り結びを通して体感的に学ぶことが重要。

Ⅶ 家族を“含み財産”とする社会福祉制度の破綻と「福祉アクセシビリティ」のいい「総合相談窓口」、「まるごと相談窓口」の設置及び福祉教育の推進

〇戦後日本の社会福祉制度は、家族を“含み財産”として位置づけ、家族の介護、養育を前提にして制度設計されてきた。
〇しかしながら、1960年代の高度経済成長政策の下、急速に産業構造の転換が行われ、工業化、都市化、核家族化が進み、家族の、地域の介護力、養育力はぜい弱化していった。
〇そのことについては、拙稿「高度成長と地域福祉問題―地域福祉の主体形成と住民参加」(吉田久一編『社会福祉の形成と課題』19811年、所収)に論述してあるので参照して欲しい。
〇ところで、筆者が地域福祉と社会教育との学際的研究において、より明確に地方自治体における地域福祉とそれを可能ならしめる地域づくりを社会教育と地域福祉の有機的関りのもとで行おうと考えるようになったのは、江口英一先生が1986年に書いた「日本における社会保障の課題」という論文に触発されてからである。
〇社会教育はもともと地方分権を前提にして理論構築や実践が展開されていたが、社会福祉の分野における地方自治体の位置というものは必ずしも明確でなく、“福祉国家体制”という名のもとに、常に中央集権的機関委任事務の下で社会福祉行政は進められてきた。社会保障の一環である社会保険は国レベルで検討される政策であることは理解できるが、社会保障の一環である対人援助としての社会福祉は地域で生活している住民の身近な地方自治体の政策として論議されるものだと筆者は考えてきた。
〇それは経済的給付とちがって、対人援助としての社会福祉は、地域性、地域の生活環境に左右される部分が多く、全国一律のサービス提供、対人援助にはなじまないと考えてきたからである。
〇江口英一先生は、先の論文で、地域住民の生活は大変不安定で、生活上のちょっとした事故でも住民の25%が生活保護世帯に転落する可能性を有していて、それを防ぐためには地方自治体ごとの福祉サービスの整備が必要であるとその論文で説かれていた。
〇筆者はこの論文に勇気づけられ、この論文に依拠しながら、どうしたら地域住民の生活を守り、安定させる福祉サービスの整備のあり方、提供のシステムができるかを考えてきたのが筆者の地域福祉研究60年であった。
〇その中の理論的、実践的課題の一つが「福祉アクセシビリティ」の問題である。それは住民の生活の安定を守る地方自治体の福祉サービスの整備量もさることながら、住民からみた「福祉アクセシビリティ」が大きな問題だと考えたからである。
〇「福祉アクセシビリティ」とは、距離的に近いという問題、公共交通機関の利便性、たらい回しをされない、ワンストップの相談の総合性、心理的、手続き面での受容性などが大きいと考えたからである。
〇1970年ごろ、国民の社会福祉認識は、社会福祉を利用する人、必要としている人は、ある意味で「自業自得」であり、福祉サービスを利用することは個人にとっても、家族・親類縁者にとっても”恥”とする意識が強かった。
〇このような福祉サービスを必要としていながら、福祉サービスの相談窓口が“縁遠かった“住民は、誰にも相談できず、ストレスを貯めこみ、ネグレクトするとか、心理的虐待、身体的虐待に走っていったことは想像に難くない。
〇住民の身近なところで、心理的負担もなく、相談しやすい環境があったならば、利用できる福祉サービスがある、なしに関わらず、住民は自ら抱える辛さ、悩み等を「外化」でき、虐待に走る度合いが減ったのではないだろうか。
〇今、地域共生社会政策の下で、包括的支援体制、重層的支援体制整備の必要性が謳われているが、1990年までの中央集権的機関委任事務体制の下では、「社会福祉六法体制」に基づく縦割り福祉行政が行われていて、「福祉アクセシビリティ」のいい世帯・家族全体を支援する総合相談窓口はなかった。
〇筆者は1990年に東京都狛江市、東京都目黒区、岩手県遠野市などにおいて、縦割り福祉行政の弊害を除去し、住民にとって「福祉アクセシビリティ」のいい福祉行政システムを構築してきた。
〇このような「福祉アクセシビリティ」の良さに加えて、職員によるアウトリーチ型問題発見と支援とが行われたならば、養護者の虐待の動向は違っていたのではないだろうか。
〇日本の社会福祉・社会保障は、相も変わらず“家族の介護力、養育力”に依存する“家族”を含み財産とする発想が色濃く残っている。
〇今こそ、市町村において包括的・重層的支援システムを構築し、コミュニティソーシャルワーク機能を発揮できるシステムの構築とそれを担当できる職員の養成が喫緊の課題である。
〇今や、単身者社会であり、家族に頼らない、「福祉アクセシビリティ」のいい、生活に関わる「総合相談窓口」や「まるごと相談窓口」を地域に構築することが必要である。
〇と同時に、住民の社会福祉に関する知識の向上、社会福祉制度の理解を深め、国民が戦前からの「家制度」に基づく「家意識」を変容させ、家族に頼らない、公共圏域の社会サービスを利用するのが当たり前と思える住民の福祉サービス利用の受援力を高める福祉教育の推進がますます重要になってきている。

