「大橋謙策の福祉教育論」カテゴリーアーカイブ

老爺心お節介情報/第48号(2023年8月31日)

「老爺心お節介情報」第48号

地域福祉研究者の皆様
社会福祉協議会関係者の皆様

お変わりなくお過ごしでしょうか。
日本地域福祉研究所最後の「第28回地域福祉実践研究セミナーinさが」の報告を送ります。
とても素晴らしいセミナーでした。
参加者からは、「みちのくセミナー」を立ち上げたいとか、地域に入って住民と一緒に論議する分科会は魅力的で、やめるのはもったいないとか、第29回目は自分たちで行うセミナーにしていいか等の意見を頂きました。
今後の対応は少し立ち止まって考えます。

2023年8月31日  大橋 謙策

Ⅰ 「第28回地域福祉実践研究セミナーinさが」が盛会裏に開催される

〇「第28回地域福祉実践研究セミナーinさが」が、8月24日~26日に佐賀県で開催されました。佐賀県外から約100名、県内から約400名という多数の参加者を得て、山口祥義佐賀県知事、陣内芳博佐賀県社会福祉協議会会長(佐賀銀行会長)のご列席のもと開会式が行われました。「地域福祉実践研究セミナー」に知事が来賓として祝辞を頂けたのは初めてではないかと思います。
〇日本地域福祉研究所は、全国の草の根の地域福祉実践を豊かにしたいとの思いから、1994年12月に創設されました。そして、翌年の1995年に第1回の「地域福祉実践研究セミナー」を島根県瑞穂町で行いました。日本地域福祉研究所としては、「地域福祉実践研究セミナー」を県庁所在地で開催するのではなく、できるだけ過疎地などでのセミナー開催を心がけてきました。今回のセミナーも佐賀市だけではなく、佐賀県下6市町村で、7つの分科会を開催しましたのも、できるだけ実践現場の土地勘、雰囲気を味わいながら論議をしようとの趣旨から設定されたものです。この試みも始めてでしたし、佐賀県社会福祉協議会が中心になって、NPO法人や施設経営の社会福祉法人、民生委員児童委員協議会等を組織した実行委員会で主催していただいたのも初めての試みです。
〇今回、佐賀県でセミナーを開催して頂いた理由は、私が「関係人口」の一人として佐賀県社会福祉協議会に関わらせていただいてから丸6年にもなり、一つの到達点として評価を受けたいと思ったからです。
〇私は、1981年に、佐賀県社会福祉大会の講師として招聘されましたし、1995年には市町村社会福祉協議会役職員研修の講師としても招聘されています。しかしながら、それは一過性のものです。
〇2015年に、社協役職員研修が「社協は生き残れるか」というテーマで行われた際にも招聘され、それを契機に2017年からは、佐賀県の地域福祉を推進する中核的組織としての社会福祉協議会の資質向上を目的にした「社協職員パワーアップゼミ」を開催してもらい、継続的に関わることになり、文字通り私自身「関係人口」としての自覚と役割が出てきました。
〇佐賀県「社協職員パワーアップゼミ」は、他の県のコミュニティソーシャルワーク研修とほぼ同じ内容で、4日間(のちに5日間)のコースで、①「社会生活モデル」に基づくアセスメント能力の向上、②アウトリーチ型ロールプレイ、③職員が直面している住民の生活課題に即応した問題解決プログラムの企画立案書作成、④孤立しがちな、生活のしづらさを抱えている住民へのアプロ―チシステムとその個人のソーシャルサポートネットワークづくりの企画立案書作成が中心です。前期課程と後期課程の間には、問題解決プログラムの企画立案書を完成させる宿題があります。この問題解決プログラムの企画立案書には、ⅰ)同じような問題が地域にどれだけあるかを推察する関連資料作り、ⅱ)そのプログラムを自分の所属する社会福祉協議会の局内で、共通理解し、推進できる提案の方法、ⅲ)そのプログラムに掛かる事業経費の積算根拠の明確化、ⅳ)その事業経費をどう獲得、確保するか、その方法を具体的に書くことが求められています。
〇この“宿題”は厳しいもので、提出すればいいというものではありません。履修者から提出された問題解決プログラムを、佐賀県社会福祉協議会のまちづくり課の副課長である小松美佳さんが中心になってコメントします。必要なら、履修者とコメンテーターである小松美佳さんとの間で、何回かやり取りがおこなわれ、そのうえで、それが講師である私のところに送られてきて、最終的に私が個別コンサルテーションを丁寧に行います。
〇今回のセミナーでは、その佐賀県内社会福祉協議会職員の資質向上に向けた研修の成果を多くの関係者に披瀝し、評価を受けたいと思ったことが開催をお願いした最大の目的です。その成果は、各分科会で大いに発揮されました。
〇「第28回地域福祉実践研究セミナーinさが」の成果、特色を私なりに箇条書きで整理しますと以下の通りです。とても丁寧に全体を総括することはできませんが、以下のような実践とその評価ができると思っています。

①佐賀県は数年前からCSO(Civil Society Organization)という、NPO法人だけでなく、自治会、町内会、老人クラブ、PTAなどの市民活動している任意団体も含めて総称し、その活動を推奨してきました。
その一環として、県外にあったNGOや国内の子ども・障害分野のNPOを誘致して、雇用の創出、ノウハウの共有等を進め、行政ではできない細やかなサービスの提供を推進しています。佐賀県内の代表的なCSOの一つが「県民基金」としてされた公益財団法人佐賀未来創造基金ですが、ここでは、多様な活動をクラウドファンディング等を行い、支援しています。
この財団の代表理事をしている山田健一郎さんも本セミナーの実行委員の一人ですが、実にフットワークよく、県民のニーズを自ら把握し、それを解決するための支援を金銭面だけでなく“ニーズ・シーズのマッチング”を展開されています。山田健一郎さんとその財団の活動に触れただけでも大きな成果でした。1998年の特定非営利活動促進法の成立以降、日本の社会に、新しい公共づくりの実践が定着していることを実感できました。

②佐賀県のCSOの活動の代表的な実践をしている谷口仁史さんに会えたのもとても嬉しい限りです。谷口仁史さんは、認定非営利活動法人スチューデント・サポート・フェイスの代表理事で、厚生労働省や内閣府等の委員を歴任しており、いまや「ひきこもり」、「孤立・孤独」問題への実践において、谷口仁史さんたちの実践を抜きにしては語れないと思うほど素晴らしい実践を展開されています。
私なりに、その実践を一言で言うならば、「ひきこもりの若者への家庭教師派遣という方法で、本人・家族への信頼を醸成し、その一人一人の興味・関心、生きづらさに寄り添い、事前に作られているプログラムのその人を誘うのではなく、その一人一人に応じたプログラムをその都度作成して対応する。その一人一人のプログラムを作成するために、認定非営利活動法人スチューデント・サポート・フェイスに多様な分野の専門職を採用して対応するだけでなく、地域にある人材・資源をより個別的に組織化して活用する。そのうえで、それらの活動を定着化、普遍化するためにそれら地域の人材・資源の大きなネットワークづくりを行う」というようにまとめることができます。
谷口仁史さんの基調講演のテーマは「アウトリーチ(訪問支援)と重層的な支援のネットワークを活用した多面的アプローチ――社会的孤立・排除を生まない総合的な支援体制の確立に向けて――」でした。
「第28回地域福祉実践研究セミナーinIさが」の全体テーマは、「地域でともに生きていくために、未来に向かって、もう一度つながる――社会福祉協議会を中核とした地域づくりを目指して――」でありましたが、谷口仁史さんや山田健一郎さんたちの実践と組織を目の当たりに見聞きすると、社会福祉協議会は今のままでは存在価値が見いだせず、生き残れないと実感しました。「「社協職員パワーアップゼミ」がますます重要になります。

③厚生労働省は、現在「地域共生社会政策」を推進しています。その一つが、「限界集落」や「消滅市町村」といわれる地域にあっては、従来の縦割り的施設の整備は難しく、かつそこで働く人材の確保も難しいことから、地域によっては、その実情に応じ、高齢、障害、児童、生活困窮等の福祉サービスを総合的に提供できる仕組みを構築できるようにするとともに、これを地域づくりの拠点としても機能させることが重要であるとして、対象者を問わず、誰もが通い、福祉サービスを受け、あるいは居場所ともなる取組を進めています。そのモデルの一つが高知県で展開されている「ふれあいあったかセンター」です。その「小さな拠点(多世代交流・多機能型の福祉拠点)」を拠点として、誰もが何らかの役割を担い、人と人とが支え合うまちづくりの取り組みが広がることを期待しています。
この高知県の「ふれあいあったかセンター」は、26回も続けている「四国地域福祉実践研究セミナー」の中で、産み出され、広がりをもった実践と私は理解しています。
その厚生労働省が推奨している高知県の「ふれあいあったかセンタ-」の政策、実践よりも佐賀県の「地域共生ステーション」という政策、実践の方が時期的には早いのではないかということが分りました。佐賀県の「地域共生ステーション」は、2000年代の初めには展開されており、現在(令和5年4月段階)で、県内161小学校区のうち102小学校区に設置されています。かつ、「地域共生ステーション」は、全世代対応型の活動をしており、この実践はもっと全国に発信されていいであろうし、この実践を拡大し、今後の地域福祉、地域づくりの拠点にしていかなければならないと感じました。
「限界集落」や「消滅市町村」といわれる地域にあっては、このような実践無くして、持続可能な地域は維持できないし、この実践は戦後初期の文部省の寺中作雄などが推奨した「地域づくりの拠点としての公民館」(公民館が教育委員会の所管になったために、今や貸館になっている。本セミナーの第7分科会に登壇者した都城市では、住民の自治型公民館がいまだ健在で、都城市社会福祉協議会はこの公民館を拠点に校区社会福祉協議会活動を展開している)の理念の再来の可能性と必要性を感じました。

④社会福祉法人の地域貢献は2016年の社会福祉法改正で位置づけられました。私は、1978年に執筆した「福祉実践と施設の社会化」と題する論文と1988年の「社会福祉思想・法理念に見るレクリエーションの位置」と題する論文において、社会福祉施設を経営する社会福祉法人は、経済界の企業論理とは違い、半ば「官」がサービスの水準や価格に関与している準市場の原理で成り立っているサービス事業です。したがって、社会福祉法人が経営する社会福祉施設は地域住民の“共同利用施設”と考え、地域住民の生活を守る拠点になるべきだと論じてきました。「限界集落」や「消滅市町村」といわれる地域にあっては、まさにその位置づけが重要になります。
「第28回地域福祉実践研究セミナーinさが」で、社会福祉法人佐賀整肢学園が経営する「かんざき日の隈」(神埼市)が生活困窮者支援の実践をしていたり、多久市では人口1万8千人の市で、社会福祉法人15法人とNPO法人3法人、株式会社1社の計19法人で「多久市地域貢献推進協議会」を構成し、「みんなでみまもり隊事業」、「しごと・くらしの応援団」、「総合相談窓口事業」等の実践を展開しています。また、「限界集落」や「消滅市町村」といわれる太良町にある、障害者サービスを提供している社会福祉法人佐賀西部コロニー多良岳福祉園が地域住民との農福連携や高齢化した住民の生活支援活動をしています。
全国に2万ある社会福祉法人や、全国に10万といわれる社会福祉施設がこのような地域貢献を地域住民とともに展開できれば、“持続可能な地域”を維持できるのではないかと改めて思いました。
香川県のおもいやりネットワーク事業や大阪府のしあわせネットワーク事業は、府県レベルでの施設経営の社会福祉法人と市町村社会福祉協議会、民生委員児童委員協議会とが協議体を作り、生活困窮者支援などをはじめとした社会福祉法人の地域貢献活動を展開している。香川県、大阪府では全府県レベルの協議体とは別に、市町村ごとにも同じような協議体を作り、2重構造で社会福祉法人の地域貢献活動を展開している。
佐賀県の場合には、全県的な社会福祉法人の地域貢献の協議体はなく、市町村別に協議体を作って活動しているが、多久市の実践のように素晴らしい活動を展開していることに感動しました。

⑤「地域福祉実践研究セミナー」は一貫して、住民の福祉教育を重要視してきました。地域を豊かにするのには、行政依存では駄目で、住民自身が「選択的土着民」となり、地域福祉の主体形成をしなければなりません。そのためには、1979年に書いた「ボランティア活動の構造図」を意識した福祉教育の実践が不可欠だと考えてきました。
今回のセミナーでは、神埼清明高校や唐津西高校の生徒がセミナーで実践を発表してくれました。東井義男は、1957年に『村を育てる学力』を刊行していますが、今の時代はまさにそのような学力が求められています。唐津市では、高校を卒業するとほとんどの人が唐津市から出ていく状況を変えるべく、唐津市内にある8つの高校生を高校の枠を超えて、地域の大人、関係者が見守り、支援する活動が紹介されました。これは、「唐津くんち」という伝統文化があるからできるのかもしれませんが、高校の枠を超えて、地域の大人が高校生を見守り、支えていく実践こそ「村を育てる学力」につながる実践です。

⑥佐賀県では、ここ数年、水害及び山崩れが発生しており、被災者支援が大きな課題になっています。佐賀県には、日本レスキュー協会やピースポート災害支援センターなどのNGOが移転してきています。それらの団体の災害支援は、社会福祉協議会の「災害ボランティアセンター」の機能よりも、よりシステマティックな取り組みをしています。大町町に災害支援のバックヤードを開設したのもその一環です。それらのNGO、NPOと協働して、今年(2023年8月災害)の災害でも社会福祉協議会は唐津市と佐賀市で「災害ボランティアセンター」を開設して支援にあたりました。
武雄市等では、豪雨災害による被災が2~3年の短い間に2度災害が起きており、その被災者の支援には“泥水に使った床下や床上の災害の支援”に留まらず、長期的なスパンでの災害支援ソーシャルワーク機能の重要性が指摘されました。

⑦佐賀県でも一人暮らし高齢者が増大しており、その方々の終末期支援や死後対応事務は、従来の家族、血縁、地縁では対応できず、新たな社会システムが求められています。有田町社会福祉協議会が行っている「ハッピーエンディング事業」のような取り組みが佐賀県でも展開されていることが確認でき、これこそ社会福祉協議会の出番ではないかと心強い思いがしました。

⑧「地域福祉実践研究セミナー」としては、昨年に続いて特別分科会として、社会福祉協議会の経営分析、ミッションの在り方についての分科会が持たれました。市町社会福祉協議会、県社会福祉協議会、全社協の立場から登壇・発言をしてもらいました。
佐賀県有田町社会福祉協議会は2町合併した際に、事業の見直しが出来ず、結果として事務局体制と事業規模とのかかわりで職員の負担がふえたこと、住民座談会での住民の意見等を踏まえて、合併当初94事業あった社会福祉協議会の事業見直しを、評価指標を作成して行っています。担当職員レベル、管理職レベル、監事レベル、理事会レベルと多面的、多層的に評価を行い、結果として新しい事業の開始をいれても74事業に絞りこんだ実践は、これからの社会福祉協議会経営の在り方として注目に値します。

〇このように、「第28回地域福祉実践研究セミナーinさが」では大きな学びが沢山ありましたし、佐賀の実践を全国に発信する必要性も明らかになりました。
〇「第28回地域福祉実践研究セミナinさが」の開催は、昨年(2022年)の8月に急遽お願いしたにも関わらず、かような盛大なセミナーを開催できましたこと、また、この間、豪雨災害により多くの社会福祉協議会が災害ボランティアセンターへ職員を派遣する等災害被災者支援に忙殺されながら、このセミナーの準備にまい進して頂きました。
〇更には、開催に当たって、CSO関係者や行政関係者、社会福祉施設を経営する社会福祉法人関係者、民生委員児童委員が一堂に会して“オール佐賀の福祉”のセミナーを行うことを意図してくださり、その願いはまさに実現しました。このセミナーを契機に、佐賀県の社会福祉が新たな発展のステージに協働して上ったのではないかと実感できるセミナーでした。
〇改めて、「第28回地域福祉実践研究セミナーinさが」が盛会裏に行われましたことに心から厚く感謝とお礼を申し上げます。これは,ひとえに佐賀県社会福祉協議会の役職員の皆様はもとより、佐賀県内市町村社会福祉協議会、佐賀県民生児童委員協議会、西九州大学関係者、佐賀県が推奨しているCSOの関係者の皆様のご支援、ご尽力による賜物です。とりわけ、佐賀県社会福祉協議会のまちづくり課副課長の小松美佳さんのご尽力に心より敬意と感謝を申し上げます。
〇日本地域福祉研究所としての全国レベルでの「地域福祉実践研究セミナー」の開催は、今回の第28回が最後です。私が、日本地域福祉研究所の理事長をこの5月に退任したことと、日本地域福祉研究所が開催するだけの体力、財力が確保できないからです。少し残念な気もしますが、日本地域福祉研究所が新たな企画で、全国の草の根の地域福祉実践を豊かにする取り組みを推進することに期待したいと思います。

(2023年8月30日記)

(備考)
「老爺心お節介情報」は、阪野貢先生のブログ(「阪野貢 市民福祉教育研究所」で検索)に第1号から収録されていますので、関心のある方は検索してください。
この「老爺心お節介情報」はご自由にご活用頂いて結構です

老爺心お節介情報/第47号(2023年8月12日)

「老爺心お節介情報」第47号

皆さまお変わりなくお過ごしでしょうか。
立秋とはいえ、猛暑厳しく、体がおかしくなりそうです。
「老爺心お節介情報」を送ります。ご笑覧下さい。
どうぞご自由にお使いください。

2023年8月12日   大橋 謙策

〇毎日、暑い日が続いていますが、皆様お変わりなくお過ごしでしょうか。
〇6月2日に「老爺心お節介情報」46号を出して以降、秋田県、岩手県、香川県、石巻市、富里市等のCSW研修の前期日程が入り、あまりにも忙しくて「老爺心お節介情報」を書けませんでした。
〇と同時に、この間、これはといった本も読めずにいましたので、「老爺心お節介情報」を書くことができませんでした。申し訳ありませんでした。

Ⅰ 『民は立つ』(信濃毎日新聞社、2007年10月)

〇本書は、日本地域福祉学会終了後訪問し、その後その地域の地域福祉の在り方を考えることが必要だとして“結成”された中条プロジェクト(旧中条村の地域福祉の在り方を考える会)のメンバーである旧中条村社会福祉協議会職員の黒岩秀美さんから寄贈されたものです。
〇本書を知った経緯は、私が1965年に実習させて頂いた長野県下伊那郡阿智村の岡庭一雄元村長が新聞の使命などに関わるあり方を信濃毎日新聞に最近寄稿された記事を小池正志さん(元長野県社会福祉協議会事務局長、中条プロジェクトのメンバー)が送ってくれたので、読みたいとメールを送ったところ、黒岩秀美さんが寄贈してくれました。
〇本書は、長野県内の自治体で起きている事案を取り上げ、その事案の解決に向けて住民の合意がどのように形成されるのかを中心命題にして、住民同士の論戦、住民と行政との関係、住民と市町村議会議員との関係などについて取材したものをまとめたものです。
〇主に、田中康夫県知事時代の状況をめぐっての論題ですが、住民自治、地方自治、住民の意識と学習等“地域づくり”に関わる根幹を問いかけています。
〇また、長野県は小さい村が沢山あり、村自体の存立が可能なのか、財政難であえぐ村の“自立”の問題、それを“ある意味、国が強権的に合併させようとした平成の合併”問題で揺れる村の状況を丁寧に記事にしたものです。
〇取り上げられた事案は、市町村合併、高校再編、保育所の廃止・民営化問題、ダムの建設の是非、スキー場の経営と委託化、山村留学、公民館の在り方と地域づくり協議会(地域自治協議会)等の問題が取り上げられ、地域づくりに住民がどう関わるのか、民主主義とは何かを問いかける力作です。長野県茅野市の「CHUKOUらんどチノチノ」の実践も紹介されていました。
〇他方、住民同士の横のつながりの希薄化、人任せ、行政任せの依存体質、地域自治会の役員のなり手がない状況に輪をかけて、地域の高齢化、人口減少などの“地域存続の危機”についても論究しており、地域づくりに関心のある人には是非読んでほしいものです。
〇筆者は、1980年に「自立と連帯の社会・地域づくりに向けたボランティア活動の構造」を示し、かつ4つの「地域福祉の主体形成」(地域福祉実践の主体形成、地域福祉サービス利用の主体形成、地域福祉計画策定の主体形成、社会保険契約の主体形成)を提唱してきました。そこには、榛村純一(元静岡県掛川市市長)が提唱した「選択的土着民」と相通ずる考え方があります。住民一人一人が地域を愛し、人任せでなく、行政任せでなく、自らが主体的に地域を豊かにすることに関わる活動、文化が醸成されない限り、地域は良くならないという哲学が底流にあります。
〇そのような考え方は、筆者が東京大学大学院で社会教育を専攻し、長野県各地で実習をさせて頂いてきたからつくられたものであろうし、筆者が日本社会事業大学へ進学しようとする契機になった島木健作著『生活の探求』と相通ずるものです。
〇しかしながら、本書を読むと住民の合意形成の難しさ、民主主義的議論・手続きの進め方の難しさ、資料の作り方の難しさがよくわかります。
〇私も、大学3年生の実習で、長野県下伊那郡喬木村で実習させて頂いた折、「喬木村公民館報」に、当時、小渋川開発に関わる土地収用法の解説を書けと言われて、住民向けに、どのような資料を提供したらいいのか悩んだ記憶があります。それは、たぶん、「喬木村公民館報」に掲載されていると思います。
〇本書を読んで、改めて1960年代に志した自分の“思い”を見直すことになりました。地域福祉研究者、実践者は、どれだけ“地域づくりの難しさ”を実感して、取り組んでいるのでしょうか。
〇本書には、島根県邑南町口羽村の実践(『過疎を逆手に取る』)も紹介されていましたが、改めて1978年に書いた社会福祉施設の地域化と社会化の論文(「施設の社会化と福祉実践」『社会福祉学』第19号、1978年)を思い出し、社会福祉施設を経営している社会福祉法人の“地域貢献”ではなく、地域住民の拠り所、共同利用施設としての社会福祉法人という視点からの社会福祉法人の”地域貢献“を考える必要があるし、社会福祉法人が”限界集落“、”消滅市町村“の危機にある地域において、どのように地域づくりに貢献できるのか、その位置と役割は大きいと思いました。
〇「持続可能な地域づくり」と「地域福祉」と「社会福祉協議会」と「施設社会福祉法人」との関係を考える上で、是非、『里山人間主義の出番ですーー福祉施設がポンプ役のまちづくり』(指田志恵子著、あけび書房、2015年3月)と『ソーシャルイノベーションーー社会福祉法人佛子園が「ごちゃまぜ」で挑む地方創生』(監修雄谷良成、編著竹本鉄雄、ダイヤモンド社、2018年9月)を読んでほしいと思いました。
〇これからの地域福祉は、持続可能なまちづくり、地域づくりとの関係を抜きにしては考えられません。その際の社会福祉施設の役割は、高知県の「ふれあいあったかセンター」の実践ではありませんが、社会福祉施設の役割は大きいと思います。

Ⅱ 健診とがん告知・その ⑤

①前立腺がんの定期検診が、日本医科大学多摩永山病院で、6月15日に行われた。その際、前回の3月28日の健診の検査結果が示されたが、PSA数値が0・010となっており、医師からは順調な診療経過であると告げられる。
医師に、このPSAはゼロにならなくていいのかと問うと、前立腺を摘出していないので、それがある限りはゼロにならないという。もう一つ質問をした。この数値で見て、前立腺がんは消滅したと考えていいのかと問うと、そうですとの答え。
ホルモン注射も、今までは3か月に1回であったが、今回は6か月分をうつので、次回のホルモン注射は12月になるという。
ホルモン錠剤の投与は、90日分しかだせないので、次回の診察は9月に行うとのことであった。後は、経過観察を定期的に行っていくことになる。

