「大橋謙策の福祉教育論」カテゴリーアーカイブ

大橋謙策/大橋謙策研究 第1巻:四国お遍路紀行・熊野古道紀行

 


 

目  次

Ⅰ 「大橋謙策・四国お遍路紀行―四国八十八カ所巡り―」(2010年9月20日~11月8日)/2021年3月28日‥‥‥2

Ⅱ 「大橋謙策古稀記念―四国歩きお遍路紀行―」(2014年4月3日~5月10日)/2021年3月18日‥‥‥51

Ⅲ 「第三回四国歩きお遍路喜寿紀行―前編・第一番札所 霊山寺~第三十七番札所 岩本寺―」(2020年4月3日~4月20日)/2020年6月12日‥‥‥94

Ⅳ 「第三回四国歩きお遍路喜寿紀行―後編・第三十八番札所金剛福寺~第八十八番札所大窪寺―」(2021年4月3日~4月28日)/2021年6月17日‥‥‥137

Ⅴ 「熊野古道(中辺路・伊勢路)紀行」(2018年4月3日~4月15日)/2018年4月21日‥‥‥183

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謝辞
本稿は、2018年4月19日に拝受した「熊野古道/中辺路・伊勢路/紀行/(草稿)/2018年4月3日~15日」の「紀行文」と、5月2日に拝受した写真を大橋謙策先生のご了解を得てアップしたものです。編集上、若干手を加えさせていただいております。(阪野 貢:2018年5月2日)

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大橋謙策研究 第1巻
四国お遍路紀行・熊野古道紀行―歩き来て自然と生きる意味を知る―

発 行:2024年12月25日
著 者:大橋謙策
発行者:田村禎章、三ツ石行宏
発行所:市民福祉教育研究所

 


老爺心お節介情報/第63号(2024年12月14日)

「老爺心お節介情報」第63号

地域福祉関係者の皆様
社会福祉協議会関係者の皆様

「老爺心お節介情報」第63号を送ります。
向寒の折、ご自愛ください。

2024年12月14日  大橋 謙策

〇漸く冬らしい気候になってきましたが、皆様にはお変わりなくお過ごしでしょうか。
〇私の方は、春の天気の表現でよく使われる「三寒四温」ではありませんが、体の調子がいいなと思えると風邪を引く、どこに原因があるのかわからないのに体のあちこちが痛いといった状況で、「三寒四温」をもじっていえば、「三快四衰」の繰り返しで、徐々に体力が落ちていきます。そして、5年毎に階段を転がるかのようにガクッと体力が落ちるのを実感しています。それでも、毎日酒を飲んで楽しく過ごしています。
〇12月7日には、「房総地域福祉実践研究セミナー」が開催され、参加してきました。2000年冒頭に、何県かの知事たちは「社会福祉協議会不要論」を唱えました。地域福祉を専攻してきた私は、社会福祉の理念は子どもも、障害者も、高齢者も地域での自立生活が可能になるようなシステムづくりと支援をすべきだと考え、そのためには福祉サービスを必要としている人を排除、蔑視しない地域づくりが必要であるとともに、そのためにも市町村社会福祉協議会の力量を高める必要があると考え、日本地域福祉研究所のセミナーや四国地域福祉実践研究セミナー等いくつかの地域福祉実践研究セミナーの必要性を提唱し、関わってきました。
〇「房総地域福祉実践研究セミナー」もその一つで、20回も回を重ねました。今回は、「重層的支援体制整備・孤独孤立支援の地域福祉とコミュニティソーシャルワーク」をテーマに行われました。“継続は力なり”と言われますが、若い実践家が育ってきているのを実感しますし、そのような新しい実践との出会いをわくわくしながら見守っています。
〇12月4日~6日まで、石川県社会福祉協議会の茂尾亜紀さんのコーディネートで、2024年元旦の能登半島地震及び9月の集中豪雨で被害に会われた珠洲市並び穴水町、輪島市門前町を訪問させて頂きました。途中、液状化災害の酷い内灘町を経由しての訪問は、災害の広域性と多様性を彷彿とさせるものでありました。
〇今まで、富山県社会福祉協議会、香川県社会福祉協議会主催のセミナーで、能登半島地震等への支援の状況を聞いてきましたが、それらとは別の支援のあり方について考えさせられましたので、それに就いて以下に項目ごとに気が付いた点を書きたいと思います。
(2024年12月10日記)

#この小稿は、念のため、穴水町、珠洲市の関係者にご校閲頂いたうえで、発信していることを付記しておきます。
お忙しい中、穴水町、珠洲市の関係者の皆様ありがとうございました。(2024年12月14日、加筆修正)

Ⅰ 「災害ボランティアセンター」から「災害ボランティア・ささえあいセンター」への改組・発展

〇私は、以前より、災害時支援に関わる社会福祉協議会の役割は、被災者宅などの瓦礫撤去、泥水・汚泥の撤去ではなく、被災者の生活面でのニーズ把握とその解決に関わるソーシャルワーク支援を中心にすべきだと提唱してきました。
〇そのことは、社会福祉協議会が設置するボランティアセンターが瓦礫撤去や泥水・汚泥の撤去を行ってはいけないということではありませんが、それ以上に被災者、とりわけ生活再建、再興の復元力の弱い被災者へのソーシャルワーク支援が重要なのだと述べてきました。
〇この件については、東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県石巻市の被災者支援を行ってきた日本医療ソーシャルワーク協会の活動をまとめた『東日本大震災被災者への10年間のソーシャルワーク支援』(日本医療ソーシャルワーク協会監修)に詳しく書かせて頂きました。
〇今回、穴水町社会福祉協議会を訪ね、社協職員の橋本みすずさん、国際NGO・ADRAの小出一博さん、名古屋市みなと災害ボランティアネットワークの富松辰也さんにいろいろお話をお聞きしました。
〇その際に、示された穴水町社会福祉協議会のボランティア・ささえあいセンターの体系図が以下の図です。

〇この図には、既に従来の瓦礫撤去のボランティア活動の受け入れ調整とともに、生活支援、避難所支援が明確に位置づけられています。
〇と同時に、一般のボランティアによる瓦礫撤去などとは別に、高度な技術を必要としている技能系ボランティア活動も別枠で位置づけられていますし、炊き出し調整グループの位置づけも明確化されています。
〇穴水町の災害ボランティア・ささえあいセンターの体系に大きなヒントをくれたのは、2007年の震度6強の能登半島地震の際に支援に入ってくれたレスキューストックヤードの関係者で生活ニーズへの支援との一体化の提案をしてくれたそうです。また、穴水町役場・社会福祉協議会・民間団体の三者間の情報共有会議を毎週行い、連携した体系の基盤づくりをリードしてくれました。
〇国際NGO・ADRAなどの技術系ボランティア団体は、そうした連携の基盤がしっかりとできたところに2024年2月から支援に入るようになったということでした。
〇国際NGO・ADRAの小出一博さんによれば、「穴水町の災害ボランティアセンターの事例はこれまでにない優良事例だと感じておりました。どのような背景からこの素晴らしいカタチになったのかを整理したくて、キーパーソンへのインタビューなどしてきました。そんなこともあり、大橋先生が「穴水の経験を社会に伝えるべき」と橋本さんにお話なられていることに改めてその意義を思いました。私は、何でこんなにいろんな人が関わる開かれた災害ボランティアセンターとなったのか、というところにしか目が向いておりませんでした。しかし、目を向けるべきは、「作業ボランティアと生活支援ボランティアの両方を災害ボランティアセンターでやる」ということを早い段階で表明して、実現できていたところなのだと今日理解いたしました。」とメールを頂きましたが、まさにこの言葉に尽きると思います。
〇一般的な災害ボランティアセンターを開設して、がれき撤去等の需要供給の調整に関わる作業だけでなく、より専門的な対応ができる技術系ボランティア団体の活用、炊き出しや日常生活、今後の生活支援まで統合的に展開するシステムこそが社会福祉協議会に求められていると改めて実感しました。
〇穴水町災害ボランティア・ささえあいセンターは、災害ごみの搬出の他、引っ越しボランティア、避難所環境整備、食の配送・炊き出し、仮設住宅の表札づくり、被災者の健康管理、避難所での制度利用の説明会、新生活応援御用聞き、足湯・サロン等多様な活動を一体的に展開しています。
〇穴水町の災害ボランティア・ささえあいセンターは、穴水町社会福祉協議会がある建物に設置されましたが、そこに300人の人が避難する状況でした。その建物の一室がたまたま施錠されていて、避難民の方が入室していなかったので、「こちらはお身体の不自由な方のためのスペースです」という張り紙をして、その部屋を福祉避難所にし、尿臭のする認知症の方や車いすの方、全盲の視覚障害者、精神障害のある方などに利用していただいたとのことです。
〇また、子ども連れの世帯には建物の2階の部屋を利用して頂き対応しました。福祉避難所の利用者については、発災直後は職員や外部ボランティアが支援していましたが、夜間の支援も必要であり、一晩だけではあったが、DWATの方々が立ち寄ってくれた時に支援をお願いしました。その後、2月19日から2月29日の間、DWATは保健師と協働し、各避難所を訪問し、福祉的支援が必要な方々への支援を実施してくれました。
〇と同時に、多くの被災地ではり災証明に関する手続きが煩瑣で、多くの住民が支援を必要とする状況があるなかで、穴水町は人口が少ないからできたという面があるのかもしれませんが、行政がすべての世帯への被災状況の調査を地区ごとに行い、住民からり災証明発行の申し出があれば、即座に証明を出せるシステムを作ったことは高く評価できます。結果として住民のり災証明申請率が大変高くなっています(住宅被災者の中で、り災証明北郊等のニーズがどれだけ申請されているかの率では、2024年7月現在、該当する住民の80.4%が申請している。輪島市は29.9%、珠洲市は71.1%、七尾市は18.2%)。