Ⅷ 介護問題が集積している社会福祉法人の理念、経営方針と虐待問題

〇連載の第4回目で述べたが、厚生労働省の調査によれば、障害者施設や通所サービ
スなどの従事者から障害者が虐待を受けた件数は、2023年度、5618件で前年度比約37%増加している(ちなみに、家族などの養護者から虐待を受けた障害者は2285件、前年比7・8%増であった)。
〇介護施設の職員らによる高齢者への虐待は1123件(前年度比31・2%増)で、2006年度調査開始以来の最多となった。家族などの養護者による虐待は17100件(前年度比2・6%増)であった。
〇このような状況を踏まえ、社会福祉施設、福祉サービス事業所での虐待をなくすためには以下のような取り組みが必要ではないか。

ⅰ)社会福祉法人の設立理念、経営方針における人間性、個人の尊厳を謳う個別ケアが明確化されているか
〇日本の社会福祉施設は、中央集権的機関委任事務が少なくとも1990年まで、あるいは2000年まで続いていたこともあり、福祉サービスを必要としている人、福祉サービスを利用している人のアセスメントが事実上できていなかった。
〇福祉サービスを必要としている人を行政がサービス利用の要件に合致しているかどうかを判断し、社会福祉施設・社会福祉法人はその行政に措置された人を受け入れ、サービスを提供していたために、入所型施設などにおいては、三大介護と言われる食事、排せつ、入浴がどれだけ“自立”しているかというADLの評価が中心であった。
〇医療の世界では、ついこの間まで“やぶ医者”という言葉が住民の間で使われていたが、いまやその用語は“死語”になっている。それは、医療の世界では、聴診器だけでなく、レントゲン、MRI、CTスキャナー、血液検査などの診断技法が格段に進展し、患者の病変の診断と治療との関係性が格段に向上したからである。
〇ところが、社会福祉界は未だ福祉サービスを必要としている人が何につまずき、何が生活のしづらさを生み出す要因なのか、本人は何を希望し、どういう生活を送りたいと願っているのかなどの「社会生活モデル」に基づくアセスメント技法が確立していない。何となく社会福祉士、介護福祉士などの資格を有している人が“情感的に”判断しているという“やぶソーシャルワーカー”が沢山いる。
〇それは、福祉サービスを必要としている人が現に制度化されているサービスを利用できる要件に合致するかどうかという仕事の仕方をしてきた中央集権的機関委任事務体質の福祉文化を見直すことなく、無意識のうちにそれを引きずってきているからである。
〇また、社会福祉法人は行政から措置された人に対する“最低限度の生活保障”をしてあげるという目線になりがちで、結果として法令による措置施設の施設最低基準に基づき集団的、画一的ケアを実施してきたのではないだろうか。
〇2000年以降、福祉サービス利用が契約で行われるようになった際に、従来の支援方針、ケア観を見直し、福祉サービスを必要としている人、利用している人と福祉サービスを提供する側とが相対契約をする制度に変わったことに伴い、その際に、どれだけの社会福祉法人、社会福祉施設がその相対契約に相応しい福祉サービス利用者、福祉サービスを必要としている人の個々の状況に見合ったアセスメントと援助方針を確立することを明確にできたであろうか。
〇筆者が考えるのに、現象的には社会福祉法人も社会福祉施設も個人の尊厳、人間性の尊重を謡いながら、実質的には個々人の状況を丁寧にアセスメントするという福祉文化が確立できていなかったのではないか。
〇その点で、筆者が注目しているのは、2002年の老人福祉施設最低基準が改訂され、ユニットケアが出されてくる中で、一般社団法人日本ユニットケア推進センターが進めている、限りなく個別ケアの具現化の取り組みである(拙編著『ユニットケアの哲学と実践』日本医療企画、2019年)。
〇一般社団法人日本ユニットケア推進センターが進めている個別ケアの実践は、同じ厚生労働省が定めた基準である老人福祉施設最低基準に則りながら、個別ケアを確立できており、かつ職員の離職率も低く、利用者からの評価も高いことを考えると全国的に展開できないことではない。要は、社会福祉法人の経営理念、実践哲学がそのことを明かにできているかどうかの問題である。