②6月2日~6月15日まで、2種類の補聴器のお試し装用をしてきたが、「聞こえ」の面で特段の効用があったとは思えない。
6月16日の診察日に、お試し装用期間の記録(別紙)を提出し、とりあえずは補聴器の装用を辞退したい旨医師に告げると、補聴器機能を調整して、もう少しお試しをしようとの返事。そのあと、補聴器の調整をしてもらって装用したが、どうも効果が出ない。STと認定補聴器技能者は調整しても効果がでないので、今しばらく様子を見ましょうと言ってくれた。医師はおかしいなと首をかしげながら、STなどの意見を受け入れ、補聴器装用は現時点ではしないことに決定した。
使用させてくれた2種類の補聴器は、両耳で120万円クラスの機器と聞いて驚いた。

(備考)

③8月3日、右目の白内障手術を受けた。7月31日から、2種類の点眼薬を点眼し、手術日の8月4日は朝から瞳孔を開く点眼薬を指して、手術に臨む。右目の部分麻酔なので、声は聞こえるし、手術中の動きもわかる。眼球をいじられるので、少々痛くはあったが、手術は10分、前後の準備も入れて20分もかからずに終了。
手術の翌日の8月4日に、眼帯を外す。明るく、ものがはっきりと見える。帰宅時にはサングラスをかけ、ゴーグルをして帰る。自宅に帰って、鏡を見ると、自分の顔にこんなにもシミがあったのかと、その老醜に驚く。眼がぼんやりしていた方がいい場合もあるのだなと妙に感心。
右目の視力は1・0で、老眼を懸けずに字が読める。これは嬉しいことである。パソコンも眼鏡なしで打てている。新聞も鮮明になり、老眼を抱えずに読めている。こんなにも違うのかと感心しきりである。妻が、“私の顔もきれいに見えますか”というので、もちろんきれいですと答えた。
ただ、手術後、4種類の点眼薬を朝、昼、晩、種類によっては寝る前と注すので、結構煩わしい。しかも、点眼は5分の間隔を空けて注せというので、時間もかかるのが大変。でも、こんなによく見えるようになったのだから文句は言えない。
8月12日、定期検査で異常がないので、洗顔、洗髪もOKとのこと。ただし点眼は約1か月続ける必要があるという。視力も1・2になっていた。
左目の手術は、9月7日の予定。

(2023年8月12日記)

(備考)
「老爺心お節介情報」は、阪野貢先生のブログ(「阪野貢 市民福祉教育研究所」で検索)に第1号から収録されていますので、関心のある方は検索してください。
この「老爺心お節介情報」はご自由にご活用頂いて結構です。

老爺心お節介情報/第46号(2023年6月2日)

「老爺心お節介情報」第46号

「老爺心お節介情報」を送ります。
ご自愛の上、ご活躍下さい。

2023年6月2日   大橋 謙策

< 90日間の禁酒、5月29日に解禁 >

〇皆さんお変わりありませんか。
〇私の方は、2月28日から重粒子線治療のために禁酒生活でしたが、5月29日の診察で、前立腺がん腫瘍マーカーも0・065になり、無事解禁の許可が出ました。その晩のビール、日本酒での晩酌のうまいこと、やはりお酒はいいですね。

Ⅰ 市町村単位での、子育ち、子育ての健全育成システムの構築が重要――久徳重和著『人間形成障害』と岡田尊司著『発達障害「グレーゾーン」その正しい理解と克服法』及び成田奈緒子著『「発達障害」と間違われる子どもたち』を読んで

〇1947年に制定された児童福祉法は、すべての子どもの健全育成対策と何らかの支援を必要としている要保護児童対策が法律に盛り込まれている。
〇児童福祉法が制定された当時は、戦前の富国強兵に向けた“産めよ増やせよ”の時代の名残りもあり、世帯当たりの子どもの数も多く(ベビーブームの時期)、かつ近隣の社会関係も豊かにあり、子ども自身もインフォーマルな遊びの中で豊かに育っていた時代であったにも関わらず、児童福祉法で児童健全育成の必要性を打ち出していた。
〇そこでは、子ども会活動、青少年委員による多様な学校外の社会活動があり、都市化が騒がれる1970年代には各地で児童館、学童保育の設置がすすめられてきた。
〇それは、どちらかといえば、児童福祉行政もさることながら、社会教育行政によって推進されてきたという面があったこと否めない。
〇私自身、1970年代に書いた論文で、それら地域での児童の子育ち・子育てに関わる健全育成政策に関し、学校外教育の組織化として考え、論文を書いてきた。
〇しかし、一方で、1970年ころには子ども・青年の発達の歪みが明らかになり、私自身、社会関係を持てない“さあ別に族”や“まあね族”の登場を指摘し、要保護児童ではない子ども・青年の発達保障の必要性を指摘してきた。
〇それは、オオカミ少女アマラ・カマラやオオカミ少年ヴィクトールほどの極端な例ではないにしても、家庭での子育て機能がぜい弱化し、その機能を社会化しなければ大きな問題になることを指摘してきた。それは、ジョン・デューイの教育論、宮原誠一の教育論の改めての見直しの必要性をのべたものであった。
〇それは、1978年に上梓された久徳重盛著『人間形成障害病』のご子息である久徳重和著『人間形成障害』祥伝社)や岡田尊司著『発達障害「グレーゾーン」その正しい理解と克服法』(SB新書)、成田奈緒子著『「発達障害」と間違われる子どもたち』(青春新書)でも指摘していることと同じである。
〇発達障害の“グレーゾーン”の子ども・青年を要保護児童として位置づけ、療育の対象と考えるよりも、それらの現象、事象が生活様式や生活リズムを変えることにより改善されていること、うらを返せばそれらの現象、事象は“日常生活における無意識な中での人間形成に由来している“ということをきちんと押さえておく必要があるのではないか。
〇人間の成育を“社会実験”するわけにはいかないが、それらの現象、事象は生活様式、生活のリズムの崩壊がもたらしたものと考えることが重要ではないか。
〇そうだとすると、現象、事象の喧嘩に対し、要保護児童対策として対症療法的に政策を考えても、個別問題を解決できても、また同じような個別問題が創出されるということになり、全体としての問題解決にはならない。
〇市町村を基盤に、子育ち、子育ての新しい文化を児童健全育成として構築し、そのシステム化を市町村に展開することが喫緊の課題ではないのだろうか。
〇現在取り組まれている子ども政策は、どこかこの健全育成のシステム化、学校外教育の組織化の問題は失念されているように思われてならない。

Ⅱ 健診とがん告知・その ④

〇新型コロナウイルス感染症の影響のマイナス面は大きいものがあるが、私にとってはある意味、従来の行動パターンを見直す機会にもなったし、事実上研修などが控えられたことで自分の時間が持てるようになった。
〇その所為もあって、前立腺がん治療も滞りなく進捗したし、ついでというのもおかしいが、以前より気になっていた耳鼻咽喉科の検査、眼科の検査も受診しようと考えることができた。
〇結果は、耳鼻咽喉科では補聴器を6月2日より試用的に装用することになり、眼科では10年ぶりの診察で、白内障が進んでいることが明らかになり、8月3日と9月7日に白内障の手術を受けることになった。
〇79歳の年に、眼科、耳鼻咽喉科、泌尿器科の診察でクリニック通いが目白押しであり、以前から通っている歯科を加えると、まるで毎日がクリニック通いになってしまった。
〇しかし、これらの“人間改造”も、80歳台を楽しく生きる準備だと前向きにとらえ、一つ一つの経験が興味深く、楽しみながらクリニック通いをしている。
〇昔の人は、実に人間観察が鋭かったのだと最近つくづく思っている。私も、頬の筋肉がたるんできたのか、“瘤取り爺さん”の様相を呈し始めてきており、毎朝洗顔時に顔の筋肉のトレーニングをしているが、残念ながら“瘤取り爺さん”の様相は変えられない。
〇歯肉が痩せ、上顎の犬歯が飛び出す“鬼の形相”にもなってきたのも昔の人の観察と同じである。
〇そのような加齢に伴う顔の形状変化に加えての白内障手術、補聴器装用、前立腺がんと全く自然には逆らえないことを実感する日々である。せめて、足の筋力が落ちないようにと、ひたすら歩いて、体力維持を試みるしかない。

〇前立腺前立腺がんの重粒子線治療後の経過診察が、神奈川県立がんセンターで術後3か月の2023年5月29日に行われた。
〇前立腺腫瘍マーカであるPSA数値は、0・065なので、これはゼロにならなくていいのかと医師に聞くと、なってもならなくても変わらないというので、それは前立腺がんが消滅したことを意味するのかと問うとそうだと理解していいという。
〇お酒は飲んでいいのかと問うとこれもいいという答え。温泉はどうかと質問するとそれも問題ないという。
〇前立腺がんに伴う重粒子線治療で、禁忌になったのは、洪文部を圧迫するために自転車に乗ることを禁止されただけになる。
〇医師の診察を受け、自分としては“準快気祝い”だと考えて、5月29日、お酒を飲む。缶ビールと日本酒を飲んだが、やはり美味しい。
〇10年前の第2回目の四国歩きお遍路の時は、40日間禁酒をした。結願した後の徳島市で、仲間とお酒を飲んだが、その時はビールがまずく、酒席を早々に引き上げた。今回は90日間の禁酒期間であったが、ビールもお酒も美味しかった。
〇この違いは何かと考えてみたがよくわからない。四国お遍路の時は、体重が74キロから68キロまで落ち、体脂肪率も18であったのに比し、今回は禁酒前が72キロ、解禁日が71キロ、体脂肪率が20ということの違いかなと思ったりする。
〇今後は、神奈川県立がんセンターには3か月ごとに通いか、郵送で重粒子線治療を進めた日本医科大学多摩永山病院の3か月ごとの血液検査結果を報告するだけになる。基本は日本医科大学多摩永山病院で3か月ごとの診察とホルモン注射を受けることになる。服薬しているホルモン療法の錠剤は毎日1錠、2024年6月末まで続けることになる。

(2023年6月2日記)

(備考)
「老爺心お節介情報」は、阪野貢先生のブログ(「阪野貢 市民福祉教育研究所」で検索)中の「大橋謙策の福祉教育論」に第1号から収録されていますので、関心のある方は検索してください。この「老爺心お節介情報」はご自由にご活用頂いて結構です。
そこにはまた、3回の「四国歩きお遍路紀行」と「熊野古道(中辺路・伊勢路)紀行」も収録されています。

老爺心お節介情報/第45号(2023年5月21日)

「老爺心お節介情報」第45号

お変わりありませんか。
「老爺心お節介情報」第45号をお届けします。
どうぞご自由にお使いください。

2023年5月21日   大橋 謙策

< 日本地域福祉研究所の理事長退任 >

〇2023年5月20日に大正大学で行われた日本地域福祉研究所の理事会、総会で、日本地域福祉研究所の理事長を退任することが認められました。
〇1994年12月23日に、日本地域福祉研究所を設立し、2000年1月にNPO法人格を取得し、理事長を担ってきましたが、30年目の節目の年に後進に道を委ねます。
〇今回の改選で、理事等が大幅に若返りました。70歳以上の理事は基本的に退任(『コミュニティソーシャルワーク』の編集担当の田中英樹理事は重任)し、若いフレッシュな人が理事に選任されました。同時に、特任理事、客員研究員、主任研究員等の選任も行われました。この特任理事、客員研究員、主任研究員についても、若返りを図る必要がありますが、それは次期理事会で検討することになりました。
〇新体制の理事会は、6月1日に行われ、互選で理事長などを選びますが、現時点では法政大学現代福祉学部教授、当研究所の副理事長の宮城孝先生が選任される見込みです。
〇地域福祉研究者の皆様、社会福祉協議会関係者の皆様には、長年に亘り、日本地域福祉研究所及び理事長である私を支えてくださり、衷心より厚く感謝とお礼を申し上げます。理事長は替わりますが、今後とも日本地域福祉研究所へのご支援、ご鞭撻を心よりお願い申し上げます。(2023年5月21日記)

Ⅰ 地域福祉研究者の「研究者文化」と日本地域福祉研究所の設立目的

〇日本地域福祉研究所は1994年12月23日に設立されました。日本社会事業大学大学院修士課程を修了した人を中心に設立しました。元東京都社会福祉協議会職員で、静岡英和大学、静岡福祉大学で教員をされた青山登志夫さん等が尽力してくれて、日本地域福祉研究所の設立ができました。
〇日本地域福祉研究所設立に際し、私は4つの設立目的を考えました。
〇第1は、新しい社会福祉の考え方である「地域福祉」の哲学、理念、実践の在り方などに関する「地域福祉」の普及・啓発でした。
〇筆者は、地域福祉実践・研究を市町村社会福祉協議会を基盤に確立しようと考えて、取り組んで来ましたが、日本の社会福祉学界では、“私のような研究領域、研究方法は社会福祉プロパーでない”と厳しい批判を受けてきました。それらの意見との戦いも含めて、「地域福祉」の考え方の普及と啓発が必要だと考えました。そのことが、従来のコミュニティオーガニゼーション、コミュニティワークに代えてコミュニティソーシャルワークという提唱になります。また、同じように福祉教育を軸とした地域福祉の主体形成理論の提唱も行ってきました。
〇第2には、地域福祉実践の向上に向けた各種研修と実践者の組織化です。
〇筆者は、全社協主催の「地域福祉活動指導員養成課程」の講師を長らく務め、社会福祉協議会職員の研修の重要性を痛感していました。
〇その全社協主催の「地域福祉活動指導員養成課程」が修了したこともあり、その代替機能を担えればと思いました。一時は、通信制の研修システムの構築も考えました(当時は、今ほどICTの発展・普及がない中での紙媒体による通信制を考えていました。いまなら、ICTを使ってできるかもしれません)。
〇その代わりというわけではありませんが、年1回「地域福祉実践研究セミナー」を日本地域福祉研究所が「関係人口」として深く関わり、その地域の実践にある意味影響力を持っている地域で、その地域の実践をフィールドに学習するセミナーを開催しようと考えました。名称も、“地域福祉実践セミナー”でもないし、”地域福祉研究セミナー“でもなく、「地域福祉実践研究セミナー」としたのも、実践と研究の循環を考えたからです。
〇1995年5月に島根県邑南郡瑞穂町で行われた「山野草を食べる会」に呼ばれた際に、当時の瑞穂町社会福祉協議会の日高政恵事務局長にお願いし、1995年8月に第1回を開催したのが始まりです。
〇筆者自身の瑞穂町との関りは、1981年に当時の島根県社会福祉協議会の山本直治常務理事、松徳女学院高校の山本壽子教諭の紹介で訪問したのが最初で、その後瑞穂町の福祉教育、地域づくりの支援に関わってきました(『安らぎの田舎の道標』大橋謙策監修、澤田隆之・日高政恵共著、万葉舎、2000年8月参照)。
〇第3は、地域福祉実践の記録化と出版化です。
〇筆者は、日本社会事業大学大学院で博士課程を修了し、博士の学位を取得した人にはその博士論文を単著として、刊行し、世の評価を受けるべきだと考えてきました。
〇当時、中央法規出版にお願いしました。できれば中央法規出版が全国の大学の社会福祉系の博士論文を刊行するシリーズを作ってくれればありがたいという思いも含めてお願いしました。日本社会事業大学で博士の学位を授与された野川とも江さん、田中英樹さん、宮城孝さんの博士論文は刊行されました。その後は、出版事情の悪化などもあり頓挫してしまいました。
〇これは、当時の日本社会事業大学の伝統に倣ったものです。当時の日本社会事業大学では、40歳で単著を刊行するのが、教授に昇格する基準でした。私も必死だったことが思いだされます。
〇また、当時は、出版される本の背表紙に著者であれ、監修であれ、名前が明記されるのは、ある意味研究者のステイタスシンボルでもありました。私の恩師は、そのような機会を若手に作り、論文をかくことを奨励してくれました。
〇そのような“伝統”を引き継ぎたいと考えて、博士論文の出版化を推奨してきました。
〇と同時に、日本地域福祉研究所が関わることで、全国各地の実践が向上するならば、その実践を記録化し、できれば刊行したいと考えました。研究所の設立に何かとご支援、ご協力してくれた東洋堂企画出版社(のちに、万葉舎と改名)の尾関とよ子社長(尾関社長との間を取り持ってくれたのは、1970年からのお付き合いがある手嶋喜美子元板橋区区議会議長さんである)が、この考え方に賛同してくれて、出版事情が悪くなってきている中でも、日本地域福祉研究所が関わった実践を出版化してくれました(この件は、「老爺心お節介情報」の第44号の「関係人口」の中で紹介しているので参照してください)。
〇第4は、地域福祉実践・研究者の育成の機会の提供です。
〇筆者は、地域福祉研究者は、自分のフィールドを持ち、その地域と深く関わりながら、その実践を体系化、理論化することが肝要で、“空理空論”を振りましても地域福祉実践・研究にならないと考えてきました。だからこそ、市町村自治体の地域福祉計画を作る場合でも、タスクゴールだけ華やかに、かっこよく作っても、それが具現化されなければ駄目だと考え、住民の意識変容と参加を促すプロセスゴールと地域関係者の社会福祉に関わる力学を変えるリレーションシップゴールの重要性と必要性を考え、実践してきました。
〇そのようなフィールドを持てる研究者に育てるためには、私自身が関わるフィールドに同道して学んでもらうとか、フィールドを提供して実習なり、その地域へのコンサルテーションを行う能力を身に着けてもらうことが必要だと考えてきました。
〇私自身、恩師の“カバン持ち”で、随分と全国の実践現場に連れて行ってもらいましたし、恩師の名刺に“大橋を頼む”という一筆を書いてもらって、恩師が紹介するフィールドに出かけたものです。
〇そんなこともあり、大学院生や若手の研究者にフィールドをもってもらいたくて、いろいろチャンスを提供してきました。成功した場合の方が多いのですが、失敗したことも多々あります。若い頃は、ついつい“自分ひとりで偉くなったつもり、自分は豊かな能力があると過信しがち“で、私の教えが頭に入らず、生意気な言動をとって、実質的に”退室“せざるを得ない人もありました。
〇第5は、日本地域福祉研究所で長らく地域福祉実践に貢献された方々の“たまり場”、拠り所としての「福祉サロン」の機能を持つことでした。
〇全社協の事務局長された永田幹夫先生や三浦文夫先生をはじめとして、社会福祉協議会の第一線で頑張ってこられた方々や地域福祉研究者の「福祉サロン」ができれば、ノンフォーマルな学習の場が機能できると考えました。日本地域福祉研究所の事務室とは別の階のフロアーを借り、冷蔵庫等を整備して、「土曜福祉サロン」などの開催も試みました。現役の方は忙しいけれど、たまには集い、定年退職された方はサロンに来るのを楽しみ、若手に自分の実践を話してくれれば、それが地域福祉実践研究の向上につながると“夢”見ました。
〇このような目的を考えて設立した日本地域福祉研究所ですが、どれだけその目的が達成されたかは、関係者の皆様の評価に委ねることにします。
〇ところで、このような日本地域福祉研究所設立の目的を考えたのは、筆者を育んでくれた「研究者文化」があったからです。
〇日本の大学の教育研究システムは、大きく分けて講座制と学科目制があります。講座制は主任教授、助教授、講師、助教等複数の教育研究スタッフがいて、いわばチームで教育研究を行うシステムです。それに比し、学科目制は、開講されている授業科目を担当する教員が個別学科目毎に配属されているシステムで、研究というより、授業を行う教育に比重があるシステムです。
〇現在の社会福祉系大学は学科目制で教育研究が行われています。したがって、教員がチームで仕事をするとか、大学ごと、講座制の教室毎の「研究者文化」というものを構築することが難しいシステムで、教員個々人が独立した状況で教育研究を行います。大学院を出て、助教、講師という若手も一人前の教員、研究者であり、長年教育・研究に携わってきたベテランの教員とも対等であり、結果として若手の時から“自立している”とみなされるので、ベテランの先生方から「研究者文化」を伝授されるという機会がほとんどない状況です。
〇私の場合には、幸か不幸か、旧制大学で学んだ先生方から教えをうけたので、この「研究者文化」というものを色濃く受けています。妻に言わせれば、それほどまでにしなくてもいいのではないかと揶揄されるほど、“先生の言動、論理展開、先生の社会活動”に“憧れ”、学び、時には“盗み”、身に着けてきました。日本地域福祉研究所の設立の目的は、そのような経緯の中で育てられた私が“行うべき責務、任務”だと学び、受け継ぎ、実践してきたものです。
〇日本地域福祉研究所を維持することは、所員になってくれた方々の会費だけでは賄いきれません。日本地域福祉研究所の理事になってくれた方々には寄付をお願いしました。また、日本地域福祉研究所自身、全国の自治体、社会福祉協議会の研修や計画策定業務の委託を受けて経営努力もしてきました。しかしながら、それでもとても経営は厳しく、私自身も毎年100万円以上の寄付を続けてきました。したがって、私の寄付金の累計は30年間で3000万円を超しています。そのような行動をとれたのは、恩師が“講演や研修で頂いた謝金は自分の懐に入れるな、自分の生活費に使うな”と強調していたからです。それらのお金は、実践で働いている方々や社会に還元しろと口を酸っぱくするほど言い募っていました。そんな「研究者文化」を長年叩き込まれてきましたのでできたことです。
〇このような「研究者文化」がいいかどうかは分かりません。しかしながら、現在の社会福祉系大学の教員、地域福祉研究者の言動をみていると、このような「研究者文化」ともいえる文化を身に着け、行動している人がほとんど見られないことはなんとも淋しい限りです。このような状況の下では、実践と研究のよき循環が衰退し、実践力もぜい弱化し、研究者の質も下がるという“悪循環”に陥らないか危惧しています。

(2023年5月21日記)

 

老爺心お節介情報/第44号(2023年5月9日)

「老爺心お節介情報」第44号

「老爺心お節介情報」第44号を送ります。
ご自由にお使いください。

2023年5月9日   大橋 謙策

〇皆さんお変わりありませんか。ゴールデンウイークは十分満喫されましたでしょうか。私はカレンダー通りの生活リズムで、自宅(標高60メートル)から歩いて30分かかる多摩の横山(万葉集の防人の歌として万葉集に登場する多摩丘陵の尾根で、標高100メートル~140メートル)を散策し、山野草のきれいな金襴を探して喜んでいました。
〇4月30日に、パソコンで作業をしていたら、突然画面が「トロイの木馬」になり、“このパソコンはウイルスに感染しました。この画面を修復するには会の電話番号に電話ください”というテロップが流れました。いくら操作しても画面はかわらないので、テロップに流れた電話番号に電話をするとかからず、電話を切ったら、先ほど電話したところから電話があり、“自分の指示の通りにすればパソコンの画面は我慢修復できます”というので、その指示に従って操作を続けた。電話の主は外国人らしく、日本語がたどたどしい状況で、不思議に思いながら指示された通りに操作していると、“このウイルスに感染した状況はお判りになったでしょう。これを修復するのには通常40万円かかりますが、私なら5万円で修復してあげます”というので、私は“これは詐欺ですね”といって、電話を切った。その後も電話がかかってきたが、対応せずにいたところに、娘の夫(娘婿)が丁度来たので画面を見てもらい、操作をしていたら、画面は戻った。娘の夫曰く、いつも来てもらっているシステムエンジニアに来てもらって、ウイルスに感染しているか確認してもらった方がいいということになった。システムエンジニアは自宅に来れるのが5月2日の夕方なので、それまでパソコンの電源を切って使わないでほしいということであった。
〇5月2日の夕方、システムエンジニアが来て、確認してくれた結果、パソコンはウイルスには感染していないようで、「トロイの木馬」を使って、画面を占有し、修理代を巻き上げようという詐欺ではないかということに落着した。
〇丸々2日間、パソコンが使えず、不安の日々を過ごした。システムエンジニア曰く、パソコンを使い始めて25年になるのに、今までよくこのような事案にかかりませんでしたねと妙に感心されてしまった。
〇皆さんはパソコンのトラブルにはどのように対応されているのでしょうか。とても怖くなりました。(2023年5月9日記)