Ⅱ 珠洲市――“禍転じて福となす”ソーシャルケアの可能性を期待して

〇珠洲市の被害状況は、大谷地区清水町、仁江町の山崩れ、山津波被害、港・海岸の隆起(4メートル)、宝立地区春日野や三崎地区寺家、粟津などの津波(津波の高さはおおよそ4~5メートル)被害、各地の液状化被害、道路の隆起・陥没による被害と多様な災害に見舞われました。さらには、9月の集中豪雨による被害、内水氾濫による被害も甚大です。
〇珠洲市では、社会福祉協議会会長の表啓一さん、事務局長の塩井豊さん、総務管理課長の奥佐公子さん等から話を聞くとともに、神徳宏紀さんが被災各地を車で案内してくれながら被害状況の説明と社会福祉協議会の対応等の説明をしてくれた。
〇珠洲市の災害ボランティアセンターには、石川県内の社会福祉協議会の白山市社協、野々市市社協、小松市社協、川北町社協、宝達志水町社協や石川県社協職員はもとより、全国の社会福祉協議会職員が支援に入ってくれており、私が訪問した日(12月5日)にも、宮崎県日向市社協、宮崎県高鍋町社協、熊本県社協、熊本県益城町社協、神奈川県箱根町社協、神奈川県川崎市社協、神奈川県横浜市社協、山梨県社協の職員が支援に来てくれていました(この日は入れ替わり日で常時4名の県外の応援が入っていました)。
〇社会福祉協議会の表会長は、ボランティア活動が夕方終わり、金沢市への帰路に就くときには、必ずバスの中でボランティアの皆様にお礼のあいさつを欠かさなかったとお聞きした。表会長は当たり前ですとは言っておられたが、表会長のボランティアの皆様への並々ならぬ感謝の表れと敬服させられました。
〇また、災害支援ボランティア団体としては、国際NGOピースウインズジャパン、ピースボート災害支援センター、チームふじさん等の団体が支援に入ってくれており、名刺交換させて頂いた。また、珠洲市には、日本災害看護学会や災害看護研究所、日本医療ソーシャルワーかー協会等の看護、保健分野の団体が多く支援に入っているとの印象をもった。
〇珠洲市では、災害ボランティアセンターと生活支援のささえ愛センターとは、別々に設置されていたが、その協働関係は良く保たれており、事実上一体的に運営されていると考えてよい。その活動は、穴水町の災害ボランティア・ささあいセンターと同じように機能していると考えらます。
〇珠洲市社会福祉協議会の活動は、被災以前は、職員のほとんどが介護保険サービスを担当しており、通所介護及び訪問介護の職員数が64名なのに対し、総務管理課の職員数は5名で、ささえ愛センター兼務2名が実質的に地域福祉を担っていたと側聞していました。珠洲市には特別養護老人ホームと老人保健施設等の入所型施設も整備されていますが、住民の多くは在宅で、集落ごとの付き合いを大切にし、訪問系、通所系の介護サービスを利用して生活してきたという。
〇能登半島地震により、介護保険分野のサービスが壊滅的な打撃を受けたものの、珠洲市社会福祉協議会は職員を解雇して、雇用調整金制度を活用するという判断をせず、職員の雇用を継続したそうです。その財源は、介護保険サービスで蓄積した基金を取り崩しての対応であり、2023年度だけでも5000万円の赤字を計上したという。同じように、今年度も、ほぼ同じ5千万円の赤字が予想されているという。そのことに対する市行政からの補助はなく、厳しい経営が迫られていました。
〇そのような中、解雇しなかったケアワーカーたちが災害被災者支援のささえ愛センター等で大きな力を発揮し始めていることに大きな期待がもてました。
〇日本の「社会福祉士及び介護福祉士法」は、入型社会福祉施設が隆盛な1987年に制定されました。その時代では、ケアワーカー(介護福祉士)の必要性は良く理解されていましたが、生活全般の支援をするソーシャルワーカー(社会福祉士)は何をする仕事か国民にも、社会福祉関係者にも、政策担当の厚生労働省にも理解されていなかった状況です。
〇ところが、1990年に在宅福祉サービスが法定化され、2000年に介護保険法、2005年に障害者総合支援法が実施されるに及んで、在宅の要支援高齢者や障害者の支援にはケアワークだけでなく、ソーシャルワーク機能も必要であることが理解されようになっていきます。まして、2021年度から始まる地域共生社会政策を具現化させる重層的支援体制整備事業等においては、要支援者へのケアワークと生活全般を支援するソーシャルワークとを統合的にとらえる「ソーシャルケア」という考え方が重要になります。
〇「ソーシャルケア」という考え方は、1998年にイギリスで提唱されましたが、日本でも2000年に「ソーシャルケアサービス研究従事者協議会」がケアワーク及びソーシャルワーク関係の17団体・学会の参加の下に立ち上げられました。
〇能登半島地震という未曽有の災害を被災した珠洲市では、地域で暮らしたいと願う住民の要望に応えていくためには、訪問介護系職員が生活支援も担当し、きめ細かく住民の支援に関わることで、他市町村にない新しいサービス体系を構築できる可能性を持っていると感じましたし、期待したいと思いました。
〇私は、そのためにも、行政と協議をして、できるだけ早く重層的支援体制整備事業を受託するように社協会長並びに事務局長に提言させて頂きました。
〇市内の被災地を案内してくれた神徳宏紀さんとご一緒している際に、技術系ボランティア団体・チームふじさんの藤野龍夫さんの現場を見る機会がありました。その現場、あるいは藤野さんの活動を聞いていると、汚泥撤去、がれき撤去のボランティアとは全く違うニーズ対応のボランティア活動があることがよくわかりました。藤野さんは泥水に浸かったエアコンの85%を修理し、生活再建に役立てたということです。私などは、泥水に浸かったエアコンは使い物にならず、廃棄処分だと思っていたのですが、技術系ボランティア活動によって再使用可能になるというのは驚きでした。
〇珠洲市では多様なボランティア団体が支援に入っていることもあり、「珠洲市災害NPO等の連絡会」が1月7日に行われ、その後も週に1回のペースで開催されているとのことです。
〇珠洲市への支援のボランティア団体の活動が早かったのは、行政や社会福祉協議会が動く前に、社会福祉協議会職員である神徳宏紀さんが個人的にメール等で依頼したからということもあるようです。
〇神徳宏紀さんは、2023年5月の能登半島地震の支援に入ってくれた支援団体の方々と個人的「関係人口」を持っており、その個人的「関係人口」が2024年元旦の災害でも威力を発揮し、多くの団体が支援に入ってくれたということです。
〇それらの団体の連絡調整を密にして、無駄のない支援を可能ならしめたのが上記の連絡会です。と同時に、珠洲市の行政も福祉課のみならず、健康増進センター、環境建設課、総務課、市民課の連携をよくとり、災害ボランティアセンター、ささえ愛センター、日本医療ソーシャルワーカー協会への委託をスムーズに展開してくれました。そのために、上記の連絡会とは別に、生活支援ネットワーク会議、情報共有会議などを随時開催しています。

Ⅲ 特別養護老人ホーム長寿会における緊急避難・帰宅支援・介護経営の問題

〇社会福祉法人長寿会では、参事兼事務局次長の高堂泰孝さんと特別養護老人ホーム長寿園と第三長寿園の施設長中村充宏さんにお話しをお聞きしました。
〇特別養護老人ホーム長寿園は、定員98名、ショート利用者8名、デイ利用者17名で経営されている築40年の施設です。能登半島地震により、停電、断水、浄化槽の使用不可の状況に陥りました。
〇長寿園は高台にありますが、津波に襲われた地区が近くにあり、一般市民の避難者が250名身を寄せてきたそうです。施設が有している備蓄品は3日間で、それをどうにかやりくりしてしのいだが、急遽支援を要請したといいます。

・1月3日には自衛隊の物資のパンが届くと同時に、ガス管直結でガスが使用可能になりました。
・1月5日、関西電力の送配電車両が到着し、本館などの明かりがともりました。
・1月13日、県、市、DMATの関係者の判断で入居者の避難を決定。自衛隊、民間救急、ヘリコプター、リムジンバスを利用し、避難開始。
・1月17日、DWAT(福井、静岡)4名来援。1月22日にはDWAT(岐阜県)から5名来援。
・1月26日、避難完了。

〇長寿会での聞き取りにおいていくつかの疑問、介護保険制度等不備を実感しました。
〇第1は、サービス利用者の全員を避難する際に、DMATが大きな役割を果たし、感染症等の危険性から避難を要請されたにも関わらず、それらに関わる対応が不十分であり、制度に不備があるということです。
〇緊急事態に遭遇している状況の中で、とりわけ要介護の高齢者のケアをしている立場から言えば、感染症の危険性等を指摘され、避難の必要性を誘導され、実際の避難は自衛隊などによって避難させてもらったにも関わらず、その避難者が帰郷する際の支援は介護タクシーのみであり、それ以外の避難に関わる費用も自己負担ということはとても解せないと思いました。愛知県、大阪府の避難先からの帰郷もあったということです、
〇第2には、そのような避難を行いながら、避難させた長寿会には、実際のケアを提供していないからという理由で、介護報酬費が入らず、経営難に直面するということです。働いている職員の雇用確保を継続するためには、介護報酬の収入がないなか、社会福祉法人自体がその工面をしなければならないという点も制度のある側面だけに焦点化させているのではないかと思いした。緊急事態いうことが何ら考えられていないと思いました。
〇たまたま社会福祉法人長寿会は施設の移転建築を考えていたため、そのための積み立て金7億円を含めた積立金が約10億円あったので、そこから1億円を支出して、職員の雇用を確保できたということですが、近隣施設で職員を解雇し、雇用調整金制度で対応した社会福祉法人は現在でも施設を再開できずにいるとのことです。それは一端解雇した職員が戻らず、職員を確保できないからだということです
〇長寿会では、職員を確保できていたので、9月末には被災前の利用者で遠隔地に避難していた人もすべてが戻ってきて、現在サービスを利用されているという。
〇そのような中、金沢市の施設へ避難した利用者20名とケアの職員は、その施設を利用させていただいたにも関わらず、介護報酬はすべて長寿会の収入として取り扱ってくれ、大変助かったということです。
〇長寿会では、現在のところ、地上に水道管を配管すると同時に、下水道も40名分の浄化槽を2基地上に設置することでサービスを提供できているという。
〇また、第3長寿園の空き地は、復興住宅に隣接しているが、その空き地を利用して、被災者の交流拠点施設の計画を進めており、カフェスペースや相談室も備えた多世代交流型の復興支援活動の拠点にしたいと考えているとの事でした。

Ⅳ 輪島市門前町の総持寺祖院の復興を願って

〇輪島市門前町の総持寺祖院は、明治39年の火災で焼失、その後復興され、今日では国の重要文化財に指定されようかと言われるほど重要な建造物であったが、先の地震で被害を受け、14年ぶりに落慶法要が終わった。その矢先に、今回の能登半島地震で再度大きな被害を受けました。
〇私は今から30年前ぐらいに訪問し、その素晴らしさ、荘厳さに胸を打たれていたので、今回訪問させて頂くことにしました。
〇曹洞宗青年部の僧侶としてボランティア活動されてきた副監院兼副寺の高島弘成さんにいろいろ説明を頂きました。
〇今回の地震波は前回と異なる横揺れだったので、せっかく再建したにも関わらず被害を受けることになったとのことです。
〇今回は、国の重要指定文化財に指定されそうなので、復興には国の関与がいろいろあり対応が大変ではあるが、前回のようなお寺と地域の負担は大きくならないとだろうとのお話に少し安心しました。
〇今回の地震では3つある塔頭のうち2つが崩壊してしまったし、門前の商店街も被災しているので、地域の皆さんには前回のような負担をお願いできないと言われていましたが、まさにそうだろうなと得心しました。
〇高島弘成さんは旧来のまちを復興・再建するのでなく、新しい街をつくるという発想が重要だと言われていたことが非常に印象に残りました。
〇被災した門前の商店街もプレハブを建てて、仮の商店街を開いていましたので、今後の復興、新しい街づくりに心から期待したいと思いました。
(2024年12月14日記)

(備考)
「老爺心お節介情報」は、阪野貢先生のブログ(「阪野貢 市民福祉教育研究所」で検索)に第1号から収録されていますので、関心のある方は検索してください。
この「老爺心お節介情報」はご自由にご活用頂いて結構です。

 

老爺心お節介情報/第62号(2024年11月3日)

「老爺心お節介情報」第62号

地域福祉関係者の皆様
社会福祉協議会関係者の皆様

漸く秋めいてきましたが、お変わりなくお過ごしでしょうか。
「老爺心お節介情報」第62号を送ります。
皆様、ご自愛の上、ご活躍下さい。

2024年11月3日   大橋 謙策

〇皆様お変わりなくお過ごしでしょうか。私の方は、元気に各地の講演・研修で飛び回っています。
〇前回の「老爺心お節介情報」を出してから、だいぶ月日が経ちました。いろいろ伝えたいことはあったのですが、9月、10月と各地の講演・研修に忙殺され、書くことができませんでした。8~10月までの間で、これは伝えておいた方がいいと思うものをピックアップして送ります。
〇内容は、以下の通りです。
Ⅰ 「我が青春譜」―東京都三鷹市勤労青年学級での10年間の学びと交流
Ⅱ 前立腺がんの治療、処方が終わり、後は半年ごとの経過観察に移行
Ⅲ 人口減少、超高齢化小規模町村の“地域”福祉は成り立つか?
Ⅳ 敬愛する忍博次先生が逝去される