ⅱ)市町村における福祉サービス事業所職員の研修の体系化はされているだろうか
〇中央集権的機関委任事務体制時代にあっては、行政がサービス提供を社会福祉法人に委託していたこともあって、各都道府県が社会福祉研修センターを設置し、社会福祉法人、社会福祉施設の職員に対する研修がそれなりに整えられていた。
〇しかしながら、2000年の介護保険、2005年の障害者総合支援法以降、福祉サービス利用は行政の措置から、福祉サービスを必要としている人と福祉サービス事業者との間の契約に変わったこともあり、各都道府県の社会福祉研修センターの役割は大きく変わり、筆者が観る限りにおいて各都道府県の社会福祉職員に対する研修機能は大幅に低下していると言わざるを得ない。
〇ある意味、職員の研修は、各福祉サービス事業者の任意となり、行政は各サービス事業者のサービス管理者の資格、研修を規制化させることで、職員のサービスの質の担保を図る仕組みへと変更した。
〇したがって、福祉サービス事業所で働く職員、社会福祉法人、社会福祉施設で働く職員の研修は、いわば無秩序状態になっている。
〇このような状況のなかで、小さな規模の事業所の職員はほとんど研修を受けることもできなければ、自前で研修をすると言うことも容易ではなくなってきている
〇先に挙げた事業所の虐待件数についても、事業所の規模や事業所内での研修の有無などについて丁寧に分析する必要があるが、ここでは触れない。ただし、福祉サービス事業所の規模別・虐待種別事業所数の調査によれば、規模が5~29人の規模の事業所が虐待件数全体の49・2%、30~49人規模が16・8%、5人未満が13・5%であり、逆に300人以上の規模では1・0%であることを考えると事業所の規模ごとにおける職員研修のあり方との関係があることは想像に難くない(「令和3年度使用者による障害者虐待の状況」調査)。
〇他方、1990年以降、地方分権化が進み、国や県は市町村への指導を直接的にはできず、専門的助言の域を超えることができなくなった。その上に、市町村は各分野ごとの福祉計画の“上位計画”として「地域福祉計画」を位置づけている。しかしながら、この市町村ごとの「地域福祉計画」を見る限り、市町村内の福祉サービスに従事する職員の研修の必要性を掲げている「地域福祉計画」は皆無に近い。
〇今や、一部の大手を除くと福祉サービス事業所、社会福祉法人の職員の研修システムはとても不十分だと言わざるを得ない。
〇しかしながら、福祉サービスは国民にとって欠かせないサービスであり、かつサービス利用費がいわば公定価格で縛られてはいるものの、逆の意味では“安定”していることもあり、いわゆる市場ベースの“競争原理”は働きにくい状況である。
〇ならば、サービス管理者の資格、研修のみならず、市町村福祉行政による市町村内の社会福祉職員の研修を整備し、職員の資質向上を図るべきなのではないだろうか。
〇2011年の「地方分権一括法」で、市域内だけの住民を対象に福祉サービスを提供している社会福祉法人の許認可権は市長が有することになったし、その後介護保険サービスの許認可権も町村長にまで移譲されたことを考えると、市町村レベルでの域内の福祉サービス従事者への研修システムの構築は市町村行政が責任をもって行うべきではないだろうか。
〇このような職員の研修システムの構築をしないでおいて、事業所における虐待を取り締まるという姿勢だけでは問題解決につながらない。