Ⅰ 「バッテリー型研究」と「関係人口」――関係性を豊かに持った自治体

1)はじめに
〇筆者の「老爺心お節介情報」の誤字脱字を修正したうえで、多くの方に読んでもらえるよう、阪野貢先生が自ら主宰している「市民福祉教育研究所」のブログにおいて、「大橋謙策の福祉教育論」というコーナーを設置してくれ、その中に「アーカイブ(3)老爺心お節介情報」が第1号から収録されている。
〇その阪野貢先生からの要望で、筆者の地域福祉実践、地域福祉研究に於いて、「関係人口」をどう考え、位置付けているのかを書いて欲しいという要望があった。

阪野貢先生のメール
“先生がこれまで、全国で「関係人口」として主導されてこられた数多くの地域づくりに関し「関係人口」のあり様等についての玉稿を(福祉教育の視点から)お願いしたいと念じております。いかがでしょうか。恐縮至極ですが、「老爺心お節介情報」の一読者からの願い(リクエスト)です。

〇その要望に応えるべく、本稿を書いているが、本稿はもとより「関係人口」に関わる学術論文ではないし、阪野先生なり、阪野先生のブログの読者が何を聞きたいのかを精査しているわけではないので、ある意味、私なりにこの50年間の地域福祉実践、地域福祉研究において、どのような関係性をもって行ってきたのかを書くことで責をはたしたいと思う。
〇ただし、阪野先生のメールの括弧書きしてある“福祉教育からの視点”は今回は触れずに書かせて頂いた。

2)「バッテリー型研究」と「関係人口」――その関係性
〇「関係人口」という定義は、緩やかにその地域とその地域づくりに関わる外部の人間として定義しても、その関係性をどういう尺度で図るのか定かでない。関りを持つ地域への訪問の頻度、回数の問題なのか、地域に関わりを持とうとしている外部人間をその地域関係者がアドバイザーや各種計画策定委員として任命しているのか、それとも関りを持とうとしている人間が自称「関係人口」と標ぼうしているのか、さらにはその地域との関りが一過性でなく、継続的に、長期的に関わる期間、スパンのことを問うているのか、必ずしも定かでない。
〇筆者が「バッテリー型研究」というのは、これら「関係人口」の考え方も含めていると同時に、その地域における地域福祉実践に関わる研究方法をも考えている。
〇社会福祉学会における研究方法、研究倫理は、リサーチ系研究における研究方法、研究倫理、あるいは個別支援に関わるソーシャルワーク実践における質的研究、研究倫理はそれなりに確立し、研究者も順守する環境が整備されつつある。
〇しかしながら、地域福祉実践、地域福祉研究における研究方法、研究倫理は必ずしも論議が進んでいないし、確立もしていない。
〇筆者は、講演や研修で招聘だけの地域の関りなのか、それともその地域の地域福祉実践に関わるコンサルテーションまでも依頼されるのか、その地域との関りを持つ際に常にそれらのことを意識してきた。
〇そして、単なる講演や研修のための招聘に留まらず、その地域の地域福祉実践の向上に自分がどう関われるのか、時には差し出がましい提案を敢えてするようにしてきた。コンサルテーションを行うにしても、“差し出がましい提案”をするにしても、その地域の住民の地域社会生活課題はなんであり、それをどう改善する地域福祉実践を展開するのかを常に考え、把握しようと意識してきた。
〇それと同時に、その地域を訪問する際には、事前に各種統計資料や既存の策定された計画を送って頂き、分析していくとか、現地に入り、地域を短時間でも案内して頂くとか、行政や社会福祉協議会の職員に何が生活課題なのかを聞く等して把握するように努めてきた。
〇コンサルテーションや“差し出がましい提案”をする場合には、自分なりに、その地域の地域福祉実践を向上させるための“実践仮説”を提示することに努めてきた。その地域の実践の“評論”ではなく、今後の発展を考えての“実践仮説”の提示である。“評論”と“実践仮説”との違いは、その地域で頑張っている人々を励まし、やる気にさせ、改革してみようと思わせるかどうかが重要な違いのポイントだと考えてきたし、“実践仮説”を提示するということはその内容、発言に責任をもつということでもある。
〇また、そのことは、どのような「関係人口」に位置づくかは知れないけれど、担当の職員が継続的関りを持ちたい(年賀状のやり取り、手紙やメールでの相談等職員が尋ねてくれば対応するという“来るものは拒まず、去る者は追わず”の精神)と思うならば、それなりに支援することを考えてきた。
〇というのも、地域の力学は複雑であり、担当の職員がいくらがんばろうとしても、“地域は動かない”場合があり、地域を対象に考える場合、“天の時、地の利、人の和”という諺通り、時期が来ないと地域を変える改革のエネルギーが充満しない場合がある。これらの時期を見誤ると、“実践仮説”ももって頑張ろうとしている職員の努力が徒労に終わるか、あるいは“組織から、地域から排除の対象”になりかねない。このことで苦労された職員を数多見てきている。地域福祉研究者はそれらのことにも目配り、気配りができなければならず、“実践仮説”という名のもとに、担当職員を“煽り、扇動し”、結果的に職員のみならず、研究者自身がその地域への“出入り禁止”を事実上申し渡される事案は数多ある。
〇筆者が関わった地方自治体において、行政との関わりは主に地域福祉計画等の行政計画のお手伝いを通し、その計画策定後、その計画の進行管理、アフターフォローを兼ねて、地域保健福祉審議会等を条例設置し、その委員長として以後関りを継続する場合が多い。
〇他方、市町村社会福祉協議会を通じての関りは、担当の職員は全社協主催の「地域福祉活動指導員養成課程」の研修やコミュニティソーシャルワーク研修の際に出会い、意気投合して、その職員の社会福祉協議会を軸にした市町村の地域福祉実践の向上を目指して関りを持ってきたことも多い。
〇前者の場合では、岩手県遠野市、東京都目黒区、豊島区、長野県茅野市等であり、後者の場合では、東京都狛江市、富山県氷見市などがある。この両者は関りの入り口、契機は別々であるが、筆者は常に市町村行政とそこの社会福祉協議会とが共働するように仕向け、新たなシステム、サービス開発を行ってきた。それは、地域福祉は市町村という政治行政機構の最も基礎となる自治体が基盤だということを常に意識していたからである。

3)関係性も持った自治体、社会福祉協議会の計画、実践の記録化
〇筆者が「バッテリー型実践、研究」として関係性を持った自治体は、山口県宇部市や富山県氷見市のように30年を超えるところもあるし、担当職員の熱意に絆され関係を持ち始めたが、その担当職員の人事異動や組織の上司が変わり理解を得られなくなるなどの理由から3~4年で関係性がなくなる場合もある。さらには、いったん関係が閉ざされたように思えたものが数年後に再開される場合などもあり一様ではない。
〇筆者が関わりを持ち続けたいと思い、かつ地域の関係者も持ち続けてほしいという場合でも、筆者の時間には限りがあるし、筆者が関係性も持ち、その地域の地域福祉実践を向上させるために継続的に関わっていくためには、筆者個人ではどうみても対応できない。
〇そこで、1994年12月に日本地域福祉研究所を設立し、日本社会事業大学大学院で教えた教え子たちを私のいわば“分身”として関係性のある自治体に派遣し、組織的に関係性を継続できるようにしようと考えた。それは、大学院で“頭でっかちな地域福祉論を学ぶ”ことよりも、身につく体験学習の場ではないかとも考えて、教え子たちに筆者が関係性を持っていた自治体を任せ、継続的にコンサルテーションができればと考えたからである。
〇しかしながら、筆者の思惑を理解し、思惑通りに成長してくれた人もいれば、期待にそぐわず、関係性を壊してしまったり、期待する実践家、研究者にならなかった人もいる。
〇と同時に、筆者は、その地域との関係性を“俗人的なもの”にせず、社会的に汎用性あるものとするために、関係性により作り上げられた、その自治体の地域福祉実践や地域福祉計画を記録化し、世に問うために出版するということを心掛けてきた。
〇その場合、計画レベルのものを本にしても実践的裏付け、検証がなく、単なるきれいごとの“絵にかいた餅”になりかねないので、一定の実践を踏まえた後に、計画の理念と実際という形でその自治体の実践を本として刊行するということを心掛けてきた。
〇それら実践の記録化したものを、手元にある資料だけで紹介すると以下の通りである。

〇以上のような本としての記録は残っていないが、筆者が筆者なりに関係性をもって取り組んできた自治体として思い起すことができる自治体を列挙すれば以下の通りである。
北海道鷹栖町、遠別町、美深町、岩手県沢内村、秋田県藤里町、宮城県石巻市、千葉県鴨川市、富里市、東京都稲城市、東京都目黒区、東京都豊島区、香川県琴平町、愛媛県今治市、四国中央市、徳島県美馬市、島根県松江市、沖縄県浦添市
等である。
〇上記以外に、“関係性”の中味の捉え方に関わってくるが、日本地域福祉研究所が開催してきた27回の地域福祉実践研究セミナーの開催自治体、あるいは25回の四国地域福祉実践研究セミナーの開催地、さらには18回を数える房総地域福祉実践研究セミナーなども関係性を大切して、その地域の地域福祉実践を向上させようと取り組んできた自治体ということができる。

Ⅱ 市町村における子育て・子育ちシステムの構築化を求めて

〇2023年4月に、「子ども家庭庁設置法」が施行され、子育て、子育ち政策が新たな局面を迎えている。
〇従来の児童福祉行政は、“要保護児童を点と点でつなぐ、療育型、治療型、保護型施策に偏りすぎていて、地域で子育て、子育ちを支援するシステムになっていない“と筆者は批判してきたし、新たな視点に基づく市町村版の児童福祉行政の必要性を説いてきた。
〇しかしながら、考えられている子ども支援の政策は、必ずしも筆者が考えていることにはなっていない。
〇今、必要なのは、子育ての力が家庭でも、地域でも恐ろしくぜい弱になっており、この子育て、子育ちの土台となる地域で、社会的に子ども育てる機能を復元しない限り、要保護児童への対症療法的施策を展開しても問題解決にはつながらないと考えている。
〇戦後初期に制定された児童福祉法は要保護児童への対策、サービスの提供と他方、地域での児童健全育成という機能を促進させる2重の性格を有していた。戦後初期の子どもの数が多く、かつ地域での近隣の自然発生的助け合いが色濃く残っている時代であってが、児童福祉法は児童健全育成の必要性を説いていた。
〇今日の状況を考えると、要保護児童問題を発生させている基盤である市町村の、地域のすべての子どもを対象とした児童健全育成システムを構築することが必要ではないか。
〇それは、従来の児童福祉行政のみなら、学校教育行政、学校外教育の組織化、社会教育の再編成、新たな地域づくりまで含めて論議されなければならない課題である。
〇この2023年3月に、日本社会事業大学同窓会沖縄県支部の沖縄原宿会が主催でセミナーがオンラインで開催された。企画・立案してくれたのは沖縄大学の玉木千賀子教授で、筆者に『沖縄子ども白書』を始め、多くの資料、調査報告書を送り届けてきて、それを読み込んで講演してほしいという要望であった。
〇その講演の原稿起こしがなされるのかどうかわからないが、とても重要な今日的課題でもあるので、「老爺心お節介情報」の読者に是非考えてほしいと思い、とりあえずその講演のレジュメをここに転載することにした。皆さんに子ども問題への対応を考えてほしい。

Ⅲ 健診とがん告知・その ③ ――重粒子線治療のその後の経過

〇1月30日の医師による診察日から、2月28日に始まる重粒子線治療に向けての準備として胃腸の整腸剤の服薬が始まった。それから、2週間たち、左足の脱力感が強く、時々力が入らず、膝ががくっとしてしまうことが度々出てきた。その後の医師の診断の際にそのことを伝えると、それは整腸剤の影響ではなく、投与してきたホルモン療法によるものではないかといわれた。しかしながら、ホルモン療法は昨年2022年の6月から投与しているわけで自分では納得できなかった。投与された整腸剤の副作用として、筋力の低下がいわれていたので、自分には納得できなかった。
〇重粒子腺治療がおわり、整腸剤の投与もなくなって1か月、左足の脱力感はなくなり、普通に歩けるようになった。私としては、どう見ても整腸剤の副作用としか思えないが、釈然としないままである。要は、普通に歩けるようになったのだからいいとしなければならない。
〇同じように、ホルモン療法の副作用かどうかわからないが、自分の乳首の周りが何となく膨らんできているのが気になる。2~3年前から、3キロのダンベルを両手に持って、胸筋や背筋などの筋トレを行ってきた成果なのか、ホルモン療法の影響なのか分からないが、気になる状況である。
〇また、お酒を飲んでいるときには、ほとんど見向きもしなかった“甘いもの”が非常に欲しくなり、時々草餅や柏餅を買ってたべているのもホルモン療法の副作用なのだろうか。こんなに嗜好が変わるものだと自分自身驚いている。
〇夜間の頻尿は、重粒子線治療前後は1時間に1回という頻尿であったし、排尿する際にお尻がキューと絞られ、ふぐりから脳天まで通り抜けるような痛さが走り、我慢できず、薬を服薬してもらってきたが、その薬も4月17日できれた。5月に入ると夜間の排尿時の痛さもほぼなくなり、かつ頻尿も1時間30分に1回程度になり、状況によっては3時間ももつようになり、夜が少し楽になってきた。
〇禁酒解禁まであと3週間、この間6回ほど酒席懇親の場があったが、よく我慢できた。後、指折り数えて禁酒解禁を待つばかり。
〇前立腺がんとは関係ないが、妻がテレビを見ている時のボリュウムが高いような気がしていて、妻に4月になったら一緒に耳鼻咽喉科を受診しようといっていた。
〇(公財)テクノエイド協会の調べで、近くの聖蹟桜ヶ丘駅近くに日本耳鼻咽喉科学会認定の補聴器相談医がいることが分り、4月7日に受診した。結果は妻は25dBで問題なく、言い出した私が右耳30dB、左耳35dBで、私が軽度難聴者で、補聴器を付ける丁度いい時期だという診断になった。試みに6月2日より補聴器を体験することにした。
〇前立腺がんが落ち着きそうになったら、耳の問題、さらには、眼科にもいかないと運転免許の更新が難しいかもしれない。
〇老いるということはまさに医療機関のオンパレードだということを実感させられている。

(2023年5月9日記)

老爺心お節介情報/第43号(2023年5月5日)

「老爺心お節介情報」第43号

お変わりありませんか。
「老爺心お節介情報」第43号を送ります。
ご自愛の上、ご活躍下さい。

2023年5月5日   大橋 謙策

〇皆さんお変わりありませんでしょうか。季節の変わり目の日々の気候変動が激しく、体調管理が容易ではありません。お互いにくれぐれも気を付けましょう。
〇新型コロナウイルス感染症が感染症分類で2類から5類に変更になることで、規制緩和が進み、本当に人出が急速に増えました。
〇嬉しい便りがあります。私の教え子の朝倉香織さんが鳥取県社会福祉協議会の事務局長に4月1日付けで就任しました。体に気を付けて職務を遂行してほしいと願うばかりです。
〇「老爺心お節介情報」第42号でご案内した『福来の挑戦――氷見市地域福祉実践40年の歩み』の出版記念を兼ねた氷見市地域福祉実践セミナーが4月15日~16日に行われ、全国各地(宮城、群馬、長野、岐阜、愛知、静岡、香川、佐賀、宮崎等)から200名を超える参加者で盛会裏に行われました。原田正樹日本福祉大学学長や、全社協地域福祉部の高橋良太部長、香川県社会福祉協議会の日下直和事務局長等も参加して頂き、久しぶりの対面でのセミナーを満喫しました。
〇私は35年ぶりに氷見市内の2つの地区の住民座談会に参加しました。35年前に、地区社会福祉協議会作りのために入り、住民座談会をした地区です。その後地区社会福祉協議会がつくられ活動を展開してきたものの、それもマンネリ化し、形骸化していたのを、氷見市社会福祉協議会職員のエリア担当制の導入とともに、担当職員が地区社会福祉協議会の活動を住民の生活課題を明らかにするアンケート調査などを行い、地域生活課題を明らかにして、再活性化してきている実践を垣間見ることができました。
〇求められたコメントで、私は2つのことを言いました。その一つは、なぜ地区社会福祉協議会を1980年代に作ろうとしたのかという点です。それは、岡村重夫の一般コミュニティ論と福祉コミュニティ論との関係であったが、今や一般コミュニティ全体が社会福祉の普遍化の中で生活のしづらさを考えなければならない時代(地域の住民の自治能力が減退し、かつ高齢化することで地区に住むすべての住民が生活のしづらさを抱え、地域自体の存続が危ぶまれる時代)になってきているので、単に地区社会福祉協議会の再活性化に取り組むだけでは十分でないこと、二つ目に、地域自体の力がなくなり、自治会活動もままならない状況のなかで、内閣府、国土交通省、農林水産省、総務省などが「地域づくり協議会」づくりを市町村に推奨している時代に、それらの活動と無関係に地区社会福祉協議会 活動を位置づけていたのでは社会福祉協議会の存在が意味がなくなることを指摘しました。
〇社会福祉協議会が進める地域福祉は、“地域の基盤があったらばこそ”の活動でもあり、その地域のぜい弱化と無関係に社会福祉協議会及び地域福祉関係者は地域福祉を語るべきでないことを戒めました。
〇それにしても対面でのセミナーはいいですね。残念だったのは、懇親会で私はお酒を飲めず、ノンアルコールとウーロン茶、ジンジャエールなどを飲んでいたことです(2023年4月26日記)。

Ⅰ 憲法第13条と「社会福祉観の貧困」「人間観の貧困」「貧困観の貧困」「生活観の貧困」

〇5月3日は憲法記念日。筆者は、日本社会事業大学の講義で、よく「社会福祉観の貧困」「人間観の貧困」「貧困観の貧困」「生活観の貧困」という用語を使用して講義をしてきた。
〇それは、社会福祉を志している学生が陥り易い社会福祉観を問い直す作業過程として、その用語を使ってきた。
〇筆者は、社会福祉を憲法第25条からだけ説き起こすのではなく、それとともに憲法第13条からも説き起こすべきだと1960年代末から言ってきたし、論文にも書いてきた。
〇憲法第25条の社会権的生存権の規定は、人類が歴史的に獲得してきた権利であり、国民のセーフティネット機能として重要であることは重々分かったうえで、それだけだと提供される社会福祉サービスがちまちました“最低限度の生活保障”の域を出ないことになるし、その反動として、社会福祉サービスを提供する側のパターナリズムが避けられないと考えてきたからである。
〇それらのことを実感する機会は、1970年に女子栄養大学に助手として採用され、勤務し始めて改めて痛感したし、同じく1970年から始めた聖心女子大学の非常勤講師の勤務からも痛感させられた。
〇女子栄養大学では、昼食を大学の食堂で摂るのだけれど、その食堂はキャフェテリア方式で、自分の好み、自分の懐具合、自分が食べたい分量を自分で考えるという“主体性”が常に求められる。
〇当時の社会福祉施設の食事は盛っ切りで、自分(福祉サービス利用者)の主体的選択の余地はなく、かつ食器も割れない食器で供されていた。日常生活における食事の持つ意味、食事に伴う生活文化などを女子栄養大学でいろいろ教わった。
〇当時、島根県出雲市の長浜和光園がバイキング方式の食事を提供し始めていて、社会福祉施設における食事に関わる問題の重要性を随分と学ばせてもらった。食事を通して学ぶ食文化、食事の場における会話、食事を作る生活技術など日常生活における食事の持つ意味は大きい。女子栄養大学では、当時核家族化が進む中での“子どもの孤食”の問題が大きく取り上げられていた。
〇筆者は、当時の女子栄養大学の社会福祉の科目を受講している学生に、夏休みの宿題として、社会福祉施設を訪問し、その施設の食事の実態を分析するレポート課題を出した。そのレポートに書かれた当時の分析と今日とを比較出来たらとても良かったと思うのだけれど、そのレポートは女子栄養大学を退職した際に、廃棄処分してしまったことが残念である。
〇他方、聖心女子大学でも社会福祉の科目を教えていたのであるが、同じように夏休みの宿題として、社会福祉施設を訪問してボランティア活動を行い、学生なりの社会福祉施設の評価を求めるレポートを課した。その際、学生から質問があった。訪ねる社会福祉施設は日本の社会福祉施設でなければ駄目かという質問である。その学生は、夏休みに入ると同時に、父母がいる海外へ行くという。その海外の社会福祉施設の訪問記でもいいのかという質問であった。そのような境遇の学生が数人いた。日本と海外の社会福祉施設との比較が図らずも行うことができた。社会福祉施設を取り巻く福祉文化の違いを期せずして学生同士で論議できたことはおもしろかった。
〇1992年、筆者は日本社会事業大学の長期在外研究が認められ、イギリスに半年間滞在した。それも、筆者はロンドン大学などへの派遣ではなく、自由にさせて頂いた。
〇筆者は、ロンドンのケンジントン&チェルシー区に滞在し、区内にあるホスピスやボランティアセンターなどに出入りさせてもらった。ホスピスでは、余命いくばくもない人々が、私が訪問する度に、私に向かって“エンジョイしているか”と尋ねられる日々であった。そのホスピスでは、余命いくばくもないのに、ドリンキングパーティもあり、かつ犬のボランティアも登録されていて連れてこられたり、浴室にはカラフルな壁画が描かれていたりという福祉文化の違いを様々な形で私に問いかけてきた。
〇筆者は、憲法第13条に基づく社会福祉観を考える場合、生活上の様々な事象に対し「快・不快」を基底として、生活を楽しむ、生活を再創造するというリクリエーションが大切ではないかと考え、1980年代後半に、日本社会事業大学の故垣内芳子先生や日本レクリエーション協会の園田碩哉さん、千葉和夫さん(のちに日本社会事業大学の教員)、淑徳短期大学の木谷宜弘先生(元全社協ボランティア活動振興センター長)等と“社会福祉における文化の問題、レクリエーションの位置”について研究を行った。社会福祉施設の食事、社会福祉施設のインテリア、社会福祉施設職員のユニフォーム、行動規範などについて調査研究をした。その結果は、1989年4月に『福祉レクリエーションの実践』(ぎょうせい)として上梓された。その『福祉レクリエーションの実践』には、筆者が日本社会事業大学研究紀要第34集に寄稿した「社会福祉思想・法理念にみるレクリエーションの位置」と題する論文が収録されている。
〇その論文では、(1)社会福祉とレクリエーション、(2)レクリエーションの捉え方の視角、(3)西洋の社会福祉思想とレクリエーション及び娯楽、(4)日本における社会福祉思想にみるレクリエーション及び娯楽、(5)社会福祉六法の目的と生活観、(6)施設最低基準にみる生活観、(7)在宅生活自立援助ネットワークの構成要件、(8)在宅福祉サービスの供給方法と施設整備の在り方について論述している。権田保之助の社会事業や娯楽の捉え方や如何に社会福祉法の目的が狭隘であるかを論述すると同時に、入所型社会福祉施設のサービスを分解して、地域で住民の必要と求めに応じてサービスパッケージをすれば、社会福祉施設の位置と役割が変わることを指摘している(当時はケアマネジメントという用語は使われてなく、筆者は必要なサービスをパッケージして提供するという意味でサービスパッケージという用語を使用していた)。
〇1996年に総理府の社会保障審議会が社会保障の捉え方を見直し、事実上福祉サービスを必要としている人のその人らしさを支えるサービスに転換させる勧告を出す。憲法第25条に基づく“最低限度の生活保障”への偏りを反省し、事実上憲法第13条を法源とする社会保障、社会福祉への転換が求められた。
〇しかしながら、相も変わらず社会福祉分野では、“上から目線のサービスを提供してあげる”という考え方や姿勢が蔓延っているし、生活を楽しく、明るく、楽しむ自立生活支援にはなっていない。
〇社会福祉分野では、故一番ケ瀬康子先生等が「福祉文化学会」を設立し、社会福祉サービスの考え方や社会福祉における文化性について研究を推進してきたが、その研究枠組みは必ずしも私の先の論文の枠組みとは同じではない。
〇他方、1970年代から播磨靖男さんたちのわたぼうしコンサートを始めとして、社会福祉の枠にとらわれない障害者文化の向上に貢献する実践があるが、それらがどれだけ社会福祉分野に影響を与えて、社会福祉の質を変えたかは定かでない。
〇憲法記念日の今日、改めて社会福祉の在り方、考え方と憲法第13条との関り、社会福祉従事者の“内なる社会福祉観、人間観、生活観、貧困観”を見直す契機になればとこの小稿を書いた(2023年5月3日記)。