Ⅰ 「我が青春譜」―東京都三鷹市勤労青年学級での10年間の学びと交流

〇去る8月31日に30回目の『きずな祭』が20名余の参加者を得て行われました。
〇『きずな祭』とは、故小川正美先生(三鷹市社会教育主事で、三鷹市勤労青年学級主事を兼ねていた)が1995年8月31日に亡くなられた翌年から、小川正美先生を偲び、その恩顧に報い、三鷹市勤労青年学級生同士の交流を深める目的で、小川先生の祥月命日の前後で行われてきた「祭り」です。
〇今回は、当時の勤労青年学級生もほぼ70台後半になっていることから、これが最後の『きずな祭』として行われました。
〇『きずな祭』は、小川正美先生の墓所のある八王子市犬目の明観寺での30回忌法要に参列し、お墓参りをしました。明観寺のご住職は、30回忌法要に青年学級生が20名近く参加したことを驚かれ、余ほど個人は人徳ある高邁な方だったのですねと法要の説話の中で述べられていたが、確かに葬儀ではなく、30年間も『きずな祭』が続いていること、30回忌の法要に子ども、親類を除いて、20名近くの当時の勤労青年が参列したことに感嘆されていた。
〇筆者は、故小川正美先生とは1965年からのお付き合いになる。小川正美先生は、東京学芸大学の社会教育主事養成課程において、私の恩師の故小川利夫先生と出会い、以後三多摩社会教育研究会のメンバーとして一緒に活動を行ってきた。故小川利夫先生曰く“義兄弟の契り”を結んだ仲であるという。
〇小川利夫先生は、日本社会事業大学の小川ゼミ、あるいは大学の講義科目である社会教育の科目をうけていた“貧乏学生”を三鷹市勤労青年学級に送り込み、勉強と同時にアルバイト先として活用していた。筆者も、日本社会事業大学学部4年の1966年から三鷹市勤労青年学級の講師補佐の役割を担い、社会教育の勉強の機会を与えられた。
〇筆者は、三鷹市勤労青年学級の社会コースの講師を1967年から勤め、日本社会事業大学の専任講師に採用された後の1975年までつとめさせて頂いた。
〇筆者にとって、中卒、高卒の勤労青年は社会教育と社会福祉の接点に存在する人々で、その学習者である青年の生活を垣間見ることにより、人間理解、生活分析、発達の可能性などについて考えることができたように思われる。
〇小川正美先生から、勤労青年学級の紀要ともいえる『青年学級の視点』に毎年のように教育実践のまとめと青年論についての原稿を書かされたのは苦痛であったが勉強になった。
〇三鷹市勤労青年学級の実践は、1960年代~1980年代に花開いた教育実践であるが、その実践は全国的にみても高く評価されていた教育実践である。その主な特色を箇条書き的に列挙すると以下のとおりである。

①  勤労青年学級の教育実践を各コース毎に毎年まとめ、『青年学級の視点』として刊行していた。その『青年学級の視点』には、青年教育論、勤労青年の生活分析などの小論文である拙稿も掲載されている。『青年学級の視点』に書かされたことにより、筆者はそれなりに書く“力”を身につけたように思える。
②  勤労青年学級の週刊新聞「きずな」を350号近くまで刊行したことである。これを発刊するために、学級生は「ガリ版」の筆耕を習い、発刊し続けた。
この週刊新聞「きずな」の刊行が契機となり、三鷹市に独りぼっちの青年を無くそうという運動が、学級生から起こり、三鷹市の様々なところ(飲み屋、喫茶店なども含めて)に、学級生が作った「壁新聞」が張られることになる。
③  勤労青年学級は、毎年4コースほど開設されたが、講師は各分野の講師、あるいは大学院生が講師を務めていたが、講師補佐制度を作り、この講師補佐は学級生の中から選ばれ、学級運営について小川正美青年学級主事と話し合う機会をもっていた。講師補佐たちは合宿を行ったりして、自分たちの学級の運営や来年度に向けた企画立案を行った。
④  勤労青年学級生たちは、自分たちの居場所を確保するために、当時の三鷹市の市長である鈴木平三郎市長あてに手紙を書き、24時間自由になる居場所として公共施設を開放してもらい、その建物のカギを預からせてもらった。
⑤  勤労青年学級生は、三鷹市立図書館が使いづらいと考え、学級生の「みんなの文庫」を設立する。小学校で廃棄される下駄箱を譲り受け、洗い、ペンキを塗り、「みんなの文庫」として青年学級が行われている市民センターの一角に設置した。大学ノートを吊り下げておいて、借りていく人はそのノートに名前を書くだけの簡便な手続きにし た。文庫の本はなくなるどころか増えていき、ある時にはLP版のレコードが多数寄贈されていた。
⑥  筆者が担当した「社会コース」では、ある年度、青年学級生の言語能力の向上、論理的思考法の獲得、大学生にコンプレックスを抱いている青年のコンプレックスからの解放といった教育理念の基に、三鷹市在住の絵本作家赤木由子著『はだかの天使』から読み始め、岩崎京子さんの童話『鯉のいる村』、あるいは青春ものを書いた早船ちよさんの『キューポラのある町』や早乙女勝元のものを読んだ。その後は、渡辺洋三さんの岩波新書『法とういうものの考え方』や美濃部亮吉の岩波新書『日本経済図説』なども読んだ。岩波新書を読むということは、大学生と同じくらいの学力があるのだと、コンプレックスをなくす一つの方法であった。この一連の読書の過程では、国語辞書の引き方等も学習し、知らないことが恥ずかしいことではない。学ぶ方法を身につけていないことが恥ずかしいのだと学級生たちと頑張ったことが強く印象に残っている。
⑦  三鷹市勤労青年学級には、重要な“たまり場”、“居場所”があった。それは学級が開かれている施設とは別に存在していた。それは今聡子さん(青森県出身)が経営していた「おでん屋」で、学級生からは「おばちゃんち」と呼ばれ、親しまれていた。そこが学級生たちの夕食の場であり、懇親の場であり、恋愛の場でもあった。勤労青年学級生たちが作成した『おばちゃんち』と題する記念誌も刊行されている。
この「おばちゃんち」で、酒を飲みながら、談論風発をしていたこともあって、小川正美先生が三鷹市教育委員会を退職するときには『酒会教育』という名の小川正美社会教育実践集が刊行されている。

〇筆者の地域福祉論における「地域福祉の4つの主体形成論」は、この三鷹市勤労青年学級の実践が基になるもので、筆者が各地で“住民座談会を行い、住民のニーズキャッチをし、それを基に行政への政策提言を行うという地域づくりの住民の主体形成論”として発展していく。
(2024年9月23日記)

Ⅱ 前立腺がんの治療、処方が終わり、後は半年ごとの経過観察に移行

〇2022年3月に発見された前立腺がんは、2024年9月4日の診察で処方が終わり、服薬していた薬がなくなる9月末をもって治療が終了となった。
〇前立腺がんの腫瘍マーカーも、ここ1年0・008で推移しており、この数値は前立腺を除去しない限り0にはならないという。0・008は前立腺がんを治療できたと考えてよいとの医師の判断でした。
〇話には聞いていましたが、服薬していた女性ホルモン剤と女性ホルモン注射で、本当に筋力が落ちた。服薬が終わったので、筋力が戻りますかと医師に問うと、80歳代の人の筋力は20歳代の人の3分の1ですよ。戻らないと考えた方が賢明ですと言われたが、もう一度筋力を鍛えて歩きたいと考えることは夢想なのでしょうか?
(2024年9月29日記)

Ⅲ 人口減少、超高齢化小規模町村の“地域”福祉は成り立つか?

〇以前にも「老爺心お節介情報」で取り上げましたが、人口減少、超高齢化した小規模町村や市町村合併に伴い社会福祉協議会が中央に集約化されて、合併後の「周辺地域」となった合併前の旧町村の地域力が急速に減退し、その地域の地域福祉が成り立たなくなってきている。
〇2023年6月の日本地域福祉学会の後に、長野市に合併した中条地区を訪ね、中条地区での“地域住民の自立生活”をどう支援するかということで懇談したが、2024年10月19日に改めて中条地区に入らせて頂いた。合併前の中条村は黒岩秀美さんをはじめとした社会福祉協議会が頑張って地域づくりをしていたが、合併後は長野市の“周辺地域”として、急速に地域力がぜい弱化していく。
〇長野市行政は総務省の「まちづくり協議会」の構想で対応しようとしているが、「まちづくり協議会」への補助金では専任職員を配置できない状況で、住民の負担が大きく、その地区はどうなっていくのかとても心配である。
〇今回の中条地区での住民との懇談は、古民家の囲炉裏を囲んでの「ろばた懇談会」でした。その「ろばた懇談会」では、従来の地域づくりが、ややもすると、いわゆる健常者住民中心の地域づくりに流れ、生活のしづらさを抱えている引きこもりの方や精神障害者の方々などを巻き込み、それらの人の社会参加促進とそれを支える地域づくりにはなってなかったのではないか、また具体的数字と其の人々がどこの集落に住んでいるかという臨場感ある具体的データに基づかずに“ともに生きましょう”という抽象論に終始していたのではないかという論議をさせて頂いた。
〇その翌日の10月20日には、長野県社会福祉協議会と長野県の未来基金とがジョイントしようとしている「小規模町村の活性化支援プロジェクト」の打ち合わせが小川村で行われるので参加した。
〇人口440人の売木村社会福祉協議会の圓口實局長、人口660人の王滝村社会福祉協議会の中嶋素道局長、人口1400人の小川村社会福祉協議会宮下隆男局長、築北市へ移住し、NPO法人わっこ谷の山福農林舎代表の和栗剛理事長を交えて、小規模町村の現状と支援のあり方について論議した。
〇これらの小規模町村からは、民間介護保険事業者が撤退し、社会福祉協議会の訪問介護によってかろうじて住民の生活支援ができていることなどが論議された。他方、合併により、かつ行政の集約化の中で、役場もなくなり、社会福祉協議会もなくなり、住民自身で地域を支えていく厳しさのある中条地区などの“周辺地域”の課題との比較を通して、今後の地域福祉のあり方について論議した。
〇来年の2月末には、長野県木曽郡の6町村における社会福祉協議会の経営と地域住民の自立生活支援を考える会合を持とうということを約束して帰路に就いた。
〇これに先立って、10月5日には島根県出雲市で「しまねの社会教育を振興する会」の主催で、以下のようなレジュメで講演をした。
〇島根県も440人の知夫村や雲南市の南部地域等小規模町村、人口減少、超高齢化地域の中で、地域住民は呻吟している。
〇島根での講演では、「社会教育と地域福祉の統合的実践のシステムづくり」が重要で、そのためにも地域住民自身が「選択的土着民」として筆者が作成した「ボランティア活動の構造図」のような取り組をしていくことが重要であると提言した。
〇「しまねの社会教育を振興する会」のレジュメなどは、阪野貢先生のブログ(ブログのフロントページ、「最近の記事」中の <まちづくりと市民福祉教育>(76)⇒本文)に収録されているので参照してください。ここでは、その一部を抜粋掲載しておきます。

(2024年10月27日記)

Ⅳ 敬愛する忍博次先生が逝去される

〇日本地域福祉学会の名誉会員であり、北星学園大学の教授等をされた忍博次先生が、10月22日に逝去された。享年94歳であった。
〇筆者と忍博次先生との出会いは、日本地域福祉学会が設立される1987年以前の1982年である。
〇筆者が明治学院大学の三和治先生や日本女子大学の佐藤進先生、高橋誠一先生に依願されて日本社会事業学校連盟の事務局長に就任した時である。其の三和治先生が、国立身体障害者更生相談所(のちの国立身体障害者リハビリテーションセンター)で、忍博次先生と同僚であった関係で、いろいろ教えを乞う機会が増えていった。
〇忍博次先生とお酒を酌み交わした最後の機会は、2022年9月29日(当時92歳)に、札幌すすきので、大内高雄先生、白戸一秀先生、忍正人先生(忍博次先生のご子息)と懇親した機会である。
〇その日は、忍博次先生の北海道大学時代の恩師である城戸幡太郎先生、留岡清男先生(留岡幸助のご子息)、三井透先生などとの思い出話に花が咲いた。筆者自体は、留岡清男先生とは本(『教育農場50年』岩波書店)を通して存じ上げているだけで、三井透先生はお名前のみ知っている先生であった。
〇城戸幡太郎先生は、筆者の恩師である小川利夫先生と一粒社から『教育と福祉の理論』を出版するに際して、編集実務を担当していたこともあって、城戸幡太郎先生、官忠道先生、浦辺史先生、小川利夫先生の座談会(テーマは『「教育福祉」問題の現代的展望』)に陪席させて頂き、謦咳に接したことがある。座談会を終えて、小川利夫先生の命で、城戸幡太郎先生をご自宅までタクシーでお送りさせて頂いた(註)。
〇そんなご縁もあり、忍博次先生と当時の北海道大学教育学部の恩師たちの話は大変参考になったし、もっと丁寧に聞き取りをしておくべきだったと後悔している。今となっては、“後悔先立たず”である。当時の北海道大学教育学部と東京大学教育学部は、憧れの教育学者が沢山いた。
〇亡くなられた忍博次先生は、気骨のある人で、かつ教条的ではなく、配慮できる先生であり、研究者とはこうあるべきという姿勢を我々に示してくださった。
〇忍博次先生は戦後の障害者研究、ノーマライゼーション研究を牽引された先生で、日本の社会福祉教育のあり方にも一家言を有している見識の高い、敬愛する先生であった。敬愛する先生がまた一人亡くなられた。淋しい限りである。