ⅲ)社会福祉学の構造と国家資格養成課程における実践力習得の課題
〇社会福祉学の構造は、①社会福祉の目的、理念に関わる哲学、②福祉サービスを必要としている人の生活のしづらさ、生活問題をアセスメントし、構造的に分析する分析科学、③福祉サービスを必要としている人の問題を解決するための援助方針の立案、活用できる福祉サービスの利用計画、活用できる福祉サービスがなければ、新しい問題解決プログラムを作成するとか、新しい福祉サービスを開発するなどの設計科学、④立案された援助方針、ケアプランに基づき具体的な対人援助の実践を展開する実践科学。この実践科学は、設計されたプラン通りに実施すればいいというものではなく、福祉サービスを必要としている人の日々の変化を見据え、実践者がその状況に合わせ、設計されたプラン、対人援助を微調整していく必要性がある。⑤実践を展開した後、福祉サービス利用者の「快・不快」を基底とした満足度や設計されたケアプランの妥当性などについての評価、振り返りを図る評価科学の5つの要素からなる統合科学である。
〇この統合科学という考え方は、戦前に確立されてき旧帝国大学の講座制の学問体系にはない、新しい学問の考え方であり、日本学術会議が2003年以降打ち出している考え方である。
〇社会福祉分野は、従来「学問」ではなく、「論」の域を出ていないと学術界では言われてきたが、日本学術会議の提案による「統合科学」という視点、枠組みを考えるならば、社会福祉はまさにぴったりの「統合科学」である。この「統合科学」という考え方の提唱もあって、社会福祉学は2003年度から日本学術振興会の科学研究費の細目として「社会福祉学」が位置づけられ、文字通り日本の学問体系において「社会福祉学」が認証された。
〇しかしながら、統合科学としての「社会福祉学」における個々の要因、要素の実践、研究の科学化は未だ道遠しの状況である。
〇第1には、援助方針を立てる基になるアセスメントが十分確立されていない。相も変わらず医学モデルに基づく“治療”、“療育”という考え方が強く、「社会生活モデル」に基づく、その人の自己実現を図るという発想が十分でない。そのことは先に述べた中央集権的機関委任事務体制の文化的名残りであり、かつ憲法第25条に基づく最低限度の生活保障を保証してあげるというパターナリズムを払しょくできていないからである。
〇今や、ICF(国際生活機能分類)の考え方に基づき、福祉機器等を活用してその人の生活環境を改善したらどうなるかという視点からのアセスメントも重要になってきている。
〇第2には、社会福祉の実践現場は、施設最低基準などの制約があり、ややもすると新人職員と言えども“一人前”の扱いを受けて、勤務シフトに配属され、事実上OJT―オン・ザ・ジョブ・トレーニング(職場での実務を通じて知識やスキルを習得させる育成方法)が実施されてない。
〇また、同じような理由から職員の資質を向上させる一つの方法であるメンター制度(経験豊富な先輩社員・メンター・が後輩シャインのキャリア形成や悩み解決法をサポートする社内制度)なども導入されていないのが大方である。
〇今日では、社会福祉士、介護福祉士の国家資格が出来てから約40年近くの歴史を経て、多くの社会福祉従事者が資格を有する時代になってきている。
〇先に述べた虐待事案において、国家資格の有資格者が虐待を起こしているのか、それとも資格を有していない人が虐待を起こしているのかの分析まではしきれていない(障害者分野では、虐待を起こした職員の就労形態別調査では、正社員、パート等において虐待がおこされていて、派遣労働者等の件数は少ない。しかしながら、国家資格の有無による虐待件数の調査は見当たらなかった。高齢者分野においてもこの項目は見当たらなかった)。
〇資格を有していない人が虐待問題を起こしていてもしょうがないという訳ではないが、資格を有している人でも虐待を起こしているかもしれないという問題点をここでは指摘しておきたい。
〇つまり、現在の国家資格は、社会福祉制度などに関わる座学で学べる部分と実習によって習得できる部分で教育課程は構成されているが、筆者は圧倒的に実習が少ないと考えている。
〇社会福祉士の国家資格の受験資格を得られる通信制の養成機関では、出題科目である講義科目についての履修は求められず、相談援助に関する演習と実習が課せられている。
〇この考え方は、講義科目は当然国家試験に出題されるので、その理解の程度を計ることは国家試験で行えばいいのであり、その国家試験をクリアできなければ合格できないので、それで一種のスクリーニングが行われているという考え方である。
〇しかしながら、相談援助に関する技術は演習で身に着けなければ習得できないので、必修にすると言う考え方だった。当時の厚生労働省の高官はそのことを明言していた。
〇そうだとすると、社会福祉系大学などの養成校の通学生の講義科目についても同じことがいえるので、もっと選択の幅を増やして、負担を軽減し、その分演習や実習によって、座学で得られない実践力の取得に努めるべきではないか。
〇同じようなことは、社会福祉職員研修においてもいえることで、知識の量を増やす、新しい知見を身に着けることを目的とした講義を聞くという承り研修はe-ラーニングでも行うことができるので、対面での座学研修は少なくし、その分事例に基づき、その事例で起きた現象がどのような要因から出されてきたのかをアセスメントし、其の問題を解決する援助方針を立て、どのようなサービス、どのような支援を行うべきかのケアプランを作成するアクティブラーニングを質量ともに増やすことが必要ではないか。それを行わない限り、“知識はあるけれど、対応ができない”という状況はなくならないし、国家資格を有していても虐待事案を起こすことになる。
〇ただ、このような事例に基づきコンサルテーションを行える大学の教員がどれだけいるかが大きな問題である。
〇第3には、医学部の入試において面接が重要な位置と役割を担ってきていることが評価されている。
〇社会福祉系大学において、社会福祉従事者の個人的資質を問う受験生の面接を行って、ソーシャルワーカー、ケアワーカーとしての適性を弁えるという取り組みをしている大学がどれだけあるのだろうか。
〇日本社会事業大学でも、面接を実施して社会福祉従事者としての資質を見抜くという課題は大きな問題であった。かつては、受験生全員の面接が行われていたが、大学経営と受験生の増大という課題の前に面接は受験科目から姿を消した。今、思い起せば、対人に関わることは受験における面接が無くなっただけでなく、新入生のオリエンテーションキャンプ、3年次進学時のインテグレーションキャンプといい、対人関係を培う行事はカリキュラムから姿を消している。ソーシャルワーク関係の教員がその重要性を指摘し、順守することができず、教員の負担軽減という名の下で姿を消している。このような状況で、学生はソーシャルワーク機能に必要な実践力を高めることができるのであろうか。
〇職員の個人的資質の面で言えば、怒りやすい、すぐ切れるとか言った問題は、全体の問題でもあると同時に、すぐれて個人的資質の問題でもあるので、アンガーマネージメントの研修を受けるとか、コーチングを受ける機会を増やすとかして、職員本人の思ったこと、感じたこと、悩んだことを「外化」する機会や「内省」の機会を持つことも重要である。