(注記)
この「老爺心お節介情報」は、私のメールアドレスに登録されている人を中心に送付していますが、時々メールの送信ミスがあるようです。
「老爺心お節介情報」は、阪野貢先生のブログに、阪野貢先生が誤字脱字を修正してくれた上で、閲覧できるように転載されています。「阪野貢 市民福祉教育研究所」で検索して、入手してください。

老爺心お節介情報/第42号(2023年4月12日)

「老爺心お節介情報」第42号

皆さんお変わりなくお過ごしでしょうか。
新年度になり、気持ちも新たに地域福祉研究に、実践に取り組み始められたことと思います。
筆者が、約40年間に関わり、「バッテリー型研究・実践」を展開してきた富山県氷見市社会福祉協議会の地域福祉実践が『福来の挑戦――氷見市地域福祉実践40年のあゆみ』として、中央法規出版から2023年4月に刊行されました。
氷見市の地域福祉実践をけん引してきてくれた元氷見市社会福祉協議会事務局長の中尾晶美さんが昨年来闘病生活を送られていましたが、薬石効なく、この3月に逝去されました。本の出版を待たずに逝去されたことはとても残念ですが、本の校正ゲラには目を通して頂いていたことがせめてもの慰めです。中尾晶美さんのご冥福を心より祈念しています。
他方、教え子である原田正樹先生が、この4月より日本福祉大学の学長に就任されました。筆者の教え子で、大学教員になった人は約45名いますが、その中で学長になった人は初めてでうれしい限りです。“人との出会いの素晴らしさ”を改めて感じています。

2023年4月12日   大橋 謙策

Ⅰ 新型コロナウイルス感染症の新たなステージにおける新しい社会システム

〇2020年1月に新型コロナウイルス感染症が国内で確認され、4月には緊急事態宣言が出されて丸3年が経ちました。
〇新型コロナウイルス感染症が社会福祉分野に与えた影響は測りしれないのですが、私なりに2022年11月1日に整理したら以下のような問題、課題が明らかになりました。

(1)不安定就業層の露見化と経済的困難さーー生活福祉資金特例給付問題から見える新らたなニーズ
① 安定していると思われた自営業者、フリーランサー、飲食店と委託契約・直販している栽培農業者、鯛等の特定魚類の要職をしている漁業者等の生活困窮
② 不安定就業層(契約社員、派遣社員、アルバイト等)の方々の生活困窮
③ 技能実習生の外国人の方々の生活困窮
④ アルバイトで生計と学業を両立させていた大学生、高校生の生活困窮
(2)核家族の絆、家族機能の脆弱化の顕在化とその社会化支援の必要性
① 自粛生活の長期化で「孤立・孤独」に陥っている方々の生活不安、生活のしづらさ問題
➁ 通院が制限されることによるストレスと家族での対応の困難さ
③ 狭隘な住宅環境においてリモートワークを求められた家族のストレス、DVの増加
④ 一人親家庭、核家族等での新型コロナウイルス感染による入院・療養の際の養育の代替、介護の代替等家事機能に関わる生活の困難さ
⑤ 自宅待機の学童・児童のリモート学習対応、学習支援に困難さを抱えた家族
(3)社会関係の希薄化と孤立化の一層の促進
① 福祉サービス(通所、訪問)の制限による障害者及び高齢者のストレス、要介護度の悪化と家族対応の困難さ
➁ 民生・児童委員の訪問活動の制限
③ 子ども食堂の閉鎖、認知症高齢者のオレンジカフェ等ボランティア活動の制限
(4)人間としての成長の「節」に必要な社会体験機会の喪失――親密圏から公共圏への人格の再構築におけるイニシエーション機会の喪失
① 修学旅行等の学校外での社会体験の未体験、
➁ 大学のキャンパスにおける交流の禁止とサークル活動等の興隆機会の喪失
(5)社会福祉施設のリスクマネジメントとBCP(業務継続計画)の必要性
① 家族等との面会の制限による認知機能の低下
➁ エッセンシャルワーカーとしての介護・保育の現場のクラスターと代替機能の確保
③ 感染症対策に関わる物品の確保と経費の捻出の困難さ
④ 利用者の感染に伴う隔離、療養と空間的制約
⑤ 感染症対策上の利用者の減少に伴う経営問題
⑥ 社会福祉法人としてのリスクマネジメントとBCP問題

〇このような問題がマイナス面としてあるものの、一方ではプラスの面もあったと感じています。
〇それは、会社に毎日通勤し、同じ職場で、対面でしか仕事ができないと“思い込んでいた”ことが、インターネットの急速な普及で自宅でリモートで仕事が可能だということが分りました。このことは、日本的組織の中で、我々の行動、見方、考え方を“呪縛”していた価値規範が大きく崩れ、価値観の多様性を認める“一歩”になったともいえます。
〇この「老爺心お節介情報」(ろうやしんおせっかいじょうほう)も、実は新型コロナウイルス感染症による外出自粛、自宅待機が求められる中、“やることもない”ので、暇にあかせて書き始めたもので、新型コロナウイルス感染症がなく、従来のように動き回っていたら発想も出てこなかったでしょうし、書いている時間もなかったことでしょう。
〇新型コロナウイルス感染症は、従来の価値規範や組織の在り方、行動規範などのもろもろの見直しを迫り、新しい社会システムを惹起させる契機になるというプラスの面があったこともきちんと見ておかなければなりません。
〇日本の社会は、この新型コロナウイルス感染症に伴う“社会実験”で急速に変化していくことになると思います。それに人口減少、労働力不足などの要因を加味していくと、社会福祉の分野といえども避けて通れない課題です。

Ⅱ 地域福祉研究における「研究方法」に関する研究の必要性

〇かつて、筆者は東北福祉大学の学会において、赤坂憲雄が提唱している「東北学」を援用し、東北地方の地域福祉実践、地域福祉研究の独自性に関する研究の必要性を提起したことがあります。
〇また、1990年ごろの日本地域福祉学会の研究の一環として「蓮如上人の布教と地域福祉方法論」についてエッセイ風に小論を書いたことがあります(この文献が私の手元にない。持っている方はコピーして私に下さい)。
〇「老爺心お節介情報」で、今まで何回か、地域福祉史研究の重要性を指摘してきたが、ぜひ若手の地域福祉研究者は時間をとって、この研究をしてほしい(歴史研究には時間が掛かり、かつ研究成果を出し辛い)。
〇かつて、筆者は日本社会福祉学会の求めで「若手研究者に期待すること」というエッセイを書きました。その中で、研究者の素養には①社会福祉に関する歴史研究、②社会福祉の哲学に関する研究、③社会福祉に関する国際比較研究が不可欠であることを述べたことがあります。
〇地域福祉研究者も、国の政策に“一喜一憂”するのではなく、かつ“政策の解説をする”のではなく、本質的な研究方法を身に着けて、地に足を付けた研究をしてほしい。自分が市町村との間で、しっかりした「関係人口」にも位置づいていないのにもかかわらず、その市町村の地域福祉実践を解説風に論評する研究“方法”は、ある意味地域福祉研究の倫理に悖ると考えなければなりません。
〇日本地域福祉学会は、地域福祉研究における研究方法について、もっと論議を深める必要性があります。
〇かくいう筆者自身も、東大大学院時代に、当時の助手から“お前は「道聴塗説」をしている。もっと、しっかり研究をするように”と叱られた記憶がある。
〇ぜひ、その面からも地域福祉史研究をしっかりやってほしい。

Ⅲ 『福来の挑戦――氷見市地域福祉実践の40年のあゆみ』を上梓

〇富山県氷見市の「関係人口」の一翼を担い、氷見市社会福祉協議会の実践のアドバイザー的役割を担ってきた原田正樹先生と筆者の二人が監修した上記『福来の挑戦――氷見市地域福祉実践の40年のあゆみ』(中央法規出版)が2023年4月に刊行されました。
〇筆者は、かつて生物学の授業で“個体発生は系統発生を繰り返す”ということを習ったことがありますが、地域福祉を推進する社会福祉協議会の発展の要件というものが、この本には凝集されていると自負しています。
〇全国各地の社会福祉協議会関係者が自ら関わる社会福祉協議会の地域福祉実践力を高めようとしたら、氷見市社会福祉協議会の各ステージごとの要件をキチンと学び、それを遂行していくことに尽きるのではないかと思っています。
〇上記の本で、十分触れられなかった点を補足しておきますと、①1990年代当初から「保健・医療・福祉の集い」を行っていたこと、②介護保険前夜に、国光登志子先生が、社会福祉協議会職員のみならず、市内の関係者向けに、「関係人口」の一人として精力的にケアマネジメントに関する研修をおこなったこと、③「寄付の文化」を醸成することを意識してきたことがあります。
〇多くの人に上記の本を読んで、学んで欲しいという思いから、全国の社会福祉協議会関係者に献本した際の添え状、メッセージを下記に転載しておきます。

(参考)
社会福祉協議会関係者の皆様
地域福祉研究者の皆様

〇皆様にはお変わりなく、地域福祉の推進・向上にご尽力されていることとお慶び申し上げます。
〇本年は、市町村社会福祉協議会が1983年に社会福祉事業法(当時)に法定化されてから40周年の節目の年です。かつ、厚生労働省が2016年以降推進している地域共生社会政策において、文字通り地域福祉が社会福祉のメインストリーム(主流)になりました。
〇しかしながら、地域福祉推進において、市町村社会福祉協議会は“中核”的役割を担えているのでしょうか。
〇地域共生社会政策において、改めて市町村社会福祉協議会はどうあるべきなのか、どう経営されるべきなのか、住民と行政に信頼される市町村社会福祉協議会の在り方が問われています。
〇富山県氷見市社会福祉協議会は1966年に社会福祉法人化されました。しかしながら、その活動は長らく氷見市福祉事務所の片隅に机二つおいて各種社会福祉関係団体のお世話を行うにとどまっていましたが、1981年に第1次社協基盤強化計画を策定することにより、実質的に地域福祉推進組織としての歩みを始めます。本書は、それからの約40年間の実践を取りまとめたものです。
〇氷見市の名物である寒ブリ(鰤)は成長魚で、成長に伴い名称を変えていき、最終的に体重約10キロになると鰤と呼ばれるようになります。本書のタイトルの「福来」(ふくらぎ)は、鰤の幼魚の名称です。
〇氷見市社会福祉協議会の活動も「福来」(ふくらぎ)だったものが、今や全国的に評価される「鰤」になりました。
〇本書は、「福来」が如何に「鰤」になったかの挑戦の記録を綴ったものです。住民の社会福祉への理解を促進させて作られた地区社会福祉協議会活動、地域福祉推進における行政との協働の歴史、住民のニーズに対応した新たな福祉サービスの開発等、今求められている重層的支援体制整備事業に関わる課題が歴史的に整理されており、社会福祉協議会関係者必読の文献になったのではないかと自負しています。
〇本書は、氷見市行政、氷見市社会福祉協議会のアドバイザー的役割を担いつつ、氷見市の地域福祉推進・向上を約40年間見守ってきた大橋謙策と原田正樹が監修させて頂きました。
〇全国の社会福祉協議会関係者並びに地域福祉研究者に本書を是非読んで頂き、本書を参考にして各々の市町村社会福祉協議会の実践力の向上と経営の安定を図り、現在求められている地域福祉推進・向上の“中核的組織”として社会的に評価される組織に飛躍されることを祈念して、本書を謹呈致します。

2023年3月
大橋謙策
原田正樹

大橋謙策/〔増補〕域福祉実践の神髄 ―福祉教育・ニーズ対応型福祉サービスの開発・コミュニティソーシャルワーク―


 

はじめに ―「我が事・丸ごと地域共生社会」の実現に向けての課題― 

 厚生労働省は、2016年7月に『「我が事・丸ごと」地域共生社会実現本部』を発足させ、2015年9月に発表した「誰もが支え合う地域の構築に向けた福祉サービスの実現―新たな時代に対応した福祉の提供ビジョン」(「以下「新しい福祉提供ビジョン」と略」)の具現化を推進させることになった。

それは、地域自立生活支援を展開する上で、①子ども、障害者、高齢者の全世代を一元的、一体的に受け止め、相談に応ずるワンストップサービスをシステム化すること、②福祉サービスを必要としながらサービス利用に繋がっていない人々をアウトリーチして発見し、支援することと、時には伴走型の継続的支援を行うこと、③福祉サービスを必要としている人々を地域から排除しない、新たな地域コミュニティづくりを進めること、④そのためにも子ども、障害者、高齢者の全世代が交流・利用できる地域における小さな拠点づくりが必要になること、⑤そして全世代支援、全世代交流を進めていくためには属性分野・機能別の縦割りの資格ではなく、各資格間の相互乗り入れが必要になること等を具体化、具現化させること、等が課題としてあることを指摘している。

しかしながら、これらのことは“言うは易く、行うは難し”である。それらの理念、考え方の具現化、具体化においては少なくとも福祉教育の推進、ニーズ対応型福祉サービスの開発とそれを企画できる力量のある職員の養成、住民と行政の協働を成り立たせる触媒、媒介の機能をもったコミュニティソーシャルワーク機能とそれを実施できるシステムを整備しない限り難しい。これ以外にも、専門多職種連携の在り方とシステム等の検討課題があるが、今回は触れない。

筆者は、それら「地域福祉実践の真髄」ともいえるそれら3つの機能の具現化とその理論化を求めて、50年間研究をしてきたといっても過言ではない。

その研究スタイルは「バッテリー型研究方法」ともいえるもので、実践家の実践を理論化、体系化するとともに、研究者の理論仮説を実践家に提起し、実践してもらい検証するという研究者と実践家とがあたかも投手、捕手のようにバッテリーを組んで行う方法であり、筆者の50年間の実践、研究はまさにその方法によるところが大きい。

四国・こんぴら地域福祉実践セミナーの20年間の実践もまさにそうで、筆者が関わった他のセミナーも含めて、それらのセミナー等において「バッテリー型研究方法」で実践され、論議され、システム化され、地方自治体の政策を産み出してきた多くの実践が先に述べた厚生労働省の報告書にそれなりの影響を与えたと自負している。

地域福祉実践の方法として検討しなければならないことは多々あるが、今回は「我が事・丸ごと地域共生社会」実現上特に考えなければならないことと、四国・こんぴら地域福祉実践セミナーの20年間の実践を通して考えてきたことに焦点化させることとし、本稿では、「地域福祉実践の真髄」ともいえるものの内、上記に挙げた3点を取り上げた。それを筆者がどのように考え、展開してきたのかを随想風に振り返りながら、四国・こんぴら地域福祉実践セミナーの実践に対し、若干のコメントをすることとしたい。

Ⅰ 地域福祉実践(社会福祉協議会活動)は  “ 福祉教育に始まり、福祉教育に終わる ”

全国社会福祉協議会が1979年から始め、1991年(12期生)まで続けた「地域福祉活動指導員養成課程」は、筆者の研究者的成長に大きな影響を与えると同時に、そこでの相互の学びの過程を通じての実践者との交流が「バッテリー型研究方法」の推進とその後の実践者の組織化に非常に大きな役割を果たしてくれた。その養成課程では、設置された各教科目のテキストに基づき、レポートが課され、添削指導を受けた上で4泊5日の宿泊スクーリングがあり、修了論文の提出が課せられた。

筆者はその第1期から「社会福祉教育論」という科目を担当した。それは多分、筆者が「社会教育と地域福祉」の学際的研究を行い、既に「月刊福祉」等の雑誌や著作で「社会教育と地域福祉」に関わる論文を執筆していたからお呼びがかかったのであろうと推察している。

筆者の社会福祉学研究、地域福祉論研究において福祉教育は大きな柱である。後に筆者は、福祉教育を「憲法第13条、第25条などに規定された基本的人権を前提にして成り立つ平和と民主主義社会を作りあげるために、歴史的にも、社会的にも疎外されてきた社会福祉問題を素材として学習することであり、それらとの切り結びを通して社会福祉制度、社会福祉活動への関心と理解を進め、自らの人間形成を図りつつ、社会福祉サービスを利用している人々を社会から、地域から疎外することなく、ともに手をたずさえて豊かに生きていく力、社会福祉問題を解決する実践力を身につけることを目的に行われる意図的な活動」(1982年)と定義した。

この定義は、戦前の社会問題対応策としての社会事業と社会教育との関係性、とりわけ内務省が推進した風化行政、地方改良運動、精神作興運動等の研究を踏まえたものである。

この福祉教育の考え方と実践は市町村社会福祉協議会が住民主体の活動を展開する上で必要不可欠な活動であると筆者は位置付け、先の「地域福祉活動指導員養成課程」において、“社会福祉協議会の活動は福祉教育に始まり、福祉教育に終わる”ほど重要な活動であることを強調してきた。

島根県瑞穂町(現邑南町)社会福祉協議会の事務局長になった日高政恵さん(「地域福祉活動指導員養成課程」の修了者であり、1997年の第1回こんぴらセミナーのシンポジュウムの登壇者でもある)は、住民の生活実態に関する様々な調査を行い、それを踏まえて68の集落福祉委員会を基盤に、13のブロックでの「地域福祉デザイン教室」を行い、徹底的に住民による問題発見・問題解決型の共同学習を通じて、住民の社会福祉意識の変容、向上を図る地域福祉実践を展開した(『未来家族ネットワークの創造――安らぎの田舎への道標』万葉舎、2000年参照)。

瑞穂町の実践は、子どもの福祉教育、住民の社会福祉学習、介護福祉人材の養成等町全体で文字通りトータル的に福祉教育を行っており、日高さん自身社会福祉協議会活動は“福祉教育に始まり、福祉教育に終わる”と述べてくれている。

福祉教育のより体系的実践としては、1988~89年に策定された東京都狛江市社会福祉協議会の「あいとぴあ推進計画」で位置付けられた「あいとぴあカレッジ」がある。

「あいとぴあ推進計画」は、狛江市社会福祉協議会の須崎武夫さん(「地域福祉活動指導員養成課程」の修了者であり、のちに事務局長)が東京都社会福祉協議会のモデル指定地区を受託し、社協中心の地域福祉計画づくりを行ったものである。筆者はこの策定委員会の委員長で、委員には狛江市福祉事務所の所長にも入ってもらい、行政との整合性を持たせることを意図した。その後、狛江市は「あいとぴあ推進計画」と連動させた「あいとぴあレインボープラン」を行政計画として策定。狛江市では「あいとぴあレインボープラン」に基づき狛江市条例による「市民福祉委員会」を設置し、重要な社会福祉政策課題については「市民福祉委員会」で協議することを明記。筆者はその「市民福祉委員会」の委員長を15年勤めた。

「あいとぴあ推進計画」に基づく「あいとぴあカレッジ」(1991年から実施)は、年間15回程度の本格的な市民福祉教育のカレッジとして実施された(『地域福祉計画策定の視点と実践――狛江市のあいとぴあへの挑戦』第一法規、1996年参照)。「あいとぴあカレッジ」を担当した阪野貢さん(当時宝仙学園短期大学、のちに中部学院大学教授)が「市民福祉教育研究所」を設立・主宰し、ブログも開設しているので参照されたい。

また、体系的な福祉教育実践としては狛江市の実践よりも早く、筆者は山口県宇部市において1977年より「宇部市婦人ボランティアセミナー」を企画・実施している。

このセミナーは、文部省(当時)の助成事業を活用しての実践であるが、社会福祉と社会教育との有機的連携を意識したもので、1年間に17回の座学(講義)と14回の体験、実習(朗読、点字、手話、配食サービス、老人の介護等)のプログラムが組まれた本格的な福祉教育の実践であった(『宇部市の生涯学習推進構想――いきがい発見のまち』東洋堂企画出版社、1999年参照)。筆者は17年間、毎年数回宇部市に通い、最後はセミナー(後に2年制のカレッジに改組)30周年記念までお付き合いをしてきた。

このような実践は、上記以外でも、岩手県沢内村(現西和賀町)社会福祉協議会で地域福祉計画の策定とそれに基づく「コーリム大学」を1990年代初頭に実施した。

筆者の問題発見・問題解決型共同学習的福祉教育は、1973年の東京都稲城市(筆者の居住地)における「住みよい稲城を創る会」(代表幹事・大橋謙策)が主催した「集い」が最初である。

そのプログラムは、初めに生活問題を抱えている人に実態報告をして頂き、その後分科会に分かれて討議をするというスタイルで行われた。第1回目の集いでは、「嫁」(息子の配偶者)の立場から同居している姑の介護問題の報告、父子家庭の単独世帯の子育ての困難さの報告、学校拒否児(当時の呼称)を抱える家族の悩みの3事例の話を頂いた。

東京都の「市」ではあっても、農村的風土が残っていた地域だっただけに、「集い」というオープンな場での発題者を探すのに大変苦労はしたが、発題者の問題提起は実に重要で、その実態の深刻さが浮き彫りになった。その当時、筆者は知らなかったが、既に市内(当時人口3万人)に多くの学校拒否児がいたようで、その親たち(15名)が学校拒否児の親の体験報告があるということで個々に「集い」に参加してきていた。当初、分科会としては設定していなかった学校拒否児に関する分科会を親たちの要望で急遽作ったことが昨日のように思い出される。いかに、“事実は小説よりも奇なり”で、我々がその実態をただ把握していないだけだということを痛感させられ、アウトリーチによる問題発見の重要性に気づかされた。