〇『教育と福祉の理論』(1973年刊、小川利夫・土井洋一編)の編集実務は筆者が一人で担ったが、出版に際し、恩師の小川利夫先生は、“大橋謙策は既に編著書があるので、編者に名前を入れず、土井洋一を共編者にして、大学の就職口を探してあげたいので、了承してほしい”と言われ、学問の世界はそんなものかと納得させられた。確かに、出版物の表紙に単著、共編著として名前が載るのは、研究者として、一つの評価のメルクマールであることは理解できる。
〇同じようなことは、筆者が日本社会教育学会の常任理事として、日本社会教育学会編集・刊行の『生活構造の変容と社会教育』(東洋館、1984年)の企画・編集を一手に担ったものの、出版に際し、当時の千野陽一学会長から伊藤三次先生の業績と大学との関係で、編集代表を伊藤三次先生にさせて欲しいと言われ、理不尽だと思いつつ了承させられたことがある。今のような研究倫理が厳しい状況であったら通らなかった事案である。
(2024年11月2日記)

(備考)
「老爺心お節介情報」は、阪野貢先生のブログ(「阪野貢 市民福祉教育研究所」で検索)に第1号から収録されていますので、関心のある方は検索してください。
この「老爺心お節介情報」はご自由にご活用頂いて結構です。

老爺心お節介情報/第61号(2024年8月13日)

「老爺心お節介情報」第61号

地域福祉関係者の皆様
社会福祉協議会関係者の皆様

暑い夏です。くれぐれもご自愛ください。
「老爺心お節介情報」第61号を送ります。

2024年8月13日   大橋 謙策

〇本当に暑い夏ですね。
〇“夏の暑さにも負けず”、全国各地のCSW研修で飛び回っています。
〇7月13日~14日には、徳島県阿南市で第21回四国地域福祉実践研究セミナー(「こんぴらセミナー」から通算すると第27回になります)に参加してきました。600名もの参加者で、熱気溢れる、かつ実践報告の水準も高いセミナーでした。年々、参加市町村も増え、参加者も多彩となり、地域福祉研究者としては学びの多い、嬉しいセミナーでした。
〇恒例の句会も行われ、筆者も投句しました。選者は阿南市俳句協会の関係者で、覆面で審査してくれました。筆者の投句「時鳥、阿南の郷に人を呼び」がなんと特選3句の一つに選ばれました。
〇来年の第22回四国地域福祉実践研究セミナーは高知県黒潮町で行われることになりました。黒潮町は南海トラフで34mの津波が押し寄せると想定されている町です。「地域共生社会政策」で標榜されている多世代交流の「小さな拠点」のモデルとなっている高知県ふれあいあったかセンターを6か所も運営している町です(高知県全体で55か所)。黒潮町は重層的支援体制整備事業を受託しており、急速に、かつ着実に地域共生社会づくりが進展しています。
〇黒潮町は、「藁焼きカツオ」で有名な明神水産があり、セミナーへの参加と同時に、「藁焼きカツオ」とお酒での懇親会も楽しみです。来年、2025年7月12日~13日が開催予定日です。皆さん、大いに参加してください。
〇今回の「老爺心お節介情報」は、日本社会事業大学同窓会の北海道支部の機関紙『アガペ』に連載中の「虐待問題」のその④を転載します。『アガペ』への寄稿は、後一回でおしまいにしようと考えています。
〇筆者は、酷暑ではありますが、CSW研修で8月~9月も全国を飛び回っています。私のCSW研修は4日間か5日間のコースで、「社会生活モデル」に基づくアセスメント能力の向上、アウトリーチ型のロールプレイとその気づきの検証、地域住民が抱えているニーズに対応する問題解決プログラムの開発、地域での頃地を克服するソーシャルサポートネットワークづくりの課題を学ぶことを必須としています。前期課程と後期課程との間には宿題を出し、後期課程においてその宿題へのコンサルテーションを受講生一人一人に即して行うもので、かなりハードですし、公私の力量が問われるものです。改めて、地域福祉関係者、社会福祉協議会関係者の研修のあり方を問い直すべきではないでしょうか。

(2024年8月13日記)

(備考)
「老爺心お節介情報」は、阪野貢先生のブログ(「阪野貢 市民福祉教育研究所」で検索)に第1号から収録されていますので、関心のある方は検索してください。
この「老爺心お節介情報」はご自由にご活用頂いて結構です。

老爺心お節介情報/第60号(2024年7月24日)

「老爺心お節介情報」第60号

地域福祉研究者の皆様
社会福祉協議会関係者の皆様

「老爺心お節介情報」第60号を送ります。

2024年7月24日  大橋 謙策

〇酷暑の夏、皆様には如何お過ごしでしょうか。
〇私の方は、この暑さでは散歩もままならず、睡眠も熟睡できずと、少々へたり込んでいます。皆様には、くれぐれもご自愛の上、ご活躍下さい。

Ⅰ 「災害と福祉」のテーマに、日本地域福祉学会はどう立ち向かうのか?

〇2024年6月15日~16日に、第38回日本地域福祉学会東京大会が文京学院大学・本郷キャンパスを会場にして行われました。昨年の長野大会に続いての対面・集合型の大会で、久し振りに旧知の方々とお会いでき、旧交を温めることができ、嬉しい、楽しい機会でした。
〇私は、大会課題シンポジュウム「災害と地域福祉」のコメンテーターとして参加をしました。
〇コメンテーターとしては異色かもしれませんが、この機会に社会福祉関係者に災害支援のあり方を考え直してほしいと思い、以下のようなレジュメを用意して臨みました。
〇学会としては、災害にどう対応したのかという状況報告はそれなりに重要ですが、それはある意味“善意”のレベルであり、学会としては、被災者支援にどう対応するのか、対応の際の視点は、方法はどうあるべきか、その視点、方法は他の分野の被災者支援の方々とどこが同質で、どこが異質なのかを整理・対応することが、“誠意”ある対応ではないのかという考えのもとに、コメントというより、学会への問題提起という意味合いでレジュメを作成しました。





Ⅱ ケアリングコミュニティの形成と「社会福祉施設の地域貢献」

〇筆者は、1977年に大正大学で行われた日本社会福祉学会のシンポジストに指名され、学会デビューを果たした。その報告は、1978年の日本社会福祉学会紀要『社会福祉学』第19号に「施設の社会化と福祉実践ーー老人福祉施設を中心にー」として掲載されている。
〇筆者は、その論文において、社会福祉施設の社会化と地域化を進め、社会福祉施設を地域住民の生活を守る“共同利用施設”として位置づけるべきことを提言した。
〇その後、筆者は、2014年4月に『ケアとコミュニティ』(ミネルヴァ書房)を編者として上梓する。その本の中で「社会福祉におけるケアの思想とケアリングコミュニティの形成」と題する論文を書き、その一節で「ケアリングコミュニティの構築・コミュニティソーシャルワークの触媒機能」について言及した。
〇ケアリングコミュニティを構築するのには、地域の社会福祉施設が社会化、多機能化、地域化して、地域住民の生活を守る“共同利用施設”の役割を担うことの重要性を指摘した。
〇去る6月に行われた第38回日本地域福祉学会で「地域福祉優秀実践賞」を受賞した広島県福山市鞆の浦地区を基盤に実践を展開している「さくらホーム」の代表をしている羽田冨美江さん(理学療法士)が書かれた『超高齢社会の介護はおもしろい』(七七舎発行、CLC発売)を読んで、“我が意を得たり”と喜んだ。
〇まず、この本のサブタイトルが「介護職と住民でつくる地域共生のまち」というのが嬉しい。
〇第2には、筆者の1978年論文と同じに、「利用者さんを地域化する、「スタッフを地域化する」という理念を掲げて実践していることである。そのことにより、サービス利用者の居場所、生き甲斐が増進し、そのことを通して住民の意識が変わり、介護施設自体が地域の中に入り込んでいくというケアリングコミュニティづくりの実践が展開されている。
〇第3には、福山市鞆の浦地区といっても、人口3900人、高齢化率49・3%で、その地区の中がまた4地区に分かれていて、各地区の祭り、独自の文化を形成してきた地域状況を踏まえ、住民の自宅から半径400mの圏域ごとに小規模多機能型施設等を配置し、その施設が住民の生活を守る拠り所になっているという。これは、厚生労働省が進めている地域共生社会づくりの「小さな拠点」と同じ発想であり、事実上、それらの拠点施設が住民の生活を守る共同利用施設になっていて、ケアリングコミュニティを支えていることである。
〇第4には、「さくらホーム」で実践されているケア観が私の考え方と一致していることである。サービス利用者一人一人にあった、その人の生育歴や地域の人間関係、日常行動様式も十分踏まえたケアプランを作成提供していること、それを前提として、“介護とは相手の人生を支えることであり、生きる意欲をもち続けられようにサポートすること”であり、かつ“どんな人でも居場所がある地域とは、支援が必要な人を住民が自然に受け入れ、「相手に助けが必要なら、できる範囲で手を貸すのが当たり前」という文化がある町です”と言える羽田さんの生き方に大いなる共感をした。
〇皆さんには、是非、この本を読んで欲しい。そして同じような実践を全国で取り組みたいものである。
〇羽田さんの実践と同じように、ケアリングコミュニティづくりに取り組んでいる実践を書いた本を紹介するので、是非読んで頂きたい。
(参考文献)「ケアリングコミュニティの拠点としての施設・社会福祉法人の実践例」
① 『ソーシャルイノベーションー社会福祉法人佛子園が「ごちゃまぜ」で挑む地方再生』(監修 雄谷良成 ダイヤモンド社、2018年9月)
② 『里山人間主義の出番ですー福祉施設がポンプ役のまちづくり』指田志恵子著、あけび書房、2015年10月ーー社会福祉法人優輝会(広島県三次市)の実践)

(2024年7月24日記)

(備考)
「老爺心お節介情報」は、阪野貢先生のブログ(「阪野貢 市民福祉教育研究所」で検索)に第1号から収録されていますので、関心のある方は検索してください。
この「老爺心お節介情報」はご自由にご活用頂いて結構です。

老爺心お節介情報/第59号(2024年7月6日)

「老爺心お節介情報」第59号

地域福祉研究者の皆様
社会福祉協議会関係の皆様

暑い日が続いていますが、お変わりありませんか。
「老爺心お節介情報」第59号を送ります。
本体部分に、うまく「社会生活モデルに基づくアセスメントシート」を組み込めませんでしたので、別々のファイルで送ります。できれば、一体化させて保存ください。
興味、関心のある方に自由に読んでもらってください。
皆様ご自愛の上、ご活躍下さい。

2024年7月6日   大橋 謙策

〇皆さま、暑い日々がやってきましたが、お変わりありませんでしょうか。私の方は変わらず過ごしています。
〇今号は、当初、6月に行われた日本地域福祉学会で学んだこと、感じたことを書こうと思っていたのですが、思うように考えがまとまらないので、先に日本社会事業大学同窓会北海道支部の機関誌『アガペ』に寄稿した第3回目の拙稿を掲載することにしました。