ⅳ)社会福祉施設最低基準等の見直しと福祉機器を利活用した職員の負担軽減、利用者のQOLの向上
〇虐待の問題は、福祉サービス利用者に対するケアワーカーやソーシャルワーカーの配置基準が劣悪であるからとか、労働条件が悪いから起きるというという労働環境劣悪説を唱える人もいるが、事柄はそう単純なものではない。
〇しかしながら、十分な労働環境が保障されず、気持ちの余裕もなくなり、身体的にも疲労が蓄積されている時に、虐待が起きやすいことは想像するのに難くない。
〇虐待案件の調査でそのような視点での分析が今後必要になるのではないか。しかし、ここではそれについては触れない。
〇虐待の問題と職員の労働環境の悪さとの直接的相関性をいうことは簡単にはできないが、先に述べたように「ユニットケア」で「個別ケア」を徹底している社会福祉施設ではサービス利用者も家族も大変評価していること、並びにその「ユニットケア」で働いている職員の離職率が全介護事業所や全国社会福祉施設経営者協議会に加盟している事業所と比較して、離職率が特段に低い事を考えると、それは社会福祉施設最低基準に問題があるというより、先述したような施設の経営方針等に由来していると考えるのが妥当であろう。
〇とはいうものの、社会福祉施設最低基準が見直され、福祉サービス利用者の空間的生活環境の整備が整えられ、集団的、画一的ケアの提供ではなく、サービス利用者の生活リズムに合わせた支援が可能となるような社会福祉施設最低基準の見直しは確かに今後必要であろう。
〇現在、厚生労働省は高齢者分野での介護ロボット、見守りセンサー等のICTや福祉機器を活用しての「介護労働生産性向上センター」を設置する政策を進めていると同時に、「LIFE」といった介護現場のデータ化によるケアの科学化を進めている。
〇他方、障害者分野でもICTを活用した「障害者ICTサポートセンター」を設置して、障害者本人の生活の利便性を高めると同時に、社会福祉職員の負担軽減を図っている。
〇これら福祉機器の利活用は、職員の負担軽減のみならず、利用者のQOLの向上にも連動している重要な取り組みである。
〇しかし、それ以上に重要なのは、介護ロボットの利活用もさることながら、介護現場に介護リフトを導入することである。人力による抱え上げをするのではなく、介護リフトを利活用することによって、福祉サービス利用者の不安感は軽減するし、職員の腰痛予防にもなる。結果的に利用者と職員との会話の時間も増えるということも考えると、社会福祉施設最低基準の人員配置基準の見直しのみならず、従来の人力による介護をするという福祉文化を変えることが、今最も重要な取り組み課題である。