1997年に香川県琴平町で開催された第1回こんぴら地域福祉実践セミナーは、「ふれあいのまちづくり事業」の補助金による事業ということも考えて、単なる一過性の福祉講演会ではなく、福祉教育、住民の社会福祉学習の機会として、かつ継続することを意識して行われた。当時、人口約1万2,000人の町で、参加者が600人にのぼり、会場が立錐の余地がないほどの状況は驚きであった。考えてみれば、1986年に琴平町社会福祉協議会が受託した「ボラントピア事業」において、夏の暑い日に、冷房のない学校の体育館に並べた椅子と椅子の間の通路に氷柱を何本も立てて行われた講演会になんと1,000人が参加された歴史を持っていた(講演者・大橋謙策)。それらの仕掛けをした琴平町社会福祉協議会の越智和子さん(現琴平町社会福祉協議会常務理事)も20代末の若い時に、山口県笠戸島で「地域福祉活動指導員養成課程」を受講した一人である。

筆者は、このような地域福祉と社会教育の学際的研究と実践に関わるなかで、1979年、全国社会福祉協議会が設置した「ボランティア基本問題検討委員会」(委員長・阿部志郎、作業委員長・大橋謙策)において起草委員長として「ボランティア活動の性格と構造」をまとめさせて頂いた。それは①ボランティア活動と市民活動との関係性をどう整理するかという問題、②ボランティア活動の目的を“自立と連帯の社会・地域づくり”と考えること、③市民活動とボランティア活動を考える場合、その活動には3つの性格の活動があること。それは第1に近隣での日常的なふれあいのある地域づくりを行うこと、第2に地域内にある福祉サービスを必要としている人を発見し、その個別課題に対応する対人サービス活動を行うこと、第3に市町村における(地域)福祉計画づくりを行うことの3つの課題があり、それらを構造的に捉えて考え、実践することの重要性を提起した。

また、そのような市民活動とボランティア活動との関係を意識したのは、1970年前後のコミュニティ構想が“住民参加、住民の権利ということが担保されない、権限なきコミュニティにおいて、麗〈うるわ〉しき隣人愛に基づく活動、助け合い活動”を求めていたことへの反論であり、かつ地域住民の生活を守るためには国レベルの社会保険制度の整備と共に、居住する市町村自治体における福祉サービスの整備が必要であり、重要であると考えたからに他ならない。(全社協・ボランティア基本問題検討委員会報告書「ボランティアの基本理念とボランティアセンターの役割」全社協、1980年参照)。

また、その頃、福祉教育の実践が求める目標として「4つの地域福祉の主体形成」(地域福祉計画策定主体、地域福祉実践主体、社会福祉サービス利用主体、社会保険制度契約主体)の必要性をまとめ、提起している。

「我が事・丸ごと地域共生社会」の実現に向けて、市町村における行政と住民の協働のあり方や全世代支援を行えるワンストップサービスができるシステムの構築等を考え、実施できるようにするためにも、まずもって住民参画による市町村地域福祉計画づくりが重要になる。また、その計画策定主体の形成も含めて地域福祉の4つの主体形成がなされなければ実現は難しいことになる。

福祉教育を皮相的にとらえるのでなく、地域住民が社会福祉の学習を通じ、地域にある問題に目を開き、気づき、それを解決するためにどう行動するべきかを考える機会を提供する福祉教育こそ地域福祉実践の根幹であることを改めて認識して欲しい。

Ⅱ ニーズ対応型福祉サービスの開発と「福祉でまちづくり」

筆者は1990年まで、日本には事実上ソーシャルワーク実践はなかったということを日本社会事業学校連盟(現日本ソーシャルワーク教育学校連盟)の社会福祉教育セミナーの席上や日本社会福祉学会等の場において発言してきた。しかしながら、残念ながら反論はされなかった。それどころか、戦後日本のケースワーク研究を牽引し、国際社会事業学校連盟からも高く評価されていた仲村優一先生は、“まさに君(筆者)が言う通りである”とさえ言われ、逆に日本におけるソーシャルワーク実践の定着を図る研究をしっかり頼むと励まされる状況であった。

戦後日本では、アメリカの文化、社会福祉に関するシステムの中で育ったケースワーク、グループワーク、コミュニティオーガニゼーションといった方法論が紹介・解説され、社会福祉教育の場において教えられてきた。

そこでは、インテークという用語やクライエントという用語が使われ、福祉サービスを利用しようとして、あるいは生活上の様々な問題を抱えて相談機関に来談した人とのラポートづくりから実践が説き起こされてきた。

筆者のように、戦前の社会事業における精神性と物質性の関係性の研究、地域改良・居住者の生活改善・人格向上を目指すセツルメント運動等を研究してきたものにとって、それには非常な違和感があった。多くの“社会福祉研究者”は筆者(大橋謙策)に対し、社会福祉六法体制とケースワーク等の社会福祉方法論とを前提としている“社会福祉プロパーの研究者”として認めず、“社会福祉体系外の研究者”として位置付ける言動を投げかけていた。

1977年に上梓され、1980年に日本語に翻訳されたハリー・スペクト/アン・ヴィッケリー編『社会福祉実践方法の統合化』 (Integrating Social Work Methods編)において、アメリカのシステム理論やイギリスの地方自治体社会サービス法に基づく実践を通して、1930年代にアメリカで確立された社会福祉方法論の3分類法を「ソーシャルワーク」に止揚するべきであるという問題提起がなされ、それが日本語に翻訳されて紹介されているにも拘わらず、日本では実質的に2000年まで社会福祉士養成のカリキュラムの中で社会福祉方法論の3分類法を堅持しつづけた。しかも、いまでも多くの研究者がインテーク、クライエントという用語を無自覚的に論文上でも使用している。

筆者は、1973年に東京都稲城市立公民館の建設に際し、1947年に制定された児童福祉法の国会審議に向けて厚生省(当時)が作成した予想問答集の考え方(保育所設置の目的は①働かざるを得ない母親の就労支援、②子どもの成長には集団保育が必要、③文化国家、民主国家を建設するには女性の社会参加、社会活動を促進する必要があるので子どもを預ける保育所が必要)に基づき、公民館に市の専任職員である保母(当時)を常駐させた公民館保育室の設置を社会教育委員として提案し、建設した。その公民館の機能として住民のたまり場、交流の場としての機能・空間ももたせた。また、同じように1975年には、児童館、老人福祉センター、公民館を合築する地区公民館の建物の構想を示し、建設した。

更には、1973年、貧困児童の就学援助を増進させるために、当時、文部省の基準は生活保護基準の1.5倍が就学奨励費支給の基準であったものを市と交渉し、1.6倍にまで引き上げてもらった。

このような実践を若い時(20代)からしてきたものにとって、「申請主義」に囚〈とら〉われた社会福祉実践・研究やカウンセリング的ケースワーク論は何とも理解しがたいものであった。そのような発想は、社会福祉方法論の分野のみならず、施設経営をする社会福祉法人も陥っていた呪縛であり、市町村社会福祉行政自体も囚われていた呪縛であった。

日本の社会福祉実践、研究は、1990年まで中央集権的機関委任事務体制で展開されてきたこと、また福祉サービスも行政もしくは行政に委託された社会福祉法人が運営する施設において提供されてきたために、法人・施設運営の視点はあったものの、経営の視点は脆弱であったし、市町村における社会福祉行政のアドミニストレーションに関する研究は実質的になかったと言わざるを得なかった。

ある意味、国が設計する制度に基づく“制度ビジネス”に“安住”しており、そこでは、一般に経済界で必要とされている“市場調査”としての“サービスニーズの把握”の視点や方法、あるいは“商品開発”に該当する“ニーズ対応型サービス開発”の意識は希薄であったことは否めない。

筆者は、戦後の社会福祉実践・研究は中根千枝先生の研究の「鍵」概念を借りれば、「場」(枠組み)である制度としての枠(社会福祉六法体制、中央集権的機関委任事務体制)の中で社会福祉実践・研究を考え、行われてきたと指摘してきた。

しかしながら、21世紀においては「資格」(機能)として求められているソーシャルワーク機能に基づき、潜在化しがちな国民のニーズの発見・キャッチが重要であり、かつそれに対応したサービス開発とその起業化・経営が必要であることを頓〈とみ〉に1990年以降指摘してきた(「施設の社会化と福祉実践」『社会福祉学』第19号、日本社会福祉学会、1978年所収)。それ以降、ニーズ対応型のサービス開発のヒントは、入所型施設で提供しているサービスを細かく分節化させることや家庭機能を分節化させて、それをどういうシステムで提供するかを考えることにあると述べてきた。また、1990年以降「福祉でまちづくり」の必要性を提起してきた。

21世紀に入り、急速に進められている規制緩和の時代にあっては、社会福祉分野といえどもニーズの把握、ニーズ対応型サービスの開発とその起業化に関する研究が社会福祉研究上求められている。それは、ソーシャルワーク機能そのものが問われていることでもある。それはまた、ソーシャルワークの楽しさ、醍醐味を味わう機会でもある。

ソーシャルワークの使命(ミッション)は、ニーズキャッチ・発見を基盤に、それらの問題解決に向けてのサービスの提供、サービスの開発であり、それこそソーシャルワークの価値であることを忘れてはならない。

筆者は、今、①高齢者分野の介護保険制度外のサービス開発と供給の方法に関する研究(株式会社などが入所型施設で提供してきているサービスを細かく分節化させて、必要時に即応できるサービスシステムの開発をし、サービスを介護保険制度外のサービスとして提供している。従来の地域福祉実践はこれらの制度外のニーズに対応できているのであろうか)、②介護保険制度外の福祉機器、介護ロボットの購入・利活用に関する研究(障害者分野の補装具や介護保険の福祉用具の利活用と一般市販される福祉機器との利活用がボーダーレスになってきており、その相談、利活用システムのあり方が問われている。既に、福祉機器・介護ロボットの利活用・相談センターが制度外で動き始めている)、③障害者総合支援制度外のニーズキャッチとその商品開発、及びそれに関わっての新たな障害者の雇用形態、就労形態のあり方を考えた「起業化」が行われており、それにふさわしい経営形態はどういう組織がいいのかに関する研究、④「限界集落」、「消滅市町村」における「高齢者の、障害者のための福祉のまちづくり」ではなく、高齢者も障害者も参画した「福祉でまちづくり」という新たな第8次産業(第6次産業+障害者・高齢者・子育て中の親の参画+商店街を構成する生活衛生同業者組合も参画した地産地消・循環型地域経済)を創出することに関する研究に関心を寄せて実践に関わっている。「福祉でまちづくり」という用語は、1990年の岩手県遠野市の地域福祉計画策定において使用したのが最初である。それは特に市議会議員の研修会でその必要性と重要性を指摘した。

この④の研究、実践は、文字通り地域福祉実践そのものに関わる実践であり、これは地方創生や立地適正化計画(コンパクトシティ計画)、あるいは休耕田、空き家対策等とも関わるまちづくり、地域づくりそのものの課題であり、地域経済に関わる研究、実践でもある。

山形県鶴岡市の地域福祉計画策定において、新しく特別養護老人ホームを100床、ユニット型で建設する構想(社会福祉法人鶴岡市社会福祉協議会立特別養護老人ホームおおやま、2005年)に際し、地産地消型の視点を取り入れるべく、商工会に特別養護老人ホームへの食材等を納入する協同組合を新たしく設立頂き、地元の商工業者に参入頂いた。全国の約7,000ある介護老人福祉施設(特別養護老人福祉施設)及び全国に約4,000ある介護老人保健施設がこのような発想で「地産地消」の取り組みをすれば、地域経済に与えるえる影響は大きく、現在言われている社会福祉法人の地域貢献の実態よりもその影響は大きく、これこそ社会福祉法人の役割、責務ではないのだろうか。

先に述べた島根県瑞穂町の実践のスローガンは「未来家族ネットワークの創造」であったが、それはもう民法上の血縁家族に頼っていたのでは「中山間地域」という地域での地域自立生活が維持できなくなってきており、地域に居住している人々が血縁を超えて“地域の未来家族”として生活をしていこうとする願いでもあった。

一人暮らし高齢者のみならず、地域生活している単身の精神障害者や知的障害者、非婚の男性、女性が増えることを考えると、これからは「少子高齢社会」もさることながら、「単身生活者の時代」になり、単身生活者の生活支援が深刻な課題になる。そこでは、血縁家族機能へ期待することは幻想である。家族が居なくても、家族に頼ることもなく、人生を全うできるように、日常生活自立支援のシステム、成年後見制度のシステム、入退院支援のシステム、死後の対応としての葬儀・遺骨の取り扱いも含めての支援等、本人の意思の確認と尊重を踏まえた“自立生活支援”のシステムを地域ごとに構築していかなければならない。まさに、「未来家族ネットワークの創造」である。ここでも従来の地域福祉実践の枠組みを再検討しなければならない。

今や、社会福祉の制度の枠に縛られた実践、制度を改善することのみに行きがちな“制度ビジネス”的な実践、研究を脱皮し、新たな視点での実践と研究が求められている。

とすれば、地域福祉実践も従来の枠を超えて、「福祉でまちづくり」の視点を大胆に取り入れ、かつその実践組織も社会福祉協議会や施設経営の社会福祉法人だけでなく、NPO法人、株式会社も含めた多様な組織体による起業化が行われ、そのプラットホームの上に地域自立生活支援が成り立つという新たな地域福祉の展開の時代として、研究枠組みも実践の方法も考え直さなければならない。

四国・こんぴら地域福祉実践セミナーで取り上げられた徳島県のNPO法人どりーまぁサービスの山口浩志さんは在宅のALS患者や重症心身障害児者への24時間ケアサービスを提供しているが、その根源には住民からの相談を断らないという哲学がある。その相談こそが“ビジネスチャンス”であるという発想で、それに柔軟に対応するために、かつその実践の社会的評価を得るために、社会福祉法人という経営形態ではなく、かつ株式会社という経営形態でなく、NPO法人という経営形態を選択したと言っている。

同じく徳島県美馬市木屋平地区のNPO法人こやだいらの実践、高知県津野町の学校跡地を利用した「集落福祉としての『森の巣箱』」の実践、人口減に伴う利用者減による経営困難でJAさえも撤退した山間地域でのガソリンの供給から日常生活の買い物支援、全世代交流支援型のサービス提供等の多機能型の地域づくりを展開している地域の生活支援の中核的組織である「あったかふれあいセンター『いちいの郷』」の実践などは、従来の狭い地域福祉実践の枠を超えた地域づくりそのものであり、血縁家族を超えた、地域での住民の自立生活を支援する実践である。

徳島県美馬市木屋平地区(合併前の旧木屋平村)のNPO法人こやだいらの実践は、筆者が“ベッドサイドから診察室まで、スーパーから冷蔵庫までの実践”と勝手に命名したが、人口710人の集落(高齢化率58%)での、世帯単位ではなく、個人単位の加入による「集落福祉のNPO法人版」である。標高1,955メートルの剣山の中腹(標高800メートル、地区の集落は標高200~800メートルに散在)で、一面の雲海を下に見ながら、蝉しぐれの中で、住民座談会を開催し、木屋平地区の集落福祉をどう進めるかを論議し、NPO法人格を取得して行うしかないといった論議をしたことが昨日のように思い起こされる。

これからの地域福祉実践には「福祉でまちづくり」をスローガンに、基礎自治体を基盤にしつつも、共同性と土着性が強い稲作農耕によって作られた、自然発生的に形成された地域、自治会を超えて、一定の生活圏域ごとにより分権化(市町村からの地域組織への第3の分権化、東京都地方分権推進委員会及び東京都社会福祉審議会で、委員として筆者が提唱)させた新たな地域組織に再編成し、そこで地域の多様な生活課題を解決する多機能型地域組織を構築し、活動を推進していくことが求められる。

それはある意味、住民一人ひとりが「選択的土着民」(静岡県掛川市元市長の榛村純一氏が提唱)となって、地域づくりに関わることであり、それはある意味、住民総参加の直接的民主主義という、地域を“コミューン”にすることである。そこに「限界集落」、「消滅市町村」問題を乗り越える一つの鍵がある。NPO法人こやだいらや「ふれあいあったかセンター『いちいの郷』」の実践はその萌芽とも言える。

Ⅲ 行政と住民の協働を触媒・媒介するコミュニティソーシャルワーク

イギリスのミヒャエル・ベイリイが提唱(1973年)した考えを基に地域福祉の考え方に関わる発展段階を整理すると① Care Out The Communityの時代、② Care In The Communityの時代、③ Care By The Communityの3つの発展の時期・時代がある。

筆者は、日本では1971年~1990年が①の時代で、1990年~2000年までが②の時代であり、2000年以降は③の時代に入り、社会福祉法制も社会福祉法への改称・改正で理念的にそれを求め、明確化したと述べてきた。地域におけるヴァルネラビリティの人々とその人々を排除しない地域のあり方を指摘した2000年12月の「社会的な援護を要する人々に対する社会福祉のあり方に関する検討会」の報告書が出された意味は大きい。

ところで、コミュニティソーシャルワークという用語とその考え方は、1982年のイギリスでの「バークレイ報告」で提唱されたものであるが、イギリスではその考え方が実践的に必ずしも成功したとは言えない。

筆者は、日本的にコミュニティソーシャルワークがそれなりに定着できる状況になってきている要件として、(イ)まがりなりにも日常生活圏域における自治会等の地域組織機能があること、(ロ)全国の市町村に、地域を基盤として活動している社会福祉協議会が組織されていること、(ハ)全国の市町村に23万5千人の民生・児童委員と約5万人の保護司が設置されていることが大きいと考えている。

コミュニティソーシャルワークという考え方は、上記の③の時代には不可欠な考え方である。施設サービスから脱却し、地域での自立生活を支援していくためには、行政の力だけでは遂行できず、地域住民の参加、協働が欠かせない。そのためには先に述べた地域住民の4つの地域福祉の主体形成が求められる。

行政と住民との協働を促進し、住民の主体性を高め、住民自身が地域の問題を発見し、その問題に対し差別・偏見を持たず、地域から排除することなく、地域で問題解決を図る活動を推進するためには、住民の活動を活性化、促進させる触媒機能が重要であり、かつ行政と住民との協働を安定的に媒介させる機能が重要であり、それこそコミュニティソーシャルワーク機能である。

ところで、地域自立生活を支援するコミュニティソーシャルワーク機能の日本的発展段階には5つの段階があったと筆者は考えている。

第1の段階は、1979年にいち早く高齢化が進展していた秋田県が県単独事業として政策化させた在宅相談員制度である。一人暮らし高齢者を孤立させず、地域で見守ろうという実践で、社会福祉協議会と民生委員との協働の下に展開された。

筆者は、その初年度の在宅相談員の研修に招聘、参加させて頂いた。秋田県男鹿観光ホテルで行われた研修会では、従来の血縁的、地縁的見守りを昇華・発展させ、社会化させたシステムとして展開しようとする試みに社会福祉の新たな息吹と地域福祉実践の必要性を改めて認識させられた機会であった。そのもっとも優れた実践の一つは秋田県西仙北町社会福祉協議会の佐藤春子さん(「地域福祉活動指導員養成課程」修了者)の取り組みで、「一人ぼっちの不幸も見逃さない」という映画になり、その後“黄色いハンカチ運動”等に繋がっていく。社会福祉協議会と小地域とが協働して住民の孤立やゴミ出し等のちょっとしたお手伝いを行う事業は現在でも全国で行われており、富山県のケアネット事業等も県単で行われている。

第2の段階は、1990年に「生活支援地域福祉事業(仮称)の基本的考え方について」(平成2年8月、生活支援事業研究会中間報告、厚生省社会局保護課所管)と題する報告書がだされてからである。

筆者自身が、コミュニティソーシャルワークにより関心を寄せ、その政策化に関わるのは、この研究会の座長を仰せつかってからであり、日本におけるコミュニティソーシャルワーク機能が政策的に、実践的に意識された年である。

この報告書に基づき、1990年度にモデル事業として展開され、その成果を踏まえて政策化されたのが1991年度より始まる「ふれあいのまちづくり事業」という大型補助金事業である。モデル事業は福祉事務所、保健所、市町村社会福祉協議会で展開されたが、最も報告書の考え方を踏まえ実践してくれたのは富山県氷見市社会福祉協議会の中尾晶美さん(中尾さんも「地域福祉活動指導員養成課程」の修了者で、のちに事務局長を勤める)である。筆者は、氷見市社会福祉協議会へ約35年間通い、「バッテリー型研究方法」を展開した。最後の頃は、氷見市行政アドバイザーも勤めての実践だったこともあり、「ふれあいのまちづくり事業」は市町村社会福祉協議会で実施されることになった(このモデル事業の評価委員長は宮城孝現法政大学教授が担ってくれた)。

これが、実質的な意味での日本におけるコミュニティソーシャルワーク実践の始まりと言える。

この事業では、今日大きな問題となっている潜在的福祉サービスを必要としている人の発見、しっかりしたアセスメントによるケアマネジメントに基づく援助方針の立案、専門多職種によるチームアプローチ等が提唱された。また、制度の谷間の問題、多問題家族、多重債務者、在住外国人、核家族・単身者の入院時支援、家庭内暴力の問題等への対応の必要性と重要性を指摘している。

しかしながら、この「ふれあいのまちづくり事業」でコミュニティソーシャルワーク機能の具現化が図れたとはいいがたいと筆者は考えている。この補助事業が多くの市町村社会福祉協議会を活性化させる契機にはなったと思うが、コミュニティソーシャルワーク実践の具現化と先に述べた「生活支援地域福祉事業(仮称)」の具体化という点では筆者は必ずしも成功したとは考えていない。

第3の段階は、1993年から日本社会事業大学の社会福祉学部福祉計画学科の地域福祉コースの所属教員が研究会(研究代表・大橋謙策)を立ち上げ、厚生省(当時)の老人保健健康増進等事業の助成を受けて全国のいくつかの市町村をフィールドにして「在宅福祉サービスにおける自己実現サービスの位置とコミュニティソーシャルワークに関する実践的研究」を始めてからである。その研究成果は毎年報告書として出されているが、それを基に大橋謙策他編『コミュニティソーシャルワークと自己実現サービス』(万葉舎、2000年)が上梓されているので参照されたい。

そのフィールド市町村の一つである岩手県湯田町(当時、現西和賀町)社会福祉協議会において、主任ホームヘルパーの菊池多美子さん(「地域福祉活動指導員養成課程」の修了者で、全社協の「社会福祉主事養成課程」の修了者でもある。また、第1回こんぴら地域福祉実践セミナーのシンポジストとしても登壇)が実践していた事例に触れ、その実践こそがコミュニティソーシャルワーク機能を具現化させている実践であり、コミュニティソーシャルワーク機能の具現化を全国的に展開できると勇気づけられた実践であった(菊池多美子著『福祉の鐘を鳴らすまち―「うんだなーヘルパー」奮戦記』万葉舎、1998年参照)。

その実践には、①アウトリーチも含めた問題発見、②フォーマルケアとインフォーマルケアとを有機化させて提供、③個別対応型支援ネットワーク会議の開催、④伴走型のソーシャルワーク、⑤ニーズ対応型サービス開発、⑥社会福祉協議会独自の新しい財源創出等の機能を濃淡含めて実践していた。その考え方に学び、実践を体系化すると同時に、新たな理論仮説を提起し実践もして頂いた。この実践に関わることにより、筆者はコミュニティソーシャルワーク機能の実践ができると確信がもてた。

ただ、その実践は必ずしも意図的な、自らの仮説をもって、検証し、見直すというPDCAサイクルの実践でなかったこと、組織的には容認され、実践されていたが必ずしも社会福祉協議会の計画的、組織的位置づけの下に行われていなかったこと、かつその実践はすぐれて個人的であり、システムとして構築されていたわけでなかったこと等の課題があった。