<日本社会事業大学同窓会北海道支部・『アガぺ』寄稿その③>

Ⅰ 情感的ケア観からアセスメントに基づく科学的ケア観への転換――「求めと必要と合意」に基づく支援

〇日本の医療の発展の要因の一つは、症状、病変の事象から、それがどこに起因するのかを診断する検査技術の発展が大きく貢献してきたと筆者は考えている。かつては、脈を取ったり、へらで舌の状態を観察したり、聴診器で心臓の鼓動や呼吸を確認するといった診断法が、今ではレントゲン、尿検査、血液検査、MRI、CTスキャナーといった検査機器の開発により、症状、病変の診断は特段に向上してきている。それらの検査を担う検査技師の養成、資格まで確立してきている。
〇かつて、巷で言い交された“あのやぶ医者は!”といった言葉は今日では死語になっている。
〇それに比して、社会福祉分野では、長らく中央集権的機関委任事務体制のもとで、サービス利用者が行政により認定され、その人たちが行政の委任を受けた措置施設で生活を送ることを前提に、その人のADL(日常自立生活能力)が低くければ、それを補完する“世話”として三大介護と呼ばれる排せつ介助支援、食事摂取支援、入浴介助支援が展開されてきた。
〇そこでは、措置されたサービスを必要としている人の生活を向上させるために、何をするべきか、何に気を付けるべきかの診断という発想は事実上なかったといっても過言ではない。1971年の「社会福祉施設緊急整備計画」の中では、それら福祉サービスを必要としている人々を施設に“収容保護”し、いわゆる“最低限度の生活を保障すればいい”という考えで貫かれていたといっても過言ではないであろう。
〇1971年以降の「入所型社会福祉施設中心の時代」においては、ある意味、措置された福祉サービスを必要としている人の生活を“丸ごと抱え込んで支援する”という発想のもとに、その利用者の個々の差異には着目せず、同じ生活リズムで、集団的に生活を“させる”というケアを提供する職員側の立場、視点からの対応の仕方で済まされてきた。
〇しかしながら、1990年の“社会福祉八法改正”により、在宅福祉サービスが法定化され、かつ地方分権の下で中央集権的機関委任事務体制の改革が求められるようになると、状況は変わる。
〇在宅福祉サービスを利用している人は、一人ひとり生活環境も違うし、行動様式も異なるし、同一空間で集団生活をしているわけではない。それだけに、在宅福祉サービスを利用している人の支援には個々人の生活状況や本人の希望を尊重したサービスの提供が求められるようになる。
〇筆者は、1987年に書いた論文「社会福祉思想・法理念におけるレクリエーションの位置」(日本社会事業大学研究紀要第34集所収、1988年刊)において、入所型施設で提供しているサービスの分節化と構造化の必要性を提起した。それは福祉サービスを必要としている人の状況に応じて分節化させたサービスの中から必要なものを選択し、パッケージ化(当時、ケアマネジメントという用語はなかった)させれば画一的なサービス提供にもならず、かつ在宅福祉サービスの個々人の状況に対応できるということを提起した。

註1 拙著『地域福祉とは何か――哲学・理念・システムとコミュニティソーシャルワーク』(中央法規出版、2022年4月刊、P32参照)

〇このことを進めるためには、福祉サービスを必要としている人は何を望んでいるのかその人の希望、願い、思いをきちんと受け止めなければならないし、同時に福祉サービスを必要としている人にケア・支援を行う専門職が、その人にはどういうサービスが必要であるかを診断したうえで支援する必要があることも提起した。
〇筆者の言い方で言えば、福祉サービスを必要としている人の求め、希望と専門職が生支援上必要と考えることを出し合い、両者の合意で在宅福祉サービスの提供を考えていくという「求めと必要と合意」に基づく支援のあり方である。
〇ところで、福祉サービスを必要としている人々への支援において、よほど気を付けないと無意識のうちに“上から目線”の世話をしてあげるというパターナリズムになりがちになる。
〇福祉サービスを必要としている人はさまざまな心身機能の障害や生活上の機能障害において要介護、要支援の状態に陥っているので、ついつい福祉サービス従事者はその機能障害を改善、補完するために“いいことをしてあげる”という意識になりがちである。それは、一見“善意”に満ちた行為として考えられがちであるが、福祉サービスを必要としている人の意思や主体性を尊重しての“誠意”ある行為といえるのであろうか。
〇また、福祉サービスを必要としている人で家族と同居している場合には、福祉サービスを必要としている人本人の意思よりも、同居している家族が家族自身の“思い”、“願い”を福祉サービス従事者に話され、その家族の希望が優先され、ややもすると福祉サービスを必要としている本人の意向や意思は無視されがちになる。ましてや、福祉サービスを必要としている人は、日常的に同居している家族に普段から迷惑をかけているからという“負い目”もあり、家族に遠慮して、自分の意向、意思を表明しない場合が多々ある。日本の戦後の社会保障・社会福祉制度設計は、家族がおり、家族が“助け合う”ことを当たり前のように前提として設計されてきたために、福祉サービスを必要としている人本人の意思や希望は家族の前ではかきけされてしまいがちであった。
〇イギリスのブラッドショウは1970年代に、住民の抱える生活上のニーズを4つに類型化(①本人から表明されたニーズ、②住民は生活上の不安や不満、生活のしづらさを抱えているが表明されていないニーズ、③住民自身は気が付いていないし、表明もしていないが専門職が気づき、必要だと考えられるニーズ、④社会的にすでにニーズとして把握され、対応策が考えられているニーズ)した。
〇この類型化されたニーズにおいて、日本の社会福祉分野において気を付けなければならないニーズ把握の問題は、②の住民が生活上様々なニーズがあるにも関わらず気が付いていないか、自覚しておらず、表明されていないニーズである。
〇日本の“世間体の文化”、“忖度の文化”、”もの言わぬ文化”に馴染んで生活してきた国民は、自らの意思を表明することや自らの希望や願いを表明することに多くの人が躊躇してしまう。したがって、本人が自分の意見や気持ちを表明しないのだからニーズがないのだろうと解釈するととんでもない間違いを起こすことにもなりかねない。それらのニーズは潜在化しがちで、対応が遅れることになる。
〇一方、専門職が気づき、必要と判断するニーズにおいても、社会生活モデルに基づくアセスメントやナラティブに基づく支援方針の立案が的確に行われていればいいが、上記したようなパターナリズムでのアプローチをしている場合には専門職の判断が必ずしも妥当であると言えない場合が生じてくる。
〇イギリスでは、1990年の法律により、福祉サービスを提供する際には、その援助方針やケアプラン及び日常生活のスケジュール等を事前に本人に提示し、本人の理解を踏まえて提供することが求められるようになったが、2005年の「意思決定能力法」ではよりその考え方を重視するように法定化された。
〇日本の民法の成年後見制度や社会福祉法の日常生活自立支援事業が福祉サービスを必要としている人が自ら意思決定できないことを判定するということを前提にして制度設計されているのと違い、イギリスの「意思決定能力法」は日本と逆の立場を取っている。
〇「意思決定能力法」は①知的障害者、精神障害者、認知症を有する高齢者、高次脳機能障害を負った人々を問わず、すべての人には判断能力があるとする「判断能力存在の推定」原則を出発としており、②この法律は他者の意思決定に関与する人々の権限について定める法律ではなく、意思決定に困難を有する人々の支援のされ方について定める法律であるとしている。その上で、③「意思決定」とは、(イ)自分の置かれた状況を客観的に認識して意思決定を行う必要性を理解し、(ロ)そうした状況に関連する情報を理解、保持、比較、活用して (ハ)何をどうしたいか、どうすべきかについて、自分の意思を決めることを意味する。したがって、結果としての「決定」ではなく、「決定するという行為」そのものが着目される。意思決定を他者の支援を借りながら「支援された意思決定」の概念であるとしている。
〇日本だと、“安易に”、あの人は判断能力がないから、脆弱だから“その意思を代行してあげる”ということになりかねない。言語表現能力や他の意思表明方法を十分に駆使できない障害児・者の方でも、自分の気持ちの良い状態には“快”の表情を示すし、気持ちが悪ければ“不快”の表現ができる。福祉サービス従事者は安易に“意思決定の代行”をするのではなく、常に福祉サービスを必要としている人本人の意思、求めていることを把握することに努める必要がある。
〇その上で、本人が自覚できていない人、食わず嫌いでサービス利用の意向を持てていない人に対し、専門職としてはニーズを科学的に分析・診断・評価し、必要と判断したサービスを説明し、その上で、両者の考え方、プランのあり方を出し合って、両者の合意に基づいて援助方針、ケアプランを作成することが求められている。

註2,菅冨美枝「自己決定を支援する法制度・支援者を支援する法制度――イギリス2005年意思決定能力法からの示唆―」法政大学大原社会問題研究所雑誌No622、2010年8月所収)参照

Ⅱ ナラティブ(人生の物語)を大切にした支援――福祉サービスを必要としている人のアセスメントを「医学モデル」から「社会生活モデル」へ

〇筆者は、1970年頃から、社会福祉学研究、社会福祉実践において労働経済学を理論的支柱にした経済的貧困に対する金銭給付と憲法第25条に基づく最低限度の生活保障の考え方では国民が抱える生活問題の解決ができず、新たな社会福祉の考え方が必要であると考え、提唱してきた。
〇筆者が考える社会福祉とは、その人が願うその人らしさの自立生活が何らかの事由によって阻害、停滞、不足、欠損している状況に対して関わり、その阻害、停滞、不足、欠損の要因を除去し、その人の幸福追求、自己実現を図れるように対人援助することだと考えた。
〇その場合の“自立生活”とは、古来から“人間とは何か?”と問われてきた課題を基に6つの要件(ⅰ)労働的・経済的自立、(ⅱ)精神的・文化的自立、(ⅲ)身体的・健康的自立、(ⅳ)生活技術的・家政管理的自立、(ⅴ)社会関係的・人間関係的自立、(ⅵ)政治的・契約的自立)があると考えた。と同時に、それらの6つの「自立生活」の要件の根底ともいえる、その人の生きる意欲、生きる希望を尊重し、その人に寄り添いながら、その人が望むナラティブ(人生の物語)を一緒に紡ぐ支援だと考えてきた。
〇戦前の生活困窮者を支援する用語に「社会事業」という用語がある。この「社会事業」には、積極的側面と消極的側面とがあるといわれており、その両者を統合的に提供することの重要性が指摘されていた。積極的側面とは、その人の生きる意欲、希望を引き出し支えることで、消極的側面は生活の困窮を軽減するための物質的援助のことを指していた。消極的側面は、気を付けないと“人間をスポイルする”危険性があることも懸念されていた。
〇現在の民生委員制度の原型である大阪府の方面委員制度を1918年に大阪で創設した小河滋次郎は、“その人を救済する精神は、その人の精神を救済することである“として、「社会事業」における積極的側面を重視した。しかしながら、戦後の生活困窮者を支援する「社会福祉」は積極的側面を実質的に“忘却”してしまい、物質的援助をすれば問題解決ができると考えてきた。
〇憲法第25条の最低限度の生活保障では消極的側面の対応でよかったのかもしれないが、憲法第13条に基づく幸福追求の支援ということでは、高齢者のケアであれ、障害者のケアであれ、生活困窮者の支援であれ、その人が送りたい“人生”、その人が願う希望をいかに聞き出し、その人の生きる意欲、生きる希望を支え、伴走的に支援していくことが求められる。
〇従来の社会福祉学研究や社会福祉実践では、「療育」、「家族療法」、「機能回復訓練」などの用語が使われており、その人らしさの生活を尊重し、支援するということよりも、ややもすると専門職的立場からのパターナリズム的に“治療・療育”し、“問題解決”を図るという目線に陥りがちであった。
〇また、従来の社会福祉学や社会福祉実践では、よくアブラハム・マズローの「欲求階梯説」が使われが、この考え方も気を付けないといけない。アブラハム・マズローがいう生理的欲求、安全の欲求、愛情と所属の欲求、自尊と承認の欲求、自己実現の欲求の6つの欲求の項目の意味は重要であるが、それらの項目において、下位の欲求が満たされたら上位の欲求が生じるという“欲求階梯説”はどうみてもおかしい。人間には、自ら身体的自立がままならず、他人のケアを必要としている人であっても、当然その人が願うナラティブ(人生の物語)があり、それを自己実現したいはずである。
〇その際、福祉サービスを必要としている人自らが自分の希望、欲求を表出できるとは限らない。福祉サービスを必要としている人の中には、さまざまなヴァルネラビリティ(社会生活上のさまざまな脆弱性)を抱えている人がおり、自らの願いや希望を表出できない人がいる。更には、障害を持って生まれてきたことで、多様な社会体験の機会に恵まれず、一種の“食わず嫌い”の状況で、何を望んだらいいのかも分からない人という生活上の“第2次障害”ともいえる状況に陥っている人もいる。このような人々の場合には、その人の“意思を形成する”ことに関わる支援も必要になってくる。
〇日本の社会福祉関係者の中には、1981年に世界保健機関で制定されたICIDH(国際障害分類)に基づくアセスメントを無意識に、いまだ利活用している人がいる。
〇ICIDHは、その人の心身機能に障害があるかどうかを診断し、その人の心身機能の障害がその人の能力不全をもたらし、ひいてはそのことがその人の社会生活上において不利をもたらすというImpairment――Disability――Handicapの関係を直線的に描くもので、心身機能の不全を診断することを基底とする「医学モデル」と呼ばれるものである。
〇この「医学モデル」は、ある意味わかりやすい構造になっているので、今でも多くの社会福祉関係の底層の心理として位置づいてしまっているが、これによる支援は機能障害を直すか、直せないまでもそれを補完するというレベルの支援になってしまう。
〇WHOは2001年にICF(国際生活機能分類)を発出し、ICIDHからICFへの転換を求めた。
〇ICFは、福祉サービスを必要としている人の生活環境を変えれば、従来のICIDHでは機能障害によりできないと思われていたことができるかもしれないので、その福祉サービスを必要としている人の“最低限度の生活保障”という考え方でなく、福祉サービスを必要としている人の生活環境を変えて、その人の自己実現を図る支援への転換を求めたものである。
〇ICFの考え方と昨今の急速な福祉機器の開発により、福祉現場は急速に変わらざるを得ない。介護ロボットや障害者のコミュニケーションを保障する福祉機器の導入如何では、従来の障害児・者、高齢者などの福祉サービスを必要としている人への支援のあり方は全く違うものになってします。
〇このような背景も踏まえて、筆者は従来の「医学モデル」に基づく診断(アセスメント)ではなく、社会生活上に必要な機能が歩かないかを基に診断する「社会生活モデル」に基づくアセスメントの必要性を提起している。
〇「社会生活モデルに基づくアセスメントシート」の図の表頭の大項目に基づきアセスメントを行うことが、ケアの科学化には必須である。
〇今日のように、福祉機器の開発やICT、IoTが急速に進展している状況の下では、福祉サービスを必要としている本人は福祉機器を使ったら自分の生活がどのように変容するのかのイマジネーション(想像性)をもてない人がいる。そのような人々に対し、イマジネーションがもてるようにし、新たな人生を作り出すクリエーション(創造性)機能も重要な支援となる。
〇従来の社会福祉実践は、福祉サービスを必要としている人の「できないことに着目し、できないことを補完・補填する目的で、してあげるケア観」に陥りがちであった。幸福追求、自己実現を図るケア観に立つと、福祉サービスを必要とする人の「できることを発見し、それを励ますケア観」が重要になる。
〇社会福祉実践は、その人の生育歴におけるナラティブ(narrative:身の上話、経験などに関する物語)に着目し、その人が望む人生を創り上げることに寄り添い、支援することが求められている。