(注記)
本連載は、日本社会事業大学同窓会北海道支部の求めに応じて執筆したものである。連載は、「老爺心お節介情報」第51号、第52号、第59号、第61号、第66号が初出である。


 

大橋ブックレット 創刊号 
社会福祉従事者の社会福祉観と虐待問題

発 行:2025年5月8日
著 者:大橋謙策
発行者:田村禎章、三ツ石行宏
発行所:市民福祉教育研究所

 


 

大橋謙策/大橋謙策研究 第7巻:福祉でまちづくり

 


 

目  次

Ⅰ 大橋謙策監修『安らぎの田舎(さと)の道標(みちしるべ)‥‥‥2
―島根県瑞穂町  未来家族ネットワークの創造―』(抜粋)

Ⅱ 全社協・福祉教育研究委員会『福祉教育の理念と実践の構造
―福祉教育のあり方とその推進を考える―』(抜粋)‥‥‥47

Ⅲ 全社協・福祉教育研究委員会『学校外における福祉教育のあり方と
推進』(抜粋)‥‥‥69

Ⅳ 全社協・ボランティア基本問題研究委員会『ボランティアの基本理念と
ボランティアセンターの役割
―ボランティア活動のあり方とその推進の方向―』‥‥‥112

Ⅴ 全社協・福祉教育活動事例評価検討会『地域に広がる福祉教育活動事例集
―福祉教育の考え方と実践方法・先進的事例に学ぶ―』(抜粋 )‥‥‥132

Ⅵ 大橋謙策「地域福祉実践の神髄―福祉教育・ニーズ対応型福祉サービスの
開発・コミュニティソーシャルワーク―」‥‥‥142

 