その後、これら湯田町の実践における課題を解決するためにはコミュニティソーシャルワークを展開できるシステムづくりが必要であると考え、それには市町村地域福祉計画の策定との関わりが不可欠との認識をより強めさせることになった。

筆者は1970年代から市町村の地域福祉計画の必要性を論文で書いてきたし、先に述べた「ボランィア活動の性格と構造」のなかでも(地域)福祉計画の必要性を述べている。また、全社協が設置した「地域福祉計画研究委員会」にも委員として参加し、その委員会の報告書として1984年に上梓されている『地域福祉計画――理論と方法』(全社協)にも執筆している。筆者は、この研究会の論議を踏まえ、1985年に「地域福祉計画のパラダイム」という論文(『地域福祉研究』№.13所収、日本生命済生会福祉事業部刊)を書いているので参照されたい。

(註) 地域福祉計画策定委員長として1988年から取り組み、1990年に制定した東京都狛江市「あいとぴあ推進計画」(大橋謙策著『地域福祉計画策定の視点と実践』第一法規、1996年参照)や東京都目黒区が1990年から取り組んだ「目黒区地域福祉計画(福祉事務所と保健所を合体させ、人口26万人の区内を5地区に分け、その各々に保健福祉サービス事務所を設置)、あるいは同じく1990年から取り組んだ「遠野市ハートフルプラン」(大橋謙策他編『21世紀型トータルケアシステムの創造』万葉舎、2002年参照)等の計画策定の実践を行ってきた。
あるいは東京都児童福祉審議会(専門部会長・大橋謙策)において、筆者が委員長としてまとめた1990年の東京都東大和市の地域福祉計画で構想したものを、東京都児童福祉審議会専門部会に部会長である筆者が提案し、具現化して1994年から創設された「子ども家庭支援センター」(センターに保健師、社会福祉士、保育士を配置し、各区市町村に設置、現在58か所)等の政策提言及びその具現化の政策化及び実践がある。

これら一連の地域福祉計画において政策提言したことと、先のコミュニティソーシャルワークの実践課題の解決とを結び付けて提案し、システム化させたのが2000年4月から始まった長野県茅野市の保健福祉サービスセンターの実践である。

コミュニティソーシャルワークの発展の第4段階は、地域包括ケアシステムとコミュニティソーシャルワークとの連携がシステムとして確立できた長野県茅野市の保健福祉サービスセンターのシステムであり、実践である(筆者は1998年から15年間茅野市福祉行政アドバイザーを担当)。

この時期は、厚生労働省も未だ地域包括ケアとか、地域包括ケアシステムという用語は使っていないし、政策化させていない時期であった。筆者は、1990年の岩手県遠野市の地域福祉計画づくりから「地域トータルケアシステム」という用語を使用してきた。

長野県茅野市は、地域トータルケアシステムの拠点としての保健福祉サービスセンターを市内4か所に設置(当時人口5万7千人、中学校区9)し、市役所内にいた福祉事務所の職員、保健課の保健師を再編成して配属した。それに加えて市社会福祉協議会の職員も配属して、子ども、障害者、高齢者の全世代に対応するワンストップサービスを展開することにした。

基本的には、行政職員(ソーシャルワーカー)、保健師、社会福祉協議会職員(ソーシャルワーカー)が3人1組でチームアプローチをすることにした。それは、フォーマルサービスとインフォーマルサービスとを有機化させることとアウトリーチ型のニーズキャッチをやりやすくさせるためであった。ある年の社会福祉協議会の職員は年間280日も地域へ出張り、住民の相談とニーズキャッチに努めた。社会福祉協議会のソーシャルワーカーを配属したのは地域住民の福祉教育の促進や住民のインフォーマルケア力の向上と活用の促進を図るためでもあった。

その保健福祉サービスセンターでは、フォーマルな制度、サービスのコーディネート、家族、地域の支え合い及び新たな意図的なソーシャルサポートネットワークの構築とコーディネート、更には福祉サービスを必要としている人を発見、あるいは新たに必要な福祉サービスの開発等の機能を総合的、統合的に展開できるシステムとして構想された。

しかも、そのシステムは地域の各機関の機関長レベルの連絡調整ではなく、個別具体的な問題を個々に解決するためのチームアプローチを行う個別対応型支援ネットワーク会議を開催し、具体的支援をリードする拠点システムとしても構想された。

また、茅野市保健福祉サービスセンターには、内科クリニック、訪問看護、高齢者デイサービス、訪問介護、地域交流センターを併設し、更には、システムとして内科クリニックと諏訪中央病院との病診連携、「かかりつけ医」制度の促進を図ることなども組み込んだ(大橋謙策他編『福祉21ビーナスプランの挑戦』中央法規出版、2003年参照)。

長野県茅野市の計画、実践において、筆者は保健、医療、福祉の連携のみならず、社会教育との連携を意識して取り組んだ。地域福祉計画づくりに社会教育との連携を意識的に組み込むのは、1990年の遠野市の計画づくりからである。

なぜ、社会教育との連携を意識化したかというと、福祉サービスを必要としている人を発見し、支えていく上で、地域住民の力はプラスに働く場合もあれば、ややもするとそれらの人々への偏見、蔑視が働き、排除の動きにもなる恐れがあるので、地域住民のこれらの問題への関心の醸成と理解の深化を図ること及び住民自身が福祉サービスを必要としている人の支援者になることへの変容が求められるので、そのためにも筆者は一貫して地域福祉実践には福祉教育が不可欠であると述べてきたし、その一翼を社会教育が担うべきであると考えてきたからである。

更には、「福祉でまちづくり」の考え方を実現していくためには、住民の問題発見・問題解決型の共同学習が必要不可欠であると考えたからでもある。

まさに、地域包括ケアの構築には住民の学習を推進する社会教育行政との連携が必要と考えたからに他ならない。

この茅野市の実践事例は、その後、静岡県富士宮市、掛川市、千葉県鴨川市等へ波及していく。

茅野市のシステムと実践は、2006年に制度化された介護保険制度の地域包括支援センターのシステムとしてのモデルであり、かつコミュニティソーシャルワーク実践を展開できるシステムのモデルでもあった。

2016年7月からは、東京都世田谷区(人口91万人)の27地区に設置されている地域包括支援センター(あんしんすこやかセンター)で、子ども、障害者、高齢者の全世代支援型のワンストップサービスが始まっており、その地区ごとにコミュニティソーシャルワーク機能を担う社会福祉協議会の職員が1.5人ずつ配属されて活動している。

筆者が、この間、手がけてきた地域福祉実践の考え方が国の政策のあり方に最も反映されたものとして、2008年に発表された『地域における「新たな支え合い」を求めて――住民と行政の協働による新しい福祉』がある。この厚生労働省の研究会の座長を勤めさせて頂いたが、筆者が研究し、地方自治体で実践的に制度化、政策化させた考え方がほぼ反映されたと思っている。

しかも、その考え方は、2009年から始まる「安心生活創造事業」というモデル事業の創設により実証的に検証されることになる。そのモデル事業の市町村に指定された中に香川県琴平町があるし、筆者がアドバイザーとしてシステムづくりに関与している千葉県鴨川市も含まれている。

これらの地域福祉実践の積み重ねが、理論的にも、実践的にも可能性があるという判断がなされたのであろう、2015年9月に発表された厚生労働省の「新しい福祉提供ビジョン」にこれらの考え方が政策的に引き継がれていく。

コミュニティソーシャルワークの第5段階は、この「新しい福祉提供ビジョン」をどう具現化させるかという時代である。

その理念をより強固に具現化させるべく、2016年7月に「我が事・丸ごと地域共生社会」実現本部が設置された。

そこで求められる実践課題を筆者なりに改めて整理すると、①筆者のいう4つの地域福祉の主体形成と福祉教育の課題、②「福祉でまちづくり」を推進する上で必要なニーズ対応型サービスの開発というソーシャルワーク機能を発揮できる職員の養成とそれを展開できるシステムづくりの課題、③行政と住民の協働を触媒・媒介させるコミュニティソーシャルワーク機能とそれを展開できるシステムの課題がある。

ところで、これらのことを具体的に実施できるシステムの運営のあり方とその市町村毎のアドミニストレーションはどうあったらいいのか等は研究的にも、実践的にも未だ緒に就いたばかりであり、地域福祉研究的にはほとんど皆無の状況である。

ましてや、これらの活動の担い手をどう養成し、配属できるのか十分な展望を持てていない。筆者が理事長をしているNPO法人日本地域福祉研究所は、全国の県、市、県社会福祉協議会、市町村社会福祉協議会等と協働して、多数のコミュニティソーシャルワークの研修の機会を担ってきているが、果たしてその研修内容や方法も今のままでいいのか、かつての「地域福祉活動指導員養成課程」のようなe-ラーニングも含めたより体系的養成課程を行う方がいいのか、かつ全国の市町村においてコミュニティソーシャルワークの養成・研修を実施することへの対応の展望は見えていない。

イギリスでは、大きな制度改革が行われるときには、必ずといっていいほどその制度改革を担う人材の養成のあり方を連動させて取り組んできた。日本では、制度は制度、人材養成は別か、あるいは制度に必要な人材を制度ごとの研修で養成するという立ち位置で行われてきた。そろそろ、ソーシャルワーク機能、とりわけコミュニティソーシャルワーク機能を発揮できる人材の養成を抜本的に考える必要があるのではないか。今の社会福祉士の養成課程がこれから求められるソーシャルワーク機能を発揮できる人材の養成として相応しいとは必ずしも筆者には思えない。

それらのことも含めて、「我が事・丸ごと地域共生社会」の実現にはいろいろ難しさがある、そうであればあるほど、改めて、今求められているコミュニティソーシャルワーク機能とはを整理、確認しておきたい。それが常に意識されていないと、福祉サービスを必要としている人を発見し、その人々が抱える問題を“我が事”のように理解、共感し、その問題を行政と住民が協働して地域を挙げて解決することはできない。

そして、それを推進しようとすればするほど、行政と住民の協働を触媒・媒介するコミュニティソーシャルワーク機能が求められることを意識化しなければならないからである。

改めて、今求められているコミュニティソーシャルワーク機能とは、を整理、確認すると、①地域に顕在的、潜在的に存在する生活上のニーズ(生活のしづらさ、困難)を把握(キャッチ)すること、②それら生活上の課題を抱えている人や家族との間にラポール(信頼関係)を築くこと、③時には、信頼、契約に基づき対面式(ファイス・ツー・フェイス)によるカウンセリング的対応も行う必要があること、④その人や家族の悩み、苦しみ、人生の見通し、希望等の個人的要因を大切にしつつ、それらの人々が抱えている問題がそれらの人々の生活環境、社会環境との関わりの中で、どこに問題があるのかという地域自立生活上必要な環境的要因に関しても分析、評価(アセスメント)すること、⑤その上で、それらの問題解決に関する方針と解決に必要な方策(ケアプラン)を本人の求め、希望と専門職が支援上必要と考える判断とを踏まえ、両者の合意の下で策定すること、⑥その際には、制度化されたフォーマルケアを有効に活用すること、⑦そのうえで、足りないサービスについてはインフォーマルケアを活用したり、新しくサービスを開発するなど創意工夫して問題解決を図ること、⑧問題解決には多様な関係者の個別対応型支援ネットワーク会議を開催したり、必要なサービスを統合的に提供するケアマネジメントの方法を手段とする個別援助過程を基本的に重視しなければならないこと、⑨と同時に、その個別援助を支える地域を構築するために、個別対応型の必要なインフォーマルケア、ソーシャルサポートネットワークの開発とコーディネートを行うこと、⑩地域での個別支援を可能ならしめる地域づくりに関する“ともに生きる”精神的環境醸成、ケアリングコミュニティづくりを行うこと、⑪個別生活支援の外在的要因である生活環境・住宅環境の整備等も行うことを同時並行的に、総合的に展開、推進していく活動、機能である。

これらのコミュニティソーシャルワーク機能が十分意識化されない皮相的な取り組みで「我が事・丸ごと地域共生社会」という政策が展開されることに、行政も社会福祉関係者も、住民も十分留意しなければならない。したがって、市町村においてコミュニティソーシャルワークを展開できるシステムがない中で、安易に、コミュニティソーシャルワーカーという名称だけが一人歩きすることには気を付けなければならない。

おわりに

四国・こんぴら地域福祉実践セミナーは20回続いているが、それは他の実践セミナー(日本地域福祉研究所主催の全国地域福祉実践研究セミナーが22回、房総地域福祉実践セミナーが14回、沖縄かりゆし地域福祉実践セミナーが8回等)と同様に、“継続こそが力なり”と思い、続けることを意識して、かつ参加してきた。この20回に亘る四国・こんぴら地域福祉実践セミナーのすべてに参加しているのは、筆者と越智和子さんだけであろうか。

ところで、このセミナーは原則的に県行政や県社協の力に頼らずに、開催地を中心に自分たちで実行委員会を作り運営してきた。また、このセミナーは県庁所在地ではなく、「限界集落」と呼ばれる中山間地で行うことを原則としてきた。それは、「草の根の地域福祉実践」を豊かにしたいという思いからであった。県庁所在地での開催は第17回セミナーの愛媛県松山市が初めてである。このような考え方も四国・こんぴら地域福祉実践セミナーの特色の一つである。

高知県の足摺岬のある土佐清水市でのセミナーに539名が四国4県から集まり、討議をした光景には、正直鳥肌が立つ程の感動と感銘を覚えた。この土佐清水市のセミナーに参加して、中央集権的機関委任事務体質、行政依存的体質が大きく変わりつつあることを確信できた。

しかも、この四国・こんぴら地域福祉実践セミナーは、「地域福祉俳句会」は固より、ジャズを聴きながらの交流、あるいは徳島の阿波踊り、高知の「よさこい」踊りの体験等地域文化の野趣〈やしゅ、素朴な味わい〉に富んでおり、参加していてとても楽しい「集い」である。

本稿は「地域福祉の真髄」と題して3つの点に絞って述べてきたが、これ以外でもニーズキャッチの方法、福祉教育を実践する上での資料の作り方、市町村の地域福祉計画づくりの方法、コミュニティソーシャルワークを展開できるアドミニストレーションのあり方等も検討しなければ地域福祉実践は推進できないであろう。しかしながら、それらについては紙幅の関係もあり、後日に委ねたい。

また、四国・こんぴら地域福祉実践セミナーの実践の中でも高知市の「こうちこどもファンド」の取り組みや香川県の「香川おもいやりネットワーク事業」(施設経営の社会福祉法人と市町村社会福祉協議会と民生・児童委員との3者がコラボレーションしての生活のしづらさ、生活の困窮者を地域で支える活動)、あるいは本資料には都合により収録できなかったが、愛媛県愛南町のNPO法人なんぐん市場が取り組んでいる、精神障害者の退院支援と地域定着、地域自立生活支援の取り組みの実践、更には想定される南海トラフ地震への対策も考えた災害時支援のソーシャルワーク実践のあり方等これからの地域福祉実践を考える上で大きな示唆を与えてくれる実践についても考察を深めなければならないし、かつそれに関わってこれからの地域福祉研究上の意義、あり方についても論述しなければならないが、これも後日に委ねたい。

最後になりましたが、20年間、四国・こんぴら地域福祉実践セミナーの開催にご尽力してくれた日開野博さん(「地域福祉活動指導員養成課程」修了者)、越智和子さん、白方雅博さん(「地域福祉活動指導員養成課程」修了者)、島崎義弘さん、佐和良佳さん、市川千香さん(「地域福祉活動指導員養成課程」修了者)、日下直和(「地域福祉活動指導員養成課程」修了者)さんをはじめ、お一人、お一人のお名前を挙げられないが、四国4県の市町村社会福祉協議会及び県社会福祉協議会の職員の方々、そして日夜、地域福祉実践に傾注されている方々、更には聖カタリナ大学、高知県立大学、松山大学、高知大学、四国学院大学の先生方等本当に多くの人々に支えられ、このセミナーが継続実施されてきたことにこの誌上を借りて改めて厚く御礼を申し上げるとともに、心より感謝を申し上げる次第である。

付記
本稿は2017年6月3~4日に、愛媛県松山市の松山大学で行われた日本地域福祉学会において、地元四国4県の地域福祉実践の発表の一環として編集刊行された『「地域福祉の遍路道」四国・こんぴら地域福祉セミナー資料集』に寄稿したものに一部加筆したものである。

謝辞
本稿は、一般財団法人社会福祉研究所『所報』第93号、2018年3月、1~17ページ所収の大橋謙策先生の玉稿です(一部削除・修正)。転載許可を賜りました大橋先生と社会福祉研究所に衷心より厚くお礼申し上げます。/市民福祉教育研究所

 

補遺
(1)社会福祉協議会は  “ 自己満足 ”、“ 唯我独尊 ”、“ 視野狭窄 ”  で生き残れるか?

新年に頂いた年賀状の中に、東京都の福祉局の職員として勤め、定年後に地区社会福祉協議会に関わり、草の根の地域福祉実践をしている方から、“社会福祉協議会は旧態依然で、改革する意欲がない”という嘆きの言葉が書かれた年賀状を頂きました。

私は厚生労働省が進めている地域共生社会政策の具現化には、社会福祉協議会が改革され、住民のニーズに対応する活動を展開できなければ、その具現化は難しいと思っていますし、かつ社会福祉協議会は生き残れないと思っています。

地域共生社会政策における重層的支援体制整備事業は、包括的相談と福祉サービスを必要としている人の社会参加支援とそれを可能ならしめる地域づくりの3つの事業を三位一体として展開して欲しいとしています。

これを行うためには、市町村における第2層の専門多機関、専門多職種の連携と第3層の小学校区レベルでの住民参加、住民のボランティア活動の活性化が不可欠ですし、とりわけ第2層の機能と第3層の機能をつなげ、コーディネートする力が必要です。この第2層と第3層との有機化ができないと、また“新たな縦割り”を産みかねません。

これらの事業・活動を展開する組織として、最もふさわしい組織は市町村社会福祉協議会ではないかと私は思っています。

私の地域福祉実践、研究、教育は全国の社会福祉協議会とバッテリーを組むことにより展開され、体系化できました。言わば、私は社会福祉協議会によって“地域福祉研究者”に育てられたと思っていますので、身びいきすぎるかも知れませんが、上記の機能を考えたたら社会福祉協議会しかないと思っています。

1980年代から社会福祉協議会は小学校区レベルで地区社会福祉協議会づくりを推進してきました。その過程で、自治会組織や民生委員・児童委員とも深い関係を築いてきました。

1990年代には、住民に信頼される組織になるためには、住民のニーズに応える具体的サービスを展開し、そのサービス提供過程において、新たな住民のニーズを把握しようという「事業型社協」の考え方を打ち出しました。

また、1991年からは潜在化しているニーズを発見し、専門多機関でのチームアプローチによる支援を行う「ふれあいのまちづくり事業」を展開してきました。

このような経緯を考えれば、地域共生社会政策の具現化、重層的支援体制整備事業は社会福祉協議会がその中軸になって活動して“当たり前”だと私は思うのです。

しかしながら、冒頭に述べたように、社会福祉協議会は未だ1980年代までの“旧態依然”の活動、組織になっています。これで、社会福祉協議会はいつまでも行政からの補助金を貰えるのでしょうか。

全国各地の地方自治体では、9月の決算議会で社会福祉協議会への補助金の費用対効果が問われ、補助金の見直しの論議が各地の自治体で論議されています。あるいは、行政の監査委員会から社会福祉協議会への補助金の見直しの勧告もされています。行政の保健福祉部局が社会福祉協議会への理解を示してくれても、財政部局が理解せず、補助金カットの厳しい査定が続いています。社会福祉協議会が有している「基金」を全て遣い切ってから、改めて補助金の支出の論議を余儀なくされているところもあります。地方自治体の「指定管理制度」に伴う入札において、従来使用していた事務所がある社会福祉センターの管理運営に関わる指定管理で、社会福祉協議会が落札できず、他の業者に事務所代の賃料を払って入居している社会福祉協議会もあります。その場合の事務所賃貸料の補助金は行政から出ません。

このような状況下で、社会福祉協議会の経営のあり方は現在とても厳しい状況にあり、早く“眼を覚ます”必要があると思っています。

私自身、昨年だけでも岩手県、秋田県、福島県、香川県等の社会福祉協議会の経営問題に関する会議・研修に招聘され、上記のような状況と課題を提起し、コンサルテーションを行ってきました。

社会福祉協議会を取り巻くこのような状況を改革するためには、地域共生社会政策における重層的支援体制整備事業を受託し、第2層の地域包括支援センターの運営を軸にした専門多機関協働と第3層の小学校区の地区社協における住民参加、ボランティア活動とを有機化させる活動に取り組むしか“生き残る道はない”と考えています。

そのためには、従来の社会福祉協議会の事務局体制を改編し、地区社会福祉協議会ごとの「地区担当制」を導入し、その地区において福祉サービスを必要としている人の“発見”と個別支援に関する包括的総合相談を行い、かつその福祉サービスを必要としている人の社会参加に関する問題解決プログラムを開発・提供すること、更にはそれらの活動を住民が支え、ボランティア活動として協力するとともに、福祉サービスを必要とする人々を地域から排除することなく、蔑視をすることなく、共に生きていける地域づくり、福祉教育の推進を統合的に展開できる事務局体制に再編するしか“生き残れる道はない”と思っています。

そのためには、社会福祉協議会職員、総務部門の職員も、生活福祉資金や権利擁護部門の職員も、施設・団体支援部門の職員も含めてコミュニティソーシャルワーク機能の研修を受講し、その資質向上を図るしかありません。

厚生労働省の2015年の「新たな福祉提供ビジョン」(この報告書が地域共生社会政策の起点になる)の中で述べているように、“個別支援を通じて地域を変えていく”過程が重要なのです。

その点、テーマ型NPO法人は、福祉サービスを必要としている人の個別課題分野ごとに特化した活動を展開していますので、“個別問題”に強い“印象”を創り出していますし、事実、個別課題分野ごとに大きな成果を挙げて評価されています。

また、それらのNPO法人は今日のインターネット社会の機能をよく活用し、全国的に組織化を図り、個別課題分野における“発言力”(政治的にも、行政の信頼度においても、行政からの補助金獲得においても、クラウドファンディングにおいても)を高めています。

正直なところ、この間の内閣府等の政府の福祉サービスを必要としている人の個別課題分野ごとに取り組むNPO法人への評価は高く、政府の審議会での発言力や報告書における位置づけも高いものがあります。

それに比して、社会福祉協議会への評価、位置づけは“相対的に地盤沈下”していると思います。福祉サービスを必要としている人の個別分野の取り組みが全体的に増加しているので、その個別課題に取り組む団体・組織が増えることはいいことであり、その結果、社会福祉協議会が“相対的に地盤沈下”するのも当然でやむを得ないと考えるべきなのでしょうか。

私は、社会福祉協議会の位置は“相対的に地盤沈下”しているのではなく、“絶対的に地盤沈下”していると考えています。つまり、住民のニーズに対応しないで、相変わらず“旧態依然”の活動に終始し、“自己満足”、“唯我独尊”、“視野狭窄”に陥っているのではないでしょうか。

これらの課題は一朝一夕には解決できないと思いますが、せめてNPO法人と社会福祉協議会との“彼我の位置関係”を確認するためにも、各都道府県、各市町村で取り組み始めて貰っている「社会福祉関係資料集」の中に、これら「福祉サービスを必要としている人の個別支援をしているNPO法人」と「福祉サービスを必要としている当事者組織・団体」の把握を行い、収録することが必要ではないかと思っています。