「社会生活モデル」に基づくアセスメントの視点と枠組シート

出典:大橋謙策『地域福祉とは何か―哲学・理念・システムとコミュニティソーシャルワーク』中央法規出版、2022年4月、135~136ページ。

(2024年7月5日記)

(備考)
「老爺心お節介情報」は、阪野貢先生のブログ(「阪野貢 市民福祉教育研究所で検索)に第1号から収録されていますので、関心のある方は検索してください。
この「老爺心お節介情報」はご自由にご活用頂いて結構です。

老爺心お節介情報/第58号(2024年5月5日)

「老爺心お節介情報」第58号

地域福祉研究者各位
社会福祉協議会関係者各位

とても気持ちのいい季節になりました。
皆様お変わりなくお過ごしでしょうか。
「老爺心お節介情報」第58号を送ります。

2024年5月5日   大橋 謙策

Ⅰ 『穂積重遠ー社会教育と社会事業とを両翼として』(大村敦志著、ミネルヴァ書房、2013年4月)を読んで

〇朝日新聞に掲載されたミネルヴァ書房の広告を見て、大変驚き、すぐに読み始めた本が『穂積重遠ー社会教育と社会事業とを両翼として』(大村敦志著、ミネルヴァ書房、2013年4月)である。
〇更に驚いたことは、NHKの朝のテレビ小説の『虎の翼』で俳優の小林薫が演ずる「穂高重親」は穂積重遠がモデルであると知ったことである。
〇穂積重遠は、戦前の有名な民法の法学者であり、最高裁判事や東宮大夫を歴任された人で、以前よりその名前と華麗なる「学閥一族」のことは知っていたが、その穂積重遠の“社会評伝”のサブタイトルに“社会教育と社会事業とを両翼として”が付けられていることに、“社会事業と社会教育の学際的研究”をしてきたものにとって、自分の勉強不足を恥じ入るばかりであった。
〇穂積重遠は、末広厳太郎とともに、関東大震災後に東京帝国大学セツルメントを学生と一緒に行っていたことは知っていたが、穂積重遠が財団法人社会教育協会の会長、理事長を歴任し、「法を軸にした公民教育」をこれほど手掛けていたことは知らなかった。しかも、私は財団法人社会教育協会(当時の財団理事長は有光次郎、元文部事務次官)の「加齢学研究懇談会」で講演(1988年3月)し、その講演録が「高齢化社会に向けてー教育行政はいかにあるべきか」と題して、社会教育協会機関誌『国民』のNO1064(1988年6月)に掲載されているにも関わらず、その社会教育協会の設立者が穂積重遠であることも知らず、本当に恥じ入るばかりである。
〇私が大学院で学んでいる時代は“戦前の研究は皆、封建的で、戦後の考え、研究はいい”という実に単純な「ポツダム研究」(ポツダム宣言の受託前と後)という思考法があったし、「ポツダム研究者」という言い方もあった。
〇また、鶴見俊介が主宰する「転向の科学」という研究同人の思考法があったこともあり、自分自身戦前の社会事業の歴史研究をしているにも関わらず、謙虚に戦前の思想、研究をどこか斜に構えて研究していたのかもしれないと反省するばかりである。
〇私の東京大学大学院の修士学位請求論文は『戦前社会事業における「教育」の位置』であるが、その公開口述試験の際、指導教員であった宮原誠一先生が私の修士学位請求論文を高く評価してくれた上で、宮原先生から、今度は「社会教育における社会事業の位置」を研究して欲しい。そうでないと全体が分からないのではないかと指摘された。宮原先生から与えられた宿題は残念ながら研究しきれていないが、穂積重遠の社会評伝を読んで、宮原誠一先生の指摘の重要性に改めて気づかされた。
〇穂積重遠が設立した社会教育協会は、家庭教育の重要性を考えて、東京家庭学園を設立し、穂積重遠がその東京家庭学園の学園長を兼任している。この東京家庭学園は今日の白梅学園大学の前身である。
〇穂積重遠の人物評伝の中から学ぶ点も多々ある本であったが、著者の大村敦志先生の執筆の仕方にも大いに学ぶことが多かった。何しろ、法学者の大村敦志先生が書かれたものだけに、論文執筆はこうあるべきだという見本のように、実に膨大な資料を駆使して、多面的に論考されている姿勢は、社会福祉学研究者、地域福祉学研究者は学ばないといけないと強く感じた。
〇本書は、法学研究の枠組みについてとか、法と社会との関係、あるいは法と道徳との関係、あるいは1930年代~1940年代における大学、学問のあり方等が論じられており、法学研究の方法が分からないものにとってはやや難しかった点もあったが、とても学問のあり方、大学教員のあり方などとても参考になった。私も大学時代学んだ家族法の川島武宜、中川善之助、我妻栄などの先生方の名前がでてくるので、それらのことを思い起こしながら読み進めることができた。
〇本書は、東京大学法学部の2011年の学生向けの講義「穂積重遠論ー20世紀前半の社会と法」とそれに関連するゼミナールでの報告、論議が基になっているというが、なんとも羨ましい大学教育のあり方であり、大学教員としての姿勢である。
〇咋今の福祉系大学が社会福祉士国家試験対応の予備校的な教育に堕していることを憂いているものにとって、改めて福祉系大学の教員に本書を読んで、考えて欲しい本である。

Ⅱ 『原子力災害からの複線型復興ーー被災者の生活再建の道』(丹波史紀著、明石書房、2023年3月刊)を読んで

〇本書は、立命館大学産業社会学部教授の丹波史紀先生が、日本福祉大学に提出した博士学位請求論文を基に刊行されたもので、2023年度SOMPO福祉財団の社会福祉文献賞を受賞した著作である。
〇丹波史紀先生がそのご高著を恵贈してくれたので、私がお礼の手紙に書いた感想をここに転記しておきたい。

『この度は、SOMPO福祉財団の社会福祉学文献賞の受賞、本当におめでとうございました。私も6年間選考委員長をしていましたので、文献賞の受賞は本当に素晴らしいものです。その受賞文献をご恵贈賜りありがとうございました。
未だ丁寧に読んではいませんが、一読させて頂いた感想は、SOMPO福祉財団の選考委員の皆さんの評価とほぼ同じです。その上で、私の感想を述べます。
第1は、「災害ケースマネジメント」のあり方に関する論述がもっと欲しかったです。ご高著自体が、被災者の横断的、大量調査を基にしての論証でしたからやむを得ないかもしれませんが、社会福祉学の文献としては実態調査のみでなく、その支援のあり方、その支援システムのあり方にもっと論究してほしかったですね。以前お送りした私どもがまとめた石巻市の被災者へのソーシャルワーク支援はそれに少しでも迫れればという思いで纏めました(『東日本大震災被災者への10年間のソーシャルワーク支援』参照)。
第2には、「複線型復興」の持つ意味です。自然災害と原子力放射能汚染災害との複合的災害が福島県の特色で、私も浪江町等の避難所に行く機会を持ちましたが、複合的災害の持つ意味があまりにも深刻で、研究に関わることを断念した思いがあります。それだけ難しい問題ではありますが、複合的被災者の支援のあり方は、もっと多角的に検討されるべきではないかと思いました。特に、同居家族だった世帯が、放射能汚染災害により、家族分解、離婚、複数世帯化による経済的困難さなどを見聞きしてきたものには、原子力放射能汚染災害の一般的課題のみならず、社会福祉学の視点からの考察がよりあってほしかったというのが私の感想です。精読しておらず、とりあえず礼状を出すに当たっての感想を述べなければという思いからの感想ですから、正鵠を得ていないかもしれませんが、お許しください。』

〇地域福祉実践の領域において、阪神淡路大震災以降、社会福祉協議会による「災害ボランティアセンター」設置による支援が定着化しているが、“災害と社会福祉”との関りにおいて、被災者支援を長期的なスパンで、世帯全体の再建を考えていくことが重要である。限界集落、過疎地、高齢化という状況の中では、生活再建は被災直後の“がれき撤去”というレベルでは済まされない深刻な生活の変容があり、その支援が求められていることを社会福祉関係者、とりわけ地域福祉関係者は実践上でも、研究上でもきちんと受け止め、対応策を考え行くべきである。

(2024年5月5日記)

(備考)
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老爺心お節介情報/第57号(2024年4月9日)

「老爺心お節介情報」第57号

地域福祉研究者の皆様
社会福祉協議会関係者の皆様

お変わりありませんか。
能登半島地震で被災に遭った富山県氷見市へお見舞いに漸く行けました。
その際に感じたことをまとめましたので参考にしてください。

2024年4月9日   大橋 謙策

<能登半島地震による氷見市の被災状況と支援>

〇4月4日~5日、能登半島地震の災害に遭った富山県氷見市へ、遅れ馳せながら富山県氷見市と氷見市社会福祉協議会へお見舞いに行けた。高齢の私が行っても何もできず、かえって足手まといになるだけだと訪問を控えていたが、漸くお見舞いに行けた。
〇氷見市は、能登半島の付け根に位置している。石川県の被災状況はテレビ等で報道されるが、氷見市も能登半島の一部をしめており、被災状況は厳しいもので、テレビなどの放映で感じたものとは、また違う状況だった。
〇いまだ、石川県奥能登地域には行けていないが、今回の地殻変動、激しい液状化による被害を見て、災害支援の難しさを改めて考えさせられた。
〇氷見市の林市長、森市民部長、高木氷見市社会福祉協議会会長、七分氷見市社会福祉協議会常務理事にお会いし、お見舞いを申し上げるとともに、宮城県石巻市での東日本大震災被災者へのソーシャルワーク支援をまとめた『東日本大震災被災者への10年間のソーシャルワーク支援』の本を贈呈してきた。
〇氷見市は市全体の高齢化率は40%であるが、被災状況が激しかった氷見市旧市街の北大町地区と石川県七尾市との県境にある姿地区はより高齢化が高く、生活再建が非常に厳しいものと思われ、物理的復興だけでは被災者支援はできず、生活全般の支援が必要で、そのためにはソーシャルワーク支援が必要であることをお願いしてきた。
〇被災状況は、氷見市社会福祉協議会の森脇次長、山崎次長、開上さんに案内とともに被災者支援の状況を聞かせて頂いた。お忙しい中対応して頂き、この紙上で改めてお礼申し上げたい。
〇氷見市の災害被災状況と被災者支援の状況は、氷見市社会福祉協議会が『氷見市の被災状況と災害ボランティア・支えあいセンターの現状』に詳しいので、ホームページなどを見て頂きたい。