Ⅰ   大橋謙策監修、澤田隆之・日高政恵共著

安らぎの田舎(さと)の道標(みちしるべ)
――島根県瑞穂町  未来家族ネットワークの創造―

******************************************************************

1 大橋謙策/『安らぎの田舎の道標』発刊に寄せて

2


3


 

4


2 大橋謙策・澤田隆之・日高政恵/鼎談・瑞穂が目指す21世紀の福祉

5


6


7


8


9


10


11


12


13


 

14


15


 

16


17


18


19


 

20


21


22


23


24


25


 

26


27


28


29


 

30


31


32


 

33


34


35


36


37


38


39


40


41


42


3 参考資料


43



44


45


46


備考:瑞穂町は、島根県の中西部に位置し、広島県境に接した中国山地の町である。2004年10月、合併により邑南町(おおなんちょう)となった。
出典:大橋謙策監修、澤田隆之・日高政恵共著『安らぎの田舎(さと)の道標(みちしるべ)―島根県瑞穂町  未来家族ネットワークの創造―』万葉舎、2000年8月、6~11、175~255ページ。

 


Ⅱ   全社協・福祉教育研究委員会

福祉教育の理念と実践の構造(抜粋)
――福祉教育のあり方とその推進を考える―

******************************************************************

47


48


49


50


51


52


53


54


55


56


57


58


59


60


61


62


63


64


65


66


67


68


出典:全社協・福祉教育研究委員会『福祉教育の理念と実践の構造―福祉教育のあり方とその推進を考える―』(福祉教育研究委員会中間報告)全社協・全国ボランティア活動振興センター、1981年11月、1~22ページ。

 


Ⅲ  全社協・福祉教育研究委員会

学校外における福祉教育のあり方と推進(抜粋)

******************************************************************

69


70


71


Ⅰ 生涯教育と福祉教育

72


73


第1章 家庭教育と福祉教育

74


75


76


77


78


79


80


第2章 社会教育と福祉教育

81


82


83


84


85


86


87


88


89


90


91


92


93


94


95


96


97


98


99


100


101


102


103


104


105


106


107


108


109


110


111


出典:全社協・福祉教育研究委員会『学校外における福祉教育のあり方と推進』(中間報告)全社協・全国ボランティア活動振興センター、1983年9月、1~44ページ。

 


Ⅳ   全社協・ボランティア基本問題研究委員会

ボランティアの基本理念と
ボランティアセンターの役割

―ボランティア活動のあり方とその推進の方向―

******************************************************************

112


113


114


115


116


117


118


119


120


121


122


123


124


125



126



127


128


129


130


131


出典:全社協・ボランティア基本問題研究委員会『ボランティアの基本理念とボランティアセンターの役割―ボランティア活動のあり方とその推進の方向―』全社協・全国ボランティア活動振興センター、1980年7月、1~20ページ。

 


Ⅴ   全社協・福祉教育活動事例評価検討会

地域に広がる福祉教育活動事例集(抜粋)
―福祉教育の考え方と実践方法・先進的事例に学ぶ―

******************************************************************

132


133


134


135


136


137


138


139


140


141


出典:全社協・福祉教育活動事例評価検討会『福祉教育モデル事例集 地域に広がる福祉教育活動事例集―福祉教育の考え方と実践方法・先進的事例に学ぶ―』全社協・全国ボランティア活動振興センター、1996年3月、はしがき、目次、83~87ページ。

 


Ⅵ 大橋謙策

地域福祉実践の神髄
―福祉教育・ニーズ対応型福祉サービスの開発・コミュニティソーシャルワーク―

******************************************************************

142


143


 

144


145


146


147


 

148


149


 

150


 

151


 

152


153


 

154


155


出典:『大橋謙策主要論文集(2013年~2018年)』大橋ゼミ45周年ホームカミングデー実行委員会、2018年10月、113~126ページ。

 


 

大橋謙策研究 第7巻
福祉でまちづくり―支え合う地域福祉実践―

発 行:2025年5月7日
著 者:大橋謙策
発行者:田村禎章、三ツ石行宏
発行所:市民福祉教育研究所