私は、富山県社会福祉協議会のコミュニティソーシャルワーク研修において、『社会福祉関係資料集』の作成の必要性を説き、富山県福祉カレッジと協働して立派なものを作成してもらいました。この実践の取り組みは、現在では千葉県、岩手県、香川県、佐賀県の社会福祉協議会に普及しています。

地域共生社会政策では、社会福祉法の改正で地域福祉計画等を作成する際に、「地域生活課題」を明確に把握することを求めています。私は、この改正が行われる前から、住民のニーズに関わる「地域福祉・地域包括ケアに関わる基本情報」を市町村ごとに、かつ地域包括支援センター圏域毎に作ることの必要性と重要性を指摘してきました。

上記の『社会福祉関係資料集』は、これらの国の動向を踏まえても必要な取り組みです。富山県では、コミュニティソーシャルワークの研修の時のみならず、いろいろな研修の機会に活用しています。

せめて、これらの『社会福祉関係資料集』の中で、全国の、各都道府県の、各市町村で活動している「福祉サービスを必要としている人への個別支援をしているNPO法人」と「福祉サービスを必要としている人々の当事者団体・組織」の一覧を収録することにより、“彼我の位置関係”を認識し、社会福祉協議会が陥っている“自己満足”、“唯我独尊”、“視野狭窄”に気付き、改革する契機になればと思っています。

そして、社会福祉協議会がそれらの組織、団体の参加の基にプラットホームを創り、その“中核的組織”として社会福祉協議会が活動を行い、社会的評価を高められればと祈念しています。

――「老爺心お節介情報」第38号/2023年1月2日(一部削除・修正)

 

(2)「バッテリー型研究」と「関係人口」

私は地域福祉研究の「研究方法」について長らく悩んできました。とりわけ、外部の人間として地域に入るのですから、“地域”との関わり方については悩んできました。

研究者として、“上から目線”で地域に入り、“教えてあげる”という“臭い”をさせながら、“地域を引っ搔き回し”、その成果をあたかも自分の“手柄”のように披歴する研究者に1970年代から辟易してきました

私自身はそれについては相当気を付けてきたつもりではありますが、住民の皆さんからみたら、同じような指摘を受けるのかも知れません。

また、住民の意識、関係等の大量的リサーチを行うのが地域福祉研究なのかとも思ってきました。

その地域福祉の「研究方法」については『地域福祉とは何か―哲学・理念・システムとコミュニティソーシャルワーク』で述べたつもりです。一言で言えば、実践家と研究者が野球の投手、捕手のようにバッテリーを組んで、協働実践を行う「バッテリー型研究」が重要だと考えてきました。

そのことに関し、阪野貢先生が「関係人口」に関わらせて説明しているので参照して頂きたい。その一部を以下に抜粋しておきます。是非、阪野貢先生のブログ(「市民福祉教育研究所」<まちづくりと市民福祉教育>(63)2022年1月21日)を読んで下さい。

阪野 貢/追補:「関係人口」と「よそ者」―田中輝美の論考と大橋謙策の実践研究―
〇筆者(阪野)の手もとに、田中輝美(ローカルジャーナリスト、島根県立大学)の『関係人口の社会学―人口減少時代の地域再生―』(大阪大学出版会、2021年4月。以下[1])がある。
〇「関係人口」という用語は、高橋博之と指出一正の二人のメディア関係者が2016年に初めて言及したものである。「関係人口」とは、高橋にあっては「交流人口と定住人口の間に眠るもの」、指出にあっては「地域に関わってくれる人口」をいう。その後、田中輝美は「地域に多様に関わる人々=仲間」(2017年)、総務省は「長期的な『定住人口』でも短期的な『交流人口』でもない、地域や地域の人々と多様に関わる者」(2018年)、農業経済学者である小田切徳美(明治大学)は「地方部に関心を持ち、関与する都市部に住む人々」(2018年)、河井孝仁(東海大学)は「地域に関わろうとする、ある一定以上の意欲を持ち、地域に生きる人々の持続的な幸せに資する存在」(2020年)としてそれぞれ、「関係人口論」を展開する(73~75ページ)。
〇田中は[1]で、こうした抽象的・多義的で、農村論や過疎地域論に偏りがちな(都市部における関係人口を切り捨ててしまう)関係人口論に問題を投げかけ、関係人口について社会学的な視点から学術的な概念規定を試みる。関係人口とは「特定の地域に継続的に関心を持ち、関わるよそ者」(77ページ)である、というのがその定義である。この定義づけで田中は、関係人口を、移住した「定住人口」でも観光に来た「交流人口」でもなく、新たな地域外の主体、別言すれば「一方通行ではなく、自身の関心と地域課題の解決が両立する関係を目指す『新しいよそ者』」(69ページ)として捉える。その際、地域とどのように関わるかについて、関係人口の空間(「よそ者」)とともに、時間(「継続的」)と態度(「関心」)に注目する。(中略)
〇ここで筆者は、「福祉でまちづくり」の「スーパースター」(田中輝美の言葉)的な「関係人口」や地域づくりの専門家(「実践的研究者」)といえる大橋謙策(日本地域福祉研究所)の「バッテリー型研究方法」を思い出す。大橋のそれについては、本ブログの<まちづくりと市民福祉教育>(27)大橋謙策「地域福祉実践の神髄―福祉教育・ニーズ対応型福祉サービスの開発・コミュニティソーシャルワーク―」(2018年4月4日投稿)を参照されたい。
〇大橋は、全国各地の地域福祉(活動)計画の策定や地域福祉の研修会・セミナーなどに関わるが、その際の視点や姿勢はおよそ次のようなものである。

(1) 地域による実践の理論化・体系化と関係人口としての理論仮説の提起と検証(バッテリー型研究方法)を行う。
(2) 地域と長期間にわたって関わり、特定あるいは総合的・統合的な事業・活動への支援を継続的に行う。
(3) 地域による実践活動の活性化と、地域と行政や関係機関との協働を成立させるコミュニティソーシャルワーク機能(触媒・媒介機能)の展開、そのためのシステムの整備を支援する。
(4) 多種多様な、あるいは潜在的な地域課題の解決に向けた専門多職種によるチームアプローチの必要性や重要性を提唱し、その実現を図る。
(5) 地域との相互作用や相互学習の過程を通して、地域内外との交流や福祉等関係者(実践者)の組織化を促す。
(6) 地域による実践のプロセスとその結果の客観化・一般化や実践仮説の検証を図るために、著作物の刊行や地域によるそれを支援する。
(7) 地域による問題発見・問題解決型の共同学習(福祉教育)を徹底的に行い、地域(地域住民や専門家等)の社会福祉意識の変容・向上を図る。
(8) 地域との共同実践を通して地元自治体における福祉サービスの整備や、全国の地方自治体や国への政策提言を行い、その具現化の制度化・政策化を促す、

などがそれである。これらを総じていえば、地域による「草の根の地域福祉実践」を豊かなものにするために「継続は力なり」の意志を体して、理論と実践を往還・融合する探究的な「実践的研究」に取り組み、「福祉教育・ニーズ対応型福祉サービスの開発・コミュニティソーシャルワーク」を追究する、ここに大橋の「関係人口」としての具体的・実践的な視点や姿勢を見出すことができる。しかもそれらは、地域づくりや地域再生に「関係人口」が果たすべき役割や機能のひとつのモデルとして整理されよう。
〇なお、上記の(6)に関する文献に例えば次のようなものがある。紹介しておきたい。表記した地名は大橋が関わった地域である(それはそのほんの一部に過ぎない)。

・東京都狛江市/大橋謙策編著『地域福祉計画策定の視点と実践―狛江市・あいとぴあへの挑戦―』第一法規出版、1996年9月。
・富山県氷見市/大橋謙策監修、日本地域福祉研究所編『地域福祉実践の課題と展開』東洋堂企画出版社、1997年9月。
・岩手県湯田町(現・西和賀町)/菊池多美子著/『福祉の鐘を鳴らすまち―「うんだなーヘルパー」奮戦記―』東洋堂企画出版社、1998年9月。
・富山県富山市/大橋謙策・林渓子共著『福祉のこころが輝く日―学校教育の変革と21世紀を担う子どもの発達―』東洋堂企画出版社、1999年1月。
・山口県宇部市/宇部市教育委員会編『いきがい発見のまち―宇部市の生涯学習推進構想―』東洋堂企画出版、1999年6月。
・島根県瑞穂町(現・邑南町)/大橋謙策監修、澤田隆之・日高政恵共著『安らぎの田舎(さと)への道標(みちしるべ)―島根県瑞穂町 未来家族ネットワークの創造―』万葉舎、2000年8月。
・岩手県遠野市/日本地域福祉研究所監修、大橋謙策・ほか編『21世紀型トータルケアシステムの創造 ―遠野ハートフルプランの展開―』万葉舎、 2002年9月。
・長野県茅野市/土橋善蔵・鎌田實・大橋謙策編集代表『福祉21ビーナスプランの挑戦―パートナーシップのまちづくりと茅野市地域福祉計画―』中央法規出版、2003年2月。
・香川県琴平町/越智和子著『地域で「最期」まで支える―琴平社協の覚悟―』全国社会福祉協議会、2019年7月。

――「老爺心お節介情報」第33号/2022年2月22日(一部削除・修正)

 

(3)地域福祉研究者の「バッテリー型研究」

私は、1960年代、東京都三鷹市で中卒青年等を対象とした青年学級の講師を約10年間担当した。その際に、青年たちから投げかけられた言葉はいまでも忘れられないし、忘れてはいけないと“自虐”的と思えるほど意識して研究者生活をしてきた。

その言葉は“あなたたちが大学院に進み、研究できているのは我々の税金があるからではないのか。我々は、勉強したくても家が貧困で高校へも行けなかったし、大学へも行けなかった。だから、この青年学級で学んでいる。あなた方の奨学金も我々の税金で賄われているのではないのか。そいうことを考えてあなたは生活し、研究しているのかという”問い掛けであった。

当時は、東大紛争もあったりして、このような言葉がだされたのだと思うが、この言葉は自分にとって大変身に堪えた。そうでなくても、日本社会事業大学を進路として選択する際に、そのような考えを自分でしていたものの、直接、面と向かって、このような言葉を投げ掛けられると身に堪えた。それ以来、ディレッタンティズム(もの好き)で研究するのではなく、社会に貢献できる研究者になろうと誓った研究生活であった。

そんなこともあり、私は講演や研修を依頼されると、常に参加者にどのような“お土産”を持って帰ってもらうのか、参加してよかったと思える“成果”をどう提供できるのかを考えてきた。

また、講演や研修等の頂いた機会にその地域、その組織、その自治体から何を自分が学ぶかということを常に考えてきた。それは自分自身の学びであると同時に、参加者への“お土産”の素材を掴むことにもつながっていた。

その際の私の姿勢として、自分が学んだことや自分が知っている情報を“分かち与える”という、ややもすると“上から目線”になりがちな“教える”ということではなく、参加者がこれから考える糸口、課題を整理し、学びへの関心、興味を引き出せるような契機になればということを常に意識してきた。それは、言葉で優しく言うとか、言葉で励ますとかいうことではなく、参加者が主体的に考え、行動に移したいと思えるような問題の整理と課題の提起を志すことであった。

一方、私は1985年1月に『高齢化社会と教育』を室俊二先生と共編著で上梓した。それに収録された論文の中で、生涯教育、リカレント教育、有給教育制度等に触れながら、これからは高学歴社会と高度情報化社会が到来し、従来のような知識“分与”的、情報伝達的教育や研修は変わらざるをえないことを指摘した。

今、文部科学省はアクティブラーニングの必要性をしきりに強調しているが、それはかつて社会教育が青年団を中心に提唱してきた「問題発見・問題解決型協働学習」で言われてきたことと同じである。

このような状況のなかで、地域福祉研究者は、気軽に“地域づくり”、“地域共生社会”づくりというが、どのような立ち位置で研究し、どのような立ち位置で講演や研修に臨んでいるのであろうか。

他方、私は地域福祉実践をしている現場の方々と“バッテリーを組んで”、その地域、その自治体、その社会福祉協議会をフィールドにして研を行ってきた。そして、その研究は一時的なものではなく、長期に亘り、継続的に関わることによって行われるべきものだと考えてきた。

地域に住んでいる住民は、移転、移住しようにも、先祖伝来の土地、「家」のしがらみの中で生きており、気軽に移動できない状況を十分理解しないままに、外部から入り、外部の目線で“気軽に”地域づくりを言い、短期で関わりを切ってしまう研究方法は、あたかも住民の方々を弄ぶかのように思えていたからである。

私は、1970年に現在の東京都稲城市に移住し、地域活動を始めたが、それ以降、よほどのことが無い限り、この稲城市を離れることをしまいと決意を固めた。“地域づくり”を言うということは、それだけの重みのある取組であるべきだし、そうでないと住民の方々は納得してくれないと思ったからである。現に、そのような指摘は各地で幾度も聞いたし、聞かされてきた。

そんなこともあり、“バッテリーを組めた地域”には、長い地域では40年間のお付き合いをさせて頂いている地域もある。

ところで、このような文章を書いたのは、まさに「老爺心お節介」の最たるものかもしれないが、最近目にする論文等を読んでいて、研究者自身の立ち位置を明確にしないままに、取り組まれている実践を評価、紹介しているものが多く、地域福祉研究者として“一種の研究倫理”に抵触しているのではないかと思う論文を散見するからである。全国のいい実践は、大いに紹介し、情報共有化がおこなわれてほしいが、その場合でも紹介なのか、評論なのか、自分の学説の論証に使うのか等その位置づけは明確にしてほしいものである。しかも、その実践のアイディアは誰が出したのか、参与観察をするならばどういう立ち位置で行うのかを明確にする必要がある。最近、政治学の分野で「オーラルヒストリー研究法」が活用されているが、ある政策、ある実践がどういう形で企画され、政策化されていくのかを、その過程の力学も踏まえて研究が進められている。地域福祉研究においても、同じような研究の枠組みを作る必要があるのではないかと考え、この拙稿を書いてみた。

――「老爺心お節介情報」第23号/2021年3月25日(一部削除・修正)

 

(4)社会福祉実践における「実践仮説」と実践者の  “ ゆらぎ ”

筆者は、ここ数年千葉県、富山県、香川県、佐賀県、大阪府、岩手県の社会福祉協議会において、CSW研修を体系化させようと取り組んできました。その際、感じることは、社会福祉関係者の活動には「実践仮説」をもって意識的に取り組むという姿勢が弱いと感じている。

筆者が、東京都三鷹市の勤労青年学級の講師として取り組み始めたのは1966年度からですが、その際、小川正美社会教育主事から強く求められたのは、①勤労青年という教育実践の対象になる「学習者理解」を深めること、②これらの青年に対し、どのような教育目標を設定し、どのような教材や教育方法を駆使して実践するのか、1年間の、あるいは中期の「実践仮説」をもって取り組むこと、③年度がおわったら、「実践仮説」に基づいた実践がどうであったかを総括、評価し、文章化することであった。当時、日本社会事業大学の学部4年生であった私にとっては、それはとても厳しい“注文”であったが、それを意識化して取り組んだことが筆者を育ててくれたと今では感謝している。

三鷹市の勤労青年学級だけではなく、教育学分野では、教師が「実践仮説」をもって、実践に取り組むということが必要だと教えられてきたが、1970年代、社会福祉分野において「実践仮説」という言葉を使うと、関係者はその用語は初めて聞いたとか、「実践仮説」とはどういうことですかとか、用語の使用が共有化できないことに驚いた記憶がある。ある意味、社会福祉分野は“制度の枠”の中で、“制度に基づくサービスを提供”していたので、「実践仮説」という考え方を持たなくても通用してきたのかなと思ったことがある。

しかしながら、これからは制度が十分でなければ、ニーズに対応する新しいサービスを開発する必要があるし、生活のしづらさを抱えている人への伴走的支援によるソーシャルワーク実践が求められてきている。そこでは、実践者の「実践仮説」が大いに問われるはずである。

――「老爺心お節介情報」第21号/2021年1月18日(一部削除・修正)

 

(5)実践・研究における問題構造の把握と分析視角

私は、恩師の小川利夫先生から研究指導を受ける際、“おまえの分析視角は何か、そのナイフは先行研究を踏まえた理論課題を明らかにできる研ぎ澄まされているナイフなのか、それともなまくらなのかどうか?”、“事象に流されて、紹介するだけのものは論文とは言わない”等と常に戒められてきた。

そんなこともあり、私は論文を書くときに、あるいは講演をする際にとても十分とはいえないにしても、常に以下のようなことを考えて研究生活を送ってきた。

➀ 何故、その社会問題、事象を取り上げるのか、それを取り上げる意義は何か?
② 取り上げた社会問題、事象をどう分析するのか、その分析の視角は何か?
③ 分析したここの要因間の関係の構造を考え、何が幹で、何が枝で、何が葉なのか、枝葉末節を考えて、構造的に分析を行い、考えているか?
④ 分析をした社会問題、事象を通して、社会福祉学界に対してどのような理論課題を提起し、論述しようとしているのか、その理論課題に即した先行研究も十分ふまえて論述しているのか?

上記のことを私が意識して問題構造、分析視角という用語を使って書いた最初の論文が「現代児童の問題構造と分析視角」(『ジュリスト』572号、有斐閣、1974年10月)である。

自分のことを棚に上げておこがましいことを言うようであるが、最近の実践や研究において、上記のことがほとんど触れられずに、“犬が歩けば棒に当たる”類の研究姿勢が多いことはなぜなのだろうか?それは私達の世代の“大学院”での研究指導が不十分であったからであろうか。

――「老爺心お節介情報」第36号/2022年6月13日(一部削除・修正)

老爺心お節介情報/第41号(2023年3月19日)

「老爺心お節介情報」第41号

お変わりありませんか。
大分春めいてきました。いい季節になりました。
「老爺心お節介情報」第41号を送ります。

2023年3月19日   大橋 謙策

Ⅰ 都道府県社会福祉協議会主催の「社協職員実践研究発表大会」の必要性

〇本年1月から2月に掛けて、香川県、富山県、佐賀県で社会福祉協議会職員の実践研究発表大会が開催され、コンサルテーションを行ってきた。
〇筆者が、佐賀県社会福祉協議会と継続的に関わり、コンサルテーション的アドバイスをするようになったのは2012年度からである。
〇佐賀県では、2015年11月に「市町社協理事・監事・評議員・職員―地域福祉推進・小地域福祉活動実践セミナー」を「社会福祉協議会は生き残れるか」をテーマで行った。また、2017年度からは市町社協職員パワーアップゼミを行ってきた。それらを踏まえて、2018年度から社協役員研修と県内社協職員のパワーアップ研修の成果を基にした社協職員実践研究発表との連動性を意識化した合同研修会を「市町社協役職員合同研修会」として社協職員実践研究発表大会を行うようになり、2022年度が第5回目の実践研究発表会であった。
〇去る2月15日に行われた社協実践研究発表大会では、発表者6名中、パワーアップゼミの修了者が3人であったが、そのいずれの人もパワーアップゼミで取り組んできた「問題解決プログラム」に基づく実践を発表され、とても高い評価を得た。
〇与えられた業務分掌に基づき、漫然と決められた事業を遂行し、その報告をするのが従来は多かったが、今回は地域生活課題をアンケート調査等で明らかにしたり、民生児童委員の協力を得て、アウトリーチ型の問題発見を行い、そこで明らかになった生活課題を解決するために、新しいサービス開発を行って提供するという、いわば自らの「問題解決プログラム」を作成し、その実践仮説をもって、意識的に取り組んだ実践報告は非常に素晴らしいものであった。しかも、その財源についてもファンドレイジングを活用して確保するという、一連のコミュニティソーシャルワーク機能が意識された素晴らしい実践であった。
〇香川県では、2014(平成26)年に香川県内社会福祉協議会連絡協議会と香川県社会福祉協議会とが、「ニーズ対応型社協活動方針」を決定し、住民と行政の信託に応える活動を展開することになった。香川県内市町社会福祉協議会は、住民の多様な相談のたらいましをしない全世代対応型の相談活動ができるように、社会福祉協議会に「地区担当制」を導入する活動が活発になっていく。と同時に、市町社協を担う中堅職員への「次世代育成研修」を展開してきた。このような背景をもって、香川県社会福祉協議会も県内社協の実践研究発表会を2014年度(2015年1月)に開催するようになった。
〇富山県でも、佐賀県や香川県の取り組みに触発されて、2017年度(2018年1月)から社会福祉協議会職員の実践発表会が開催されている。
〇これらの県に共通しているのは、当初、市町村の社会福祉協議会の活動報告の域を出なかったものが、コミュニティソーシャルワーク研修を受ける過程において、自らの問題意識、問題把握に基づいて、それらの問題の解決を図る企画を立て(仮説の設定)、それに基づき、実践をし、その成果を発表するというスタイルに変わってきていることである。
〇筆者は、1987年に和田敏明先生(当時全社協地域福祉部長、現ルーテル大学名誉教授)と語らい、岡村重夫先生、永田幹夫先生、三浦文夫先生等の賛同を得て日本地域福祉学会を設立した。その目的は、まさに上記のように、地域問題を把握し、その解決策を立案し、実践したものを日本地域福祉学会で発表することにより、全国の市町村社会福祉協議会職員の資質向上を図り、市町村社会福祉協議会が展開する地域福祉の推進を図りたいと考えての学会設立であった。
〇しかしながら、それから約35年経たが、日本地域福祉学会における社会福祉協議会職員の占める比率は下がり、かつ実践研究報告も増加していない。
〇他方、平成の合併により、全国3750程度あった市町村が今や1700程になっている。それに伴い、各都道府県社会福祉協議会が展開していた市町村社会福祉協議会職員向けの研修も減少しているのではないだろうか。我々の認識の中に、未だ“重厚長大”をよしとする発想があるせいだろうか、県内市町村社会福祉協議会の数がへってきたことで、研修をしても参加者が集まらない、人数が少ないと元気が出ないという状況に陥っていないであろうか。筆者の“感覚”では、市町村社会福祉協議会の職員が一堂に会して、談論風発の討議、研修がなくなってきているように思われてならない。それは、行政の職員の研修スタイルが変わり、社会福祉協議会もその影響を受けているということなのかも知れない。
〇しかしながら、行政のように、法律、制度、予算に囚われている職種ならいざ知らず、社会福祉協議会職員の実践は、住民のニーズを発見し、その問題解決を図るという優れて自らの実践仮説に基づく実践を行うことが求められている状況では、かつての“知識供与型の承り研修”では駄目で、“住民のニーズ対応・問題解決型の研修”を繰り返し行うしかない。それは決して、研修参加人員が多い方がいいということではない。また、かつての社会福祉協議会は調査・研究を大事にし、住民のニーズを明らかにし、それをソーシャルアクションとして実現してきた歴史を有しているが、最近ではほとんどそのような実践を聞かない。
〇改めて、各都道府県社会福祉協議会は研修のあり方を見直し、コミュニティソーシャルワーク機能に関わる研修を軸に、“住民のニーズ対応・問題解決型の研修”を行い、その実践成果を社会福祉協議会職員実践研究発表会として開催する必要があるのではないか。
〇香川県丸亀市や東京都世田谷区等では、区市町村レベルで、社会福祉協議会が行ってきた実践を住民に報告する会を行うようになってきている。これからは、都道府県レベルだけでなく、市町村レベルでの社会福祉協議会職員の実践研究発表会が求められる時代になってきていると認識しなければ、社会福祉協議会は生き残ることができなくなるであろう。