Ⅰ 氷見市の被災状況の概況

〇氷見市は、現在の人口は約4万3000人で、世帯1万4500世帯、高齢化率約40%で、市内に21地区社会福祉協議会が組織されており、約900人の生活のしづらさを抱えている人たちを支援する地域ケアネット事業(富山県単独事業)が展開されている。
〇2024年1月1日、午後4時10分に発生した能登半島地震により、200棟の家屋が全壊、400棟の家屋が半壊し、り災証明を受けた世帯は7000世帯という被害状況であった。断水も約1万4000世帯で発生し、復旧は1月21日に全域で復旧した。
〇人命の被害はなかったものの、液状化による被害は酷いものであった。建物の外観はそれほどではなくても、屋内が液状化の影響で住むことが難しいとか、道路のマンホールが隆起して、自動車の通行を妨げているとか、庭にある灯篭(氷見市には各家庭に石灯篭が沢山ある)が崩れたたり、台座がしっかりしている大きな墓石のある墓地が液状化で波打ってしまっているとか、その被害状況は家屋だけではなく、生活全般に大きく影響する被害が出ている。
〇被害が大きかった地区は、上庄川の北側の北大町地区と県境の姿地区に集中しているようであるが、上庄川の流域もそれなりに災害が発生している。上庄川の南側の南大町地区はあまり被害を受けていない状況とか、昔、布施の湖と呼ばれた湿地帯のあった地域ではあまり被害が発生していない(液状化が起きるのではと素人的には考えていた)状況をみて、地震のメカニズムが良く理解できない。

Ⅱ 被災支援の取り組みで学ぶべき点

〇氷見市での被災者支援の状況を行政や医療機関等も含めて広く検証しているわけではないが、氷見市社会福祉協議会の活動から学ぶべき点を箇条書きにして、広く関係者の情報共有をしたい。

(1)「災害ボランティア・支えあいセンター」という名称
〇氷見市社会福祉協議会は「災害ボランティアセンター」という名称ではなく、「災害ボランティア・支えあいセンター」という名称で、1月3日に立ち上げている。その際、共同募金会からの支援金を想定して、「kintone」のアプリを導入している。
〇しかしながら、氷見市の「災害ボランティア・支えあいセンター」は、ボランティアのニーズ・シーズのマッチングを行う需要供給の調整だけを行うのではなく、住民からボランティアの派遣要請があった際に、その要請を受け止めた上で、それ以外の生活支援の必要性があるかどうかを、申請のあった世帯に社会福祉協議会の災害時支援現地班の職員を派遣し、ニーズキャッチとともにアセスメントを行い、それをケア会議に掛けて、どういうボランティアを派遣するのかを決定し、派遣している。
〇私は、従来から、土砂撤去などのボランティアの派遣調整だけではないと言ってきたが、氷見市社会福祉協議会は「災害ボランティア・支えあいセンター」という名称に見られるように、生活全般に亘ってのニーズ把握と支援を考えている。これは大変素晴らしい考え方である。
〇実際のボランティア派遣申請の相談内容と派遣は、大きく3つに類型できる。
〇第一の類型は、従来の土砂の撤去、家具の片づけ等のボランティアの派遣である。
〇第二の類型は、専門技術ボランティアで、家屋内の応急修理や灯篭の撤去である。石材業者に依頼すると小さな灯篭の撤去で5~6万円、大きなものでは8~10万円掛かるところをボランティアにより、計200基の崩壊した灯篭の片づけが行われた。大きいものでは、灯篭の笠の部分だけで700キロもあるものをボランティアが片付けてくれたという。そのボランティアの人は、長野県の音楽家で、トラック、重機をレンタルリースして、持ち込み、一か月逗留してボランティア活動をしてくれたとのこと、私には想像もできない活動で、その人の思い、気持ち、活動費の捻出等後学のためにもいろいろと聞きたいと思った。
〇第三の類型は、専門職による支援である。り災証明の手続きをするのに、多くの高齢者は写真も取れず、申請手続きに難渋していた。その際、お手伝いしてくれたボランティアは富山県の司法書士会の方々で、り災証明の手続きサポートをしてくれた。
〇氷見市社会福祉協議会の実践が素晴らしいなと改めて実感できたことは、富山県が単独で展開しているケアネット事業があるが、そのケアネットを構築されていた住民が900世帯あったという。そのケアネット事業の方々は、何らかの生活のしづらさを抱えており、日常的に見守りや声掛け、簡単な生活支援を地域の方々の力でおこなわれ、生活のしづらさを解決しているわけだが、そのケアネット事業の対象の方からは災害発生後「災害ボランティア・支えあいセンター」への相談・依頼が一件もなかったという。それはたぶん、地域の方々が日常の延長で対応してくれたのではないかと氷見市社会福祉協議会が説明していたが、これはすごいことで、普段の実践の成果と言わざるを得なく、私は感動した。
〇「災害ボランティア・支えあいセンター」への相談者の属性は、一人暮らし高齢者が23%前後、高齢者のみ世帯が18%前後、障害の方がいる世帯が4~6%前後という状況で、2週間単位で、大体300件~500件の相談申請の状況であった。
〇「災害ボランティア・支えあいセンター」は、旧体育館に開設されていたが、そのセンターに氷見市の拡大した地図が張ってあり、その地図上に、どこの地区で、どのような属性を有した人からの申請があり、どのような支援をしたかを色分けしたシールでマッピングしてあり、氷見市内の被害状況の分布とボランティアの派遣要請の状況が分るようになっており、緊急事態の状況にも関わらず、全体像を可視化している点も高く評価できる。
〇私は社会福祉協議会が運営する「災害ボランティアセンター」の使命は土砂の撤去、がれきの撤去ではないと言い続けてきたが、氷見市社会福祉協議会の「災害ボランティア・支えあいセンター」はまさに私の考え方を実践してくれた取り組みで高く評価したい。
〇氷見市社会福祉協議会の森脇俊二事務局次長が、“「災害ボランティアセンター」は支援に駆けつけるボランティアのためにあるのではなく、被災した住民を支援するためのものである。だから「災害ボランティア・支えあいセンター」なのだ”という発言は、とても印象的で、私は“我が意を得たり”と納得した。
〇氷見市の「災害ボランティア・支えあいセンター」の活動実績として注目しておく点は、ⅰ)ボランティアの派遣依頼者からのクレームがゼロであったこと、ⅱ)ボランティア活動のリピーター率が高く、約70%にのぼる、ⅲ)日常的に災害協定並びに姉妹社会福祉協議会関係にある全国の社会福祉協議会(愛知県半田市、三重県伊賀市、長野県茅野市、宮崎県都城市、香川県琴平町の各社会福祉協議会)から職員が派遣され、富山県内社会福祉協議会からの支援も含めて一日11人の社会福祉協議会の職員が応援に入ってくれた点などである。

(2)クラウドファンディングによる支援金の造成
〇東日本大震災以降、被災者支援、被災地支援は必ずしも日本赤十字社、共同募金会、NHK等の従来型の募金団体への寄付とは異なり、クラウドファンディングによる特定の地域、特定のテーマ・課題に寄付する活動が増えてきた。
〇氷見市の「災害ボランティア・支えあいセンター」の運営費のみならず、氷見市社会福祉協議会は、経営している自前の建物や行政から指定管理を受けている建物でも大きな損害を発生している。このような状況の中で、募金活動はとても重要で、受動的にではなく、積極的に募金活動を展開する必要がある。
〇氷見市社会福祉協議会は、三重県伊賀市社会福祉協議会の協力・支援をもらい、1月12日からクラウドファンディングによる支援金の受付を開始した(締め切り2月15日)。
〇クラウドファンディングによる支援金の受付以前にも社会福祉協議会は1月5日より緊急支援募金を始めており、海外からの申し込みもあり、受付方法についての英訳ページを開設したりしていたが、より募金がしやすいように、クラウドファンディングによる支援金の募集を行った。
〇募金額の総額は、氷見市社会福祉協議会へ直接募金をされた募金が総計279件、1520万円、クラウドファンディングによる募金が164人で220万5000円、この他市役所やボランティアセンターなどに設置した募金箱に40万円余の募金があり、現時点では総計約1700万円余の募金となっている。
〇この他にも、共同募金会から災害支援助成ということで300万円の助成を得ている。
〇私は、大和証券福祉財団やSOMPO福祉財団などの助成団体へも申請をしたらと提言してきた。

(3)生活全般における伴走的ソーシャルワーク支援の必要性
〇氷見市では、行政の健康課を中心に、富山県保健師会の協力を得て、被害の大きかった姿地区、北大町地区などの1406世帯の生活支援の必要性に関するローラー作戦が行われた。このような調査は、宮城県石巻市でも医療・保健関係者により行われた。住民のニーズキャッチとしてはとても重要な取り組みであるが、石巻市でもそうであったが、どうしても医療面、健康面での聞き取りが中心にならざるを得ない。
〇私は、『東日本大震災被災者への10年間のソーシャルワーク支援』の本の中で書いた「社会生活モデル」に基づくアセスメントが被災者支援には必要であることを林市長たちに話をしてきた。
〇とりあえず、り災証明の交付を受けた約7000世帯を対象に、アンケート調査を行い、そこからスクリーニングして個別訪問調査による支援を展開できないか、その調査を行政、社会福祉協議会、外部の専門職、福祉系大学等の協働で行うことが必要ではないかと提案してきた。
〇このような支援のシステムとそこで使われるアセスメントシートの様式を確立しておく必要がある。そうでないと、これからの災害支援が毎回“賽の河原の石積み”のように、蓄積されず、結果として支援の遅れをもたらすのではないかと危惧している。

(2024年4月8日記)

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老爺心お節介情報/第56号(2024年4月2日)

「老爺心お節介情報」第56号

地域福祉研究者の皆様
社会福祉協議会関係者の皆様

桜も漸く咲き、いよいよ新年度も始まりました。
気持ちも新たに頑張りましょう。
「老爺心お節介情報」第56号を送ります。

2024年4月2日   大橋 謙策

<『和田敏明 地域福祉実践・研究のライフヒストリー』が刊行される>

〇私が敬愛する日本社会事業大学の一年先輩の和田敏明さんの50年余に亘る社会福祉協議会での実践、地域福祉研究のライフヒストリーが本として上梓された。
〇この『和田敏明 地域福祉実践・研究のライフヒストリー』は、香川県社会福祉協議会の日下直和局長が精力的に編集業務を担ってくれて刊行出来た。お礼を申し上げたい。
〇この本の基になる対談の場は、社会福祉協議会四国ブロックの研修会や日本地域福祉研究所の地域福祉実践研究セミナーin今治の特別分科会、あるいは香川県内社会福祉協議会常務吏・事務局長セミナーの場において行われたものを香川県社会福祉協議会がテープ起こしをしてくれ、それを基に編集したものである。
〇全社協の地域福祉部を中心に、日本の社会福祉協議会の質の向上、社会的評価を高め、かつ日本地域福祉学会の創設をはじめとして地域福祉実践の理論化、体系化をされ、かつ全社協の事務局をされた和田敏明さんなので、私は出版先はどう見ても全社協出版部ではないかと勝手に思い込んでいたが、残念ながら全社協出版部からは出版事情の悪化などもあり、叶わなかった。結果として、「自費出版」という形で香川県社会福祉協議会を発行元に刊行出来た。是非、全国の社会福祉協議会関係者、地域福祉研究者は自らのための1冊はもとより、大学の図書館、社会福祉協議会の事務局用にも購入して頂きたい。
〇本書は、和田敏明さんの社会福祉協議会入職の1960年代から、ほぼ10年スパンにおいて、そのスパンの中における社会福祉政策、社会福祉協議会実践などのトピックスを取り上げて、それらのことに和田敏明さんがどう関わってこられたのか、その当時の思いや今だから話せる秘話、エピソードを交えながら語って頂いた。和田敏明さんの語りから、その当時の時代状況や社会福祉協議会の変遷が良くわかる内容に編集されている。
〇と同時に、日下直和局長のご尽力で、和田敏明さんの話に出てくる当時の政策や関係資料を可能な限り収録して頂いた。この収録されている資料を今手元で自分が集めようとすると容易ではない。この本は、1960年代以降の社会福祉協議会、地域福祉における関係資料がまとまって収録されているということも貴重な本となっている。
〇和田敏明さんとの対談当事者として非常に貴重だと思えたことは、①市町村社会福祉協議会法制化のプロセス、②「広がれボランティアの輪」と阪神淡路大震災、③厚生省(当時)との政策立案化に向けての相互交流と研究会活動、④社会福祉法人聖労会理事長として、地元の社会福祉協議会と協働して地域貢献活動を行った点等である。
〇是非、「老爺心お節介情報」の購読者はこの本を購入し、読んで頂きたい。この本の申込先は添付ファイルで添付してありますので、それをご活用ください。

(2024年4月2日記)

(備考)
「老爺心お節介情報」は、阪野貢先生のブログ(「阪野貢 市民福祉教育研究所」で検索)に第1号から収録されていますので、関心のある方は検索してください。
この「老爺心お節介情報」はご自由にご活用頂いて結構です。

老爺心お節介情報/第55号(2024年3月30日)

「老爺心お節介情報」第55号

地域福祉研究者の皆様
社会福祉協議会関係者の皆様

「老爺心お節介情報」第55号を送ります。
必要なら、周りの方に転送してくださっても構いません。

2024年3月30日  大橋 謙策

〇皆さまお変わりなくお過ごしでしょうか。
〇本号は、ある明確な論題について論究する類のものではなく、長い間私の頭の中にもやもやしていたものを整理するために随想風に書いてみることにした。
〇昨夜というより、今朝(3月30日)方午前3時30分頃、例によってノンレム睡眠からレム睡眠に切り替わったのか眠れず、いろいろ考えていたことを体系的、理論的に説明できないものの、書き残しておいた方が後学の人のためになると考え、夜中にメモしたものを基に随想風に書くことにした。
〇この内容は、必ずしも実践者の方々には関心がないかもしれないが、少なくとも大学等の教員をしている人には読んで、考えて欲しいことである。

Ⅰ 「人を教えることは自分が育つこと」――社会福祉系大学院における研究指導論、研究方法論についての随想

〇ミルトン・メイヤロフは『ケアの本質』という本の中で、ケアすると言うことは相手の成長と同時に自分も成長する関係であると述べているが、“人を教える”という営みも同じである。
〇社会福祉系大学及び大学院は、教育研究組織が「講座制」でなく「学科目制」である。そこでは、余ほど意識しないと“教育・研究の再生産は縮小していく”と何回か書いてきた(「戦後社会福祉研究と社会福祉教育の視座」『戦後社会福祉教育の五十年』所収、ミネルヴァ書房、1998年、あるいは「社会福祉学研究方法と研究組織に関する小稿」『日本社会福祉学会ニュース第86号』所収、2021年3月)。
〇私が、日本社会事業大学大学院、東北福祉大学大学院で研究指導して博士の学位を取得した人が25名、修士の学位を取得した人が110名になる。この他、東京大学大学院、同志社大学大学院、淑徳大学大学院で、非常勤ながら研究指導した方々も多数いる。
〇それらの大学院生を指導していていくつかの類型化ができると思った。
〇第1のタイプは、大学院に来て、社会福祉の学びを深めたいし、できれば大学等の教育者・研究者になりたいのに、自分の研究テーマ、研究すべき社会福祉の理論課題が明確でなく、結果的に指導教員から与えられる課題、ヒントを基に自分の研究テーマを設定していった人々のタイプである。
〇このタイプの人の中には、ケアリングコミュニティ研究をしている大石剛史さん、イギリスの1601年慈善信託法を研究した松山毅さん、イギリスのボランタリーセクター研究をした宮城孝さんなどがいる。
〇この方々への指導は、ある意味、私自身が興味関心と研究の必要性を感じていながら、時間的にも、能力的にも一人では限界があり、その自分ができない部分を指導する院生に委ね、研究を進めてもらうというやり方である。
〇第2のタイプは、社会福祉学、社会福祉実践以外の領域を基盤に、自分の実践領域、研究領域と社会福祉学との“学際研究”を志してきた人々である。理学療法との関りを深めたいと考えた吉川和徳さん、廣島美保さん、建築学との関りでの瀬戸真弓さん、看護学との関りで野川とも江さん、本田芳香さん等がいる。
〇この方々への指導は、大学院生が有している他の領域の「土俵」に私自身が乗って、その分野の問題と社会福祉学との関係を深めていかないと指導できないので、“耳学問的”な側面も出てくるが、自分自身の視点、研究関心を拡げる機会になった。建築学の西山卯三先生の空間論と居場所問題、福祉機器の利活用とICFとの関係、保健・医療・看護・福祉のIPW、IPEなどについて見識を拡げることができ、後々それが生きてくることを実感できた。
〇第3のタイプは、大学院生自身は自らの関心、深めたいという課題、領域、事象を有しているが、それをどのように分析し、社会福祉学としての理論課題に昇化させたらいいのか悩んでいる人々である。
〇この方々には、取り上げる事象、問題をどういう風に分析し、構造化したら社会福祉学の理論課題を抽出できるかを指導した。その際に、その理論課題は一言でいえばどういう表現で表せるかを意識して取り組んだ。
〇玉木千賀子さんの「ヴァルネラビリティ」研究、崔太子さんの「ソーシャルサポートネットワーク」研究、越智あゆみさんの「福祉アクセシビリティ」研究、原田和広さんの「実存的貧困」研究などがそうである。
〇第4のタイプは、指導教員と同じフィールドに通い、関りのある自治体やその社会福祉協議会の実践・研究を「バッテリー型研究」を通して、新しいシステムを作り上げていく社会実証的研究スタイルである。
〇このタイプには、長野県茅野市での「福祉21ビーナスプラン」、「どんぐりプラン」を作り上げた原田正樹さんがいる。その際に、重要なのは、結果としてのタスクゴールだけではなく、プロセスゴールやリレーションシップゴールまでに関わることができるということが指導上大きな意味を持つ。
〇このように考えると、社会福祉学研究も、論文の最後の謝辞のところで指導教員の名前を載せて感謝するだけではなく、自然科学や大量的社会調査分野と同じように、共同研究者として、執筆者をファーストオーサーとし、アドバイザ-や指導をしてヒント等を提案した人をセカンドオーサーとして明記した方がいい時代が来たのかもしれない。

Ⅱ 第8回ホームカミングデーの際の原田正樹さんとの対談で示した先行研究及び研究スタイルを学んだ先生方――大橋謙策の研究枠組みと研究方法

〇去る2023年10月28日に行われた「第8回大橋ゼミホームカミングデー」の際に、原田正樹さんと対談を行った。その時の内容を覚え書き程度であるが、記録に留めておいた方がいいと思うので書く。
〇大橋謙策の研究枠組みと研究方法は、大きく分けて5つの柱からなっている。
〇第1の柱は、自分の理論を確立する上で、乗り越えるべき先行研究者は誰かという問題である。
〇論文を書くに当たって、いろいろ先行研究を学ぶが、自分が依拠し、乗り越える理論家、研究者は誰かということは、研究を志す者にとってとても重要な課題である。
〇私は、社会福祉学分野では岡村重夫であり、教育学、とりわけ社会教育学にあっては小川利夫であった(岡村重夫理論については「岡村理論の思想的源流と理論的発展課題」『岡村理論重夫の継承と展開 社会福祉原理論』ミネルヴァ書房、2012年、小川利夫理論については「「硯滴」に学ぶー不肖の弟子の戯言と思いー」『小川利夫社会教育論集第8巻 社会教育研究四〇年ー現代社会教育研究入門』亜紀書房、1992年を参照)。
〇研究者になる道は、自分のテーマ、研究課題に即して、誰のどの理論を乗り越えるべきかを早く掴むことが最も重要な道のりである。
〇第2の柱は、どのような研究方法を身に着けるかである。
〇我々が大学院で学んでいる時代は、研究者になるなら①その分野の原理、哲学、②その分野に関わる歴史研究、③その分野に関わる国際比較研究が出来なければ駄目だとよくいわれたものである。その教えには必死に対応しようとしてきたが、どういう研究方法を身に着けるかは、残念ながら教えてくれなかった。
〇筆者なりに開拓しようと思ったのは、社会教育学も社会福祉学も臨床的実践科学を軸にした統合科学(この用語は2000年に知ることになる)であるということを考え、現場に根差し、現場のニーズに応え、現場の実践を支援する理論仮説を提供できる研究者になろうと考えたことである。
〇結果的に、各地の自治体、社会福祉協議会、公民館をフィールドにして、そこで働く職員たちとの「バッテリー型研究」というスタイルを構築できた。この方法は、恩師の宮原誠一先生が教え子を各地の自治体に社会教育主事として送り込む実践的研究から学ぶところもあったし、次の柱で述べる恩師の小川利夫先生の実践者の組織化を行っていたことに示唆を得て、私なりに独自に作り上げたものである。
〇第3の柱は、実践者・研究者の組織化である。
〇小川利夫先生のこの点での組織化は大変素晴らしいものであった。実践家と“肝胆相照らす”関係を作り出し、様々な研究会を組織されていた。名称は定かでないが、「教育と福祉を語る集い」、「児童相談所セミナー」、「養護児童問題セミナー」等1970年代に精力的に組織し、現場で起きている問題を社会構造的に整理する研究方法には大変勉強させられた。研究会の後は必ずと言っていいほど“酒会”の場があり、そこでも談論風発の論議を行っていた。そばで見聞きし、時には“酒会”の“幹事役”や研究会の事務局を担うことで、研究者としても社会人としても大いに鍛えられた。
〇第4の柱は、大学教員としての社会活動、社会貢献活動である。
〇この分野では仲村優一先生、一番ケ瀬康子先生、三浦文夫先生、小川利夫先生などに憧れ、導かれて成長できた。
〇仲村優一先生には、日本社会事業大学の教員として日本社会福祉学会の会長、日本社会福祉教育学校連盟会長、日本社会事業大学学長、日本学術会議の会員になって、社会的に社会福祉学の社会的評価を高める活動をしなければ駄目だと言われてきた。一番ケ瀬康子先生も同様であるが、一番ケ瀬康子先生は、講演料の高いところにも行くが、時には活動を助成するために寄付金を置いてくるところにも出かけて、社会福祉の向上に努めなければならないと言われたし、小川利夫先生には、講演料を自分の生活費のために使うな、それは社会的に使えと、ことあるごとに言われてきた。三浦文夫先生には、様々な福祉財団などを紹介してもらい、その財団の助成先の選考委員、財団の評議員、理事などを勤めることの意味、意義、社会的役割について教えて頂いた。
〇このような、研究方法、研究枠組みの集大成として、私の第5の柱となる日本地域福祉研究所を1994年に設立した。
〇それは、実践と理論を循環させ、研究者の養成と組織化、実践家の組織化を図り、草の根の地域福祉実践の向上を図りたいと考えたからである。日本地域福祉研究所が毎年行った「地域福祉実践研究セミナー」もその目的の一つであった。このセミナーの分身といえる「四国地域福祉実践研究セミナー」、「房総地域福祉実践セミナー」は現在でも継続して行われている。
〇このような研究枠組みや研究方法が妥当性を持っているかどうかは他者の評価を得なければならないが、少なくとも私はこの柱を軸に60年間近く地域福祉実践・研究を行ってきたことは事実であり、後学者のためにここに記しておきたいと思った。

(2024年3月30日記)

(備考)
「老爺心お節介情報」は、阪野貢先生のブログ(「阪野貢 市民福祉教育研究所」で検索)に第1号から収録されていますので、関心のある方は検索してください。
この「老爺心お節介情報」はご自由にご活用頂いて結構です。