Ⅱ 健康診断とがん告知 その ➁ ――神奈川県立がんセンター重粒子線治療の巻

①ホルモン療法は3か月に1回の割合での注射と毎日朝食後1回の飲み薬との併用である。
〇ホルモン療法の注射は、下腹部に打つのであるが、女性ホルモンということもあるのか、下腹部がポコッと膨らんでくる。女性ホルモンの療法を行うと、男性性器が勃起しなくなると聞かされていたが、それは性交ができないという意味だと私は理解していたので、それは自分には関係ないと思っていたが、どうもそうではないことが分かってきた。
〇ホルモン療法の結果、男性性器が男の子の性器のように小さくなり、かつ包茎状態になってしまうので、おしっこをする際に、きちんと包茎状態を直し、尿の出る方向を定めて放尿しないととんでもないことになる。また、勢いよくでないので、便器に近づき、“一歩前”に出ないと小便器の手前に放尿することになる。今まで、男性便所の小便器の周りがいつも尿で汚れているのが気になっていたが、それはたぶん私と同じような前立腺ガンや前立腺肥大の人が、意識して放尿していないのではないかと思えるようになってきた。私はここでも意識化する取り組みが増えた。
〇歳を取ってくる中で、部屋の電気の消し忘れ、水道の蛇口を最後まで締め切らずにちょろちょろと水を出しっぱなしにするような状況が夫婦の中で日常的多くなってきて以降、夫婦で、日常生活のあらゆる場面での意識化ということを合言葉にしてきたが、放尿の際にも意識化が必要になってきた。多分、放尿を意識化していない人が、男性便所の小便器周りに尿を“結果として”ふりまいているのであろう。
〇歳を取るということは、惰性で、無意識的に生活をしていると様々な問題が生ずる。そうならないよう、日常生活のあらゆる部分での意識化が重要になる。意識して歩く、意識して口腔体操をする、意識して整理する等意識化の重要性が見えてくる。
〇鉄道員等が“指差し喚呼”というものをしているが、まさにこの動作を意識化して“指差し喚呼”が重要になる。教育実践でも、「外化」という営みがある。自分の“内なるもの”を意識して外に出す{外化}を行うことで教育効果が上がるという考え方と同じである。
〇老化に伴う問題行動を少なくしていくためには、あらゆる場面での意識化が重要である。

②重粒子線治療では、腸内にガスが溜まっていたり、便が詰まっていると照射がうまく行かないからという理由から、1月30日から4種類の薬が処方され、朝、昼、晩の3回飲むことになった。胃腸管内のガスを取り除くシメチコン、消化を助けるエクセラーゼ、腸の働きを整えるビオフェルミン、胃酸を中和し、便を出しやすくする酸化マグネシュウムの4種類である。酸化マグネシュウムには筋力低下をもたらす恐れがあるという。
〇また、胃腸管内にガスが溜まることを促進しかねない炭酸飲料と麺類の摂取が禁止された。ビールはだめというので、日本酒はいいのですかと聞くといいという。2月13日からビールが飲めなくなる。
〇服薬しはじめて、2週間後ぐらいに、どうも歩く足が遅くなり、足に力が入らなくなる。3月1日の重粒子線治療開始後の最初の診察で、酸化マグネシュウムの影響ですかと尋ねると、酸化マグネシュウムというより、女性ホルモンの効果が出てきたのではないかという回答。酸化マグネシュウムは、便秘を防ぎ、便通をよくするので飲んで欲しいとのこと。

③2月28日から重粒子線治療が始まる。そのための体を固定する固定具の作成というものが2月13日にあった。重粒子線治療は、イオンを高速化させて、病巣にピンポイントで照射をするので、照射の際に体が動かないようにプラスチックでできている「シェル」というもので体の固定具を作るという。
〇細いベッドに横たわり、温められた「シェル」を体の上に乗せ、それを急速に冷却して固まらせるというものである。検査ガウン1枚の体に「シェル」をのせて行うのであるが、最初は少し暖かく感じるが、そのあとは扇風機を用いて冷やしていく。寒い。と同時に「シェル」が固まっていくと重くなり、身動き取れなくなる。体の型どりをし、それを体の上にのせて、いわば重しとして、体が動くことを制御するということらしい。
〇放射線は放射線が体内に入るところでエネルギーが爆発し、かつ放射線は体を通り抜けるので、他の部位にも放射線が当たり、ダメージを作るの対し、重粒子線は、病巣まで届いたところでエネルギーを爆発させるのでがん治療には効果的であるが、精密に照射をしないと他の部位へのダメージが強いので、体を固定するという。
〇この作業自体は、どうということもないが、その作業の1時間前にトイレに行き、排尿・排便した上で、250~300mlの水を飲み、その水がお小水として膀胱に溜まったところで、この作業を行う。この間、放尿を我慢できるかどうかが問題である。そのために事前の訓練も課された。しかしながら、体調はいつも同じでないので、放尿を我慢できるかどうか不安になる。私の場合、膀胱に尿が溜まるのが遅いとかで、固定具を作成する際に、体を動かさないままに普通の人よりも20分長く、ベッドに横たわる羽目になった。

④2月28日、最初の重粒子線治療が行われた。前日の27日からお酒を飲まず、指示通りに10時30分に治療前最後の排便・排尿を行う。その後300mlの水を飲む。11時に検査用ガウンとネットパンツに着替え、11時20分に治療室に入る。以前作成した固定具を付け、身動きせずに、照射の照準合わせを待つ。照準が定まり、照射が始まる。右足下腿部脇の機械からゴービシュッという音が聞こえる。その音がどれだけ続いたか、数を45数えるぐらいで終了。拍子抜けするほど短時間、かつあっけない。
〇その後、CTを取り、第一日目が終わる。明日は左側の下腿部から照射するという。交互に照射するとのことであった。

⑤重粒子線治療は医療保険適用になったので、安くなったとはいうものの、12回分で25万円強の清算であった。神奈川県立ガンセンターには、重粒子線を照射する治療室が3つあり、1日各部屋14~5人の治療を行うということであった。放射線技師の言うのには、この装置は高いから、かつ敷地を広くとらないといけないので、全国で多分5~6箇所しかないのではないかという。重粒子線治療を受ける患者の大方60%が前立腺がん患者であるという。他の部位のガンについては、放射線がいい場合もあるということで、がんの部位によって効用が違うのだという。

⑥3月3日で重粒子線治療の第1クールが終わる。4日目の金曜日の夜から、重粒子線治療の後遺症か、排尿時が痛く、尿の出も悪く、頻尿になる。夜も1時間程度で尿意が来る。土曜日も同じような症状が続き、いよいよ男性用尿取りパットを購入しないと尿漏れを起こしかねないと思い、ドラッグストアに行き、男性用尿取りパットを購入してきた。ところが、土曜日の夜からは放尿時の痛みもなくなり、かつ尿の出方も以前と変わりなく状況が戻ってきた。第2クールになったときにどうなるのか見守るしかない。
〇神奈川県立ガンセンターから渡された「治療カレンダー」に放尿時の痛みとか放尿がしにくいという項目に〇×をつける欄があった意味が分かる。

⑦3月8日、第2クールの診察日、鎌田医師に放尿時になぜ痛くなるのかを聞いた。重粒子線を照射することによって、前立腺と同時に、その中を通っている尿道にも重粒子線が当たり、“一種のやけど”が起きており、それは陽に当たって皮膚が赤くなり、痛くなるのと同じで、時間が経てば治るとのこと。あまり痛ければ薬を出すが、どうするというので我慢できないほどでもないので、お断りする。
〇ついでに、放射線と重粒子線の違いを聞くと、放射線は体を通り抜けていき、他部位の臓器等を痛める。重粒子線は、焦点化された部位で重粒子が“爆発”して、そこで終わるように、高速の重粒子をコントロール(スピード、距離)している。それだけ、照射はち密で、難しい技術がいるという。現時点では、前立腺の中を通っている尿道も一緒に照射せざるを得ないが、「次世代の重粒子線治療」は尿道にダメージを与えないで照射できるように、現在研究中だとのこと。
〇だから、固定具を作成したり、膀胱を膨らませて他の臓器に影響がでないようするとか、固定具を作成したときの体重を変えないようにとかの指示の意味が非常によく分かった。

⑧3月9日、第7回目の照射の日。前日は、膀胱に尿が溜まっておらず、照射台の上で約10分間、尿が溜まるのを待ってから照射が行われた。そのこともあったので、放射線技師になぜ膀胱に尿を溜めるのかを聞いたら、膀胱を膨張させ腸との間を空ける必要があるからだという。膀胱が膨張していないと隙間がないため、重粒子線が腸にも照射され、ダメージを与える可能性があるからだという。
〇重粒子線治療が始まる前に、固定具を作成し、そのあとCTを取ったが、そのCTの画像とずれないようにすることが重要で、0.5ミリの誤差も出さないようにしているとのこと。毎回の照射の際に、“焦点が合いました。これから照射を始めます”というアナウンスがあってから照射がはじまっていたので、この解説は納得した。
〇3月9日の照射の日に、更衣室で一緒になった患者さんも前立腺がんとのことであるが、今まで昭和大学藤が丘病院で診察を受けていたが、そこでは放射線治療を38回行うというので、神奈川県立がんセンターの重粒子線治療は12回の照射なので、こちらを選択して、今日が第2回目の照射だと言っていた。

⑨3月10日、8回目の照射を行い、第2クールが終わる。その夜は、頻尿が凄く、夜中に7回もトイレに行った。寝た気がしない。

⑩第2クールの終わりごろから頻尿がひどく、代替1時間に1回の放尿になる。時には30分で尿意を催す。しかも、尿意を催してから排泄まで我慢することが殆どできなくなる。これが辛い。トイレがある場所を移動しているときは、それなりに注意できるが、ある日、トイレに行ってから散歩にでたにも関わらず、30分もしないうちに尿意を催し、住宅地のところだったので、“雉うち”するわけにもいかず、走って自宅に帰ろうとしたが、残念ながら間に合わず、“お漏らし”をすることになった。それ以降、危なそうな時には男性用尿取りパットをつけて、散歩に出るが、そのあとも間に合わず、尿取りパッドのお世話になったことが1度ある。この頻尿と放尿時の痛さは、照射が終了して2週間ぐらいでもとに戻るということなので、当分の間お世話になるようである。

⑪神奈川がんセンターでは、時々“付添人は一人までにしてください”とアナウンスをしているが、実際には2人も付き添ってきている。中には、付添人自体が認知症が始まっているのではないかと思われる夫婦がいる。看護師の説明がよく理解できない夫に付き添っているのはいいのだけれど、付き添っている妻はといえば、両足のソックスが色違いで、ちぐはぐな状況をみていると付き添っている妻も認知が進んでいるのだろうかと心配になる。

⑫第3クールに入って、3回目の診断の際に、医師に頻尿と放尿時の痛さを訴えたが薬を出しましょうかという言い方なので、その時は頑張ってみますと答えた。しかしながら、その後も頻尿と放尿時の痛さが続くので、第4クールに入った4回目の医師の診断の際に、同じ訴えをした。前回と同じく「薬出しましょうか」という言い方で、「出しましょう」とは言わない。そこで、その薬はどういう性質のもので、副作用があるのかどうか、飲むとすればどれだけの期間飲むのかを聞くと、「皆さん飲むと放尿が良くなり、痛みも感じない」という。副作用は「立ち眩みする人がいるので、車を運転する際には注意が必要」だという。飲む期間は照射後2週間程度すれば、照射に伴う“一種の火傷”は治るので、それまでの期間だというので薬を処方してもらった。薬を飲むかどうかの選択を患者にしろというばかりの応接には参った。
〇早速、3月15日夜から服薬したが、医師の言う通り、尿の出は良く、“ほとばしる”ような出であった。また、放尿時の痛みもなく、これならば医師はもっと積極的に勧めるべきではないのだろうかと思った。

⑬3月17日、12回目の照射も終わり、重粒子線治療が終了した。放射線技師や看護師、事務職に丁寧に挨拶して帰る。看護師から、今日から胃腸を整える薬は飲まなくていいです、麺類を食べることも解禁です、お酒は5月31日で解禁です、温泉には5月末まで入らないでくださいとの説明を受ける。次回の診察は5月29日で、今後3か月ごとにチェックを受けることになる。

⑭早速、お昼に、病院近くの中華飯店で、牛肉ピーマン細きりそばを頂く。美味しかった。

Ⅲ 『関外余男随想集』を読んで

〇兵庫県社会福祉協議会の事務局長、常務理事を歴任された塚口伍喜夫先生から『関外余男随想集』をご恵贈賜った。
〇関外余男さんは、兵庫県社会福祉協議会の常務理事、会長を歴任された方で、その方の随想を塚口伍喜夫先生たち兵庫県社会福祉協議会のメンバーが中心になって、編集され、この度刊行された。目を通した。
〇塚口伍喜夫先生に宛てた礼状の一部を転記しておく。

この度は、貴重な『関外余男随想集』をご恵贈賜りありがとうございました。全て読めていませんが、関外余男先生は、戦前社会教育と社会事業が未だ未分化、密接不可分の時代に、内務省の管轄であった「社会課長」をされているのですね。とても興味深く読ませて頂きました。戦後の兵庫県社会福祉協議会の常務理事、会長をされるのはある意味自然の流れですね。
本書に出てくる小田直蔵さん(P534)という社会事業主事はどういう経歴を経たのでしょうか。私は、社会福祉の歴史の中で、戦前の社会事業主事に関する研究が不十分だと思っています。一部は私が中心になって、日本社会事業大学の社会事業研究所でまとめましたが、各都道府県別にまではできていません。
戦後の社会福祉研究も教育研究も、いわば“ポツダム研究”になっていて、戦前は全て悪く、戦後はすべていいという単純な図式に陥っています。私は、戦前と戦後の“連続・継承”に関する研究が大事だと考えつつも未だ整理しきれていません。この視点に基づいて改めて「関外余男研究」を中核とした兵庫県社会福祉の歴史研究をする必要があるのでしょうね。
同封しました「老爺心お節介情報」第37号で取り上げました見坊和雄元全社協常務理事のところでも書きましたが、全国の都道府県社会福祉協議会の初代の会長、初代の事務局長がどういう方か一度研究してみる必要があると思っています。兵庫県社会福祉協議会の初代会長、初代事務局長はどういう方なのでしょうか。その方々は戦前何をされていたのでしょうか。塚口先生がお分かりでしたら教えていただければと思います。「関外余男研究」もそのような流れの一環に位置づけて考えてみたら面白いと思うのです。どなたか若い人で、そのような研究を志す人はいませんでしょうか。

〇この礼状にも書いた通り、戦前と戦後を簡単に“断絶”させてしまった“ポツダム研究”が戦後において“横行”した。
〇戦前で反省すべきものは大いにあるし、戦後が全ていいものでもない。戦前、戦後の「連続」、「継承」、「反省」、「断絶」を十分に意識した各都道府県の地域福祉史研究、とりわけ都道府県社会福祉協議会の歴史研究が重要ではないか。そのポイントは、戦前の各都道府県の社会事業主事は誰で、どういうことをしていたのか、戦後の各都道府県社会福祉協議会の初代の事務局長は誰で、どういう経歴の人なのかを明らかにするとことから研究を始める必要があるようだ。
〇このことに興味、関心のある方は是非取り組んで欲しい。私も1980年代末に、阪野貢先生等とこの研究の一端を行ったが、それ以降継続しきれていない。是非、興味、関心のある方は取り組んで欲しい。

Ⅳ 小田直藏著『社会事業夜話』を読んで

〇先のⅢで述べた手紙を読んだ塚口伍喜夫先生から、改めて本が送られてきた。小田直藏著『社会事業夜話』と『地域福祉の歩みーー兵庫県社会福祉協議会30年史』の二冊である。
〇先の手紙に書いた戦前,兵庫県の社会事業主事をされた小田直藏氏に関わる文献である。小田直藏氏は、戦後初代の兵庫県社会福祉協議会の事務局長でもあった。
〇小田直蔵氏は」新潟県村上市出身で、熊本の旧制5高に学び、その後旧制東京大学に進学し、大学院では「賑恤救救済事業」を研究し、卒業後内務省吏員(留岡幸助、生江孝之、高田慎吾らと親交)となり、大正6年4月に兵庫県社会事業主事として赴任する。賀川豊彦らとも親交があり、スラム街新川地区や被差別部落の生活改善に取り組んでいる。
〇『社会事業夜話』を読んで驚いたのは、兵庫県では岡山県の済世顧問制度、大阪府の方面委員制度と同じように昭和2年7月から方面委員制度が実施されるが、それに先立ち、大正8年に「救護視察員」という兵庫県独自の有給の地区担当の吏員制度を創設したことである。神戸、姫路、尼崎、明石等の都市に駐在し、担当区域内の生活状況を視察調査し、要保護者に対し必要な保護を加えるという制度であった。しかも、その制度の提唱者が知事本人で、かつその制度の必要性の趣旨を知事が巻紙に毛筆で書いて小田直蔵さんに指示されたということは驚きである。
〇また、兵庫県では、昭和3年に市町村に児童相談所を設置する奨励規定を作り、県下10数か所に設置されたという。知能テストや歯科診療を行ったという。さらには、兵庫県立児童研究所を昭和7年に開設し、医師や心理学専攻の職員、日本女子大家政学科(社会福祉学科の前進)卒業生を採用し、運営されたという。その児童研究所には児童一時保護所も併設されていた。
〇このように、戦前に社会事業主事として様々な制度を作る活動をしてきた小田直蔵氏は、戦後昭和26年3月の兵庫県社会福祉協議会設立総会において、兵庫県社会福祉協議会の初代事務局長に、兵庫県立児童研究所所長のまま選任される。
〇兵庫県社会福祉協議会が常に地域福祉実践において、全国のリーダーの一翼を担い、住民のニーズに対応する実践を行ってきた精神的、理念的淵源が小田直蔵氏や関外余男氏らの戦前からの「社会行政」に基づく実践に裏打ちされていたということが非常に良くわかり、嬉しくなってきた。これこそ、“研究者冥利”でもある。
〇改めて、全国の各都道府県で、社会福祉協議会設立時の初代会長、初代事務局長がだれであり、戦前との連続・継承、反省・断絶の歴史を事実に基づいて明らかにする必要性を実感した。塚口伍喜夫先生からの資料提供に心より感謝したい。
〇それにしても、この本を読んで、改めて自分の勉強不足を痛感させられた。と同時に、大学において、社会福祉教育を担当する教員は、このような事実があったことをどれだけ理解しているのであろうか。現在の社会福祉教育が社会福祉士養成の“テキスト”に頼り、“テキスト”を教えている底の浅さを嘆くしかない。このままで、社会福祉士は社会的評価を高められる実践を展開できるのであろうか。

(2023年3月18日記)

大橋謙策/異なる国の文化・生活慣習と多文化理解―キリーロバ・ナージャ著『6ヶ国転校生・ナージャの発見』を読んで―

〇私が、国によって文化や言語が違い、その結果として「ものの見方、考え方」が違うことに関心を持つようになったのは、何歳の頃か定かでない。ただし、笠信太郎の『ものの見方・考え方』を読んで、非常に興味をそそられたことは覚えている。
〇そんなこともあり、私は1960年代に社会福祉方法論としてのケースワークを習ったが、その内容が基底になる文化、言語の違いがあるにも関わらず、アメリカの“直輸入”的で、どうにも馴染めず、学習が進まなかった。
〇当時、“社会福祉と文化”との関係を極める必要があると考え、社会人類学や民俗学、文化論等の書物を読んだが、奥が深く、幅が広くとても自分には研究できないと考え、“文化・民俗学・社会人類学の視点からの社会福祉研究”を断念した思い出がある。しかしながら、その命題は、いつも私の心に、私の思考に引っかかる命題であった。
〇1990年代半ばに「村山談話」がだされ、日本が侵略した韓国、中国への私の贖罪感、こだわりも少し解消され、韓国への調査研究に出掛けられるようになった。その折に、韓国と日本の食文化、食事作法の違いに、改めて驚かされた。1970年代から、アメリカ、ヨーロッパに出掛けていたにも関わらず、その当時は食事マナーに気がとられていたのか、あまり注目していなかったが、韓国への旅行では食文化、食事作法をはじめとして様々な文化の違い、生活習慣の違いがあるにも関わらず、日本は“侵略”し、日本語を強制し、創氏改名まで強制した蛮行になんとも心が痛んだ。この“蛮行”をすべての日本人に理解してもらわないと、真の交流にはならないと思っている。
〇朝日新聞の1月9日の「天声人語」で紹介されていたキリーロバ・ナージャ著『6ヵ国転校生・ナージャの発見』(集英社インターナショナル、2022年7月)を読んだ。学校の給食、テスト、体操での整列の仕方等、国々によってこんなにも違うのかと改めて驚いた。それは、現象、制度が違うだけでなく、そのことを通して何を獲得するのか、なにを学ぶのかまで左右する大きな違いがあることに驚かされた。国の違う学校の試験でも、「正答」を求めない試験もあるという。つまり、社会生活の中で、常に「正答」は一つではないことを考えさせる取組でもある。一つの価値基準が全てという画一的な思考法とは異なる取り組みである。
〇この本を読んで、多文化理解とは、その国の、その民族の生活様式、文化を理解するだけでなく、それらがもたらす思考方法の違いにも目を向けなければ、その理解は皮相的なものになることを教えられた。まさに“ものの見方、考え方”の違いを理解することが多文化理解なのではないかと教えられた。そこでは自分にとって“「ふつう」こそ個性だ”という記述はとても考えさせられる記述であった。
〇以前悩んだ文化、社会人類学あるいは民俗学をきちんと学ばないと“生活に関わるソーシャルワーク”の理解は深まらないのではないかと改めて考えている。研究者生活を50年間もやってきて、いまさらながら、何をしてきたのだろうかという“自虐的自戒”に囚われる。
〇私は2005年に書いた「わが国におけるソーシャルワークの理論化を求めて」(相川書房『ソーシャルワーク研究』Vol31No1、2005年所収)において、中根千枝の社会構造研究において日本をタテ社会と論じた枠組みを援用して、日本の社会福祉、ソーシャルワークの問題について論究した。そこでは、日本には実質的にソーシャルワーク実践、研究が1990年までなかったと主張している。
〇我々は、多文化理解、多様性等について、“分かっている気になっている”が、本当に分かっているのであろうか。『6ヵ国転校生・ナージャの発見』を読んで、改めて福祉教育の奥の深さ、難しさを思い知らされた。この本は、福祉教育関係者、地域福祉関係者の必読文献と言っていい本である。
 
 
付記
キリーロバ・ナージャ/「ふつう」が最大の個性だった!?
「環境が変わると、ガラッと変わるものは?」
答えは、「ふつう」だ。転校するたびに今まで「ふつう」だと思っていたことが、急に通用しなくなる。転校生なら少なからずみんな経験している気がする。
絶対的な「ふつう」がないんだとしたら、自分の「ふつう」ってなんだろう? 今まで考えたことはなかったけれど、誰かの「ふつう」を真似する限り、二番煎じにしかならないし、自分の本当のよさが生きてこない気がした。
子どものころはなかなか気づけないけれど、まわりと違う自分の「ふつう」こそが、「個性」の原料だ。そう気づいてから、今まで嫌いだった自分の「ふつう」がなんだか少しだけかわいく見えた。
そう、みんな「ふつう」でいいし、「ふつう」に対するコンプレックスをもっともっと捨てられるといいなと。
「ふつう」を磨いていくことが、「個性」を磨くことよりずっと早いという発見をしてから、ずっとそう思っている。(114~118ページ抜粋)